第4の動物を探せ――中国内モンゴル新石器時代趙 宝溝文化期の尊形土器動物文再考――
著者 佐川 正敏
雑誌名 アジア文化史研究
号 5
ページ 1‑10
発行年 2005‑03‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024217/
アジア文化史研究第5号
(東北学院大学大学院文学研究科・平成l7年3月)
第 4の 動物を探せ
一
中国内 モンゴル 新石 器時代趙宝清文化期
の 尊形土器動物文再考
一佐 川 正 敏
西遼河流域 の 畑作農耕 の 起 源 と 興 隆 窪文化期 の 食種
筆者と大学院生は2001˜2003年,中国内モン ゴル赤峰市;放漢旗にある今から8000
˜
7500年 前(新石器時代興隆窪文化期中葉)の興隆溝遺f
河南省黄河中・下流域河北省南 部 内iン東南部進西地コ1l 通率省西 ii1部l0000 年前 8000
-
南海11l良
確 山 文 化
小河西 文 化 興隆産 文 化
趙宝溝
富
文
化河
̲文
化 紅 山 文 化 小河沿 文 化
1l[家ll1下展 文 化 l家店上常 文 化 軽里商
文 化 7000
-
6000
-
5000
-
仰 套召
龍 山
1夏王朝 商王朝 周王朝
文 化
文 化 4000,
3000
-
年前
跡の日中共同調査に参加した
(Fig
.1 ) 。 発掘調 査の概略とその成果の一端は,
『東北考古文物論 集1l
(劉国祥2004),
『考古2004年第7期」
(劉国 祥・
部国田ほか2004)や『2003中国重要考古発 見.1
(劉国祥・
田広林ほか2004),『中国東北地方 新石器文化と列島縄文文化の比較研究I』 (日本Fig.1 趙主細文化の年代と分布Date and dlstri11)utionof sites be] l } l
、
ging t o l h e Zhaobaogou culture 第i. の動物を探せ中国先史時代過跡共同研究実行委員会 ・ 中国社 会科学院考古研究所2003)
, 「
中国遼西地区新石 器時代中期興隆窪文化段階の文物集成』 (佐川・小林2004)などにすでに報告されている
。
また,
佐藤真生氏は,
2003年度に本学大学院に対し興 隆窪文化期の植刃器をテーマとする修士論文を 提出した。
現在も筆者らは,
赤峰市赤峰学院内 にある中国社会科学院考古研究所内モンゴル第一
隊工作站をたびたび訪問し,
『興隆溝遺跡発掘 調査報告書』の2006年度刊行を日指して,
遺物, とりわけ細石刃技術や植刃器を中心とする整理 作業と調査,
研究に取り組んでいる。
さて,興隆溝過跡の最大の成果のひと
っ
は,興 隆窪文化期の集落である第一
地点の10号・31 号堅穴住居跡床面から,
多量のキビと少量のア ワの炭化種子が発見され,
それらが栽培種と鑑 定 さ れ た こ と で あ る (劉国祥2004)。
鑑定に当 たった中国社会科学院考古研究所の趙志軍氏 は,
キビやアワなどの畑作農耕の起源問題は黄 河中・下流域だけでなく,
西遼河流域も含めて 再検討すべき新たな段階を迎えたと述べつつ, 同時に興隆消のキビとアワの種子は栽培化され て間もない特徴を有してぉり,
土器や石器(Fig.2上)
,
多くの動物遺存体の特徴を見ても,興隆 窪文化期は依然として採集・
狩猟を生業の主体 とする段階であって,
農耕社会ではなかったと 強調している(趙志軍2004)。
趙氏の指摘は研究 者 と し て じっ
に 冷 静 沈 着 で 的 確 な も の で あ り,
筆者も大いに支持したい(佐川・小林200)。興 隆窪文化期の畑作農耕はさながら縄文農耕や栽 培 の よ う に, 狩 猟 ・ 漁 労 ・ 採 集 と と も に 多 様 な 食1
Ell
!獲得手段のひとつでしかなかったようだ。その後
,
西遮河流域における食組中の雑穀類 の比重は,
