現代経済学方法論とアダム・スミスの見えない手 : サミュエルズの『見えない手を消し去る』をめぐっ て
著者 只腰 親和
雑誌名 経済学論究
巻 67
号 1
ページ 105‑128
発行年 2013‑06‑10
URL http://hdl.handle.net/10236/11305
現代経済学方法論と
アダム・スミスの見えない手
サミュエルズの 『見えない手を消し去る』 をめぐって
The Modern Methodology of Economics and Adam Smith’s Invisible Hand:
In Connection with W. Samuels’
Erasing the Invisible Hand.
只 腰 親 和
This paper aims at clarifying the close relationship between Warren Samuels’ recent work Erasing the Invisible Hand and his methodological thoughts. The book itself is based on his long efforts to collect the words
‘invisible hand’ from all available literature since the term’s inception.
This book is a theoretical rather than descriptive one because Samuels, who is known as a representative economic methodologist in the U.S., distinctively analyses the material concerning ‘invisible hand’ from his own methodological perspective. In this respect, this paper illuminates the internal structure of the book.
Chikakazu Tadakoshi
JEL:B41
キーワード:サミュエルズ、経済学方法論、アダム・スミス
Keywords:Warren Samuels, Methodology of Economics, Adam Smith
はじめに
本稿の目的とするところは、先年、残念ながら亡くなった合衆国の代表的な経 済学史家のひとりであるウォーリン・サミュエルズの遺著Erasing the Invisible Hand. : Essays on an Elusive and Misused Concept in Economics をとり
あげて、この書物と、彼がそれまでの学的蓄積をつうじて構築してきた方法論 的思想との関連を問うことにある。この書物は『見えない手を消し去る』(以 下この書物を『消し去る』と略記する)といった一見すると不可解なタイトル をもっているが、このタイトルだけからも、少なくともこの書物がアダム・ス ミスの「見えない手」に関するなんらかの検討をふくんでいることを窺うこと が出来よう(以下著者が多用するthe invisible handをIHと略記する。ただ し文脈によっては「見えない手」と表記する)。
たしかにこの著がスミスの「見えない手」をひとつの柱にしていることに相 違はない。とはいえスミスによって有名になったIHのみで300ページを超え る一書をどのように編むことができるのか、興味をひかれると同時に、その内 容についてそうかんたんに想像がつかないのも事実であろう。その点にかんす る仔細は著者自身が語っている。
サミュエルズによれば、彼自身が「見えない手プロジェクト」とよぶ、この 著作のもとになった作業は1983年に開始された。この著の発刊が2011年で あるから、この労作の着手から完成までには実質的に少なくとも25年すなわ ち4半世紀以上が費やされていることになる。その作業の具体的内容は、「見 えない手に関する言及は至るところにある」(Samuels, 2011,ⅷ)という彼の 言葉から知られるように、IHにスミス以外の人びとが言及した資料、文書を 網羅的に収集してそれを分析することにあった。そうした作業の目に見えるい わば物理的な成果として、(4つの引き出しつき)ファイルキャビネット10個 分、メモ用紙、数箱分、書物・雑誌12000冊という関連資料が収集されたと いう。
このようにサミュエルズの書物は、スミスにおいて有名なIHにある意味で 時間と手間をかけて徹底的にこだわった仕事と言ってよい。本書のような作業 に彼を導いた動機について、この課題に手を付けたのは、「見えない手が経済学 にとって基礎的であると広く考えられている」一方で、それが「異なった人々 によって異なって同定される」(ibid., xv)という理由によると彼は言ってい る。すなわち、IHがひとりスミスにとどまらず、経済学の歴史を貫通する基 礎的な概念であるということと、にもかかわらず、あるいはそれ故に、IHに
はさまざまな定義や解釈が存在していることが彼の仕事の動機であるというこ とになる。
このように本書の礎石となっているのはIHにかんする膨大な資料、文献で あるが、にもかかわらずこの書物はそのような性格の研究から予想されるよう なたんなるデータ収集の記述的な結果報告ではない。その点で言えば、本書は データベースをもとにした著述にしては、本文中における原資料の引用や、文 献にかんする注記が一部を除いて意想外に少ないことに首をかしげたくなる程 である。しかしそこに本書の特色が表れているのであって、本書を特徴づけて いるのはこまごまとした書誌的な記述よりも、IHやスミスの所論を話の糸口 にしたサミュエルズ自身の社会観や方法論の主張である。したがってこの著作 は、上記の「見えない手プロジェクト」の説明からは実証的な内容が予想され るが、理論的と言った方が的確な形容に仕上がっている。
つまりこの書物では、IHというひとつの有名な成句に対する執念ともいう べき関心が一方の柱だとすると、他方で、経済学史・経済思想史の専門家であ りながら狭義のそれにはとどまらないサミュエルズに独自の理論的主張がもう ひとつの柱となっている。そのような構成に本書の長所も欠点も根ざしている と考えられが、サミュエルズが経済学方法論の現代における有力な論者の少な くともひとりである点に鑑みて、本書を染め上げている諸特徴は現代における 経済学方法論と経済思想史研究との想定されうる結びつきのひとつの象徴をな していると私は考える。以下ではサミュエルズその人の経歴や業績に即して考 察をすすめていくが、たんにそれはサミュエルズ個人への限定された関心に導 かれたものではなく、現代における経済学方法論と経済思想史との問題状況の
