パリにおける初期オペレッタの変遷 オッフェンバックの
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(2) オペラ座においては、 《ポルティチのおし娘》 とロッ. 閉鎖の連続の後、 1840年にはサル・フアヴァ‑ル(Salk. シーニの《ウィリアム・テル≫の成功にもかかわらず、. Favart)で再生することになる。過去のレパートリーは. オペラ座のディレクターであるリュベール(Lubbert). 継続して現代のレパートリーに加わり、ジャン・モネが. のもとで経営は悲惨な状況になり、特別歳費は巨大な赤. ディレクターだったフォワ‑ルの劇場の作品や、オテ. 字を生んでいたという。 1831年2月、オペラ座は別の監. ル・ド・ブルゴーニュ、コメディ・イタリエンヌとオペ. 視下に置かれることになり、国から独立出来るまで経営は. ラ・コミックが合併した1762年以後の作品も入ってい. ディレクター兼経営者であるヴェロン(Veron)に託され. た(Wild1989,331),しかしながら王政復古後、権力は. た。彼は会場 SalleLePeletier)の修復から始め、 4年間. オペラ・コミック座に新しいものがなく、同じ作品を再. で健全な経営状態に立て直した(Wild 1991, 25‑6)(3)。. 演し続けていることをしばしば非難し、一夜に古い作品. 一方、テアトル・イタリアンは1801年に新しく設立. と新しい作品を一緒に上演するように求めた。 1822年3. された劇場で、ペルゴレージ《奥様女中≫のパリ上演以. 月30日の王の条例は年間の新作数を少なくとも12作と. 来続いたオペラ・ブッフア熱の高まりに答え、それ専用. 決め、その中でも6作は3幕仕立てとした。しかし要求. に建てられた。これはイタリア語の作品しか上演出来な. は年々甘くなり、例えばクロスニエ(C:rosmer;のディ. い特殊な劇場で、最初レパートリーはオペラ・ブッフア. レクター時代(1834‑45)には、 20の新作のうち、 3幕. に限られていたが、後に皇帝はオペラ・セリアに広げる. ものは3つだけであった(Wild1991,50)。こうして19. ことを検討して実現した。しかしながらこの劇場は長い. 世紀中期になると、その全盛期に少し陰りが見える。. 間経営上独立出来ず、オペラ座などに依存していたが、. 最後にテアトル・リリックであるが、これは上記に挙. 結局は自治権を獲得して1827年にローラン(Laurent). げた3つの劇場よりはるかに後に出来た劇場であり、オ. というディレクター兼経営者に託されることになった. ペレッタ隆盛の時代と同じ頃に栄えた。場所も二流劇場. (Wild1991,41)。ロッシーニは1824年に音楽監督として. が多く存在したタンプル大通りにあった。第二共和政が. テアトル・イタリアンに招かれ、オペラ座同様にこの劇. 成立する1848年、時代は特権やジャンルのヒエラルキー. 場の為にも作品を書いた。フランス人作曲家に門戸を閉. そして検閲の廃止へ向かっており、国事院は劇場に関す. ざしていたこの劇場が、予算を享受し国によって保護さ. る法律を準備するための委員会を設立したが、 1851年の. れていた理由は芸術上によるところが大きく、皇帝がイ. クーデターによってこれらは再びはねつけられた(Wild. タリアを模範としてフランスの歌手の技術が向上するこ. 1991, 51)。しかしその過程で一つだけ進歩したのは、当. とを期待していたからだという(Wild1991,41)。しかし. 時キャリアを築くのが困難であった若い作曲家に対して. パリ・コミューンによって、この劇場はわずか数年生き. 第3の劇場を作ったところにあった。オペラ座は若い人. 延びるに留まった。. には門戸を閉ざしていたし、オペラ・コミック座は彼ら. オペラ・コミック座はオペラ座同様に長い伝統を誇る. がローマ留学から帰った時に一幕ものを書くチャンスを. 劇場であるが、上演されるジャンルはオペラと全く違っ. 与えていたが、認められるのは至難であった。そのよう. ていた。設立当初は庶民的な音楽劇を行う場と見なされ. な背景から、テアトル・リリックの基礎であるオペラ・. たが、 19世紀になるとオペラ座で活躍した作曲家が作品. ナショナルは1851年に設立され、設立者であるアダン. を書き、それらもかなり上演されていた(4)。周知の通り、. (Adam)は若い作曲家たちのために開こうとする多く. オペラ・コミックはレシタティーヴの代わりに台詞を用. の要望書に署名をした。アダンは過去のレパートリーに. い、歌を交互に引き継いでいく形式を採用しているが、. 現代の作品を取り入れ、さらにオッフェンバックやエル. 1807年の皇帝の勅令は「作品中の会話が歌によって中断. ヴェといった若い作曲家も受け入れた。その活動は活発. される」「クープレ、アリエツト、アンサンブルを混ぜ. で、 1851年から1870年までの間に上演された176作品. たすべての種類のコメディあるいはドラマ」と定義を与. のうち136作が新作であった(Wild1991,55)。劇場は. えている(Wild1991,48)(5)。またオペラ・コミックの. 1862年にオスマンの大工事のため接収され、パリ市に. 形態は、美学的潮流によって次第に変化しそれぞれの時. よってプラス・デュ・シャトレ(PlaceduChatelet)に. 代を特徴付けて来たが、 19世紀を通してアリエツトが次. 移転させられたために客層が変わって庶民層の観客は消. 第に消えてオーケストラ的素材が発展し、また声楽の部. え、カルヴァロ(Calvalho)によってレパートリーも成. 分が台詞より重要になったと思われる。また一時期の活. 功を保証する過去の作品が主となってしまった(Wild. 動は盛んで、オペラ座やテアトル・イタリアンと違って. 1991,56)。そしてパリ・コミューンによって崩壊し、再. 毎日上演があり、作品が短いものであれば一夜で2作あ. 生することはなかった。. るいは3作も上演されたという(6)。 1.2 オペレッタを上演した劇場. しかし、当時のオペラ・コミック座が決して順風満帆 だった訳ではなく、オペラ座とテアトル・リリックが免. 主にオペラを上演する大劇場では、むろんオペレッタ. れていた会場の借り代を払わねばならないのに加え、度. が上演されることはなく、それはもっぱら二流劇場に委. 重なる移転が加わった。 1829年にサル・ヴァンタドウー. ねられていた。二流劇場はさらに重要なもの(ヴオード. ル(SalleVe∋ntadour)に移転したが、その会場の広さと. ヴイル座Vaudeville、ヴァリエテ座Varietes、ジムナズ. そのジャンルの本質は不釣合いなものであった。挫折や. 座Gymnase)とそうでないものに分かれ(ゲテ座もこ 32. ‑.
