台湾人から見た台湾総督府
― 適応から改革へ向かう台湾人の政治運動について ―
Jan. 2007 野口 真広
早稲田大学21世紀COE「現代アジア学の創生」研究員
台灣人眼中的台灣總督府
- 從適應邁向改革的台灣人民政治運動 -
Jan. 2007 野口 真廣
早稻田大學21世紀COE「現代亞洲學的創生」研究員
はじめに
1.総督府と台湾人の関係
1.1.総督府との関係性と政治的意味 1.2.台湾史上における抵抗概念
2.日本統治への協力意識 2.1.統治への適応 2.2.統治改革への提言 おわりに
前言
1.總督府與台灣人民之間的關係
1.1.台灣人民與總督府間的關係及其政治意涵 1.2.台灣史上的抵抗概念
2.台灣人對日本統治的協力意識 2.1.適應統治的過程
2.2.對統治改革的建言 結語
概要
本稿では、台湾人と総督府との関係を抵抗と支配からのみ論じるのではなく、台湾人が 総督府と共に統治改善を担っていたことに注目し、総督府施政の再考を試みている。その 際、台湾人側の史料を重視し、台湾人の視点から総督府の施政を捉え直すことに心がけた。
これまでの台湾史研究においては、抵抗、統合、支配という抵抗史観的な枠組みを研究 視角の前提とする傾向があった。黄昭堂の『台湾民主国の研究』[黄 1970]や、許世楷の
『日本統治下の台湾: 抵抗と弾圧』[許 1972]、若林正丈の『台湾抗日運動史研究』[若林 2001]など、いずれについてもこれは当てはまる。抵抗史観的枠組みの問題は何か。それ は、支配者側を批判するために抵抗という論が持ち込まれると、抵抗に拮抗するはずの支 配があったという結論を導いてしまうことである。そして、この拮抗状態が皮肉にも「均 衡状態」を生み出し、台湾統治が安定したことを論証してしまうのである。また、抵抗史 観に基づくと、台湾人は抵抗的であるべきという規範を生む。この規範に当てはまらない 行為をする者は、無視されるか、あるいは反規範的として「漢奸」と呼ばれかねない。本 論では、これらに対し、「適応」と「改革」という観点から台湾人の行動を意味づけること を提起している。
植民地支配の複雑で多様な実態を理解するために、本稿では、近年公刊された台湾人の 日記や全集を利用し、台湾統治における抵抗概念を批判的に検討している。本稿では、辜 顕栄、林献堂、張麗俊ら三者を主として扱い、最後に蔡培火についても検討した。辜顕栄 と林献堂は共に台湾有数の資産家であり、台湾自治運動に関わりながらも、対照的な行動 を取った人物である。張麗俊は、非政治的な農村部の一名望家に過ぎない。しかし、あえ て彼らを同一の指標で考察し、彼らのなかにある総督府施政への「適応」という共通項を 見出した。その上で、次世代の運動家であった蔡培火と比較した。蔡にも、総督府への「適 応」という要素は見られる。しかし、彼は巧みな日本語を操りながら統治改善の提言を行 うことが出来た。蔡の世代には、施政に対して適応しつつはっきりと改革を求めるという 二面性があったことを論じた。
近年では、植民地の近代化を従属化の手段とだけ見なすのではなく、「植民地的近代化」
の意味を多角的に検討しようとする研究も現れている。本論もまた抵抗と支配という評価 軸に検討を加え、台湾人有力者層と総督府との関係を再考するものである。
一九二〇年代頃から活躍した蔡培火ら日本語世代は、日本語能力と日本理解の深さによ って、内地人にも反論できないような正論を述べ、日本帝国内での政治的権利伸張を求め た。この時期の台湾人は、内地人に化さないことを自らの遅れと見なさず、「特別の資質」
を有することに過ぎないと主張しうるまでになっていた。彼らのような台湾人と総督府と の対峙は、単に抵抗と支配という上下関係からだけでは分析しきれないだろう。なぜなら、
内地人にも分かる論理で批判を投げかけられれば、統治側の日本人も真剣に向き合わざる を得ないからである。
台湾における統治概念の検討には小論だけでは不十分であり、更なる研究が必要である ことは言うまでもない。
摘 要
夲文不單單從抵抗和統治,來論述台灣人民與日本總督府間的關係。本文著重的 是台灣人民如何與總督府共同擔起改善統治的政策,並試圖重新評估總督府的施政。
作者下筆時特別注重台灣方面的史料,並且從台灣人民的視野,重新評論總督府的施 政。
很久以來,在台灣史的研究領域裡,一直傾向以抵抗、統合、支配等抵抗史觀來 架構研究視角。如黃昭堂〈台灣民主國的研究(黃 1970)〉 、許世楷〈日本統治下的台 灣:抵抗和彈壓(許 1972)〉、若林正丈〈台灣抗日運動史研究(若林 2001)〉等均屬 之。採用抵抗史觀的框架有何不妥?問題就在若為了批判支配者而套用抵抗觀點,則 不免牽引出「有抵抗必會產生拮抗」的論調。且諷刺的是,這種論調會在論述中平衡 呈現,導出台灣統治已達成穩定的結論。況且若以抵抗史觀為依據,必定會落入台灣 人民起而反抗的規範。這樣一來,對於不適用此一規範的人,其存在將會被勿視,或因 其不落入此一規範,而對之稱為「漢奸」。對此,本文將從「適應」與「改革」的觀 點,剖析台灣人民的行動意涵。
為了理解殖民地統治複雜又多樣的實況,本文以近幾年公開出版的台灣人日記、
全集等資料,作為日本統治台灣抵抗史觀的檢視依據。本文以辜顯榮、林獻堂、張麗 俊三者為主要對象,最後也對蔡培火加以探討。辜顯榮和林獻堂同為台灣屈指可數的 資產家,且都曾參與過台灣自治運動,但兩者所採取的行動卻成對比。張麗俊並非政 治人物,只不過一名頗富聲望的鄉紳而已,但本文以同樣的指標對之探討,抽繹出他 們在「適應」總督府施政方面的共項,然後再將之與下一個年代的政治運動家蔡培火 比較。在蔡的身上,也找得出「適應」的要素,蔡既可巧妙的使用日語且能對改善統治 進言。從與蔡培火同時代的人身上,可以看出當時台灣人民對施政已逐漸適應及明顯 謀求改善的雙面性。