漸移的に増加していった。 それは趙氏が鑑定した 愛家店下層文化期の興隆溝遺跡第 三地点出土のキビ種子に現れている
。
その形態 と大きさは現在の栽培種と変わらず,3500余年 の時間の経過において,
より確立した栽培種と して進化したことを物語る(趙志軍2004)。
こ れ は 当 然 人 類 の 働 き か け を 背 景 と す る も の で あり,
西遼河流域において畑作農耕が生業の主体 を占める地域があったことを示している。また,
それ以前の紅山文化期には定形的な農具として 石 鋤 と い う 耕 具 が あ り
,
石包丁という収穫具も 登場する。
そして,
畑作農耕の比重の高まりは,
集落間抗争開始の引き金となり, 環壞集落 (興 隆溝第二地点) も登場する (劉国祥2004)。
2 趙宝溝文化期 の 生業間題
興隆窪文化と紅山文化の間には今から
7000
˜
6000年前の趙宝溝文化が設定されている (楊虎1994,
中国社会科学院考古研究所1997)。筆 者はこの段階が西遼河流域の生業において, 畑 作農耕の比重がやや增す時期とかねがね主張し てきた(佐川1995)。それは黄河中流域起源の舌 状の石鋤が,
農耕具として使用され始めたから である(Fig.2 - 55・56) 。
この種の石鋤は磁山文化期や裴李崗文化期には
,
すでに普遍的な農耕 具であったが,
興隆窪文化期にはなかった。
同 時に土器組成にも大きな変化が発生する。まず,
粗製土器に加えて精製土器が登場する
。
粗製土 器の主体は依然,煮沸用の深鉢形土器であるが,
口縁部直径が広くなり
,
また小型の鉢形土器も 增加する。
糟製土器は胎土の精製化に加えて,
ミ ガキ調整を施し, 供献用の皿形土器やこの時期 特有の祭祀用土器である尊形土器がある。 この ような土器の多様化は,
畑作農耕の比重の若干 の増加と関連がある,
と推定するのである。1
-
7土器,8管製ヤス(l/6),9骨製藍(1/6),l0植刃鑑(l/6), 1l・l2a
理(1/6).
la
石llll,一、
4円盤状石器.
' 'l5磨石(l/24),i6石皿(l/24), 17石織(l6は新楽下1l,ほかは興隆li出土)
Fig.2 興 隆 窪 文 化 ( 上 段 ) と 趨 宝 潤 文 化 ( 下 段 ) の 生 活 用興: (縮1;l1l通常
%
2) Main t o o l k i t for Iife in the Xinglongwa(upper)and Zhaot
)aogou(lower)culturalstages趙宝溝文化期の主体的生業に関する見解に
も, 一
定程度に発達した畑作農耕であったとす る見解もあれば(劉晋祥ほか1996),それは過大 評価であり,畑作農耕の存在は否定しないが,狩 猟 ・
漁労・採集が依然主体であったとする見解 も あ る ( 劉 国 祥 2 0 0 4 ) 。 こ の 点 に つ い て は, ①
この段階の遺跡を新たに発掘調査する際に,
興 陸溝遺跡の発掘と同様に遺構の土壞の水洗選別 を丁寧に行い,
ソバやアワなどの炭化種子を発 見して,栽培種や進化の問題を比較する,
② 農 耕社会にぉいては農具である耕具,
収種具,
穀 物調整具がセットで存在するはずなので, 今後 石鋤, 収種具の可能性もある短冊状の石製ナイ フの使用痕研究を行う,
③ 生 産 の 場 で あ る 畑 の遺構を発見し,同時に人骨内の炭素・窒素同 位対比の検査によって主体的依存食組を推定し て, 検証する必要がある (劉国祥2004)。さて, 趙宝溝文化期特有の尊形 (古代儀式用 青銅製酒器の尊の器形に似た) 土器を祭祀用と 推定する最大の理由は
,
その希少性はもちろん, 趙宝溝遭跡(中国社会科学院考古研究所1997), 小山遺跡 (中国社会科学院考古研究所内蒙古工 作隊1987), 南台地適跡(1
救漢旗博物館1991, 召に
国田編2004)で出土したものに,
