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アンガージュマンの文学再考 - 「政治と文学」をめぐる一考察

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(1)奈良県立大学 「研究季報」 第19巻 第 2 号 (2008年11月30日). アンガージュマンの文学再考 - - 「政治と文学」 をめぐる - 考察 堀田. 新五郎. 目次 0 . は じめ に : 問題 設 定. 1.. 「政治と文学」 をめぐって. 2 . ア ン ガー ジ ュ マ ンの 文 学 3 . ア ン ガー ジ ュ マ ンの 文 学 再考 4 . むす びにか え て. もし文学が全体 (tou t) でなかったら、 一時間の努力 にも値しないだろう。 私が 《アンガージュマン》 というのはそ (サルトル). の こ と だ。. マ ー シ ャ : そ れで も 意 味 は ? ト ゥ ー ゼ ンバ ッノ\ : 意 味 … … ほ ら 雪 がふ っ て ゐ ま す。 どん な 意 味 があ り ま す ?. (チ ェ ー ホ フ ). 0 . はじめに :問題設定 第二次大戦をはさみ、 日本で 「政治と文学」 という テーマが執拗に論じられたことがある。 だがその場 合、 政治と文学は 「と」 で並列されるべき同位性を認められていたのであろうか。 議論は文壇で文学者た ち によ っ て担 わ れ、 政治 学者 が積極 的 に関与 した 形 跡 は な い。 こ の事 実 は、 「政治 と 文 学」 という テ ー マ が、. 常に文学の側の問題と捉えられていたことを表すのではなかろうか。 幾度にもわたる論争のなかで、 文学 の 政治的効 果や、 文 学の 政治 か らの 自立 如何 が問 わ れてい た の である。 脅 かさ れ、 アイ デンティ ティ を問. われていたのは文学であり、 政治ではない。 「政治と文学」 は、 政治の優位あるいは自明性を前提に、 文 学問 題 と して論 じら れてい た の である 1。 例 え ば、 文 学 を 政治 的 プロ グラム に同調 さ せ、 「社 会の た め の 芸. 術」 を唱える論者も、 逆に政治と文学の対蹠的な意味を強調し、 「芸術のための芸術」 を訴える論者も、 「政治的なもの」 については疑うことを知らない。 それは、 社会秩序の構成 ・維持 ・変革 ・破壊をめ ぐる 現実 の - - 文 学的im ag ination では なく-- 一 パ ワ ー ゲー ム と して捉 え ら れてい る の で ある。 「政治」 と いう 定. 点から如何なる距離をとるべきか、 論争の中心には常にこの問題意識があっ た。 しかし、 「政治と文学」 という テ ー マ を、 少 なく とも20 世紀 の 経 験 にお い て思 考 する とき、 自明 性 を 疑 わ れアイ デンティ ティ を問 わ れる の は、 ひとり 文 学 に 限ら れる の であ ろう か。 そ してま た、 「政治 と 文 学」 と いう 問題 は、 「政治 vs文 学」 という 枠 組み に収ま らな い 射程 を 持つ こ と になる の で はある ま い か。. 本稿は、 斯様な問題関心を軸に、 「政治と文学」 に関して以下のような諸問題提起を行い、 それに対し て暫定的な回答を与えるものである。 ① 「政治と文学」 は時代を超えた普遍性を有すると同時に、 ある時代状況に特有のテーマではないか。 19 世紀末から20世紀にこの問題が浮上したのは何故か。. -. 1. -.

(2) ② 「政治と文学」 の20世紀的課題とは何か。 それは、 実存主義の文学 ・政治思想に典型的に表れているの で は ない か。 ③ フラ ンス 実存 主 義 の代 表的作 家 ・ 思 想 家J‐p ・ サ ル トル が唱 え た 「ア ン ガー ジ ュ マ ンの 文 学」 と は何 か。 そ こ で は、 文 学的 creation と 政治 的 constitu tion が贈 与 論 と して結 合 している の で は ない か。. ④贈与とその (不) 可能性をめ ぐる文学 ・政治思想は、 政治的メシア主義の危険性を回避しうるのか。 「政 治と文学」 の20世紀的課題を、 サルトルとは別の角度から追求することは可能か。 ⑤1970年代以降、 「政治と文学」 が論じられなくなるのは何故か。 現代の政治状況の中で、 「政治と文学」 は魅力 的 な テ ー マ とな りう る か。. 1 . 「政治と文学」 をめぐって ここでは、 上記①②の問題を取り上げる。 戦後まもなく、 所謂第 1 期 「政治と文学論争」 が 『近代文学』 (荒正人 & 平野謙) と 『新日本文学』 (中野重治) との間に交わされていたころ、 福 田恆存は 「一匹と九 十九匹と」 (1947年) という批評において、 政治と文学の決定的な対立構造を訴えている。 ぼくはぼく自身の内部 において政治と文学とを截然と区別するよう につとめてきた。 その十年あまりのあいだ、 こ う した ぼく の 心 を つ ね に領 して い た ひ と つ の こ と ば が あ る。 「な ん じら の う ち た れ か 百 匹 の 羊 を も た ん に、 も しそ の. 一匹を失わば、 九十九匹を野におき、 往きて失せたるものを見出すまではたずねざらんや。」 (ルカ伝第十五章) (…) このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に感取した精神のそれであると、 ぼくはそうおもいこんでし まったのだ。 (…) 善き政治はおのれの限界を意識して、 失せたる一匹の救いを文学に期待する。 が、 悪しき政治は文 学を動員 しておのれにつかえしめ、 文学者にもまた一匹の無視を強要する。 (…) しかし善き政治であれ悪しき政治で あれ、 それが政治である以上、 そこにはかならず失せたる一匹が残存する。 文学者たるものはおのれ目身のうちにこ の一匹の失意と疑惑と苦痛と迷いとを体感していなければならない。 (原文改行) この一匹の救いにかれは一切か無か を賭 けて い る の で あ る。 な ぜ な ら 政 治 の 見 の が した 一 匹 を 救 い と る こ と が でき た な ら ば、 か れ はす べ て を 救 う こ と が でき る の であ る。 こ こ に 「ひ と り の 罪 人」 は か れに と っ て た ん な る ひ と り で は な い。 か れ は こ の ひ と り を と お して 全 人 間を み つ め て いる。 (福 田 194 7 : 379‐8 1). M .ヴ ェ ー バ ー が 強調 した よ う に、 宗 教 と 政 治 は そ の 倫 理 性 を 異 に す る。 前 者 の 「心 情 倫 理」 (G esinnun g sethik ) は、 行 為 の 倫 理 基準 を心 情 の 一 義 的 純 粋 さ に 求め、 結 果 を顧 慮 せ ず、 究 極 の価 値 目 的 に献 身する の である。 した が っ て、 一切 の 計算 を排 して、 交換 不 可 能 な 単独 者 「こ の 一 匹」 の 救 い に賭 け な け れ ばな ら な い。 こ れ に対 し政 治 に要 請 さ れる 「責 任 倫 理」 (淀 rantw ortun g sethik ) は、 行 為 の 結 果 を予. 見し、 手段の有効度を考量する。 政治的行為者は、 結果責任を他者 (神、 運命等) に転嫁することは許さ れず、 した が っ て、 九十 九 匹を 危 険な 野 に放 置 したま ま、 一 匹の 救 済 に走る こ と があ っ て はな らな い。 計 算 不 可 能 な 実存 の 重 み を あ え て計算 する こ と、 こ れ が 政治 に課せ ら れた デモ ー ニ ッ シ ュ な使 命 である。 上. 記引用において福田は、 このような政治と宗教の倫理的相違を、 政治と文学の関係へと変奏する。 なるほ どデリダが論じているように、 固有名詞こそが文学であり、 文学には固有名詞しか存在しないのであれ ば、 「この一匹」 の救いに賭けることは、 単独性を表し現す固有名の救済であり、 文学の課題かもしれない (デリダ1987 : 73)。 そして福田がいうように、 文学は 「ひとりの罪人」 のうちに罪それ自体を捉え、 そ の 救 済のう ち に全 き 救 済 を見 る。 こ れ に対 し政治 は、 コ ンテクス トを考 量 しつ つ、 全 体 を思 案 する も の で あ ろう。 だ が文 学 は、 レ ヴィ ナス を 援用 す れ ば、 「コ ン テク ス トなく 意 味 する こ と の 可 能 性」 つ ま り は 固. 有名の可能性に賭けることではなかろうか。 その際には、 「全体性を踏み越えた存在が、無限なものと関係. -. 2. -.

