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南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二)「秋月子 錫墓碑銘」

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南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二)「秋月子 錫墓碑銘」

著者 副島 一郎, 南摩 綱紀

雑誌名 言語文化

巻 11

号 3

ページ 473‑492

発行年 2009‑01‑20

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011529

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473 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二) 「秋月子錫墓碑銘」

一  島  副  郎       ﹁ 秋   子 錫 墓 碑 銘 ﹂   月 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二)    

 秋月子錫(一八二四~一九〇〇)は南摩羽峯(綱紀)と同じ會津藩士。通稱悌次郎、諱は胤永(かずひさ)、字を

子錫、號を韋軒といつた。藩主松平容保が京都守護職となってから公用局の一員に推擧され、外交の要務にあたり、

文久三年の會津藩と薩摩藩の同盟の立役者として知られる。鶴ケ城籠城時には副軍事奉行として戰ひ、開城にあたつ

ては降伏の使者として立ち、降伏調印式の會津側責任者であつた。戰犯として終身禁錮となるも、明治五年特赦によ

り釋放、その後は主に教育畑を歩み、明治二十三年、六十七歳で熊本の第五高等中學校の教授となつた。秋月韋軒は

幕末の會津藩においては外交・軍事の地味な實務方、明治にあつては傳統的朱子學を講じる一介の漢學者であつたに

すぎない。文久三年の會薩同盟をのぞけば、表舞臺で華々しい活躍をしたとは言へない韋軒の名が、現代においても

なつかしく思ひ起されることになるきつかけは、五高における學生および同僚たち、中でもとりわけラフカディオ・

ハーンとの交流である。韋軒が熊本で古稀を迎へたときの祝賀會參加者は五百名を超え、その記念として『鎭西餘響』

﹁言語文化﹂

11―3.

473― 492ページ 二〇〇九年. .

同志社大学言語文化学会 

© 副島一郎

(3)

副 島 一 郎 474

が出版されてゐる。七十二歳の退職時にはまた記念文集として『山高水長集』が、そして歿後三十五年めにも學生た

ちそれぞれが韋軒の思ひ出を綴つた『秋月先生記念』(内題『秋月胤永先生記念録』:五高同窓會編、昭和十年)が

出版されてゐる。教へ子たちも三十五年も經てば、それぞれに人生經驗を積み人物鑑定眼も具へる立派な中年人士で

ある。それでも『秋月先生記念』に見られるやうに、韋軒への熱烈な敬慕の念にいささかの衰へもないのは驚かされ

るばかりだ。またほとんど言葉は通じなかつたハーンも出會ひの最初から韋軒に魅了され、敬愛の氣持は交友につれ

て深まつた。つひには﹁神さまのやうな人﹂(ここでは日本神道の神の意)と言ふに至つてゐるのは誠に興味深い。

韋軒はハーンが最も尊敬した典型的日本人であつたと言つてよい(“To Father Akizuki”『鎮西餘響』收。また﹁九州の

學生と共に﹂平井呈一譯『東の國から』收)。

 地元會津と熊本とでは語り繼がれてきた韋軒の名が全國的に知られるやうになつたのは、おそらく昭和四十九年に

相次いで出された二つの文章によるところが大きい。『第三文明』(第三文明社)九月號掲載の松本健一﹁明治を耐へ

る生 秋月悌次郎傳﹂および『オール讀物』(文藝春秋社)十二月號掲載の司馬遼太郎﹁ある會津人のこと﹂である。

その後、松本氏は秋月悌次郎關係の評傳を『秋月悌次郎 老日本の面影』(作品社昭和六十二年︿一九八七﹀、増補新

版・勁草書房平成二十年︿二〇〇八﹀)としてまとめ、そして平成十六年には中村彰彦『落花は枝に還らずとも 会

津藩士・秋月悌次郎』(中央公論新社)のやうな資料的にも充實した歴史小説が書かれるやうになつてゐる。會津で

も顯彰は進み、平成二年には『秋月悌次郎詩碑建立記念誌』(同建立委員會)が出て、自筆の﹁有故潛行北越歸途所得﹂

を刻んだ詩碑が鶴ケ城三の丸に建てられ、平成十年(一九九八)に秋月一江編『秋月悌次郎傳』がまとめられてゐる

(秋月一江氏は御一族で、韋軒の弟胤家の孫に當られる)。これは秋月悌次郎傳の決定版と言ふべきもので、第一經歴

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475 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二) 「秋月子錫墓碑銘」