動物の絵画が 箆 書 き さ れ て い る か ら で あ る ( F i g. 4 ) 。ま た,
趙 宝溝適跡出土のほ乳動物骨を見るならば,
生業 に お け る 狩 猟 の 比 重 は 依 然 と し て 高 い こ と が わ かる。さ ら に,趙宝溝文化期の遭跡には, 紅 山 文化期に登場する両面加工の三角形石鑑や骨難 が な い。
大型の細石刃を素材とし, その末端両 側縁のill f
面側に二次加工を施すものが出土し て おり(Fig.2- 52),
筆者は従来これを石刃難と考 えてきたが(佐川1995),現在はその確定に慣重 で あ る。
それは石刃素材でないこと,石刃核,彫第4の動物を探せ 3
刻 刀 形 石 器 な ど の 石 刃 製 石 器 が な い か ら で あ る
。
錯形・
槍形の植刃器は未発見であるが,
多 量の細石刃が存在するので(Fig.3-
16・18),
主 体的な狩猟具は,
依然として錯形・
槍形の植刃 器であった可能性がある。3 尊形土器と動物文
一隠れていた第 4 の 動物
一尊形土器に箆書き された動物絵画の内もっ と も有名な例は
,
赤峰市激1
漢旗の小山遺跡2号住 居跡床面出土のものである(Fig.3- 30,4 -
1)。
この尊形土器の動物は
,
従来からシカ, イ ノ シ シ,
ト リ の 3 種 と さ れ て き た ( F i g . 4
-
3 ) 。 いずれも その右側面を表現している。
シカはその頭部,
頸 部,胴部前半,
前脚を箆書きしている。
頭部に はロ,
細長い目,耳, 長い角を,
前脚には偶蹄 類の特徴のふたつの爪を描いている。
シカの右 側 に は イ ノ シ シの頭部のみを箆書きし, そ こ に 細長い目とイノシシの特徴である大きな犬歯を 描 い て い る。
イノシシの右側のや や 離 れ た と こ ろ に は ト リ の 頭 部 と 頸 部,
右翼を箆書きし, 頭 部 に は 丸 い 目 と く ち ば し , そ し て 鶏 冠 よ う な 部 位を描いている。以上3種の動物の主要部位は,
丁寧な斜格子沈線で充填している。 さ ら に
,
各 動物の表現していない胴部などには, 斜格子沈 線で充填した旋回文を必ず置いている。さ て , 筆 者 は シ カ と イ ノ シ シ の 間 が や や 離 れ て い る こ と が 以 前 か ら 気 に な っ て い た
。2002年
9 月,
興隆溝過跡第一
地点B区の発掘調査を参 観した際に,
出土遺物の中に左右一対の大型肩 胛骨があった。 こ れ は, 元 来,16号住居跡内の 1 4 号 屋 内 墓 の 脇 に 重 ね て 置 か れ て い た も の で ある。鑑定の結果, ス イ ギ ュ ウの も の で あ る こ とが判明している。 興隆窪文化期はスイギュウ4
が生息できるほど温暖で
,
水も豊富にあったのである。
筆者は2002年11月にある展覧会で興 隆 溝 遺 跡 に 関 す る 識 演 を す る こ と に な り,
その ための映像資料を準備していた。
その時に件の 專形土器の動物文の展開図も選択し, 思わずシ カ と イ ノ シ シ の 間 に 目 が い っ た。
そして, そこ に左右上向きに湾曲した角状の物体の箆書きが あ る こ と に 気 が ついた(Fig.4- 2・3)。その瞬間 ,
筆者の脳裏には2004年9月に見た興隆溝第
一
地点のスイギュウの肩胛骨のことが浮かんだ
。
「
この角状の物体の箆書きは,
ウシの角ではない だ ろ う か。」
箆書きを改めて仔細に観察すると,
顔面部や胴部は表現されてぉらず
,
向かって右 側の一
部が欠損しているものの, 左右対称の角 状物体のところに限つて弧状の沈線が細かく加 え ら れ て い る。
この沈線が直線でなく弧線であ るのは,
