序
中国古典文学には一般に子供が登場しないと言われる。確
かに中国古代文化を先導した士大夫の詩文からは、児女を専
一に取り上げる作品は乏しい。『詩経』の衛風には「童子」へ
の言及があるものの、総じて先秦から漢魏六朝にかけて子供
を詩作対象にするものはほとんど指摘できない。この種の創
作傾向は唐代以前に幼児の死を主題にする詩篇が、後漢の孔
融「雑詩二首其二」(『古文苑』巻八)と西晋の潘岳「思子詩」
(『芸文類聚』巻三十四哀傷)のわずか二首に留まる事実 纊からも
傍証される。医学や疫学が未発達な古代社会にあって、夭逝
が珍しくなかったことを考えればなおさらである。
人として未だ完成されていない存在
―
成人ならざる児女〔一〕
―
が、自らの文学に不可欠の対象として詠われるようになるのは、東晋の陶淵明、盛唐の杜甫、中唐の白居易、北宋の
蘇軾という作家の系譜においてである。陶淵明の「命子」「責
子」「帰去来兮辞」……や杜甫の「秋雨嘆三首其三」「自京赴
奉先縣詠懐五百字」「北征」……などでは、稚い我が子に注が
れる父親の眼差しが活きており、従前の貴族を中心とする宮
廷詩人がなし得なかった新しい文学成果と言えよう。愛らし
い子供への視座は、唐朝中頃から急速に強化されていく。
先に引用した四詩人のなかでもとりわけ白居易は、子供の
姿を詩中に数多く取り上げる作家であった。これはその文学
が日常性に立脚していたことに原因しようが、より本質的に
は子供・老人・女性が持つ独自の身体性に、彼が並々ならぬ
強い関心を寄せていたからに他ならない。儒教文化が規定す
白 居 易 「 病 中 哭 金 鑾 子 」 詩 考 ―
発想と措辞の観点から―
埋 田 重 夫
白居易「病中哭金鑾子」詩考(埋田) る中華的身体(士大夫像)から逸脱する三者は、白居易が生涯 に渉って注目し続けた詩材と言わねばならない 褜。
此の度の考察では、自身の病と長女の死を併せて詠う作品
について、主に発想と措辞の側面から考察し、先行文献を踏
まえながら確認できた複数の論点を提出したいと思う。
白居易詩に現れる子供
『白氏文集』には親族・朋友・隣宅・寺観・貴族・農民・貧
家・奴婢などの児女が多く詠い込まれる。当然それらを表す
言葉も嬰・児・子・女・童・(雛)・嬰孩・嬰児・小子・小女・
小童・小尼・小姪・児女・児童・孩童・学童・庖童・村童・
楽童・家童・家僮・童稚・童騃・童孺・童士・童男・女子・
女児・女孩・丱女・隣女・稚女・幼者・小姪・孩子・(掌珠)・
小児女・小男子・小男児・小女児・小女子・小女冠・小外孫・
三女子……と極めて多数に及ぶ。取材される社会階層がどの
詩人より広範囲な点は、白居易文学の大きな特色の一つであ
る。「白俗」と評される作風は、確かにこの部分にもよく現れ
ている。子供を題材にした作品は合計二十八首指摘できる 鍈が、
以下にその詩題を列挙してみたい。因みに部分的な素材を含
めれば、用例数はこの数倍に達している。
〔二〕
○「弄亀羅」〔
0312〕○「吾雛」〔
0364〕○「金鑾子晬日」〔
0413〕
○「観児戯」〔
0463〕○「念金鑾子二首其一」〔
0468〕○「念金
鑾子二首其二」〔
0469〕○「簡簡吟」〔
0604〕○「病中哭金鑾子」
〔
0776〕○「重傷小女子」〔
0824〕○「羅子」〔
1000〕○「聞亀児詠
詩」〔
1033〕○「自到潯陽、生三女子、因詮真理、用遣妄懐」
〔
1087〕○「玉真張観主下小女冠阿容」〔
1281〕○「龍花寺主家
小尼」〔
1282〕○「鄰女」〔
1297〕○「路上寄銀匙與阿亀」〔
1316〕
○「小童薛陽陶吹、觱篥歌」〔
2203〕○「和微之詩二十三首其
二十、和晨興因報問亀児」〔
2269〕○「見小姪亀児詠燈詩、并
臘娘製衣、因寄行簡」〔
2502〕○「予與微之、老而無子、発於
言歎、著在詩篇。今年冬、各有一子。戯作二什、一以相賀、
一以自嘲」〔
2820〕○「自嘲」〔
2821〕○「阿崔」〔
2825〕○「和微
之道保三日」〔
2862〕○「哭崔児」〔
2880〕○「初喪崔児、報微
之晦叔」〔
2881〕○「小歳日、喜談氏外孫女孩満月」〔
3336〕○
「談氏外孫生三日、喜是男、偶吟成篇、兼戯呈夢得」〔
3450〕
○「談氏小外孫玉童」〔
3597〕。
これらを通読して最初に気がつくのは、幼い身体が瞬間瞬
間にみせる仕種を、まるで眼前の風景の如く克明に再生して
いることである。戯れ、笑い、抱き着き、学び、啼き、眠る
中国文学研究 第三十九期
という幼児特有の所作や姿勢が、韻律を伴った詩の言語に過
不足なく掬い取られ、それが一首全体の詩情を明確に方向づ
けている。いわば感情を含んだ身体の詠出である。杜甫の詩
篇にも生命力に充ちた子供の描写がしばしば認められるが、
白居易はその詠法の確かな継承者であったと判断されよう。
多くの作例のなかから六首だけ引用する。
①「……一始学笑語、一能誦歌詩。朝戯抱我足、夜眠枕我
衣。……」(「弄亀羅」〔
0312〕)。
②「……稚女弄庭果、嬉戯牽人裾。……」(「官舎」〔
0363〕)。
③「……撫養雖嬌騃、性識頗聡明。学母畫眉様、効吾詠詩
声。……」(「吾雛」〔
0364〕)。
④「……寒衣補燈下、小女戯牀頭。……」(「贈内子」〔
1015〕)。
⑤「憐渠已解詠詩章、揺膝支頤学二郎。……」(「聞亀児詠詩」
〔
1033〕)。
⑥「……無奈嬌痴三歳女、繞腰啼哭覓銀魚。」(「初除尚書郎、
脱刺史緋」〔
1175〕)。
全体の特色として最後に指摘できるのは、言及する幼子の
大半が親族に集中しているという点であろう。自身の長女(金 鑾)次女(阿羅)長男(阿崔)、次弟白行簡の長男(亀児)長
女(臘子)、娘の阿羅が談弘謨に嫁いで生まれた外孫の長女