(3) する こ と に なる の である 」 (レ ヴィ ナス 2005 : 19)。. さて、 いずれ 「政治vs文学」 の核心に、 単独性に対する応答の違いが認められるのであれ ば、 「政治と文 学」 という テーマが普遍性を持つことは論を待たない。 単独者か共同存在か、 あるいは、 個と全体の関係 は如何にあるべきか - - およそこう した問題と格闘しない政治は考えられず、 そしてこの問題では 「政治 と 文 学」 が問 わ れ て いる と い っ て よ い か ら で あ る。 同 時 に、 単独 性 へ の 応 答 に注 目 す る こ と は、 「政 治 と. 文学」 がレリーフされる特定の時代状況をも明かすこととなろう。 端的にいって、 それは共同存在の自明 性 が崩 れる と き で あ る。 例 え ば 「私 の 国 は、 こ の 世 に属 して は い な い 」 (ヨハ ネ 一 人 ・ 36) とイ エス が語. りかける とき、 神に直結する魂の単独性が現れる。 霊的領域は水平の繋がり-- ‐カエサルの支配一一から 切断され、 垂直へと向かうのである。 これは、 政治的共同体における 「善き生活」 を至上とするギリシャ 以来の伝統が相対化されたことを意味しよう。 福田はここに動かされたのである。 さて、 イエスの出現が 「政治と文学」 をめ ぐる特権的なシーンであるとすれ ば、 「神の死」 もまたそう ではあるまいか。 19世紀末から20世紀半 ば過ぎまで 「政治と文学」 は盛んに論じられているが、 この時代 もまた自明性の喪失によって特徴づけられている。 「政治と文学」 という観点から見るならば、 ここでは対 照的な二つの方向性を指摘できよう。 だがそれらはともに、 功利性が支配するブルジョワ社会への否定に よって貫かれている。 第一に、 共同体あるいは既成のものすべてから脱却し、 単独性や固有性を直接肯定 しようとする方向が認められるのではないか。 「芸術のための芸術」 「作品のための作品」 として表される この傾向は、 何か別ものの手段としてではなく、 それ自体が目的となるべき単独性を称揚する (A fo r A )。 こ れは、 功利 性の シス テ ム が現在 を未 来 へ とせ き 立 て、 A. fo r B fo r C fo r D fo r. … という形で手段を無限. 連 鎖 さ せる こ と へ の 美 的 反 抗 と い え よう 2。 第 二 に、 こう した 美 的 反 抗 と ブル ジ ョ ワ 社 会 の 隠さ れた 共 犯. 関係を暴き、 既存の共同体を現実的 ・政治的に顛覆させようとする方向がある。 無論、 これがマルクス主 義とその美学に他ならない 3。 「政治と文学」 をめぐる狭義の議論は、 この二つの傾向のせめぎ合いと捉え る こ と ができ よう。. では、 19世紀からこう した緊張関係を受け継いだ20世紀独自の課題とは何か。 この世紀に特異な出来事 とは世界戦争である。 第一次、 第二次大戦、 相互確証破壊 (M A D ) により 「狂気の均衡」 を保つ冷戦、 20 世紀は戦争の世界化とともに、 生活世界全体の戦争化をもたらした。 「神の死」 の帰結として、 「世界喪失」 が- -- im ag ination や rep resentation と して で は なく-- 一 現 実 体 験さ れた の である。 政治 が社 会秩序 を め ぐる 運動 である と して、 秩序 がそ れを背 景 に築 か れる べ き 世界、 土 壌 と しての 世界 のリ アリ ティ が失 わ れて し ま っ た。 な ら ば、 政治と いう 営 為 そ の も の の 存 立 が問 わ れな け れ ばなる ま い。 意 味連 関 と して の 世 界 が瓦. 解し、 存在の不条理な戯れが露呈する事態、 これを描き出したのは実存主義の文学者たちである。 サルト ルやA .カミュの初期作品では、 既存の価値体系の外部で生きる異邦人たちが登場する。 彼らは古い世界、 存在者に安定した地位 ・役割を附与していた秩序を懐かしんではいない。 不条理あるいは純粋偶然が存在 の実相と心得ているからである。 実存者は独り虚空に投げ出され、 しかも神はいない。 しかし彼らはその 虚空のなかで新しい価値 = 作品を創造し、 これを媒介に人々の連帯を呼びかける。 なら ばここ には、 世界 喪失の後に人間の土地を再生しようとする、 文学と政治の根源的な近さが窺われるのではないか。 人類史 の曙、 文学の始まりとしての神話は、 存在を意味づけ世界を形作る行為である。 それが同時に、 共同体に 来歴と正統性を与える原初的政治でもあるなら ば、 世界戦争による世界の瓦解は、 文学と政治の共通性を 再 び 明 かす も の の よう に思 わ れる の である 。 以 下、 サ ル トルの 文 学 論 に焦 点 を据 え、 こ こ で提 起 した 仮 説を 検証 した い。. -. 3. -.

(4) 2 . アンガージュマンの文学 ここでは上記③の問題を取り上げる。 公刊された最初の哲学的ロマン 『幅吐』 (38年) において、 サ ル トル は、 言 語 によ っ て 分節 化 さ れた 世界 が崩 れる 様 を執 拗 に描 き 出 している。 有名 な マロ ニ エ 体 験 - -. 意味世界という上塗りが剥がれ、 即自存在の赤裸々な露出に吐き気を催す場面 - - を経ることによって、 主 人 公 ロ カ ンタ ン は存 在 の 啓 示 を 得 る。 《存 在 す る も の (6tre = 十全な意味を有するもの) は、 現実存在 (ex istence ) しな い。 現実 存在 する も の は、 す べ て無 意 味な 余 計 も の と して 現 実存 在 する》 。 ロカ ンタ ンは. 呟く。 「円は不条理ではない。 何故なら、 円とは - 有限直線の一端の回転という定義によっ て十分に説明 さ れる か ら である。 した が っ て 円 は現 実存 在 しな い。 (… ) 円 と 同 様 に黒 は 現 実存 在 しな い」 (N 153‐4 :2 12‐ 3)。 こ こ か ら ロカ ンタ ン は、 ある 倫 理 的 帰 結 を引 き 出 す。 そ れは、 ex istence を6treと見なす 「自己欺胴」 ( m au v aise fo i) へ の批判 である。 モノ と しての 即 目 が余 計 も の であ る こ と にも 自 己充足 する の に対 し、 意. 味づける意識としての対自存在は、 無意味であることには耐えられない。 したがって、 自己を何かしら本 質規定し、 そこに充足せんとする誘惑が、 対自には常に付き纏うこととなるのである。 『幅吐』 の中では、 そ れは特 に、 ブル ジ ョ ワ の あ り 方 と して描 か れている。 町の お偉 方 は、 自 らの 地位 を 本 性 と して捉 え、 疑. うことを知らない。 それは、 偶然性から生じる実存的不安を覆うための意味づけが、 揺るぎない本質必然 的 意 味 と して捉 え 返 さ れる 欺 胴 を 表 している。 こう して ブル ジ ョ ワ を否 定する ロカ ンタ ンは、 実存 の 真相 に付 き 従う 倫 理的 存在 者 た ら ざる をえ ない。 で は、 ロカ ンタ ンは何 を為 す べ き か。. 『幅吐』 の末尾では、 偶然性から浄化される唯一の可能性が提示されている。 それが、 芸術創造に他な らない。 では、 芸術作品が表現する美とは何だろうか。 サルトルの定式によれ ば、 美とは 「即目 = 対目」 としての 「存在」 (6tre) であり、 ゆえにそれは現実存在するものではない。 芸術創造とは、 現実存在しな い 限り での 美 を、 im ag e と して描 き出 す こ と だとい えよう。 例 え ばロカ ンタ ンは 音 楽 によ っ て 「吐き 気 」 か ら解 放 さ れている。 ジ ャ ズ の 緊密 な持 続の 中 で、 一 つ 一 つ の 音 は 選 びぬ か れてそ こ に 「存 在 」 し、 己の 意. 味 ・役割を汲み尽くしては消えていく。 したがって、 作品としての音楽は必然性の連鎖として、 自己充足 する自己超出として、 すなわち即目かつ対自として、 硬質な輪郭を維持したまま疾駆するのである。 音楽 は現実存在しない。 バラバラに解体された音たちや絵の具たちが現実存在する としても、 持続としての音 楽、 形象としての絵画が現実存在することはない。 サルトルによれば、 美はあくまでも現実存在に現前す るものだからである。 それゆえ、 現実存在する私が、 美によって清められ、 美の揺るぎない必然性に与す る こ と が可 能 だと 考 える な ら ば、 im ag e を現 実 と 取 り 違える 錯 誤 を 犯 す こ とと な ろう 5。 ロカ ンタ ンは、 「観 賞 家 」 と して美 = im ag e に救 済 を見 た わ け で はな い。 彼 が 求め たの は、 美 の 「制 作 者」 と なる こ と で ある。. ジャズの音たちが必然の連鎖として 「存在」 するのは、 選 びぬく作曲家がいたからである。 作品を創造す るとき、 彼ら芸術家は小さき神として、金 岡のような6treの秩序を現出させる。 神の似姿として 「存在」 を創 り 出 し、 「現実 存在 する 罪 か ら洗 い 清 め ら れる 」 (N 242 :289) こ と、 ロ カ ンタ ンが最 後 に見 出 した行 為 と は こ れで ある。 彼 は 「一篇 の 物 語、 起 こ り え な い よう な 一 つ の 冒 険」 を 書 こう と す る。 「そ の 物 語 は鋼 鉄 の. よう に美 しく 硬く、 人 びとを して彼 らの現実存在について恥 じいらせるものでなけれ ばならない」 (N 2 10 :290)。 で は、 こう した ロカ ンタ ンの 書物 は、 『文 学 と は何 か』 (47年 ) で提 起 さ れた ア ン ガー ジ ュ マ ンの 文 学 と い える であ ろう か。 第 一 義 的 に は否 である。 という の も、 ロカ ンタ ン が音 楽を モ デル に 「存 在」 の 秩序 を. 現出させる とき、 それは散文の言語使用というよりも、 詩のそれを意識しているように思われるからであ る。 しばしば批判的に言及されるように、『文学とは何か』 においてサルトルは、 散文と詩を区別した。 詩 は、 音 楽 や 絵 画 と 同 様 に、 揺 る ぎな い モノ (ch oses) の 秩序 を 構 成 する。 詩 の 言 葉 がそ れ 自 体 で 目 的物 と なる の に対 し、 散文 の 言 語 は、 伝 達 を 目 的 と す る 透 明 な 記 号 (sig nes) な い し意 味作用 (sig n in cations) と. -. 4. -.

