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       アメリ力教育改革の動向

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       アメリ力教育改革の動向

黒崎 勲

1 教育改革の引き金

 1983年に刊行された『危機に立つ国家』(ANationαt Risk)は戦後最大の 規模の教育改革運動の引き金となったと,今村令子氏は述べている (『永遠の

「双子の目標」」1990年,東信堂)。さらに1986年を一っの境にして,改革のよ りいっそうの徹底を求める動きが高まり,それは改革の第二の波と呼ばれるこ とになった。

 1957年にソ連がスプートニクの打ち上げに成功したショックから国家防衛教 育法が成立した例と比べるならば,『危機に立っ国家」に描がかれたアメリカ の危機は国際的な経済競争におけるアメリカの優位性の崩壊といったものであっ た。しかし,これら一連の教育改革の内容は,1960年代半ば以降の福祉的な平 等主義による教育政策の失敗を批判して,単に経済的な競争力を回復し,アメ

リカの国際的地位を回復させるといったものにとどまらない深さをもっもので あるように見える。1987年に相次いで刊行されたED.ハーシュの『文化リテ

ラシー:アメリカ人が知っておくべきこと』(Hirsh, E, D., Cultural Literacy

VVhat Every.A men cαn Needs to Know, Houghton Mifflin Co.,1987)とアラ

ン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉:高等教育はいかにデモクラシー を衰退させ学生の心を貧しくしたか』(Blume, A., The Closing of the Americαn Mind, Simon&Schuster Inc.,1987)の二冊の書は,そうした今日

のアメリカ社会と教育の直面する問題点の深さと求あられる改革の理念にっい

て,新しい視角を与えるものとなった。

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 アメリカの世界経済上の役割は教育を改善しない限り確実に衰退するであろ う。ところで,これまでこうしたアプローチは基礎的なスキル,数学1理科教 育の改革・充実といった内容のものとなるのが通例であった。しかし,今日ア

メリカ社会が直面する教育改革の課題はそのように単純化されるものではない という主張が,そこにある。

 今日の経済的衰退をもたらした原因は国民的リテラシー,つまり国民が共通 にわかち持っべき教養,知識の衰退にあるというのである。ハーシュは教育改 革の論議のなかで公立学校の教育内容の問題が不当におろそかにされてきたと

いい,「われわれはアメリカ人が共有するべき情報の本体が痩せ細るままに放 置してきた」と批判するのである。

2 文化リテラシー派の役割

 文化リテラシーの主張が提起する教育改革の課題と構図はアメリカ社会の正 統化の危機と呼ぶべきものであろう。アメリカ人として生まれる人はいず,そ の社会の生活を通してアメリカ人になる。人々はアメリカ人になるためにアメ

リカに移住してきた。その際学校教育,とりわけ公立学校教育の果たしてき た役割は極めて大きなものがあったというのは,いわば常識である。アメリカ 人のアイデンティティがデモクラシーにあるとすれば,建国の歴史と合衆国憲 法にっいて理解するための読解力・社会的知識・市民感覚といったものが共有 されなくなりっっあるという現状は,きわめて危機的なものと言わざるを得な

い。

 公民権運動に代表される1960年代の社会批判においては,白人文化の優越性 が批判の対象に据えられていた。メルティング・ポットとしてアメリカ社会を 描くことは,事実としてのホワイト・アングロサクソン・プロテスタント文化 の支配を容認するものと糾弾され,文化的な多元性が主張された。メルティン

グ・ポットに代えてサラダ・ボールの比喩が言われもした。そうした文化的多

元性を承認しえたのは,今日の事態と比べるならば,歴史的な環境が背景にあっ

たからである。黒人とアメリカインディアンと呼ばれてきた先住民族を除けば,

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ヨーロッパ社会から自由を求めて移住してきた人々の間での文化には相当の共 通性があったし,黒人もまた英語を自らの言語としてきたのである。しかし,

