無意識と暗黙知の構成
著者名(日)
小林 修一
雑誌名
東洋大学社会学部紀要
巻
40
号
2
ページ
45-61
発行年
2003-01
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002280/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja無意識と暗黙知の構成
The Construction of Unconsciousness
and Tacit Knowledge
小林 修一
Syuuichi KOBAYASHI
(欲望のアプリオリ) 前稿では、人間について、自然的=環境世界との直接的=無媒介的な関わりから、そもそも疎外さ れていること、それゆえ、他者を含む何らかの(象徴的ないし道具的)媒体によって世界との間が媒 介されていること、その上、典型的には象徴的二共同的世界といった媒体において生活活動を遂行せ ざるをえないことを明らかにしてきた。本論では、人間行為にとって本質的な行為の媒介性を、媒体の 機制に踏み込みつつ、より詳細に考察しておくことにする。 われわれは、ピアジェの「シェマ」とその「同化」および「調節」といった機能を枠組みとして採 用しながら検討を進めてきた。乳児の反射的活動に始まる身体的運動の体制化としてのシェマは、そ の後の発達において身体図式から、心像=イメージ、シンボル、言語、概念へと展開を経つつ、活動とし ての知的営みを内在的に担うことになる。その意昧で、シェマは身体的活動から、概念的=思考活動 にいたる行為そのものを担う潜在的機制として想定されている。ところで、ピアジェはシェマの機能 を生物学的な適応活動とみなしていた。つまり、「同化」と「調節」は世界内の生命活動にほかならな い。そこから、生命活動の起点に想定される欲求は「同化」への傾向と規定されることになる。われ われはピアジェの発想の基本的枠組みを継承しつつ、人間行為の媒介性ならびに「共同的=象徴的世 界」論の視点から、枠組みの改変を目指すことにする。 まず、「シェマ」そのものは前意識的なものであることに注目しておきたい。それは意識的な身体的、 概念的活動を実現する無意識的な機制にほかならない。M.ポランニーがその暗黙知について展開して いるように、例えば、われわれがハンマーでもって、柱に釘を打ち付けようとする際、われわれはハ ンマーと釘との接触面に神経を集中させる。つまり、意識がそこに焦点を合わせることになる。だが、 その接触面の調整を実質的に担うのは、われわれのハンマーを持つ右腕と右手の筋肉と神経である。こ の右手の微妙な力の入れ具合と、バランスのとり方は過去の釘打ちの経験において「身」につけた技能で東洋大学社会学部紀要 40−2号(2002年度) あるが、われわれはこの点については「無意識」的にこれをこなさなければならない。つまり、ポラン ニーが「… から… へ」と志向する意識の方位において、意識の向かう「遠隔項」(・・・へ)に 意識は焦点付けられるが、その意識の起点である「近接項」(… から)は暗黙化されるとした機制が これである。そして、シェマはこの「近接項」の担い手にほかならない。したがって、シェマの「同化」 作用としての志向性(つまり、身体的技能の遂行を促す志向性)は、それ自体としては意識の志向性 の前提として、意識の後景に位置するがゆえに、意識されることはない。意識はあくまで、(柱に釘を 打ちつけようとする)「同化」の対象へと焦点付けられているのである。そして、ピアジェによれば、こ うした「同化」への傾向が欲求であるとされる。 ちなみに、この意識の志向性と、その基礎にある前意識的機制を、認識とその原理という局面にお いて指摘したのは、ニーチェであった。ニーチェの「認識批判」の骨子は、認識作用は、認識そのものを 実現する、より原理的なプロセスである「生」の過程を隠蔽し、仮構してしまうという点にある。われ われの認識は外的対象についての感覚的知覚に基づくといった自明性が、そうした自明性を生み出す 身体内的プロセスを覆い隠すというわけである。ニーチェによれば、われわれの感覚、知覚は外界に よって規定されると考えられてきたが、実はそれはわれわれの内界によって制約を受けているのであ る。こうして、「外界の本来的な作用はつねに意識されることなく経過するということである」 (F.Nietzsche,1906,訳(下)20頁)。 意識され、認識されるすべてのものは、意識されることのない認識のプロセスの背後に潜む生の過 程において、すでに変更を加えられたものにすぎない。いかなる変更かというと、意識や認識の「対象」 としての設定であり、ニーチェはこれを「図式化」と呼んでいる。われわれの意識に対して与えられる すべては、すでに「調整され、単純化され、図式化され、解釈されている」(同前、17−8頁)のである。 そして、こうした作用を促す動因が「欲求」にほかならない。「世界を解釈するもの、それは私たちの欲 求である」(同前、23頁)。欲求とは、世界の同化=我が物化であり、支配的意志にほかならない。「生 は、… 内からますます『外』を屈服せしめて血肉化する権力への意志である」(同前176頁)。こう して、意識や認識の作用は、その背後に想定される暗黙の、無意識の欲求=同化といった、生命活動 に密着した機制によって規定されていることになる。そこで、この欲求=同化の位相について、とり あえず検討を加えておこう。 ところで、われわれの意識や認識は、ニーチェの言うようにあらかじめ、意識や認識の「対象」と して図式化されていた。すなわち、われわれは「… として」これを意識したり認識したりしてい るのであって、対象は「常に、すでに」象徴的に整形されていることになる。つまり、そうしたもの として、対象はすでに「意味づけ」られている。むろん、その場合の「意昧」は記号学的な「意味する もの」(シニフィアン)/「意昧されるもの」(シニフィエ)の間に自動化される恣意的な意味作用とは 異なるものである。それは意識や認識の対象として、したがって、その前提としての欲求=同化の対 象、欲求の対象に値するものとみなす、というレベルでの「意味」づけにほかならない。その欲求=同 化の対象として措定することが、同時に意識における「ノエマ」(意識対象)として、認識における「対