近幾年,學術界不再只把殖民地近代化視為從屬化的手段,而試著從多方面探討
「殖民地近代化」的意義。本文也分別將抵抗和統治兩者置於評價座標上探討,對具 有影響力的台灣人與總督府之間的關係,重做思考。
活躍於 1920 年代、如蔡培火等使用日語年齡層的人,能憑著流暢的日語和對日 本深刻的瞭解,講述即使連日本人也無法反駁的高論,且能在日本帝國內要求伸張政 治權力。這個時期的台灣人,並不因未被同化成內地人而感到落後,反而聲稱只不過 是台灣人擁有「特別資質」。類此台灣人與總督府的對峙,若單從抵抗和支配觀點來 分析,將有所不足。理由是若台灣人用內地人也懂的道理進言,則日本統治者就不得 不正視。礙於限制,暫且將台灣人與內地人對統治策略做了何等議論,留待下一篇論 文討論。
若要深入探討統治台灣的概念,僅依恃拙作無疑不足,尚待更深入的研究。
1 はじめに
本稿では、台湾人と総督府との関係を抵抗と支配からのみ論じるのではなく、台湾人が 総督府と共に統治改善を担っていたことに注目し、総督府施政の再考を試みている。その 際、台湾人側の史料を重視し、台湾人の視点から総督府の施政を捉え直すことに心がけた。
これまでの台湾史研究においては、抵抗、統合、支配などという枠組みを研究視角の前 提とする傾向があった。それは、1990年代に出版された岩波講座『近代日本と植民地』[大
江他1993a]の第四巻目の副題が「統合と支配の論理」という名前であり、第六巻の副題
が「抵抗と屈従」[大江他 1993b]だったことにも表れている。植民地における論理を支 配者の視点から捉えるという作業は必要である。しかし、支配者側の論理を批判する際に、
抵抗、統合、支配という観点を持ち込むと、それらの観点に適合する行動しか評価できな いという欠点も生んでしまう。つまり、この規範に当てはまらない行動が見落とされるか、
あるいはすべての行動を規範の枠に押し込めかねないのである。本論では、これらに対し、
適応と改革という観点からも台湾人の行動を意味づけることが可能だと考える。
植民地支配の実態は複雑かつ多様である。まして、台湾人自身の残した資料が発掘途上 である現在、台湾統治と台湾人の関係については今後さらなる分析が必要であろう。支配 者側の視点から台湾人を意味づける研究はこれまでも多かったが、逆の視点からの研究は まだ緒に就いたばかりである。近年続々と公刊されている台湾人の日記資料や個人の全集 などを利用し、台湾統治における抵抗概念を批判的に検討する必要がある(1)。
本稿では、辜顕栄、林献堂、張麗俊ら三者を主として扱い、最後に蔡培火についても検 討した。辜顕栄は、日本統治時代には積極的に総督府と協力し、経済的・政治的に成長し た財閥の創始者である。辜は台湾総督府と密接な関係を持っていたため、対日協力者とし ての世評が定着し、台湾史上における位置づけは高くない。これに対し台湾史上で高い評 価を得ているのが林献堂である。彼は資産家として生まれながら、台湾議会設置請願運動 などの台湾自治運動に取り組んだため、高く評価されている。一方、張麗俊には両者と比 較するような政治的経歴はない。彼は、保正と呼ばれる保甲制[洪 2000]の責任者を務 めた。保甲は日本の五人組のような制度で、十戸をもって一甲となし、十甲をもって一保 と成した。保甲は警察の補助組織と行政の非公式な末端組織として機能し、日本の台湾統 治を支えた制度だった。保甲は街庄と呼ばれた都市部には存在しない。従って、張麗俊は 農村部における有力者と位置づけることができるだろう。
三者の政治的な立場や社会的な立場には大きな相違がある。本稿では、敢えて対照的な 彼らを比較した上で共通性を見出し、さらに世代的には次の世代にあたる蔡培火との対比 も行った。蔡培火は、林献堂の支援を受けながら東京留学を経験し、のちには林の指導下 で台湾議会請願運動を担った人物である。三者の政治意識と蔡培火を代表とする日本語世 代には、統治への適応という共通性がある一方で、統治改革に対する姿勢に違いがある。
本論では、四人の目から見た台湾総督府を考察することで、台湾人と総督府の関係を新し い視点で捉え直すことを目指した。
本稿に入る前に台湾政治史研究と小論との関係について述べておきたい。戦後における 台湾史研究草創期(2)にあたる 1970 年代においては、日清戦争後の台湾割譲に反対した台 湾人の抵抗運動を分析した黄昭堂の『台湾民主国の研究』[黄 1970]や、許世楷の『日本 統治下の台湾: 抵抗と弾圧』[許1972]が代表的である。80年代に活躍した戴国煇もまた
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同様な視角から台湾人を分析している[戴 1981, 1988]。これらの先行研究は植民地宗主 国に対して台湾人が抵抗したことを重視し、日本統治機構の支配と台湾人の抵抗という視 角を共有している。これに対し、1983年に出された若林正丈の『台湾抗日運動史研究』[若 林 2001](3)は、日本人の手になる本格的な台湾研究の先駆けであるだけでなく、研究視 角にも新しさが加えられている。若林は台湾議会設置請願運動を検討し、運動によっても 自治は獲得できなかったものの、運動をしたという事実によって、「台湾大」の枠内で民主 化する経験を台湾人が獲得したという視点を提起した。つまり、抗日運動体験が、のちの 台湾人アイデンティティ形成を促したことを発見したのである。しかし、若林の分析にお いても、抵抗運動の主体となった台湾人地主層と総督府との間には抵抗と支配の緊張関係 があったことは前提とされている。総督府によって「基本的に無害化させられてはいたも のの、彼ら(台湾人地主層−補)の有する地方社会への影響力は、地方社会の利害の規定 をも受けるものであって、その影響力がいつ日本の支配に対して向けられるかわからなか った」[若林 2001:38]と同書では述べられている。だからこそ、保甲制を利用した警察 網の整備や専売品販売権の供与などによって、締め付けと懐柔を行い、日本植民地主義当 局は「彼らをつねに台湾人の政治的掌握の最優先の対象とみなして」いたのだと分析した
