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日本占領期のマレー半島におけるムスリムの宗教行事

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日本占領期のマレー半島におけるムスリムの宗教行事

Muslim Religious Events in the Malay Peninsula during the Japanese Occupation

黒﨑 友美 Tomomi Kurosaki

東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士前期課程

Master’s Program, Graduate School of Global Studies, Tokyo University of Foreign Studies

Abstract

This study discusses Muslim religious events in the Malay Peninsula during the Japanese Occupation. The Japanese Military Administration regarded Muslim religious events important;

thus, they continued their involvement in Muslim religious events from 1942 to 1945 through various means and levels. The information about Muslim religious events has been collected mainly from newspapers. This study explores the contexts and contents of these events, while considering the involvement by the military administration. It focuses on events such as Hari Raya Puasa, Hari Raya Haji and the birthday of the Prophet Muhammad, referencing English newspapers, Malay magazines and Japanese Military Administration documents written in Japanese.

キーワード:日本占領期、マレー半島、ムスリム、宗教行事

Keywords: Japanese Occupation, Malay Peninsula, Muslim, Religious events

はじめに

かつてマレー半島を統治した日本軍は、多民族・多宗教からなる社会や人々と向き合 いながら統治を行った1。1943年4月に昭南軍政監部内政部文教科の渡辺楳雄がまとめ

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た資料である「マライ及スマトラニ於ケル宗教」では、マレー半島とスマトラの多民族 の状況は「世界諸民族ノ展覧会場タル感アリ」、多宗教の状況は「現ニ世界諸国ニ亘リ テ行ハルル諸宗教ノ一大展覧会場感アル」といった文言で表現されている2。マレー半 島はイギリス植民地期以降に多民族社会が確立し、日本軍がマレー半島を占領したこと によって多民族社会は新たな統治者によって統治されることとなった。軍政当局が多民 族・多宗教社会と向き合うことは必至であり、その多様性を念頭に置く必要性がある状 況にあった。

日本占領期のマレー半島の現地住民の半数近くは、ムスリムが占めていた3。富集団 軍政部調査班が1942年7月に発行した「昭南略誌」では、「日本人は概して回教の認識 に乏しい」とされており4、「回教の認識に乏しい」という点は多くのムスリムがいたマ レー半島を統治する中で困難な状況に直面することに繋がった可能性がある。日本占領 期のマレー半島を研究する上で、現地住民の半数近くを占めたムスリムに焦点を当てる ことには意義があると言える。

日本占領期のマレー半島に関する先行研究では軍政の機構や経済・社会状況、教育、

民族間関係と様々な事柄に焦点が当てられ、数多くの研究が取り組まれてきた。しかし、

日本占領期のムスリムに焦点を当てた先行研究の数は限られており、まだ研究の余地が 残されていると言える。ムスリムに注目した研究として、明石陽至5とアブ・タリブ・

アフマド(Abu Talib Ahmad)6による研究が挙げられる。両者はムスリムと軍政当局の 関係について検討する中で、スルタンや1943年と1944年に開かれた回教徒代表者会議 などに加えて、宗教行事にも着目している。アブ・タリブは宗教行事の複数の事例を参 照して軍政当局による関与や宣伝内容に触れ、「滑稽な政治的ショー」という表現を用 いて軍政当局によるムスリムの宗教行事の宣伝利用について考察している7。明石はラ マダン月の断食や宗教行事に際する軍政当局の動向の事例を示し、ハリラヤ・プアサに 際して出された軍政当局によるメッセージの内容、スルタンのコメントなどにも言及し ている8。明石とアブ・タリブ以外にも宗教行事に言及している研究者がおり、ポール・

H・クラトスカ(Paul H. Kratoska)は「日本はマレー人社会に対する一貫した政策を欠 き、宮城遥拝を強いたり、宗教行事で日本軍の宣伝をしたり、モスクでの祈りの対象に 天皇や英霊を加え」たと指摘している9。また、立川京一は南方における日本軍の民心 安定策について検討する中で宗教にも着目し、「宗教に関係する具体的な施策」として、

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宗教行事に当たる日を休日としたことなど、ムスリムの宗教行事に関連する軍政当局の 対応の事例を取り上げている10

すなわち、先行研究におけるムスリムの宗教行事に対する考察からは、宗教行事が軍 政当局に干渉されていたこと、宣伝に利用されていたことが分かる。また、複数の先行 研究で宗教行事に触れられており、宗教行事が注目に値する事柄であることも汲み取れ る。一方で、これらの先行研究には課題がある。先行研究では言及されている宗教行事 の事例が限られており、個々の宗教行事の具体的な実施状況や特徴を詳細には明らかに されていない。また、各宗教行事を見た上で共通点や相違点が明らかにされておらず、

宗教行事の多様性を踏まえた検討はなされていない。資料面では、先行研究は、ムスリ ムの宗教行事に関する記事を多く含む英語新聞やマレー語雑誌を十分に活用していな い。それゆえ、それらの資料を利用することを通じて、ムスリムの宗教行事の実施状況 について本研究が新たに明らかにできることがあると考える。

日本占領期のマレー半島におけるムスリムの宗教行事に着目する意義として、次の3 つが挙げられる。第一に、宗教行事はその宗教を信仰する人々にとって重要な節目であ って、信仰生活を送る中で自身の信仰や同じ信仰を持つ人々の存在を特に強く意識する 機会であることだ。日本占領期は社会に大きな変化がもたらされた時期であり、宗教行 事を取り巻く状況にも影響が及んだと考えられる。第二に、宗教行事は社会的地位を問 わず、全ての信徒に関わるものであったことだ。第三に、上述のように、日本占領期の マレー半島におけるムスリムの宗教行事に関する先行研究での考察は十分とはいえず、

まだ検討の余地があることだ。以上の意義を踏まえると、日本占領期のマレー半島にお けるムスリムの宗教行事は、軍政下でムスリムが直面した状況を知る上で重要であり、

さらに深く検討される必要があるのではないか。

そこで、本稿では主に新聞で報道された情報を整理し、日本占領期のマレー半島にお けるムスリムの宗教行事の実施状況および宗教行事に関する報道の実態を明らかにし、

軍政当局によるムスリムの宗教行事への関わり方を検討する。

ムスリムの宗教行事の実施状況や報道、軍政当局の関わり方に関する情報は、日本占 領期の間に発行された史料から収集した。主に依拠した史料は『ザ・ショウナン・シン ブン』(The Syonan ShimbunSinbun))などの英語新聞で11、『ファジャル・アシア』(Fajar Asia)などのマレー語雑誌や、軍政当局が発行した日本語で書かれた軍政資料も用いた。

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史料全般が軍政当局の統制下で発行されたものであるため、本稿は軍政当局の意向が強 く反映された情報をもとにして論を展開することになる。

本稿は本章を含めた 5 章で構成されている。「Ⅰ軍政における宗教とムスリムの扱い」

では、軍政当局の主に宗教とムスリムに関連する情報をまとめる。「Ⅱ新聞・雑誌報道に 見る宗教行事の実施状況」では、ハリラヤ・プアサ、ハリラヤ・ハジ、預言者生誕祭の 各宗教行事に関する報道の内容を整理して浮かび上がってきた状況を考察していく。

「Ⅲ軍政と宗教行事の関係」では、Ⅱで触れた情報と軍政資料をもとに軍政当局の宗教 行事への関わり方を概観し、新聞で報じられた宣伝の内容と、軍政当局にとっての宗教 行事の重要性を検討していく。最後に結論をまとめ、本稿を振り返る。