象」としての形式をまとわされ、図式化されるということである。つまり、これが、象徴的世界によ る媒介であり、象徴的世界へと組み込まれるといった事態なのだが、それは欲求=同化への傾向と深 く相関したものであることがわかる。 それゆえ、ハイデガーの「世界内存在」の規定における現存在の「気遣い」(Sorge),すなわち、世 界に対する日常的な関与に孕まれた志向性とニーチェ的欲求=同化とは重なり合うことになる。われわ れはある事物を認識の「対象」とする時、それは日常的な事物との関わりの域を越えている。認識の対 象として事物に関与するとは、日常的な関与をいったん停止し、事物を「観察」の対象として措定しな おすということである。目の前のりんごは、日常的には「食欲」に「関わる」かぎりで、あるいは将来 的に生じるであろう「食欲」の対象としての可能性において、われわれの「気遣い」の対象である。認 識の対象として、りんごに接するとは、そうした日常の「気遣い」を遮断して、客観的な「観察」の対 象として改めて措定し直すということである。ハイデガーにとって、意識の対象となる世界に先立って、 常に、すでに世界はこうした『気遣い』『欲求』『意志』の下に成立しているのであるω。意識のかな た、外部から意識へと忽然ともたらされる「気遣い」とは、われわれが生きているという常態に不可 避的に孕まれている欲求=同化への傾向に重なっている。その意味で欲求=気遣いは現存在のあらゆ る(認識のような)態度や状態に先立っている。。 こうして、欲求が人間の世界に対するあらゆる関与の基底に位置するものであること、しかも、そ れは意識的な関与や認識作用に〈先立って〉いることが判明する。世界内存在であるということは、同 時に世界を「気遣う」欲望的存在でもあることになる。だが、われわれはここで立ち止まってしまう わけにはいかない。ハイデガーの道具的連関に始まる世界論に対するレーヴィットの批判を引き受け た以上、われわれはこの事物存在への〈欲求〉の「アプリオリ」を他者と共同存在の地平へと向けて 突き抜ける必要がある。それはまた、個人の内に閉塞された欲求を、〈私〉の壁を越えて拡張すること でもある。 (欲望と他者) そこで、われわれはラカン派の精神分析学に足を踏み入れざるを得ない。まず、ここまで曖昧に使 用してきた「欲求」「欲望」概念をラカン派の使用法を取り入れることで規定しておくことにする。 まず、純粋に生物学的機能としての「欲求」(besoin)が、「要求」(demande)や「欲望」(desir)か ら区別される。「要求」とは生物学的必要、つまり「欲求」をみたすべく発せられる言葉による「要請」 (ねだり)である。ところで、この「要求」が言葉によるものであることは、「要求」を充たし、与え てくれるはずの他者への関与をあらかじめ前提している点で、「欲求」との本質的な差異をもたらす。 乳児がおなかをすかせて(と、与え手は解釈する)声をあげる。その声に反応して、他者なる母親が 授乳する。この時、単に生物学的必要=欲求を充たす以上のことがここに生起している。まず、乳児
東洋大学社会学部紀要 40−2号(2002年度) のあげる声ないし泣き声は、他者に対する要請=ねだりとして、他者の住まう象徴的世界の側で一方 的に解釈される。乳児の側からするなら、声をあげることで否応なしにその象徴的世界に組み込まれ てしまうという事態が進行する。 さらに、声をあげて要請するという事態は、乳児が自らの欲求充足をはかる上で他者とその行為に 依存し、またそれを迂回せざるを得ないヒト科の特性と結びついており、それは他者による承認を媒 介せずには生存し得ないという特性にはかならない。したがって、この「要求」には「欲求充足」を 目指すといった外見と、その背後で他者の承認を希求する欲求との二重性が孕まれている。 ところで、子どもが母親にキャンディをねだって声をあげる場面を想像してみよう。子どもの声に 対して、すかさず、母親が我が子の口にキャンディを放り込む。相手が犬や猫ならそれで済む。しか し、人間の子どもは一種のフラストレーションに陥るかもしれない。というのも、母親が近所のひと と世間話に興じて自分のことをかまってもらえない。つまり、母親の関心=欲求が自分の側に向けら れていないことに対する抵抗として子どもは声をあげたのかもしれないからである。むろん、こうし たことは子どもにとってどこまで自覚されているかは問題ではない。かりにそうだとしたら、充足さ れた欲求と、無視された要求との間の溝は埋められないままである。ここに「欲望」が登場する。こ れは「他者の欲望の欲望」と規定される。この規定の意味は二重である。第一に、他者=母親の関心 =欲望の対象でありたいという欲望である。第二は、生物学的ないし本能的な(「欲求」ではなく)「欲 望」というものがない以上、子どもは「他者の欲望」、他者による世界への関与を、その基底にある志 向性二欲望ともども「同化」することでしか自らの欲望を抱くことができない、といった事態を指す。 こうして、アプリオリとしての「欲望」は、実は個人の内にアプリオリに存在していたものではな く、他者の欲望の移入という形で個人にインプットされるものであること、したがって、欲望の源泉 は共同世界そのものであることが明らかになる。そして、ここでの共同世界は個人的な自覚、自我意 識の成立以前において成立しているがゆえに、前意識、無意識な領域にその源泉を持つことになる。そ こで、こうした「無意識という欲望」の成立が問題となる。 