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〈鳥〉の表現でたどる日本近代文学史―超級文学日本語の試み

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東京外国語大学

留学生日本語教育センター論集 33:191~204,2007

〈鳥〉の表現でたどる日本近代文学史―超級文学日本語の試み

坂東(丸尾)実子

(2006.10.31 受)

【キーワード】 日本近代文学、超級日本語教育、インターテクスト、カルチュラ ルスタディーズ

1.はじめに 

本稿は、現在私が東京外国語大学留学生日本語教育センター「全学日本語プログ ラム」で開講している「超級文学日本語Superior Japanese Reading Comprehension :

Literature」の講義の試みについてまとめたものである。対象は、各国からの特に優

れた日本語力をもつ留学生達で、日本語で小説を読むのはほとんどはじめてである。

講義を組み立てる際に心がけたのは、様々な作家の様々なスタイルの作品を取り 上げつつ、断片的にならず、一つの作品を読んだ経験をその次、またその次の作品 を読む経験につなげ、積み重ねてゆけるようにするということである。その為に、

共通の着眼点として象徴表現としての〈鳥〉を取り上げ、講義で扱う作品を以下の ような、すべて〈鳥〉が出てくる短篇作品にした。

導入の講義。拙稿『軋みはじめた〈鳥籠〉』(『漱石研究』vol.3 1994)。 演習①夏目漱石「文鳥」(1907 明治 40 年)

演習②森鴎外「雁」(1911 明治 44 年)

演習③岡本綺堂「鳥辺山心中」(1915 大正4年)新歌舞伎の原作 演習④宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」(1921 大正 10 年)童話 演習⑤井伏鱒二「屋根の上のサワン」(1929 昭和4年)

演習⑥木下順二「夕鶴」(1949 昭和 24 年)戯曲 演習⑦安房直子「鳥」(1971 昭和 46 年)児童文学 演習⑧村上春樹「図書館奇譚」(1983 昭和 58 年)

演習⑨江國香織「僕の小鳥ちゃん」(1997 平成9年)

まとめの講義 川上弘美「ぽたん」(2000 平成 12 年)

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「自由」という概念は、慶応2年(1866)に福沢諭吉の「西洋事情」の中で liberty の訳語として始めて登場したといわれ、その後、西欧思想や西欧文学が多く日本で 紹介されるようになり、「自由」な〈鳥〉、「自由」を抑圧された〈籠の鳥〉という表 現が日本文学に非常に多く登場するようになる。それが何に対する「自由」である のかはその作品が置かれた社会的文化的背景によって異なる。例えば戦前は、慣習 や制度からの自由、女性の自立など。戦後は、お金中心の価値観からの自由、受験 戦争からの自由、母親からの自立など様々である。この講義は、こうしたテクスト

(文学作品)とコンテクスト(社会背景)との往還関係を具体的に見てゆくことを 通して、日本近代文学への理解を深めようというものである。

2.導入の講義 

かつて私は「軋みはじめた〈鳥籠〉―『明暗』」(『漱石研究』vol.3 1994.11)と いう論文で漱石が用いた〈鳥〉にまつわる表現と同時代の社会に流通していた文化 記号としての〈鳥〉について論じ、以来、〈鳥〉が出てくる他の文学作品を意識的に 読んできた。

第一回の講義では、小説は、書かれた当時の文化的・社会的背景を映し出してい ると同時に、よく読まれた小説は、文化や社会に影響を及ぼすものであることを想 起させ、拙稿『軋みはじめた〈鳥籠〉-『明暗』』について説明した。これは、夏目 漱石の『明暗』(最晩年の未完の長編)の非常に重要な所で、〈鳥籠の中で囀る〉〈籠 の鳥のように扱う〉〈鳥打ち〉など、〈鳥〉にまつわる表現が多く現れることを指摘 し考察したもので、小説が書かれた大正5年ごろの社会に流通していた文化記号と しての〈鳥〉や、漱石がそれまでに用いてきた〈鳥〉の表現とを照らし合わせ、さ らに、〈鳥〉は女性、〈籠〉は女性を束縛する封建的習俗として読み取れ、そのよう な〈鳥〉の表現を辿ることで、未完の長編『明暗』の描かれなかった展開に思いを 馳せたものである。

小説を読むことをストーリーを読むことだと思いがちな学生たちにとって、小説の 表現の中に意味を見つけ、文化記号としてとらえることは、初めての体験だったよう である。ストーリーを追うのも読み方の一つであり、作家の伝記と重ねて読む方法や、

作家や時代や全てのものと切り離して「書かれてあるもの」だけを読もうとする方 法もある。文学へのカルチュラルスタディーズの試み(*1)も紹介した。

(*1) イギリスのバーミンガム大学で 1960 年代にはじまった、物語生成システムとしての文化

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さらに、2週後からの演習の担当者を決めて演習の進め方を説明した。

