―― ―― 文学 研究 論集 第 号 '・ 研究 論集委員会 受付 日 二〇一七年 九月二十二 日 承認日 二〇一七年 十月三十日
中条本『桓武平
氏
諸
流
系図』所収の
両総平氏系図に関す
る
覚書
―
神代本『千葉系図』との記載事項
比較
を通
じて
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Note
for
the
genealogy
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yousou-Heishi
in
the
Genealogy
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Kanmu-Heishi
Shyoryuu
handed
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by
Na
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family
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entries
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G
enealogy
of
Chiba
family
handed
down
by
Kumashiro
family
―
博士後 期 課 程 史学専 攻 日本 史学専 修 二〇一二年度入学岩
橋
直
樹
IW AHASHI Naoki 【論 文 要 旨 】 本稿では、野口実 氏 が 、原型 部 分 の 成立が 鎌 倉時代末期 ご ろ に まで溯 りうる系図として注目 された、中条本『桓武平氏諸 流 系図』に つ いて分 析する。 同系図は そ れ 以降の研究でも、高 い 評価 を与えられる一方で 、 編纂主 体 となったと思われる鎌 倉幕府 ・ 北条氏の 意図 を反映 し た 曲 筆の 可能性を指摘さ れ たり、特に 海 道平氏―奥州 藤原 氏の 部分の 記 載に つい ては、懐 疑的な見解 も 多い。と はい え 、 青山幹哉 氏の指摘のよう に 、同 系図 があ くまで来歴 を異に する 系図群 の集 成 で あ り 、 各 ブロック ごとに 史料 学的 検討を行な う 必要 があ る。 今回は その中でも 、 『桓 武平氏諸流系図』中で も 鎌 倉幕府草創の過 程 で大 きな 役割を 果 た し た 有 力御 家人 である 、 千葉 氏・上総 氏 を 含 む 両総 平 氏系 図 に ついて 検討 す る 。 両総平 氏の 系図 に は、 極 め て 充実し た 情 報 量と 、原型 の 成 立が鎌 倉末 期ご ろ ま で溯りう る点で 注 目される 神代本 『千葉系 図』が存在し 、その成立 に は鎌 倉中期以降の千葉氏の嫡 宗観念 の形 成 が 密接 に 関 わ るこ と が福 田豊彦 氏 や 野 口 実 氏に よっ て 指 摘 さ れ て いる 。本 稿では 中 条 本 『桓武 平 氏諸流 系 図 』 所 収 の両 総平氏 系 図 と 神代 本『 千葉 系図』 の記 載事項 の比 較 を行 なう こと で 、 中 条 本『 桓武 平氏諸 流系図』の成立・ 性格を 考 えるための基 礎 作 業と し た い 。 【キ ー ワ ー ド 】 鎌 倉 時代、 千 葉 氏 、系 図、 中条本 『 桓武 平 氏 諸 流 系図 』 、 神代 本『千 葉 系 図』―― ―― 一 、 中条本 『 桓 武 平氏諸 流 系図 』をめぐる先 行研究の状 況 今 回 扱う 中条 本『桓武平 氏 諸流 系図』 は 、 『 奥山荘史料集 ( ) 』お よ び 『中 条町史 』 資料編 ( ) で活 字 化 さ れ 、 野 口 実 氏 に よ っ て そ の 重 要 性 を 紹 介 された ( ) 。野 口氏は検 非 違 使 を 「 使 」 、 蔵人 を 「 蔵 」 など と系線 の 上部 に 記入 する 点 や 、 官 位を 従 五 位下 な ら 「 従 五下 」な どと 省 略 す る 点 に 『 尊 卑分脈』と通じる部分を指摘 さ れた。加えて、同系図が独立し た 十 四の 系統 からなり ( ) 、 系 図を伝えた中条 氏 に 連 なる 三浦和田氏の系統以前の部 分につ いては十三世紀 半ば頃の世 代 で 筆 を止 めて いるこ とか ら 、 同系図 は 遅 く と も鎌倉時 代末期まで に 原型が成立 し 、以後三浦和田 氏 の系 統が 書き 継がれ て いったものと 推定さ れ た 。 その 後 、 井 原 今 朝 男氏 は、 伊 勢 平 氏 庶 流 と越 後平 氏 の 信 濃 へ の 展開 を 考察 す る にあた っ て、 同系図の原 本 調 査 を 行 なわ れ た 。その 結果、 料紙 の紙質・筆跡・墨色などか ら、同 系 図 が 四種 の異 筆からな り 、 野口氏が 原型 として指摘した部 分は、 一 筆 で 書か れているこ と から、原型部分 (た だ し 原 本 そ の ものと は 断定でき ない)の 成立は野口氏の指摘す るよ う に 、鎌 倉 時代末 期か 、遅 く と も 南 北朝 期まで 溯 る と考え られ るとさ れ、 内容面 に つ い ても 、考 察対 象 と した伊勢 平氏 庶流と 越 後 平 氏 に つ い ては 、古記 録 等 や 『吾 妻鏡 』の記 事 と 一 致 す る 部 分が多 く、 記 載 内容も 信憑性は高いもの と さ れ た ( ) 。 また白根靖大 氏は、 特 に 北 条氏の部 分に つ い て、注記の行 なわ れ た 時 期が建長年 間に集中するこ とから 、 成 立 の下 限を康元元 ( )年 の北条重時出家後、時頼出家以前と され た 。 そ して そ の 成 立時 期 と 当 時 これだけの大部の系図を 作 成できる こと、記載 さ れてい る 氏族 の範囲等 から、寛元・宝 治・建長の政変 の 終 結によ る 有力 御家 人層の変動 と 親王 将軍 の招聘、経 時 の 病 死による 時頼の 執 権 就 任な どによる、鎌倉幕府の 再編に合わせて御 家人の 出 自を把握し、桓武平氏全体 の中で北 条 氏 と他 氏の 関係 を可視 化 す る こ と で御 家人 を 統 制 す るた めの 氏族系 図の 一 部で はな いか 、と推 定 さ れ た。 また 、そう し た 成 立経 緯か らすれ ば、 当然鎌 倉幕 府、 特に北 条 氏 周 辺の 人物 が編纂 主 体 と して 想定さ れ、 彼 ら の 立場 からの曲 筆を念 頭 に置きつつ記 載事項 を 利用する 必 要 が あること を 強調 された ( ) 。 白根氏が 指摘されたように 、同系 図 の記載事 項に つ い て は 北 条 氏 の 立 場か らの曲筆の 危 険 性 は常 に考 慮されるべ き で あ り、 野 口 実 氏 もすでに 指摘され ている よう に 、単純な 誤記・ 誤 写 と 思しき部 分が多 く ( ) 、その部 分を どう 解釈するか に よっ て意見 が 割 れ る 事 例 もある ( ) 。 しかし ながら 、中 条本『 桓 武 平 氏諸流系 図』の原型 部分が 、白根氏の 研究が 示 す よ うに 、貴重な 鎌倉 期の系図 史 料 の中でも 、 ( 少なくとも 北 条氏の部分に つ い ては )とりわけ古い十 三世紀半 ば か ら 後 半にまで溯 り うる 、重要な 史料であるこ とは間違いない。青 山 幹哉 氏は、中条 本 『桓 武 平 氏諸流系図 』 を構成する系 図の各 部分 が一本 の系 図に統 一 さ れず、 バラ バラ のまま 記載されて いる 点など か ら 、同系 図が別個に成立 し た 系 図をある 段階で取り ま とめた も ので あ る と 推 定さ れ た が ( ) 、個別の 系図 ご との成立時期 や信憑性を 考 えることで、 史料とし て の 性格を確定 で きれ ば、 鎌 倉 期の武 士 団 研 究に とっ て大き な 益 と なる だ ろ う。そ の た めの基 礎作 業と して、 以 下 で は中 条本 『桓武 平氏 諸 流系 図』所 収 両 総 平 氏 系図
