市民政治の創造 : 市民社会を基底にして
その他のタイトル Creating Citizen Politics: Reflections Based on the Theory of Civil Society
著者 寺島 俊穂
雑誌名 關西大學法學論集
巻 61
号 6
ページ 1772‑1710
発行年 2012‑03‑10
URL http://hdl.handle.net/10112/6577
市民政治の創造
一 九
九
0 年代から﹁市民社会のルネサンス﹂と言われるような現象が起こり︑市民社会が社会諸科学においてふた
(1)
たび注目されるようになっただけではなく︑現代社会においても実践的な用語として使われるようになった︒市民社 会の形成や創出ということが市民団体や行政機関によって唱えられ︑
問 題 の 所 在
目 次
一問題の所在
二市民社会概念の諸類型
三市民運動の理念と形態
四 市 民 活 動 の 理 念 と 現 実 五 結
論
市民社会を基底にして
市 民 政 治 の 創 造
で
七七
二
︶ ︱
つの目標とされるような状況が生まれた︒こ 島 寺
俊
穂
市民社会についてどのように理解しておくかをあらかじめ述べておけば︑私は﹁見知らぬ人びとと出会い︑協力し
て活動する場﹂として考えておきたい︒これは︑社会そのものの定義とも関係するが︑社会は家族や地域社会のよう 民社会の現代的な意義を捉えなおしていきたい︒ り︑民主的な政治文化という観点からも市民社会の概念は注目されるのである︒
市民社会という用語自体︑歴史的に変化してきたのであり︑多様な使い方をされてきた概念である︒日本語で市民
社会というのは︑
側から生み出された言葉ではない︒しかし︑それは近年において学問的な用語としてのみならず︑日常語としても急
速に定着してきたことは事実である︒もちろん︑
いがあり︑戦後日本においては英語圏からの影響が大きくなってはいるが︑それでも日本語の市民社会概念が独自の
発展を経て現在に至っていることは事実であり︑本稿では市民社会の概念を歴史的に整理し︑政治理論の視点から市 で
あ り
︑
(2 )
こでいう市民社会とは︑経済的に規定された旧来の市民社会ではなく︑非国家的・非経済的な性格をもつということ
(3 )
から﹁新しい市民社会﹂として提起された概念である︒
一九八九年の東欧革命が東欧社会において急速に形成された市民社会を基盤にして起こったことがその契機になっ
ていたことは確かである︒この場合︑市民社会というのは︑平和団体︑環境団体から労働組合︑教会まで多様な組織
を指し︑さらには国境を越えた市民の自由な交流圏をも表していた︒ここで重要なのは︑民主化の進行と市民社会の
形成がパラレルに捉えられていたということである︒
一 九
九
0 年代から顕著になるグローバル化のなかで下からのグローバル化として注目されるのが民主化であ
ドイツ語の
b i i r g e r l i c h e G e s e l l s c h a f t ︑英語の
c i v i l s o c i e t
y の訳語であり︑みずからの政治社会の内
関 法 第 六
一巻
六 号
︵一
七七
一
︶
つまり︑根底的な民主化を惹き起こしたのは市民社会の広がり
ドイツ語でいう市民社会という言葉と英語の市民社会には意味の違
ま ︑
ーリ と
市民政治の創造
に︑構成メンバーがほぼ固定している場合もあるので︑市民社会は社会のなかでも
c i v i l
(市民的︑文明的︶な性格 をもっているものと理解できる︒市民社会には﹁自立した個人﹂である市民が形成する対等で︑人間の尊厳が尊重さ れる空間という規範的な意味内容をもつとともに︑国家や行政機関とも家族や友人仲間のような親密圏とも区別され る非営利セクターであり︑実証的に把握できる圏としても捉えられる
︒ 政治社会に歴史的に蓄積された信頼や互酬性
︵ 社
会 関
係 資
︶ 本
の人的ネットワークをソーシャル・キャピタル
(4)
もなされているが︑そのような場合︑市民社会は計測可能な概念になる
︒
たしかに︑現代政治学においても市民社会 一九九八年に制定された特定非営利活動促進法
( N
P O
法︶によって認証される
NPO
によってのみ代表され
るわけでなく︑町内会・自治会︑任意団体︑社会団体︵公益法人︑経済団体︑労働組合︑協同組合︑学校法人︑地縁
(5)
団体など︶も含む概念として捉えられ︑大きな広がりをもった活動と交流の圏として理解されているが︑本稿では市 民活動や市民運動とのつながりを重視して捉えなおしていきたい︒この意味で市民社会は︑市民文化とも関連してお り︑民主主義体制を下から支える条件となっていると言える︒
市民政治とは︑市民を基底に置いた政治のあり方であり︑
として捉え︑さまざまな指標を用いて分析する研究 アレントのいう活動としての政治がその範例になるであ
ろう
︒
政治を日常的な営みとするには︑﹁政治の概念を社会のあらゆるレベルの活動に拡げることによって⁝⁝政治
(6)
を政治家から取り戻す方法を見つけ出さねばならない﹂ことはたしかであり︑市民社会がそのための磁場になってい ることを示していきたい︒政治の概念を︑国家や国家間の政策決定から社会のさまざまレベルの活動へ︑政治の主体 を職業政治家からふつうの市民へ︑政治の様態を敵と味方との闘争から対等な人間同士の連帯や協力へと転換してい くなかでそのことは可能になるのだと思われる︒アレントにおいて政治は自由に関わる営みであり︑必然に関わる営
︵
一七七
0 )
ていきたいのである
︒みである経済とは峻別されるが︑政治はますます経済的な尺度で見られる傾向が出てきているので︑経済における公 正さと政治における正義が違うように︑政治の純粋な型も市民運動や市民活動の分析をとおして示していきたい︒
市民社会における人間関係がソーシャル・キャピタルという経済的なメタファーで語られるのは︑政策的な含意を
含んでのことであり︑ ソーシャル・キャピタルの蓄積が政策的課題とされ︑行政サイドから市民社会の形成が図られ
ている現状がある︒国家や地方自治体と市民社会の関係が重視されるのは︑政府に福祉や教育を担う財政的な余裕が
