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民 主 主 義 の 基 本 理 念 の 要 と し て の ” 友 愛 ” に つ い て

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n共遍テーマヒ

民主主義の基本理念の要としての友愛について

一自由と平等との関連において一

大 谷 恵 教

 民主主義の基本理念といえば︑フランス革命のときに高く掲げられた﹁自由︑平等および友愛﹂︵﹇上げ︒﹁蔓噂団ρ二Ω︒一凶日

①昌α閃﹁9︒8﹃三ξ︶の三つであることはいうまでもない︒このなかの〃友愛は︑イギリス流にいえば〃同胞愛

︵切3島︒︸ooα︶といい換えることができる︒そしてA・D・リソゼイはこの三つの基本理念のなかでとりわけ友愛

もしくは同胞愛が非常に重要なものであることを指摘している︵﹀・O・ピ一匿沼ざ一切魯①<oぢUo∋o︒冨︒ざ自・

↓ゴ︒男鉱︸ohgU①ヨ︒臼⇔け・︶︒すなわち︑友愛.もしくは同胞愛が三つの基本理念のなかで要だというのである︒か

れは﹁同胞愛を考えずに自由や平等を論議するならば︑自由と平等は非現実的な抽象的観念になってしまう︒だが︑

民主的な理想を同胞愛もしくは仲間意識︵h①=o毛ω三づ︶における自由と平等と考えなさい︒そうすれば︑われわれは

経験によってそれが意味するところのものを知るであろう﹂と主張している︒つまり民主主義における自由と平等は

友愛や同胞愛や仲間意識の土台の上で考えられなけれぽならず︑友愛や同胞愛や仲間意識が三つの基本理念のなかで

基本であり︑土台であり︑要だというのである︒

 アリストテレスは﹃政治学﹄の第四巻第十一章︵一ト︒㊤0げ︶において﹁友愛から語い去ることのもっとも遠いものは

早稲田社会科学研究 第43号  91(H3).10 33

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国的共同体から競い去ることもっとも遠いものである︒なぜならば︑共同体は友愛にもとつくものだからである︒敵

