古参党員集団にこと寄せて
著者 石井 規衛
雑誌名 GR‑同志社大学グローバル地域文化学会紀要
号 10
ページ 1‑35
発行年 2018‑03‑25
権利 同志社大学グローバル地域文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000108
ロシア革命の意義をどのように語るのか
〜国名と古参党員集団にこと寄せて〜
石 井 規 衛
Ⅰ.はじめに
(1)ロシア革命とソ連の国名
ロシア革命の意義とは何か。この大きなテーマをどのように語れるのか。
この場合、手掛かりとして、確かで手近なものを取り上げることから始める のが常道である。それは国名である。しかも日本の外務省で使われていた国 名「ソビエト連邦」ではなく、1991年12月25日まで、約70年間も変わらずに 保持された「ソヴィエト社会主義共和国連邦」という正式名をとりあげる。
それは1922年12月30日に、極東共和国のロシア共和国への併合の上で採用さ れた。即ち、ロシア革命という事件が起こってから正式の国名が決定される までには5年ほどかかっているが、この国名は「ロシア革命」と呼ばれる諸 事象のもつ本質的な側面を反映しており、両者を切り離して検討することは できない。この国名は、4つの要素に分けることができる。即ち、①ソヴィ エト②社会主義③共和国④連邦、である。しかも、特徴的なのが、それぞれ が普通名詞かそれに近い名詞であり、固有名詞ではないことである。例え ば、ソヴィエトはカタカナ表記だが、ロシア語では会議とか助言の意を表わ す、ごくありふれた普通名詞である。こうした国名はきわめて珍しい。
端的に言って、国名を定めた指導者たちの意図の表れなのである。
国名を構成するそれぞれの名詞は、時代の切実な課題と、それに応える思
『GR―同志社大学グローバル地域文化学会 紀要―』10, 2018.
同志社大学グローバル地域文化学会 ©石井規衛
想や理念を内包していた。言い換えると、当の世界の現状への批判的理念を 表現する名詞だったのである。その一方、20世紀という未来を示す動きを表 現するものでもあった。以下4つの名詞について順次検討する。
(2)パクス・ブリタニカ文明の批判的理念としての国名
①ソヴィエト:すでに述べたが、ソヴィエトは一般的な普通名詞である。
工場労働者の工場ごとの代表の集会として、1905年5月に、帝政期ロシアの 一大繊維産業地であったイヴァノヴォ市の労働者の間で誕生した、ストライ キ委員会のような組織であった。その後、労働者が生産現場に密着しながら 結集する組織として、同年中にモスクワやサンクトペテルブルクにも現わ れ、さらに全国的に拡大し、政治的な要求も出すようになった。実際、ロシ アの政治に大きな影響を与えた。だがそれは、権力機関ではなかった。1905 年の事態は鎮圧されたが、ソヴィエトは、労働者自身が結集するための有効 な組織として、彼らや活動家の心の中にレガシーとして残り続けたのだっ た。
1917年2月(ユリウス暦)に労働者が「街頭の政治」を始めたとき、当時 の立法院の社会主義者=代議士を中心とする集団が「ペトログラード労働者 代表ソヴィエト臨時執行委員会」を名乗り、ついで工場労働者1000人ごとに 代表1人を選び、全市的な総会を開催した。ソヴィエトの形成の動きは全国 に広まり、1917年の政情に決定的な影響を与えた。
このソヴィエトの理念は、ロシアの専制に向けられた批判に限定されな い。なによりも額に汗して働く「勤労者」乃至は「勤労者・被搾取人民」に よる直接民主制の理念を象徴的に表現しているのである。「全権力をソヴィ エトへ!」というスローガンは、そのことを表わしている。
またこの国名の意味は、より広くヨーロッパ世界の文脈の中に置いて読み 取らなければならない。当時のソヴィエトの指導部が、マルクスの思想の影 響が深く滲透していたドイツ社会民主党を中心とするネットワーク(第2イ ンターナショナル)で活動していた以上、全ヨーロッパ的な性格の批判的理 念を内包していた。即ちソヴィエトという名詞は、富と教養と時間の余裕が ある、限られた名望家が担う政治(議会)を批判しているのである。名望家
の政治(議会)は、19世紀から20世紀初めまでの欧米で支配的な理念であっ た。発祥の地でもあればそれを体現しモデルとなったのが、大英帝国であ る。端的に言って、国名の一要素としてのソヴィエトという名詞は、イギリ スの名望家支配(議会)を理念的に批判するものとして、拡張して理解でき るだろう。さらに言えば、20世紀に支配的になる普通選挙などを利用した大 衆民主主義をも理念的に先取りしていたのである。
②社会主義:あるいは一部に誤解があるかもしれない。「社会主義」を、
私有制への批判的な理念とみなせば、1917〜
18年の「土地革命」後のロシ
アの共同体的世界に対応しているのではないのか、と。現にロシアは、マル クスとほぼ同時代に「農村社会主義」論を唱えたゲルツェンを生み出した国 ではないか、と。しかしながら、「1917年の日々」に巧みに乗じたボリシェヴィキ指導部も、
第2インターナショナルの世界観の多くを継承しており、ロシアが「社会主 義社会」へと向かう水準に到達しているとは見していなかった。1922年の段 階でも、ロシアで「社会主義」という批判的ユートピアを実現できると確信 していたとは考え難い。当時のロシアは、1914〜
22年の間の政治的激変で、
社会的経済的に土崩瓦解し、対外関係もほぼ途絶していたからである。「社 会主義」という言葉は、当時のロシアの実情と無関係であるかに見える。
だが国名は、なによりも外界に見せるものであり、次いで呼び掛けでもあ る。ロシアの支配者となったボリシェヴィキの古参党員たちが国名の要素に あえて社会主義なる語を含めた理由は、外界への呼び掛けであった。社会 的、経済的に「先進的」であるにもかかわらず、革命が起こらないヨーロッ パ大半島地域を社会主義的な変革へと鼓舞し、後押しする効果を見て取った のだろう。それほどまでに当時の指導者は、ヨーロッパ大半島地域を基準に して「自国」ロシアを見ていたのだった。この捻れは、後述のように、のち の叙述で明らかになるように、重要な問題点となる。
社会主義の概念の語源は、ラテン語の仲間(socius)に由来し、強引に直 訳すれば、単に仲間主義以上の意味を持たない。「個人主義」とか「私有制」
への批判を元来の理念としている。近世や近代にみられた、いわゆる「絶対 主義」的な国家(権力)に対置されるような概念でもない。
当時の世界に即して理解すれば、個々の実業家や金融家などが動かしてい る自由競争的な資本主義(資本家)経済への批判である。私有制に基づく自 由競争的な資本家的経済は、人類史上の文明論的な妙案とも言いうる一面を 持っている。自由競争的資本主義のグローバルな活動は、『共産党宣言』
(1848年)でマルクス等によって生き生きと叙述されている。あたかも褒め 殺しでもあるかのように。しかしその妙案は過熱し、都市化を推進する一方 で深刻な貧富の差を生む。必ずやスラムも生み出し、都市問題をいたるとこ ろ引き起こした。
社会主義とは、そうした病的な事態を引き起こす資本主義メカニズムへの 批判であり修正の運動だった。とはいえ私有制の否定までも構想していたの かは、議論の余地があるだろう。何事かを実現する青写真というより、なに よりも批判的理念だったのである。当時の現実に即して言えば、自由競争的 資本主義をグローバルに拡大し、世界経済を牽引してきた英国経済への理念 レベルでの批判であった。