円錐形の物体の立体感を表現した可能 性がある。 し た が っ て , こ の 箆 書 き は ス イ ギ ュウ な ど のウシ科動物の角を表現したものと考え る に
至
つた。4 趙宝溝文化期を含む先史西遼河流域
の 重要動物
趙宝溝文化期
の
重要動物趙宝溝過跡では小山遺跡の尊形土器に描かれ た4種の動物の骨そのものが出土している (中 国社会科学院考古研究所1997: 北京大学の黄 種平分析)。 シカではマーローが179点(最小個 体数11個体)
,
ニ ホ ン シ カ が 3 9 点 ( 同 4 個 体 ),
ノ ロ シ カ が 1 2 9 点 ( 同 9 個 体 )
,
イ ノ シ シ が 1 3 8 点 ( 同 9 個 体 ),
ウ シ 2 点,
ト リ で は ハ ク チ ョ ウ2点,
キ ジ が 1 1 点,
竪穴住居跡などから出土し て い る。
そ の ほ か に イ ヌ 1 点,
タ ヌ キ 1 8 点 ( 最 小 個 体 数 3 個 体 ) , ア ナ グ マ 9 点 ( 同 3 個 体 ),
ク30
6 : 磨 石
0 20cm
l ̲ l l
A 21
〇
5 13 29
g'
30,
28〇〇 l
l2 f、
0
-
6 l45:磨石
44:石皿 47
m
T 重56:細石刃核事
52
0 0
512号住居跡
A'
e
42l1:磨製石斧
スケール14
-
16,18,56用↓
0
̲
」5cm Fig.3 小山過跡2号住居跡と床面の出土過物Distribution of culturalrelics on thelivingfloor of the pit
-
house N o . 2 a t the Xiaoshan site第4の動物を探せ 5
Fig.
-
i 小山造跡・南台地遭跡の専形土器の動物文展開図Animaldesign pattems of the Zun-shaped potteries found at the Xiaoshan and Nantaidi sites Inner Mongolia
マ 4 点
,
束 北 モ グ ラ 4 点,
モ ン ゴ ル ジ リ ス 1 点,
魚1点がある
。
趙宝溝文化期も興隆窪文化期と 同様に,
シカとイノシシの点数が飛び抜けて多 く,
最重要な狩猟対称物,
すなわち食極であっ た こ と が わ か る。
推 定 さ れ る 平 均 体 重 も イ ノ シ シが135キロ,
マーロ ーのオスが200 ˜ 250キ
ロ,ニホンシカのオスが150キロ
,
ウ シ が 2 5 0 キ ロ で,
他 の 動 物 と は 比 較 に な ら な い く ら い 大 き く, 一
頭仕留めると大量の肉が獲得できた。
さ ら に
,
黄氏が各部位の骨の残存状況や加工 状況などを検討した結果,
イ ノ シ シ と ノ ロ シ カ はもっぱら食肉用に供され,
それらの骨と角は 骨角器の原料にはほとんどならなかったことが 判明している。 これに対して, 加工痕の目立つマ
ーロー と ニ ホ ン シ カ そ し て ウ シ は,
骨角器の 原 料 と し て 選 択 さ れ る こ と が 多 く,
と く に 前 二 者はその角も含めて最も重要な材料であったと い うoしたがって
,
趙宝溝文化期の人びとが,
食組 の上で多大の恩恵を得ていた比較的大型の動物 であるマーロー や ニ ホ ン シ カ,
イ ノ シ シ,
そし てウシを特別視し, 尊 形 土 器 に 箆 書 き し た こ と は, 一
応 首 肯 で き る こ と で あ る。
ただし, 趙宝 溝と南台子の尊形土器に箆書きされた動物は,
と も に シ カ だ け で あ る 。 興隆窪文化期
の
重要動物興隆窪文化期の人びともすでにシカとイノシ シを特別視していた
。
興隆溝遺跡第一
地 点 A 区5号住居跡は
,
発掘された37基の住居跡中床面 積が最大で,
86.24平米に達する。 その平面形も 特殊で,
集落内の特別な住居跡と考えられる(劉 国祥2004)。