―― ―― を取 り 上 げ る 。 両 総 平 氏に 関 す る 系 図 と し て は、 十三 世 紀 頃 に 形 成 さ れ た、千 葉 氏嫡宗観念 の影響を受 け て 成 立し、信憑性が高い とされる神代 本『 千葉系 図 ( ) 』が あ り 、 そ の 記 載事 項の 比 較を 行 な う ことで 今 後の 研 究 の一助としたい。 二、中条本『桓 武 平氏諸流系図』と神代本 『 千葉系図 』の 異同 本来で あ れば、 中 条本 『桓 武平氏 諸 流系 図』 の両 総平氏 系 図 に 記載 の ある 全 て の 人 物 に つ い て、 史料上 の 所 見 を確 認 し て、そ の信 憑性 を確か め なければならない ところだが 、紙 幅の都 合 上、それ は稿 を改める こと とし て、こ こ で は中条 本『 桓武 平 氏 諸 流 系図 』の 両総平 氏系 図の 中 で、 比較的参 考 に できる史料が存在する忠常以降の世 代で 、 神 代本『千葉系 図』 の記載と人名 ・ 父 子関係 ・ 注 記 等が 相違する人物を採り上 げて み る。 ただ し 、 相違が名 前の 同音 異 字 の み に留 まる 場合につ い て は 、 ここ では 省略した。 な お、 以下 の章 で は 煩 雑 とな るの を避け る た め、 両総 平 氏 の 系図について 言う場合、中条 本 『桓 武平氏 諸 流系図』と 神 代本 『千 葉系図 』 について は そ れ ぞ れ 「 中条本」 ・ 「 神代 本」 の よ うに略 記 す る ( ) 。 また 、 同音 異 字 が 用 い ら れ る 場 合 は 、 史 料 を 引用 する 場 合 を 除 き 、 後 掲 する 中条本 『 桓武 平氏 諸流 系図』 との 比較の便宜 から、原則とし て 用 字 は同 系図に 合 わ せ た。 、常重以前―両総 平 氏の黎明 ・忠 常 平忠頼 の 子と して見えてい る。長元元()年に房総で反乱を 起こ し た こ と でよく 知 られ てお り 、 続柄に 関 しては 神 代 本 や『 尊卑分 脈』 ( 「 忠垣 」と する が「 忠 恒 」 の 誤写か 。 ) ・ 『 千葉 大 系 図 ( ) 』な どの 諸系 図でも一致している。神代本では「下総権介」 ・ 「上 野次郎」 ・ 「 上総居 住」など の注記が 見 え、対 して中条本には 次 のよ うな 彼の起こした反乱 に関 する 、 以 下 のよ う な長 文 の 注記が 見 え て いる 。 前上 総介。長元 被 レ 仰 二 検非違使平直方・少志中原 成通 等 一 、追 討 也 。 而其節不 レ 遂。仍 故 仰 二 甲斐 守源頼 信 一 、被 二 追討 一 之日、東 平満降 。 仍召具参洛之 処、 於 二 三乃 国 一 、爰 病 死 了。然 間 首伝 二 京師 一 。于 時 長 元四 六廿六 。 反乱 鎮圧 に 到 る 過程は、 『 小 右 記』 ・ 『 小 記 目録 』や『左経 記 』 、 『日 本 紀略 』な どの史 料 が伝える もの と概ね 一 致 す る。 ただ し、忠 常 の 首 が入 洛したのは、 長元四 ( )年六月十六日 と される ( ) 。忠 常の 官途に 関して は 、「 前上総 介 ( ) 」 ・ 「 上 総 国 住 人 前 介 ( ) 」 ・ 「 下 総 権 介 ( ) 」 な ど 一 定 せ ず 、 野 口 実氏は一次史料 に は一切官職を記さな い こと から 、雜任 = 在庁 官人 であ った と 理 解 さ れ て いる ( ) 。官職ほ か、 諸史 料で記 述 に ぶれの 大きい 忠 常だが、神代本 の採用してい る説が 『源平闘諍 録』の 「嫡男 忠 常居 二 住上総国上 野 郷 一 、後移 二 下総国千 葉庄 一 、号 二 下総権介 一 、領 二 両国 一 )( 。 」 という記述と一致する点が多く、両者の 関係を 窺 わせる一 方 、 中条本は これとは異なる史料 や 伝承 に基づいて作成され た こと を 窺 わ せ る 。 ・恒 永・ 恒兼 中条本では 恒 永 は恒将の 子 、恒 兼 は 恒永 の子とする。神 代 本では そ れぞ れ「 常長 」 ・ 「常 兼 」 で 、用 い る 字 は異 なる が 実名 ・ 続 柄 に違 いは無
―― ―― い。 ただ し、中条本では恒永は「千葉大夫」 、恒兼 は「千葉次郎大夫」 とす るが、神代本 では 常長は 「千葉介・ 従五 下」 、常兼は「千葉介 」と し、 神代本 は 常 将 以降全 て の千葉 氏 嫡 流 に「 千葉 介」と 注記 を 付 し てい る。一 方 で「千葉 大夫」とい う 呼称に つ いても、 『吾妻 鏡 』承元三 年十 二月十五日条にも「千葉介成胤者先祖千葉 大 夫 元 永以後 為 二 当庄検非違 所 一 之間、 右 大将家御時、 以 二 常胤 一 被 レ 補 二 下総守護 職 一 之由申 レ 之。 」 と見 え て おり 、 こ れが 千葉 氏のい ずれ の人物 に該 当する か は 断定 し がた いが、成胤 の時代の伝 承では ある も のの実際に 使 用され て いた可 能 性は ある ( ) 。 「 大 夫 」 の 呼 称 に つ い て 、 峰 岸 純 夫 氏 は 「 地 名 + 大 夫 」 の 呼 称 は 、 その 地の開 発者 で あ る と 同 時 に五 位に 任官したこ と を示 す「 大夫 」の呼 称が 結 び つい たも の と され 、 「 家」 の創 始者 として 系 図 上 に位 置付 けら れてい る とされ ( ) 、一方 高 橋 秀 樹氏 は「 地名 」 の 部 分 が荘 園名 では なく郡 名である ことを 指 摘し、 郡 規模 の範 囲で国衙 支配の一 端 を 担 う ような ( た だし 郡域全体を 私 領として 掌握してい た わけではな い )在地有 力者 の シ ンボル 的 な 称 号として捉 え られている ( ) 。 「 大夫」の 称 号 と在庁 官 人 とし ての「 介 」 の 呼称 が必 ずしも 結 びつ くわ け で はなく 、 前 述した『吾 妻鏡 』の「 千 葉 大 夫」 も「 当庄検 非 違 所 」であっ た と す るよ う に 、 国 衙 支配 に関わ っ て は いて も、 実 際に 「 介 」 の称 号 を 千葉 氏 が 獲 得 す る のは 時代 が下る 可 能性もあ り 、 そうした場 合 、神 代本 は「千 葉 介 」の 呼 称 を より 古いものと し て 権 威付けを図ってい ると も 考 えられる。 「 千葉大夫 」 の呼 称 は、 入 来 院 本『 平氏 系図 ( ) 』で は中 条 本 よ り さ ら に一 代溯 って 常 将 に付しており、ここで深く 立 ち 入 る こ とはしないが、後考を 期 すべき論 点と 言える だ ろ う 。 ・恒 親 ・ 恒遠 中条 本で は 、 と も に 恒 将の 子で 恒 永 の 兄 弟 と して 見え る 。 神 代 本 で は 記載が 無 い。 『尊卑分 脈』や『千 葉 大系図』では、ともに 忠常の子、 す な わち常将の兄弟 とされてい る 。同時代 史料で は 恒 親 に つ いて は「 又忠 常男 常昌・ 常 近不 レ 進 二 降状 一 )( 。 」 と 見 え 、 恒 親 ( 常 近 ) に つ い て は 恒 将 (常昌)と同じく忠常の子とする 。 恒遠については同時代 史料に見えず 不明 と せ ざ る を 得 な い 。 ・恒 家 前述 の恒永 の子 と し て 見える。神代 本で は該当 す る 世 代 に 所 見 は 無 い。 あるい は神代 本では 「 常宗 原四 郎 」と さ れ る 人 物 の 誤 記の 可 能性 もあ るが 、野 口 実 氏が 指摘す る よう に、他 系 図に は 所 見 が ある ( ) 。 『 千 葉 上 総 系図 』 ・ 『千 葉系 図』 ・ 『 千葉 系図別 本 』 ・ 『 般 若院 系図 』 ・ 『 相 馬 系 図 』 (以 上『続群書類従』 六輯上所 収) ・ 『 千葉大系図』 ・ 『 松蘿館本千葉系図』 ( 以 上 『 房総 叢書 』 九 巻 所 収) など 、近 世成 立 の 系 図 類で は、 常兼 の子、 常時( 『 千 葉上総系図 』 ・ 『般 若院系図 』 ・ 『 千 葉大 系図 』では 常 明。 「時 」 と「明」 の誤記か。 ) の父とし て 見 えてお り 、い ずれも後述する恒 兼 (常兼)か ら 相馬郡 を 継承 した 常晴 (時) の 系統と 、 本来そ のあ と に 続 くは ずの上総氏の系 統 を分 断する役割 を持っ ている。 ただし野 口氏の 指 摘 の ように『平 姓 指宿系 図 ( ) 』に は、 中 条 本 と 同 じ 位 置に 「 常 家 坂太 郎 」を置 いて い るこ と か ら 、 実 在 の人物 である 可能性 も 残 る。 現状 、系図 以 外 の 史料 では所見 が 無 いた め、 不明 とせざ る を 得 ない が、 近世 以降に 実 在 の 不明 確な 「常家 」と い う人 物 を 、近世 以降 の 系図 にお いて、相 馬郡を継承した常 晴の系統と 、 その後千葉常重と相馬郡を
