想像力と伝統の感覚
i﹃ナーシサス号の黒人﹄﹃台風﹄
照
屋
佳
男
一
三年前すぐれたジョゼフ・コンラッド論を世に問うたイアン・ウォット︵討昌芝讐一︶は︑コンラッドの円熟期の
作品﹃ナーシサス号の黒人﹄︵↓ミ暴ミミき恥..さ§蒙§...おO刈︶を﹁社会崩壊の研究の書﹂として論じた折
に︑この作品に認められる二つの相対立する社会の一つをゲマインシャフト的社会とし︑他をゲゼルシャフト的社
︵1︶
会であるとした︒なるほどこれは︑作品の解釈上便利な区分に相違ない︒が︑一般に︑社会学の理論や用語の文学への適用には︑自ら限界のある事も注意されなけれぽならない︒この場合︑コンラッドと社会学者フェルディナン
ド・テニェス︵聞Φaぎ9巳目︒︑旨巳Φω︶は︑偶々同時代人であったという以外につながりはなかったのだし︑その
上︑影響関係など凡そ無かったのだから︑テニエスの理論の適用にはなおさら慎重でなけれぽならない︒ウォット
はそれを十分承知の上で︑テニエスの理論をコンラッドの作品にあてはめているようだが︑デュルケム︵国ヨ一δ
Uξ写9日︶の理論を作品解釈に援用する場合と同様︑収穫の少なさは否定すべくもない︒
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コンラッドはこれらの社会学者の理論や思想を知らなかったとは決して言えない︒ただ彼の関心は社会学の新し
い理論や思想そのものに注がれていたというよりはむしろ︑社会学に限らず一般に新しい理論や思想が人々にどう
いう影響を与えるか︑に注がれていたと言うべきで︑新しい理論や思想自体を作品に導入しようなどという気は︑
コンラッドには毛頭なかった︒コンラッドは言っている︑﹁思想はその孤独の王座から下りて民衆の問にその意志
を滲透させるや否や︑その︿徳﹀を失う︒思想は一個の王であるが︑臣下の服従をかち得た時には︑必ず堕落する ︵2︶運命に見舞われる備なのである﹂と︒孤独の王座から下りてく徳Vを失った思想︑時に権利とか平等とかいった
く美しい観念Vに包み込まれるこの﹁堕落した王﹂の運動をみつめる事がコンラッドの主要な関心事であった事に
疑いはなく︑恐らくそのような関心を通じて︑﹃ナーシサス号の黒人﹄に認められる二種類の社会的存在の描写が
可能となったのである︒
私はこの︿徳﹀を失った思想に︑便宜上合理主義という名称を与えようと思うがく合理主義﹀に対立するのは︑無
論︑伝統の感覚である︒即ち﹃ナーシサス号の黒人﹄において︑伝統の感覚を失わない社会的存在と︿合理主義﹀
を旗印にした社会的存在との対立・緊張関係が描かれるのである︒そして後者の特徴は︑一種の想像力︑ライォネ
ル・トリリング︵H凶︒昌︒一↓同巳ヨσq︶に倣って﹁リベラルな想像力﹂とでも名づける他はない想像力を生みだす点
に︑際立って現れるのであって︑この想像力故に︑前者よりも大きな影響力を振るい得る︑と言ってもよい︒もと ︵3︶より前者に想像力が欠けているわけではない︒ただ前者の想像力は﹁大地1過去︑歴史︑未来を持つ大地﹂即ち伝
統によって限界を付せられた想像力なのである︒前者が﹁この世界においては喜びにすっかり浸り切る事も︑悲し ︵4︶みにすっかり浸り切る事も共にむつかしい﹂とし︑生を善悪の複雑にからみ合った一種の薄明と捉え︑﹁沈着﹂を
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重んじ︑純粋な眺めとして与えられる現実自体︑つねにく偶発Vを秘めた現実自体に即応するのを﹁道徳的な目
的﹂とするのに対して︑後者においては想像力が発明の才の如くに駆使され︑ユートピアあるいは︿最善の事態﹀
の到来について思いをめぐらす事が︑倫理と同一視されるに至る︒換言すれぽ︑前者が事実自体︑あるいは現実自
体を相手にするのに対して︑後者は事実自体というよりはむしろ︑事実についての観念を相手にするのである︒後
者においてく理性Vは来たるべき最善の事態についての観念によって生み落とされるのであるが︑ここで注意すべ
きは︑最善の事態の到来について思いをめぐらす事は︑最悪の事態の到来について思いをめぐらす事と表裏一体の
関係にあるという事だ︒
﹁大地﹂によって限界を付せられた想像力︑即ち伝統の感覚に拠る社会と︑発明の才の如くに駆使されみ想像力
に拠る社会−社会をコンラッドの作品に即して︑このように二つに分ける方が︑ゲマインシャフト︑ゲゼルシャ
フトという分類よりもはるかに有効であるように︑私には思われる︒少なくとも︑単に﹃ナーシサス号の黒人﹄ば
かりでなく﹃台風﹄︵.母暮8ミ.おOω︶を論ずる際にも等しく有効であると思われるのであって︑このような分
類の仕方そのものを︑一つの方法として︑これから﹃ナーシサス号の黒人﹄と﹃台風﹄の検討に入る事斑しょう︒
想像力と伝統の感覚
二
﹃ナーシサス号の黒人﹄は夜のボンベイ港に碇泊中のナーシサス号の描写で始まるが︑いきなりく光Vとく闇﹀
のコントラストが現れるところに︑この小説の特徴が見出される︒船室の扉から洩れるランプの二条の光を除くと
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あとはすべて闇︑といったような描写がその一例だが︑︿光Vとく闇﹀の対照は︑海と陸地の対照に重なり︑そし
て海と陸地の対照は︑伝統の感覚とく想像力Vの対照に重なり︑陸の特徴が汚名と汚破︑泥土と飢餓︑悲惨と浪費
であるのに反し︑海の特徴は無腐敗という一事に存する︑と語られる︒ナーシサス号を港外へ曳航するタグボート
が嫌悪すべき薄汚いく生き物Vとして描かれるのも︑それが陸地に所属するからであり︑一方帆船ナーシサス号が
ただ ︵5︶﹁広漠たる孤独﹂の真中を︑﹁地球から分離した一片の小さな惑星のように﹂よぎるのは︑それが本来︿海﹀に属
するく生き物Vだからである︒そしてたしかに﹁最寄りの陸地からでさえ千マイルも離れた地点から︑神の統べる
︵6︶ ︵7︶真の平和が始まる﹂はずなのだが︑帆走するナーシサス号上で﹁真実はおずおずと︑虚偽は大胆に生きていた﹂と