[若林 2001:38]。
以上の台湾政治史研究は、抵抗運動の意義付けには違いがあるものの、日本と台湾の抵 抗関係を軸にした議論であるという点においては共通している(4)。そのため、抵抗という 枠組から外れた台湾人は、総督府の使い走り(「官方跑腿」)[許2000a:47]や「漢奸」[辜 伝記会 1939:339]と呼ばれるか、あるいは無視されることになる。しかし、近年では、
植民地の近代化を従属化の手段とだけ見なすのではなく、「植民地的近代化」の意味を多角 的に検討しようとする研究も現れている(5)。小論もまた抵抗と支配という評価軸に検討を 加え、台湾人有力者層と総督府との関係を再考するものである。
1. 総督府と台湾人の関係
1.1.総督府との関係性と政治的意味
三者のうち、まず辜顕栄を取り上げたい。辜顕栄は1866年に台湾の鹿港に生まれ、1937 年に日本で亡くなった実業家である。台湾が日本に領有されるまでは、対岸貿易に従事し ていたという。基隆に上陸した日本軍を台北に無血入城させたことが評価され、以後、日 本の統治に積極的に活用される。その対価として、総督府の関係する事業では優遇され、
一代のうちに台湾有数の財閥をなした[山田編 1995:233]。総督府との関係が密接であっ た辜顕栄は「御用紳士」あるいは「漢奸だとか売国奴」と罵られることもあった[辜伝記 会 1939:339]。辜が批判された主な原因は二つあったと思われる。
一つには、すでに述べたように彼の経済的成功が日本統治への協力によってもたらされ
たものだったということである。台湾の各種産業を育成していく段階で、台湾総督府は現 地の地域指導者と協力し、新規事業を進めていった。その時、率先して在地有力者の取り まとめをし、時には新規事業に躊躇する彼らの模範となるべく、辜は投資を行った。辜顕 栄の積極的な貢献に対して、総督府は経済開発の際に便宜を図っている。彼の起業の特徴 を一言で現すと、「日本時代の独占的性格が濃厚な、あるいは特権的ともいうべき事業」[寥 2000:350]と要約することができる。
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もう一つは、日本の対中外交のために辜顕栄が日中間の民間外交を務めたことである。
日中戦争下の 1937年2 月に、辜は国民党要人との会談のために中国へ出かけた。現地で は、張群外交部長や汪兆銘と会い、日本側の意図を説明し、中国側の妥協を引き出そうと 尽力した。この事については、「辜顕栄は晩年に病身を押して、なおも日本人のために『使 い走り』をした」[寥2000:378]という評価を受けている。
彼に対する評価は、日本の利益の代弁者という役割から作られていると言えよう。彼に 関する研究はけっして多くはないが、「御用紳士」という観点からなされている点では一致 している[何 2003][寥 2000]。
一方、林献堂は台湾自治のために努力した人物として高い評価を得ている。林献堂は、
1881年に台湾の台中で生まれ、1956年に日本で亡くなった台湾自治運動の指導者である。
台湾の代表的な名望家である霧峰林家一族の出身で、父は挙人の林文欽である。幼少期に 科挙を目指すが、日本の台湾領有によって科挙の道が閉ざされた。青年時代に日本に留学 し、梁啓超や板垣退助らと出会い、平和的手段による民族運動を志すようになったという
[若林2001:43]。その後、1914年に台湾同化会を創設するも二ヶ月で解散させられ、1920
年には新民会を結成し、会長に就任する。新民会は台湾議会設置請願運動を起こし、1921 年 2 月から 3 月には第一次台湾議会設置請願書が帝国議会貴衆両院委員会へ提出された
[許1972:196]。同年10月、台湾文化協会が結成されると林は総理に就任し、1927年ま
で同会で民族運動に従事したが、協会内の意見対立によって離脱し、1930年には地方自治 連盟を結成し顧問となった。この頃には、組織的民族運動からは距離を置き、台湾総督ら に台湾政治の改革を個人的に建議するようになった。日本敗戦後の 1946 年には、省参議 員となり、1948年には台湾省通誌館館長に任命された。1949年には、病気療養を理由と して渡日し、館長職を辞職、以後、肺炎で亡くなるまで日本にとどまった[山田編1995:483]。
林献堂と辜顕栄は、同時代に生きながらも対照的な評価を得ている。総督府は 1921 年 の台湾議会設置請願運動を受け、台湾総督府評議会官制を改正し、総督府の諮問機関であ る評議会を同年6月に再興した。このとき、台湾人の中から選ばれた評議員として二人の 名前があった。[許 1972:197]総督府は、実権の無い諮問機関に過ぎない評議会に台湾人 有力層を任命することで、台湾人の不満を逸らそうとしたのである。評議員への任命は、
台湾人の懐柔が目的であったが、その意図を理解した両者の対応は正反対であった。林献 堂は同年10月に台湾文化協会[若林2001:32]を設立し、台湾人の自治権拡大のための民 族運動を進めた。これに対し、辜顕栄は、林らの運動が日本人の反感を招くことを懸念し、
文化協会の勢力を削ぐために台湾公益会[許1972:221-222]という名の日台融和推進団体 を 1923 年 11 月に興した。台湾公益会は、辜顕栄を会長とし、一時は台湾各地の有力者 1650名を抱える団体として、台湾文化協会に匹敵する勢力を誇った[呉 1992:214-215]。
