一 はじめに
の詩人である王維は、肅宗の上元二年(七六一)七
頃、
したとされる。その死後、かなり早い時期に言 (1)
れた王維 さ
は 第一は、杜甫の「 の二點が代表である。
る。王維の人格や 悶」詩其八の「不見高人王右丞」であ 同樣に有名なものが、代宗皇 知られるものとなる。 地位が高まるにつれて、よく人」の語は、後に杜甫の文學 を端に表現するとされるこの「高
いう 李豫による「天下文宗」と
價である。この
を獻上した際に、あわせて奏上された。この末尾 に對する答詔に見える。その上表文は、代宗の敕命に應じて 語は、王維の弟である王縉の上表文 に「寶應二年(七六三)正
維が 七日」とあり、その獻上が、王 して か一年 集の 後に行われたことがわかる。王維の別 の交 本とされるこの『王維集』の獻上をめぐる代宗と王縉 は、この上表文と答詔の他に、さらに新
『 この「天下文宗」 維傳にも見られる。 (3) 書』王 は、有名ではあるものの、從
の王維 究において、あまり大きな
いを 思われる。しかし、王維の (4) けていなかったように 容・
價史を その 想する上で、
後、最も早い時期の、しかも皇
による最上
の であるため、これを輕 價 に、 できない。また、この代宗の治世中 から中
へという中國古典詩史上の重
ある大 な轉換期で 年 を含むことから、この
人の 語は、王維という一詩 價をこえた文學史一般の問題とも關わることになる。
代宗による「天下文宗」
について
王縉の『王維集』獻上との關係を中心に
紺野
也
たとえば、王縉が二度にわたり宰相となっていた (5)大
年 後において、中央文壇の
な擔い手となった錢
ぱら王維の後繼 は、もっ 本稿では、代宗によるこの「天下文宗」 として、その詩文を範としていた。
とその れを ている『王維集』の獻上における問題を檢討してみたい。そ 提となっ して、中
初期における王維の文學に對する
價、
びその
價が果たした時代
役 れるからである。 を明確にし得るものと思わ
二 上表文と答詔における差
王縉の「
『王維集』表」とそれを
の「答詔」を分析すると、兩 けて發せられた代宗 の
には、王維の記
に、
妙ではあるものの見
ごせない差
が見られる。 (6)
臣縉言、中使王承 集表王縉
奉宣 旨、令臣
兄故 文章。恩命忽臨、以 書右丞維 以喜、
因 詞立身、行之餘力。當官堅正、秉操孤直、縱居 、又竊感傷。臣兄文
劇、不 靜、實見時輩、許以高流。至於絡年、彌加
室、念徃無生。乘興爲文、未嘗廢業、或散朋友之上、或流 、端坐 篋笥之中。臣
!搜求、
慮零
"、詩筆共
奉 #十卷。今且隨表 。曲承天
$、下訪
%文。魂而有知、
&寵光於幽
而不朽、 '。歿
#大名於 ()。臣不
*感戴悲 +之至、
臣縉 ,奉表以聞。
-惶 -.、頓首頓首。
,言。寶應二年正
/七日、銀
0
光祿大夫
書兵部侍
12御史大夫臣縉表上。
この上表文の第一の特
く記 3は、王維の性格や日常について多 操を秉りて孤直、縱ひ されていることである。王縉は、「官に當りて堅正、
劇に居れども、
靜を という語は 時輩の、許すに高流を以てするを見る」と記す。この「高流」 れず。實に の杜甫の
價とも一
安祿山より官職を 4する。しかし、王維が
けたことも、經
ある。 5はともかく、事實で (7)
6名な「菩提寺禁、裴
7來相看
8、 9:等凝碧池上作
;樂、供奉人等舉聲。便一時
<下、私
#口號、誦示裴
りて孤直」ではない、との批 存在のがあったとしても、「官に當りて堅正、操を秉(卷六) 7」詩
=は、容易に
この部分が、王維に對する #立し得る。故に、
>會
?體の一
4した たことは明らかである。また、親族による 價ではなかっ
@合の良い、肯定 價としてとらえるのも
文集を A當ではない。
纂し、提出せよ、との敕命が發せられた以上、王 中國詩文論叢第二十六集
維はその文
のみならず、人格や
臥の態度まで貞
・高
な人物として
かれることが
ましい。
いう代宗の に言えば、敕命と に應じて
の側面をこの上表文に公表することは、 兄の文集を奉じる王縉が、兄の負
した側の代宗の
ある王縉が、多分に皇 もちろん實像と重なっている部分もあるのだが、臣下で 威を傷つけかねない。よって、そこに現れる王維像は
である代宗の
第二の特 文言であると考えられる。 威を忖度した上での は、佛
に關する記
「 が見られることである。
年に至り」以
の句で、それは明瞭であり、また「
の語にも佛 靜」
との關係を
想させる。王維は、母の崔氏の影
を受けて、篤い佛
信 信仰の性格を變えつつ、王維が從 であった。そして、安史の亂後、
にもまして佛
るようになったとされる。安史の亂後の文章に、 (8) に歸依す
況臣夙有
願、伏願陛下中興、
殄滅、臣
出家修
極其 、
、庶裨
昔在 (「謝除太子中允表」(卷七)) 一。
地、泣血自思、一日得見
、 願出家修
、
!
