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離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織( 15 )

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離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織( 15 )

相馬 保夫

はじめに

1. ドイツ系住民の「追放」

1.1. 解放後のドイツ人の処遇

1.2. 「追放」の限界 2. ポツダムの決定とその後 2.1. 「人道的」移住

2.2. ヤークシュの方向転換

小 括

はじめに

1945年5月8日,ドイツは連合国に無条件降伏し,第二次世界大戦は欧州戦線では終結した。

ヤルタ会談での取決めに従い,ドイツは米英仏ソの連合国四ヶ国の占領下におかれた。「ドイ ツの軍国主義およびナチズムを撲滅し,ドイツ国が世界平和を二度とふたたび撹乱できないよ うに保証する」ため,ドイツの武装解除,軍事施設の撤去,軍事産業の排除,戦争犯罪人の処 罰,現物賠償,ナチスの党・法令・組織および施設の排除,ナチスと軍国主義の影響の除去な どが実行されることになった [日本国際問題研究所1963:220f.]。

それに先立ち,ソ連軍が解放したポーランドでは,共産党系の国民解放委員会(ルブリン委 員会)が暫定政府を名乗って,1944年7月22日の宣言 [Dokumentation, I-3, 1960: 3f.] に基づき,

オーデル-(西)ナイセ線までの解放された領土の実効支配にとりかかっていた。

ヤルタでは,ポーランドの国境について,東部では若干の修正を含むカーゾン線が承認され たものの,北部・西部では「相当な領域」を加えるという曖昧な文言にとどまっていた。しか し,ソ連の東部からの攻勢によって占領地域のドイツ系住民は自ら逃げるか,または後にポー ランド当局によって強制追放されることになり,連合国による決定の前にすでに既成事実が生 み出されつつあった。

英米の首脳がヤルタで力を入れた臨時政府問題では,内外の民主的指導者を加えて共産党系 の暫定政府を「ポーランド挙国一致政府」に改組し,その下で民主的な自由選挙を速やかに実 施することが定められた。だが,スターリンの妥協はここまでで,ポーランド亡命政府の関与 はさまざまな妨害に遭遇した。

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チェコスロヴァキアでは,ソ連軍のプラハ進攻によって5月初めに戦争が終わった。モスク ワを経由して帰国したベネシュ大統領は,自分たちに敵対したドイツ人,マジャール人を共和 国から追放し,チェコ人とスロヴァキア人の国家を「新たな基礎」の上に建設すると宣言した。

3月下旬,モスクワで政党指導者間の協議が行われ,新しい「国民戦線政府」の首相には共産 党に近い社会民主党のフィールリンゲルが就き,重要ポストを共産党の指導者が占めることに なった。4月5日に発表された新政府の「コシツェ綱領」は,赤軍との連携およびソ連との同 盟関係をうたい,スロヴァキアの独自性を認め,反ファシストを除くドイツ人・マジャール人 全員の国籍を剥奪し,財産を没収して国家管理下におくことを表明した。

ロンドンのズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織を率いるヤークシュは,チェコスロヴァ キア亡命政府によるズデーテン・ドイツ人大量移住計画を批判する姿勢を崩さなかった。6月 になると「400万人の元マイノリティ市民の無差別な財産没収と追放を実行する」という政府 の意図に反対するキャンペーンを始めた。イギリスとアメリカの政府は,ドイツ系住民の無差 別の大量追放には反対していたものの,他方では,共産党などの急進的勢力に対し,穏健なベ ネシュ大統領を支えるためにも「秩序正しく,人道的な」組織的移住を実施するという方針を 掲げざるをえなかった [相馬2014]。

本稿は,チェコスロヴァキア解放後のドイツ系住民に対する処遇がどのようにして行われた のかを辿り,ポツダム会談での連合国による組織的移住の決定およびその後のヤークシュの方 向転換について論じる。

1.ドイツ系住民の「追放」

ドイツ軍を東から追いつめるソ連赤軍の大攻勢によって激しい戦闘が繰り広げられたポーラ ンドでは,1945年初めから東プロイセン,ポメルン,シレジアなど各地のドイツ系住民に立 退き命令が出され,避難が開始された [Dokumentation, I-1, 1957: 9-59]。それに対し,チェコス ロヴァキアでは,ソ連軍による解放は,1944年秋に東部のカルパティア地方に始まり,スロ ヴァキアを経て,1945年4月以降にモラヴィアとボヘミアに到達した。ドイツ系住民の多く 住むボヘミア,モラヴィアでは,1945年初めまで工業地帯への散発的な空襲を除けば,戦争 の直接的な影響は免れていた。3月以降,モラヴィアやズデーテン地方東部から疎開と避難が 開始され,上シレジアへのソ連軍の急速な侵攻の後,一部の住民はパニック状態に陥った。だ が,アメリカ軍の占領したボヘミア西部まで逃げられた住民はごくわずかにすぎず,現地のド イツ系住民に加え,これらの疎開者やドイツ本国人などを合わせると,国全体で340万人から 350万人のドイツ系民間人が残っていたという [Dokumentation, IV-1, 1957: 19-26; Staněk 2002:

27f.]。

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解放されたチェコスロヴァキアでは,ソ連軍・アメリカ軍との協定に基づいてチェコスロヴァ キアの軍部隊や国民委員会が各地の行政を掌握し,ドイツ軍の残党を掃討するとともに,治安 の回復とドイツ系住民の取締りに当たった。その過程で,復讐心にかられたチェコ人によって ドイツ人の逮捕・抑留と即決裁判が行われ,収容所に集められたドイツ人には強制労働が課さ れた。ドイツ人の家や財産は没収され国家管理の下におかれた。その過程で十分な調査のない ままドイツ人への暴行や処刑が実行され,国境地域では女性・子供・老人を含む住民の強制追 放が行われた。

1.1.解放後のドイツ人の処遇

プラハに帰ったベネシュ大統領は,1945年5月16日に旧市街広場で演説し,「われわれの 新たな政治生活の建設とわれわれの故郷の新たな設立」が重要であると述べた。政党は再結成 され,その数は減らされる。チェコ人とスロヴァキア人の関係は新たに築かれ,チェコ諸邦の ドイツ人,スロヴァキアのハンガリー人は清算される。「われわれのスローガンは,われわれ,

われわれの国を文化的,経済的,政治的に最終的に脱ゲルマン化することでなければならない」

[Odsun 2010: 539f.]。

一方,チェコスロヴァキア共産党はその3日前にチェコ国民に向けて激烈な呼びかけを発し ていた [Habel 2003: 515f.]。

公然か秘密裡かを問わず,スパイから解放地域の安全を守ることを保証せよ。どの地域 にも国民護衛隊を設立せよ。この部隊は,中央の治安機関と協力して人と財産の秩序およ び安全を監視すべきである。ミュンヒェン協定締結の後にわれわれのところに占領者とし てやって来たドイツ人全員を即座に逮捕せよ。ヘンラインとフランクを積極的に支持し,

