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翻訳 クルト・ゼールマン『法哲学』(第四版・二〇 〇七年)(三)

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(1)

翻訳 クルト・ゼールマン『法哲学』(第四版・二〇

〇七年)(三)

その他のタイトル Kurt Seelmann, Rechtsphilosophie (3),4.Auflage

著者 竹下 賢, 川口 浩一, 森永 真綱, 岡上 雅美

雑誌名 關西大學法學論集

巻 60

号 1

ページ 266‑229

発行年 2010‑06‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/4830

(2)

ゼールマン﹃法哲学 ﹂

﹃ 法

Ku rt   Se el ma

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A法とは何か

第一奈﹁代替手段論争﹂すなわち︑法は自明のものではない

第二辛法概念の諸相

(

5節まで五九巻

京法と類似の諸現象との間での限界付け

以上 五九 巻五 号︶

第四章代替手段の問題及び法がもたらすもの

B法律以外の諸前提に対する法の依存性

第五章問題設定の許容性について

第六章法律以外の諸前提がもつ実際上の意味

︵ 三 ︶ 学 ﹄

クルト・ゼールマン ︹翻訳︺

︵以 上本 号︶

︵ 第 四 版

・ ニ

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七 0

年 ︶

︵ 三 ︶

︵ 二 六 六

竹 下 賢

・ 川 口 浩 一 ︵ 監 訳

森永真綱•岡上雅美 (訳)

(3)

巨坦踪 KO 恕 1 nit' 

(1 

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踪国藻乏均壮謎

S

匡圏裂る悉茶如心心

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似涎:

Habermas, 

Faktizitat 

und 

Geltung.  Beitrage  zur 

Diskurstheorie des Rechts und des demokratischen Rechtsstaats 

(1992), 

Nachdruck  Frankfurt  a.  M.  2001  〔同噸詞\亨瞬国『主痒噂疇一迅潤疇疇麟釘噂囀辱姐噸謬

臼)(日(米¥:ti110011.zl¼-)〕;Duncan Kennedy, 

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in  Critical 

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ff.; Pawlowski, Methodenlehre 

for  Juristen, 

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Aufl.,  Heidel‑

berg 

1999; Ruthers, 

Die 

unbegrenzte 

Auslegung. 

Zurn 

Wandel  der  Privatrechtsordnung 

im 

Nationalsozialismus,  6.  Aufl.,  Heidel‑

berg  2005. 

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(4)

ゼールマン ﹃

法哲学

j

5 例えば話し合い

(

 

な側面も確認されなければならない ︒ 2 .法︑抽象化︑自由 的に 平

等 で

(4) 

り得ない ︒ しかも甚礎となっている

︵ 二六四 ︶ 一 定の形 およそできないことになる

|

—依然として、この地球上の多くの諸国にみられる極めて現実的な問題である

これに対し、法を

援用し︑少なくとも理念的には中 立 的である第 三 者に判断をゆだねることで︑直接的関係か ら 自律的に離脱し︑ 自 らを 自 ら 自 身

に よ

っ て律すること

(

si ch au f  s ic h  s el bs t  s t e l l e n )

を可能にすることで︑法以外の

(

au Be rr e c

ht li ch )

拘束に対する自由領域が 牛

()(2

まれる ︒ こうすることで︑ ﹁

コ ミ

ニ ケーション的 自 由という義務づけから の

解放

﹂ としても理解可能な 一 種の余地が 生 ずる の

である ︒ 直接的人倫的関係は︑潜在的強制と結びついた法的関係に対する優位性を関 与

者の

自 律性に依存するものである以上︑

もしこれが自律的な中断の

I I J

能 性

つまりまさに法の援用をも内容としないものであれば︑逆説的に︑決してこのような人倫的

(3

) 

関係ではないことになろう ︒ つまり ﹁ 連帯関係から自由でない者は︑連帯関係に対して自由ではあり得ないのである﹂ ︒ そうな

らない場合があるとすれば︑せいぜい の ところ︑この直接的関係の潜在的関 与 者全員が政治権力︑富︑社会的地位において絶対

︵ 非︶法的諸規範全てに関して同意している場 合 であろうが︑このようなことは実際上あ

社 会 と共同体の関係に関連する抽象化 │ー 吐忠が個々人の個性を顧みない︑すなわち法は紛争を解決するのではなく︑

態で誘導する

(kanalisieren)

ものに過ぎない

||—

という観点も、法概念に関するこれまでの考察に照らし、そ の

ポジィティヴ

(P

al av er

)

︑﹁社会内裁判所

(gesellschaftliche

Ge ri ch te

た︑紛争を実 ﹂あるいは非公式の企業内司法とい っ

)

際的に

(

wi rk li ch )

﹁解決﹂し︑人をその個性において把握しようとする試みは︑

い る

理想

型の 裁

判所

による係争処理

(

St re it re ge lu ng )

いずれも個人の自由に対する危険性を卒んで

は ︑

具 体的な係争事件

の みを対象とする の が普通であり︑刑事裁判に

おいてでさえ ︵ 特別に 重 大な犯罪の場合には必ずしもあてはまらないにしても ︶ ︑紛争関係人の人格が包括的に考察の対象とさ

(5)

