社会学論考第29号2008.10
能動性の統治論的考察')
「自己との関係」の現代的位相一
大 河 原 麻 衣 堀 内 進 之 介
本稿の眼目は,福祉国家体制後の現在,主観的世界に足場を置く政 治が展開する中で,人々の能動性が何によって可能となっているのか を検討することで,改めて人々の能動 性は何を可能にしうるのかを問
うことにある.
統治の現代的な状況を見遣れば,現在は,主観的世界の地平で美を 糧とする政治が展開する時代にある.このような状況は,社会的世界 の地平で,社会的公正を問題としてきた諸議論それ自体の抑圧性が自 覚されるにつれ,徐々に生じてきたものであるといえる.そうした中,
選択の自由が主体 性の復権というイメージをもたらしており,心理学 的なテクノロジーが,アジェンダ・セッティングパワーを免責しなが ら,選択肢自体の創造の可能性はむしろ,主体性からは切り離されて いる.本稿では,こうした指摘を通じて,意味ある政治的目標とは,
既存の政治が何をしてくれるかと問うことではなく,既存の政治を試 練にかけることにある,ということを示唆する.そしてとりわけ「克 己する営み」を提起することで,その可能性のひとつを示すこととす
る .
こうした試みは,ミシェル・フーコーやニコラス・ローズの論じる
「自己の自己自身への関係」の中に,あるいはヴェーバーが重視した
「誠実さ」の議論に見出せるものであるが,本稿は現代社会における その意義を,改めて喚起することを隠れた狙いとしている.
キーワード:心理学知,統治性,克己
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1 本 稿 の 目 的
本稿の眼目は,社会の再帰的性格が顕著になった福祉国家体制後の 現在2),つまり主観的世界の地平に立脚した政治が行われる中で,人々 の能動性が何によって可能になっているのかを検討し,改めて人々の 能動性は何を可能にしうるのかを問うことにある.こうした試みは,
「社会的公正」をめぐる問いは現在矛不公正の是正に向けられている というよりは,むしろ人々の能動性を自己完結的なものへと切り詰め ている,という数多の指摘を背景にしている.例えば,ニコラス・ロ ーズは,政治が依拠し政治を糧とする理念を捉える歴史的な視座から 統治の現代的な状況を見遣れば,選択の自由が主体性の復権というイ メージをもたらしており,心理学的なテクノロジーが,アジェンダ・
セッティングパワーを免責する役割を果たしながら,選択肢自体の創 造の可能性を侵食している,と指摘している(Rosel999).本稿では,
こうした指摘を踏まえてj意味ある政治的目標とは,既存の政治が何 をしてくれるかと問うことではなく,既存の政治を試練にかけること にある,ということを示唆したいと考えている.そしてまた,こうし た試みは自己の自己自身への関係として「誠実さ」3)の地平において 希求されるべきものであり,その可能性を「克己する営み」を提起す る こ と で 示 し て み た い .
ここであらかじめ断わっておきたいのだが,われわれは克己をモノ ローギッシュなものとも,目的論的なものとも考えてはいない.克己 する営みの本質は,未来を志向するために過去を想起するという時間 構造にある,と考えているからである.この点については,3.2節で ヘーゲルとカントの対比において述べる.ここでは差し当たり,克己 する営みとは,アゴーニッシュなものとして考えられるべきである,
ということだけを指摘しておきたい.したがって,「競合するそれぞれ の自己同一性にかかわる知識一つまり,批判的に伝統を想起し,科 学,哲学,芸術によって刺激を受け,討議的にかつ実験的に−を育 てるような共同体」(Habermasl976=2000:138‑9)の創造という理想
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は諦められるべきではないだろう.とはいえ,現実としてこうした共 同体が存在しない今,この営みを,かりそめにも行政的処置としての
「教育」に委ねることはできない4).かといって「社会化」を伝統に 委ねておくことももはや可能ではない.アンソニー・ギデンズが言う ように,善かれ悪しかれ,伝統もまたわれわれの選択肢のひとつに過 ぎないものになっているからである(Giddensl990=1993).それゆえ,
われわれは克己する営みをむしろ「実験的態度」として擁護してみた
い 5 ) .
2 倫 理 性 の 政 治 か ら 精 神 性 の 政 治 へ
複雑な現代社会において,社会的公正を大上段に構えて論じること は難しい.ジョン・ロールズのリベラリズムが,多様化した世界観や ライフ・スタイルを前に行き詰まりを見せていることが,それを端的 に表している.確かにロールズは「正しい」ということの意味内容も 多様化した状況において,社会が「公正」であるということは,個々 人が自分の考える「よき生」を実現するためのアイデンティティを作
り上げる自由を,誰にも等しく保証することにある,と主張している.
「よき生」といえども,自分が属している文化のコンテクストから全 く切り離されてあるわけではないからである.しかし,ロールズの主 張するリベラリズムは,社会の構成員が,自己主張しあいお互いに拒 否する権利を持つことを許容しうる点で,当該社会の文化のコンテク ストを社会の構成員たちが納得し受容してくれることを期待する,と いう以上の内容を含んではいない(Rawlsl993;Habermas2001=2004).
