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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出(二) : 京都大学名誉教授佐野哲郎先生インタビュー

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 " 123

<資料紹介>

小林象三先生の思い出

!

―京都大学名誉教授佐野哲郎先生インタビュー―

本稿は,小樽高等商業学校(現小樽商科大学)における英語教育と小樽高商 卒の伊藤整(1905―1969)の文学活動との関連性を考えるひとつの資料として, 小樽高商及び小樽中学校(現小樽潮陵高校)で伊藤整に英語を教えた小林象三 (1893―1974)のメンターシップに注目し,京都大学で小林象三から音声学を 学んだ佐野哲郎先生へのインタビューをまとめたものである。伊藤整と小林象 三との関係及び,インタビューイーと小林象三との関係については,『彦根論 叢』第370号に掲載した「小林象三先生の思い出!」に詳細を記した1)。ここ には,インタビューの後半部分を記載するものとする。 !.京都大学名誉教授佐野哲郎先生インタビュー「小林象三先生の思い出」(後半) 菊地:学生さんから,「小林先生は厳しい」とか,そういう評判はありました か? 佐野:特に評判というのは……。音声学なんていうのは,受ける学生はやっぱ り,あんまりいなかった2)。僕はまぁ珍しく行ったけれども,そんなにた くさん[受講生は]いなかったと思います3)。僕も試験を受けなかったのと 1)『彦根論叢』第370号に掲載された前半部分は,I.はじめに,II.伊藤整と小林象三,III. インタビュー前半である。 2)小林象三自身,音声学とは「英語の先生達からとかく嫌われる」ものであるという自覚 があった。この認識は,小林が京都大学へ移転してから芽生えたものかもしれないが,小 樽商大から京都大学に移転した後の文章では,はっきり「英語の先生達からとかく嫌われ る英語発音学」と述べている(「緑丘学園と英語の先生達」,『緑丘新聞』第278号,昭和25 年8月15日)。 3)インタビュー中の[ ]は,筆者による挿入を示す。

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124 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 違うかな,という気がするんだけれど,それは覚えていないです。 菊地:クラスも20人とか30人くらいだったんでしょうか? 佐野:あのころはそんなもんやなかったかな。しかし一方で,[小林象三先生 は]もちろん教養の英語も教えはるわね。クラス制だから,それはもちろ んたくさん。だから,そういうもの[教養の英語]を習った人は,多いと思 う4)。僕はたまたま,教養の英語では,小林先生の授業はなかった。 僕は,専門のほうの授業というのは,珍しそうなものを片端から受けた ほうだった。これは余談になりますけれど,英文だけではなくて,いわゆ るよく知られた有名教授の授業は,みんな受けました。あの時は,イタリ ア文学では野上素一といって,野上豊一郎の息子さん。ドイツ文学では大 山定一。中国文学では吉川幸次郎。それから,フランス文学では桑原武夫。 仏教では長尾雅人。この先生,最高の権威だったけれどね。ギリシャ語の 松平千秋。ラテン語では,泉井久之助。 菊地:すごいですね。 佐野:いろいろな授業を受けていましたよ。ギリシャ語も,やっぱり1時間目 でした。最後にとうとう,後期は[受講を]やめたかなぁ。軒並みそういう 有名教授の[講義]を受けました。あれは僕,幸せだったなぁ。それぞれ, いろいろなものを学んだから。 4)教養の英語クラスについては,甲南大学・大阪商業大学名誉教授の高橋哲雄先生から, 同時期に,京都大学文学部の語学クラスで「小林先生から学んだ」との情報をいただいた。 授業で使用されたテキストは,チャールズ・ラムの『Tales from Shakespeare』で,学生た ちからは「俺たちをなめとるのか」と不満がもれていたそうである。(2008年2月20日付 Eメール) チャールズ・ラム(Charles Lamb,1775―1834)は,英国の随筆家・批評家で,小林象三 は小樽商大の『緑丘新聞』などでも度々ラムを引用している。小樽商大をやめるときの挨 拶文の最後を,彼は以下のようにしめくくっている。「いざさらば,緑丘の諸君よ,私は ここにチァールズ ラムがその随筆集に引用しているラテン語の一句『エストバペテウア』 (この家の永遠に繁栄せんことを)をもって!筆することとする」(「人は来り,人は行く」, 『緑丘新聞』第217号,昭和25年2月15日)。 本稿での引用部については,カタカナ表記は原文のままとし,統一しないものとする。 また,仮名遣いは原文のままとし,旧漢字のみを改めるものとする。旧仮名遣い・旧漢字 表記について,また日本国内での資料収集法については,同僚の阿部安成先生にご教授い ただいた。ここに感謝申し上げる。

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 ! 125 その中で最高に学んだのはやっぱり吉川先生だったな。吉川幸次郎さん。 あの先生はね,学者としてもすごいけども,教え方が実に見事でした。は い,ほんとにね。 優れた学者でも必ずしも授業はおもしろくないとか,そういう先生はた くさんいますね。ところが,あの先生の[講義]は,見事でした。杜甫をや るんだけれども,杜甫の詩を引用しながら,それをいかに読むか[とうい ことを講義する]。もちろん中国語でも読んでくれるわけ。そのあと,日 本語で解説してくれるんだけれど,中国語でも読みながら,こういうリズ ムだ,ということをやり,そしてこれのどこがおもしろいのか,どこが新 しいのかということを,諄々と教えてくれるわけね。あれは見事でした。 だからあの先生の[講義]は,試験も受けた。 ところがね,余談になって悪いけれども,ドイツ文学の大山定一。この 人も有名教授だったけれどね。 大山定一さんと吉川幸次郎さんの間の『洛中書問』という往復書簡集が あるんですよ。知っているかな?洛中は京都の洛やね。「洛の中で書によっ て問う」。要するに,手紙を交換しながら相手にいろいろ尋ねる,意見を 聞く,という『洛中書問』という本がある。薄い本です。これは,おもし ろかったよ。 つまりたとえば,ゲーテならゲーテの詩を訳す場合に,どういうふうに 訳すかという。非常にわかりやすく,ざっくばらんに言ってしまうと,大 山定一さんというのは,まずやっぱり言葉の美しさ。日本語に訳した場合 の言葉の美しさ,というものをまず持ってくる。で,吉川幸次郎さんのほ うは,それもさることながら,まずやっぱり意味。意味をしっかりとらえ るような訳をする。だから「あなたの訳はこうやけれど,これをこういう ふうに訳して,なぜいけないんですか」というようなことを,やり合うわ け。おもしろかったですよ。 菊地:おもしろそうですね。 佐野:はい。大山さんというのは訳の上手さ,文章のうまさでは定評があった