21世紀の前半には人口比でマジョリティでなくなるという白人社会を脅かす新 しい移民集団は,スペイン語やアジア諸国の言語を自らの言語とし,ヨーロッ パに源流をもっ文化遺産の価値をかならずしも承認せず,建国の歴史を共有し ない人々である。こうした社会での文化の多元性の単純な承認は,アメリカ社 会の紐帯の消滅を意味することになるのではないか。文化リテラシー論の背景 にあるのはこうした危機意識であろう。文化リテラシー論への賛同者がいわゆ る新保守主義者に止まらず,リベラル中道派とみなされている人々にまで幅広

く広がっているのも,こうした危機感の浸透があるからであろう。

3 ナショナル・ゴールの設定と市場の機能

 以上はアメリカ教育改革の動向にっいてのスケッチである。さて,日本教育 学会第54回大会の公開シンポジウム「現代国家とカリキュラム:教育改革の行 方 日・英・米比較の視点から」において基調報告を行った佐藤学が提起しよ うとした課題の一っは,現代国家の教育改革に共通する動向として認められる,

ナショナリズムと市場経済という二っの原理の関係である。佐藤報告は,この 二っの原理が共犯的に連動していると指摘している。同じシンポジウムで提案 者となった志水宏吉もこの問題に触れて,中央集権化と市場原理の二っが1988 年法によるイギリス教育改革の原則であるとした上で,この二っの改革の原則 は,ある意味で対立しあうものだとし,このたびの教育改革は,果たして内部 に矛盾をはらんだものなのだろうか,と述べていた。この課題に対する志水の 追求はあっさりとしたもので,サッチャー政権を支えた勢力を新保守主義者と 新自由主義者とに整理し,この両者の妥協の産物として教育改革を捉えようと している。彼自身認めるように,それはある意味では通俗的な観測の域を出て いない。また,佐藤は,先の課題に対して十分な説明をしてはいないように見

える。

(4)

4 アカウンタビリティの基準としてのナショナル・ゴール

 確かに佐藤報告が言うように,現代国家の教育改革の課題意識はナショナリ ズムの言葉をもって語られている。イギリスではナショナル・カリキュラムと ナショナル・テストが導入された。アメリカでもまたナショナル・ゴールの設 定が世論となっている。「ゴール2000」とは,現政権の教育改革のキーワード に他ならない。では,こうした改革が市場原理の導入という改革原則を強調す るのはどうしてなのか。志水が言うように,それは対立し,矛盾をきたす二っ の主張の妥協の産物なのであろうか。そうではないであろう。というのは,市 場原理の導入は,国家の存在を強調する教育改革のなかに,整合的な位置を占

めていると思うからである。

 1988年法によるイギリスの教育改革の中心的な内容としてナショナル・カリ キュラムとナショナル・テストの制度の導入があったことは志水報告にもある とおりである。地方分権を原則とし,連邦政府の教育への関与を憲法上排除す るアメリカ合衆国においても,1989年8月の教育サミットに象徴されるように,

全米に共通する教育目標の設定の動きは顕著である。『ニューヨーク・タイム ズ』も教育サミットに関連して,教育専門家も政策担当者も,全国共通の学校 教育達成目標,いわゆるナショナル・ゴールを決定するべきだという考え方を いまや広く受け入れていると論じている。1989年のギャラップ調査では70%の 親が公立学校に全国共通の教育目標および達成度の基準の導入に賛成するにい たっている。

 文化リテラシー論とあいまってナショナル・ゴールの設定が志向されている ことは伝統的な分権主義を守ってきたアメリカ合衆国の教育行政にとって,こ れはきわめて特筆すべき傾向である。一九八九年のギャラップ調査の解説者は

「(アメリカの一般市民は)合衆国の公立学校の伝統的な管理・運営政策を破壊

しっくすような変化を受け入れる用意ができている(という以外に解説のしよ

うがない)」と述べている。しかし,これを国家主義の台頭とか中央集権的な

教育行政による教育統制の容認と呼ぶことには問題があるのではないか。ここ

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で問われているのは,これまでの教育システムの失敗の現状にっいてであり,