わが国民に対する絶滅作戦に参加した「土着の」ドイツ人に対しても同様に処置せよ。逮 捕したドイツ人のために労働収容所を設立し,彼ら自身が破壊したものの再建のために労 働することを強制せよ。

ドイツ人に対する厳しい処遇は,3月のモスクワでの協議の成果として発表された「コシツェ 綱領」にも記され,チェコスロヴァキアの新しい政府の基本方針になっていた。その第8項に はこうある [Dokumentation, IV-1, 1957: 192f.]。

チェコ人とスロヴァキア人がドイツ人・ハンガリー人のマイノリティ――彼らは,大部 分は外部から共和国に対して行われた侵略政策の言いなりの道具となり,彼らの内とくに

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チェコスロヴァキアのドイツ人は,まさしくチェコ人・スロヴァキア人に対する絶滅戦の ために力を貸した――とともにした恐るべき経験から,再建されるチェコスロヴァキアは,

徹底的かつ永続的な介入を余儀なくされている。共和国は,忠実なドイツ人・ハンガリー 人市民,とくにもっとも困難な時代に共和国に対する忠誠を保持した者を追及するつもり はないが,罪のある者には厳しく容赦なく取り扱うだろう。それは,われわれ諸民族の良 心,われわれの無数の殉教者たちへの神聖な追憶,将来の世代の平穏と安全が要求すると ころのものだ。政府はこのため,以下の規定に従うであろう。

1938年のミュンヒェン [協定] 以前にチェコスロヴァキア国籍を有した,ドイツ民族・

ハンガリー民族のチェコスロヴァキア市民は,次のような場合に国籍が確認され,必要な らば共和国への復帰が保証される。すなわち,彼らが反ナチ・反ファシストであり,ミュ ンヒェン以前にすでにヘンライン,ハンガリーの分離主義政党に反対し,チェコスロヴァ キアを支持する活動的な闘いを行い,ミュンヒェン以降および3月15日以降,当時の政 権に反対し,チェコスロヴァキアへの忠誠を示す抵抗と闘いのためにドイツとハンガリー の国家権力によって追及され,監獄や強制収容所に拘留されたか,またはドイツやハンガ リーのテロが起こる前に外国に逃亡せざるをえず,そこで積極的にチェコスロヴァキアの 再建のための闘いに参加した場合である。

その他のドイツ民族・ハンガリー民族のチェコスロヴァキア市民については,チェコス ロヴァキア国籍が剥奪される。これらの市民は再度,チェコスロヴァキアを選択すること ができるが,その際には,共和国の官庁が申請についての個別の決定権を留保する。共和 国およびチェコ民族・スロヴァキア民族に対する罪を犯した廉で裁判にかけられ,有罪判 決を受けたドイツ人,ハンガリー人は,チェコスロヴァキア国籍の喪失が宣告され,死刑 判決を受けていない限り,永久に共和国から追放される。

1938年のミュンヒェン [協定] 以降にチェコスロヴァキア領に移住したドイツ人とハン ガリー人は,刑事訴訟手続き中でない限り,即座に共和国から追放される。チェコスロヴァ キアのために活動した者は例外である。

このように,綱領は,積極的にチェコスロヴァキアのために活動した「反ナチ・反ファシスト」

を除き,ドイツ人,ハンガリー人の国籍を剥奪するとした上で,すべての戦争犯罪者と裏切者,

ドイツ・ハンガリー当局への協力者を裁判にかけて処罰し,彼らの土地・財産・企業を没収し て国家管理下におくこと,さらにチェコとスロヴァキアの諸都市にあるドイツ人学校,ハンガ リー人学校,ドイツ人大学を閉鎖することを要求していた。

1945年5月,ソ連軍によって解放された地域では,ソ連と亡命政府の間で結ばれた条約に

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基づき,チェコスロヴァキア政府が行政権を引き継いだ。現地でその任に当たったのは,地 方,郡,市町村で抵抗運動を担った諸政党によって設立された国民委員会(または行政委員会)

だった。この組織は,1944年2月にすでにベネシュによって設立を呼びかけられていたもので,

全政治党派の地下組織代表から構成され,抵抗運動を調整し,国民蜂起の細胞を形成すること が予定されていた。ドイツ敗北後は行政を引き継ぎ,ドイツ人とチェコ人の協力者に対する措 置の執行機関となるはずだった。この組織では,地下活動で有力だった共産党と右翼急進派の グループが大きな影響力をもったという。ドイツ人は「国家的に信用できない住民」として行 政への責任ある参加から排除された [Dokumentation, IV-1, 1957: 28f., 49f., 68; Wiedemann 2007:

49f.]。

国民委員会の果たすべき役割は,5月16日にブルノの地方国民委員会が採択した,モラヴィ アのすべてのドイツ人市町村・郡の国民委員会にあてた提案から窺い知ることができる [Odsun 2010: 540f.]。

1. 即座にドイツ人と民族的裏切者の全員を逮捕し,彼らのために強制収容施設を設立し,

彼らを道路補修や戦争で生じたがれきの撤去のような必要な労働に活用する。

2. ドイツ人,必要ならば民族的裏切者の全財産を確保し,委託者を決め,この財産が盗ま れないように注意する。この目的のため,必要な歩哨が立てられる。国民財産が問題だ からだ。

3. 今までドイツ人のものであったすべての土地を確保し,この土地がそれにふさわしく耕 されるようにする。この目的のため,現にあり使える手段はすべて投入される。すべて の抑留されたドイツ人,必要ならばこれまで雇われたことがない者も投入される。

国民委員会による行政の引継ぎは,チェコスロヴァキアの国境地域では,5月中旬に始まる ドイツ人地域の「掃討行動」の枠内で行われた。これには,さまざまな革命軍部隊,治安部 隊,軍部隊が参加し,親衛隊や「人狼部隊(Werwolf)」などナチの残党による抵抗を平定し,

治安を回復させることを目的とした。しかし,この過程で現地の事情に疎い外部からの部隊や この機に便乗したグループなどが介入し,混乱状態の中でドイツ人の抵抗を予想して暴力的な 報復行為を行った。ナチスや保護領時代の当局者・協力者など現に罪のあるとされた人物だけ でなく,武器をもつなど抵抗の疑いがある人物や,場合によってはその家族までもが,殴り殺 されたり,「人民裁判所」により即決裁判で処刑されたりすることがあった。7月31日にウー スティー・ナド・ラベムで起こった火薬庫爆発の際のように,たまたま起きた事故がドイツ人 の破壊活動の結果とされ,ドイツ系住民への襲撃に発展するケースもあった(「アウシヒの虐

