• 検索結果がありません。

伝統社会における母性

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "伝統社会における母性"

Copied!
46
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)II. 戦時体制と母性の植民化. 『どんな偉人でもその後ろには必ず偉大な母がいるという言葉がある。今日われわ れに偉大な人物がいないのは、今日われわれに偉大な母がいなかったからである。 醜い母親たちが醜い子供たちを残したためである!スンモ?そうでなければいやと いってみなさい?』『……』『偉大な子は偉大な母から……そうだ。いくらでも偉 大な力をこの世に広げられるのは男性より女性である。きみはその大きい、その聖 なる野心がないのか?』スンモは目を大きく開けた。 イ·テジュン1. A. 伝統社会における母性. 古代から韓国の歴史や説話、民話には母親や母子関係に関して言及したものが多い。 本節では、伝統社会を儒教的倫理観が成立した朝鮮時代(1392~1910年)に限定して、 朝鮮時代に編纂された女性用教訓書を中心に、儒教規範が女性の母性をどのように規 定したかを考察する。それは、儒教的家父長制イデオロギーが朝鮮時代だけでなく、 植民地時期と近代化、産業化をつうじて現在にいたるまで韓国社会の家族関係と性的 役割規範に影響を及ぼす重要な要素であるからである。 朝鮮を建国した士大夫たちは朝鮮社会を根本的に再編成するために、国家制度だけで なく、家族内の秩序維持のために基本理念として儒教イデオロギーを効果的な道具と して使った。国家は、孝を中心とする家族規範を基にして家族秩序を確立し、家族制 度の安定をつうじて社会秩序を確立することで、国家体制の安定を図ろうとした。朝 鮮時代初期から、女性の役割規範に大きな関心を寄せていた為政者たちは、女性の風 紀が高麗時代末期以来乱れてきたと判断し2、女性の守るべき儒教的規範を示すために 各種の女性用教訓書を発刊した。 1. イ·テジュン「聖母」『イ·テジュン全集』(キプンセム、1988)249-50頁。 ハン·ヒスク 「両班社会と女性の地位」『韓国史市民講座』第15集(一潮閣、1994)84-10 5頁。 2. 15.

(2) 世宗14年に刊行された『三綱行實図』(1432)や『内訓』(1475)、『戒女書』3、『士 小節』(1775)など、女性の行いを治めるために編纂された女性教訓書には女性の嫁、 妻、母としての道理が詳細に記されている。これらの女性教訓書は書かれた時期や著 者の立場、執筆の動機はそれぞれ異なるが、儒教倫理に最高の価値を見出していた朝 鮮時代においては、女性を理想的なまでに教化することを目標としていており、そう した意味では実質的内容は大同小異である。 たとえば、『内訓』4は言行章、孝親章、婚礼章、夫婦章、母儀章、敦睦章、廉倹章 から構成されているが、儒学者のソン・シヨル(宋時烈、1607-1689)の『戒女書』や、 秋谷老身の『内訓』(年代未詳)も同様に婦道、心志、容貌、動止、言語、徳行、規模 (事父母·舅姑、事夫、奉祭祀、友愛、訓子、性品、接賓客)などから構成されている 5. 。 各書の目次からも分かるように、女訓書の内容は結婚した女性が婚家で舅姑と夫によ. く仕え、家庭内和睦のために努力すべきことがその要旨となっている。具体的には、 夫に仕える道理として、「嫉妬しないのが一番の行いであるため、百人の妾がいても みてみぬ振りをする」「我が家への客は親戚でなければ夫の友人であり、嫁家の家族 にとって友人であるから、たくさんの料理でもてなし」、行いについては「言葉を慎 むのが一番の行いであり、行いのなかでもっともつつしむべきこと」とした。このほ かにも、金銭を節約する生活と、「舅姑と夫、奴婢と子供がみな嫁に依存しているた め、妻が勤勉であると、その家が安泰」であるため、勤勉であることや、「自分の父 母や舅姑、夫が病気になった場合は、すべてに最善を尽くす」など、女性が大家族内 で家庭生活を行う際の役割規範が詳細に記されている。 つまり、先に述べたように、朝鮮時代は儒教的かつ家父長的家族秩序を確立すること によって、国家体制の安定を図ろうとした社会であったために、大家族内の秩序維持 のために、女性の従順を最高の美徳として強調したのである。こうした意図は母親と. 3. 『戒女書』の刊行年代は正確ではなく、1650年前後と推測されている;クォン・ヨンチョル 『閨房歌辞研究』(イウ出版社、1980)208頁。 4 『内訓』は、朝鮮王朝第九代王、成宗の母である昭慧王后韓氏が宮中の妃賓や婦女者の教育 のために編纂した本である。この本は、中国の女訓書である『小学』、『烈女』、『女教』、 『銘鑑』のなかから重要なものを集め、刊行したものである;昭慧王后韓氏 ユク·ワンジョン 訳主『内訓』(ヨルファダン、1984)15‑8頁。 5 イ·フンソク編『韓国の女訓』(デウォンサ、1990)10‑37頁。 ジョン·ヤンワン 「規範類か らみた韓国女性の伝統像について」ハ·ヒョンガンなど『韓国女性の伝統像』(民音社、198 5)56頁。. 16.

(3) しての役割規範にも現れているが、親子関係において実の親子関係に比べ、とくに継 母と継子の関係に関して大半の女訓書で強調している点に現れている。朝鮮後期の実 学者であるイ·トクム(李徳務、1741‑1793)が士人の家で守るべき礼節を記録した『士 小節』の婦儀章では、程子の母である候夫人が、「謙遜と恭順をもって、自身を戒め、 庶子を我が子のように愛した」とし、夫の妾の子を実の子のように愛した点で彼女を 賢夫人としてほめたたえた。その理由として、妾の子は「自分の子の兄弟であり、自 分の夫と舅姑の血を受け継ぐ」ものであり、それを知らずに冷遇するのは、子が母を 真似てその兄弟たちを蔑視し、夫も妻を恐れ冷遇し、そのために天倫が壊れるからで ある、としている。また、後妻になった女性は、本妻の子を我が子のように愛さなけ ればならないが、それは夫の子であれば自分の子でもあるためだ、としている。『士 小節』の具体例をみると、中国の漢の国で、ある婦人が夫の死後、前妻の息子たちに 実の母でないという理由で、憎まれ、中傷された。しかし、穏やかで仁慈深い婦人は 彼らを愛し、実の子よりも手厚く世話をした。やがて、前妻の息子たちもあやまちを 悔やみ、婦人は村長から表彰され税金を免除された。イ·トクムはこうした例を世の後 妻となった女性の模範にすべきだ、とした 6 。『内訓』でも継母の役割を重視した。 『内訓』の母儀章は中国の賢母10人の事例から構成されているが、そのなかの三つの 事例は後妻が前妻の子たちを実の子以上に愛し、世話をした行いを賞賛した事例であ り、もう一つの事例は、妾の子数人と夫の幼い兄弟たちを実の子同様に世話した婦人 の逸話である7。 継母としてのつとめを示した事例にみられる共通点は、後妻になった女性が本妻の子 を愛さないことを基本前提としている点である。こうした前提の背景には、生物学的 母親こそ偉い母親になりうるという考え、いいかえると女性であれば誰でも自分の産 んだ子に対しては本能的に母性をもっていかなる状況でも愛を施すことができる、と いうその時代の社会通念と道徳が内包されている。もう一つの共通点は、継母になっ た女性は義理の子たちからの蔑視に耐え、実の母以上の愛を施し、義理の子たちに過 ちを改めさせることで、最後は立派な母として賞賛される点である。ここには、後妻 になった女性は産みの母でないため、実の母よりさらなる犠牲と献身をせねばならな いという、生物学的母性イデオロギーによる抑圧が内在している。. 6 7. 前掲『韓国の女訓』72-87頁。 前掲『内訓』145‑65頁。. 17.

