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幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質

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著者 高橋 克弥

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 44

ページ 79‑96

発行年 1992‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011115

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嘉永六年六月(’八五三)のペリー艦隊の来航は、長い鎖国の中で大平の続いた幕藩体制の政治・経済・社会・文化に根底から揺さぶりを掛けたが、軍事体制も例外ではなかった。幕藩体制における軍事とは、幕府が軍事上で最優位を保持し幕府統治を永続することであり、このため幕府が傾注する軍事的な支配統制とは、どこまでも対藩政策であり、各大名を視野にした国内対策であって、外国との関係は長崎の出島や唐人屋敷の様に、幕府だけの接触であり、鎖国の強化とは対国内的な処理であって、外敵を排除する強力な軍事力の配備など考える事はなかった。 はじめに

幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質(高橋)

幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質

寛政の頃、工藤平助の「赤蝦夷風説考」や林子平の「海国兵談」の海防論が、幕府政治を誹誇するものと処罰される程、明確な海防論など幕府は持ち合せていなかったのである。それが二十年後の文化三年(一八○六)、露艦による千鳥・樺太など北辺の暴行掠奪事件や長崎港での英艦フェートン号の暴行事件が相つぐに及び、俄かに外敵排除の軍事力保有が問題となってきた。千島・樺太・蝦夷地へは東北諸藩から出兵警固させ、長崎では港内警備を厳しくして砲台を増しても、火砲の性能の低劣さは無力に等しく、全国的な海防も大艦建造禁止により、幕府諸藩共に軍艦も海軍も存在せず、劣勢は自明の事であった。

高橋克弥

七九

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、ヘリーの来航で、彼我の軍事力の差違、船舶・火力の性能の較差の大きさから、東京湾すら守る術なく、江戸が無防備に等しい事を知らされ、幕府は改めて新軍事体制の編成に努める事になった。米国に続き列強も加わった開港を求める外交圧力に、国内は鎖国擬夷論と開国妥協論に対立して争ったが、両者共に海軍力の無さを痛感したのである。嘉永六年(一八五一一一)のペリー艦隊との交渉では江戸沖に進入し威嚇され、強力な武力での桐喝に、無条件譲歩しかない苦い交渉を、幕閣当事者達は嫌という程味わい、国防上海軍の創設こそ至上の命題となったのである。同年九月、大船建造禁止令を廃止し、軍艦や洋式船の建造、船舶の大型化が求められると、幕府・諸藩共に積極的に造艦と積載砲・野砲などの製造のため、幕藩営軍事工業を生永出さねばならなかった。しかも封建社会という閉塞された社会の制約と歴史的諸条件の拘束のもとで、産業革命の最先端に位置する重工業への取組みである。鉱山の経営、鉄の製錬・製鋼及び加工業を成立させなければならない。大砲の鋳造と洋式軍艦・外洋船舶の建造には、多量の鉄鋼と同質融解施設が必要であり、にわかに反射炉と熔鉱炉の築造が進められた事は周 法政史学第四十四号

知の通りである。しかし幕府諸藩とも、情報収集の不確かさからの基礎的技術の欠陥に加えて、尼大な費用に耐えられない財政のひ弱さが事業を制約する一方で、幕末の激烈な政争に捲き込(1)まれて事業の阻止も当然生じたのである。本稿では、幕末仙台藩における安政期の藩政改革の眼目とされた藩軍事力の強化を目指した造船・鋳砲・製錬・製鋼の動きに触れ、それが政争の中で政策変更の形で阻止ざれ変質した経過と、単に殖産興業策の挫折だけでなく、仙台藩の政治的展開の去就に大きく関わりのあった事を、藩政の動きの中で戊辰の敗戦まで追求を試みたものである。

仙台藩における藩軍事力の強化は、安政期の藩政改革の

旗印として進められた。改革の推進役であり具体的な立案 の中心者は、藩校養賢堂学頭大槻平治(習齋)であり、藩 政執行の責任者は藩奉行の芝多民部であった。

ペリーの来航と大船建造禁止が解除された一一年後の安政一一年四月、仙台藩は幕府より蝦夷地の内、白老より知床までと勇払・根室・国後・捉択の警固を命ぜられたが、同じ月、藩の軍備一新を期する職制改革をすすめるため、芝多 八○

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民部が首席奉行に起用され、養賢堂学頭大槻習齋を大銃及び軍艦製造用係とした。これは仙台藩の軍事力強化が、蝦(2)夷地警固と連動した策であったとい鱈えるのである。しかし、当時幕府を始め佐賀・薩摩・韮山・水戸・松江等で反射炉・熔鉱炉建設に取組み、一定の成果をあげつつあり、仙台藩の動きがかなり遅れているものではあった。さて、仙台藩の造艦・鋳砲事業はどう進められたであろうか。今それを若干の記録から類推するしかないが、安政三年六月(一八五六)姫路藩儒者で尊王櫻夷論を持って奥羽蝦夷地の海防を講究した菅野白華が、仙台藩の練兵場である杉山台で「近日藩侯大開鋳砲局千場隅鋳洋砲迦臼忽諸(3)(4)砲、既成而駕機車者二十余座、未成者十余座観」とあり、この一年間に機構も整えられ、事業が進んでいた事がわかる。もっとも安政四年頃までは全国的に銅鋳砲であったか(5)ら、これらは当然銅砲かと思われる。白華が一一一月江戸を出発した日は、仙台藩陪臣小野寺鳳谷が、江戸の三浦乾也を連れて仙台に向う日であった。乾也は仙台藩より洋式船の建造を頼まれており、この年の八月(6)末、松島湾中の寒風沢港に笙逗艦工場を設け、スクーナー型の洋式船建造に着工したのである。

幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質(高橋) 鋳砲の量産、船舶の建造に取り組めば、銅鋳でも大量の溶解が必要であり、反射炉建造の動きがあっても時期的に不思議はない。大槻習齋等が大銃及び軍艦製造の計画を進めた時、その中に反射炉と熔鉱炉の建造が含まれている方が妥当であ(7)る。この時期、仙台藩側から「大船塗垣立」のため、釜石鉄山の洋式高炉で生産された「南部柔鉄所望有之」の事があったが、南部藩では「水戸表へ指出候上ならては、外へは(8)相廻兼候との事に御座侯」と拒否しており、尚更反射炉と自前の熔鉱炉建造を急いだと考えるべきである。しかし、この時期に仙台藩が反射炉を築造した記録は全くない。熔鉱炉は文久年間あたりから藩領北部の数ヶ所に(9)築珪垣され稼働したのは事実であるが、開始の時期は不明であり、安政年間まで上げるのは無理である。大槻習齋が養賢堂学頭となり、洋砲鋳造と造艦方の時こそ、洋式製錬・製鋼施設の建造計画が動いた時であるが、今それらの事実が不明であるのは、まだ関係記録や施設跡が発見されないか、又は、何らかの理由で建造計画が挫折し消滅したかであるが、後者の計画挫折こそ、仙台藩の洋式製錬・製鋼事業を挫折させる歴史であったと考えられる。

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藩軍事力の増強を柱とする安政期藩政改革を推進した主要人物は、藩奉行の芝多民部が最高責任者であり、養賢堂学頭大槻習齋が企画・立案の責任を取り、その下で秀れた情報収集力と全国に広がりのある人脈を生かし、諸案の進行に馳け廻ったのが、養賢堂兵学主任であったといわれる小野寺鳳谷に尽きるであろう。芝多民部、家格は着坐二番坐、二千石、所拝領、四代続いて執政(藩奉行職)を務めた名門である。祖父信憲は奉行職の時、多額の私金を養賢堂に投じて書庫・寮の増築と蔵書数千巻の献本など、藩人材の育成につとめ、養賢堂に初めて学頭職を設置した。父常煕は、文化五年幕命による仙台藩の蝦夷地出兵に際し、軍役忌避者に代って若年ながら大番頭となり、二千有余の出兵軍の総主立となって、箱館・国後・択捉警固の大役を果しており、それが子民部の藩軍事力強化のための藩政改革となったと思われ、それぞれ実績のある仕事をしているが、それだけに旧弊姑息の傾向が強い藩内では、出る釘は打たれるように内に含む人々(Ⅲ)も多かったと思われる。民部(常則)は「深枕大度機略に富永、末節に拘泥せず、人となり頴敏無前、事毎に機先を制し、機微を察して大謄に措画するの手腕に至っては、当時の老臣中能く拮抗 法政史学第四十四号八二

(u)する者なし」とあり、藩主慶邦の期待大姜」く、大番頭・参政(若年寄)を経て執政となった人である。大槻習齋、大槻家は藩内西磐井郡代女の大肝入であり、同系他家から大槻玄沢・磐溪父子が出ている。父平泉は昌平髪で学び舎長を務めた。藩校養賢堂の拡張と学制の刷新を図り、藩内の荒蕪地を起して一万三千石の学田を得、藩校の基盤を築き、学頭となり四十年その任にあった。習齋も昌平醤に学び古賀個庵に師事し、養賢堂学頭を襲いだが、新たに小学校を設けて門閥子弟の講学所とする一方で、日講所を設けて一般にも学問を開放した。特に西洋学問所を開いて音楽・露語・鋳砲・造艦・操銃術を加えている。小野寺鳳谷は茂庭家(家格は一族一万二千石)の家臣であり、書画・詩文に秀れ、その著作は判明する屯の二十四(、)ある。生地は藩内有数の米作地域であるが、河川に挟まれた品井沼干拓地は、洪水と治水の戦いが今も課題の地域であり、堤防工事等で若くから苦労した事が、政治や社会に視野を向けさせたのであろうか。早くから諸国見聞を志し、藩命による探索も兼ねた数度の各地方遊歴は、北は蝦夷地から南は九州にまで及んでいる。鳳谷の遊歴は、中央・地方に持つ広い人脈から知友への

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紹介状を携えての旅であり、田辺藩士牛窪茂太郎(舞鶴市)から友人への書状に、「善画長詩文善談善飲頗愉快之人」とある如く、行く所に知己をつくる旅であった。鳳谷の見聞の確かさは、道中の馬子の世間話からも、その地の藩政・民情・世俗を知るという風で、他の人々の政治向き中心とは違う出色の面を持っていた。後に洋式船開成丸建造に際し、造船技術者として江戸の三浦乾也を迎えたのも鳳谷の人脈と人柄と労を嫌わぬ行動力のなせるものであった。一見順調に見えた芝多と大槻を軸とした、洋式技術導入による強力な藩軍事力の創設を目指す藩政改革の動きも、万延元年四月、奉行芝多の失脚により漬えてしまった。その内容は「御国家御立行之義精々吟味不仕不叶(略)御繰合向御非常四民危急之場、思召一一不應表一裏我侭之勤方も有之、都而重職之任を失し候而己ならず身持不慎内事如(、)何之所行も相間得(略)隠居被仰付一生逼塞被仰付(略)」てあったが、要は軍拡という新規仕法を進めるに当たり、群議を排し独断専行であり、青年血気の徒は共鳴したが、旧典を粗末にするとて老成保守の者が反対し、一方、歴大な費用支出から領内通用の金券発行(改正手形)は、物価を高騰させて民間に怨瑳の声が高まり、御政道を危くする

幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質(高橋) ものであるとしている。仙台藩本領六十二万四千石、中世以来の遺制の強い家臣団への恩給を土台とする藩制度であるため、極めて厳しい家格と格式が藩末まで崩れる享なく続いた。その内容を簡単に記すと、伊達氏の家臣団は大きく門閥・平士・組士・卒の四つに分けられ、組士以上は士分であるが、卒は一般に士分と糸なされず凡下と呼ばれた。門閥は上層家臣団であって、伊達氏との親縁・家柄・由緒・功労により上から一門・一家・準一家・一族・宿老・着坐・大刀上・召出の八等に区分され、それに応じて所領も「城」、城に準じた「要害」、領内に町場を持てる「所」拝領と、農村に住む「在所」の違いがあった。伊達氏軍事力の主力となる騎馬軍団をつくるのが大番士であり、百石以上を平士といい、「伊達世臣家譜」に記載されるが、百石以下の組士は載らない。さらに、卒・職人は家臣団の最下級層であり凡下と呼ばれた。この他に各家臣の家中を陪臣と呼び、その数は三万四千余であった。この枠付けは藩祖政宗以来、厳然として幕末まで続き、穰夷・開国・尊王・佐幕と藩内で諸論沸騰するたびに、門閥間で確執と陰湿な藩政の主導権争いが仕組まれた。