(3) れに含まれる)、複雑な様相を呈していた。しかもこれ. スコットMasco仕e≫が初演されて大当たりを取り、これ. らはタンプル大通り(Boulevard duTemple)(7)に多く集 まっていたが、オスマンの大工事により消滅してしまう. は1897年8月29日の時点で1700回目の上演回数を誇 るほどの人気作となった(12)。 ゲテ座(Gaite)は1807年(7月29日)の皇帝の勅令. ことになる(Krakovitch,211)。 オペレッタは1855年にタンプル大通りのフォリー・. によって決められた4つの二流劇場のうちの一つで、歴. ヌーヴェル座(Folies‑Nouvelles) (エルヴェの劇場(8). 史は古い。最初の建物は1760年頃、パリの縁日劇場の. とシャンゼリゼ通りのブ‑フ・パリジャン座(オッフェ. マリオネット使いであったジャン‑バテイスト・ニコ. ンバックの劇場)にて誕生したが、これらの劇場は一時 期斜陽を辿った大劇場に代わって、 19世紀後半に次第に. レ(Jean‑Baptiste Nicolet)によってタンプ)i,大通りに建 てられた。建物は度々移り変わり、名称もいろいろに変. 勢力を増していった。また、この2つ以外にもオペレッ. わったが、 1825年まではニコレの一族によって経営され. タを上演する劇場として、少なくとも4つが存在してい. ていた(Yon2000,462)c. た。ここでは、オッフェンバックの作品が上演された主. スを混ぜた、アルルカン風のパントマイムなどを上演す. な5つの劇場について触れておく。. る権利を得たものの、オペラ座の要請によって台詞が禁. まず、オッフェンバックが設立したブ‑フ・パリジャ. ニコレの時代は、会話やダン. じられ、パントマイムも減らされたりした1772年にオ. ン座(Bouffes‑Parisiens)はもともとスペクタクル.ド・. ペラ座と取引を行い、ロイヤリティを払うことで会話入. キュリオジテ(珍しい見世物)を上演する劇場であった. りの作品を上演出来るようになるが、綱渡りの自粛と歌. が、後に彼が買い取ったものである。 1855年2月24日、. の禁止については変わらなかった。 1807年(4月25日). 彼はパリにフランス人の趣味に合わせたフアントッチ一. の皇帝の勅令により、すべてのジャンルにおけるパント. 二・イタリアン(Fantocciniitaliens)(9)というジャンル. マイムを目指し、バレエは含まないこと、かつてニコレ. を導入して、インテリ層と大衆を喜ばせる新しく個性. が行っていたような趣味のアルルカン風のものかファ. 的な舞台を提供するための許可を願い出た(Wild 1989,. ルスを目指すことが決められた。さらに別の法令がいく. 61)。そしてブ‑フ・パリジャンの名で、彼がディレク. つかの変更を加えたが、 1851年(2月20日)の法令に. ターとしてシャンゼリゼ通りにある300席のサル・ラカ. よって3‑5幕のフェリー(feerie) (後述する)を上演. ズ(Salle Lacaze)を指揮することが許可された。レパー. することが許された。また。上演の規模について言えば、. トリーは1855年6月4日に警察署の出した法令により、. オーケストラは1830年には20‑24名、 1848年には16. 次のように決定されている(10)。. 名になった。合唱団は1848年には16名であった(Wild 2:. 1989, 170)。その後何回か建て替えられた後(13)、大工事. 3:ア. のために1862年にパリ市が買い上げ、アール・エ・メ. クロバット、手品、フアンタスマゴリー(ll)、中国風ある 4 :力あるいは早業に. ティエ広場(Square desArts et Metiers)に移されてか らゲテ座の第2の時代がやって来る。その年の9月に. 6 : 5名以上のパ・ド・ダン. 開場した時の席数は1800席と、かなり大規模であった。. 1 : 5名程度によるアルルカン風パントマイム 2、 3名による、喜劇風かつ音楽付きの対話劇 いはフアントッチ一二風の影絵 よる芸 ス. 5:珍品の展示. 7: 1、2名による衣装つき(あるいはなし)のシャ. オッフェンバックは1873年6月1日から1875年7月1 日まで、ここのディレクターを勤めた。その上演の規模. ンソネット 1855年10月22日に2は変更され、 4人あるいはそれ. に関して言えば、オペラ・ナショナル・リリック(1876、. 以上による一幕の喜劇風かつ音楽付きの作品を上演して. 5月‑1878、 1月(14)と呼ばれた1876年の場合、オー. もよいが、少なくとも2つはオッフェンバック以外の作. ケストラは60名、合唱団は62名であった(Wild1989,. 品でなければならなかった。また、台詞、クープレ、シャ. 174)。. ンソネットをパントマイムの中に入れてはならず、オッ. その他オペレッタを上演した主な劇場として、先に. フェンバックは毎回の許可なしに合唱を作品の中に入れ. 触れたフォリー・ドラマティック座(15)、ルネサンス座. ることを禁じられた。 1862年(4月23日)の法令では. (Renaissance)(16)、ヴァリエテ座(17)がある。このうち. ヴァルネイ(Varney)のレパートリーを取り入れ、ジャ ンルは変更されていないが、 1、 2幕によるオペレッタ. 1790年に開場したヴァリエテ座が一番古く、これは皇 帝の勅令により決められた4つの二流劇場のうちに入っ. 上演の権利も認められている(しかし実際、すでにオッ. ている。フォリー・ドラマティック座は1831年に開. フェンバックは自由にこれらを上演していた(Wild. 場、ルネサンス座は普仏戦争後の1873年に開場してい. 1989,63)。 1866年にトラブルによってオッフェンバック. る。ルネサンス座は席数が750席と小さな劇場であった. が自分のレパートリーをこの劇場から引き上げた翌年、. (wild 1989, 380) 。. 一旦ヴオードヴイル中心になるが、一年でまたオペレッ. 以上の考察から全体を概観すると、この時期のパリに. タの劇場に戻ったという。そしてオッフェンバックの死. おいて、若い作曲家たちの活躍の場として二流劇場やテ. 後3ケ月も経たないうちであるが、当時のディレクター. アトル・リリックのような新興の劇場が勢力を増してい. であるカンタン(Cantin)はオッフェンバックを追悼す. たのだと言えるだろう。個々の劇場において法令によっ. る企画を行うこともなく、新しい才能を発掘する方を選. て守られてきたレパートリーの限定に関しても、 1860年. んだ。 1880年12月28日、オードラン(Audran)の《マ. 前後を境に自由に解放される傾向が強まり、それぞれ. ‑33‑.