1924年には、台湾文化協会が台湾議会設置請願運動を東京で行うのに併せ、辜顕栄ら台湾 公益会は、台湾・日本内地の主要新聞紙上に声明を出し、議会設置請願運動は台湾人全体 の意思ではないと主張した[呉 1992:215]。台湾議会設置請願運動をめぐる林と辜との態 度はかくも対照的であった。
政治運動に対し、林と辜はそれぞれの方針の下、積極的に関わった。辜顕栄が林献堂の 運動に干渉したのは、辜なりに台湾の安定を思ってのことだった。1924年10月2日付け で辜が後藤新平へ宛てた書翰では、「台湾は日を逐ふて思想悪化の巷となりつ、折角歴々の
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諸公が心血を注ぎて建設せられたる台湾を破壊(6)」しようとする傾向があると嘆いた。こ のような状況に対し、辜は「座視するに忍びざりしが故、生餘老耆の身を携げ(中略)、曩 に同志を糾合し台湾公益会を造りて憂世の士と共に帝国の大局保全将又台湾の民生安定の 為めに動作し来りし(7)」と、自らの努力を説明している。この書翰では林献堂や台湾議会 設置請願運動については直接触れられていない。しかし、そういった運動も含めて辜は書 翰を認めたのだと思われる。公益会の活動を通じ、辜顕栄は自分なりに台湾の安定を図ろ うとしたことがうかがえる。
林や辜とは異なり、張麗俊は総督府の施政方針に関わるような政治運動には関与しなか った。張麗俊は、1868年に台湾の葫蘆墩(現在の台中県豊原市)に生まれた地主の子で、
日本時代には葫蘆墩の保正として地域のまとめ役となり、民生の安定に寄与した。保正は 保甲制における指導者のことである。保正の下、基本的には百戸が一保として束ねられ、
警察の補助や非公式な行政組織の末端として機能した。保正は無給でありながらも、地域 をまとめる力を必要としたので、一般的には旧来の名望家が就くことが多かった。清朝時 代にはそういった名望家層のうち有力なものは科挙の官位を持ち、経済力と政治力を兼ね 備えていた。しかし、そういった上流郷紳層の多くは台湾割譲後に大陸へ移ったり[戴
1988]、土地調査事業による土地所有権整理[凃1975:40]の影響を受け、政治力を減退
させていった。大地主のうち武装勢力として抗日運動を続け、台湾割譲後の台湾民主国を 支えたものもあったが、総督府側の「土匪招降策」と軍事討伐によって次第に無力化して いった[若林 2001:36-37]。
張麗俊は地主層ではあったが、抗日運動に関わった形跡は無い。彼は保正として地域の 行政機能を補助し、ペスト対策などの公衆衛生事業を指揮し、戸籍作成や地域の道路修繕 などの業務をこなした。また、ある時には地元の企業に役員として参加し、ある時には地 元寺院の修繕をとりまとめたりして、地域を指導した[許2000a][洪2000]。総督府から 見れば、張は官と民を結ぶ結節点であったと言えるだろう。統治者の観点から見れば、張 麗俊は従順な姿勢を取っているように見える。そのため、許雪姫は日記の解題の中で、「張 麗俊の日記からは、社会の中で小さなネジのように生きたものの喜怒哀楽、様々な感情を 看取することができる」[許編2000a:47]と述べている。
1.2.台湾史上における抵抗概念
台湾史上において、彼らの位置づけを抵抗と支配という軸の上に載せてみると、林献堂 と辜顕栄を両端とし、中間に張麗俊が位置するということができるだろう。林献堂は台湾 議会設置請願運動という抵抗手段によって、日本の統治に異議を唱えたと言える。一方、
請願運動を阻害するために公益会を設立し日台融和を唱えた辜顕栄は日本の支配に服した と見なせるだろう。張麗俊は、保正として日本の支配機構の末端を担い、地域の秩序を維 持した。張の態度については、辜顕栄ほど積極的な協力者ではないにせよ、林献堂のよう な民族運動の主体になれなかったとして批判される余地はあるだろう。しかし、これらは 飽くまでも抵抗と支配という評価を前提にした上での位置づけである。
この評価から分かることは、台湾史を語る際に抵抗を正統であるとする見方が隠れてい るということである。このような評価は、呉文星[呉 1992]や、許雪姫[許編2000a,2000b]
などにも共有されている。
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それでは、果たしてそのような見方は彼ら三者の実態をうまく捉えているのだろうか。
後藤に宛てた辜顕栄の書翰を見ても分かるように、本人たちは自分たちなりに総督府との 関わり方を意味づけていた。それは総督府への抵抗を基準としたものではない。三者の行 動を見るとき、抵抗という観点から離れてみるとどうなるだろうか。植民地支配に対する 異なった観点を示唆するものとして、例えば伊藤潔による視点が参考になる。伊藤自身も 日本時代の台湾に生まれた研究者で、日本に帰化したいわば「台湾系日本人」である。伊 藤は幼い頃を振り返りつつ、日本語世代の母親が自分を種痘注射に連れて行ったことに言 及している。そこでは、母親が注射を良いものだと理解し、「警官による『強制』ではなく、
むしろ母の意思によ」って注射に連れて行ったのだと述べている[伊藤 2004:116]。同様 に、同化政策を受けた世代の台湾人文化人は「むしろ同化に積極的であり、同化すること による台湾人の地位向上、最終的には日本人と同等の国民となることをめざしていた」と、
伊藤は考察している[伊藤 2004:116]。日本の施策の中には、注射の例のように台湾人側 の欲求に合致するものもあった。もちろん両者の合意による施策が主であったとは思えな いが、支配側と被支配側の両者が協調して進めた施策も有り得るのだという発想は注目す べきだろう。