(4) 女訓書で義理の子や妾の子に対する愛と義務を強調したのは、儒教社会で重視された 父系家族制度の秩序維持と安定のために、母性を一つの道具として用いたためとみら れる。すなわち、男性が妾をもつことが普遍的に認められた社会において自然に起こ りうる女性の嫉妬は「七去之悪」として厳しく禁じられ、望ましい母性とは、人間で あれば起こりうる感情を抑制し、忍耐と犠牲が必要であると教化することによって、 家父長制家族制度の秩序を維持しようとした。 女訓書で母親の役割として強調されたもう一つの特徴は、胎教の重視である。儒教的 な生命観と家族観においては、人間の生命は子孫をつうじて持続されるものであり、 家族は祭事をつうじて人生の根源的な意味をもつことができる8。孟子は三つの不孝の なかで跡継ぎを作らないことを一番の不孝としたが、女性が子供を産めないのは「七 出」の第一条件とみなされた9。婚姻におけるもっとも重要な目的は祭事を司る跡継ぎ の継承であるが10、これは祭事が父系社会をなすためのもっとも効果的な方法の一つで あったためである11。よって、父系家族の継承と拡大のために母性の役割における男児 出産は必須の条件であった12。 女訓書が胎教を強調し、妊娠中の身持ちに関して詳細かつ多くの注意を記したのも父 系家族継承のために後継者の生産がそれだけ重要であったためである。したがって、 生まれた子が「短命あるいは長寿、富裕あるいは貧困、愚鈍あるいは聡明、善良ある いは悪い場合にはすべてその母親から受け継いでいる」とみなし、健康な子の出産を 母親の責任として強調し、「妊婦が行いと食べ物に気をつけないと子が早死にするか 病気にかかる」とまで警告している。 儒教社会では出産前の胎教だけでなく子を生んで養育し、教育するのも家の存立と直 結した問題である13。『内訓』の母儀章での子の教育目的は、「苦労しながら子を育て、 その子が成功するのを願うのは、祖先の後を継ぎ、家の跡をとり、亡くなった人をき. 8. チェ·ボンヨン『朝鮮時代儒教文化』(サゲジョル、1997) 162‑4頁。 チェ·ホンギ「儒教と家族」『現代家族と社会』(教育科学社、1994) 67‑91頁。 10 クム·ジャンテ『韓国儒教の理解』(民族文化社、1989)85‑90頁。 11 マルティナ·ドイヒラ 「韓国の儒教化過程」」『韓国史市民講座』第15集(一潮閣、199 4)201頁。 12 チョンは、長男の相続権が重視されたうえ、入養の場合は日本と異なり、同じ氏族内におい てのみ可能であったため、朝鮮時代の韓国女性が同時代の中国や日本の女性より男児を生む責 任がより重かった、と指摘した;チョン·ヘソン「朝鮮時代女性の役割と責任」『韓国史市民講 座』第15集(一潮閣、1994)109頁。 13 前掲『朝鮮時代儒教文化』173頁。 9. 18.

(5) ちんと祭り、生きている人をきちんと養うためである。したがって、その任務はきわ めて重く、おろそかにできないものであり、そのために、もし教えがきちんとできな ければ、期待は崩れ、家の没落は避けられない」としている14。つまり、両班の場合、 母親の出産十ヶ月前から、やがては子が競争に勝ち、官職に就くまで子女教育の任務 をおろかにできない理由は、家の存続が子の成功可否に関わっているからである。こ うした目標達成のために、母親は子に愛情をそそぎ、寛大に接するよりも、厳しく教 えることが求められた15。さらに、母親の寛大な愛を警戒または否定的にみなして、母 の愛情は子の教育にはふさわしくないとした。『内訓』では、子が悪くなるのはすべ て母親の愛情に原因があると指摘し、母親は子を正しく育てるためには叩いてでも徹 底的に教えねばならない、とした16。 『戒女書』でも、息子が文字習得前に母親のもとにいることで、かわいがり過ぎない ようにとしている17。『士小節』でも同様に、「子供は両手いっぱいに物をもっていて もほしがる。いくら止めても聞かない。そのようなときは子供がもっているものを全 部取り上げねばならない。どんなに泣いても与えてはいけない」としている18。つまり、 母が幼い我が子をかわいがることを望ましくない母性として示し、これを克服し、時 には過酷なまでの厳しい教えを求めた。 しかし、娘に対する教育は息子のそれよりも一層厳しくせねばならないとした。『士 小節』では「子を教えるにはまず食べ物を欲しがるのを禁じなければならない。娘に 対してはちょっとでも甘やかしてはいけない…食べ物を欲しがる女で人の家を滅ぼさ ない女をみたことがない」としている19。つまり、嫁いだ娘が婚家で従順に生きるよう 教えるのは、家の存続と発展のために息子をうまく育てるのと同様に、母親の重要な 役割である。女性は自らが家父長制に従順する存在であることを求められた以上に、 娘に対しては自身同様、社会化をつうじてそうした役割を伝承することによって、家 父長制のメカニズムが円滑に再生産できるようにする義務も課せられたのである。. 14. 前掲『内訓』147‑8頁。 ここには儒教社会が志向する人間観と密接な関係がある。つまり、儒教では修養をつうじて 理想的人格である聖人あるいは君子に到達することを目標としたが、そのために人間の自然的 欲望を抑制した;クム·ジャンテ『韓国現代の儒教文化』(ソウル大学出版部、1989)101‑130 頁。 16 前掲『内訓』148頁。 17 前掲『韓国の女訓』17頁。 18 同75頁。 19 同75頁。 15. 19.

(6) また『士小節』では、「娘を嫁がせる際に、結納をあまり贅沢にし過ぎ、なかには家 産をつぶす場合もある。これは、娘を愛するあまり、奢侈を助長することになり…結 局先祖の財産をすべて売り払い、祭事を祭ることができなくなり、一つの物事を間違 うことで三つのあやまちを犯すことになる」とした20。ここでは、母親は子に対する愛 で目がくらみ、夫にせがんで財産を浪費するおろかな存在として書かれているが、父 親はなんの責任もないかのごとく描かれている。『戒女書』も、母親は親としての役 割を誤りやすい存在として描かれながらも、子女教育のすべての責任は母親に任せ、 父親には子女教育の責任を追及しないこと、としている21。『内訓』でも母親を子女教 育の主な責任者として記したうえで、自分たちの子女教育の過ちを言い訳しないよう に、としている22。 同じく『士小節』でもやはり、「息子が過ちを犯すのは母親が息子の過ちを隠し、父 親に知られぬようにするためである」としている23。伝統社会では十歳以上の息子の教 育は父親が主に担当するが、ほとんどの女訓書が息子の教育が正しくできない場合の 責任は母親にあると規定している。一方、父親の子女教育の義務と責任については最 小限にとどまっている24。 子女教育者として母親に負わせたもう一つの責任は、息子に君主への忠誠を教えるよ うにしたことである。『内訓』では、中国のある宰相が賄賂を受け、それを母親に渡 すと、母親は息子を厳しく叱り、あとでこれを知った王はその母親を絶賛し、宰相の 罪を許してその母親にほうびを下した、という逸話が紹介されている25。ここで重要な のは、伝統社会における女性の役割は全体として私的領域に制限されているが、母性 としては公的イデオロギー実践の協力者でなければならない、とする点である。いい かえると、母性を国家の政治的支配イデオロギー浸透のための手段の一つとして用い たことがわかる。『女四書』(1736)にも王に対する義を捨てた息子を叱る母親の逸話 がある26 。それだけでなく、官吏になった息子に清廉を教える母親の例も『内訓』と. 20 21 22 23 24 25 26. 同63頁。 同18頁。 前掲『内訓』148頁。 前掲『韓国の女訓』73頁。 同78頁。 前掲『内訓』159頁。 キム·ジョンクォン『女四書』(ミョンムンダン、1987)142‑7頁。. 20.