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旧守派にとり奉行芝多は着坐格ながら、佐渡・兵庫・民 部と三代続いて奉行職に入り、それぞれ進取な政策推進や 大役を勤める鮮やかさが目障りであったはずである。上層 旧守派が、一門涌谷伊達家の孫、宿老但木土佐を立てて藩 政主導権の奪取を図ったのもうなずける事であった。

こうした政争の根底に、軍事力の強化と兵制の根本的改

編により、兵務の変質をせまられる中下級平士層に動揺が

あったとみてよい。即ち弓槍刀の戦いから彼我の火力の強弱が問題となり、強力な火砲主体の洋式軍隊の創設が求められると、従来、銃砲の技術が「足軽」下士層のものとされていた事から、事態が進めば凡下。陪臣など最下級層の台頭をうながし、洋式訓練を通して新知識と視野を広め

て、藩政への発言を強めたり兵器開発への志向は当然であ り、下からのエネルギーの湧き出る形勢となる。又、火砲 量産のため製錬・製鋼・武器製造の軍需工業を興すことが 連動して藩の最重要政治課題となってくる。銃砲技術と近 代的産業の開発を目指す藩の動きは、足軽など最下士層の

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知識で進展するのが先進藩の常であり、仙(ロ藩にも同じ動

きがあった。

文化五年の蝦夷地・千島警固の軍役、安政頃からの各地 方の探索には、下級の士や凡下・陪臣達が積極的に藩外で

法政史学第四十四号見聞を広め、時流に明敏であった。この頂点に陪臣小野寺

鳳谷がいた。彼の情報収集力は、長崎大浦での外人居住に

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よる地一兀の問題から樺太での侵入ロシア丘〈の数、棉の種子 と栽培法の取り寄せなど、実に広範適確なものであった。

しかし、菅野白華は、洋船開成丸竣工の行賞に際し、

「藩侯観新造軍艦千寒風沢峨、習斎及諸有司等賞賜有差

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鳳谷亦與鳥一二浦乾也倍稟月俸」と呆れている。

鋳砲・造艦や製錬・製鋼には各種の技術者が主役とな

る。石巻の藩営鋳銭場の技工や藩領北部の鉄山業者も加わ ると、奉行芝多の進める改革は、城下仙台居住の下士に は、下級職人や在郷の突出であり、それが府城仙台の頭越 しで進む観となり、このため仙台居住(定仙)の百石前後 の下士層に、下剋上への危機感を抱かしめ、改革への反発 が生じても不思議ではない。何事によらず保守自重を第一 とする門閥上層と共に、赤字放漫財政と物価高騰による民

衆怨瑳を理由に、芝多解任の失脚劇を演出したのでなかろうか。次の奉行但木土佐の中心ブレーンとなって藩終焉ま

で活躍する玉虫左太夫・大童信大夫・松倉恂・若生文十郎

は、こうした下士層の者達であったからである。

当時、芝多の軍拡政策は始まったばかりであり、開成丸 の建造ぐらいで、計画はあっても反射炉も鉄製鋳砲屯始ま

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っていないと思われる。養賢堂は一万三千石の学田米を持っており、鋳砲・造艦により尼大な赤字を生永、民衆怨瑳の悪性インフレを起したとするのは疑問である。まして「身持不慎内事如何之諸行も相間得」となると風聞であり、処分そのものの暖昧さを示し兼ねない。洋船開成丸の進水した翌安政五年六月(一八五八)、日米修好通商条約が結ばれ、横浜など一一一港で一ドルⅡ三分(|分銀三枚)の為替レートによる貿易が始まったのである。一ドルⅡ三分の為替レートは、領事ハリスの強引な交渉で決まったが、この結果、日本は悲劇的な情況を受ける事になった。今ごく単純に説明すると、当時国際間での通貨の交換は、「同種同量交換」が通念であり、一ドル(メキシコドル銀貨)約一一十七グラムなので、一分銀三枚の重量(一枚約八・六グラム)約二十六グラムとほぼ同じとした。ただ、日本の通貨制度は四進法なので、一分銀四枚は小判壱両(金貨)に当たり、これでゆくとメキシコドル四枚で、一分銀十二枚か小判一一一両と交換できる事になるが、ここに大きいからくりがあった。当時、日本では金と銀の交換比率は一対五と、金の価値

幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質(高橋) を低く見たのに対し、国際間では金一に銀十五と金の価値が高かったのである。このため海外よりメキシコドル四枚を持参し、日本国内で小判三枚と交換して、更に上海あたりで小判三枚をメキシコドルと交換すなら、メキシコドル十二枚となるわけである。即ち、メキシコドルを持って日本に来て、小判と交換するだけで手持ちメキシコドルを三倍に増やせるわけて、海外の商人達が見逃すはずもなく、当時、日本の小判は日☆(Ⅳ)処有天文学的数字で海外へ流出したのである。これは日本経済の破綻を呼び、幕府は万延元年、小判改鋳を行い、従来の三分の一の金の量で一両とする万延小判を通用させた。これは新小判三枚で旧小判一枚の価値であるから、物価を一挙に三倍上げる事になった。領内三陸地方の記録に、「この頃より異国船アメリカ船品川へ入津、交易を願う。異国より銀積来り、日本にて異国の銀御吹立、トロ銀と名附通用仕り、物次第高値に罷成(旧)り、迫を古金一疸切二四切割」とあり、物価は四倍にはね上がっていたのである。小判改悪による価値の下落で、国内は幕府始まって以来の急激なインフレを引き起し、幕府でさえ力尽き崩壊を早める道を進めたのである。このように一藩の軍拡支出を超