―― ―― 巡っ て争っ た 上 総常澄 以降 の系統 を 分 断して 、上 総 氏 の 相 馬 郡 ( 御 厨) 支配 を否定 す る た めの 方便 として 、 こ の 人物 が活 用さ れた と も 考 え られ る。 ・常 平 恒兼の子 とし て 見 え 、 続 柄 は神 代本 も同様 。中 条 本は「同 (千 葉)余 一介 」 、 神代本は「 海 上 與 一介 」とし、名乗 りには違い が ある。ま た、 神代 本は「常兼」 の子として 「 常衡」が 見えるのとは 別に、 「 常長」の 子に も「常平」を 載せ、註に 「 與一平。 実常兼子。 」 と あ ることか ら両 者が 同一人物 であるこ とが 分かる 。 また、常 平は 神代本 で は 庶 流 の 筆頭 の位置に 配置さ れ るが、 中 条本では 恒兼子 息 の内で 最 も右 に置かれて お り、一般的な系図 配列から言えば、 長 子 として 扱 われてい る。 こ れ は神 代本 が恐ら く千 葉 介の 継承 者を嫡 流 と し て表 記法 の上 で区別 し て い るた めの も の で、 『 源 平 闘 諍録 ( ) 』も、常重を常兼 の 次 男と し、他に 長 子 がい た こ とを 推測 させ る。この中 条 本・ 神代 本 の 記 述の 違 いは 、後述す る 常 晴の 扱いと 同 様 、 十三 世紀 中期以 降 に形成さ れて いく千 葉 氏 の 長 子 嫡 宗 観念と 関 係 し てい ると思わ れ る ( ) 。 、常重以降―千葉 氏 嫡 流 ・常 重 恒兼の子とし て 見 え 、 中条本と 神代 本で 続 柄 は 同 様。 中条 本では「号 二 同大権介 一 。母 海 鳥 三 郎 大夫忠平女」と 注 記が ある 。 「大 権 介」の呼称 に関 し て は、 神代 本 に は 注 記が な い も の の、 『 源 平 闘諍 録 ( ) 』に は「常重 大権 介」と 見 え る 。丸 井 敬 司氏は 『 千 学 集抜 粋』 で、常 重 の 父 常 兼 につ いて 「常兼大椎 権 介。観宥。法諡星 成院 殿。大椎 にて御捐館也 ( ) 。 」 と す るこ とか ら、常 重 も 当 初父 と同 じく「 大 椎 ( 権) 介」 と名 乗 っ て い て、 「大 権介」 は 「 大 椎介 」の 誤 写 で あ ろ う と 理 解される ( ) 。た だ 、 「大 介」と いう称号 自体は 三 浦 氏 など 他の 有力地方武 士 の称 号と して 見 え る し 、他 史料 には見えな い も のの、 中条 本では続 く 千 葉常 胤 も 「大千 葉 介 」 とい う表 記が見える ( 中 条本は「小権守」 ) 。また、上 総 氏 系 で 言 えば、上総 弘常 の子 能常 ( 神 代 本 では 常 顕 ) は「 小 権 介 」を 名 乗 っ て い るこ と が、 中条 本・ 神代本 双 方 に 見え ている。中 世 後 期 の成 立と される 『 千 学 集抜 粋 ( ) 』 は 、千葉氏に引き継が れ た 史 料や伝承 に 独 自 の 「 解 釈」 を加えてい る可 能 性 も あ る 。 「 (権)介」を代 々の名乗りとする家 に おい て、先代に 対し て敬意 を 込め て「大 ( 権)介」 、年少者を 「 小( 権)介 」 と称した ( ) 可能性も考慮すべきだろ う 。 母に つ い て の記 述 は 他 の史 料に は 見 え な い 。 野 口 実氏 は 「 海 鳥 三 郎 大 夫 忠 平」の「 海鳥」を 「海道」 の誤 写 と 考え、 『 磐城系図』 ( 『 続群書 類 従』 六輯上所収)の貞 衡の孫「 忠衡」 、 『岩 城国魂系図』 (太田亮『姓 氏 家系大辞 典』 ( 角 川書店 、 年) に 言及あり 。) に 見える「 高久 三 郎 忠 衡」に 比定され、文治五( )年の奥州合戦における 千 葉氏 の東 海 道 大将軍 と し て の活 動や 陸 奥 国 南 部 の 所領 群獲 得の前 提 と し て、 千 葉 氏 が 早く から 陸 奥 国の沿 岸 部 と 強 い 結び つきを持って いた ことを 指 摘さ れて いる ( ) 。 ・常 胤 常 重 の子。 続 柄については中条本と神代 本で違いは 無 いが、 「号 二 大 千葉 介 一 。正治二三 廿 四 卒 八十 四」と注 記 が ある。単 な る 千葉介で な
―― ―― く、 「大 千葉介 」 と す る 記 述は 他史 料に見 え な い が、 『千 葉大 系図 』では 常胤の父常 重 に「号 二 千葉大介 一 」とし、前述のように中条本・神代本 で 上 総弘 常 ( 広常)の子能常( 常 顕 ) に「小権介」の呼称が見えるよう に、 父の「 ( 権) 介 」が存命中 に付 され た尊 称の ような も ので ある 可能 性もある。常胤 の 没年 月日 に つ い て は、 『吾妻鏡』が建仁元( ) 年三 月二 十 四 日と し ( ) 、 『 千 葉 大 系 図 』 も 『 吾 妻 鏡 』 と 同 日 と す る が 、 改 元前の正治三年 の 年号 を用 い る 。 (改元は二月 十 三日。 ) 『 本 土寺過去 帳 ( ) 』 では 正 治 二( ) 年 二月 二 十 四 日 、 『 平 朝 臣 徳 嶋 系 図 ( ) 』は 正 治 二 年二 月二十 一 日とする 。没年齢は 『 吾妻鏡 』 は中条 本 と同 じく八十四歳、 『千 葉大系 図 』 ・ 『本 土寺過 去 帳』 ・ 『 平朝臣 徳 嶋系 図』は 八 十三 歳とし 一 定しない が、 『吾妻鏡』がも っ とも信憑 性 が 高い か。 ・胤 正 常胤の子 。続柄は中 条 本 と 神 代 本で 違い は無い。 中条本 で は 「 千 葉 介 。 母秩 父 大 (太カ ) 郎 大 夫 重 広女」と注 記 す る 。神 代本 は千 葉介 に 加 えて「 上 総 介 」の注記を付す 。 胤 正 が上総介で あ っ た こ と は確 実な 史料 からは確認 で きない。 また 、 『 尊卑分脈』 で は父 の常胤に「上総 ・ 下総 等介」とする。胤正が上総 ( 権 ) 介 を称する例は 確認できな い が 、 ある いは上総弘常 滅亡後、常胤 もしく は 胤 正 の代 に下 総(権 ) 介 と 併 せ て、 両総 平氏の 族 長 を 表象 する 上総(権) 介 の地 位を 吸収したこ と を 示 そう とし ている 可 能性もあ る。 後述するよ う に中 条本 で角田 定 常 の 子胤親が 千葉 介胤 正娘の所生と する 記事と も 関 連 しよ う。 胤 正 の 生 母 に 関 す る記 述に つ い ては、 『 吾妻鏡』寿永 元 ( )年八 月 十 八 日条に頼家誕 生七 夜の儀の陪膳 役を「胤正 母 〈秩 父大 夫重弘女〉 」 が 務 め た こと が 見 え、 こ の記事を 裏 付 ける。 『源平 闘 諍録』で は 胤 正の子成 胤は 養子な が ら 祖 母 の 葬送のために祖父常胤らと別れて 千葉に残ってい た とし、 『 千 学集 抜粋 』はこ の 「祖母」 を「 秩父太 夫重弘の中娘也 」とする ( ) が、 前 掲 『吾妻鏡 』の 記事により 、『源平 闘 諍録 』の虚構 であることが 分か る ( ) 。福 田 豊 彦氏が 指 摘す るよ う に 、 こ の 虚 構は 成胤の 弟 常 秀 を 意 識し たも の で あり ( ) 、さ らに踏 み 込 ん で言 え ば 、実質 的 に 嫡 子と して の扱 い を 受 け てい た常 秀 ( ) に対して、妙見信仰を含む一族の 「 祭祀」 と いう ものを 一 つ の キー ワードと して、常秀 流 に対 する 成胤流 の 優 位 を主張したもの で あ ろ う。 ・頼 胤 ・ 泰胤 頼胤は時 胤の子 。 泰 胤 は時 胤の 弟 。 続柄は 中 条本 ・神 代 本 で 違 い は 無 い 。 中条 本で は「母修理 権 大夫時 房 女 」 と生母に関する注記が ある。同 時代史料 では裏 付 け が 無い もの の、中 条 本 『 桓武 平氏 諸流系 図 』所 収の 北条 氏系 図 で は 、 北 条 時房 の四 番 目 の 娘 に 「 城介 義景 妻。後 嫁 千 葉 介時 衡(胤カ) 」 とあり、他に野津本『北条系図』でも「城介妻。 後千葉 妻 イ頼胤母」 、 入来院本『平氏系図』では「城介義景妻。後千 葉 介頼 胤母 。 」 と あ り、 鎌 倉 末期 頃まで 原 型の 成立 が 溯 る ( ) 系図 史料において 同 様の 記載が 見 ら れ る 。 一 方 、福田豊彦 氏 は『般若院系図』が頼胤 の 叔父 泰胤 を時房女所 生 とし、 『 千葉大系図』は頼 胤 の 注記で母を「臼井 九郎 尊胤 女 」 と す る こ と か ら、 中条 本の 記 事 を 退 け る ( ) 。しかしな が ら、 これ らの 系図 では尊胤に 該 当する人 物 は 確認 できない。また中条 本・ 神 代本 では 臼井盛常が「九 郎 」の 仮名 を用い て おり、改 名の 可能性 も 否 定 で き ないものの、千葉介嫡流に娘を嫁がせたと い う 人物を他ならぬ『千葉大 系図』が書き落 と すのは 違 和感が あ る し 、管見の限 り 改名の形跡 は 窺え