叙述される︒つまりこれは︑小説﹃ナーシサス号の黒人﹄の主題の提出に他ならず︑﹁陸は無腐敗の海の縁へ向か
︵8︶
って至る所から殺到し﹂という描写からすると︑︿海Vはく陸Vに追いつめられ︑容易ならぬ事態に立ち至っている︑と言ってもよさそうである︒﹁夕刻︑人気のない甲板は︑陸地の秋にも似て︑何か憩いのひとときといった趣
︵9︶
を呈していた﹂という描写自体︑この容易ならぬ事態の見事な暗示となっていると言わなければならない︒腐敗とは無縁のはずの海は︑帆船ナーシサス号に代表されているが︑その帆船に息づく伝統︑イギリス商船の伝統が︑︿
闇﹀即ち陸地に発生する︿合理主義﹀に脅かされるに至っているという理解が︑かくて必至となるのである︒
ところで︿光﹀とく闇﹀は人物によっても代表されるのであって︑=一歳の時から五五年間も船乗り生活を送り
続けている老シングルトンは︑︿光﹀の代表者の一人なのだ︒﹁よく過ごされた長い歳月の故に︑しっとりとした
︵10︶落着き﹂.を具えるに至っているシングルトンが︑船乗りとなってから陸地で過ごした年月は︑わずか四〇ヵ月であ
る︑と語られもする︒シングルトンと著しい対照をなす人物の一入は︑ドソキンなみ男で︑陸の汚機にまみれてい
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想像力と伝統の感覚
るといった感じのこの新参は︑のっけから﹁権利は守ってみせる﹂と言い放って︑一般の船乗りたちの度胆を抜
く︒彼はぼろを纏っているのだが︑そのぼろでさえも彼の身体に供せられると︑どこかから盗んできて着用に及ん
だのではないか︑という印象を与えずにはおかないのだ︒アメリカ船の虐待からちょうど逃れてきたところだと自
己紹介し︑船乗り一同の同情を惹く事に余念のないこの男が﹁悪夢の世界からの驚くべき訪問者﹂︵㊤ω貯二一ぎσq
︵11︶<互8同坤︒∋缶乏〇二αoh巳αq葺ヨ母Φω︶であると語り手によって紹介されるのは彼が﹁権利については一切を知 ︵12︶っているが︑勇気や忍耐︑無言の信念や船の仲間を結合する無言の忠誠心については何も知らない﹂入間だからで
ある︒この男の出現によって︑読者は﹁悪夢の世界﹂が常態であり︑伝統の具現の場としての船の世界は︑まれに
しか達成されないフィクシ一.ン︑という感じを抱かせられるが︑それは﹁悪夢の世界﹂においては︑︿合理主義﹀
の威を借る事が苦もない業となっているからに他ならない︒ た 一般の船乗りたちは︑権利の主張と変革の提唱に長けたこの男の鉄面皮なく訴え﹀に唯々として応じ︑衣服や靴
や寝具を我先にと提供する︒そしてその折︑船乗りたちの胸に釈然とせぬ気持が萌さないわけではないが︑それ以
上に︑船乗りたちは︑己れの善行に酔い痴れ︑半ば強いられた安直な同情を︑真っ当な感情と思いなし︑自己満足 ︵13︶に陥ってしまうのである︒﹁万人の慈悲の汚らわしい対象﹂となる事で世間に処してきたこの男は︑しかしながら︑
慈悲の対象として彼以上に相応しい人物︑黒人ジェイムズ︵ジミイ︶・ウェイトが現れると︑その黒人をく偶像V
に仕立て︑彼自らはく祭司﹀の地位に甘んずる事で︑︿合理主義﹀の貫徹を図ろうとする︒
図抜けて背の高い黒人ウェイトは︑一等航海士による点呼が終り︑いよいよ船員一同解散という間際に︑ウェイ
トと大声で叫びつつ甲板に姿を現し︑己れの苗字を怒鳴ったつもりが︑不遜な発言と受け取られて︑一瞬緊張を孕
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︵14︶んだ雰囲気をつくりだすが︑彼が﹁私はこの船の者です﹂︵︑︑一げ色80q8けげ①ω三覧︑り︶と言う時︑陸地に固有の
︿闇﹀が︑ナーシサス号にしっかり根づくに至った事が示されるのである︒
文字通り闇を背にし︑光に顔を向けて立っているシングルトンに向かって︑︿闇﹀の代表者の一人ジ︑︑︑イは︑こ
れはいかなる種類の船であるか︑と問う︒伝統の感覚を失わぬシングルトンにしてみれぽ︑愚劣極まるこの間に対 ︵15︶しては︑次の返答しかありえない︒﹁船は大丈夫じゃ︒乗り組む人間の方が問題なのじゃ﹂︒船のよしあしは予め決
まっているわけではなく︑船に真剣に仕える人がいるかいないかによって︑それは決まるのだ︑とシングルトンは
言っているのである︒﹁船にりっぱに仕える事は︑いかなる観点からしても︑至上命令と思われる︒いつでもそうだ ︵16︶が︑真に愛があり︑船の為に精一杯の事をすれぽ︑諸君の心の中で船の価値は高まるぽかりなのだ﹂とコンラッド
は︑あるエッセイの中で言っているが︑それはつまり︑伝統の感覚に訣別していない船乗りにとって︑伝統は遺産
のように相続される底のものでは決してないという事︑船に固有の社会の伝統が息づくのは︑船乗りが船という具
体的なものを愛し︑これを尊敬し︑これに精魂を込めて仕えた時である︑という事を意味するのである︒﹁輝かし
い伝統﹂なるものを︑予め船に期待したりなどしないシングルトンは︑﹁自らの運命の辛さをかこつセソチメンタ
︵17︶
ルな声を心底から軽蔑し﹂︑与えられた環境をかけがえのないものとして引き受け︑それに耐え続ける事をもって生き方としてきた人間の一人なのである︒そして彼はその耐える能力を︑選ばれたる者の特権とさえみなす人間の ︵18︶一人なのであって︑この種の人間は﹁疑いも希望も知らない人が強い﹂ように︑強いのである︒伝統の感覚を失わ
ぬこのような社会的存在に対置されるのは︑︿合理主義﹀を基準にして︑予め船に︿完壁﹀を期待し︑それが見当
たらぬといって大騒ぎをする人間たちである︒例えば︑船長の命令の絶対性︑一瞬一瞬を無限に骨折って切り抜け
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想豫力と伝統の感覚
ていく以外に方法のない帆船の生活が否応なしに生みだすそういう命令の絶対性は︑伝統の感覚を紛失していない
船乗りには自然に受け容れられるところのものだが︑︿合理主義﹀という基準に照らしてみれぽ︑それは専制と異
