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山 之 内   光 躬

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(1)

財政決定における合理性基準

山之内 光躬

 現代の経済生活でぱ︑純粋に経済的な諸関係が支配する領域が︑ますます縮小し︑むしろ︑政治的︑社会的要因

が︑決定的な影響を及ぼすような状況が一般化してきている︒そして︑伝統的経済理論が︑理論的に︑また経験的に

積み上げてきた︑すぐれた研究成果は︑しばしば︑有用な政策上の勧告を提出してきたが︑伝統的理論が︑その定式

化の中に織り込むことのなかった︑政治的︑社会的現実に直面したとき︑それらの提言はしばしば挫折したのであ       ︵1︶り︑そこから︑経済理論の限界が指摘されたのであった︒

 すなわち︑経済と政治︑社会の現実は︑本来︑不可分なものであったが︑経済理論はその定式化の過程で︑その周

辺領域を隔絶してきたために︑特に︑これら経済外的要因の比重が高まってきたとき︑経済理論の政策的提言は︑そ

の有効性を十分に発揮できなくなってきたのである︒本稿では︑このような観点から︑現代の財政政策過程における

提言の背後に横たわる︑経済的合理性の問題を検討することにする︒

早稲田社会科学研究 第29号(S59.9)

149

(2)

 一九七〇年代の後半以降︑日本の財政構造は︑財政赤字累積の進行が常態化するという︑最大の特徴をもってき      励た︒もちろん︑近年における財政赤字の問題は︑ひとり︑日本だけにとどまらず︑世界の先進民主主義諸国が︑ひと

しく経験しているところである︒そして︑この構造的財政赤字の問題は︑先進諸国が︑財政政策上︑何よりもまず︑

克服しなければならない︑当面の最大課題となっている︒

 いま︑日本の一般会計予算に占める国債費の比率をあげれば︑昭和四十五年度の三・五パーセントに対して︑五十

九年度の当初予算では︑一八・一パーセントに上昇している︒そして︑これは︑同年度の社会保障関係費に︑ほぼ匹

敵する大きさである︒また︑歳入に占める租税収入と公債収入の比率を︑同じ年度で比較すると︑四十五年度の︑租

税八六・ニパーセソト︑国債四・一パーセントから︑五十九年度の︑租税六八・三パーセント︑国債二五パーセント

へと︑財政収入の国債依存度は︑大幅な上昇を示している︒そして︑この国債残高は︑五十九年度末において︑約一

二二兆円に達するものと予想されている︒

 このような︑国債依存度の異常な高さ︑また︑国債残高の持続的累積の問題に関する︑経済学者の評価は︑かなら

ずしも一致しているわけではない︒それらは︑公債負担の問題とともに︑依然として︑論争上のテーマにほかならな

いが︑ここでは︑われわれは︑この問題に直接の関心をもってはいない︒むしろ︑国民一人当り︑一〇〇万円に上る

累積赤字と︑一日当り︑二五〇億円の国債費という︑現在の財政赤字の構造が︑現実の財政運営上の︑いわゆる﹁危

機﹂をもたらし︑この﹁危機﹂を克服するために提案された︑﹁歳出削減﹂あるいは︑﹁増税﹂による﹁財政再建﹂案

が︑かならずしも︑期待どおりには︑実現されていない状況に着目したい︒

 高度成長がもたらした︑豊富な財政収入にまかせて︑歳出は累増し︑既得権化した歳出構造は︑その下方硬直性の

(3)

財政決定における合理性基準

ために︑大きな非効率性を内部に抱えたまま︑財政減量計画︑財政合理化計画を︑大きく阻んできた︒一方︑財政健

全化のための増税提案もまた︑納税者の強い拒否反応にあい︑政治的合意への途は険しい︒

 このとき︑財政決定過程における︑このような国民の選択は︑いわゆる経済的効率性の観点からは︑どのように評

価されているのか︒最近の財政再建計画が︑かならずしも︑期待する成果をあげ得ないとき︑その責任の大部分は︑

政治家の経済的に非効率な行動動機︑さらには︑個々の利益集団や公共財受益者 納税者としての個人の︑反社会的

行動に負わされている︒ここで︑政治家の︑経済的に非効率な行動動機とは︑政策策定過程において︑いわゆる集票

目標︑つまり︑投票極大化目標が最優先される結果︑経済的効率性基準が欠落していることを意味するのであり︑そ

してまた︑集団や個人の反社会的行動とは︑かれらが︑政策策定過程の背後において︑集団の自利動機にもとづいた

共益の追求︑自己に帰属する便益の追求を︑社会の集合的合理性よりも優先させ︑そして︑費用負担を︑できうるか

ぎり回避しようとする︑いわゆる︑フリー・ライディソグ動機に支配されているということを意味する︒

 このプロセスで︑経済的合理性基準をとりもどさなければ︑財政再建を現実のものとして︑稔りあるものにするこ

とはできないというわけである︒つまり︑公共財︑サービスの選択決定の際に︑その機会費用が直前に認識でぎるよ

うなシステム︑経済的効率性の評価基準が︑有効に機能しうるシステムが要請されることになる︒

 経済効率性基準から出発するかぎり︑財政決定においてもまた︑費用と便益が比較考量されなけれぽならない︒支

出費用ば︑それに値いする便益を保証するのか︒便益は︑その便益消失効果としての費用をカヴァーしうるのか︑あ

るいは︑どの程度それを超過しうるのか︒これらを判定するシステムが設定されるとき︑特定の政策目標に向けられ

た︑選択的プ戸ジェクトの優先順位を決定することができるという意味で︑これは︑財政決定における︑最適な行動

151

(4)