(引珠)長男(玉童)は、その典型とも言うべき人々である。
骨肉の児女達への深い慈愛の情は、年齢を重ねるに従って強
く作用していくことになる。「物情少可念、人意老多慈」(「弄
亀羅」〔
0312〕)、「物以稀為貴、情因老更慈」(「小歳日、喜談氏外孫
女孩満月」〔
3336〕)の詩句は、その偽らざる心情をよく表してい
て興味深い。
子供のなかで特に引用が多いのは、晩婚の白居易が三十八
歳の時に初めて授かった長女金鑾である。彼は何故この子を
主題にした詩を五首 銈遺しているのか。次節では、この作品群
についてさらに検討してみたい。
詠金鑾詩と問題の所在
白居易は元和三年(八〇八)三十七歳の時に、友人であっ
た楊虞卿の従父妹と結婚し、その翌年に金鑾が生まれている。
憲宗を補佐する左拾遺および翰林学士として、「新楽府五十首」
に代表される諷諭詩を量産し、長安中央政界で華々しく活動
していた時期と重なる。そして三年後の元和六年四月三日に、
母陳氏が長安の宣平里宅で逝去する。享年五十七。服喪のた
〔三〕
白居易「病中哭金鑾子」詩考(埋田) め全ての官職を辞し、白一族の墳墓の地である渭村下邽に退
居すると、今度は三歳になったばかりの長女が後を追うよう
に病没するのである。この金鑾を詠う作品五首は、生前を描
く一首と死後を述べる四首から成り立っている。初子の喪失
体験がもたらした深刻さは、四首の詩が間隔を置かずに作ら
れていることからも明らかである。それは子供の成長ととも
に伸張していくはずの自己の人生 蓜が、ある日突然に截断され
てしまう衝撃であった。全詩を制作年順に挙げ、創作地と各
詩型も併記する。
⑦「行年欲四十、有女曰金鑾。生来始周歳、学坐未能言。
慙非達者懐、未免俗情怜。従此累身外、徒云慰目前。若
無夭折患、則有婚嫁牽。使我帰山計、応遅十五年。」(「金
鑾子晬日」〔
0413〕・三十九歳・長安・五言古体)。
⑧「豈料吾方病、飜悲汝不全。卧驚従枕上、扶哭就燈前。
有女誠為累、無児豈免怜。病来纔十日、養得已三年。慈
涙随声迸、悲腸遇物牽。故衣猶架上、残薬尚頭辺。送出
深村巷、看封小墓田。莫言三里地、此別是終天。」(「病中
哭金鑾子小女子名」〔
0776〕・四十歳・下邽・五言排律)。
⑨「衰病四十身、嬌痴三歳女。非男猶勝無、慰情時一撫。 一朝捨我去、魂影無處所。况念夭化時、嘔唖初学語。始
知骨肉愛、乃是憂悲聚。唯思未有前、以理遣傷苦。忘懐
日已久、三度移寒暑。今日一傷心、因逢舊乳母。」(「念金
鑾子二首其一」〔
0468〕・四十二歳・下邽・五言古体)。
⑩「與爾為父子、八十有六旬。忽然又不見、邇来三四春。
形質本非実、気聚偶成身。恩愛元是妄、縁合暫為親。念
茲庶有悟、聊用遣悲辛。暫将理自奪、不是忘情人。」(「念
金鑾子二首其二」〔
0469〕・四十二歳・下邽・五言古体)。
⑪「学人言語憑牀行、嫰似花房脆似瓊。纔知恩愛迎三歳、
未辯東西過一生。汝異下殤応殺礼、吾非上聖詎忘情。傷
心自歎鳩巣拙、長堕春雛養不成。」(「重傷小女子」〔
0824〕・四
十四歳・長安・七言律詩)。
ここでは古体と近体、五言と七言を各々用いて、(一歳の誕
生日を迎えた感慨)→(突然訪れた死と野辺の送り)→(乳母と出
会った二年後の抒情と説理 俉)→(母の喪が明けた四年後の傷心と追
憶)が時系列で叙述される。⑦から⑪までに通底する詩情は、
四十近くになってようやく娘を得た父の歓喜と責任であり、
その子との死別によって生じた悲嘆と悔恨である。⑦「生来
始周歳、学坐未能言」(生まれてやっと一歳となり、お座りはでき
中国文学研究 第三十九期
るようになったがまだうまく話せないでいる)、⑪「学人言語憑牀
行、嫰似花房脆似瓊」(大人の言葉の真似をしてベッドに摑まり立
ちして歩いていた、花のようにやわらかで玉の如くもろい女の子で
あった)は、稚い姿のままにあの世へ旅立った金鑾の残像に
他ならない。幼児を描く白氏の詩才は、ここでも遺憾なく発
揮されている。
「詠金鑾詩」五首の重要性は、何よりも先ず、我が子を初め
て失ったその体験自体に求められねばならない。この意味か
らとりわけ⑧「病中哭金鑾子」は、『白氏文集』全体のなかで
看過できない重要な作品になっている。唐代末までの中国韻
文史にあって、自分の初子の闘病・臨終・臨哭・葬送・永訣
を時間軸に沿って詠い、娘を亡くしてしまった父親の真率な
感情を吐露する詩篇は、これ以外にほとんど指摘できないか
らである 炻。さらにまたこの詩が題目と本文から窺えるように、
子の病死を詠いながら同時に自らの病態に触れていることは、
十分に注意されてよい。つまり「病中哭金鑾子」は、哀傷詩
であるとともに詠病詩になっているのである。死と病という
二つの題材に架橋する基本的性格は、後述する如く本詩の発
想・措辞・心象に大きな影を投げ掛けることになる。
当該詩の校語に関しては、朱金城『白居易集箋校』〔全六冊〕 (上海古籍出版社、一九八八年十二月)および謝思煒『白居易詩
集校注』〔全六冊〕(中華書局、二〇〇六年七月)が、「隨 0声→尋 0
声」(金澤文庫本)「非腸 0→非傷 0」(馬元調刊本)の異同を報告す
る程度で、書誌学上の大きな問題は発生していない。これに
対し、本詩第三第四句「卧驚従枕上、扶哭就燈前」の解釈に
ついては、全く異なる二説が広く通行している。日本で出版
された唐詩と白詩の注釈書の大半は、「卧して驚くは枕上従 より し、扶 たすけられて哭し燈前に就 つく」と訓読し、「扶」の動作を受
ける対象は白居易自身であるとする。但しどの著作もその具
体的な根拠を明示していない。これに反して次の諸書は、「扶」
されるのは金鑾であり、なおかつそれは、亡骸を抱いて慟哭
する白居易の姿を表現しているとする。非常に斬新な解釈で
あるので、確認できた所説の概要を刊行順に紹介してみる。