ならぬものに見えてくる︒そしてこの俗流合理主義は︑事実︵例えば嵐という事実︑あるいは死という事実︶自体
が棚上げにされた時に︑はじめて効力を発揮する底のものである以上︑そして事実自体を回避したがるのが人間の
さが性である以上︑この合理主義が人間の内部に︑己れ自身に対する︑即ち︿専制の犠牲になっている﹀己れ自身に対
する憐欄の情を生じさせるのは︑いともたやすいという事になる︒そして自己憐欄は自己青書に通じてい︑自己欺
購こそは船の伝統に敵対する最大の力︑とする作者の見方が明瞭に看取されるが︑それはさておき﹃ナーシサス号
の黒人﹄において︑相反する二種類の社会的存在そのものが終始ドラマ発生の原因となっているのは否定のしょう
がない︒そして小説の作法上︑時に二つの社会的存在の間を右往左往するだけが能といった感じの︑一般の︵つま
り下級の︶乗組員の心理と行動の描写−つまりドンキンやジミイの存在に一般の船乗りたちがどのように影響さ
れ︑反乱を起こすに至るかの描写一が︑作品の主眼となる︒
ドンキンの影響については後述するとして︑胸を患っているジミイの影響力は︑彼の存在そのものから既に発せ ︵19︶られているのであって︑それは﹁彼がそこに存在するだけで夕陽の退却が早まるように思われる﹂程のものなので
ある︒ただ存在するだけで影響力を振るい得るジミイが︑積極的に船乗りたちの憐欄を彼自らの身に集中させよう
とて手練手管を弄するようになると︑その影響力は測り知れぬものとなるのだ︒ジミイは誇らしげに︑自慢するが
如く︑あるいは脅し付けるが如く︑日に幾度も︑彼の身に死が忍び寄っているとほのめかし︑﹁世界中でこのよう
な﹃仲間﹄︵11死︶に自分ほど通暁している者はいないと言わんぽかりに︑この仲間の事を持ち出すのだが︑そ
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︵20︶ういう時の彼は傲慢ですらある﹂と語られる︒一般の船乗りたちが︑ジミイのこの︿攻勢﹀に対して当初﹁憐欄と
︵21︶
不信の間で揺れ動く﹂という反応きり示せないのは︑自然ではあるが︑そういう反応のくりかえしはやがて︑彼らの日課の邪魔をし︑彼らの余暇や娯楽をも毒するに至り︑遂に彼らの反応は憐欄一本に収敏するより他はなくな
る︒ 死というのは人間にとって︑大抵の場合︑最悪の事態であるが︑ジミイが死という最悪の事態を船乗りたちの目
の前に絶えずちらっかせ︑それによって船乗りたちの憐欄の情の確保に成功する時︑彼は最悪の事態について想像
する力を︑船乗りたちの胸によびおこしているのである︒そして凡そ伝統の感覚と異質の︑この想像力の喚起が可
能となるに際しては︑ドンキンの説くく合理主義Vも与って力があると言わなけれぽならないが︑ここで注意に値
するのは︑死という事実自体は一向に相手にされず︑ただ死について想像する力だけが膨れ上がり︑そこから幻想
が生じ︑︿反乱﹀が発生するに至るという事だ︒船乗りたちが死を事実として直視しているのではなくて︑死につ
いての観念のとりこになってしまう点が注意に値するのである︒ジミイが航行中に死ぬとは確信していないにもか
かわらず︵あるいはそれ故に︶︑死という最悪の事態について想像する力は肥大の一途を辿るのだ︒そして身近の
他者︵この場合はジミイ︶の身にさし迫っているとされる死について︑想像力を烈しく働かせるようになると︑船
乗りたちは我が身に起こりうる最悪の事態︵即ち死︶についても想像力を働かせないわけにはいかなくなる︒そこ
から最悪の事態︵ジ︑ミイの死︶はなんとしても回避したいという抽象的な︵というのは︑最悪の事態自体は一度と
して相手にされはしないのだから︶願望が船乗りたちの胸に萌す時︑この願望は︑彼ら自らの死をも回避したいと
いう抽象的な願望と重なり合っているのだ︒つまりこういう事だ︑導入ジェイムズ・ウェイトに上欄の情を寄せ︑
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彼の死について想像を逞しゅうする時︑船乗りたちは彼ら自らの死についても想像し︑彼ら自らをも憐欄の対象に
しているという事だ︒そして死という事実自体は棚上げにしたまま︑死について想像する事︑あるいは死について
の観念を抱く事は︑そのまま船員たちの自己憐欄そして自己欺哺に直結しているのである︒そこに︑この場合︑他 あだ者憐欄がエゴイズムと評されるゆえんのものがあるのだが︑幻想の上に咲く徒花にも似たこのエゴイズムは︑くり
かえして言えば︑︿合理主義﹀と分かち難く結ぼれている︒
三 想像力と伝統の感覚
オランダの画家ゴッホは弟宛の手紙の中で﹁危険と危険に対する恐怖の念と︑一体どちらが始末に負えないか︒
僕としては︑現実の方がいい︑危険自体の方がいい﹂と書いているが︑﹃台風﹄は最悪の事態を想像する能力に欠
けた︵即ち最悪の事態そのものによってしか心を動かされない︶船長を主人公とした小説である︒彼は日々を無事
に切り抜けるに足る想像力しか持ち合わせていないから︑至ってもの静かで︑自己を見失う事もないし︑自惚れる
事もない︒それ故﹁マクファi船長が船長として乗り組む船はみな︑調和と平穏に満たされた浮かぶ住処と化する
のである﹂︒彼にしてみれぽ︑一般的な︵即ち抽象的な︶現実なるものは凡そ話題にさえなりえない︒なぜなら ︵22︶﹁事実それ自体が圧倒的な正確さをもって語る事ができるからである﹂︒頗る発達した事実の感覚の持主たる彼は
﹁ちょうど人生の表面を長の歳月軽々と滑り︑人間の生に潜む裏切り︑暴力︑恐怖の奥深さなどはつゆ知らぬ態で ︵23︶静かに墓場に入る人のように︑海の表面を軽々と滑り続けた﹂とさえ語られる︒
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ク リロ 小説﹃台風﹄の筋を構成するのは︑二〇〇人の中国人労働者︵所謂﹁苦力﹂︶を︑シンガポールから彼らの故郷 ただ福建省へ運ぶ蒸気船﹁南山号﹂の船長マクファーが︑台湾海峡で台風に遭遇し︑船を台風の真中に突入させ︑台風