奉明
"。 (「責躬
#弟表」)(卷七)
とあり、王維自身が自らの佛
信仰を それが、 べている。同時に、
ところで、王縉もまた熱心な佛 $再興を願うものでもあることが示されている。
信 も理 であり、兄の信仰へ (9)
%があったと推測される。しかし、王縉があえて
&
年
'の語を用いた理由を、兄の佛
への歸依が實際にその
年に深まったことにのみ求めるのは、おそらく正確な理
右にあげた文章や、 はなかろう。 %で (川 )の寄
*を願い出た「
施 表」はいずれも上表文である。そして、これら(卷七) )爲寺 の上表文のなかで、兄である王維がみずからの佛 年 信仰は
$
の再興
+願の一
重なのではないか。 ,であると表明した事實が、王縉にとって
兄自身による
年の佛 る眞意の 信仰におけ -在の表明、そしてその
.代の皇 の敕命、この二 による文集獻上
は王縉にとって
の結果、弟である王縉は「 關しているのである。そ
*『王維集』表」で兄の
年の佛 信仰に、ことさらに言
この佛 !したものと考えられる。よって、
信仰の記
も、皇
を意識し、皇
の意を 王維像を形作ろうとする發言と見るべきではないか。 /えて、
$代宗による「天下文宗」
0について(紺野)
王維の文學そのものについての記
上表文の特 が少ないことも、この と言える。別集の獻上という本來の目 *
實際には「文詞もて身を立て、之を行ふに餘力あり」と れば、この點に多くの言辭が費やされるべきだろう。しかし、 からみ るに止まっている。ところで、 べ の二特
うに、この上表文は皇 からもわかるよ
を意識した、政治
る。もし文學にのみ耽溺する王維像を臣下の側から表 配慮を持ってい
場合、そのような人物の文集を した
求することが皇
の も影する可能性がある。そのため、王維の文學への言 威に
抑制 が
維の性格や日常の記 なものとなったのではないか。しかも、ここでは、王
を ての人格を重點 じて、王維のいわば「高人」とし に示すことによって、皇
めるに至った、倫理 がその文集が求
根據を積極
*上表文の後 に示すこともできる。
に「歿して朽せず、大名を
に 語が見える。確かにこれは文集について す」という しかし、これは文獻獻上の榮 べたものではある。
王維の文學への言 を念頭に置いた表現と見られ、
の抑制 これらの三點の特 態度と矛盾はしないだろう。
を綜合 に考えるならば、王縉は、皇 の『王維集』獻上の
めた皇 求という事態のなかで、それをもと の
威を損なわないようとする配慮のもとに王維像 を
いたと 一方、代宗の答詔はどのようなものか。 斷してよかろう。
之伯氏、天下文宗。位煽先
、名高希代。抗行
長揖楚詞。 、
六氣於 篇、正五
於 韻。泉飛
襟 思、雲散
。詩家 流、持論歸美。誦於人口、久鬱文
風、宜登樂府。 、謌以國 之後、乙夜將
。石室
栢梁之會、今也則 !、歿而不朽、
"。乃眷棣
#、克
$
%、聲猷
&
'、 (
息良深。
この答詔は王縉の上表文を承けて發せられたのだが、その性質は大きく
)なる。上表文の第二の特
であった佛
わる記 *に關
は +く見られない。第一の特
先 についても、「位は に ,し、名は希代に高し」と
-單に記
る。一方、上表文では抑制されていた文學への言 されるのみであ が、ほぼ +$に見られる。たしかに、
. / .詩家 /.國風
『詩經』に關わる語彙に儒家 /などの 詩 く、王維の文學に政治 くはないが、對句を作るための修辭としての意味合いが色濃 *を見出すこともできな 色 0を なぜ、兩 1く投射したものではない。
にこのような差
2が生じるのか。第一に考えら 中國詩文論叢第二十六集