・ひ・ と・
つ・
の縮図の開示という意図が下敷きになっていることを述べておきたい。
以下における本稿の叙述の順序を述べれば、まず初めにサミュエルズの成 熟期の学問的特質の萌芽を形成した彼の青年期について瞥見する。次に彼の学 問全体を底辺で支える制度学派的特色について、方法論の側面に焦点を絞って 考察する。続いて彼の方法論の特質である方法論的多元主義を検討し、その上 でその方法論の経済思想史という具体的分野での集約的な展開を分析する。そ のような予備的検討を経た上で、『消し去る』の特徴を批判的に分析するのが
本稿の構成である。以下に見られるように、「予備的検討」といいながらその 部分が「予備的」という表現にはかならずしも相応しくない紙幅を、あるいは 占めているかもしれない。その点の可否については諸賢の批判をまつほかない が、わたくしとしては『消し去る』自体がそのような分析を要請する書物の構 造になっていると判断している。
I 研究者への道
「サミュエルズの最も重要な仕事は· · · 経済思想史、政府の経済的役割(そし てとくに法と経済学)、経済学方法論のなかに在る」(Biddle, Davis, Medama,
2001, 1)とされており、本稿ではこの三つのうち経済思想史と経済学方法論の
側面に絞って考察するが、最初にサミュエルズが専門研究者になるまでの略歴 を瞥見したい。彼はすでにマイアミの高校時代からそこで学んだ歴史、数学、
英語から後年の彼の多元主義的な立場─それは絶対主義、排他主義に対置され る─を身につけていたようだが、マイアミ大学では合衆国憲法史、政治理論史 等と並んで経済思想史を学んだといっている。経済思想史の勉学を通じて、経 済学というディスプリンが主流と目される新古典派だけではなくいくつかの学 派から構成されていることを知った、と述べていることは以下で検討する後の 彼の本格的な学問活動との関連で重要であろう。
さらに大学時代には、「根本的問題」への問と、対象への「マトリックス的 接近法」を習得したとしている点が注目される。前者で言う根本的問題とは経 済学のあらゆる理論や政策提言が前提にしている「メタ問題」の謂で、「社会 秩序や社会進歩の意味」への問というようなかたちで明示化される。この「根 本的問題」が重要な所以は、それに対して与えられる具体的な解答にあるとい うよりも、そうした問題への問の立て方が複数の仕方でなされうることにあ る。それによって、「折衷主義と多元主義」(Smuels, 1995b, 352)への志向性 が育まれるというのが彼の見解とみなしてよい。他方の「マトリックス的接近 法」とは根本的問題への問と関連する思考法であるが、思想や理論の意味を、
それを擁護する見解と批判する見解の全体で形成される網目のなかで捉えてい く立場である。制度学派の経済学を、マルクス学派、新古典派、オーストリア
学派等のさまざまな観点から考察するような場合がその一例となる。このよう な「過度に単純でイデオロギー的な定式化」(ibid., 352)とは対比される、折 衷主義的、多元主義的な思考傾向をサミュエルズは大学までに自らに定着させ た。そしてそのような考え方を抱懐しながら、ウィスコンシン大学の大学院で 専門的な研究に着手し、やがて研究者として自立してミシガン州立大学で長い 間、教授を務めることになるが、専門的研究者としての彼の学問内容を検討す るのが以下での課題である。
II 制度学派経済学者としてのサミュエルズ
サミュエルズは自分自身を「制度学派の経済学者」(ibid., 344)だと自認し ており、彼が大学院としてウィスコンシン大学を選択したのも、そこにかつ て在職していたジョン・コモンズの「制度学派的伝統」(ibid., 354)がのこっ ていたからであると述べている。つまり「もっぱらではないにしても、主に制 度学派経済学のプリズムを通して世界を見るのをけっして止めたことはない」
(ibid., 344)と自身が明言しているように、彼のもっとも根底にある学問的基
盤は制度学派の経済学であった。本稿はサミュエルズの業績をあらゆる側面か ら考察することが目的ではなく、彼の著作『消し去る』を検討するために不可 欠と私には考えられる、彼の経済学方法論と思想史論に絞って考察をすすめて いくが、そのような限定付きの上でもやはり彼の基盤にある制度学派経済学の 特質を無視することはできない。
制度学派については一般に、「いまだにその中身と学説史上の位置について、
統一的な理解が得られているとは言い難いところがある」(高、2004、115)と されているが、サミュエルズ自身は事典的な記述のなかで彼なりのしかたで制 度学派経済学について説明している。それによると制度学派経済学には三つの 面がある。それはⅰ)ひとつの知識体系a body of knowledge、ⅱ)問題解決 へのひとつの接近法、ⅲ)抵抗運動の三つである。
このうち制度学派の特色をもっとも理解可能なかたちで示すと思われるⅲ)
からとりあげると、それが抵抗運動だとされる意味は、「制度学派経済学は正 統的な新古典派経済学と急進的なマルクス経済学を共に批判する」(Samuels,
1991, 105)と言う点に存する。要するに既存の有力な二学派である新古典派 経済学とマルクス経済学に対する抵抗運動としての、制度学派経済学という規 定である。新古典派経済学については、市場経済を確立された所与とみなし、
それを前提とした諸理論を正統として疑わない立場に制度学派経済学は批判の 矢をはなつ(106)。他方マルクス経済学に関しては、権力を重視し、構造変革 の必要性を考察し、方法論的集団主義を考慮する点等は評価されるが、その階 級概念、唯物弁証法的経済発展の見方、革命の強調というような面に批判を加 えるのである。
そうしてこれらの学派と区別される経済学の一体系としての制度学派経済 学というのが、ⅰ)の知識体系に相当する。この面での制度学派の特徴は、資 源配分、所得分配、雇用、価格といった諸現象を個別に扱うのではなく、全体 としての経済の組織や制御の進化をみずからの解決すべき課題として設定する 点にある。
ⅱ)で指摘されている問題解決、すなわちproblem-solvingという制度学派 の一面は、puzzle-solvingが暗黙の対比項となっている。制度学派にあっては 机上における観念的な問題の謎解きpuzzle-solvingが仕事ではなく、進行中の 現実的な問題に有効な解答を出すことproblem-solvingがみずからの目的とす るところであるということを意味している。