なくなってきたからであり︑もともと福祉や教育は社会が担っていたということもあり︑家族や地域社会の凝集力が
低下するなかで︑新たな受け皿として市民社会に期待が寄せられているという側面は否定できない
︒その場合︑市民
社会は︑企業とは違うが︑経済的・経営的機能ももち︑経済社会の一画を占めることが想定される︒アメリカにおい
て NPO
は巨大化し︑経済的基盤も確固としており︑社会的機能を
十分に果たしている︒しかし︑
NPO
が事業をな
す場合でも︑営利を目的とした私企業とは違って︑収益を分配するのではなく基金として蓄積し︑新たな活動のため
に使っていくという特性があるとしても︑企業化していく側面があることは否定できない
︒とはいえ︑人間の行なう活動がまったくの財政的裏付けなしになしえないことは確かであり︑市民社会はもともと
経済と政治の通態的な領域であった︒﹁通態的
﹂というのは︑
使った概念であり︑﹁行き来する状態﹂のことを指し︑ベルクは主体と客体︑自然と文化︑集団と個人を通態的に捉
(7)
える必要を示唆しているが︑本稿では︑ベルクが述べなかったことだが︑政治と経済の通態性という観点から市民社
会を捉えることを試みたい︒政治と経済は︑現象としては通態的だが︑原理としては区別されるということを論証し
一
九九 0 年代以降顕著になってきた傾向として︑経営論的転回が起こり︑市民団体も経済活動
関 法 第 六 一巻 六 号
オギュスタン・ベルクがみずからの風土学のなかで
四︵一
七六
九
︶
︵ポリティケー・コイノーニア︶
政治社会としての市民社会 と
ほ の
う が
︑
一国
家︑
五
︵一
七六 八︶
のなかの
to lL nx
⇒
xo we vi a
一 六
世
(8)
を行なうようになり︑逆に企業も社会貢献活動を行なうようになり︑市場と市民社会が融解していると言われるが︑
もうひとつ市民社会の特性として︑境界線で区切ることができないという点もあげることができる︒これは︑文明 社会としての市民社会の特性とも言えるであろう︒国家は国境という境界で区切られているが︑市民社会は国境を越 えて広がっていくという本来的性向をもっているということである︒国境を越えて市民団体や市民が連携していくこ
一地域の中に閉じたかたちで形成されることよりもふつうのことであり︑当然のことでもある︒
したがって︑もし市民社会が地球的な規模で連携し︑協力し合うことが可能になったら︑地球社会のあり方自体を変 えていくことになるだろう︒そのための条件は何かということも︑考えていかねばならない︒市民社会は市民活動を
支えているのだが︑市民活動はよりよき世界の構築を目指しているということを論証していきたい︒市民社会概念の諸類型
市民社会の始まりを語源的に辿る見方がある︒社会思想史家の植村邦彦によると︑英語の
c i v i l s o c i e t y
は ︑ 紀ごろから使われるようになっただが︑ラテン語の
s o c i e t a s c i v i l i s
(ソキエタス・キウィリス︶を直訳した用語であ
り︑ラテン語の
s o c i e t a s c i v i l i s
は古代ギリシアの哲学者アリストテレスの
は︑﹁他のすべてを包括する共同体
﹂
であり︑﹁あらゆる善のうち最高の善のために︑最大の努力をもってそれを目指
市民政治の創造
市民社会と経済組織を原理的に区別しておく必要がある︒
﹃ 政
治 学
﹄
の訳語であり︑これは政治的共同体︑すなわちポリスを表す言葉であった︒ポリス
もっぱら公的領域であったとしている︒
アレントによれば︑
アリストテレスの人間に関する定義である﹁政治的動 ナ・アレントは︑﹃人間の条件
﹄︵ ﹃
政 治
学
﹄
12 52 a)
す の
で あ
る ﹂
(9)
たと言える︒この点からは︑市民社会
11
政治社会ということになる︒
同様の指摘は︑平子友長の論文﹁西洋における市民社会の二つの起源﹂
︵二
0
0 七
年
︶
市民社会には︑政治社会としての起源と経済社会としての起源の二つの起源があり︑政治社会としての起源は古代ギ
リシアのアリストテレスにあり︑ アリストテレスにおける政治的共同体としての市民社会は︑家政
( O ;
︒ ^
ォ イ
コ
(1 0
)
ス
︶との対比で捉えられ︑家政が必然に関わるのに対し︑自由に関わる領域として理解できるという
︒人間はさまざ
まな共同体を形成するが︑
的に転換するのは︑国家の登場によってであり︑政治的共同体としてもっていた政治的機能は国家に吸収され︑市民
が重なり合わされることになった︑ 社会は経済社会として理解されるようになったのであり︑政治と経済の二元論に﹁国家﹂と﹁社会
﹂という理解である
︒しかし︑このように考えると︑ポリス
11
市民社会ということになり︑現代の語義とは相当かけ離れてしまう
︒物
﹂が ︑
セネカによってすでに﹁社会的動物﹂と訳され︑トマス・アクィナスによって﹁社会的動物
﹂という訳が標
準訳となったことは正当だったとしても︑大きな誤解が含まれていたという
︒正当だったというのは︑人間の共
生の
領域が社会になっていったからであり︑大きな誤解というのは︑家長の下での
一様性と政治的領域とは相容れないも
( 1 2 )
のだからである︒アレントによれば︑社会という概念は家政の延長線上に捉えられ︑
﹁拡大された家族﹂の性格をも
関 法 第 六
一
巻六号
というアリストテレスの規定からみると︑市民社会の語源は﹁国家共同体
﹂に あ
っ
でもなされている
︒ポリスの形成において最高善の追求がなされるのである
︒このような市民社会概念が根底
︵一
九 五
八 年
︶
のなかで社会という概念はギリシアには存在しておらず︑活動の場は
六︵一七 六
七
︶
Jヽ
ン
つ ま
り ︑
の 新
し い
二
元論
の
書簡
﹄市民政治の創造
つ か
ら で
あ る
︒ つまり︑家政がもっていた家長の下での専制的支配は経済組織に受け継がれ︑また家政の一様性は社 会や大衆社会の画一主義となって現れており︑社会は︑ポリスのなかでの卓越を求めた市民の行為や語り合い︑説得 では︑なぜ近代の政治理論において市民社会という概念が古代的なイメージで使われたのかという問題がある
︒
近
代政治理論の原型を形作ったジョン・ロックは︑