I. 軍政における宗教とムスリムの扱い

1. 軍政と宗教に関する方針

1941年12月8日にマレー半島に上陸した後、日本軍は南下しながらマレー半島の各 地を手中に収めていった。1942年2月15日にはシンガポールを陥落させ、軍政を敷く 範囲をマレー半島全域に広げ、統治体制の確立に動いていった。軍政を敷いた当初、マ レー半島を統治したのは第25軍(別名「富集団」)で、スマトラも統治地域に含んでい た。第25軍は1942年2月16日に軍司令部に軍政部を設置した12。日本占領期の間、マ レー半島は「マライ」や「馬来」、シンガポールは「昭南」と呼ばれた。「軍政部ハ地方 行政ヲ施行スル為軍政部支部ヲ置ク」として13、シンガポールと各州に支部が設けられ た14。1942年7月から第25軍軍政監部によって統治されていたが、第25軍がスマトラ に移駐したことから1943年4月にシンガポールに設置された馬来軍政監部によって統 治されることになった15。1943 年 10 月には日本とタイの間で結ばれた条約により、ク ランタン、トレンガヌ、クダ、プルリスの4州がタイに割譲され16、軍政が敷かれる範 囲は狭まった。1944 年に入って新たに編成された第 29 軍に馬来軍政監部が付置され、

拠点はシンガポールからクアラ・カンサル、のちにタイピンへと移った17

軍政当局には宗教に関連する事柄を取り扱う部署が設けられた。「第二十五軍軍政部 員(高等文官)一覧表 昭和一七年三月三〇日調」には、総務部に宗教を担当する人物 がいたことが明記されており、軍政が敷かれた当初から宗教に関する事柄への対応がな

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されていたことが分かる18。1942年7月に軍政監部が設置された後には「宗教ニ関スル 事項」を取り扱う文教科は総務部に置かれたが19、1942年12月15日時点の「軍政監部 人名表」を参照すると内政部に置かれていた20。馬来軍政監部が設置されたのちの1943 年5月時点では、文教科は総務部に置かれていた21。1943年9月時点と1944年1月時 点の「馬来軍政監部職員表」を参照しても、文教科長を担った人物の存在が確認でき22、 総務部に置かれた文教科は存続していたことが分かる。

最初にマレー半島を統治した第25 軍が示した軍政の方針では宗教についても触れら れており、軍政当局が宗教を軽視していなかったことが分かる。第25軍司令部が1942 年4月に出した「第二十五軍軍政実施要綱」では「現存宗教ハ之ヲ保護シ信仰ニ基ク風 習ハ勉メテ尊重シ民心ノ安定ヲ図リ我施策教化ニ協力セシム」とされた23。占領の初期 の段階で、宗教は軍政当局が関心を払う重要な事柄であったと言える。

日本の中央政府の方針は文教科の宗教に対する方針にも反映されていたと言える。文 教科が発行した「文教科宗務報告書」では、「対宗教ノ根本方針」として「中央ヨリ指 示セラレタル所ニ従ヒ、絶対不干渉ヲ以テ対宗教ノ根本方針トス。従テ諸宗教者何レモ 大東亜人トシテノ自覚ヲモチ、日本トノ協力精神アラバ、ソノ範囲内ニ於テハ、何ヲナ シ、何ヲイフモ可トシ、寧ロ同方針ニ則リテ積極的ニ大ニ活動スルコトヲ希望ス」と示 されており24、文教科の方針は中央政府の宗教に関する方針と矛盾せず、文書で見た限 りでは慎重な姿勢を取ることを基本としていたと言える。

軍政当局による宗教政策についても、上述したものと同様の方針が背景にあった。

1944 年 7 月に馬来軍政監部調査部によって発行された「軍政下ニ於ケル宗教政策ノ経 過」と題する資料の中で、「帝国ノ南方全域ニ亘ル宗教及習俗対策」の方針は「宗教及 習俗ヲ通ジテ民心ヲ把握スル目的ノ下ニ、統治上妨ゲナキ限リ之ヲ保護尊重シ、宗教自 体ニ手ヲ加ヘ、或ハ他ノ宗教ヲ強要スルガ如キハ堅ク之ヲ誡ムルヲ主意トセリ」とされ ていた25

また、同資料では、軍政当局の視点から、「模索時代」、「消極政策時代」、「積極政策 ヘノ転換期」の3つの時期に区分した上で、軍政下の宗教政策を概観している26。「消極 政策時代」については、第25軍による統治期と馬来軍政監部による統治期にまたがっ ているとされている27。「消極政策時代」で第25軍による統治から馬来軍政監部による 統治に切り替わったことについては、「軍政機構ノ変革ニモカヽハラズ、宗教習俗関係

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ノ施策ハ、全ク従前ノ富集団軍政下ニ於ケル消極政策ヲ踏襲セルニ過ギズ」とされてお り28、軍政当局の変遷が宗教政策に大きな影響を及ぼしていなかったことが示されてい る。同資料ではムスリムの宗教行事にも触れられており、「模索時代」と第25軍による 統治期における「消極政策時代」では、ムスリムの宗教行事に関する政電の内容に言及 しているが、詳細はⅢの1で触れる。

2. 日本占領期のマレー半島におけるムスリム

日本占領期のマレー半島においてムスリムは全人口の半数には及ばないものの、信徒 数の多さが目立っていた。1943 年 4 月に発行された昭南軍政監部内政部文教科の渡辺 楳雄によってまとめられた「マライ及ビスマトラニ於ケル宗教」と題する資料では、イ ギリス植民地期の1931 年度の「各宗教ノ信徒数」を「一九四一年度(六月)ノ人口総 数ニ照合シ、「マライ」各宗教信徒ニ関スル一種ノ推定数字ヲ作リ出」して29、マレー半 島の総人口とムスリムの人口を示している。当該資料で示されたデータでは、マレー半 島の総人口5,509,000人のうち、ムスリムは2,350,000人とされており、総人口に占める ムスリムの割合は42.6%であった30。推定された数字であるため実態そのものを表して はいないが、ムスリムは統治する側がその存在を意識するほどの割合で分布していたと 言える。また、当該資料の中で各州、市別の総人口とムスリムの人口として示された数 字を表でまとめ、割合を算出すると表1のようになる。

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表1:マレー半島の各州、市のムスリム人口

州、市 総人口(人) ムスリム人口

(人)

総人口に占める ムスリムの割合 シンガポール

769,200 94,300 12.3%

(昭南特別市)

ペナン州 419,000 130,500 31.1%

マラッカ州 236,100 114,300 48.4%

ペラ州 992,700 348,100 35.1%

スランゴル州 701,500 161,500 23.0%

ヌグリ・スンビラン州 269,000 109,500 40.7%

パハン州 222,000 130,000 58.6%

ジョホール州 675,300 309,400 45.8%

クダ州(及びプルリス州) 583,300 393,400 67.4%

クランタン州 408,000 371,000 90.9% トレンガヌ州 205,700 178,900 87.0%

総計 5,509,000 2,350,000 42.6%

[JACAR. Ref.C14060707700]をもとに執筆者作成。総計は当該資料内で示されたデー タであるが、各州、市のデータを合計しても総計とは合わない。

総人口に占めるムスリムの割合は地域間でばらつきが見受けられた。例えば、シンガ ポールではムスリム人口が総人口の12.3%と非常に少なかったのに対して、クランタン 州ではムスリム人口が総人口の90.9%と大多数を占めていたのである。当該資料で示さ れているのは日本占領期に入る前のイギリス植民地期に行われた調査をもとにして算 出された数値ではあるが、マレー半島の各地にムスリムが多く存在したことが分かる。

軍政当局はムスリムの信仰心の篤さに強く印象付けられていた。1942 年 7 月に富集 団軍政部調査班が発行した「昭南略誌」には「マレー人は凡て全く、敬虔な回教徒」と 記されている31。1943年11月に富軍政監部が発行した「富軍政年鑑」では、「「マライ、

スマトラ」ノ原住民ノ大半ハ熱烈ナル回教信奉者」であるとされている32。また、馬来 興南奉公会が1943年12月に発行した「回教徒タル現住民指導教育上ノ参考」には「彼