3.演習①夏目漱石『文鳥』(1907 明治 40) 

〈あらすじ:冬にさしかかる頃、主人公(「自分」:小説家)に、三重吉(主人公 を「先生」と呼ぶ)が文鳥と鳥籠を買ってくる。主人公が文鳥を飼い始め、死なせ てしまうまでのひと冬のできごとの回想。〉

第一回は私が演習発表の例を見せた。①作家の伝記的な紹介。②作品について

(ジャンル、成立年、登場人物、舞台、あらすじ)説明。③〈鳥〉がどのように登 場しているか。④考察・感想。⑤自分の国の〈鳥〉の文学の紹介。

『文鳥』の作中、「自分」は、度々、文鳥の様々な姿態や仕草から、昔知っていた

「美しい女」を想起する。彼女の首筋を、紫の帯揚げの房になった先でくすぐるな ど、直接触れられないが関係を求める気持ちが働いた時、既に女性は縁談がまとまっ ていたことを知る、という思い出が呼び覚まされる。「自分」は文鳥に触れようと籠 に手を入れて暴れられて以来、文鳥が死骸になるまで、一度も文鳥に触れない、な ど、〈鳥〉をめぐる話が、「女性」との関わり方と結びついていることを、テキスト に沿って丁寧に読んだ。文鳥が手から餌を食べる関係を築くことができる「三重吉」

をうらやましく思いながら結局世話を怠り死なせてしまう「自分」は、女性との関 係を頭でわかろうとしても身体的(行動的)に矛盾してしまう明治の男のジレンマ を体現している。

4.演習②森鴎外「雁」(1911 明治 44) 

〈あらすじ:高利貸し末造の妾お玉は家の前を通って帝国大学に通う岡田に心を 寄せている。ある日、お玉の家の鳥籠に蛇が侵入する事件があり、岡田が蛇退治を する。岡田はドイツ留学が決まる。池の雁に石を投げたところ偶然当たって死なせ てしまい、それを岡田は友人たちと鍋にする。〉

まず、文学史の概略を、二葉亭四迷「浮雲」からの近代小説の始まりから、明治 44 年(『雁』)まで説明し、講談社「日録 20 世紀 明治 44 年」(1997)の写真や図 版を、OHP 実物投影機を使って見せた。明治 44 年は平塚らいてう『青鞜』創刊。新 しい女たちの出現。帝国劇場開場。イプセン『人形の家』(松井須磨子)上演。「今

研究による、文学作品が生成され、流通した背景にある文化との相互関係の中で、文学作品 をとらえる試み。

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日は帝劇、明日は三越」のキャッチフレーズ流行。特別高等警察(特高)創設。前 年の「大逆事件」を受けて、思想・反政府運動の取り締まり強化。警視庁の新庁舎 完成。戦艦「安芸」完成。所沢飛行場(日本初)完成という年である。

また、平塚らいてうという筆名となった雷鳥は、山地に生息する鳥で、「籠の鳥」

ではない、ということや、『人形の家』の、夫から人形あるいは籠の鳥のように扱わ れていた妻ノラが家を出るという内容について説明した。

『雁』の導入に、ビデオ「文学と云フ事 森鴎外『雁』」(1994 フジテレビ 約 15 分)を見せた、かなりふざけた深夜放送なのだが、ストーリーと服装や調度など の雰囲気を知ることができる。それから学生が発表した。

この回では、インターテクスチュアリティ(*2)の考え方を紹介し、それが「〈鳥〉

の文学」の試みに有効であることを説明した。イプセンの「人形の家」など、「籠の 中の鳥」の表現が、自由を奪われている女性の譬えとして流通しており、そうした イメージの『雁』におけるインターテクスチュアリティを、お玉の家の玄関の格子 戸、軒先の鳥籠などに見出すことなどを、テキスト読解の中で行った。

それから、岡田の蛇退治の場面を細かく読んだ。岡田が蛇を退治したあと、鳥籠 に開いた穴から鳥が逃げないように「何かしっかりした糸のような物があるなら貰 いたい、鳥が籠の穴から出ないようにするのだ」と元結を受け取って籠の竹に縦横 に結び付けて穴をふさぎ、「先ず、僕の仕事はこの位でおしまいでしょうね」と言う 箇所などには、深い意味が読み取れることを指摘した。

5.演習③岡本綺堂「鳥辺山心中」(1915 大正4年)新歌舞伎 

〈あらすじ:主人公菊池半九郎(まじめな江戸の侍)は、京都赴任中に遊び人の 友人坂田市之助に初めて連れられて行った遊郭で、その日初めて店に出る遊女お染 と出会う。怯えて泣いているお染を自分が客となって保護しているうちに、刀を売っ て「鶯を籠から出してやりたい」と思うようになる。友人の弟に責められ決闘とな り、殺してしまう。半九郎とお染は、鳥辺山で心中する。〉