﹃
統治二論
﹄ているが︑それは
p o l i t i c a l o s c i e t y
( 政
治 社
会 ︶
が統制する政治社会が望ましいと考え︑それを市民社会と呼んだからである︒
治を想定したが︑代表者を選んで議会において意思決定をなしていく型の政治を措定していた
︒
実際の社会生活は︑
古代ギリシアにおけるように公的営みというよりも︑生産活動を中心に考えられており︑所有権の保障が統治の大き な目的となるのである︒社会契約というのは国家形成行為であり︑
c i v i l s o c i e t
(
を﹁市民社会﹂と訳すことには問題 y
があると指摘され︑加藤節訳の
) 1 3たしかにロックの場合︑﹁市民社会
﹂
は ﹁
政 治
社 会
﹂ 民が自発的に教会や団体を形成するという意味で現代の市民社会に通じる意味もあった
︒
︵一六
八九
年
︶
規模がはるかに大きくなり︑
﹃ 統
治
二
論
﹂では一貰して﹁政治社会
﹂と訳されている︒
七
︵
一七六
六
︶
ロックは︑同意によって動かされる政 の意味で使われてはいたが︑そのような用語法を超えて︑市
ロ ッ
ク は
︑
﹃
寛容について
のなかで︑﹁私は︑教会とは人々の自発的な集まりであり︑人々が神に受け容れられ︑彼らの
( 1 4 )
魂の救済に役だっと考えた仕方で神を公に礼拝するために︑自発的に結びついたものである︑と考えます﹂と︑教会
市民による直接統治が不可能になるという条件の変化にもかかわらず︑
理念的には市民
使ってみずからの政治理論を構築したのは︑古代ギリシア︑
ローマに存在した自治としての政治を︑政治的共同体の
の空間とは異質なものだという理解である︒
︵ 一 六
九0
年 ︶
と同義においてである
︒のなかで
c i v i l s o c i e t
y という用語を使っ
ロックらが市民社会とか市民という言葉を
重要なのは︑初期近代において市民社会のギリシア的な意味が継承されていたということである︒市民社会の源流
としての政治的共同体︑すなわちポリスは自治的な制度であり︑自治的な要素が市民社会を考えるうえできわめて重
要になるからである︒岡本仁宏が言うように︑﹁古典古代における
︿市民社会﹀概念︑というよりもその語源となっ
ている言葉は︑優れて政治領域を指し︑経済・家政の領域を排除し成立するものであった︒この概念からポジティブ
な遺産として継承されているのは︑平等な市民による政治的自治への志向性︑政治への能動性であるということがで
(1 6
)
きる
﹂ ︒
古代ギリシアにおいて社会という概念がなかったとしも︑社会が存在したことは確かであり︑それは︑政治
社会として存在したのであり︑市民が直接議論し行為するなかで政治が行なわれる空間であった︒市民社会が﹁市民
的
﹂であるのは︑市民相互の自由な交わりから成り立っているという意味においてであり︑たんに語源的な意味のみ
ならず︑直接的・自治的な契機を内在していたという点で重要である︒ 民社会論の基底となっている考え方である︒ 社会契約はプロパティ を神の啓ホに同意した諸個人の集まりと見ている︒教会契約が救済への希望を唯一の関心事としてなされるのに対し︑
︵ 固
有 権
︶
とパラレルに捉えられている
︒そのことは︑﹁市民的な集会は︑宗教問題については相互に意見の異なる人々から成
(1 5
)
り︑宗教的な集会はすべて同じ
︱つの意見から成っているものです
﹂と︑ロックが述べていることからも明らかであ
る
︒ロックにとって教会も
︱つの結社であり︑市民の多様な団体形成は積極的な意味で捉えられている
︒ ﹃
統治
二論
﹄でいう﹁政治社会
﹂とは︑これらさまざまな結社を包括する共同社会であり︑教会や市民的集会とは区別されるが︑
自由な統治を成り
立たせるためには多元的な社会が必要だと認識されており︑このような中間団体の重視は現代の市
関 法 第 六 一巻 六 号
の保全という現世的な目的でなされている点に違いがあるが︑教会契約は社会契約
八
︵一
七六
五︶
えて拡げていったのである︒ 生み出していったのである︒
商業社会としての市民社会
九
︵一
七六
四︶
しかしながら︑現代的な意味での市民社会を考えるうえで重要なのは︑経済社会としての市民社会であり︑それは ヨーロッパ近代において形成されたと見ることができる
︒
つまり︑商業社会から発達してきた市場社会が市民社会の 基盤になっていったのである︒市場は︑ポリスの空間と同じように︑人びとが自由に行き来しないと成り立ちえない
ものである
︒また︑安心して売り買いし︑信用が重視され︑誰にも開かれた性格をもっている
︒
市場化のなかで︑経
済的な目的で人びとは自由に交わるようになっていったのであり︑このような自由な交わりが市民的な作法や礼節を
一六世紀ごろから顕著になっていく商業資本主義の発展が︑市民的交流の圏を国境を越 とはいえ︑思想家による市民社会の定義は依然として政治社会であり︑国家社会を市民社会と
言
いならわす傾向は
続いていた︒たとえば︑
アダム・スミスは
﹃国 富
論 ﹄
と市民社会を区別し︑前者は分業に基づいて生産諸力が高度に発展した社会であり︑﹁未開かつ野蛮な社会﹂に対置
(1 7
)
される概念であるが︑後者は正義の原理が貫徹される社会としての政治社会に充てられていた︒しかし︑市民的統治 の目的は﹁侵略からの安全の保障﹂であるが︑
てポリスと総称されている
︒本 来
︑
市民政治の創造 ︵一七七六年︶
のなかで﹁文明化された社会﹂
i v ( c i l i z e d so ci et y)
スミスにおいてそれ以外の目的も入り込んでおり︑それは﹁ネイショ ンを構成する国民一人ひとりの生活水準を向上させ︑富裕化を増進させるための様々な政策であり︑それらは
一
括
し
オイコスの外部にあってオイコスの仕
事︵生活 の
必 要
の 充
足 ︶
とは異なる倫理的
目的︵自由︶を実現するために設立されたポリスが︑今では︑安価な商品を潤沢に供給すること︑都市を清潔にする
( 1 8 )
ことなど︑︿共通の主権者﹀に服従する市民たちの生活要求に応える政策体系の呼称に転化してしまっている﹂︒ポリ
態に対応する理論枠組みを構築しようとしていることがわかる︒