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等ノ信仰ハ極テ強烈殆ド「狂信的」トモ言ヒ得ル程ナリ」と記されている33。ムスリム の信仰心については「敬虔」や「熱烈」、「強烈」、「狂信的」といった表現が用いられて おり、ムスリムの信仰心の篤さが当時の日本人の目を引いていたことが分かる。また、

前述の「昭南略誌」には「宗教が民族の風俗、習慣、経済力に影響を及ぼす顕著な実例 は、マレーの回教徒に於て容易に見出されるのである」と記されており34、ムスリムの 事例を通じて宗教が強い影響力を持つことを軍政当局関係者が認識していたことが分 かる。

マレー半島の人口の半数近くをムスリムが占め、軍政当局がムスリムの信仰心の篤さ を認識していたことを踏まえると、日本占領期のマレー半島におけるムスリムの宗教行 事が非常に重要なイベントであったことは間違いない。このような重要性を持つムスリ ムの宗教行事に対して軍政当局がどのように関与したのかは、極めて注目に値する問題 であると言える。

II. 新聞・雑誌報道に見る宗教行事の実施状況

1. ハリラヤ・プアサ

ハリラヤ・プアサ(Hari Raya Puasa)は、ヒジュラ暦第9月のラマダンの1ヶ月間の 断食を終えたことを祝う、ヒジュラ暦第10月のシャワルの初めに行われる祝祭で、イ ードの大祭のひとつのイード・アル=フィトルのことである。日本占領期の間には1942 年10月12日、1943年10月1日、1944年9月19日の3回にわたって行われた。

ハリラヤ・プアサを迎える前に励行されるラマダン月の断食は新聞で始まりが報じら れ、ラマダン月や断食に関する記事では礼拝にも触れられることがあったが、宗教的な 側面よりも戦争との関連づけが目立つ報道となっていた。1942 年のシンガポールの英 語新聞『ザ・ショウナン・タイムズ』(The Syonan Times)によれば「今年の断食を特徴 付けるものは、大東亜戦争の上首尾の結果のために各モスクで毎日捧げられる祈りであ る」とされ35、日本占領期初のラマダンが既に日本軍による宣伝の影響を受ける形で報 道されていた。また、1943 年のシンガポールにおいては、ラマダンを迎える前のヒジ ュラ暦第8月のシャアバーンの 15日であるニスフ・シャアバーンには「全てのムスリ ムがモスクまたは家に集い、日本の保護のもとにある世界のこの地域の平和のため夜更

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けまで特別な祈りを捧げた」と報じられている36。ハリラヤ・プアサを迎える前の段階 で既に礼拝は戦争と関連づけられ、徹底して宣伝的内容が付されていたことが指摘でき る。

ハリラヤ・プアサに際して執り行われる礼拝も戦争と関連づけられて報道されていた。

1942 年のシンガポールでは「全てのモスクにて大東亜共栄圏の全てのアジア人の解放 のために戦う日本の最後の勝利のための特別な祈りが捧げられた」とされ37、1943年も

「チーフ・カディと数千人のムスリムは大東亜戦争での日本の成功のために祈り、数千 のマライ人家庭ではアジアの人々の解放のために命を犠牲にした日本の戦士の霊魂の ために祈りが捧げられた」と報じられた38。また、1944年のペナンでは「戦争における 日本の早期の勝利のために祈りが捧げられた」と報じられた39。1942 年から 1944 年に かけての報道から、ハリラヤ・プアサに際して執り行われる礼拝が日本占領期の間に一 貫して宣伝と結びつけられていたことが分かる。軍政当局が宗教行事を宣伝の機会と捉 えていたことを裏付けているとも言えるだろう。

ハリラヤ・プアサに際しては宗教実践を伴わない催し物も行われていた。シンガポー ルにおける催し物に注目すると、1942 年には昭南特別市民生部厚生科の課長である篠 崎護やマラヤ青年クラブ(Malaya Seinen Club)会長のイブラヒム・ビン・ハジ・ヤア

コブ(Ibrahim bin Haji Yaacob)が出席した昭南ムスリム・ハリラヤ委員会主催の会合や

宣伝班による映画上映が行われ40、1943年には徳川義親や篠崎護が参加した茶話会やイ スラーム教育機関であるダルル・マアリフ(Darul Ma’arif)の女性部門による手芸展41、 1944年には「マライ・アーツ・ナイト」と称する文化的な催し物が行われた42。文化的・

娯楽的な催し物も開かれた一方で、軍政当局による関与が見受けられる催し物もあり、

軍政下にあることを意識する場として機能する場合もあったと言える。

ハリラヤ・プアサでは軍政当局による関与と日本化の影響が顕著に目立つ事例が見受 けられる。軍政下初のハリラヤ・プアサが祝われた1942年10月12日にペナン放送局 のグラウンドにて開かれた集いは、宗教行事とは言えない状況にあった。当日のプログ ラムとして報じられたのは表2の通りであった。

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表2:1942年10月12日のペナンにおけるハリラヤ・プアサのプログラム 午前9時30分 集会を開始する。

午前10時30分 会衆が州長官閣下に敬礼。

午前10時35分 ムスリム諮問委員会委員長のアブドゥッラー・アリフが演説を行う。

演説はアラビア語、タミル語、ヒンドゥスターニー語に訳される。

午前11時00分 集団礼拝開始。

午前11時30分

会衆は皇居の方角を向き、天皇陛下に敬意を表する。その後、マレ ー青年クラブ会長のアブドゥル・マナン・ノルディンが忠誠の演説 を読み上げる。

午前11時40分

演説が 5 言語で、すなわち日本語、マレー語、アラビア語、タミル 語、ヒンドゥスターニー語で行われる。それぞれ岩畔機関のカミモ ト、ハジ・ズビル、シェイク・フサイン・ラッフィ、R・クトブッデ ィン、H・サルダル・アリによって行われる。

午後12時30分 会衆は州長官閣下に敬礼し、その後アブドゥッラー・アリフが閣下 に絵画を贈る。

午後12時35分 閣下が演説を行う。

午後1時00分 ムスリム諮問委員会の委員長が会衆を散らし、その後続けて3回「万 歳」と叫ぶ。

午後1時05分 州長官閣下を中心人物として集合写真を撮る。

Penang Daily News, October 11, 1942 (2602): 4]をもとに執筆者作成。

上述のプログラムには、集団礼拝のような明示的な宗教実践が含まれている。しかし、

プログラムの内容、参加者の顔ぶれや演説の中身からは、必ずしもイスラーム色が濃い とはいえない側面も見受けられる。当該プログラムはハリラヤ・プアサの集いであるも のの、主役とも言える人物はペナン州の州長官であり、序盤から終盤まで州長官の存在 が強調されていた。また、宮城遥拝や万歳三唱といったムスリムの信仰とは関係のない 行為がプログラムに含まれ、日本化の影響が反映された行事となっていた。さらに、演 説は宣伝的な内容が目立つものであり、決して宗教行事の場に即した内容ではなかった。

当時の州長官であった片山省太郎が「今日、天皇への忠誠を誓い、この大東亜戦争で戦

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死した兵士に感謝の意を表している、ここに集った全てのムスリムに会えて良かった」

と述べたとされており43、この集いの性格が狭義の宗教行事の枠にとどまらないことが 分かる。日本語を含む5言語で行われた演説ではハリラヤ・プアサの重要性について述 べられたが、アブドゥル・マナン・ノルディン(Abdul Manan Nordin)による演説では 天皇への忠誠と協力を誓い、日本軍への協力を申し出たと報じられている44。プログラ ム全体を通じて軍政当局関係者の存在と日本化の影響が目立つ上に、宣伝が徹底されて いたことから、軍政当局のイベントと化していたとも言える集いとなっていたと言えよ う。明らかに集いが宣伝目的で利用され、宗教行事に対する軍政当局の姿勢が鮮明に表 れ、深く関与していたことがよく分かる事例である。