とは道さ︑兄人びとは共にすることを欲しないのである﹂と断じて︑自由と平等との関連におけるよりも︑まずおれわ

れが国家や社会を形成して共同生活をしていくためには︑なによりも互いの人びとの間に友愛がなければならず︑そ

うでなければ共同生活体そのものが成り立たないというのである︒

 アリストテレスは﹃ニコマコスの倫理学﹄の第八巻第一章においても友愛が国の基本であり︑立法家はこれを追求

しなけれぽならないことを︑ ﹁愛はポリスをも保持しているもののように見える︒立法家たちがもっぱら心を用いる

のも正義の性向をめぐってであるよりは︑むしろ愛をめぐってなのである︒というのは和合は愛に似たなにものかで

あるように見うけられるが︑立法家はわけてもこれを追い求め︑内証を敵対するものとしてわけても追い払おうとし

ているからである︒またひとは互いに友人であれば︑なんら正義を必要としないが︑正しいひとであっても︑さらに

愛を必要とするのである︒したがって︑最大の正義とは愛に似たなにものかであると思われている﹂と主張してい

る︒ このように友愛︑同胞愛︑仲間意識は国家・社会そのものの基本であり︑またデモクラシーの三つの基本理念のな

かでの要なのである︒ところが︑わが国の戦後デモクラシーにおいてはこの友愛︑同胞愛︑仲間意識が決定的に欠如

していて︑それを抜きにして自由や平等あるいは権利を主張するので︑それらは抽象的観念となって絶対的な自由や

平等や権利を主張して︑生活を共にする他の同胞や仲間の自由や平等や権利を考えず︑そこから皮肉なことに主張と

は正反対の差別社会へと陥っていくのである︒また続発する国際問題にわが国がなかなか適切に対応しきれないでい

る原因の大きな一つも︑国際的レベルでの友愛︑同胞愛︑仲間意識をわが国︑わが国民が欠いているところにある︒

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民主主義の基本理念の要としての 友愛 について

 さて︑まず友愛︑同胞愛︑仲間意識と平等との関係についてであるが︑リンゼイは前掲書の同じ章のなかで︑ ﹁わ

れおれが同胞愛という考えを堅く持続しさえずれば︑デモクラシーの光栄であると同時に恥である一正しく理解さ

れれば光栄であり︑間違って解釈されれば恥である一ところの人間の平等という考えを理解することができる﹂と

いって︑アメリカの独立宣言を例に挙げる︒すなわち独立宣言の第二節では﹁すべての人びとは生まれながらにして

平等であるという真理は︑われわれは自明のことと考える︑とあるが︑それは自明であると答えられるかもしれない

が︑しかしすべての人びとは生まれつき不平等で︑不平等な才能と異る性質をもっているということは自明でないの

か︒またこの不平等はすべての人びとが年をとるにつれて大きくなっていくということも︑自明でないのか︒そ七て

あらゆる経験とあらゆる常識とあらゆる科学はこの不平等を確証してはいないだろうか︒われわれは日常の振舞いに

おいて︑人びとは必ずしもみな平等であるとはかぎらない︑かれらは必ずしも等しく聡明であったり︑等しく善良で

あったり︑等しく信頼に足るものであったりするとはかぎらない︑と考える︒われわれはある地位に候補者たちを選

ぶとき︑どの人が最良かと問う︒なぜ苦労するのか︑最初に立候補した人を選びなさい︑すべての人びとは平等だ︑

などというような夢みたいなことはいわない﹂という問題を一応呈示した後︑ ﹁すべてそれは真実である︒万一民主

的平等の原理がそれを否定すれば︑民主主義はその敵対者がそうであると宣言する愚かなものになるであろう︒しか

し民主主義は︑あらゆる人びとが身体的︑知的︑あるいは道徳的な能力において平等であるとはいわない︒そうでは

なくてかれらはすべて価値あるものだというのである︒かれらは等しく同胞のメンバーなのである︒このことはいか

なる科学的な意味においても自明ではない︒それは一つの信念︑一つの信仰なのである︒それは︑人びとが人間︑人

格︑道徳的存在として共通にもっているものは非常に重要であるので︑かれらの大きくて明白な相違はとるに足らな

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いものであると確言するのである︒人聞の平等の教義は究極的には宗教の一つの表現である︒それは︑われわれが︑