サミュエルズはこのように制度学派経済学の基本的な特徴を三項目に要約 しているが、さらにより具体化された論点として制度学派の「方法論的な姿勢 methodological orientation」について論じていることは本稿において見過ご すことができない。彼は制度学派の人々の方法論への関心について、「異端派 思想にはよくあることだが、制度学派の経済学者たちは方法論の考察に多大な 注意を集中してきた」(ibid., 108)と言っている。これは、メインストリーム の経済学の場合にはすでに大方が受け容れている立場なのでことさら方法論に 言及する必要はないのに対して、異端派にあっては正統派に相対していくこと を余儀なくされるので、経済学に限らずどんな学においてもその学の基底をな している方法論への自覚的な検討や再考が必然化されるという点を指摘してい るものと見られる。そしてサミュエルズが経済思想史家のなかでもとくに方法
論への関心がつよいのは、彼が「制度学派経済学のプリズムを通して世界を見 る」立場にあったことに起因していることを、上の言は裏書きしていよう。
彼は制度学派に特有の「方法論的な姿勢」を、方法論一般、経済学での分析 手法、経済思想史の研究方法の三つに分けて論じている。それぞれについて箇 条書きで、総計するとかなりの数にのぼる特徴を列挙しており、本稿の当面の 課題との関連ではそれらすべてを俎上にのせることは必要でないと思われる。
ここではとくに、制度学派に特徴的とされている経済思想史の研究方法にかん して彼が述べている以下の見解に、後の議論との関係で注目すべきであろう。
彼によれば、制度学派の経済学者たちは経済思想史を研究するに際して、個々 の経済思想を「真理の見地からと同時に」、「信念、あるいはひとつの言説の様 式」の観点からも捉える点が特徴的である。また、「現在、支配的な経済思想
の学派に· · · たんに光輝をあたえるような仕方で」(ibid., 109)経済思想を研
究するのではないとも述べている。すなわち経済思想の歴史のなかに唯一ぜっ たいの真理を前提して、それを裁断基準にして経済思想史を整理し、叙述する 立場へのアンチとして制度学派を特徴づけている。裏返せば、経済思想史上に おける多様な主張を、どれが正解でどれが誤りであるというように判定をくだ すのではなく区別せず扱うという立場となろう(a)。
そして経済思想の歴史をそのように捉えることの根源には、経済学という ディスプリン一般を理性的な知識の体系と単純素朴にみなすのみではなく、「知 識knowledge、社会的統制social control、心理的慰安psychic balm」(ibid., 109)という三つの機能を果たす対象と規定するという考え方が存している(b)。 上に、個別の経済思想を「真理」としてのみならず「信念」としても捉えると していたことの、より具体的な意味もそこにあると言ってよい。
上に述べた(a)の見地にせよ、経済学に知識、社会的統制、心理的慰安の三 つの機能を認める考え方(b)にせよ、サミュエルズはそれらを制度学派経済学 者ぜんたいに共通する方法論的姿勢として説明している。しかし(a), (b)両者 ともサミュエルズ自身の方法論的な立場を前面に打ち出した解釈だと考えられ る。少なくとも(b)に関しては、三つの機能のうち知識については別にして、
のこりの二つは自分自身の方法論的実践にひきつけた解釈だと思われる。その
点については、いま問題にしている制度学派経済学にかんする事典的な解説論 文でサミュエルズ自身が参考文献として挙げているミロスキーの論文がひとつ の例証となる。ミロスキーはその制度学派経済学の方法論的基盤に関する解説 的論文において、主に制度学派とプラグマティズムの関係について説明してい るが、そこには制度学派の方法論的特徴として社会的統制や心理的慰安に注目 する姿勢はまったくないからである(Mirowski, 1987)。
(a),(b)がサミュエルズに固有なものであるか、はたまた制度学派経済学に
共通であるかという問題をここでこれ以上、深入りすることはできないが、少 なくともこの二つがサミュエルズその人の学問的方法を色濃く際立たせる特色 であることは明らかである。また後に検討する『消し去る』においてもこれら 二つは大きな意味を持っている。そこで以下では、制度学派経済学との関連に 限らぬ方法論一般についてのサミュエルズの見解を検討することにしよう。
III サミュエルズにおける方法論的多元主義
サミュエルズの方法論的立場については、彼自身の、「認識論、理論やそれ 以外の多くへの私の多元主義的接近法」(Samuels, 2011, 137)という言葉や、
他者から、「彼の方法論的多元主義」、(Emami, 2011, 517)「彼[サミュエル ズ]の方法論的多元主義への影響力ある擁護」(Davis, 2012, 120)と言われ ていることから、彼が方法論的多元主義者であることは否定できない事実であ る。そこでその方法論的多元主義の中身について検討する必要があるが、彼自 身が方法論的多元主義についての論文を書いているので、その論文の本稿にか かわる部分に焦点をあてて考察をすすめたい。
方法論的多元主義とは、経済学方法論(あるいは科学方法論一般)にかんし て、「方法論的・認識論的に絶対的なものはない、あるいはそのような絶対的 なものが明白に論証されたことはない」(Samuels, 1997, 74)という方法論の ひとつの立場である。例えば、演繹法も帰納法も、あるいは合理主義も経験主 義も、それぞれがもつ一定の有効性がけっして否定されるのではないが、それ らうちのどれも一つだけでは完全無欠ではないと方法論的多元主義は考える。
何よりも「唯一の、決定的な、究極の方法論的・認識論的原理の不在」(ibid.,
67)という前提に立つのが、方法論的多元主義の本質である。
だからといって、どんな方法論上の原則や規則も認めないということでは ない。アプリオリに他の原理にたいする特権性を主張するのでない限り、特 定の方法論的な原理を確立する「資格認定的接近法 credentialist approach」
(ibid., 75)は推奨される。また、どの方法論も一つだけでは決定的なもので