以上見てきた通り、ハリラヤ・プアサは軍政当局による関与が顕著に表れている宗教 行事であった。報道における礼拝の宣伝利用は日本占領期の間に一貫して行われており、

宗教行事という機会を宣伝に利用していた。軍政当局関係者による催し物への関与だけ ではなく、集いが軍政当局のイベントと化した事例も見受けられた。ムスリムにとって 非常に重要な祝祭であるイードの大祭という位置付けのハリラヤ・プアサにはイスラー ムとは異なる要素も含まれていたと言える。

2. ハリラヤ・ハジ

ハリラヤ・ハジ(Hari Raya Haji)はヒジュラ暦第 12 月ズー・アル=ヒッジャの 10 日に執り行われる祝祭で、イードの大祭のひとつであるイード・アル=アドハーのこと を指している。日本占領期の間にハリラヤ・ハジは、1942年12月19日、1943年12月 8日、1944年11月27日の計3回行われた。日本占領期の間にハリラヤ・プアサは毎年 10 月頃、預言者生誕祭は 3 月頃に行われていた一方、ハリラヤ・ハジは総じて開戦記 念日(12 月 8 日)に近い日取りとなっていた。この点はハリラヤ・ハジと他の宗教行 事の異なる点である。

1942 年の軍政下初のハリラヤ・ハジは、他の行事と同様に戦争との関連付けが見受 けられた。シンガポールでは「戦争の遂行の成功と日本の最終的な勝利のために全ての モスクにて特別な祈りが捧げられる」と報じられた45。また、イブラヒム・ビン・ハジ・

ヤアコブによる演説が行われる他、貧困者に食料が贈られるとされていた46。一方、ペ ナンではハリラヤ・ハジがペナンの軍政記念日(12月19日)と重なった。軍政記念日

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のためペナンでは12月19日が祝日とされ、記念日を祝う式典がペナン放送局のグラウ ンドにて行われた47。ハリラヤ・ハジが軍政記念日に重なったことは新聞で報じられた が、ハリラヤ・ハジに際して執り行われる礼拝は様々なモスクで行われたとされており

48、軍政記念日を祝う式典と一括りにされることはなかった。軍政当局がハリラヤ・ハ ジはムスリムの宗教行事として祝われることが必要であると考え、宗教上の祝祭と軍政 に関する祝典は意図的に分けて開催することを重視した可能性がある。

1943年のハリラヤ・ハジは開戦記念日(12月8 日)に重なり、その点が強調されて 報道されていた。シンガポールではハリラヤ・ハジについて「日本によるこの戦争がこ の重要なイスラームの祝祭と同様の基本的原理の根底にあり、イスラームの教えに一致 しているように、今年、この歴史的記念日は東亜の全てのムスリムにとってのみならず、

イスラーム世界全体にとって最高の記念日になるだろう」と報じられている49。ペナン では「大東亜戦争の2周年記念日に際してペナンとウェルズリー地方の全てのモスクは 特別な礼拝を執り行う」と報じられており50、ハリラヤ・ハジよりも開戦記念日を前面 に出すような形で報道されていた。一方、シンガポールではハリラヤ・ハジ当日ではな いものの、「大東亜戦争の2周年記念日とハリラヤ・ハジの祝祭に際して」催し物が行 われており、プログラムには「マライ音楽、伝統舞踊、映画、ステージショー」が含ま れていたとされている51。この報道からは催し物に宗教的な要素が含まれるかどうかを 問わず、ハリラヤ・ハジと大東亜戦争の記念日が重なったことに重きを置いて報じられ ていたことが分かる。

1944年のハリラヤ・ハジは11月27日に祝われ、1942年や1943年のように軍政に関 係する記念日に重なることはなかった。しかし、1944 年のハリラヤ・ハジも戦争と関 連づけられた形で報道されている。シンガポールでは「この威厳ある機会に、マライの ムスリムは指導者のもと、日本の最終的な勝利のために祈る」とされており52、ハリラ ヤ・ハジに際して執り行われる礼拝は戦争と関連づけて報道された。後日報じられた、

ハリラヤ・ハジに際して前日の夜に「マライ・ゲキジョウ」にて行われた集いに関する 記事では、「昭南のマライ人は確固として徹底して日本を支持し、最後の勝利まで日本 と他の民族と並んで戦うことの厳粛な誓いをもう一度再確認した」とされている53。軍 政に関係する記念日に重ならなかったものの、1944 年のハリラヤ・ハジと関連する催 し物も日本軍の宣伝に関連づけられた形で報じられていたことから、ムスリムの宗教行

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事は一貫して宣伝的な側面を持たされていたと言える。一方、この年のハリラヤ・ハジ に際しては宗教的な側面を持たない催し物も行われ、マライ厚生協会とマレー語新聞

『ブリタ・マライ』の共催で、昭南音楽協会のマライ部門による「マライ・アーツ・ナ イト」という催し物が行われると報じられていた54。娯楽や文化の要素を持つ催し物は 1943年にも行われていたが、1944年にも行われており、必ずしも宗教的な要素を含ま ない催し物がハリラヤ・ハジに際しても行われていたことが分かる。

ハリラヤ・ハジの特徴は、他のムスリムの宗教行事のように軍政当局による関与が目 立っていない点である。ハリラヤ・ハジは他の宗教行事と比べて報道量が少なく、得ら れる情報が限定的である。開戦記念日などの軍政に関連する記念日と時期が重なったこ ともあり、新聞記事から軍政の宣伝を読み取ることはできるものの、反面、ハリラヤ・

ハジそのものがどのように祝われたのかを汲み取ることは難しい。報道量が少ないこと から、ハリラヤ・ハジの祝いの規模が小さかったと断定することはできない。しかし、

ハリラヤ・ハジを取り巻く状況は他のムスリムの宗教行事とは異なり、開戦記念日など の軍政に直接関係する節目の影響を大きく受けていたと言える。

3. 預言者生誕祭

預言者生誕祭(Maulid Nabi)はヒジュラ暦の第3月ラビーウ・アウワルの12日に執 り行われる預言者ムハンマドの誕生日を祝う祝祭のことである。日本占領期の間には 1942年3月29日、1943年はシンガポールでは3月18日、ペナンとクアラ・ルンプル では3月19日、1944年3月6日、1945年2月24日の計4回にわたって預言者生誕祭 が行われた。

1942年3月29日に行われた軍政下初の預言者生誕祭は、すでに軍政当局による干渉 を受けていた。スランゴル州のクランにあるタウン・モスクにてチェ・シェエフル・イ スラーム(Che Sheehul Islam)がマレー語で演説を行い、「州の軍政当局の前進と向上の ためのマレー人とムスリムの結束と協力を会衆に訴えた」と報じられている55。また、

翌 30日にアラビア語学校で行われた会合では、クランの学校の職員がスルタンと日本 軍将校らに挨拶の言葉を伝えたと報じられている56。ムスリムによる演説で軍政への協 力が呼びかけられ、会合にて日本軍将校らに対する挨拶が行われたことから、1942年3 月の時点ですでに軍政当局によるムスリムの宗教行事への関与が始まっていたと言え

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る。一方、『ザ・ショウナン・タイムズ』では1942年のシンガポールにおける預言者生 誕祭に関する報道は見受けられない。ムスリムコミュニティの中で小規模で祝われた可 能性はあるが、シンガポールに軍政が敷かれて約1ヶ月と日が浅かったことが背景にあ ると考えられる。1943年の預言者生誕祭に関して、「日本が入ってきて以来、そして恐 らくシンガポールの歴史の中で初めて、全ての民族と集団のイスラーム共同体はかくも 盛大な預言者生誕祭を開催した」と報じられており57、軍政下のシンガポールにて預言 者生誕祭が大々的に祝われたのは1943年が初めてであった可能性が高い。