(5) 捉 え ら れている。 した が っ て、 人々 を 覚醒 し、 政治 参加 を 促 す ア ン ガー ジ ュ マ ンの 文 学 は、 散文 によ っ て 果た さ れる とサ ル トル は主 張する の である。 ロカ ンタ ンに は 語り 合い、 せ め ぎ合う 他 者 がい な い。 彼 は最. 後まで独り異邦人に留まっている。 ゆえにその創造行為は、 政治的実践ではなく、 孤独な美的反抗と見な さ れる べ き であ ろう 6。. なら ば、 倫理 ・政治的な価値を提起する 「実践の文学」 とは如何なるものなのか。 それは何よりも、 瓦 解 した 世界 を、 人 間の土 地 へ と 再生 する こ と である。 しか し、 如 何 なる 世界 を 新 た に立ち 上 げた らよ い の. か、 その価値基準は何なのか。 世界戦争後は 「洪水後」 (apres d61u g e ) と 称 さ れる よう に、 既 存 の 価 値 体 系 は無 に帰 している。 した が っ てサ ル トル は、 無 か ら、 無 根拠 に、 各 自 が選択 する 他 な い と いう。 実 際、. 『実存主義とは何か』 (45年講演、 46年刊行) では、 「それが自由なアンガージュマンの次元であるなら ば、 人 はす べ て を 選 びう る 」 (E H 88‐9 :7 8) と 主 張 して いる。 だ が、 ナ ビ ゲー タ ー な しに 各 自 がそ れ ぞ れの 世界 を創 造 する の であ れ ば、 そ こ に は全 き ア ナ ー キ ー ある い は 「神 々 の 闘争 」 が現 れる 他 は な い。 サ ル トル に 対 して、 し ば し ばニ ヒリ ズ ム と の批 判 が寄 せ ら れる 所 以 である 7。 しか し上 記引用 で は、 「そ れ が自 由な ア ン ガー ジ ュ マ ンの 次 元 であ れ ば」 という 限定 が付 さ れてい た こ と に注 意 しな け れ ばな らな い。 ロカ ンタ ン が捉 え た 存 在 の 実相 「ex istence≠6tre」 は、 「自 己 欺 胴 を排 せ」 という 倫 理 を 生 じさ せ た が、 こ れは 各 自 の ex istence が、 回 収不 可 能 な 自 由 で ある こ と-- ‐ そ れ は 同 時 に永 遠 の 宙 吊り 状 態、 不 安 のう ち にあ る こ と な. のだが- -- を意味している。 『存在と無』 (43年) で詳述されたように、 人は存在論的には自由以外ではな い。 しか し、 自 己 欺 胴や 圧 制 によ っ て、 存 在 的次 元 で は至る 所 で 鉄鎖 に 繋 が れている。 ゆ え にサ ル トルの. いう 「無からの創造」 には羅針盤がある。 存在的次元での具体的な自由が、 選択の価値基準なのである。 以 下、 これを 『文学とは何か』 から確認しよう。 サ ル トル は 時代 の 経 験 と して、 ソ ー セ 街、 テュ ル、 ダッ ハ ウ、 アウ シ ュ ヴィ ッ ツ な どの名 を 挙 げ、 次 の よう に書 い ている。 我々 現代 の 作 家 たち (カ ミ ュ、 マ ルロ ー、 ケ ス トラ ー、 ルー セ な ど) は、 「〔人 間 を〕. 無から出発して、 無のために (理由なく)、 絶対の無償性のなかで、 創造しなけれ ばならなかった。 何故 な ら 人 が、 手段 と 目 的、 諾々 の価 値 (… ) を 識別 できる の は、 人 間的 な も の の 内部 にお い て である の に、. (…) いまだ世界創造の段階にあり、 動物界より以上の何ものかが、 世界創造のうちにあるかどうかを、 ともかくも決定しなければならなかったからだ」 (Q L 220 :208‐9)。 「創造行為の目的は、 (…) 世界の全体を 取り戻す ことである。 (…) 存在の全体性を取り返し、 観察者の自由に向かっ て差し出すのである」 (Q L 64 :65)。 「した が っ て、 自 分 自 身の た め に書 く と いう の は 真 実 で は な い。 (… ) 作 者 と 読 者 と の 結 び つ け ら れた 努力 が必 要 である。 他 人の た め の、 ま た 他 人 による 芸 術 の 他 に芸術 は あり え ない 」 (Q L 49‐50 52 )。 「作 家 は 自 由な 人間 に 語り か ける 自 由な 人 間 であ っ て、 作 家 にはた だ一 つ の 主 題、 自 由 しかな い」 (Q L 70 :7 1)。. 整理しよう。 ここには次の事柄が書かれている。 ④有意味な世界の瓦解 ⑤無からの世界創造 = 人間の. 全体性の回復 ⑥世界及び人類への責任 ④他者への世界贈与 ⑥ ア ルケ ー かつ テロス と しての 自 由 文学がかくも全体性に関わることであれば、 政治ともまた不可分の関係を有するといえよう。 作家の政 治参加という場合、 状況に強いられた非政治的人間が政治へと引き摺り込まれるイメージが強い。 しかし 実存 主 義 者 はこ の 限り で はな い。 彼 らの ライ トモ チ ー フ が、 世界 の 無 か らの 再 生 にある 以 上、 政治と の 関. 係は本質必然的なのである。 しかもそれは、 秩序を前提に、 価値の権威的配分をめぐる 「技術的な政治」 で は ない。 革命 的 なそ れである。. 『文学とは何か』 の同時代に書かれた 『倫理学ノ ート』 (47‐8年執筆、 83年刊行) では、 秩序を無から constitu teす る 革命 的暴力 と芸 術 創 造 が、 黙 示 録的 な場 にお い て結 合する と 論 じら れて いる。. 人間の契機、 モラルの瞬間とは、 黙示録のそれである。 つまりは、 自己自身と他人とを相互承認において自由化す. -. 5. -.

(6) る 瞬 間 に他 な らな い。 そ れ は 実 に し ば し ば一 - 逆 説 的 に も - - 暴 力 (v iolence ) の 瞬 間 で も あ る の だ。 秩 序 の モ ラ ルな どと いう も の はな い。 む しろ 秩 序 と は モ ラ ル の 疎 外 で あ る。 そ れ は < 他 者 >. (1'A u tre ) 〔匿名 の ヒ ト - - 引 用 者〕 の 立. 場からした過去のモラルなのだ。 祝祭、 黙示録、 永久革命、 寛大、 創造、 これが人間の契機である。 (C M 430). サ ル ト ル は v io lence と force を 峻 別 す る (C M 179)。 force が 秩 序 や 法 に 則 っ た 強 制 力 で あ る の に 対 し、 v io lence は 既 存 の 法 秩 序 を 無 化 し、 そ れを 新 た に構 成 す る 「法 外 の力 」 で ある (C M 275 ,579)。 無 論、 新 た. な法秩序もまた、 それが秩序である限り事後的に疎外を生じさせよう。 したがって永久革命が要請される が、 革命 の た だな か にお い て、 v io lence と は創 造行 為 であり、 新た な 世界 を贈 与 する こ と なの である。. 『存在と無』 においてサルトルは、 人間の対他関係の本質を 「相翹」 (connit) と捉え、 有意味な倫理の 可 能 性 を 閉 ざす かの よう で あ っ た (E N 4 8 1 :II460)。 こ れ に対 し 『倫 理 学ノ ー ト』 で は、 自 己贈 与 の相 互 性. という本来的倫理を提起する 8。 だが、 コー ド内在的な 「交換」 を否定し、 一撃としての贈与に倫理の顕 現を 認 める とき、 我々 はそ こ に、 メ ルロ ニ ボ ンテ ィ が批 判 した 「ウ ル トラ ポル シ ェ ヴィ ズ ム 」 の危 険 性を 看 取 す べ き で はな かろう か。 サ ル トル は、 贈 与 = 創 造 にお い て、 無 の ト ポス に立つ 人 間の 絶対 的 な 自 由を 見 出 している。. 贈与とは創造することである。 (…) それは万有 (“ ガ ね ン“ゞ) を与える。 したがって、 万有を非本質的なものとし、 意 識相互の関係を、 お好みならば人間を、 本質的なものとして肯定するのである。 (…) 贈与によって、 私は自己自身を、 あらゆるタイ プの万有の上に、 ある種の絶対において位置 づける。 つまりは、 時代の彼岸に、 非 ・歴史的な絶対とし て位置づけるのである。 贈与による 〔万有の〕 全き無化は、 私を解放し、 私は状況を超越する純粋な対自となる。 (…) 贈与のただなかで、 世界の瓦解を背景に、 私の自由が現出する。 (…) 贈与とは、 他者がそれを消費するために、 世界 を 〔無から新たに〕 現実存在させることである。 (C M 382‐3 強調原文) 9. そ して、『共産 主 義 者 と 平和』 (52‐ 4 年 ) にお い て は、 こ の 主 体 的な い しは主 権 的 自 由 は、 < 党 > (p arti). の自由として現れる。 「〔労働者は〕 < 党 > によって訓練され、 形成され、 彼自身以上に育成されて、 彼の 自由とは、 組織体の内部で、 共同の目標に向かって、 特殊状況を行為によって乗り越える力に他ならなく なる。 一 言 でい え ば、 < 党 > が彼 の 自由 で ある と い える だろう 」 (C p 250‐1 :202)。 「< 党 > と は、 労働 者 を. 権力把握へ向かわせつつ結合させる運動そのものであり」、 「純粋行為であらねばならない」 (C M 2 4 9 :2 0 1 強調原文)。 かく して、 既存の規範体系が無に帰された中で、 < 党 > はそのつ ど 「無からの創造」 におい て、 新たな価値を見出し、 新たな世界を贈与する。 思うに、 自由の無限界性、 すなわち、 無根拠な決断によって 「すべてが許される」 というとき、 我々は 二つ の 次 元 を 区別 しな け れ ばな らな い。 第 一 に 「方 向 性」 であ り、 第 二 に 「強度」 である。 サ ル トルの思. 想は、 方向性において主体を拘束し、 主体は 「他者の存在的 ・具体的な自由」 を目指さなくてはならない とさ れる。 こ の 意 味 で は、 「すべ て が許さ れる 」 訳 で は ない 10。 だ が、 方 向 性 で はなく 強度、 目 的 で はなく. 手段の次元であれ ば如何か。 「運動」 とともに、 ただ 「運動」 によっ て、 新たな価値基準が生起するなら ば、 「運動」 を制御する規範はなく、 「運動」 は絶対的に無償のままであり続けよう。 その前に規範はなく、 そ の 後 に規 範 が続く の である。 ゆ え に、 プロ レタリ ア ー トの 解 放 を唱 え、 既存 の 秩序 を トータ ル に否 定す る 革命 運動 に は、 「す べ て が 許 さ れる 」 こ と と なる。 な ら ば、 サ ル ト ルの いう 本 来 性 の モ ラ ル は、 結 局 暴. 力の懇意的な行使へと至るのであり、 その超倫理性とは単なる反倫理ないし非倫理にすぎないのではある ま い か。 こ れ が、 メ ルロ = ボ ンテ ィ が批判 した 「ウ ル トラ ポル シ ェ ヴィ ズ ム 」 の 問 題系 である。 こ れま で、 メ ルロ や デリ ダを は じめ 多く の 論 者 が、 斯 様 なサ ル トルの 思想 を 主 体の 形 而 上 学 と して批 判. -. 6. -.