はないことを強調するのは、研究対象にはさまざまな側面があり、さまざまな 観点からの接近が可能であるとの主張と表裏一体の関係にある。別の言い方 をすれば、ひとつの正しい理論やひとつの正しい方法論といった「決定性や 完結determinacy and closure」を求めるのではなく、「修正可能性や多義性 open-endedness and ambiguity」(ibid., 67)を虚心に受け容れる立場と形容 することができる。したがって固有の知的営為としての科学それ自身に関し ても、例えば「科学とは[数量的]測定である」と言うように「唯一、同一の 作業」と決め付けるのではなく、科学は「いくつかの異なった方法論的見方」
(ibid., 76)からなるというように、多義的な捉え方をしている。
このようにその諸特徴を整理できる方法論的多元主義を根底で支えている のは、社会構成主義であった。すなわち「経済(『経済的現実』)、経済理論、方 法論はすべて社会的に構成され・
作・ ら・
れ・
るのであって、発見されるのではない」
(ibid., 67、傍点は原文イタリック)というのが、方法論的多元主義の基本的立
場である。したがってその系論として、「ディスプリンとしての経済学は、経 済についての物語を精査し、話すのに使用される用具や道具の莫大な集合体か らなるひとつの研究手段」(ibid., 76)であるということになる。すなわち、経 済学は経済と言う所与の実在について真理を探究するのではなく、経済にかん する物語を社会的に構築するための一群の道具と見なされている。
IV サミュエルズの経済思想史観
以上が経済学方法論一般にかんするサミュエルズの立場であるが、彼はこれ まで本稿で考察の素材としてきた諸論文よりも早い段階で、経済思想史につい ての方法論的論文を書いている。それはその時点で、「思想史家たちに、新しい 問題領域を新しい歴史学方法論の視点から見るようにさせた」(Biddle, Davis,
Medama, 2001, 3)論文とされている。本稿との関連では、その内容は前節ま で検討してきた彼の方法論的議論一般を、とくに経済思想史という分野に則し てより具体的に展開したという論理的な関係にあると捉えることができる。後 の議論との関連でも看過することは許されないので、これまでの彼の主張とい くぶん重複する部分もあるが検討することにしたい。
その論文で、サミュエルズは経済思想史を、「知性史としての経済思想史」
(Samuels, 1974, 305)として捉えている。つまり経済学の歴史を「知性史」と みなす点に、彼の立場の大きな特徴がある。知性史にかんして彼自身が明確な 定義を与えているわけではないが、彼の論ずるところから再構成すると、知性 史は次のようなものになろう。知性史は何らかの知的体系を考察対象とするが、
その知的体系に関して様々の側面や認識の仕方があることを基本にすえる歴史 への接近法が知性史である。彼は言う。「わたしたちが知識として受け容れる ことができる知的な諸体系は、· · · きわめて複雑で雑多である」。わたしたち が「知識として受け容れるものの複雑で雑多な構造の結果として生じる多義性 は、社会科学者や社会科学史家が耐えねばならぬ重要事である」(ibid., 306)。
わたしたちが知識と受け取るものが多様であるひとつの理由は、人々がもつ 利害や感情にある。異なった利害や感情に基づくさまざまの信念が、「複雑で 雑多な思考体系」(ibid., 306)を生み出す。
しかし、特定の社会的現実に対してただひとつのではなく複数の思考体系が 存在する理由は、異なった人びとの間にある利害と感情の相違だけではない。
利害や感情といった人間のなまなましい属性は、相互に異なった認識を人々に 生み出させることを容易に想像させるが、サミュエルズによれば、認識のもっ と平静な局面にも、複数の思考体系を生み出す要因は存している。まず第一 に、「社会的現実それ自体が雑多で多義的」でありさまざまな側面があるので、
「異なった人びとは異なった側面に意識を集中して、自分たちが興味を持つ部 分に基づいて全体を解釈する」(ibid., 306)という事実がある。さらに第二に そのようにして捉えた社会的現実(の一部)に接近する道筋も一通りではない。
そこには「多様な認識論的な資格認定epistemological credentials、多様な思 考様式、合理性の多様な体系等々がある」(ibid., 306)。すなわち利害や感情
をかりにカッコに入れたとしても、多面的な現実をとらえる時には不可避の、
対象に照明をあてる観点の一面性、および対象を捉える際の知的な装置の多様 性が、「複雑で雑多な思考体系」を生み出すことを必然とするのである。
このように知性史においては、学問的探求の対象も、それに接近する方法・
手段も多様であることが大きな特質とされる。このような事情は経済学に限ら ず社会科学一般に通有のことであるが、こうした立場を主張するサミュエル ズが固有に経済思想史に問題を限定すると、「経済思想の発展を誤謬から真理 への進歩とみなす」(ibid., 308)のはあまりにも単純な見方であって、彼の与 するところではない。むしろ経済思想の歴史過程に存在する、「複雑さと多様 さという事実は· · · 経済思想のもっとも奥深い目的とされることにおそらく関 わっている」と、彼は言う。したがって経済思想史研究には、対象としての経 済思想の歴史の進行に「複雑さと多様さ」が内在していることの認識が必要と される一方で、それに立ち向かう主体の、「視野の広さと深さ」と、「あらゆる 思想と意味に対しての批判的姿勢」(ibid., 307)が不可欠の前提とされる。
経済思想史の歴史が誤謬から真理への単線発展の過程ではなく、そこに複 雑、多様な局面が不可避である理由を、サミュエルズはいま少し具体的に述べ ている。全部で11項目の要因を指摘しているが、そのうち主要なものを例示 すると、
・経済学は、方法論的個人主義と方法論的集団主義との混合物であること
・経済思想史には、機械論、有機体論、進化論のようなさまざまな類型の社会 思想が混在していること
・さまざまの経済学において価値と事実の区別が明確でないこと
・実証的経済学と規範的経済学の区別が明確でないこと
等をあげることができる。これらの諸要因が個別の経済学、あるいは経済思 想の歴史を、単純で一様ではなく、複雑で多様なものにするということになる。
これらと並んで彼が数え上げている諸要因のなかで、「経済思想史ではひん ぱんに現れていながら、しかも広く研究されてはいないひとつの大きな解釈上 の問題」としている事柄が注目される。それは、「経済学は、知識であり、社会 的統制であり、心理的慰安」(ibid., 314)という、経済学の性格規定にかかわ