戦略の選択方式にほかならないというわけである︒       52      ︵2︶       1 最近︑財政再建に関するすぐれた提言が数多く現われている︒それらは︑様々な角度から︑日本財政の構造に批判

的検討を加えている︒これらの考察は広範にわたっているが︑本稿では︑特に︑日本財政の政策策定過程に︑経済的

合理性基準が欠落している点に︑財政危機の最大の真因があるというところに︑考察の対象を限定し︑さらに︑この

ような主張を容認したうえで︑現実の政治過程と不可分の関係にある︑財政決定のプロセスが︑意思決定にあって依

拠すべきとされる﹁経済合理性基準﹂の問題を検討することにしたい︒

 註︵−︶<αq一.野毒︒ω.津㊦ざ≦曽竃屋ヨ簿鵠Oざ昌︒ヨδ二a℃︒洋貯昌一︒皇霊Φ8Φロ三毛噸一﹃映§言ミ無ミミミ嵩置§ミミ鴨

  ミ壽匙O翁ミ㌃9ミひ口︻ωσq●<o昌類①σqぎ餌竃︒コ8びδ謬●

︵2︶ たとえぽ︑大川政三﹁日本財政の選択﹂︑春秋社︑昭和五十七年︑石弘光﹁財政改革の論理﹂日本経済新聞社︑昭和五十

  七年︑水野正一﹁財政再建﹂有斐閣︑昭和五十八年︑八代尚宏編︑ ﹁行財政改革の経済学﹂東洋経済新報社︑昭和五十七年

  等その他多くのすぐれた提言がある︒

 伝統的な経済理論は︑ホモ・エコノミクス︵げ︒∋oo89δ∋ざ⊆︒︒︶を︑基本的な人間類型として︑その定式化の基

礎にすえ︑倫理的要因を排除しながら︑この経済主体の合理的選択行動を分析し︑定式化してきた︒だから︑このと

き︑所得分配や公正性についての価値判断は︑できうるかぎり洗い落され︑もっぱら︑市場メカニズムを経由する︑

(5)

資源配分の効率性の条件が追求されたのである︒このように︑資源の効率的配分における︑個人的行動に関する想定

の背後には︑倫理的価値基準とはかかわりのない︑経済的合理性基準にもとづいて︑個人は最も効率的な結果を求め

て選択を行なうという命題が横たわっていた︒

 経済理論の定式化という作業過程には︑つねに合理性原理が︑最も重要な準拠標となっていた︒この原理にしたが

えば︑合理的な個人の行動は︑明確な目的関数を持たなけれぽならない︒そして︑所与の条件のもとで︑利用可能な

選択的手段を比較考量し︑特定の目的を最大限に実現しようとする︒

 いま︑意思決定のベクトル︑

炉一国﹃:⁝質一p

があり︑そして︑それぞれに︑これから導出される︑決定結果のベクトル

財政決定における合理性基準

肉ゴ菊﹃:⁝園巳

が対応しているとき︑二人が︑最も望ましい結果多をもたらす決定﹃を選択するならば︑その行動は合理的であ

るということができる︒

 近代社会を特徴づける︑基本概念としての合理性は︑多様な意味をもっているが︑ここでは︑目的合理的な﹁最適

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(6)

化行動Lを﹁合理的行動﹂とする定掛ビよることにしよう・目的合理性の典型は︑まさに経済的合理性にほかならな

かったが︑この目的合理的な個人の最適化行動こそ︑伝統的経済理論が定式化を試みたときに求めた︑いわゆる極大

化行動という︑個別垂済主体の原初的行動パターンであった︒

 だが︑このとき︑ ﹁含理性﹂は︑行動主体の倫理感とは︑まったく関係がない︒ここでの﹁最適化﹂は︑意思決定

主体の選好だけに限定されており︑その決定が﹁善ぎ﹂決定であるのか︑あるいは︑ ﹁悪しき﹂決定であるのかとい

う判断とは︑無縁のものとして定義されているのである︒い︒菊︒σ冒ω以来︑経済学は︑その理論的厳密性︑科学性を

高めていくために︑この倫理的判断という︑いわぽ︑純粋理論形成という作業プロセスでの︑不純物を外部に廃棄し

てきた︒その廃棄物処理場ば︑径済学の隣接領域としての︑政治学であったり︑社会学であったり︑あるいぱ︑倫理       ︵2︶学の分野であった︒

 このようにして︑経済学では︑個人の経済行動は︑もっぱら︑欲求充足のための︑希少手段の割当てにかかわって

いる︒そしてこのとき︑希少資源を効率的に利用するためには︑すべての決定レベルで︑選択されたもの︵勺管︶の価

値が︑それによって断念されたもの︵∪菅︶の価値を︑超過するか︑あるいは︑最低限︑それに等しいこと︑すなわ

ち︑

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<︷℃畳︸︾<︷U曇︸

が条件になる︒個人の経済生活では︑希少資源を︑選択的︑競合的な目的間に割当てるとき︑このような機会費用の

(7)