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えて、通商開始による国内経済や政治態勢を根底から揺さぶる破滅状況が日本を覆ったのである。インフレは城下の給金生活者へ深刻な打撃を与える。定仙で切米支給の下級藩士の生活飢餓感と政治への不満を代弁する形で、芝多の軍拡政策反対の気運が高まり、芝多追い落しを策する反対派が利用し、但木土佐を擁立したと見るべきであろう。藩内における壌夷派と開国派の争論が激化する中で、奉行但木は開国の立場であったが、これは仙台藩が常に徳川氏側によって立つ事大性によるものとみてよかろう。しかし、その後、慶応元年までの五ヶ年の政治状況は、比較的小康を得たものであったが、これは強力な指導力の働きではなく、仙台藩特有の自重と静観の姿勢から出たものであった。芝多のインフレ財政を痛罵した但木にとり、増税はできず緊縮デフレ策でなければならない。養賢堂に開物方を設け国産物の開発による藩財政の増収を進めたが、これは軍事力増強への支出ではなく、赤字縮小の財政対策であった。仙台藩における壌夷か開国かの論争、そこから高まる尊王・佐幕の争いでも、それは藩政に影響を持つ上層門閥中 法政史学第四十四号

の一部での観念的な政治論争であり、藩の実態を見極めてではない。藩の方針が門閥上士層により決められる仙台藩の政治の流れは、保守自重。現状維持が常であり、宗主たる徳川家帷幕の方針こそ、自重と形勢静観のための根拠となった。このため、しばらく幕閣の動きと対比しながら仙台藩を見ると、元治元年八月、長州征伐の発令、五国連合艦隊の下関攻撃の三ヶ月後、幕府内で突然軍艦奉行勝安一房が罷免され、勘行奉行小栗上野介が軍艦奉行となった。当時、勝は幕閣内の反主流派であり、彼の海軍創設の持論は、各藩に強力な海軍力を持たせ、幕府海軍との連携による日本防衛の海軍力を構想したのに対し、小栗等は、幕府海軍力を最大第一とし、その傘下での沿岸防備的な各藩の艦船所有であったから、両者の違いは大きい。勝を罷免の日、幕府は横須賀製鉄所(造艦)の建設を、フランス公使ロッシュに依頼する。これらは十二月十八日の親仏派の先頭に立つ小栗の軍艦奉行就任と結びつく、幕府内での大きい政変であった。翌慶応元年四月、小栗の片腕であり親仏派の活動家である栗本鰻が軍艦奉行並となり、五月には小栗が勘定奉行に一戻って、幕府はフランスの軍事力援助と経済的な結合を強めて、西南雄藩への徹底抗戦論をすすめる。 八六

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仙台藩では、この一一年前の文久三年、幕府寄りの開国論者であり、玉虫・大童・松倉等江戸詰の者達と交流の深い大槻磐溪が、養賢堂学頭添役となった意味は大きい。養賢

堂は同族別系の平泉・習齋父子二代が、半世紀にわたり学

頭を務めた一大総合学府であり、特に習斎は、奉行芝多の片腕となり、藩内から有能な在郷の陪臣・臣紳をも集めて、藩政改革の頭脳集団・発進基地とし、面々は外に情報を求めて、洋式軍備の増強とそれを支える財政再建に取り組糸始めたのである。これは政治変革と表裏をなし、彼等の視野は下からの改革エネルギーの横溢する西南諸藩を敵対視せず、日本の統一者を京都に見る点で、佐幕には懐疑であった。だが、凡下・陪臣・在郷臣紳の者達が、政治向きを話し行動する事は御政体を誹誇するとするのが上層藩

士達であり、又、最下級層に足元を掬われる思いの定仙の 中下級平士層にも不快感が強かったとゑてよい。 養賢堂の改変は改革派潰しの第一歩であり、送り込む人 物として大槻玄沢の長子であり、江戸育ち新進気鋭の磐溪 こそ、名分の通る適役だったのである。 慶応元年六月十六日、奉行但木土佐の居宅放火と暗殺未 遂の件で、藩士蟹江太郎介・油井順之助等一党十六名が捕

えられた。いずれも組士・几下・陪臣など最下級武士層の

幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質(高橋) 者達ばかりであった。頭分である蟹江の罪状には、「曽て京都為御守衛之被相登諸藩士気之振居候を羨敷存罷下り、御国の形勢を概見し候得は、士気更に不振、何様にか振起および候様成し上度、存寄之趣取調置候得共、御奉行職但木土佐は因循御家之相尺念慮無之其事不行而己ならず不正之筋も相聞得衆の亀鑑とも可相成重役として、右様(旧)にては御政体難相立義と存込」承、諸悪を行い、但木に代えて再び芝多登用を画策したと断じている。この蟹江・油井等逮捕の一ヶ月後の七月十三日、大槻習齋が突然死亡し、十月磐溪が後任学頭となった。五年前に芝多が失脚した時、習齋に何事もなく不問であったのは、父子二代にわたる養賢堂への関わりの強固さと、国産方の開発に養賢堂の頭脳と財力が必要であったと思われる。文久元年(一八六一)、但木は、養賢堂に開物方を設け、製塩・織物・陶器・其他各種産業の開発に全力をあげさせるが、その一に横田屋某に気仙沼湾の階上塩田に洋式製塩場の開発を許可し、横田屋の願い通り養賢堂付きの塩場とし、養賢堂学田米を工事人足の扶食など経費に当てるよう土佐の名で下知を下している。これに対し習齋(、)が承知したのが死亡の三ヶ月前の四月十六日であった。養賢堂学田米こそは、父平泉が学府養賢堂の基盤確保に