わたしたちはすべて一つなる父の子であるとか︑あるいはイエスの言葉におけるわたしたちの兄弟であるこれらのも

っとも小さい者というとき︑平明卒直に表明される︒西欧世界においてはそのことはストイック派によって最初に述

べられたが︑それはキリスト教の偉大な所説であった﹂と主張している︒

 要約すれば︑われわれが現実の生身の人間を見るとき︑知力︑体力︑徳性︑富力︑容貌︑その他あらゆる点からみ

て人間は不平等であることはなんぴとも否定しえない不動の事実であり真実であるが︑にもかかわらずなぜデモクラ

シーは人間は究極的に平等であるというのかといえぽ︑デモクラシーは︑人間は諸能力において不平等であるにもか

かわらず一人ひとりが価値あるものであり︑おれわれが国家・社会のなかで生活を共同にする同胞もしくは仲間の同

じメンバーなのだという一つの信念︑一つの信仰から人間の平等という考えが出てくるのだというのである︒

 W・リップマンも同様の見解を早くから示している︒すなわちかれは一九二六年にハーパーズ・マガジンに発表し

た有名な論文﹁何故多数者が支配しなければならないのか﹂︵≦冨ω財︒巳仙昏Φ竃包︒碁導因巳①勺︶のなかで︑﹁一切

の他の人間との究極的な平等と仲間という感情︵㊤hoo=昌σqoh巳江三舞ooρρ巴津団磐α︷Φ二〇妻ω窪O毒一島画一9げ禽

自①舞貫Φ︶は︑ ﹃そこにあなたとあなたの隣人がいる︒あなたの方がかれよりも生まれが良いし︑金持で︑強くて︑

ハンサムだし︑それだけでなく︑あなたの方がより優れており︑より賢明で︑より親切であり︑より人好きがする︒

あなたはかれよりも仲間により多くを与え︑かれよりも少く受けた︒知性︑徳︑有用性のいかなる︑そしてどのテス

トによっても︑あなたが明らかにかれよりも優れている︒しかしそれにもかかわらず︑いかにバカげたことに聞えよ

うとも︵それらの相違は問題にならない︒なぜなら︑かれのもつ究極の部分は触れることも比較することもできず︑

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民主主義の基本理念の要としての 友愛 について

ユニークでそして普遍的なものだからである﹄といった心情から発するものなのであって︑この感情には世俗的な意

味は全然存在しない︒人びとはそのように感じることも︑感じないこともあるだろうが︑もしそのように感じないな

らば︑世間が認める優劣は海上の山のような大波に思えるであろうし︑もしそのように感じるならぽ︑それは大洋上

の小さなはかない小波にすぎないであろう︒人間は民主政治の可能性を想像する以前から︑永い間この感情にとりつ

かれていた︒その表現方法はいろいろあろうとも︑しかしこの感情の基本的性質は︑仏陀から聖フランシス︑さらに

はホイットマンにいたるまで同じである﹂と述べて︑人間における目に見える不平等にもかかわらず︑人間のもつ究

極の部分は触れることも比較することもできず︑ユニークで普遍的なものなので︑目に見える相違や不平等は問題に

ならないという世俗的感情とは無縁な︑あるいはそれを超えた宗教的ともいえる基本的感情が民主政治のはるか以前

から存在していて︑その感情がなかったらひとは現世的な不平等に堪えきれないであろうことを指摘している︒

 またリップマンは引き続いて﹁神の眼にはすべての人間の魂が貴重であるという教義︑あるいは最近イγジ首席司

祭のいった言葉によれば︑ ﹃すべての男女の人格は神聖で不可侵である﹄という教義を︑証明する方法は全く存在し

ない︒この教義は神秘的な直観︵巨団ω自︒巴貯言一鉱︒コ︶から出ている︒そこでは︑人間の目にみえる性格や行為の背

後には︑そ九とは別個の一つの精神的本体︵帥ωb三ε9話昌苗︶が存在すると︑感じられるのである︒われわれは

このような本体が存在するという科学的証拠をもっていないし︑また事柄の本質上そのような証拠はもちえられるも

のではない︒しかしわれおれはすべて︑疑う余地のない確実さで︑結局われわれに対して計量︑比較︑審判がなされ

ているが︑しかもその後になお︑事柄の核心であるなにものかが残っているということを知っている︒そこから︑わ

れわれ自身が審判されるときは︑正義︵一玉江oo︶よりも慈悲︵ヨ︒器団︶のほうが正しいという信念が生まれるのであ

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る︒われわれがわれわれ自身に関する事実を知るとき一われわれが知ることができるのは事実のみである一︑知