(7) 『女四書』に示されている27。 ところが、女訓書が子女教育者としての母親に全体の責任と義務を与えた反面、母親 として享受できる権利の側面については制限し、牽制した様相がみられる。『戒女 書』によると、子女の結婚に関して母親は「夫に任せ詳しく知らないと、知ったふり をせず、若干の所見を述べるにとどめ、判断しないように」としている28。 これまでみてきたように、朝鮮時代の女訓書は非現実的なまでに、完璧かつ犠牲的な 母親像を示している。女性の母としての役割は嫁、妻、主婦としての役割と同じく、 父系家父長制家族制度の秩序と安定維持という目的に符合するように規定された。し たがって、婚家の秩序と和睦のために、妻や嫁として絶対的従順を強調したのと同じ く、母性の役割についても自然な感情を抑え、前妻と妾の子を我が子以上に愛し、子 のために犠牲となる非凡な女性の例を示した。その一方、女性は本能的な母性愛に溺 れ、子女教育をまともに成し遂げられない非理性的な存在という観念を底辺にすえた。 そのために、教化をつうじて子女教育の主な責任が母親にあることを強調し、父親の 子女教育に対する責任を最小限に規定し、それを追及しないことを望ましい母親のも つべき徳目として加えた。それとともに、母性には国家的イデオロギーである君主に 対する忠誠と、官吏としての清廉を教えるという公的義務も求められた。 結論として、朝鮮時代における理想的母性観とは、儒教という国家統治理念と家父長 制により構成されたものである。女訓書の母性イデオロギーは、こうした母性観念を 制度化することによって家父長制の矛盾を克服し、また父系家族制度を支持するため に、女性に犠牲と忍耐を要求するメカニズムとして存続したといえる。. B. 開化期の母性論. 本節では、19世紀末の開港から1910年に日本の植民地支配に入るまでの期間を開化 期とし、この期間に提起された母性に関する言説を分析する。開化期は政治的に国家 存立が脅威にさらされた状況で、近代社会への変化を模索していた男性知識人たちを 中心に、女性に関してもそれ以前の前近代社会とは異なる新しい主張と言説が現れ始. 27 28. 前掲『内訓』160頁; 前掲『女四書』142‑7頁。 前掲『韓国の女訓』33頁。. 21.

(8) めた29。開化派知識人たちは、天賦人権思想にもとづく女性開化思想を主張した。女 性の母性に関する初の言及と思われるものは、ユ·ギルジュンの『西遊見聞』(1895)で ある。ここでユは、直接見聞した欧米の女性について紹介しながら、「女性が知識も なく子供を教育すると、子供の人生が台無しになりやすいため、衣食住の技術よりも 知識教育が必要である」とした。また、彼は、「わが国の「内外法」は30、女性を一定 の場所に制限するため、両班層の女性は農民に比べ体が弱く、健康な子供の出産に障 害になる」と批判した31。すなわち、彼は母性の主な役割を子供の教育者かつ出産者と しての役割とみなし、子供の教育のためには女性にも教育が必要であり、健康な子供 の出産のためには母体の健康が重要であることを指摘した。以後、『独立新聞』が刊 行されると、新聞の論説でも女性教育の必要性が頻繁に提起されるようになった。 『独立新聞』は、ソ·ジェピルの四民平等思想にもとづき男女平等と家父長的専制主義、 早婚と蓄妾制度、寡婦再家禁止制など、旧制度の弊害を批判したが32、なかでももっと も重視したのは女性の教育問題であった33。具体的には女性は母として子供の養育と教 育を担当するに当たり、教育が必要であり、そうした母性の教育的役割は国家と民族 にとって有益であり、ひいては国家が文明国になれる、という論旨である34。 このように児童教育の担当者として母性の役割が重視されたのは、文明開化国にな るには、二世国民としての児童の養育と教育が重要であるという認識が生まれたから である。『独立新聞』の1897年8月26日付論説も「朝鮮の最大の急務は、人々が児童と 国民、忠誠と国家、これら四つの言葉の意味を正しく認識することである」としなが ら、国家の将来を担う児童の教育問題が放置されている、と批判した35。 開化思想家たちは、当時の朝鮮社会が直面した民族的危機を克服するために自主富 強な近代国民国家の建設を目指した。よって、国民の力を国家独立の維持と発展に集 29. 開化思想の胎動とともに、女性の開化に関しても言及されるようになった。たとえば、四民 平等を主張したパク·ヨンヒョが王に建議した8カ条の改革案には、婦女子が飲毒し堕胎する行 為を禁じること、夫の妻に対する暴力の禁止、男女ともに6歳以上は学校に入学させること、男 女および夫婦の平等、蓄妾禁止、寡婦再家許容が含まれた;チェスクキョン·ジョンセファ「開 化期韓国女性の近代意識の形成」『論叢』(梨花女子大学校韓国文化研究院、1976)331‑2頁。 30 「内外法」とは、儒教規範により主に男女の居住場所を区別する慣習を指す。 31 前掲「開化期韓国女性の近代意識の形成」『論叢』332‑3頁。 32 イ·ヒョジェ『韓国の女性運動―過去と現在』(ジョンウサ、1996)34‑5頁。 33 独立新聞は教育問題に関して、学校の設置と新学問の収容を主張したが、とくに、女性教育 の必要性を強調した論説が量的にもっとも多かった;チョ·ナムヒョン「韓国開化思想の断面‑ 独立新聞の論説」『伝統文化と西洋文化(I)』(成均館大学校出版部、1985)349‑51頁。 34 『独立新聞』1897.5.18, 1899.5.26 など。 35 前掲「韓国開化思想の断面‑独立新聞の論説」『伝統文化と西洋文化(I)』335頁。. 22.

(9) 約するには、新知識を備えた人材育成の必要性を認識し、近代的な国民形成のための 教育と啓蒙が最大の急務であることを主張した36。これにより、近代学校の設立を推進 すると同時に、家庭での児童教育を行う母親の役割についての重要性を認識し始めた のである。すなわち、「人民の教育を広め知識を培養させるためには、児童教育と女 性教育が急務である」としたのも、その理由として、「人々が世に出てから分別がつ くまでは、母親のひざもとで育つため、その母親の知識と学問の有無が子女教育に大 いに影響する」とみなしたためであった37。 風前の灯火にある国家のために、家庭教育担当者としての母親の役割を重要と認識 したのは、欧米の啓蒙主義思想に影響された開化思想家だけではなかった。改新儒学 者も家庭教育の担当者を母親とし、「一国の母に学があると、一国の子が儀を奉る」38 と女性教育の必要性を主張した。 開化期以降、国家のための子女教育者としての母性役割に対する認識は、1905年か ら1910年までの国権回復を目的とした愛国啓蒙運動が展開されるにつれ、より強まっ てきた。1905年の条約により実際的国権を奪われた状態になると、開化自強派を中心 に、民族の実力養成のためには、国民を「新国民」に作り上げ、民力を養成せねばな らないという主張が台頭した。ここでの新国民とは、「愛国心をもった市民的国民」 を意味した39。愛国と啓蒙はこの時期、知識人たち共通の認識であり、愛国心をもった 国民を作る必要性がより強く認識されるようになった。 こうした状況は子供に愛国心を吹き込む愛国的かつ救国的な母性論の形として表れ た。パク·ウンシクは、「母親は子供を国家が必要とする人物に養育すべきであり、戦 場に出た5人の息子の死を悲しまず、戦争の勝利を案じたスパルタの婦人のような尚武 の精神が必要である」と力説した40。パクはまた、「女性に学問がないと、まともな家 庭教育ができない。今の時代は少数が多数を対敵視できず、野蛮者が文明者に対抗で. 36. シン·ヨンハ『韓国近代社会の構造と変動』(イルチサ、1994)7‑99頁。 『独立新聞』1898.9.13. 日本でも明治維新以降、欧米思想の影響を受けた啓蒙主義者たち によって、母性の児童教育者としての役割の重要性が認識され始めた。彼らは、西欧に比べ遅 く始まった近代化を推進するために、国家発展の次元から次世代の国民を養成する母親の教育 的役割の重要性を認識し、女性教育の必要性を主張した;小山静子「「家庭教育」の登場―公 教育における「母」の発見」『規範としての文化―文化統合の近代史』(平凡社、1990)243‑6 7頁。 38 『皇城新聞』1898.11.3 論説。 39 前掲『韓国近代社会の構造と変動』51‑3頁。 40 パク·ウンシク「文弱之幣は必喪其国」『西友』1907. 第10号 5頁。 37. 23.