社会的公正を複雑にした目下の社会状況は,アクセル・ホネットの
「世界の意味地平を切り開く批判の可能性」といった社会的公正の前 提に対する批判的実践を重要なものにした(山本・堀内2008;Honneth 2000=2005).ギデンズの「ライフ・ポリテイクス」やアルベルト・メ ルッチの「新しい社会運動」,フェミニズムによる「差異の政治」など の議論も,目下の社会状況に対応したものであるといえよう(Giddens
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1991=2005:Meluccil989=1997).しかしながら,現在,これらの社会 的公正の前提条件を問題視する諸議論,すなわち,倫理性の政治
(Ethico‑politics)と呼ぶべき試みは,既に述べたように,ある部分 では人々の能動性を自己完結的なものへと切り詰める,精神性の政治
(Etho‑politics)に飲み込まれつつある.詳述は後段に譲るが,社会 的不公正への異議申し立ては,例えば労働においては,労働の人間化 や自己実現などといった標語の下に,当事者の主観的な了解に充足が 与えられることによって,異議申し立ての社会的意義自体が,主観的・
経験的な充足によって脱臼されるという事態を招いている.
労働における自己実現の可能 性は,経営者が付帯的な報酬(例 えば,金銭的なものや社会的なもの)を労働対価として提供せね ば な ら な い と い う 考 え か ら の 転 換 を 意 味 す る . そ れ ど こ ろ か , 報 酬は労働それ自体の中に見出されるようになる.経営者はそれゆ え,主に労働をできるだけ興味深くやりがいのあるものにし,ま たそれを個々の労働者にとって有意味なものになるようにお膳 立てすることに関わっている.…・・・以前にもまして,経営者は,
従業員に労働を通じた自己達成を提供する賛助者となっている のである.(Ribeaux&Stephenl978:306)
以下では,このような状況の進展を,まず個人化という観点で捉え 直し,さらに現代日本においていかに議論されてきたのかを論じ,そ れがいかなる帰結となりうるのかを示す.
2.1個人化の2つの相貌
倫理性の政治一一つまり,倫理に適っているか否かを問うのではな く,既存の倫理それ自体を問う政治は,後期近代社会という高度に再 帰的な社会を背景にしている.ギデンズが提起したライフ・ポリティ
クスも,社会の高度な再帰性と,それによる個人化の進展に対抗すべ く試みられたが,ギデンズ自身も認めているように,再帰性と個人化
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の 進 展 が ラ イ フ ・ ポ リ テ イ ク ス の 可 能 性 の 条 件 と も な っ て い る の で あ る(Giddensl991=2005).いまやアクセルとブレーキが別々の機能を 持 つ と は 素 朴 に は 言 え な い , と い う 点 に わ れ わ れ は 現 代 社 会 の メ ル ク マ ー ル が あ る と 考 え て い る .
ウ ル リ ヒ ・ ベ ッ ク に よ れ ば , 個 人 化 と は , 社 会 の 再 帰 性 の 高 ま り に よ っ て , 個 人 が 社 会 的 な も の の 再 生 産 単 位 と な る よ う な 状 況 で あ る . 個人化は,伝統的な社会の規範的な構造の中に埋め込まれていた個人
を 析 出 し , 人 生 を , 個 人 に と っ て 単 に 与 え ら れ る も の で は な く 選 択 可 能なものにする.そしてさらに,選択主体としての個人が,自分のラ イ フ ・ ス タ イ ル や ア イ デ ン テ ィ テ ィ を 自 ら 見 つ け 出 す 必 要 に 迫 ら れ る ことを意味してもいる(Beckl986=1998).つまり,個人化はそれまで 自明であった物事を個別的な視点から内破し,吟味させる契機をもつ ものなのである.
しかしながら個人化は,ギデンズやベックが示唆するように,2つ の相貌をもっている.個人の能動性の展開(自己決定)というポジテ ィヴな相貌と,いかなる選択であれそれによって生じた問題が個人に 還元される(自己責任)というネガティヴな相貌である.ここでは便 宜的に,前者を「主体化」,後者を「私事化」と呼ぶとすれば,私事化 には更に2つの段階/側面があると思われる.
私事化の第1の段階/側面は,社会的な次元に属するはずの問題を,
個人の選択の問題として個人に帰属させる「帰属処理」である.そし て,第2の段階/側面は,帰属処理された問題の解決自体をも全面的 に個人的な次元に帰責する「帰責処理」である.例えば,フリーター は,社会構造的な要因から生み出されているにも関わらず(玄田2001),
自分の夢を追求するためにフリーターになることを選択したのだと言 われ[帰属処理の段階/側面](阿部2007),他方でフリーターから抜 け出せない人に対してはよりいっそうの個人的な努力が求められる
[帰責処理の段階/側面]という事例を考えることができる(若者自 立・挑戦戦略会議2003).