この発想は、1929年に台湾へ赴任した石塚英蔵総督の時期において、台湾へも普選実施 や議会設立を検討すべきであるという議論が活発に行われていたこととも繋がる。この時 期の『台湾民報』(8)には、日本統治の安定と発展のために政治的権利を拡大すべきである という意見が散見される。台湾人の運動家は、政治批判をしつつも独立を目指すのではな く、統治改善を要求した。伊藤の母親のような庶民と運動家が異質であることは確かだが、
両者の間には良い施策を求めるという点において共通項を見いだすことも不可能ではない だろう。
統治側と被統治側という両者の協調には、同意と批判の両面を含めつつ、主体的に関与 しようとする意識が必要であろう。小論で取り上げる台湾人から、そのような主体的な協 力意識が見られるのかを次に検討したい。
2. 日本統治への協力意識 2.1.統治への適応
辜、林、張の三者が日本統治へ協力した事例を先に取り上げる。その後に蔡との比較を し、台湾人に主体的な協力意識があったのかを考察したい。
まず、辜顕栄について取り上げる。辜の主体性を考えるにあたって、台湾議会設置運動 に対する意見を見てみたい。辜顕栄は1924年11月に『台湾思想問題』[辜伝記会 1939]
(9)という本を出版し、その中で台湾議会設置請願運動について批判している。辜は、「私は 元来台湾議会そのものに反対ではない」と前置きした上で、「国家百年の長計たる台湾議会 設置を請願するからには、其の成立組織に関する十分の研究調査がなくてはならぬ」はず であると、請願書の内容に対して不満を述べた。
辜が批判した請願書の不備は三点にまとめられる。第一は、台湾議会が設置された場合、
総督と議会の関係が不明なままにされている点である。総督の持つ律令制定権などの権限 を議会に移すか、あるいは共有した場合に必要な制度が議論されていないと、辜は批判す る。第二は、議会の対象を全台湾在住民とするのか否かが不明な点である。台湾には内地
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人、漢民族系本島人、「熟蕃」や「生蕃」と呼ばれた先住民もおり、それぞれの民族性や生 活習慣には大きな差異があった。これらを無視して議会を構成するのか、あるいは制限を 設けるのかについても請願書は言及していないと、辜は批判した。第三に、議員選挙法が 不明な点である。第二点にもあるように、多様な民族からなり、さらに各民族内でも議会 運営に必要な知識の差があるため、制限選挙を考える必要がある。しかし、「(台湾議会設 置-補)請願者がこれ議会先づ生れてから後の問題だ杯と思」っていることに対し、辜は 強く批判する。なぜならば、「議会が統治上完全に立法機関の任務を尽すも尽さゞるも、将 た変じて有害無益の機関となるも、一に選出議員の人格如何にある」からである。
辜の考えには、現状の台湾において議会が設置されたとしても、請願者の期待通りの結 果が生まれるか不明であるという考えがあったのだろう。彼はむしろ台湾統治が不安定化 することを恐れていたと思われる。以上のような慎重さを持ちつつも、辜もまた台湾自治 の推進を自分なりに考えていた。辜は、東京や海外に留学した優秀な台湾人が近年では多 くなってきたことにふれながら、「一視同仁の聖意を奉体せらるゝ台湾政府としては、是等 の人物を重要し」、「群守、市尹、知事其他総督府内高官」や「各州の協議員」への門戸を 開くべきであると主張した。辜は「三百六十万本島民の為に民意暢達の路」を開こうと、
彼なりに考えていたのである。
次に林献堂が伊沢多喜男元総督へ送った書翰を見てみたい。伊沢は大正 13年 9 月から 大正 15 年 7月まで台湾総督を務めた。兄の修二は領台初期の有名な学務官僚である。多 喜男は兄の頼みで台湾人学生を東京で教育した経験もあるなど、台湾通の人物であった(10)。 林献堂は昭和9年 7月10日付けで東京の伊沢へ宛てて台湾統治の改革案を送った[研究 会 2000:463-466]。林献堂は文化協会が方針をめぐって分裂した後、組織的な民族運動に は参加していなかったが、この書翰はその頃のものである。書翰では、教育面、政治面、
経済面における差別について台湾統治を批判している。
冒頭、林は日本の台湾統治を総括し、「過去四十年に亙る帝国の台湾統治は一言で率直に 申せば一視同仁の聖旨に対しては失敗であり在台二十余万の内地人本位の殖民政策として は成功したと申すことが出来ます」と述べた。そして政治的差別として、「始政四十年の今 日尚ほ一方に中央参政の途を開かず他方に台湾議会開設の提議を極端に害毒視して排撃の 手を緩めない」ことを批判した。続いて彼は「台湾の政治を中央参政によらしめるか台湾 議会によらしめるかその何れでも帝国為政者の自由採決で出来るから速やかに本国の立憲 政体に合せしめることが即ち一視同仁の聖旨に忠実なる所以であ」ると主張した。ここか ら分かるのは、議会設置と中央議会参政のいずれをも、台湾統治改善の手段として肯定し ているということである。彼の中で、台湾統治の改善と日本の統治は根本的に対立するも のではなかったといえよう。
張麗俊については両者のような政治運動に参加していないため、単純な比較は出来ない。
張の場合は、どちらかといえば、庶民として政治に関わる出来事を眺めていたと言う表現 が相応しい。例えば、1924年4月19日の日記を読むと、来台中の皇太子裕仁が台中駅に やってきたことが記されている[許 2002:28-29]。彼は「東宮太子殿下が台中州駅にいら っしゃったので、一目見ようとする者が大勢集まり、(中略)台中は未だかつて無いほどの 賑やかさだった。(中略)各戸は皆国旗を掲げ、提灯を吊」って歓迎し、その数は約 7 万 人にも上ったと記している。皇太子を待ち受けること 2 時間の後、「殿下専用車が到着す