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殺」)1)

6月半ばにプラハの地方警察司令部から派遣されたある少佐は,「国境地域に派遣された革 命軍部隊は,軍事的訓練が不十分かまったく欠けており,とりわけ自制心が欠けていたため,

一方では,任された任務を遂行する上での信頼性に関して,他方では,とくに経済的行動や国 民財産の扱いに関して正しく行動できなかった」という報告を提出している。

解放直後,ドイツ人に対する家宅捜索,強制収容施設への集結と強制労働が行われた2)。ド イツ人はそれと分かる腕章(チェコ語でドイツ人を表す頭文字「N」と表記)をつけさせられ,

かつてのユダヤ人と同じように食糧配給を減らされ,厳しい行動規制が課された。国境地域で は,ドイツ人の暴力的な国外追放も起こった。軍司令官のノヴァーク将軍は,国境近接地域の 占領命令に「すべてのドイツ人を国境地域から追放せよ!」と付け加えた。国民防衛省は,国 境地域を確保し,その地域から「チェコスロヴァキアに敵対的な分子」を掃討することを5月 22日に公式に命じた。老若男女を問わず地域毎に集められたドイツ系住民の集団は,許され たわずかな手荷物と所持金だけをもち,多くは徒歩で国境の方角に追放された。5月末,ブル ノからオーストリア領への2万人ものドイツ人の「追放」は,地域における食料不足と党派 間の争いの中で,責任の所在がはっきりしないまま各部署からそれぞれ命令が出され,行動 がエスカレートした結果であった(「ブリュン死の行進」)3)[Dokumentation, IV-1, 1957: 67-94;

Staněk 2002: 29ff., 115-121, 169-176]。

1.2.「追放」の限界

チェコスロヴァキア国境地域におけるドイツ系住民の「追放」は,多くの場所で強制的に暴 力さえ伴って実施された。しかし,ドイツ側の受入体制は不十分であり,とくにそれぞれの占 領地帯を担当する連合国の意向に左右され,全体としては遅々として進まなかった。共産党系 が影響力をもつチェコスロヴァキア政府は,ドイツ系住民の受入れについてソ連当局の理解を 得ていたものの,それでもボヘミア北部と隣接するザクセンなどのソ連占領地帯にポツダム会 談までに追放されたドイツ系住民の数は約45万人にとどまった。また,ボヘミア西部のアメ リカ軍占領地帯では,行政はチェコ人の手に委ねられたが,アメリカ軍将兵がドイツ系住民に 対するチェコ人の「非人道的な」やり方に批判的な姿勢をとった。実際,この地域では暴力的 な追放は一時阻止されることにもなった [Brandes 2005: 414-416]。イギリスやアメリカの理解 も得て,大規模な組織的な移住を促すことが政府の焦眉の課題となった。

6月1日,ベネシュは,スロヴァキア国民評議会代表との会談で,スロヴァキアにおける住 民交換に関連してドイツ系住民の立退き問題に触れた [Odsun 2010: 564]。

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・・・われわれは,ドイツ系住民の立退きが当面は技術的な問題に突き当たっているこ とを忘れてはならない。プルゼニの周辺には7万人のドイツ人が集められている。イギリ ス占領地帯には,われわれの同国人が約13万5,000人,ロシア人が約20万人,ポーラン ド人が100万人,イタリア人70万人,フランス人がおよそ150万人いる。当然ながら真っ 先に実行しなければならないのは,この恐るべき数の住民移動である。われわれの非スラ ヴ系民族の立退きはその後にようやくできるようになる。この問題をわれわれは政治的・

外交的に解決しなければならない。われわれはもちろん,そうした約束をすでにロシアか ら得ている。私自身は,この問題を1年以内,最大限1年半以内に解決しようと望んでい る。私は最近,アメリカ代表との話合いで,もしこの問題が近いうちに解決されないなら,

国民を抑制することができなくなり,大量虐殺を覚悟しなければならなくなると指摘した。

しかし,協定に達することができれば,われわれは,立退きが外国に納得できるような人 道的なやり方で実施されることを保証する。・・・

そうこうする内に,イギリスの新聞では,6月に入るとズデーテン・ドイツ人の「追放」に ついて報じる記事が相次ぎ,チェコスロヴァキア側もこれに対応することを余儀なくされた。

6月2日,『ニューズ・クロニクル』紙には,「チェコ軍がズデーテン・ドイツ人を追い出す」

という記事が載り,それが「重大な国民的攻勢」であるという情報相の言葉が引用された。『サ ンデー・オブザーヴァ―』紙では,彼らの追放は「連合国が無視することができるものではない」

と論じられた。「さらに200万から300万人の何も持たぬ人たちがすでに至る所で見られる数 百万人に加わる」ことになれば,それは実に深刻で,「連合国すべてに関係する」ことになる。

「ズデーテン・ドイツ人のこの追放は,全般的な苦境の中でナチ犯罪者を無実な者とともに逃 亡させることになろう。それはまた,ナチズムが敗北した今,ナチズムの人種差別の精神をこ の事情によってはほとんど正当化されないやり方で再興させることにもなろう」。このように ドイツ系住民の「追放」を非難した上で,同紙は,「ズデーテンの社会主義者と民主主義者が 苦杯をなめることはまだ終わっていない」とランシマン報告以来の彼らの境遇にも思いをはせ た [Odsun 2010: 566f., 595f.]。

こうした報道に,チェコスロヴァキア政府は苛立ちを隠せず,ロイター報道による「反チェ コ的記事」にはきわめて強硬に抗議するまでになった。その背景にズデーテン・ドイツ社会民 主党亡命組織のヤークシュが関わっているかもしれないという憶測から,イギリスの批判的な 報道はいっそう腹立たしく感じとられた [Frank 2008: 105-108]。

ベネシュは,6月15日,プルゼニでの演説で英米・ソ連と取決めを行う必要性を強調し,「わ れわれが連合国とこの件のあらゆる問題で意見が一致するようになるまで,理性的で慎重な行

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動をとるよう勧め」た。同じ日に行われた政府の閣議では,軍に対する暫定方針として,ドイ ツ系住民の移住は「現実的な可能性がある」ところでだけ実施する,重要な農工業の経営が妨 げられないように配慮する,軍部隊は各レヴェルの国民委員会や国民治安部隊と合意の上で行 動する,などを定めた。「罪を負ったドイツ人」,とりわけゲシュタポ,親衛隊,突撃隊の構成 員,ズデーテン・ドイツ党の活動的な党員はすぐに逮捕されるべきであるが,「共和国に忠実 にとどまり,積極的に共和国解放闘争に参加したか,またはナチスとファシストのテロに苦し んだドイツ人市民は,尊重されるべきである」。このように述べた後で,政府は内相に「移住 実施のための最終方針の案」を作成するよう委任した [Odsun 2010: 606-608]。