ネガテイヴな側面としての私事化に比せば,ポジティヴな側面とし
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ての主体化が具体的にもたらしたのは,倫理性の政治,つまりライフ・
スタイルやアイデンティティを選択可能なものとして開こうとする実 践であった.こうした倫理性の政治の背景として,最大多数の最大幸 福を暗に是とするような,社会的な風潮をあげることができよう.差 異を重視したアイリス・ヤングや,フェミニズムの主張は,まさに個 人主義と普遍主義を前提として社会的公正の問題を扱ってきたリベラ リズムの諸議論に対する異議申し立てでもあった(Kenny2004;Young l990).要するに,倫理性の政治の要諦は,「我々」の幸福が取り沙汰
される中で,「我々とは誰か」と問うことで,「我々」からこぼれ落ち る 当 事 者 の パ ー ス ペ ク テ イ ヴ を 議 論 の 姐 上 に あ げ る こ と に あ っ た わ け である.ナラテイヴセラピーやこれに基づく自己物語論は,こうした 文脈の延長線上で,有効な方法論と見倣され,積極的に意義づけられ て き た の で あ る . 上 述 の 整 理 に 引 き 付 け れ ば , 倫 理 性 の 政 治 を 可 能 に したのは,個人化のポジティヴな相貌としての,「主体化」であったと いうことができよう.
し か し な が ら , こ の よ う な 倫 理 性 の 政 治 の 重 要 性 が 広 く 人 口 に 膳 炎 するようになるにつれ−−同時に,自明性の喪失自体が自明となり,
流 動 性 が 高 ま る に つ れ − − 新 た な 選 択 の 可 能 性 を 模 索 す る た め に 既 存 の選択肢を問題化したはずの実践は,それが有する批判的検討の重要 性が捨象され,「選択の自由」の問題として消費されるようになった.
言い換えれば,「いかに選択するか」から「何を選択するか」の問題に 力 点 が シ フ ト し た の で あ る . 自 明 性 が 支 配 す る 一 枚 岩 的 な 社 会 状 況 の 中 で 模 索 さ れ た 諸 可 能 性 は , 可 能 な 多 く の ラ イ フ ・ ス タ イ ル の 承 認 と い う 形 を と り な が ら , 同 時 に 批 判 的 な 検 討 の 機 会 や 動 機 を 磨 滅 さ せ た わけである.
この段階/側面は,批判的な検討よりも選択に力点が置かれるとい う点で帰属処理の段階ともいえるが,まだ個人に帰属処理された問題 の解決にあたっては,社会に投げ返す契機を多少なりとも保持してい た よ う に 思 わ れ る . し か し , 流 動 性 が 一 層 高 ま る と , 多 様 な 選 択 肢 の 中 か ら 選 択 を す る た め の , 選 択 指 針 す ら 多 様 化 し , 一 種 の ア ノ ミ ー に
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陥ることになったと考えられる(Bauman2005=2008;Sennett 2006=2008).「もし仮に,選択肢としての'情報の幅が自由の幅を意味し ているのなら,情報の増大は自由を更に拡張していくことになり,我々 は未曾有の自由を手にすることになるだろう.けれども,『多くの可能 性の世界』は当然ながら,我々に与えられた細やかな処理能力と僅か な時間の闘値を凌駕するために,《多くの選択肢がある》という事実が 未来からの圧力となって我々を苛むことになる.言い換えれば,未来 を基点にして現在までを逆算するには情報はあまりにも多すぎ,現在 を起点にして未来までを計画するには情報選択の指針はあまりにも多 義すぎる」(堀内2006:8)のである.
倫理性の政治,あるいは差異の政治がフェミニズムの立場から多く 推し進めてられてきたことからも,日本におけるフェミニズムやその 運動を概観することで,多少なりともこのような変化を具体的に見る
ことができるだろう.
1970年代に生じたウーマン・リブ運動は,まさに女性が女性である ことを引き受けることから始まった運動ということができる.