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ると、爆竹の音が空に轟き、楽隊の音は華やかに響いた。殿下は新元部長の恭しきお導き によって下車された」とある。その後の日記には、4月27日までの皇太子の動向が詳細に 記されている。日記からは皇太子への批判は見えず、出迎えの民衆と同様の好意と敬意が 感じられる。
次に、台湾議会設置運動に関連した張の記述を検討する。同年 6 月 24 日の日記[許
2002:59-60]には、第三回台湾議会設置請願運動から帰台した文化協会員4名の歓迎会に
ついて触れられている。「多くの人が公会堂の演説会に集まった。文化協会員はみな率直な 意見を述べ、嫌疑がかかるのを恐れなかった。昨夜は国語の演説をし、今夜は台湾語で演 説したという。台湾人は拍手喝采をしたが、台湾人以外のもの、すなわち日本人も『名調 子』と喝采を送ったという。残念だ!私は諸氏の御高説、御高見を聞き損ねたのだ」とあ る。
皇太子来台を楽しみ、かつ文化協会の演説を楽しむことができる点で、張麗俊には林や 辜のような形での政治への関心は見いだせない。つまり、張にとって、台湾総督府を受け 容れることは自然なことであり、それに対して意識的な抵抗も協力もしていたようには見 受けられないのである。
以上のように、彼等三者は政治的な姿勢こそ異なるものの、日本の統治に適応したとい う点では共通すると言えるだろう。
2.2.統治改革への提言
これまでに取り上げてきた三者は、領台初期から総督府とかかわりを持ってきた人物で あり、伊藤潔が語ったような日本語世代ではない。林献堂は日本語を話せたが、世代的に 言えば例外である。では、彼らの世代と 1920 年代以後の日本語教育主体の世代とを比べ た場合に、どのような差違と共通性が見られるのだろうか。この問題を考える上で、日本 語世代を取り巻く環境から考えてみたい。
第8代総督の田健治郎が1919年に就任してから、第16代総督中川健三が1936年に台 湾を離れるまで、17年間は文官総督の時代だった。この間も、台湾人知識人が総督府の施 政に適応したという点では、林献堂らと次代の台湾人知識人とは共通している。しかし、
この時期に政治活動を行った世代は、日本語学習の体験を共有し、留学経験や高い学歴を 持った世代であったということは注目に値する。大正 7年と昭和 10年の教育環境を比較 した黄昭堂の研究〔黄 2003:150〕に依れば、大学数は 0 校から 1 校に増えて大学進学者 は 0 名から 114 名へ、中学校数は 4 校から 24 校に増えて中学進学者数は 1,843 名から 12,241名になり、小・公学校数は 541校から917校に増えて同進学者数は128,436名か
ら407,449名になった。朝鮮における三・一独立運動の影響から統治側が文官総督になっ
たことに加え、教育環境の変化もあって、台湾では日本の統治に対する説得力ある批判が 繰り広げられるようになったのである。
文官総督時代以後の台湾人の政治活動については、記述の通り、許世楷や若林正丈が優 れた研究を残している。許の研究〔許1972〕にあるように、1920年代以後の運動につい ては、統治確立後の政治運動の中で、統一戦の時代と分裂の時代に分けられている。この 分類は、総督府に対して統一して抵抗した前期と、政見の違いから分派していった後期と 言い換えることが出来る。後期の分裂の時代については、伊東昭雄〔伊東 1976:88〕が指
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摘しているように、批判行動での立場や発想の違いはあるにせよ、批判内容は大きくこと なっていないという見方も出来る。なお、ここでの立場や発想とは、共産党や国民党、内 地左派知識人等からの影響を受けつつ、彼等が取っていた主義のことを指す。
例えば、自治運動の中で次第に内地寄りになったと指摘される蔡培火と、『台湾民報』で 論陣を張り、国民党系の発想から活動した蒋渭水は、立場を異にこそすれ台湾人の立場か ら総督府施政を批判する点では共通している。彼等は改善要求手順こそ異なれども、参政 権を要求し、台湾における官僚制の腐敗を糾弾し、保甲制などの非立憲的な法の存在を批 判している。その時、彼らは日本語を駆使して、内地人を納得させ得るような論法で施政 批判を行う。内地人がもしも台湾人の境遇に立ったとしたら、果たして現状を受け入れら れるかという問いを発するのである。
蔡培火は 1889 年に台湾の雲林で生まれた民族運動右派の有力指導者であり、文化啓蒙 運動家である。1906 年に台湾総督府国語学校師範部に合格し、10 年には卒業して台湾人 子弟向け初等教育機関である公学校訓導となった。1914年に台湾同化会の運動に参加し、
総督府の統治批判をした結果、公学校を免職となった。この運動に携わる間に林献堂に知 られ、林の援助の下で1916年から東京高等師範理科2部に入学し、20年に卒業した。林 献堂が主導した台湾議会請願運動を蔡は支え、日本の有識者の支持獲得に奔走した。戦後 は、中国国民党に加入し、1950 年から 1965 年まで行政院政務委員、65 年以降は総統府 国策顧問を務め、1983年1月4日に亡くなった[山田編1995:22-23]。