財政決定における合理性基準

概念によって︑便益と費用︵効用と犠牲︶の比較考量が︑経済行動主体によって行なわれ︑いわゆる効率的な選択の

条件が充たされることになる︒市場経済では︑個人の行動が合理的であるかぎり︑この︑あまりにも自明の選択条件

ば︑ほとんど意識されることばない︒市場経済学では︑このように︑経済的効率性基準ぱ︑根底的には︑消費者主権

の原則から導出されてきた︒

 だが︑われわれの経済生活は︑市場経済のみで完結するのではない︒市場と政府という二元的システムを通じて︑

資源配分の機能が果たされている︒それでは︑市場経済行動に関して設定した︑経済的効率性基準は︑そのまま︑集

合的な政府経済システムにも適用しうるのであろうか︒

 集合体における経済活動を︑その固有の既究対象として︑古くから理論形成を試みてきたのは財政学であった︒し

かし︑最近にいたるまで︑財政理論は︑財政決定︑つまり︑政策策定のプロセスをも︑その固有の分析対象に含める

ことなく︑政策︑したがって経費パターンの決定は︑政治過程から︑受動的に︑与えられたものとして処理してき

た︒だから︑その主たる関心は︑与えられた政策費用をまかなう収入を︑いかに合理的に︑いかに公平に調達するか

というテーマにあったといえよう︒

 しかし︑その後の厚生経済分析が︑財政の領域︑特に公共経費の研究に応用されて︑政府の経済活動に関する効率

性の問題が︑活発に理論展開されるようになった︒経費の厚生分析は︑公共支出決定の最適条件を定義することによ

って︑一つの指針を提供した︒さらにまた︑この理論定式化と同一経路にあるものとして︑経費決定の最適条件の定

義という︑抽象レベルの成果とは別に︑具体的な財政運営に関する有効な方策が提案されてきた︒これは︑いわゆる

﹁費用・便益分析﹂として︑現実に︑実践過程に導入されてきたものにほかならない︒

155

(8)

 これらの︑公共経済部門での経済的効率性基準は︑実は︑市場経済分析の成果を︑集合的な経済領域に︑類推応用      鵬したものであった︒だが︑個の効率性基準は︑全体の効率性の判定に︑果たして︑整合しうるのであろうか︒

 註︵1︶

︵2︶ 無﹁Zお①一鶴︒毛母Fぎミ§執塁旦沁ミ帖§織ミやボ↓書ミ勘ミミミ£自§禽§亀ぎミ詩ミしロ§織ミ︒き

清水幾太郎﹁倫理学ノート﹂︑岩波書店︑昭和四十七年︑一〇章参照︒ 一㊤刈﹃9巷﹃卜︒.

 過去半世紀聞における︑各国の国民経済を特徴づける︑基本的動向は︑公共部門の驚異的な成長であった︒ ﹁この

巨大なリヴァイアサソの食欲は︑いったい︑どこから来るのか﹂が︑現代の財政学研究者の大きな関心を惹くテーマ

     ︵1︶となっている︒そして︑公共部門の経済活動もまた︑基本的には︑選択的用途に希少資源を配分するという︑選択の

問題にかかわっているのであり︑この部門が相対的比率を高めていったとき︑必然的に︑公共支出決定の効率性が追

求されたのであった︒そしてこのとき︑公共部門における経済的合理性基準としての効率性の定義は︑市場経済学が

蓄積してきた分析上の遺産によってなされたのである︒

 経済の政府部門における︑意思決定の効率性を改善するための︑具体的な方策として提出されたのが︑ ﹁費用・便

益分析﹂にほかならない︒この手法の考え方そのものは︑けっして新しいものでばなく︑文献史的には︑十九世前半     ︵2︶のい∪ξ導けにまで滞ることができるが︑実践面では︑ 一九三〇年代のニュー・ディール時代の公共事業プロジェ

(9)

財政決定における合理性基準

クトで︑大きな推進をみた︒公共事業プロジェクトの実施基準として︑便益と費用の明示的な比較に関する理論定式      ︵3︶化は︑一.<.囚﹁二艶蟹および98国島・︒叶︒ぎ等により先鞭がつけられ︑ついに一九六〇年代における﹁費用・便益

分析﹂研究の最高潮を招来したのである︒

 費用・便益手法の︑実践的適用面における成否については︑ここで改めてとり上げる必要はない︒われわれの考察

の対象は︑この費用・便益比較という効率性基準が︑いわゆる集合性における︑有効な合理性基準となりうるかどう

かを検討することだからである︒

 費用・便益手法は︑基本的には︑市場経済における効率性基準と同根のものであり︑市場テストが欠落している公

共部門経済活動に︑それに代替しうるシステムを導入しようとしたものにほかならない︒つまり︑市場経済原則の︑

集合的な公共経済への適用を︑そのまま試みたものである︒そして︑市場経済における効率性基準には︑まさに︑倫

理観その他の︑純粋理論にとっての︑不純要因が排除されて︑まさに︑純粋培養された︑純経済的ファクターのみが

組みこまれていたはずであった︒

 もし︑公共部門における経済行動が︑このような経済分析にとっての不純要因を︑分離︑隔離したままで︑有効に

説明されうるならば︑集合的経済行動の合理性基準として︑この手法の正当性を︑積極的に是認しなければならない

だろう︒もっとも︑今日︑公共投資基準としての︑費用・便益手法が︑特定の領域を除いて︑その有効性を批判され

ているのは︑公共活動の便益ないし効果の測定が困難であるという理由にもとづいている︒このことは︑特定の公共

投資プロジェクトという限定された領域から︑対象を︑一般的な行政活動の分野に拡大するとぎ︑さらに妥当するだ

ろう︒その意味では︑普遍的な基準としての︑この手法の積極的な意義は失われることになる︒

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(10)