岡本綺堂は「半七捕物帖」などで有名な作家である。「鳥辺山心中」は大正時代に 人気を集めた新歌舞伎の原作で、江戸中期に実際にあった心中事件がベースとなっ ている。学生の発表で岡本綺堂がジャーナリストであり、徳川家の通訳をしていた

(*2) ジュリア・クリステヴァが、すべてのテクストには、それ以前からあるテクストに働き かけ、働きかけられていると書いたことから意識され始めた、文学の読者が共有する、それ までに存在してきたテクストとの相互関係で文学を読む試み。

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家に育って英語も堪能で、原書でエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイルを読ん でいた人物であることが紹介された。また、台湾の学生から、台湾では遊女を流鶯 というのだ、という興味深い情報も寄せられた。

また、E.M.フォースターの「小説の位相 Aspects of Novel」におけるストーリー とプロット(*3)について説明し、江戸時代の心中物語と全く同じストーリーであり ながら、岡本綺堂が工夫し盛り込んだプロットとは何か、歌舞伎ではない近代の新 歌舞伎の中で試みられていたものは何であったのかを考えてみた。

さらに、大正3年の中国への 21 か条の要求や大正4年の第一次世界大戦勃発など の社会背景を「講談社 日録 20 世紀」の写真記事を用いて説明した。しっかりした 知識や関心を持っている学生が多く、感心させられた。

道にかなわぬ色恋の末路としての心中物語であった原作に対し、「鳥辺山心中」は 色恋の話ではない。「鶯を籠から出してやりたい」「自由になった鶯は里へ帰るだろ う」とあり、当初の半九郎の思いは恋ではなく、また、お染も彼に感謝し大切に思っ ているに過ぎなかった。二人が本当に一組の男女としてはじめて心を通わせるのは 最終場面であり、そこにいたるまでの機微が、新歌舞伎「鳥辺山心中」では、丁寧 に辿られている。また、その鶯を自由にするために武士の魂である「刀」を売ろう、

とさせたこの新歌舞伎は、軍国主義の国策がとられ、検閲や思想統制が非常に厳し くなっていたこの時期、新聞記事や小説ではとても書くのが憚られる内容であり、

このような時代に自らジャーナリストであることを辞めた岡本綺堂が、歌舞伎とい う当局にとってはある意味無警戒なジャンルにおいて、文化記号である〈鳥〉を用 いて、批判精神を表現し、単なる歌舞伎の心中物語の表現として見過ごされるであ ろう作中の〈鳥〉の表現も、〈鳥〉が〈自由〉を求めるものとして表現され、読まれ ていたことに意識的であった人々にとっては、充分な意味作用をもたらすもので あったと思われる。

(*3)出来事の時間的な連続を示すストーリー、作者が出来事と出来事との間に因果関係をつけ たプロット、との区別をして、そうしたプロットを工夫していったものが近代小説である、

という文学理論。

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6.演習④宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」(1921 大正 10 年)童話 

〈あらすじ:物置の中にしまい込まれた「鳥箱」先生は、これまで四回、中に入っ たひよどりを「バタバタしちゃいかん」「泣いちゃいかん」と立派に教育したつもり

(四匹はそれぞれ絶望して死んだ)。子ねずみ「フウ」は彼の言うことを聞かない。

逃げたフウは猫大将に捕まり、猫大将の「先生もだめだし、生徒も悪い。これでは もうとても国家の前途が思いやられる」という言葉で終わる。〉

発表担当の学生が、宮澤賢治の文学を修了レポートに選んだカナダ人の学生だっ たので、宮澤賢治についての詳しい紹介があった。

時代背景として、「日録 20 世紀」を使って、第一次世界大戦後の冬の時代、米騒 動、普通選挙法要求運動、プロレタリア文学などを紹介した。

鳥箱先生は、生徒を教育する際、「~は~すべきだ。」「~は~すべきではない。」

とよく言う。物置の中の世界を支配するこの鳥箱先生の論理は、外部からの侵入者 である猫大将によって、最後、「先生もだめだし、生徒も悪い。これではもうとても 国家の前途が思いやられる」と、嘲笑される。国家への批判がこめられたこの作品 も、宮澤賢治の生前に世に出ることはなかったのだが、表現の自由が奪われていた 時代に、動物の滑稽な童話のスタイルをとることで書かれたのである。という所か ら、当時、表現者が自由を奪われていた時代に、「童話」というジャンルで詩的表現 に比喩的に自由を愛する思想を盛り込んでいったものとして、鈴木三重吉が主宰し た『赤い鳥』を紹介した。鈴木三重吉は、夏目漱石『文鳥』の登場人物でもある。