佐久節『白楽天全詩集』〔全四冊〕〈続国訳漢文大成〉(日
本図書センター、一九七八年七月)〔臥しては驚く枕上より、
扶 たすけ哭して燈前に就 つくことを→寝てゐた吾は驚いて起き
上り、死んだお前を抱いて燈の側に寄り、泣いてお前の
顔を視た。〕。
近藤春雄『白楽天とその詩』(武蔵野書院、一九九四年十月)
〔A〕
〔B〕
白居易「病中哭金鑾子」詩考(埋田) 〔臥して驚く枕上より、扶け哭して燈前に就く→ねていた
わたしはびっくりして、枕もとからおまえをあかりの前
へだいていって泣いた。〕。
静永健「月を仰ぎ見る妻へ
―
白居易下邽贈内詩考」(「九州中国学会報」第四十三号、九州中国学会、二〇〇五年五月)
〈後に『漢籍伝来―白楽天の詩歌と日本』(勉誠出版、
二〇一〇年一月)に収録〉〔枕上より臥 とび驚 おき、灯前に扶 だきかかえて
し哭す。→この二句、一説に「臥して驚き枕上に従 むかひ、 扶 たすけられて哭し灯前に就 つく」と訓む(明治書院新釈漢文大
系『白氏文集』三、竹村則行執筆)。『従』を「向」・「至於」
の意に取り、『扶』を「(白居易が)人に支えられて……」
と解したもの。対して筆者は、『従』は対応する「就」字
とともに、場所を示す介詞「於」「在」の意とし、『扶』
を(白居易が)愛児の身体を「だきかかえる」意に解釈す
る。唐詩の一般的な用例として「枕上」は自分の枕、更
には夢寐の中にある我が身をいう。〕。
後藤秋正『唐代の哀傷文学』(研文出版、二〇〇六年二月)
〔臥して驚く枕上より、扶 たすけ哭して燈前に就くことを→第
三・四句は、病に臥せていた白居易が、金鑾を抱いて灯火
のかたわらで慟哭したことを言う。このような、亡き子
〔C〕
〔D〕
を我が胸に抱く描写は従前には見られなかったものであ
る。ただし、病気で体の弱った白居易が人の手にたすけ
られて、と解釈することもできよう。〕。
下定雅弘『白楽天』〈角川ソフィア文庫〉(角川学芸出版、
二〇一〇年十二月)〔臥して驚くは枕上従 よりし、扶 たすけ哭し
て灯前に就く→おまえが亡くなったと聞き、驚いて枕か
ら頭を起こし、死んだおまえを抱いて灯 ともしび火の側で見た。〕。
翻訳と解説にそれぞれ微妙な差異を含みつつ、何れも娘の
遺体を抱き締めて哭泣する父という一点で共通している。夜
の帳が下りたなかで迎えた臨終・臨哭の場面との整合性も高
く、十分な説得力を持つ解釈と思われる。しかし本稿では、
漢語における「扶」の用例を精査し、個々の用法を帰納した
結果、この詩中で「扶」される対象は、やはり金鑾ではなく
白居易であると結論づける。そしてまたこの「扶」の解釈自
体が、「病中哭金鑾子」詩全体の詩情を大きく支配しているこ
とを主張したい。以下その論拠について、系統的に述べてい
くことにする。
〔E〕
中国文学研究 第三十九期
「扶」の用法について
漢字は一般に形・音・義の三要素で構成されるが、これら
は各々密接に関係して運用される。これも表語文字(logogram)
である漢字の大きな特性と言えよう。「扶」の動詞用法を巡る
第一の要点は、古代の金文や篆文に認められる字形・字源で
ある。例えば赤塚忠・阿部吉雄『旺文社漢和辞典』(旺文社、
一九八七年七月)では、「形声。扌(手)と、音を表す夫(そえ
る意→輔)とで、手をそえてささえる、〝たすける〟意を表す」
と解字する。白川静『常用字解』(平凡社、二〇〇四年二月)で
はさらに詳しくなって、「形声。音符は夫 ふ。[説文]十二上に
〝左 たすくるなり〟とあり、扶持し、保護することをいう。〝たす
ける、まもる〟の意味に用いる。金文の字形では、夫を傍ら
から手で支える形で、会意の字のような表現になっている。
語としては輔 ほと同音で、輔助(たすけること)の意味がある。
……」と説明する。また藤堂明保・加納喜光『学研新漢和大
字典』(学習研究社、二〇〇五年五月)では、「形声。〝手+音符
夫〟で、手の指四本をわきの下にぴたりとあてがってささえ
ること。夫は音を示し、意味に関係がない」と述べ、介添え
の手の動きにまで言及している。これは「扶寸」(「膚寸」)の
〔四〕
漢語に代表されるように、「扶」が指四本分の長さを示す古代
中国の尺度を意識していよう。
漢字の成分から考えれば、「扶」の原義は、意符(意味記号)
の「扌」が表示する如く、手で助け支えるとなる。中国の伝
統的な字書や韻書の多くが、「扶」について「左」(『説文解
字』)、「護」(『方言』)、「扶助」(『釈名』)、「持」「側手」(『玉
韻』)、「扶持」「佐」(『広韻』)、「側手」(『集韻』)と解説するの
は、この意味からも理解しやすい。そのどれもが助け、護り、
持つという語気を内包している。参考までに先秦から前漢に
至る散文のなかから、代表的用例を掲出してみる。
ⓐ「孔子曰、求、周任有言。曰、陳力就列。不能者止。危 而不持、顚 0而不扶 000、則将焉用彼相矣。……」(『論語』季 氏)。ⓑ「……蓬生麻中、不扶而直 0000。……故君子居必擇郷、遊必 就士、所以防邪僻而近中正也。」(『荀子』勧学)。ⓒ「……及至西伯卒、武王載木主、號為文王、東伐紂。伯
夷・叔斉叩馬而諫曰、父死不葬、爰及干戈、可謂孝乎。
以臣弑君、可謂仁乎。左右欲兵之。太公曰、此義人也。
扶而去之 0000。……」(『史記』伯夷列伝)。
白居易「病中哭金鑾子」詩考(埋田) ⓓ「……斉王謂孟嘗君曰、寡人不敢以先王之臣為臣。孟嘗 君就國於薛。未至百里、民扶老携幼 0000、迎君道中。孟嘗君
顧謂馮諼、先生所為文市義者、乃今日見之。」(『戦国策』
斉四)。
傍点部「顚而不扶」「不扶而直」「扶而去之」「扶老携幼」は
皆、現代中国語の「攙扶」(手で軽く支えてやる)であり、「扶