―― ―― ない。そもそも北 条氏の有力庶 流所生 の 母を 持 つ 泰 胤 が、 父 が 早 逝 し た 上に母 方 も両総 平 氏 の 庶 流 に 過 ぎ な い頼 胤を後 見 す る 立場に留まっ たと いう のは、 違 和 感 が拭 え な い。幼 少 の 頼 胤 を 後見 する の で は な く 、そ れ こそ 第二の上 総千葉氏 になる可 能性 も あ り 得 た の ではないだろうか。 なお、頼胤 の 姉 妹 とし て中条本でも北条氏以外では珍しく 女 子 二人が記 されてい る。うち一 人 には「 信 通朝臣妻」 と 注記されてお り 、 白根靖大 氏は 中関 白 家 道 隆 流の 坊門信通に 比 定さ れて いる ( ) 。 また泰胤の没年 の 注記 に つ いて、 福 田 豊 彦 氏 は 前 掲論 文に おい て、 『般若院系図』で泰 胤に付され た 「建 治元年八 月 一 日生」と いう 注記が 没年 の誤 り で 、終見記事 が 『 吾妻鏡』建 長二年十二月 二 十 七日 条 で ある ことから、中条 本 の泰胤死 没年を否定されてい る 。 た だ 、 建 治 元 ( )年八 月は 日 付に 多少 の差こ そ あ れ 、頼 胤の 没年と 重 な る ( ) 。ま た 、 『般若院系図』は『 続群書類従 』 第六輯上の 翻 刻では、 左のように な っ ている。 『続群書類従』の翻刻が、系図 の原型をどれ ほど留めて い るかは不 明だ が、 時 胤 ・頼胤と 泰 胤 の間が近接 し ており、野口実 氏が指 摘したよう に ( ) 、本 来頼 胤の左 側に 付 され てい た母と 生 年( 正し くは 没 年 か ) の 注 記 が、 泰 胤 の右側に付され た ものとして誤 っ て 取り 込まれてし ま ったもの と考 える のが適 切 だ ろ う。 、 上総千葉氏 ― も う一つ の常胤嫡流 ・時秀 ・ 政秀 ・ 泰 秀 ・ 秀景 いず れも 上 総 千 葉 氏 の 秀胤の子 だが、神代 本 とは 異同 が あ る 。 ま た 、 『吾 妻鏡』には宝治合 戦に関 す る記事に上総秀胤とそ の子 息たち に 関す る史 料があり、 と り わ け宝 治元 ( )年六 月二 十二日 条の 三浦氏 方の戦 死 者・ 捕縛 者・ 逃 亡 者 の 交 名 が載 せら れてい て 参 考 にな る。 廿 二 日癸卯。去 五 日 合戦亡帥 以 下 交 名、為 レ 宗分日来注 レ 之。今日、 於 二 御寄 合座 一 及 二 披露 一 云々 。 自殺 討 死 等 (中略) 上総権介 秀胤 同子 息式部 大 夫 時 秀 同修 理亮政 秀 同五郎左衛 門 尉 泰 秀 同六 郎秀景 垣生 〔埴 カ 〕 次郎時常 (後略) 時 秀 と泰秀は、神代本で はそれぞれ 「秀時」 ・ 「 秀 泰 」と され、時秀に つ いては『吾妻鏡 』に は 「式 部大 夫」と見え る ( ) 。官職が一 致するこ と を 考 える と神 代本の 「 秀 時 」と 同一人物と見な し て良 い だ ろう。 中 条 本は時 秀の 頭註 に「式 」 とあり、 式部 省官人 で あ っ たこ とを 示す。 官 位 を 示す 「 従 五上 」につ い て は、 『 吾 妻 鏡 』 では 官位 が分か る 記 事はな いも のの、 時胤 頼 胤 ⋮ 泰 胤 千 田 太 ︱ 一 郎 母修理太夫時房女。建治元年八月 一日生。法名常存。永安寺入道。 後 略 ︶ ︵前 略 ︶ ⋮ 胤 綱
―― ―― 寛 元 二( )年 正月に従五位 上 に 叙さ れ た 「平時秀 ( ) 」に 比定 で き る だ ろ う 。泰 秀に ついて は 、 中 条本 が「 左 衛門 尉 」 と す る が、 神代 本 は 「 埴 生 修 理 介 」 と して お り 異 な ってい る 。『 吾妻 鏡』 の記 事 を参 照 す る と、 修理亮は 政秀 ( ) 、五 郎 左 衛 門 尉 は 泰 秀 で あ っ た ( ) こと が確 認 で き 、いずれも 中条 本と一致する。神代本 が五郎 左 衛 門 尉と する 秀綱は『吾 妻 鏡 』には 見え ない。 秀 景 は『吾 妻鏡 』の同 記 事 に よ れ ば「 同(秀 胤 子 息 ) 六 郎秀 景」 と見え、神代 本で 欠落に よ り名が 見 えず、 「 同六郎 」 と注記 さ れ た 人 物 に 比 定で きる。少なくとも 『吾妻鏡 ( ) 』に照ら す限 り 、 上 総千葉氏の 記述 につ い て は 、中条 本は 神代本 以 上 に 正確 で あ ると言 え るだ ろう。 、 常重 庶 流 ・胤 澄 千葉 常 重 の子で、 「小見六郎 」と注 記す る。神代 本で は「 胤隆 小海 六 郎 」 とあり 、 「澄 」と「隆 」は 誤写の可 能性 が 高い。 ほ か の 史料 での所見 が ないため、どち ら が正 しいかは不明と せ ざる を得ない。 ・有 光 常 重 の子 で あ る椎名 五 郎胤 光の 子。 神代本 で は胤 光の 子で「有 光」と いう 人物 も 「 同大 (太 ) 郎 」 に 一 致 する 仮名 の 人物 も 見 当 た ら な い 。 「 大」 が 「 太 」で はな く、 「六 」 の 誤 り と す るな ら、 胤 高が 該 当 す る が 、 『吾 妻鏡 』 では椎名 六 郎 は 「胤 継」 と見え る 。 ( 建 長 三年 正月 二 十 日条) ま た 、延慶 本 『 平 家物 語』 には「椎名 小 次郎 有 胤 」という人物も見えて おり ( ) 、 椎 名の 名乗 り と 有 光 ・ 胤 光 と 通じ る 字 を 用 い た 「有 胤」 とい う 名 も注 目される。 、 常胤庶流 ・家 胤 相馬師常 の孫 で、常家 の子。 中 条 本では「家胤〈 式部 丞、号矢木式 部〉 」 、 神代本では「胤家〈 矢 木 式 部大 夫〉 」とある 。 『 吾妻鏡 』 では「矢 木式部大夫」と見 えるのみ ( ) で実名 不 詳だ が、文 永 年 間 の造 営に関 わ る 「造宮 記 録断 簡 ( ) 」で西廊 作 料 の 負 担 を 「矢 木 郷 本 役 」と して 「 地 頭式 部 大夫胤家 」に宛 て てお り、 ま た 嘉元四 年 正月十三 日付の「遠 藤道 正 附 属 状 ( ) 」 で は「矢木 式部大夫 胤 家」と見え 、神代本が 正 し い 。中条本は師 常 流相 馬氏の系統に ついて、 『相 馬 文 書』を 残 し た義胤の系 統は 胤綱ま で しか 記さ ず 、 逆 に 神代 本で は常家 の 系統 は常 家―家 胤 し か 記し ていな い。 入手 できた 原 史 料 の差 なの か、系 図作 成 における 意識の 違 い な のか は不明と せざる を 得ないが、後考を期 し た い 。 ・胤 頼 千葉 常胤の 子 。 続 柄 は 中条本・ 神 代 本で違い はない。中 条 本 に は 「 東 六郎 大夫 ・出家 」 の 注 記があり 、一方 で 神 代本は「木 内六郎 大 夫 」 とす る。 『吾妻鏡 』の所見では、胤頼の名 乗 り は 「千葉」および「東」を 併 用しており ( ) 、 「 木内」 は 使用 されてい ない 。 『 源平闘 諍 録 』 でも 、未 だに 東庄を 獲 得してい ない た め か、 「 千 葉六郎」 を名乗っ てい る。ただ、 木 内 の 名 乗 りの由 来 とな った木内 荘は、 『 吾妻 鏡』文治 二年 三月十 二日 条 に「 橘并 木内 二 位 大 納 言 庄」 と見 えてお り 、 こ の橘 荘の 異 名 が 東 荘 で あり ( ) 、東荘 と 木内荘 が 強く結び ついてい たこ とを 考える と 、 「 木内」と い う 神代本 の 名乗りも軽視 する ことはできない 。 また 胤頼の 出 家につい ては 、大 番役 で在 京した 際 に法然 の示寂 に接 し、法 阿弥 陀 仏と 号し て出家 し た こ とが