そ れ を 裏 付 け る よ う に,
その床面に は イ ノ シ シ の 頭 骨 1 2 点 と シ カ の 頭 骨 3 点 が,
四 肢骨などの他の部位の骨をいっさい含まずに集め ら れ て い た ( F i g . 5
-
1)。
と く に,
ほ と ん ど のイノシシの頭骨の額には
,
円形か長方形に丁寧 に く り ぬ い た 孔 が あ り,
中にはそこを焼いて焦 がしたものもあった。
頭部穿孔は脳漿を取り出 すためのものではなく,
頭骨を使用した祭祀に 伴 う も の で あ っ た こ と は 明 ら か で あ る。
また
,
興隆溝第一
地点C区南辺に あ る 3 5 号 土坑底面から出土した2点のイノシシ頭骨とそ れに連なる複数の粘板岩の剥片を,
劉国祥氏は 2頭の中国最古の龍の表現ととらえ,35号土坑
を祭祀坑や犠牲坑の起源と考えている (劉国祥2004 ,
劉国祥・邵国田ほか2004, 劉国祥・
田広 林ほか2004)。
その是非は今後中国内外で十分 検 討 さ れ る こ と に な ろ う が,
保存の良好な1点 のイノシシ頭骨の額にも,
孔があけられていた。
興 隆 溝 で は 額 に 孔 を あ け る 例 は 他 に も あ る が
,
その動物はイノシシに限定される点に重要な意 味 が あ る と 考 え ら れ る
。
興隆窪遺跡の118号屋 内墓では成人男性の右側にオスとメスの2頭の イ ノ シ シ を 仰 向 け に し て 副 葬 し て い た (中国社 会科学院考古研究所内蒙古工作隊1997)。
興隆 溝で出土したほ乳動物中, シカの数量が最多で あ り,
イ ノ シ シ が そ れ に 次 ぐ が,
イ ノ シ シ は,
当 時の動物祭祀あるいは狩猟儀礼においてシカよ り も や や 高 い ラ ン ク に 位 置 づ け ら れ て い た の だ ろ う。
劉国祥氏は,
狩猟が食組を獲得する面に おいて当時の生業中,
もっとも重要であったの で , イ ノ シ シ と シ カ が 最 重 要 な 動 物 と 見 な さ れ,
獲物の獲得量が十分であることと狩猟の成功を 祈念するための儀礼において
,
両者が中心的存 在であった,
と推定している(劉国祥2004)。
紅山文化期以後
の
重要動物趙宝溝文化期に続く紅山文化期の祭祀でも
,
イ ノ シ シ は も っ と も 高 い ラ ン ク に 位 置 づ け ら れ
第4の動物を探せ 7
1. 興陸満過跡第
一
地点A区o号住居跡のイノシシとシ力の頭骨 2. 紅山文化期の指寵形玉器(左: 三,lll̲
i他拉,右: 牛河架第2地点出土)3. fl:河梁第16地点第4号基出土の人管 (11lj性) と玉器 ・1. 同左頭A管下のI、 リ 形 玉 器 (中国では鳳凰形ii
・
理1
ll) Fig.1i 先史西遮河流域の重要動物Important al limals arround the Western Liaohe river va11ey in theNeo]1thic period
ている(劉国祥2004)。 それは還寧省牛河梁遺跡 に代表される方形積石塚の箱式石棺基には
,
動 物 形 玉 器 を 含 む 多 量 の 玉 器 が 副 葬 さ れ て ぉ り (Fig
.5-
3),
そ の 中 に は イ ノ シ シ を 形 象 す る ( と く に 鼻 と タ テ ガ ミ ) 指 龍 形 玉 器 ( F i g.5 -
2 ) や 蚕 形玉器(筆者はイノシシの鼻の誇張表現と推定 す る ) が 存 在 す る か ら で あ る 。 筆 者 は,
鈎雲形 玉 器 も 2 頭 以 上 の イ ノ シ シ が 絡 み 合 つ た 状 態 を 表 現 し た も の と 推 定 し て い る 。 牛河梁の祭祀用 建 物 跡 ( 通 称 ・女 神 廟 ) か ら 発 見 さ れ た 彩 色 動 物形土製品は,