助」「依附」のニュアンスを強く有していることがわかる。つ
まり「扶」の原義は、完全に脱力無力化している相手を全的 00
に「抱き締める」「抱き寄せる」ことではなく、独りでは立ち
歩くことが著しく不安定かつ困難な者に、手を貸し与えて支
える意味でなければならない。しかも詩中で金鑾は既に死亡
して「牀」に横たわっており、その遺体に対して父である居
易が手を差し伸べて「扶助」することは、語法的にも論理的
にもほとんど成立し得ないと考えられる。因みに当方の個人
的な読書メモによっても、六朝詩および唐詩で死者 00を抱き留
める「扶」の用法は未だ一例も検出できていない。
第二の根拠として指摘したいのは、儒家の経書が細かく定
める喪礼の身体所作である。「五経」の『礼記』には、次のよ
うな記述があり特に留意される。 ⓔ「……或問曰、杖者何也。曰、竹桐一也。故為父苴杖、
苴杖竹也。為母削杖。削杖桐也。或問曰、杖者以何為也。
曰、孝子喪親、哭泣無数、服勤三年、身病體羸。以杖扶
病也。則父在不敢杖矣。尊者在故也。堂上不杖。辟尊者
之處也。……」(『礼記』問喪)。
ここでは三年に渉る「丁父母憂」に際し、「孝子」の悲哀と
痛苦の貌を「以杖扶病
―
杖を以て病を扶くるなり」という身体表現によって象徴させている。まさしく後漢の鄭玄が「言
得杖乃能起也
―
杖を得て乃ち能く起つを言ふなり」と注を加える所以である 昱。金鑾は僅か三歳で亡くなったため、その
葬送は礼法に従って簡素に執り行わなければならなかった。
前引⑪「重傷小女子」が説く「汝異下殤応殺礼」は、周代の
法制儀式を詳述した『儀礼』に基づいている。
ⓕ「……年十九至十六為長殤、十五至十二為中殤、十一至
八歳為下殤、不満八歳以下、皆為無服之殤。無服之殤、
以日易月。以日易月之殤、殤而無服。故子生三月、則父
名之、死則哭之。未名、則不哭也。」(『儀礼』喪服)。
中国文学研究 第三十九期 金鑾のいわゆる「無服之殤」(喪服の無い殤 わかじに)は、父母の喪
礼の場合とは大きく異なる。しかし骨肉を亡くした悲嘆の深
さを、杖を突いて病身を「扶」える姿で代弁させる儒教的な
発想や思考は、詩中でも十分に活きていると推測される。白
居易「病中哭 000金鑾子」の詩題三文字に込められた作者の意図
は、本詩を読み解く上で決して見落としてはならないであろ
う。この作品は金鑾の死を主題にしているが、何より肝腎な
点は、病臥している衰老の自分が反対に若い娘の死を見届け
なければならなかった不条理にある。当該詩に一貫して流れ
る無力感や隔絶感
―
病中故に父として何もしてやれなかった思い
―
は、この文脈のなかに置いてこそより一層正確に把握される。自らが病と闘っている最中に、金鑾の命を繋ぎ
留めることができなかった後悔の念は、五言十六句八十字の
隅々にまで充溢して作品自体に大きな力を与えている。
第三のそして最も重要と思われるのは、白居易詩に使われ
る「扶」字の全用例である。先ず詩題を示し、次に年齢を記
す。ここでは動詞用法に特化しており、「扶疏」「扶揺」など
その他の品詞 棈は除外している。
○「和答詩十首并序、序文」〔
0100〕(三十九歳)○「有木詩八 首并序、其一」〔
0111〕(三十六歳から四十歳)○「新楽府五十
首其七、上陽白髪人」〔
0131〕(三十八歳)○「新楽府五十首其
九、新豊折臂翁」〔
0133〕(三十八歳)○「新楽府五十首其二十、
傳戎人」〔
0144〕(三十八歳)○「新楽府五十首其三十三、母別
子」〔
0157〕(三十八歳)○「効陶潜體詩十六首并序、其十五」
〔
0227〕(四十二歳)○「郡中即事」〔
0361〕(五十二歳)○「林下
閑歩、寄皇甫庶子」〔
0385〕(五十三歳)○「泛春池」〔
0391〕(五
十四歳)○「病中友人相訪」〔
0482〕(四十二歳)○「長恨歌」
〔
0596〕(三十五歳)○「寒食卧病」〔
0678〕(二十九歳以前)○「答
張籍、因以代書」〔
0716〕(三十八歳)○「病中哭金鑾子小女子
名」〔
0776〕(四十歳)○「還李十一馬」〔
0798〕(四十三歳)○「渭
村退居、寄礼部崔侍郎・翰林銭舎人詩一百韻」〔
0807〕(四十三
歳)○「東南行一百韻、寄通州元九侍御・灃州李十一舎人・
果州崔二十二使君・開州韋大員外・庾三十二補闕・杜十四
拾遺・李十二助教員外・竇七校書」〔
0908〕(四十六歳)○「新
秋」〔
1121〕(四十八歳)○「新昌新居書事四十韻、因寄元郎
中・張博士」〔
1259〕(五十歳)○「酔題候仙亭」〔
1331〕(五十一
歳)○「飲後夜醒」〔
1381〕(五十二歳)○「早飲湖州酒、寄崔
使君」〔
2338〕(五十三歳)○「対酒吟」〔
2437〕(五十四歳)○「宿
杜曲花下」〔
2594〕(五十八歳)○「偶詠」〔
2743〕(五十八歳)○
白居易「病中哭金鑾子」詩考(埋田) 「臨都駅送崔十八」〔
2751〕(五十八歳)○「七月一日作」〔
3038〕
(六十四歳)○「隠几贈客」〔
3042〕(六十五歳)○「詠老贈夢得」
〔
3233〕(六十六歳)○「自題小草亭」〔
3236〕(六十四歳から六十五
歳まで)○「病中贈南鄰覓酒」〔
3279〕(六十五歳)○「病中詩
十五首、并序、其十四、歳暮呈思黯相公、皇甫朗之及夢得
尚書」〔
3421〕(六十八歳)○「強起迎春戯寄思黯」〔
3437〕(六十
九歳)○「皇甫郎中親家翁、赴任絳州、宴送出城贈別」
〔
3441〕(六十九歳)○「残春晩起、伴客笑談」〔
3443〕(六十九歳)
○「対酒閑吟、贈同老者」〔
3540〕(七十一歳)○「二年三月五
日、齋畢開素、當食偶吟、贈妻弘農郡君」〔
3543〕(七十一歳)
○「池畔逐涼」〔
3588〕(七十一歳)○「戯問牛司徒」〔
3623〕(七
十一歳)○「胡・吉・鄭・劉・盧・張等六賢、皆多年寿、