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126 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 んです。講義を聴くとね,あの先生はノート講義で,全部自分の原稿を書 いてくるんです。[その原稿を]ざぁっと読みはるわけです。僕は写すわけ。 その文章が,まぁきれいな文章。それ自体が一冊の本になっているような。 本当にうっとりするような文章なんですよ。ほんとに美しい。 しかし,写しながら,「こんだけ美しい文章は,これはちょっと苦手や な」と(笑)。それで,試験を受けなかったんですよね(笑)。結構こっち も,ひねくれておったからね。こんだけ美しい文章に書かれたら,それに うっとりしてしまってね。むしろ,吉川先生のようにがっちりやるほうが おもしろいなぁと思った思い出がある。 小林先生の[講義の]ほうは,やっぱり僕が習ったのは残念ながら音声学 だから,面白味があるようなものではさらさらないのね。ただし,日本人 が向こうまで行って,こういうのをやって来たという,あの先生の気概み たいなものはいつも感じるわけです。「ようこれだけやってきたな」と。 僕なんかすぐ投げ出すわ,あんな「nou pa ta(ノウ・パ・タ)」なんて。 それを,むこう[イギリス]で,2年間やってきはったわけです。感心した んだけれどね。 しかも,どうやらダニエル・ジョーンズの覚えもめでたかったようだか ら。[小林象三が日本に]帰ってからも,いろいろね。そういえば,「[ダニ エル・ジョーンズ]先生から手紙が来た」と見せはった,というようなこ ともあったと思います。 ダニエル・ジョーンズの本は持ってはる?あれは,僕らの,なんってい うのかな,必携の本だった。これがね,ダニエル・ジョーンズの English Pronouncing Dictionary。ちょっと見てごらん。 菊地:ありがとうございます。 佐野:つまり,それの著者だ。その頃に,既に僕も持っておったのかな。ちょっ と見せてください。1965年に買っているから,これは,後で買ったんだね。 菊地:今もこの辞書,ありますよね。ペーパーバックで。 中身は,本当に発音記号ばかりですよね。わたしも音声学を習っていた

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 ! 127

ときに,一覧表で,この音はどこになるかとか,そういうことを習いまし た。

佐野:いわゆる「international phonetic sign」なんていわれる発音記号は,大体 この人がつくったものが多いんじゃないかな,もともとは。あとでアメリ カ英語とか,そういうものになってくると,またいろいろな新しいものが できたけれどね。 菊地:ひたすら発音記号だけが書かれている辞書ですよね。 佐野:そうですよ。ここで僕が覚えているのは,「ラーブ(Loeb)」の話。ギ リシャ・ラテンの古典を集めたラーブ叢書。Loeb Library。辞書にあるで しょう?ちょっと読んでください。

菊地:はい。「W. Heinemann. The publishers of the Loeb classic library」と書いて あります。あ,この単語は,発音が分かれています。 佐野:それ[ハイネマンの叢書]は,「ローブ」ではなく「ラーブ」と発音する と,分けてあるでしょ?それを今でも,僕,覚えているの。叢書は,「ラー ブ」と発音すると。これがハイネマンの本です。これは普通,日本では「ロ エブ」と言っています。わかりやすく。 菊地:綴り通りの発音ですね。 佐野:ところが,僕はこの Pronouncing Dictionary を見ていたから,「ラーブ」 と言うんです。ここ[Pronouncing Dictionary]に,ハイネマンの叢書[の発 音]は「ラーブ」だと,書いてあったからね。僕が「ラーブ」と言うと,「え?」 というような顔をする人が多いけれどね。日本では大抵「ロエブ,ロエブ」 と。 菊地:なるほど。この辞書には,発音記号だけでなく,こういう説明がついて いるところが,他にもありますね。 それにしても,先生,すごい記憶力ですね。 佐野:いや,たまたま覚えていることなだけですよ。これは特に自分に関係が あるから覚えているだけで,全部覚えているわけやない。 この間も誰かとしゃべっているときに,その話をしたものね。彼も「ロ

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128 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 エブ」と言っていたから。まぁ,それでいいんだろうけれどね。日本では, それで通用をするんだから。前に誰かとしゃべったときは,「正しい発音 でというとね,ダニエル・ジョーンズのあれには,ラーブと書いてあるよ」 と,いうことは言ったこともあるんだけれどね。 菊地:佐野先生は,音声学の授業しか習っていなかった,ということですが, その後も先生と小林先生には,交流があったわけですよね?大阪工業大学 に行くときにも,ご一緒だったとか? 佐野:大阪工大で? 菊地:大阪工大でもご一緒だったということは,京大での音声学の授業以外に も,小林先生と交流があったということなんでしょうか。 佐野:いや,僕とのあれはもちろんそれで終わったわけです。その時はね。 それからあと,僕は[京都大学を]卒業して,北野高校の教員になって6 年いて,それから初めて行った大学が,大阪工業大学。「大学院へ来たら どうや」と言われたんだけれども,僕はおやじが亡くなっていて,自分で 自立しなければならなかったというわけで,大学院に行かずに,高校の教 師にいったわけです。 それで,大学院に行くのは半分あきらめていたんだけれども,またしば らくしてから,ある先生が「大学院に来たらどうだ」という手紙をくれた んです。「やっぱりそんなら」と,行こうと思って。それでも,[教師を] 辞めて大学院へ行くだけの金持ちでもないわけだから,教師もしていたい わけ。それで,定時制,夜に変えてもらったら行けるだろうと思って,時 の校長に頼んだら,ちょうど昼間へ変わりたい人がいたから,変えてもらっ たわけです。それで,[大学院へ]行ったわけです。 それで2年間,修士課程が終わって,変な話だけれど,トイレに行った 時に,主任の先生も一緒だったんですね。それでオシッコしながら,その 先生が「君はもう修士も終わりの時やから,博士課程,行きますか?それ とも就職しますか?」と。「僕はすぐ就職したいんですよ」と言ったら,「そ うか」と。それはそれで済んだんだけれど,あとで「実は大阪工大からこ