―― ―― 知られ る ( ) 。 ・胤 行 東 重 胤 の 子。実名 は中条本 ・神代本で同様だが、 傍 注 は中条本 では 「 〈 中務丞 出 家〉 」 、 神 代 本では 「 東所中務」 と す る 。中 務 丞 であった こと は『 吾妻鏡 』貞 永 元年 十一 月二十 九日 条 以降 「中 務 丞 」 と 表 記 さ れ るこ とか ら 問題 な く、出家 に つ い て も『吾妻鏡』宝 治 元 年六月六日条以降 「入 道」 と見え 、 「素暹 」 を 名 乗っ てい る。 ・胤 廉 東 重 胤の 子と して 見 え 、 神 代本 では 同じく「海 上 次郎」の傍注のある 「胤方 」 と同一人物と思わ れる。改名や 同訓異字表記の可能性 も捨てき れないが、現状見える史料 で は「胤 廉」 と一 致す るも のは 見え ず 、 『 吾 妻鏡 』建長 四 年 十 二月 十七 日条 で は「 海 上 次 郎胤 方 」と あ り 、 海 上 荘の 荘 域 で あ った千葉県銚子市常世 田町の常燈 寺所蔵薬師 如来 坐像の仁治 四 年三 月 二 十四日の 修理銘 や 、 同市岡野台 町 の等 覚 寺で 出 土した建長四年 二月 五日の 銘 を 持 つ金銅製経筒銘には「平 胤 方」と書か れ てお り ( ) 、神代 本の 記述に 合 致 す る史 料 は 多い。 ・胤 朝 東胤頼 の 子。実名 は中条本 ・神代本で同様だが、 傍 注 は中条本 では 「木 内 下 総守」 、 神代本 で は 「 木 内 次 郎 」 と する 。下 総守補任に関し て は、 神代本で子息 の胤時が「下総四 郎」とされるこ と や、 『 吾 妻鏡 』建 長二 年三 月一日条の「木内下総 前司跡 」 は年代か らするとこ の 胤 朝 を指すと 思われることから 、事実と考 え てよ い だろう。 『 吾妻鏡』寛元四年 八 月 十五 日条で胤朝 子 息の 胤家 が「木 内 下 野 次郎 」と 表記さ れ る が 、こ れも ある いは 「下総 次 郎 」 を誤った ものか 。 任 官 時期 は明 確にし が た い もの の、 中条 本の「 木 内下総守 」の 記述も問題 な いと 思わ れる。 な お 、 胤家 は中 条本 では「 木 内 六 郎」 とさ れる が 、 前 掲 『吾 妻鏡 』の記 事 の よ うに 彼の 仮名 は「次 郎 」 で あり 、神 代本が 正 し い 。字形が 似ているた め に誤 った もの か。 、 常兼庶流 ・常 忠 臼井六 郎 常安 の子。実名 は 中条本・神代 本で一致するが、 中条 本では 「太郎 」 、神代本で は 「三 郎」と仮 名が異な る。 『吾妻 鏡 』建久 二 年正 月 一日 条 で は「臼 井 太 郎 常忠 」 、 承久 三年 六月三 日 条 で は「 臼井 太郎入 道 」 と見 え、 「太 郎」が 正し い 。 神 代本 の誤 写か。 ・常 家 中条本で は 瑳(匝瑳)八郎常弘の子と して、 「 常家〈 同 太 郎〉 」 と見 える が、神 代 本 で は常 弘の 子・飯 高 五郎 高常 の父と し て見える のは、 「 将 胤〈 飯高次郎〉 」 とい う人物 で ある 。仮名に つ い ては単なる誤写の可 能 性 も あ る が 、他 の 史 料 上 で 該 当 す る人 物が 確 認 で き な い ため ど ち ら か 正し いかは 不 詳 とせざ るを 得ない。ただ 、両 総平氏における「胤」と 「常 」の 通 字 の使用に つ い て、野 口 実 氏 は相 馬 師 常と上総 常秀の「常」 の字の 使 用の理 由 を、それぞれ 相 馬 常 清 と上総介弘 常 の、すなわち上総 氏流 の 基 盤を千 葉 氏 流 が継 承 し たこ と を 表 す もの と 推 測さ れ ( ) 、丸 井 敬 司 氏は『千 学集抜 粋 』や千葉 神社の前身 で あ る 尊光院に伝わった『 妙 見大 縁起絵 巻 』 、 九州千葉氏の後裔 で あ る徳島氏 に伝来した『平朝臣徳嶋系 迎
―― ―― 図』で相馬 師 常が 「師胤」と表記される こと、 『 吾妻鏡』の文治四 年三 月十 五日条 や 同 五 年六 月九 日条では 「千葉次 郎師 胤 」 と見 えるこ と か ら 、 相馬 師常 の 旧 名 が 「 師 胤 」 であ っ た 可 能 性 を 指 摘 さ れ て い る ( ) 。いずれも 千葉 氏によ る 治 承 ・寿 永内 乱以降 の 獲 得 所領 への入 部を ス ム ーズ に 行な う た め や 、逆 に千 葉氏に 敵 対 し てい た勢力 が 千 葉 氏 へ の服 従を 示す ため に 通 字 の 継承( あ るいは 実 際 に 婚姻 関係や 養 子・猶子 関係の構 築)が 行 なわ れたこ と を 想定さ れて おり 、 中条 本の「 常家 」と神 代 本 の 「 将 胤 」 につ いても 、 同 様の経 緯を 想定できる か もし れな い。 、 常 晴 流 ― 両 総 平氏 の 族 長 ・常 晴 中条本では恒兼の子とさ れ るが、神代本では 常晴は 常 長(恒永)の子 とし て 見 えてい る 。ただし、 中 条本も「 恒兼為子。実 弟 也 。 」 とい う注 記 が あ り、恒 兼の弟 、 す なわ ち神代 本と同 様 、 常 晴は 恒永 の子であると いう 血 縁 上 の 位 置 を認 めな がらも 、 系 図 構 成 上 は 兄恒兼 と の 養 子 関 係 を 強調 しているこ と にな る。 相馬御厨の来 歴を 伝 え る 『 櫟木文書 』の千葉常胤寄進状 ( ) には 、以 下の よう な記述が あ る 。 永附 属進先 祖 相 伝 領地壱処 事 在下 総 国 管 相 馬郡 者 四至〈東 限逆川 口 笠 貫 江、 南限 小野 上 大 路 、 西限下川 辺境 并木埼 廻谷 北限 衣川 常陸国堺〉 右 当 郡 者 、是 元 平 良文朝 臣 所 領 。其 男経 明 、其 男 忠 経 、其 男経 政、其 男経 長、其男経 兼、其男常重 。 而経兼五 良弟 常晴相承之当初、為 二 国 役不 輸之 地 一 、令 二 進退領 掌 一 之時、立 二 常重 於養 子 一 、大治 元 年六 月 所 レ 譲 二 与彼郡 一 也。 ( 下 略 ) 限ら れ た 範囲な がら 、千葉 氏の 世系を伝え る史料 とし ては最 も 古 いもの で あ るが、 こ こ で も常晴(一 部 常時 。 誤 記か )は「経兼五 良 ( 郎 ) 弟」 とされ ており、 各系図 の 記 述を裏 付け る。問 題 は 恒 兼 ( 常兼 、経兼 ) と 常晴に 養父 子関 係 が あ っ た かどう かである。 よ く知 られるよ うに、この寄進状 は、 相馬 郡 は 常 兼 か ら弟の常晴 に譲ら れ、さらに常兼 の常 重 が 常 晴 の養 子と なっ て 、 相馬郡 を 継承 したこ と を主張する。律 令 制 の 規定 で言え ば、 本来 養 子 関 係 を 設定できる のは、 養 父 と なる 人物 の子の 世 代 、 具体 的に は甥 ・ 姪 であっ た ( ) 。 た だ 、現実的 には 十二世 紀 後 半 までには自身の 弟 を養子と する ケース は見 られ ( ) 、高橋 秀 樹 氏 は こ の常 晴―常 重 の養子関 係を所謂順養子 の ケー スと して捉えら れて い る ( ) 。 順 養 子の在り方 では、 弟 が 兄 の子 までの中継 ぎと なる に あ た っ て、兄の養子となる のが 一 般的 で あ り ( ) 、中 条本 の常晴 の記 述はこれに適合 す る。 実際、相 馬郡は 前 述の常胤寄進状 に あ る よう に、常晴 の子 常澄が源義朝 を担 いで押領すること になるものの、 一 度は 常重へ と渡 ってい ることを見ても 、 当 初はやは り常 晴は 常重へ の 中 継 ぎ とし て位置 付 け られ てい た と思 われる 。 あ る いは 、後 述する 定 常 ・ 胤親 の項 で 見 るよう に 、 地 位や所領 の継承関係 を 親子関係 に見 立 て 、 恒 兼― 常晴 間の 相馬郡 の継 承 を養 父子関係に見 立 て たと も考 えられよう 。
―― ―― ・常 景 ・常 茂 と も に上 総常 澄の子 。 常 景 は、 神代 本では 「伊 北 新介 」と し、 中条本 では「同介」として父と同様上総介であっ た とする ほ か、 「長 寛 年 中 為 二 弟常 茂 一 被 レ 害」と し 、印 東(中 条 本で は印南 ) 次郎 常茂に よ り殺 害 されたとする。 野 口実 氏 は 上総介を 名 乗 る人物が常澄の子の中に複数存 在 す る こ とや 、一 族 内で の 対立 を示 唆す る 記 事 か ら 、 上総 常澄 死後 の 上 総介の地位を巡る競合関係 を想 定される ( ) 。また、常茂については中条本 が「 印南次 郎」 と する が、 神代本 で は 「印東 次郎 」とす る 。 ま た 、 中条 本には「 為 二 弟弘常 一 被 レ 害」 と あ り、 『 源 平闘 諍 録 』で 富 士 川合 戦 に 向 かう追討軍 の 先 陣押領使を務め た 「 上総 国住 人印東 次郎常茂 ( ) 」 、『吾妻鏡』 で富 士川 合 戦 の 際に 鮫 島 で 討ち取 ら れ た 印東 次郎 常 義 ( ) と 同 一人物 と思わ れる。 「 茂」と「義」は崩した字形 が似ることを考えると、単純な誤記 か。 名乗 り に 話 を 戻す と、 神代本 ・ 『吾妻鏡』 な ど が 印東 とするこ とや、 常茂の父常澄 が 印 東 荘 の荘官 を 努めていた ( ) こと を 考 え る と、 「 印 南」 は 「印 東」 の誤記 と 考 え る べ きか ( ) 。 ・弘 常 ・ 能常 上総 常澄 の子 と孫。 中条 本 で は弘常は「 介 八 郎」 の名乗 り に 加 えて 「鎌 倉大将起 レ 兵之時 有 二 大功 一 。