教育改革が真に成功するための新しいシステムへの志向なのであった。詳細に 見れば,ナショナル・ゴールの設定を目指す教育改革の説明論理は,教育のア カウンタビリティの実現ということであるように考えられる。この点で,ナショ ナル・ゴールの強調と市場原理の導入とは現代国家における教育改革の全体構 図のなかで整合的な関係をもっことになるのではないだろうか。

 市場原理とナショナル・ゴールとの関係にっいて,この二っの改革原理を整 合的に理解するためには,市場原理の理解を吟味しなければならないと思うが,

それにっいては改めて後述するとして,その前にナショナル・ゴールの設定の 側の論理にっいても,同様にいわば素朴な概念砕きともいうべき検討が必要だ と思う。というのも,今日,アメリカやイギリスという国々の教育改革におい て教育のナショナル・ゴールを設定するという動きが顕著になっているという 場合,それを我々が日本の教育政策に即してよく批判してきたような国家主義・

国家の教育統制といったイメージで単純に捉えることは出来ないように思える からである。これらの教育改革においてナショナル・ゴールの設定が主張され るのは,国民教育において国家を道徳の教師とするという意味での教育の国家 統制の主張とは相当に違っているように見える。そこで教育の全国目標(ナショ

ナル・ゴール)が問題となっているのは,国家主義の提唱と言うよりも,これ まで専門職主義の名の下で教育関係者の自由にゆだねられてきた教育システム の有効性を疑い,これに対して厳しく責任(アカウンタビリティ)を問う声が 広がってきたということではないか。教育に対してアカウンタビリティを問う

というのは,教育システムの効果を評価するということに他ならないから,評 価の基準となる教育の結果がまず設定されなければならない。ナショナル・ゴー

ルの設定がこうして教育改革の中心舞台に登場してきているということではな

いだろうか。

 例の文化リテラシー論は民主主義が前提にする価値の相対主義の承認が,今 日では人々を安易な不可知論に止めるようになってしまい,価値観の多元性の 主張が懐疑主義に堕してしまっていると主張している。これもまた専門職主義

による教育システムの運営の結果に対する批判に他ならない。

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 教育の効果は,厳密にいえば,社会的レベルでみれば百年単位のものかもし れないし,個人のレベルで見ても数十年単位のことになる。また,教育が効果 をあげるべき事柄は知的な能力の発達に限られているわけではなく,また,個々 人によっても教育の目標自体に様々な違いが存在するわけであり,はたして数 量的な形などで評価しうるのかどうかにっいては,きわめて懐疑的にならざる

をえない。これは日本でも通用している教育専門家の常套的なレトリックであ る。こうして,教育システムはほとんど外部的な効果的評価をうけずにここま できたといえる。

 しかし,理論的に困難であるといっても,なんといっても深刻な教育の失敗 としかいいようのない事態が人々の目に映っている。これが今日の教育改革の 出発点になっている。このように考えるならば,教育の全国目標の設定という 改革動向は,いわゆる国家主義の台頭というよりも,主として専門職主義と官 僚制に囲いこまれて有効な機能を喪失してしまっている現行教育システムに対 する直接的な批判なのであり,アカウンタビリティの名の下で新たな教育シス テムを構築する前提となっているととらえることができるように思う(D。

5 1960年代半ば以降の教育改革への反省

 1960年代半ば以降の平等主義に立っ教育政策は,膨大な財政支出を生み出し た。1965年に成立した初等中等教育法第一章は初等中等教育財源に占める連邦 政府支出の比率を3%から8%にまで飛躍的に上昇させたとされる。しかし,

この時期の膨大な教育改革のための公共財政支出が実際に教育Eの効果と結び っいたのかどうか,疑わしいものがあった。すくなくとも,その効果は当初一 連の教育改革の実施に当たって期待され,理論的に説明された目標と比べるな らば,まことに控えめなものであったとしかいいようがない。1970年代にニク ソン政権のもとで,こうした疑念はピークを迎える。レーガン政権はその教育 改革戦略を立てるにあたって,このアカウンタビリティの達成について積極的