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 ! 129 ういう話が来ているんだ」と。それで,僕はその大阪工業大学の主任教授 に会ったわけです。結局,話が決まって,その時に「実は,小林先生も来 られるんだ」とね。僕は「うれしいですね」と言った覚えがあります。 だから,大阪工大で今度は,偉い先生と,いわば,同僚になったわけで す。[小林]先生は,もちろん教授だった。僕は専任講師で行きました。 小林先生はいわゆる学者肌の人だから,実務とかそういうことはあんま り得意じゃない。ところが,あのころはどこの大学でもそうだったんだけ れど,組合が結構強かった。僕も若かったから,誘われて,執行部に入っ たりしたんです。それで,主任教授が「佐野に何か言ってやってください」 と,小林先生に言ったらしい(笑)。 そこで,[小林]先生が,どう言われたかはっきり覚えていないけれど, 遠回しに,たとえば,「ほどほどにしたまえよ」とか,ちょこっと言いはっ たわけですよ。僕は「何のことですか?」と言った。「わかっているだろ う」とか言われてね(笑)。あの先生が,僕に対して苦い顔をしたという のは,後にも先にも,あのいっぺんきりやったけれどね。 菊地:それは,いつごろのことでしょうか。 佐野:大阪工業大学へ行ったのは,昭和34年です。[小林先生の]授業を受けて いたのは,昭和25年ぐらいだから,だいたい10年後ですね。 おかしかったのが,その時は大阪工大も規模を拡大しようとしている時 で,今までほとんど語学の専任がいなかったのを,何人か増やしたんです ね。それで,同時に英語の専任として行ったのが,小林先生と僕と,もう ひとり S 君の3人。今までひとりしかいなかったのが,増えたんです。 ドイツ語も今までいなかったのが2人増えたというようなことで,ぱっと 大きくなった。 で,ひとつの大きな部屋を与えられました。小林先生はもちろん別です よ。小林先生は個室を持ってはるんやけれど,僕らは同じ部屋を与えられ ていました。その時に,それまでひとりでずっと[大阪工大で]がんばって きておった先生が「みんな一緒になったんだし,小林先生は英語の主任教

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130 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 授にあたるわけやから,いっぺん挨拶に行かないか」と。「そんなら行か なければいけませんな」と。「ほんなら,あんたと S 君と3人で行きましょ うか」ということになった。 その時に,その先生はそういうことをよく心得ている人で,「手土産が 何かいるやろ。Y の海苔ぐらいがよかろう」とか,ぱっと言いはるわけね。 僕も「そうですか,そんなもんですか」と。 というわけで,京都のどこだったかで待ち合わせて,行くことになった わけ。ところが,それが結局,間際になってね,ふたりともダメになった んです。それで,僕ひとりで行くことになったの。その海苔を下げてね(笑)。 京大のすぐ北のほうにある北白川というところでした5)。あのころ,北 白川というのは一番いい住宅地で,そこには京大の教授がいっぱいいて はったわけです。そういっても,そんな大きな堂々とした家じゃないよ。 こじんまりした,もちろん和風の,日本建築の家ですが,そこへ行きまし た。 そうしたら,上品な奥さんがいてはって,迎えてくれるわけですね。昔 ながらの家なんですね。それで,僕ひとりでしょう?向こうは自分の親み たいな年でしょう?先生もちょっと間が悪かったと思うんだけど,何やか しこまって。何をしゃべったか覚えてないけれど,ぼそぼそしゃべりなが ら「まぁ,ちょっとゆっくりしていけ」と。 晩御飯も出ました。奥さんが上品な人でね,いかにも京都らしいごちそ うをしてくれるわけです。それこそさっきの「Y の海苔でございます」と いう言い方でね,「これはどこどこの何でございます」と。しばらくする とまた出てきて,「これは何とかでございます」と言うてね。こちらも全 部が全部わかるわけではないけれども,恐縮して,「はい,はい」と(笑)。 最後にご飯が出てきたときに,ぱっと入れて,「江州米でございます」 と言われて。「はぁー」と,これでもうとどめを刺されたな,と思ったなぁ。 5)昭和25年(1950年)に,小林象三が小樽高商から京都大学へ移ったときの住所も「京都 市左京区北白川下池田町」となっている。

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 " 131 最後のご飯まで「江州米です」と。滋賀県の江州米といったら昔から有名 だから。「あぁ,これこそ本当のごちそうやな」と。つまり,僕らの家だっ たら,いちいちそういう銘柄品を置くということは考えられへんわけだか ら。それを,お米にまで銘柄品を使って,江州米と。僕ら普段どこのお米 を食べているか何も知らんのに,あれには参ったなぁ(笑)。今でもなつ かしい思い出ですね。 菊地:小林先生の奥様は京都の方だったんでしょうか。 佐野:それは知りません。 菊地:言葉遣いとかは京都の方らしい感じでしたか?なにかそういう印象は 残っていないですか? 佐野:全然それは覚えてないね。しかしひょっとしたらそうだったのかもしれ ません。 菊地:わたしも記憶が定かではないのですが,伊藤整が書いたもののなかに, 小林先生のところへ行くと,奥様がとても上品な京都の言葉で話すので, 伊藤整自身は当時まだ17,8歳で,すごくあがって真赤になってしまい, 何を話したのか覚えていない,というような記述があったように思うんで す6)。今,先生のお話を伺って,もしかしたらイメージが重なるかなと思っ 6)「卒業期」に,以下のようなエピソードがある。 [小林]教授は京都大学の出身者であったが,小柄で丸顔の若々しい夫人もまた京都の 人であった。小林夫人は,私がこの土地で聞いたこともないほど軟かな歌うような美 しい言葉を使った。(中略)訪ねて行くと,出て来るのは十八九歳と思われる夫人の 妹さんで,この人も同じ言葉を使った。私は初め訪れた時,この妹さんの軟かい京都 言葉にどぎまぎして,真赤になった。そしてそれ以来私は訪ねる度にこの教授夫人の 妹さんの前では顔を赤くした(pp.134―135)。 伊藤整は,小林夫人の前で赤くなっていたわけではなく,「小林夫人の妹」の前で赤く なっていたらしい。京都言葉と京都の女性というふたつのことを意識して,どぎまぎして いたのであろう。京都の上品な女性の前で,伊藤整は自分が「田舎者」であることを意識 せざるをえず,恥ずかしく思っていたようだ。エピソードは以下のように続いている。 その人の京都弁は私に,自分が日本の古い伝統から全く切り離された粗野な田舎の青 年であること,多分坐り方や茶の飲み方やお菓子の食べかたに,いかに私が粗野な人 間であるかが,ありありと現れているだろうこと,しかも私自身はそれに気がついて いないことを絶えず感じさせた(p.135)。 伊藤整は若い頃,自意識過剰といえるほど異性を意識し緊張する傾向があったので,こ!