の目をくぐり抜けさせた末に︑福三聖に無事辿り着くまでの出来事そのものであると言える︒実際︑台風の描写︑
荒れ狂う雲や海の描写︑風と波に翻弄され︑ただならぬ破損と浸水を蒙り︑沈没寸前にまで追い込まれる船の描写
は︑写実の極と評してもよいのだが︑しかし作者の主要な関心は台風にあるのではない︒台風という危険が船長を
も含めて船乗りたちの内面に惹き起こす反応にこそ︑作者の関心は注がれていると言わなけれぽならない︒作者も
序文で言っている︑﹁事件そのものよりも事件が作中人物に及ぼす影響に力点が置かれている﹂と︒そして作者の
関心の有り様を知れば︑危険あるいは最悪の事態についての想像力が生む一見正確無比な予測に対する徹底した不
信をもって︑危険自体に対応しようとするのが船長であるのに対して︑危険についての想像力しか持ち合わせてい
ないが故に︑危険自体に対応する術をまるで知らないのが一等航海士ジュークスである︑という理解が自然に得ら
れるはずである︒たしかに無口で愚鈍の見本のような船長の信念なるものは︑一等航海士ジュークスの理解の将外
にある︒台風のすさまじい破壊力を目のあたりにする時︑最悪の事態について想像する力を具備しているジューク ︵茄︶スの内部では﹁何かがひつくり返すように思われ︑﹃南山号﹄は失われたという思いが決定的に募る﹂のであり︑
ジュークスは一大発見でもしたかのように﹁南山号﹂はもうだめだ︑と眩くのだ︒台風の破壊力はジュークスに︑
何か対策を講ずる事の愚を教えるのであって︑その際ジュークスは無論己れを怯儒の徒とみなしたりはしない︒む
しろ理性的に振舞っている︑と信じ切っている彼は︑一種異様な自己満足に浸り︑己れの態度はストイシズムに貫
かれていると思いさえするのだ︒若年の彼は︑想像裡に生々しく喚起された最悪の事態︵船の転覆・沈没︶を数学
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想豫力と伝統の感覚
︵26︶的に正確な事のように思いなし︑いかなる種類の行動にも﹁圧倒的な嫌悪﹂を覚え︑ただ決然と死の覚悟を決める
ところにのみ︑生の意義は見出されると思うに至っている︒けれども︑﹁それは無理強いされた精神の麻痺に大分
似て露﹂と作者は注目すべきコメントを加えるのだ・舅態簡断なく破局に向か・て進行しているという切迫
感﹂のおかげで︑人は生それ自体よりも平和︵即ち死︶に憧れるようになるのだ︑と︒
ここでフランスのモラリスト︑アラン︵≧p︒ぎ︶の考え方に触れるのは︑見当違いな事ではあるまい︒アランは
あるエッセイの中で︑庭の楡の木についた毛虫の破壊力を前にして︑楡の木の死という最悪の事態を生々しく想像
し︑行動の無意味を説く友人の事を取り上げている︒毛虫と闘う事の無意味を説いてやまない友人は︑最悪の事態
そのものを相手にしているのではなくて︑最悪の事態についての観念のとりこになっているのであって︑それ故彼
の話には一種抗し難い説得力が具わる事になる︒そこで︑︿想像力Vに圧倒されて行動力を麻痺させているこの
く雄弁なV友人を︑どうやって︿想像力﹀の呪縛から解き放し︑現実そのものに直面させるかが︑アランの務めと
なる︒アランは言う︑闘うのだ︑一匹を殺す事ができれぽ︑百匹でも干匹でも万匹でも殺せるはずだ︑と︒眼前の
ものだけを見ていれぽいいのであり︑物事の途轍もない重さとか︑人間の弱さなどを考えていたら︑行動などでき
はしない︑と︒小さな努力に信念を持つ事︑ぞうすればやがて無数の力がこちらに有利に働いていると気づくに至 ︵認︶る事請合いである︑実際︑﹁ちょっと指を動かしただけでも新しい世界が生まれるのだから﹂と︒
アランのエッセイと同様﹃台風﹄も︑最悪の事態を生々しく想い描く能力を駆使し︑それでもって事足れりとす
る人間のいる事を︑示している︒船の無残な末路を想像して一種のストイシズムに浸る時︑ジュークスの内面には
︿平和﹀への憧れが生じるのだが︑前にも述べたようにこの憧れは死の受容に直結しているのだ︒ ﹁終わりの始ま
23
りだ﹂と思っているジュークスの耳には﹁瞑想の幾歳月かの間に成熟を遂げた信念﹂の持主たる船長の命令は︑酷
薄な精神の誇示としか響かない︒ジュークスは台風に敢然と船を立ち向かわせる船長のやり方は︑中国人の生命の
軽視の現れ︑と思っているのだが︑しかし彼に︑現実︵事実自体︶への対応策があるわけではない︒ただ最悪の事
態についての想像に見事に釣り合う最善の事態についての想像力︑その想像力が生み落とす︿最善の策﹀︑つまり
桃源郷を想定した上で立てられる凡そ非現実的な策があるぽかりなのだ︒早い話がジュークスは嵐のさ中︑中国人
乗客に不快感を味わわせないのを︑重要視する始末である︒そして最善の事態の想定から生まれる最善の策︑一見
人道主義的であるが故に世の人々にもてはやされるこのような︿策﹀の不適切さの理由の一半が︑注意力の麻痺に
求められたとしても︑異とするに足りない︒
24
嵐の魔力がジュークスを捉えていたのである︒彼はその魔力に体の芯まで侵され︑呑みつくされていた︒その
魔力に釘づけにされて︑彼は注意力を麻痺させ︑身体をこわばらせていたのである︒⁝⁝彼の心は︑平和への憧
れを生じさせる嵐によって腐敗させられていたから︑訓練や命令を圧制とみなし︑これに逆らうようになったの
︵30︶である︒
ここで訓練とか命令とか称せられているものは︑伝統の感覚の所産に他ならず︑伝統の感覚は︑最悪の事態を想
像する力と鋭く対立するところに︑その特色を最もよく発揮すると言ってよい︒想像力の跳梁を許しているジュー
クスにとっては︑注意を集中して一瞬一瞬を苦闘の裡に送るよりは︑金縛り状態に陥る方が︑はるかにましなので
想像力と伝統の感覚
ある︒ ところで船長の命令の一つは︑中国人の様子を見てこいというものであって︑この命令がジュークスに発せられ
るのは︑水夫長の報告で︑中国人たちは︑激しい揺れのため一塊の得体の知れぬ物体の如く︑左右に与り続ける一
方︑貨幣︵ドル︶の奪い合いを演じているという事を知ったからである︵中国入が各自︑後生大事に所持していた