(10) きない」とし、当時侵略欲を顕にしてきた日本を意識し、これに対抗するには子女教 育を担う女性への教育が必要であり、女性教育は「人種生存にもっとも緊要な関門」 とまで強調した41。 子女教育者としての母性役割を重視した男性知識人たちの認識は、政府の女子教育 方針においても同様に現れる。1908年に設立された最初の官立女学校である漢城高等 女学校の設立趣旨には、「普通教育は男女の別がないが、女子は嫁に行き夫を助け、 家を治め、子女を扶育する責任を負い、一家の幸福を増進し、これによって国運を支 える大きな助けとなり、国家が子女教育を重視する理由がここにある」とし、女性は 母として子女教育を円満に成し遂げることによって、危機に瀕した国家に貢献できる、 とみなした42。 母性としての女性教育の必要性が台頭したより本質的な理由は、将来国民となる児 童教育の必要性が救国的次元において切実に認識されたからである。ここでは母性が 国家目的のために貢献せねばならない、という認識はまったく新たに登場した概念で はない。前節でみたように、儒教の女性教訓書では、母親の役割の一つとして息子へ 王に対する忠誠を教えることが期待された。近代的国家概念が登場したことで、君主 への忠誠が国権侵奪という社会的危機のなかで愛国という名に変わっただけであり、 この時期の男性知識人によって認識された母性もやはり救国という命題のもとに国家 的、民族的イデオロギーによって構成されたものと考えられる。 そうすると、男性知識人によって救国主義的な母性が提唱されたこの時期に、女性 たちは母性をどのように認識したのであろうか。天主教の伝来と東学思想、開化思想 家たちの天賦人権思想の台頭と、それによる社会的変化は一部の女性たちに徐々に意 識の変化をもたらすきっかけとなった。1898年「女権通文」の発表と「賛襄会」の組 織は開化期女性たちが男女同権と教育権を切望し、それを獲得するために自発的な行 動を行うほど意識が成長したことを示している。 しかし、この時期、「身体と手足と耳目に男女の差があるか…すでに文明開化した 国をみると男女が一般人間である」とし43、男女同等の意識覚醒は芽生えはしたが、彼 女たちの権利主張の論理には限界があった。女性教育を目的に組織された「賛襄会」. 41. 同『女子指南』1908. 第1巻 第1号 1‑2頁。 ハン·ミョンヒ「教育理念に現れた性の構造」『韓国女性学』第3集(韓国女性学会、1987) 21‑3頁。 43 「女権通文」;『皇城新聞』1898.9.8. 論説。 42. 24.

(11) が官立女学校設立のために高宗に訴えた上疏文によると、「賛襄会を設立し、忠愛を 閨中44から全国へ興旺」させる目的から女学校が必要であると要求し、彼女たちが作っ た「賛襄会愛国歌」をみると、彼女たちが認識した女性教育の必要性は女性自身のた めではなく、「忠君愛国と愛民愛族」の延長線上にあったことがわかる。「賛襄会」 はこのほかに独立協会運動を支持し、自強改革運動にも参加したが、1898年「賛襄 会」の女性会員たちは官民共同会に「為国忠君の意」をもって参加し、政治活動をつ うじて女性も国民の構成員であるという認識を明確に表そうとした。官民共同会が議 会を設立できないまま、強制解散されることにより万民共同会が設立されたが、「賛 襄会」の婦人たちはここにも積極的に参加し、この会を支持した多くの婦人たちは自 発的に義捐金を寄付したが45 、当時の言論はこれに対し、男も真似できない「忠愛の 挙」と激賞した。こうした一連の事件からわかるように、この時期の女性たちは国内 外の情勢に対する知識と情報をもっており、政治への関心もあった。しかし、新聞の 女性読者の寄稿にみられるように、女性たちの国家観は忠君愛国の観念から国権と王 権を同一視する前近代的な意識を脱皮していない状態である。そして、女性としての 主体的権利を主張するよりも、女性も国民として開化と自強という国家的大命題のた めに一翼を担おうとする方向に動き始めた。 この時期、韓国で初の日本とヨーロッパでの留学から帰国し、漢城高等女学校の教 師になったユン·ジョンウォンは、まだ女性が文を書き、発表することが珍しかった当 時にいくつかの文を発表した:. 女というのは、国民の母であり、社会の花であり、人類の太陽であって家庭に おいて中心になる主婦とはいつも太陽のような明るい顔で家庭の平和と安寧を 保持しなければならない…どうすれば女の責任を完璧に成し遂げうるか…この 答えとしては教育、これしかない46。. ここでユンは、社会構成員としての女性の存在を「国民の母、社会の花、人類の太 陽」に比喩し、「家庭において平和と安寧」を与えるのが女性の責任であるとした。 すなわち、女性を男性主体の社会における補助的役割の担当として位置させ、そうし 44 45 46. 「閨中」とは、上述した内外法によって定められた両班の女性が住む部屋を指す。 『独立新聞』1898.11.9、1898.11.11. 『帝国新聞』1898.11.11. ユン·ジョンウォン「本国諸兄諸妹へ」『太極学報』第2号 1906.9.. 25.

(12) た役割をきちんと遂行するためには教育が必要である、という論旨を展開した。この ことからも、この時期女性も男性知識人たちの母性教育論と同じ視点をもっていたこ とがわかる。 また、女性雑誌の女性筆者による記事でも、家庭において母親による正しい子女教 育が行われることで、国家と社会の発展に寄与できる、という考えにもとづき、胎教 や子女養育法など子女教育に関する知識を伝達する内容が主流を占めた47。 この時期女性たちによって男女同権が主張され、女性教育を要求する動きが展開さ れたが、それらは女性のアイデンティティーを母性に固定させることに問題を提起す るものではなかった。むしろ、教育をつうじて母としての役割をよりきちんと遂行す ることを重視することで、結局開化期の女性たちは男性知識人たちが唱えた救国的か つ愛国主義的母性の役割をそのまま受容した、といえる。. C. 1920‑30年代における母性に関する多様な論議. 1. 民族主義と母性の礼賛 1919年3月1日の独立運動以降、朝鮮総督府はいわゆる文化政治を標榜し、1920年 『東亜日報』と『朝鮮日報』など韓国語の新聞と雑誌の発刊を許容した。1940年戦時 体制によって閉刊されるまでの20年間はこれらのメディアをつうじて母性に関する論 議が活発に展開された。この時期は、開化期と同様に、家庭教育の重要性を強調し、 立派な国民を養育するためには立派な母親が必要だ、という言説が続いたが、すでに 国家の主権を喪失した状態であったため、愛国や救国または尚武の精神と母性を結び つけはしなかった。その代わり、男性知識人たちは「民族の将来、未来の朝鮮」とい うように、民族主義と母性の役割を結びつけた:. 女子教育は母性中心の教育でなければならない。女性の人生における最大の 義務は、母親になることにある…善良な国民を産むためには、まず善良な母 親が多くなければならない。とくに、わが国のように特殊な場合は、民族的 改造が急務であり、国民には何より多くの善良な母親が必要である48。. 47 48. たとえば、「子供教育論」、「妊婦の食事」、「子供の育て方」『慈善婦人会雑誌』第1号。 イ·グァンス 「私が女学校当局者であれば!‑母性中心の女子教育」『新女性』1925.1.. 26.