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132 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 たのですが。 佐野:そうですね。とにかく本当に物静かな,いかにも京都らしい感じ。家が そうだったし,奥さんもそうだったね。 菊地:やっぱり古い日本風のおうちだったんですよね? 佐野:そうそう。あのころ,あの辺にはそういう家がざらにあったわけです。 古い家並みがね。 菊地:今はもう残っていないですか? 佐野:どうやろう。 菊地:わたしは京都を知らないので,北白川のイメージが今一歩わからなくて。 佐野:北白川はそんなに変わってないと思う。あの辺はいわゆる再開発なんか もちろんしていないから,そのままの住宅地が随分残っているんやないか な。 これは冗談に近いんだけれども,とにかく京大の昔の教授というのは大 体,北白川や下鴨に住んではったわけです。もちろん名前もいいけれども, あの辺は非常に静かな屋敷町という感じだから,住んではったわけです。 それがもうちょっと後になると,もう少し離れてくるわけね。たとえば 戦後ぐらいになってくると,ちょっとこう離れて,岩倉とかに住むように なったわけ。つまり,もう住宅難で普通のところは到底いかれへんから。 で,僕らぐらいになると,もうそういうところにも住めない。だから,「尼 崎や」と言ってね(笑)。そういう話は,よくありました。昔は,北白川 というのは,一番普通でしたね。 菊地:滋賀大学には,学生にも教員にも,京都の方がわりと多くいるんですけ の若く「美しい」女性に,異性性を意識し必要以上に緊張していたのか,「小林象三」と いう尊敬する教授宅での「京都」という雰囲気のために緊張していたのか,あるいはその どちらもが作用していた可能性もある。 『若い詩人の肖像』について,本稿の脚注では前稿同様,講談社文芸文庫(講談社,1998 年)を使用し,『若い詩人の肖像』の各章「海の見える町」(1954年)「雪の来るとき」(1954 年)「卒業期」(1955年)「職業の中で」(1955年)「乙女たちの愛」(1955年)「若い詩人の 肖像」(1955年)「詩人たちとの出会い」(1955年)のタイトルを示した上で,引用ページ を記載するものとする。 !

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 ! 133 れども,その人たちの話では,京都はなかなかよそ者を入れない地域では あるけれども,大学の教員というのは学があるということで,よそ者でも 差別されない。大学の教員と芸術家,それから,宮大工とか,専門的な職 を持っている人たちというのは尊敬されているので,よそ者であっても大 事にされて受け入れる文化があると聞いたんですけれども,そういう傾向 はあるんでしょうか? 佐野:京都は,もともとは「学生の町」といわれるぐらいで,学生はものすご く大事にしていたから,当然先生は大事にされると思うよ。僕は住んだこ とないから,よう言わんけれども。 なかなかよそ者は入れへんと,打ち解けないと,これは確かに京都はそ ういうところなんで。僕も,そんなことをよう言うてましたけれどね。つ まり,「京都はいいところや,しかし住みたいとは思わん」と。 それは,人間関係が難しい。何でかというと,「京のぶぶ漬け」という 言葉は知っているかな?ぶぶというのは関西では水,あるいはお茶のこと なんです。ぶぶ漬けというのはお茶漬けのことです。 で,「京のぶぶ漬け」とは何かというと,どこか京都のうちへ行ってしゃ べって,「どうも,長居しました。じゃぁもう失礼します」とそういうと, 「まあまあそう言わんと,ぶぶ漬けでも」と京都の人は言う。そこで,「あぁ, そうですか」と言うて座ったら,ばかにされる(笑)。 菊地:ええー(笑)。複雑なマナーですね。 佐野:[座ったら],「何にも知らへん」ということになるわけです。これはお 愛想なんであって,言うてることとは全然違うっていうわけ。これが,京 都人の一番嫌な面をあらわした言葉として,昔から言われるわけです。つ まり,言うていることと腹とは違うといってね。で,「ぶぶ漬け」言うて, 座り込んだら,これは「何のたしなみもない人や」とばかにされる。 確かに京大にずっといて,京都の人たちと何人かつき合ってみたら, 「あぁ,これは京都やなぁ」と。何も底意地が悪いというのではないけれ ども,奥深い。だから,うっかりこちらがすっと乗ると,これはばかにさ