 だが︑われわれが問題にしているのぱ︑費用・便益手法の︑技術上の難点でぱけっしてない︒ここでは︑この技術

的困薙性を認識したうえで︑経済的合理性基準としての︑より消極的な意義を容認しなければならない︒つまり︑た

とえ︑明示的な︑貨幣タームでの費用・便益の評価でなくても︑より抽象的なレベルで︑たとえば︑社会的価値と犠

牲の概念を導入しても︑経済的合理性墓準の問題の本質は︑けっして変らないからである︒

 市場経済理論が定式化した効率性基準が︑本来︑個人選好についての情報交換メカニズムとしての市場が成立しな

い︑公共財︑サービスの選択領域に応用されたとき︑果たしてそれは整合的であったのか︒政治過程を通じての︑政

策の決定︑より具体的には︑公共財供給の決定は︑市場過程におけるような︑原子論的な個別経済主体の意思決定に

よって︑導出されるのではけっしてない︒この決定プロセスこそ︑集合性という基本的特徴で説明されるように︑市

場経済における個別性と対置される︑独特の行動圏にほかならない︒市場経済学は︑いわぽ︑個の行動分析であっ

た︒だが︑個の最適化行動としての合理性基準を︑集合体の行動領域にも拡大適用することは︑希少資源を選択的用

途に割当てるという選択行動に︑経済の基本問題が存在する以上︑そして︑集合体の行動を︑あくまで︑経済的観点

からとらえようとするかぎり︑けっして間違ってはいない︒だから︑たとえば︑最近の財政再建提案に関連した論議

のなかでの︑ ﹁経済的観点からは︑歳出が︑費用と便益ないし効果の基準によって︑洗い直されなければならない﹂

という主張は︑明らかに︑正当性をもっている︒市場テストの欠落する公共財の領域で︑便益・費用に関連する技術

的困難性を超えて︑集合嗣あるいは社会的価値と犠牲の比較という︑抽象的基準ば︑少なくとも︑経済のフィールド

を︑その周辺領域から隔絶しうるかぎり︑正当なものとして是誌されなければならないだろう︒

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(11)

 註︵1︶ oh.目ぎ∋器国.ゆ︒﹁90乙冒σq︵巴・︶層鴨ミ鷺冴§職鴨ミミ§︑ミ9↓ミ砺︒ミミ⇔ミOSミ嵩ミ§︑O︑oミ許一〇ミ・

︵2︶い∪葛巳♂U・冨ヨ①聲﹃①α①旨議まユ①ωけ冨雲高×建匪臼Φωし糞﹄嵩ミ霧§肋︑§冨ミ9§鞭爵b︒ω⑰ユρじdF

 Go魑目Qo置.

︵3︶いく・閑≡二=p四巳9一︒国︒冨蚤Pミミ§貯留も︒器ミ唱ミ寒ミ魯ミ§ひH㊤㎝︒︒旧O・団︒冨§Pミ窟︑ミ沁§ミミ

 b塁ミ§ミ§ひ↓評恥肉8嵩Oミ︑塗ミ︑︑ミ.偽ミ肉ミミミ皆きH㊤㎝Q◎●

財政決定におげる合理性基準

 個の経済行動の効率性基準を定式化した市場態度学は︑理論形成作菜過程で︑理論操作上の不純物を︑外部に廃棄

してきた︒だが︑個の行動分野では︑純経済的要因を︑完全に︑他の要因と隔絶したまま︑説明することが.可能なの

か︒ 個人が︑それぞれの目的関数式の最大を求めて︑個々の変数を調整していくとき︑しばしば︑この行動が他の個人

の最適化行動や集合体の合理性と一致しないことがある︒個人が複数で社会を構灰しているとき︑その行勤は︑自己

閉鎖的ではけっしてない.︑それぞれの行動は︑必然羽に相互依存的であウ︑ある個入の効用レベル︵O同︶は︑自分自

身の決定︵畠ビら﹃:・:O罫︶に依存丁るだけでなく.他の個人の決定︵黛︶にも影響を受けるはずである︒すなわ

ち︑

159

(12)

160

dH11ごべ㍗こ亀ご篭卜︒亀﹃ :亀ミ︶

だから︑個人が自己の個別合理性を追求して︑目的最大化を目指す行動をとるとき︑これが︑他の個人︑さらには︑

集合体そのものに︑コストを負担させ︑他の最適化行動を妨げるという結果を︑しぼしば招くことになる︒

 この問題領域は︑経済理論が︑外部効果のテーマで︑早くから定式化をはかってきた︒だが︑経験的レベルで︑こ

の問題が日常化し︑具体的な調整策が︑個人間の合理性対立の緩衝手段として︑広範囲で不可欠になったのは︑特に

一九七〇年代に入ってからであろう︒しかし︑ここでは︑問題を外部効果として︑資源配分の観点から︑経済学的に

考察するのではなく︑個人行動の合理性の見地から定式化しておきたい︒

 現代における︑個人間の合理性の対立は︑単に︑現代社会の価値観の多様化のみに帰されるべきものではけっして

ない︒本来︑個人の経済行動が自己完結的でない領域が存在しており︑それが︑複雑化した現代社会生活のなかで顕

在化してきたからである︒個の経済行動が相互に対立せず︑自己完結的であるとき︑各個人の個別合理性の追求は︑

自然的に一つの均衡状態に達する︒経済理論は︑この均衡条件を定式化してきた︒だが︑個別合理性が︑相互に対立

したり︑集合体の合理性に整合しないとき︑その調整解決を︑もはや︑市場の自発的交換過程に期待することはでき

ない︒ しかし︑ここでは︑財政的決定のプロセスを直接の考察対象にしており︑したがって︑個別的な利害対立に関する

問題ではなく︑むしろ︑個別合理性と集合的合理性の問題に︑考察を限定しなけれぽならない︒特に︑公共財の領域

(13)