他方で、この社会主義は、現在の福祉国家を先取りした一面を持つものと 理解しても、決してこじつけではあるまい。
③共和国:この概念は、主に君主制(専制も含まれている)に対置されて いる。君主制とは、特定の家系が特別な地位を占める政体である。君主制を 社会的にも政治的にも安定化させ常態化させるためには、当該社会が世襲的 な身分制度で貫かれており、しかも程度の差はあれ、各身分によって権利の 大小多寡があるというのが最適である。従って、共和国は、君主制にしばし ば伴う世襲的な身分制度という社会制度への批判をも含意する。
歴史的に見て、確かに君主制や身分制度は、近代化のある段階の社会に とって政治的安定に役立つ事例があるが、急速な社会変動の起こる時代に は、時代を代表するような制度にはなり難い。第一次大戦から1922年の頃ま での世界情勢は共和国への動きを強めたが、ドイツやイタリアなどのように 独裁体制へ移行する場合もあり、不安定であった。共和国を国名に入れたの は、単にロシアが君主制に回帰することを警戒するためだけではなかった。
この理念の批判の矛先は、議会制を持ちながらも広大な海外植民地を持 ち、世界に大きな影響力を与え、模範的な君主国であったイギリスに対して
主に向けられていたと言っても過言ではない。共和国はこの時期、フランス など限られていた。その意味で、共和国とは、当時にあっては、現代世界を 先取りする先進的な概念とみなせるだろう。
④連邦:連邦の用語にも、批判的な理念が込められている。この語は、ロ シア、ウクライナなどのヨーロッパ系の民族の国家と、ザカフカースなどの アジア系の民族国家との対等な関係を象徴している。端的に言って連邦とい う名詞は、ヨーロッパの大国による植民地支配・従属を批判しているのであ る。全世界の帝国主義−植民地体制のモデルは、まさに大英帝国であり、そ の意味で連邦制とは、なによりもまず大英帝国のあり方を批判しているので ある。ひいては、国際連合を、理念的に先取りしていると言っても良いだろ う。
(3)国名と、古参党員集団の寡頭支配
以上述べてきたように、ソヴィエト社会主義共和国連邦という国名は、そ れぞれの要素が批判的な理念を含んでおり、その批判の対象が、18〜
20世
紀初めまで世界の標準となっていた大英帝国だったのである。それは、いか にもパクス・ブリタニカ文明と呼ばれるのに相応しいものだったi。要する にこの国名には、パクス・ブリタニカ文明全体を理念的に批判し、それに対 抗する文明論的ユートピアの志向を促進するような含意が込められていた。そのようなものとして己を全世界に誇示し続けてきたのである。
この国名は、新国家の寡頭支配集団となったボリシェヴィキ古参集団の言 い分である。その指導部にとっては、「世界革命」が勃発するまでの過渡的 な状態にある彼らの主張の表明であり、ヨーロッパ大半島地域やアジア地域 への呼び掛けなのである。彼らは、政治革命をなしとげた優位性の自覚や自 信に満ちていた。このようにみてくると、1922年12月にロシアの実情からか け離れた理念を込めた国名を制定し、ヨーロッパ大半島地域のみか全世界の 変革を呼び掛けたことと、1919年3月に結成され変革を裏方から強力に促進 する「単一にして不可分の」共産主義インターナショナル(略してコミンテ ルン:別称、第3インターナショナル)とは、メダルの両面ということにな る。
しかしながら、以上に述べたことだけは、ロシア革命の意義について語っ たことにはならない。「1917年の日々」の意義は、その後のボリシェヴィキ 古参党員集団の寡頭支配体制と切り離しては理解できないのである。新国名 についても同様である。
Ⅱ.第一次世界大戦とロシア帝国
(1)はじめに土崩瓦解ありき-ロシア帝国と第一次世界大戦ii
私たちが普通「ロシア革命」と呼ぶ1917年前後の事態は、全体として見れ ば、なによりも専制的君主制の下の国家社会の崩壊である。即ち、ロマノフ 朝治下のロシアの国家・社会の全面的な崩壊であり、土崩瓦解である。それ は、第一次世界大戦でロシアが極度の緊張とストレスを抱え込まざるを得な くなった結果だった。
まず事実確認から始めよう。その場合、第一次大戦中のロシアに溜まった 大きな矛盾や緊張と、それにも関わらず皇帝や専制的な君主制の持っていた 戦争遂行のための巨大な動員能力に、何よりも注目すべきである。それと並 んで、しばしば見過ごされがちな専制の側面、即ち、自らの土崩瓦解を招く ほどの破壊力を溜め込むことのできた専制体制の伝統的な能力である。なぜ なら、専制が溜め込んだその破壊力や崩壊力こそがいわゆる「ロシア革命」
の動因であり、また、いかなる勢力も止めようもないほど強力な破壊力や崩 壊力だったからである。そこで、矛盾や緊張が高まる過程を、ツァーリ政府 の政策に即して整理してみよう。
第一次世界大戦の開戦が始まったのは1914年7月だった。だが早くも1914 年末、ロシア軍の武器弾薬や装備の深刻な不足が感じられるようになった。
そこで軍当局は、軍需物資の従来の調達方法で海外に発注したり兵器廠に増 産を要請したりした。こうした対応の仕方の基に横たわる制度思想は、およ そ戦争に関わる事項は皇帝大権に属するというものだった。そのため「公 衆」や「民間(経済)社会」が軍需物資の生産に関与することすらも、極力 制限されてきた。だが、それでは武器弾薬の必要に直ちに応えるには限界が
あった。
前線の惨状は、厳しい軍事検閲もくぐり抜けて銃後まで伝わってきた。こ れに不安を抱いた立法院の議員や財界人は、前線に駆けつけた。なにがなん でも軍需物資を必要としていた大本営の側は、彼らを快く迎えた。
(2)ロシア軍の「大退却」と後方の動員着手
武器弾薬の不足にも拘わらず、1915年3月上旬、ロシア軍はハプスブルク 帝国の要衝プシェムイシルを占領し、そののちカルパチア山脈を越えてブタ ペストの攻略を目指した。だがそこまでだった。
1915年4月中旬、ゴルリッツ市近郊でマッケンゼン将軍指揮下のドイツ軍 がしかけた強襲でロシア戦線は突破され、それ以降ロシア軍は、全戦線で退 却し、夏頃には東部プロイセンやロシアのポーランド領からも退却した。
ロシアの「公衆」は政府の責任を問う一方、武器弾薬の増産に帝国内の民 間企業を広く参加させること及び立法院に非協力的な4人の大臣の罷免を皇 帝に求めた。民間企業家の軍需産業への参加要求は、自らの政治的な発言権 を高めようとする動機と重ね合わされていた。
皇帝は、国家ドゥーマや広範な「公衆」=「民間社会」からの強い圧力の 前に折れ、軍需産業に民間の経済人も加えて武器弾薬増産のための会議の設 置を承認した。さらに皇帝は、立法院と協調的でない大臣を罷免するなど、
政治的にも譲歩を余儀なくされた。譲歩はどこで止むのか予想もつかぬ程 だった。この時期を象徴している人事が、軍の最高参謀部と「公衆」の圧力 でポリヴァーノフ将軍が陸軍大臣に任命されたことである。彼は「公衆」受 けする人物であり、ロシアの工業を広く動員する上で打って付けの人物だっ た。だが、以前から皇帝が強い不信感を抱き続けていた人物でもあった。
武器弾薬不足と並んで切実な問題だったのが、急速に消耗する兵員の補充 だった。ロシア軍の上層部も、後方の責任官庁と同様の認識を抱いていた。
ついに6月に入って、それまで身体的理由から事実上兵役を免除されていた 志願兵第2類の動員を余儀なくされた。これは、兵員の補充の面において、