7  3

.法︑解釈学︑形式主義

であ

ると

日では理解されている

︒ 占

める家族や配偶者の問題は

れることはない

紛争関係人の生活領域から選出された

人による調停や裁判には︑紛争関係人を

体的に把握することで自由 を制限することにより︑場合によ

ては︑より効

的な紛争解決をはかることができるという利点がある

自らが関係人の生活 領域に属している者は外部者よりも偏見を抱いており︑当

裁判所に包括的な教育目的がある場

には︑こうした先入観はいっ

そう高められることになろう

局部的にとどまらず包括的に紛争を解決する試みは︑極めて肯定的な評価を受けているけれども︑

この点にこそ︑その裏面が存する

個人の

由は︑まさに社会的分化︑すなわちここでは特に︑個人が

身の社会環境から少な くとも部分的に分離する可能性の所産でもある

加えて︑この

由は︑社会的コントロール機関による把握は常に部分的でしか (5 )  ないことの帰結ともいえる

集団直接的な

(g

ru pp en un mi tt el ba

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係争処理の特に大きなデメリットは︑集団が部外者

l そし

て 何 ら か の 観 点 か ら 部 外 者 の 烙 印 を 押 す こ と が で き な い 者

I

と対立

て い る 場

に 如 尖 に 現 れ る

まさ

く 近 隣 裁 判 所

(N

ac hb ar sc ha ft sg er ic ht e)

 や企業内裁判所

(B

et ri eb sg er ic ht

e)

は︑非常に様々な集団の問題に関して︑例えば集団の統

を 保

(6) 

っためにスケープゴートを作り出す

た︑部外者に対する拒否反応を

じさせるのである

紛争を処理するに際し︑紛争関係人の個性を包括的に考慮することは︑社会的な近隣圏における紛争の場合︑個人領域の制限 をも意味することがしばしばであるが︑こうしたことは少なくともヨーロッパ文化圏では望ましくないと見なす

が普通である

し︑このような見方は世界的にもますます広が

ているように思われる

単純な社会における集団

接的な係争処理の大部分を 由に選出されたわけではない

者を交えた議論にあまりふさわしいものではないし

公開での処理にはおよそ適さないもの 代替手段論争において多く

題とされたのは︑司法へ

の アクセスの障碍である ︒

理想型の法的処理を用いるには︑多額の費用︑

関 法 第

六 0

一 号

単純な社会でも︑こうした紛争こそ話し合いによる解決に最も適しているように思われる

︑ ︵

︵ 二

三 ︶

(6)

︐  8 

ゼールマン の活動がもたらすのは何なのであろうか ︒

て︑厳格な論証の甚準

(Arg

um e n t a

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に則っており︑

ex ) 

︵ 二

二 ︶

(7 ) 

長い時間︑多くの社会的な行動能力

(Handlu

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e n z )

を要し︑さらに ﹁

法の専門家

(R

ec ht s s t a

b)

﹂ ︑すなわち﹁独占的

(8) 

に運用されている制裁装置としての特殊な機関﹂に身をゆだねることになる ︒ このことを先述の抽象化批判と関係づけて見た場

合︑法の下で大きな権力を持ち︑教義学的に

(

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h)

﹁ 型通りに

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﹂判断を 下 す官僚的な者たちのなすが

ままであるという感覚に現れる留保の複合体

(

Ko ng lo m er at vo

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n

が生まれることになる

)

こうした留保の基礎となっている見方は当を得たものであろう ︒ 法律家は活動する際︑教義学的︑すなわち法規範から出発し

かつ形式

義的に︑すなわち確定したフォーマル及びイン

フォーマルなプログラムに従い︑ た いていは限られた数の論拠を用いて︑関係する市民にと っ て特に重要であるように思われる

事 柄の多くを抽象化しているに他ならない ︒ ここでも︑法概念の諸相について概観したことに照らし︑このような諸現象に対し

てどの程度ポ ジ ティヴな評価が同時に与えられるのかという問題が提起される ︒ 極度の教義学的形式 主 義による﹁法の専門家﹂

まず第ーに︑予期の安定性︑すなわち﹁法的安定性﹂が少なくとも

一 定程度保障されることに︑諸問題の法特殊的な加

(Bea rb e i t u ng ) 

の特色が見 い 出される︒このことが内容上意味しているのは ︑ 既に言及したように︑予期が一定の時間を超えて

(9) 

安定化され︑制度的に保障されなけれはならないということである ︒ 予期の安定に対する多数の者の欲求を表すものとして︑共

同 生

活の交互的な諸形態の領域における︑強力な法制化の推進力

(Ve r r e

ch

t l i c

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例えば︑多く 以上のものはない

ub)

の 人問は︑可能な限り︑婚姻という法的制度に適応しようとしている ︒ あらゆる所で望まれているこうした法的安定性の保障が

( 1 0 )  