ここに見られる政府の慎重な姿勢は,イギリス,アメリカと合意する必要からも生まれてい た。ベネシュに好意的なイギリス大使ニコルズは,6月25日,チェコスロヴァキアでのドイ ツ系住民の処遇について,チャーチル首相にこう訴えて理解を求めた。

ずっと昔の歴史は別としても,ドイツ人に対するチェコ人の憎悪――第一に,ミュン ヒェン協定がチェコ人の国民的な誇りと願望に与えた莫大な打撃を理由にした憎悪,第二 に,チェコ人がそれに続いて受けた難儀と苦しみを理由にした憎悪(テロは別として,肉 体的・物質的というよりは道義的・精神的なものだった)――が本当であると信じるには,

実際に経験していなければならない。[...] この国のドイツ人支配者は,実際,理解するこ とが困難なほど残忍で,専制的で,サディスティックで狂っていることを自ら示した。ド イツの強制収容所やその他の占領地域の状況について現在報じられている話は,チェコス ロヴァキアにされた取扱いが例外ではなかったことを示している。ドイツ人の憎悪は実際,

ほとんど病的だった。・・・

しかし,その一方でニコルズは,それから1ヶ月後,ベネシュに対する個人的な話合いの席 では,「チェコ人がドイツ人の行動を真似するなら」,イギリス世論は追放計画に理解を示さな いだろうと警告した [Brandes 2005: 417f., 452]。ベネシュら穏健派とされる勢力を支えるため にも,連合国の合意が必要とされた。

しかし,「追放」の限界はそれだけではなかった。本来は刑事訴追の対象となるナチ党と その関連組織の役員,ゲシュタポや親衛隊の隊員までも一斉に追放されるケースがあった

[Staněk 2002: 41f.]。他方,ベネシュ大統領が亡命中から繰り返し,チェコスロヴァキア「国民

戦線政府」が約束した,「反ファシスト」の除外という原則の実施も状況の力で危ぶまれるよ うになっていた。

5月31日,ズデーテン・ドイツ人共産主義者ブルーノ・ケーラー(Bruno Köhler)の名で

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発表された呼びかけは,ドイツ人共産主義者に各地で結成された国民委員会に加わり,チェコ 人の同志を助けることを要請した。しかし,それとともに,党としてドイツ人党員の資格の確 認を行い,ドイツ人の新たな加入を停止することが明記されていた4)

ボヘミア北部ジェチーン地域で活動するノイマン(X. Neumann)なる人物は,7月15日,

ズデーテン・ドイツ人の共産主義者・反ファシストを代表してプラハの党執行部員ケーラーに 苦情を訴えた。彼が言うには,2週間前から彼の地域では,「1933年のドイツにあったような 状態」が支配しており,党に忠誠を誓った者が他のドイツ人と同様にチェコ人の威嚇と暴力を 受けている。ポツダム会談までの一時中止というベネシュの約束を破って,ドイツ人党員の追 放さえ行われた。こうなった以上,自分たちで国を出ていく行動を組織化し,共産主義者とし てドイツの党に移るしかないと [Odsun 2010: 557-559, 666f.]。

この他,ボヘミアとモラヴィアでわずかに生き残っていたユダヤ系住民の内,かつて「ドイ ツ人」であると表明した者は,「ドイツ人」として取り扱われ,迫害され,財産返還の請求に 応じてもらえなかった [Dokumentation, IV-1, 1957: 100-104; Wiedemann 2007: 298-310]。

2.ポツダムの決定とその後

1945年夏,チェコスロヴァキアから強制的にドイツ系住民の「追放」を実行するという課 題が行き詰る中,焦点は,窮乏化した戦後ドイツを占領する連合国がはたしてポーランドやチェ コスロヴァキアからの大量の移住を受け入れるかどうかにかかっていた。早くからベネシュ大 統領は,ヒトラーの侵略を先導し,共謀したとされるドイツ系住民の大部分をチェコスロヴァ キアから移住させるという方針を明らかにしていた。だが,連合国にとって最大の問題だった のはむしろ,住民移住の規模に関わるポーランドの国境問題であった。すなわち,カーゾン線 以東の領土をソ連に引き渡す見返りに,北部と西部でどれだけのドイツ領をポーランドに割譲 するかが問われていたのである。その際にもっとも議論が白熱したのは,オーデル-(西)ナ イセ線をポーランドの西部国境とするというソ連の提案であった。というのも,英首相チャー チルがヤルタ会談で述べたように,ドイツ人が多く住むこの地域をポーランドに譲り,「ポー ランドのガチョウをドイツ人の食べ物で腹いっぱいにさせ,消化不良で死なせる」ことも,か といってそれほど多くのドイツ人を縮小した戦後のドイツに受け入れることも難しかったから である。問題は,1937年国境を元にしたドイツ占領という連合国の戦後対独政策の根幹にも 関わっていた。

しかし,ポーランド問題でもっとも難航した1945年初めのヤルタ会談で,英米の首脳が国 境問題にもまして重視したのは,戦後ポーランドにおける民主的政権の樹立という課題であっ た。ソ連の意図を体現する共産党系のルブリン暫定政権が赤軍の進撃とともに現地行政を引き

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継いでいくにつれて,ミコワイチクのロンドン亡命政府を支持してきたイギリスやアメリカの 焦燥感は強まった。ポーランドに共産政権が樹立されないうちに,亡命政府側の指導者を加え て民主的な政権を成立させ,自由選挙を実施させるというのが,英米側の意図だった。たしか にポーランド暫定政府を改組して「ポーランド挙国一致臨時政府」とすることが,ヤルタで合

意された [相馬2014]。しかし,その後の交渉は,ソ連とルブリン政府の妨害に出合い,難航

した。

ここでは,以上のような経緯を背景として議論されたドイツ系住民移住問題をポツダム会談 による決定まで検討するとともに,その後のヤークシュの方向転換について考察する。