前回の、岡本綺堂がより自由な表現を追求して新歌舞伎にその新天地を見出して いったことなども思い起こし、厳しい時代の中、口をつぐむ表現者たちもいれば、

プロレタリア文学などで闘う表現者たちもおり、また、当局の警戒の薄いジャンル で、象徴表現を深化させることに活路を見出していった表現者たちもいた、という ことを話した。

さらに、大正自由教育の盛り上がりと、その後の取り締まりについても説明し、

『赤い鳥』『金の船』などの図版と、修身教科書(復刻版)を比較した。大正 11 年 の流行歌「籠の鳥」(*4)も紹介した。

(*4)千野かほる詞、名取春陽作曲「あいたさ見たさにこわさを忘れ、暗い夜道をただ一人/あ いに来たのになぜ出てあわぬ、いつも呼ぶ声忘れたか/いつも呼ぶ声忘れはせぬが、出るに 出られぬ籠の鳥/籠の鳥でも知恵ある鳥は、人目忍んであいに来る/人目忍べば世間の人が、

怪しい女と指ささん/指をささりょとおそれはせぬが、あたしゃ出られぬ籠の鳥」

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7.演習⑤井伏鱒二「屋根の上のサワン」(1929  昭和4年) 

〈あらすじ:主人公が怪我をした雁を見つけ、家に連れ帰り、手当てする。サワ ンと名づけ、羽を短く切って家で飼う。サワンは仲間の雁と飛びたくて、屋根に上っ て叫ぶ。男は悩み、自由にしてやろうと考えた翌朝、サワンの姿はなかった。〉 まず、ビデオ「映像でつづる 昭和の記録 大正から昭和へ」(1989 NHK 50 分)

を見せた。関東大震災、普通選挙法制定、治安維持法制定、大正天皇大葬、昭和改 元、昭和天皇即位、芥川龍之介、初めての地下鉄開通(S2)、アムステルダム五輪(S3)

など、豊富な映像で、わかりやすい。

学生の発表では、「屋根の上のサワン」では、男はサワンをかわいがっているつも りでいるが、サワンは、自由になりたい、という気持ちでいっぱいだ、という指摘 があり、「自由が奪われている」という点で「山椒魚」と共通している、自由ではな い時代と関係があるのではないか、とまとめられていた。

塀の中で、飛ぶのに必要な尾羽も短く切られているのに、男は「塀の中でサワン は自由に走り回っていた」と述べている。その矛盾を取り上げ、大正 14 年の普通選 挙法と治安維持法の抱き合わせの制定においての、普通選挙法は制定されたものの、

言論や思想が統制されていて選挙運動も制限されてしまう、という矛盾と重ねてみ た。

韓国人留学生は、母国で受けた日本文学の講義では、戦後、「黒い雨」を書いた井 伏鱒二の、戦前の執筆姿勢との違いが批判されていたが、もう少し慎重に考える必 要があると思う、と発言した。

8.演習⑥木下順二「夕鶴」(1949 昭和 24 年)戯曲 

〈あらすじ:日本の民話「鶴の恩返し」を近代戯曲にしたもの。主人公よひょう のところに、つうという娘が「お嫁さんにしてください」とやって来る。つうは珍 しい布を織る。よひょうの心に「金」への「欲」が芽生える。機を織る姿を決して のぞかないという約束を破り、つうはいなくなる。空を飛ぶ鶴の姿。〉

時代背景として終戦と戦後の厳しい食糧難、就職難や、価値観の崩壊(教科書に 墨を塗る。東京裁判など)、さらに『夕鶴』が上演されるようになった 1950 年の朝 鮮戦争勃発以降の軍需産業による経済復興などを、「日録 20 世紀」で説明。

岡本綺堂の所で紹介したストーリーとプロットの話をもう一度振り返り、民話「鶴 の恩返し」「鶴女房」が色々ある中から、いくつか紹介し(中には姑の嫁いびりの物 語もあった)、前近代の物語の定型(因果応報、勧善懲悪、異種混交譚、貴種流離譚

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など)が、受け手の期待を裏切らないストーリー展開の基盤となっていることや、

それに対して、近代以降、受け手の期待をゆさぶり、新たな疑問を投げかけるプロッ トが工夫されるようになったことを説明した。

『夕鶴』では、人間に、日常的に、何でも交換可能であるかのように思わせてい る「お金」というものへの疑問が投げかけられる。つうがよひょうを喜ばせたくて 織る布が、「お金」と交換されることで、つうの愛であったはずの労働が、「お金」