下顎に大型の牙が表現されてい るので, イ ノ シ シ と 推 定 さ れ る (選華省文物考 古研究所1997)。 これらは西通河流域の興隆窪˜
趙宝溝文化期のイノシシ祭祀の伝統の上に展 開 し た も の と 考 え ら れ る 。8
こ の ほ か に ト リ と カ メ ( ス ッ ポ ン ) を 表 現 し た玉器がある。 トリ形玉器は赤峰市那斯台適跡 な ど で フ ク ロ ウ を 表 現 し た も の が 出 土 し , 牛河 梁 第 l 6 地 点 第 4 号 墓 で は 鳳 凰 を 表 現 し た と さ れ る も の が
,
被 葬 者 ( 男 性 ) の 頭 の 下 に ま る で 枕 の よ う に 置 か れ て い た ( F i g.5 -
3 ・ 4 : 朝 陽 市 文化局ほか2004)。しかし,シカを表現した玉器 は 存 在 し な い。
なぉ, 牛河梁遺跡女神廟の土坑 か ら は ク マ の 下 顎 骨 が 出 土 し て い る 。紅山文化期に続く小河沿文化期になると
,
そ れ ま で の イ ノ シ シ を 最 重 要 視 す る 伝 統 は,
考古 学 的 過 物 の 上 で は た ど れ な く な る が, 土 器 に シ カ を 彩 画 し た も の が あ る。
その後,西通河流域 では真代, 商 ( 殷 ) 代 に 相 応 す る 夏 家 店 下1
書1
l文 化期, 西周代と春秋時代に相応する夏家店上層文化期と推移したが
,
後者の青銅器にはオルド ス地域の青銅器の影響を受けた動物形を装飾し た例が数多く見られる。
遊牧生活と草原, それ を取り囲む森林植生環境が広がっていた北方ユ
ー ラ シ ア 束 西 の 文 化 交 流 を 物 語 る も の で あ る。5 ウ シ と ト リ
ウシの絵は
,
興隆窪文化期から夏家店下層文 化期の間では趙宝溝文化期小山適跡の尊形土器 に描かれた例が唯一
である。 興隆窪文化期から 夏家店下層文化期までの遺跡で, ウシの骨が出 土した例は少ない。
ウシの生息数が少なく,し たがって捕獲数も少なかったのであろう。
小山遺跡の尊形土器に描かれたトリの絵は
,
目が丸く
,
くちばしが長く,頸部が長い点に特 徴 が あ り,
お そ ら く 大 型 の ト リ と 推 定 さ れ る 。 頭 部の鶏冠状文様が何を示すかは不明だが, C字
形 文 様 と く ち ば し が 下 向 き に 湾 曲 し て い る の は,
他のC字形,S字形,旋回文様の影響であ ろ う。
トリを推定する上で, 趙宝溝遺跡から出 土 し て い る ハ ク チ ョ ウの骨は示唆的である。
純 白で大型,
渡 り 鳥 ( 春 夏 滞 在 ) で も あ り,
北方 を 代 表 す る ト リ だ か ら で あ る。したがって,
前 述した牛河梁のトリ形玉器も,
龍と同様の想像 上の動物である鳳風と断定せずに,
他の現存する 大 型 の ト リ の 中 で 考 え る 必 要 が あ ろ う
。
夏 家 店 上 層 文 化 期 ま で は ウ シ も ト リ も
,
絵 と して表現されたのは,
小山の尊形土器の例が唯ーである。 筆者は
,
これを簡単に例外と見るの で は な く,
先史西遼河流域の人びとの動物観や 動物祭祀を復原する上で積極的に評価した方が よ い と 考 え る。 つ ま り ,
ウ シ と 大 型 の ト リ が イ ノ シ シ や マーローな ど に 準 ず る 位 置 づ け を さ れて い た こ と を 暗 示 し て い る 可 能 性 が あ る か ら だ
。
だ か ら こ そ,
尊形土器という趙宝溝文化期 に特有で特殊な土器に描かれたのであろう。
6 ま と め
ウシの
絵画の
発見と環境変化趙宝溝文化期の小山遺跡出土の尊形土器に描 かれた動物絵画は
,
東・