れる理由は、代宗の
への個人歌) き日の體驗に基づく、王維の文學(詩 愛好であろう。それを裏付けるように、『
書』卷一九〇文
傳に、
代宗好文、常謂(王)縉曰、「
代、 之伯氏、天寶中詩名冠 嘗於王座聞其樂章。今有多少文集、
可 於中外親故 縉曰、「臣兄開元中詩百千餘篇、天寶事後、十不存一。比 來。」 相與 綴、
得四百餘篇。」
日上之、
詔襃賞。 優
とある。しかし、それだけでは、
の三つの特
縉の上表文に答詔が對應しないことの理由を、なお充分に を持つ王
明できないであろう。ところで、王縉の上表に正面から對應した場合、王維の官
に觸れなければならない。その場合、直接、それに言
るか否かにかかわらず、王維が反亂軍から「僞官」を す 親族であり、現役の ことが意識されることになる。假にそれが問題となった場合、 けた 王維を許した父の肅宗や文集を 官でもある王縉の面目を汚すばかりか、
求した自らの
威にも影
しかねない。このことを意識するならば、『王維集』を
求 する立場の代宗にとっては、上表文の
容をひとまず無
て、その詩文に言 し 答詔の するだけで充分である。結果、上表文と に 上 妙な齟齬が生じたのではないか。
してきたように、王縉の記
は『王維集』を
皇 求した
あるいは
の 威保 上表文と對應させないことによって、やはり 一方、代宗の囘答は王維の文學への愛好を示しつつ、あえて を意識したものとなっている。
の 兩 識したものであると思われる。このように、理解するならば、 威を意 の言う
王縉・代宗ともに 容がかみ合わない、というこの事實の背後には、
の とが明らかになる。 威に對する到な配慮があったこ
三、
代における別集の獻上
ところで、
集の獻上を皇 代には、王維のように、個人の文集である別 の點は從來の によって命ぜられる例はあるのだろうか。こ しかし、これを綜合 !究ではほとんど指摘されなかったことである。
に賦與した「天下文宗」という に考察することによって、代宗が王維
筆 ができるのではないか。 "價の性格を明確にすること の
#査によれば、少なくとも現存
$料を見る限り、敕 代宗による「天下文宗」
"について(紺野)
命による別集の獻上や
殊な例である ( 纂は數えるほどしかない、至って特
。以下、その )
體例を示す。
韋庶人敗、(上官)婉兒亦斬於旗下。玄宗令收其詩筆、
文集二十卷、令張
(『 爲之序。
書』卷五一后
有子弟否。」李 文宗好文、尤重綸詩、嘗問侍臣曰、「盧綸集幾卷。(盧) 傳)
裕對曰、「……」
中使詣其家、令
集。(盧) 文
能盡以
(『 集五百篇上獻、優詔嘉之。
書』卷一六三盧
辭傳 (
(徐) ) )
業敗、伏誅、(駱
文多散佚。則天素重其文王)
使求之。有
州人
雲 集 十卷、
(『 傳於世。
書』卷一九〇文
奉宣令 傳)
、臣
來 。……臣
在 齡、
好詞賦、性
得、衰老不
。……
!新文十卷
(李 上。
裕「
新文十卷
」 (
) ")
ここで
#目したいのは、自己の文を獻上した李
對象となった人物には共 裕を除き、
$の特
一の特 %が見られることである。第
%は、對象
の政治
&經 'を問わずに、別集の獻上・
や駱 纂を行わせている點である。たとえば、上官婉兒(昭容)
王はいわば反
を (である。王維にも、安祿山の「僞官」
)けた事實がある。盧綸も後に元載・王縉らに
いう大きな負 *座したと
&側面を持つ。しかし、別集の
彼らの負の經 纂において、
'が影
+したふしはない。おそらくは、皇
關心がもっぱら文學にのみあり、ただ彼らの文學が皇 ,の
學 ,の文
しかし、 &志向と合っていたからであろう。
-の點に