もたらされるのは︑教義学が制度化されることで︑公 平 で︑制度的に俣障された裁定を可能ならしめるからである ︒

も っ

と も

こうした制度化は︑﹁法的安定性﹂にとって必要条件ではあるが︑なお●分条件ではない ︒ さらに必要なのは︑﹁いかなる諸条件

(

これに最も適しているのは︑﹁制 すことにとり十分なものといえるか﹂という点である 出 の実現が︑具体的な法遵守の命令を ︒

1 1

度的な第

一 二

﹂ ︑すなわち裁判所やその他の法的な裁定委 員 会に与えられた︑裁定のためのあらゆる諸前提︵当該の法律︑さ ら

﹃ 法 哲 学 ﹂

︵ 三

(7)

13  12 

4

.法と不確定性

(U

nb e s t i mm th e i t )

11 

可能を担保すべく︑事案を上述の 般化の意味で﹁本質的なもの 一

10 

には︑用いられる法的な論証図式及びあらゆる事実判断ないし評価︶を明らかにし︑そこから決定を演繹する強制力である ︒

(1 2

コントロール機能が挙げられる︒あらゆる諸前提を証明す 以上のことと密接に関係する法的問題加工のさらなる機能として︑

(Au sw

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によってのみ他者による首尾

一 貰性のコントロールを可能ならしめるのであり︑こうした諸前提からの 演鐸を強制することによってのみ︑ある批判に対して事後的に 一 方あるいは他方の根拠付けを︑全体にとっておよそ支持される

べきものではないとして退けることが保障されるのである︒もっとも︑

範 と 解 釈 上 の 論 証 図 式 ー が 統 一 的かつ体系的に記述されることも要請される ︒

(1 3

る こ と で 法 的 変 化 の 諸 条 件 と 諸 限 界 を 確 定 す る こ と が で き る の で あ る

︒ こうしたことは︑

( s a c h l i c

he 

Ge ne ra liise

ru g n )

﹂と同様に︑裁定の対象となっている具体的事案を構成する事柄の多くを

象化することを前提と

(1 4

している︒他者に予期としてなお.般的に理解されるためには︑予期が複雑すぎてはならないのと同じように︑法的裁定の検証

法解釈学に関する考察は︑これまでとしなければならない ︒ 法解釈のより詳細な考察は︑方法論の領域に属しており︑ここで

(1 5

は法哲学と関係する点についてのみ採り上げ得たに過ぎない ︒ もっとも︑少なからぬ法の批判者が 主 張するように︑法が実際に不確定なものであるならば ︑ 法解釈のこうした積極的機能は

単なる幻想であることが証明されることになろう

︒ 法的裁定の帰結が現実におよそ確定しえないものであれば︑法解釈学は法的

安定性と検証可能性のいずれも保障することはできず︑法はカン ト 的意味における自由保障機能を全うできないことになろう ︒ そもそも

︑ 法の不確定性と い うテ ー ゼは︑およそ新しいものではない ︒ 法規範が意味論的に不確定なものであるため︑解釈が

必要であるという必然的な問題は︑法律学が存在する以上周知のことである ︒ また︑具体的諸状況がいったん諸規範に組み込ま ること

関 法 第 六

0 巻 一 号

まさに予期の﹁実質的

一 般 化

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﹂に縮減

(R

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することが求められる ︒ ] 般的な基本的諸概念や法的諸制度が形成され コントロール機能を可能ならしめるためには︑法 ー 規 六

︵ 二

[ )

(8)

15  14 

ゼールマン

れ︑再度︑諸規範が具体的諸状況に適用されるべきものであることから︑常に既に︑余地

(S

pi el ra um ) が存在していたので あ っ た

︒ 今 日 で は

︑ 法 が ま す ま す 不 確 定 さ を 増 し て い る と い わ れ る が

︑ こ れ も 容 認 さ れ て い る こ と で あ ろ う

法 の 制 御 能 力

(S

t e u e r u n g s l e i s t u n g ) の低ドが余俄なくされ︑社会の複雑性の増大を通じて︑結果予測 

(F

ol g e ne i n s h c at zu ng )

が困難化し︑具

体的事例における判断の余地の拡大を余儀なくされている

こうしたことから︑新たな法において︑意味論的な曖昧さがさらに 増幡し︑単なるプログラム規定

(P ro gr am sa tz ) が増加しているのであろう

まさに意味論的な不確定性や︑特定の事例の解決 を目的とした特定の規範の妥当性に関する判断において︑政治的︑経済的な利益判断の侵入口 それでもやはり︑法は完全に不確定なものだとするテーゼは維持できないと思われる

なぜなら︑意味論上ないし実用上の

(1 6

) (

pr ag ma t i   s c h   ) 余地は︑あらゆる判断が規範のテキストと

致することをおよそ意味していないからである

さらに︑相

に銚

合し

︑ かつ不確定な多くの解釈ルールが前提とされている楊合であ

ても︑同じことである

すなわち︑これらのさ

らなる 不確

定性によって︑不確定性が増すわけではないし︑

いわんや高まるわけでもない

なぜなら︑こうしたことを通じて︑もともと不 確定である領域が拡大されるどころか︑むしろそれを縮小する中で複雑化されているに過ぎないからである

加えて︑法は完全

に不確定なものだというテーゼは︑社会的婦結が偶然のものではないとするテーゼと結びつくことで︑法を完全に外部的に規定 すること

(A

uB en be st im mu ng ) を前提とすることになろう

︒し

かし︑このように他の社会的サブシステムによる完全な制御を

ただし︑法の不確定性は完全なものではないにしても︑これにより法哲学に対す

る問題が提起されているのである

法の余地 は︑やはり存在するのであって︑しかも今日では以前にも増して拡大しているところ︑これはどのようにして埋められるのであ

ろうか

すなわち法律や解釈上のプログラムが我々のことを配慮したものではない 能な規範的諸規準が存在するのであろうか︒政治的︑経済的利益が法を決定する要索であるとき︑優先的利益は存在するのであ