(13) この時期多くの男性知識人たちは西欧の進化論的思想の影響を受け、文化の優越と社 会発展に関する意識をもつようになった。しかし、彼らのなかで植民支配を現実のも のとして認めたうえで、植民地近代化をつうじた民族の改良を期待した改革論者たち は、民族文化の本質を否定的にみる立場であった。とくに、イ·グァンスは、朝鮮の劣 等性を民族文化に起因するものとみなし、民族性の改造を主張した。彼は、朝鮮民族 の意識構造、価値観、倫理体系および日常における行為様式と慣習の改造を力説しな がら49、朝鮮民族にとって緊急な民族的改造のためには新たな国民を育てる役割を母 性に付与した。. 女性の発展、女性の努力如何によりその民族の運命が左右されるものである …永遠にその民族の将来に付与するすべてが母性である女性にある。これが すなわち母性の任務という…したがって女性を母性の意味から離脱させると 何の尊さがないと思う…偉大な朝鮮、将来の朝鮮を生んでくれる朝鮮の女性 たちよ…完全な新しい国民の母性になれ50。. 植民支配下男性知識人たちは女性の公的領域での活動に対して抵抗があったが、 「民族の運命」を左右し、「将来の朝鮮を作る」という公的意味を母性に付与した。 それは、「民族の運命と将来」というレトリックを使うことによって、芽生え始まっ ている女性たちの社会的進出欲求を抑圧することで、女性を家庭に帰属させようとす る、男性集団の意図であった。それと同時に男性たちは、教育を受けた新女性層に賢 母良妻の役割を付与し51、「新家庭」言説を作り上げた。過去において母親とは、権 利のない奴隷にすぎなかったが、現代では家庭という対等な二人の人格結合という近 代的な夫婦関係と安泰な家庭、すなわち「スイートホーム」のメッセージを提示する ことによって、女性に対して母性と妻の役割に忠実であることを期待した52。. 49. キム·グァンオク「日帝時期土着知識人の民族文化認識の枠」『比較文化研究』第4号(1998) 87‑91頁。 50 イ·ウンサン「朝鮮の女性は朝鮮の母性」『新女性』1925.6·7. 51 「賢母良妻」とは、日本の「良妻賢母」概念に相当する。 52 シン·ボソク 「新女性の家庭哲学」『新東亜』1932.6;ヒョン·ジェミョン「新家庭歌」 『新家庭』1936.1;「わが家の衛生的生活改善」『東光』1932.8;「名士家庭訪問記」『新東 亜』1932.8;男性が書いたこれらの記事は、家庭とは過去とは違い、二人の人格の結合かつ、. 27.

(14) 母性は民族のために意味があるとするレトリックには、女性は誰でも母親になるこ とが前提とされていたために、「女性を母性の意味から離脱させると、何の尊さがな い」とされた53。また、結婚を忌避する現象は批判され、結婚せず社会的活動をする 女性は牽制の対象になった。植民地という状況は女性よりも男性の既得権を剥奪した が、これには伝統的な儒教的家父長制において男性が女性の貞操に対してもっていた 権利を含む。男性たちは、女性を性が排除された母という存在として家庭という囲い のなかに置こうとしたが54、それは貞操イデオロギーと母性が結合する言説として現 れた。 こうした男性の論理が顕著に現れているのが、チュ·ヨソブの『下宿人と母(사랑 손님과 어머니)』(1932)である。玉姫の母は18歳の時結婚し、19歳で寡婦となり、 娘の玉姫を産んだ。作家は、「オルガンを演奏し教会にも行くほど開化された新女 性」である24歳の玉姫の母を保守的な内外法で拘束し、再婚も許さない。「烈女は二 夫にまみえず」という伝統的家父長的イデオロギーが女性の再婚を許した甲午改革以 来40年が経っても、克服されなかったのである55。 植民支配下インドにおける反植民主義の民族主義の研究によると、男性は外的かつ 物質的な領域を代表し、女性は内的かつ精神的な領域を象徴する56。イギリス植民者 の物質的優越性により、自分たち本来の領域を奪われたインド男性たちは植民者に対. 同伴者として夫婦関係を保つこと、子女養育において夫婦が協力し合うことなど、家庭の団欒 と家庭中心主義を強調した。だが、これとは対照的に、女性たちは夫の家庭に対する無関心さ や、家庭内のことで相互議論のないことを吐露し、人格的に同等な待遇と家庭中心性をもつこ とを求めた;「新家庭内容公開」『新東亜』1932.6;「新女性と旧女性の行路」『新女性』193 3.1. 53 前掲「朝鮮の女性は朝鮮の母性」『新女性』1925.6·7. 54 チェ·ジョンム「有色女性主義と植民後期問題」『歴史のなかのフェミニズム、われわれの そばのフェミニズム』(ソウル大学校女性学協同課程創立記念シンポジウム資料集、1999)8頁。 55 イム·ジョングク「敗北と挫折の美学」『韓国文学の民衆史』(ジリサン、1991)191‑204頁。 この作品は、後で言及するペク·シンエの『美しい夕焼け』のなかで女主人公が母性より女性と してのアイデンティティーを追求していく姿と対照的である。男性作家の描く母性と、女性作 家の描く母性が反対である点は、この時期の母性論を理解する上で重要な点である。 56 チャタジによると、植民支配下インドにおける民族主義は、植民地社会における主権的領域 を確保するために、社会制度と慣習を物質と精神という二つの領域に分離した。物質的領域と は、経済や政治、科学、技術のような外部的領域であって、ここでは西欧が優位に立ち、東洋 は屈服せざるをえなかった。一方、精神的領域は、文化的正体性の本質をもつ内的領域である。 植民地社会では、物質的領域において圧倒的に優越な西欧の技術と文明を模倣するほど、精神 的文化の特徴を保存する必要性が大きくなる。チャタジは、こうした領域の区分がアジア、ア フリカの反植民主義的民族主義の基本的特徴である、と指摘する。Partha Chatterjee, The Nation and Its Fragments: Colonial and Postcolonial Histories, Princeton University Press, 1993, p.6, pp.117-20.. 28.

(15) 抗し、女性問題を植民支配国との政治的競合から離れた主権内領域に位置させ、女性 の領域である内的精神性を追求した。チェ·ジョンムは植民地朝鮮における男性民族 主義の言説もこれと似ていると指摘した57。民族主義者たちは朝鮮固有の文化や歴史 の伝統性を強調することによって、それを本質化し、民族精神を主唱した。だが、父 権を喪失した植民地朝鮮の男性にとって民族精神および民族の正体性は、家父長的共 同体性として認識され、それが女性には将来民族のために働く子女を養育する母性を 礼賛する言説として現れた58。 母性に対する礼賛は母性が女性の本性、すなわちすべての母親は子供への愛を先天 的にもっている、という母性愛の言説へと発展した59。儒教の女訓書ではかえって否 定的に取り扱われた母性愛が、この時期には女性の自然的本能であるばかりでなく、 民族の復興と社会的善、ひいては民族の未来を救う、というメッセージと結び付けら れたのは注目に値する60。母性が「わが国の母」としてまた、「神々しさ」として礼 賛される根底には植民勢力の優越性によって、本来の権威を失い惰弱になった父権が 存在する61。新たな近代的知識体系を備えられなかった無能な父親は伝統社会におい て息子の教育者としての役割も、植民勢力に対抗できる能力ももつことができず、朝 鮮の暗澹たる現実のなかで「朝鮮の未来」である息子世代に期待をかけた62。そうし た期待は結局、弱まった父権に代わり、「朝鮮の新生と繁栄」をもたらす次世代を生 み育てる女性の民族に対する「使命」として、母性礼賛という形で現れたのである。. 57. Chungmoo Choi, “Nationalism and Construction of Gender in Korea,” in Elaine H. Kim & Chungmoo Choi, eds., Dangerous Women: Gender & Korean Nationalism, Routledge, 1998, pp.9-17. 58 たとえば、イ·クァンス「母」『新家庭』1933.4. 59 たとえば、キム·リム「母性愛」『新家庭』1933.4;「みよ!動物も母の愛こうだ」『新家 庭』1933.5;「母性愛は神々しい」『東亜日報』1932.6.23. 60 こうした現象は18世紀末のフランスで、母性愛の観念が新しい思考として復活したのと似て いる。2世紀前には学者たちによって批判の対象とされた母性愛が、児童養育が国家的に重要 なことと認識されるにつれ、社会的に有益なものとして褒めたたえられた;Elisabeth Badin‑ ter, Mother Love-Myth and Reality, Macmillan, 1981, pp.117-9. つまり、母性愛の意味 が国家や社会、または主体勢力の関心と目的によって、異なった形で規定されてきたことがわ かる。 61 たとえば、イ·グァンス「女大学―母性」『女性』1936.5;イ·グァンス「女大学―母性とし ての女子」『女性』1936.6. 62 チェ·ウォンシクは、1930年代近代小説のなかで、父親が登場しない父親不在現象を指し、 小説の主人公は一種の孤児意識にとらわれている、と指摘した。またこの時期の家族史小説で も父親は無能あるいは、偽善的人物として描かれている、とした;チェ·ウォンシク「女性主義 と父親不在の文学的意味」『女性解放の文学』(平民社、1987)342‑3頁。. 29.