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134 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 れるな,というのはいっぱいあったね。 今更あれやけれど,今でも,僕は向こうへ住もうという気にはなりませ んね。難しいだろうと思う。しかも,大学教授なんかは結構尊敬されると すれば,余計つき合いが難しいのやないかね。だから,よそからそこへ行 く[通う]のが一番ええやろうと思いますよね。 菊地:最後に,小林先生を通して,北海道のことを聞いたことがおありになり ますか?あるいは,佐野先生は前に,小林先生が伊藤整を教えたと授業で おっしゃっていたのを覚えていると,お話しくださいましたけれど,伊藤 整や北海道のことを聞いたという思い出は? 佐野:伊藤整を教えたということは,僕も知っていましたからね。 菊地:事前に知っていらしたんですか? 佐野:いやいや,小林先生に聞いたから,知っていたんですよ。授業中,何か の時に言いはったと思うよ。それはずっと頭に残っていたからね。しかし, それ以上のことは知らない。 北海道のことをしゃべることはなかったね。小樽のことがどうのこうの ということは,あったかもしれないけれど,覚えてないですね。 菊地:伊藤整と知り合いだとか,自分は伊藤整を教えたんだということを,自 慢話として言うような方ではなかったんですよね。 佐野:そうだね。ちょっと言うぐらいで,自慢話ではなかったです。 小林先生も,いわゆる樽中なんやね。小樽中学。伊藤整と中学校は一緒 なんだね。 菊地:伊藤整が中学校に通っていた時に,小林先生が小樽中学に教えに来てい たんだと思います。 佐野:しかし,たしか小林先生も[小樽中学]出身でもあるわけだね。 菊地:出身かどうかは,今ちょっと思い出せないです。どうだったかな。 佐野:たしか,あなたにもらったもの[資料]にそう書いてあったような気がす るんです7)。 7)後述されるが,佐野先生ご指摘の通りで,小林象三は小樽中学の卒業生である。

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 ! 135 菊地:小樽中学で教えていたのは確かなんですが。 小林象三先生は,小樽中学と小樽高商が近く,歩いて行けるくらいの距 離なので,高商でも中学でも英語を教えていて,ちょうどその頃,伊藤整 は学生として小樽中学にいた。そういう縁で,中学時代に,伊藤整は小林 先生に英語を教わっているのは確かです。これがふたりの初めての出会い ということになります。 伊藤整は,小樽中学校を卒業した後に,小樽高商に入学しますから,伊 藤整にとっては中学で英語を教わった先生が,高校に入ってもまたいるわ けで,中高ずっと小林先生に教わるというかたちになります。非常勤とか そういうかたちだったと思うんですけれども,小林先生は,その後も,高 商だけでなく小樽中学校でも多少教え続けていらしたと思います。 佐野:それは書いてあったね。最初からの約束で,ここ[高商]に行ってからも, こっち[中学]を教えるというふうに,書いてあった。あっ,ここに書いて ます。「もともと伊藤君も私も北海道庁立小樽中学校の出身である」と書 いてある8)。 菊地:ふたりとも小樽中学出身だったんですね。 佐野:「私は1912年卒,伊藤君は1922年卒」ということは,ちょうど10年だね。 それにしても,伊藤整と随分親しかったようだね。「私が文部省在外研究 員として横浜港から鹿島丸で英国に向かった時,私を見送ってくださった のは伊藤君であった」と書いてあるしね9)。 菊地:そうですね。1930年の渡英の時の見送りですよね。小樽中学・小樽高商 時代から,ずっと交友が続いていたんでしょうね。 佐野:「先年,私のつとめる京都産業大学への講演にこられたのが最後の再会 8)佐野先生ご指摘の記事は,小林象三が小樽商大同窓会誌『緑丘―伊藤整追悼号―』に寄 せた「伊藤整君と私」というエッセイ。「もともと伊藤君も私も北海道庁立小樽中学校(現 在の小樽潮陵高校)の出身である。 私は一九一二年卒, 第七期生。 伊藤君は一九二二年卒, 第十七期生である」とある。(『緑丘―伊藤整追悼号―』1971年,No.81/82,p.17)。中学 時代のふたりには面識がなく,ふたりが出会うのは,小林象三が小樽中学で英語を教え始 めてからになる。 9)前掲書。

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136 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 であった。」と書いてある。つまり京都産大というのは,もう大阪工大も 辞めはった後で[小林先生が]行きはったわけやから,あくまでも,ずっと 親しかったんやね。[この追悼文が書かれたのが]1971年か。 菊地:そうですね,伊藤整が亡くなったのが69年ですから……。 佐野:71年というたら,僕はもう京大におりました。その時にはもう,小林先 生は産業大学へ行かれてね。 これ,おもしろいの。これ,「ヂァーヌル」と書いてあるでしょ?あの 先生はそういう書き方をするんですよ10)。 菊地:ここですね(笑)。 佐野:これは発音記号でいうと,「d」を書いてこういうやつ「!」やね。だか ら「ヂ」であって,「チのてんてん」やないといかんわけです。しかも「ナ ル」ではない。これは「ヌル」。「ヂァーヌル」。それは,いつも,僕らに やかましいように言うてはった。 だからたとえば,「チョーサー」なんていうのは絶対に棒を引っぱった らいかんの11)「チョーサと書け」と。伸びない。「伸びるように思える けれど,長音符号を書くような伸び方ではないのだから,『チョーサ』だ」 と。 そう,「ヂァーヌル」。これを見てね,「あぁ,小林先生やなぁ」と,思っ たんです。 10)前掲書。「朝日ヂァーヌル(英語読み)」とある。わざわざ「(英語読み)」と記載してい るところも,いかにも小林象三らしい気がする。英語の発音に即したカタカナ表記への小 林象三のこだわりは,彼の書いたほとんどすべてのものから感じ取ることができる。たと えば,「ロウミオウとヂゥーリエット」(「ロミオとジュリエット」の表記。「シエイクスピ アステイヂとスクリーン」,『緑丘新聞』第94号,昭和11年7月5日)や「スイアタゥアー ルド」(シアター・ワールドの表記。「御存知ですか?」,『緑丘新聞』第85号,昭和10年2 月1日)。 また,小林は,「ベイベル[バベル]について」というエッセイのなかで,「日本語の話の 中に外国語をあまりに外国語らしく発音されるとかへつて迷惑といふ人もあるかもしれな い」と断った上で,日本国内における外国語のカタカナ表記のあり方や発音の不正確さに ついての問題を指摘している(『緑丘新聞』第213号,昭和24年10月15日)。 11)ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer)。14世紀の英国詩人。新英和大辞典やジー ニアス英和大辞典など,現在における辞書のカタカナ表記は「チョーサー」となっている。

