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新約聖書の教育思想

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Academic year: 2022

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新約聖書の教育思想

著者 山内 一郎

URL http://hdl.handle.net/10236/13879

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氏 名

学 位 の 専 攻 分 野 の 名 称 学 位 記 番 号 学位授与の要件 学位授与年月日 学 位 論 文 題 目

論 文 審 査 委 員 (主査)

(副査)

山 内 一 郎

新約聖書の教育思想

博 士(神 学)

乙神第15号(文部科学省への報告番号乙第362号)

学位規則第4条第2項該当 2015年2月25日

神 田 健 次 土 井 健 司

教 授 教 授

教 授

David Wider

論 文 内 容 の 要 旨  

 請求論文は、新約聖書の多様な教育思想について聖書学的根拠を解明しつつ考察しようとするものである。

全体は、第一部「福音書における<教師>イエス像」と第二部「原始教会におけるキリスト教教育」との二 部構成になっている。

 第一部「福音書における<教師>イエス像」では、先ず序章で伝承の古層を通して浮かび上がってくるイ エスの言動からその志向性を洞察し、原始「キリスト」教団が何故「教師」イエスの地上のミッションを想 起し入念に再現したかを予備的に問うている。「歴史のイエス」が「信仰のキリスト」のはじめに立つゆえに、

両者の「非連続を媒介にした対応関係」が洞観されなければならず、福音書は、信じ告白される「キリス ト」が単なる観念に変質しないために編み出された「師」イエスと「弟子」(学ぶもの)たちの出会いの物 語、その成立の座としての「師弟同行」の道が想定されている。「ケーリュグマ」(信条=イエスの誕生、十 字架、葬り、復活、昇天、高挙)を基底としゴールとする「ディダケー」(教説=イエスの生涯、教え、弟 子道)の書と名付けても可能である。そのかぎり、全巻がキリスト教の伝道と教育のための「カテキズム」(問 答・対話編)としても機能し、有益である。

 ただしかし、「福音書」という文学的ジャンルは共通であっても、「教師としてのイエス像」は決して単一 ではなく、それぞれがすぐれて個性的である。

 第一章、マルコは「福音」(ユァンゲリオン)をキーワードとして権威ある「新しい教え」の主体であり 客体でもあるイエスを描き、第二章、福音の「書」(ビブロス)としての性格を現すマタイは律法の成就者、

解釈者たる「教師」(カセーゲーテース)イエス、第三章、ルカは「物語」(ディエーゲーシス)のスタイル を際立たせながら、救済史の中心に立つ隣人愛の模範としての「教師」(エピスタテース)イエス、そして 第四章、ヨハネは「真理」(ロゴス)の受肉としての教師(ラビ、ディダスカロス)が、今や「助け主」(パ ラクレートス)として現に生き、働いていることを証言する。

 四福音書に通底するものはイエスの言動一切の背後に隠されていた「遣わされたもの」の自覚と祈りの修 練、 深みの次元における「我ー汝」「神ー人」呼応の人格的「交わり」であり(マタ11:27)、 このような神(聖 霊)の実在体験を根拠とする「直接的確証」(E・ケーゼマン)こそ「教師」イエスの人格とエクスーシア(権 威)の秘義であった(ルカ5:8参照)。

 キリストの模倣(Imitatio Christi) の動機に基づく「弟子道」「ディアコノス教育」についても、「十字架 と希望」(マルコ)、「義と愛」(マタイ)、「悔い改めと赦し」(ルカ)、「互いの愛」(ヨハネ)など強調点は

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それぞれ異なるにもかかわらず、全福音書を貫流する「教師イエス・キリスト論」の基調は教理・信条的

(kerygmatic)というよりは寧ろ倫理・教化的(didactic)であり、いわば「下からの道」を辿る途上で「上 からの道」が拓かれる啓示と言える。

 本書第二部「原始教会におけるキリスト教教育」では、先ず第一章「福音のパラドシス」で、ケーリュグ マ伝承が救済史にかかる「教理」を内包するが、同時に「福音」自体が人間を変革するすぐれて人格的な真 理であるゆえに、「倫理」という身証を生み出し、それが「カテケーシス」という教育活動を必然化したこと、

次いで第二章「<聖化>のパレネーシス」では、I テサ4:1-12のテキストに現在の命令法 が将来の直説法 を備えるという逆対応的な終末論と倫理の結合が看取され、後にパウロが深化・徹底させる「義認を内に含 む聖化」の神学の確かな方向付けを読み取っている。

 以上の考察を踏まえ、続く第三章「ケーリュグマとディダケー」において、神学的には福音と律法の区別 よりもその相関関係がより鋭く問い直されなくてはならないと主張され、はじめに福音のケーリュグマ(伝 道)によって教会の基礎が固められ、次いでキリスト者の倫理としてのディダケー(教育)によって教会が 形成されたという C・H・ドッドの説教の主位と教育の従位という二分法的な通説とは逆に、ディダケー がケーリュグマに先行する「道しるべ」としての積極的意味を担うことも肯定されるというテーゼが提示さ れている。ディダケーは究極においてケーリュグマを目指し、ケーリュグマに回帰する「福音」(啓示)の 言語的な依拠の枠であり、必須の媒体と言えるのである。