性についての一切の観念には余りに庵粗野ななにものかがある︒人間についての審判はその行為の上に下される︒そ

れは必要な審判であるかもしれないが︑しかしわれわれはそれが最終的な審判であるとは信じない︒そのほかに︑恐

らく︑この世では証拠としては認められないが︑しかし神の裁きの前では強く重視されるようななにものかが存在す

るのである﹂といって︑人間の現世的な優劣には余りにも粗野なものがあり︑究極的に重要なものは人間の魂の貴重

さ一最後の審判において重視されるもの一︑究極的平等であり︑そしてそれを証明しうる科学的方法はなく︑そ

れは神秘的な原始的直観ともいうべきものから生じるものだと主張している︒

 さらにかれは﹁わたくしは︑人間がなぜ他人に対してこの神秘的な尊敬を抱かなければならないのかというそれ本

来の理由には︑考え及ばない︒しかし︑もし苦りに平等と仲間の意識が失おれたとしたなら︑世の中でおれおれが最

良だと思っていることのいかに多くのものが失われるかということを示すことは容易であろう︒もしわれわれが目に

みえうる行為のみで人を裁き︑またみずからも人に裁かれるとしたら︑公民道徳︑友愛および恒久的な愛情などの内

面的なトリデは突き破られるであろう︒外面的な行為は︑冷徹で堅実な分析に堪えられるほどそんなに十全なもので

はない︒それが慣習的となり︑そして神秘的な尊敬という形となって反映される動物的愛情︵9昌 鋤昌一ヨ90一 h︷Φ6一剛O昌︶

のみが︑人びとをしてわれわれのもろもろの欠陥に目をつむらせるに足る力をもちうるのである︒もしすべての人

が︑われわれの行為を︑行動心理学のように厳格に評価しなけれぽならないとしたら︑かれらはわれわれを赦してく

れるほど充分な好意をわれわれに対してもたないであろう︒人びとはもっと深いところへ︑その理由はわからなくて

も好ましいことを知っているなにものかに︑盲目的かつ確信的に︑到達せずにはいられないのである︒もしそうでな

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民主主義の基本理念の要としての 友愛 について

かったら︑人間の不平等ということに堪えられないであろう︒かれらは自分の優越に堪えられず︑他の人びとに植え

つけた劣等感に堪えられないことを見出すであろう︒成功者の尊大と失敗者の羨望とには︑いかなる和解もないであ

ろう︒なぜなら︑神秘的な平等感がなかったら︑目にみえうる明白な不平等は変動し難いものに思われるからだ﹂︑

﹁われわれの大部分のものにとっては︑あらゆることを永遠の光の中で非常に明確にあるいは堅実に考察するという

ことは︑不可能である︒人間の窮極的平等の教義は︑人間の経験でテストすることはできない︒それは経験を超越し

た信仰︵富一島︶に立脚している﹂︑ ﹁神秘的なものからみれぽ︑理性︑知性︑教養︑知恵などは︑仮りの世のうつろ

い行く事柄にすぎなくて︑人間が万物創造の窮極的意義を推測することの手助けにはほとんどならない﹂とも主張し

ている︒ 要約すれぽ︑リップマンにおいては︑すべての人間の魂が貴重であって︑その人格は男女を問わず神聖不可侵であ

るという人間の目にみえうる性格や行為や優劣を越えた窮極的平等や友愛や仲間意識は︑科学的経験的には証明され

えない神秘的な原始的直観︑すなわち人間の経験を超越した信念︑さらには信仰に立脚しているものなのだというの

である︒ われわれは少くとも︑人間は互いに同じ仲間であるという意識と感情をもち︑友愛の精神に結ばれてはじめて平等

が成り立つのだということを︑知るべきである︒そこから公共の利益ないし福祉や社会保障という考えが生じてくる

のである︒福祉や社会保障は決して権利ではなくて︑国民一人ひとりに友愛の精神や仲間意識がなけれぽ︑それらは

成り立たないのである︒

 次に友愛︑同胞愛︑仲間意識と自由との関係の問題であるが︑友愛や仲間という意識や感情の上に立たないで︑た

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だ自由︑自由と自分ひとりのみの自由を主張するならぽ︑それは抽象的で完全かつ絶対的な自由の主張となり︑T・