田中美津が
抑圧の,そのよってきたる由縁を明らかにしていくことはいう までもなく大切だが,しかし,さらに問題なのは,それがわかっ たところで,あたしたちは,その作られた現在,作られた自分か らしか出発しえないというそのことなのだ.(田中1992:67‑8)
と述べたように,「とり乱し」を語ったリブ運動は,押し付けられた女 性であることによって生じる課題を,自らの課題として引き受けると ころから出発した.この段階は主体化と帰属処理の段階/側面である ということができる.リブ運動は,それまでの女'性運動が母性を強調 し優生思想に傾きがちであったのに対し,1980年代初頭の「優生保護 法改正案」阻止をめぐる闘争にみられるように,母性だけに限らない 女性の権利を主張していった.だが,帰責処理の段階/側面に至り,
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自 己 決 定 と 自 己 責 任 が 不 可 分 と な る に つ れ , 離 婚 す る の も 未 婚 の 母 と な る の も 「 特 殊 」 な こ と で は な く な り 「 自 由 」 で は あ る が , す べ て は 個人がリスクヘッジすべき問題となっている.例えば,新自由主義の イデオロギーの元では,女性の経済的自立の重要性の訴えが,児童扶 養 手 当 の 削 減 の 口 実 と さ れ て し ま う の で あ る . 無 論 , こ う い っ た 問 題 に対してもフェミニズムは異議を申し立ててきた.だが,1990年代に 入り−−1980年代から続く動きでもあるが一一ポストモダン・フェミ ニズムやポストコロニアル・フェミニズムが注目を浴び,「女性」の中 の差異が議論され始めたとき,「女とは誰か」というラディカルな問い は,選択肢自体の批判的検討の次元に問題を再度差し戻したかに思え たが,哲学論議に横滑りしたことで,実践的な問題からはむしろ遠の く結果となった.これに伴い,現実面では,「女とは誰か」という問い も,個々人の選択の自由へ,そして自己責任へと収束しつつあるよう に思われる.
このようにして個人化は,ポジティヴな相貌としての「主体化」よ りも,ネガテイヴな相貌としての「私事化」に重心が傾いていく.個 人化の重心の変化は,選択のアノミーに陥った人々を次第に精神 性の 政治へと駆り立てていくことになる.
自分らしく生きるために,自分らしさの根拠について検討・評価す るための材料を,より広範な社会関係の中に探し求める実践としての 自分探し,こう言ってよければ,倫理性の政治は,選択のアノミーに よって,選択指針を求める非常に内省的な実践たる精神性の政治へと 変容するのである.
選 択 指 針 と は か つ て な ら ば 社 会 関 係 の 中 に 見 出 さ れ た は ず の も の であるが,選択指針の正統性が問われる(選択指針の帰属処理を求め られる)中で,選択に先立って選択指針を自問自答せざるをえなくな る(選択指針の選択の帰責処理をせざるをえなくなる).このような過 程,つまり,選択のための選択指針の選択のための選択指針の選択…
・・・といった自家撞着的事態は,性々にして個人を社会関係から退却さ せる.選択のアノミーをひとつの帰結とする社会の過剰流動化は,自
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己決定と自己責任を不可分なものとし,「主体化」と「私事化」の境界 を暖昧なものとしてしまう.
ここにおいて,倫理性の政治(Ethico‑politics)は全面的に精神性 の政治(Etho‑politics)へと転換される.本稿では,以上を踏まえ,
精神性の政治とは,倫理性の政治とは異なり,アゴーニッシュな実践 への動機づけというよりは,モノローギッシュな心的行為態度(ethos)
に働きかける政治である,と定義したい.このように定義することに よって,当事者の主観的な自己了解を充足させることで,選択肢の創 造可能性が選択の自由へと切り詰められ,そこでは選択のアノミーに 陥った人々に対し,さらに心理学的なテクノロジーが機能する統治=
政治的傾向を,ある種の理念型として取り出すことができる.
ニコラス・ローズは,このような統治の現代的傾向を『<魂〉の統治』
(governingthesoul)として論じている.ローズの系譜学が描いた のは,感情や私的自己をも含む魂と呼ばれうるような自己について,
当 事 者 の 望 ん だ こ と と 統 治 側 の 意 図 と が 交 差 し , し か も そ れ が psy,,を冠する学知一一いわゆる心理学知一一を中継装置として結 びついた歴史的過程である.具体的には,さまざまな場面で,人々の 自己実現要求と,個人の興味に対する自助努力を促す形で行われる統 治側の方向付けとが,この中継装置,すなわち心理学知によって結び つけられる事態が論じられている(Rosel999).ローズが明らかにし ようと試みているのは,要するに,個人化の進展する中で,人々には 確かに選択の自由は与えられているが,こうした契機から自由ではな い と い う こ と で あ る .
2 . 2 心 理 主 義 化 と 心 理 学 化
ローズの指摘する心理学知や心理学的なテクノロジーによる政治一 一精神性の政治は,日本でも心理学化,もしくは心理主義化といった 言葉で盛んに議論されてきた.心理学化とは,心理学の用語を用いて,
心理学的な視点から,「心」についての.「心」をめぐるコミュニケー ションが盛んに行われる事態一般を指している.
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ここで述べる議論の要点を先取りすれば,心理学化と呼ばれるもの には,大別すれば,「個人的な実践としての心理主義化」と,「社会的 な処方妻という側面を持つ心理学化」を挙げることができる.だが,
こうした2側面は個人化の進展が伴う社会的な病理として,「ひとつの 作用」・「ひとつの連鎖」として解釈できる.
例えば山田陽子は,心理学一一特に現在興隆している臨床心理学一 一が,個人の内面=心理に着目し,そこに生じるさまざまな問題を個 人に即して解決しようと試みるものであることを考えれば,心理学化 が個人化の帰結であるという議論までの距離は遠くないと論じている
(山田2007).このように心理学化が個人化の帰結と関係づけられる に 至 っ た 経 緯 は ど の よ う な も の で あ っ た の だ ろ う か . こ こ で は ひ と ま ず,心理学(心理主義)化についての,森真一による議論と,斎藤環 による議論の整理を行うことで示してみたい.