編、第二書簡編、第三韋軒遺稿および餘滴からなる。第三韋軒遺稿編は韋軒の漢詩文全てを秋月一江氏が訓讀しかつ

簡單な語釋を施したものである。

 ここに譯注を試みる﹁秋月子錫墓碑銘﹂はつとに『秋月悌次郎詩碑建立記念誌』に渡部孝氏による訓讀があり、秋

月一江編『秋月悌次郎傳』にも簡單な語釋を附した訓讀が收められてゐる。むろん本譯注も兩者を參考にしてゐる。

羽峯による墓碑銘は、他の資料に見えない韋軒に關する新事實が記されてゐるわけではないが、注釋を加へることに

よつて、幕末から明治にかけて韋軒の置かれた環境とその中での活動をより理解出來るやうにしておきたい。そのた

め人名や歴史的事項について手近な事典類に載つてゐることは省き、できるかぎり他の資料と照應することを第一と

してゐる。また韋軒と羽峯とは終始袂を分かつたことがないばかりか、蝦夷地での苦勞をも共にした生涯にわたる親

友であつた。その韋軒のために書いた墓碑銘であるから、羽峯の書いた墓碑銘の中でも力のこもつたものと考へられ

る。なほ『環碧樓遺稿』に收められたのは草稿であり、定稿といふべきは墓碑に刻まれたもの(即ち『韋軒遺稿』に

收められたもの)であるが、ここでは『環碧樓遺稿』を底本とし、『韋軒遺稿』中の墓碑銘に書き加へられたものは、

校勘に掲げることとする。先に言及した渡部孝・秋月一江氏による訓讀は『韋軒遺稿』收の定稿である。

 なほ、韋軒の傳記としては、一種の自傳である﹁刀史﹂(刀を主題として自己の來歴を記したもの。『韋軒遺稿』收)

の他には、五高の同僚教授笠間益三による﹁秋月先生略傳﹂(漢文)がある(『鎭西餘響』に收録)。また『秋月悌次

郎詩碑建立記念誌』には年譜がつけられてゐる。

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副 島 一 郎 476

  秋月子錫墓碑銘

吁嗟余忍銘子錫哉。子錫少余一歲(ア)、當銘余、而余反銘之。天何奪吾子錫之速也。雖然、余與子錫同郷(イ)、幼

同戲、長同學、識子錫莫余若焉、則銘之者非余而誰。子錫諱胤永、子錫其字、稱悌次郎、號韋軒(ウ)。姓平、千葉

氏族也。後裔丸山賴堅(エ)仕會津藩祖土津公(オ)、子孫世襲。考諱胤道、妣杉本氏、子錫其第二子、文政七年七

月二日生(カ)、有故稱秋月氏、幼學藩校日新館、年十九至江戶師松平慎齋。慎齋曰、學之要在知道而(キ)不在詞

章訓詁。子錫自此專力經籍。弘化三年入林祭酒之門、學昌平黌書生寮、為舍長(ク)。及去、賞賜書(个)五部。子

錫嘗受經義於金子霜山、國史令格於栗原又樂、詩文(コ)於藤森天山、各有所得(サ)。既而藩命(シ)歷遊海內、

觀政察俗、著觀光集七卷、又録列藩名君賢臣事實為十卷、供藩主施治之資。

 文久二年、藩主忠誠公任京都守護職、使子錫參謀帷幄(ス)、尋為儒者見習兼侍讀(セ)。當此時、鎖港攘夷之論紛

起、訛言外艦入攝海、朝廷命吾藩巡視海岸、尋命諸藩築砲臺于攝海、子錫皆與焉。公(ソ)意在佐幕府尊王室明大義

名分、而幕政衰頹、紀綱不振。諸藩士藉尊攘說(タ)、煽動朝紳、時勢甚棘。子錫周旋其間、左支右吾、苦心極至、

爲刺客所窺(チ)者屢矣。

 慶應元年、子錫(ツ)轉蝦地代官。挈家移舍利、乃設漁場、闢草萊。居一年、藩命赴京。時嚴寒積雪、裂肌墜指、

人或勸緩行期、子錫不肯曰、事急、豈臣子安逸之日邪。十二月發程、備嘗艱苦、明年三月達京師、職復舊。無幾、德

川慶喜公解大將軍職、王室中興、守護職亦廢。

 明治元年正月、伏見鳥羽戰起、東兵敗、藩公從前大將軍東歸、子錫亦歸江戶。公托謝罪表於諸藩(テ)、上之朝廷、

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477 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二) 「秋月子錫墓碑銘」