(4) のディレクターの力量が試される時代‑と変遷を遂げ. レッタ」の定義を紹介しておく。ジャンルの確立以前、. て行ったものと思われる。つまりオペレッタというジャ. もともとこの語には大した作品ではないという意味合い. ンルは、若手が劇場界に参入するための手段として支持. があったが、 1830年頃になってもその認識は変わって. され、同時に劇場の生き残り策としても取り入れられて. おらず、例えばフェテイス(Fetis)は「芸術面では大し. 行った可能性もあり得る。もし仮にそうであるとして、. て重要でない小さいオペラ」としている(19)ォッフェン. オッフェンバックのオペレッタとは一体どのような意図. バックと同時代の1855年になると、ス‑リエ(Soullier). を持って作られたのだろうか。また、それはパリの政. はジャンルとしての輪郭を示し始め、 「通常は1幕もの. 治的事情によって具体的にどのように変化したのだろう. の小さいオペラで、コミックなジャンル」としている. か。. (Lacombe, p.328‑9)。その後1880年頃になると、ラルー. 2.ブ‑フ・パリジャン座とゲテ座における《オルフェウス≫. ス(Larousse)はオペレッタをオペラの‑ジャンルに入 れていないが、オペラ・コミックから枝分かれしたもの. 2.1ジャック・オッフェンバックとオペレッタ. と捉えた(Lacombe,329)。また、ラジャルト(Lajarte). オッフェンバックは1819年6月20日にケルン近郊で. はオペレッタを「軽くて、ときおり愉快なオペラ・コ. 生まれた。自らもシナゴーグの歌手であった父イサーク. ミック」と解釈しており、プ‑ジャン(Pougin)はオ. は、 1833年にオッフェンバックとその兄を音楽家にし. ペレッタを「重要でない小さなオペラ」とした上、オペ. たいと考えてパリ‑連れて行った。当時パリ音楽院の校. ラ・ブ‑フをオペレッタとは別のジャンルと認識してい. 長であったケルビー二は、外国人であるオッフェンバッ. る(Lacombe, 330)。. クをチェロの学生として特別に認めた。しかしオッフェ. リッサン(Rissin)によればオッフェンバックはエル. ンバックはそこをすぐに辞めてしまい、オペラ・コミッ. ヴェと違い、 《地獄のオルフェウス≫以来「オペレッタ」. ク座のオーケストラにチェリストとして入団し、その頃. という形式を越えたのだという。つまり彼によれば、背. からカフェ・コンセール(Cafeconcert)(18)などで作曲. 景も内容も拡大され、幕数も登場人物も増えた彼の作品. を始めるようになる1855年(パリ最初の万国博覧会. はオペラ・ブ‑フであり、内容的にも後者はより皮肉と. の年)、エルヴェ(Herve) (本名フロリモン・ロンジェ. 風刺を強めたものだというのだ(20)。しかしオペラ・ブ‑. FlorimontRonger)はオッフェンバックに先駆けて自分. フというジャンルが成立するかどうかについては、ここ. の劇場であるフォリー・ヌーヴェルを開場し、自作のオ. で安易に結論付けることは出来ない。今言えるのは、 「オ. ペレッタを上演していた。同年、オッフェンバックの《オ. ペレッタ」と称する作品が必ず風刺を含んでいると限定. ヤヤイエOyayaye》がそこで上演され、しかもその後す ぐに彼も自分でブ‑フ・パリジャン座を設立することが. エーションが存在するということである。. したとしても、その規模や内容にはいろいろなヴァリ. 出来たのであった。その3年後の1858年に《地獄のオ ルフェウス》が初演されたが、これは228回も上演さ. 2.2. 《オルフェウス≫初版とブーフ・パリジャン座. れ、オッフェンバックはたちまち流行作曲家になった。. 前述した通り、 1855年6月4日にオッフェンバックは. 1862年に彼はブ‑フ・パリジャン座の職を辞任するが、. 警察の許可を得た後、 15日と22日のSACDの委貞会(21). 第2の万国博覧会の年である1867年に《ジェロルステ. において、協会との取り決めについて話し合った。そし. イン大公妃殿下La Duchesse de Gerolstein》がヴァリエ. て彼は作曲者の上納金として売上の6%しか払わないで. テ座で大成功を収め、人生の頂点を築いた。そして普. よい権利を得ることが出来(本来は10%)、 7月5日に. 仏戦争後の1873年、彼はゲテ座のディレクターに就任. サル・ラカズ(1855‑1861)は開場した(22)同年9月18. し、 1874年に《地獄のオルフェウス〉改定版であるフェ. 日、彼はサル・ショワズール(SalleChoiseul)も活用. リー版が上演された。その後は破産と病気に苦しめられ、. することを嘆願する(23)。 10月22日の法令はサル・ショ. 1875年にゲテ座のディレクターを辞任し、長年協力し. ワズールの許可を与え、さらにオッフェンバックに一晩. 合ってきた台本作者のメイヤック(Meilhac. に2作品を上演出来る権利を与えるが、これはディレク. &アレヴイ. (Halevy)とのコンビを10作目にて解消した。 1880年に. ター兼作曲家のシステムに反対の立場であったSACDの. 病気のため死去したが、その後の1881年になって《ホ. 気に入らなかった。再度取り決めについて話し合いが持. フマン物語Les Contes d'Hoffmann≫が念願のオペラ・. たれ、一夜で上演する5作品の上納金は10%とされ、ま. コミック座で初演された。. た作品ごとに2%増しとなった(Yon1996,23)t. ところで、オッフェンバックが書いた音楽劇はすべて 「オペレッタ」という名称で呼ぶべきなのだろうか。作. 存在しているサル・ショワズール(1855‑. 現在も は12月29. 者自身が付けた名称(あるいは楽譜に印刷された名称). 日にモンシニ通り(RueMonsigny)にて開場し、オッ フェンバックは1862年までディレクターとしてここを. にはオペレッタ以外にも、 「オペラ・ブ‑フ」 「オペラ・. 仕切った1857年以後ブ‑フ・パリジャンの権利は拡. コミック」などという名称も散見される。 「オペレッタ」. 大してゆき、オッフェンバックは何度も「第4のテアト. と称しているのは主に1幕ものが多い。これらの名称と. ル・リリック」(24)の名を得ようと嘆願したという(Wild. 作品の実体が一致するかどうかについて述べる余裕はな. 1989, 64)c また彼は後輩の育成においても大変意欲的で あり、若い人びとのためのオペレッタのコンクールを主. いが、とりあえずここでは、フランスにおける「オペ. ‑34‑.
(5) そのような彼一人の劇場の独占状態にある中、 1858年. の6作は引き続いて上演されていた。また、 1870年よ り前の再演には大規模な作品が多く、それ以後は中規模. 10月21日に初版《地獄のオルフェウス≫は初演された。. あるいは小さな作品が多くなったという(Pourvoyeur,. 前述した通り、この頃はまだ複数の幕による合唱付きの. 188‑9) (27). 催した(Yon 1996,23)(25)。. 規模の大きいオペレッタは法令によって規制されていた. オッフェンバックの武器となったのは当世流行して. はずであるが、オッフェンバックはこれに従わずに上演. いたフェリーfeerie (夢幻劇と呼ばれ、超自然的な雰囲. に踏み切った。オペレッタが本物のオペラと匹敵する規. 気と場面転換が多いのが特徴(28)というジャンルと、以. 模になり得ることが証明されたわけであるが、その後. 前からその伝統を保っていたゲテ座(29)であった。彼は. SACDとオッフェンバックの関係はさらに悪化していく。. 1872年1月、 《オルフェウス≫同様にオペラ・フェリー. この傑作について、プールヴォワエール(Pourvoyeur) が挙げた評価すべき5つの特徴についてのみ述べてお. と呼ばれる《にんじん王LeRoiCarotte≫ (4幕18場、 サルドゥーSardou台本)を初演し、成功した(30)。また. く。 1つ日はその大変な豊かさの根底に神話があるとい. 《地獄のオルフェウス≫オペラ・フェリー版は全4幕12. うこと、 2つ目は同時代人がその中に神話的な主題を認. 場で、初版をより拡大した大規模な作品に仕上がって. 