このことを子どもの食欲とその対象という点から考えてみよう。まず、乳児の場合、その世界への 関わりは生物学的機能としての欲求にほかならない。いうまでもなく、世話をする大人という他者か らすると、子どもの泣き声や身体運動は子どもの欲求を表出する象徴として解釈されることになる。だ が、この時期の子どもにとっては自他の区別どころか、世界とこれを構成する事物や事象、さらに「食 物」すら、そうしたものとして対象的に存在しているものと把握されることはない。いわば、状況の なかに融解した状態にあると考えられる。欲求やその対象といった自覚された心的媒介(欲求を抑制 することによる、欲求自体の自覚や、欲求対象としての表象など)なしに、直接的、無媒介的な現実 との関わりがこの状態にほかならない。ラカン派のいう「現実界」である。これは直接的で無媒介的 な世界であるために、言語的に表出することがそもそも拒絶されている。それゆえ、説明し難い世界 である。 ところで、この自他未分で原初的な充足の経験が子どもに記憶痕跡を残すと、次はこの記憶された
知覚イメージが欲求の対象として(無意識的に)志向されることになる。そして、この原初的イメー ジはその後、次々と差し出される事物や事象を意味づけ=同化する上でのモデルを提供することにな る。子どもはこの原初的な満足というモデルの経験に活性化されつつ、欲求することになる。しかし ながら、乳児にとって、この充足の実現のためには他者の行為を迂回しなければならない。そこから、 声をあげて「要求」する段階へと進むことになる。そして、子どもの上げる声は、大人=他者によっ て象徴的に解釈=意味付与される。ここでは子どもはなお自らの欲求の主体として確立していない。第 一に、要求の形をとった子どもの欲求をそうしたものとして意味づけるのは他者だからであり、第二 に、子ども自身が自らを象徴的世界の中に位置付け、自我を確立するに至っていないからである。こ の段階は、その意昧でラカンの言う「想像界」に相当する。 ここで、すでに触れたように「他者の欲望」が子どもの欲求を二重に媒介することになる。第一に、 当の原初的満足のイメージは、自他癒合した充足の状態であり、それはこうした状態を実現した母親 二他者への同一化の願望ともいえるものである。それゆえ、子どもは他者もまた自分に対する一体化 の欲望を抱いてほしいと希求する。これが「他者の欲望(の対象たることへ)の欲望」の意味であっ た。次に、この他者への一体化を通じて、子どもは「他者の欲望」の対象を「欲望」することを覚え る。「要求」のうちには、こうした二重の意味での他者の媒介が孕まれている。そこで、この要求のう ちに「欲求」だけを見て取る他者が、その充足を企てても、子どもはけっして充足することはない。そ こで、子どもはさらに要求しつづけることになる。だが、それは言語化しえない原初的充足状態への 希求を無意識のうちに訴えるものであるがゆえに、その充足は永遠に引き伸ばされることになる。「言 語活動の存在は対象の非存在(nonetre)である」(J.Lacan,1966,訳162頁)とは、こうした意味であ る。われわれの欲望は他者によって媒介されているだけではなく、そうした他者との一体化への希求 を同時に孕むものであるがゆえに、たとえそれが外見上、事物への欲望であろうと、その事物への他 者の欲望を欲望するプロセスを潜在的に含んでいる。だから、その欲望の充足は言語以前の言語化し えない対象によっていわば呪われているのだ。欲望の対象とは「永久に欠如している対象」にほかな らず、「欲望は、つねに要求の内側に透けて見えているにもかかわらず、それでもなお要求の彼岸に存 在しているのである」(同前、71頁、なお、邦訳の「欲求desir」は「欲望」とした)。 これらを踏まえて初めて主体は、この他者の欲望を欲望=同化し、身体化することを通じて自らを 欲望する「主体」として構築することになる。それが「象徴界」への参入である。これによって、言 語化しえない原初的欲望の対象は抑圧され、代わって言語的秩序にはめ込まれた対象と、それを目指 す「私」の欲望とが出揃うことになる。これがいわゆる「エディプス」現象にほかならない。今後は、 子どもは自らの欲望=存在欠如を埋めるための対象を自らの手で獲得することになる。それは同時に 言語化しえぬ原初的対象を無意識界へと抑圧するための繰り返される儀式(欲望の対象を言あげする こと)でもある。
東洋大学社会学部紀要 40−2号(2002年度) (欲望とメタファー) さて、欲望の源泉としての無意識への遡及から、改めて認識の問題に立ち戻っておこう。われわれ の認識は世界とりわけ共同世界=象徴的世界に埋め込まれていることがはっきりした。したがって、認 識を「脱世界化」して問うことは意昧をなさない。同時に、認識がそうした世界に埋め込まれている ということは、それがわれわれの「生への関与」=欲望の問題と深く絡み合っていることを教えてく れる。そこで、この欲望と認識との関係について考えておきたい。 ニーチェにとって認識の基底には欲求が存在していた。そして、欲求とは世界への同化の傾向ない し志向にほかならなかった。この点からすると、「認識の全装置は一つの抽象化、単純化の装置であり 一認識をめざしているのではなく、事物をわがものにすることをめざしている」(ENietzsche,1906.訳 (下)36頁)ことになる。認識や思考といった精神的活動は、それが意識的であればあるほど、その背 後の前意識的な欲求そのものを隠蔽することになる。ニーチェがそうした「生への関与」を担う「肉 体」を重視するのも、ここに起因する(2)。 そして、この肉体に基づく関与が認識や思考の基底にあって、それをささえているのだが、認識や 思考はそのことを隠蔽し、忘失してしまう。それは認識や思考の象徴的変形による。「『認識する』ので はなく、図式化するのである。