予亦次焉。偶於弊居合成尚歯之会。七老相顧、既酔甚歓。
静而思之、此会稀有、因成七言六韻以紀之、伝好事者」
〔
3640〕(七十四歳)。
全体として詩篇は四十一、用例は四十三であり、伝記から
みた場合、二十代(一首)三十代(八首)四十代(七首)五十
代(十一首)六十代(九首)七十代(五首)となっている。
「扶」の使用が貞元十六(八〇〇)年二十九歳以前から始まり、 死の前年である会昌五(八四五)年七十四歳で終わっている
ことは、この動詞が彼のほぼ全生涯で頻用されたことを示し
ている。
「扶」の動作対象は、自己と他者とその他 鋹に大きく三分され
るが、用例の総数では作者自身のものが他を圧倒している。
白居易は生来頑健な体質ではなく、「乗衰百疾攻」(「病中詩十
五首其一、初病風」〔
3408〕)と自ら表明するように、幼少期より 最晩年までに様々な疾病を経験している 曻。「蒲柳の質」を人一
倍自覚するが故に、この詩人は自らの体調の変化に極めて敏
感であり、日々養生に励んで決して無理をせず、結果として
「一病息災」「柳に雪折れ無し」の人生
―
当時としては稀有な七十五歳の長寿
―
を全うしたのである。間接的ではあるが、動詞の「扶」を多用する一因に、こうした背景(健康状
態)があることは注意されよう。
ところで他者の姿勢を詠う十一首は、友人(元稹・張籍)宮
女(上陽白髪人・楊貴妃)老人(新豊折臂翁・尚歯之会七老)捕
虜(傳戎人)子供(母別子・唯弄扶牀女)実弟(白行簡)寒士
(出扶桑藜杖)によって構成されている。ここでは諷諭詩と感
傷詩の名作から該当部分を引いてみる。
中国文学研究 第三十九期
⑫「……憶昔呑悲別親族、扶入 00車中不教哭。……」(「新楽府
五十首其七、上陽白髪人」〔
0131〕)。
⑬「……玄孫扶向 00店前行、左臂憑肩右臂折。……」(「新楽府
五十首其九、新豊折臂翁」〔
0133〕)。
⑭「……身被金瘡面多瘠、扶病 00徒行日一駅。……」(「新楽府
五十首其二十、傳戎人」〔
0144〕)。
⑮「……一始扶行 00一初坐、坐啼行哭牽人衣。……」(「新楽府
五十首其三十三、母別子」〔
0157〕)。
⑯「……侍児扶起 00嬌無力、始是新承恩澤時。……」(「長恨
歌」〔
0596〕)。
後宮入りするため親族と別れ、迎えの馬車へ支えられて乗
り込む十六歳の娘、やしゃごが寄り添って、店先をゆっくり
歩いていく腕の欠損した老人、病気をおして、徒歩のまま引
き立てられていく俘虜、摑まり立ちができたばかりの頃に、
父母と無理やり引き離されてしまう子供達、玄宗の寵愛を受
けるため華清池で湯浴みを賜り、侍女が助け起こす楊貴妃。
これらの人々の姿態を支える「扶」は、まさに「一字千金」
の重みをもって配置されており、削除して他の動詞に置換す
ることは全く不可能である。作者の視線は、人間の一瞬の動 きに込められた意味や感情を確実に探り当てている。自他の
身体や姿勢が垣間見せる微妙な動きに対して、白居易は最も
繊細な神経を持つ詩人であったと言ってよいであろう。
そしてまた漢語の「扶」が、能動と受動
―
作用と反作用 彅―
という二つの機能を同時に所有している事実も見逃せない。つまり「扶」の字義には、「助ける←→助けられる」「支
える←→支えられる」「寄り添う←→寄り添われる」「手を副
える←→手を副えられる」……のように、「扶助」「補助」の
語感を中心に据えながら、双方向の意味が含有されている。
現象としては全く同じながら、視点の違いによって両義が未
分化のまま併存しているのである。能動と受動を分かつ指標
は、「扶」が用いられる漢語文脈のなかにあり、とりわけ動作
主体が明示されているケースでは、用法の識別が容易になっ
ている。例えば⑬の「玄孫が折臂翁を~」⑯の「侍児が楊貴
妃を~」は、そのわかりやすい事例と言える。これに関連し
て使役の構文も、作用と反作用の主客を特定する際の有効な
印となる。一首のみ例示する。「高らかに狂歌して、下女に手
拍子を取らせ、ふらふらと酔舞して、孫に体を支えさせる」
という、最晩年に催した宴席の様子を活写したもの。
白居易「病中哭金鑾子」詩考(埋田) ⑰「……詩吟両句神還王、酒飲三杯気尚麄。嵬峩狂歌教婢 00
拍 0、婆娑酔舞遣孫扶 000。……」(「胡・吉・鄭・劉・盧・張等六
賢、皆多年寿、予亦次焉。偶於弊居合成尚歯之会。七老相顧、
既酔甚歓。静而思之、此会稀有、因成七言六韻以紀之、伝好事
者」〔
3640〕)。
自己の身体を述べる二十八首は、全て受身の用法であり、
白居易自らが他者を「扶」する詩句は一例も指摘できない。
これは金鑾の臨終場面で、「扶」される対象が娘ではなく、父
であるとの主張を改めて補強しよう。他人或いは杖によって
「扶」される自己像は、白居易文学における普遍的な心象で
あったのである。疾病はこの詩人にとって大きな文学テーマ
であるが、その事実は「扶」の詠われ方
―
身体介護の在り方
―
とも密接に対応している。己が病身を詠じる詩に「扶」が多用され、その描写がまた、彼の詠病詩における一つの型
を形成していると言ってもよい。「病中哭金鑾子」と同じく、
詩題に「病」を含む詩篇三首を呈示してみる。全てが狭義の
純粋な詠病詩である。
⑱「……強扶 0牀前杖 0、起向庭中行。……」(「病中 00友人相訪」 〔
0482〕)。
⑲「……羸坐全非旧日容、扶行 00半是他人力。」(「寒食卧 0病 0」
〔
0678〕)。
⑳「頭痛牙疼三日卧、妻看煎薬婢来扶 000。……」(「病中 00贈南鄰
覓酒」〔
3279〕)。
⑱の「扶~杖」表現は、広義の詠病詩のなかでも繰り返し
登場する。白居易は「藜杖」「斑竹杖」「紅(朱)藤杖」「青
(竹・笻)杖」など、我が身を委ねる杖に対しても人一倍のこ