(7) してきた。 「主体 ・対自 ・無」 が、 「客体 ・即目 ・存在」 に現前し、 一方的に意味付ける - - この図式が揺 るがない以上、 < 党 > の絶対性を弁証する 『共産主義者と平和』 は、 単に情勢の緊迫化がもたらした逸脱 で は ない。 ア ン ガー ジ ュ マ ンの 文 学 は 全 体性 を追 求する。 こ れ が創 造 = 贈 与 = 暴力 の等 号 を 導く の であ れ ば、 「ウ ル トラ ポル シ ェ ヴィ ズ ム 」 は、 サ ル トル思想 に当 初 か ら 組み 込ま れてい た という べ き な の である。. しかしながら、 黙示録的な場とそこでの超倫理的な贈与による倫理の現出 - - こう したメシア主義的な 思 想 は、 一 人 サ ル トル にの み見 ら れる 危 険 性 な の で あ ろう か。 次 節 で は、 「決 断」 の 場 を 思 考 する、 サ ル トル と デリ ダとの 同 一 性 につ い て考 え た い。. 3 . アンガージュマンの文学再考 ここでは、 サルトルを主体の形而上学とする解釈とは別の読み方を提示し、 上記④の 課題を検討する。 題材は 「モリア山上のアブラハム」 である。 先に論じたように、 文学が固有名に関わるものであるとすれ ば、 「ア ブラハ ム の不 安」 こ そ、 ユ ダヤ ・ キリ ス ト教 的 伝 統 にお ける 文 学の原 風 景 で はな かろう か。 以 下、. ニつのアブラハム像を比較しよう。 まず 『実存主義とは何か』 と 『聖ジュネ』 (52年) との 間で サルト 、 、 ル が ア ブラハ ム 像 を 転 回 さ せ てい る こ と を確 認 す る。 次 に、 『聖 ジ ュ ネ』 の ア ブラハ ム が、 デリ ダの そ れ. と同型であることを示したい。 議論の核心は、 サルトルが主体の決断主義 (主体→決断) から、 非主体的 決断による主体の構成 (決断→主体) へと移動している点である。 まずは前者について確認することとし よう O 『実 存 主 義 と は何 か』 の 中 でサ ル トル は、 単独 者 と して無 根拠 のう ち に 決 断する ア ブラハ ム につ い て、 以 下 の よう に叙 述 している。. キル ケ ゴー ル がア ブラ ハ ム の 不 安 と 呼 ん だ の は ま さ に こ の 不 安 で あ る。 こ の 話 は ご存 知 の と お り で、 天使 が ア ブラ. ハムに自分の息子を犠牲にささげよと命令した。 『汝はアブラハムなり。 汝の息子を犠牲にせよ』 と告げにきたもの が、 もし本当 に天使であるなら文句はない。 しかし人は誰しもまずこう自分に問うことができる。 あれはたしかに天 使なのか。 そして自分はたしかにアブラハムなのか。 何がそれを証明するのか。 (…) 天使が私を訪れるとして、 それ が天使であることを何が証明するだろう。 また声が聞こえるとして、 その声が天国からくるのであっ て地獄からでは ない、 潜在意識やある病的状態からではないことを、 何が証明してくれるのか。 その声が私に話しかけているのだと いうことを何ものが証明するのか。 (…) 私はそれを納得するためのどんな証拠、 どんな徴も発見することはないだろ う。 一つの声が私 に語るとすれば、 それが天使の声であると決断するのはつねに私である。 私がある行為を善である と考える場合、 この行為は悪であるよりもむしろ善であると述べることを選ぶのは私である。 『アブラハムであれ』 と 私を指名するものは何一つないが、 しかも私は時々刻々、 規範的行為をなすことを余儀なく されている。 (E H :34‐ 3 6 :4 6‐7. 強調引用者). こ こ で描 か れた ア ブラハ ム に は 支え がな い。 声 を 聞き 取 っ た と して、 そ の 出 目 を保 証 する も の はなく、. 「あれかこれか」 の参照項は存在しない。 アブラハムは、 単独者として無根拠に決断する。 「決断するのは つねに私」 であり、 「選ぶのは私」 以外ではない。 ここではまさしく、《無のトポスで決断する主体》 とし て 《私》 が召 喚さ れている の だ とい え よう。 こ れ に対 し 『聖 ジ ュ ネ』 で は、 ア ブラハ ム の 決 断 が対 照 的 な相 貌 の 下 に描 き 出 さ れている。 と いう の も、. 《私》 が事後的にしか成立しえないこと、 ここに議論の焦点が据えられているからである。《私》 は決断 によ っ て行 為 遂行 的 に しか成 立 しえ な い。 行 為 が通る そ の 瞬 間、 ア ブラハ ム は 決 断主 体 と しての 《私》 で はなく、 神に召喚された 《客体 .モノ》 にす ぎな い。. -. 7. -.