子錫專與其事而書不達。征討師陸續逼會津、子錫掌軍務(ト)赴越後水原、藩采邑也。自此轉戰各地(ナ)、參畫尤力。

亂平、拘東京獄、尋幽熊本藩邸。二年、朝議以藩老萱野長修為首謀(ニ)賜死、以子錫為從、禁錮終身、幽高須藩、

既而轉名古屋藩、又遷青森縣(ヌ)。

 五年正月、特旨見赦。三月爲左院少議生、尋進五等議官、敘正七位、遷太政官七等出仕。及官廢、歸會津(ネ)、

買田圃、栽桑茶、以立養母營生之基。十一年母年八十八、大開壽筵賀之。越二年母沒。喪畢、至東京下帷授徒。無何

(ノ)、補教導職、歴任中教正、東京大學教諭、第一高等中學教諭、轉第五高等中學教授、敘從六位、進三等官。

 子錫之至熊本也、應能久親王之召講經。且喜其土俗淳朴、常謂不可使失此美風(ハ)。乃勤儉率先(ヒ)、生徒靡然

(フ)從之。嘗為子錫開古稀筵(ヘ)、會者五百餘人。亦可以見諸人景慕一斑也。

 二十八年、辭職歸會津、移竹浣花、優遊與世相遺。三十年進正六位、三十二年移東京、十二月暴病、翌年一月四日、

特旨進從五位、明日遂不起。壽七十又七。葬青山之塋。

 子錫為人、軀幹短小、而膽大氣壯、接人溫和(ホ)、德輝粹然溢詞色。平生勉學不倦、其在昌平黌、燭以繼晷、終

夜兀兀、或凭几而眠、覺則又讀、人不見其就枕。深信程朱之學、最長經世。若文詩則其緒餘、然亦往往有足感動人者。

處事果斷、雖當難局、夷然無遲疑之色。常曰(マ)經世之術必原諸性命之微。性命之微必發諸治國之用。則學不陷于

理窟。治不流于霸術。嗚呼此數語、足以知其本領矣(ミ)。配遠藤氏、生二男一女、先沒(ム)。長男浩次承家、浩次

曾遊米國、學工業十餘年、歸開其業。次男胤逸為陸軍少尉。女為胤繼配、胤繼嚮子錫所養、卒大學之業。繼室丸山氏

無子、子錫初養兄胤昌子胤浩為嗣、先沒(メ)。銘曰。

 學主性理。入洛閩室。志存經世(モ)。長沙維匹。處事明斷。百折不屈。交人至誠。中外洞徹。其學其德。有本有末。

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副 島 一 郎 478

吾銘其墓。非諛是實。斯石可磨(ヤ)。斯銘不滅。

  校勘

 底本には『環碧樓遺稿』を用ゐ、自筆稿および、『韋軒遺稿』所收の﹁秋月子錫墓碑銘﹂と對校した。以下、特に

注記のないものは『韋軒遺稿』所收﹁秋月子錫墓碑銘﹂の異文である。

(ア)『韋軒遺稿』に﹁一歳﹂なし。

(イ)﹁余與子錫生同郷﹂(余と子錫と同郷に生まる)に作る。

(ウ)﹁號韋軒、稱悌次郎﹂に作る。

(エ)﹁其先出自葛原親王、裔孫千葉兼胤、第二子曰丸山重次、是爲中世祖。重次九世孫頼堅﹂(其先は葛原親王より

出で、裔孫は千葉兼胤、第二子を丸山重次と曰ふ、是れ中世の祖なり。重次の九世の孫は頼堅)に作る。

(オ)﹁保科土津公﹂に作る。

(カ)﹁相傳五世爲胤道、子錫其第二子、妣杉本氏、文政七年七月二日生﹂(相傳五世が胤道なり、子錫は其の第二子、

妣は杉本氏、文政七年七月二日に生る)に作る。

(キ)『韋軒遺稿』に﹁而﹂字なし。

(ク)﹁爲書生寮舍長﹂(書生寮舍長と爲る)に作る。

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479 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二) 「秋月子錫墓碑銘」

(个)﹁官版書﹂に作る。

(コ)﹁文詩﹂に作る。

(サ)﹁大有所得﹂(大に得るところ有り)に作る。

(シ)﹁既而以藩命﹂(既にして藩命を以て)に作る。

(ス)﹁使子錫先上京經畫諸事、後常參帷幄﹂(子錫をして先に京に上り諸事を經畫し、後常に帷幄に參ぜしむ)に作る。

(セ)﹁侍讀﹂の後に﹁又爲中川親王及二條關白顧問、頗得信任、所裨補不少﹂(また中川親王及び二條關白の顧問と

なりて頗る信任を得、裨補する所少なからず)の一文あり。

(ソ)﹁公﹂を﹁時藩主﹂に作る。

(タ)﹁尊皇攘夷之説﹂に作る。

(チ)﹁覷﹂に作る。

(ツ)『韋軒遺稿』に﹁子錫﹂なし。

(テ)﹁公以驚擾近畿爲己罪、託謝表於諸藩﹂(公は近畿を驚擾せしを以て己の罪と爲し、謝表を諸藩に託す)に作る。

(ト)﹁公與子錫相尋歸國、西師陸續逼會津、子錫參軍務﹂(公と子錫と相尋いで歸國す、西師陸續と會津に逼り、子

錫軍務に參す)に作る。

(ナ)﹁自此轉戰各地﹂の後に﹁及事急、子錫入城爲副軍事奉行、常侍公傍。既而米澤使來曰、西師實王師也。不可抗。

宜速乞降。公乃使子錫等抵米澤議之。子錫︿參畫尤力﹀﹂(事の急なるに及び、子錫入城して副軍事奉行と爲り、

常に公の傍に侍ふ。既にして米澤の使來りて曰く、西師は實は王師なり、抗ふ可からず、宜しく速に降らんこ

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副 島 一 郎 480

とを乞ふべしと。公は乃ち子錫等をして米澤に抵りて之を議せしむ。子錫︿參畫尤も力あり﹀)とあり。

(ニ)﹁萱野長脩為抗王師首謀﹂(萱野長脩︿を以て﹀王師に抗ふ首謀と爲し)に作る。

(ヌ)﹁幽青森縣﹂に作る。

(ネ)﹁無幾官廢、子錫歸會津﹂(幾くもなく官廢され、子錫會津に歸る)に作る。

(ノ)﹁無幾﹂(幾くもなく)に作る。

(ハ)﹁不可失此美風﹂(此の美風を失ふべからず)に作る。

(ヒ)﹁率先行勤儉﹂(率先して勤儉を行ふ)に作る。

(フ)﹁斐然﹂に作る。

(ヘ)﹁古稀壽筵﹂に作る。

(ホ)﹁子錫為人膽大氣壯接人温和﹂(子錫の人と為りは膽大にして氣は壯、人に接しては温和)に作る。

(マ)﹁嘗曰﹂(嘗に曰く)に作る。

(ミ)﹁足以知子錫本領矣﹂(以て子錫の本領を知るに足らん)に作る。

(ム)﹁而沒﹂に作る。

(メ)﹁子錫初養兄胤昌子胤浩為嗣。先沒。長男浩次曾遊米國十餘年、委身商業。次男胤逸爲陸軍少尉。子錫又養塚原

氏子胤繼、以女配之繼學業。胤繼卒大學之業。繼室丸山氏無子﹂(子錫 初め兄胤昌の子胤浩を養ひて嗣と爲す。

先に歿す。長男浩次曾て米國に遊ぶこと十餘年、身を商業に委ぬ。次男胤逸は陸軍少尉爲り。子錫又塚原氏の

子胤繼を養ひ、女を以て之に配し學業を繼がしむ。胤繼は大學の業を卒ふ。繼室丸山氏は子無し)に作る。ま

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481 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二) 「秋月子錫墓碑銘」