盧綸のいずれもが宮 #目したい。それは、上官婉兒・王維・
また駱 .詩人の側面を持っていることである。
王は宮
名文であることを .詩人でこそないが、則天武后はその文章を について宰相を叱責している ( /め、このような人物を用いなかったこと
。つまり、 0)
謂宮
ないが、文學の才能によって .詩人では いた詩人ともいえる。宮 1.に呼ばれる可能性を持って .詩人、あるいは宮
とした詩人の作品の .で登用すべき 纂を、皇
なる個人 ,が命じたことは、やはり單 身や &愛好には止まらないと思われる。彼らの作品が自 1にとって
2ましいものと、命令する側、つまり皇
, の側が考えていたのではないか (
ところで、 。 3)
代には、書
4の 5積は必
6に應じて數
たり行われた ( -にわ
。そして、宮中の 7)
8書を
9やすという現象は、 中國詩文論叢第二十六集
いわば文
が、このような廣範圍の收集とは別に、特定の詩人について 政策の一面を含んでいる。別集もその對象である 持つ。つまり、これらの作品が、皇 纂、獻上があえて命ぜられることは、やはり特別な意味を
個人の志向と合
と共に、加えて する の文 値があると 政策上においても特に收集する價 政 斷されたのではないか。その價値とは、狹義の 側面に限られない。國家と皇
の
威を壯麗に
は、「石室に 『王維集』もそのような特殊な一例である。代宗の答詔に 能も、その文學の價値に含まれるのである。 る機 する いる。先に、 の書庫に永久に保存されていくものであることが表明されて 、歿して朽ちず」とあり、それが宮中 詩家 國風 樂府 など儒家詩
を意識した語に必ずしも政治色
は ないと くは投射されてい
べたが、この深
の文 に置くとき、やはり文
策と何ほどか關 政 する。このように、『王維集』の
て、代宗 上には、代宗個人の體驗に基づく王維詩文への愛好とあわせ 纂、獻 の文 政策の一
えた「天下文宗」という としての側面を持つ。それを支 價も、大
へと
なるこの文
策という文 政
で考えるべきものであろう。
四、代宗
位
後の中央文壇の
況
第二章では、王縉の上表文と代宗の答詔の
の差
に し、その背後に 目 の を確 威に對する、君臣雙方の配慮の存在 した。第三章では、
代における敕命による別集の
纂、獻上についての査から、それに文
政策という重
一面を持っていたことを推論した。それでは、なぜ、この !な
"
位
いう もない時期に代宗は、『王維集』を求め、「天下文宗」と 代宗 價を與えたのか。この問題を考える手がかりとして、
"位
#後の長安における文壇の
$況に
『隋 目したい。
五代文學
年史(中
卷) (
この 』は天寶十五載にはじまり、 %)
の
$況を整理するには、きわめて
これによって長安に居 &合がよい。以下、
至 おく。 '・滯在したと思われる文人をあげて (二載九
)
(長安囘復)十
)
錢
*
(
+)
十一
十二 )杜甫
至 )王維・杜甫
(三載・乾元元年正
)
岑參・杜甫・王維二
)
蘇端・賈至・王維・杜甫・岑參
代宗による「天下文宗」
について(紺野)
三
嚴武・徐
・王維・錢
岑參・司空 ・杜甫・
・賈至(
六 ↓汝州)
九 も離京) ・劉佚・嚴武・杜甫(いずれ
王維・李嘉
(本年)李翰・徐
乾元二年三
錢
五 (田)・岑參・王維
高
・岑參(
九 ↓州)
元結・薛據・王維・李嘉
(
↓
陽)上元元年二
元結五
王維八
顏眞
(
十一 ↓蓬州)
(本年)戎 王維
上元二年七
王維(
十一 )
錢
寶應元年正
岑參四
(代宗
九 位)
嚴武・
士元(渭南) 十二
寶應二年・廣 士元(渭南)
元年正
岑參・(『王維集』獻上)二