(16) 2.女性たちの母性に関する論議 植民地下の男性たちが、一貫して家庭教育者としての母性の役割を強調し、母性愛 に民族の救援という意味を付与し、イデオロギー的に母性を礼賛したのに反し、女性 たちは現実に直面する母性の諸問題を提起した。これまで展開された家庭教育者とし ての母性の役割に加え、女性が職業活動を行うことによって起こる養育問題が提起さ れ、貧しい生活のなかで子供を少なく生むべきだとする産児制限の論議も台頭し始め た。また、社会主義女性運動家たちは、女性労働者の産前産後休養というような母性 保護を要求した。こうした多様な論議をその性格上、母性教育論、母性自由選択論、 産児制限論、母性保護論の四つに区分して分析する63。. ①母性教育論 女性にも近代的制度教育の機会が与えられるに従い、教育を受けた女性が増えるよ うになった。いち早く教育を受け、女性教育に従事するようになった女性たちは、母 性を女性の本性として受け入れ、伝統的な性差別体系下における家庭教育者としての 母性役割を重視し、新たに現れ始めていた女性解放論を警戒する立場にあった:. われわれは女として内助の功を表し、一国の将来の運命を担う第二国民、 すなわち子女教育についての責任を果たすことがどうして女の不名誉な賎役 であり、奴隷的奉仕だというのか?64. 開化期と愛国啓蒙期を経て、男性知識人たちによって強調された未来の国民を養育す るという公的意味が付与された母性は、近代教育を受けた女性が増加するにつれてよ り多くの女性に拡大され、内面化された65。植民地下での近代女子教育の内容は、良. 63. ムン·ソジョンは、韓国女性運動のなかで現れた母性に関する言説を母性教育論と母性保護 論、母性自由(選択)論の三つに分類した;ムン·ソジョン「韓国女性運動と母性談論の政治学」 『母性の談論と現実』(ナナム出版、1999)76‑8頁。ここでは彼女の分類を参考にし、母性教 育論は子女教育者としての母性役割を意味するもの、母性保護論は妊娠·出産·授乳といった生 命の再生産のための生物学的母性機能、母性自由選択論は母性が女性の本性であることを批判 し、社会的制度としての母性は女性を抑圧するものになる、とする観点である。さらにここで は産児制限論を追加する。それは、この時期論議された産児制限論の性格が子供をもつか、も たないかという母性の選択的次元を論じるのではなく、単に子供の数を減らす問題を論じたた めに、母性自由選択論とは区分されるべきである、とみるからである。 64 イ·イルジョン「男女の同権は人格の対立」『東亜日報』1920.4.3. 65 日本でも女子の就学率が増加するにつれ、家庭教育者としての母親の役割が強調され始めた。. 30.

(17) 妻賢母の教育理念を基にしたものであるため66、女性教育の拡大にともない、女性の 意識はより母性教育論を受容するという矛盾を生んだ67:. われわれの子女を教育するためには学校教育よりも家庭教育がもっと必要で あり、とくに母親への教育が第一である…朝鮮の名士たちについてもその歴 史をみると、背後には必ず賢母がいたが、今日の我々の事情と成り行きから、 朝鮮にも早くナポレオンやモーセが生まれるよう、朝鮮の芽を良く育てねば ならない68。. 家庭教育の重要性だけでなく、女性たちはより積極的に母性について社会に対する 寄与、民族の未来を建設する国家的使命としての母性、という公的意味を付与した:. 悲惨な今日の朝鮮を、輝く新しい朝鮮を作る人物に育てあげる母!…わが社 会が渇望する母は、利己主義的な行動を捨て、社会のために奉仕する美しい 精神の所有者であります…新しい朝鮮は、この使命を果たす母たちの努力如. そこでは新たに定着した学校教育にふさわしい、家庭での児童教育の必要性が求められた。そ れによって、家庭教育を担当する母親の重要性が新たに認識されるに従い、女性教育は家庭教 育者として「賢母」を養成することが強調されはじめた。日本における女子の小学校就学率は 1904年すでに90%に達した;前掲「「家庭教育」の登場―公教育における「母」の発見」 『規範としての文化―文化統合の近代史』246‑54頁。朝鮮では、1935年全国児童就学率が25. 8%で、そのなかで、都市での女子就学率は43.4%、男子は、79.8%、 農村では女子が9.1%、 男子が38.3%であった;ムン·ソジョン「日帝下韓国農民家族に関する研究:1920‑30年代貧農 層を中心に」(ソウル大学校社会学科博士論文、未刊行、1991)171‑4頁。 66 官立や私立女学校だけでなく、ミッション系女学校の教育理念もキリスト教信仰にのっとり、 韓国社会にふさわしい女性を養成することにあった。ハンは、ミッション系女学校の教育理念 には、当時のキリスト教と韓国社会両方の家父長的価値観が存在していたとみている;前掲 「教育理念に現れた性の構造」『韓国女性学』18‑21頁。これを裏づけるように、エバンスは、 合衆国の女宣教師の場合には、中産層女性たちが家庭を離れる機会となったが、彼女たち宣教 師は、他国の女性たちに家庭の重要性を教えることに貢献したと指摘する;Sara M. Evans, Born for Liberty: A History of Women in America ジョ·ジヒョン訳『自由のための誕 生』(梨花女子大学校出版部、1998)239頁。 67 キム·ギョンイル「韓国近代社会の形成における伝統と近代―家族と女性観念を中心に」 『社会と歴史』(第54集、1998)30‑1頁。ここで重要なのは、教育が必ずや女性の社会的地位 向上や自我実現につながるものではない、ということである。すなわち、教育とは、社会化過 程の一部分であるため、その社会の支配的理念を内面化させ、その社会が志向する人間の型を 育成しようとするためである。したがって、女性の立場では、教育の機会が与えられるだけで なく、どのような教育が施されるのかがより重要である。 68 ユ·カクキョン「どんな母親になろうか?!」『新女性』1931.6.. 31.

(18) 何によるというのが事実であること!69. ここで重要なのは、母性に対する公的意味が、男性によってのみ付与されたイデオ ロギーでない、という点である。つまり、女性たちは、開化期以降芽生え始めた公的 領域への関心と参加意欲を良妻賢母として家庭へ献身的に調和させることで、公的母 性観念を創出したといえる。女性の社会参与が牽制される社会的条件の下で、こうし た折衝は、女性にとって教育の必要性を持続させる基盤となった。一方、男性は母性 と家庭へ公的な意味を付与することで女性を家庭に帰属させ、公的領域において女性 を排除することで、新女性の台頭に伴う葛藤を緩和しようとした、といえる。. ②母性自由選択論 1920‑30年代には開化期とは異なり、一部の進歩的な女性たちを中心に「従来の賢 母良妻主義は無報酬の女下人主義」70であり、「新女性であれ旧女性であれ、朝鮮的 な家庭に入ると、徹底した家庭奴隷にならなければならない」71と、賢母良妻主義を 批判し、女性の社会活動を主張する言説が表れ始めた。しかし、大半の女性知識人た ちは母性教育論を提唱し、女性教育も賢母良妻主義を教育理念としていたため、母性 自由選択論が提起されたのは、わずか少数によってであった。女性の職業活動に対し てもほとんどが「他人の手で子供を育てるのはよくないから、子供が生まれると職業 を犠牲にしなければならない」とか、「子女教育の責任は母親にあるため、既婚婦人 が職業をもつのはよくない」という立場であった。 しかし、現在においても韓国社会で母性自由選択論、つまり子供を生むか、生まな いかの問題が女性だけの自由な選択問題であるという考えが充分に成熟していない状 況にあることを考慮すると、この時期すでに「経済的独立のために母性愛を抑えても よい」「父親にも児童教育の責任がある」「(子供をもった母親が職業をもつ問題 は)経済問題だけでなく、性格と資格の問題だ。子供を立派に育てられる性質であれ ば、子供を育てるが、社会に出るような人であれば、出るべきである。大体が嫁に行 くと、家庭に留まるが、そうすると朝鮮女性のために働くのは誰であろうか」72とい. 69 70 71 72. ファン·シンドク「朝鮮はこのような母を求める」『新家庭』1933.5. キム·リョセン「女性解放の意義(2)」 『東亜日報』1920.8.17. シム·ウンスク『女性』(女性月評欄)1936.6. 「女性問題に関する女性座談会」 『新東亜』1932.4.. 32.