2.1.「人道的」移住

1945年7月3日,チェコスロヴァキア外務次官クレメンティスは,英米ソの連合国にあて て覚書を送り,前年秋の亡命政府による「ドイツ人マイノリティ問題」覚書をめぐるやり取り を想起させた。連合国が望むとおり,「チェコスロヴァキア政府は,[200万人から250万人の ドイツ人,約40万人のハンガリー人の] 移住を計画的に,組織された形で実施することが不 可欠だと確信し」,「移住の計画とふさわしい組織」を準備している。「チェコ人とスロヴァキ ア人の国民は一致して,・・・ドイツ人・ハンガリー人の移住をチェコスロヴァキア国家の将 来と中欧の平和の保持に不可欠な前提であるとみなしている」。このように述べて,クレメン ティスは,来る三大国首脳会談でこの問題が合意され決定されることを期待した [FRUS, 1945, II: 1261f.]。

ズデーテン・ドイツ人の移住問題は,アメリカ政府部内でも検討され,チェコスロヴァキア と連合国との間であらかじめ取決めを結ぶことが望ましいと考えられていた [FRUS, 1945, II:

1254-1257]。しかし,来る三国会談に向けて問題を取り上げる主導権をとったのは,イギリス

だった。イギリス外務省は,7月9日の覚書で,アメリカ代表団が会談でこの問題を提起しな いなら,「問題はきわめて緊急なので,・・・われわれがそうすることがおそらく望ましい。三 国の中では,われわれの占領地帯がポーランド国境,チェコスロヴァキア国境からもっとも遠 く離れているから,われわれがもっとも直接に関係していないのだが」と記した。

イギリス外務省復興課は,7月11日付の覚書で,国連組織の創設に関わるマイノリティ保 護との関連でドイツ系住民の移住問題について検討した [Odsun 2010: 657-662]。

イギリス政府は,チェコスロヴァキア政府,ポーランド政府に,それが必要か望ましい と思われる中欧・南東欧におけるドイツ人マイノリティのドイツへの移住に賛成であるこ とを表明している。自国の領土に関する限り,これら二つの政府が,同質的な国民国家へ

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の強い希望とともに,一般的に移住政策を歓迎することは確実である。しかしながら,ド イツ人全員がドイツ領から,例えばポーランドに割譲された地域から追放されることは想 定できない。この点で採用される政策は,アメリカ世論の反応,ポーランド当局の労働力 の必要性,それほど大きな人口増加を受け入れることに対するドイツの連合国当局の気乗 り薄といった要因によって影響を受けるかもしれないからだ。それにもかかわらず,移住 政策が原則的に決定され,ドイツ人マイノリティ問題がこのやり方で大部分は処理される ことはありそうに思われる。何らかの理由で移住させられないドイツ人種の者(例えば,

ドイツ人種だが,ポーランド国籍やチェコスロヴァキア国籍などを有しているために)が 特別な国際保護システムの対象とされるなら,この政策の目的を明らかに損ない,実行を はるかに難しくするだろう。いずれにせよ,ソ連政府が,その領土にドイツ人マイノリティ が残る国々とともに,そうしたシステムの導入に強く反対するであろう。したがって,こ のシステムの導入は,ドイツ人マイノリティに関する限り,考慮に入れる必要はない。[...]

こうして国際保護システムの導入の可能性を否定した上で,イギリスは,ポツダム会談に向 けて,三大国は,中欧・南東欧からのドイツ人の移住を「基本的に望ましい」と声明すべきだ が,監視と監督によって移住が「できる限り秩序正しく人道的なやり方で実行される」ことが 確保されるべきである,と考えていた [Brandes 2005: 444-446]。

一方,アメリカは,会談に先立ち,「マイノリティ問題に関するチェコスロヴァキア政府の 関心に共感する」ものの,「ドイツの秩序維持と軍事的安全に責任を有する諸国と満足ゆく取 決めが達成されるまでは,これらマイノリティを移住させるどんな一方的な行動にも反対する」

ことを方針とした。ポーランドに関しては「その主要な目標として,ポーランド人民が自分た ち自身の選択した真に民主的な政府を確立すること」を挙げ,同時に「われわれは,われわれ の援助が求められる限り,マイノリティ・グループの移住を手伝うべきであるが,現在西側に いるポーランド人の強制的な再帰国や,一方的なポーランドの行動による,ソ連に援助された ポーランド政府が要求する地域に以前住んでいた800万人から1,000万人のドイツ人の移送を 許すべきではない」とした。さらに英米間の話合いでも,連合国四ヶ国が認めるドイツ領だけ をポーランド領にする,さもなければドイツからのロシアの賠償取り分をそれに応じて減額す ることが提案された [FRUS, Berlin, I: 643f.,714-716, 777-781]。

しかし,オーデル-(西)ナイセ線までのポーランド西部国境というソ連とルブリン政府の 主張は,赤軍による解放後にこの地域がポーランド行政下におかれたことで,会談の前にすで に既成事実が生み出されつつあった [Brandes 2005: 434-438]。6月29日に改組され成立したポー ランド挙国一致政府は,道義的な理由や人口学的な必要などを挙げ,歴史的な根拠に基づいて

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「国民国家として古くからのピアスト朝の政治的伝統を継続させる」と主張する「ポーランド 西部国境問題」に関する長大な覚書を7月10日に在ソ・アメリカ大使ハリマンに提出してい た [FRUS, Berlin, I: 757-777]。

7月17日にベルリン近郊のポツダムで始まった三大国首脳会談では,講和交渉と領土問題 解決の手続き,政治問題でのドイツ管理理事会の権限,そしてポーランド問題が主要な議題と なった。英米とソ連との関係は,ヤルタ会談以降,ポーランド挙国一致政府のための話合いに 招かれたポーランド地下運動の軍人・政治家15名が行方不明となり,その後で裁判にかけら れるという事件によって悪化していた。5月4日,チャーチルは,サンフランシスコ会議に出 席していた外相イーデンに,このままいくと「ポーランドは多数の国家とともにロシア支配下 のヨーロッパという広大な地域に沈んでしまい,必ずしも経済的にソビエト化されずとも,そ の警察支配下におかれるだろう」という沈鬱な予想を書き送っていた [チャーチル4,1984: 383-392; Polonsky 1976:270f.; Hastings 2010: 567] 5)

そういうわけでポーランド問題をめぐる議論はのっけから対立の様相を呈し,ヤルタでの議 論が蒸し返された。7月21日の総会では,「西部国境が画定するまでいくつかの地域ではポー ランド行政が樹立されるべきではない」という英米側の立場に対し,スターリンは,「ドイツ 人住民はドイツ軍について西方に逃げたから,ポーランド人しか残っていない」と反論した。

まだ250万人は残っているはずだとチャーチルは述べ,オーデル-(西)ナイセ線までの割譲 はドイツの食料供給に支障を来すとみなした。トルーマン大統領は,占領地帯の確定は済ん でおり,この地域の割譲は賠償の配分をひどく困難にすると指摘した[FRUS, Berlin, II: 88-98, 203-221 ; DBPO I/1, 1984: 505-512; Fischer 1985: 259-268; Brandes 2005: 447-449]。

