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現代フランス語接続法における「観念」の主体としての話者

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Academic year: 2021

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(1)

現代フランス語接続法における「観念」の主体としての話者

「意味論」 的なレベルと 「語用論」 的なレベルとの峻別

要旨

キーワード:話者、 行為者(主語)、 観念、 意味論的レベル、 語用論的レベル

市川 では、 後述の引用中の用例の接続法が文の主語の観念を示している (代弁している) ように解されるのは不適切であることを主張した。 接続法が表わす 「観念」 はあくまで話者の観念で あって、 接続法に置かれた核命題の真偽については話者は何も語っていないのであり、 上の 「誤解」

が生じるのは、 主節のレベルと接続法に置かれた従節のレベルとの混同によるものであることを述べ た。 これと一見矛盾するようであるが、 命題の真偽判断を積極的には行わない接続法の使用により、

結果的に話者が消極的な真偽判断を行っている場合がありうること、 また話者の積極的な真偽判断の 欠如により文主語の見解を接続法が示しているように見える場合がありうること、 を本稿では示そう とする。 そしてこれらは文脈の働きによるのであり、 主語の抱く観念が接続法の使用を導くとする考 えよりも遥かに整合的であることを示そうとするものである。

受付日:2016年11月9日 受理日:2016年12月5日

文学篇

(2)

市川 で出発点とした以下の記述を再度引用しよう。

の場合、 それはいつもそうであるが、 (話し手) の観 点からのものと、 (実際の行為者) の観点からのものとに区別される。 第一人称に おいてはその両者が一致することは言うまでもない。

たとえば、 (ジャックはポー

ルの来たことを否定している。) における法の違いは、 第一例は 即ち の立場 に立っての であり そして は普通この立場で用いられる 、 第二例は、

自身の立場から、 即ち は知らないが、 話し手としては事実と判断していることを 打ちだしているための なのである。 当面問題の に続く も同 様に説明される:

(ペニェは彼がダリュスを識っていたことを否定できなかった。)

における は話し手が自身の立場から、 を識っていたことを断言している ことを示しているのである (イタリック原著者、 下線本稿筆者、 以下同)。

佐藤 房吉

上記の引用は、 中の接続法が、 主語の立場に立って (主語を代弁し て)、 従節の命題を偽とする見解を表わしている一方、 の直説法では、

主語を差し置いて、 命題を 「真」 とする話者の判断が明示されると述べている。

このような主語の立場に立った接続法の使用という考えは不適切であり、 直説法/接続法の使い分 けは、 あくまでも従節の命題に対する話者の態度によることを市川 では主張した。 すなわち、

話者が命題を真と判断すれば直説法を、 積極的に真偽判断を下さず中立の立場を取れば接続法を用い るのである。 以下には、 我々の主張に近い説明が見られる。

(…) たとえば は 「彼は私が病気であるとは思っていない」

の意で、 「私が病気である」 という命題はあくまで一個の概念にとどまり、 その真偽、 あるいは

現実・非現実は問題にされていない。 これに対し なる構文も

可能であり、 これは 「彼はそう思っていないけれども実は私は病気なのだ」 の意である。 この場 合は 「私が病気である」 ことが事実として伝えられているのである。

冨永他 、 この部分の記述は富永による

下線部のように、 接続法により表現される観念 (ここでは 「概念」) は、 命題に対する話者自身の真 偽判断はなされておらず中立であるということである。 話者は従節の命題に関し如何なる判断も下し

(3)

てはいないのであり、 命題自体が抽象的な観念のまま提示されているだけなのである。

しかし上記の主張と一見矛盾するようであるが、 話者が接続法を用いることにより命題に対する積 極的な真偽判断を控えるということは、 「語用論」 的には命題に対し偽であるとの判断を消極的に (二次的に、 すなわち結果として) 下していることにほかならない場合がありうるということである。

ここには 「意味論」 的なレべルと 「語用論」 的なレべルという、 レべルの違いが存在することになる。

次節でこの主張を例に即して検討しよう。

若干の例を取り上げ、 前節の主張の是非を考察する。

では話者は直説法により の来訪が真であることを明示しているのに対し、 では、 中立の立 場で真偽について沈黙しているというのが意味論的なレべルの解釈であるが、 文脈の支えさえあれば 語用論的なレベルでは、 真偽いずれの読みも許容され、 したがって偽であることを話者が消極的に主 張している場合もありうるのである。 次例 がそれに当たる。 逆に では、 話者は の来訪を 真であると捉えているにもかかわらず中立的な接続法を用いているために、 接続法が話者ではなく主 の立場で用いられているように表面的には見えるのである。