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 ! 137 菊地:なるほど。 佐野:小林先生は,できるだけ英語に近い発音で,日本語も書こうと。 今ので思い出したんだけれど,「チョーサ」でも,さっきの「サンキュ ウ」でも,なんでもそうだけれど,何か発音していると,小林先生は,す ぐそれを何度も繰り返しはるんです。あれも,おもしろかったね。 たとえば,イギリスに「Anthony」という名前があるでしょ?日本人は それをしばしば「アンソニーさん」と言うけれど,イギリス人は[アクセ ントを第一音節にもってきて]「ア´ントニさん」ってね12)。だから「これ はアンソニーじゃないぞ。ア´ントニだよ」と。 しかし,それも「発音はこっちだよ」と,「ア´ントニだよ。アント´ーニ じゃない。アントニ´ーでもない」と,わざと強調して言うから,その点は おもしろいね。「アントニーではない。ア´ントニ」と言うて,必ず三遍言 いはるわけ。「ア´ントニ,ア´ントニ,ア´ントニ」とね。 しかし,後になってから僕,知ったんだけれど,アメリカ人はアントニ をしばしばアンソニーと言うんやね。そうでしょ?アンソニー・クイーン なんて,そうらしいけれど。さすがの小林先生もアメリカのことまでは知 らなかったのか,[小林先生は]イギリス[英語]やから無視したんかな,と 思っているんだけどね13)。 必ず三遍。「ヂァーヌル,ヂァーヌル,ヂァーヌル」ってね。やっぱり あの先生は,そういう意味で,自分のやってきたことに誇りを持って,しっ かりとそれを教え込むつもりでやってはったんやな。どれだけ我々[学生] 12)小林象三は,日本国内における外国語の発音のアクセントの問題にも,大きなこだわり をみせた。アクセントをつけずに棒読みするのはまだ聞き易いが,アクセントの位置をま ちがって発音されては,「聞く方の耳がいたくなってしまふ」と述べている(前掲「ベイ ベルについて」)。 13)小林象三は,「イギリス英語」にこだわった人でもある。これはただ単にロンドン留学 での体験からイギリス英語好きになったということでもなく,ロンドン留学以前からの傾 向であったらしい。昭和4年,小林象三は,小樽高商の臨教生を引率して東京の複数の学 校に英語教育の視察にいった体験について,視察先のフェリス女学院の英語教育を絶賛し ながら「ただなんといつてもアメリカン・イングリシュが強く耳をうつ」と記載している (「臨教生と東京へ!」,『緑丘新聞』第36号,昭和4年11月29日)。

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138 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 がついていったか,というのは別だれど(笑)。 菊地:いえいえ,とても優秀な学生さんだったと思います。 これまで,いくつか,伊藤整と小林象三先生のことで,気になっていた ことがあるんです。なぜ,伊藤整と小林象三先生がそこまで親しかったの か,ということです。 たとえば,先ほどもあったように,「渡英の際に横浜港まで送りに行っ たのが伊藤整であった」とか,あるいはその他の機会にも「あの時に電車 で見送りの手を振ってくれたのも伊藤君であった」とか書かれているわけ です。かなり親しい感じがすると思うんですね。 実は,これまで,もしかしたら小林先生は気むずかしい人であったので はないか,と思っていたんです。見送りのエピソードなども,みんなが見 送りにきた,というよりは,伊藤整ひとりがきた,みたいな感じがあった ので。もしかしたら,伊藤整のように慕ってくる学生はそう多くはなかっ たのかな,と。小林先生が気むずかしくて近寄りがたい先生であったので あれば,それも納得がいくかな,と。 佐野:なるほどね。やっぱりあの先生だったら,多分,いろんな人が集まって くるようなことは,そうなかったでしょうね。やっぱりやっていること[音 声学]が特殊だものね。それに,書きはることすべて,「how to read」「how

to read」でいくわけで,音声とリズムでしょう。だから,やっぱりその点 では,当然そんなに学生も寄って行かへんわね。

僕も,小林先生は何でも「how to read」「how to read」だから,昔,若い ときは,「こんなん論文かいな」と思うたことがある。しかし,今となっ てみると,もうちょっと,小林先生のをいろいろ勉強しておいたらよかっ たなと。リズムのことが詳しく書いてあるからね。もっと勉強しておいた ら,もっと違いをわかったんやないかな,という気はします,今はね。 菊地:今日は,本当にいろいろと貴重なお話を,ありがとうございました。こ れまでは,伊藤整のフィルターを通しての小林象三先生のイメージしか知 らなかったのですが,それとはまた違った側面が見えてきました。どうも

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 ! 139 ありがとうございました。 !.おわりに 伊藤整にとって〈小林象三〉の存在はどのような意味で特別だったのか。〈小 林象三〉は,伊藤整の「西欧文学への扉」を開くきっかけとなりうる存在だっ たのか。インタビューの中で語られる〈小林象三先生像〉は,ロンドン大学へ の2年間の留学を経て,音声学の専門家となった50代の小林象三である。一方, 伊藤整が彼の自伝的小説『若い詩人の肖像』で語る〈小林象三教授〉は,イギ リスの詩や演劇に興味を持つ,京都大学大学院を出たばかりの20代の若い英語 教員であった。両者に描かれる〈小林象三像〉に,さまざまな相違点があるこ とは当然のことといえよう。 しかし同時に,インタビューで語られる〈小林先生〉は,やはり小樽高商時 代の〈小林教授〉でもあるのである。たとえば,小林象三の「正しい発音」へ のこだわり。小樽高商で,彼はそれを執拗なほど,授業や「外国語劇」の指導 で学生にたたきこんだ14)。京都大学での授業でも同様に「正しい発音」を学 生へ叩き込まんと指導していたことが,インタビューを通して明らかになった。 インタビュー前半部分で,京都大学の外国人の教員が,「彼[小林先生]だった ら,わたしの発音も直すでしょう」と言っていたというエピソードが紹介され 14)昭和22年小樽高商卒の北村昭三氏から,当時の高商の様子について貴重な情報をいただ いた。ここに感謝の意を表したい。氏は,HP「あの頃,みんな若かった」の「小樽地獄坂」 コーナーで,小樽高商に関連するさまざまな情報を紹介している(http://www.geocities.jp/ sappkitamura/2008年4月30日現在)。 「外国語劇」は小樽高商の名物であっただけでなく,小樽の名物であった。その名の通 り,学生が自分の専攻する外国語で劇を上演する大会で,学生も教員も熱意を持って取り 組んでいた様子を伝えるエピソードは多い。小林象三は,約30年間英語劇の指導をしてい た。小林は,小樽高商での「生涯忘れられないもの」として,この外国語劇の思い出を挙 げている(「緑丘学園と私」,『緑丘新聞』第227/8合併号,昭和26年4月15日,等他)。 外国語劇については,伊藤整の「雪が来るとき」にも,詳しく描かれている(pp.110― 112)。伊藤整と小林多喜二がフランス語劇,メーテルリンクの「青い鳥」にでたという事 実と,そのふたりがうつっている「青い鳥」の舞台写真はあまりにも有名である。写真に ついては,小樽商科大学付属図書の HP にも掲載されている。詳細は,2005年度小樽商科大 学付属図書館企画展「伊藤整生誕百年企画展」(p.14)。http://www.otaru-uc.ac.jp/htosyo1/siryo /exhibition2005_list.pdf(2008年4月30日現在)。