一私たちの実践的欲求を満たすにたるだけの規整や規格を混沌に課す る」(同前、43頁)ことになる。精神の作用はこのように対象ないし世界をカテゴリー化=図式化する ことによって変更を加える(抽象化、単純化、規格化)ことである。にもかかわらず、そうした『装置』 (精神的媒体)をにも認識作用を推し進める志向性として欲求(ここでは既にラカンの言う欲望に変じ ている)が潜在している。認識とは対象を『我が物化』=同化する一一つのあり方でしかない。だから、 同化こそが、いっそう基本的なプロセスなのである。 「『等しい感覚をひきおこすものは等しい』しかし感覚を等しからめ、等しいと『みなす』ものは、何 と呼ばれるであろうか?一まず諸感覚の内部で一種の同等化の作用がいとなまれていないなら、いか なる判断も全然ありえないかもしれない。… 判断がくだされる以前に、同化の過程がすでに完了 していなければならない」(同前、61頁)。つまり、ある感覚(例えば「痛み」)をそうしたものとして 同定することができるためには、今の「痛み」を一分前の「痛み」と「同等化」することができなくては ならない。さらに、これを言語的に「痛み」として図式化して表出二判断するためには、一分前の「痛 み」の感覚と、「痛み」という言語的カテゴリーとが「同等化」されていなくてはならない。このよう に、ニーチェは一貫して精神による生の解釈(=形而上学)に抗して、生による精神の解明をめざそ うとする。その解明の企てにとって「同化」は一つの鍵概念をなしている。 「同化」はニーチェ同様、ピアジェにとってもまた「我が物化」として規定されていた。「事実、知 能は経験的所与のすべてを自らの枠組みのなかに組み込むものであるから、その意味でひとつの同化 であるといえる。判断によって新しいものをすでに知られているもののなかに取り入れ、そうして世
界を自分自身の観念に還元する思考の場合、あるいは知覚した物を自らのシェマ(scheme)のなかに 取り込むことによって構造化する感覚運動的知能の場合など、いずれの場合にも知的適応には同化の 要素が含まれている。同化とは、つまり、外的現実を自己の活動に基づく形態に取り込み、これを構 造化することである」(J.Piaget,1948.訳{}7頁)。 こうして、同化とは外的現実を「我が物化」するという点で、摂食活動に典型的に現れているように 生命活動に基礎を置いた「生への関与」にほかならず、欲求はそうした同化の志向性なのである。そし て、この志向性それ自体を人間の場合、他者の志向性の取り入れとして、つまり同化することを通し てしか手にすることができない。このことの対他者的表現が「他者の欲望の欲望」であることが今や明 確になった。だが、ここでは、この同化の作用の内容に注目しておきたい。ピアジェの言い方では、「判 断によって新しいものをすでに知られているもののなかに取り入れる」とされていた機制である。ピ アジェがここで問題にしているのが「知的」同化であるため、この同化の作用全体が意識的な「判断」の プロセスとみなされている。だが、そうした「判断」の背景については、すでに検討してきたニーチェ の指摘がこれを明らかにしていた。つまり、先ほどのニーチェの引用にも明らかなように、比較し、考 量するためには、比較可能な『同等』なる地平に置かれなくてはならない。ということは、判断以前 にまず「同化の過程が完了していなければならない」のであった。そして、意識的で知的な同化は、実 は前意識的で「肉体的」な同化に支えられているのである。したがって、「新しいもの」を「既存のもの」 へと同等化することで「取り入れる」ということが同化本来の機制であることになる。それは同時に外 的=新規なものを内部へと取り込む「欲求」の機制でもある。欲求の作用こそが、まずもってある対 象を「同化」可能か否かをあらかじめ、前意識的に判断しているはずだ。すなわち、欲求の対象足りう るか否かと。それゆえ、「類似のものだけが、類似のものを知覚するのである。これは一つの生理学的 な過程である」(F.NietZsche,1920.訳258頁)。 いったん同化をこうした欲求、我が物化の機制として把握するなら、知的同化の機制もまた同様の機 制にしたがっていることが予想される。それがメタファーである。メタファーは新規なものを、既存 のものとの類似に基づいて「同化」するプロセスにほかならない。ニーチェはわれわれの感覚と知覚は 外的なものをメタファー的に同化することで、外的なものの「模倣」としての像を結ぶ作用とみなす。 「どのような力が模倣へと強いるのであろうか」とニーチェは問い、こう回答する。「隠喩によって外 来の印象をわが物とすること、これである。刺激 記憶形象、これが隠喩(類比推論)によって結合 されるのである」(同前、268頁)。隠喩こそが模倣を生み出す前意識的機制にほかならない。それゆ え、「認識作用とは、極度に愛好された隠喩における作業、つまり、もはや模倣とは感受されなくなっ た模倣作用であるにすぎない」(同前、269頁)のである。 こうして、認識とは精神的なレベルでの同化であり、世界のわが物化であること、そして、認識に おける同化の論理こそがメタファーであることが明らかになった。レイコフとジョンソンもまた、メ タファーが単なる哲学や言語学の学的対象の域をこえた生命活動にまで拡張されうる論理であること に気づいていた。彼らによれば、「言語活動のみならず、思考や行動にいたるまで、日常の営みのあら
東洋大学社会学部紀要 40・2号(2002年度) ゆるところにメタファーは浸透しているのである。われわれが普段、ものを考えたり行動したりする
際に基づいている概念体系の本質は、根本的にメタファーによって成り立っているのである」