識したグルックの《オルフェウス≫に映し出されるもの、. いた。上演は1874年2月7日に行われ、その規模は合. つまりそれは田園的な雰囲気の羊飼いたちの登場によっ. 唱が120名、オーケストラが60名、舞台上に上がって. てロココ的なスタイルをデフォルメしたということであ. いる器楽奏者が40名、ダンサーが68名であったという. る。つまりオッフェンバックが風刺したかったのは古代. (Pourvoyeur,201)c またルネサンス座は、このオペラ・. そのものではなく、グルックがそれをどう感じたかなの. フェリー版を再演する権利をゲテ座から得た。さらに同. だという。 3つ目は一般的な古代‑の不敬なるパロディ、. 年8月には、その第3版(全4幕22場)が上演された。. とくにオルフェウス神話のパロディであること、 4つ目. その他、 《ジュヌヴイエーヴ・ド・ブラバンGenevi占ve. はジュピテール(ナポレオン三世)のような権力‑の風 刺である。しかしこの風刺は時宣を得たものだとは言え、. deBravant》の第3版が1875年2月に上演されている. 過激に過ぎることはなく好ましいものであったと思われ る。最後にはパロディと一、時に古典的で牧歌風、そして. ラ・フェリーの新作としては《月旅行Levoyagedansla lune≫の初版が1875年10月に、さらに拡大された第2. ギリシャ風の田園詩を一つにする、オッフェンバックの. 版が1876年2月に上演された(31)。. 狂気に満ちた音楽である(26). が、やはりこれもオペラ・フェリー版であった。オペ. 3. 2つの《オルフェウス≫一台木工クトル・クレミュー (HectorCr台mieux) &リュドヴィック・アレヴィ. 2.3 《オルフェウス≫オペラ・フェリー版とゲテ座. (Ludovic Halevy). 1870年の普仏戦争はオッフェンバックにとって大惨事 であり、敗北の責任として彼がドイツ出身であること、 そして帝政との関係を非難されるようになる。彼のオペ レッタ(あるいはオペラ・ブ‑フ)は「暖昧性ambigu‑ itej をよりどころとしながら第二帝政の社会を風刺する ものであったが、その「暖昧性」が非難の対象となった (Pourvoye叫186)。ゴンクール紙に「社会は笑劇の言葉 巧みを毒のせいでどん底まで落ちた。堕落者オッフェン バックを倒せ!‑」と書かれ、 《ジェロルステイン大公 妃殿下》は1875年の秋の終わりまで上演出来なくなっ. それでは、初版(全2幕4場)がオペラ・フェリー版 (全4幕12場)に改訂されるにあたり、どれほどの加筆 修正を加えたのであろうか。まず、最初に言えるのは後 者における登場人物の多さである。前者は主要人物15 人に合唱(ダンス)として神々が加わるのに対し、後者 は主要人物として42人も挙げられており、さらに合唱 (ダンス)として神々、羊飼い、警士、地獄の精霊たち が加わることになっている(32)次に、構成面におけるこ の2つの違いを考察してみたい。. たというから(Pourvoyeur, 186)、その非難追求ぶりは 大変なものであった。オッフェンバックは「第二帝政の 作曲家」であるというレッテルを貼られたわけだが、し かしながら彼の不運は単なる中傷のみに起因したわけで はなかった。喜劇オペラの美学は1870年を境に全く変 わってしまうのであり、戦争に疲れた人びとは才気に満. 3.1構成上の相違点 下の表は、構成面からこの2作品の比較を行ったもの である。左に初版、右にオペラ・フェリー版のナンバー を並べ、音楽、歌詞ともに一致している部分には下線を 記した(33)。. ちたきらめきに飽き、小型化したオペラ・コミックに安 心感を得るか、フェリーや機械仕掛けなどの華麗さを大 スペクタクルに求めたのだという(Pourvoye叫187‑8)t しかしながら「はじめに」でも触れたように、オッフェ ンバックの作品が全く上演されなくなったというわけで なく、再演あるいは改訂ものはかなり多かった。 1871年 1881年に作曲された40作のうちいくつかは改訂版で あるが、ブ‑フ・パリジャン座の10作とヴァリエテ座 ‑35‑.
(6) オペラ・フェリー版 序曲Ouverture. 第1幕. 第1幕. 1場‑チ‑バイの野原 導入Introduction 前置きのシーンEinle血ngs‑Scene. 1場‑チ‑バイの野原 1 : a)羊飼いの合唱ChoeurdesBergers b)忠告のシーンSc占ne du Conseil c)メロドラマMelodrame 2 :給麗な羊飼いのクープレCou lets du I∋er. 1 :歌曲Strophengesang 2 :二重唱Duett (オルフェ Orpheus、ユリデイ‑ス. 3 :ヴァイオリンソロ付き二重唱DuoduConcertoavecsolo de violon. 4 :バレエ・バストラールBalletpastora1. tengesang. 2場‑ユリデイ‑スEurydiceの誘拐 5 :アリステの歌ChansondAristee. astrale) (アリステAristeus). 5bis :羊飼いの出発Sortie des Bergers. 3 :羊飼いの歌 Hir (Chanson. 蔓垣§ 4 :クープレCou lets. 5ter :メロドラマMelodrame ユリデイ‑スEur. 6 :死への祈りInvocation alamort. 4bis :メロドラマMelodram. 6bis :メロドラマMelodrame. 5 :二重唱Due仕. 7 :フィナーレFinal a)シーンSc占ne. (世論Die offentliche Meinung、オルフェOrpheus). b)合唱Choeur c)世論のクープレCoupletsdel Opinion d)小さなヴァイオリニストのワルツValsedespetits violo nistes. e)ストレッタ・フィナーレStrettefinale. 第2幕 2場‑オリンボス山 6 :間奏曲と重唱Entr'Acteund Ensemble (右オペラ・フェリー版のNo.8、 9、 11、およびデイアーヌ のクープレCoupletde Dianeが含まれる). 3場一神々の眠り 8 :間奏曲と眠りの合唱Entr'acte etChoeurdu sommeil (前 奏はこちらの方が長い) 9 :ヴィーナス、キューピット、マルスのクープレCou de Venus, Cu idem et Mars. 4場一天国の大時計 10 :夢と時のデイヴェルテイスマンDivertissementdesSonges et des Heures 5場‑オーロラの出現 ll :神々の目ざめとデイア‑ヌのクープレReveildesDieuxet Couplets de Diane. 6場‑オリンボス山 12 :ロンドーメルキュールのサルタレロRondo‑saltarellede Mercure. 6bis :プリュトンと復讐の女神のアントレAuftrittPluto'sund. 12bis :プリュトンのアントレEntreedePluton. der Furien. 13 : Air en prose de Pluton. 7 :合唱Chor. 7場‑アポロンの馬車(神々の大行列) 14 :反乱の合唱Choeur de la revolte. 8 :クープレCouplets (ミネルヴァMinerva、ダイアナDiana、. 15 :変身のロンドRondeau des Metamorphoses. キューピットCu ido、ヴィーナスVenus) 9 :フィナーレFinale. 16 :大フィナーレ‑シーンGrand Final‑Scとne、重唱Ensemble、. 合唱と行進ChoeuretMarche (全体にこちらの方が長く、間 奏の後に全体の合唱Choeur generalが付け加えられる). 第2幕. 第3幕. 3場一地獄 10 :間奏曲Entr'Acte. 8場一楽しい隠居 17間奏曲Entr'acte. ll :クープレCouplets (ハンス・ステイクスHansS. 18二後悔のクープレCouplets desregrets 19 :ベオデイの王のクープレCoupletsduroideBeotie 19bis :メロドラマMelodrame ‑36‑.