財政決定における合理性基準

(1)

G P

一イニK 1

S

においてこそ︑この二つの合理性が︑しばしぽ︑鋭く対立する

ことになるからである︒

 個人が自己の個別合理性をそれぞれ追求するとき︑これが社

会全体の合理性に連結されていく保証はどこにもない︒個人の

最適化行動が︑集合体に正の効果をもたらすか︑あるいは中

立的であるかぎり︑二つの合理性は相反しない︒たとえぽ︑

﹀山p∋ω巨昏の展開した︑予定調和の想定は︑このケースの

一つの説明を提供するだろう︒だが︑集合的結果に負の効果を

もたらすとぎ︑ここでは︑個人の合理的行動は︑反社会的行動

を意味するのであり︑ここで︑二つの合理性は離反する︒

 個人の合理性と社会の合理性の関係は︑図1ωのように示す

ことがでぎよう︒Pは個人の合理性︑Gは社会の合理性の領域

であり︑斜線部分Kは︑予定調和論における想定のように︑二

つの合理性が整合的に達成されるフィールドを表わしている︒

1とSはそれぞれ孤立しているのではなく︑相互制約的︑つま

り︑相対立する関係にあるわけである︒

 個人が私的領域で︑それぞれ合理的な最適化行動をとること

161

(14)

によって︑たとえば︑社会的環境が悪化するといった︑いわゆる外部効果として特徴づけられる領域では︑社会︵集      62合体︶の合理性というとき︑それば︑まさに︑受動態の合理性にほかならない︒そこでは︑集合的な意思形成によっ 一

て︑その合理性が能動的に追求されている部分は︑含まれていない︒だから︑ここでは︑個人の合理性と社会の合理

性が真向から相反する可能性が︑集合性そのものの特質から︑必然的に生じてくるケース︑すなわち︑能動態として

の︑集合的意思決定にもとづいた︑合理性基準が主題とならなければならない︒

 すでに指摘したように︑集団の行動を︑経済的側面だけに限定するならば︑市場システムのアナロジーとしての︑

費用・便益比較という︑財政決定の効率性基準は︑希少資源の配分のための準拠標としては︑正当なものとして評価

されなければならない︒だが︑この準拠標を︑集合的決定のレベルで︑具体的な実践の段階に移すとき︑一つの困難

な問題に遭遇することになる︒もちろん︑これは︑費用・便益比較にともなう︑技術上の難点を意味しているのでは

なく︑効率性の評価主体という︑より本質的な問題に関わっているのである︒

 われわれが︑集合体を一個の有機体として想足し︑そこに超越剛な集線体の価値体系を認めるなら︑このとき︑社

会の合理性と個人の合理性は︑二元的に追求されることになり︑この二つの分野の経済行動について定式化を試みる

とき︑目的合理性としての効率性基準を︑共通の作業仮説として導入することに︑けっして不整合があるわけではな

い︒だが︑有機体としての集合体の仮説を否定して︑集合体は︑その個別構成︐・・ソバーによって成立し︑その選好体

系が︑構成メンバーとしての個人の評価に結びつけられているシステム︑つまり︑思入主義的民主主.義の社会を想定

するとき︑効率性の準拠標にもとづいた︑財政決定は︑ ﹁合理性のパラドックス﹂に陥ることになる︒

 有機的集合体仮説では︑集合体そのものが︑独自の効用関数や目的関数をもち︑それにもとづいて︑超越的意思形

(15)

財政決定における合理性基準

成が実行されるのである︒だが︑個人を超越した非生物が︑いかにして︑効用関数や目的関数をもちうるのか︒だか

ら︑このとき︑この仮説の内部で︑具体的な政策形成作業を可能にするためには︑単一の意思決定者としての独裁者

を︑インプリシットに内蔵した︑いわゆる﹁政府全能﹂の仮説を出発点にしなければならないだろう︒

 ここでは︑仮説の適正を問題にしているのではない︒このような﹁政府全能﹂のセッティングのもとで︑理論形成

をはかることは︑もちろん︑是認されなけれぽならない︒理論定式化それ自体の正当性と妥当性は︑その理論形成の

基本的なセッティングとの関連において︑判定されなければならないからである︒その意味では︑この理論が︑個人

選好を基礎にした︑民主主義の決定システムをもつ︑社会的決定プロセスに適用されるとき︑その正当性は失われる

ことになろう︒

 われわれは︑現実の財政過程が︑民主主義の手続きによって︑個人あるいは利益集団等のサブ・グループの生活圏

を経由して︑不断に進行していると考えるとき︑このプロセスの政策形成の︑有効な説明を提出しうるためには︑個

人およびグループが︑集合的意思形成に︑種々の程度で参加するという想定を採った方が︑より現実的であろう︒

 民主主義のシステムのもとでは︑財政決定の際の︑個人の最適化行動としての合理性は︑社会の合理性と︑どのよ

うに関わっているのか︒個人やサブ・グループが︑自己の合理性よりも︑社会の合理性を優先させないかぎり︑そし

てまた︑同時に︑それぞれの効用関数が同等でないかぎり︑財政決定における︑合理性の安定均衡は期待でぎないの

ではないか︒この問題を考察するとき︑われわれは︑民主主義のシステムのもとで︑個人や利益集団は︑いかに選択

行動をすべきかということに︑関心をもっているのではない︒むしろ︑民主主義の財政決定メカニズムのもとで︑か       ・.・・       63れらは︑いかに選択行動をするのかに︑注目したいのである︒      1