を生み出す生産活動となってしまう。そして蓄積できるがためにいくらたくさん あっても決して困らない「お金」というものに交換されていくことで、ついに、よ ひょうはつうに対して、「もっと織れ」と言うのである。そのように変化したよひょ うの言葉(心)は、よひょうをそそのかす運ずや惣どの言葉がつうには聞こえない ように、つうに届かないものとなる。「口が動いているように見えるだけ」なのであ る。

『夕鶴』の鶴は、人間社会の価値観を超越した存在として機能している。これま で講義で扱ってきた〈籠の鳥〉とは少し異なるが、人間社会の固定化された価値観 から〈自由〉であり、〈空を飛ぶ鳥〉=〈自由〉という意味をもつ。

9.演習⑦安房直子「鳥」(1971  昭和 46 年)児童文学 

〈あらすじ:耳の医者の所に、耳に入った「秘密」を取ってくれと駆け込んだ少 女の話:海の貸しボート屋で働く少女が、一人の少年と出会う。少年は「母さん」

と呼ぶ魔女のような海女のもとから、少女と逃げようとする。それを知った海女が、

少女に「秘密」を話す。「傷ついたカモメの手当てをして、息子のようにかわいがっ ていたが、雌のカモメと親しくなったので、「赤い実」(二粒のうち一つを紛失)を 食べさせて人間の姿に変えたのがその少年である。この「秘密」が他の者の耳に入 ると、日暮れとともに少年はカモメに戻る。」 医者は「秘密」を取り出すことに失 敗するが、少女がかつてもう一つの「赤い実」を食べた雌のカモメであったことに 気付き、知らせに走る。〉

戦後のベビーブームで生まれた団塊の世代とよばれる人たちが就職し、どんどん 働き始めている頃の作品である。時代背景として、そうした団塊の世代を説明。昭 和 31 年の経済白書「もはや戦後ではない」や昭和 39 年頃から高度経済成長の時代 に突入したことなどを説明し、「日録 20 世紀 昭和 39 年」を用いて、東京オリンピッ ク開催、家庭へのTVの普及、東海道新幹線開業、週刊マンガ雑誌創刊、子供に高 学歴を求める「教育ママ」の出現、受験戦争などを紹介した。昭和 45 年の冬季札幌

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オリンピック開催の話もした。

安房直子『鳥』は、児童文学作品で、小学校6年生の教科書にも載ることがあり、

読みやすい。日本語を学んでいる留学生たちも、これまで扱ってきた作品は、なか なか本文全体を読み通すことはできなかったのだが、この作品は充分に読み味わう ことができたようである。『鳥』の〈カモメ〉は、やはり〈自由〉をあらわしている が、特に少年の、母親からの〈自由〉をあらわしている。海女の不気味さ、少年の 自由への憧れを、教育ママの出現、という時代背景の中に置いて読んだ。

10.演習⑧村上春樹「図書館奇譚」(1982  昭和 57 年) 

〈あらすじ:主人公「僕」。小さい頃、犬に噛まれて以来、気が弱い。むくどりを 飼っているが、母親はそれが気に入らない。母に誕生日に買ってもらった 25000 円 もする新しい革靴を履いて図書館に行き、書庫で老人に出会う。牢屋に入れられる。

羊男と出会い、本を読まされてから脳味噌を吸われるのだと伝えられる。美少女に、

励まされ、新月の夜にそこから脱出する(その際、革靴を紛失)。「僕」は母の束縛 や犬に噛まれた過去を乗り越える強さを手に入れる。〉

『図書館奇譚』は、単行本『カンガルー日和』(1983)に収録された中の一篇であ るが、2005 年に単行本『不思議な図書館』として単独で改訂版が出されたばかりで ある。難しい語句が少年少女にも読めるように平易に書き直され、佐々木マキの挿 画もたくさん盛り込まれた、外箱入りで、オレンジ色の柔らかな合皮張りの装丁の 本で、作者のこの短編小説への思い入れの強さが伺える。作品自体、『海辺のカフカ』

に通じる要素も多く、村上春樹の小説のエッセンスが詰まっている。

村上春樹は学生たちの最も関心の高い作家である。発表者は村上春樹の大ファン の中国人学生で、とても充実した発表だった。

『図書館奇譚』の「僕」は、かつて小さな頃、母親が見ていない時に犬に噛まれ て以来、いっそう母親の強い庇護を受けるようになってしまった。「僕」は、ムクド リを飼っていて、母親はそれが気に入らない。ムクドリは飼い馴らしにくい、芸を 覚えない鳥であるが、村上春樹は、権威に従わない鳥ととらえている(*5)。「僕」は 母親に逆らえず、図書館の世界では、怖い老人の命令に背くことができない。権威 に弱い「僕」は、「ムクドリ」に惹かれ、「ムクドリ」は図書館の牢屋で、「美少女」