而 寿 永 元年 十二 月廿二父 子 共 為 二 鎌倉 大将 一 被 レ 誅了 。 」と注記がある。上総 弘 常 の 誅殺は、 『吾 妻鏡 』元暦元 ()年 正 月一日条に「去 冬 」とあり、寿永二 ( )年 の 年末の こ とと考えられる ( ) が、 『鎌倉年代 記』 裏書で は「 今年 〈寿永一〉 」 の「 同(十 二 月)廿二 日」 のこと と する ( ) 。また『源平闘諍録』には治承 四( )年の 金 砂合戦の記事 に続いて、 頼 朝が そのまま奥州 藤原 氏を攻めようと し 、上総弘常はそれを諌めて 頼朝と対 立して上総 に 帰 っ てしまい、 そ れを 聞き つけた平家が弘常を味 方に引 き 入れ ようと す るく だり があ る ( ) 。弘常と頼朝の対立に つ い て は、比較 的早 い段階から 異 説が 生じ ていた可能性も窺われる。 ま た、 能 常 は神代 本 や 『 源平闘諍録』で は 「 常 顕 」とする が、 『吾妻鏡 』では 「 良常 ( ) 」 、 『 鎌 倉 年 代 記 』 裏 書 で は 「 能 常 」 で、中条 本と一致 する 。ま た、中条 本は能 常 の 名 乗 り を 「 小 権 守」とする。上 総 国 は 親王 任国 で あるため ( ) 、実 際 の 受 領 は「 介」 である ことか ら しても 「 権介」が 適当 だろ う。 た だ し、 『源平闘 諍録』でも 同 一人 物 の 常 顕を 「 小 権 守」 と し ており 、 院 政 期の 貴族 も親王 任国 の 守 ・ 介 に ついて は 混同 して い ると こ ろ も ある ( ) 。ま た 、 延 慶 本 『 平 家 物語 』 巻 二末―九では「山城権守」 、長 門 本 『平家物語』巻十では 「大和権守」 とあ り、どの時点か は不 明 なが ら、他国の権守に 任じられて い た 可 能性 もあ る 。 ・定常 ・胤親 定常は、中条本で は前述の上総能常の子 として 見 え、 「角田四郎」 の 傍注を付す 。 一方で神 代本で は 、同一人 物と 思しき「貞 常 」が相馬 常清 の子として 見 え、 「同 (相馬)太郎。上総介 」の傍 注を付 す。さらに 定 常の子胤 親は、中条 本 では「同太郎。 母 千葉介 胤 正 女 」の注記があり、 神代 本では貞常 の 子として、 「 親常〈角田太郎 〉」 が 見 え る。この 点に つ いて野 口 実 氏 がすでに踏み込 ん だ言及をされている。 『吾妻鏡 』文 治 二 年六 月十 一日条 の記 述で、上総 弘常誅殺後 、 その 遺領 で ある上総 国 畦蒜 荘を与 え られた人 物 を 、北条本 は「 上総介 」 、吉 川本では 「相 馬介」 と ある 点に 注目し、中条本で定 常 が 上総 氏 の後裔と して書かれ ている点と
―― ―― 神代 本の貞 常 の 「 上総 介」 の注記 を 考 え 合わ せる と、上 総 弘常 誅 殺 後に 関与 を 疑 わ れ る も のの釈放され た 相 馬常清 ( ) が上総 氏 の持ってい た 上総介 とそ れに象 徴 さ れ る両 総 平 氏の族長と し ての 地位 を引き 継 いだ も の と 推 定さ れ、中 条 本 は 血 縁 では なく、 上 総 介 ・両 総 平 氏の 族 長 と い う 地 位の 継 承 に 着 目し た表 現で あ り 、 加 えて その 地 位 が 定 常 の 子 胤 親の 注記 に 見 える ように 、 定常と千 葉胤 正の娘 の 婚 姻 によ っ て 千葉氏 に 吸 収 さ れ てい くこ と が 示 さ れ て いる とさ れた ( ) 。 ・季 常 上 総 常澄 の子。神代本では同じく 常 澄の子に 「秀常 〈 天羽庄司。十郎〉 が見え、 『源 平闘諍 録 』にも上総広常の指揮 下 の 武士として「 天羽 庄司 秀常 ( ) 」が見 え て い る。 「 季 」と 「秀 」の字形 が 似 るこ とを 考える と 、 「 秀 常 」 を 書 き誤 っ た も の か 。 ま た 『 吾 妻 鏡 』 元 暦 元 年正 月 十 七 日 条 に は 「広常 弟 天羽庄 司 直 胤 」が登場する。 野 口実氏は両総 平氏の通 字で あっ た「常」 から、千 葉氏の 通 字で ある「胤」を用いた名前へ の変更を、 上 総氏系 の 武士団が 千 葉 氏 に よ って編 成されてい く 過程としてな され たも のと される ( ) 。 まとめに かえて 以上、中条本と神 代本 の両 総平氏 系 図の記述 の差異に着目し 、 比較検 討を 行なった。中 条本・神代 本 の記述が 異なる部分に つ いては 、 『 吾妻 鏡』 などの 他 史 料 を見 ると 、概ね 神 代 本 の記 述に 分があ る こ と が多く、 神代 本の信 憑 性 の 高さ を裏 付ける こ と と なっ た 。 ただ、一方で中 条 本の記述 の 方 が 正 確 な 例 も あり、 と りわけ 上 総 秀 胤 の子 息の 部分で は 極 端に混 乱が 大き いこと も分か った 。その 理 由 は 今 の とこ ろ明 らかに し 難 い が、 ある いは上 総 千 葉 氏の 滅亡 によっ て ( と りわ け『吾妻鏡』にあるように大柳館の炎上で)上総 千葉 氏 の 系図・文書な どの家伝 史料が 焼 失 し 、最後の 世代であった秀胤 の子息たち に つ いての 記憶 がか なり 薄 れ た 段 階に なっ て、 神 代 本 が 成 立 した た め で は な い だ ろ うか 。 中条本は そうし た 意味でも 神代 本 の 記 述 を補 完し うるも の で あ る。 そ の史 料 的 性格を明 ら か にす るこ と で 、 鎌 倉 期の両 総 平 氏の系 図 認 識 を知 るた めの 有力な 素 材 と なり うる ものであり 、 また 逆に 中条本 の両 総 平氏 系図 の成 立過程 を 明 らかに する こ と で 、 中 条 本『 桓武 平氏諸 流 系 図 』全 体の成立 過 程 や性 格を 解 明 す る こ と にも 繋が る 。 鎌倉期 、 あるいは それ 以 前 の 武 士団 とその系 図 認 識 の 研究 にと っ て も 、 中 世 の系 図史 料論を 考 える 上 で も意義 の あ る 研究 と考 える。 また 、 本 論 で も言 及した よ う に、神 代本 は千葉 氏の 長子嫡 宗 観 念 の影 響を 受け た『源 平 闘 諍 録』 との関係が指摘されて お り 、中条 本 と の記載 の相違の 中でも、平常晴と海上 常平につい て の記 述は嫡宗観 念 の 影 響を 受け てい る か 否 か が 関 わっ てく る 可 能 性 が あ る。 中条 本の成 立 時 期 や嫡 宗観 念との 関 係 に つ い ては 別 稿 を 準 備中 のた めそち ら に 譲 るこ ととし て、 ひと まず今 回 の 検 討を終え た い 。 ( ) 新潟県教 育委員会 編 『 奥山荘 史 料集』新潟 県 教育委員 会、年 ( ) 中条町史 編さん委員会 編『中条町 史 』 (資料編 第 巻、考古・古 代・中 世)中条町 、 年
―― ―― ( ) 野口 実「古 代 末期の武士 の 家系に関 す る 二 つ の史料― 永承二 年二月二 十 一 日 付 「 藤 氏 長 者宣」と『中条家 本 桓武 平氏諸流 系図』― 」( 『中世東 国武 士 団の研 究』高科書 店 、 年、初出 年 ) ( ) 野口 氏 註 ( )論文 の 分類は以 下の通 り 。 北 条 氏を中心 とした 維 将 流 貞 盛―維衡を 始 祖と する 伊勢平氏 越後 城 氏 を 中心 と した 維茂流 貞 盛 の弟繁盛の系統 良兼流 良文流 両 総 平 氏の 系統 良 文 の孫将 恒 か ら はじま る 秩父氏の 系統 忠頼の子 孫の うち、中村・葛 西 一 族 の系統 良文流三浦 氏 の系統 忠道を祖 とする 鎌 倉 氏 の系統 常 陸 平氏の 系 統 仲 野 親 王 流 本 康 親 王 流( 仁 明平氏) 是 貞 親王 流(光孝平氏) ( ) 井原今朝男「中世善 光 寺平の災害と開発 ― 開 発勢 力としての伊勢平氏と 越後平氏 ―」 ( 『 国立 歴 史 民俗 博 物 館研究 報 告』 集、 年) ( ) 白根靖大「 中 条家文書 所収「 桓 武 平 氏諸流 系 図 」 の基礎的考 察 」 ( 入間 田宣 夫 編 『東 北中世 史 の研 究』下巻、 高 志書 院、 年) ( ) 野口 実「十一~十 二 世 紀、奥羽の政 治権 力をめぐる諸問題」 ( 『中 世東国 武士団の 研究』高科 書 店、 年、初 出 年) ( ) 小口 雅史 「延久蝦夷 合 戦をめぐる覚書 」 (中野 栄 夫 編 『日 本中世の政 治 と社 会』 吉 川 弘文館、 年) ( ) 青山幹 哉「 〈 顕わ す系 図 〉 とし ての氏系 図 ― 坂東平氏系 図 を 中 心 に ―」 ( 『 伝 承 文 学 研 究 』 号、 年) 。 