木箱は一つ残らず壊れ︑貨幣があたりに流出・散乱してしまったのである︶︒船長の命令の愚劣さ加減に頗る不愉
快になるジュークスが︑嵐は大丈夫切り抜けられるという船長の言葉に我知らず励まされ︑気がついてみたら船長
の命令に従っていた︑というのはアイロニイだが︑このアイロニイは︑序でに言えば︑ストーリイを推進する力と
もなっているのだ︒ところで中国人の船室に苦心惨憺の末辿り着いたジュークスは︑様々にグロテスクな姿態を取
る中国人たちを一目見て︑死者の出る事態を︑まざまざと心に想い描き︑自らの感覚をすっかり麻痺させ︑ 然自
失の態で船室の扉に︑閂をかける始末である︒危険についての観念に淫するジュークスを︑事実そのもの︑あるい
は危険そのものに直面させようとでもするかのように︑船長は今度は︑散乱した貨幣を一ヵ所に集めろ︑と命令を
下す︒ジュークスはなるほど他の船員の助力を得て無我夢中で船長の命令を実行しはするが︑またしても最悪の事
態を予想して︑身をひたすらこわばらせるのだ一︑中国入たちは︑ジュークスたちが混乱に乗じて金品を奪い取 しゅりたいったと信じ込んでいるから︑台風が一旦静まると︑どえらい事態が出来するに相違ないと予想して︒
一方︑︑船が台風の目に入るや否や︑マッチを擦って気圧計を覗き込む船長の眼に︑かってない程に低い数字を指
し示した針がとび込んでくるのだが︑船長の最初の反応は気圧計の方がどうかしているというものだ︒しかし次の
瞬間﹁最悪の事態がこれからやってくるのだ﹂と考える︒但しこの判断には﹁書物の言っている事がもしも正しい
25
とすれぽしという条件が付いているであって︑この﹁書物の言っている事がもしも正しいとすれぽ﹂によって解る
事は︑彼が書物︵航海術の本︶の説くところを必ずしも信じてはいないという事である︒けれども︑船長室のテー
ブル上の物が一つ残らず姿を消しているのを見た時︑沈着の塊のような彼の心に困惑が生ずるのであり︑ 一瞬彼
は︑頭上に一本の細い髪の毛で︑吊された︑今にも落下しそうな剣の像を想い描く︒しかしそれが瞬時である事
は︑最悪の事態そのものに直面して動揺した心が直ちに秩序と習慣的動作の回復に向かう事を意味しているのであ
り︑実際彼は︑使用したマッチ箱を所定の場所に置く事や︑濡れそぼった顔や頭をタオルでごしごし拭く事に重大
な意義を見出しさえするのである︒そしてそうした単純な動作はく想像力Vの鎮静に大いに役立っているのであっ
て︑それは彼に﹁なんとか切り抜ける事ができるかも知れない﹂という自信の言葉を吐かせるのに充分なのだ︒ ︵31︶沈着を取り戻して後︑一等航海士に向かって﹁ああいう本は頭を混乱させ︑人を神経質にするのが落ちだ﹂と言い
切る時︑船長にとって︑最終的に頼りになるのはく想像力Vに厳しく限界を付する伝統の感覚である事が明瞭にな
る︒その伝統の感覚は︑間断なく眼前の仕事に献身せよ︑という事きり教えないのであり︑それは﹁あと五分
で船が沈むとわかっていたとしても﹂習慣的動作や物事の秩序が失われるのを許すまいとする態度となって現れ
る︒ T・S・エリオットは︑ある本の中で伝統とは﹁習慣的な動作︑即ち最も意義深い宗教上の儀式から見知らぬ人 ︵32︶に対する際の決まりきった挨拶の仕方に至るまでの習慣や風習﹂の事であると述べ︑また別の箇所で﹁自由はよぎ
ものである︒けれども自由よりも大事なものとして秩序がある︒そして秩序の維持はあらゆる手段を正当化す
︵33︶る﹂と述べて︑︿合理主義﹀に発する観念的な自由よりも︑眼前の事態そのものに即応せよ︑と教える秩序の感覚
26
想像力と伝統の感覚
︵別言すれば伝統の感覚︶の方をよしとした︒コンラッドもまた次のように述べて︑伝統の価値を極めて明瞭に示
したのである︒ ﹁入間は仕事をする存在である︒もしも仕事をする存在でなかったら︑何ものでもない︑実際︑何
ものでもない ちょうど単なる冒険家に過ぎぬ入のように⁝⁝人類の大多数にとって必要な唯一の徳は︑一瞬一 ︵鈎︶瞬の努力を通じて︑手と胸に最も近接するものへ絶えず忠実に対応する事なのである﹂︒
くりかえして言えば︑マクファー船長に想像力が欠けているわけではない︒ただ彼の想像力は﹁眼前の仕事に対 ︵35︶する義務感︑あるいは一種捉えどころのない拘束感﹂によって限界を付せられているのであり︑それ故彼は︑予め
最悪の事態を想像する破目に陥ったりはしないし︑また最善の事態を想像する破目にも陥らない︒そこで言い得る
のは︑限界を付された彼の想像力の中では︑見栄えのしない︿次善の策﹀だけが意味ある策となって浮き出てくる
という事である︒そして︿次善の策﹀を唯一の策とする船長の本領が︑こったまぜに一ヵ所に掻き集められたドル
を苦力たちに返却する際にも︑発揮されるというのは︑注目されてよい︒最悪の事態と最善の事態を想像する能力
に長けた一等航海士にしてみれぽ︑そもそも︑白人の乗組員たちに金品を強奪されたと思い込んで殺気立っている
苦力たちを甲板に集合させる事自体が言語道断な措置なのだが︑船長はまず中国人通訳を船底の中国人たちの方に
差し向け︑事情をよく説明させて︑彼らの怒りや不安を鎮め︑而して彼らを甲板に集合させ︑掻き集めた貨幣を均
等割にして返却するという方法を黙々と実行に移すのである︒苦力たちは皆︑同一場所で同一期間働いたのだか
ら︑均等割で返却するに如くはない︑と船長は判断し︑これを実行してみせたのだが︑この場合︑これ以外の策
は︑果てしない混乱しか惹き起こさなかっただろう事は︑一切が無事に済んだ後で明白となるのである︒﹁書物を覗 ︵お︶
いてみたところで解決できない事が色々あるんだよ﹂︵↓げ臼︒碧︒夢ぎσqω冤︒信粗筆αぎ島ぎσq9︒ぎ延言宮︒冨.︶
27
という船長の言葉は︑
を示していよう︒ 書物もまたA想像力Vに蝕まれているが故に︑究極的には︑拠り所にはなりえないという事 28
四
﹃ナーシサス号の黒人﹄は︑一面からすると︑最悪の事態について想像する事と最悪の事態そのものに対面する
事との︑甚だしい懸隔を扱った小説であると言える︒そして最悪の事態についての想像は︑最善の事態についての
