1991年出上の木簡
大 阪 ︒堺 環 濠 都 市 遺 跡
1 所在 地 大阪 府 堺 市大 町西 一丁 2 調査 期 間 一九 九〇 年
︵平 2︶ 月九 i 一一 月 3 発 掘 関機 堺市 教育 委員 会 4 調査 当担 者 増 田達 彦 5 遺 跡 の種 類 都市 遺 跡 6 遺 跡 の年 代 一四 世紀 を 一八 世紀 7 遺跡 及 び木 筒 出 土遺 構 の概 要 中 世 の堺 は︑ 会 合衆 によ
てっ 行政 を指 導 さ れ る自 都治 市 とし て︑ ま た日 明貿 易 によ り栄 え 港た 湾 都 市 とし て日 本史 上 に重 要 位な 置 を し め る︒ 遺 跡 は
︑ 堺 市 北の 西 部 に位 置 し
︑ 江 戸 時 代 に め ぐ ら さ れ た 堀 に よ てっ 囲 ま れ
︑ 旧市 域 の中 心 部 にあ た る
︒ 規 模 は東 西 一
︒ 一血
︑ 醐
南 北 三 血 で
︑ 標 高 は O
. P
. 四
︵大 湾阪 最低 千潮 面 か ら の標 伏 高︶ で 五 ぞ 七 m の馬 の背 状 の堺 砂 堆 と 呼 ば れ る土 地 に
立 地す る︒ 今 回 の調 査 は事 務 所 ビ ル建 設 に伴 う も ので
︑ 調査 地点 は遺 跡 南を 北 に貫 く 大道
︵紀 州街 道︶ 筋 ぞ いで 本︑ 遺 跡 中心 部 に近 いと こ ろで あ る︒ 遺 構 面 は 一五 世紀 後 半 から
一七 世 紀初 のも のま で︑ 計 七面 を検 出 し てお り︑ 主な 遺 構 と てし は︑ 礎 石及 び 輝列 建 物 六棟 他の 土︑ 坑
︑ 井戸 排︑ 水 口︑ 便 所 用と 考 えら れ 埋る 甕 など 多︑ 数 が検 出 され て い 亥や 木 ︒ 筒 が出 上 した のは ︑ 三 ハ世 紀前 半代 に比 定 され る第 三次 面 で︑ 道 路
︵幅 三
・四 じ の側 溝脇 に 位置 す る 土坑 S K三
〇 一
︵南 北 一・ 八 m︑ 東西
一・ 五m 深︑ さ○
・七 じ あで る︒ ほぼ 方形 で︑ 道 路側 であ る 西側 及 び北 側 の壁 面 に板 材を 貼 り︑ 杭 を打
てっ 留 めて お り︑ 南側 に も そ の痕 跡 あが る︒ 埋土 は単
一の 褐暗 色 の粘 質 上 であ り︑ 底 近に い 部分 はで
ヘド ロ状 にな てっ いた
︒ この 状 況 から み て︑ 滞水 し たと も 考 えら れ るが 貯︑ 水施 設 と いう より 本︑ 地点 で の良 好 な浸 水性 を考 慮す れば 排︑ 水施 設 と てし とら えた 方 が よ いと 考 え て いる
︒ 木 簡 は こ の北 側 の土 板留 の内 側 より 出上 し たも ので
︑ こ の板 囲 い の上 坑 の設 置 時 期 に混 入 し たと 考 えら れ る︒ ま た共 伴遺 物 と し ては
︑ 土 坑 の埋 土内 から 出 上 し た土 師 質 皿︑ 瓦 質 皿︑ 羽 釜型 の瓦 質 香 炉等 があ る︒ 8 簡木
の釈 文
︒内 容
①
︒﹁ 小 麦 二 斗 三O
月 寅 五 日
﹂
︒﹁ oに し か ちつ や 一□
﹂ 木 簡 は上 部 に 穿 孔 を 施 し て るい
︒ 記 載 さ れ た内 容 は
︑ 遺 跡 及 び こ の調 査 地 点 の性 格 を 考 え る 上 で 興 味 深 いが
︑ 後 に委 ね た い︒
解牌
×
∞〇
× P滓 O μ 牌
堺 環 濠 都 市 そ の考 察 は
︵増 田達 彦︶