1943 年以降の預言者生誕祭に着目すると、預言者生誕祭の祝いに宗教的な要素が目 立たない催し物が並存する事例が見受けられる。表3で示す1943年のシンガポールで のプログラムはこの特徴をよく表している。

表3:1943年シンガポールにおける預言者生誕祭のプログラム

3月18日 宗教的儀式、預言者の人生に関する説教 パレード、貧困層のための宴会

3月19日 運動会

3月20日 茶話会

The Syonan Sinbun, March 17, 1943 (2603): 2]をもとに執筆者作成。

初日に宗教的な要素を含む催し物が集中していたが、3日間に渡るプログラムが組ま れ、イードの大祭ではないものの集いの規模が目立っていた。特に注目すべき点はパレ ード、運動会、茶話会である。

パレードは多くの地域で行われる催し物であった。1942 年はスランゴル州のクラン とペナン州にて、1943年はシンガポールとクアラ・ルンプルにて、1944 年はシンガポ ールとクアラ・ルンプル、ジョホール州でも行われた58。1943年には「どこでも、中で も昭南とクアラ・ルンプルでは数千人が参加した大きなパレードが行われた」と報じら れ59、パレードの規模は決して小さくなかったことが分かる一方で、シンガポールでの パレードではイスラームの旗だけではなく、日の丸の旗が掲げられたとされており60、 軍政下にあることを意識する要素が含まれていた事例もあった。

運動会は預言者生誕祭に際して行われた他の催し物とは異なる特徴があった。運動会

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はシンガポールにて1943年と1944年、クアラ・ルンプルにて1944年に開催された61。 参加者はムスリムの学生や子どもたちとされており62、若年層が主役となる場であった と言える。しかし、1944 年のシンガポールでの運動会では昭南特別市民生部厚生科長 の篠崎護が出席し、賞品を配ったと報じられており63、若年層が中心となる催し物であ っても軍政当局の関与が見受けられた。

茶話会は預言者生誕祭のプログラムの終盤に行われるものであり、参加者の顔ぶれか らは重要な催し物と位置付けられていたと言える。確認できた範囲では、シンガポール にて1943年から1945年までの3回、クアラ・ルンプルにて1943年と1944年の2回に わたって開催された64。新聞報道で参加者として示されていたのは、表4および表5の 通りである。

表4:シンガポールでの預言者生誕祭における茶話会の参加者

1943年 大久保弘一、Y・M・トゥンク・フセイン、シェイク・モハメド・ファスル ッラー・スハイミ、C・J・パグラー、A・イェッラパ

3月20日

1944年 篠崎護、チーフ・カディ(ハジ・アリ・モハメド・サイド)、全てのコミュ ニティの指導者、インド国民軍の将校、M・A・アルサゴフ

3月8日

1945年 S・オガタ、イブラヒム・ヤアコブ、ギラニ、マウラナ・アブドゥル・アジ

ズ、リム・ブンケン、スリジュット・M・K・チダンバラム、モハメド・ハ ッサン・アワン、C・J・パグラー

2月25日

[The Syonan Sinbun, March 23, 1943 (2603): 2][The Syonan Shimbun, March 9, 1944 (2604):

2; February 28, 1945 (2605): 2]をもとに執筆者作成。

表5:クアラ・ルンプルでの預言者生誕祭における茶話会の参加者

1943年

菊池慎三、スルタン、ラジャ・ウダ・ビン・ラジャ・ムハンマド 3月19日

1944年 片山省太郎、スルタン、日本軍将校、スランゴル参事会のメンバー、インド 国民軍の将校、ラジャ・ウダ

3月8日

[Malai Sinpo, March 20, 1943 (2603): 2; March 9, 1944 (2604): 1]をもとに執筆者作成。

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茶話会の参加者の顔ぶれは年や開催地によって違いがあるものの、全体では日本軍将 校やムスリムが目立っていた。しかし、インド国民軍の関係者やリム・ブンケン、C・ J・パグラーといった非ムスリムの世俗的リーダーなども参加していた事例があり、茶 話会は民族や宗教の枠にとらわれない性格を有した交流の場であったと言える。また、

軍政当局関係者などの参加者による演説が行われる場合もあったことから65、宣伝の場 であったとも言える。一方で、1944 年のクアラ・ルンプルでの茶話会では終盤にスル タンの掛け声で万歳三唱を行ったと報じられており66、茶話会でも日本化の影響が見受 けられる事例があった。

預言者生誕祭に際しては様々な催し物が行われていたが、1945 年のシンガポールで はパレードと運動会が予定に組み込まれていなかった67。預言者生誕祭の当日である 2 月24日には空襲が発生したと報じられており68、預言者生誕祭の祝祭を計画する段階で 屋外にて行う催し物の挙行はできないと考えられていた可能性が高い。1945 年の事例 は、戦況の影響が宗教行事にも及んでいた可能性を示すものであろう。

預言者生誕祭は軍政が敷かれてから最初に祝われ(1942年 3 月 29 日開催)、かつ、

最後に祝われた(1945年2月24日開催)ムスリムの宗教行事でもあった。1942年から 1945 年までの事例からは、一貫した軍政当局による関与だけではなく、戦況の悪化に よる影響も見受けられ、宗教行事を取り巻く状況を反映したものであった。運動会や茶 話会といった必ずしも宗教的な要素を含まない催し物が目立つ地域もあり、多様な催し 物が行われていた。預言者生誕祭はイードの大祭ほどではないものの、祝祭の規模は決 して小さなものではなかったと言える。

III. 軍政と宗教行事の関係

1. 軍政資料に見るムスリムの宗教行事

ここまで主に新聞と雑誌で報じられた情報に依拠してきたが、本項では軍政資料も参 照してムスリムの宗教行事について検討する。軍政資料ではムスリムの宗教行事に関す る記述が見受けられ、その記述からは軍政当局内において宗教行事の宣伝への利用は意 図されていたことであったのが分かる。

1942年の断食を励行するラマダン月(9月12日から10月11日)に入る前に出され

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た政電では、宗教行事に寛容であるかのように見える。「総務部長名」で「馬来「スマ トラ」各州長官、昭南特別市長宛」に出された1942年9月6日付の政電では、ラマダ ンを迎えるにあたっての注意喚起がなされ、「軍政会報第八号ニテ通帳セル通リ、回教 徒断食月ニ関スル諸行事ハ努メテ旧来ノ慣習ヲ尊重シ、地方的風習ノ是正抑制ハ之ヲ為 サザルモノトス」と伝えられた69。軍政下初のラマダン月を目前に控えた際に慣習の尊 重を促し、地方的風習の是正抑制をしないよう注意喚起をしていたことから、軍政当局 関係者に慎重な姿勢を持つことを周知していたと言える。しかし、Ⅱの1 で見た通り、

新聞報道では1942 年のラマダン月の間の礼拝が戦争完遂祈願に結びつけられ、軍政当 局による慣習の尊重を印象付けるような報道はなされていなかった70。軍政資料と新聞 報道では礼拝の励行に対する批判は見受けられず、慣習の尊重は部分的になされていた とも受け取れるが、新聞報道と照らし合わせると、慣習の尊重が徹底できていたとは言 えない。

一方、ハリラヤ・プアサに関する記述は、より明確な戦争との関連付けが見受けられ る。「軍政監名」で「「マライ」「スマトラ」各州長官、支部長、昭南特別市長宛」に出 された1942年10月27日付の政電では、「「チーフ・カデイ」或ハ其他ヲ通ジテ各州市 内の回教徒ニ」対して「謹ンデ『ハリ・ラヤ・プアサ』ヲ祝フ。幾多ノ尊キ犠牲者ニ感 謝シツヽ新生ヲ喜ビ益々皇軍ニ協力シ大東亜ノ建設ニ邁進センコトヲ希フ」と伝える旨 が示された71。Ⅱの1でも示した通り、1942年のシンガポールでのハリラヤ・プアサに 際して執り行われた礼拝も戦勝祈願に結びつけられていた72。また、内容の詳細はⅢの 2に譲るが、1942年のハリラヤ・プアサに際して出されたメッセージや行われた演説は 軍政当局による宣伝的な内容に含まれていた73。政電の内容と新聞報道を照らし合わせ ると、軍政当局による宗教行事の宣伝利用がいかに徹底されていたのかが分かる。