7月24日に外相会談に招かれたビエルート,ミコワイチクらポーランド代表団は,オーデ ル-(西)ナイセ線までの西部の割譲によってこの地域におけるドイツの経済的・軍事的な基 礎が破壊され,「ポーランドは,平和に貢献する民族的マイノリティのいない領域となる」と 強く主張した。国境問題をめぐる堂々巡りの議論はその後も続いたが,イギリス総選挙での一 時中断の後,敗北したチャーチルに代わって会談に加わった労働党の首相アトリーと外相ベ ヴァンは,この問題ではより妥協的だったように見える。賠償問題でソ連側が譲歩したことも あり,会談は結局,7月31日,最終決定は講和会議に持ち越し,それまでの間,オーデル-(西)

ナイセ線までの領域を新生ポーランドが管理することを決定した [FRUS, Berlin, II: 332-335, 518-520; DBPO I/1, 1984: 1065-1068, 1078-1080; Fischer 1985: 347f.; Tyrell, 1987: 427f.; Brandes 2005: 449-458]。

一方,ドイツ系住民の移住問題は同じ日に議論されたが,ポーランド西部国境の問題に片が ついた以上,こちらはさほど大きな対立になりようがなかった。スターリンは,現地でポーラ

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ンド,チェコスロヴァキア,ハンガリーの政府がとっている立場からして「ドイツ人が残る ことは不可能だ」と述べて,案文が採択されても実施されないことを恐れた。アメリカ国務 長官バーンズは,「これらの政府には,協力し,秩序あるやり方でこの問題を解決するよう要 請されるべきだ」と改めて英米側の姿勢を強調した。会議で採択され,ポツダム議定書第12 項として発表された覚書は以下のような文面であった [FRUS, Berlin, II: 523f.; DBPO I/1, 1984:

1085-1087; Fischer 1985: 354f.; Brandes 2005: 458-460]。

三国政府は,問題をあらゆる側面から検討し,ポーランド,チェコスロヴァキア,ハン ガリーに残っているドイツ系住民もしくはその構成分子のドイツへの移住に着手されねば ならないと認める。三国政府は,行われる移住が秩序正しく人道的なやり方で実行される べきであることに合意する。大勢のドイツ人のドイツへの流入は,すでに占領諸国にかかっ ている負担を増大させるだろうから,三国政府は,連合国ドイツ管理理事会がまず,占領 地帯間でこれらのドイツ人を公平に分配するという問題にとくに配慮して,この問題を検 討すべきであるとみなす。三国政府は,このため,管理理事会のそれぞれの代表に,そう した人たちがすでにポーランド,チェコスロヴァキア,ハンガリーからドイツにどのくら い入ってきたかをできるだけ早く本国政府に知らせ,ドイツの現在の状況に顧みて今後の 移住がいつ,どれだけの速さで行われることが可能かの見積もりを送るよう指示している。

そして,チェコスロヴァキアとポーランドの政府,ハンガリーの管理理事会は,「関係する 政府が管理理事会でのその代表の報告を検討するまで今後の追放を中止する」という暫定的な 移送の中止を要請された。

2.2.ヤークシュの方向転換

ポツダムでの決定を伝えられたポーランド政府は,8月2日付の覚書で追放の延期を了承し たが,同時に政府の基本的な姿勢を示す留保を表明した [FRUS, 1945, II:1266]。

1. 帰国した多くのドイツ人は追放されたのではなく,ロシア軍がポーランド西部まで前進 した時,自発的に去った。

2. ポーランド政府は,現在ドイツに生じている混乱からそれに拍車をかけないことが必要 であると認識している。

3. しかし,ポーランド政府は,シュテティーン,オペルン,シレジアでただちに再建を行 うことを望んでおり,必然的にこの地域からのドイツ人の追放を進めるであろう。

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カーゾン線以東の領土をソ連に割譲し,住民交換を強いられたポーランドでは,東部の住民 を早急に西部に入植させ,生活を再建させるという緊急の課題があった [Dokumentation, I-1, 1957: 105-123; Brandes 2005: 434; Davies 2011: 219-221]。このため,ポーランドの旧ドイツ領か らのドイツ人の追放はその後も続いた。8月半ばまでにソ連側の占領地帯には,東プロイセン,

ポメルン,シレジアから450万人,チェコスロヴァキアから70万人のドイツ系住民がすでに 到着していたという [FRUS, 1945, II:1271-1273]。

チェコスロヴァキア政府は,自国からのドイツ系住民の移住に関するポツダムの決定によっ て連合国が「中欧に平和を保証する方向への重要な一歩」を踏み出したと評価し,この決定を「感 謝して受け取った」。その上で,ポツダムの取決めを任されたドイツの連合国管理理事会が移 住にすぐに取りかかり,1年以内という「可能な最短期間」に終わらせることを期待した。し かし同時に,外務次官クレメンティスは,ポツダムの決定が,チェコスロヴァキアのハンガリー 系住民をハンガリーのチェコスロヴァキア系住民と交換するという政府の要請に応えなかった ことに不満をもらした [FRUS, 1945, II:1269-1271]。連合国の交渉では,チェコスロヴァキアの 問題よりも,とりわけポーランド西部からのドイツ系住民の大量移住が中心的な争点になった ため,この件は会談の議題に上りさえしなかった6)

一方,ポツダムの決定を知ったヤークシュは,9月15日,「チェコスロヴァキアにおけるマ イノリティ政策-絶滅」と題する覚書を記し,「マイノリティの無差別追放」に強く抗議した7)

われわれは,チェコスロヴァキアのマイノリティの無差別追放の結果を最小限にしよう というチェコスロヴァキアの公式の宣伝と,独立した目撃者によって提供された悲惨な結 果の証拠が増大していることとの間の目に余る矛盾に注意を払うことをわれわれの義務と 感じている。この証拠が示していることは,320万人のズデーテン・ドイツ人と70万人 のハンガリー人に対するチェコスロヴァキア政府の態度は,もはやたんに住民移住の政策 と表現することはできず,すぐに止められなければ,大量虐殺の結果となるに違いない公 然たる戦争であることだ。チェコの公式筋が,矛盾する発表で,被追放者の人数をある時 は20万人,それから6万人,そしてまた20万人と述べる時,われわれは,これらの数字 が生きている追放の犠牲者というよりも死んだ犠牲者を示しているのではと恐れる。・・・

ヤークシュによれば,とりわけ「暴力とテロという恐ろしい行為」がズデーテン地方のさま ざまな地方で起こっており,チェコスロヴァキア政府の移送「正常化」の発表は誤りである。