ロシアの国家社会が崩壊に向かい始めたことを示している(実際に召集する のは9月以降で、ロマノフ朝末期まで断続的に続けられた)。結果として、
ロマノフ朝末期にはロシア軍のための人員はほぼ完全に枯渇していた。それ のみか労働能力を持つ男子の半分近くが兵役に就くことによって、ロシア経 済も崩壊への道を確実に歩んでいった。
(3)皇帝への圧力と皇帝の反撃
この志願兵第2種の人員の召集を決定した時点が、皇帝が政治的な面で最 も追い詰められた時だった。ここで政府は講和交渉の打診を始めるべきだっ ただろう。しかしこのロシア帝国を支える最低ランクの臣民をも死地へ赴か せることは、単なる兵員の人的資源上の問題にとどまらなかった。逆説的な ことに、いや、ロシアの国制であるが故にこそ皇帝は、自分の地位の伝統的 な家父長としての一面に突如覚醒し、「公衆」や立法院に向けては専制的君 主としての振る舞いを見せ始めたのである。
まず8月5日、皇帝は叔父のニコライ・ニコラエヴィチ大公に代わって、
念願の最高総司令官に就任する決意を首相ゴレムイキンに明かした。
ニコライ・ニコラエヴィチ大公は、ロシア軍が被った「大退却」にもかか わらず、軍人の間でも後方の「公衆」の間でも、人気が墜ちてはいなかっ た。また皇帝は、ニコライ・ニコラエヴィチ大公のロシア軍最高司令官とし ての能力や皇帝への忠誠心に、とくに不信感を抱いていたのでもなかった し、ロシア軍の「大退却」への責任を問う意思もなかった。皇帝の決断の決 定的な要因は、ロシア帝国臣民全体に対する皇帝の家父長的な責任感だった のである。もともと皇帝は、敗北に終わった日露戦争の時に自らが最高総司 令官になって現地に赴くことができなかったことを、長くそして深く悔み続 けていた。1914年7月の開戦時も最高総司令官に就くことを望んだが、首相 も含めた全大臣の強い反対にあって屈したのだった。
皇帝の決意を聞いたゴレムイキンは、今回も君主を諫め翻意に努めたが無 駄だった。他の大臣は、かくも重大な決定を自分たちに何ら諮ることなしに 決定したことに強く反発し、8月22日、ロシア帝政史上前例のない抗議の連 名書簡を皇帝に送った。だが皇帝はそれを無視した。これは事実上、大臣た ちの「助言の拘束」の無視であり、1905年革命の結果生まれた1906年憲法の 精神を踏みにじることに等しい。こののち彼は、1905年革命があたかもな
かったかのように振る舞うようになった。クリヴォシェインをはじめとする 有能にして有力な大臣は次々と職を解かれた。皇帝から全く信頼されていな いがリベラル受けの良い陸相ポリヴァーノフは留任し(1916年2月まで)、
民間の軍需物資の生産に従事した。「公衆」、立法院、民間団体を巻き込ん で、8月にロシア帝国の総力戦を闘う為の制度が最終的に形成された。そう した体制の下で、官も愛国的な「公衆」・「民間」も共々ロシア社会の動員に 邁進した。だが帝国全体への目配りは失われた。自制が利かなくなった動員 は、ロシア社会が耐えられない程まで過剰に進められてしまった。
以上の結果が、ロシア社会や経済の過剰動員であった。もともと徴兵可能 な人口と比較して、軍需向けに転用できる近代的工業の発達水準が低いロシ ア社会では、直ちに後方の労働力が不足し、消費財の生産も低下して人々の 日常生活も脅かされ始めた。他方、多数の働き手を消費者に転化した結果、
農業生産に大きな影響が出た。このことは、翻って、首都などの食糧難の背 景の一つとなり、ひいては後方の生活の崩壊を引き起こすことになった。
(4)崩壊前夜
参謀総長アレクセーエフ将軍は、深まる後方の混乱に対して危機感を抱 き、1916年6月、対策として、独裁官的な権限を持ち皇帝の前にのみ責任を 負うという異様な大臣職の新設を皇帝に進言した。だが皇帝側の対応は、既 存の官僚機構には手を付けず、首相シチュールメルに権限を若干集中させる 一方で、大臣間のポストのシャフルが伴っただけというものだった。
7月の人事のシャフルの際、珍事も起こった。熱烈な親英派サゾーノフも 外務大臣の職を解かれた。この人事は、英国王に、ロシアがドイツと講和を 結びはすまいかとの不安を呼び起こさせた。それ以上にロシアのリベラル を−主にカデット(立憲民主党)だが−、不安にさせた。そのことが1916 年秋に、カデットをして立法院での激烈な政府批判へと踏み切らせたのであ る。
リベラルからの激烈な批判に直面した皇帝は、11月に動揺も見せたが、そ れを知った皇后が直ちに大本営に出向いて彼の気を取り直させた。そしてこ れ以降、皇帝は一切ぶれを見せなくなった。そのことがすでに練られていた
「巨悪」ラスプーチンの暗殺計画を始動させたのである。しかし1916年12月
16日夜のラスプーチンの暗殺は、皇帝夫妻をいっそう頑なにしただけだっ
た。過剰動員の結果、この頃までにロシアの前線でも、後方でも、経済が悪化 し混乱状態にあった。拡大した混乱を、緊張を高めながらも何とか凌ぎ続け てきたロシア国家は、今にも崩壊寸前の状態に陥っていた。これまで専制と いう革袋が破れて現実の国家・社会の土崩瓦解となるのを押しとどめられた のは、なおまだ強大な権力を保持していた皇帝と、300年の伝統(惰性?)
を背景にしたロマノフ朝のみだったろう。しかもそのロマノフ朝政府や皇帝 夫妻はなおも強気で、1917年春に、英仏伊の諸国とともに、中欧同盟国軍へ の「決定的な性格を持つ」大規模な軍事攻勢を開く準備をしていたほどだっ た。実際、1917年1月末に、首都で英仏伊の大臣クラスの代表が集まり、ロ シアへの軍需物資の援助、ならびにインフラ整備の援助なども議論された。
Ⅲ.ロシア革命
(1)ロマノフ朝の転覆。その後の受け皿としてのリベラルとソヴィエト おりしも1916/
17年の冬は例年にない豪雪で、前線や、軍需物資の生産
が集中する都市、並びに他の消費地域への物資や食糧の輸送が滞った。ただ でさえ運輸事情は悪かった。路線沿いのいたるところに機関車や車両が、未 修理のまま放置されていた。こうした運輸事情は食糧供給事情を悪化させた だけではない。燃料の輸送も悪化させた。それが翻って鉄道で運ばれる化石 燃料を用いていた運輸状況を悪化させることになり、出口の見えない悪循環 に陥りかけた。民衆の胸の内に反戦気分、厭戦気分、不正や生活苦への怒 り、明日への不安などが蓄積されていった。2月22日、経営当局との対立からプチロフ工場のロックアウトが宣言され、
同工場の労働者が寒風吹きすさぶ工場の塀の外に、即ち街頭に放たれた。
個々の企業や工場でのストライキは個別支配者への抗議であるが、街頭に あっては、公共空間を支配するものへの不服従やそれとの対峙関係へと転化
しかねないという、別の性格を帯びている。一体に、プチロフ工場の「労働 者」(以前に活動家だったものや、政治的に活性化し始めたものもいたこと だろう)の気分は、ペトログラード全体の労働者の気分のバロメーターとも 見なされていた。直ちに同工場労働者の代表(中央軍事工業委員会付属「労 働者グループ」か)は、事態の重大性を国家ドゥーマ議員に伝えた。
プチロフ工場の動きとは独立して、23日に、ヴィボルク地区の婦人労働者 が街頭に出た。近隣の労働者も次々と加わった。街頭に出た民衆は、首都の 中心部に向かった。だが夜にはおさまった。