また、1942年 12月 19 日に祝われたハリラヤ・ハジに関する報告文からも、礼拝が 戦争完遂祈願に結びつけられていたことが分かる。1943年1月31日に富集団司令部に よって発行された「富集参情第一一二号 自十二月一日至十二月末日 第二十五軍情報記 録(第七十九号)」には「十二月十九日「ハリ、ラヤ、ハジ」(回教徒ノ大祭)ヲ迎ヘ在 昭南及「ペナン」全回教寺院ニ於テハ大東亜戦争完遂戦勝祈念ヲ為セリ」と記されてい る74。Ⅱの2で見た通り、1942年のシンガポールにおけるハリラヤ・ハジに関する新聞 報道では礼拝が戦勝祈願と結びつけられて報じられていた75。軍政資料での記述と新聞

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報道の内容が一致していることが分かる。

以上、軍政資料における宗教行事に関する記述を見てきたが、宗教行事の宣伝利用は 軍政当局が意図して行われたものであったことを裏付ける内容であったと言えよう。ま た、軍政資料での記述からは、軍政当局は宗教行事の宣伝利用や、礼拝の戦争との関連 付けが問題であるとは認識しておらず、むしろ進んで宣伝を行っていたことが分かる。

軍政資料と新聞報道を照らし合わせても矛盾する点はなく、むしろ軍政当局が宗教行事 を宣伝に利用していたことを明確に示すことに繋がった。軍政当局がムスリムの宗教行 事を重要な宣伝の機会として見ていたことが、軍政資料の記述から見えてきた軍政当局 の宗教行事の捉え方であると言える。

2. ムスリムの宗教行事における宣伝の行われ方と宣伝内容

前項では、軍政資料と新聞を照らし合わせた結果をもとに、軍政当局がムスリムの宗 教行事を宣伝の機会として捉えていたことを指摘した。先行研究において、アブ・タリ ブは宗教行事を「滑稽な政治的ショー」と表現している76。アブ・タリブは軍政当局関 係者による関与があった他に、ハリラヤ・プアサの際にペラ州とペナン州のモスクにて スルタンやイマームが食料生産を促していたことを指摘しており77、宣伝的な内容が目 立つ状況にあったことが分かる。また、クラトスカは「ムスリム社会に向けた宣伝では、

日本は、ムスリムを西欧支配から解放してイスラム教を保護するとともに宗教上の寛容 政策を執る、と主張した」と指摘しており78、ムスリム向けの宣伝にはムスリムとイス ラームについて触れたものもあったことが指摘されている。先行研究では宗教行事に際 して行われた宣伝に注目が集まっており、宣伝が非常に重要な着目点であることが分か る。しかし、取り上げられている事例が少なく、内容の分析はまだ十分ではないため、

検討の余地がある。本項では宣伝を行った人物の立場を踏まえて、宣伝内容を検討して いく。

新聞や雑誌では、宗教行事に際して出されたメッセージや行われた演説が多く報道さ れていた。メッセージや演説は、イスラーム指導者によるもの、マレー人指導者による もの、軍政当局関係者によるものという3つの立場で区分することができる。立場の異 なる三者による演説やメッセージが一律で宣伝的な内容となっていた事例があり、宣伝 的内容を伝えることは立場を問わない共通の役目となっていたと言える。1942 年のシ

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ンガポールでのハリラヤ・プアサに関する新聞報道では、異なる立場にあった三者によ るメッセージや演説がひとつの記事でまとめて報じられた。以下にメッセージや演説の 一部を引用しながら内容を検討する。

1942 年 10月 12日に行われたスルタン・モスクでの集いで軍政部文教科宗教班のカ ナヤ79は日本語で行った演説の中で、「あなた方はもうイギリス支配の臣民ではないが、

天皇陛下の寛容で温かな保護のもと今は大事にされている」と述べた80。「マレー人のリ ーダー及びマレー青年同盟の会長」としてイブラヒム・ビン・ハジ・ヤアコブも演説を 行い、「東亜のムスリム諸国は日本によって解放された」と述べ、また、「日本が恒久的 で永遠の世界平和の構築への大志を叶えられるように、日本が完全かつ最終的な勝利を 収めるよう祈ろう」とも述べたとされている81。またチーフ・カディのハジ・アリ・ビ ン・ハジ・モハメド・サイド・サレ(Haji Ali bin Haji Mohamed Said Salleh)が出したと されているメッセージでは「我々は信教の自由を享受している」、「今日初めて我々はも はや拘束されていない」と述べていると報じられた82。異なる立場の三者による演説と メッセージの内容を見ると、「解放」という言葉が共通のキーワードと言える内容とな っていた。ムスリムによる演説とメッセージも宣伝的な内容となっており、宗教行事に 際する宣伝は徹底して行われていたことが指摘できる。

他の機会に際してイスラーム指導者やマレー人指導者によって出されたメッセージ や行われた演説も、一貫して宣伝的な内容が中心となっていた。ハリラヤ・プアサに際 して報じられた、チーフ・カディによるメッセージは1942年に加えて、1943年と1944 年も日本軍について触れられていた。1943 年には「軍事力を自由の東亜のこの地域の 維持に捧げている大日本に対して、この地のムスリムは大いに恩義がある」とし83、1944 年には「新しい世界秩序の確立のための聖戦で我々ムスリムがこれまで以上に日本と協 力する必要があることは公正かつ適切なことである」という文言が見受けられ84、ムス リムと日本軍を結びつけた内容となっていた。マレー人指導者の演説やメッセージにつ いても同様であり、前述の1942 年のイブラヒムの演説だけでなく、新聞で報じられた 他のマレー人指導者のメッセージにも軍政の宣伝の要素が含まれていた。1943 年のハ リラヤ・プアサに際して出されたメッセージの中で、「昭南のマライ・コミュニティの リーダー」であるオナン・ビン・ハジ・シラジ(Onan bin Haji Siraj)は「マライの、特 に昭南の全てのムスリムは、この素晴らしい日に日本とアジアの他のメンバーの完勝の

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ために祈る」と述べたとされている85。また、「マライ人は日本の本当の目的を十分に理 解する必要がある。今、我々はイギリス支配から解放された」と述べたとされており86、 メッセージはムスリムと戦争を結びつけ、宣伝が主軸である内容であった。新聞記事に 掲載されたのがメッセージの全文とは限らないため、宗教的な内容に一切触れなかった とは断定できない。しかし、報じられた範囲では明らかに宣伝的な内容となっており、

ムスリムを通した宣伝においても軍政当局の正当性が伝えられていたことが分かる。

一方、軍政当局関係者による演説に着目すると、ムスリムらの共感や理解を得るため の工夫が見受けられる。特に顕著なのは1943 年のシンガポールにおける預言者生誕祭 に際して開催された茶話会での軍政監部宣伝班長の大久保弘一による演説である。大久 保の演説はマレー語雑誌『ファジャル・アシア』に「イスラームと剣」という題ととも に掲載された。以下は掲載文の一部からの引用である。