(G.Lakoff and MJohnson,1980.訳3頁)。 (メタファー的認識) メタファー的論理は単に認識のみならず、生命活動に基づく論理であることを見てきたが、この認 識のメタファー性についてさらに検討を加えておこう。ここでは二つの点を中心に検討しておく。一 つはメタファー的認識および思考に対する言語的、概念的思考の関係であり、もう一つはメタファー 的論理の源泉への遡及に関する問題である。 まず、第一の問題に関して、言語的認識の原理的性格を訴える丸山圭三郎は「『コトバは認識のあと にくるのではなく、コトバがあってはじめて事象が認識される、もしくはコトバと認識は同一現象で ある』という命題を提起」(丸山圭三郎、1981,119頁)している。言語現象に関するこの説は、言語以 前に、まず区分され、分類された事物があって、言語はそれを名づけるためのレッテルとして利用され てきたというプラトン以来のいわゆる「言語命名論」に対して、これを転倒させたとされるソシュー ルの言語観を継承しようとするものである。つまり言語という、世界を分節化し、分類するための体系 を通して初めて事象の認識が成立するとみなす。そして、こうした言語の体系とは差異の体系にほか ならない。それゆえ、認識とは差異と分類であることになり、これまでわれわれが見てきた「同化」と しての認識観と真っ向から対立する見解であることになる。 「判断がくだされる以前に、同化の過程がすでに完了していなければならない」というのがニーチェ の立場であった。目の前の果物がりんごである、という判断は、言語的、概念的にはみかんとは異なる 種類の果物といった差異化と分類に基づくものである。だが、みかんとは異なるりんごであるという 以前に、そのりんごが二日前に初めて食べたことのある甘酸っぱい「りんご」として同定されていな ければならない。目の前の果物を二日前に食した「りんごのようなもの」として、同定した上で、初め てそれは昨日食した「みかん」とは異なる果物であるといった判断が生まれると、ニーチェは言いた いのである。差異化や比較が可能であるためには、まずもって「同化」されていなくてはならない。 ニーチェの考察は徹底した生成論的な枠組みによって遂行されている。それはある事象に関する印 象における前意識的なレベルでわれわれのうちに生成するプロセスに注目する。それが「同化」である。 したがって、差異化と分類に基づく認識は、こうした同化の過程がすべて完了したのとに事後的に説 明される理由なのであって、事柄の推移を無視した説明でしかない。 「この認識という目的のために、印象は、化石のようにされてしまう。すなわち、印象は概念によっ て捉えられ、鋳型にはめられ、更に、殺され、皮をはがれ、かくして概念としてミイラにされて帆像保 蔵されるのである。ところでしかし隠喩なしでは、『本来的な』表現とか、本来的な認識作用とかは、存在しないのである」(F.Nietzsche,1920.訳269頁)。 ニーチェにとって、本来の認識作用とは同化、したがってメタファーとして進行する。言語や概念 はそこから見ればあくまで外在的なものでしかない。こうして、内在的なメタファー的思考と、外在的 な言語的思考とは区別されなければならない。ここで、子どもの思考と言語の生成はまったく別の筋 道を通って発達しつつ、事後的に合流するものであることをピアジェもまた発見している。2,3歳 の子どもの『シンボル遊び』に触れての報告で、彼は「… シンボルのあそびは、言語とほとんど 同時に、しかし、言語とは無関係に、出現し、個人の(認識的で同時に感情的な)表象の起源および、
同様に個人的な表象的図式化の起源として、幼児の思考の中で、かなりな役割を演じるのだ」
(J.Pisget.1964.、訳115頁)と指摘している。 ピアジェによると、言語はむしろこうした内在的(つまり「シェマ」自身の自己組織的な発達の結 果生じる)思考を「完成」させるのに貢献する。事象を意味づける前言語的、非言語的な「シェマ」化 の作用、あるいは潜在的なメタファー思考に対して、言語は「言語的意味付与」を行う。その付与さ れる意味が、言語的差異体系に基づいているのである。しかしながら、出来合いの言語体系を活用す るわれわれの思考はメタファー的論理によっているため、われわれの日常的言語使用は(科学的、人工 的な概念体系とは異なって)メタファー的なものになりがちである。尼ヶ崎は、日常的な「カテゴリー の基礎にあるものはプロトタイプに典型的に体現されている『らしさ』である… つまり『差異』の 設定によってカテゴリーが分類されるのではなく、典型的事例をもとに、同じ『らしさ』を示すもの がカテゴリーを形成してゆく」(尼ヶ崎彬、1990,59頁)と指摘している。 「りんご」は「りんごらしさ」、つまり赤くて、甘酸っぱいあの果肉の味についての既存の経験によっ て意味づけられる。「りんご」が「みかん」との差異によって認識されるのは、学校的知識の学習過程にお いてであって、それは、それだけなら単なる言語的知識(つまり、自らの経験的実感を伴わない暗記 用の知識)に終始するだけのものである。後に述べることになるが、言語そのものは分節化された音 声の束でしかない。そこに意味を宿すのはわれわれの経験的内容なのであり、それがメタファー的な 作用なのである。 次に、もう一つの問題、このメタファー的論理を遡及するといった問題に移ろう。メタファー的論 理は新規で未知なる事象を、既知の身近な事象へと同化し、取り込むものであった。だが、この既知な る事象もまたそれ以前の既知なる事象からの類推=メタファーによって知られるに至ったものである ことになる。こうして、メタファー的論理は一続きの連鎖をなしていることになる。これをどんどん 遡っていった場合どうなるのであろうか。こうしたメタファー的知識もまた恣意的な差異の体系をな しているとみなす構造主義者らは、この連鎖は閉ざされた循環に終始すると考える。だが、われわれ はすでにメタファー的知が差異や分類といった言語的、概念的知とは異なる論理によって形成されてい ることを見てきた。