た自筆稿には﹁次男胤逸爲陸軍少尉﹂の後に﹁士官﹂とある。

(モ)﹁志在經世﹂(志は經世に在り)に作る。

(ヤ)﹁斯石雖朽﹂(斯の石は朽つれども)に作る。

 また『韋軒遺稿』では文末に﹁明治三十四年一月 高等師範學校教授從五位勳五等南摩綱紀撰﹂とある。

  秋月子錫墓碑銘

 ああ、余は子錫の墓碑銘を書くことを忍びえようか。子錫は余よりも一歳の年少であるから、子錫が余の銘を書く

べきであるのに余が却つて子錫の銘を書くことにならうとは。わが子錫を天はなぜかくもはやく奪ひたまうたのか。

さりながら、余と子錫とは同郷であつて、幼くしてはともに戲れ、長じてはともに學び、子錫を識ること、余に若く

者はない、となれば、銘を書く者は余をおいて誰がゐようか。

 子錫、諱は胤永(かずひさ)、子錫はその字であり、悌次郎と稱し、韋軒と號した①。姓は平であり、千葉氏の一

族である。後裔丸山賴堅(よりかた)が會津藩の藩祖・土津公(保科正之)に仕へ、子々孫々世襲したのである。父

の諱は胤道(たねみち)、母は杉本氏であり、子錫はその第二子であり、文政七年七月二日に生まれ②、故あつて秋

月氏を稱した。幼くして藩校日新館に學び、十九歳で江戸に出て松平慎齋を師とした③。慎齋曰く、學問の要諦は道

を知ることにあり、詞章訓詁にはないと④。子錫はそれから專ら經書に力をそゝいだ。弘化三年、大學頭林壯軒の門

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副 島 一 郎 482

に入り、昌平黌書生寮に學び、舍長となつた⑤。昌平黌を去るにあたり、官版の書籍五部を下賜された。子錫はかつ

て經義を金子霜山に⑥、國史令格を栗原又樂に⑦、詩文を藤森天山に學び⑧、それぞれ得るところがあつた。さうす

るうち、藩命によりて全國を歴遊し、政治・風俗を觀察して『觀光集』七卷を著し⑨、さらに『列藩名君賢臣事實』

十卷を撰し⑩、藩主の政治の參考に供した。

 文久二年、藩主松平容保忠誠公は京都守護職に任じられ、子錫に機密事項を管掌する參謀役を命じられ、ついで儒

者見習兼藩公侍讀とされた。當時、鎖國攘夷の議論が紛々として起り、外國艦船が大阪灣に侵入するとの風聞があつ

たため、朝廷は我が藩に海岸の巡視をお命じになり、ついで諸藩に砲臺を大阪灣に築くことをお命じになられたが、

子錫はそのすべてにたづさはつたのであつた。藩公の意は幕府を輔佐し、皇室を尊崇し、大義名分を明らかにするに

あつたのだが、幕府の政治は衰頽、綱紀はゆるんでゐた。諸藩士は尊皇攘夷の説を借りて、公家たちを煽動し、時勢

は甚だ困難なるものがあつた。子錫はその間に周旋して諸方への對應に苦勞し、その苦心の程ははかりしれず、刺客

に狙はれることも度々であつた⑪。

 慶應元年、子錫は蝦夷地の代官に轉出した⑫。妻を連れての赴任で、舎利(斜里)に移住し、そこで漁場を設け、

荒地を開墾した。居ること一年にして、藩命により京都に赴くこととなつた。時は嚴寒積雪の季節であり、そのため

肌は裂け指は落ちるほどで、すこし時期を遲らせてはどうかと言ふ人もあつたが、子錫は﹁事態は急だ。臣たるもの

安佚の日をおくつてゐられようか﹂と肯んじなかつた。十二月に旅立ち、つぶさに艱難辛苦を嘗め、明くる年の三月

に京都に到着、原職(公用方)に復歸した。それから間もなく、徳川慶喜公が大將軍の職を解かれて皇室は中興し、

守護職もまた廢されたのである。

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483 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二) 「秋月子錫墓碑銘」