﹃ 法

哲 学

︵ 三 ︶

想起するのは︑社会学的に稚拙である

H

では

明のように思われる

︵ 二

六 0

)

(i

m  S t i c h   l a s s e n )

場合にも︑根拠付けがllJ

(

E i n f a l l s t o r )

が存在することは︑

(9)

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(

M

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尉器」)~\淫

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Pawlowski,

Methodenlehre  for 

Juristen, S. 24 

ff.  $芦

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Auslegung.  Zurn  Wandel  der 

Privatrechtsordnung im Nationalsozialismus

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Luig,

Macht  und 

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似謳:

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訳降騎ぬ滋宰的誼年 J)t>

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100  I ~) :  <  1 砿云弓;

Gunther, 

Der  Sinn  fiir 

Angemessenheit. 

Anwendungsdiskurse  in  Mor‑

al 

und  Recht, 

2. 

Aufl., 

Frankfurt a. M. 

1992;  Carl  Schmitt, 

Die Tyrannei 

der  W  erte,  in:  Schelz 

(Hrsg.), 

Die  Tyrannei  der  W 

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Hamburg  1979, 

S. 

9  ff.; 

Smid, 

Einfiihrung  in  die  Philosophie  des  Rechts,  Miinchen  1991;  Waldron, 

Law 

and  Disagreement,  Ox‑

ford 2004. 

中一全ャ,ヽ

坦細 (tf.

』(111)

1( 

(I 1

ば< )

(11)

ー.価値の方向づけは危険か

において︑考察することにする ︒

の下では﹁法﹂ではないと主張しているにすぎない

ここまですなわち A においては︑社会の共同生活における他のいくつかの規制形式と比較しながら法の特色︵﹁法の概念﹂︶を

概略してきたが︑ここで視点の向きを変えてみよう

︒ こ

こで問題とすべきは︑次のことである ︒す なわち︑法は自らに課せられ

た任務を履行しようとするとき︑法律以外の諸前提(

Pr am is s e )

として︑

常に既に何を必要としなければならないのだろうか ︒

そして︑この諸前提は合理的に探究できるものなのだろうか︒

︵ 二

五 七

しかし︑その前に明らかにしておかなければならないのは︑そもそも法哲学が︑非実定的な正しさの基準という問題を正統に

も(l

e g i t

ime

rw eis e )

提起しうるのかということである︒もちろん︑伝統的な自然法に拘束力があると感じる者からすれば︑こ

れに対する答えは明らかにイエスである︒しかし︑﹁法倫理﹂という標題の下に︑まさに非実定的な止しさの甚準に取り組む現

代の法実証主義者にとってもまた

その答えは肯定的なのである︒ここでは︑実定法が正しさの甚準に沿わない限り︑この茎準

︵ 上述第

二 章

Rn .

1 6)

しかし︑法に対して

︑非実定的な

正しさの基準が意味をもつかについてはるかに懐疑的で︑この基準に鑑み法に﹁自律性﹂が

あるかを懸念する声もまた存在する︒以下ては︑この問題を①﹁

価値

の方

向づけ

﹂という観点にお

い て

︑ そ

し て

② 法 的 文 脈

法律学は︑あらかじめ価値を甚礎づける試みすべてを遮断するという意味で﹁自律的﹂でなければならないのだろうか ︒

こ れ

を肯定する方向で語られるのは︑人問の価伯表象がさまざまであることに鑑みて︑法と国家による価値の方向づけは︑どのよう

なものであれ︑必然的に︑個人や集団︵他の価他方向をもつ人々︶を不利に扱うことになろうということ︑すなわち ﹁ 最低限の

(1 ) 

倫理

(M in im al et hi k)

﹂に法が方向づけられるならば︑共通の法秩序から少数者が排除されるであろうということである ︒

価値

の方向づけは

︑理性に方向づけられるべきことを留保し

たとしても︑法的判断が民主主義的正統性を有することを理由に︑すで

関 法 第 六

0

一 号

1 0

 

(12)

ゼールマン ての考えられる利益を ち︑法が︑あらゆる同種の諸事情に対してあらかじめ けられた最適化ル ー ル

︵ 二

五 六

一 般的な

衡岳法

(2

に疑問があるとされている

︒ーー

利益衝突の場合には︑妥協が問題となるにすぎないというのである

(3

) 