皆さんは預言者ムハンマドが「クルアーンと剣」という格言を残したことをご存知 です。日本は今、真の権利の実現が達成するよう、この地面から全ての悪魔を壊滅 させるためにその剣を抜いているのです。…皆さんはこれまでクルアーンに従って きたものの、剣を失っていたため、少しの自衛もできぬまま、イギリスとアメリカ によって抑圧されてしまったのです。…クルアーンを左手で握りしめつつ、剣を右 手で一緒に握りしめることが必要不可欠なのです。このようにしてはじめて正真正 銘の真の権利が達成できるのです。…その壁に広げられた2つの旗、太陽の光が放 射する日の丸の旗と月と星のイスラームの旗をご覧ください。月と星は明るい夜を 意味し、太陽の光は日中を意味しているのです。その2つの旗を持つことは、我々 が全世界を照らすために丸一日を持っていることと同じ意味なのです87

大久保の演説は「預言者ムハンマド」や「クルアーン」といった言葉を用いているが、

かつて西洋諸国に抑圧されたことや、日の丸の旗とイスラームの旗を通して日本とムス リムの関係性が良好である旨に触れており、イスラームの宗教的言説と軍政当局の宣伝 を掛け合わせた演説となっていた。大久保の演説に類似する事例は他にもある。1944 年にシンガポールで、預言者生誕祭に際して開かれた茶話会では、昭南特別市民生部厚 生科長の篠崎護が演説の中で、「預言者ムハンマドに触れながら、厚生科長はかつて預

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言者が新たな宗教の実現のために道を開いたのと同じように、日本は今日、大東亜で八 紘一宇の新たな理想の実現のために戦っていると指摘した」とされている88。すなわち 上記2例から、軍政当局関係者による演説では軍政当局の宣伝に関連づける形でイスラ ームに関連する事柄に触れることもあり、対ムスリムの宣伝であることを強く意識した 上で演説が行われていたことが分かる。

異なる立場にある三者の演説やメッセージを比較したことで、軍政当局の宣伝を行う ことは三者の共通点であり、宣伝は徹底して行われていたことが分かった。イスラーム 指導者やマレー人指導者による演説やメッセージではムスリムと戦争や軍政当局によ る統治を関連づけて宣伝的な内容が発されることがあり、ムスリムの共感や理解を得ら れるようにしていたことが汲み取れる。その一方で、軍政当局関係者は軍政当局の宣伝 をイスラームの文脈に組み込もうとしており、工夫をした上で宣伝を行っていた。宣伝 に関する報道と宣伝内容への注目は、宣伝の方法と徹底の程度も明らかにすることに繋 がった。

3. 軍政当局にとってのムスリムの宗教行事の重要性

本稿でこれまで見てきた事例からは、軍政当局は宗教行事を宣伝の機会であるから重 要視していたと言うことができるだろう。しかし、言葉による宣伝だけが軍政当局の宣 伝の手段ではなく、実践を通じた宣伝とも見受けられるものもあり、この実践からは軍 政当局がいかに宗教行事を重要視していたのかを汲み取ることができる。軍政当局の実 践を通じた宣伝として注目すべきは、宗教行事に際して食料や金銭を提供していた点で ある。軍政当局による食料の提供は配給を通じて、または組織やムスリム指導者、モス クを通じて行われた。食料の提供にはラマダン月の断食に際する提供の事例と、ハリラ ヤ・プアサや預言者生誕祭に際する提供の事例があった。表6および表7は食料の提供 の事例をまとめたものである。

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表6:ラマダンに際する食料提供

年 場所 提供先 提供した食料と量 特記事項

1942 ペラ 個人 1人あたり砂糖4タヒル

(=約150g)

特別配給。モスク とマドラサも対象

1943

シンガ

ポール モスク 米、砂糖、塩 貧困層などが断食 を明けるため

ペナン モスク 米50袋、砂糖343カティ(=約205kg)、 塩230カティ(=138kg)

182のモスクに 配布

[The Syonan Times, September 15, 1942 (2602): 4][The Syonan Sinbun, August 30, 1943 (2603): 2; September 19, 1943 (2603): 1]をもとに執筆者作成。

表7:宗教行事に際する食料提供

年 場所 行事 提供した食料と量 特記事項

1943 シンガ ポール

預言者生誕祭 米8袋、砂糖1袋 厚生科が提供 ハリラヤ・プアサ 米50袋、砂糖3袋、塩3袋 軍政当局が提供

1944 ペナン ハリラヤ・プアサ 米30袋、砂糖5袋 米は州長官、

砂糖は当局が提供

[The Syonan Sinbun, March 12, 1943 (2603): 2; September 29, 1943 (2603): 2][Penang Shimbun, September 19, 1944 (2604): 1]をもとに執筆者作成89

提供する機会だけではなく、提供量も多様であったものの、基本的には米、砂糖、塩 が提供された。ラマダンに際しては当局による個人に対する特別配給での提供と、モス クへの提供が見受けられた。宗教行事に際する提供は、機会や提供量だけではなく、提 供した組織や人物が多様であった。特に1944 年のペナンでの事例は、州長官によって 米が、当局によって砂糖が提供されたとされており、州長官の存在が強調された事例で あった。

食料の提供は軍政当局がいかに宗教行事を重要視していたのかを示していると言え る。軍政当局がラマダンや宗教行事に際して食料を提供した意図について検討すると、

以下の2点が背景にあったのではないかと考えられる。第一に、宗教実践の励行や宗教

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行事の挙行に対する軍政当局の理解と尊重の姿勢を示すことを意図していた可能性で ある。食料の提供は姿勢を形として表すことに繋がるため、繰り返し行われていたと考 えられる。第二に、軍政当局が協力的な姿勢を示すことによって、軍政当局に対するム スリムの協力を得ることに繋げることを意図していた可能性である。食料の提供は宗教 行事の挙行への協力とも捉えることができる。以上の2点を踏まえると、食料の提供は 大きな意味を持つことであると軍政当局が捉えていた可能性が高いと言える。

また、軍政当局によって金銭が提供された回数は食料の提供よりも少なく、確認でき た範囲ではスランゴル州でのみ見受けられた。表8は提供金額などの情報をまとめたも のである。

表8:スランゴル州における金銭提供

年 行事 金額 特記事項

1942 ラマダン 500ドル ラマダン月にモスクで執り行われる特別礼拝のため

1943 預言者生誕祭 2000ドル 茶話会にてラジャ・ウダ・ビン・ラジャ・ムハンマド

によって謝意が示された

The Syonan Times, September 27, 1942 (2602): 3][Malai Sinpo, March 20, 1943 (2603): 2

The Syonan Sinbun, March 23, 1943 (2603): 1]をもとに執筆者作成。

事例は少ないものの、異なる機会に異なる金額が提供されていたことが分かる。ラマ ダンに際する金銭提供はモスクで執り行われる特別礼拝のためであるとされており、宗 教実践の励行への理解を示す意図があった可能性が指摘できる。また、1943 年の預言 者生誕祭に際する金銭の提供では、茶話会にて軍政当局への謝意が示されており、ムス リムに対する協力的な姿勢を示す意図があった可能性が指摘できる。

食料の提供と金銭の提供は、異なる機会に繰り返し行われていた。特に食料の提供は 戦時中に貴重であった食料が提供されており、軍政当局がいかに宗教行事を重要視して いたのかを示すことに繋がっていると考える。宗教行事に際しては軍政当局や戦争に関 する宣伝が多く行われていたが、実践を通して軍政当局への理解と協力を得られるよう 工夫をする意図を軍政当局が持っていた可能性があることが、食料の提供と金銭の提供 から指摘できる。

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おわりに

本稿では、日本占領期のマレー半島におけるムスリムの宗教行事に焦点を当て、各宗 教行事の実施状況および新聞や雑誌での宗教行事に関する報道の実態を明らかにし、軍 政当局によるムスリムの宗教行事への関わり方を検討してきた。以下に結論をまとめる。

第一に、ムスリムの宗教行事は1942年から1945年まで一貫して軍政当局による干渉 を受けていた。宗教行事は挙行できていたものの、宗教実践を伴う集いや、関連する様々 な催し物、報道には軍政当局の影が落とされており、宗教行事とは結びつかない要素が 含まれることがあった。個々の宗教行事によって軍政当局による関与の程度や行われた 催し物には違いが見受けられた他、軍政関連の記念日と日取りが重なる場合も見受けら れ、ムスリムの宗教行事の実施状況は多様であったと言える。