耿
三
錢
(田)・
九 士元(渭南)
岑參・嚴武・錢
十
錢
十二
賈至・張謂
これから理解されるのは、王維の
年のみならず (
、その )
である。特に王維の 後も、中央に文人と呼べる存在がほとんどいなかったこと
後では、長安とその
錢 邊には、岑參・
・嚴武・
士元などしか確
長安囘復の後、代宗の できない。いずれにせよ、
位直後まで
中央文壇
呼べるほどの は空白とも で、その空白は、あるいは現實以上に 況であった。安史の亂とその後の混亂のなか
代宗の答詔には「栢梁の會、今や則ち れない。 く感じられたかもし これは直接 ぶ」の語が見える。
には、天寶年
における、王維を含んだ
詩會が の
!に
"滅したことを示す (
。同時に、安史の亂以 #)
中央文壇の空白を示しているのだろう。このような $の 況に
%っ 中國詩文論叢第二十六集
た中央文壇を囘復するためには、個々の人材を呼び寄せるだけでは足りない。さらに、長安、より限定すれば
提示される必 おいて創作されるにふさわしい文學についての明確な規範が に 學であったのではないか。つまり、『王維集』獻上の があったのだろう。その規範こそ、王維の文
それを支えた「天下文宗」の 求と 價は、文學を手段とする文
再興、國家の禮樂
秩序の再
を重 において、王維の文學 ば、代宗の な規範として提示したものと考えられる。言い換えれ
位直後に、この
皇 價を敢えて示すことによって、
の個人 愛好に依りつつ、その治世における文學
當然、理解していたと思われる。故に、「 王維の文學を中央文壇の規範とする代宗の意圖を、王縉も を鮮明にしたのである。 規範 に見られるように、 『王維集』表」 や皇
の を重 ならなかった。一方、代宗自身にとっても、王維はその文學 威には、十分配慮せねば な規範とするのにふさわしい人物である必
だろう。 があった に、
を とする中央文壇で規範
不 されるのに
を 當な部分は排除されねばならない。安祿山から「僞官」
けたことは、もちろん、その最たるものである。代宗が の
威を意識する時、これに觸れないよう、專ら王維の 文學にのみ言
したのである。つまり、第二章で確
このような した、
の 威への配慮は、文
政策としての文
える。 興のなかで王維の詩文を規範とすることから生まれた、と言 再 點を轉ずれば、代宗は寶應元年に、
に當塗で
白をそうとは知らずに、左拾 した李 として任官したことが、劉
白「
故翰林學士李君碣記」
び范傳正「李白新
」に
べられている (
。その經 )
李白は永王李 や『王維集』をめぐる況と重なる部分があると思われる。 は必ずしも明確ではないが、王維
!の軍に參加し、叛徒として
"われた。
赦を に恩
けているとはいえ、反
#の一黨であったことに相
$
なく、しかも高齡でもあった。このような人物を長安に召
%
し、諫職につけることは
&例であり、これが事實ならば
'險 な決定であると言わざるを得ない。しかし、
李白も、天寶元年秋から同三載春までの第二 (れば、この )在京期 (
林供奉として、また宮 に翰 *)
六 詩人として宮中に出入していた。十 +から十九
+の るほどの人物だったのではないか。つまり、文學による文 李白は、彼一人をもって中央文壇の大きな空白を埋めるに足 ,年期に、その記憶を持つ代宗にとって、
再興という點において、李白は、
に していた王維ととも 代宗による「天下文宗」
について(紺野)
に最 ところで、王維と李白では、宮 の人物だったのである。
詩人 のの、經 一面を共有するも も、そして詩風も大きく
理 なる。この點を代宗が していたとすれば、代宗の一