治安当局は23日の事態の原因を理解も特定もできず、茫然自失の状態に あった。24日と25日には、街頭に出た群集の規模が一層拡大し、26日には前 日の皇帝の命令に応じて軍部隊が街頭の民衆に実弾を用いた結果、多数の死 傷者が出た。ところが翌27日早朝から様相は一変する。民衆運動の鎮圧に出 動することを守備隊兵士が拒否し、指揮官を射殺し武器を所持したまま街頭 に出た。兵士の反乱は、その日のうちにペトログラード全市に拡大した。そ の際、兵士の動きを止めようとした将校や警察官も多数殺害された。ペトロ グラード守備隊兵士の過半が反乱軍の側に立ち、首都は一時無政府状態に 陥った。まさに大決壊であった。
国家ドゥーマ休会を命じた2月25日付勅令にも拘わらず、国家ドゥーマ議 長ロジャーンコをはじめ立憲民主党(カデット)の議員は選挙区に帰らず、
「私的会議」の名目で会議を続けたiii。事態を放置すれば、ペトログラード 市内の軍の状況が前線に伝播し、戦争継続が不可能になることは明らかだか らである。そこで議員らは、迷いもあったろうが、前線軍の最高指導部と連 絡を取り、軍の規律の維持と戦争体制の堅持、行政機構の掌握、秩序回復な どのために、2月27日午後11時、彼らの間から国家ドゥーマ臨時委員会(以 下、臨時委員会)を結成し、事実上権力を掌握した。帝政政府(大臣委員 会)メンバーを逮捕し、中央官庁など重要部署には臨時委員会のコミッサー ルと小部隊を派遣した。これによって決壊を最小限に食い止めようとしたの である。その間、王朝存否に関わる厄介な問題も暫定的に解決された後、社 会主義者であるケレンスキーを一人加えて臨時政府が結成された。
(2)活動家大衆の出現
決壊し溢れ出たすさまじい崩壊力と同時に、民衆が直接参加するという
「政治」が街頭に解き放たれた。政治的に新しい状況が出現した。この街頭 に出た民衆の中には、それ以前にきっかけは何であれ、街頭行動や政治行動 に関わったものも多数いただろう。だがそれ以上に重要なのが、それまで一 切政治に関わったことがなかったが、この新しい状況に対応して、特定の党 派に属しもせず系列化されてもいなかった活動家集団が多数誕生したことで ある(状況的活動家集団)。時間の幅を広げてみるならば、彼らのこの誕生 が、ロマノフ朝の転覆=「2月革命」の時に生じた最重要な事件だった。彼 らが事実上、ソヴィエト指導部の動向を決定的に左右することになるからで ある。
実は彼らを組織化することも、臨時委員会にとっては切実な問題だった。
そこで、国家ドゥーマ議員の社会主義者や社会主義的評論家などが集まり、
自らを、1905年の経験に倣って「ペトログラード臨時ソヴィエト執行委員 会」と名乗りをあげた。ついで労働者の間から選んだ代表をダヴリーダ宮殿 に直ちに派遣するよう、労働者に呼び掛けた。こうして労働者の代表の総会 は直ちに開催された。これが、「2月の日々」に出現した状況的な活動家大 衆が恒常的に活動し、種々の政治に関与できる安定した場となった。
臨時委員会は、街頭に出た兵士に対して兵舎に戻り、軍紀を再確立して将 校の命令に服するよう訴えたが、兵士集団は拒否し、労働者代表ソヴィエト が自身の行為(「反逆」)の正当性を保証してくれることを望んだ。そこでソ ヴィエト総会の場で兵士代表の要求を弁護士ソコロフがまとめ上げた。それ を3月1日、ソヴィエト指導部=穏健社会主義者が首都の守備隊に対する命 令として発した。これが、ロシア革命史上名高い「命令第1号」である。
同命令は、各部隊に兵士委員会を選出すること、部隊の移動などの命令は ソヴィエトが同意する限り効力を持つことなどを規定しており、その結果、
正規軍としての規律・秩序はほぼ完全に崩壊し、守備隊は、ペトログラー ド・ソヴィエト執行委員会に瞬時に服することになった。この命令第1号の 対象はペトログラード守備隊に限定されていたが、その内容は直ちに全軍に 波及し、全部隊に兵士委員会が選出された。穏健社会主義者は、期せずして
兵士集団を掌握し、臨時委員会やのちに結成される臨時政府から事実上兵士 を奪い去った。そして後の事件の展開に照らせば、ソヴィエトを支えていた 状況的な活動家集団の手中に、兵士=「軍服を着た農民」の運命を委ねた始 まりだった。中央集中的な軍律に従う軍を備えることが近代国家の標準とす れば、ロシア国家と軍は、その芯の部分ですでに実質的に崩壊していた。
(3)連立政府の成立とレーニンの帰国
ロシア国家社会の崩壊は、始まったばかりにすぎなかった。それでもリベ ラルだけでは決壊後の事態を食い止める政治的受け皿としては、不十分だっ た。ましてや1917年春に軍事攻勢に着手することは、いっそう困難となっ た。当時の現実を如実に示したのが、「街頭政治」と臨時政府の間に横たわ る戦争目的の理解のズレである。このズレが4月の広範な街頭デモの背景に あり、ひいては政府の危機も引き起こした(4月事件)。
期を合わせたかのように「4月事件」の直前、レーニンが帰国した。彼の 帰国は、のちにトロツキーが回顧するように、事件の行方に決定的な影響を 与えた一個の歴史的大事件だった。レーニンは直ちに名高い「四月テーゼ」
を公表した。その内容とは、臨時政府を信用しない、同政府は戦争を止めら れない、世界社会主義革命が迫っている、などである。
帰国当初、レーニンの考えは自派内部にも容易に受け容れられなかった。
彼は以上の方針をロシアに到着後に構想したのではない。「2月の日々」を スイスで知って、その地から彼がロシアに送った『遠方からの手紙』なる指 令文と「4月テーゼ」との間に内容上大差は無い。それが、ロシア在住の党 員や穏健社会主義者にも唐突でアプリオリな印象を与えた。また彼には、ロ シア国家社会の崩壊を阻止する政治的受け皿は念頭になかった。彼の提言 は、むしろロシア国家を直接解体する訴えであるやに理解されたのである。
レーニンは、ロシアの事件の展開を全ヨーロッパ的な、あるいは世界的な スケールで考え評価していたのである。彼の判断の根底にあるのは、資本主 義体制の終末論的認識と、「社会主義革命」の勃発が世界戦争によって加速 され、切迫しているという情勢認識であった。激しい自派グループの間の議 論の末、大体は表面上説得された。
レーニンの主張を無視するかのように、5月初めに、ソヴィエトの指導部 とリベラルとは、共に新たに臨時政府を形成した(連立政府)。この連立政 府は、ロシアの国家社会の全面的崩壊を食いとめるための安定した政治的な 受け皿となって交戦状態を維持・継続することを本格的に志向した、ロマノ フ朝転覆後の最初の政府だった。もっともこの時期は、ロシア国家・社会の 崩壊が未だ始まったばかりの、いわば決壊の初期的段階だった。
連立政府の生命力を英仏などに見せつけるには、部隊内部の規律の回復と 戦える軍の再建が必要だった。その任を委ねられたのが、陸海軍大臣ケレン スキーである。彼の下でロシア軍は夏、対ドイツ、対ハプスブルク軍に攻勢 をかけたが、ロシア軍の士気は低く、攻勢は失敗に終わった(夏季攻勢)。
軍内の規律は一層乱れ、兵士の不満が高まるなかで、7月事件と呼ばれる、
流血を伴う大規模な反政府の街頭行動が起こった。政府は危機的な状態に 陥ったが、その最中にレーニンにドイツから巨額の資金が流れているとの噂 が流された。主だったボリシェヴィキ指導者が逮捕あるいは、法廷出廷命令 の対象となった。これによって一時期、連立政府の側が、ロシアの軍や社会 の秩序再建に本格的に取り組む足掛かりを得たかに見えた。