(8) アブラハムが不安のうちに自己を求めたことは疑いない。 (…) だが、 そう したことはどうでもよかろう。 彼の不安 定性 が如 何 な る も の で あ れ、 神 に と っ て は、 彼 が ア ブラ ハ ム で あ る か、 あ る い は そう で は な い か に す ぎな い。 神 の ま. なざしが、 外部から彼を構成したのである。 アブラハムは客体なの だ。 言い換えれば、 『私はアブラハムだろうか ?』 という疑問の形式そのものが、 実践行為 @ ね兀お) を < 存在 > (倉tre) に従属させてしまうのである。 (…) というのも こう した 疑 問 は、 こ の < 私 > が あ た か も 行 為 以 前 に 決 定 さ れ て い る か の よ う に、 こ の < 私 > と 関 わ る か ら で あ る。. (…) 如何にしたらこの < 私 > が、 諾々の企てを正当化することができよう。 もしそれが可能だとすれば、 それはこ の < 私 > が、 アプリオリな所与として、 しかも < 存在 > として与えられる場合のみであろう。 実践行為の倫理におい て、 < 自我 > (E go) は、 その様々な可能性や投企と不可分である。 したがってそれは、 (…) ただ行為の内に、 行為 によっ て しか現出しないのである。 それは事後的にのみ、 調査や評価の対象となりうる。 『この私 が盗むべきなの か』 、 もしも盗みの前 に、 こう自問したとしたら、 たちまち私は私の企てから離れ、 もはやそれと一体をなさなくなる。 (… ) い ず れにせ よ そ の と き < 私 > は、 自 己 を 作 る こ と な く 存 在 す る 一 つ の 現 実、 す な わ ち 結 局 の と こ ろ は、 一 つ の 実 体と な っ て しまう か ら で あ る。 (S G :2 12‐3 :198‐9. 強調原文). こ の引用 文 にお い てサ ル トル は、 ア ブラハ ム の 決 断 につ い て、 ある い は 決 断主 義 一 般 につ い て決 定 的 な こ と を論 じている よう に思 わ れる。 ま ず は、 「私 はア ブラハ ム だろう か ? 」 という 問 い が、 「p rax is を自tre に. 従属させてしまう」 として、 斥けられている点に注目しよう。 同じ問いは、 『実存主義とは何か』 におい ても取り上げられたものである。 但し、 『実存主義とは何か』 では、 この問い自体の正当性が問題視され る こ と はな い。 そ こ で は、 こ の 問い に答 える の が 《私》 である こ と、 決 断主 体 と しての 《私》 が強調され て い た の で ある。 こ れ に対 し 『聖 ジ ュ ネ』 にお い てサ ル トル は、 「私 は ア ブラ ハ ム だ ろう か ? 」 という 問 い そ の も の を否 定 する。 という の も こ の 問 い は、《ア ブラハ ム が、 不 可 能 な 決 断を為 す べ き 主 体 と して召 喚. された》 と いう 戦 慄 に基 づ い ている が、 こう した判 断か ら は、 決 断主 体 が決 断の前 に存 在 し、 そ こ に 選択 肢が現前する、 という構制が必然化するからである。 それは、 実践行為を離れて存在する主体の実体化を 帰 結 さ せ よう。 ゆ え に サ ル トル は こ れ を棄 却 す る。 《私 = ア ブラハ ム》 はただ為された 「行為の内に、 行 為 によ っ て しか 現 出 しな い の で あ る 」。 な ら ば、 実践 行 為 の 決 断は 誰 が行 っ てい る の か。 決 断の 瞬 間 に は 何 が生 起 している の か。 神 の 命 に対 する 二つ の 反応 を 比 較 しよう。 「かく て神 ア ブラハ ム を 試み ん と て、 『ア ブラハ ム よ、 ア ブラ ハ ム よ、 汝 はい ず こ におる や』」 と 呼 びた もう 」。 こ の 問 い か け に対 し、 ま ず は如 上 の 「私 は ア ブラハ ム だ. ろうか ? 」 という自問がありえよう。 だがキルケ ゴー ルは、 これとは対照的なもう一つの反応を取り上げ ている。 「喜 ん で、 い さ ぎよく、 信 頼 にみち て、 声 高く、 彼 は答 え た 『わ れこ こ にあ り』 と 」。 キ ルケ ゴー 1 ア ブラハ ム は あ らゆ る 理 由 の 彼 方 にお ル が驚 嘆す る の は、 こ の 健 や か な 「わ れこ こ にあ り」 で ある 1。 、 い て、 神 の 言 葉 を 受 け入 れ、 神 の 前 に、 そ の 身丸 ごと モノ ノ カ タ マリ の よう に捧 げでいる。 「ア ブラハ ム は 客 体 なの だ 」 (Aられ拗れ“ れ) と、 サ ル トル が強調 する の はそ れゆ え である。 決 断の 瞬 間、 ア ブラハ ム ゞ“ "“ は客 体 であ り、 した が っ て 決 断を為 す の はア ブラハ ム であ っ てア ブラハ ム で は ない。 ア ブラハ ム はそ の 身 を神 に、 す な わち 他 者 によ っ て 貫 か れ ている。 した が っ て、 キ ルケ ゴー ルニ デリ ダは、 「決 断の 瞬 間 は狂 気. だ」 と繰り返すのではあるまいか芝 。《私 = 私》 の自己同一性において行為するのが 「正気」 であるとすれ ば、 「狂気」 とは、 私が私の内部にある私以外のモノ (= 内在的他性としての 《それ》 (C a)) に突き動か さ れる 事態 であ ろう。 私 がモノ に憑 か れ、 モノ と化 す 事態 - - こ れ がア ブラハ ム に生 起 したよう に思 わ れ る。 決 断を 為 した の は、 《神 = ア ブラハ ム》 であり、《他者 = 私》 で あ る 13。. 4 為された決断に対する 《私》 の全的な責任は 些かの揺るぎ しかし、 決断主体が非在であるにせよ 1、 、 も な い は ず であ る。 賭 け ら れた 実践 行 為 によ っ て 《この私》 が生起した以上、《この私》 の存在理由はあ. -. 8. -.

(9) の賭 け以 外 にはな い。 した が っ て、 賭 け によ り 生 じた 世界 へ の 責 任 は 《この私》 にあ り、 こ の ア トラス の 重 み を何 も の か に転 嫁 す る こ と は 決 して 許 さ れな い こ と と なる 15。 主 体 は つ ね に 遅 延 して、 だ が一 切 の 責 任 を 担 っ て 現 れる の だと い え よう。 実 際 デリ ダもま た、 彼 の ア ブラハ ム 論 にお い て、 責任 の 根源 を 次 の よう に語る の である。. 神と私のあいだ、 他者と私のあいだには、 対面関係もなく、 視線の交叉もない。 神は私に視線を向けるが私は神を 見ない。 そして私を見るこの視線から、 私の責任が教えられる。 そのとき 『それが私に視線を向ける = それは私の問 題だ』〔C a m e reg ard e. こ れ は、 直 訳 す れ ば 『そ れ が私 にま な ざ しを 向 ける』 で あ る が、 こ れ は 慣 用 句 と して 『そ れは 私に関わる、 私の問題だ』 を意味する - - 引用者〕 がまさに切り開かれ、 発見されるのだ。 『それが私にまなざしを向 ける』 が 『それは私の問題だ、 私に関係することだ、 私の責任事だ』 と私 に語らせる。 だがそれは自分がまったく自 由に、 あるいはみずからに与える掟に従っ て振舞うのを見るという (カント的な) 意味での自律としてではなく、 私 が何も見ず、 何も知らず、 主導権さえも持っていないような場において 『それが私を見る』 という他律 においてであ る。 そこにおいて決断するように私に命ずるものに対して私は主導権を持っていない - . にもかかわらず、 その決断 は私のものであり、 私はひとりでそれを引き受けなければならないだろう。 (デリ ダ2004 :186‐ 7. ただし、 訳は一部変更した). こ こ で デリ ダは、 サ ル トル同 様、 決 断 と 責 任 の 逆 説 を論 じている。 私 が、 単独 で全 責任 を負 う べ き私 の 決 断を律 している の は、 私 で は ない、 《そ れ》 である。《それ》 、 つまりは内面化された他性、《他者 = 私》. という非人称性が、 根源的な決断の場を司り、 私を新たな責任とともに再一生するのである。 デリダはま た、 次 の よう にも 語 っ ている。. 私は寛大であるがゆえに与えるとしたら、 その贈与は私の寛大さの、 つまり私の本性の賓辞です。 従ってそれが私 の決断であるとしても、 その理由はそれが私自身の本質、 つまり私自身の主体性に由来しているからです。 まさに この理由から、 その決断は決断ではないでしょう。 ここで我々は最も困難な地点 に到達するのです。 私自身の決 断、 私自身の責任ある決断は、 私自身の中にありながら他者の決断でなければなりません。 端的に私の決断であれ ば、 それは決断ではありません。 決断は私の中における他者の決断でなければならないと私が言っ たからといっ て、 私は無責任であるとか、 私は専ら受動的であり他人に従ってばかりいるということを意味している訳ではあり ません。 私はこの逆説に取り組まねばならないのです。 即ち、 私の決断は他者の決断であるということに。 さもな け れ ば、 我々 は シ ュ ミ ッ ト流 の 決 断主 義 に 陥 っ て しま う で しょ う。 そ こ で は、 主 体 や 意 志 や 主 体 の 主 権 性 と い っ た. 観念が再び息を吹き返し、 自己を主張しているのです。 16. したがって、 「倫理的主体」 「他者」 「決断」 「責任」 の関係は、 次のようになろう。 倫理的主体が他者へ の責任を決断するのではなく、 決断した倫理的主体が他者への責任を担うのでもない。 他律的な決断が倫 理的 主 体を 構成 し、 責任 を生 み 出 す の である。 始 め に他 者 あ り き - - サ ル トル と デリ ダは、 そ の ア ブラハ ム 論 にお い て 避近 する の である 17。. こうした非主体的な決断は、 デリダがいうように、 シュミッ ト流の主体的決断主義を批判するものであ ろう。 だ がそ れは、 メ シ ア主 義 の抑 制 で はなく、 む しろ そ の 完成 で はな い の か。 少 なく ともサ ル トル が、 斯 様 な非 主 体 性の 思 考 を 打ち 出 した 『聖 ジ ュ ネ』 (52年 ) は、 メ ルロ やカ ミ ュ と 決裂 し、 ウ ル トラ ポル シ ェ. ヴィ ズムを唱えた 『共産主義者と平和』 (52‐4年) と同時期なのである。 黙示録的な場と、 そこでの超倫理 的な贈与による倫理の現出 - - こう したメシア主義的な思想は、 主体性ではなく他者性が強調される と. -. 9. -.