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築いた業績であり、更に子習齋が養賢堂を藩政改革のための産学総合研究機関に築きつつある時、見込みのない塩田開発の人足達の扶食費用等では、習齋の許せる所ではないはずである。しかも、大砲鋳造や造艦などは奉行但木の念頭には無いから、これは養賢堂の根本的変質を突きつけられ屈したという事であった。こうした仙台藩の動きを勘定奉行小栗は十分知る事ができたのである。仙台藩では北上川河口の石巻湊に藩営鋳銭場を設け、幕府の許可を受け鉄銭を鋳造していたが、鋳型確認のため幕府金座役人が、終始駐在して立会うのが慣例であり、蟹江・油井一味逮捕の一月前に金座役人の交替があり、彼等はその都度、勘定奉行へ挨拶に出向くのが慣例になってい(、)た。言うまでもなく小栗は、大政奉還後の幕閣内で、西南諸藩との徹底抗争の主戦論の先頭に立つ人である。小栗が奥羽の雄藩仙台を自派に引き入れる策を持っていても不思議はない。一方仙台藩にも藩風化した自重静観、徳川家寄りの事大気風が、門閥上士層に牢固としてあり、小栗等の構想に傾いた事は考えられてよい。九月二十九日「精鉄四文銭を年二十万貢ずつ五年間の鋳 法政史学第四十四号

銭が許可」されるが、勿論、小栗の裁否が大きく物を言うのは当然である。十二月十一日、先の一味十六名に刑が下り、蟹江・油井は牢前斬首、他もそれぞれ刑を受けた。芝多父子も父民部は水沢の伊達家預け、子賛三郎は家格を下げられ、半知召上、閉門、在所替えの厳しいものであった。当時、藩内は議論沸騰し、上・中士層にも尊王。薩長同調があった中で、暗殺未遂の科で、組士・凡下・陪臣など最下級武士層だけの処分は、最下級層の台頭を抑える弾圧策であり、放火・暗殺は処分側の提造とふてよい。京都派と自他共に認める若年寄三好監物の家臣が「出奔によりお構いなし」であったり、笹原某は「暴悪に組しないが、日頃の言動が同志と混合の恐れあった」と入牢させられているのをふると、冤罪事件であったと言いたい。以後、最下級層からの藩政参加や藩政批判は全く消えて、藩政崩壊まで藩政は平士以上に委ねられ、凡下・陪臣・在村臣紳の声が、藩政や藩論に出てくる事は無かったのである。翌慶応二年一月十七日、金座役人広瀬某は、石巻を出立、仙台を経て二十六日江戸に着き、勘定奉行小栗上野に(、)参上役務御礼を伺っているが、内容はそれだけの事だった 八八

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藩軍事力の強化と藩営軍事工業の振興を図る奉行芝多民部の罷免こそ、反改革派が藩政改革派を追い落すための最初の政変であり、五年後の慶応元年六月からの蟹江・油井等最下級武士層の断罪、続く後顧を断つための芝多父子の再処罰、習齋・鳳谷等志士の死は、下からの変革の芽を一(幻)切摘承取った点で、第二の大政変であった。慶応二年九月、但木土佐が再び首席奉行となり、戊辰敗戦の責で処刑となるまで仙台藩の命運を背負うが、彼のブレーンは奉行坂英力始め、王虫左太夫・若生文十郎・大童信太夫・松倉恂・大槻磐溪等であって、彼等に共通するの のだろうか。この後一一月一一十五日、前年十二月御預け以来、絶食していた前奉行芝多が憤死し、続いて大槻習齋の手足となり改革の牽引役を果してきた養賢堂兵学主任、陪臣小野寺鳳谷も四月十三日に死亡、十月一一十一一日に陪臣伊藤東慎(岩出山・伊達家の臣)が江戸藩邸で死亡しているが、伊藤は長州出兵前に現地探索に出され、又、樺太蝦夷地問題に熱心であった佐賀藩士犬塚某を鳳谷に紹介するなど、彼も志士として鳳谷と深い交友を持つ一人であった。

幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質(高橋)

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は、幕閣の小栗・栗本・榎本等と同じ薩長に対する主戦論者である事、若生以下江戸生活や江戸詰の経歴を持ち、磐溪を除けば定仙育ち、百石程度の下級平士であり、城下で民生・経理の前職を持つ新進の能吏達であった。玉虫左大夫、早く家を出て江戸に学び、箱館奉行堀織部正に従い蝦夷地を見、「入北記」を記し、後、幕府訪米使節の一員に入り、「航米日録」で知られる。王虫の宗家は幕府旗本城氏(二千石)、本家は同じく玉虫氏(千二百石)であり、分かれて仙台藩に入り武芸の家(型)て続いて来た。玉虫の人脈が幕府主戦派に多い事は、榎本釜次郎(武揚)も箱館奉行堀の一員であり、小栗は訪米使節の監察で同行した。祖父の弟平四郎は、幕艦「長鯨」に乗組み、榎本と共に五稜郭で戦っている。玉虫の「航米日録」から彼の視野に近代性ありとする向きもあるが、蝦夷地視察の時、三好監物への書簡に、自藩街道宿駅の役職・庶民の応対が、南部藩に比べ礼儀無しと、痛烈執勤に批判しているが、彼の根本は儒教的な身分観であり、彼の考える身分開放とは、仙台藩における門閥上士による因習政治から、平士下級まで入れた参政への開放が限界と考えて妥当である。慶応元年第二次長州征伐以後、小栗・栗本・榎本・大鳥

八九

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等、薩長との強硬な主戦派が幕閣を占めて主導権を握るが、小栗等が幕府内の親仏派であり、幕府がそれまで行ってきたオランダを通しての艦船の購入や造船所建設をやめて、フランス公使ロヅシュを介する横須賀製鉄所(造船)建設を進めると、幕府とフランスの結びつきが確実となる。横須賀製鉄所建設費用の捻出についてフランス公使は、幕府が国内産生糸への課税や輸出の独占を行なうよう(お)勧めている。これは幕府権力の中央集権化を促し、藩は従属を強いられるだけである。安政の開港条約に「軍用の諸物は、日本役所の外売る可らず」とあり、藩は幕府の許可を得て購入するか、幕府購(妬)入口印を分けてもらうか、監視を逃れて購入するかとなる。薩長の西南雄藩は密貿易により、陸戦の銃砲を揃えて藩戦力の充実を図った。下級藩士が藩政を握った薩長二藩は幕府の改革策を拒承、討幕へと進んだ。(”)仙台藩は幕府の一示達に従い、許可・分与で進んだが、北辺での共同守備など、幕府との結び付きから、当然と言うべき面もあった。慶応二年九月、但木が再び奉行となり、翌三年一月、藩内の強硬な主戦派である坂英力を奉行に上げた。十月討幕の詔が下り、二日後、将軍慶喜が大政を奉還し 法政史学第四十四号