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140 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 たが,これも,〈小林先生〉の英語の発音へのこだわりをあらわしている。 また,「英語でスピーチをする」という,いわゆる実践的な英語能力を強調 する彼のスタイルも生涯保たれた。小林象三の英語スピーチについては,伝説 化しているともいえるエピソードとして,小樽高商時代に,小林象三と同僚の 浜林生之助が15),すべての会話を英語だけでおこなっていたことが挙げられ る。小林と浜林は,ともに広島高等師範学校卒であり,ふたりとも大正9年に 小樽高等商業高校に着任した。その際,ふたりは,すべての会話を英語でおこ なうことを約束し,第二次世界大戦中もふくめ,昭和22年に浜林が死ぬまで, それを貫いたほどであった16)。インタビュー前半部分で紹介された 「壮行会」 でのエピソードがあらわすように,どこであっても堂々と英語でスピーチをす る小林の傾向は,京都大学へ転任してからも続いた。小林象三の死の前年に京 都で開かれた小樽商大同窓会でも,〈小林先生〉の英語スピーチが健在であっ た様子が述べられている17)。 小林象三が,好きだった英詩や演劇をあきらめ,音声学を生涯の研究分野と して選択したことに,誇りを持ち続けたことも事実であろう。そして,その持 てる知識を学生に伝授しようと,生涯努めた様子が,高商時代の資料からも, インタビューからもみてとれる。昭和31年,京都大学に転任して6年余りたっ た小林象三は,小樽商大緑丘新聞に,以下のような記事を寄せている。 私は,浜林教授の帰朝後一九三〇年(昭和五年)文部省在外研究員として出かけ,英 ママ 語の先生たちからとかく嫌われる英語発音学をする弐学年ランダン大学でヂョウンズ 先生のもとに専攻しました。まことによい事をしたと思つています。私の只今勤めて 15)浜林生之助は,大正9年3月4日小樽高商に着任し,昭和22年11月19日に亡くなるまで, 小樽高商で英語を教えた,英語の実力者として数々の伝説を持つ小樽商大の名物英語教師 のひとり。 16)このエピソードについては,小林本人や学生,同僚などの談が数多く残っている。小林 自身さまざまな機会にこのエピソードにふれている。一例は,「浜林君とは小樽の初対面 の日から英語だけで話をしようと約束し,それを実行しました。あの戦争中ももちろん英 語で話しあつていましたので『憲兵からにらまれすぞ』と同僚から注意されました」(前 掲「緑丘学園と英語の先生達」)。 17)同窓会誌『緑丘』に,「小林象三先生が京都産業大学教授として御活躍されていますが, 総会にも御出席され,例の“English”でご健在ぶりを発揮しておられます」とある(「京都 支部便り」,No.38,昭和49年,p.44)。

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 ! 141 いる京都大学には専任の英語の先生が約廿名と非常勤講師が十数名いますが英語発音 学の専攻者は私の外にはいませんので,私の存在の価値もあろうという事になりまし よう18)。 誰もが認めるように,小林象三は,ロンドン留学中に音声学を専門とする決意 をしたときから,音声学だけのために持てる能力のすべてを費やしたといえる ほどの熱意を持って音声学に取り組んだ。しかし,それは,彼の英詩や英語劇 に対する興味が薄れたことを意味するともかぎらない。小林象三は,生涯,テ ニソン(Alfred Tennyson,1809―92),デ・クウィンシー(Thomas De Quincey,1785― 1859),シェークスピア(William Shakespeare,1564―1616)などによる英詩を題 材として,それを音声学的にリズムの視点から分析した。文学研究を専門とは しなかったが,彼の詩と演劇に対する情熱も生涯衰えることはなかったのであ る。 また,高商時代に「銀幕の人」と の異名をとるほどの「映画好き」と して知られた小林象三の演劇熱も生 涯冷めることがなかった。もともと, イギリスの演劇に興味があった小林 象三は,留学以前,「音声の勉強に なる」ということで外国映画の鑑賞 をはじめ,いつのまにか「銀幕の人」 と高商の学生たちに知られるように なった。ロンドン留学中には,実に 「数百といふ演劇と映画(トーキ) をみ」たそうである19)。小林自身, 「私を英語の先生としてよりも,映 画の先生として思ひ出す人が少くな 18)前掲「緑丘学園と英語の先生達」。 19)前掲「緑丘学園と私」。 「伊藤君のおかげ」で出版された小林象三の 研究書。