一 地
スとかオイコスという言葉が用いられているように︑古代ギリシアの政治社会の認識枠組みを使いながら︑新しい事
スミスの場合︑文明社会とは分業によって生産諸力が増大し︑国民
一人ひとりが豊かな生活ができる状態を指し︑
経済的な次元で理解されている︒分業によって人間社会は豊かになっていくのであり︑それは交換が成り立つ市場の
機能によるものである︒スミスによれば︑﹁いったん分業が完全に確立してしまうと︑人が自分自身の労働の生産物
で充足できるのは︑彼の要求のうちできわめてわずかな部分にすぎない︒彼がその要求の圧倒的大部分を充足するの
は︑彼自身の労働の生産物のうちで彼自身の消費を越える余剰部分を︑他人の労働の生産物のうちで彼が必要とする
部分と交換することによってである︒こうしてだれもが交換することによって生活するのであり︑ いいかえれば︑あ
(1 9
)
る程度商人になるのであり︑社会そのものが商業的社会と呼ぶのが当然なものになるに至るのである﹂︒当時は︑国
民経済の形成というかたちでの分業であったが︑当然のことながら︑自由貿易を広げ世界を市場化することによって
人類社会の富は増大していくのであり︑商業社会は
一国内にとどまるものではない︒したがって︑商業社会としての
市民社会は越境していく必然性を内包しており︑経済活動をとおして交流囲が拡がっていく社会である︒それは︑貧
(2 0 )
富の差の増大という弊害を伴っているが︑国民全体の富は増大するので︑擁護されるのである︒
文明社会としての市民社会
スミスは﹁文明化された社会﹂と﹁市民社会﹂を区別したが︑そもそも市民社会には﹁文明社会﹂という側面が含
まれていた︒文明
( c i v i l i z a t i o n )
というのは︑都市
(c i v i t a s )
関 法 第 六 一巻 六 号
の生活様式を他地域にも広げていくことを意味し︑ 1
0 ︵一七六
三︶
であるが︑文明という用語には精神的︑倫理的次元も存在している︒
そのような意味で文明社会としての市民社会という概念の構築に与って力があったのは︑
る︒﹁洗練された態度﹂は﹁洗練された技術
﹂から生まれることを見抜き︑
イヴィッド・ヒュームであった
︒ヒュームは︑﹃政治経済論集﹄
︵一
七 五
二 年
︶
(i
七 六
二 ︶
域や一国にとどまりえない普遍性をもつものである︒スミスの場合は︑文明を物質的︑経済的次元で捉えているわけ
スコットランド啓蒙であ
いち早く文明社会の利点を説いたのはデ
のなかで人間の幸福は活動と快楽と安
逸とから成っているとしたうえで︑産業活動と機械技術の洗練は︑学芸上の洗練をつくり出し︑文明社会では人の心
(2 1
)
を物質的な快楽のみならず精神的な快楽を求めるように仕向ける︑としている
︒ヒュームによれば︑﹁これらの洗練された技術が進歩すればするほど︑人びとはますます社交的となる
︒
学問に富
み会話のたねをもつ場合には︑人びとが孤独に留まって満足したり︑あるいは無知で未開な国民に特有のあの疎遠な 仕方で同胞と暮らすなどということは不可能である︒彼らは都市に密集してきて︑知識を得たたり︑交換したり︑自 分たちの機智や教養を︑また会話や暮らしとか衣服や家具とかの好みを︑見せびらかしたりするのを好む︒好奇心は 賢者を︑虚栄心は愚者を︑そして快楽はその両者をそそのかす︒特定のクラブや協会がいたるところに結成され︑男
女は気軽に社交的な仕方で会合する
︒そして彼らの行動だけでなく彼らの気質もまた速やかに洗練される
︒し た
が っ
て人びとは︑知識と学芸とから受ける改善のほかに︑たがいに交際するという風習自体によって人間性の高まりを感
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
じ︑各人が他人の快楽と愉楽とに寄与するに違いない
︒このようにして︑産業活動と知識と人間性とは︑解き離し難
い鎖でつなぎ合わされているのであって︑それらがいっそう磨きあげられた︑そして通常いっそう奢修的な時代と呼
( 2 2 )
ばれている時代に特有なものであることは︑理性によってだけではなく経験によってもわかるのである﹂
︒
市民政治の創造
用いたが︑否定的な意味においてであり︑
こ の
よ う
に ︑
所とみたことは︑重要な点である︒文明的な態度としての
c i v i l i t y
( 礼
儀 作
法 ︶
にしても︑広く他者と交流・交際す
(2 3
)
ることから身についていくからである︒文明人は戦争においても文明的な態度をとるとされるが︑
開や野蛮との対比で理解される限りで︑未開な地域を文明化することは正当とみなされるし︑帝国としての発展も許
容されるという矛盾を含んでいた︒とはいえ︑逆に外国貿易によって富を増し︑人的交流も図れば︑人びとの態度は
より洗練され︑人びとの精神は豊かになり︑磨かれていくことになる
︒アダム・ファーガスンは︑
︵一
七六
七年
︶
ヒュームが人間交際を文明社会の基底に位置づけたことと︑都市こそが洗練した態度を身につける場
スミスやヒュームの文明的な意味での市民社会という視点を明確化し︑﹃市民社会史論
﹄のなかで文明史論的な意味で人類の歴史を描いている︒そこでは︑依然として市民社会は国家社会とし
て捉えられているが︑国家社会を構成する国民︵ネイション︶ の資質を問題にしている点がホッブズやロックらの社
ファーガスンは︑野蛮な国民から洗練された国民への移行として文明史を捉え︑
モンテスキューの議論に依拠しながら︑文明の発展史のなかで市民社会を位置づけていくのである︒
フ ァ
ー ガ
ス ン
は ︑
﹁洗練された商業的国民﹂︵
p o l i s h e d a n d c o m m e r c i a l n a t i o n s )
を﹁粗野な諸民族
﹂(
r u d e n a t i o n s )
や﹁北アメリカの諸民
族
﹂と対比している
︒では︑﹁洗練された
﹂というのはどのような意味なのかというと︑英語の
p o l i s h
がラテン語の
p o l i o
( 磨
く ︶
来ているように︑もともと﹁磨く﹂﹁洗練する﹂という意味であり︑﹁洗練された社会﹂とは﹁諸国民の一般教養や機
(2 5