では以下の例ではどうであろうか。

朝倉 右欄

この例について朝倉 は、 「この場合、 従属節の内容は思考の主体 (主語) の主観で疑惑の陰影 を帯びるので、 客観的に事実であることを妨げない」 として、 「「幸福である」 ことが話者にとって事 実であったとしても、 主語 の主観において疑わしいのである」 と説明している。 この記述は接続法 が文主語の立場で用いられているとも読めるが、 真意は我々の主張と同じく、 意味論的なレベルでは 話者は命題の真偽につき積極的には何も主張しないのであるから、 語用論的な読みのレベルで真偽を 左右するのは、 より大きな文脈にほかならず、 単に文主語 のみではないということであろう。

以下の例では、

(4)

佐藤 )

について、 佐藤 は自身の拠って立つ の説を次

のように解説している。

第一例 (= ) の は、 行為者 [主語] が、 その を肯定しつつ報告している事実を あらわしているのであり、 換言すれば、 行為者の側の を含んでいる。 反対に第二の例 (=

) における は、 行為者がその意志によって創りだそうと願っている事態をあらわして いるのであり、 従ってそこに示されている事態は行為者によっていまだ現実とは見なされていない、

つまり判断が行われていないのである。 佐藤

ここでも の従節の直説法は、 命題が真であるとする行為者 [主語] の判断を示しているのでは なく、 耳にした命題が真であるとの話者自身の判断を表わしていると考えるべきである。 の接続 法も、 行為者の判断が行われていないのではなく話者の非判断なのであって、 行為者が話者とたまた ま一致しているからそのように見えるに過ぎないのである。

このように行為者(文主語)が従節の直説法/接続法の使用に影響を及ぼしているとの説は、

をはじめとして行われているが、 繰り返し述べているように、 法を選 択するのはあくまで話者であり、 接続法が選択された際に話者のどのような判断が消極的に示される かは、 行為者(文主語)のみならず、 より大きな文脈に依存すると考えた方が遥かに整合的である。

以下の例、

朝倉 左欄

に関しては 「(…) 話者が従属節の内容の真偽を知らず返答を予知しない場合、 その内容について軽 い疑念とそれが事実でなければよいという気持ちを抱く場合」 と説明されている。 この記述の前半は その通りであるが、 後半の下線部は受け入れがたい。 前述の様に、 話者はあくまで中立であり、 この ような陰影を帯びるとすればそれは接続法自体ではなく、 文脈がそうさせているのである。

次例でも同様に、

佐藤 佐藤 佐藤

文頭に置かれた名詞節中の接続法は、 命題に対する話者の不判断を述べており、 その真偽に関し話者 は中立なのである。 文脈 (=後続する主節) において文主語 (ここでは話者とたまたま同一人物であ るが) の判断が表明されるのである。 以下のように文主語が話者と異なる場合は、 命題に対する話者

(5)

の中立性が明示されよう。

次の記述では、

直説法の使用 … 時に特別の陰影は認めがたい:

朝倉 左欄

上記の 「特別の陰影は認めがたい」 のは、 接続法と、 直説法ではあるが単純未来形とが対照されてい ることが決定的と考えられることを、 市川 で指摘した。 接続法が従節の核命題の真偽に 関し何も云わないということと、 核命題が真であると責任を引き受けて述べる直説法ではあるが単純 未来形が事態の成立に不確かさを残すこととが、 両者の差異をわずかなものにしていると考えられる のである。

これまで述べて来たように、 接続法により表出された観念が主語のものではなく、 あくまで話者の ものであることを理解するには、 意味論的レベルと語用論的レベルとを区別することが不可欠であっ た。 この区別は意識下では従来からなされて来たであろうが、 命名されて初めて明示的なものとなり、

幾つかの例における 「接続法が文主語の立場で用いられている」 という解釈が不適切であることを明 らかにしえたと考えられる。

繰り返し述べてきたように、 意味論的なレベルと文脈の影響を大きく被った語用論的レベルとを明 確に区別せねばならない。

接続法に置かれた従節では、 核命題に対する話者自身の真偽判断は全く為されていないのであるか ら、 命題の真偽に関しあくまで中立の立場であり、 意味論的なレベルでは何も主張していないのであ る。 それに対し語用論的なレベルでは、 何人かの論者のいう文主語 (=行為者) のみならず、 より大 きな文脈中で、 消極的、 二次的に、 すなわち結果として真偽に関して云々する場合がありうるのであ る。 このように異なるレベルを考えた方が、 文主語 (=行為者) の観念が接続法の使用に及ぶとする よりも、 直説法/接続法の使い分けを遥かに整合的に説明しうるのである。

この例では 以下の命題が真であるという話者の判断が含意されるであろうが、 それはあくまで

も動詞 自体の意味によるのであり、 接続法が示すのは話者の判断留保であることには相違

(6)

ないのである。

朝倉 季雄 新フランス文法事典 白水社

市川 雅己 「話者か主語か 現代フランス語接続法の表わす 「観念」 の主体 」 文学部論叢 第 号、

佐藤 正明他 詳解フランス文典 駿河台出版社 佐藤 房吉 フランス語動詞論 白水社、

冨永 明夫他 改訂版フランス語ハンドブック 白水社

Φ

参照

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