(16)

164

 経済的側面だけに観点を限定するならば︑個人的行動について定義された合理性基準は︑そのまま︑集合的行動領

域にも利用されうるものと理解されてぎた︒しかし︑純経済的要因のみを︑他の要因から切断しえない︑公共財の範

域では︑この二つの行動合理性は︑本来︑整合的でありえないことが指摘されなければならない︒すなわち︑個人が

自己の最適化行動をとることが︑社会の最適結果をもたらしえないか︑あるいは︑社会的に不合理な結果を招くとい

うわけである︒これらの状況は︑公共財理論のなかでは︑ ﹁フリー・ライダー﹂問題として︑また︑ゲームの理論の

用語を借りて︑ ﹁囚人のディレンマ﹂の状況として説明されてきたものにほかならない︒

 集合的決定過程では︑選好を効果的に実現するために︑個人は集団を形成する︒このとき︑集団は類似選好をもつ

個人の集合であって︑ここでは︑共通の利害としての︑ ﹁共益﹂が追求される︒この﹁共益﹂の実体は︑集団の﹁自

利﹂にほかならない︒社会を構成する諸集団のうち︑集団凝集力︑すなわち︑集団構成力の強い集団が︑しぼしば︑

この集団自利を︑ ﹁公益﹂に変換するのに有利な立場に立つことができる︒だから︑民主主義のシステムで︑集団要

因を導入して決定過程を考察するときにも︑集団間のフリー・ライディソグの誘因は︑依然として存在しているので

ある︒ だが︑公共財の決定は︑個入あるいは集団が︑費用負担方式をも含めて︑個別的に選好を表明して︑直接に決定過

程に参加するという仕組みを︑現実にはとっていない︒現実の財政過程は︑公共財の選択と費用負担方式の決定とは︑

(17)

財政決定における合理性基準

異時的なレベルで実行されるのであり︑ここでは︑公共財パターンの選択とその費用負担の間には︑原則として︑直

接的な対応関係はない︒社会を構成する諸集団間の利害は︑相対立したり︑あるいは共有関係にある︒それらは相互

に交錯している︒このとき︑一定の負担方式のもとで︑自己集団の利益の最大化を実現するような︑公共財供給の政

策プログラムの策定に︑各集団は努力を集中しなけれぽならない︒さらにまた︑課税方式の決定についても︑自己集

団への負担効果を︑可能なかぎり回避しうる租税ルールの設定を求めて︑働きかけるはずである︒したがって︑個人

が公共財の自発的交換過程に参加するとき︑陰伏的なフリー・ライディソグ戦略が支配的であったのに対して︑集団

レベルで公共財の選択が行なわれるとき︑たとえ︑公共財パターンの決定と︑費用負担方式の決定を︑非対応に導出

するシステムをとった場合でも︑集団の︑明示的なフリー・ライディソグ戦略が︑現実のものとなるのである︒もち

ろん︑ここでの﹁フリー・ライディソグ﹂の意味は︑かならずしも︑パーフェクトのものだけを指しているのではな

い︒そして︑この過程では︑集団の凝集力︑交渉力等の要因が︑大きな役割を果たすことになる︒

 財政的意思形成過程を︑利益集団の要因を導入して︑このようなレベル考察するとき︑個人ならびに集団の︑この

プロセスへの参加の方向を︑つぎの三つの次元で表わすことができるであろう︒

(3)  (2)  (1)

集合的な意思形成への参加

便益受容への参加

費用負担への参加

165

(18)

(2)

Bt=Br

\\\

Bt一決定参加者 Br一決定受容者

 現代の民主主義社会においては︑個人は︑社会の構成メンバ

ーとして︑政治的意思決定過程に参加︵投票︶し︑政府の供給

する公共財︑サービスの便益にあっかり︑さらに︑それらの費

用を︑租税として負担する︒ 一般に︑このような図式が出来上

がっている︒そして︑民主主義のフレームワークでの︑財政決

定の理論定式化も︑民主主義社会の代表的個人をとりあげ︑集

合的意思形成︑便益受容︑費用負担への三つの参加次元に︑均

等に参加するものとして︑モデルが形成されている︒現代の公

共財理論の作業仮説は︑まさに︑その典型とい︑凡るであろう︒

 だが︑財政決定のプロセスを︑より拡大された位相で考察す

るとき︑すべての社会構成メンバーが︑すべて同等の程度で︑

三つの次元の参加を均等に果たしていると想定することは︑け

っして現実的ではない︒いま︑○詳︽〆騨ωoげの用語法を借り

草社会霧成しているすべての・ソバー︑および︑かれら

が形成する個別集団を︑参加者︵ゆ①け巴蒔け窪︶と決定受容者

︵しd①一HOh︷Φ昌⑦昌︶の二つのカテゴリーに大別しよう︒まず︑参

加を意思決定過程に限定した上で︑参加の程度と︑決定によっ

166

(19)