る問題である。経済学の機能を、知識、社会的統制、心理的慰安の三つとみな すサミュエルズの考え方は、すでにわれわれの知るところである。すなわち制 度学派経済学の一特徴として彼が指摘していたことであった。そのくだりでも 述べたように、経済学の機能をこの三者とみなすのは制度学派経済学いっぱん の特徴というよりもサミュエルズに固有の考え方と思われるが、経済学(した がって経済思想史)をこの三者のいわば複合体とみなす立場は、後述する『消 し去る』においても重要な位置をしめている。また、いま検討している論文に おいてこのくだりは11項目の最後の項目にすえられてはいるが、その内容を 見れば質量ともに他の項目にけっして劣ってはいない。そこでサミュエルズの この考え方について少し立ち入って検討することにしよう。
彼によれば、「多くの経済思想史は、経済学を· · · 知識として、知識追究の 試みと考える」。言い換えれば、経済学は純学問的に「研究、知識の一分野」と みなされている。もとよりサミュエルズも、経済学が社会科学の一分野を形成 していることを否定するわけではない。彼が強調するのは、経済学はたんに純 粋にアカデミックな知識の体系にとどまるものではなく、知識をふくむ「三つ の批判的役割を同時に」(ibid., 314)果たす点である。言うまでもなく知識以 外ののこりの二つは、社会的統制と心理的慰安という役割である。彼が社会的 統制と心理的慰安の機能に着目するのは、現実の世界が冷静な知性や理性だけ で存立しているのではなく、そこでは権力闘争、論争、心理的要因等が大きな ウェイトをしめていると考えるからである。すなわち、「現実の世界は、たん に観念、知性、理性、知識の世界ではなくて、権力闘争power playの世界、論 争の世界であり、操作の世界であると同時に心理的知覚、合一化、相互作用の 世界でもある」(ibid., 316)。
そこでまず彼の言う社会的統制であるが、「人間はそれによって[生活を]
系統立てorganize、生きるための社会的統制、原理を必要としている」。そし
て、「経済が支配的な制度であり、ますますそうである世界においてそれら[社 会的統制、原理]を提供する」(ibid., 315)するのが経済学だと、サミュエル ズは言う。社会的統制の具体的内容としては、社会的結合を達成する社会的装 置、道徳規則、個人の内面的目標の提供、権力闘争の正当化の提供等を挙げて
いる。つまり社会的統制は総じて、個人的、道徳的、政治的規範の提供の役割 を果たすものといえる。それは、現代においてその機能を経済学が担っている ことに関して、「経済的イデオロギーはおおむね神学に取って代わった」(ibid., 314)とう表現から知ることが出来よう。
他方の心理的慰安については、シャクルの説を援用して解説しているが、社 会的現実にかんして諸個人に「一貫性、統一性、秩序、普遍性、妥当性の感覚」
(ibid., 316)を与えるような機能を経済学が果たしているという。それらの感
覚を通じて、現実が自然的であることを人々に知覚させ、ひとびとの精神を平 静にすることで心理的慰安をもたらすというのである。上の社会的統制が規範 的側面にかんする機能だとすれば、心理的慰安は文字通り人間の心理にかかわ る機能であると種別化できよう。
経済学がたんに知識であるだけではなく三つの役割を果たすとサミュエル ズがいうのは、このような意味であった。そして「経済(と経済思想史)は、
『知的過程というよりむしろ、その中に知的要素をふくむ社会的過程である』」
(ibid., 316)というのが彼の結論的主張である。このような三者の複合体とし
ての経済学という考え方は、サミュエルズの学的生涯を貫くそれと言ってよ く、先にも述べたように『消し去る』においても重要な意味をもっている。こ れまで、『消し去る』に入る前に予備的考察をある意味で長々と続けてきたが、
ようやくその書物の本体に取り組む段取りとなった。
V 『消し去る』の分析
サミュエルズの遺著となった『消し去る』の概要は本稿の冒頭に述べたとお りである。すなわち、この書物のいしずえになっているのはIHについての時 間をかけた収集作業であるが、収集された資料にも増して、それらデータを整 理する理論的枠組みやIHを糸口にして展開される彼の方法論的諸主張が本書 を特徴づけている。
彼はこの著の序論で、さまざまな人々によってさまざまに使用されているIH に関して、「一貫したストーリーを構築することはきわめて困難であり」、「一 貫したストーリーが存在すると主張したり、あるいはそういうストーリーを構
築しようとすることは自分の論点や目的のひとつではない」(Samuels, 2011, xvii)と述べている。つまり長い時間をかけて収集した膨大な資料を素材にし て、そこになんらかの─ひとつとは限らない─思想史的連関を創り出すことに 否定的な解答を出しているのであった。というよりむしろ、彼が集めた文献の 中に見出したIHの種々の定義や機能にかんして、「多義的で結論がでないと いう帰結になる多様性」(ibid., xx)が本書の結論だと述べている。したがっ て本書をいささか修辞的表現を用いて評すれば、IHが単純ではないというあ る意味で単純な結論に帰着するという逆説的な構造になっている。本書がその ような結論に至りつくのがけっして偶然ではなく、これまで本稿で検討してき たサミュエルズの方法論的議論と必然的な連関を持っているというのがわたく しの立場であるが、以下では彼の方法論的主張との関係に力点をおいて『消し 去る』の内容を見ていくことにする。
本書は全体が10章からなっていて、第10章は結論の章である。第1章か ら第3章までがサミュエルズ自身、それ以後の章全体のベースだと言っている
(ibid., xvii)ので後に個別に検討することにしたい。第1章から第3章まで はアダム・スミス自身あるいはIHの少なくともどちらかに即した議論が展開 されている。それに比較すると第4、6,7章の叙述は、スミスやIHとの直接 的な関連はさほどつよいとは言えない。しかしそれらの章ではサミュエルズの 方法論的な見解が述べられており、本稿でこれまで確認してきた彼の所論に関 わりがあるだけではなく、本書における基礎概念や分析視角を知るうえで見逃 せない部分なのでこれらについても、以下で立ち返ることにする。
第5章はIHの多義性の根拠のひとつと著者が考える、スミスが活躍した当 時の思想環境─著者の言う「パラダイム」(ibid., 114)─の多様性が論じられ ている。そのようなパラダイムとして著者は、啓蒙思想、自然主義、超自然主 義、利己心等を挙げているが、この章の本書ぜんたいにおける位置づけはいま 一つ明らかではない。第8、9章は、前者ではスミスの国家論が取り上げられ、