だわりがあったように見受けられる。病のため杖に扶助され
て、起き立ち歩く姿を詠うものとしては、次の作品が代表的
なものであろう。
㉑「……行携杖扶力 0000、卧読書取睡。久養病形骸 000、深諳閑気
味。……」(「郡中即事」〔
㉒「扶杖起病初、策馬立未任。……」(「林下閑歩、寄皇甫庶 000000361〕)。
子」〔
㉓「伝語李君労寄馬、病来唯著杖扶身。……」(「還李十一馬」 0000000385〕)。
〔
㉔「禦熱蕉衣健、扶羸竹杖軽。誦経憑檻立、散薬遶廊行。 00000000798〕)
中国文学研究 第三十九期
……身閑當将息、病 0亦有心情。」(「偶詠」〔
2743〕)。
㉕ 「杖策人扶廃病身 0000000、静和強起一迎春。他時蹇跛 00縦行得、
笑殺平原楼上人」(「強起迎春戯起思黯」〔
3437〕)。
このように人や物に支えられる居易像は、疾病ばかりか衰
老を詠出する詩篇にも広く認められる。「有時扶杖出、尽日閉
門居」(「詠老贈夢得」〔
3233〕)「披衣岸幘日高起、両角青衣扶老
身。策杖強行過里巷、引盃閑酌伴親賓」(「残春晩起、伴客笑談」
〔
3443〕)は、その極一部に過ぎない。死生観の構築を目指して
作られた詠老詩は、洛陽履道里邸で展開される白居易後半生
の文学の中心を占めているが、そこでは日々刻々と変化して
いく老人の体が微細に観察されており、この詩人が如何に肉
体という重い存在を凝視し続けてきたかが理解される。「扶侍」
される自分の身体への強い意識は、一首のなかで「扶」字が
反復して使用されていることからも例証される。
㉖「歳暮皤然一老人、十分流輩九分無。莫嫌身病人扶侍 00000、 猶勝無身可遣扶 00000。」(「病中詩十五首其十四、歳暮、呈思黯相
公・皇甫朗之及夢得尚書」〔
㉗「人生七十稀、我年幸過之。……老既不足歎、病亦不能 3421〕)。 治。扶侍仰婢僕、将養信妻児。……百事盡除去、尚餘酒 00
與詩。興来吟一篇、吟罷酒一巵。不独適情性、兼用扶衰 00
羸 0。雲液洒六腑、陽和生四肢。於中我自楽、此外吾不知。
……」(「対酒閑吟、贈同老者」〔
3540〕)。
㉖は六十八歳の折に洛陽で作られた七言絶句であるが、白
居易独特の死生観を表明していて注目される。一年の最後を
締め括る歳の暮れに、「知人の九割はもうこの世にいない。そ
う思えば病身を支えてもらうことを嫌ってはならない。死ん
でしまって人から力を添えてもらう体がないよりずっとまし
ではないか」と自己解説する。また㉗では、思う通り動かな
い体を自覚しながら老と病を達観し、酒と詩の力によって 丨自
らの身心の蘇生を図る生き方が絶対肯定される。両詩にそれ
ぞれ嵌め込まれた二度の「扶」は、文字通りそこで開陳され
る詩想を強力に支えているのである。
このように白詩に認められる「扶」の用法は、老い病む身
体を描写する際に最も顕著であるが、これ以外にも「扶」は
様々な場面で用いられる。諷諭兼善から閑適独善へと移行し
た白氏晩年の時空では、坐臥する姿勢と並んで扶助される身
体も、欠くべからざる詩材であったと言わねばならない。こ
白居易「病中哭金鑾子」詩考(埋田) の私見に対して次の八首は、その確かな証左となる。老境を
象徴する詩語の一つに「扶」があったことを明示するからで
ある。
㉘ 「……主人過橋来、双童扶 0一叟。……」(「泛春池」〔
㉙「……双童侍坐卧、一杖扶行止。……」(「七月一日作」 00391〕)。
〔
㉚「……伴宿双棲鶴、扶行一侍児。……」(「自題小草亭」 003038〕)。
〔
㉛「黄昏飲散帰来卧、夜半人扶強起行。……」(「飲後夜醒」 03236〕)。
〔
㉜「……今夜還先酔、応煩紅袖扶。」(「対酒吟」〔 01381〕)。
㉝「斗藪塵纓捋白鬚、半酣扶起問司徒。……」(「戯問牛司徒」 002437〕)。
〔
㉞「……二婢扶盥櫛、双童舁簟床。……」(「二年三月五日、 03623〕)。
齋畢開素、當食偶吟、贈妻弘農郡君」〔
㉟「……黄犬引迎騎馬客、青衣扶下釣魚舟。……」(「池畔逐 003543〕)。
涼」〔
3588〕)。
使用人に寄り添われ邸内を散策する㉘㉙㉚、好きな酒を飲 み酔った体を支えてもらう㉛㉜㉝、朝起きて二人の婢に助け
られながら手を洗い髪を梳る㉞、自宅敷地の五分の一を占め
る池で釣船に乗り移る際に手を副えてもらう㉟。これらは等
しく受動の用法であり、他人の助力を得ながら老年を過ごす
作者が描き込まれている。洛陽での老境を叙述する作品から
は、「依」「憑」「倚」「支」「凭」「拄」「隠」……などの、対象
物に寄り掛かる動詞が多く認められるが、「扶」もそうした老
人特有の所作を表すのに必須な言葉であったと判断される。
そしてまた履道里の白家に確立された閑適世界は、蕭然と孤
絶したものではなく、家族と使用人の気配や息遣いをいつも
身近に実感できる、生きた親しい空間でもあったと言えよう。
詩律と詩語
居易は一生涯を通じて、古体から近体に及ぶ様々な詩型を
試行しており、各様式に対する情熱と創意を窺い知ることが
できる。唐代近体詩の排律に限った場合、彼は五排を一六七
首(全体の六%)、七排を二七首(全体の一%)制作している。
決して少なくない量であり、長篇詩と対偶表現に傑出した詩
才を発揮した白氏の個性をよく現している。「病中哭金鑾子」
は五言十六句八韻の排律であるが、ここでは詩型と詩語の関
〔五〕
中国文学研究 第三十九期
係について、改めて考察を加えたいと思う。
中国語は音調言語(tone language)である。唐代において全
ての漢字は、平声・上声・去声・入声という四種類の声調に
区分された。この四声のなかで、変化しない声調を持つ平声
群と変化する声調を有する仄声群(上・去・入)は、数量的に