に自ら指導性を発揮しようとしたのである。ナショナル・ゴールの設定が目指

されたと同じ時期に,教育改革の切り札のように提唱されたのは学校選択のア

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イディアであった。学校選択の基本的なアイディアとは,いうまでもなく市場 原理の導入である。こうして,ナショナル・ゴールの設定と市場原理の導入と

いう,一見あい矛盾するような戦略が並立しているのは,アカウンタビリティ の要請に応えうる新しい教育行政システムの模索としてであった。

 ところで,市場原理の導入,すなわち市場の力による秩序の維持という主張 は,そのまま国家の存在を希薄にするというものではない。要点は,市場原理 の導入が教育諸機関のアカウンタビリティを高める手段として強調されている ところにある。一国のシステムとして,日・英・米の三国においては,いずれ も現行教育制度が厳しくアカウンタビリティを問われているといっても良いだ ろう。学校選択論の極めて強力な擁護者となったチャブの論議は,市場原理と 学校選択制度の提案を,民主制とならぶアカウンタビリティのシステムとして 相互に比較し,その優劣を競うものと意義づけている。ここでみられる教育改 革論における市場原理の導入は,国家統制と官僚制とによって衰弱させられて

きた社会諸機関の機能を市場原理によって再生させようとの主張であった。

6 市場と個人主義

 さて,ナショナル・カリキュラムや中央集権的な教育管理の動向と市場原理 の導入という二っの教育改革原理の関係の問題に戻ろう。この二っを,相対立 する原理とし,今日の教育改革を二っの勢力の妥協とみたり,単に二っの原理 の共犯関係などと事実追従的に表現するだけでは,現代国家の教育改革のリア ルな姿を捉えたことにはならない。(したがって強い国家の提唱と市場原理の 導入とはたとえばサッチャー政権の政策原理として,一っに統合されたものと して実行されているという事実を指摘するだけでは問題の解決とはいえない。)

この両者の有機的な関係,相対立すると通常理解されている二っの原理を関係 づける理論構造が解明されなければならない。

 ハイエクの有名な論文「真の個人主義と偽りの個人主義」の冒頭には,次の

ように書かれている。すなわち,「(個人主義に対する通常の誤解のうちでも一

番馬鹿げた)誤解というのは,個人主義というものは社会に在ることによって

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本質と性格が全面的に規定される人間から出立しないで,孤立した個人,ある いは自給自足的個人の存在を前提にする(あるいは,そのような個人を想定し て議論する)のだという思いこみである」(F・A・ハイエク『市場・知識・自 由』ミネルヴァ書房,1986,8頁)。

 ここでハイエクが主張するのは,個人主義というものが社会と個人にっいて の規範的な論議なのではなく,社会にっいての経験科学上の理論だということ である。(経験科学というのは,ハイエクにとっては経済学になるが。)そして

この個人主義の真の特徴は,「社会やその他の社会的な全体的存在を,それら を構i成する諸個人とは独立に存在する特殊な実体として直接に把握できると主 張する本来の集団主義的理論」に向けられた批判にあるということであった。

ハイエクは「自由な人びとの自然発生的な協力は個々人の知性が完全に理解で きないほどの偉大な事物をしばしば創りだすこと,そういうことが個人主義の 主張である」と述べ,「人間の諸事象における理性の役割を一般にいずれかと

いえば低く評価し,人間が理性によって導かれるのは部分的にだけであり,個 人の理性はきわめて極限されていて不完全であるという事実にもかかわらず,

人間は現に所有するものを成しとげた」のだと主張するところに真の個人主義 の所以があるとしている。

 ハイエクが説くのは個人主義が社会および国家の存在や役割の強調と対立す るものではないということである。むしろそこでは,個人主義は,「発見でき るすべての秩序が(理性による)計画的な設計による」という観念,いいかえ れば「大文字の理性がっねに完全にかっ平等にすべての人間に通用すると考え,

人間が達成する一切は個人の理性の支配の直接の結果であり,したがってまた 個人の理性の支配に服する」という考えを排除するものとなっているのである。

 ハイエクの個人主義の定式には異論もあろう。その社会理論に対しては,日 本への紹介者自身が「ハイエクの「自由な社会』は,よく考えてみるとずいぶ ん厳しい社会である」と,戸惑いを隠せないでいる。しかし,今はそのことに はふれないでおこう。問題はこうした社会理論の下での,教育のナショナル・