北アジアの新石器時代 の事例としては希有な存在であり,
注目されて きた。しかも,
ここに従来誰にも気づかれなかっ た第4の動物, す な わ ち ウ シ が 隠 れ て い る こ と を筆者は発見したので,
今 回 開 陳 す る こ と にし た。
多くの研究者のご意見を承りたい。
尊形土 器の動物絵画は,
先史時代の西遼河流域の自然 環境が,
砂漢化の拡大が懸念されている現在と 大 き く 異 な り,
広葉樹と針葉樹からなる豐かな 森林,
そして河川や沼沢地が,
人びとが住む村 の周辺に 存 在 し た こ と を 示 し て い る 。 同 時 に 当 時の人びとの動物観などを示している。
北方狩猟採集民
の
動物観との
比較筆者は本学大学院文学研究科の榎森進教授の
「
13˜19世紀における列島北方地域とアムール 川流域文化との相互関連に関する研究」
(文部科 学省科学研究費補助金基盤研究B(2))の研究分 担 者 と し て, 2 0 0 2 年 以 降 サ ハ リ ン か ら 沿 海 州,
中国東北地方を調査する機会があった
。
そ こ で アムール川流域で生活する先住民のナナイやウ リチなどの動物観や動物祭祀, 狩猟について見 聞を広げた。 先住民のシャーマンの儀式用衣服 と一
般人のハレの衣服には,
多くの動物が見え 隠 れ し て い た。
それは想像上の動物・
龍を最高 位(中国側から後世受容)と考え, 他 に ク マ,
ト ラ,
ト リ, ヘ ビ ,
サ ケ な ど で あ る 。 クマは,
北 海 道 や サ ハ リ ン の ア イ ヌ と 同 様 に 森 の 恵 み ( 食第4の動物を探せ g
組) を象徴する動物であり
,
そこに宿る認魂を 戻してやるクマ祭も行つていた。
アムール川流 域で狩猟・
漁労・採集を生業とする近世・代の 先住民の動物観は,
新石器時代の西通河流域の 狩猟採集民と比較すると,
か な り 異 な っ て い る。
束北日本の縄文時代の土器に描かれたり
,
土 製品・骨 角 器 と し て 製 作 さ れ た 動 物 も,
決して 単一
で は な く , 中 期 の ト リ やヘビから, 後 期 の イ ノ シ シ や ク マへ,
さらに縄文晩期˜
続縄文時 代 ( 北 海 道 ) の ク マへ
と 変 化 し て い っ た ( 斎 野 編1999)。
このことは縄文人の動物観や動物祭 祀 も 変 化 し て い た こ と を 示 し て い る。
と く に 中 期から後期へ
の動物観の変化は大きい。
これは 温暖化の中で培われたクリ栽培やヤマイモ栽培 などに大きく依存する植物食重視の食組が,
気 候の冷涼化に伴つて動物食へ
の依存度を高めて い っ た こ と と 関 連 し よ う。
また,
本州では弥生 時代になると稲作農耕の広がりの中で,
イ ノ シシ
,
クマの造形は次第に姿を消す。
第
4の
動物へ の
反応と龍風筆者は小山遺跡の尊形土器の動物文の中にウ シの角の表現を発見して, 即座に興隆満遺跡の 日中共同研究を指揮する文化庁の岡田康博氏と 中国社会科学院考古研究所の劉国祥氏に電話を し
,
私見の是非を問うた。
岡田氏は私見を支持し,
劉氏ははじめ不明とし,4ヶ月後に北京で再 会した時に支持を表明した。
さて筆者は
,
紅山文化期の龍風の観念, つ ま
り猪龍形玉器や鳳團,
形 玉 器 と い う 名 称 に 疑 問 を 懐いてきた。それは小河沿文化期にも存続し, 黄 河 流 域 に も 受 容 さ れ た と い う こ と を 証 明 す る 考古学上の証拠がないからだ
。
先史時代の西遼河 流域の遺跡から出土する実存した動物骨との関 係で,
当時の人びとの動物観を冷静に検討すべ き で あ ろ う。
文 献 ( あ ˜ お 順 )
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