そして、われわれにとって疎遠な事象をより身近な事象との類比に基づいて把握 するというこの論理を遡及してゆくなら、それはわれわれにとって最も身近なわれわれの「身体」ない し「肉体」へとたどり着くことになる。「われわれは常に肉体的なものを基盤にして非肉体的なものを東洋大学社会学部紀要 40−2号(2002年度) 概念化している」(GILakoff andMJohnson,1980,訳98頁)というレイコフとジョンソンの指摘はこの ことを示している。尼ヶ崎もまた「上下」「前後」「内外」「遠近」などといった空間概念など「これらの概 念構造は私たちの日々の身体的経験から理解されている。即ち、身体的経験の領域こそ、他の諸概念 の基礎となる元型的概念の母胎なのである」(尼ヶ崎1990,133頁)としている。 しかしながら、この身体といい、肉体といった機制は個人的ないし意識的主体とは別の、その彼方へ と突き抜けた地点において想定されなければならなかった。それは「無意識」の領域へと、そして他者へ と突き抜ける機制であった。メタファーを理解し、解釈する意識的主体、ないしその担い手としての「肉 体」ではない。だから、「『いったい解釈するのは誰か?」と問うてはならない」(F,Nietzsche,1901.訳(下) 80頁)とニーチェも断っている。主体、自我とは、無意識的同化=メタファー的思考の完了後の言語的 意味づけにおいて、いわばその背後から密かに挿入された仮構でしかない。われわれの自我なるものは、 そうした言語的=象徴的な仮構をその生命活動の基礎において支えつつ、当の仮構によって隠蔽され、 無意識化された肉体、そこに潜む機制としての「シェマ」から滴り落ちた滴でしかない。そして、その シェマの機能は個人ないし個体内に限定されることなく、しかも極めて動的なものである(3・)。 メタファーの源泉としての身体とは、その機能としての同化=欲求の起点であり、「シェマ」を指し ていた。ところで、新規なA(身体外の)を、既知のB(身体化された)と「みなす」ことによって AをBへと「同化」するというメタファー的論理において、意識はこうした同化を暗黙化された前提 として、BとしてのA、 Bとして意昧づけられたAだけを志向する。その前提となっているAをBへ と同化ないし同等化するプロセスはあくまで前意識的な、暗黙の事態である。意識とその対象はむしろ この暗黙のプロセスのなかから生み出されてくる。それはM・ポランニーの暗黙知、すなわち「ある ものへと注目するため、ほかのあるものから注目する」志向の方向付けに根ざす機制に基づいている。
Bとして意昧付けられたAに対する(意識的な)注目は、AをBへと「同化」する身体化された=暗
黙の作用(前意識的な)すなわちメタファー化を前提としている。それゆえ、ポランニーの「暗黙知」 とはメタファー的思考の典型にほかならない(R.A.Nisbet,1969,訳18頁)。 こうして、メタファー的連鎖の遡及は身体、同化の機能を担う機制としてのシェマとその前=無意 識の領域へとわれわれを連れ戻した。だが、すでに触れてきたように、この無意識の領域は個人心性 に内閉されるものではなく、その彼方、他者へと向けて突き抜けられていた。それゆえ、われわれはこ こで再び共同世界に向けたメタファー的連鎖の遡及を試みなくてはならない。 (象徴界と無意識) さて、ポランニ の暗黙知=メタファー的思考における意識化と無意識化の規制は対他者的関係に おいては言語的「要請」の更新による原初的欲望からの遠ざかりとして現れた。つまり、未知なるA を既知なるBとして意味づけて解釈することによってわれわれはAを認識するのだが、そうした認識が成立した背後で前意識的に生じるAをBへと「同化」する身体的機制、すなわち欲求は暗黙化され るのであった。対他者関係においては、この意味づけは象徴的世界への参入において実現され、その ことがわれわれに自我とともに無意識をもたらす。その典型的な事例がフロイトが記述し、ラカンに よって解説された「Fort−Da」遊びである。 フロイトは一歳半の男児が母親の留守中に見せる一人遊びに注目した。それは糸を巻きつけた糸巻 きをベッドの下に投げこんでは引き戻す繰り返しの遊びである。子どもは糸巻きをベッドの下に投げ 込んで見えなくなると「オーオー」つまりfort(いない)と叫び、次に糸を引いて糸巻きが姿を現すと、 こんどは「ダー」つまりda(いた)と声をあげる。この繰り返しの一人遊びである。 すぐにわかることは、この遊びには二重のメタファーが存在しているということである。一つは、母 親のメタファーとしての糸巻きである。もう一つは、母親の「在一不在」のメタファーとしての糸巻 きの見え隠れと、fortとdaの音声である。フロイトによればこれは母親の不在を承認し、断念するため に、母親の在一不在を象徴的に再現することで、これを償うものとみなされた。だが、ラカンはここに 母親の在一不在といった実在的状況を、その状況を言語的、象徴的に表現することによって克服する といった状況の統制を見出す。と同時にそこで子どもは状況を統制する主体として立ち現れることに なる。 「語というものは、それ自身すでに不在から作られた現存在であるが、この語というものによって、 不在というものさえ或る原時点において名を与えられる。この際限のない遊びは、フロイトの才能に よって幼児の遊戯のうちで捉えられた。そしてこの現存在と不在とから作り出された組み合わせによっ て一これは、中国の占いの卦に見られる、線と破線を砂の上に描き、その痕跡が何かを構成し得るの と同様に一或る言語活動の持つ意味の宇宙が生じてくるのであり、そこで心的事象の宇宙は整理され るのである」(J.Lacan.1966.訳1,377頁)。 つまり、母親の不在といった、子どもにとっては耐えがたい事態を克服するために、子どもはこの 現実的な不在といった空隙に糸巻きないし言葉を差し込むのである。