蔡は、1928 年に『日本々国民に與ふ-殖民地問題解決の基調』〔蔡 2000:19〕という書 物を著した。これは、内地で普通選挙が行われているさなかに出されている。自序でも「私 は、普選実施によつて新に興りたる日本々国の大衆諸君に、此の小冊子を呈したい」とあ るように、新しい有権者である内地一般大衆に向けて、連帯を呼びかけたのである。内地 においても台湾においても、批判対称となる支配者側と連帯対称である大衆がいるという 立場から、蔡は厳しい批判を繰り広げる。ある内地人記者の発言を借りつつ、蔡は「従来 の官僚政治は、台湾を日本の塵芥箱と化して、茲に入り来たるものをば凡て腐敗せしめた」
〔蔡2000:58〕と糾弾している。
蔡は、内地人が台湾において優越した立場を維持しているのは、台湾人に自治能力が無 いと内地人が思い込んでいるせいだと批判する。この思いこみが続き、台湾人が内地人化 しない例を批判し続けることで、優越した支配制度の維持が正当化されていると述べる〔蔡 2000:51-58〕。また、納税額の多寡を理由にして参政権を与えないのだという論に対して も、蔡は台湾人の平均納税額と物価を根拠として論破する。大正14年度当時の資料から、
内地人は25円94銭に対し、台湾人が22円70銭であると述べてから、台湾人の負担は物 価の加重により内地人の三倍にあたる実質負担をしていると批判している〔蔡2000:65〕。
さらに注目すべきなのは、台湾人が内地人化しないということと自治能力を持ちうるか 否かは別問題であると議論していることである。蔡は以下のように述べている。
我々には、数千年の歴史と特別風土の影響によつて、諸君が我々と同じからざるが如 くに、我々は諸君と異りたる特別の資質と、特種の生活を有する。(中略)我々自ら 選択するならば事は別、我々の特質を没却して諸君のに化せよと強要するならば、そ れは人格に対する絶大の侮辱、そんなことは百年千年経つても、出来得べからざるこ とだ。諸君と協同提携しつゝ、而も我々をして、自らの生活を創造せしめるやう、お
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互の進路を開くに勝ることはない。是れ即ち、日本の主権の下に、台湾自治を行ふと 云ふことである〔蔡2000:59〕。
蔡は、台湾人が内地人に化さないことを遅れと見なさず、「特別の資質」を有することだ と主張する。その特質を残しつつ台湾施政を改善するために台湾議会を設置し、「台湾特殊 の事情に基く特別法規の規定、並に台湾に於ける豫算の議決、此の二つの権限を」〔蔡 2000:60〕議会へ与えるよう求めた。台湾議会設置により、台湾が日本から独立するので はないかという疑問に対しても、蔡は日本が国力を衰退させ、台湾に対して「搾取圧制」
で望み、これに台湾人が武力対抗する時に、ある強国が援助をするという4つの条件が揃 わなければあり得ないと反論した〔蔡2000:98〕。独立しない場合でも、台湾人多数の議員 によって在台内地人に不利な議事運営がなされるのではないかという疑問についてもあら かじめ答えを用意している。台湾議会が日本帝国の一機関で有る限り、極端な運営をすれ ば台湾議会が閉会されてしまうため、「理の命ずる程度まで、台湾人は務マ マめて隠忍をして、
在台母国人に利益を譲るであろう」〔蔡2000:99〕と説明している。
蔡培火のような台湾人は、辜顕栄や林献堂、張麗俊などの世代と比べて、内地人の立場 からも理解できる意見を述べることが出来た。統治を前提としての改善という意味では、
蔡もまた適応したと言えるが、彼らの世代は適応という面だけでなく改革という側面もま た強く備えていると言って良いだろう。
おわりに
台湾統治を考えるとき、台湾人と総督府との関係に多様な要素が含まれていることを強 く意識する必要がある。それらはすっきりと抵抗と支配の二分法で分けられるものではな い。なぜならば、台湾人からも主体的な行動を見ることはできるからだ。辜顕栄や林献堂 は、彼らなりの考えに従って、総督府と台湾人の関係を改善する意志を持っていた。彼ら の取った方法は、総督府への抵抗を基準とすれば対照的にも見える。しかし、日本の台湾 統治を所与とした上で、台湾統治改善という基準から見れば、統治への適応という共通項 を見ることもできる。張麗俊には彼らのような政治意識は希薄であり、与えられた統治方 法を受け容れたのだから、最も適応した例と言ってもよいだろう。張は、日本の統治を自 然なものとして受け容れることで、日本の台湾統治に関わったのである。
これに対し、蔡培火らの日本語世代の運動家は、適応するだけでなく改革を求めた。主 義主張が時に激しくあろうとも、この世代もまた統治を所与としている点では変わらない。
日本の統治を所与とするからこそ、逆に内地人も台湾人も同じ世界に住むのだから政治的 には同等であるべきと考え、民族的な特質を以て政治的な権利を差別すべきではないとい う主張を展開していったのである。そして、蔡培火に顕著に見られるように、彼らは日本 語能力と日本理解の深さによって、内地人にも反論できないような正論を述べた。また、
台湾人が内地人に化さないことを遅れと見なさず、「特別の資質」を有することに過ぎない と述べ、「諸君が自己の生存を欲するやうに、台湾人の生存を重んじ給へ。諸君自ら個性を 尊重されかしと思ふやうに、台湾人の個性をも認められよ。また諸君自ら活動して、自己 を 表 現 さ れ た い な ら ば 、 台 湾 人 か ら そ の 自 己 表 現 の 機 会 を 奪 ふ こ と 勿 れ よ 」〔 蔡 2000:97-98〕と訴えた。
蔡培火は、内地人と台湾人の両方の視点を自由に行き来し、自己の特質に対して卑下も