(7) 20 :裁判官の七重唱Septuor du Tribunal 20bis :メロドラマM(≒lodrame 21 :警察官のロンド(合唱) RondodesPolicemen 22 :キスの台詞とクープレ(二重唱+合唱) Recitetcouplets des Baisers 23 :マルハナバチの小ロンド(合唱) PetiterondoduBourdon 9場‑プリュトンの変身 24 :ハエの二重唱DuodelaMouche. 12 :二重唱Due仕(ユリデイ‑スEurydice、ジュピテール Jiipiii‑r. 10場‑プリュトンの庭. 13:大詰めシーンSchluss‑Scene 右のオペラ・フェリー版に も25の中に似たモチーフが入っている). 25 :ハエのシーンとバレエSc占ne etBalletdesmouches. 第4幕 11場一地獄. 4場一地獄. 26 :間奏曲と地獄の合唱Entr'Acte et Choeur infernal. 14 :地獄の合唱Hollischer Chor. 14bis:バッカス讃歌(四重唱+合唱) H. 27:バッカス讃歌(四重唱+合唱) H. ne an Bacchus. 15 :メヌエットMenuett、地獄のギャロップと合唱Hollischer. mne a Bacchus. 28 :メヌエットと地獄のギャロップMenuetetGalopinfernal. Galopp und Chor. 12場一大詰めのフィナーレ 15bis :ヴァイオリンソロViolinsolo (オルフェ0. heus、グ. 29:メロドラマMelodrame. グルックのパロディ). ルックのパロディ) 30:フィナーレFinale. 16:フィナーレFinale. 初版第1幕1場‑フェリー版第1幕1場 初版には序曲はなく、アリステの歌のモチーフで始ま. は君が名誉と呼ぶものだ、名誉は愛よりも重要なのだ、. る短い器楽による前奏で始まる。前奏が終わると、メロ ドラマ(器楽の伴奏に台詞を載せる方法)による世論の モノローグが始まる。彼(彼女)は「私はだれ?一昔の 劇場の合唱を訓練した、私は世論、象徴的人物、人は理. passe avantl'amourl ‑」が始まる。そこにオルフェが加. 屈屋と呼ぶ。 Qui suis je? ‑Du theatre antique j'ai perfec‑ tionne le choeur, je suis l'opinion public, Un personnage. ‑ Mais l'honneur qui m'appelle, helas! me roue un vilain tour,‑」と言うと、世論は「行って帰って来る間、私は. symbolique Ce qu'on appelle un raisonneur.」と自己紹介. 君の忠実な案内役になろう、 Je serai ton guide fidとle. し、 「昔の合唱Lechoeurantique」 (つまりバロック時代 のオペラのように、観客にさまざまなことを前もって知. pendantTaller etle retour, ‑」と励ます。その後音楽は 「Presto」に変わって元気な感じで終わる。. Viens,. viens!. C'est. l'honneur. qui. t'appelle. et. L'honneur. わって二重唱になり、世論はユリデイ‑スを地獄へ取り 戻しに行くようにオルフェを説得する。オルフェが「で も名誉が私を呼ぶ間、ああ!酷い目に遭ってしまう、. らせる(34)の役割を担うことを宣言している。世論が去. 一方フェリー版もメロドラマの後に短いオルフェのレ. るとユリデイ‑スが登場して歌い(ヘ長調、 Allegretto)、 夫への不満を打ち明ける。. シタティーヴが続き、その後子供たち(オルフェの生 徒)による合唱「呪いあれ、憐れみを持たないものに、. フェリー版は初版の前奏を拡大した序曲で始まり、ア リステのモチーフの前に6/4のゆったりとした牧歌風の. ‑. Anathとme anathとme sur celui qui sans pitie, ‑」 (ハ. Voidvoidladouzi占me. 短調、 6/8、 Allegretto)が始まる。これは幕の影に隠れ て歌われ、オルフェと合唱は対話のようになって彼の心 の葛藤を表現する。音楽は「Maestoso」に変わり、み んなは世論がやって来たことを告げる。続けて世論が登. heure,‑」 (ト長調、 2/4、 Allegre批))から始まり、その. 場し、 「私は世論、知っていることは皆明らかにする、. 途中「Allegro maestoso」で警士が町の議会の登場を告. ‑. げ、 2人のユニゾンと合唱が対話のように運ばれる。メ. モチーフによる音楽が数小節付けられており、さまざま なモチーフが展開した後華やかに終わる。その後羊飼い の合唱「さあ、さあ、 12時だ、. C est l'Opinion publique qui proclame ce qu'elle sait,. ロドラマ(台詞が入る)を挟んで、 「デウス・アン・マ. ‑」 (ホ長調、 4/4、 Allegro)を歌いだす。途中合唱が入っ てみんなで歌い、 「Tr占smodere」の指示から拍子は6/8. キナのように」の指示があり、もとのテンポに戻って全. になって調は次第に‑短調‑向かい、みんなは「行け!. 員で合唱する。その後やっとユリデイ‑スの歌が始まる。. 世論に抵抗しても無駄だ! Pars! arOpinion c'estenvain. 初版第1幕1場の終わり‑フェリー版第1幕2場の フィナーレ・・ここまでの間に、アリステ(実はプリュ. qu'onresists!J と言い出すのである。世論はオルフェに 妻を追いかけるように諭し、オルフェは妻を愛していな. トン)の仕業によってユリデイ‑スは地獄‑向かう. いからと抵抗するが、結局音楽の雰囲気が変わったとこ. 初版ではメロドラマの後、前奏(変ホ長調、 Allegro maestoso)のから行進曲風の世論の歌「来い!それ. ろで(変ロ長調、 4/4、 Tr占sLarge) 「お前のしつこい声 には、あきらめねばならん。 ‑. ‑37‑. Atonimplacablevoix,il.