ホッブズのいうような﹁自己の欲望や性向をもっている事柄を行うに際して︑それを止めるものがなにもないこと﹂

を意味する﹁外的障害や反対の欠如﹂︵い①<一目げ9︒P畠ρ置曽︶という自然的自由すなわち放縦になり︑そこから人

間の社会は﹁万人の万人に対する戦争状態﹂になってしまう︒

 そもそも自由も平等も一人だけの世界では生じえないものであり︑共存する他者があってはじめて自由や平等とい

う観念が生じうるのである︒ホッブズの主張においては︑この生活を共にする他者に対する配慮が全然存在しないの

である︒そこにかれの最大の欠陥がある︒したがって︑ホッブズの考えには︑他者と共存する公共の社会が平和と安

定のうちに円滑に運営されていくために不可欠な公共に対する責任や義務やモラルが絶対的に欠如しているのであ

る︒ それでは他者に対する配慮や︑他者と共存する公共の社会が平和と安定のうちに円滑に運営されていくために不可

欠な公共に対する責任や義務やモラルはどこから生まれてくるかといえば︑それは正に友愛︑同胞愛︑仲間という意

識や感情からなのである︒自己と共存する他者とがこの友愛や仲間という意識や感情で結ぼれてはじめて︑互いに相

手の人格やその尊厳を認めて尊重し合い︑そこから当然共存する他者と公共の社会に対する配慮が生まれ︑本能の赴

くままに無制限の絶対的自由を主張したり実践したりすることを差し控えて︑他老と共存する公共の社会が安定と平

和のうちに運営されるためには︑自己の欲望の達成はどこまで許されるのかという配慮が生まれ︑そこから諸欲望の

比較・選択をなすようになるのである︒ここにJ・ロックが指摘するような人間の真の自由があるのである︒本能や

欲望の赴くままに行動することは︑ルソーが﹃人間不平等起源論﹄や﹃社会契約論﹄のなかで指摘しているように︑

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民主主義の基本理念の要としての 友愛 について

野獣に属することであって︑決して自由ではないのである︒

 このような点にこそ︑自然法学者たちが自然法の重要な一項目としている﹁他者が己れ自身に対してもっことをみ

ずから許容するだけの自由を他者に対してもっことをもって満足すべきである﹂とか﹁己れになしてもらいたくない

と欲することを︑他人に対してなすな﹂とか︑あるいはカントの有名な至上命令である﹁なんじの恣意の自由な使用

が︑同時に普遍的な法則にしたがって各人の自由と両立するように外的に行動せよ﹂などの言葉が意味するところの

ものがある︒

 このように自由は完全で絶対的な無制限の自由ではなくて︑相対的自由でなけれぽならず︑また自由は個人主義的

自由の側面をもつと同時に共同体的社会的自由の側面をももっことを知る必要がある︒自由はこれら両側面を同時的

にあわせもたなけれぽならないのである︒これも友愛や仲間という意識や感情の土台の上に立って︑はじめて知るこ

とができるのである︒

 さらに︑友愛と仲間という意識や感情の上に立つ自由は相対的自由や社会的共同体的自由にとどまらず︑もっと高

い段階の自由を目指すのである︒なぜならぽ︑友愛や仲間意識や仲間感情によって互いに結びついている人びとは︑

人間の二律背反的な二元的性情︑人間の不完全性を知って︑共存する公共の社会がさらに一層よく平和と安定の社会

として存続していくためには︑互いに協力協同して人間人格の向上・完成に努めなけれぽならないことを知って︑人

間が悪魔の誘惑に負けたり欲望の奴隷になったりすることなく︑人間の心のなかにおける理性と非理性的なものとの

激しい内面的葛藤において理性的側面が非理性的側面をコントロールして︑神の命令や理性の命令にしたがって生活

するという精神的自律−道徳的自由1を追求するようになり︑この道徳的自由こそが︑ルソーが﹃社会契約論﹄

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や﹃エミール﹄のなかで指摘しているように︑人間を自らの主人にするところの最高の段階の自由であることを知る

ようになるのである︒そしてまたデモクラシーの最高目標は︑T・H・グリーンやN・ミックレムなどが主張してい

るように︑人間人格の向上・完成であることを知るようになるのである︒

 以上のように︑友愛︑同胞愛︑仲間という意識や感情はデモクラシーの三つの基本理念の要であり︑この要石の上

に自由と平等は成り立たなけれぽならないのである︒

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参照

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