(19) う意見が表出されたことは注目に値する。子女養育を夫婦共同の責任とみる点と、母 性と女性の職業を個人の選択的問題とみる観点は明らかに家父長制下における制度と しての母性が女性への抑圧になりうる、という考えにもとづいているためである。 このような母性自由選択論の萌芽といえる言説は、女性作家の小説により多く表れ ている。1930年代に母性を扱った女性作家の作品には、犠牲的かつ献身的な従来の母 親像に反して、家父長制における母性に対する抑圧性を表し、母性イデオロギーの解 体を試みた作品が登場した。ベク·シンエの小説『美しい夕焼け(아름다운 노을)』(1 939‑40)は、夫の死後、日本留学から戻った若い画家である女主人公が再婚相手の弟 を愛するようになる、という設定である。息子をもつ母親が息子ほど若い少年に愛を 感じ、それを追求しようとすることは伝統的な女性観念と倫理体系だけでなく、母性 と貞操イデオロギーを結合させ、「性の排除された母親役割」に女性を制限させよう とした当時の母性観念からすると、非常に破格的な母性に対する冒涜かつ、反抗であ る。作家はこの作品のなかで、母性よりは一個人として自分の本性に忠実な女性を描 くことによって、女性はとりもなおさず母親であるという女性性と母性の結合の必然 性に異議を提起した73。 チェ·ジョンヒの小説『地脈』(1939)、 『人脈』 (1940)、 『天脈』 (1941)は、 母性の問題を扱いながら、当時女性が夫なしに子供を育てることで直面する問題を提 起している。『地脈』の場合、女主人公は夫の死後、私生児である子供を昔の恋人と 再婚することで相手方男性の戸籍に入れるという安易な手段を選ばず、最後まで一人 で子供を養育する決心をする。当時社会的かつ経済的に女一人で父親のいない子供を 養育することの難さを考えると、主人公の意思は母性に忠実であろうとした伝統的な 母親としての役割復帰とはみられない。それよりもむしろ、家父長制への帰属を拒否 し、シングル·マザーとして単独で逆境に向かおうとする主体的な選択としてみられ る。また『人脈』では、主人公が男性の説得により家庭に戻るのは、当時の新女性た ちが抱いた女性解放意識の限界を表すものとして指摘できる。しかし、それにもかか わらず女性の役割をもっぱら母性と結びつける当時の現実社会のなかで徐々に女性個 人としての本性を獲得していく過程がうかがえる。『天脈』では個人的かつ本能的な 次元にとどまっていた母性概念を社会的な拡大を通した共同育児問題まで提示してい. 73. ソ·ジョンジャ『韓国近代小説研究』(国学資料院、1999)224‑34頁。アン·スクウォン「ベ ク·シンエの反美学とフェミニズム」『女性文学研究』第4号(太学社、2000)346‑8頁。. 33.

(20) る74。 キム·イルヨプの小説『自覚』 (1926)の主人公は、夫に捨てられた後に生んだ子供 の養育のために、自分の人生を放棄しない決定をする。作家はこの作品をつうじて母 性のためにすべてを犠牲にする女性こそ良い母親であるという母性観念を否定し、父 親に対する養育責任を提起した。 文学は時代と社会を反映するというが、女性作家たちのこうした作品には家父長制 の圏外にいる女性たちの保護されない母性に対する批判が含まれており、ひいては彼 女たちが母性に関する伝統的な枠から離れ、より主体的な思考をもって母性を認識し ようとした問題意識が表れている。. ③産児制限論 1920年代から一部の男性知識人たちを中心に、朝鮮が直面した経済的貧困や優生学 的理由から、子供の出産数減少を唱える産児制限論が台頭してきた。しかし基本的に 男性たちは、母性を民族の母性として理想化し母性愛を礼賛したために、産児制限の 目的を質的に優秀かつ健康な民族構成員を産むという理念的な思考に置いた。こうし たなかで主に近代教育を受けた女性を中心に、多くの子供を望まない傾向が現れ始め た。女性たちが産児制限を主張した理由は大きく五つある。それらは、女性の社会的 地位向上のため、優生学的見地から、経済的貧困のため、母性保護あるいは母体の健 康上、子供の健康と教育といった福祉の次元から産児制限の必要性を唱えた:. 子供を産むことをどうして制限するのか?その理由は、われわれが不生産的 労働からわれわれ自身を解放する点にあります。それは性の奴隷であるわれ われ自身を解放するためでもあります75。. 子供を多く産むことは「不生産的労働」であり、この不生産的労働から解放されるた めには子供を少なく産むべきだという考えは、明らかに子供が労働力かつ財産という 前近代的農耕社会の思考から離れている。筆者であるこの女性が「われわれ自身」を 「性の奴隷」といったのは、避妊の技術が民間的な方法以外になかった当時、子供が. 74 75. 前掲『韓国近代小説研究』191‑2頁。 キム·ミョンヒ『新女性』(時評)1925.1.. 34.

(21) できれば産むしかなかった女性の状況を悲惨に思ったからであろう。 経済的理由や母体の健康、そして子供の健康と教育的理由から産児制限の必要性を 主張したのは産児制限に賛成した男性たちと共通した意見である:. 婦人の地位向上のために女性が今日もっとも不合理な立場に置かれるようにな ったのは、究極的な原因を遡及すると、母性職能のためである。保母としてす べての時間を使い、自己修養のための読書や、生活の恩恵に浴する余裕もなく、 また就職の自由を失い、人類の一員としての求め、人格者としての求めが阻ま れている。したがって、ある程度まで生産を適度に制限し、その合間を自己修 養に使い、同時にそれは自力となり、真の妻母性として完璧な役割を行えるよ うにすることである76。. ここでは教師であった筆者が「真の妻母性」としての役割をどのように規定している かは明らかでないが、確かに母性の役割が女性に不合理な地位を招いた原因であり、 知的生活の恩恵を遮断し、女性の社会進出の障害とみている。賢母良妻が支配的であ った当時としては、社会が求める「母としての女性」という本性に満足せず、子供の 存在を知的欲求と社会進出への欲求を制限する障害物として認識した女性たちがいた ことを示している。77。 1930年代、ある雑誌社が実施した調査によると、近代教育を受け職業をもった女性 たちはみな産児制限に賛成し、希望する子供の数は2‑4名と答えた78。教育を受けた女 性集団のなかで先に子供の数を制限しようとした欲求が現れたのは西欧と同じ現象で ある79。この時期、女性にとって理想の教育制度が賢母良妻養成にあり、当時の産児 制限論には子供を産まないという概念は含まれていなかった。よって教育を受けた女 性の大半にとって、産児制限とは少子化でより行き届いた世話ができる点から、賢母 良妻の理想と近代的家族像と符合する側面があったと思われる。 76. チョ·ヒョンギョン「産児制限をするべきか?」『女性』1936.4. チョ·ヒョンギョンは当時、 神学校の教師であった。 77 産児制限に反対する意見もあった。その理由の一つは「子供が多くて面倒くさい」という女 性たちの思考は「享楽的気分」であり、出産を排除した結合は非道徳的であるというものであ った。ソ·ヒョンスク「日帝植民地時期朝鮮の出産統制談論の研究」(漢陽大学校史学科修士論 文、未刊行、2000)23頁。 78 「名流婦人と産児制限」『三千里』1930.9. 79 Carl N. Degler, At Odds, Oxford University Press, 1980, p.156.. 35.