ゴールの設定と市場原理の導入という二っの教育改革原理の関係把握にあった。

ハイエクに言うように,個人主義の強調が社会や国家の存在と役割にっいての

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軽視にっながらないとすれば,市場原理の導入もまたナショナル・ゴールの設 定と矛盾するものではなくなる。個人主義を国家に先立っ個人の(尊厳の)承 認とみるのが通説であり,であればこそ個人主義は国家主義に対立するものと されうるのだが,ハイエクはそのような見方を否定している。そこでは人間は

「社会に在ることによって本質と性格が全面的に規定される」と述べられてお り,通説的な個人主義の理解を「自給自足的個人の存在を前提にする」という 点で,ありうる誤解のなかでも「一番馬鹿げた誤解」であると斥けられている

のである。こうして個人主義はいわゆる国家主義と対立するものとしてではな く,社会と国家の偉大な状態を実現するための理念として,より率直に言えば,

そのための条件として価値づけられた言えるだろう。ハイエク自身の言葉を使 えば「真の個人主義は第一次的には社会の理論,すなわち人間の社会生活を規 定する諸力を理解する試み」だということになる。ハイエクが個人主義を規範 的な論議ではなく,社会にっいての経験科学上の理論としたというのは,この

ことである。

 真の個人主義と偽りの個人主義というテーマにすでに明瞭に表れているよう に,ハイエクの,個人主義を擁護する議論は,「社会過程が個人の人間理性の 統制に従属させられるときにかぎって人間の諸目的に役立っようにされうる,

という結論に必然的に至りっく」設計理論,あるいは合理主義的「個人主義」

批判に向けられていた。これは直接には社会主義批判に結びっけて理解される ものだが,それは現代社会の官僚制に対する批判としても鋭い含意をもっもの であることは明らかでる。ハイエクは官僚化された力によって社会過程を規制 することが現代社会の社会生活から活力を奪い,社会と国家の健全さ,偉大さ

を失わせていると考えている。社会と国家の偉大さを回復するために社会生活 を規定する諸力を分析すれば,「ひとりの人間の知識と関心の構造的な限界性」

という知的事実に行き着き,さらに「個人の理性はきわめて極限されていて不 完全であるという事実にもかかわらず,人間は現に所有しているものを成しと

げた」という社会的歴史的事実が浮かび上がってくる。こうしてハイエクの議

論は「社会過程が個人の人間理性の統制に従属させられるときにかぎって人間

の諸目的に役立っようにされうる」という偽りの個人主義に対抗するものとし

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て,「人間は自由にしておかれると,個人の人間理性が設計しあるいは予見し うる以上のことをしばしば成しとげる」ことを主張するものとなる。

 いうまでもなく,ハイエクが強調してやまない,「人間(に)社会の共同目 的に対してかれの力で出来るかぎりの大きな貢献をなさしめる」,いいかえれ ば,限界性をもっ個人の活動を偉大な事物の創造への参与に変える非個人的で 社会的諸過程とは,市場のことにほかならない(2)。「(古典派の)経済学者たち

がはじめて理解したことは,当時すでに成長していた市場が,人間がかれの理 解できない複雑かっ広範な過程に参加するように仕向けられる有効な道である

こと,人間が『かれの意図に入っていない目的に」貢献するように仕向けられ るのは市場を通してであることであった」(ハイエク,前掲書,17頁)。

7 経済的要請と教育改革

 さて,佐藤報告が提起するもう一っの論点は,産業主義との関係であった。

『危機に立っ国家』も,1988年法による改革も,いずれもそれぞれの国家の経 済的地位の衰退に対する危機意識から出発していることは確かである。しかし,

その改革の論理は,かってわれわれが高度経済成長のための教育改革の理念と して掲げた教育の多様化政策などの内容とは大きく違っているように見える。

…言で冨えば,現代国家の教育改革は経済主義的枠組みを超えたところで展望 されていると言えるのである。

 1960年代の我が国の教育政策の基調が教育の多様化を理念とするものであっ たことは周知の所である。そこではカリキュラムは社会的要請に即応して,階 層化される職業能力を形成することに直結していた。多元的能力主義と呼ばれ