(8) faut ceder, je le vois.蝣蝣 」と観念する。音楽は再び快活な. 神々による七重唱(変ロ長調、 3/4、 Maestoso)が歌わ. 6/8に戻ってオルフェは生徒たちに別れを告げる。次に. れる。再びメロドラマを挟んで警察官の合唱(ト長調、. 生徒たちが入ってきて、ワルツを踊る(小さなヴァイオ. 2/4、 Allegrovivo)が始まるが、これは第4までの警官. リニストのワルツ、ホ長調、 3/4。合唱が加わって全員. が入れ替わる形で歌われ、その間に合唱が挟まる形を取. で歌うが、途中でヘ長調の行進曲風になり「それは君が. るが、和声的にはユニゾンか2声部のみである。キュー. 名誉と呼ぶもので、名誉は愛よりも重要なのだ、 ‑」で. ピットのレシタティーヴから次のキスのクープレ「その. 初版と同じモチーフ(調は異なる)が現れ、合唱も交え. 隠れ家の奥から引きつけるには. て(ストレッタ・フィナーレ)にぎやかに終わる。. desaretraite 」 (イ長調、 6/8、 Allegretto)に入るが、 ジュピテールとの二重唱と合唱が組み合わさったもの. 初版第1幕2場前半‑フェリー版第2幕3‑6場川場面. Pour attirer du fond. は変わって、堕落した神々の天国での様子を描き出す. である。次のマルハナバチの小ロンド(ヘ長調、 4/4、. 初版は短い前奏(ト短調、 3/4、 Moderate)の後合 唱が始まり、ソプラノが歌うとその他はハミングで応. Allegretto)はソプラノ2声による四分音符ばかりの、ほ とんどがユニゾンの単純な音楽で歌われる。その後、初. じる。 「Pocopiumoto」から雰囲気が変わって、キュー. 版とも共通するハエの二重唱に入る。. ピットが入ってきて歌う。ミネルヴァ、シベール、エ. 初版第2幕3場のフィナーレーフェリー版第3幕の. ペ、モルフェ、ジュピテールもやって来て合唱とともに. フィナーレ. 歌い、そこにヴェニュスが加わり独唱する。また雰囲気. 初版ではまず、ユリデイ‑スの台詞入りの歌「金色の. が変わって(ニ長調、 6/8、 Allegro)ジュピテールが歌. 羽の給麗な虫よ、お前は私の恋人のままでいたいの?. いだす。その後も合唱と独唱を交互に行いながら進み、. Bel insecte a l'aile doree, veux‑tu rester mon compagnon?」. デイア‑ヌのクープレ「デイア‑ヌが野原に降りるとき、. から始まり、ハンス・ステイクスが「もし私がベオティ. ‑. QuandDianedescend danslaplaine, ‑」 (ト長調、. の王なら、誓ってお前は女王になるのだ。 ‑Sij'etaisroi. 6/8、 Allegro)に入り、最後は再び全員で合唱になって 終わる。続いてそのままプリュトンのアントレ‑入って. deBeotie,tuseraisreinesurmafoi. ‑」とそれに答え(ト 長調、 3/4、 Allegre仕o)、プリュトンとハンス・ステイク スがそれに続けてほぼユニゾンで二重唱をする。その後. いく。. フェリー版は堂々とした導入部(ロ長調、 6/4、 Alle‑. 長い後奏に入って4場へと続く。. gromaestoso)から始まるワルツから入り、そのまま初. 一方フェリー版では長い前奏の後で、初版ではハン. 版と同じ前奏につながる。初版と同じように合唱と神々. ス・ステイクスが歌った旋律を子供たちの合唱がユニゾ. の独唱を交互に行うが、登場する神々などに若干の変更. ンで歌う(イ長調)。プリュトンが「消えろ! Disparais‑. が見られる。その後変ホ長調、 4/4になって、夢と時の. sez!」と叫び、キューピットが「虫が望みなら、ここにい. デイヴェルテイスマンが始まり、合唱とともにモルフェ. るよ! Tuveuxdesmouches, envoila!」と叫ぶ。すると. が時計の音を模した擬音で歌う。その後、時間を擬人化. 音楽の雰囲気が変わり(Andante)、激しさを増して次々. したバレエが壮大に繰り広げられる(第5の時間まであ. と転調する。そしてそのまま、長いハエのバレエ(ワル. る)。そして初版にもあるデイア‑ヌのクープレに入る. ツとギャロップが含まれる)に入って行く。. 前に、 「夜明け」と称した長い3/4拍子のバレエが入る。 クープレが終わると6/8拍子のメルキュールのサルタレ. 3.2. 考察. ロ(イタリアの民謡)が始まり、ジュノンとジュピテー. この2つを比較してまず目につくのは、オペラ・フェ. ルとの三重唱を伴って終わり、プl)ユトンの場面‑と続. リー版のバレエと合唱の多さであり、各幕に一つ以上は. く。. 存在する。バレエについて言えば、 1幕では導入後の羊. 初版第1幕2場最後‑フェリー版第2幕最後‑天国の. 飼いの場面(4、5bis)とフィナーレ(7のd、e)、 2. 場面におけるフィナーレ 初版もフェリー版も同じプリュトンの独唱から始ま. 幕の天国の場では夢と時のデイヴェルテイスマン(10)、 ロンドーメルキュールのサルタレロ 12 にバレエが入. り、堂々とした感じの神々およびオルフェと世論を入. る。特に指定はないがむろんフィナーレにも入ってい. れた合唱(変ロ長調、 4/4)が続き、次第に活気付いて. る。また3幕目の地獄の場ではハエの場面. 狂気じみたクライマックスを迎える。 2つの版における. 目のメヌエットとギャロップ(28)、フィナーレにも入っ. 25、 4幕. このフィナーレはほぼ同じだがフェリー版の方が若干長. ている。このうち初版と全く共通しているのは4幕冒の. く、すべてが終わった後に最初のテンポに戻り、 「全体. みで、 2幕のフィナーレはほぼ共通しているが、あとは. の合唱Choeur general」と称したへ長調の合唱が置かれ. 付け加えられたものである。合唱に関しては、 1幕では. てジュピテールの栄光を褒め称える。. 冒頭の羊飼いの合唱(1のa)とフィナーレ(7のb)、. 初版第2幕3場‑フェリー版第3幕8場後半〜9場目. 2幕では冒頭の眠りの合唱(8)と反乱の合唱(14)及. 地獄の場面の前半にあたる. びフィナーレ16. が見られ、 3幕では警察官のロンド. ハンス・ステイクスのクープレまではどちらの版も同. (21)とキスの台詞とクープレ(22)そしてマルハナバ. じであるが、その後フェリー版に付け加えられた部分. チの小ロンド(23)と合唱が続く。第4幕では地獄の合. は相当に長い。まず、メロドラマの後に今度は地獄の. 唱(26)とバッカス讃歌(27)に見られ、やはりこの幕. ‑38‑.
(9) のみが初版と全く共通しており、第2幕のフィナーレも. くなってしまった本家本元のオペラ・コミックを意識し. ほぼ共通している。. てのことかもしれない。彼らの書いた歌は歌いやすく、. 初版には世論の宣言がはっきり記されているが、それ. オーケストレーションや合唱の使い方もより単純で、ど. によって「昔の合唱」の代わりに、新しい方法としてナ. のようなレヴェル、規模の劇場でも対応可能なもので. レーター役(世論)が全体の物語進行を司っていること. あったと思われ、それは18世紀頃のオペラ・コミック. が観客にわかる。ところが、フェリー版では数多く挿入. が目指していたようなものであった。それゆえ、彼らの. された合唱が再び「昔の合唱」の役割を果たしていると. 作品は疲弊したパリの人びとを一時的に癒したのであろ. 言える。つまりこの版では合唱が物語の進行に深く関与. う。そしてまた、その上演のしやすさが彼らの作品を急. し、牧歌的な雰囲気を醸し出したり(羊飼いの合唱)、. 速に有名にさせた一因となったのは確実で壌ろう。. あるいは主人公オルフェの心を措写したり(子供たちの. 現在では、 19世紀後半より作られた作品で、扱われ. 合唱)するのに使われている。むろんフェリー版の合唱. る主題が風刺だけでなく軽く庶民的な素材であればオ. は初版よりも音楽的にはるかに大きな効果を上げ、重要. ペレッタに含めてもよいというのが一般的な見方であ. な役割を果たしていると言えるのだが、これはフランス. ろう。しかしそのイメージの原点を主題だけでなく「上. においてバロック時代よりオペラで使われて来た常套手. 演の容易さ」あるいは「分かりやすさ」にも置くとすれ. 段である。だからこそオッフェンバックは、暗にこの方. ば、それとは志向が異なるオペラ・フェリー版《地獄の. 