)
械的技術︑文学︑そして商業における熟練﹂を達成した社会を意味した
︒ルソーは﹁文明化した人間﹂という表現を 会契約論者と違う点である︒
関 法 第 六 一巻 六 号
つ ま
り ︑
ファーガスンは﹁未開から文明へ
﹂という人類史の流れを肯定的に捉えて
一方で︑文明が未
︵一七六
一︶
か ら
と い
う の
は ︑
原 論
﹄
市民政治の創造
い る
︒
ま た
︑
一 方
で ︑
モンテスキューにも文明を見る視点はあったが︑比較文明論的な視座であり︑
史的に人類の文明的発展を記述しているところが違いである︒
c i v i l i t y ( 礼節
︑礼 儀正 しさ
︶
あり︑﹁洗練された態度﹂は﹁洗練された社会﹂
練された作法を身につけた社会であり︑市民社会にはそのような文明社会としての側面があると︑認識されていたの である︒ファーガスンにおいて︑市民社会は商業社会であり︑文明社会ではあるが政治社会ではないという意味転換
(2 6 )
がなされ︑アリストテレス的な意味からの離脱がなされたと見ることができる ︒
ビュームやファーガスンとは反対に︑文明社会としての近代社会を強烈に批判したのが︑ジャン
1 1
ジャック・ル
ソーであった︒社交によって身につく態度は﹁他人の口の端に乗りたいという欲望
﹂であり︑自然本来の自己を失っ
た偽善的な姿だという批判である ︒
という人間本性に具わった自然は失われていき︑人間は堕落していくという歴史認識である︒ルソーが︑﹃不平等起
︵ 一
七五
四年
︶
ルソーは﹃社会契約論﹄
と
c i v i l i z a t i o n
( 文
明 ︶
︵一
七六
0 )
は相互に連関した用語であり︑﹁洗練された社会﹂は商業社会で
のなかで育まれていくのであり︑﹁文明社会 ﹂ というのは人びとが洗
ルソーが重視したのは︑人間的自然であり︑文明化されるに従って自己愛や憐み
のなかで︑私的所有が不平等を生みだしたことを主張しており︑文明化される以前にあった自然 的な人間のつながりを肯定し︑﹁未開人は自分自身のなかで生きているのに対して︑社会人は常に自分の外にあり︑
他の人々の意見のなかでしか生きることができないのである︒そしていわば彼は自分自身の存在の感情を︑他人の判
(2 7
)
断のみから引き出しているのである﹂と︑社会の構成員を痛烈に批判しているのだが︑このような疎外態としての文 明社会批判は︑画一性や同調主義によって規定されつつある近代社会の性格に向けられていた︒
︵一
七六
二年
︶
のなかで市民を﹁主権に参加する者﹂として政治的な
ファーガスンにおいて︑
c i v i l
(市 民的
︑文 明的
︶
と
ファーガスンの場合は歴
ヘーゲルは︑﹃法の哲学﹄(
‑
八ニ
︱
年 ︶において存在した特殊と普遍の調和した状態が崩れ︑人間が私的所有者として現れる状態として捉え︑国家において のとなっていったのである︒ 景にあるのは産業資本主義の発展である︒つまり︑農業社会から工業社会に移行することによって︑人びとの労働の形態が変化し︑資本家と労働者︑すなわち生産手段を所有している者と賃金によって雇われる者とに分化し︑私的所有者が中心になって形成する社会として市民社会が理解されるようになっていったのである︒スミスの場合は︑人間の利己心を肯定的に捉えていたが︑資本主義は︑階級分化︑貧富の差︑利己主義を肯定し︑社会的矛盾を体現するも
のなかで家族ー市民社会l
国家という三層構造のなかで︑市民社会は家族
ルソーがこのようなかたちで提起した問題は︑ 疎外を批判した点で︑ 第六一
巻 六 号
(2 8 )
次元で捉えている︒もちろん︑
し︑市民は個人個人を指している︒市民
( c i t o y e n )
というのは都市の構成員であり︑政治的に自立した個人であった
のだが︑﹁シテ
C i t e
ということばの真の意味は︑近代人のあいだでは︑ほとんど完全に消失している︒大多数の人は︑
(2 9
) 都会
V i l l
e ﹂
をシテと︑ブルジョワを市民と考えていると︑市民がブルジョワに置き換わっていることにもルソーの批判が向けられる︒ルソーが社交界の人間に垣間見たのは︑古代ギリシア︑
間であり︑仮面をかぶった人間である︒ルソーは︑市民社会を否定的な意味で文明社会と捉え︑近代人における自己 関法
ルソーにおいて主権は人民にあるのだが︑人民というのが集合的な概念であるのに対
ローマの市民ではなく︑文明化された人
マルクスの市民社会批判に通じる議論を展開しているのである︒
資本主義社会としての市民社会
ヘーゲルを経てマルクスヘと継承されていくことになるが︑その背 一四︵一
七五
九︶
市民政治の創
造
ていることを表している︒
一五︵一七五八︶
その矛盾が克服されねばならないと捉えている︒市民社会とは︑特殊的な人格である個人が欲求によってうごめく
﹁ 欲
求 の
体 系
(< l
a s Sy st em e d r B ed ur fn is
se﹂
である もちろん︑そこには﹁自由﹂という普遍的契機も含まれている
)︒が︑それは﹁所有
﹂として具現化し︑その実効性は司法によって保障される
︒国内的には﹁
一方における富の集中と
(3 0
)
他方における貧困の増大﹂が進行し︑対外的には植民政策をとることになる
︒こうして︑市民社会においては人倫的
一体性が失われ︑特殊と普遍は分断される︒市民社会のなかにも職業団体といった人倫共同体も存在するが︑このよ
うな矛盾の解決は高次なジンテーゼである国家に求められる
︒ヘーゲルにおいて︑市民社会が﹁欲求の体系﹂と捉えられたことは︑政治社会としてではなく経済社会として捉え られたことを意味している︒また︑市民は﹁シトワイアン﹂としてではなく﹁ブルジョワ
﹂
として捉えられたことを
意味している︒市民社会には︑福祉行政と職業団体という公的機能も内在化されているが︑根本的には矛盾しており︑
克服すぺき状態として捉えられている︒ ヘーゲル哲学においては︑個と全体︑特殊と普遍が矛盾なく
一体化している