もっとも︑このような立場それ自体がー法は﹁自由︑

平等

︑友愛

を保障しなければならないという立場のように

一 定

の墓礎的な評価に結びついていることが多い ︒ なぜなら︑価値の方向づけに対する批判は︑まさにそれら諸原則についてのこれ

らの論証の危険性から生じているからである ︒ それでは争いは価値の類型的相違に過ぎないのであろうか︒それとも諸見解の間

にさらなる相違が存在しているのであろうか ︒

(4

上述の議論の脈絡の意味における諸原則

﹁ 自

由 ︑

平 等

︑ 友

愛 ﹂

l

(O pt 1 m 1 e ru ng sr eg

e  n 

し︑その都度の価値のランク付けが議論を通じてもたらされることなく︑このカテゴリーの経済的な由来に応じて︑原則的にす

(5 ) 

べてを用い︑算定される︒したがって︑諸原則による方向づけは︑法の 一 般化的な性格を意味し︑価値の方向づけは︑個別事例

(6) 

の合目的的な判断を強調することを意味する︒ 価 値の方向づけに対する批判の背後にあるのは︑次のような危惧である ︒ すなわ

︵事前には計算不可能なやり方で︶個別事例の判断の中で相互に 比 較衝屋するような︑

(7 ) 

学﹂に発展するということである︒実際上この点に法治国家に対する危険性が存在している

というのも人間の尊厳の保護︵後

述 第

十 二

章 ︶

といった衝量 に なじまない根本的要素

(G

ru

nd l a

がその存続に不可欠だからである︒加えて︑ここでは再び︑

)eg

代替手段論争における 一 般化と個別化の相剋

上述第 一 章および第四章︶︑並びに ︑

現 代

法 が

.定の範囲において諸決定を法適用者に委ねなければならないのか︑そしてこのような衡砿の必要性がどの程度増大するのかと

いう問題性である

もっとも法の任務についてこのように論証する場合︑たとえこのコンテクストにおいて比較衡呈が必要にな

るとしても︑単純な﹁価値の方向づけ﹂に対する異論は︑もはや妥当しない

なぜならば︑この場合︑何らかの価値がもはや法

を形成するのではなく︑価値の重要性が︑︵例えばすでに挙げた諸原則によるなど︑ 別 の方法によって根拠づけられた︶法の必

﹃ 法

哲 学

﹄ ︵

三 ︶

ま ︑

99. 

一 般的に妥当し︑両立しうるが︑価値は︑ H 的に方向づ

であり︑互いに衡景されるべきものであり︑個別事例において多少なりとも妥当

︵民王主義的立法者が︶判断を下すという伝統的な枠組みを離れて︑すべ

コンテクス ト を統制するために︑

(13)

︐  8  7 

ヴァリエーションの形で表れる ︒ 拠づけるのに苦慮することになろう ︒ 2 .法特有の討議 的に根拠づける方がよい︒ しかしながら︑︵すでに概念的にであれ︑あるいは望ましい H 的設定についてであれ︶法をもっばら上述の自由︑ 平

等︑友愛

といった﹁構造的諸原則

(

St ru kt ur pr in zi pi en

)

﹂に方向づけようとする場合ですら︑これらの諸原則のより詳細な説明と同じく︑

その根拠づけには非実定的な正しさの基準に関するより精確な考察が必要となる ︒ しかし︑諸原則に対する疑念がある場合の他

に利益衝突の場合︑直ちに妥協を模索する者もまた︑これを維持できるように︑妥協と同様に自分自身の立場をできる限り合理

実定法を超えた正しさの基準が法哲学の ︱ つのテーマとすることが許容されるかという問題は︑次のような︑異なってはいる

が内容的には密接な関係にある試論連関において表れる ︒ すなわち︑法特有の討議は︑

いのかという問題においてである ︒ これを否定する者は︑はじめから法的ではない正当性の基準を︑法に関連するものとして根

﹁特殊事例テーゼ ﹂

は︑討議倫理学

(D is ku rs et hi

k)

一 方のヴァリエーションによれば︑法的な討議と道徳的な討議とは︑同じあり方で普遍 可能性

の原則および非強制性

(

Zw an gs lo si gk ei

t)

または平等な参加の機会といった 一 定の討談ルールに方向づけられる︒法的討談は︑

(9

法律による拘束のような補完的前提にのみ服する ︒ もちろん︑このような前提の下では︑同.のまたは少なくとも類似の実定的

な正当性の甚準を両論証に当てはめ︑そこからこうした甚準を展開するのは自 明のこ とである ︒ 他 方のヴァリエーションによれ て︶ある程度埋め合わせることができるだろう ︒

(8

要性によって決定されるからである︒加えて︑法的安定性が失われることが懸念されるが︑これは衡岳における比重に関する 一

︵刑法における正当化緊急避難の周知の事例を例にとれば︑

︵ これについては︑後述第九箪

2

b

) に近しい論者において︑ 2

つ の

一 般的な道徳的討議の特殊事例にすぎな

般的基準によって

一 定の利益侵害に対する刑の重さの違いによっ

関 法 第 六

0 巻 一 号 ︵

二 五

五 ︶

(14)