森 は , 心 理 主 義 化 と い う 言 葉 に よ っ て , 心 理 学 的 還 元 主 義 の 進 行 を 論 じ て い る . 森 に よ れ ば , 数 量 化 し , 効 率 化 を は か り , テ ク ノ ロ ジ ー によるコントロールを推し進め,計算や予測可能性を高めていくよう な合理化の進行に伴って,人々は,心理学的知識や技法によって感 情 や 日 常 生 活 ま で を も 合 理 化 し , 社 会 の 心 理 主 義 化 を い っ そ う 推 し 進 め ている(森2000).つまり,森は心理主義化6)を,合理化の進化形な いしは,合理化がもたらす非合理性のひとつのバージョンと理解して い る わ け で あ る . 森 が 注 目 す る の は , 心 理 学 的 知 識 や 技 法 に よ っ て , より合理的に社会に適合するように自己に働きかけるその仕方(個人 的な実践)であると言える.もっとも,こうした自己への働きかけを すべての点において否定的に語る必要はないだろう.社会から何が期 待されているのかに始終せずに,自分にとって何が必要で何をなすべ きかを自問する実践はむしろ重要でさえある.事実,ビア.カウンセ リングやフェミニズム・カウンセリングなどは,心理主義化として片 付ければよいというものではない.問題はむしろ,その過剰であり,
そうした自問の答えを結果として社会的な要請へと導き・変換するくメ カニズム〉である.森は摂食障害を例に以下のように事態を描写して
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いる.
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すべての女性にやせるよう努力させる社会的状況は「非人間 的」な状況である.セラピストたちは,このような「非合理的」
な状況の犠牲者たちを何とかして救おうと専門知識を産出し,
治療にあたる.しかし,その職業的特性ゆえに,「個人の心理的 特性」に人の関心を集中させる知識を産出する.それはマスメ ディア等をとおして,社会へと流布していく.その結果,皮肉 にも,「非合理的な」状況を維持・再生産してしまう.つまり,
ダイエットに無罪を言い渡し,「女 性が美しくなりたいと願うの は当然のこと」という暗黙の前提を正当化するのである.(森 2000:221)
他方,斎藤はメディアやサブカルチャーを概観した上で,心理学化 を「精神分析という,自己言及的でない一回性の現象を解釈するため の技術から,一般的知識のみを抜き出す」「そうした知識のフィルター を通して,他者を,あるいは自分自身を眺めてみること」(2003:176‑7)
と定義している.心理学的知識が普及した結果,自分の精神疾患に自 覚的になる人々が増え,精神疾患が全体として軽症化した一方で,自 己スクリーニングとしても機能して軽症の病理が増加し,臨床心理学 や精神医学の受容が底上げされる(斎藤2003:207).森の議論と対比 すれば,斎藤は心理学化を,森の指摘する自己に働きかける心理主義 化(合理化)の非合理的な部分一一自己への関心の過剰が引き起こす 不安一一を,個人に帰責する形で解消しようとする社会的な処方に見
ているといえるだろう.
整理すると,森は「心理主義化」を,社会的な合理化が個人的な次 元へと浸透したものとして捉えており,その作用として,個人を今以 上に社会へと駆り立てる傾向を見出している.他方,斎藤は「心理主 義化」の副作用を,心理主義化を引き起こすような社会的なくメカニ ズム〉の批判的検討へと向かわせる契機とすることなしに,むしろ個
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即自的・内向的
人 的 な 問 題 と し て 実 際 に 処 理 し , ま た そ の よ う に 処 理 す る の が 望 ま し い と い う よ う な 社 会 的 な 傾 向 を 「 心 理 学 化 」 と 呼 ん で い る と 理 解 す る
ことができよう.
心 理 主 義 化 傾 向 高
対事的・外向的
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心 理 学 化 傾 向 高
図 1 心 理 主 義 化 / 心 理 学 化 の 傾 向 と 個 人 化 の 進 展
こうした時間的な展開は,2.1節で示した個人化(特に私事化)の 展開を補完するものであると言えよう.つまり,心理主義化は帰属処 理に,心理学化は帰責処理に相当する傾向として解釈することができ る.図1は,心理主義化/心理学化の傾向と個人化の進展を単純化し て表したものである.ここで敢えて,もう一度先に示した引用を記し ておこう.というのも,この引用は,個人化が私事化にシフトし帰責
処理の段階//側面を露にするとき,心理学知やテクノロジーによるマ
ッチポンプ的事態が生じる経緯を,何にもましてよく説明してくれる と思われるからである.