だがケレンスキー首相の連立政府すらも、勢いを増すロシア国家社会の崩 壊を阻止するほどの政治的受け皿になりきれなかった。そこに軍部が乗り出 すが、ケレンスキーは支持をソヴィエト(指導部)に求めた。その際、政府 はボリシェヴィキにも頼った。ボリシェヴィキ最高指導部の一員のトロツ キーやカーメネフも解放された。こうして、ケレンスキー政権は救われた。
ケレンスキーの政治的安定化に向けた努力にも拘わらず、実現からは遠 く、公権力の権威も失われた結果、私的制裁(リンチ)が広まっていった。
社会経済的な混乱も増す中で、ソヴィエトの活動家集団は大挙してボリシェ ヴィキに系列替えしていった(いわゆる「ソヴィエトのボリシェヴィキ化」
現象)。
事態は、トロツキーらの「ボリシェヴィキ化」したソヴィエトに依拠して 権力を掌握すべきである、との主張に沿って進行した。10月24日、第2回全 ロシア労兵代表ソヴィエト大会が開催された。その一方で、ペトログラー ド・ソヴィエト付革命軍事委員会(議長トロツキー)が政権奪取を宣言し、
各官庁にコミッサールを派遣したり、旧臨時政府の大臣を逮捕したりした。
そうした既成事実を受けて大会は、もっぱらソヴィエトに依拠する(労働 者・農民)人民委員会議という名の臨時政府を新たに立ち上げた。大臣相当 職を人民委員へと改称したからである。また大会は、『土地に関する布告』
や『平和に関する布告』を採択して、ロシア内外の政府・民衆に広く平和の 実現を呼び掛けた。しかしレーニンらが呼び掛け先として重視したのはヨー ロッパ大半島地域、その中のとりわけ交戦国の政府と民衆だった。それらの 地でボリシェヴィキの武装蜂起に呼応する動きが直ちに勃発すると、彼は確 信していたからである。
Ⅳ.ボリシェヴィキ的受け皿とは
(1)ボリシェヴィキの武装蜂起と支持基盤の拡大策
ボリシェヴィキ指導部の思惑に反して、ヨーロッパでの反応は無きに等し かった。国内では憲法制定会議の選挙が迫っていた。ボリシェヴィキは憲法 制定会議の即時開催を訴えることで、対応が遅れがちな旧臨時政府を非難し てきたが、いざ議員の選挙が始まると自派議員が多数派になる見込みはな かった。ここから「戦時下」という万事を規定する大状況に即応したボリ シェヴィキの勢力拡大策が本格的に始まった。その行動は、①交戦国への働 きかけと、②ロシア国内での自らの認知度や支持者の拡大の二つを軸として いた。彼らの行動は一見攻勢的なものに映るが、実は徹底して自己保身的な 性格を色濃く帯びていた。保守すべきものは、①広義の「古参党員集団」の 存在と、②古参党員と「2月の日々」に多数出現した状況的な活動家集団と の間の「指導−被指導」の関係、の二つである。
ボリシェヴィキの認知度と支持者を増やす上で、最も有望なのが平和を実 現することだった。当初全交戦国に対して全面講和のための交渉を呼び掛け た。だがどこの政府からも回答はなかった。そこでボリシェヴィキ指導部 は、単独で中欧同盟軍との交渉に踏み入る決意をした。ロシア将校団の反対 は強力で、参謀総長は、人民委員会議をロシアの正規の政府とは認めないと
言い放った。そこでレーニンらは、停戦や休戦の交渉を拒否する将校団対す る兵士の敵愾心をかき立て、兵士自身が独自に前線で休戦交渉に入るよう無 線で全軍に打電した。これはロシア正規軍の崩壊をいっそう促進する策にほ かならない。ロシア軍は、戦闘単位としては事実上崩壊した。
停戦と休戦が実現し、1914年7月以来続いた戦闘行動は終わって、「ボリ シェヴィキの80日間の平和」が始まった。「2月の日々」に始まる事態(崩 壊)の流れの重大な転換点だった。兵士のボリシェヴィキへの期待感は急に 膨らみ、また国内での認知度も高まったことは言うまでもない。
ブレスト・リトフスク市の講和交渉は、ボリシェヴィキのロシア内での認 知度を高めることのみを目的としていたわけではない。交渉過程は完全に公 表され、ヨーロッパ大半島の交戦国の人々に、ボリシェヴィキの主張や行動 を知らしめる発信源だった。だが交渉の過程で、ボリシェヴィキ側にとって 譲れない条件の一つ、即ち「無併合」条件をドイツが遵守する気のないこと が判明したことは、ボリシェヴィキに衝撃を与えた。なにせこの時期のボリ シェヴィキは、最も「見栄っ張り」の時期だったゆえ、彼ら自身の結束を固 め、ドイツ軍との戦闘の再開に急遽備え始めた(「革命戦争」)。備えの一環 として、新しい原則に立った制度を整備し始めた。
まず1918年1月初めに憲法制定会議を解散した。同会議との「遊び」に終 止符を打つことにより、活動家大衆の帯びていたソヴィエト職の臨時的性格 をそぎ落とし、彼らの行為と職の正統性を確実にして自信を持たせて、結束 力も強めた。その直後の第3回全ロシア労兵農代表ソヴィエト大会は、別個 に存在していた「労兵」と「農」の代表ソヴィエトを一本化して、「ロシア・
ソヴィエト連邦共和国」を宣言した。労兵代表ソヴィエトと農民代表ソヴィ エトが合体した結果、ソヴィエト版一般意志(Volonté générale)が形成され たかに見える。だが合体によって僻遠の村ソヴィエトも、当該村の「労兵農 ソヴィエト」に転じ、農民が独自に利益を表出する回路が断たれてしまっ た。なぜなら農民は、ソヴィエト体系全体を支配していた都市の党員や活動 家集団に服することになるからである。
さらに人民委員会議は1918年1月15日、赤軍建設法令を採択した。これは 完全志願制であり、入隊するものは、ソヴィエト権力の基本方針を認める組
織の推薦を必要とし、部隊ごと新たに赤軍に入隊する場合には連帯責任と記 名投票が求められた。法令に明文化されてはいないが、当時の時代状況から 判断すれば、指揮官は兵士によって選出された。歴史的経験から判断すれ ば、この赤軍は活動家集団が中心となる軍隊となるだろう。
『勤労非搾取人民の権利宣言』(1918年1月12/
25日)は、自国名を「諸
ソヴィエト民族共和国の連邦」との条件が付された上で、「ソヴィエト・ロ シア共和国」の樹立を宣言していた。だが1月15/28日に第3回全ロシア・
ソヴィエト大会が採択した自国の憲法の基本的命題の決定では、「ロシア社 会主義ソヴィエト共和国」と呼んでいる。この時期から国名に、「社会主義」
や「連邦」が含める事例が現れ始めた。その理由の一つは、起こりうるドイ ツとの戦争や、ヨーロッパ革命に対応したからである。実際赤軍法令の前文 は、赤軍は「来たるヨーロッパの社会主義革命のための支えとなる」ことを 高らかに謳った。
宣言された共和国は、ロシアの民衆の共和国というよりは、活動家集団 の、根無し草で上げ底の共和国であった。その宣言は、「戦時下」という大 状況の中で登場した活動家集団の集合的惰性の産物であった。ボリシェヴィ キや活動家大衆が、これほどロシア社会の現実から遊離したことはない。
(2)上げ底の「共和国」は危機に瀕す
1918年2月中旬、ドイツ軍の攻勢が再開され、ロシア軍兵士は蜘蛛の子を 散らすように退散し、武器を手にしたまま無秩序に帰郷した。3月3日に調 印したブレスト・リトフスク講和条約によってロシアは巨額の賠償金の支払 い義務を負い、広大な領土を喪失した。調印文の規定は、当時のロシアの実 情を、反映した文書だった。条約の批准をめぐり3月の党大会と臨時ソヴィ エト大会の議場は賛否をめぐって大荒れとなった。ここにも活動家集団の集 合的惰性が如実に現われていた。その強力な惰性に対してレーニンは、捨身 の行動で条約を批准させた。なお前回の党大会(1917年8月)の決定に応じ て、党名はロシア社会民主労働者党からロシア共産党と改名された。
講和によって「革命戦争」は回避され、自ら望んだか否かはどうあれ、活 動家大衆や古参ボリシェヴィキ集団の肉体は抹殺から免れた。彼らが生存し