(22) ④母性保護論 母性保護論は、1920年代に社会主義女性解放思想の導入と、社会主義を支持する女 性たちが組織した団体によって台頭し始めた。社会主義女性解放思想において女性解 放とは、つまるところ、経済的独立にあるとし、女性の職業活動を主張した:. 本人は男子差別待遇がすべて経済関係に起因すると信じています。したがって 解放を要求する女はまず経済的独立を覚醒し…まず職業に従事すべきでありま す…ギルマン夫人は母性を尊重する婦人であるほど、職業に従事しなければな らない、といったのです。そればかりでなく、もし理想社会が作られ、児童の 養育を国家事業として行うようになると、ターベル女史のいわゆる母性保護は 80. 問題にもならないのではないでしょうか 。. 女性雑誌の読者論壇に投稿されたこの記事の筆者は、子女養育が女性の天職であるた めに婦人労働を反対するターベルの思想を批判し、シャロット·ギルマンの唯物主義 的女性解放主義を支持した。よって、この筆者は女性が職業をもち、経済的独立をす ると、母性の役割も見事に成し遂げられるとみている。さらに、そのためには児童養 育を国家事業とする問題まで提示しており、当時こうした国家的母性保護の問題意識 をもった女性たちがいた点は注目に値する:81. 封建的、儒教的旧道徳は新女性を支配する権威を失った。ヒッキンソンの 「母になる前にも、後にも女は人間である」といったのは今日ここの仲間 たちの叫びではないか!…女は家庭人であると同時に社会人でなければな らない…われわれ女性も失った自我の存在を発見し、社会的任務を遂行し ようとするとき、逢着するのは社会制度と因習からくる過重な「ハンデイ キャップ」である…ここに女だけの課題がある。すなわち、女子の経済的 82. 独立、教育の機会均等、母性保護、参政権などの問題である 。. 80. イ·ギョンスク「女子解放とわれわれの必然的要求」『新女性』1925.1. 1920年代の社会主義運動では女性の経済的自立のために託児所の必要性を主張した;カン· ジョンスク「日帝末(1937‑1945)朝鮮女性政策―託児政策を中心に」『アジア文化』第9号 5頁。 82 チョ·ヒョンギョン「女子よ賢明であれ」『新女性』1934.1. 81. 36.

(23) 女性が「家庭人であると当時に社会人」であろうとすると、その最大の「ハンデイキ ャップ」は母性保護問題であり、これは植民地下の劣悪な労働環境で働かねばならな い既婚女性労働者にとってもっとも現実的な問題となる:. 精米所やゴム工場でみられる赤ん坊を連れた母親たちの労働とはあまりに も悲惨であった。ゴムの蒸すにおいと厚い湯気が出る工場で赤ん坊に乳を 飲ませながら、鉄で作ったローラをもって働くのである。精米所の石の粉 が白く飛んでいるなかで、たった今生まれたひよこのようにやせた子を寝 転がしているのをみると、胸が張り裂けるようであった…非衛生的な空気 のなかで病気にかかり薬はおろか食べることすらできずに死んでしまうこ の呪われた運命の責任はだれが取るべきであろうか?. 83. 主に既婚女性が多数雇用された精米工場やゴム工場では育児代行者がいない場合、非 衛生的な労働現場に子供をつれてきては授乳するのが一般的な現象であった。社会主 義女性運動家たちはこうした悲惨な勤労女性の母性破壊状況に注目した。1924年組 織された社会主義女性団体である「朝鮮女性同友会」は低賃金で酷使される勤労女性 の問題に関心をもった最初の女性団体である。その活動目標には農村での託児所設置 問題が含まれていた84。以後、より本格的な母性保護要求は、1927年の「槿友会」創 立大会の行動綱領に現れた。「槿友会」は、婦人労働の賃金差別撤廃と産前産後の賃 金支払いを要求した。総督府の弾圧によって中止された1928年の全国大会の討議案 では、分娩前後8週間の休業とその期間中の賃金支払いや授乳施設を要求し、妊娠お よび授乳中の婦人に対する解雇に反対した。また、1929年、第二回全国大会の行動 綱領でも産前産後2週間の休養と賃金支払いを要求した85。しかし、「槿友会」の解 体と、1930年代半ばに大半の女性運動団体が弾圧されるに至り、母性保護要求は成 果を得ることができなかった。 こうした状況で既婚女性労働者たちは罷業での要求条件の一つに母性保護を入れた。 1930年8月の平壌ゴム工場総罷業では産前産後3週間の休養制の実施と授乳時間の自 83 84 85. 『新家庭』1935.2. ジョン·ヨソプ『韓国女性運動史』(一潮閣、1971)143頁。 キムジュンヨプ·キムチャンスン『韓国共産主義運動史3』(チョンゲ、1986)72‑101頁。. 37.

(24) 由を要求し86、1931年の京城紡織罷業でも授乳の自由を要求したが、これらは工場側 によってすべて拒絶された87。このように日帝は朝鮮では母性保護要求を全面的に拒 絶したのに対し、日本では1922年女性教員の産前産後休暇を認めた。具体的にみる と、翌年には産前4週、産後6週の休暇と、1日2回各30分の授乳時間を許容したが、 これは植民地女性に対する差別といえる88。. 3.植民統治と母性 日帝の対朝鮮教育は、朝鮮人に日本帝国の臣民となることを求める「非教育」であ った89。女性教育に対してはこれに「婦女子の徳目」を培い、「生活に有用な知識機 能」を教える賢母良妻主義の教育理念にもとづき、植民地体制に順応できる従順な女 性の育成に力を注いだ90。こうした賢母良妻主義にもとづく植民地女性に対する教育 理念は日本での賢母良妻主義の教育理念を反映するものである。しかし、それを教育 目的と教科課程を通して分析すると、日帝が徐々に朝鮮女性の母性の役割に注目して いったことがうかがえる。 1911年の第一次朝鮮教育令の中等教育の目的は、女子高等普通学校で「婦徳を養 成し、国民たる性格を陶冶し、生活に有用な知識機能を付与する」とした91。これに より、女子高等普通学校の教育課程は「女子教育を生活実際に接近させる趣旨」から 週当総31時間中、裁縫および手芸が10時間、理科と家事を合わせて4時間(1学年は2 時間)であり、総修業時間のほぼ半分を占める。数学は男子高等学校は週当4時間で あったが、女子は算術という科目名で週当2時間にすぎなかった。 1922年の第二次教育令の教育目的をみると、1911年と異なる点は「身体の発達」 が追加されたことである。実際の教科目では、1911年の教育令で音楽と体操が合わ. 86. キム·ジュンリョル「平襄ゴム工場罷業」『労働公論』1975.1·2 109頁。 キム·ギョンイル『日帝下労働運動史』(創作と批評社、1992)539‑51頁。 88 桜井絹江『母性保護運動史』(ドメス出版、1988)162‑5頁。 89 小沢有作『民族教育論』(明治図書出版株式会社、1967)64頁。アンダソンは、日本が帝国 主義的膨張を進めながら、イギリスのメコレイ式の日本化が国家政策的に推進された、と指摘 する。つまり、インドに設立された公共教育委員会の議長になったメコレイは「血統と皮膚は インド人であるが、趣向、見解、道徳、知性はイギリス人である人々」を作りあげる完全なイ ギリス式教育制度をインドへ導入した;前掲 Imagined Communities, Verso, 1983. ユン·ヒョ ンスク訳『民族主義の起源と伝播』(ナナム出版、1991)119‑20, 126‑8頁。 90 前掲『韓国女性史―近代編』61頁。 91 イ·ギュファン「日帝時代の中等学校教育課程に関する研究」『論叢』第15集(梨花女子大 学校韓国文化研究院、1969)。 87. 38.

参照

関連したドキュメント

肝細胞癌は我が国における癌死亡のうち,男 性の第 3 位,女性の第 5 位を占め,2008 年の国 民衛生の動向によれば年に 33,662 名が死亡して

このように,先行研究において日・中両母語話

歌雄は、 等曲を国民に普及させるため、 1908年にヴァイオリン合奏用の 箪曲五線譜を刊行し、 自らが役員を務める「当道音楽会」において、

地方創生を成し遂げるため,人口,経済,地域社会 の課題に一体的に取り組むこと,また,そのために

青年団は,日露戦後国家経営の一環として国家指導を受け始め,大正期にかけて国家を支える社会

3 当社は、当社に登録された会員 ID 及びパスワードとの同一性を確認した場合、会員に

ているかというと、別のゴミ山を求めて居場所を変えるか、もしくは、路上に

「新老人運動」 の趣旨を韓国に紹介し, 日本の 「新老人 の会」 会員と, 韓国の高齢者が協力して活動を進めるこ とは, 日韓両国民の友好親善に寄与するところがきわめ