(*5)村上春樹は、森鴎外が「権威主義はいけない。枝の上の椋鳥みたいにぼけっとしていて、

どんなものが出てきてもいちいち驚かないのが一番である。」という「椋鳥主義」を掲げてい たことに言及している。(「Asahi パソコン」1999)。

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となって現れ、「僕」の脱出を助ける。

また、一方、図書館の中の世界には、「どうせ駄目だ」「怖くてできない」と言っ てずっとそこから出られずにいる「羊男」がいる。図書館は「僕」の内面の世界で、

「羊男」は「僕」の弱い心、「美少女」(ムクドリ)は、自由を求める「僕」の意志、

ととらえることができる。「羊男」と「美少女」は顔を合わせたことがなく、唯一脱 出可能とされている「新月」の夜に、はじめて顔を合わせる。新月は「僕」を支配 している外部の力が弱まり消える時であり、その闇の中で、それまで抑えられてい た「僕」のすべてが動き出すのである。

闇の中の迷路を歩き、革靴を失くし、最後に、老人が連れている恐ろしい犬の口 にムクドリが飛び込み、「僕」は図書館の世界からの脱出を果たす。『図書館奇譚』

の最終場面では、大きくなった「僕」が、母親の死後、数日たって、その母から自 立し、弱い心や不安を乗り越えて大人になった時の心の大冒険を回想しているのが この物語であることが明かされる。こうした読解を、テキスト内の時間を整理し、

記述を丁寧に読み進めていくことを通して進めていった。

二週目、読解を終えてから、「図書館」「図書室」が出てくる文学として、ゲーテ の「ファウスト」を想起させた。図書室の中で究極の「知」を求めて書物を読み漁 り、それでも心の底から納得できなかったファウストが、旅をし、絶望を乗り越え て、最後に自分の心の中に「光」を感じ、至上の瞬間の手にする、という内容だが、

人間が自分が存在する意味を求めて図書館に入り、格闘する、という意味を考えて みた。また、夏目漱石『三四郎』で、大学に入ったばかりの三四郎が、図書館に通 うなど、多くの作家が「図書館の中で格闘し、そこから出てくる」物語を手がけて いること、『海辺のカフカ』にも図書館が大切な場所として登場することなどを紹介 した。

さらに、芥川賞と直木賞、純文学と大衆文学について説明してから、日本のモダ ニズム(旧制高校、帝国大学の教養文化、アカデミズムに支えられた教養知の構築)

の時代のあと、1960~70 年代、学生運動が高まり終息した頃から、そうしたアカデ ミズムへの反抗が高まり、権威が失墜し、教養主義が否定される傾向が生まれたポ ストモダンの時代を、成熟した資本主義経済、高校進学者 90%時代突入、平等主義 教育などの解説も加えながら説明した。本離れが進む近年の状況ではあるが、しか し、一度、図書館の中に深く入り込んで、生きる意味を求めて書物と格闘する「知」

の冒険をすることの意味を感じている人々がやはり多いからこそ、村上春樹が売れ 続けているのであろう、とまとめた。

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11.演習⑨江國香織「僕の小鳥ちゃん」(1997  平成9年) 

〈あらすじ「主人公「僕」と、その家の窓に飛んでくる気まぐれな「小鳥ちゃん」

の物語。小鳥ちゃんは「アイスクリームが食べたい」「スケートがしたい」など、自 由奔放な要求をする。気が向くと「僕」のところへやってきて、また飛び去る。小 鳥ちゃんがマンションの別の階の老夫婦のもとにも出入りしていることを知り、

「僕」は複雑な気持ちになる。また、「僕」には恋人がおり、小鳥ちゃんはやきもち を妬くが、この3者の相手を束縛しない自由な関係は続く。〉

ビデオ「映像でつづる昭和の記録 昭和から平成へ」(NHK 50 分)を見せた。

江國香織については、『冷静と情熱の間 Rosso』(1999 角川書店)がドラマさ れ、海外でも人気が出たことなどもあって、学生たちにもよく知られていた。

この小説の登場人物たちは、とことん相手を束縛しない。やきもちを妬くにして も、拗ねた態度をとるばかりで、相手に強く訴えかける行為もしなければ、そのよ うな自身の内面を掘り下げることもしない。作中の様々なエピソードにおいての、

こうした登場人物たちの関わり方に注意しながら、読み進めた。

「小鳥ちゃん」は、非常に自由な〈鳥〉である。気に入ったバスケットをベッド にすることはあっても、「鳥かごなんか使わない」。「僕」の部屋の窓のところに、気 の向くままにやってきては、いつの間にか、どこかに飛んでゆく。「小鳥ちゃん」の 口癖は、「あたしはそのへんの無知な小鳥じゃないんだから」である。