語が「不在から作られた現存在 である」というのはこの意味であり、ラカンはこれを「シニフィアンの代入」と呼ぶ。いったんこう した代入がなされると、状況それ自体が象徴的に転倒される。状況は「言語活動の持つ意味の宇宙」で ある象徴界へと転換され、そこでは母親の代理=メタファーとしての言葉=シニフィアンを支配する のは子どもである。「fort 一 da」,それは失われた対象の不在を自在に制御することのできる呪言なの であるω。 こうして、生きられた現実からの「距離化」が象徴界への移行として実現される。そしてまた、そ こで象徴を自在に操ることを通して、子どもは自らを象徴的に「主体化」し、その世界の支配者とし て君臨することになる。「この遊びが示してくれたのは、ことばは現実から自身を引き離すものである ということ、そしてことばによって主体は、生きられる現実から距離をとって、自らを定位すること ができる、ということである」(ALemaire,1970.訳78頁)。 このfor卜da遊びにおいて見られる原初的満足=「母の欲望」との一体化という不可能を、象徴的次
東洋大学社会学部紀要 40・2号(2002年度) 元で実現する術が、母の代理としてのシニフィアンによって与えられる機制は、そのままエディプス 現象にもあてはまる。まず、原初的満足は「母の欲望」というシニフィアンとの一体化、つまりその シニフィアンによって意味される内容が自分=子どもであるような事態にほかならない。母親の欲望 の対象を「ファルス」とするなら、子どもは自らファルスでありたいと欲望することになる。しかし、 このことの不可能を解決するために子どもは代理のシニフィアン、すなわち「父の名」を代入する。そ れは一体化が不可能であることを悟った「母の欲望」の代理の代理、シニフィアンのシニフィアンにほ かならない。ラカンはエディプス現象における父の機能をこう定式化している。 ﹄一& 〈父の名〉 母の欲望
→・父の名・[
A
母の欲望 主体にとってのシニフィエ ファルス]
(J.Lacan.1966.訳ll ,322頁) この定式では「母の欲望」のシニフィアンは、代理である「父の名」のシニフィアンの代入の結果、 消去される。それは抑圧され、無意識となる。それを示すのが、A(Autre他者)の記号である。これ についてラカンは、「〈他者〉のなかにおける記号表現(シニフィアン)の存在は、ふつうは、主体に 対して閉ざされている存在である」(同前、322頁)と説明している。というのも、主体=子どもにとっ ての欲望の原初的対象は消去=無意識化されてしまったが、それは当の対象の代理のシニフィアン、つ まり主体の手を離れ、他者から供与された言葉を借りて、当の対象をメタファー的に名づけ続けること になるからである。 こうして、子どもは「母の欲望」の対象、すなわちファルスである=〈存在〉の様態への欲望を断 念し、この直接的、無媒介的体験を回避して、ことば=シニフィアンという媒体を迂回することによっ て(そして、これはファルスを〈持つ〉父の名というシニフィアンの代入を結果するから)、自らを所 有の欲望を持った主体として定立させることになる。 「原抑圧と父の隠喩によって、欲望はこれ以後ランガージュという仲介を課せられることになる。よ り正確にいえば、『ランガージュへと欲望が疎外されること』に先鞭をつけるのは〈父の名〉というシ ニフィアンである。パロールになったことによって、欲望はもはや欲望自身の反映にすぎないものに なる。『所有の欲望』によって抑圧された『存在の欲望』のために、今後は子どもは、失われた対象の 代理の対象という領域へと自分の欲望を入り込ませざるをえなくなる。これが達成されるためには、欲 望がパロールとなり、『要求』(本論でいう『要請1)というかたちで繰り広げられる以外に方法はない。 しかし、欲望が要求(要請)になると、欲望は次第にディスクールのシニフィアンの連鎖の中へと迷 い込んでいく」(J.Dor,1985,訳99100頁)。 失われた対象、すなわち原初的欲望の不可能性は「父の名」のシニフィアンによる原抑圧以後、部 分的な代理の対象とこれを指示するシニフィアンの無限の連鎖へと欲望を引きずりまわすことになる。これが象徴界への欲望の取り込みである。そこでは欲望は失われた対象の全体性を名指すために、部 分的な欲望の表現=シニフィアンに依存するしかない。それゆえ、欲望はこの部分によって全体を指 示する換喩(メトニミー)の論理に追い立てられることになる。 こうして、欲望が同化への傾向として、既知なる心的モデルとのメタファー的類似に基いて対象を 次々と取り込むというメタファー的認識の論理が、ラカンのいうシニフィアンの無限の代入において 働いていることが明らかである。隠喩という「言われたこととはまったく別のことを意味する能力は、 言語の、意味からの自立性を決定する。ラカンはシニフィアンの自立性を主張しておる。彼は言語のメ タファーとメトニミー的なプロセスをそれぞれ圧縮と置換とに同一視している。あらゆる無意識的な
ものの構造は検閲の裏をかくために、こうした文体論的工夫を活用しているのである」