ていてこそソヴィエト・ロシア史が始まるのである。
しかし講和は、ボリシェヴィキ(系活動家大衆)の最大の支持集団である 兵士集団を消滅させた(「労兵革命の痩せ細り」と、和田春樹は表現した)。
帰村し、土地も獲得した兵士=農民は、直ちに「脱政治化」した。「2月の 日々」以来の運動の強力な推力が失われてしまった。どの組織の遠心力も強 まった。ボリシェヴィキは、兵のいない将軍のような存在となった。古参ボ リシェヴィキの間では、ブレスト講和をめぐる激しい論争がなお続き、結束 力も失われようとしていた。党員=活動家集団はどこでも激減した。
この時期について後年トロツキーは以下のように回顧している。
「1918年の春と夏は、特別に困難な時期であった。今になってやっと 戦争のもたらしたすべての結果が表面化してきた。時どき人々は、
いっさいが崩れ落ち、ばらばらになり、つかまるものも頼るものも ないような感覚に襲われた。われわれの前には次のような問題があっ た。いったい、疲弊し荒廃し士気阻喪したこの国に、新しい体制を維 持しその独立を救うだけの生命力があるのだろうか。食糧はなかっ た。軍隊もなかった。鉄道は全く混乱していた。国家機構はやっと 形成されはじめたばかりであった。いたるところで陰謀が企てられ ていた。」(トロツキー『わが生涯(下)』志田昇訳、岩波文庫、204 頁、2001年3月)。
都市や北部の消費地帯の食糧難は深刻だった。この問題は、帝政期から受 け継いだ都市の近代資本主義文明の社会的、経済的基盤(インフラストラク チャ)を維持できるか否かに直接関わる危機だった。
この時期が共産党にとって何よりも重大だったのは、彼らが支配を内部か ら脅かす政治的危機に直面していたからである。状況的活動家集団は1917年 に共産党指導部を権力の頂点に押し上げたが、今度は絶望的な食糧難の責任 の矛先を、各都市の党員指導部に向け始めたのである。こうして共産党指導 部(=古参党員の代表)は、絶体絶命の窮地に追い詰められた。
窮地に追い詰められた指導部がとった代表的な政策としてしばしば言及さ れるのが、1918年5月13日のいわゆる食糧独裁令である。だがそれは、前年
3月に旧臨時政府が導入した食糧の国家専売制度の再確認と、食糧人民委員 に「独裁官」的な権限を付与した法令であり、さほどの新味はない。最大の 難題は、その権限を実際に行使することにあり、食糧倉庫などの捜索はもち ろんのこと、農村に出向き、圧倒的多数の農民の意思に逆らって農民の家々 を家捜しする上で必要な武力を確保することだった。
Ⅴ.崩壊の促進と後始末の交錯
(1)農村征服政策
それに応えたのが、5月26日の共産党中央委員会決定とされる文書(『テー ゼ』)であった。不思議なことに、このテーゼは、レーニンの手になること は分かっているが、この日に中央委員会が開催された記録はない。だが5月 に始まる「農村征服政策」は、まさにこのテーゼに基づいていた。その本質 的な部分は、現下の経済危機、とくに食糧難を「政治主体化」するところに ある。その上で全活動家集団が一丸となり、その「敵」と闘うための体制を 作ることにあった。
食糧難の「政治主体化」とは、経済危機の責任はボリシェヴィキ指導部の 失政にあるのではなく、主に農村に潜み画策する「階級上の敵」にあると一 方的に決めつけることである。それによって活動家集団の不満を、都市のボ リシェヴィキから広大な農村社会に潜む敵に振り向けようとした。危機を
「主体化」することによって、指導部の責任を回避し、指導部としての立場 を保守するという絶妙な措置であった。まさにこの政策は、危機に陥ったボ リシェヴィキ政権の「起死回生の離れ業」と呼んでよい。
農村征服政策を開始する前に、ブレスト講和後の進路をめぐる指導部内の 分裂状態(レーニンとブハーリンの間の論争)に終止符を打ち、指導的古参 党員の結束を高めておかねばならない。これは容易に達成された。
5月26日付テーゼの具体的な処置は、以下の通りである。
①武装集団を都市や消費地域の労働組合を介して編成し、その集団に、責 任者として練達の活動家を付けて農村に派遣すること。
②より多く食糧の徴発した部隊にはプレミア制を適用すること。
③レーニンの手になるこの党中央委員会決定なる『テーゼ』は、下記のよ うな驚くべき規定も指示していた。即ち、刈り入れの数ヶ月間、軍事官庁
(軍事人民委員部)の業務の大半を、農村征服政策に振り向けるよう指示し ていたことである。
この規定は、レーニンが、本来は食糧危機を解決するための「農村征服政 策に必要な武装集団の編成作業と一緒に、正規軍としての赤軍部隊を編成・
建設しようとしていたことを物語っていた。それには、以下に述べるよう な、当時焦眉の課題だった実力部隊の編成の進捗状況が芳しくなかったこと があった。5月25日に反乱を起こしたチェコスロヴァキア軍団は赤軍部隊を ものともせず、短期間にシベリア鉄道と沿線地帯を占領した。7月には、左 翼エスエルも政権から離脱して武装蜂起を起こし、対チェコスロヴァキア戦 線総司令官ムラヴィヨフ旧軍大佐も反乱を起こした。それを鎮圧したのは、
赤軍ではなく、旧陸軍大佐ヴァツェチス指揮下のラトヴィア人部隊であっ た。
④農村現地で食糧徴発隊に協力するものからグループを組織すること。実 際この規定に基づき、6月11日、貧農委員会令を立法機関が採択し、協力す るものや都市からきたものから貧農委員会が形成されるものとした。
この乱暴な政策に農村社会は強く抵抗し、暴動を起こした。農民の行動が 最も広がったのが7月である。農村征服政策の過程で農村に派遣されたもの の内、少なくとも千の単位の派遣部隊員が命を落した。農民の死者の数はわ からない。抵抗する村ソヴィエトは解散させられ、かわりに村貧農委員会が 設置され、その上部に郷貧農委員会が形成された。さらに郡貧農委員会や県 貧農委員会も結成された。こうして憲法に規定されたソヴィエト体系よりも 上意下達がスムーズな貧農委員会系列は、ソヴィエト体系を押し退け、憲法 の規定外だが、事実上、農村の新しい統治機構となった。こうした農村内の 事態は、当時、農村ソヴィエトと貧農委員会の「二重権力」と称された。
かつてその支配はゼリー状と評されたボリシェヴィキ政権は、7月には絶 体絶命の状況に追い詰められた(「七月危機」と呼ばれた)。だが、以下の2 つの事件をきっかけにして、彼らの士気は一変し「7月危機」を克服する。
即ち、①8月末のレーニンに重傷を負わせた暗殺未遂事件の衝撃と、②9月
10日にカザン市、12日にシンビルスク市を赤軍が奪還したこと。これは、成
立して以来ひたすら負け戦を重ねてきたボリシェヴィキ政権にとって、戦勝 と呼べる最初の戦果であり、それだけ党員たちに強い影響を与えた。1918年の危機的体験を共有することで、古参党員集団と、踏み留まった活 動家集団は強く結束し、接近し、あるいは融合するようになった。その上 で、彼らの間の指導−被指導の関係は、ほぼ党歴を主に基準にした上意下達 の関係へと転化した。これは1917年以降起こった最重要な変化の一つだっ た。中央集権的なヒエラルヒー構造を持つ新国家の機構は、党員、あるいは 活動家集団の間のそうした新しい関係に支えられて作り上げられたからであ る。この変化は党員集団の中の変化だったため、憲法には反映されなかっ た。
(2)世界大戦止む-身構えるボリシェヴィキ