な お 、 青 山 氏 は 同論 文 で 、同 系図 が桓 武平氏の み な らず、 仁 明平氏・ 光 孝平氏 も含 み、系 図 端裏 外題にも 「平 氏継□ (系 )〔 図 〕 」 と あるよ う に、 『平氏 諸 流 系 図』 の呼称 が適切であ るとされる。 指摘 自体 は首肯でき るが、本 論 文では広く 浸 透してい ること も あり 、ひと ま ず 従 来 の『 桓武 平 氏 諸流 系図 』の呼 称 で 統 一 し て い る。 ( ) 紀元二千 六百年記念房総叢書刊 行会 編『房 総 叢書』九巻、系図 ・ 石 高帳 (紀元 二 千六百年 記 念 房 総 叢 書 刊行会、 年 ) 所収。 ( ) なお、 『 研究紀 要 』 ( 千葉市立郷土博物館) 号、 年)に丸 井 敬 司氏 によっ て 翻刻され た徳島本『 千葉系 図』 は、系 図 の 記述内容や 様式 が 神 代 本と 一 致 するとこ ろが多く、 同 氏 は 、 神 代本と 同 様 に 肥前千葉 氏 に よ って九州に持ち込まれた祖 本に依ったもので 、神 代本以 上 に古態を残して いる と評 価され て いる(同 『千 葉氏と妙 見信仰 』 岩 田 書院、 年) が、筆者 自 身 が神代本 と徳島本の 関係や、歴 史史料とし ての 評 価に 関 し て 十 分 な 認 識が な い こ と 、 現 状 広 く知 ら れ て い る こ とな ども あ り 、 本 稿では 中条本と 神代本を比 較 するに留め た 。 ( ) 『房 総叢書』九 巻 所収。 ( ) 『小記目 録』 追 討 使事・ 『 日本紀略』 ・ 『扶桑略記』同日条。ただ し、 『百 錬抄 』は 中 条 本 と 同 じ く 六 月二 十六日 と す る 。な お 、 『小 記目 録 』 は 大 日 本古記録 、 『 日本紀略』 ・ 『扶桑略記』 ・ 『 百 錬 抄』 は 新訂増 補国史大系に依 った 。 ( ) 『日 本紀略』 ・ 『 百錬抄』長 元元年六月 二十一日条 、 『帝王編年記』 後 一条 院 。 『帝 王 編 年 記 』は 新 訂 増補 国史 大 系 に 依 った 。 ( ) 『日本紀略』久 邇 宮家旧蔵 宮内省 図 書寮蔵本・神宮文庫本の 同 日条。 ( ) 『皇代 記 』万寿五年。大 日 本史料二 編 二 十九 冊長元元年六月二十 一日の 項に依 った。 ( ) 野口実「 平忠常の乱 の 経過に つ いて―追 討 の 私戦的側 面」 ( 『 坂東 武士 団 の 成 立と発 展 』弘生書 林、 年、初出 年 。 戎光祥出 版より 年再刊 。) ( ) 『源平闘諍録』 巻 一之上― 一、自桓 武天皇平家之 一胤事。 な お 、 『 源平闘 諍録』本文は史 籍 研究会 編『源 平闘 諍録・将門記抜書・陸奥話 記』 (汲古 書院 、 年 )の 写 真 版に 依 っ た。 なお 、 文 面の煩 雑 を避 け る た め 、 原本 に 付 さ れた振仮 名 ・ 送り仮 名 は 省 略 し た 。 福 田 豊 彦 ・ 服部 幸造 全注 釈 『源平 闘 諍録―坂 東で生まれ た 平家物語 ―』 ( 上 ・下、講 談社、 ・ 年 ) も適宜 参 照し た。 ( ) ただ し、 『吾妻鏡 』によ る と千葉常胤の生ま れが元永元年の生ま れ と す
―― ―― るため( 『 同 』 建 仁元年三 月二十四日 条 ) 、 この「千葉 大 夫」 は常胤 の 父常 重も しくは祖 父恒 兼あた り とみる の が 適 切だろ う 。 ( ) 峰岸 純夫「中世 社 会 の 「家 」と女性 」( 『 日 本中世 の 社会構成 ・階 級と身 分』校倉 書房、 年、初出年) ( ) 高橋秀 樹 「三浦氏 系 図 にみる「家」の創造神話」 ( 『 三浦一族の研 究』吉 川弘文館、年、初出 年 ) ( ) 入来院 本 『平氏系 図』では、 「 常将」 ( 恒将) と「常長」 (恒永) に「千 葉大夫」 の注記 を 付 す 。入来院 本『平氏系 図 』の 翻刻 と 史 料的 評価 は、山 口隼正 「 入来院 家 所 蔵 平 氏 系 図 に つ いて(上 ) ・ (下 ) 」 ( 『 長崎大学 教育学 部社 会科 学 論 叢』 ・ 号、 年) を参 照。 ( ) 『 左 経 記 』長元四 年六 月 二 十七 日 条 。 増 補史料大成に依 っ た 。 ( ) 野口実「千 葉 氏系 図の中の上 総 氏」 (峰岸 純 夫・入間田宣夫 ・ 白根靖大 『 中 世 武家系 図 の 史料論』 上 巻 、高 志 書 院 、 年) 。 ( ) 『指 宿 文 書 』 号(鹿児島県歴史資 料 センター 黎明 館編『 鹿 児島県 史料』 旧 記 雜 録 拾 遺 、 家 わけ 十 ( 鹿 児 島 県 、 年 ) 所 収 。 文 書 番 号は 同 書 に依る。 ) 。 ( ) 『 源 平闘諍録 』巻一―一 、 自桓 武天 皇平家之一 胤 事。 ( ) 千葉氏の嫡 宗観念については 福 田豊彦「 『 源 平闘諍録』―そ の 千葉氏 関 係の 説話 を中心とし て ―」 ( 『 東京工業大 学 人文 論叢 』 号、 年) 、 同「 『 源 平闘 諍 録 』の 成立 過 程 ―千田 合 戦と 伊藤 三女 の 二 説 話 を中心 に ― 」 ( 『 千葉県 史 研究』 号別冊、 年) 、野口実「 千 葉氏の嫡 宗 権 と妙 見 信 仰― 『源平闘 諍録』 成 立の前提 ― 」( 同編 『 千葉氏の研 究』 名著 出 版 、 年、初出年) な ど を参照 。 この嫡宗 観念およびそ れを反 映 し た神 代本・ 『 源 平 闘諍 録』と中条本の関 係に ついては、別 稿を 準備中 のため 、 そちらに 譲 りた い。 ( ) 註( )参 照。 ( ) 『千学集抜粋』千葉家 御 代 々 の 事 。 紀元二千六百年記念 房 総叢書刊行会 編『房総叢書』三巻 、 史伝一(紀元二千 六百 年 記 念 房 総 叢 書 刊 行 会 、 年)所収。なお、同書 では『千学集抜粋』を 『千学集抄』と表記して いる 。 ( ) 丸井 敬 司 「 「 千葉氏系 図附幕之次第」 ( 『 旧 妙 見 寺 文書』 ) と千葉氏 につい て」 ( 『 研究 紀 要 』(千葉市立 郷土博物館 ) 号、 年) 、 同註 ( ) 『千葉氏と妙見信 仰 』 。 大 椎は 上総国山辺 郡 に 属 すが、千葉氏系の勢力の入 部が 確実に分かる のは、応 永年間 ま で下り( 『大慈 恩 寺文書』 (紀元 二 千六 百年記 念 房 総 叢 書 刊行 会編『房 総 叢 書』 一巻 、縁 起 及 古 文 書(紀元 二千 六 百年記念 房総叢書刊行会 、 年) 所収) 、 溯 っ ても大慈恩 寺 を創 建 し た と 伝 え る大 須 賀氏 の 入 部 す る 鎌 倉初期で あ り 、 当 初 は 同じ く山 辺郡 南 西部の土気郡の「 戸 氣 五郎」 長 実( 常晴の子)や、 「 大椎五郎」惟 常(常 澄 の 子 ) の勢 力 下 に あ った と考 えら れ る 。 丸 井 氏 は 相 馬郷 が 常 晴 か ら 甥 の 常重 に渡さ れ る 際 に、 交 換 する 形 で 常晴 流に 引き 渡さ れ 、 そ れ は下 総 を 拠 点と する常重 らの千葉 氏系と上総 を 拠点と す る常晴らの 上 総氏系で 、それ ぞれ所 領 を 同 じ地 域に 集中さ せる 意 図があっ たと見 る 。 ( ) 『房 総叢書』三 巻 解題。 ( ) 『 千 葉 大 系 図 』 の 常重 の 注 記 に は 「 保延 元 年 乙卯 二 月 、譲 二 与累代所 領 於 二 嫡子常胤 一 、乃 任 二 下総 介 一 。於 レ 是、称 二 常重 於千葉大介 一 。爾 来父 在 レ 之時、其子 任 レ 介、 則号 二 父於 大介 一 、始 レ 于 レ 此。 」 と ある。 『 千葉大系 図 』 も成立は近 世 のため鵜 呑みにはでき な いものの、留 意すべき 記述と 言 え る 。 ( ) 野口 実註( )論 文。 ( ) 『吾 妻鏡』同日 条 。新訂増 補国 史大系 に 依った。 ( ) 千葉縣史 編纂審 議 會 編 『本土寺過 去 帳』 (千 葉縣史料)千葉県、 年。 ( ) 丸井 敬司「資料 編 (九 州千 葉 氏 伝 来 の 系 図) 」( 『 研 究紀要 』(千 葉市立郷 土博物館 ) 号 、 年) 。 ( ) 『 千 学 集 抜粋』 千 葉 家 御 代 々の 事。 ( ) 福田 豊 彦 註 ( )論文 。 ( ) 註( )福 田 豊 彦 ・ 服 部 幸 造 全注 釈 『 源 平 闘 諍 録 ― 坂 東 で 生 ま れ た 平 家 物語―』の 成 胤養子説の注釈参照 。 ( ) 野口実「 上総千葉氏 に ついて」 ( 『 中世東国 武士 団の研究』高科書 店 、 年、 初 出 年) 。 ( ) 野 津 本『北条系 図 』と入来院本『平氏系 図』の翻刻と評価は、田中稔 「史料紹介 野津 本『北条 系 図 、大友系 図 』 」( 『国立歴史民俗博物館研究報 告』集、 年 ) 、 山 口 隼正註( )論 文をそれ ぞれ参照。