状態が望ましいのであり︑国家においてこの矛盾は解決されるが︑国家は社会契約論者が想定したように古代都市を モデルにしているのではなく︑プロイセンという実在する国家である︒市民社会において特殊的利害は集合的に代表 され︑議会をとおして国家に媒介されていくのであり︑政治的に自由な個人から構成されると考えられているわけで はない︒むしろ経済的な利害の競合する場が市民社会なのであって︑近代において市民社会が資本主義的に規定され マルクスは︑さらに議論を進めて近代の市民社会を資本主義社会として理解している︒
マルクスは︑﹃ユダヤ人問
題によせて﹄( ‑
八 四
三 年
︶
のなかで︑市民社会における人間同士の関係は利己的諸個人に分裂した関係であり︑
フラ
側面が過小評価されることになった
︒ル マ
ク ス
は ︑
ンス革命の結果得られた政治的解放は人間の生きる場での自由と平等にはつながっていないことを痛烈に批判してい
る
︒マルクスが市民社会の人間に見たのは︑人間がそれ自体目的とされず手段となっている現実である
︒
人間は利己
的な個人として活動し︑他人を手段とみなし︑自分自身をも手段にまで下落させているということである
︒
政治的解
放によって︑﹁人間は宗教から解放されたのではなく︑宗教の自由を得たのである
︒人間は所有から解放されたので
(3 1
)
な い
︒
所有の自由を得たのである
︒人間は営業の利己主義から解放されたのでなく︑営業の自由を得たのである﹂
︒利己的な人間が︑市民社会の人間となるである︒嫉妬が市民社会における最も深い人間的属性になる︒﹁市民的人間 は︑他人という鋭すなわち他人の眼に写ったかぎりでの自分を︑真の自分と見あやまち︑自他を︑比較可能な経済的
(3 2
)
な価値
︵交換価値
︶において比較してばかりいるような人間になってしま
﹂う
︒マルクスが市民社会を克服すべき対
象と捉えたのは︑市民社会においては経済的尺度で人間が評価され︑﹁他人の成功をみる悲哀﹂や﹁他人の失敗をみ
(3 3
)
る快感﹂が市民的人間の感覚的属性になるからである
︒ヘーゲルとは違った方向でだが︑この矛盾を克服しようとした
︒マルクスは市民社会の矛盾︑すなわ
ち資本主義社会の矛盾は︑国家によってではなく社会のなかで克服されねばならないと考えた
︒
それが︑共産主義社
会なのだが︑共産主義社会において個と全体︑特殊と普遍は現実に人間の生きる場で調和し︑人間は類的存在として
普
遍的利益を意識して自由に労働し︑
関 法 第 六 一巻 六 号
エゴイズムから抜け出ることができるとされた
︒マルクス主義においては︑市
民社会は資本主義社会として捉えられ︑克服すべき対象と捉えられるが︑それとともに︑自由主義的で立憲主義的な
一六︵一
七五 七
︶
治文化の独自の特質である︒ 私的所有者としてブルジョワの構成する社会という意味とともに︑ 営利を目的とせず︑社会正義を目指す事業主体として形成されていった
︒一七
︵
一七五
六
︶ まれた
︒それは︑自発的結社としての市民社会の伝統である
︒社会契約によって国家をつくるのと同じように︑相互
の合意によって団体を結成するということである
︒労働紺合から相
互扶助団体︑宗教を基盤にした慈善団体︑
平和運
動の団体に
至るまで多種多様な組織がつくられていった
︒それらは︑企業のような営利を目的とした組織ではなく︑
このような意味での市民社会を基礎づけた思想家にはアレクシ・ド・トクヴィルがいるが︑トクヴィルは︑
﹃
ア
メ
リカのデモクラシー
﹄第
二巻
(‑
八 四
0
年
︶のなかでアメリカにおいて結社が果たしている民主的機能について論じ
ている
︒トクヴィルが讃嘆したのは︑﹁アメリカでそれまで想ってもみなかったような結社に出会い︑合衆国の住民 が手段を尽くして共通の目標の下に多数の人びとの努力を集め︑しかも誰をも自発的に目標の達成に向かわせる︑そ
の
エ夫﹂に対してである
︒これは︑アメリカがその法制や慣習を受け継いだイギリスにも見られない︑アメリカの政
ト ク
ヴ ィ
ル は
︑
貴
族社会と民主的な社会とを比較し︑前者は力と
富を有する少数の市民が存在し︑たった
一人でで
も大きな
事業をなしうるのに対し︑後者においは﹁市民は誰もが独
立し︑同時に無力である
︒一人ではほとんど何を
たす
なす力もなく︑誰
一人として仲間を強制して自分に協力させることはできそうにない ︒ 彼らはだから︑自由に援け合
( 3 5 )
う術を学ばぬ限り︑誰もが無力に陥る﹂と述べている
︒トクヴィルによれば︑民主主義がもたらすのは境遇の平等で
あり︑﹁われわれが目撃しつつある民主革命は一っの不可抗な事実であって︑これと闘うのは望ましくなく︑賢くも
市民政治
の創
造
自発的結社としての市民社会
一
九世紀にはもう︱つの市民社会の捉え方が生
市民社会論の原型となっている
︒一
九
八
0 年代からの世界的な 一九八九年の東欧革命の以前から市民社会概
ない﹂ということである︒トクヴィルは︑﹁民主的な国民にあって︑境遇の平等によって消え去った有力な個人に
取って代わるべきは結社である
︒合衆国の住民の何人かがある感情や思想をいだいてこれを世間に広めようと望むと︑
彼らは仲間を探し︑仲間が見つかると団体をつくる
︒この時から︑もはや孤立した人々ではなく︑遠くから目に見え
︑(3 7
)
行動が手本になるもうひとつの権力が
語り︑耳目を集めるのである
﹂と述べている
︒自発的に団体をつくり︑
ひとつの権力となっていく技術が民主主義を下から支えているのであり︑﹁国家のなかの
国家﹂をつくることによって︑政治権力の強大化を防ぐこともできるのである
︒市民的結社にせよ政治的結社にせよ︑
共同の事業をなすためにつくられるのである
︒また︑市民的結社が政治的結社の
土台になっており︑﹁共通に関わる
小さな仕
事の数が増えれば増えるほど︑人々は知らず知らずのうちに︑大きな仕
事を共同で遂行する能力を身につけ
糾
﹂︒トクヴィルに依拠するなら︑市民社会とは︑さまさま市民団体から構成される社会であり︑市民団体そのもの
が見知らぬ人びとに出会い︑語り︑行為し︑協力するすべを学ぶ場でもある
︒市民政治とは市民が直接政治に関わる
政治形態だとしたら︑その基盤になるのは市民社会であり︑人びとが社会
11
市民団体を結成し︑維持し︑発展させて
いく経験の
蓄積としての市民文化が重要であり︑トクヴィルが﹃アメリカのデモクラシー