第二に、礼拝や宗教行事は戦争と関連づけられて報じられ、宗教行事に際して出され たメッセージや行われた演説は日本軍の宣伝を含むものとなっていた。先行研究でも宗 教行事が日本軍の宣伝の機会になっていたことが指摘されていたが、この点は本稿で取 り上げた事例によってより具体的な状況を示すことができた。イスラーム指導者とマレ ー人指導者による宣伝の他、軍政当局関係者による宣伝の内容を検討したことにより、

いかにムスリムと関連づけ、イスラームに関連する事柄を組み合わせて宣伝を行ってい たのかが明らかになった。

第三に、軍政当局は宗教行事を非常に重要視していた。新聞報道と軍政資料で見た通 り、宗教行事に際して行う宣伝は徹底され、宗教行事を宣伝の機会として捉えていたこ とは明らかなことであった。これに加えて、軍政当局による食料と金銭の提供は、軍政 当局がいかに宗教行事を重要視していたのかを表しており、軍政当局による姿勢の示し 方が多様であったことが指摘できる。

日本占領期のマレー半島におけるムスリムの宗教行事を概観してみると、宗教行事は 祝祭を祝う機会であった一方で、軍政下にあることを強く意識することに繋がる機会で あったと言える。報道や集いなどの様々な形で軍政当局による関与が見受けられ、大き く影響を受けていたことが分かる。日本占領期のムスリムの宗教行事には軍政当局の現 地に根付いていた宗教やムスリムとの向き合い方や関わり方が反映されており、宗教行 事は軍政下におけるムスリムを取り巻く状況を知る手がかりとなっていると言える。

(25)

本研究は参照した量に差はあるものの、日本語資料、英語資料、マレー語資料を突き 合わせて行った研究であり、異なる言語で記された資料を用いたことで互いに補填し合 う情報を引き出すことができた。また、先行研究で活用が不足していた英語新聞を多く 用いたことによって、ムスリムの宗教行事の実施状況を詳細に明らかにし、軍政当局の 関わりがある中でいかにして宗教行事が挙行されていたのかを示すことができた。

一方、本研究に取り組む過程で見えてきた課題がある。まず、ムスリム側の視点を取 り入れた上で日本占領期の宗教行事を見ることは最も大きな課題である。当事者である ムスリムが書き残したものを活用することが必要であることから、今後は活用できる資 料を探し、参照するマレー語資料を増やしていくことに努めたい。また、イギリス植民 地期や日本占領期終了後に挙行されたムスリムの宗教行事との比較をすることも課題 である。他の時期との比較を行って日本占領期の特徴をさらに明確にし、変化がもたら されたかどうかを明らかに必要がある。今後はこれらの課題を踏まえて研究を進めてい きたい。

1 クラトスカ 2005: 132

2 JACAR. Ref.C14060707000 軍政資料から引用する場合は、旧字体は用いず、原文に沿って

新字体と片仮名もしくは新字体と平仮名で表記する。

3 JACAR. Ref.C14060707700

4 JACAR. Ref.C14060578100

5 Akashi 1969

6 Abu Talib 1995; 2002; 2003

7 Abu Talib 2003: 233

8 Akashi 1969: 93-94

9 クラトスカ 2005: 125

10 立川 2016: 27

11 用いた英語新聞はシンガポール、ペナン、クアラ・ルンプルで発行されたものである。

シンガポールで発行された英語新聞は当初、『ザ・ショウナン・タイムズ』(The Syonan Times)

という題号であったが、のちに『ザ・ショウナン・シンブン』(The Syonan Shimbun(Sinbun))

に改められた。ペナンで発行された英語新聞は当初、『ペナン・デイリー・ニュース』

(Penang Daily News)という題号であったが、のちに『ペナン・シンブン』(Penang Shimbun)

に改められた。クアラ・ルンプルで発行された英語新聞は当初、『ザ・マレー・メール』

(The Malay Mail)という題号であったが、のちに『マライ・シンポウ』(Malai Sinpo)に 改められた。

12 岩武 1989: 61

13 JACAR. Ref.C14060627200

14 秦編 1998: 24

15 秦編 1998: 24

16 秦編 1998: 25

(26)

17 秦編 1998: 24-25

18 JACAR. Ref.C13071018500

19 JACAR. Ref.C14060628300

20 JACAR. Ref.C14060752000

21 JACAR. Ref.C14060752100

22 JACAR. Ref.C14060752100

23 第25軍司令部 1942:頁数未記載(明石編 1998a: 197-198 所収)

24 JACAR. Ref.C14110776300

25 馬来軍政監部調査部 1944: 5(明石編 2006: 329 所収)

26 馬来軍政監部調査部 1944: 10-11(明石編 2006: 334-335 所収)

27 馬来軍政監部調査部 1944: 11(明石編 2006: 335 所収)

28 馬来軍政監部調査部 1944: 26(明石編 2006: 350 所収)

29 JACAR. Ref.C14060707700

30 JACAR. Ref.C14060707700

31 JACAR. Ref.C14060578100

32 富軍政監部 1943: 95(明石編 1998b: 頁数未記載 所収)

33 JACAR. Ref.C14060614500

34 JACAR. Ref.C14060578100

35 The Syonan Times, August 30, 1942 (2602): 4

36 The Syonan Sinbun, August 18, 1943 (2603): 2

37 The Syonan Times, October 13, 1942 (2602): 4

38 The Syonan Sinbun, October 2, 1943 (2603): 1

39 Penang Shimbun, September 19, 1944 (2604): 1

40 The Syonan Times, October 14, 1942 (2602): 4, The Syonan Times, October 16, 1942 (2602): 4

41 The Syonan Sinbun, September 20, 1943 (2603): 2, The Syonan Sinbun, October 5, 1943

(2603): 2 1943年9月20日付の記事はマイクロフィルムから印刷した際に不鮮明であっ

たため、Newspaper SGにてデジタル化して公開されている記事も参照した(最終閲覧日:

2021年 10月9 日)(URL: https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/syonanti mes19430920-1.2.25)

42 The Syonan Shimbun, September 5, 1944 (2604): 2, The Syonan Shimbun, September 21, 1944 (2604): 2

43 Penang Daily News, October 13, 1942 (2602): 4

44 Penang Daily News, October 13, 1942 (2602): 4

45 The Syonan Sinbun, December 17, 1942 (2602): 1

46 The Syonan Sinbun, December 17, 1942 (2602): 1

47 Penang Shimbun, December 18, 1942 (2602): 1

48 Penang Shimbun, December 20, 1942 (2602): 2

49 The Syonan Sinbun, November 24, 1943 (2603): 2

50 Penang Shimbun, December 7, 1943 (2603): 2

51 The Syonan Shimbun, December 13, 1943 (2603): 2

52 The Syonan Shimbun, November 23, 1944 (2604): 2

53 The Syonan Shimbun, December 1, 1944 (2604): 2

54 The Syonan Shimbun, November 23, 1944 (2604): 2

55 The Malay Mail, April 2, 1942 (2603): 3

56 The Malay Mail, April 2, 1942 (2603): 3

57 Fajar Asia, 27 March (Sangatsu), 1943 (2603): 119

58 Penang Daily News, March 29, 1942 (2602): 1, The Malay Mail, April 2, 1942 (2602): 3, Malai Sinpo, March 18, 1943 (2603): 2, The Syonan Sinbun, March 19, 1943 (2603): 1, Malai Sinpo, March 7, 1944 (2604): 1, The Syonan Shimbun, March 7, 1944 (2604): 2, The Syonan Shimbun, March 9, 1944 (2604): 2

参照

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