て徳川幕府は終った。この頃、仙台藩は主戦派の先鋒である松倉恂を軍艦奉行に抜擢した。町奉行を務め城下町人をよく知る松倉に、軍艦・銃砲など軍用品の買付けに当らせたのは、横浜での商取引が外貨交換の取引であり、商人無しでは無理であったからと思われる。慶応四年三月、奥羽鎮撫総督と五百の西南諸藩兵が、松島湾より仙台に入り、下参謀世良・大山から会津征討の実行を強く求められると、藩内は新政府に従う会津征討派と、薩長への憎悪反擁から会津の恭順で事態収拾の嘆願を図る派とに分かれ、結局、総督府の命に従う形で会津征討の軍事局を設けたが、奉行坂英力、副頭取玉虫左太夫、勘定奉行松倉恂の人事となり、薩長との主戦派が実権を握る配置であった。この下で、三好・坂本・真田・大越などの尊王討会派が軍制係となり、計会軍の編成と出陣に尺し、三月末、先遣隊が出発する。その後、藩主慶邦は出陣の前に、討会派の一一一好・坂本を罷免し、但木とライバルの尊擢派の遠藤允信を蟄居させ、尊王討会派を潰して会津征討に出陣した。こうして会津への恭順説得、非戦に動く者達が、尊王討会派を追い落し、佐幕主戦派で藩政を固めた。一一一好監物四 九○

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百石、この在所拝領の中級平士の追放が示すように、尊王討会派潰しは玉虫等下級平士による藩政主導権の掌握であって、彼等による最後の政変であった。以後、玉虫等の精力的な動きで奥羽越三十一藩の攻守同(羽)盟が結ばれ、松島湾内の榎本艦隊と気脈を通じながら、幕府主戦派が目論んだ西南諸藩の官軍との軍事対決に加わり、敗戦の坂道を転げ落ちたのである。藩主慶邦は、安政の藩政改革の際も、その後の諸論沸騰でも、初めは開明的進歩的な立場で進ませながら、藩論決定の多難な席では、門閥上層の保守的な状況静観の壁に負けて後退の道を取り、有能の士を捨て去った。尊王討会で新政府側につき、仙台藩の安泰を策した三好監物は、京都での処置が藩主の怒りに触れ、但木等佐幕主戦派に利用され捨てられた悲憤から、「(略)我死するといへども一念悪鬼となり、好賊ひしぎ捨ん(略)ゑんま主将(わ×ぱ)遣は上や、十王を踏にじる勢もて賊を討、もはや此時に当り軽君重国之御場合(略)拾万でも五万石にても、伊達の御家跡被相達(略)是のミ御願ひ仕候、御一門等壱人正義心得之人物無之ものかと切歯罷在(略)松本坂但木如き好賊一一御国を賊手にうられ無念難述、悪鬼と罷成くし蹴殺し(”)可申と含笑地二入候」と痛恨の書を残し自決したのであ

幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質(高橋) 奉行芝多の失脚により造艦鋳砲の軍事力強化は放棄された。反射炉築造計画は片鱗すら感じ取れないが、熔鉱炉は造られ、一部は藩末まで稼働していた。藩領北部、北上山地中の文久山・京津畑・栗木沢(子飼沢)等であるが、その終始は明確でない。しかし、栗木沢(釦)(子飼沢)は慶応四年の「出鉄請払牒、鋳鉱炉方」があり、稼働は間違いない。北上山地を東へ流れる大股川の上支流、谷が狭まり湾曲と小滝による落差のある地形を生かし、東斜面に数十メートルの水路を引き、滝下の低地との高低差を、送風用水車と高炉への原料や木炭投入に用いたようであるが、高炉の(皿)規模は大きいとは一一一一巴えないようである。奉行但木の政策のもと、これら熔鉱炉の生産目的は、藩財政の収入増加であり、生産物は市販又は鋳銭原料に廻さ

、、、、、れた。「文久年中よりやう}」うろと云伝二而かん鉄御吹立罷成り、大悪鉄之品一一而小鍛冶共難儀仕候、何之用二も不立也、鋳物師方へ相廻し侯、釜鍋共一一よわく御座侯、其頃より石巻一一而新銭御吹立、小銭より鉄の四文銭沢山一一通

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法政史学第四十四号

(犯)用、追々値下り二罷成候」の通り、ロ叩質の悪い銑鉄の生産であったようである。しかしこれは、生産担当側に問題があるのではなく、政策を担う側に科学技術を理解する者がおらず、政策遂行の地位に加わってない事であろう。即ち、藩政が官僚化した士分層だけで掌握され、テクノクラートが存在しないという事である。軍事力強化という科学技術の問題が、藩勢を左右する最重要課題と知りながら、刀槍一筋の武士意識が災いし、鉄砲飛道具は足軽のものであり、技術・技能は最下級武士層の扱いとし、政治はその上にあるとする封建官僚の政治姿(羽)勢を一示し、まさに封建制下の儒教的政治思考であって、近代的な産業である造艦鋳砲工業のための精錬・精鋼業は育たなかったのである。西南雄藩では封建的思考から脱却した下級武士層が藩政の主導権を掌握し、農町人層からも人を集め、テクノクラートも育ちつつあるのに比べ、仙台藩は、技術や新思考を持った組士・凡下・陪臣の最下級武士層や在郷紳臣の台頭を忌避し潰し、封建身分制に寄って立つ平士層主体の藩政主導を改革と考え、藩軍事力の強化を、幕府の統制のもと横浜での武器購入の構想では、時代の動きに合うものでな かつた。玉虫・大童・松倉・若生等は、藩内における新出官僚層の象徴であり、それは幕藩体制を崩す事なく悪弊を除去し、時代に整合しようとする下級官僚の藩政刷新運動ではあっても、幕藩体制の変革を求めるエネルギーの主体に成り得るものではなかった。科学知識や技術を育てる頭脳集団に組織されつつあった藩校養賢堂を解体し変質させたため、軍事力強化の条件整備は進まず、勢い藩軍事力の強化という絶対的命題の解決には、外国品の購入しかないことになった。次つぎに難題が生じる。横浜では世界を股にかけた諸国武器商人との交渉であり、国の違いが通貨の交換比率の違いとなり、最早、商人無くて取引の出来ぬ事を覚った。このため仙台城下の商人や横浜の仲介者の手を借り、巨額な武器及び軍用品の貢付と代金支払い、生糸・蚕種紙・紅花・大豆・干鮠等の藩産品の売買出納を任せる外なく、慶応四年八月末頃から十月十五日頃までの数十日間に、その(弧)買付額は十万両に及んだ。しかも但木・坂・王虫等の設けた軍事局は、尊王派との経緯から有為の士達から見離され、一方、旧体制刷新の担い手に過ぎない性格から、下からの盛り上がるエネルギー