ほぼ拮抗している。この客観的事実に着目して、唐代近体詩
は整備され体系化された。平仄対立の構造下では、漢字を如
何にして人為的に組み合わせ、最高に調和した聴覚美の世界
を現出させるかに心が砕かれた。律詩の完成に大きく貢献し
た大暦十才子や杜甫は、こうした流れのなかに位置づけられ
る。排律(十句五韻以上)は律詩(八句四韻)の拡張型である
が、そこでは対句・押韻・二四不同・二六対・反法・粘法・
平三連・孤平などの詩律がより徹底的に追究される。白居易
の「病中哭金鑾子」は、このように精緻な修辞技法を絶対条
件にして成立している。漢字の排列には、詩人の繊細な神経
が末端にまでに張り巡らされていると言える。先ず本詩の平
仄式をわかりやすく図式化してみる。○印は平声、●印は仄
声、◎印は韻脚(一韻到底)を表しており、また併せて訓読を付す。 病中哭金鑾子 小女子名 病中に金鑾子を哭す 小さき
女子の名
豈 1●
料 2●吾 3○
方 4○病 5●
豈に料らんや吾方 まさに病みたるに、 飜 ○悲 ○汝 ●不 ●全 ◎ 飜って汝の全からざるを悲しまんとは。卧 ●驚 ○従 ○枕 ●上 ● 卧しては枕上に驚き、
扶 ○哭 ●就 ●燈 ○前 ◎ 扶 たすけられて燈前に哭す。 有 ●女 ●誠 ○為 ○累 ● 女 むすめ有るは誠に累と為し、 無 ○児 ○豈 ●免 ●怜 ◎ 児 むすこ無きも豈に怜を免れんや。 病 ●来 ○纔 ○十 ●日 ● 病みてより来 このかた纔に十日、 養 ●得 ●已 ●三 ○年 ◎ 養い得て已に三年。 慈 ○涙 ●随 ○声 ○迸 ● 慈涙は声に随ひて迸り、 悲 ○腸 ○遇 ●物 ●牽 ◎ 悲腸は物に遇ひて牽かる。 故 ●衣 ○猶 ○架 ●上 ● 故衣は猶ほ架上、 残 ○薬 ●尚 ●頭 ○辺 ◎ 残薬は尚ほ頭辺。 送 ●出 ●深 ○村 ○巷 ● 深き村巷より出づるを送り、 看 ○封 ○小 ●墓 ●田 ◎ 小さき墓田に封ぜらるるを看る。 莫 ●言 ○三 ○里 ●地 ● 言ふ莫かれ三里の地と、 此 ●別 ●是 ●終 ○天 ◎ 此の別れは是れ終天。 2≠4
白居易「病中哭金鑾子」詩考(埋田) 最初の二句は、一句自体では意味を自己完結しない流水対
であり、二句一意のいわゆる仮対となっている。続く第三句
から第十四句までの六聯は、字数・字義・語法が緊密に対応
する完璧な正対をなし、それらが作り出す整斉精緻な詩的心
象が、最終末二句の散句部分(非対)へと集束する構成を採っ
ている。それぞれの詩語は、厳格な詩律
―
遵守規則と忌避規則の併用
―
によって統制されており、ここでは散文とは違った韻文独自の語法支配を受けることになる。平仄の枠組
みが詩語の運用を決定すると言ってもよい 仡。
例えば懸案となっている第三句第四句の「卧驚従枕上、扶
哭就燈前」では、「卧驚」(仄平)と「扶哭」(平仄)、「従」(平)
と「就」(仄)、「枕上」(仄仄)と「燈前」(平平)の如く、全
ての音性律が反と粘によって対偶化されている。この詩句で
動詞「卧」の対語に「扶」が配置されたのは、白居易にとっ
て詩情と詩律の両面からも必然であったことがわかる。また
同様に動詞接尾字の「従」と「就」も、各々の動作が実現し
達成される場所を指し示す前置詞(介詞)の用法(~で~する)
であることが理解される。当該二句を現代中国語で言い換え
れば、「我正在卧牀養病時、聴到女児死的消息、不由得従枕上
驚起、扶着家人(或拐杖)在燈前痛哭起来」となろう。詩語 の選択に厳しい詩人の姿勢は、これ以外の十一句から十二句
にかけてなお一層著しい。衣桁に掛けてあるお気に入りの上
着と枕元に飲み切ることなく置かれたままの薬の描写 仼では、
漢語の「故」(仄)〔懐かしく親しい〕と「残」(平)〔完全な
ものが欠損している〕の双方が含み持つ語感を最大限に引き
出している。さらに第十四句冒頭に置く平仄両用字の「看 伀」
からは、愛する娘の埋葬を最後まで凝視し続ける父親の姿が
まざまざと感得される。
白居易は推敲と添削を重ねて詩を作った人である。平易な
作風とは裏腹に、そこには「精絶」とも評すべき言語の錬磨
があったのである 伃。杭州刺史の任にあった五十三歳の作品(五
律)では、自ら次のように述べている。
㊱「新篇日日成、不是愛声名。旧句時時改 00000、無妨悦性情 00000。
但令長守郡、不覓却帰城。祇擬江湖上、吟哦過一生。」
(「詩解」〔
2345〕)。※時時、不断也。無妨、甚也。
こうした白自身の発言内容は、南宋・魏慶之が自著で引用
する北宋・張耒の体験談とも見事に一致する。
中国文学研究 第三十九期
ⓖ「……又張文潜云、世以楽天詩為得於容易、而耒嘗於洛 中一士人家、見白公詩草数紙、點竄塗抹 0000、及其成篇、殆
與初作不侔。……」(『詩人玉屑』巻八)。
「病中哭金鑾子」は悲哀を激情のままに詠じた作品ではない。
近体の排律が持つ表現の可能性を極限にまで探究し、一字の
置換も許さないまでに言語を精錬し、そこに愛娘との永訣と
いう耐え難い情念を封印している。本詩が強い喚起力を持つ
のは、死別がもたらす心の痛みとともに、それらの表出を支
える確かな様式があるからである。『左伝』襄公二十五年の条
に引かれる孔子の言葉「言之無文、行而不遠」が想起される。
結語
ここでは白居易と金鑾の死別離を詠う詩を取り上げ、漢語
における「扶」の用法(能動と受動の未分化)に着目しながら、
この作品の構造分析を行ってきた。そして「病中哭金鑾子」
は自らの疾病と娘への哀傷という二つの題材に架橋しており、
その複合性が詩の発想や措辞に多大な影響を与えていること
を指摘した。またここでは詩律の拘束が緩やかな古体詩型で
はなく、平仄の配置に厳格な近体の排律詩型が意図的に選択
〔六〕