 そのことはまた第四章、イエスの離去後、原始キリスト教団の生成・発展の過程の中で、福音の「パラド シス」(教理)と「パレネーシス」(倫理)の統合を目論む「カテケーシス」(教理問答教育)、その担い手と なった「原始キリスト教の教師」の務めと生き方とも相即していると叙述される。パウロにおいて厳密な意 味での教職制を肯定することは困難と思われるが、新約聖書の「教職」は根本的には「ディアコノス」イエ スから出、そこにかえると言える。

 第五章で考察した一見世俗的な「家庭訓」伝承(コロ3:18-4:1)の眼目は、単に教理(ケーリュグマ)

に対する倫理(ディダケー)の優位ではなく、「愛の実践を伴う信仰」(ガラ5:6)、「福音にふさわしい」(フィ リ1:27)ライフスタイルの確立である。家庭訓の勧めが繰り返し「主にあって」という立場を表明する(コ ロ3:18, 20, 23, 24;4:1参照 ) のは信仰の確証の想起のためであり、この信仰の想起、即ち信仰の自由が福 音の健全な世俗化(結婚、家庭、教育、職業など生のあらゆる領域の肯定)を可能にするとともに、一方、

この世の秩序を絶対化する悪しき世俗主義に対して批判的に作用すると言える。

論 文 審 査 結 果 の 要 旨

 以上の内容をもつ請求論文について審査結果を記す。

 山内一郎氏の学位請求論文「新約聖書の教育思想」は、先行研究との批判的な対論を通して、新約聖書に おける多様な教育思想を聖書学的な根拠を解明しつつ考察した内容であり、学術的に高く評価すべき研究と 言える。本書は、著者が前著『神学とキリスト教教育』(神学双書6、1973) によって弁証法神学台頭以後 のキリスト教教育の基礎づけを行ったのを承けて、改めてその聖書学的根拠を明確にしようとするものであ り、著者の長年にわたる学問的集大成である。これまで旧約聖書の教育思想については、平塚益徳など旧約 研究者によって広範に亘る解明がなされ、新約聖書の教育思想についての本格的な学術的についての研究が 俟たれていたが、まさにこのような包括的かつ学術的水準を備えた本書は、類書のない独創的な研究と言え る。特に、第二部の第3章「ケーリュグマとディダケー」において展開されているように、従来、C・H・ドッ ドによって代表されるケーリュグマとディダケーの乖離、あるいはディダケーに対するケーリュグマの優位 性の主張が支配的な見解であったが、多くの資料と諸研究を駆使して、著者は、両者の相関性及び相補性を

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力説し、むしろディダケーがケーリュグマに先行する「道しるべ」であるという積極的な意味を担う見解を 主張する点は重要である。

 しかしながら申請論文において、考察における問題点や課題がまったくないわけではなく、審査の場にお いて審査委員会が申請者と対論を試み、とりわけ考察をめぐってなお考慮すべきと判断するのは以下の四点 である。

1.新約聖書の教育思想を解明するに際して、著者はユダヤ教的背景には言及しているが、ギリシャ的・ロー マ的教育思想には十分に論述していない。それ故、パイデイアの伝統と新約聖書の伝統との関係が、徳を身 に着けることによる独自の進歩思想がテーマとなっていない。この問いは、まさに教師イエスの真実なパィ デイアであるという新約聖書後の宣教を展望して、より幅広い背景を考慮することを可能にするものである。

2.著者は、ケーリュグマとディダケーとのこれまで定説的であった区別に正当に抗して、両者の根本的な 相関関係を正当に主張している。それによって、神学的・救済論的な観点で、直接法と命令法の関係の問題 が新たに提起されることになるが、この連関においてパウロとの深い対論が望まれるであろう。

3.イエスを「教師」とする見方が福音書等の新約文書に見出されることは本書を通して明らかであるが、

イエス自身の自覚として「教師」というものがあったのかどうかについては、また、イエスの受難と死及び 復活という出来事が、イエスの弟子教育という観点からどのような意味をもっているのかについて、審査の 過程でも論議されたが、さらに今後の研究に期待したいところである。

4.今日のキリスト教教育において、必ずしも信仰者の育成にのみ限らないキリスト教教育も必要とされて おり、この点でイエス、新約聖書の教育思想にはどのような意味、可能性があるのか、という質問について、

ヨハネ10章16節に見られる「外にいる羊」に対するキリスト教教育の可能性は本書で示唆されているものの、

その具体的な考察はこれからの課題ということになるが、その際、社会学、教育学、社会心理学との対話が さらに要請されるであろう。

 しかし以上の諸点は、今後の研究課題と見なしうるものであって、請求論文の価値を損なうものではない。

既述のように、請求論文は、新約聖書における多様な教育思想を聖書学的な根拠を解明しつつ考察した独創 的な研究内容を備えた、学術的に高く評価すべき研究と言えるのである。

 以上により、請求論文について、博士論文審査基準に照らして、博士学位を授与するものとしてふさわし いものであるとの判断を審査委員会は下し、その旨ここに報告するものである。

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