 明治元年正月、伏見鳥羽の戰が起つた。東軍は敗れ、藩公はさきの大將軍に從つて東へと歸り、子錫もまた江戸に

戻つた。藩公は謝罪表を諸藩に託して朝廷に奉つらうとし、子錫が責任をもつてその表を草したのだが、上書は屆か

なかったのである。征討の軍隊は陸續と會津に逼り⑬、子錫は軍務を管掌し越後水原に赴いた。そこは藩領だつたの

である。それより各地を轉戰し、軍務の立案實行に誰よりも力を盡した⑭。戰亂がおさまると、東京の獄に繋がれ、

ついで熊本藩邸に幽閉せられた⑮。二年、朝廷の議論は、藩老萱野長修を首謀として死を賜ひ、子錫は從であるとし

て、終身禁錮とし、高須藩に預け、さうして名古屋藩預とし、さらに青森縣に移した。五年正月、特旨をもつて赦さ

れた。三月、左院少議生となり、ついで五等議官となり、正七位に敍せられ、太政官七等に遷つて出仕した⑯。官が

廢されるにおよび、會津に歸り、田畑を買ひ、桑茶を栽ゑ、老母に孝養し生計を立てる基礎を築いた。十一年、母堂

の八十八の年、盛大に長壽を祝ふ宴會を開いたのだつた。越えて二年、母堂が歿せられた。喪が明けると東京に出て

塾を開いて教へた。それから間もなく教導職に補せられ、中教正、東京大學教諭、第一高等中學教諭を歴任し、第五

高等中學教授に轉出し、從六位に敍せれ、三等官に昇進した⑰。子錫が熊本に至るや、北白川宮能久親王のお召しに

よつて經書を講義した⑱。かつ土地の風俗が純朴であるのを賞贊して、この美風を失はせてはならないと口癖のやう

に言つてゐた。そこで勤勞儉約を率先垂範したので、生徒たちはたちまち子錫を手本とした。熊本に居る間、子錫の

古稀を祝ふ宴席が設けられたが、參會者は五百餘人にのぼつた。それを見てもいかに周圍の人々から敬慕されてゐた

かがわからう。二十八年、職を辭して會津に歸り、庭作りなどして優遊と世間とは沒交渉となつた。三十年正六位に

進められ、三十二年に東京に移り、十二月遽かに病を得て、翌年一月四日、特旨により從五位に進められたが、翌日

ついに不歸の人となつた。壽七十七。青山の墓地に葬られた。

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副 島 一 郎 484

 子錫の人となりは、體格は小さかつたが、膽力氣力ともに大きく盛んなものがあり、人に對する態度は温和で、人

徳が光り輝いて詩文にも溢れてゐた。常日ごろから勉學熱心で、昌平黌にあつては、夜ともなれば燭を點して勉學を

續け、終夜一人努力し、ときに文机によりかかつて假眠をとり、目がさめればまた書を讀み續け、子錫が枕をして寢

てゐるのを見た人がゐないほどであつた。子錫は程朱の學を深く信じ、最も經世の實務に長じた。文章や詩歌のごと

きはその餘業であつたのであるが、その詩文もまたしばしば人を感動させるに足るものがあつた。事の處理は果斷で、

難局に當つても平然として躊躇する樣子がなかつた。﹁經世の術(政治の方法)は、これを性命の微(自然の理法)

にもとめ、性命の微は必ずこれを治國の用から出發しなければならない。さすれば學問は理屈に陷らず、政治は霸術

に墮さない。﹂といふのがその持論であつた⑲。この數語は、その本領を知るに足るものだらう。遠藤氏を娶り、二

男一女をまうけたが、夫人は先に亡くなつてしまつた。長男浩次(こうじ)が家を繼ぎ、浩次はアメリカに留學し、

工業を學ぶこと十餘年、歸國してその事業を開いた。次男胤逸(かずとし)は陸軍少尉となつた。娘は胤繼(かずつ

ぐ)に嫁したが⑳、胤繼ははじめ子錫が扶養した者で、大學を卒業した。後妻丸山氏に子どもがなく、子錫は初め兄

の胤昌(かずまさ)の子の胤浩(かずひろ)を後嗣としたが、それも先に亡くなつてしまつた。銘に曰く、

 學は性理の朱子學を主とし、洛(程頤・程顥)・閩(朱熹)を深く理解した。志は經世にあり、その才は長沙王太

傅賈誼に匹敵した。事を處しては明斷、意志堅強でどんなに挫折しても屈することがなかつた。人に交つては至誠で

あり、すぐれた洞察力の持ち主だつた。その學もその徳も、根本があり發展があつた。余はその墓に銘するが、諛に

は非ずしてすべて眞實である。この石は磨滅することがあらうとも、この銘は不滅である。

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485 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二) 「秋月子錫墓碑銘」

注釋① 熊本第五高等學校における韋軒の教へ子廣江萬次郎の﹁故秋月胤永先生を偲ぶ﹂によると、﹁聞く所によれば先生少時性急なり

しかば鞣皮を懷中に入れおき憤怒の情緒の起るときは手を觸れて怒を鎭められたと云ふ﹂(『秋月先生記念』)。これは西門豹の故

事﹁西文豹之性急、故故佩韋以緩己﹂(『韓非子』)に倣ふもので、これが韋軒の號の由來である。その性格が﹁嚴急﹂であつたと

は、親友南摩羽峯の評でもある(羽峯﹁韋軒遺稿序﹂)。

② 秋月一江編『秋月悌次郎傳』收録の家系圖(丸山家傳承系圖より作成)によれば、賴堅は丸山氏祖から第十代、會津保科氏に

仕へるやうになつた胤頼からは第二代に當る。また譯文に示した人名の讀み方はこの『秋月悌次郎傳』に從つた。

③ 松平慎齋は事蹟不詳。韋軒が自身の學歴を記した﹁學業﹂(『秋月先生記念』四頁~六頁)によると、幕府教授所(麹町教授所:

麹溪精舍)附の儒官松平謹次郎のことである。『韋軒遺稿』卷二には﹁祭慎齋松平先生文﹂がある。この祭文は明治十五年の執筆

にかかり、﹁年未滿六旬而沒﹂とあるから、慎齋は江戸文政年間の初め頃の生まれと思はれる。これによれば藤田東湖、佐久間象

山、古賀侗庵、佐藤一齋、安積艮齋、金子霜山、西川樂齋、櫻田欽齋らと師弟もしくは交友關係があつた。そのような關係を見

ても、祭文に﹁學正行方、以道自任﹂とある所を見ても、正統朱子學を修めた學者であつたと考へられる。再び﹁學業﹂によるに、

﹁我カ見ル所ヲ以テスルニ天保弘化嘉永安政ノ間ニ於テ經義ニ通明熟達シ我國ニ於テ師儒ト稱シテ恥サルモノ江戸ニ佐藤捨藏ア

リ安藝ニ金子徳之助アリ仙臺ニ櫻田秀助アリ我カ會津ノ安倍井辨之助ヲ算セテ四人トス吾ソノ三人ニ直接ノ教ヲ受クルコトヲ得

櫻田氏ノ如キハ親炙スルコトヲ得スト雖モソノ著書ヲ見又門人ニ交ハリ益ヲ得ル少ナカラストス然シテ品行方正ニシテ嚴肅ナル

ハ我カ松平謹次郎氏ニ如クハ無カルヘシ﹂とある。

(15)

副 島 一 郎 486

④ 五高の同僚であつた笠間益三の﹁秋月先生略傳﹂(『鎭西餘響』、また後に『秋月先生記念』に再録)には﹁謹次郎告先生曰爲學

之要在知道﹂とある。松平慎齋は有名な儒者とは言へないが、學問のみならず人格的に韋軒に與へた影響は少なからぬものがあっ

た。『韋軒遺稿』の最後に附された二人の子息の後書には﹁先君之學主經術、不在詩文﹂とあり、羽峯の執筆した﹁韋軒遺稿序﹂

にも﹁韋軒説經固守程朱﹂或は﹁文詩非其所長﹂云々とある。確かに『韋軒遺稿』に收められた彼の漢詩文はさほど多い譯では

ない。しかし、その作品は學を誇つたり奇を衒ふやうな措辭がなく、論理も極めて明晰である。しかも行間からは韋軒の實直で

剛毅な人格、情愛にあふれた暖い人柄が自づと匂ひたつてくるやうだ。羽峯の韋軒の詩文に對する評價も﹁其文詩皆發肺肝、故

能動人。非絺字繍句者所敢企及。其所不長者猶如此、則其所主之學邃、可以知也﹂(﹁韋軒遺稿序﹂)である。專門儒者・文人では

ないながら、學問・人柄がそのまま滲みでた詩文を書いた人で、それが時に人の心を打つ名作にもなつたと思はれる。

⑤ ﹁學業﹂によれば、弘化三年、韋軒は初め古賀小太郎(侗庵)に入門してゐる。﹁コレ幕府儒員ノ内ニ於テ主師ナケレハ入寮(昌

平坂學問所書生寮)ヲ許サゝルヲ以テナリ﹂といふ理由であつた。ところが翌年侗庵は亡くなつてしまつたので、林祭酒(林家

の當主)の門に入ることになつた。即ち第十代林壯軒(名は健、字は寧卿)である。ただし、當時の學問所は基本的には自學自

習で、その他には學生同士による會讀研究會の切磋琢磨が主であり、現在の大學のやうに指導教授の講義學説をおし頂くわけで

はない。教官の講義は月に一囘ほどで、それすらきちんと毎囘行はれたわけではないらしい。それからすると﹁入林祭酒之門﹂

といふのは、眞に入寮の便宜のためなのであつた。﹁學業﹂には﹁在寮ノ間學問所附ノ儒官佐藤捨藏ニ經義ノ益ヲ受ク前後仝時ニ

在寮ノ者枝吉經種(肥前佐賀)吉本懋(讚岐高松)菅野潔(播磨姫路)片山達(高松)小笠原勝修(會津)南摩綱紀(仝上)三

浦五助(後安ト改ム伊豫西條)重野安繹(薩摩)原市之進(水戸)寄宿寮中ニ中村敬輔(江戸)等アリ是皆各ソノ所長アリ同學

切磋ノ友ニシテ益ヲ得ルコト多シ﹂とある。

(16)