11 

1 0  

(

l

ゼールマン

︵ 三

︶ ば︑根拠つけの討議と適用の討談との間で︑非実定的な正しさの基準について区別され︑法的討談は︑あくまでも適用の討談の(1 0

) 特殊事例にすぎないとみなされ︑ここでは︑規範の不偏不覚な適用に重点が置かれる︒この適用の討談もまた︑アリストテレス

に始まる道徳的な規範の適用論の全伝統に立ち入らなければならない︒

六章

このような正しさの基準の実際上 ﹁特殊事例テーゼ﹂のすべてのヴァリエーションに対

ては︑それらが﹁自然法の含意からまだ完全には解放されていないこ(

とに基つく︑道徳に対する法 1 1

ミス

ーデ

ィングな従属

唆しているという批判がなされている

それでは︑法哲学は︑

いずれにせよ道徳においては構造的に類似した形で行われているように︑非

定的な正当性の甚

と混成されることはおよそ許

されるべきではないのだろうか︒そうではないということは︑特殊事例テーゼに批判的な

ーバ

ーマス自身が容認しているI

彼の見解によれば︑限定的に法に適用されるのが道徳的討議だというのではなく︑道徳と法は

双方の領域にとり等しく重要

(1 2

根拠つけの構造の抽象的な理解を︑異なったやり方で具体化することを必要としているにすぎないとされる

した

がっ

て︑

そのような見解からも︑法の恙礎として︑非実定的な正しさの基準を求めることは正統(legitim)

なのである

以上のことから︑

ー ー ー

その帰結はまったく別として

て正統な非実定的な正しさの甚準は何かという問題が︑法哲学にと

課題設定を意味することを出発点とすれば︑ある程度経験的に︑

て最終的には法律家の日常的業務に

ーー

れらすべての領域て、非実定的な 正 しさの基準が中心的な役割を演じる

——ー

提起され

る基本問題を観察することにより︑このテーゼを裏づけるべきなのは当然である

の意義を述べた後︑止義概念

第七章

一方

では

法を観察することにより︑他方では︑判例にそし

および﹁

然法

(N

at ur re ch t)

﹂ ︵

第八章︶に関する歴史的な展開を手短に概観する

︒ もっとも、規範を合理的に根拠、、つける可能性に関するアクチュアルな議論(第九章)、並びに、正義 ( 第

0

章)、公共の福祉

一 一

および人間の尊厳

第︱

について取り扱う中でこれを目パ体化することが中心となる

このような根拠つけをもって︑シュミ

トは︑ホ

ブズとシェリングヘの優先的な方向づけで非実定的な正当性の某準の

あらゆる探求を拒否する

Sm

id ,

Ei nf ti hr un g  i n  die

  Ph il os op hi e  d es   Re ch

tsとくに

s .

25 

f f . , 

4 3  f f . ,  

165 

を参照f f

﹃法

哲学

j

︵ 二

五四

(15)

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(N) 

Ruthers,  Rechtstheorie,  S. 

361£. 

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W  alsron,  Law  and  Disagreement,  S.  8 

f. 

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苺忍迂 Smid, Einfiihrung  in  die  Philosophie  des  Rechts,  S. 

50° 

(寸)

Alexy,  Theorie  der  Grundrechte,  Frankfurt  a.  M. 

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S. 

134 ff. P送眺終〇心琴砂圧今ド今心I)~

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1)Q蒜封旦兵士沿圧~~Q~

理旦 0 ::,  ¥J'Penski,  Rechtsgrundsatze  und  Rechtsregeln,  in:  JZ 

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(Rn. 

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(

t‑‑

Pawlowski  (浣翌 ttf

((0)), 

S. 

353 ff. 

(Rn. 

803 ff.). 

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83

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Alexy,  Theorie  der  juristischen  Argumentation,  S. 

33 

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ぼ)

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(~)

Habermas,  (淀翌 ttf (::::)),  s. 

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f. 

( 匿→要 都 ・ Fifta

)

~1

く涎栄茫~~ 諾据翠茶如 0~ 監 S 挺営

一 涵江卦心と芸ヤ

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悉沖

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坦:器認臼 B 淀萎

{i,Q

郡睾ー・叫

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...  1 逃繹麟塁翫む脅旦如唸竺'茫嘩

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1

(I11‑t=ll 1) 

(17)

年にこれを無記名上地債務

(l nh ab er gr un ds ch ul d)

ヒエラルヒーについても︑規範的な甚準が必要である

︒し

かし︑立法者が必要な事実認識を入手しうるときにのみ︑評価といわ れるものを有意義に行うことが可能となる

﹁問題からの刺激﹂は︑場合により︑ある特定の法制度が実際何らの役割も果たし ていないという疑いが生じることから現れることがある

法的事実研究の創始者であるアルトゥール・ヌスバウムは︑(3) から主張した

もしくは︑長い間﹁普還取

[訳注こドイツ民法

九五条]

引約款﹂において当てはまってきたように︑現実の法生活

(R ec ht sl eb en )

が法律の規制外て新たな制度を発展させたことは明 らかである

立法者が︑このような制度を立法作業に取り込もうとする場合︑第

に︑その事実の傾向に近づくためにあるいは

それを軌道修正するために︑それらの事実の形態について止確に情報を得なければならない︒実際の慣行は確かに認められるが︑

特定の価値的決定へ方向づけて変更されることがしばしばある

このことは︑例えば︑刑事手続における合意(

Ab sp ra ch e)