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の参加しなく、藩内の孤立した機構と化してゆく様相は、松倉が一部泥懇の士や商人を使い、密かに横浜や松島湾上での取引や出納を任せ、夜陰に乗じ間道による購入品の搬送などと、末期的な状況をうかがわせるものであった。以上のように仙台藩の終末は、藩論の不統一と挙藩態勢の遅れが、東北諸藩への強力な発言力を発揮できず、西南諸藩連合の官軍に屈しただけでなく、その前提には軍事力の強化を求めた安政の藩政改革以来、組士・凡下・陪臣などの最下級武士層や産業資本力を持った郷紳達の台頭を潰し弱体化した事で、藩内での拡大再生産力を育てられず、築造された一部洋式高炉に見る如く、持続稼働しても単純な生産力で、赤字財政の解消にすら貢献できない状況であり、その結果、藩政を握った下級平士官僚達は、尼大な軍事費支出によって外商から武器及び軍用品の購入を行なう外なく、さらに経済的な破綻を深め、藩の終焉に至ったのである。そこには仙台藩特有の旧弊な格式第一からくる保守静観の気風も災いしたが、しかし、東北の雄藩として、北辺の警固役の重鎮と目され、幕府との共同守備に従い、更に、安政六年(一八五九)九月には、東北諸藩への蝦夷地開墾の命により、仙台藩も「是迄、御警衛一篇と遠御領分」

幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質(高橋) (「庚申蝦夷地御領分諸達日記」)であった白老等六ヶ場所に代官を置き民政撫育を進め、又、派遣職人など下級身分者の足軽への格上げや、士、几・諸人への屋敷地給付などの優遇による在勤常詰の促進、一方、開墾方を産物方に改め、秋味鮭・椎茸・鹿皮その他等開発井諸産物取出し(「前掲日記」)と、蝦夷地御領分の支配強化に取組んでいた事情を勘案すれば、幕府との結びつきを深めるうちに、結果的に佐幕から抜けられずに終った一面のある事も見逃がす事はできないのである。

本稿の主題である幕末期の幕府及び諸藩の軍事力強化に関する全体的・基本的な問題については、奥山英男氏「幕末の軍事改革について」s法政史学」第十九号)を終始座右から離せなかったこと、元法政大学教授藤井甚太郎先生の「幕末梵鐘収公大砲鋳造に関する史料」s日本近代史研究』第一号)からも大きな示唆を与えられた。本稿に使用させていただいた史料は、論旨の基礎となっている他史料を含めて、殆んど未発表のものである。閲覧させて下さった小野寺敦氏、御母堂小野寺たか氏(故人)、三好裕子氏、大竹誠一氏の御芳志を謝し、また、佐賀県立 おわりに

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図書館。舞鶴市立西図書館・舞鶴市史編纂室・市立函舘図書舘の御高配に厚く御礼申し上げる次第である。また、法政大学村上直先生には、終始御指導をいただき、深く感謝の意を表したい。

(1)石塚裕道「幕藩営軍事工業の形成lその内部矛盾と技術の体系化をめぐってl」(『史学雑誌』八○の八五頁)(2)文化五年の蝦夷地・千島警固の時、仙台藩は江戸廻米船を改造して、藩領の湊より現地まで船舶での兵員輸送を考え、専門船大工を使って調査したが、北方の荒海に無理と知り、陸地行軍に替えた経緯がある(村上直・高橋克弥編「文化五年仙台藩蝦夷地警固記録集成」)。

(3)迦l加農砲禰籍、臼1-臼砲藁「岻忽1忽微砲

和蘭語・ホゥイッスル(4)菅野潔(白華)「北勝乘」(函館市図書館所蔵)(5)安政期には陸戦用は銅製砲、台場用は鉄製砲であった(石塚論文)。又、石塚論文及び大橋周治「幕末明治製鉄史」では、国内の反射炉も殆どが銅熔解に使う段階であったとするから、反射炉のない仙台藩は銅鋳砲と考えてよいのでなかろうか。

ブレカット(6)白華は「弗列瀧多艦」としているが(「北瀧乘」)、下田沖 法政史学第四十四号

で沈んだ軍艦デァナ号はフレカット(フリゲート)だが、代りに造った日本初の洋艦戸田号は、小型のスクーナーであった(高野明「プウチャーチンの来航と戸田の造船」)。(7)前掲石塚論文は、幕藩営軍事工業とは、大銃Ⅱ鋳鉄砲と火車船Ⅱ蒸気船を主軸とする軍事力の創出であり、鉄の精錬・冶金(反射炉と熔鉱炉の登場)を媒介に結合したかたちで発展しなければならない必然性があったとする(同論文五頁)。(8)石塚論文第二章第一節に所収。文中「柔鉄」は高炉鉄をいう。(9)芦文八郎「仙台藩洋式高炉のはじめ1文久山l」(、)文化五年の蝦夷地出兵の無事帰還を記念して藩主周宗が、塩釜神社に奉献した銅鉄製大灯籠の趣意刻文の造監者名に、出兵の総大将であった芝多の名はない(村上直・高橋克弥編「文化五年蝦夷地警固記録集成」)。(u)『仙台人名大辞典』(菊田定郷編)(⑫)補一訂版国書総目録・著者別索引」(岩波書店)に記載の外に、なお数種あり。(過)「蟹油草紙」(「伊達世臣家譜」第三巻・仙台叢書)所収。、)石塚論文「第一章、第一節の註(旧)、及び大橋「前掲書」の「終章の二、幕藩体制への作用」。(嘔)森永種夫『幕末の長崎l長崎代官の記録l』(岩波新書)(西)前掲「北辨乘」 九四