の行動は、個人
愛好よりも、文政策としての文 な文學
再興の側面が
個人 もしれない。いずれにせよ、代宗の行動には、體驗に基づく くなるか
愛好の側面と政治
意味を持つ文
再興の側面が
しているという本稿の 存 張を傍證するものといえよう (
。 )
五、小結
本稿では、王維に對する
の代宗の「天下文宗」
の ていくつかの問題を指摘、檢討してきた。『王維集』の別集 につい 纂・獻上の敕命は、
殊なものであり、文政策 代においてもほとんど例のない特 を支えた「天下文宗」という 意義を有していた。そしてそれ 中央文壇が空白であった代宗 價によって、王維の詩文は、
位直後における文學
なった。このような王維の文學を規範 規範と 縉に共 する意圖が代宗・王 して存在したからこそ、兩
は や皇
の 意識し、それが「 威を 齬につながっていった。その規範 『王維集』表」と代宗の答詔における齟
には代宗個人の文學
愛 好とともに、あるいはそれ以上に、文學による文
再興という政治
この 意味も存在したと考えられるのである。
價によって規範
のように された王維の文學は、實際にはど
容されたのか。筆
は、この
の錢
の働きが重
ではないかと考えている。錢
が生
の王維と實際に交
があったことはよく知られる。また當時の空白の中央文壇の中では、數少ない詩人であった。そしてこの後に續く大
年
、十才子の
として活
!することになる。錢
の文學を繼承し、大 が王維 文學を
「天下文宗」という する際に、代宗の發した ずることにしたい。 ないかと推測する。この課題については、別稿にて詳しく論 價が大きな後ろ盾となっているのでは
〔
(1) 〕
"・趙殿
#『王右丞集箋
$』(上
%古
&出版 九九八年八 '排印本、一 (第一版)卷末「右丞年
)」 校 *び陳鐵民『王維集
$』(中 +書局、一九九七年八
(第一版)「王維年
(2) 七三頁を參照。 )」一三
"・仇兆鰲『杜詩詳
$』(中
〇 +書局排印本、一九七九年一 (第一版)卷一七。
,引の鶴
$によれば、大
六)の作とする。 元年(七六 中國詩文論叢第二十六集
(3)本稿では、『
書』は中
書局排印本(一九七五年五
第一版)を、『新
書』は同(一九七五年二
用する。なお該當部分について、『新 第一版)を使 書』卷二〇二文
中に、「寶應中、代宗語縉曰、『 傳 嘗於 幾何』中人王承 王座聞維樂章、今傳 取、縉
『 集數十百篇上之」とある。
書』については後
(4)孫明君「天下文宗名高希代 する。
代宗期待
野中 詩歌」(陝西師範大學『陝西師範大學學報(哲學 王維 第三六卷第五期九八頁―一〇三頁、二〇〇七年九 會科學版)』 の點について比較 )が、こ
(5)『 詳しく論じたものである。
書』卷一一八王縉傳、『新
(6)王縉の上表文と代宗の答詔については、靜嘉堂 照。 書』卷一四五王縉傳を參
一九七七年七 『王右丞文集〔複製〕』(靜嘉堂稀覯書之七、雄松堂書店販賣、 宋本影印
發行)卷一
收を底本とし、『文
』(中 書局影印本、一九六六年五
)卷六一一
び『
四六(代宗)・三七〇(王縉)(上 文』卷 古 出版 九〇年一二 影印本、一九 も『王右丞文集〔複製〕』を用い、 第一版)を參考にした。なお、王維詩文の引用
宜
(7)陳鐵民「王維生 本を參考にした。
人民文學出版 五事考辨」(『王維論稿』六〇―六二頁、
、二〇〇六年一二
第一版)「四
」は『
書』の「祿山素憐之、人
置洛陽」という記
を否定する。 (8)たとえば
めぐって」(中國詩文 田一「王維における業思想安祿山の亂を
一九八九年一〇 !究會『中國詩文論叢』第八集、
)六七頁は「佛