﹄現代の市民社会概念
現代の市民社会は︑これらの類型のなかのどれに当たるのだろうか
︒念が西欧で注目され︑東欧革命の原動力になったのも市民社会だと認識されてきたが︑
関法第六一
巻 六 号
八
︵一
七五 五
︶
で示した認識は︑現代の
九
規模での民主化のなかで市民社会がその基盤となったことも事実である
︒
﹁市民社会の再発見﹂とか﹁市民社会のル
ネサンス﹂と言
われる現象がそれであるが︑市民社会の概念自体は変化している点に注意する必要があろう
︒そもそ
も︑近代国家システム成立以後は︑古代ギリシア・ローマ的な政治社会︵国家社会︶
としての市民社会という観念に
は戻ることはできないことは明らかであった︒
また︑経済社会︑すなわち市場社会や資本主義社会としての市民社会 という意味とも違う︑脱経済的な意味で市民社会という
言葉が用いられるようになってきたことも確かである︒
その
意味
︑で
一九
八
0
年代以降の市民社会の概念は︑次のような三層構造を示している︒第一に︑市民団体を中核にした社会圏という捉え方である︒
第二に︑トクヴィル的な伝統である自発的結社の伝統をふまえつつも︑﹁自
立し
た個人﹂としての市民を基礎にした紐帯︵市民間のつながり︶という意味もある︒第三に︑市民社会セクターという
ように︑国家や企業とは区別される第三
セクターとして非営利の事業を行なう領域という意味でも使われてもいる
︒
第一
の意味では︑市民社会は環境保護団体︑平和団体︑人権団体など市民団体に代表され︑市民団体そのものを指す 場合もあるが︑それらの市民団体の集合的概念として用いられていると
言
てっ
よい
︒第二の意味では︑市民社会は︑
市民文化を育成する甚盤であり︑パットナムらの用いたソーシャル・キャピタルとの関連で捉えられるような概念で あり︑人びとのあいだの信頼や協力を可能にする潜在的な関係︵市民的な紐帯
︶として捉えられる︒市民意識の総体
としての集合的意識も意味し︑下から民主主義を支え︑憔論の力によって政策にも影響を与えることができる
︒第三
の意味では︑非営利団体による事
業というかたちでの経済活動という側面もあり︑かならずしも脱経済的な領域では
ない
︒もともと︑公共セクターとして公益法人が行なう形態もあったが︑法制度を整備することによって民間団体を︑
政府や地方自治体が活用していく側面も見られる︒
これらの団体は︑巨大組織化した事業体として福祉や教育の面で
市民政治の創造
︵
一七五四
︶
形態が市民運動と市民活動なのである
︒このような特性とともに︑国家とは違って︑市民社会には本質的に境界がないという越境的性格がある
︒市場がそ
うであるように︑市民社会も地球的なレベルにまで展開していく可能性があり︑少なくともトランスナ
ショナルなレ
(
1 1
国境を越えて
︶活動している市民団体も多い
︒というのも︑社会というのは根本的に人間が自由に出会う
ことによって形成できるからである ︒ 多国籍企業と呼ばれるような巨大企業のように︑商品や労働力を求めての越境
ではなく︑地球的正義に基づいて対等な人間同士のつながりをつくっていくところに市民社会の特徴があり︑市民社
会の地球的な連携が地球的なレベルでの民主化の基盤として注目されるのである
︒その際留意しておかねばならないのは︑市民社会をつなげていくのは友情︑連帯︑協力をとおしてであり︑それら
をとおしてのみ人びとは対等な
立場で横につながっていくことができるということである
︒市場社会が貨幣を媒介と
( 3 9 )
した交換という契機から成り
立っているのに対し︑市民社会は平等主義的な価値に基づく交流圏として成り立
って い
るという違いを認識しておくことが重要である
︒つまり︑政府が財や資源の再配分︑市場が財の交換を担うのだとし
たら︑市民社会は人びとのあいだの自由な開かれた交流を担うという側面があり︑社会正義の追求も重要な契機とし
ている
︒市民政治とは︑このような人間同士の平
等と尊厳の相互承認という前提のうえで展開される相互行為︑すな
わち活動としての政治なのである
︒そして︑そのような市民を基底にした政治の発現の場が市民社会であり︑発現の
ベルで 制度的に公共的機能を果たしている
︒ 六一関法第巻 六 号
二
0
︵一七五 三
︶
日本における市民社会の概念は︑翻訳語として成立し︑
︵
一七五 二 ︶
﹃経済学批判﹂における
bu rg er
, (
﹁市民的社会﹂という言葉が使われたのが端緒だとされる︒戦前の社会科学はマル
4 0 )クス主義の影響で︑市民社会は﹁資本主義社会﹂あるいは﹁ブルジョワ社会
﹂という意味で用いられるのが
一般的で
になっていった
︒マルクスの
b t i r g e r l i c h e Ge se ll sc ha ft
の訳語としての流れが先行し︑
ム・スミス研究の進展から
c i v i l s o c i e t y
の訳語としての﹁文明的商業社会
﹂という意味での市民社会が使われるよう
スミス研究者の高島善哉の使った市民社会概念がそうだが︑そこには﹁政治的には自由と平等と博
愛の精神︑経済的には等価と正義の思想
﹂という規範的な意味内容が込められ︑ヨーロッパ近代の市民社会が範例と
(4 1
)
して想定されていた︒こうして︑市民社会は︑実際には︑商業社会であり︑資本主義社会であるのだが︑同時に︑経
済や流通における公正さの実現という規範的な意味をもつという概念の二重性が生じていったのである︒をとおして
一九
六
0
年代後半にマルクス主義のなかにおいて市民社会の意義が再認識されていったことは︑市民社会の概念史( 4 2 )
のなかでも注目される︒つまり︑平田消明は︑﹃市民社会と社会主義﹄
のなかでマルクスの著作の読解
(4 3 )
﹁市民社会とは︑何よりもまず︑人間が市民として︑相互に交通する社会ではないのか
﹂
と︑市民社会の ︵
一九六 九年
︶ 意義を捉えなおした︒資本主義的な市民社会は克服されるべき対象と捉えられているが︑自由で平等な個人としての
市民が自由に交流する應として市民社会の意義を積極的に捉えることによって歴史の進むべき方向を正しく認識でき るとした点で︑市民社会は経済社会に還元し尽くされない要素をもつと認識されたのである︒