て影響を受ける程度を無視し︑決定参加者か決定受容者かという観点だけで分類しよう︒

 現代民主主義理論は︑一般に︑図 ②が示すように︑参加者︵¢uけ︶と決定受容者︵じd﹁︶の一致を想定している︒民

主主義のシステムを︑マクロ的視角でとらえるかぎワ︑このような想定ば︑けっして誤りではない︒しかし︑財政的

決定領域での政策策定や租税提案をめぐる︑現実内政治交渉経路を認識しながら︑ミクロ的観点から民主主義の仕組

みを検討するならば︑この二つのカテゴリーは︑完全には重複しないだろう︒たとえば︑ある政策策定に︑何らの影

響をも及ぼしえないにもかかわらず︑その決定結果を受容するような状況︑また︑政策効果を直接は被らない意思決

定に関与する状況が︑個別的な決定対象については︑つねに︑予想できるであろう︒だから︑図 ㈹に示されるよう

に︑決定参加者と決定受容者の範囲はスライドして︑

聾⊃bd二ud一⊃ぴ二ゆ門⊃三

財政決定における合理性基準

の関係領域に三分されるだろう︒

 個人11投票者U納税者という民主主義の図式では︑すべての個人は投票者として︑意思決定過程に参加し︑公共

財︑サービスの費用を納税者として支払い︑同時にその受益者となる︒だが︑個別的な政策プログラムの決定過程

と︑利益集団の要因を考慮に入れるとぎ︑決定参加者と便益︑費用に関する決定受容者との重複︑離反関係は︑複雑

に交錯するはずである︒いま︑意思決定参加者︵し〇二国︸︶に対する決定受容者を︑便益参加者︵じd二Z︸︶と費用参加       ⁝⁝老︵ゆ二5︶に分割し︑さきの三つの参加の方向にもどって︑この関係を整理したものが図iωである︒

(20)

図一③

Bt

Bt=Br

Bエ

一一(4)

Bt{N} Bt{E}

6 2 5

1

3 4

7

Bt{K}

168

(21)

財政決定における合理性基準

 まず︑1の領域は︑意思決定参加者は︑費用負担参加者であると同時に︑便益参加者でもある︵しd二国︸11田︷函︸11

じdZ︸︶部分を表わしている︒そしてこれは︑民主主義の経済理論が︑通常︑理論定式化の出発点において想定して

いる︑社会構成メンバーの類型なのである︒2は︑意思決定に参加して︑便益参加には関与するが︑費用負担には参

加しない個人︑集団を表わしている︒戦略的フリー・ライダーはその典型であろう︒画一的な︑投票者目納税者11受

益者という古典的想定から脱して︑個別的な政策プログラムの決定なり︑特定の課税提案等を︑特に︑特定利益集団

の行動との関連で検討するとき︑限界的なレベルでは︑2の領域への︑積極的な誘因が働いていることを看過するこ

とはできない︒また︑課税最低限以下の所得階層のうち︑特定の政策決定に圧力を行使する集団等も︑このフィール

ドで説明されるだろう︒3には︑国内で就業する外国人などが含まれるが︑むしろ︑現実に︑凝集力の弱い集団にし

か所属しえない個人は︑少なくとも︑限界的なレベルでは︑直接︑意思決定に影響を及ぼしえない︒しかも︑決定受

容者として︑受動的に︑便益と費用参加者となる︒このような多数の個人が︑このカテゴリーで説明されるだろう︒

4には︑意思決定の参加者であり︑費用負担には参加するけれども︑便益には参加しない個人︑集団が含まれる︒こ

のフィールドは︑利他的動機にもとづいた︑再分配行動を説明するだろう︒5は︑意思決定には参加するけれども︑

費用負担のみならず︑便益にも参加しないケースを表わしている︒ここでは︑超世俗的な︑超越的権威による決定を

想定することがでぎよう︒また︑哲人王二よる財政﹁耳目は︑自己の便益参加や費用参加とは︑直接関係がない︒6の

分野には︑意思決定には参加しないまま︑便益のみに参羽し︑費用負担には関与しない人びとが含まれる︒外国人観

光客等の例が考えられるであろうが︑限界的レベルで︑公共財の供給決定を考えるとき︑この領域も現実的なものと

なるだろう︒最後に︑3および6とともに︑意思決定に関しては︑完全に受動的である7の領域は︑人びとは︑便益

169

(22)

には閉ざされたまま︑

することになる︒

 註︵1︶ 〇二︽閑一﹁ω⇔7

  ヒントをえた︒ 費用負担のみに参加する︒したがって︑3および6とともに︑真の意味での決定受容者を構成      恥b疎しqミ︑ミN§§§織ミ驚しロ§ミ職§いち証﹁ここでの︑参加方同の分類による誰45察は︑同書第四章から

ノ\

 現代財政理論が︑民主主義システムの枠組のなかで︑財政決定の定式化を試みるとき︑決定参加者と決定受容者

は︑完全に同じフィールドのものとして想定されている︒個人は︑投票者として財政決定過程に参加して︑公共財を

需要し︑納税者として費用負担に参加し︑同時に︑公共サービスの便益受容に参加することになる︒民主主義のシス

テムにおける︑個人参加の︑このような画一性は︑社会の構成員の類型として想定されており︑このような個人の選

択行動を分析し︑その一般的結果を推論していく方法は︑それ自体はけっして間違ってはいない︒だが︑財政過程を

通じて︑現実に︑社会のメンバーに対する︑便益分布︑費用負担分布︑より基本的には︑厚生分布の在り方は修正さ

れるのである︒このことを考慮するとき︑すべてのメンバーを︑均等な決定参加者n決定受容者とする図式は︑無条

件には︑受け容れがたいものとなるだろう︒

 個人が︑直接的に関与しえない︑ある特定の政策決定によって︑その結果を︑受動的に容認せざるをえないという

(23)

財政決定における合理性基準

(5)