ることになったこの教育の多様化理念に導かれたカリキュラム編成原理は,

1960年代以降の日本社会において実際には一元的能力主義として機能したとい

う分析がある(乾彰夫『日本の教育と企業社会」1990年,大月書店)。カリキュ

ラムにっいての社会的要請が経済主義的な枠組みだけでは説明しえない複合的

なメカニズムをもち,あるいは予期せぬ結果としての教育の機能をみすえると

いう課題意識は,こうした検討にとっては新しいものとはいえないだろう。し

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かし,今日われわれの前に展開するアメリカと日本の教育改革が経済主義的な 枠組みを超えているとあえて指摘するのは,さらに根元的な意味においてであ

る。

 普通科高校と職業科高校との分割が,そして職業学科高校内部における工業 科・農業科・商業科等の分割が,現実の職業能力の形成として把握されるので はなく,生徒の能力の程度を格差的に示す指標として機能してきたというのが,

1960年代以降の日本の教育の多様化政策の実質であった。第一四期中央教育審 議会中間報告は,これを多元的な原理を多層化させるメカニズムの働きと「冷 静に」分析してみせた。それは教育と経済とを短絡する経済主義的な枠組みが,

終身ないし長期的雇用を前提とし,個別企業に一体化する職業意識と現職教育 の重視という条件に媒介されたにすぎないということでもあった。しかし,今 日の教育改革が経済主義的な枠組みを超えたものとなっているというのは,社 会にっいても教育についても,従来それらを正統化してきた条件が消滅し,正 統化の新しい論理を生み出す必要に迫られているという事態に照応しているの である。それは経済的な要請への即応を迫られてきたといった,これまでの教 育改革以上に深刻な,あえていえば政治危機に導かれたものであるように思わ

れるのである。

 文化リテラシ・一一論に対してはヨーロッパ文化,端的にWASP(White Anglo−

Saxon Protestant)の文化的優越を説くものであるという抜きがたい批判が っきまとうが,その主張が民主主義の精神が社会のアイデンティティとして,

社会の紐帯として力を失いっっあるという危機意識に支えられていることは,

言葉のレトリックというよりも,掛け値なしのものと見た方が良いのではある まいか。青年の歴史あるいは文学の知識水準を問題にする文化リテラシー論の 側に立って,全米教員連盟会長アルバート・シャンカーは,次のように発言し

ている。「独立戦争や憲法の何たるかを知らなければアメリカン・デモクラシー

の概念を理解することはできない」と(3)。

(12)

8 教育の正統化の危機

 ところで,正統化という観点からみれば,日本における教育改革が直面する 正統化の危機はなによりも教育制度の正統化の危機なのではないだろうか。階 級・階層間の対立や人種差別などの社会的障壁にそれほど強い意識をもたずに 人々が暮らす口本社会にあっては,不平等や差別などへの視野は,教育それ自 身の問題把握のなかで閉塞することになるという観察がある(苅谷剛彦『大衆 教育社会のゆくえ』中公新書,1995年)。教育において個人の能力の差異的処 遇の一切が差別感を生むという理由で非教育的なものとされる平等主義の意識 が,生徒のほとんどを巻き込む能力主義競争を激化させるという実態は,常に

日本における教育改革の動向に,〈教育の荒廃に対して真の教育の姿を提示す る〉という構図を強要する。アメリカ社会において生徒の学力低下は,かって は経済競争力の欠如の原因として,今ではアメリカ民主主義の崩壊の危機とし て問題化されていた。日本においては,学力低下の問題は「落ちこぼれ」問題

として,っまり学力の低下として問題化している。アメリカ社会では社会の正 統化の危機が教育改革の課題を提起するのに対して,現在の日本では教育の危 機が教育改革への衝動となるのである。乱反射と佐藤報告が把握するように日・