維の幽閉中 "の『業思想』こそが、王 びそれ以後の態度・行動に大きな影
のではないか」と #を與えた
(9)『 べる。
書』卷一一八王縉傳、『新
( 照。 書』卷一四五王縉傳を參 10)このことは白居易の別集の
居易が自らの文集を、將來に保存することを目 $纂を見た場合、興味深い。白
寫し、寺院などへ に五本を筆 氏集後記』)しかし、皇 %ったことはよく知られる。(白居易『白
&に獻上したという記
'は確
ない。宮中の書庫である集賢祕閣は『 (でき 傳に「(蘇)弁聚書至二萬卷、皆手自刊校。至今言蘇氏書、 書』卷一八九儒學 )於集賢祕閣焉」とあるように最大の
に加われば名 書量であった。ここ
*であると同時に、(燒失や散佚の危險は
ものの)保存においても意義があるだろう。 +う とも官 ,年、すくなく 集が、自身によっては獻上されなかったことは、皇 -において格別の問題がなかったであろう白居易の文
特定の別集の &による
( 示唆する。 $纂・獻上の命令が特殊なものであったことを 11)『新
書』卷二〇三文
傳下にも同樣の記
( がある。
12)『
文』卷七〇三。なお、李
.裕の例が他と
自らの文集を提出するという點にあると思われる。 /なるのは、
代宗による「天下文宗」
0について(紺野)
( 13)『新
書』卷二〇一文
傳上に「徐
業亂、
(駱)
爲府屬、爲 王 業傳檄天下、斥武后罪。后讀、……或以
( 后曰、『宰相安得失此』」とある。 王對、
14) (4)孫論文は「期待
野」(expectingview)の
點から、「這一
價折射了當時最高統治
對文學創作
態度和審美 政治 趣。從
政治
角度看、典
和 是代宗眼里 王維詩歌 新經典。從日常生活
角度看、王維詩歌反映了
時代貴族階
審美標準和
趣味」と(一〇三頁)
べる。(
15)『 書』卷四六經
志には、
代には
の例が確
・貞 る。 され 中、令狐
、魏
相 爲祕書監、上言經
、
!行
"
・至(開元)七年、詔公 #、并奏引學士校定、群書大備。
$士庶之家、
%有
・肅宗・代宗崇重儒 &書、官借繕寫。
、 '詔
"
・文宗時、……詔令祕閣 #。 (訪
( )文、日令添寫。
16)陶
*・李一飛・傅
+,『隋
五代文學
-年史(中
( 卷)』
./出版
0、一九九八年一二
( 1第一版)二九―一三一頁。
( 17)王維・鄭虔ら「僞官」に就いていた人物を除く。
18)陣
2孝文「王維の
3川 4『喜 5』と宦官李輔國の專
年一二 (九州大學中國文學會『中國文學論集』第三五號、二〇〇六 6」 1)二五頁は李輔國が
7力を握ったため「玄宗
の
臣であった王維の友人
8は左
9の憂き目に
:っている」と
べる。(
19)『 書』卷九玄宗紀に、「(天寶)十四載春三
群臣于 1丙寅、宴
( ;政樓。奏九部樂。上賦詩。效柏梁體」とある。
20)「代宗登極、廣
<淹瘁、時君亦拜拾
)、聞命之後、君亦
=
矣」(劉記)、また「代宗之初、
(羅俊、拜公左拾
于 )、制下
>庭、禮
?于玄壤、生不
@祿、 傳)とある。( A而稱官、嗚呼命與」(范 B・王 C『李太白
D集』(中
九七七年九 E書局排印本、一
( 1第一版)卷三一に依據した)
21)松浦友久『李白傳記論客寓の詩想』(
一九九四年九 F文出版、
( 二〇〇頁を。照參 1る長安體初版)(下)」一九九・おけに白「李驗 22)文學に限定しなければ、代宗は「
G修學 H制」(『
卷四六)という制敕も發している。また『新 D文』
書』卷五七
文志に「元載爲相(元載が宰相となるのは寶應元年のことである)、奏以千錢
"書一卷、又命拾
あり、これらも文 )I發等使江淮括訪」と J再興の一
Kと考えることができる。 中國詩文論叢第二十六集