法律的規制に関する現在の考察に妥当する︒このことは︑場合によっては︑比較的長期のプロセスを辿 ることがあるというこ と

は︑遺伝子工学の領域における軋界的な立法がホすところである

ここでは︑新たな発展と新たな事実の創出に対して︑再︳︱

に 優先順位が定められて初めて︑

H

的の観念を展開することができる

これについても︑もちろん︑規制すぺき領域における事

実の正確な認識︑並びに︑

存在する諸利

益の衡母 ︑場 合によっては価値のヒエラルヒーの構築が必要である︒立法者が︑例えば

妊娠中絶を法律で規制しようとするとき︑立法者が決定しなければならないのは︑そもそも未生の生命は生存権をもつべきか否

か︑場合により︑どのような要件の下に︑未

生の生

命の価値が︑妊娠と対置される妊婦の利益状況と衡益することが許されるの

か︑どのような法的衝突︵攻蛇的緊急避難の甚本的考え方か︑それとも防煎的緊急避難の考え方か︶が甚礎に置かれるべきか︑(4そして︑その後︑このようにして得られた決定を現実化するために︑そもそも刑法が有用な手段たりうるのか否かである

積極

的安楽死

(a kt iv eS te rb eh il fe )

が例外的に許容されるかについての立法的決定において︑利益衝突

︵ 自

己決定権およびその代替

物 並 び に 誰 に よ っ て 定 め ら れ る の か

ー ー

死に行く 者の蓉厳

渡って対応してゆかなければならない

関 法 第 六

0

一 号

人問の牛命︑および︑死に行く者に対して家族が圧力をか

一 六

五 一 ︶

一 九 一 四

(18)

5  4 

ゼールマン﹁法哲学J

( 三 ︶

ける可能性を評価するにあたっての﹁ダムの決壊﹂の危険︶

一 七 のみならず︑予想しうる事実状況︵そもそも﹁ダムの決壊﹂および

(5 ) /または生命の短縮への圧力の虞があるのか︶もまた︑検討の対象である

したがって︑事後予測的な要素もまた︑ここですで に尊重されるぺきである︒他の領域で規制したときの効果と結果が評価されなければならず︑これは︑新たに事実認識を要する

最終的に︑法律が公布されるとき︑その法律は︑場合により結果から遡ってコントロールを受けるべきであろう︒ここでもまた ︑

再び︑法的事実研究が必要とされる

︒そ

こで例えば︑少年の観点からの少年労働保設に関する研究が存在するが︑これは経営に(

6)  

おける法律速反についての資料を立法者に提供することができるものである︒

したがって︑立法経過においてすでに︑法社会学的な考察と法哲学的な考察との双方が行われなければならない︒しかし︑

ーたとえ少数であれ││立法過程に法社会学を利用した例が存在するのに対して︑法哲学を利用した例は︑ほとんど現れてこ

なかった︒立法と結びつく価値評価の問題が︑法哲学関係者には︑合理的な討議にまったくなじまない﹁政策的な

ものと位置

づけられたと推測するのも的外れてはないように思われる

このような判断が正しいか否かを我々は特別に

後述

第ー

0

章︶明 法の実現において︑価値決定を行うのはもっぱら立法者であり

他方︑裁判官は単なる法適用者すなわち﹁法を語る

L J

にす

(7 ) 

八批紀末および:九世紀初頭にもなお広く行き渡っていたが︑今日では︑立法と判例は︑その創造的活

動に関して︑単に段階の差であるにすぎないという見照が支配的となった

判例は︑もっぱら当てはめの作業でしかないという 理解は︑実際︑単純に過ぎる

判例は︑法律から導き出しえない正しさの基準に基づかなければならないと

うことは︑まず︑

とくに争いのある基本問題の若干の例で見られるという︒非実定的な正しさの基準に依拠していることが明らかである多くの法

領域から︑ここでは︑ますます現代的となっているバイオテクノロジーの二つのテーマだけを選び出すことにしよう

すな

わち

ぎないという理解が︑

2

とくに争いのある基本問閣における法的

値評

らかにすることにしよう

︵ 二

0

)

(19)

7  6 

解説することにしよう ︒ 生殖医療と人尚の葬厳

︵ 二

四 九

い生 殖医療と 閲 臓器移植である ︒伺

﹁ 道

徳 律

﹂ および﹁善良の風俗﹂の語に由来する概念が︑考察を補充する ︒ 第 一 の問題領域

では︑ここでとくに人間の尊厳が重要となり︑第 二

の 問

題 領

域 で

は ︑

︵ 配分的 ︶ 正義が︑そして第 三 の問題領域では︑評価権限

生 殖医療の法規制においては︑ ﹁ 人間の尊厳 ︵ この概念の一般的な問題性については後述第

ニ ︱

章︶﹂が中心的な役割を泄じて

い る

︒ 例えば︑ドイツ基本法 ︵ 第 一 条第 一 項︶並びにスイス連邦憲法 ︵ 第七条 ︶ およびその他の憲法において︑碁本権 の

カ タ

グの前にも し くはその 冒 頭で︑人間の尊厳の保護がまさに 一 般的に 宜言 されている ︒ スイス連邦憲法は︑さらに︑ 生 殖医療につ

いての特別規定 ︵ 第

一 ︱

九条︶を含む ︒ 同規定では︑この領域について︑今 一 度︑明示的に ﹁ 人間の難厳の保護 ﹂ が定め ら

れ て

い る

︒ したがって︑﹁人間の尊厳﹂は︑法律家が憲法に携わるときに︑しかしまた︑ドイツでは ﹁ 胚保護法

(

Em br yo ne ns ch ut z ,  g e s e t z )