―― ―― ( ) 福田 豊 彦 註 ( ) 論 文「 『 源 平闘諍録』の 成立 過程―千田合 戦と 伊藤三 女の二説話を中心に ― 」 。 ( ) 白根靖 大 註() 論文。 ( ) 『 千 葉大 系図』 ・ 『千学集 抜粋』が 建 治 元( )年八 月十六日、 『本 土寺過去 帳 』 が文永 十 一( )年八 月 二十六日、 『平 朝 臣徳嶋系図』 が建治 元 年八 月十五 日 とし 、い ず れ も 没 年 齢 を三十 七 歳と する。 ( ) 野口 実「慈 光寺本『承 久記』の史料 的評価に関する一考 察 」( 『京 都 女 子 大学宗 教 ・ 文化研究 所紀 要』 号、 年) 。 ( ) 前掲の 交 名の他、 『吾妻 鏡 』仁治二年八月十五 日 条に「上 総式部丞」 、 同 年十一月 四日・ 寛 元 元 年 七 月十 七日・ 同 三 年八 月 十五 日・ 十 六日・ 同四年 八月十五 日・宝治元 年 六月十一 日条に「上 総 式部大夫 」と見 える。 ( ) 『 平 戸記』 寛 元二年正月 二 十三日条 。増補 史 料 大 成に依っ た。 ( ) 政秀 は 『 吾 妻 鏡』 仁治 二年八 月 二十五 日 ・ 寛 元元年 八 月 十五 日・ 宝治元 年六 月七日条にも 「 修 理 亮 」と見え て い る。 ( ) 『吾 妻鏡 』では寛 元三年八月十 五日 ・宝治 元 年六 月七 日 ・ 十 一 日条にも 見え る 。 ( ) 前掲の 『 吾妻鏡』 の交名 に 記された 「自 殺討 死」 した 人々は百 八名だが、 上総秀胤 追討以前の 三浦氏一党の死者だけ で も「宗た る輩」に限っ ても二 百七十六人に 及んだ( 『吾 妻鏡』宝治元年六月五日条)ことか ら考えて、 交 名 は抄録と考えるべきだろう。 (高橋秀 樹 「宝治合戦 記 事の 史料論」 ( 『 三浦一族 の研究』 吉川弘文館、 年) )その 意味で『吾妻 鏡』に 名が 見え な い上総秀 綱 の実在そのも のは必ずしも否定 できな い が、交名自 体は 合戦後に 作成 さ れ た報 告書 な ど を素材としていると考えれ ば、 神 代本 の記 事に よって時秀 ・ 政秀・泰 秀に関する交名の記 事 を 覆 す こ と は できま い。 ( ) 延慶本『平家物語』巻九―二十、源 氏三 草 山 并一 谷 追 落事 。以下 、 延慶 本 『平家物語 』 は 延慶本注釈 の 会 編 『延慶本 平家物語全 注 釈』 (汲古 書 院、 年~)を参照 した 。 ( ) 『 吾 妻 鏡 』宝 治 二 年正月 三 日条。 ( ) 『香 取神 宮文書』九号文 書 。文書番号は千 葉 県史 編纂審議会編『千葉県 史料 中世 篇 香取文書 』( 千葉県、 年)に依 った。 ( ) 『中山法華経寺 文書』 、 号文書 。 な お、 『中山法華経寺文書』 は 『 千 葉県の歴史』 巻、資 料 編中 世 (県 内文 書 ) ( 千 葉 県 、 年 ) に依り、文 書 番号は同 書に従った。 ( ) 治承四 年 六月二十七日 ・十二月 十二日、寿永元年七月 十二日、文治元年 十月 二十 四 日、 同 四年 三月十五 日 、 同五年 六 月九日・八 月 十 二日・ 二十五 日、建久 二 年 二月四日 、同三年十 一 月二十五 日、同四年 正月一日、 同五年 八月八日、同六 年 三月十日 の各条で は 「 千葉」 、 治承四 年 九月十三 日 ・ 十 七日、元暦 元年 二 月五 日、建久五 年 十月二十 九日・十二 月 二十六日 の 各 条 では 「東 」とされ ており、終 止 混用され て い る 。 ( ) 『円 福寺文書』 正 和二年 四 月二十五 日 付 「 関 東下 知状案」 ( 海 上町 史編 さ ん委員会 編『海 上 町史』史料 編( 原始・古代・中世 ・近世() ) 海 上 町役 場、 年に 所収 。) に「橘 庄 号 二 東庄 一 」とある。 ( ) 『法然上人行状画図 』 四十三。大日本史料 五 編 四 冊、安貞二年十 月 十二 日の項 に 依 っ た。 ( ) ともに註( )海 上町史 編さん委員会 編 『 海 上町史 』 史料 編( 原 始 ・ 古代・中世 ・ 近世( ) ) 所 収 。 ( ) 野口 実 「 中世東国武家 社会 における 苗字 の継承 と 再生 産―吉 川 本『吾妻 鏡』文治 二年 六月 十一日条の「相 馬 介」 をめぐっ て ― 」 (同編『 千 葉 氏の 研 究 』名 著出版 、 年、初出 年) ( ) 丸井 敬 司 註( )「 「千葉氏系図 附 幕之 次 第」 ( 『 旧 妙 見寺文書』 ) と千葉 氏 に ついて 」 論文。 ( ) 『櫟 木文書』久 安 二年八月 十日付 下 総国平常胤寄進状( 『 平安遺文』 号) 。 ( ) 『 令 集 解 』 巻 九、戸 令 聴 養 条 。 新 訂 増補 国史 大 系 に 依 った 。 ( ) 『肥 前河上神 社 文書』文治 五年十一月 日 付 橘 成弘解案( 『 鎌倉遺文 』 号)な ど 。 ( ) 高橋秀樹「在地領主 層 における 中世的「家」の成立と 展開」 ( 『 日 本中世 の家 と親 族 』 吉 川 弘文 館 、 年) 。 ( ) 竹 内 利美「家 族移動慣行 の 展望」 ( 『家 族慣 行 と 家 制 度 』恒 星 社厚 生閣、 年) 。 た だし 、前 註高 橋秀 樹論文で は 、 家督相 続にあたっ て実孫 や 実 弟 が養 子 と なるの を義務 づけ ら れるよう に なるの は 十 四世紀 に 入っ て
―― ―― から であ る と す る 。 ( ) 野口 実 註 ( )論文 。 ( ) 『源 平 闘 諍 録 』 巻 五― 五、権 亮 維盛於 討手 使 東国 下 向事 。 ( ) 『 吾 妻 鏡 』治 承四年十月 二 十日条。 ( ) 醍醐寺本 『醍醐雑事 記 』巻七・八紙背久寿 二 年 下 総 前権介平常 澄 解 ( 『 平 安 遺 文 』 号 ) 。 ( ) ただし 、 四 部合戦 状本『平家 物語』では、 「 印 南 介常義」 とする。 ( ) 『 鎌 倉大日 記 』は弘常の 誅 殺を 寿永 二 年 十二月 二 十二日 と する 。 ( ) ただ し 『 鎌 倉 年代記』 裏書 は越中砺 波 山 合戦、加賀 藤 早 ( 篠原 力 ) 合 戦 、 義仲・行 家の入京、 法 住寺合戦 な ど 、寿永 二 年のでき ごとの記 事に 続けて 弘常・能 常誅 殺の記 事 を載せて いる ことか ら 、こ れは寿永 二年の記 事を取 り違えた ものと考え ら れる。ほ かの裏書の 年 号表 記で 「元年」はあ っても 「一年 」 と表 記 す る も のが無 い ことも、 「二年 」 の 誤 記・ 誤写 で あ ることの 傍証になるだ ろ う 。ただ し 、 『 吾妻鏡 』 元暦元年正月十七日条で引 用され る弘常願 文の日付は治承六( )年 = 寿永元年 の 七 月であり 、誅 殺 事件まで やや時期 差 が あること や、寿永元 年 十二月三 十日条に所領 安堵の 記 事 があ る上総国御 家 人周西次 郎助 忠は、 弘 常が頼朝 と合 流する際 に連 れ てきた軍勢に「周西」の輩が 見 える( 『 吾妻 鏡』治承四年九月 十九日条) ことから 弘常の影響 下 にあった 人物と思わ れ 、この安 堵が弘常誅 殺 に関わ るもので あったと す る と、弘常 誅殺に関わ る 『吾妻鏡 』の記 事 には 年次の 混乱 があ る可 能性もあ る。 なお 、 『 鎌倉年代 記』と前 註の『 鎌 倉大日記』 は増 補 続 史 料大 成『 鎌 倉年代 記 ・ 武 家年代 ・ 鎌倉大日記』に依 った。 ( ) 『源 平 闘 諍 録 』 巻 五 ― 八、 上 総 介 与 頼 朝 中 違 事 。 ( ) 『 吾 妻 鏡 』寿 永元年八月 十 一日条。 ( ) 『類 聚三代格』巻五、天 長 三年九月六日付 太政 官 符。新訂増 補 国史大系 に依 った。 ( ) 例え ば 『 兵範記』 保元元年七月二日条で は 上総介源 資賢を 「上総守」と 表 記 する。 『 兵範記』 は、除目 の 引 用記事などを 除く と 、 親 王 任国の 上総・ 上野・常陸の 「介」を 「守」と 表 記 する例は多い。 な お、 『兵 範記』は 増 補 史 料大 成を参 照し た。 ( ) 『 吾 妻 鏡 』元 暦元年正月 十 七日条。 ( ) 野口 実註( )論 文。 ( ) 『源平闘諍録』巻 五―一 、 兵 衛 佐催坂東勢事 。 ( ) 野口実「 『吾妻 鏡 』における 人 名表記 ― 両総平氏 を素 材として―」 ( 『 中 世東国武士団の研究』 高科書店、 年 、初出 年。 )
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