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(Ⅳ)NHK歴史ドキュメント④三コ〈マ・ゴールドラッシ

菫1幕末二‐戦争」

(旧)「唐桑町誌』(宮城県)所収の肝入伊藤家日記「永代手

鏡」による。(四)前掲「蟹油草紙」(別)「本吉郡誌』(宮城県)の「産業経済」の製塩に所収。a)「金局公用誌」(『石巻の歴史』第九巻近世編)の慶応元年閏五月十一日の項。(理)「金局公用誌」の慶応二年正月廿六日の項。宛)文久一一一年一月、藩主慶邦上洛問題から始まった藩論統一のための門閥上層尊壌派の追放を、ここでは取らない。a)玉虫久五郎「仙台雑感」(『仙台郷士研究」通巻一一四一号)。(妬)前掲石塚論文の第二章第二節、及び、小林正彬「幕藩営造船業の展開l日本造船業の形成I」Ⅳ横須賀製鉄所起工の影響(「経済系」第七○集)。宛)丸山国雄「維新前後に於ける東北諸藩の武器購入問題」s歴史地理」第七十一巻第一号)。なお、右の条約約文が「幕府が諸藩の武力強化を制限するため西洋火器の輸入を制限した」との丸山氏の見解に、有馬成甫氏は「幕府が何等かの制限を加えた事実がない」(有馬成甫「幕末に於ける西洋火器の輸入」『日本歴史』百一一十号)と反論されている。仙台藩では火砲ではないが、安政六年に領内産の六品の

幕末仙台藩の政変と新軍制策の変質(高橋) 横浜直接交易を幕府に願い却下されている(尋自城県史2』近世史)。また、慶応元年に洋船購入の際、「国産運送の外、捕鯨漁のため」と記し、|門伊達藤五郎扱いにして、幕府に軍艦である事を樟ったとしている(「仙台戊辰物語」)などあり、北辺での共同守備、財政援助もあり窮屈さが見える。(Ⅳ)前掲の外に、長崎での幕府購入のケウニール筒(ゲベール銃か)の配分願いに松平陸奥守の名もある(前掲丸山氏論文中の万延元年史料)。宛)慶応四年八月頃に、松倉より榎本へ御用金として二度、合せて九百両が渡っている(「御軍事方御入料調上。(羽)三好家文書(列)毛利家文書(皿)本遺構は道路の拡幅工事計画に抵触したが、住田町当局の要請で計画変更され保存された。③)前掲「唐桑町誌』(詔)このように伝統的な制度や儒教的精神を基本に置く、西洋の科学技術の受容は、清朝末期の洋務運動と似るものがある。参考文献(薮内清「中国の科学文明」のうち、「不徹底な洋務運動」)。(型)慶応四年八月より十月十七日までの主な動きと、その前後と思われる時期の外国商人との取引の概要を次に示す。例仙台藩の動向八月二十六日榎本艦隊、松島湾寒風沢港到着。

九五

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九月初め頃、外商.〈-トン試万両を持って塩釜に上陸、仙台に入るを望む。九月八日改元九月十日城中会議、降伏決定。九月十三日謝罪使出発。九月十五日額兵隊(洋式藩兵)城下出発戦に向う。九月十七日降伏受理される。九月二十一日松倉恂逃亡。九月二十三日会津落城。九月二十六日西軍先鋒城下入城。九月二十七日但木・坂捕えられる。九月二十九日西軍本隊仙台入城。十月十七日榎本艦隊、牡鹿半島の折ノ浜(石巻市)を出帆、北に向う。何松島湾寒風沢で外国商人からの武器等の買付け状況は、次の「異国船よりの兵器御買下し調」(下表)の通りである。

異国船よりの兵器御買下し調

○買付各種銃3324 29番プロイセン、ナイフより81.624ドル(62,967両)大炮2,弾丸20箱 90番スィッノレワダルより22,165ドル(24,937両) 雷火管200万,火薬

靴1415.

二者計103,789ドル(87,904両)

緤呂を主に各種の織物

○売渡 黒羅紗,線呂など織物

54番パートンヘ52,798ドル(39,600両)

生糸(上・中糸)

○買付と売渡の差50,991ドル(48,304両)の買付超過

※①左肩の数字は、横浜居留地の地番と思われる。

②1両=0.74777両の為替相場での概算である。

③貢付超過となっているが、実際は、29番、90番にも生糸が現物で渡り精算され

ている。

④買付総額を-紙は10万7000両としている。

⑤緤呂は、ゴロフクレン。舶来のあらい流毛織物の一種。

(大竹家文書)

参照

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領でも黒松の海岸林は .  人工的に造成されてきた 。  それでは,  黒松は領内にいつごろ,  誰によっ て導入され,  海岸 へ の植林が開始されたのだろうか 。 従来, 

はじめに 2014 年 5

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ればならない施策であり,人材撰挙制度も藩士の側から学習意欲を起させて学問奨励政策

はない。「新聞」史料に象徴されるように,日常から膨大な情報に触れ,それを処理しつづけて

しかし, 大村藩は明治3年5月, 「廿六日兵制 ヲ更テ仏式ト為ス」 (大村藩史稿 明治三年五月 廿六日) として, フランス式に転換した 注 ).

地位を高めることに成功したのである。 文久元年(1861 年)10 月に長州では長井雅楽の「航海遠略策」を藩論として採用し、「公武