政府は,「外国用に以前公表した反ファシストと証明された者の免除」を放棄し,「ポツダム宣 言の停止要請」を無視して「追放」を続けている。彼はこう告発し,「非ナチ住民への民主的

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権利の回復」を訴えた。

ヤークシュは,6月の段階で自分たちの反追放キャンペーンがイギリスの新聞に反響を呼ん でいることをスウェーデンの同志であるエルンスト・パウルに自慢していた。だが,党の将来 の見通しについては,戦後「われわれには慈善事業を行うことしか残ら」ず,「その後,われ われは,母党の国で永続的な避難生活をめざさなければならない」といたって弱気であった。

ドイツに移住し,そこで再出発する方向への転換が必要であった [Frank 2008: 103-106; Martin 1996: 41]。

チェコスロヴァキアのドイツ人「反ファシスト」,ナチ支配に抵抗したか,あるいはそのた めに投獄された共産党員や社会民主党員たちは,戦争終結後,各地に「反ファシスト委員会」

を設立し,積極的に解放後のチェコスロヴァキア当局に協力していた。また,それぞれの地区 では,旧党以来の党員間の結びつきを回復しようとする社会民主党員も存在した。ダッハウ強 制収容所から解放されたアロイス・ウルマン(Alois Ullmann),ロンドン亡命から帰国したブ リューゲル(Joahnn Wolfgang Brügel)らドイツ人社会民主主義者は,ヤークシュらのグルー プが故郷に帰れない内に,チェコ人の党から支持を獲得し,旧党を再建するとともに,「反ファ シスト」としての市民権の承認を得ようと奮闘していた。ヤークシュと敵対するツィナーやレ ンクも帰国して,反ヤークシュの宣伝活動を展開した。しかし, 7月以降,チェコスロヴァキ アからのドイツ人「追放」の進展とともに,彼らの「反ファシスト」としての活動はしだいに 困難になった。

10月9日,ドイツ人社会民主党の代議員会がプラハのチェコ人社会民主党本部で開催された。

会議は,ヤークシュと彼の亡命組織の政策に訣別するとともに,自由な精神的発展の可能性が ない「われわれの共通の祖国を離れ,新しい民主的ドイツの建設に参加する」ことを決議した。

というのも,「ドイツ人反ファシストの全問題は,チェコ人プロレタリアートの同時的な課題 という観点からは,前面に出すにはちっぽけなことにすぎない」からだった。

ヤークシュにとっては,これは故郷の党員からの支持を失いかねないきわめて憂慮すべき事 態であった。だが,ウルマンらが組織した移住行動と並行して,亡命組織スウェーデン支部の エルンスト・パウルらは,スウェーデンの政府と社会民主党の協力を得た上で,故郷の党員た ちをドイツの西側占領地帯に脱出させるための人道的な援助活動を展開していく。ロンドン亡 命からイギリス占領地帯に帰ったドイツ社会民主党指導者エーリヒ・オレンハウアー(Erich

Ollenhauer)らの助力を得て,チェコスロヴァキアのドイツ人社会民主党員の本国の党への加

入を果たす際に主導権を握ったのは,むしろヤークシュやエルンスト・パウルの方であった [Martin 1996: 42-115]。

これに対し,チェコスロヴァキア共産党のドイツ人「反ファシスト」たちも,この秋に党の

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支援を受けて,特別扱いでドイツのソ連占領地帯に移送されることになった。「ナチズムの残 滓の除去および新しい民主的なドイツの建設のために活動する民主的勢力を強化する」ためだ と説明された [Odsun 2010: 720]。

小 括

1945年4月から5月にかけて,チェコスロヴァキアは,東からのソ連軍,西からのアメリ カ軍の進攻によってついにドイツの支配から解放された。

解放直後からベネシュ大統領は,ドイツ人・ハンガリー人との「清算」を訴え,新政府・共 産党もそのための激烈な煽動を始めた。各地に設立され行政を掌握する国民委員会には,「ド イツ人と民族的裏切者」を逮捕し,強制収容施設に連行することが指示された。コシツェで発 表された政府綱領では,共和国に忠実だった者を除き,ドイツ人・ハンガリー人から国籍を剥 奪するとともに,没収した土地・財産・企業を国家管理下において,社会・経済的変革の事業 に乗り出すことが最重要課題として提示されていた。

ドイツ人が集中して住む国境地域では,混乱状態の中でチェコ人の革命軍や治安部隊,軍部 隊などによる「掃討行動」が展開され,ナチスやその協力者,その疑いがある者は逮捕され,「人 民裁判所」により即決で処刑されることさえあった。一般のドイツ系住民に対しても,しばし ば暴力を伴う家宅捜索と財産没収,収容施設への連行,強制労働が行われ,地域から国境外へ の「追放」も稀ではなかった。とはいえ,1945年夏のポツダム会談の前までにソ連占領地帯 に到着していたドイツ系住民は,およそ45万人程度と推測されている。

その間に,6月に入るとイギリスの新聞でズデーテン・ドイツ人の「追放」について批判的 な報道が相次いだ。ヤークシュらのキャンペーンが功を奏したかどうかははっきりしない。だ が,ポーランドの場合とは異なり,チェコスロヴァキアからの情報には事欠かなかった。ベネ シュ大統領もこの時期,「ドイツ系住民の立退き」の限界を認め,ソ連だけでなく,イギリス,

アメリカとも移住に関する取決めを行う必要を強調した。他方,政府が約束していた「反ファ シスト」への適用除外という原則も,ドイツ人居住地域の掃討が進む中で実施することが困難 になった。「ドイツ人」とみなされたユダヤ系住民も,特別扱いされなかった。

1945年7月中旬から開催されたポツダム会談で,英米ソ三国の首脳は,ドイツとの講和・

占領に関わる話合いに加え,再びポーランド問題で激しい論戦を交えた。イギリスやアメリカ にとって,ドイツ系住民を大量に受け入れることは,戦後,ただでさえ混乱したドイツを占 領する連合国の責任に関わるというだけではなかった。ポーランド西部国境がオーデル-(西)

ナイセ線まで広がれば,ドイツ人への食料や原料の供給,さらにソ連と争点になっていた賠償 の配分にも悪影響を及ぼしかねなかった。しかし,ポーランド政府の実効的支配によって既成

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事実がすでに生み出されている以上,英米側は講和会議までの管理をポーランド側に委ねるし かなかった。

会談では同時に,ドイツ系住民の移住について「秩序正しく人道的なやり方」で行い,占領 地帯間で公平に配分することが決定された。それとともに,組織的な移住の準備が整うまで,