法を「昔の合唱」などと呼んで軽く榔捻しているのだが、. オルフェウス≫は例外的な作品ということになる。しか. フェリー版では再びそれに戻っているのである。. しながら、オペレッタの「本流」とは何かと問うならば、. 初演時においては、劇場に対する規制はまだ厳しく、 合唱が自由に使えない時代であった。しかしさまざまな. ウィーン・オペレッタも合わせて考えねばならず、これ らは簡単には結論付けられない問題であろう。. 視点から考えるなら、フェリー版において合唱が大幅に. 1870年以後のオッフェンバックは一見手法的にオペ. 増やされたのは、その規制が緩くなったからという理由. ラへと回帰したように見え、 《地獄のオルフェウス≫ に. だけではないだろう。合唱による手法はフランスにおい. ついては成功したものの、パリにおけるオペレッタの創. ては確かに古くからあるが、バレエ同様、当時のグラン. 作意欲は次第に停滞して行くことになる。大衆を観客と. ド.オペラにおける重要な要素にもなった。一般に言わ. して引き付けねばならないオペレッタは、やはり商業的. れるように、普仏戦争後の時代の変化によってオッフェ. な成功を求められるジャンルには違いなく、芸術面を. ンバックはそれまでのオペレッタ的な手法を捨てざるを. 少し犠牲にしても広範囲に普及させることは重要な課題. 得なくなり、観客を獲得するためにフェリーというスペ. であっただろう。しかし上演が容易で誰にも分かりやす. クタクル性を持つジャンルを取り入れ、結果としてグラ. く、かつ質の高い作品を書くのは困難を極めることであ. ンド・オペラに近い規模のものが出来たのだろうか。そ. る。オッフェンバックの後継者たちの作品は一時的に爆. れとも 《ホフマン物語》でも見られるように、 1870年後. 発的人気を誇ったものの長くは続かず、現代において傑. の彼は風刺に満ちた主題による音楽劇をオペラ的手法で. 作の域に入るものは存在しないと言える。彼らと異なり、. 作り上げようとして、そこに最終目標を置いていたのだ. オッフェンバック自身はより「芸術家」でありたいと思. ろうか。この《地獄のオルフェウス≫ に限って言えば、. い、オペラ作曲家に対抗出来るような作品を目指したの. 神話を下敷きにしたこの物語自体に、バロック期のオペ. であり、それが《地獄のオルフェウス≫の改訂にもつな. ラを想起させる要素が初めから存在している。そしてま. がったと考えるのは早計に過ぎるだろうか。いずれにし. た、その舞台は視覚的により見事をものに仕上げやすく、. てもこのことは、大衆芸術であるオペレッタをどのよう. よりオペラの規模に近づくことは必至であった。つまり、. に定義するかについての問題をさらに複雑化させている. もとの神話をねじまげつつ、手法的には昔のオペラの雰. とも言えるのである。. 囲気そのままに演出すること自体が、オペラそのものへ の不敬なる新しい挑戦だったとも言えるのかもしれな い。このフェリー版はグランド・オペラに近づいたため にオペレッタとして「後退」したのではなく、新しい「進 化」を遂げたようにも思えるのである。. 注1 ) N. Wild, "Le Spectacle lyrique au temps du Grand Opera." La Musique en France a lepoque romantique 1830‑1870 (France: Flammarion, 1991), 21‑2. (以下、 この文献から引用した内容は、 Wild 1989やYonの 2つの文献ともかなり重複している。). 4.おわりに. 2 ) 0. Krakovitch, "L'Opera‑Comique et la censure." Die Op占ra comique und ihr EinfluR auf das europdnische. オッフェンバックの後継者あるいはライヴァルとも言. Musiktheater im 19. Jahrhundert (Hildescheim,. われたルコック(Lecocq)、ブランケット(Planquette)、 オードランらの作品は「オペラ・コミック」と呼ばれ、. (3)この成功は、グランド・オペラとロマンティック・. 作曲者自身もそのように呼んでいることもある。彼らの. バレエという2つのジャンルの貢献によるところも. 作品はオッフェンバックに比べて風刺が控えめでかつ素. Zurich, New York: George Olms Verlag, 1997), 214.. 大きかったと思われる。. 朴なものであり、違うジャンルであることを強調した. (4) N. Wild and D. Charlton, Theatre L'Opera‑Comique. かったのかもしれない。あるいは、まるでそれらしくな. Paris Repertoire 1762‑1972 (Sprimont: Mardaga,. ‑39‑.
(10) 2005 を参照のこと。 5) wildによれば、これは1807年4月25日のR短1e‑ ment (規約)から引用したものだが、発布当初はま だ18世紀風に台詞に頼る比重が大きかったように 思われる。. に建てられた1893年の1月〜3月はテアトル・リ. ( 6 ) N. Wild, Dictionnaire des Theatres Parisiens aux 19e. 1900年3月は特にオペレッタ、オペラ・コミッ. リック、 1899年3月. 1900年はテアトル・リリッ. ク・ド・ラ・ルネサンスと改称される。レパート リーは主にドラマとコメディであるが、 1873年〜 1884年の終わり、 1888年. 1893年9月、 1899年. ク、オペラ・ブ‑フを上演しており、テアトル・リ. si占cle (Paris: Aux Amateurs de Livres, 1989) , 330‑1.. リックと呼ばれた時代にはなぜかオペラを上演して いる。 1873年はオッフェンバックの作品ばかりを上. (7)通称、犯罪大通り(BoulevardduCrime)。 (8)この劇場の前身、フォリー・コンセルタント(Folies Concertantes)はその前の年から活動していたが、 オペレッタが上演されるのはフォリー・ヌーヴユル. 演し、 1874年. 1884年にはヴァス‑ル、ルコック、. と改名されてからである。 L. Schneider, Les Maitres. など主なオペレッタ作曲家の作品も含まれた。現在. シュトラウス、イズアール、ブランケット、エルヴェ. de I operette Frangaise Herve Charles Lecocq (Paris: Perrin etCie, 1924), 117の表を参照のこと。. 17. (9)マリオネット劇の一種。. も劇場は活動している。 (Wild 1989, 380‑1) この劇場はもともとパレ・ロワイヤルのギャラリー に建てられ、モンタンシエ座(Th delaDemoiselle Montansier)として開場した。オペラ・コミックや. (10) J.‑C. Yon, offenbach (Paris: Gallimard, 2000), 137. (ま. たこれに関しては、 Wild,1989にも同様の内容が 載っている。) (ll)夢幻的光景、 19世紀に流行した見世物。リトレ (Littre)の辞典によれば「18世紀未に現れたもので、 幽霊を見せる。動くランプによって幕に影を映し、 観客はその後ろから見る。光源が幕から遠ざかると 映像が大きくなるが、それが観客の方へ近づいてく るような印象を与える」とある。. コメディ・フランセ‑ズはその成功に嫉妬し、苦情 はナポレオンに受け入れられ、 1806年6月8日の皇 帝の勅令により立ち退きを命じられ、モンマルトル 通り(BdMontmartre)に建物を移す許可を得た。 その後仮設劇場を経て、 1807年6月24日にヴァリ エテ座として開場した。席数は1216あるいは1240 席であったという 1807年以前のレパートリーには チマローザ、パイジェッロなどのオペラ・ブッフア も含まれていたが、 1807年4月25日の勅令によっ. (12) A. hoewenherg, Annals of Opera, 1597‑1940 (Gen占ve:. Societas Bibliographica, 1955)を参照のこと。 (13)第2の建物(1764‑1808)は最初の建物の近くで、. て卑張で、下層階級の言葉を使った、あるいは農村 的なジャンルの小さな作品、クープレや既知のエー. 