〈鳥〉のインターテクスチュアリティを考えながら、こうした「小鳥ちゃん」の 描かれ方を読むのは、そうでなく普通に「単に〈鳥〉が出てくる小説」を読むこと と比べて、非常に面白い、ということを伝えた。

明治~戦前までの〈鳥〉の表現は、封建的制度や慣習あるいは、自身が置かれた 境遇からの自由を求める女性や、自由・平等の権利を求める民衆や、思想・言論の 自由を求める表現者などの姿を想起させる意味作用を有し、機能していた。戦後、

様々な自由や人権が保証されるようになってからも、「お金」に束縛され支配されて いる人間社会の相対化であったり、母親の束縛や庇護から〈自由〉を求める少年な どが重ねられたものとして、〈鳥〉を見てきたことを振り返った。その上で、改めて

『僕の小鳥ちゃん』に戻り、この作品には、束縛を受けていないという点で、極め て〈自由〉な〈鳥〉が登場していることを、指摘した。

『僕の小鳥ちゃん』は、軽やかで明るい小説であり、学生たちも楽しそうに読ん でいた。しかし、文庫版の巻末の解説(角田光代)でも指摘されていたが、この作

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品は、どこかさびしい。楽しく謳歌されるべき〈自由〉を、登場人物たちが有して いるにも関わらず、相手に心をぶつけ、通わせることのできない孤独感がただよっ ている。相手の行動にやきもちを妬いたとしても、あわてず騒がず、「あら、そう。」 あるいは「そうなんだ。」と収めてしまう。相手の〈自由〉を尊重し、自らも〈自由〉

であるがために、それと抱き合わせであるかのような〈自己責任〉の意識が、彼ら の感情を逆に動けなくしているかのようである。何でも自由にしていいかわりに、

自分のことは自分で責任をもつことにもなる。束縛を否定することは、密接なつな がりを避けることになる。これは、何でも自由に出来るが、孤独で寂しい現代社会 を映し出しているのではないだろうか、と投げかけた。

12.まとめの講義  川上弘美「ぽたん」(2000  平成 12 年) 

〈あらすじ:主人公の女性「私」。毎週日曜の夕方、めんどりと公園を散歩する男 性「ミカミさん」。二ヶ月ほど前から公園で何回か会ううちに、話すようになる。に わとりが飛んだ日、一回目の握手をし、ミカミさんが、かつて見た映画の、飛んで は落ちるにわとりの話をして、二回目の握手。地面を猛スピードで走り回るにわと りの話をして、三回目の握手。芙蓉が落ちた日、ミカミさんは卵をくれた。初めて

「また来週」と約束する。〉

川上弘美には、漱石の『夢十夜』のように、登場人物が少なくストーリー性の薄 い、文体や表現で奥行き深さをかもし出している作品が多い。「ぽたん」(単行本「お めでとう」所収)もそのような作品の一つである。

学生の演習は終わっているので、私が作家や作品の説明をした。文庫本で8頁し かない作品なので、テクストに沿って、一行一行丁寧に読んでいった。

ミカミさんは、「にわとり」をベランダで飼い、日曜の夕方、一緒に公園を散歩し ている。つないだり、籠に入れたりせず、「にわとり」が歩く後ろをついて歩く。あ る日、にわとりが飛んだのを見て興奮したミカミさんは、「私」と「握手」し、かつ て見た映画の話をする。数十羽のにわとりが草原で、飛んでは落ちることを繰り返 しながらどんどん遠ざかる。二羽のめんどりが残り、枝で休み、翌朝、落ちて、落 ちたことをものともせずに鳴きながらものすごい勢いでなめらかに駆け回る、とい う映画である。

本来飛ばない「にわとり」が飛ぶということは、地面の上から、高い次元をめざ す姿であり、感動的であるが、しかし本来の分ではない。映画の中で、おぼつかな い姿でさんざん飛んだにわとりが、翌朝、なめらかに地面を走りまわる姿は、自分

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の生きるべき場所を地面の上だと覚悟し、精一杯走っているかのようで、もっと感 動的なのだろう。また、作中、「ぽたん」と落ちる芙蓉の花のイメージが、枝から落 ちるにわとりのイメージと重ねられている。

「だからにわとりが好きなんだ。おまけにたまご産むし。」とミカミさんは言う。

女性が自由を求めて、空を自由に飛ぶ鳥になりたいと目指していた時代、その、飛 ぶことを試みるおぼつかない姿は感動的であるが、かなり無理している状態であっ たことも否めない。ミカミさんがさらに感動するのは、精一杯飛ぶことを試みた果 てに、落ち、落ちたことをものともせず地面をなめらかに走り回るにわとりなので ある。そんなにわとりを、つないだり籠にいれたりせず、一緒に散歩するミカミさ んと、芙蓉のような顔をした「私」が、三度握手をし、はじめて次に会う約束をす るまでの会話が、この作品に描かれている。