487 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二) 「秋月子錫墓碑銘」

なほ『秋月悌次郎傳』によると、韋軒は漢學の修行ばかりしてゐたわけではない。安政四年から六年にかけて華岡青州系の人に洋

醫學を學んだことがあるらしい(七頁~九頁)。

⑥ 金子霜山(一七八八~一八六五)は安藝廣島藩の藩儒。名は濟民、字は伯成、徳之助と稱し、霜山、又勉盧と號した。人と爲

り嚴正、勵精道學を以て自ら任じたといふ。著述に『四書擇言』二六卷等がある。﹁學業﹂に﹁爾後徳之助ニ經義ヲ受クルコト十

餘年ノ久シキニ至ル⋮⋮前後總計スルニ金子氏ニ益ヲ受クルコト尤モ多シトス徳之助ハ亦新註ヲ奉スル者ニシテ蓋シ近古ニ得難

キ經學者トス﹂とある。

⑦ 栗原又樂(一七九四~一八七〇)、幼名は陽太郎、通称孫之丞、字伯任、號は柳葊。又樂は別號である。漢學を柴野栗山、故實

を伊勢某(貞丈の子)、國學を屋代弘賢、また平田篤胤に學ぶ。博覽強記をもつて知られた。屋代弘賢の下で『古今要覽』の編纂

に從事し、特に武具、馬具、古器物の實地調査研究に精勵した。後にその蓄積をもとにした武具・馬具についての著作は幕末に

武士の必須の教養書として歡迎された。﹁學業﹂には﹁校外得益ノ者幕士栗原孫之亟(ママ)ニ就キ寮友ト共ニ令義解職原杪(マ

マ)等ヲ講習ス又國史ノ疑義ヲ問フテ益アリ﹂とある。

⑧ 藤森天山(一七九八~一八六二)、名は大雅、字は淳風、恭助と稱し、號は弘庵。天山はその別號である。古賀穀堂、侗庵らに

學んだ。嘉永六年、ペリー來航に際して、天山は憤激して『海防備論』二卷を著し、『芻言』五卷を水戸烈公に上つた。﹁學業﹂

には﹁校外得益ノ者⋮⋮藤森恭助(江戸ノ處士)ニ詩文ノ教ヲ受ケ﹂とある。

⑨ 『觀光集』は現在、新村出記念財団重山文庫に巻一(山城・攝津・肥前・和泉・大和・駿河)巻二(相模・駿河・遠江・参河・

尾張・伊勢)巻七(薩摩・琉球 終り四分の一ほどは別内容)の寫本が殘つてゐる。別に盛岡市中央公民館に秋月胤永編『観察

窺班』なる書物の卷一から卷三までが所藏されてゐるが未見。『觀光集』と同一書かどうか未確認。

(17)

副 島 一 郎 488

⑩ 『列藩名君賢臣事實』は韋軒の著作と傳へられてゐるが、傳存は確認できてゐない。

また韋軒の明治以後の著作としては、講義をまとめた『經史詩文講義筆記』(鳳文館講義科編)、『勅語演説』(『秋月先生記念』に

收録)があり、編緝した書物に『日本談義』(日本談義社)(未見)がある。

⑪ 『韋軒遺稿』中の﹁刀史・枕城刀﹂にこの經緯を自ら記してゐる。長州の山田顯義、國司仙吉らは韋軒と薩摩の高崎佐太郎を暗

殺せんとつけねらつてゐたが、果せなかつた。十餘年後、この二人とはおもひがけない出會ひをし、かつて命を狙はれてゐたこ

とを初めて知つたといふ。言ふまでもなく會薩同盟のために長州に憎まれたからである。羽峯はなぜか具體的な理由に言及して

ゐない。

⑫ 韋軒が蝦夷地に轉出となつたのは言ふまでもなく左遷であつた。この墓碑銘の中で、突如この左遷に轉ずるのも書き方として

少々不審である。當時、羽峯も蝦夷地にあり、韋軒と共に困苦を經驗してゐるのだから、左遷の理由を知らぬはずもないのだが、

羽峯はその理由について全く觸れるところがない。或はよほどの差し障りがあつたのだらうか。

 韋軒が蝦夷地に左遷された原因は、星亮一『京都守護職と會津藩 松平容保とその時代』(歴史春秋社、昭和五十九年︿一九八四﹀)

一七一頁~一七四頁、および同『幕末の會津藩』(中央公論社、平成十三年︿二〇〇一﹀)九一頁~九三頁によれば、會薩同盟で

名をあげた韋軒に對する藩内のやつかみ、主君容保と家老横山主税の病氣による藩内權力關係の變化、一橋慶喜の意向、政局を

めぐる幕府・會津對薩摩・越前・土佐などの爭ひなどが複雜に關係したためらしい。星亮一氏は韋軒左遷の影響を次のやうに論

じてゐる。﹁薩摩はこの時期、會津と友好關係にあり、西郷吉之助(隆盛)が倒閣を表しはじめたときだけに薩摩に通じる悌次郎

の失脚は惜しまれた。悌次郎の左遷は外交力を半減させるものであり、會津は、情勢分析に著しい支障を來すことになる。﹂(『京

都守護職と會津藩 松平容保とその時代』一七四頁)﹁これが後に重大なことに發展する。薩摩とのパイプが切れ、薩長同盟進行

(18)