上述した体制の制度面の整備は、1919年の冬から春にかけて進んだ。その 動きをいっそう強い力で促進させたのが、ボリシェヴィキ政権を取り囲む国 際情勢の変化である。10月初めにレーニンは、ドイツ軍やドイツ政府内部で 休戦の動きが急浮上している事実を察知した。直ちに彼の脳裏に、歓喜と恐 怖感の入り交じった現状評価と今後の展望が浮かんだ。
ドイツ国内の政情の変化をレーニンは、待望の「ヨーロッパ社会主義革 命」の前兆とみなした。では恐怖心を引き起こした理由とは何か。ヨーロッ パ大半島で死闘が続く限り、ボリシェヴィキ政権の存続は保障されていた
(日米のシベリア出兵はあったが)。だが大戦が終結し、ドイツや旧協商国及 び日米がこぞってロシアに軍を送り、あるいは進めたならば、ボリシェヴィ キ政権はひとたまりもないからである。
そこでレーニンは10月1日、トロツキーとスヴェルドローフにドイツの政 情の流動化を伝え、「300万人の赤軍の建設」を目標として、ボリシェヴィキ 支配圏域内の穀物調達の強化や国内の制度上の整備などを指令した。結果と して、中央集権的な機構の構築は、ほぼ1919年2〜3月頃までに完了した。
問題は、300万人の赤軍をいかに建設するのかである。平穏な生活を求め
て帰郷したばかりの農民を再度動員したり、農村から物的資源を調達したり する必要があった。それを行なうのは、「ソヴィエト共和国」に応じた正規 の機構の方が、摩擦はより少なくて済む。そこで指導部は、貧農委員会のソ ヴィエト体系への「改造」に着手し、上から末端までソヴィエト体系へと統 一した。その「改造」は、ソヴィエトの改選という手続きを踏んで実施され た。改選の際、郷や村ソヴィエトの選挙は、特別に作成された「選挙手続き 規則」に基づいて行なわれたと言われる。その目的は、選挙で貧農委員会の 活動家を農村に残し、村より一段上級レベルである郷のソヴィエト執行委員 会議長職には共産党員ないしはシンパを確実に配置することである。これに よって農村統治上の貧農委員会体系との同質性が確保される。こうして郷執 行委員会議長は、モスクワの出先機関として村落共同体=村ソヴィエトと対 面し、村ごとの連帯責任で、食糧の徴発、兵員の召集、脱走兵対策、隠匿武 器の没収、などの役務を各村ソヴィエトに(事実上、村落共同体に)課し た。
こうした集権的な秩序は、1917年当時一般的だった状況的活動家集団の中 の人的関係とは異なる、古参党員と状況的活動家集団の間の上意下達的な関 係に支えられていた。これまで繰り返したことだが、彼らの間の上意下達の 関係は、ボリシェヴィキ集団内の独特な序列原理によって支えられていた。
その共産党のヒエラルヒーの基礎となる序列基準が、主要には「党歴」の長 さだったのである。この党員間の新たな関係に基づく秩序は、地方の党やソ ヴィエト組織のあり方に明確に反映されていた。かつては地方機関のトップ は、当該地域のソヴィエト執行委員会の委員長だった。だが直ちに党組織に 代わられた。その党組織でも、選挙制の党委員長はほとんど設けられない か、早々と消滅し、党員集団のトップに党書記が就いた。ここにも古参党員 集団の寡頭支配の一端が現れていた。即ち地方党書記とは、寡頭支配を敷く 古参党員集団の当該地域の全権代表のような役割を果たしていたのである。
党員と活動家集団の間の上意下達的な関係は、一見ソヴィエトの理念や、
それに基づく「下からの積み上げ」型のソヴィエト国家像と矛盾するかのよ うである。逆説的でもあり、また特徴的でもある点なのだが、党員集団に固 有の秩序であるからこそ、憲法の文面には表れず、文言上の変更なしに済
み、当時のソヴィエト憲法の文面とは矛盾しないばかりか、むしろ従来通り
「下からの積み上げ」像を積極的に支えてさえいたのである。
更に、古参党員集団による寡頭支配が持つ、もう一つの際立った意義をけ して見逃してはならない。即ちこの寡頭支配は、かつて第2インターナショ ナルのネットワークの内で活動し、世界観も磨き上げてきたレーニンを中心 とする古参党員たちの思想的、イデオロギー的立場をロシアの地で保守する 体制でもあったという点である。
1917年10月24/
25日の武装蜂起の時からしばらくは「ロシア・ソヴィエ
ト共和国」が国名として用いられていた。しかし記述だが、1918年1月ころ から、国名に「社会主義」や「連邦」の言葉も含められる事例も登場し、「七月危機」の最中の1918年7月19日に採択された新政権最初の憲法では、
「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国」とされ、「連邦」と「社会主義」の 二つが正式に含められた。この時期の政治的状況を勘案すれば、「連邦」の 語が組み込まれた理由は、旧ロシア帝国域内の非ロシア民族の動向をボリ シェヴィキが強く意識したためでもあれば、自立した民族として覚醒させ、
「単一にして不可分のロシア」を掲げ続ける反ボリシェヴィキ勢力に対抗さ せようとしたところにあったろう。つまり内戦を勝ち抜くための方便として の性格を、一面として持っていたわけである。
今ひとつ着目すべき点が、「社会主義」が国名に組み込まれ続けたことで ある。それは、「社会主義」を鮮明に掲げることでヨーロッパ大半島諸地域 の政変を促進しようとする、寡頭支配集団の強い意志の現れである。いうま でもないことだが、「帝国主義段階」では、必然的に「社会主義」的な政変 の条件は熟していると、彼らは確信していたからである。
(3)統治中枢としてのロシア共産党とコミンテルンの創設
寡頭支配集団は、ヨーロッパ情勢の変化をただ待っていただけではない。
政変を引き起こすための具体的な組織をつくり出した。それが、共産主義イ ンターナショナル(コミンテルン)だった。
もともとロシアのマルクス主義的活動家は、第2インターナショナルとい う「汎ヨーロッパ」的磁場の中で思考し、議論し、活動してきた。レーニン
も例外ではない。そのネットワーク内部での論争や思想的な格闘を通して練 り上げられたレーニンの思想が、「2月の日々」に生まれた状況的活動家集 団を引き寄せ、ボリシェヴィキによる政権掌握への道を切り開くにあたって 決定的な意義を持った。確かにレーニンは、第2インターナショナルに破産 宣告を下した。だが国際的な革命運動のネットワークの存在を否定する意思 は微塵もなかった。逆に、彼は大戦中に、第2インターナショナルに取って 代わる新しいインターナショナルの組織化を模索していた。
そして大戦が終結するやいなや、彼の前に突きつけられた差し迫った課題 の一つが、そうしたネットワークを直ちに作り上げることだった。ヨーロッ パの労働運動や「革命運動」の動向に注視し続けていた彼に、イギリス労働 党が第2インターの復興に向けて動き始めたという情報が入った。そこで彼 は、第2インター復興の動きに対抗し、かつ機先を制するためにも、外務人 民委員チチェーリンに対して新しいインターナショナルの創設を直ちに指示 した。1919年3月上旬、共産主義インターナショナルは、新しい組織原理に 則って、主にロシア在住の外国人党員から早々につくり出された。
大戦後の緊迫した国際環境はまた、レーニンら古参党員たちが共有する思 想を成文化することを促した。それが1919年3月の第8回ロシア共産党大会 の場で、各地の古参党員の代表が共有するにいたった『ロシア共産党綱領』
である。この『党綱領』の文章には、大戦中にレーニンが練り上げた思想や 彼の世界認識の精髄が取り込まれていた(この『党綱領』は、フルシチョフ が大幅に改訂する1961年まで「生きて」いた)。また1919年『党綱領』は、