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せず、尊大にもならず、自信を持って発言した人物であった。同様な台湾人はまだまだ多 数存在しているはずである。彼らの言動については、今後の研究課題である。また、この ような台湾人と向き合った総督府官僚についても、彼らの真意を理解できていたのかを分 析する必要があるだろう。内地人にも分かる論理で批判を投げかけられれば、統治側の日 本人も真剣に向き合ったはずである。両者が統治策をめぐっていかなる議論を行ったのか は、今後の研究で明らかにしていきたい。
注
(1) 本稿で利用した日記や全集は、林献堂の日記である『灌園先生日記』(中央研究院台湾 史所籌備処 2000)、張麗俊の『水竹居主人日記』(中央研究院近代史研究所 2000)、
蔡培火の日記と著作を集めた『蔡培火全集』(呉三連基金会 2000)である。そのほか、
本稿では利用しなかったが、農民運動家だった簡吉の『簡吉獄中日記』(中央研究院台湾 史研究所 2005)、台湾民衆党の有力指導者だった蒋渭水の著作と日記を集めた『蒋渭 水全集』(海峡学術出版社 2005)、林献堂の秘書だった葉栄鐘の『葉栄鐘日記』(晨星
出版 2002)などもある。
(2) 台湾史研究の流れについては、林玉茹・林毓中『台湾史研究入門』(汲古書院 2004)
に詳しい。
(3) 増補版は1988年の初版に付編4編を増補したものである。
(4) こうした先行研究を基にして、呉文星は『日據時期台湾社会領導階層之研究』を著し、
日本統治時期の指導階層が清朝時期のものから一部変質しつつ、抵抗運動の中で重要な 働きを果たしていたと結論づけた。許雪姫の編纂による張麗俊の『水竹居主人日記』解 題や、林献堂の『灌園先生日記』解題を読んでも、抵抗運動への対応から評価するとい う視点は継承されていることが分かる。
(5) 例えば、駒込武の『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店 1996)や、浅野豊美・松 田俊彦編の『植民地帝国日本の法的構造』(信山社 2004)および『植民地帝国日本の 法的展開』(信山社 2004)などを挙げることができる。
(6) 『後藤新平文書』R84、34-60「諸方来翰 辜顕栄」一通目。
(7) 同上。
(8) 『台湾民報』は1923年4月15日に東京で創刊され、1927年7月16日に上山総督の 許可によって台湾内で発行されるようになった。石塚総督の時期はまだ週刊だったが、
1932年4月15日から日刊紙となった。
同紙は、浜口内閣発足に触れた昭和4年7月7日号で「政変与台湾 党派分明関係密 接」と題した記事を載せている。本記事では、台湾人が制度的に政治へ参加できないこ とを遠因として、これが返って内地の政争に対して台湾人の意識を政治化させると分析 し、政治参加を認められない現下において、歪んだ形で政治意識が育っていることを指 摘した。また、石塚総督に対しては、統治改善の建言を行い、紙面でも建言内容を逐一 解説している。その解説記事は昭和4年9月22日号から10月13日号まで、計4回に 渡った。その中で、台湾社会が進歩したにも拘わらず、時勢にそぐわない統治が行われ ていることに強い批判が加えられている。
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(9) 以下の辜顕栄による請願書への批判は、『辜顕栄翁伝』に収録された『台湾思想問題』
による。
(10) 「伊沢氏愈よ台湾総督」『読売新聞』1924 年 9 月 2 日。
参考文献
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伊藤潔2004.「書評:台湾の『大東亜戦争』」『日本歴史』670、吉川弘文館
大江志乃夫他編1993a.『岩波講座近代日本と植民地第四巻』、岩波書店 大江志乃夫他編1993b.『岩波講座近代日本と植民地第六巻』、岩波書店
何義麟2003.「台湾人の歴史意識―『御用紳士』辜顕栄と『抗日英雄』廖添丁」『アジア遊
学』 48、勉誠出版
許世楷1972.『日本統治下の台湾 : 抵抗と弾圧』、東京大学出版会
許雪姫編2000a.『水竹居主人日記(1)』、台北:中央研究院近代史研究所、2002.『水竹居
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呉文星1992.『日據時期台湾社会領導階層之研究』、台北:正中書局
洪秋分2000.「日治初期葫蘆墩区保甲実施的情形及保正角色的探討(1895-1909)」『中央
研究院近代史研究所集刊』34、台北:中央研究院近代史研究所
黄昭堂1970.『台湾民主国の研究』、東京大学出版会.
黄昭堂2003.『台湾総督府』、台北: 鴻儒堂出版社
辜顕栄翁伝記編纂会1939.『辜顕栄翁伝』、台湾日日新報社
戴国煇1981.『台湾霧社蜂起事件 : 研究と資料』、社会思想社、1988.『台湾: 人間・歴
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凃昭彦1975.『日本帝国主義下の台湾』、東京大学出版会
蔡培火2000.『蔡培火全集』3、台北:呉三連台湾史料基金会 山田辰雄編1995.『近代中国人名辞典』、財団法人霞山会
寥慶州2000.『台湾五大家族』、台北:玉山社.
若林正丈2001.『台湾抗日運動史研究 増補版』、研文出版
付記 本稿は、早稲田大学社会科学研究科『ソシオサイエンス』13号(2007年3月刊 行)に掲載される「台湾人から見た台湾総督府―辜顕栄、林献堂、張麗俊を例とし て―」を加筆修正したものである。なお、中国語史料の読解および中国語概要訳に ついては、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程の張碧恵氏のお世話になったこ とをここに謝して記す。