(10) き、 より強度を高めるのではなかろうか。 というのも、 決断や贈与の瞬間が、 完全に予測不能 ・制御不能 となり、 まさしく耐え忍び待ち望む奇跡となるからである。 主体ではなく他者、 可能性ではなく不可能性 - - こ れはメ シア の 条件 に他 なる ま い。 『聖 ジ ュ ネ』 でサ ル トル は次 の よう に書 い ている。. 今日、 不 可 能 な も の と して 明 白 に 与 え ら れて い な い す べ て の モ ラ ル は、 欺 胴 と 人 間 の 疎 外 に 貢 献 す る の だ。 モ ラ ル の 《問題》 は、 モ ラ ル が我々 に と っ て 不 可 避 で あ る と 同 時 に不 可 能 で あ る こ と か ら 生 じる。 行 動 は、 こ の 乗 り 越 え が. たい不可能性の風土において、 その倫理的基準を自らに課さねばならない。 たとえば暴力の問題とか、 目的-- 手段関 係の問題な どは、 この見地から考慮 しなければならないであろう。 このような分裂を生き、 意志すると同時 に決断す ることを強制されている意識にとっては、 すべての麗しき反抗、 すべての拒否の叫び、 すべての道義的憤怒は、 賞味 期 限切 れの レトリ ッ ク に見 え る こ と で あ ろう。 (S G 2 12 : I 20 5. 傍点原文、 下線引用者). ここには、 倫理をめ ぐる デリ ダ的な宙吊り - - 不可避かつ不可能 が描かれている。 だがそれ以上 に、 他律的な決断の否応なさが強調されてはいないだろうか。 末尾で郡楡された 「賞味期限切れのレト リ ッ ク 」 と は、 間 違 い な く、 カ ミ ュ 流 の 「反 抗 的 人 間」 に対 す る 批 判 で ある 18。 カ ミ ュ を 美 しき 魂 と して. 斥けるとき、 サルトルの黙示録的意識は、 < 党 > のうちに絶対他者の顕現を期待したのであろうか。 いず れに しても、 『聖 ジ ュ ネ』 と 『共産 主 義 者 と 平和』 が同 時期 であ っ た こ と、 こ の 事 実 は、 「ア ン ガー ジ ュ マ. ンの文学」 を再考させる契機であるように思われる。 この時期、 サルトルの 「政治と文学」 は当初の一体 性 を失 い、 分 裂 を 余 儀 なく さ れて しま っ た の で は な い か。 先 に見 た よう に、 『文 学 と は何 か』 で は、 ア ン ガー ジ ュ マ ンは 散文 に 限定さ れ、 詩 人 は音 楽家 と 同 様、 ア ン ガー ジ ュ マ ンの 要 請 か ら外 さ れて い た。 しか し、 『聖 ジ ュ ネ』 はま さ しく 「詩 人 の ア ン ガー ジ ュ マ ン」 を 論 じた 批 評 で ある。 ジ ュ ネ だ け で は な い。 マ ラ ルメ、 ボー ドレー ル、 サ ル トル が集 中 して 取り 組 ん だ の は - - フロ ベ ー ルを 除け ば-- - 「詩 人の ア ン ガ ー ジ ュ マ ン」 の 方 であ り、 そ の 「負 ける が勝ち 」 (Q u i p erd g ag ne ) と いう 独 特 のス タイ ルで ある。 他 方、. 政治については、 労働者を束ねる勢力は共産党以外にはありえないとし、 有効性の観点からその運動が肯 定 さ れて い く。 こ こ で は 「勝 ち は 勝ち 」 (Q u i g a g n e g ag ne ) な の で あ る。 世 界 戦 争 後、 サ ル ト ル ら 非 共産. 党系の左翼は 「第三の道」 を目指した。 ブルジョワ社会も否、 左右の全体主義も否 それは、 瓦解した 世界を人間の土地へと再生させることであり、 「政治」 に 「文学」 を生かす道である。 サルトルは 「散文 家 = 政治的 実践 者 」 と して、 こ の 道 に ア ン ガー ジ ュ した。 しか し、 「詩 人の ア ン ガー ジ ュ マ ン」 (孤独 な 美. 的反抗) と < 党 > の肯定 (政治的有効性) の分裂は、 『文学とは何か』 の挫折を表してはいないだろうか。 無論、 その第一義的な原因は政治情勢 - - 冷戦や植民地解放闘争をめぐる左翼の分裂一一に求めるべきで あろう。 しかし、 < 党 > の純粋行為という政治思想は、 全体性を目指すアンガージュマンと本来的な親和 性を有するように思われる。 無からの世界創造 = 贈与は、 革命の 「神的暴力」 (ベンジャミン) と同型 だ か ら である 19。 最 後 に、 メ シア 主 義 を め ぐる サ ル トル と デリ ダの相 違 につ い て 一 言触 れてお こう。 両 者 の 違 い は、 特 権. 的な 「歴史形成主体」 を肯定するか否かにあるのではないか。 サルトルは少なくとも一時期、 政治的メシ ア 主 義 に惹 か れ、 < 党 > の 純粋 行 為 を 弁証 した。 す な わち、 メ シ ア を ポ ジ ティ ヴに語 っ て しま っ た の であ. る。 これは、 およそデリダ的な身振りではあるまい。 彼もまた、 脱構築不可能なもの (= 正義) の存在を 認 め、 そ の 到 来を待 望 する。 だ がそ れは、 贈 与 や 一 撃 とい っ た モメ ン トを 世界 か ら解消 する こ と は でき な. いがゆえである。 すなわち、 デリダは 「ネガティヴな肯定」 という宙吊りを、 あくまでも維持するのでは な かろう か。. -. 10. -.

(11) 4 . むすびにかえて. ここでは、 上記(@ の問題を再説し、 むすびにかえたい。 1970年代以降、 「政治と文学」 は直接的なテー マ と して は論 じら れなく なる の で はな い か。 だと す れ ばそ れは何 故 か。 無 論、 主 要 因 は マ ルクス 主 義 の 退 潮 で あ り、 革 命 の 幻 想 が 破 れた せ い で あ ろ う。 だ が、 68年 5 月 の 時 点 で、 す で に 実 存 主 義 は そ の ポ テ ン. シャルを喪失していた。 構造主義以降の思想においては、 「神の死」 「ニヒリ ズム」 「不条理」 「実存的主体」 という 主 題系 はア ナク ロ ニ ズ ム と して批判 の 矢面 に立 た さ れる。 同 時 に文 学 にお い ても、 ア ンチ ロ マ ン、 ヌ ー ボー ロ マ ン が現 れ、 「作 者」 や 「人 間」 の 死 が語 ら れた の である。 70年代 以 降、 少 なく とも 日本 で は、. 政治においても実存的物語が語られることはない。 維新以来続いた国家的目標 - - 「富国強兵」「条約改正」 から 「大東亜共栄圏」 を経て 「戦後復興」 「沖縄返還」 まで - - はもはやなく、 政治に実存を賭ける者は 少 な い。 政治 とい え ば、 族議員 による利 益 配 分の 技 術 なの である。 ペ ンヤミ ンや 三 島由紀 夫 は、 「技術 的 政. 治」 が機能不全に陥った際の 「政治の芸術化」 としてファシズムを捉えた。 こうした側面が、 小泉政権に あったのは確かだが、 しかしそれもまた、 「大きな物語」 の復活とは程遠い。 斯様な状況をどう評価すべきなのだろうか。 結局、 「政治と文学」 とは、 戦争と革命の時代に特有の課 題 であ り、 した が っ てそ の 衰微 は慶賀 す べ き こ とな の であ ろう か。 そう かも しれな い。 しか し、 実存 主 義. が過去の思想となり、 忘れ去られたとしても、 人々は実存主義が格闘したニヒリ ズムを克服したわけでは ある ま い。 む しろ、 ニ ヒリ ズ ム は 凡庸 な一つ の 事 実、 そ れへ の抵 抗 す ら 喚起 さ せ な い 陳腐 な 事 実 と な っ た の で はな い か。 そ してニ ヒリ ズ ム の 凡 庸 化 と は、 そ の 完成 形態 である よう に思 わ れる。 こう した 時代 判 断. に幾許かの真実があるなら ば、 文学の政治的効果 - - 何よりも覚醒としての効果 - - が、 今必要とはいえ ないだろうか。 だがそれは如何なる文学、 如何なる覚醒なのか。 現代の政治状況の中で、 「政治と文学」 は魅力的なテーマとなりうるか ?. 再 び、 こう 問 い か けつつ、 本稿 を 閉 じる こ とと する。.   1. 最近 『丸山眞男と文学の光景』 (山崎正純著、 洋々社、 2008年) が出版されたが、 これも文学の側から、 丸山と 「敗戦後文学」 について論じたものである。 ただし、 「政治と文学」 の論争に積極的に関与したわけではないが、 政 治学者が 「政治と文学」 という 問題を思考しなかったわけではない。 一例として、 丸山その人の 「近代日本の思想 と文学」 (1959年 『日本 の思想』 所収) を挙げることができよう。 丸山の根本的モチーフとして、 日本におけ る思想 家 = 文学者が、 「非 ・政治」 と 「過 ・政治」 の間を - - あるべき 「政治」 を欠落させて - - 揺れ動くことへの批判が ある。 そこでは、 政治と文学双方のあり方が問われている。 ただし、 全集版の解題で松沢弘陽が書いているように、 丸山が 「政治と文学」 を正面から論 じた 「この論文にはほとん ど見るべき 反応は現れなかっ た」 のである (丸山 1996 :406)。. 2. 19世紀前半カント美学の影響の中で、 「芸術のための芸術」 (P art p ou r P art) と い う ス ロ ー ガン が生 ま れ、 「人 生 の た め の芸 術 」 (P a訛 p ou r la vie ) と 対 抗 した。 そ の 後 世 紀 末 か ら20世 紀 に至 り、 A for A と いう 定 式 は、 サ ル ト ル の 先 駆者 ジイ ドや ベ ル ク ソ ン によ っ て 先 鋭 化 さ れる。 例 え ば ジイ ドは、 自 由 を 「無 償 の 行 為 」 (acte g ratu it) として、 ベ. ルク ソ ン は 「動機なしの選択」 (ch oisir san s m otif) 「理 由 な しの 決 断」 (d6cision san s raison ) と して 捉 え て い る。 こ の人を愛するとき、 それが愛以外の 「動機」 や 「理由」 (財産、 家柄、 学歴等) によるものであれば、 その愛は利害 関心の道具にす ぎない。 無償の愛、 愛のための愛、 その人の存在を不条理に肯定すること、 これが功利性の切断と して の 愛 である。 こ こ で は 現 在 が現 在 に 没 入 し、 行 為 は た だそ の た め に な さ れる の で あ る。. ただし、 斯様な 「行動のための行動」 主義は、 「政治の審美化」 としての ファ シズムに通 じる道でもあろう。 カ ミ ュ は、 フ ァ シ ズ ム の イ デオ ロ ー グ で あ っ た ロ ー ゼ ン ベ ル ク の 次 の 言 葉 を 引 い て 批 判 して い る。 「行 進 中 の 隊 列 の あ り 方 につ い て 言 え ば、 い か な る 方 向 に 向 かう か、 い か な る 目 的 を 持 つ か は 重 要 で は な い 」 (カ ミ ュ 195 1 :224 :562 )。. -. 11. -.