コミンテルンの重要文書を作成する際の基礎にもなった。この『党綱領』を 簡易に解説し、1919年秋にロシア語で出版された『共産主義のABC』(ブ ハーリンとプレオブラジェンスキーの共著)は、コミンテルン運動の内部で 標準的な文献となり、邦語も含む他の多数の言語にも翻訳された。
1919年春、コルチャーク元提督が旧協商国の支援の下でモスクワ攻略戦を 開始した後、内戦の戦闘は一挙に激化した。だが赤軍は、シベリアでもウク ライナでもロシア北西部でも、1920年初めまでに勝利を確実にすることで、
いわば「ボリシェヴィキのレコンキスタ」は完了した(なお日本軍は1922年 までシベリアに留まった)。
(4)国名の決定-国際関係上の後始末
ボリシェヴィキの「レコンキスタ」は、シベリアなど、ロシア辺境の少数 民族の自立や独立への覚醒を促しながら進んだ。その過程で、民族国家が形 成された。それら独立した民族国家は、各々が相互に同盟条約を結んだ。各 国の統治分野で、整備の程度はさておき、それぞれ独立した機関が設置され た(軍に関しては、1919年に統一された)。こうして生まれた政治秩序は、
のちに、寡頭支配集団に厄介で重大な問題を突きつけることになるだろう。
内戦は1919年末〜
1920年初めころに一段落し、ボリシェヴィキ政権は経
済復興に向かうことになる。ポーランド・ロシア戦争などの半年の中断後、1920年10月から経済政策に本格的に取り組み始めた。
だが、1921年春の経済政策の変更(新経済政策への転換)は、統治業務 を複雑にした。市場メカニズムの導入の結果、少なくとも経済政策の領域 では、古参党員集団が、革命前から業務に就いていた専門家や技師集団の 助言を仰ぐ事案が多くなった。また、それまでの個々の同盟条約による結 合方式も、いっそう煩雑になった。その結果、旧ロシア帝国版図上の諸国 家内で、統治業務の自立の要求が、潜在的であれ生まれ強まるのも不思議 はない。
国内の経済行政の転換に加えて、国際環境も変わりはじめた。まず1921年 3月に英ソ通商協定が締結された。この段階では、英ソ間の国交回復に至ら なかった。しかし1921年末、ロンドンから、戦後の国際経済復興に関する会 議にモスクワを招聘するとの情報が届いた。これによって、①新国家が既存 の正規の国家間関係に参入するのか否か、②参入するならば、どのような参 入の仕方かの問いに、明確な態度をとることが、為政者に突きつけられた。
まさにそのときに問題が起こった。その会議とは、1922年4月〜5月にジェ ノヴァで開催される国際会議の準備会議である。問題とは、ジェノヴァ会議 へ派遣する代表の選び方である。ロシア以外の国家が、独立国として代表の 出席を強く求め、相互に対立が起こったのである(公法上は完全な独立国家 であった)。結局、ジェノヴァ会議には、ロシア以外に、アゼルバイジャン、
アルメニア、ベラルーシ、ブハラ、グルジア、ウクライナ、ホレズムなどの 全ての共和国や、極東共和国の関係者も出席した。
この件について、1922年はじめに、ロシア外務人民委員チチェーリンがき わめて憂慮すべき事案であると、共産党中央委員会書記モロトフに通報し たiv。確かに、公法上独立した各国家の代表全員が、ロシア共産党支配地域 の外部世界と関係する場合に、完全な独立国として振る舞うことは、現実的 でも実務的でもなかった。なによりも、圧倒的な経済力を持つ外界と関わる ことで、モスクワからの遠心力が強まる可能性があった。そこでロシア共産 党中央委員会は、その支配下にありながらも独立した国家の集合体という体 裁をとった独特な政治秩序のあり方と、そこから派生する問題点を検討する ために、党中央委員フルンゼを議長とする委員会を設置し、安定した国家 の、あるいは国家間の姿を模索することになった。これは、ロシア帝国の土 崩瓦解した結果への、国際関係上の後始末の一つといえる。
1922年9月、解決策としていわゆる「自治国化案」を提出したのが、ス ターリンだった。その案によれば、すべての独立国は、単一の「ロシア社会 主義連邦共和国」に自治国として編入されることになっていた。ウクライナ などの大きな政治的単位(国家)も例外ではなかった。
そのような構想に対して、ウクライナなどの指導部を占める古参党員集団 自身が強く抵抗した。彼らインターナショナリストにとって、何が何でも独 立したウクライナに固執する必要性は、原理上はない。むしろ彼らが重視し たのは、新国家の国名のイメージであった。帝国主義支配から離れることを 願う人々の目に、「単一にして不可分のロシア」のイメージが継承されてい ると映ることは、植民地解放運動の妨げになる、という論理である。最終的 には残らなかったが、討議の過程で現れた「アジアとヨーロッパの社会主義 国の連邦」の名称は、当時の寡頭支配集団が、連邦(制)という言葉と影響 を、ロシア内部の民族(国家)間の関係のあり方に限定せず、アジアをも含 む世界的な規模で考えていたことを物語っている。レーニンも「自治国化 案」に反対したために、スターリンは後退し、ここに1991年12月まで続く
「ソヴィエト社会主義共和国連邦」という国名は定まった。
こうし他国名で多民族社会の国家的政治的統合が可能になったのは、ヨー ロッパで誕生したインターナショナリズムを共有する古参党員集団が凝集核 となり寡頭支配を敷いていたからこそである。この正式の国名も、土崩瓦解
したロシア帝国の後始末=事後処理の産物とも見なすことができる。古参党 員集団の寡頭支配とは、実は、すぐれて帝国論的なテーマでもあった。
なお、念のために指摘しておくが、1922年に制定された国名にも「社会主 義」が残された理由は、古参党員集団が、当時のロシア社会を「社会主義」
と認識していたからではない。
Ⅵ.全社会的な後始末事業の最終段階へ
(1)先が見通せぬ後始末作業と寡頭支配の調整
国名の制定(1922年12月)までの時期は、後から振り返れば小手先程度の 後始末=事後処理の時期だった。指導部の前には、ロマノフ朝下のロシア帝 国が土崩瓦解した結果出現した、国内的にも国際関係の上でもいびつな構造 への後始末が、とりわけ国内に限れば越え難くも高い難題として控えてい た。
1922年に入って経済が上向き始めたが、その動きは、ボリシェヴィキ政権 自らの思想に沿った努力で呼び起こされたものではなかった。
初めから振り返って見ることにしよう。1917〜
18年以降、古参党員集団
の寡頭支配下のロシアは、土崩瓦解の結果、以下の二つの克服しがたい後始 末=事後処理の課題を背負い込むことになった。おそらくそれは、通常の判 断力を持つ為政者には、直視できないほど絶望的な事態だったろう。まず経済発展に必要な海外の資金の流入が、ほぼ絶望的になったことであ る。革命前に世界経済に組み込まれることで形成されたロシアの社会構造 は、大戦・内戦・干渉戦・干魃を経過することで、構造全体が崩壊の危機に 瀕していた。戦争からも一方的に離脱し、その上、外国人の所有する企業を 広く国有化した結果、荒廃したロシアへの外界からの援助はもちろん、投資 などは望むべくもなかった。ロシア工業の発展史上、国外の資金が決定的な 意義をもっていたという歴史的事実を踏まえれば、ボリシェヴィキ政権下で ロシア経済が発展する余地は、きわめて狭められたものだった。
第2に、概括的にいえば、土地革命によって商業的な農業経営は絶滅し、