同じ通りに建てられる。第3の建物(1808‑1835). ルを時折混ぜたものに限定された。 1864年からはオ. も同じ場所に建てられ、席数は1845あるいは1818. ペレッタやオペラ・ブ‑フが中心になり、作曲家で. 席であった。これは1808年11月3日に開場するが、 火災のために1835年2月21日に取り壊され、 9ケ. はオッフェンバック、ルコック、エルヴェ、ヴァル ネィ、オードランが含まれた。上演の規模としては、 オーケストラは25名程度、合唱は18‑22名であっ. 月後に再建される。第4の建物(1835‑1862)も同. 14. じ場所に再建されたもので、席数は1800席であっ. たという。現在も劇場は活動している(Wild1989,. た。これは1835年11月19日に開場、 1862年8月. 407‑412. 4日に閉鎖し、工事が行われた。 (Wild 1989, 167‑8) 呼称はゲテ座から、オペラ・ナショナル・リリック、. (18)キャバレー(Cabaret)の前身。ステージとフロア. オペラ・ポピュレールに変わった時代もあったが、. 的な要素も備えていた。 18世紀末からすでに存在し. 1880年からゲテ座に戻っている(Wild 1989, 172). ていたが、 1881年に開業したシャ・ノワールが有. の両方でダンスが出来るようになっており、サロン. (15)アロー(Allaux)という画家が新しく縁日の見世物. 名である。オッフェンバックは最初の自作ワルツを. を立ち上げる為に、タンプル通りの火災にあった 劇場跡に建てたものである。席数は1253あるいは. (19) H. Lacombe, "Definitions des genres lyriques dans les. 1200席であったという。オーケストラは1836年に. dictionnaires franfais du 19e si占cle." Ed. P. Prevost,. は14名で、 1846年には20名になり、合唱団は20. Le Theatre Lynque en France au 19e si占cle (Paris:. Jardin au cafeで演奏した。. 名であった。工事の為1862年に閉鎖され、アレル. Serpenoise, 1995) , 328.. 20. (Harel)によってボンデイ通り(RuedeBondy)と サン‑マルタン大通り(BdSaint‑Martin)に新し く建てられた。席数は1600席と規模は前よりも若. ダヴイッド・リッサン『オッフェンバック、音楽に. 干大きく、 1863年1月1日に開場した。レパート. おける笑い』高橋英郎・東多鶴恵訳、音楽之友社、 2000年、 72‑3項。 21劇場作家・作曲家協会Societe des auteurs etcom‑. リーは1867年からはオペレッタやオペラ・ブ‑7、. positeursdramatiquesの略。オッフェンバックは. ヴオードヴイル中心になった。この劇場で活躍した 作曲家として、エルヴェ、ルコック、オッフェンバッ. 会している。. ブ‑フ・パリジャン座を開場する前の1853年に入. ク、ブランケット、スッペ、メサジェ、オードラン、. (22) J.‑C. Yon, offenbach (Paris:丘ditions de la Reunion des. ヴァルネィ、J.シュトラウスなど、主なオペレッタ. musees nationaux, 1996) , 22‑3.. 23. 作曲家が含まれていた。しかし1899年に劇場は破. それは許可されるが、結局2つの劇場を利用するこ とが出来ず、片方が閉場している時にもう片方を開. 産して他に譲渡され、その後1915年には映画館に 変わった。 (Wild 1989, 146‑150). けるということになる。. (16)この劇場はサン‑マルタン大通り(BdSaint‑Martin). 24 オペレッタの上演に際して登場人物の数の制限をな 40‑.
(11) くして欲しいという願いを託したもので、この劇場 を「大劇場」の列に加えたいというオッフェンバッ クの意向が伺える。 25 優勝者にはビゼーとルコックが含まれていた。また、 審査員には当時の主要な作曲家(オベール、アレ ヴィ、グノー)と台本作者(スクリープ、サン‑ジョ ルジュ)が含まれていた。 (26) R. Pourvoyeur, offenbach (Paris: Seuil, 1994), 90‑2.. (27)例えば、 1870年以後に作られた中規模作品として は《パン屋のおかみはお金持ちLa boulang占re a des ecus≫ (1875)が108回、小さな作品としては《クリー ムタルトTartealaCr占me≫ 1875. が113回も上演. さてaJ̲‑,. 28. リトレ Littre の辞典によれば「妖精や悪魔、魔法 使いのような超自然的登場人物が現れる劇作品で、 観客の前で装飾、衣装、舞台転換などにおいて素晴 らしい奇跡を行って見せるもの」であるという。ま た、 P. Ginisty, La Feerie (Paris: Louis Michaud,午 号?)によれば、その遠い起源は16、 7世紀の宮廷 バレエに始まり、ジャンルとして確立したのは19世 紀初頭のMartainvilleの作であるLe Pied de Mouton からだという。. (29) 1873年1月24日に、オッフェンバックはゲテ座を 9月から指揮することをSACDの委員会に告げ、毎 年彼の作品を制作してよいという許可も得た。しか し2月14日の会談で、後を継ぐディレクターに3 年の間、彼の3つの新作に作品の再演を4つ付け加 えさせることを要求したが、委員長であるデュマ・ フイス(Duma丘ls)に断られてしまう。そして1873 年2月22日に特別に集会が行われ、 133名が集まり、 オッフェンバックは糾弾されることになる。 3月1 日に2回目の集会が開かれ、 172名中109名が「自 分の作品を自分の劇場で上演するディレクターに対 し、それを絶対的に禁止することを課す」という提 案に賛成票を投じた。 1873年8月29日にオッフェ ンバックはゲテ座の取り決めにサインし、劇場は9 月2日に幕を開けた。 (Yon1996,39‑41) (30) N. Wild, Decors et Costumes du 19e siecle, Tome H (Paris: Biblioth占que Nationale, 1993)には、いかにも フェリーらしい《にんじん王≫の虫の扮装をした登 場人物が措かれているスケッチが紹介されている。 (31) Yon,2000の巻末の作品目録を参照のこと。 (32)フェリー版に記載されている登場人物は以下の通り‑ Anstee‑Pluton、 Jupiter、 Orphee、 John Styx、 Mercure、 Mars、 Minos、 Morphee、 Eaque、 Rhadamante、 Nephne、 Plutus、 Saturne、 Vulcain、 Pan、 Hercule、 Apollon、 Bacchus、 Eole、 Cerbとre、 Un Licteur、 Eu‑ rydice、 Cupidon、 Diane、 Vをnus、 L'Opinion publique、 Junon、 Flore、 Minerve、 Pomone、 Cer占S、 Cyb占le、 Hebe、 Thalie、 Vesta、 Polynme、 Ins、 Euterpe、 Clio、 La Fortune、 Pandore、 Ehato. 33. 使用楽譜として、初版はドイツのBote&Bock (Ber‑ lin Wiesbaden)から出版されたヴォーカルスコア を使用したため、タイトルなどをドイツ語のまま引 用している。また、フェリー版はパリのHeugelet Cie社から出版されたヴォーカルスコアを使用した。 それによるとドイツを除く全ての国で著作権を有す. ‑41一. ることが明記されているo またこれにはフェリー版 初演時の広告のようなものも掲載されていて、その 時の配役が全て記され、その他男女、子供の合唱が 百人登場するとある。 34 プロローグで象徴的人物が語りかけること自体、バ ロックあるいはグルックの時代を意識した方法であ ると思われる。.
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