移送を暫定的に中止することが関係政府に伝えられた。ポーランドもチェコスロヴァキアもこ れを了承したが,移送はその後も完全には中止されなかった。スロヴァキアのハンガリー系住 民の問題は会談では扱われず,当事者間の交渉に委ねられた。

ロンドンに留まっていたズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織のヤークシュは,チェコス ロヴァキア政府によるドイツ系住民の「無差別追放」に警鐘を鳴らした。しかしその一方で,

故郷への帰国ではなく,ドイツ本国への移住と再出発という方向に考えを転換しつつあった。

「反ファシスト」の活動が困難になりつつある中,本国でドイツ人社会民主党の再建と党員の 移住に動き出したのは,ウルマンやブリューゲルら親チェコ・反ヤークシュ派の人たちだった。

しかし,エルンスト・パウルらスウェーデン・グループによる移住行動の組織化に加え,亡命 から帰ったドイツ社会民主党のオレンハウアーらの助力もあって,ドイツ本国の党への編入で 結局は主導権を確保することになるのは,ヤークシュの側だった。

1) ボヘミア北部,エルベ川に面したウースティー(住民はドイツ人約6万人,チェコ人約3,000人)では,

難民などが流入し混乱する中で,7月31日の火薬庫爆発事件をきっかけに40人余りのドイツ人が川 に投げ込まれるなどして虐殺された。爆発を破壊活動とみなしてドイツ人の襲撃に加わったのは,外 部から来た革命軍,軍部隊やその他のチェコ人民間人であり,現地のチェコ人はほとんど関与してい なかったという [Kaiser 1999: 201-217]。

2) ドイツ系住民を集結させるための強制収容施設は,地域における各段階の国民委員会によって設立さ れた。1945年8月末から9月初めにかけての時期にボヘミア,モラヴィア,シレジアで311の施設に 10万人以上が収容されており,そこでの生活はきわめて過酷だったといわれる [Staněk 1999: 139-148;

Habel 2003: 523f.]。

3)モラヴィアの中心都市ブルノでは,共産党系と国民社会党系の勢力が張り合う中で,女性や子供,老 人を含むドイツ系住民の市内からの「追放」が行われた。当初は近隣の農村部や収容施設が目標とさ れており,オーストリア国境まで行進させるという考えはその過程で生まれたという。長距離を徒歩 で移動させられたり,劣悪な収容施設に入れられたりしたため,多くのドイツ人が疲労や病気から,

あるいは暴行によって死亡した [Staněk 2002: 115-121; Hrabovec 1996: 96-103]。

4) ちなみにケーラー自身は,この呼びかけは自分で書いたものではなく,他の共産党指導者との話合い の後に発表されたという [Odsun 2010: 557]。

5) ドイツに対する戦勝を祝してロンドンの街中が沸き立っている間も,チャーチルの憂いは晴れなかっ た。かえって軍の参謀長たちに,ポーランドのためにソ連を押し戻す武力対決の可能性を打診するほ どだった [Hastings 2010: 570-577]。しかし,首相が頼りにしたトルーマン大統領の方は,5月末にモ スクワに派遣したホプキンズがスターリンに打ち明けていたように,いたって現実主義的な態度をとっ ていた [Mastny 1979: 284-288]。

(18)

6) その後,この問題はチェコスロヴァキアとハンガリーとの間で直接話し合われ,1946年2月に協定が 締結された。それによってミュンヒェン協定以前の国境線が確認されるとともに,両国から同数の人 たちの住民交換が希望者に実施された。しかし,それは遅々として進まず,1938年以降の移住者と合 わせて,住民交換に応じたハンガリー系住民は1947年までに約92,000人,総数70万人中15パーセ ント以下だったとされる [Mamatey/Luza 1973: 422-425; Myant 1981: 98]。

7) Wenzel Jaksch/Eugen de Witte/Franz Katz, “The Policy of Minority-Extermination in Czechoslovakia, London, 15. Sept. 1945,” in: Sudetendeutsches Archiv [SA] München, Wenzel Jaksch, Schriftlicher Nachlaß, F 10. 『 ズ デ ー テ ン・ ド イ ツ 社 会 民 主 主 義 者 雑 誌(Blätter für sudetendeutsche Sozial-

demokraten)』10月号に載った「ズデーテン・ドイツ人の絶滅」と題された記事も参照 [Odsun 2010:

712-714]。

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(20)

Diaspora und Widerstand: “ Treugemeinschaft sudetendeutscher Sozialdemokratie ” (15)

SOMA Yasuo

Einleitung

1. “Vertreibungen”der deutschen Bevölkerung 1.1. Behandlung der Deutschen nach der Befreiung 1.2. Grenzen der“Vertreibungen”

2. Entscheidung in Potsdam und danach 2.1. “Humanitäre”Aussiedlung 2.2. Jakschs Umdenken Zusammenfassung

Wenzel Jaksch (1896-1966) war ein sudetendeutscher Sozialdemokrat, der während des Zweiten Weltkriegs im Exil in London sowohl gegen den Nationalsozialismus als auch gegen den Vertreibungsplan der tschechoslowakischen Exilregierung energisch Widerstand leistete. Sein Lebenslauf spiegelt die welthistorischen großen Umwandlungen in Mitteleuropa in der ersten Hälfte des 20. Jahrhunderts wider. Trotzdem sind im Rahmen der Widerstandsforschung in Deutschland seine Tätigkeit und seine Beziehungen zu der Sopade und den anderen deutschen und österreichischen Widerstandsbewegungen bisher selten behandelt worden. Diese Abhand- lung befasst sich deshalb mit der Diaspora und dem Widerstand der sudetendeutschen Sozialdemokratie um Wenzel Jaksch. Dabei wird auf zwei wichtige Forschungsansätze eingegangen: die Untersuchung von Mark Mazower über die ethnischen, religiösen und sprachlichen Minderheiten in Europa und die klassischen Studien von Arno J. Mayer über die Kriegsziel- und Friedenspolitik während und nach dem Ersten Weltkrieg.

Im letzten Heft (Nr. 88, Juli 2014) wurden die Diskussionen und die Gegensätze der drei Alliierten über das Polenproblem in der Konferenz von Jalta geprüft, und Benešs Heimkehr in die befreite Tschechoslowakei sowie Jakschs Kampagne in London gegen den Umsiedlungsplan in der ersten Hälfte von 1945 geklärt. In diesem Heft werden erstens die“Vertreibungen”der deutschen Bevölkerung aus der Tschechoslowakei nach der Befreiung und ihre Grenzen, zweitens die Entscheidung in Potsdam über die “Humanitäre”Aussiedlung und Jakschs

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Umdenken danach bis Herbst 1945 untersucht.

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参照

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