政府が最低限のことをすればよいというスミス解釈は誤りであることが論じら れ、後者では、現代の多くの国で貧困のために若死にする人々のリスクに対す る保障が十分でないという説明をしながら、生存要件survival requirementの
問題をとりあげ、それと新古典派経済学の関係を論じている。二つの章の課題 はいずれも、制度学派経済学者としてのサミュエルズが取り組んで当然の事柄 とはいえ、本書の主題であるIHとの関連はうすく、経済思想史、経済学方法 論と並ぶサミュエルズの三つ目の専門分野である政府の経済的役割に関わる問 題と考えられる。このような本書の構成に鑑みて、以下では本稿での主題に関 係する上に指摘した諸章(第1〜4章および第6〜7章)に照準を合わせて考 察することにしたい。
第1章は他章に比較して本書の中では例外的にIHについての具体的な論者 の引用に基づいた叙述がなされている。内容としては、IHに関して、20世紀 における著名な経済学者たちの中に、それを「経済学の第一原理」(ibid., 10) だというような表現をして肯定的に評価する経済学者と、逆にそれは「不幸な」
概念、あるいは「一部だけ真実の言葉」(ibid., 14)にすぎないとして消極的 に捉える経済学者がいることがまず確認されている。さらにIHという言葉が 2000年以上の歴史をもっていることが、経済学のみならずさまざまの分野の 実例を示しながら明らかにされる。続いてスミスが自身の書物のなかで、見え ない手をじっさいに用いている三つの部分にかんして確認が行われている。よ く知られているように、スミスは見えない手を、「天文学史」、『道徳感情論』、
『国富論』で各一度ずつ使用している。一般には『道徳感情論』と『国富論』で の使用が経済学との関連で注目されているが、サミュエルズはむしろ「天文学 史」での使用(‘the invisible hand of Jupiter’)を、それが「スミスに鋭敏で 深い思索の分析家の地位を確立させた」(31)として高く評価している。とく に「天文学史」でのIHに大きく注目する点は、サミュエルズ自身の方法論と 連携しており後の議論との関連で見落とされてはならない点である。
第2章ではスミスの学問体系全体の特徴づけが著者の立場からなされてい る。サミュエルズはスミスを「文明の哲学者」と呼んで「経済学の並みの著作
家」(ibid., 40)と区別している。サミュエルズは大学時代に「根本的問題」の
重要性に気が付いたことを先に見た。根本的問題とはあらゆる経済学が明示 的・暗示的に前提している「メタ問題」の謂であったが、サミュエルズはここ ではそれをスペングラーにならって「秩序の問題」と呼んでいる。それは、自
由と統制、継続と変化、階層性と平等といったどの社会にも共通の大きな理論 的枠組みの考究を意味している。「文明の哲学者」はそのような「秩序の問題」
を自らの課題とする学者のことであり、スミスはそのうちの一人に数えられて いるのである。つまりスミスは「市場の体系」と同時に「権力の体系system
of power」をもふくむ理論体系を構築したということになる。「スミスは、社
会がどのように秩序の問題への解答を見つけるかという構想のなかに市場モデ ルと権力モデルの両方を含めている」(ibid., 42)のであった。
しかしスミスの道徳哲学体系は、有名なジョン・ミラーの証言から知られる ように自然神学、倫理学、正義(法学)、便宜(経済学)を包含しており、た んに「市場の体系」プラス「権力の体系」よりもさらに広範なものである。サ ミュエルズはそのようなスミスの学問体系を「通観的で総合的synoptic and synthetic」(ibid.,42)と形容して、その基本的特徴を説明している。それによ るとスミスは市場を「規制的な体系」すなわち「ひとつの社会的統制の制度」
とみなしていた。市場は「人々に私利を非社会的ではなく社会的な仕方で追及 するよう強制する制度的な機構」(ibid., 45)だと、サミュエルズは考える。こ こには、市場がアプリオリに最適性を実現するという新古典派的立場に対する 批判が含意されていよう。と同時に、市場だけではなく道徳規則や法律も社会 的統制の役割を担い、市場は、道徳や法といった「社会的統制の他の制度の作 用と結びついていなければならない」(ibid., 46)のであった。こうして市場、
道徳、法律といった「諸制度が· · ·社会的統制として機能するというのがアダ ム・スミスの根本的議論である」(ibid., 47)というのが、本章におけるサミュ エルズの主張の骨子である。すでに見たように、サミュエルズは経済学をたん なる知識のみとは考えずに、社会的統制と心理的慰安の機能も果たすとみなし ていた。ここではそのような見方を、社会的統制の面に力点をおいてスミスの 学問体系に適用したものといえよう。
先に述べたようにスミスはIHにかんして「天文学史」ではthe invisible hand of Jupiterという定冠詞つきの表現をしているが、『道徳感情論』、『国富 論』ではともにan invisible handと表記し、経済学的文脈で用いた言わば本 来の意味でのthe invisible handそれ自体が何であるかをスミス自身は明らか
にしていないとサミュエルズは考える。そこで第3章では、そのthe invisible handについてその「正体identity」と「機能function」にかんして他の人び とが提起している「候補 candidate」を広範な文献に基づいて検討した結果 が論じられている。正体と機能それぞれについて著者によっていくつかのカテ ゴリーに分類されているが、その数は、正体については4ダース以上、機能に ついては1ダース以上と著者自身が述べている。つまりこの章は、冒頭に紹介 した「見えない手プロジェクト」が本書のいしずえになっていると言う点を考 えると、本書の基盤的部分であると言ってよい。
彼が分類したIHの正体の例をあげると、market, price system, self- interest, entrepreneurship, natural selection, intersubjectivity, nature, governmental institution等であり、機能に関しては、order, automaticity, equilibrium, benevolence, Pareto optimality等がその実例である。おのお のの正体と機能についての検討の結果として、どの候補も「見えない手the invisible handに達することに成功していない」(ibid., 82)という結論がく だされる。要するに固有の意味でのIHの正体が何であり、どんな機能をする かを突き止めることができないというのが本章の結論であり、さらには本書全 体のひとつの結論である。