労働における自己実現の可能 性は,経営者が付帯的な報酬(例 えば,金銭的なものや社会的なもの)を労働対価として提供せね ばならないという考えからの転換を意味する.それどころか,報 酬は労働それ自体の中に見出されるようになる.経営者はそれゆ え,主に労働をできるだけ興味深くやりがいのあるものにし,ま たそれを個々の労働者にとって有意味なものになるようにお膳 立てすることに関わっている.……以前にもまして,経営者は,
従業員に労働を通じた.自己達成を提供する賛助者となっている
のである.(Ribeaux&Stephenl978:306)
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2.3学問のセラポクラシー化
こうした精神性の政治の進展は,当然ながら当事者のパースペクテ イヴの重要性を議論してきた諸研究にも大きな影響を与え,いくつか の問題をもたらしたように思われる.倫理性の政治一一つまり,社会 的な自明性に対して,当事者の視点を積極的に意義づけ,個人の選択 を重要視する「主体化」に立脚する実践は,一方では自明視されてき た前提を問題化する契機を与え,他方では社会の要請にただ単に適合 するというよりも,社会的な自明性から距離をとり自分が今何をなす べきかを自問する営みの重要性を社会に示すものであった.しかしな がら既に述べたように,倫理性の政治は,このような実践の展開と相 まって社会の流動性が高まると,逆説的にも,社会への適合をよりよ く図る実践としても機能するに至る.つまるところ,心理主義化とは,
社会的な要請として「主体化の実践」が与えられる事態を指している.
こうした事態を,例えば熊沢誠などの労働社会学者は「強制された自 発性」として指摘したが(熊沢1997),私見によれば,全体として当 事者主義の立場を採る研究者は,こうした他領域の研究者の指摘を十 分に汲み取ることも,また社会状況の変化に即して,自ら当事者主義 を批判的に検討することも少なかったように思われる.
精神性の政治の進展は,当事者主義の立場を採る社会的諸実践を,
その意図や目指すところとは別に,当事者の主観的な自己了解を慰撫 するものとして,統治におけるある種のガス抜き装置に転換したもの として位置付けることができるだろう.精神性の政治をこのように捉 えることができるとすれば,公共的なものと私的なものとを統合する 方策は存在しないとして,「ニーチェ,サルトル,フーコー的な企て を,残酷さを避けること以上に重要な社会的目標があるなどと考えて
、 、 、 、 、
しまう政治的態度に転化することがないよう,私事化せよ〔強調点原 文ママ〕」(Rortyl989=2000:136)と述べるリチヤード・ローテイ のような立場も,間接的ではあるものの,精神性の政治と解釈するこ ともできるだろう(Rortyl989=2000).なぜならこれは,倫理性の政 治を危険なものとして,むしろ脱政治化することを求めているからで
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あ る . そ う で あ れ ば , 人 々 は 私 事 化 す る こ と に よ っ て , そ こ で 慰 撫 さ れ ガ ス 抜 き す る こ と を 積 極 的 に 推 奨 さ れ る こ と に な る . こ の よ う な 選 択 肢 の 創 造 可 能 性 を 危 険 視 す る 諸 思 想 は , 能 動 性 を , 選 択 の 自 由 に 縮 減する点で,選択性の島宇宙化と呼びうるものである(宮台1994).
しかし,いまや問題は,精神諸科学における自己だけでなく,生物 医 学 に お け る 自 己 の 問 題 , 生 命 そ の も の に す ら 進 展 し て い る . 生 命 力 は資本となり,商品化され,多様な人間生命の価値を検討するという 政治が実際に生じている(Rose2007).
常に既にわれわれは,自分自身を psy',を冠する学知よって語る
のみならず, bio,,を冠する学知によっても語ってきた.諸々の選
択 の 責 任 が 個 人 に 帰 結 さ れ る 現 代 社 会 に お い て , わ れ わ れ は カ ウ ン セ リングを受け自己分析を行い,エクササイズやダイエットに励み,イ ンフォームド.・コンセントを受け,ドナーカードに記入し,不妊治療 や出生前診断に悩む中で,直接もしくはメディアを通じて,精神や身 体,生命の専門家たちからある種の価値に根差した諸原則を受け取る こ と に 甘 ん じ て い る . 現 代 の 統 治 は , 精 神 性 の 政 治 に よ っ て 一 一 私 た ちを適切に導こうとする新しい権威を介して,自己実現や健康増進と い っ た 個 人 主 義 的 な 諸 価 値 に 働 き か け る こ と に よ っ て , な さ れ て い る のである.
当 事 者 に と っ て , こ の よ う な 状 況 の ど こ に 問 題 が あ る と い え る の だ ろ う か 5 強 制 と 同 意 の 境 界 は 不 鮮 明 で あ り , わ れ わ れ は 一 方 的 に 導 か れるのではなく,導き導かれようと努力しあうダイナミズムの中に生 き て い る . 問 題 や 不 全 感 を 抱 え る 者 も い る だ ろ う が , 心 理 学 的 な テ ク ノ ロ ジ ー や バ イ オ テ ク ノ ロ ジ ー が 適 切 に 機 能 す る こ と で 対 処 さ れ う る な ら ば , 当 事 者 の 自 己 了 解 に 共 感 的 で あ ろ う と す る 社 会 的 諸 実 践 , も しくは私事化によって選択性を島宇宙化しようとする思想は,その適 切な機能を支える以外に道はないのではあるまいか.