       1

2︑坊

 ●一︑

 ●6

7●

●5

●3 認識が︑現実にあるとき︑決定受容者には︑ ﹁だれが決定するのか﹂が︑重要な関心事となる︒個人や集団にとって︑自己に帰属する便益をよP拡張し︑費用負担を回避あるいは軽減するために︑意思決定過程に︑なんらかの形態で参加することが必要になる︒このように︑民主主義システムでの︑参加の多様性を考慮に入れるとぎ︑図一ωで示された︑参加フィールドの間で︑ある方向への転位誘因が働くであろう︒この方向は︑図1㈲のように︑行動が利己的動機にもとつくかぎり︑フィールド7︑6︑3から︑フィールドー︑2の方向を︑通常は志向するであろう︒フィールド5は︑このような誘因とは︑いっさい隔絶されており︑また︑フィールド2から︑フィールドーへの逆方向の転位は︑利他的行動動機にもとつく︑再分配のケースで

ある︒もちろん︑あるフィールドが︑当初の出発点として︑特

定されているのではない︒ある当初のフィールドからの転位こ

そ︑いわゆる集団行動の最も重要な目標にほかならないのであ

る︒ 社会構成集団間の利害分布の問題を導入するとき︑民主主義

171

(24)

図一(6)

Bt{N}

 N

  ザ   !   !

E爪一をp

   ︑︑

  \

 K

:Bt{E}

O

Bt{K}

のシステムをとる社会では︑集団行動は︑単に︑参加フィール

ドの︑平面的な転位に限定されないだろう︒決定参加につい

て︑あるいは︑便益参加︑費用負担の参加について︑すべての

集団または構成員が︑同等の程度において︑参加するのではけ

っしてない︒ある部分は大きな参加を実現し︑他の部分は︑ご

く僅かの参加しかしていないという状況が︑むしろ一般的であ

ろう︒その参加の程度は︑広範に︑参加スペクトル︑あるい

は︑参加位相空間に分布していると考えなけれぽならない︒こ

の関係は︑図1㈲に示されている︒たとえば︑ある特定集団

の︑三方向への参加の程度が︑いま︑P点で表わされていると

しよう︒このとき︑集団の行動誘因としては︑まず︑自己の便

益︑費用参加を有利に構成していくために︑決定参加の程度

を︑可能なかぎり︑拡張したいと考えるであろう︒したがっ

て︑ここでは︑転位誘因は︑P点から︑決定参加はE方向に︑

便益参加はN方向に︑そして︑費用参加はK方向に働くであろ

う︒このとき︑N方向とK方向への転位の大きさは︑E方向へ

の転位の大きさに︑決定的に依存するであろう︒

172

(25)

財政決定における合理性基準

 われわれは︑民主主義的財政決定のシステムのなかで︑集団の自利行動を明示的に想定してきた︒集団にとって︑

最も有利な参加フィールド︑そしてまた︑参加位相空間の位置はどこなのか︒このような行動目標が︑既成の社会シ

ステムの内部で追求されるわけである︒

 さて︑このとき︑財政決定の経済効率性基準をいかに評価すればよいのか︒

 たとえば︑財政再建の提案のなかで︑歳出の非効率が指摘され︑その最大の原因として︑政治過程における︑経済

的合理性基準の欠落があげられている︒つまり︑現代民主主義の選挙制度に支えられた︑政治家の経済的に非効率的

な行動︑各種圧力団体等による物取り競争的自利行動︑納税者の増税拒否の態度に表明される︑社会合理性に反する

行動等が指摘されている︒したがって︑この主張の背後には︑社会に︑一意的な経済効率性基準が存在することが想

定されている︒すなわち︑特定の財政支出の決定︵公共財の供給︶が︑社会的に︑どれだけの価値あるいは便益をも      ロ       ロたらし︑それによって︑どれだけの費用あるいは犠牲を︑社会が負担しなければならないのかについて︑画一的な価

値基準が想定されているのである︒

 だが︑現実に︑財政決定が導出されるのは︑政治過程であり︑この政治過程こそ︑民主主義のシステムのもとで

は︑政治家︑集団をも含めて︑それぞれの自利行動を通じて︑全体的には︑経済的に非効率な結果をもたらしている

という側面を︑本質的な部分として︑もっているのではないか︒このとき︑社会的価値なり︑社会的犠牲という判断

基準は︑いったい︑だれのものなのか︒利益集団行動のフィールドでは︑この判断基準は︑多様性をもたざるをえな

いだろう︒だから︑利益集団行動のアプローチでは︑一意的な経済効率性基準は︑放棄せざるをえないのではない

か︒

173

(26)

民圭義のシスーア︒そのものは︑棄社会翠黛の型.を︑整A.的に附して︑社会的合理性を護㌦うるメカ恥

ニズムではない︒特に︑個人︑集団間への便益分布の解決には︑民主主義のシステムは失敗するだろう︒したがっ

て︑このブpセスで︑可能なかぎり︑社会の合理性と整合させながら︑民主主義の制度を維持していくためには︑何

らかの新しいシステムを設定し︑これをこの制度のなかに導入していくことが不可欠となろう︒

 註︵1︶ この問題については︑∪9昌dωゴ①r

 破産﹂竹内靖雄訳︑日本経済新聞社︑ ↓隷馬肉8嵩︒ミ詩︑︑偽二心ミも︒蹄鳥

昭和五十七年︶を参照︒ 言b§︒ミ§ヒ︑おG︒ピ︵ダン・アッシャー﹁民主主義の

参照

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