(12) ただ行進に没入する行進がある ばかりなのである。 無からの無根拠な決断と、 その政治的危険性については、 本稿 第 2、 3 節で取り上げる。 「マルクス主義的な < 政治と文学 > 論は、 (…) 元来、 一見非政治的なものと見える芸術至上主義的傾向も、 実は、. 3. 別な意味での政治性を強くもつ」 ことを示そうとするものであった - - 高橋和巳は批評 「政治と文学」 において、 そう論じている。 「芸術の純粋志向は、 単に芸術家の孤立的心情の証明であるだけではなく、 実は、 政治に利用され る今ひとつの立場にすぎない」 (高橋 :1964 :510)。 確かにプレハーノフは、 マルクス主義美学の古典 『芸術と社会生 活』 において、 「芸術のための芸術への傾向は、 芸術家と彼を取りまく社会的環境との間に不調和が存在するところ に発 生 す る 」 と 看 破 した (プ レハ ー ノ フ 1965 : 17強 調 原 文 )。 こ の 立 場 か ら す れ ば、 im ag e に よ る 救 済 と は、 畢 寛 芸. 術家のアヘンにす ぎない。 彼岸に救済を求める宗教の現実的 ・ 政治的効果が圧制の補完であったのと同じく、 大衆 か ら 孤 立 した 芸術 の 都 は、 時 の 政 治 権 力 に利 用 さ れる こ と と な る。 プ レハ ー ノ フ は、 プー シ キ ン を 例 に そ う 論 じて いく の である。 4. 無論、 実存主義が求める全体 (tout) あるいは全体性 (totalit6) の観点 - - 「世界」 の再生そのものに関わること - - 以外にも、 政治と文学の親和性を論じることはできよう。 例えばN ationを立ち上げる際に、 国語 ・国文学 ・国民 作家 ・国民詩人が果たす政治的機能も、 すぐれて 「政治と文学」 の問題ではなかろうか。 ただし文化本質主義が、 近代の政治的要請に端を発する国語 ・ 国文学から、 国民精神なるものを遡行的に実体化するとき、 サルトルはこれ を 明確 に批判 す る。 反ユ ダヤ 主 義 の 文 学 者 シ ャ ル ル ・モ ー ラ ス の 発 言 につ い て、 サ ル トル は 『ユ ダヤ 人』 (46 年 ) の. なかで次のように批判するのである。 「モ ー ラ ス は 断言 した。 ユ ダヤ 人 は、 次 の ラ シ ー ヌ の 詩 を 理 解 す る こ と は、 決 して な い で あ ろ う と。 “〆ゞ“方 , “““ ‘““y zgねぶ れoれ “ね膨れ. D“"ゞ‘'○をねr. だが、 なぜ自分が、 〔ただフランス人である というだけの〕 凡庸な自分が、 最も進. んだ知性 〔ユダヤ人〕 でさえ掴むことのできないものを、 理解することができるのであろうか。 それは、 自分が、 ラ シーヌ を 所 有 して い る か ら で あ る。 ラ シ ー ヌ と 自 分 の 言 葉 と、 自 分 の 土 地 を 所 有 して い る か ら で あ る。 ユ ダヤ 人. は自分より純粋なフランス語を喋るかもしれない。 文体も、 文法も、 自分よりす ぐれているかもしれない。 いや、 作 家 です らあ る か も しれ な い。 しか し、 そ ん な こ と は 問 題 で は な い。 そ の 言 葉 を、 ユ ダヤ 人 は、 や っ と 二 十 年 来 話. しているにす ぎない。 自分の方は、 千年も前から喋っている。 彼の文体の正確さは、 抽象的なもの、 学び取られた も の に す ぎな い。 自 分 の 方 は た と え フ ラ ンス 語 の 誤 り を 犯 して も、 こ の 言 語 の 精 髄 に 通 っ て い る の だ。」 (R J26‐8 :. 22‐4ただし、 傍点は原文、 下線は引用者) サルトルは 『文学とは何か』 (47年) において、 「所有の文学」 (la. litt6ratu re d e l'ex is) を否 定 した。 自 文 化 ・母 国. 語を実体化し、 所有すること - - 「所有の文学」 には、 母国語に対する違和がない。 回収不能性がない。 こう批判 する サ ル トル は、 ドゥ ー ル ー ズ & ガタ リ の いう 「マイ ナ ー 文 学 」 - -. 「自 分 の 言 語 の な か で異 邦 人 の よう で あ る 」. 文 学 (ドゥ ー ルー ズ & ガタ リ 1978 :48 ) - - と 近 い 位 置 にい る。 少 な く と も、 初 期 の サ ル トル やカ ミ ュ は、 「所 有 」. 関係とは隔絶された異邦人を描いたのである。 5. ロカンタンは、 美による現実存在の救済ではなく、 美を前にして、 現実存在が恥じ入るべきことを説くのである。 「芸術に慰めを求めるという馬鹿者がいる。 (……) 美は彼らに同情的であると信じている。 馬鹿者めら。 (……) いま は、 あ の サ キ ソ フ ォ ー ン の 調 べ が あ る。 だ か ら私 は恥 じる の だ。 華 々 しい小 さ な 苦 しみ (… … ) サ キ ソ フ ォ ー. ンの 4 拍子。 その調べは行っ たりきたりし、 『あたしたちのようにするべきだ、く拍子に合わせて〉 苦しむべきだ』 と 言 っ て いる よう だ。 (… … ) レコー ドの 上 で ぐる ぐる 廻 り、 私 の 心 を 奪 っ て い る、 あ の ダイ ヤ モ ン ドの 小 さ な 苦 し. みは、 同情的であるとは確かに言えない。 皮肉なものであるとさえ言えない。 それは軽快に、 まったく自分だけに 気 を と ら れて 廻 っ て い る。 私 は 自 分 自 身 が、 ま た そ の 苦 しみ のく前 に〉現 実 存 在 す る す べ て が恥 しい (N 237‐8 : 283‐. 5) 6. ただし、『文学とは何か』 の脚注でサルトルは、 詩と散文の区別が最終的には不可能としている。 しかも、 その後. -. 12. -.