以下では,社会構築主義と倫理性の政治の内的な関係を論じ,構築 主義がこれまで果たしてきた重要な役割が,精神'性の政治の進展ゆえ に , ど の よ う な 問 題 を 抱 え る こ と に な っ た か を 検 討 す る . そ し て , ひ
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とつのありうべき方向性として,「克己する営み」という自己の統治の あ り 方 を 提 起 す る こ と に し よ う .
3 構 築 性 か ら 能 動 性 へ
3.1社会構築主義の陥穿
社 会 構 築 主 義 は , 脱 構 築 が そ の メ ル ク マ ー ル に な る ほ ど に 差 異 の 政 治を推し進め,〈本質〉の措定によってもたらされた抑圧から,人々を 解放する役目を担ってきた.その典型として,男女というカテゴリー と格闘してきたジェンダー論や,アイデンティティに関する問題を社 会 学 の 姐 上 に 載 せ た 自 己 物 語 論 を あ げ る こ と が で き る だ ろ う . こ れ ら の 議 論 は あ る 種 の 権 力 一 一 境 界 を 定 め , 個 々 人 に ア イ デ ン テ イ フ ァ イ を 迫 る 構 築 権 力 と で も 呼 ぶ べ き も の − − に 異 議 を 申 し 立 て て き た . 措 定された本質が,単に人々を抑圧するだけでなく,当事者にとっても ま さ に 本 質 的 な も の と 感 じ ら れ る が ゆ え に , 根 深 い 抑 圧 を も た ら し て い る と 主 張 し て き た の で あ る . こ う し た 異 議 申 し 立 て に は , そ の 出 発 点 に お い て す で に , 異 議 申 し 立 て 自 体 の 権 力 性 や 政 治 性 に 対 す る ジ レ ンマが意識されていた.
確 か に , 本 質 的 で あ る と 思 わ れ て い た も の の 恋 意 性 を 指 摘 す る 議 論 が意義をもった時代はあった.すなわち,真理と政治が交差する地点 にく本質〉が措定され,〈本質〉の回復を図るものとされた政治的行為 に対して,政治的行為に正統性を付与するく本質〉の措定こそが暴力 的である,と指摘する意義はあった.しかしながら,自明性の喪失自 体が自明になった現在,社会構築主義的な立場は,異議申し立ての機 能 に お い て は , そ の 役 目 を 終 え つ つ あ る . 社 会 構 築 主 義 と い う 立 場 そ のものが当初から抱え込んでいる権力 性や政治性は,いよいよ無視で きないものとなっているからである.以下で指摘するように,社会構 築主義的な立場は今では,精神性の政治という意図せざる帰結をもた ら し て も い る の で あ る . そ れ ゆ え , わ れ わ れ は , 社 会 構 築 主 義 の 立 場 に拘泥すること,あるいはこの立場を守株しようと試みることは,も
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I土や不毛であると考えている.今問題とされるべきはむしろ,美学と 政 治 が 交 差 す る 地 点 に く 実 存 〉 が 浮 上 す る こ の 時 代 の , そ の あ り 様 に 他ならない.
社 会 構 築 主 義 を 掲 げ る 議 論 の 多 く は , 既 存 の 自 己 や 主 体 は , 何 に せ よ 統 治 側 の 最 終 目 的 に 役 立 つ 手 段 と し て 扱 わ れ る も の で あ っ て , そ れ 自 体 で は 価 値 が な い と 主 張 し て い る . こ の 主 張 を 全 面 的 に 認 め る な ら ば , わ れ わ れ は 他 者 か ら の 認 知 と 自 尊 心 と の 間 で 進 退 に 窮 す る こ と に な る だ ろ う . と い う の も , 原 理 的 に は , こ の 種 の 主 張 に お い て は , 他 者に受け入れられることに甘んじるのは,現在の自分自身を受け入れ ることでもあるからである.にもかかわらず,自己や主体の社会的な 構築性を問題視し続けるこれらの議論は,他者との感応性において「人 間 は み ず か ら つ く る と こ ろ の も の 以 外 の 何 も の で も な い 」 と い う サ ル トル的な実存主義と親和的であるか,さもなければ,社会的な構築性 をあまりに強固で摩擦係数の高いものと見積るあまり,社会的な構築 性 を 問 題 視 す る 視 座 自 体 を も , い か な る 意 味 に お い て も 規 範 的 な 文 脈 の下に正統化することができないでいる.