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142 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 いかもしれない」と,回想しているほどである20)。京都大学での音声学の授 業では,文学や演劇についての雑談はしなかったようであるが,教養英語の授 業では,小話メモを持ち,学生にちょっとした笑い話のようなものを提供して いたこともあるそうなので21),専門科目以外の授業では,映画や演劇の話を することもあるいはあったのかもしれない。立命館大学では,演劇の話などを していたことが,当時の立命館の学生の回想録に残っている22)。 伊藤整は,小樽商科大学の『緑丘新聞』に3回ほど寄稿している。そのうち, 小樽高商の思い出ともいえるふたつの記事の中で,伊藤整は,小林象三の名を 挙げている。もっとも古い記事は,昭和10年の「追想的雑記」である。 中学校以来御指導にあづかり高商を出てからも就職の心配までして頂いた小林象三先 生やよく導いて下さった濱林先生や英語では叩き込まれた苫米地先生など,何と言っ ても語学の先生方が一番懐かしい23)。 それから15年後,昭和25年に掲載された「思い出」には,以下のようにある。 京大へ赴任されたと聞く小林象三先生は私が一番御世話になつた方である。また語学 を私は割に熱心に習つたので亡くなられた濱林先生や今の代議士の苫米地先生などの お講義は昨日のように思ひ浮かぶのである。今になつて考へると,それ等の英語の先 生は大変よく出来た人たちばかりで,ああいふ出来る先生方は,この頃の東京の諸大 学にあまり居ないように思はれる24)。 20)前掲書。 21)高橋哲雄先生から教えていただいた教養英語クラスでの話。高橋先生の回想によると, 小林象三は,「なにか小話のカードを用意されてきて,それを披露されるときに自分がま ず読まれてクスッと笑われる」ことがあったそうである(前掲,高橋哲雄先生からの E メー ル,2008年2月20日付)。 22)潮陵高校同窓会誌『潮陵』(第65号,2006年,pp.16―17)。投稿者の石塚孜氏は,昭和31 年に立命館で,自らの卒業学校である小樽中学校(現潮陵高校)を卒業した小林象三に習っ た。そのときの回想録を,同窓会誌に寄稿している。演劇の話を提供する小林象三先生の 授業は,学生に人気だったこと,石塚氏が小林象三の授業で演劇の話を聞いたことによっ て,大の歌舞伎ファンになっていったことなどが,描かれている。 上記記事に関する情報は,小樽潮陵高等学校同窓会潮陵倶楽部事務局の井筒健三氏から 提供いただいた。井筒氏には,同窓会誌や卒業アルバムをはじめさまざまな資料をいただ いた。ここに心からの感謝を申し上げる。 23)『緑丘新聞』第91号,昭和10年12月5日。 24)『緑丘新聞』第222号,昭和25年9月15日。伊藤整は昭和24年から東京工業大学で英語講 師をしていた。

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〈資料紹介〉小林象三先生の思い出 ! 143 ここで私が注目するのは,3名の英語教師の言及順序である。苫米地英俊とい えば,小樽高商の第3代校長を務めた大物で,小林象三が「苫米地ゼ エイブ ル」と評した実力者であった。そして,浜林生之助も「本当に出来る英語教師 を探す」という第2代校長からの使命のもと,日本中の学校をめぐり探し当て られた教師として名をはせた実力者であったとされる。そのふたりをさしおい た形で,伊藤整は,第一に小林象三の名を挙げているのである。伊藤整にとっ ての小林象三は,小樽高商史における伝説の大物たちである苫米地英俊や浜林 生之助以上に重要であったことを,端的に示しているのではないだろうか。 佐野先生のインタビューが発端となり,さまざまな形で〈小林象三情報〉が 集まってきている。小林象三は,晩年,ロマン派を代表する詩人として大成し たコールリッジ(Samuel Taylor Coleridge,1772―1834)と,コールリッジに詩 を書くことをすすめたほとんど無名の牧師詩人であったウィリアム・ボールズ (William Lisle Bowles,1762―1850)との関係にふれ,「私がもし文学史に名を 残すことがあるとすれば,ウィリアム・ボールズがコールリッジの師としての み名を留めたように,伊藤整の英語教師であったことによってということにな りますかね」と言っていたこともあるそうである25)。 小林象三に関する記録は決して多くはなく,伊藤整と小林象三とのメンター シップについて決定的な証拠を見つけることは必ずしも容易ではないが,しか し,人々の記憶に残る〈小林象三先生〉から,その手がかりを得られたことは, 私にとって幸運であった。小林象三自身が,自らのデ・クウィンシー研究につ いて語った「『ものの成るは自己の力によるにあらず,人のおかげなり』との 言葉をしみじみ感じつつ」が26),今の私の心情である。 25)このエピソードは,高橋先生が以前佐野先生から聞いたもの(高橋哲雄先生からの E メー ル,2008年1月19日付)。 26)「研究の旅!」,『緑丘新聞』第152号,昭和16年10月25日。

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144 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月 〈主要参考文献〉 *『緑丘新聞』,『緑丘』,『潮陵』については,脚注にて号数,発行年(月日),ページ番号 など,各当する詳細情報を記しているため,ここではひとつひとつの記事については割愛 する。 伊藤整『若い詩人の肖像』(講談社文芸文庫)講談社,1998年 『小樽高商の人々』小樽高商史研究会編,小樽商科大学発行,2002年 小樽商科大学付属図書館企画展「伊藤整生誕百年企画展」(2008年4月30日現在) http://www.otaru-uc.ac.jp/htosyo1/siryo/exhibition2005_list.pdf

北村昭三「あの頃,みんな若かった」(2008年4月30日現在)。 http://www.geocities.jp/sappkitamura/ 『潮陵』(小樽潮陵高校同窓会誌,昭和30年∼) 『緑丘』(小樽商大同窓会誌,昭和33年∼) 『緑丘―伊藤整追悼号―』(小樽商大同窓会誌,1971年 No.81/82) 『緑丘五十年史』(緑丘五十年史編集委員会),復刻版,小樽商科大学発行,2001年 『緑丘新聞』(小樽高等商業学校編纂部刊,大正14年∼昭和55年刊),復刻版全3巻,不二出 版,1992年

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札幌、千歳、 (旭川空港、

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電事法に係る  河川法に係る  火力  原子力  A  0件        0件  0件  0件  B  1件        1件  0件  0件  C  0件        0件  0件  0件 

1に、直接応募の比率がほぼ一貫して上昇してい る。6 0年代から7 0年代後半にかけて比率が上昇