日本において市民社会という用語が翻訳語として形成されていったことは︑かならずしも市民社会が日本に存在し
あ っ
た ︒
市民政治の創造
ヘ ー
ゲ ル
︑
l i c h e G es el ls ch af t
の訳語として 日本における市民社会概念
一九二三年にマルクスの
一
九四 0 年代からはアダ
う意味で使われたが︑その後︑ と
い う
よ う
に ︑
なかったということを意味するわけではない︒﹁日本には市民社会がない﹂という言説は︑
視した結果生まれた見方であり︑福沢にせよ文明社会としての市民社会の思想家であり︑人間が自由に交流するとこ
ろではどこでも市民社会は存在しうるし︑存在したと考えるぺきであろう︒しかし︑欧米の市民社会概念と日本にお
ける市民社会理解の大きな違いは︑前者が自発的結社型の市民団体を市民社会の基盤に置いているのに対し︑後者は
市民団体も含むがむしろ社会総体として市民社会を捉える傾向があることである︒これは︑
下に置き︑行政の補完的機能として市民社会を形成しようという動きも出ている︒したがって︑日本にも市民的伝統
はつくられ︑変容を遂げていったという視点から︑市民という言葉が積極的な意味で使われ始めた
一九六 0 年代以降
市民概念の転換 の政治社会の動態を理解していく必要がある︒ しい政治文化によると考えられる︒
一方 で
︑
市民運動の理念と形態 資本主義社会として市民社会が捉えられてきたことと︑
関 法 第 六 一巻 六 号
﹃ 文
明 論
之 概
略 ﹄
( ‑
八
七 五
年 ︶
コミュニティの伝統はあるが︑
のなかで ヨーロッパを過度に理想
アソシエーションの伝統に乏
NPO
が市民社会を代表すると見られるように︑行政が市民団体を管理
日本において市民という言葉は︑英語の
c i t i
z e n
の訳語として福沢諭吉の
(4 4
)
﹁都会の住人﹂という意味ではじめて用いられた︒戦前の日本においては市民という言葉は︑たとえば東京市の市民
一 八
八 八
年 ︵
明 治
ニ
︱
年︶に制定された市町村制によって﹁市﹂と規定された行政単位の構成員とい
一 九
二
0 年代からはマルクス主義の影響下で階級的な概念として使われるようになっ マルクス主義の影響下で
︵一七 五
一
︶
市民政治の創造
︵
一七五
0 )
一 九
六
0 年代からは︑それと併用するかたちでだが︑政治的な意味でも用いられるようになった︒その際︑市民
概念の中核にあるのは﹁自立した個人﹂という意味であり︑政治に参加する主体という意味も含まれるようになって
一 九
六
0 年に安保条約改定をめぐって大きな国民運動が起こっ
たが︑そのなかで﹁市民﹂という
言葉が新しい意味で使われ始めたのである
︒それは﹁自然権﹂の保持者として︑必
要な時がくれば権力者に直面して︑﹁圧政への抵抗﹂をする政治的・理念的な意味においてである︒市民理念には︑
所有権の保護を盾にして経済生活︵利益追求︶に邁進する市民階級としての側面もあったが︑
た市民はこの意味での市民ではなく︑階級概念ではなく︑労働者も含み︑﹁圧政﹂に反対する人民主権の主体として
( 4 5 )
の市民的自覚をもった人間類型である
︒もっとも︑安保闘争自体は︑日本社会党︑日本共産党︑総評︵日本労働組合総評議会︶︑全学連
︵ 全
日本学
生自治
会総連合︶など巨大組織中心の運動であり︑動員型の組織によって導かれた部分が大きかったことは事実である
︒
し
かしながら︑こういった全国的規模の組織による運動は幹部による大衆指導というかたちをとり︑そこに加わるのは もちろん市民一人ひとりの自発性によるものではあったが︑﹁上位下達﹂式に指令が指導者から降りてくる︑巨大組
一 九
六
0 年五月一九日に衆議院で安保改定が強行採決されたのを機
に︑市民的大衆として多くの学生︑勤労者が議会制民主主義のルールを踏みにじる暴挙に抗議の意思を示したことは
重 要
で あ
っ た
︒
織であるがゆえの問題も含んでいた︒とはいえ︑ いった︒その転機となったのが日米安保条約である
︒こ ︒ f
一 九
六
0 年前後に現れ
生まれていったのである︒
﹁ 声
な き
声 の
会 ﹂
き 声
の活動形態 ︵
一七四 九︶
このような政治過程のなかで生まれたのが︑﹁声なき声の会
﹂に代表されるような市民団体である︒
月四日に千葉県在住の画家小林トミが﹁誰でも参加できるデモをしなければ﹂という思いから﹁誰デモ入れる声な
の会﹂という横断幕を持って歩き出したときは
二人であったが︑歩き出すと五︑六人が後ろに付いてきて︑国
(4 6
)
会近くになると
三0 人ぐらいになったという︒﹁
︿ここから後は一般市民の行進です︒
けると︑歩道からすました顔で入ってくる人がいる︒それに怒ったような顔で入る人︑笑頻で加わる人︒そして︑そ
(4 7
)
の人たちもしばらく黙って歩くと︑やがて歩道の人たちに手をあげて呼びかけた﹂︒次第に長い行列になり︑新橋で
解散するときには三
0
0 人位にまで増えた︒デモに加わったのは︑会社帰りのサラリーマン︑女性︑学生︑主婦たち
で︑組合や政党を基盤とするのではなく︑誰にでも開かれた新しい組織が生まれていったのである︒小林トミが﹁今
(4 8
)
日︑初めて会ったのに︑前から知り合いのような気がする
﹂と書いているように︑参加した市民のあいだに連帯感が
﹁声なき声の会
﹂
は﹁戦争に反対する
﹂という共通の目標で集まる会としてまとまる︑ゆるやかな組織であった︒
﹁声なき声﹂ということばを使ったのは︑岸信介首相︵当時︶が安保反対のデモに対し﹁
︿声なき声
﹀にも耳を傾け
(4 9
)
なければならぬと思う
︒いまあるのは
︿声ある声
﹀だけだ
﹂と述べたのを︑逆手にとったものである︒﹁会則もない
︒(5 0
)
会員もいない︒ただ︑世話人とか︑自発的参加の人が︑
事務的なことをする﹂というのが﹁声なき声の会﹂のきまり
であり︑有志の自発的な運動体として始まった
︒規約も委員も作らずに運動を進めていこうとしたのは︑世話人を務
めた政治学者の高畠通敏が述ぺているように︑﹁政治への参加はひとりひとりが自主的に動き︑平等に経験をまして
関 法 第 六 一巻 六 号
一緒に歩きましょう
﹀と呼びか
ニ四一