想像と表裏一体の関係にあり︑最善の事態についての想像から抽出される︿策﹀は︑つねに非現実的な︿策﹀であ
る事が示される︒
最悪の事態とはジ︑ミイが航行中に死ぬ事であるが︑船乗りたちは最悪の事態そのものに直面するのを最も苦手と
しているから︑最悪の事態について将もない思いに耽る事の方を好み︑それによって今度は最善の事態︵即ちジミ
イは健康を回復し︑仕事もできるようになるという事︶について想像をめぐらす事が可能となる︒かくてジミイに
関して︑彼は重病人でもあれば︑同時に健康人でもあるという不条理な観念︵幻想︶が抱かれる事になり︑ ﹁彼 ︵37︶ おお︵1ージ︑︑・イ︶は俺たちの存在のあらゆる瞬間の支配者となり﹂果せるのである︒そのような支配者となるに際し
て︑ジ︑︑︑イは受身に構えていたのではなくて︑積極的に船乗りたちの想像力に働きかけたのだし︑一方ドンキンは
船乗りたちのかき抱く幻想を︑権利意識培養の為の絶好の︿土壌﹀と為したのである︒そして幻想という︿土壌﹀
に生い育った権利意識が︑︿反乱﹀を惹き起こすに足るだけのエネルギーを蔵している事も明らかとなる︒
想像力と伝統の感覚
まずジミイの保護者をもって自任しているベルファストなる男が︑ジミイの小うるさい食欲を宥めるべく︑食糧
貯蔵室から上級船員用のサンデ⁝・フルーツパイを盗むという事件が発生する︒これは上級船員に対する下級船員
の反逆の意思表示とも受け取られ得る事件で︑帆船に固有の上下の信頼関係が︑これを機に揺らぎ始める︒そして︑
ジミイが重病人であると確信できぬまま︑憐欄の情を肥大さぜて行く船乗りたちの欝屈した気持は︑ジ︑︑︑イの部屋
に入り浸って仕事を怠り通しのドンキソを︑一等航海士が引き摺り出す際に︑遂に捌け口を見出す︒﹁俺たち﹂は
一等航海士の仕打ちに︑筆舌に尽くし難いショックを受け︑﹁病入を看護人なしで放っておくのか﹂﹁仲間の看病を ︵お︶したという理由で虐待されねばならないのか﹂などと︑口々に叫ぶ︒一方︑︿文脈﹀を無視していぎなり﹁真理﹂
や﹁救済﹂を押しつけようとする点でドンキソと相通ずるところのあるクリスチャンのコックが︑ある晩︑ジミイ
をつかまえてお前さんはじき死ぬ斜なのだから︑と言い放って繊悔を強要したために︑ジ︑ミイは︑今はもう健康体
だ︑仕事もできる︑と言い張らないわけにはいかなくなる︑という事件が発生する︒騒ぎを聞いて駆け付ける船長
は︑ジミイが瀕死の状態にある事を直視しているが故に︑仕事をさぜてくれと申し出るジ︑ミイに断固たる口調でだ
めだと答えるのだ︒一方船乗りたちは︑ジミイは健康人であると心底から信ずる事はできないにもかかわらず︑そ
う信ずる事の心地よさを味わっているが故に激しい抗議の声を上げ︑ジミイもそれに和して︑﹁今はもう大丈夫﹂
などと叫ぶが︑事実自体しか相手にしない船長は︑ジミイの申し出を再度峻拒する︒ ︵39︶ イァン・ウォットも言っているように︑この場合憐欄を真っ当に理解し︑それを示すのは船長だけだが︑船乗り
たちは憐欄の名において︿反乱﹀を起こし︑船長を攻撃目標にするのである︒そしてジ︑ミイを病人として遇すると
同時に健康人としても遇するというのが︑︿最善の策﹀であるとすれぽ︑ジミイを病人としてのみ遇するのはく次
29
善の策Vに他ならない︒﹁偉大なもの﹂即ち幻想のとりこになった一般の船乗りたちは︑八次善の策Vの真っ当さ
をまるで理解できず︑一直線に︿反乱﹀へ突き進むわけである.︑﹁健康な人間をなぜ働かせないのか﹂﹁黒人だって
人間だ﹂﹁ストライキだ! ストライキだ!﹂﹁俺たちはずっと欺されてたんだ﹂﹁義務なんか拒否するぞ﹂﹁やつら
︵40︶
をやっつけろ﹂などという声を船乗りたちは次々に発するが︑やがて﹁闇に乗じてやつらをやっつけろ﹂と叫ぶドンキンは何か重い金具を船長めがけて投げつける︵翌朝︑金具を元の所へ戻せと船長に詰め寄られたドンキソは
﹁裁判に訴えてやる﹂などと口走る︶︒船はその間に勝手な動きを示し︑帆や索具の大きな音で︑船乗りたちに一
種の不意打ちを食らわせるが︑﹁それはまるで目に見えない大きな手が怒りを込めて船をゆさぶり︑甲板に屯する ︵41︶男たちに︑現実感︑警戒心︑義務感を取り戻させようとでもするかのようであった﹂︒現実感︑警戒心︑義務感1
1必要なのはこれだけであり︑これに惇らぬ策が採られる限り︑社会の秩序︵伝統︶は維持できると作者は言って
いるようにみえる︒そして注目すべき事に︑現実感︑警戒心︑義務感を取り戻すとはある種の幻滅を味わう事に他
ならず︑その幻滅の提供役をシングルトンや船長は担っているのだ︒従って︑折ある毎に﹁やっこさん︵1ージミイ︶ のたまを助ける事などできやしない︑やっこさんは死ぬに決まってる﹂と﹁宣う﹂シングルトンが︑一般の船乗りたちの ︵42︶眼に﹁取り付く島もない知恵︑冷酷な無関心︑冷え冷えとした諦念﹂の所有者と映るのは無理もないのである︒同 ︵43︶様に︿反乱﹀の翌朝︑船長が船乗りたちを前にして﹁お前たちは一体何が欲しいのか﹂と訊ねる時︑幻滅の提供者
としての船長の面目躍如たるものがあると言わなけれぽならない︒﹁一体何が欲しいのか﹂この間をつきつけられ
た瞬間︑船乗りたちはジミイの存在を忘れ果てるのであり︑それはジミイが既に死者となっていたとしてもこれ程
ではないだろうと思われる程に深い忘却なのである︒一体彼らは何を欲していたのか︒﹁彼らは偉大なものを欲し
30
である︒そして突然︑彼らに簡明だと思われていた言葉が悉く︑彼らの広漠として曖昧な欲求とともに︑永久に消 ︵44︶え失せてしまったかのように思われたL︒
船乗りたちが事実自体を相手にせず︑ただ﹁偉大なもの﹂︑換言すれぽ︿マイナス﹀がまるで無くくプラスVか
らのみ成り立っている世界への憧れを抱いていた事は︑ジミイに病人としての権利と同時に働く権利を与えようと
しているのを見ただけでも︑歴然としてくる︒一体︑人聞社会において︑︿プラス﹀があれぼくマイナスVが伴う
というのは︑如何ともし難い事実であり︑︿プラス﹀だけから成り立つ世界を欲するというのは︑︿マイナスVだ