﹂ ︑あるいはスイスでは﹁牛殖医療法

(F o

r t p f l a n z u n g s m e d i z i n g e s e t z )

﹂ に携わるときに︑解釈しなければならない概念で

ある ︒ しかし︑それを適用するにあたり︑法律上の定義がなく︑実定法はまさに限定的な拠り所でしかない ︒ 解釈のために行わ

れるべき考察

ー~

それにより、非実定的な正しさの基準を探求することが必要だということを明

かにする

をここで手短に

とくに生殖医療において︑人間の尊厳への侵害を非難する背後には︑具体的に何があるのだろうか ︒ そこではその概念は︑少

なくとも 三 つの異なった内容で充足されており︑それらはすべて検討になじむものである ︒ すなわち︑それらは︑人間の尊厳を

指し 示 すことで︑その討試に関わる状態が端的に隠されてしまう 具 体的な 三 つの原則である ︒

そ れ

ら は

﹁ 自然に反する﹂こと

をもたらしてはならないという原則︑偶然性

(

Ko nt ig en z)

すなわち個人の発 生 の偶然に介入してはならないという原則︑そし

て最後に ︑ 人間を道具化すなわち単なる手段に貶めてはならないという原則である ︒

(a) 

の配分が問題となる ︒

関 法 第 六

0

一 号 一

(20)

ゼールマン 9 しかし︑限定的な範囲で﹁余剰の 8  態度の﹁反自然性

(U nn at i. ir li ch ke it

)

へ の

言 及は︑議論の相手方の 一 部を満足させるだけであろうし︑それゆえに批界観の

偏っていない国家においては︑法的禁止を正当化することはできない︒さらに︑ ﹁ 人問の尊厳﹂を︑人問の発生の偶然性を侵害

(8) 

してはならないという意味で理解することもできよう ︒ もっともその場合︑我々は︑保護法益として︑我々の﹁人間像﹂を持ち

(9) 

出すものだということを忘れてはならない ︒ どのような範囲で

1

再び︑世界観の偏っていない国家においてー︑他の者が抱

く人間像を侵害することが要罰的な不法たりうるのかということは︑とくに刑法学にとって

探求できない問題であろう︒それでも︑二 0 世紀の数度の刑法改正は︑処罰を他者侵害の場合へと限定するという指導的観念の

下にあったのであり︑例えば︑かつて﹁風俗犯

(

Si tt li ch ke it sd el ik

te)

﹂と呼ばれていたものは︑それが性的自己決定権や健全な

性的発育を保護するような範囲でのみなお認められている ︒ 反自然性および偶然性の侵害に対するこのような非難から区別され るべきなのは︑

ヒト胚の道具化に対する非難である ︒ すなわち︑ある特定の行為態様が︑胚を︑非常に高次の目的がある場合で

(

すら許されない特定の目的のための単なる手段に貶めてしまうという非難である︒他者を手段化することの禁止は︑もちろん︑

1 0 ) 

古くからの論拠づけの常套句であるが︑昔から︑その具体的な表れには争いがあった︒例えば︑カントは︑他の者に対する刑罰

の威嚇効果による刑罰の根拠づけを︑﹁手段化﹂の観点から激しく非難したが︑彼がすべての相対的刑罰論を拒否した点で︑こ

(1 2

の留保は︑今日︑もはや受け入れられていない ︒ たとえ︑ある者がその意思に反して単に手段にされることの禁止を厳格に考え るとしても︑多くのことがなお解明を必要とする ︒ それでも︑緊急避難や戦争での殺人の場合には︑すでに生まれた生命ですら︑

場合によっては︑単なる財産上の利益または国内の領土要求の犠牲にされるのであり︑しかも︑後者の場合は︑各個人に落ち度

(

1 3 )  

のあるなしを問うこともない︒したがって

︵ 許容されない︶単なる手段化と︑ ︵ なお許容される︶手段化との境界は︑どこにあ

るのだろうか ︒ 結局︑これは既存の法に従って決せられないのだから︑手段化の禁止は︑何らの内容も与えられないということ

(1 4

になるのだろうか︒

﹃ 法

哲 学

︵ 三 ︶

(i

ib er za hl ig

)

﹂胚を用いた研究や着床前診断が法倫理的に是認できると考えるならば︑法

︵ 二

四 八

︵刑罰法規も問題となる ︶ 容易には

参照

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三〇.

経済学の祖アダム ・ スミス (一七二三〜一七九〇年) の学問体系は、 人間の本質 (良心 ・ 幸福 ・ 倫理など)