肩の力が抜けて、自然体で生きる女性の生き方の賛美を読み取ることができる。

最初から飛ばなかったのではなく、精一杯飛んだこともあり、それをあきらめたと いうわけではなく、もっと自然に生きることを見出し生きている姿が「だから好き なんだ。」と静かに賛美されているのである。

抽象的な短篇小説だが、これまでの講義を通して、〈鳥〉のインターテクスチュア リティーを読み取る視点を手に入れた学生達には理解できたようである。

最後に、講義のまとめとして、明治時代からの〈鳥〉の表現について振り返り、

現代の文学にできること、を考えた。メディアが氾濫し、情報過多となり、忙しく 毎日が過ぎてゆく現代社会において、人間同士の関わりは希薄になってきている。

そんな中で、次第に難しいことを考えなくなる思考停止状態に陥りかねない危険が ある。メディアが提供する「標準」へ自分を合わせ、それ以上考えず、話題にもさ れなくなる。文学を読むという行為は、そのような思考停止をやめることにつなが るのではないか。文学に触れることで、忙しい日常から立ち止まり、何が起きてい るのか冷静に考えることができる、という話をした。2006 年夏にスタジオジブリが 公開したフランスのアニメーション映画「王と鳥」(*6)は、現代の思考停止状況への 警句ともなっていること、高畑勲監督は東大仏文科卒で、スタジオジブリ作品は、

フランス文学の隠喩表現に影響を受けていること、ジブリ作品を〈鳥〉のインター テクスチュアリティーの観点から見直すと面白いということなどを紹介した。

(*6)アンデルセン原作、ジャック・プレヴェール脚本、ポール・グリモー監督作品(1979)。

権力と暴力の構造が隠喩を駆使して描かれている。ジブリ映画の原点と言われ、「気をつけた まえ。この国は今、罠だらけだからな。」とのコピーでこの夏公開された。

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13.おわりに 

何か一つ、共通の着眼点を置いて、様々な作品を見て行く事はできないだろうか。

それがどのように作品に顕れているかを見ることで、時代の変化も追っていけるよ うな、手がかりとなるものはないだろうか、と模索して試みた〈鳥〉の文学の講義 であるが、この講義を進める際に注意したのは、その作業が「統合する」「統一させ る」ために他を切り捨てていくようなものであってはならない、ということである。

一つ一つがバラバラな印象にならないことを求めるのと矛盾しているようであるが、

とにかくテクストとコンテクストとの往還関係を具体的に慎重に見てゆくことを心 がけた。海外から日本にやってきた学生たちにとっては、日本近代史と日本文学に ついての知識を得ることができ、さまざまなジャンルの作品や文体に楽しく触れら れるものになったと思う。何よりも、講義している私自身が非常に楽しんでやれた ことを付け加えたい。

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The History of Japanese Modern Literature Followed by Expression of a bird , the trial of Superior

Japanese Reading Comprehension.

BANDO(MARUO), Jitsuko

This paper is a summary of my course currently being run at the Japanese Center of the Tokyo University of Foreign Studies entitled “Superior Japanese Reading Comprehension: Literature. What I endeavoured to do as I structured the course was to introduce novels by a wide range of writers and with a variety of different styles without being too fragmented, but rather try to link one novel to the next in order to build up the reading experience. The novels used in this course, as listed below, were all short stories in which a “bird” of some sort appears.

Introductory lecture: Extract, “The Crecking birdcage from ‘Meian‘”( in

“Soseki Kenkyu” vol.3 1994)

Lesson ①: Natsume Soseki, “Bunchō” (1907) Lesson ②: Mori Ogai, “Gan” (1911)

Lesson ③: Okamoto Kidō, “Toribeyama Shinjū” (1915)

Lesson ④: Miyazawa Kenji, “Toribako Sensei to Fūnezumi”(1921) Lesson ⑤: Ibuse Masuji, “Yane no Ue no Suwan” (1929)

Lesson ⑥: Kinoshita Junji, “Yūzuru” (1949) Lesson ⑦: Awa Naoko, “Tori” (1971)

Lesson ⑧: Murakami Haruki, “Toshokan Kitan” (1983) Lesson ⑨: Ekuni Kaori, “Boku no Kotorichan” (1997) Roundup lecture: Kawakami Hiromi, “Potan” (2000)

This course aims to deepen students’ understanding of Modern Japanese literature by taking a practical, structured look at the interdependent relationship between the literary work (text) and the social background which is its context.

参照

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