けから成り立つ世異を想定するのと同様︑幻想に発するものだが︑船乗りたちはその幻想の所産をもって︿最善の
策﹀とし︑︿最善の策﹀の採用を拒む船長を敵に仕立て上げ︑船の秩序︵伝統︶を危殆に瀕させるのだ︒
事実自体︑︿プラス﹀とくマイナス﹀が混在する︵あるいは相補的に存在する︶事実自体︑︿プラスVとくマイ
ナスVの不可分の関係を通じて︑生の不可測性︑可能性︑多様性に対する澄刺とした感覚を養い育てさえする事実
自体︑そういう事実自体は︑苦痛なしには対面できない場合が多いのだし︑それに引き替え︑幻想に浸るのはいか
にも心地よい︒が︑作者は幻想に浸る事の代償がいかなる種類のものであるかを︑示すのを忘れない︒
想像力と伝統の感覚
彼︵1ージミイ︶には俺たちを非道徳的にする力があった︒彼のおかげで俺たちは頗る人道的になり︑やさしく
なり︑複雑になり︑過度に頽廃的となった︒俺たちは彼の恐怖の陰微な躾を理解し︑彼の反澱︑萎縮︑回避︑幻
想に共感を示したi俺たちはもうまるで過度に文明化し︑腐敗し︑生の意味を見失ってしまった人間のようで ︵45︶あった︒俺たちは何かおぞましい神秘に参与しているような具合であった︒
31
それでは何故に船乗りたちは︑生の意味の喪失︑あるいは自己欺隔という代償を伴っている幻想に︑好き好んで
浸る事をしたのか︑という問がここで自ら読者の胸に浮んでくる︒それに答えるには︑︿想像力﹀と伝統の感覚の
対比が今一度必要になる︑と言わねばなるまい︒
︿想像力﹀の特徴は︑﹁俺たち﹂が善の塊であるのは否定のしようのない事実だ︑と教える点にも見出されるの
であって︑実際﹁干たち﹂は自分たちの勇気や同情や能力は限りなく偉大であるのに︑報酬は不当に少なく︑人権
も無視されているなどと︑自己憐欄的な思いに駆られるのである︒船乗りたちの限りない軽蔑の対象になっている
ドンキンが船の秩序破壊の為の︑いわぽ型込唄つけを行い︑船乗りたちに影響力を及ぼす事ができるのも︑彼がく想
像力Vのこのような特徴を知悉した﹁完壁な芸術家﹂であるからだ︒
32
彼︵1ードンキン︶に対する沃たちの軽蔑には限りがなかったiIところがこの完斜な芸術家の話を︑ ︵46︶興味津々たるものとして聴かないわけにはいかなかったのである︒ 俺たちは た鯨
。)
エ
た ち は
こ
の 男 を 忌 み 嫌 つ てし・
た の 惹
力こ
彼の主張には輝かしい真理が含まれていると認めざるをえなかっ
ドンキンのまやかしを見破るのはたやすい事だが︑ドンキンの影響から脱け出るのは容易︑とは決して言えな
い︒なぜなら船乗りたちの善性の意識や権利の意識をくすぐってくれる限り︑ドンキソは歓迎されざる人物では決
想像力と伝統の感覚
してないからだ︒けれどもドンキンが影響力を持ち得るのは︑事実自体が棚上げにされている問だけであり︑ひと
たび嵐が事実自体の見本となって船を見舞うと︑船乗りたちはドンキンの存在に一顧だに与えない︒という事は︑
徹底的に情け容赦もなく襲いかかる嵐という外的危険がこれら素朴な男たちの幻想を吹き払ってくれるという事で
あり︑それによって今度は男たちの伝統の感覚の回復が可能になるという事だ︒嵐のさなか︑船が四五度傾いたま
ま帆走する破目になった時︑船乗りたちは船室に閉じ込められたままとなっているジ︑ミイの存在も忘れ︑沈着さを
いささかも失わずに舵を取り続ける老シングルトンを讃美の対象にするのである︒そして嵐という圧倒的な事実を
眼前にして採られる策が︿次善の策﹀であるという事も注目に値するのであり︑例えば傾斜したまま走る船のマス
ヘ ヘ ヘトを切断するのは︑安全の絶対的確保という観点からすれぼく最善の策Vだが︑船乗りたちは﹁切れ﹂というドン
キンの声に結局耳を貸さず︑﹁切るな﹂という船長の命令に服するのである︒そしてマストを切らないというのは︑
この場合︑船への献身を意味し︑船への献身は伝統への献身の謂である︒というのも︑船は本来船乗りたちにとっ
ては他ならぬ伝統の息づく場として存するからである︒そして伝統が息づくのは一所懸命な労苦1︿次善の策﹀
の追求一を通じてであるという事もまた明白なのだ︑実際︑彼らは﹁日の出から日の入りまで︑日の入りから日 ︵娼︶の出まで︑間断なく︑仕事は厳しくあれ︑と命ずる永遠の慈悲に対して︑自らの生を根拠づけなけれぽならない﹂
のである︒﹁なるほど︑うんざりする程うち続く夜そして昼は︑至福と空うな天国をしつこく要求する賢者たちの
かまびすしい声によって汚されはするが︑それでもその夜と昼の連続は︑苦痛と労苦の広大な沈黙によって︑忘れ
もだ ︵49︶
っぽいが忍耐強い︑名も無き男たちの︑黙せる恐れと勇気とによって︑遂に言われるのである﹂︒33
34
五﹃台風﹄の一等航海士ジュークスと﹃ナーシサス号の黒人﹄の下級船員たちとは︑事実自体を棚上げにして︑想
像をほしいままにする点では共通するが︑嵐という外的危険に際会する時︑いわゆるインテリのジュークスは︑
︿最悪の事態﹀についての観念に捉えられる点で︑事態そのものを相手にするに至る﹃ナーシサス号の黒人﹄の素
朴な海の男たちと︑決定的に異なる︒ジュークスが嵐という事実自体に対面するのではなくて︑︿最悪の事態Vに
ついて想像をめぐらす事に明け暮れするというのは︑常日頃く最善の事態Vについて思いをめぐらすのを︑事とし
現実︵出来事︶自体にく最善の策Vをもって対しようと予め心に決めている事の裏返しであって︑そういう人間が
見栄えのしない次善の策しか受付けぬ事実自体を眼前につきつけられて不意打ちを食らった感じに陥るのは︑少し
も不思議ではない︒
よく知られているように︑ライオネル・トリリングは不意打ちを食らってばかりいる人間の想像力を﹁リベラル
な想像力﹂と名づけたのであるが︑トリリングはこのような想像力を生み出すリベラリズムなるものを批判して言
っている︒﹁リベラリズムは科学やプラグマティズムや仮説と親和力で結ぼれているような顔をしたがるけれど︑ ︵50︶その実﹃理念﹄や絶対的なものをこそ必要としているのであり﹂それは入間の集団や制度にユートピアのにおいを