(13) 彼 は、 ボー ドレー ル、 マ ラ ルメ、 ジ ュ ネ と い っ た 詩 人 た ち の ア ン ガー ジ ュ マ ン を 探 求 す る の で あ る。 した が っ て、. 本文で論じたロカンタンに関する通説的解釈は、 あくまでも第一義的なものであることに留意されたい。 ここで詳 述 す る 余 裕 は な い が、 詩 人の ア ン ガー ジ ュ マ ン. サルトルのいう 「負けるが勝ち」 の投企. は、 より陰影を孕. んだものと考えられよう。 7. c f. R . B ern ste in (19 7 1 ). C .T a y lor (19 8 5 ). 『存在と無』 では、 対他関係は 「まなざし - - 相手を石化させるメ ドゥーサの視線 - - の相互性」 として規定され. 8. る。 我が主体となり汝を客体化し所有するか、 あるいはその逆か。 他者との関係は、 まなざしの o m of に基づく永遠 のシーソーゲームとして記述される。 これに対して 『倫理学ノート』 では、 作品を媒介とした自己贈与こそが、 他 者との本来的関係とされるのである。 「他者への呼びかけ。 (…) 他者との直接的な関係を断念すること。 他者との真の関係は、 決して直接的なもので はな い。 相 互 承 認 を 含 ん でい る 私 の 自 由。 だ が、 自 己贈 与 しつ つ、 私 は 自 己 を 失う の である。 こ れ が寛 大 (g6n6rocit6) であり愛だ。 私の 「対自」 と私の 「対他」 との新しい関係 - - 作品を通しての。 私は自分を、 自分が 創 造 した オ ブ ジ ェ と して、 他 者 に贈 与 す る こ と によ っ て、 自 己 規 定 す る の で あ る。 他 者 がこ の 客 体 性 (o切ectiv it6 ). を私 に 返 してく れる た め に」 (C M 487 )。 革命の助産的暴力もまた、 世界の創造 = 贈与に等しい。 サルトルは次のように書き、 暴力の超倫理的な倫理性を. 9. 認めている。 「〔既存の秩序の中で〕 人間であることの不可能性、 非人間的な不可能性の結果、 暴力とは人間的なも のに至る唯一の可能な道となる。 暴力は、 人間的なものの暗黙の了解を含んでいる。 暴力は原理的に無秩序であ り、 他の秩序の破壊であるが、 その絶対的な無秩序において、〔新たなる〕秩序を投射するものなのである」 (C M. 4 19‐. 20) 強調原文。 例えばサルトルは、 小説の審美的価値が、 「他者の存在的 ・具体的自由」 と直接的に結 びついていることを強調す. 10. る。 ゆえに 『文学とは何か』 では、 「反ユダヤ主義を賛美した良い小説が書かれるかもしれないと、 - 瞬たりとも考 え る こ と は 誰 に も で き な い 」 (Q L 70 :7 1) と 断言 した。 具 体例 と して サ ル トル は、 ドゥ リ ュ ・ ラ ・ ロ シ ェ ル を 挙 げて. いる。 彼は戦前にはファシズムの到来を願っ て書いたが、 ナチ支配下において読者を感じなくなり書けなくなる。 サ ル トル に よ れ ば、 こ れ は彼 の 作 家 と して の 誠 実 さ を 物 語 っ て い る の で あ る。 11. デリダもまた 「われここにあり」 を 「責任 = 応答可能性の根源的瞬間」 と捉えている。 「『我ここに』、 それは他者. の呼びかけへの唯一可能な第一の応答であり、 責任 = 応答可能性の根源的な瞬間である。 それは特異な他者、 私に 呼びかける者を私にさらすものとして、 根源的な瞬間なのである。 『我ここに』 はすべての責任が前提する唯一の自 己紹介 (= 自己現前化) である。 私は応答する準備ができています、 応答する準備ができているとお応えします、 と いう わ け だ」 (デリ ダ2004 :14 8 )。 12. 「アブラハムの行為が彼の感情と絶対的な矛盾におちいる瞬間においてのみ、 彼はイサクをささげることができ る の である 」 - - 『お そ れとお の の き』 か らこ の 一節 を 引 用 しつ つ、 デリ ダ は 次 の よ う に論 じる。 「瞬 間 と いう 語 を. 強調したのは私である。 『決断の瞬間は狂気だ』と別のところでキルケゴールは言っている。 この逆説を時間や媒介 にお い て 捉 え る こ と は で き な い。 つ ま り 言 語 によ っ て も、 理 性 によ っ て も 捉 え る こ と は で き な い の だ。 贈 与 と 同 じ. ように (…) 逆説は瞬間の時間性を要求する。 それは非時間的な時間性、 捉えることのできない持続に属する」 (デ リ ダ2004 :136‐ 7 )。 13. 「回心・の瞬間」、 根源的選択を更新するのは、 《この私》 で は な い。 そ も そ も 「 回 心」 と は、 こ れま で の 《私 = 私》 という自己同一的主体が崩れ、 私が全く他なるものへと変身する事態であろう。 サルトルが例示するように、『罪と 罰』 の ラス コ ーリ ニ コ フ が自 首 しよう と す る 瞬 間、 彼 は 「根 底 的 に他 者 に な っ た 」 の であ る (E N ,p .532 , III‐106‐7 )。. だが、 こう した他者への投企を、《この私》が独力で為すことは論理的に不可能だといえよう。 切断は他者からくる。 自首 の 決 断 は、《ソー ニ ャ ニ ラ ス コーリ ニ コ フ》 によって為されたのである。 決断する者は暗闇の中で独り跳躍する. -. 13. -.

(14) の で はな い。 他 者 の 引 力 圏 に 落 下 す る の で あ る。. ジャンソンの古典的研究をはじめ、 これまでの論者は、 「回心の瞬間」 における他者の力能を捉え損なってきたよ う に思 わ れる (Jean son 1965 )。. 結局、 体系的方法によって、 主体的に回心することはできないのである。 というのも、 ムイエが的確に論じてい. 14. るように、 その 「瞬間」 においては、 「回心・とは主体 ・主語無しのものだからである」 (la. co n v ersion est san s. 《s可et》). ( M ou illie 2005 :174‐5)。. それ故、 現生した 《この私》 に と っ て、 決 断 と は つ ね に 《この私》 の決断なのだといえよう。 この観点からすれ. 15. ば、 「回心・の瞬間」 や 「無のトポス」 は行為遂行的には存在しないものの、《私》 の軌跡を辿る事後のまなざしにとっ ては、 不可欠な契機なのである。 16. 小野紀明 (2002 :136) からの重引。 小野は 「政治概念と起源」 を問う中で、 デリダらポストモダニズムの思想家 が既存の政治概念をラディ カルに批判 したことを評価する一方、 「政治の次元にメシア的なものという宗教的要素 を導入」 (138) したデリ ダに、 危険性も見出している。 小野によれば、 デリダもまた 「政治的実存主義者」 と同様 な の である (139)。. ここでは 『聖ジュネ』 のアブラハム像が、 『実存主義とは何か』 のそれを批判的に転回させていることを確認し. 17. た。 スカンツィオによれば、『聖ジュネ』 は 『倫理学ノート』 の贈与論に対する批判でもある。 先に見たように 『倫 理学ノート』 では、 自己贈与が称揚されていた。 しかしそれは、 いまだ 「自己」 およびその 「所有」 に囚われてい る者にとってのみ、 価値を有するのではあるまいか。 自己贈与は、 ポトラッチと同じく、 「所有」 の体系を伝達する 疎 外 に す ぎな い (S can zio 2000 : 34 2‐3)。 した が っ て 『聖 ジ ュ ネ』 で は、 「贈 与 な ら ざる 贈 与 」 と い う デリ ダ 的 逆 説 が語 ら れる こ と と な る の で あ る。. 所謂サルトル ・カミ ュ論争は51年の出来事である。 大戦後、 サルトルもカミュも、 非共産党の立場をとる左翼と. 18. して自己を位置づけていた。 しかしながら40年代後半から50年代初頭の緊迫した状況下、 サルトルが共産党の (批 判的) 同伴者となるのに対し、カミ ュは反共産主義の立場を明らかにする。 そのときサルトル側からすれば、カミュ は植民地主義からソ ビエトの収容所まで、 あらゆる暴力を一律に批判する抽象的モラリス ト - - 美しい反抗的魂 一一にすぎなくなる。 サルトルは次のよう にカミ ュを攻撃する。 「も し君が奴隷たちを区別 しなかったら、 君は彼 らに対して原則的な同情しか持たないことになってしまう。 (…) 君がインドシナ戦争に当惑を感じているのはこの た め で あ る。 こ れ に 君 の 原 則 を 適 用 す る と、 ヴ ェ トミ ン は 植 民 地 化 さ れ て い る か ら 奴 隷 で あ る。 し か し彼 ら は コ ミ ュ ニス ト だ から 暴 君 で あ る。 君 は ヨ ー ロ ッ パ の プロ レタ リ ア が、 ソ 連 を 公 然 と 非 難 しな か っ た か ら と い っ て 責 め る。 ま た 一 方 ヨー ロ ッ パ の 政府 が、 ス ペ イ ン を ユ ネ ス コ に 加 盟 さ せ た か ら と い っ て 責 め る。 そう な れ ば、 君 に と っ て 解 決の み ち は、 ガ ラ パ ゴス 島 に行 く こ と だ け で あ る 」 (R 34 3 : 9 1‐2 )。 19. 意味連関としての世界が無化され、 存在の不条理な戯れが露呈した後、 サルトルは全体としての世界を無から再 生しようとした。 これは、 メシア主義的な 「政治と文学」 を引き寄せざるをえない。 同じ前提から出発して、 メシ ア主義を回避する道はありうるのだろうか。 言い換えれば、 「政治と文学」 の20世紀的課題を、 サルトルとは別の角 度から追求することは可能なのか。 ここでは、 問題提起④の後半について簡単に触れておきたい。 我々はカミュの 「政治と文学」 にその可能性を認める。 というのも、 サルトルが人間的な意味に執着 し、 無意味 な即目の戯れに幅吐するのに対 し、 カミ ュは 「不条理の幸福」 を思考 しているからである。 例えば 『シーシュポス の神話』 では、 神々から課せられた不条理な苦役 - - 頂上まで押 し上げては落下する岩を無限に上げ続けること - - を 反 復 す る シー シ ュ ポス が、 実 は 幸 福 な の だ と い う。 彼 は、 岩 が存 在 して い る こ と、 そ れ に触 れて い る こ と、. これで充分 に幸せなのである。 「この石の上の結晶の一つ一つが、 夜に充たされたこの山の鉱物質の輝きの一つ つが、 それだけで、 一つの世界をかたちづくる。 頂上をめがける闘争それだけで、 人間の心を充たすのに充分たり る の だ。 い ま や、 シ ー シ ュ ポス は幸 福 な の だ と 想 わ ね ばな ら ぬ 」 (C a m u s 19 6 5 198 :390 )。 鉱 物 の 結 晶 は、 た だ 単 に. 一. 14. -.

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