489 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二) 「秋月子錫墓碑銘」

の情報が入らず、會津藩は長州に加へて薩摩をも敵に囘し、敗北の道を歩むからである。﹂(九三頁)この星氏の推測は、明治維

新後に韋軒が再び官途に就き始めたとき、薩摩の高崎五六や高崎佐太郎正風などが韋軒を推輓してゐるのを見るならば(注⑯、

⑱を參照)、恐らくは肯綮に當つてゐると考へられよう。

⑬ 松平容保が諸藩に託し朝廷に奉らうとしたのは、所謂﹁會津嘆願書﹂と呼ばれるもので、本文に﹁子錫專與其事﹂とある通り

草案を作成したのは韋軒である。會津嘆願書は情理兼ね具へた達意の名文で、秋月調であると稱されたといふ(『秋月悌次郎傳』

二七頁)。この嘆願書は奥羽鎮撫総督府下参謀世良修藏(長州)の妨碍のため上聞に達することができなかつた。世良は仙臺藩の

憎しみを買ひ、誅戮されてゐる。

⑭ 水原は現在の新潟縣北蒲原郡水原(すいばら)町・水原村。近世を通じての交通の要であり、江戸中期には代官所が置かれた。

會津はここに西軍を迎へ撃つための本營を置いたのである。

 轉戰の經緯は﹁秋月先生略傳﹂が詳しい。長岡藩の河井繼之助に奧羽列藩同盟への參加を促し、また五月には長岡城攻防戰に

參畫。そして越後方面の戰況をつぶさに見た韋軒は會津に戻り防備に努めざるをえない旨を奏上してゐる。

⑮ この間のことは韋軒自身の記した﹁應徴日札﹂に詳しい。

⑯ ﹁刀史・友于刀﹂によると、赦免後、最初に就いた職は若松縣副教授であつた。これは友人岡部綱紀が韋軒に老母のゐることを

案じての推擧による。左院少議生となつたきつかけは藩主松平容保の恩赦の祝に東京に出た際にたまたま左院から呼出されたの

だといふ。

 左院は立法府にあたるもので、各種法律の起草を擔當した。左院は間もなく廢止となり、韋軒は太政官輔佐(七等)として内

務課に勤務を命じられる。その時の課長が薩摩出身の高崎五六(いつむ)で、太政官の改革で内財務課が廢止されると、高崎は

(19)

副 島 一 郎 490

岡山縣令に轉出し、韋軒を參事としようとした。ところが韋軒は老母に孝養を盡したいとて會津に歸ることを決意したといふ(﹁秋

月先生略傳﹂)。

⑰ 實は韋軒は明治二二年に老齡の故を以て第一高等中學校教諭を辭職してゐる。なほかつ東京でかなりの高給で教員生活を送つ

てゐた韋軒が、自分の郷里でもない地方の教員になつてゐる。それは夏目漱石の經歴などを考へ合せるまでもなく、特異な經歴

であると言へる。いろいろな理由があつたが、主には五高校長の平山太郎の熱心な慫慂があり、教頭の櫻井房記が自ら足を運ん

で強く懇請したからであるといふ(﹁秋月先生略傳﹂)。また戊辰戰爭後、韋軒が熊本藩邸にお預けとなつてゐた際、表向きは嚴重

に、しかし裏では大變温遇してくれたので恩返しのつもりで赴任したのであるとも言ふ(『秋月悌次郎詩碑建立記念誌』六三頁)。

⑱ 能久親王(一八四七~一八九五)は北白川宮第二代。伏見宮邦家親王の第九王子。即ち幕末の輪王寺宮である。上野の東叡山

寛永寺に入つてゐた輪王寺宮は慶應四年、東征大總督有栖川宮熾仁親王に會見して東征中止を求めるなど難局打開に盡力した。

彰義隊の變の後は擁せられて寛永寺を脱出し、奧羽列藩同盟の盟主と仰がれた。その宮樣に經書を講ずることになつたのである

から、單なる名譽以外の感激もあつたことだと思はれる。

 また親王に韋軒を推擧したのは、副官として隨從してゐた高崎正風であつた。正風は即ち文久三年の會薩同盟を韋軒と共に實

現した薩摩藩士高崎佐太郎である。高崎は韋軒を自宅に尋ね、二人は三十餘年ぶりに腹藏なく一夜を飮み明した。翌日韋軒は學

生たちを前に事情を話し、下調べができなかつたので休講にすると謝つてゐる。韋軒の熊本時代のエピソードとして諸書に引か

れてゐる。

⑲ ﹁常曰經世之術必原諸性命之微。性命之微必發諸治國之用。則學不陷于理窟。治不流于霸術﹂の語は『韋軒遺稿』の作品中には

見えないが、ほぼ完全に同じ文が門人・西村豐の『韋軒遺稿』跋文に見えてをり、それに續けて﹁嗚呼、是一語可以知先生與尋

(20)

491 南摩綱紀『環碧樓遺稿』散文之部譯注(二) 「秋月子錫墓碑銘」

常儒流異矣。﹂とあるから、韋軒の學の根柢を述べたものと見てよい。

 ﹁性命之微﹂の語は朱熹﹁袁州州學三先生祠記﹂に次のやうに見えて居る。

 濂溪周公先生奮乎百世之下、乃始深探聖賢之奥䟽、觀造化之原、而獨心得之、立象著書、闡發幽祕、詞義雖約而天人性命之微、

脩巳治人之要、莫不畢舉。河南兩程先生旣親見之而得其傳。

⑳ 胤繼はもともと韋軒の塾生であつた。本の名を塚原六助といふ。韋軒は自分の息子があまり文武に向かないので、六助を見込

んで養子とし、自分の學問の後繼者としたもの(﹁刀史・記念刀﹂)。『韋軒遺稿』を編緝發行したのも胤繼氏である。氏は期待に

應へ、『近思録』(岩波文庫)、『論語義解』『朱子研究』『陸王研究』『元明時代の儒教』などの著書がある。

附記 本譯注は科學研究費補助金による特定領域研究﹁東アジアの海域交流と日本傳統文化の形成―寧波を焦點とする學際的創生﹂

(課題番號17083024)古典文學班(研究課題名﹁日本における中國古典文學の傳播とその展開に關する研究﹂、研究代表者:

九州大學大學院人文科學研究院・准教授靜永健)の成果の一部である。

(21)

副 島 一 郎 492

Translation and Notes of “Akizuki Shishaku Bohimei (The Epitaph for Akizuki Shishaku)” (from Namma Tsunanori “Kampekiro Iko” vol.5)

Ichiro S

OEJIMA Keywords : Sinology, Meiji period, Namma Tsunanori, Akizuki Teijiro

参照

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