されており、それが「扶」を初めとした各種詩語の運用にま
で、無視できない大きな作用を及ぼしていることを検証した。
この詩篇の主題は、突然訪れた不条理な娘の死に対する無
力感と隔絶感にあり、この意味で白居易の全感情は、終末二
句「莫言三里地、此別是終天」に収斂されている。換言すれ
ば、第一句から第十四句までの対句による時系列的叙述は、
末尾の散句のため周到に用意されたとも言える。題材と様式
は絶妙の均衡で相互に分かち難く結ばれており、それがこの
作品の心象全体に極めて大きな力を付与していると判断され
る。「詩魔」を自認する白居易にとって、稚い我が娘の死もま
た、欠くべからざる詩材であったのである。
〔註〕
(1)後藤秋正『中国中世の哀傷文学』「Ⅱ夭逝者哀悼の文学、幼児
の死を悼む詩
―
漢魏六朝期を中心として」(研文出版、一九九八年十月)を参照。また同書では、幼児の死が詩に詠われな
い理由の一つに、「哀辞」という文体の確立が大きかった事実
を指摘している。
(2)同様の指摘は『白居易研究 閑適の詩想』〔本論Ⅰ〕身体と姿
勢、「白居易と姿勢描写―視点の下降が意味するもの」九十一
頁~九十三頁(汲古書院、二〇〇六年十月)にもある。
白居易「病中哭金鑾子」詩考(埋田) ( 3)因みに「狂言示諸姪」〔
3048〕「家醸新熟、毎嘗輒酔、妻姪等勧
令小飲、因成長句以諭之」〔
3121〕の二首は含めていない。
(
4)大和三年(八二九)居易五十八歳の折に、白氏待望の長男阿
崔が生まれる。この子もやはり三歳で夭逝するが、言及する詩
篇は、長女金鑾の場合と同じく五首に達している。「予與微之、
老而無子、発於言歎、著在詩篇。今年冬各有一子。戯作二什、
一以相賀、一以自嘲」〔
2820〕(七律)、「自嘲」〔
2821〕(七律)、「阿
崔」〔
2825〕(五排)、「和微之道保生三日」〔
2862〕(五排)、「哭崔
児」〔
2880〕(七律)。全て律詩と排律で制作されている点が特に
留意されよう。
(
(「金鑾子晬日」〔 5)「……若無夭折患、則有婚嫁牽。使我帰山計、応遅十五年。」
0413〕)など。
(
6)この点については、かつて詳しく論じたことがある。小稿
「白居易〝念金鑾子二首〟が意味するもの―〝理〟と〝知〟の
用法を中心にして」(「中国文学研究」第三十八期、早稲田大学
中国文学会、二〇一二年十二月)を参照。
(
7)詳細は後藤秋正『唐代の哀傷文学』「Ⅳ唐詩と幼児の死」(研
文出版、二〇〇六年二月)を参照。
(
8)この意味で、母への服喪のため同じく下邽に退居していた弟 の白行簡について、白居易が「弟病仍扶杖 00」(「渭村退居、寄礼
部崔侍郎・翰林銭舎人詩一百韻」〔
0807〕)と特筆していること
は、とりわけ注意されよう。
(
9)例えば陶淵明「桃花源記」(『靖節先生集』巻六)にある介詞
(沿)の用法
―
「既出、得其船、便扶 0向路、処処誌之」―
は、白居易詩からは一例も検出できない。(
10)弱柳を描く「截枝扶為杖、軟弱不自持。」(「有木詩八首其一」 0
〔
0111〕)、家屋を説く「新園聊剗穢、舊屋且扶顛。」(「新昌新居書 0
事四十韻、因寄元郎中・張博士」〔
1259〕)など。
(
11)註(
2)所掲書〔本論Ⅱ〕衰老と疾病を参照。
(
12)現代中国語における「扶」が、「ささえる」と「つかまる」の
語義を中核とした作用・反作用の動詞であるとの指摘は、荒川
清秀「辞書の記述をめぐって、第三七回、扶は〝ささえる〟?〝つかまる〟?」(「東方」第三五一号、東方書店、二〇一〇年
五月)に詳しい。併せて参照されたい。
(
13)これとは別に読書と睡眠と飲酒の組み合わせを詠うものに、
「……卧枕一巻書、起嘗一盃酒。書将引昏睡、酒用扶衰朽 000。
……」(「隠几贈客」〔
3042〕)がある。
(
14)唐詩に広く認められる「平仄互用」による同義類語
―
例えば助動詞としての「能」(平)と「解」(仄)など
―
も、唐代のこのような言語環境のなかで発生したと考えられよう。
(
15)類似の注目すべき表現としては、元稹「……旧衣和篋施、残 000
薬 0満甌傾。……」(「哭女樊四十韻」・『全唐詩』巻四百四)が指
摘できる。この詩が元和十四年、虢州での作であることを考え
れば、先行する白居易「病中哭金鑾子」からの影響を強く受け
ていると判断される。周相録『元稹集校注』〔全
3冊〕(上海古
籍出版社、二〇一一年十二月)を参照。
(
16)平岡武夫『白居易』(中国詩文選十七、筑摩書房、一九七七年
十二月)では、この部分を「小さき墓の田を看て封ず」(小さ
中国文学研究 第三十九期
な墓地に気をつけて埋めてやった)と解釈するが、本稿では採
用していない。
(
17)植木久行『唐詩物語―名詩誕生の虚と実と』(大修館書店、二
〇〇二年四月)二〇八頁の指摘に基づく。* * 作 者
‥ 埋田重夫
Author: UMEDA Shigeo
標 題
‥白居易「病中哭金鑾子」詩考―其着想與措辭― Tit le: Bai Juyi白居易's, 'Bing Zhong ku Jin luan zi'「病中哭 金鑾子」―his Ideas and Rhetoric―
摘
要
‥據研究,中國古典文學中很少出現對兒女的描寫。
但唐代中期以後,兒女卻成為帶有某種特殊情感的詩作對
象。唐代詩人中,特別是白居易,他在詩中多次以兒童作
為題材。本文將對白居易以自身疾病和長女夭折為題材的
詩作做深度研究,考察其着想與措辭,并參考先行研究提
出自己的論點。白居易在為母服喪期間,失去其最愛的長
女。五言十六句的《病中哭金蘭鑾子》是白居易描寫其唱
女從去世至葬禮的整個過程的作品。通過對該詩題材、樣 式、語言及″扶〟字的分析,来研究該詩結構上的特色。
関鍵詞
‥ 白居易金鑾扶疾病哀傷構思措辭詩
律