要するに,前者は,〈実存〉が有する政治性への自覚に乏しく,後 者は,〈本質〉が有する政治性への自覚のゆえに,戦略的本質主義を退 け る こ と も , か と い っ て 支 持 す る こ と も で き な い で い る の で あ る . こ うしてみると,自己物語論は前者の陥穿に落ち込み,ある種のジェン ダー論は後者の陥奔に落ち込んでいるということもできる.自己物語 論 に つ い て は 3 . 2 節 で 詳 述 す る . ジ エ ン ダ ー 論 に つ い て の 詳 述 は , 稿 を 改 め る こ と に す る が , ジ ェ ン ダ ー 論 を 大 別 す る と , 当 事 者 の 主 観 的 な自己了解に定位する議論と,社会的公正に定位する議論とが見られ,
ど ち ら の 議 論 も , 他 方 の 議 論 が 提 起 す る 問 題 を う ま く 汲 み 取 れ な い , と い う ジ レ ン マ を 抱 え て い る こ と だ け は , こ こ で 指 摘 し て お こ う .
ところで,主体の構築性はこれまでにも繰り返し議論されてきてい るのであるから,ニコラス・ローズ(Rosel999)が指摘しているよう に , 議 論 は 次 の ス テ ッ プ へ と 移 さ れ る べ き で あ る . す な わ ち , 人 間 の 能 動 性 を 可 能 に し て い る も の は , 何 で あ り う る か と い う 問 い で あ る .
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社会学論考第29号2008.10
山之内靖は同じ観点から,次のように述べている.
わ れ わ れ が 問 題 に し な け れ ば な ら な い の は , 組 織 化 さ れ , シ ス テ ム 化 さ れ た 社 会 状 況 の 中 で 人 間 が 主 体 性 ・ 能 動 性 を 失 っ て し ま うという,かなりクラシックな論点なのではなく,組織化され,
システム化された集団の中で,人びとがいかなる目標,いかなる 価値規範を軸として主体的・能動的に活動しているか,というこ となのである.……問われるべきは,現代社会において人間は主 体的でありうるか否かではなく,いかなる動機を基準として行為
しているか,ということである.(山之内1982:11)
議論を次のステップへと移せば,「最終目的に役立つ手段として扱わ れる自己や主体」は,支配一権力批判という視座からではなく,「権力 がどう機能するかは,権力に対して応答する自己との関係がどのよう であるはずか」という視座から,〈実存〉やく本質〉への居直りとして ではなく,むしろ権力の肯定的な次元において,すなわち,自己の統 治という観点から再び見出すことも可能となるはずである.言い換え れば,われわれは既に恋意性の指摘から,次の一歩をどのように踏み 出すべきなのか,あるいは次の一歩とは何か,という問題に立ち向か わ な け れ ば な ら な い 地 点 に あ る と い え る .
3 . 2 エ ン ク ラ テ イ ア
この問題に対して,われわれは「克己する営み」7)という往年の生 活様式のスタイルを改めて提起してみたい.克己は,「人が他者に対し
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て行使する権力において,自分自身にむけて行使する一つの権力であ る〔強調点原文ママ〕」(Deleuzel986=2007:185).克己はまさしく ひとつの権力である.克己する営みにおいて重要なのは,あくまで他 者との関係において自分自身と対自することであり,他者との関係に おいて自己を表出することでもなければ,承認をめぐる直接的な闘争 でもない.克己するとは,こう言ってよければ,ヘーゲルにおける自
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己 疎 外 に 近 い 概 念 で あ る . し か し , 歴 史 の 必 然 的 な 法 則 性 を 前 提 に す る の で は な く , 権 力 の 諸 関 係 の 偶 然 的 な 不 可 測 性 に 足 場 が 置 か れ て い ることは重要な差異である.その意味では,克己とはカントにおける 理 性 の 公 的 な 使 用 と 通 底 す る と こ ろ が あ る . カ ン ト は 次 の よ う に 述 べ て い る .
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自 分 で 考 え る こ と は , 真 理 の 最 上 の 試 金 石 を 自 分 自 身 の 中 に
(つまり自分自身の理性の中に)求めることである;そして常に
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自分で考えるという格率が啓蒙である.ところで人が啓蒙を知識 の う え で の 啓 蒙 だ と 思 い 込 ん で い る か ぎ り , そ の よ う な も の は 啓 蒙には含まれない.なぜなら啓蒙とはむしろ,認識能力の使用に おいては否定的な原則であり,知識に非常に恵まれている人ほど,
時 と し て 知 識 の 使 用 に お い て ま っ た く 啓 蒙 さ れ て い な い か ら で ある.自分自身の理性を用いるということが意味している当のこ とは,人がどんなことを想定しようとも,想定する際の根拠とか 想定から帰結する規則が,自分の理性使用の普遍的原則として十 分に可能だと自分でわかっているかどうかを自分自身に問うと いうことである.誰しもがこのような吟味を自分自身に試みるこ と が で き る . 彼 が た と え 迷 信 や 狂 信 を 客 観 的 根 拠 に よ っ て 論 駁 す るほどの知識をもちあわせていないとしても,このような吟味を すればただちに,それらが消えうせるのがわかるであろう.とい
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