英・米三国の教育改革動向の関係には,現代社会において既存の教育システム が機能不全に陥ったとする強い共通性を前提にしながら,こうした社会的文脈 の異質性からくる複雑さが伴っている。

(1) 個人主義の主張と国家の役割については補足が必要だろう。ハイエクはこう言っ

 ている。「計画的に組織され意識的に方向づけられた力の体化物たる国家は,われ

 われが「社会』と呼ぶはるかに内容豊かな有機体の小さい部分にすぎないものであ

 るべきこと,そして,国家は人びとの自由な(したがって「意識的に方向づけられ

 た」のではない)協力が最大限の活動の範囲をもっような枠組を与えるだけである

 べきことが,個人主義の理論の強調点である。」国家の役割の限界を指摘するこの

論述は,これまでの議論とどのように折り合えるのだろうか。ここでも国家が計画

(13)

的,組織的,方向づけられた力の体化物と修飾されているところに注目しなければ  ならない。国家の偉大さを強調すること,強い国家を目指すことと市場原理に依拠 する真の個人主義とが対立しているわけではない。ハイエクはこの論文の結びで

「個人主義がわれわれに教えることは,社会が個人よりも偉大であるのは,社会が  自由であるかぎりにおいてだけだ,ということである。社会が統制されあるいは指 導されるときには,社会は社会を統制し指導する個人の知性の力に限定される」と 述べている。「社会」という言葉を「国家一社会」という言葉に置き換えことによっ  て,その趣旨は明快なものとなるだろう。

(2) ハイエクの市場の有効性についての議論には,教育政策の分析にとって,いく  っかの注目すべき洞察含まれている。たとえば,「幸いなことに,人びとは平等で  はない。そしてまさにこの事実のおかげで,諸機能の分化が組織の意志の恣意的決  定によってきめられる必要がなく,万人に同じように適用される平等な規則を作っ  てしまえば,各個人がそれ相当の地位に落ちつくのに任せることができるのである」

 とハイエクは述べている。これは諸個人間の諸機能の分化を教育政策の中心的課題  としてきたかのようにみえる60年代以降の日本の教育の多様化政策と照応させて,

 妥当性を問い直させるべき主張であろう。さらに,アダム・スミスのような個人主  義の偉大な著者たちが「個人の利害の衝突にたんに気づいていたぐらいではなく,

 『うまく組み立てられた制度』」,すなわち「あるグループの意見と利害がっねに他  のすべてのグループのそれを圧倒するような力をどのグループにも与えることなし  に,相争う利害を和解させるような制度の必要を強調した」とも述べている。現代  社会における正義論の最良の成果が前提としているのは「適切な背景となる制度を  ともなう適切に規制された」市場(ジョン・ロールズ)であった。これもまた十分  な精査を必要とする論点である。いずれも『教育と市場:教育学年報第5号」(1996  年9月1日刊行)に掲載する予定の論稿において検討を深あたいと考えている。

(3) シャンカーの発言は今村令子『永遠の「双子の目標」』東信堂,1990年による。

 なお,マイケル・アップルは,1980年代のアメリカ教育改革のキー概念となった学  校選択という政策アイディアにっいて,政治危機から教育を切り離し,教育の失敗  を正統化の問題とすることを回避する戦略であると把握している。ここでも,逆の  立場からではあるが,今日の教育改革が社会の正統化の課題から導かれているとの  認識が示されているといえよう。

* 本稿は日本教育学会第54回大会での公開シンポジウム「現代国家とカリキュラム:

 日・英・米比較の視点から」の準備過程において,主としてアメリカの改革動向を

踏まえて報告を行う予定の提案者が出席できなくなるかもしれないという事態に対

 して急遽用意されたものである。公開シンポジウムの佐藤学および志水宏吉両氏の

(14)

報告のみが検討の対象となっているのはそのためである。なお,当日の提案者の報

告の全文は大会実行委員会が編集した『戦後50年と教育学:日本教育学会第54回大

会シンポジウムの記録」に収録されており,また,討論の概略は「教育学研究:大

会特集号」(63巻1号)に紹介される予定である。

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