かぎつけた時とか人問に聖者の香りをかぎつけた時にのみ︑同盟関係を結ぼうとするのである︑と︒ところが現実
︵出来事︶自体は︑そういうリベラリズムには常に﹁変則﹂として迫ってくるのであり︑それ故リベラリズムは現
想像力と伝統の感覚
実︵出来事︶の前で為す術を知らず︑無為無策に陥るより他はないのだが︑しかし他方︑リベラリズムは︿合理主
義﹀を旗印としているが故に︑︿理性﹀をふりかざす事もできるのであり︑そこにリベラリズムが何故に︑現代
人︑就中現代の知識入に大きな影響力を及ぼし得るのかを︑解き明かす鍵も見出される︒
伝統の感覚に立脚して︿想像力﹀を批判するコンラッドは︑リベラリズムの︿枠内﹀でリベラルな想像力を批判
するトリリングとは明らかに立場が異なる︑と言っておかねばならないが︑コンラッドが﹃ナーシサス号の黒人﹄
や﹃台風﹄で行っている想像力批判とトリリングの﹁リベラルな想像力﹂批判との問に相通ずるもののある事は否
定できないのである・コンラ・ドが﹁不変の瓦囲﹂︵n〒・ピア︶の構想から得られる想像力ではなくて︑伝統
の感覚に他ならぬ想像力の方をよしとした時︑彼は偶発や変則の観を呈する出来事に即応し得る真っ当な想像力
を︑蘇らせようとしていたと言ってよい︒そして︑本来文学を学ぶ事によって培われるはずの︑そういう想像力
と︑︿次善の策﹀をよしとする態度との間に密接不可分の関係のある事が︑見逃しようもなく明瞭に示されている
のだ︒けれどもこの種の想像力の存在にすら気づかないのが︑現代の知識人・文学者なのであり︑彼らは時に数字
や統計を援用して︑人類の絶滅という︿最悪の事態﹀を生々しく描いてみせたりするが︑その︿最悪の事態﹀は︑
大抵の場合︑︿最善の事態Vを待望する彼らの気持を単に裏返したものに過ぎない︒それ雪雲らの内部に︿最善の
策﹀が用意されているのは怪しむに足りず︑事実彼らはく最善の策﹀をもって現実に応じようとするが︑その︿最
善の策﹀が無為無策の別名に他ならない事もまたこの上なく明瞭なのだ︒
コンラッドは︿最善の策﹀が逆らい難い魅力をもって迫ってくる所にく想像力Vの病を的確に嗅ぎ分けたのであ
って︑九〇年近くも前に書かれた﹃ナーシサス号の黒人﹄や﹃台風﹄が傑作だと読者に思われるのは︑一つにはた
35
とえぽ︑揺るぎない理想に現実を一致させよ.うと努力するのが正し
読者の注意を喚起してくれるからである︒
注
((((((((((((((((((((
20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1
))))))))))))))))))))
い生.き方だというような主張.のいい加減さに︑
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一三αこ
一三αこ
一げ剛Oこ
一三αこ
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一三匹こ一三血二
一σ置こ一三鳥こ
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幽 O o . ● , o り o ●N一一一一刈ω㊦ωGQ 心QO卜。−o・一・o一
り .・ 9 . ● 9 , ●冒ω①908﹁巴・
冒ω①讐08﹁巴u
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崖Oこ唱.ω①・ き蕊§卜慧§職トミミ孕ロニ︒︒㊤・ぎ帖轟ミミミ鳴︑︑≧貸ミ鈎§..響唱辱
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36
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Ibid., p.36.
Joseph Conrad,乃助ooη朋40彦乃〃S o〃εs, London, J. M. Dent and Sons,1903, p.9.
Ibidり p.19.
Ibid., P. vii.
Ibid., p.45.
Ibidり p.51.
Ibid., p.52.
Alain, P塑ρ055麗γ 6∂o測点γ, Gallimard,1928, pp.69−71.
Joseph Conrad,7ンρ〃ooη αη40 乃6γS oγ ε5, P.35。
Ibidり p.53.
Ibid., p.87.
T.S. Eliot,/1∫∫θγ5〃。πgθGoお, London:Faber and Faber,1934, p.18.
T.S. Eliot, Fo7 LαηcθJo 、4π〃θω5, London;Faber and Faber,1928, p。46.
Joseph Conrad,1Vθ ¢s o% 五∫ルαη4五θ 彦8γ3, P.190・
Ibid., p.、191.
Joseph Conrad, 乃ρ乃ooη αη40彦〃6γS oγ診θ5, P・102・
Joseph Conrad, 丁乃θ〈rゴ998γqズ ぬθ 瀬κ∫55錫s , P・37・
Ibid., p.103.
Ian Watt, Co解α4加伽〈肋θ θθ〃 んCθη伽拶, p.108.
Joseph Conrad, T々6 1>げ8コ9r87(〜プ ぬ6 飽κゴss麗3 , P・121・
Ibidり p.124.
lbid., P,130.
Ibid., p,133.
Ibid., p.134.
Ibid。, p.139.
卜︒う
㊤寸︵ 等︵
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︵ 專︵ Oゆ︵ ラ鵠︵
Ibidり p.100.
Ibid., p. 101.
Ibid., p.90.
lbidり. p.90.
Lionel Trilling, E.ル乙Foγε θ7, London=The Hogarth Press,1959, p.14.
Joseph Conrad,ノl P2γ50ηα」1r〜θco雇P.95.
霧.