どのような理由で各候補が、紛れのない意味でのIHたりえないかというの
を市場marketを例にとって説明すると、市場は純粋に概念上のそれでもあり
うるし、現実の市場でもありうる。純粋に概念的な市場は実在しない一方で、
現実の市場は「権力の結果、原因、手段として」存在しており、市場がそれの みで自存するわけではない。あるいは、市場は、ある点では「機構」の特徴 をもっているが、別の点では「制度」の、また別の点では「過程」としての 特徴を有している(ibid., 62)。このように市場を一義的に規定できないこと から、それが真のIHたりえないと論じられるのである。あるいはIHとして
「もっとも広く引用される」概念のひとつである利己心self-interestについて 言えば、利己心をIHとみなすことは、「利己心を統制するのが見えない手the invisible handの仕事だという· · · おそらくさらにもっと広く確信されている 見解」(ibid., 65)と矛盾すると言う論法で、利己心が真のIHであることが否
定されている。
第4章はスミスの知識論あるいは科学哲学についての議論と言えよう。著者 が大きく注目するのは、スミス「天文学史」における、科学研究の目的は「想 像力の乱れを鎮める」ことにあるというスミスの主張である。学問的研究の目 的に関して、真理であるか否かは問わずに「想像力の乱れを鎮める」点に求め る立場と、「真理を述べる」(ibid., 85)ことにあるとする立場との並存をスミ スにおいて認めながら、前者の立場に力点をおいて著者はスミスの知識論を解 釈している。
そして言葉や命題が、想像力の乱れを鎮め精神を平静にするという機能は、
たんに科学の部面に限らないとサミュエルズは考える。それは「天文学史」で のスミスの知識論の広範な適用可能性を評価するという意味になるが、その 機能を信念体系と結びつけて問題を捉えている。彼は言う、「信念体系· · · が、
想像力を落ち着かせる命題─それが真であってもなくても─の主要な源泉であ
る」(ibid., 96)と。信念体系は、想像力の乱れを鎮めることに寄与する諸命
題によって「人びとの生活の諸局面を理解可能なものにしてくれる」。たとえ それが「えせ知識」であっても、人びとは身の回りの諸現象に「完結と決定性 の感覚」を与えてくれる、想像力の乱れを鎮めうる「受け入れ可能な信念体系 を必要としている」(ibid., 105)のである。
われわれは、先に経済学が単なるアカデミックなひとつのディスプリンに 過ぎないものではなく、同時に社会的統制と心理的慰安の役割を果たすと、サ ミュエルズが述べていたのを知っている。そのうち社会的統制については第2 章でスミスの道徳哲学に即しながら論じているのを見たが、この第4章では心 理的慰安についてスミスの「天文学史」での主張に注目しながら、それを信念 体系への問題へ発展させながら解釈しているのである。これらの点から、『消 し去る』と言う書物が、著者がそれ以前に育んできた方法論的思考に立脚して いることは明らかであろう。
第6章では言語論的な観点からIHについての考察がなされている。著者は 比較的最近の言語論の成果を受けいれて、「言語の政治的性質」(ibid., 136)に 着目している。つまり言語は受動的に現実を如実に伝えるものではなく、むし
ろ言語が現実を定義すると考える(例えば「規制」、「規制解除」という対比的 なふたつの言葉で現実の変化が表現されるが、これまで規制されていた側の規 制が解除され、規制されていなかった側が規制されるようになるので前後の状 況は同等だとサミュエルズは考える)。ある言葉が自分の信念体系に適合すれ ば、それが真理であるなしにかかわらず、その言葉を現実として安んじてうけ いれがちなのが人間の実態であると著者は考えている。
すでに見たようにサミュエルズは第3章で、そもそもIHが何であるかとい う考察に基づいて「この言葉が本質的に多義的」(ibid., 135)でその「正体」
は突き止められないという結論を出していた。それを前提にしてここでの言 語論的な観点からの論考を付け加えると次のような主張になる。なんらかの 概念をIHと呼んでも、それによってその概念にかんする知識が実質的には何 も増えない(たとえば市場をIHと呼んでもそれによって市場に関する既知の 知識に何も付け加わらない)。にもかかわらず、なんらかの現実をIHと同定 することでその現実を正当化するという無視できぬ機能をIHは果たす。つま りIHを使用することで、「それと結び付けられた現状の説明がとりわけ補強 される」ことになる。経済学に社会的統制と心理的慰安の機能があることはこ れまで見てきたが、それがここでは言語論的観点から確認されている。すなわ ち、「この言葉[IH]は想像力をつかまえ、一定の(諸)方向へ想像力を向か わせる。したがってこの言葉は、社会的統制と心理的慰安の道具なのである」
(ibid., 145)。
第7章は存在論、認識論という哲学的観点からのIHの分析であるが、ここ でも前章と同じような結論が導出されている。サミュエルズにおいて存在論と 認識論の区別は必ずしも明確ではないが、存在論的考察の範囲で述べられてい るのは、IHの存在について主張される議論は立証可能なものではなく、あら ゆる資源配分がマイアミの公園の猿のグループによって支配されていると言う 主張より大きな蓋然性は持たないとされている。つまりIHの存在に関する議 論は根拠のない「断言assertion」(ibid., 167)に過ぎない。こうしてIHの存 在は根拠が薄弱だが、にもかかわらずIHという「概念」は社会的統制や心理 的慰安の役割を果たし、「社会的信念体系の主要な要因という意味で経済学の
基礎的な概念である」(ibid.,168)とされるのである。
認識論に関しては、認識論上の科学的な手続きである演繹法によっても、帰 納法によってもIHに関する知識をえることはできず、ここでもIHの存在に 関する議論は根拠のないたんなる断言にすぎないという主張が繰り返されて いる。
VI むすびにかえて
このような考察を経て本書の結論とされるのは、おおむね前節で要約した内 容を繰り返すものである。すなわち、ⅰ)IHという概念は広汎、多用に使用さ れるが、いずれもその実体を確認できないたんなる断言にすぎない。ⅱ)何ら かの経済学的現象をIHで説明しても、それによって何の知識も付け加わらな い。(「市場と言う見えない手が自動的に資源を配分する」と言う命題は、「市 場が資源を配分する」という命題に何の知識も付け加えない280)。ⅲ)知識 の付加はしないが、IHは権力の役割を不明瞭にする政治的・イデオロギー的 な機能には寄与する。ⅳ)IHは社会的統制や心理的慰安の機能によって、あ る人びとの利害を促進し、別の人びとの利害を抑制する。
これらが主要な結論であるが、この書物を上梓する以前に形成されたサミュ エルズの方法論的思想を検討した本稿の立場からは、このような結論が引き 出される必然性は容易に見て取れる。上のⅰ)、ⅱ)は要するに、別の箇所で
「この研究の結論のひとつ」としているIHについて「多義的で結論がでない」
(ibid., xx)ということを、言いかえたものと理解できる。またⅲ)とⅳ)は、
経済学はたんなる知識ではなく、社会的統制や心理的慰安の役割をも果たすと していたことに直結するか、その発展と考えることができる。
したがってⅲ)、ⅳ)にかんしては、彼の方法論的思想との関連は明らかで あるし、ⅰ)、ⅱ)についても次のように解釈すれば、方法論との関係が容易に 見えてこよう。と言うのは、サミュエルズはわれわれが知るように、方法論的 多元主義に深く根ざしながら、経済思想史には「複雑さと多様さ」が内在して いるという基本的立場に立っていた。その彼が、IHという経済思想史上、周 知の概念を歴史にわけいって調査する時、IHとは何であるか(正体)、IHに
はどんな機能があるか(機能)という問いに対して、「多義的で結論がでない」
という答えをだすことは造作なく予測できるからである。一定の問題に対する 解答として「決定性や完結」ではなく、「修正可能性や多義性」を重んじる彼 の方法論的立場からは、ごく素直な結論と言えよう。
『消し去る』におけるIHについての結論は、こうしてサミュエルズの経済 学方法論あるいは経済思想史方法論の立場からは、ごく自然の結論であり、必 然性を持っているといえる。しかし、冒頭に記したように時間と手間をかけた 作業を下敷きにしているにしてはあまりに中身にとぼしい結論と考えるほかな い。だがここではその点をあげつらうことが目的ではなく、かりにサミュエル ズの方法論的立場を前提にしたとしても、彼の出した結論が唯一の解答である か否かを問うてみたい。わたくしは、いま少し実りある成果に到達する可能性 を彼の方法論的思想は内包しているのではないかと考えるので、その点をかん たんに述べて本稿を閉じることにしたい。
第一に、サミュエルズは個々の経済学も経済学の歴史も複雑、多様であるこ とを強調する。その認識自体は否定されるべきでないと考えるが、そこから直 ちに対象が複雑、多様であるから、その分析結果もそれを再現すれば事足りる という結論にはなるまい。たしかに、「決定性や完結をもとめる[多くの]人 びとにとってとりわけ魅力的なのは· · · 因果関係についてただひとつの説明を 持ちうること」(ibid., 97)であるという指摘は鋭い。つまり多くの人びとは 社会的事象に関して、込みいっていない、簡潔な説明を求めるということであ る。それに対して、現実それ自体、あるいはそれを説明する知的装置の複雑性 や多様性を強調することは必要であろう。だが、ただひとつではなくとも複数 の有効な説明法はあるはずである。
サミュエルズには、経済学者ヒックスの経済学史家としての側面にかんする 論文がある。その面でのヒックスについてサミュエルズの評価は高いが、それ はヒックスの多元主義による。その論文の中でサミュエルズは、ヒックスの人 柄の「誠実さと謙虚さ」(Samuels, 1993, 12)を称賛している。経済は多種多 様の視角から接近可能で、それがヒックスを理論的な多元主義者にし、彼を性 格的に誠実で謙虚にしたというのである。たしかに唯一絶対の理論のみを信奉
する態度は受け容れがたいが、「誠実」や「謙虚」のみならず、多様な接近法 からより有効なものを─それはひとつとは限らない─選び取る「責任意識」も 学問の倫理としては必要ではなかろうか。
第二にそれと関連するが、サミュエルズが社会構成主義の立場から経済学を 道具の集合と見なしている点も一考に価する。彼は経済学の理論や概念が道具 であるゆえの限界性を重視しているように見える。それは同様にヒックス論文 の次のくだりから知ることができる。ヒックスは「経済学的概念、理論、モデ ル、仮定を分析で用いられる道具であって、現実の定義· · · で用いられるので はないし、現実の定義それ自身でもないと考えた。これらの道具はいかに手段 として有効であっても限界がある」(ibid.,4)と、サミュエルズは言う。これ はたしかにヒックスについての説明であるが、サミュエルズ自身ヒックスの姿 勢を肯定的に述べている。そうだとすると、もう少し違った仕方の思考法もあ ると思われる。すなわち、経済学の理論は道具だとしても、道具だから現実を トータルに知るには限界があるという方向ではなく、道具だから有効なものを 自在に組み合わせながら使用するという前向きな考え方も可能ではなかろうか。
第三に、経済学の機能としての社会的統制と心理的慰安についても、経済思 想史の分析装置として有効な活用法があるように思う。サミュエルズは経済学 における上の二つの機能をいずれも一様に、別言すればやや平板に考えている ように思えるが、ここでこそ多元的な思考が必要ではないか。その点に関して 心理的慰安をとりあげて一例を考えてみたい。
IHが一定の現実に関して、秩序や普遍性の感覚を与えて心理的・精神的な 安定感をもたらすのが心理的慰安の内容と言ってよいが、同じ心理的慰安でも 時代背景によって相違があるのではなかろうか。サミュエルズはIHの候補と して価格機構も挙げていれば、神とか自然といった超自然主義的な例も挙げて いる。だが価格機構によって心理的・精神的安定感をえる時代と、自然神学的 なIHによってそうする時代とは明らかに違っていよう。それによって、一方 は科学的・合理的な説明が有効な時代・社会であるのに対して、他方はまだ科 学的な説明と神学的説明の区別あるいは優劣が判然としない時代・社会という ようなかたちで、心理的慰安という概念装置を媒介することでIHを通じた時
代思潮の相違を描くことが、したがって思想「史」が可能になるのではなかろ うか。
これらはいずれもサミュエルズに対する批判ではなく、サミュエルズの方法 の発展的適用である。わたくしが彼の方法の可能性といったのはこのような意 味である。
文 献
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