(M..Sarup,1988,p.11.)。 そこで、認識における原モデルに相当する欲望の原形こそが、「母の欲望」にはかならなかった。つ まり、子どもにとって他者や事物に対する原初的志向性=同化への傾向としての欲求は、それ自体が母 なる「他者の欲望の欲望」として移入されたものであった。そして、そうした意味において「母の欲 望」こそが原欲望であり、それは自らの欲望に従って行為する段階においては忘失され、無意識化さ れるほかないものであった。また、自らの欲望といった錯認を生み出す機制が象徴界であり、そこで 初めて欲望する「自我」もまた構築されるのであった。 そこで生み出された言葉=シニフィアンは自らの温床となった言葉なき直接的、無媒介的「現実界」 を忘失し、無意識へと抑圧する。しかしながら、自我の欲望はシニフィアンの連鎖に組み込まれつつ、 この無意識化された「他者の欲望」という不在の対象めざして希求し続けることになる。そして、こ のシニフィアンによる媒介こそが、無意識を生み出す要因にほかならない。それはM・ポランニーの暗 黙知における意識の対象となる「遠隔項」と意識の起点における暗黙化された知である「近接項」と を隔て、仲介するからである。それゆえ、媒介こそが無意識を創り出す。 「わすれてならないことだが、媒介の存在はまた、人間が無意識に条件づけられたものとなる、とい うことを生み出すものでもある。… 子どもは、多様な次元をもつこの象徴秩序に入ると、この秩 序によって加工を受けることになり、その消し難い刻印を自分の知らぬ間に受けていくことになるの である」(A.Lemire,1970.訳81−2頁)。そして、さらに忘れてならないことは、モノや言葉といった媒 介を可能にするのは、他者であり、モノや言葉への関与の前提となる原欲望とは、「他者の欲望」であ るということである。こうして、シニフィアンの連鎖、メタファー的連鎖を遡及することでわれわれ が手にするのは、「他者の場所」である「無意識」であることになる。 「r隠喩的な意味以外に意味は存在しない』のである。意味は、シニフィアンの連鎖の中で、あるシニ フィァンを他のシニフィアンと入れ代えることによってしか決して出現しない」(J.Dor,1985、訳、169 頁)。あるいは、「隠喩から隠喩へ、記号表現連鎖から記号表現連鎖へと遡ることによって、われわれ はついには原抑圧がおこなわれる際に座を占めていたあの無意識の要素的な記号表現に到達すること ができる」(A.Lemire,1970.訳155頁)。つまり、メタファーの源泉であり、無意識の場でもある、ニー東洋大学社会学部紀要 40−2号(2002年度) チェのいわゆる「肉体」への、そして、これまでの記述からも明らかなように、「他者」へと達するこ とになる。 そこから、われわれの行為には常に意識的と無意識的といった二つの局面が存在していることにな る。ラカンはこれをディスクールにおける「言表内容enonce」と「言表行為enonciation」として区 別している。すなわち、「無意識の現前は〈他者〉の場所にそれが位置付けられるためには、あらゆる 話discoursのうちに、その言表行為のうちに探られなくてはならない」(J.Lacan,1966.訳皿,355頁)。 「〈他者〉の場所」とは無意識にほかならない。欲望という無意識は他者なる〈母の欲望〉に由来して いた。ラカンによれば、真に「語るのはエス」である。表象される「語る主体」とは「語られたこと」 =言表内容とともに語によって表象され、構成された主体、すなわち「自我」にほかならない。そうし た「語られたこと」=言表内容とその主体(語)である自我によって、それを生み出す行為=言表行 為の主体=エスは抑圧され、無意識化される。だから、語る者は、語ることによって、自身が真に語っ ていることから疎外されていることになる。それは、ランガージュはわれわれの無意識的な欲望の代 替でありながら、われわれの欲望を促し、導く事態と相関しているのである(5)。語られたことが意識 の志向対象であり、何を語るかに注意が向けられることによって、語ること、語る行為における志向の 起点は忘失され、暗黙化される。語る行為の主体であるエスは、これまでの議論の展開からして、シェ マと重なることは明白であろう。それは語られた内容と相関する自我ではなく、語る行為の担い手で ある身体的機制なのである。 だから、ニーチェもまた言う。肉体こそが「言語の源泉である。… しかも今日でも私たちはい まだ筋肉でもって聞き、いまだ筋肉でもって読みさえするのである」(F.NietZsche,1901.訳(下)278 頁)。 ニーチェは無意識の場所を肉体のうちに見出したが、すでに見たようにそれはそもそも「他者」のう ちに源泉を持っていた。だが、その他・者は肉体によって同化されることで、自らの無意識へと変じた のである。こうして、本来の自分とは、事後的に差し挟まれた虚構でしかなく、不在の対象でしかな い。同様に、われわれの世界もまたこの不在の上に成り立つ表象の構築物なのだ。それが、われわれ の「語る行為」である身体的「同化」=欲望の論理であるメタファー的論理の遡及の果てなのである。こ のことをニーチェの理解者であるコフマンはメタファーにおける二重の忘失として述べている。「第一 には、個体性の脱落、仮装、変身といったことがなければ、隠喩も存在しないということである。何か を置き換えうるためには自分を置き換えることができなければならないし、また個体性の限界を打ち 破ってしまっていなければならない。つまり、〈同じもの〉が〈他なるもの〉であらねばならないの だ。… 他方で隠喩は、世界の『本質』という意味での「本来的なもの』が消滅している事態と関 連づけて考えられている。つまり、世界の『本質』は解読不可能であり、その『本質』について人間 は、ことごとくが『非本来的な』表象を持つことができるにすぎないのである」(S.Ko㎞an,1983.訳28 頁)。メタファー的なシニフィアンの連鎖によって、ランガージュへと編入された主体は、もはや、表 象としての、仮面としての「自我」としてしか現れることはなく、シニフィアンの永続的な代入を突き
動かす欲望=同化は、その源泉である「他者の欲望」とその背後の象徴以前の現実との直接的出会いを 永遠に失われた対象として、無意識へと追いやる。だが、社会的なるものの源泉もまたこの無意識化 された不在の領域にあることになる。社会は無意識によって支えられているのだ。 【注】 (1)ハイデガーの「気遣い」を「欲望」へと翻訳した解釈は竹田青嗣によって提示されている。「『気遣い』とは、さ しあたって言えば、人間が「つねにすでに』〈世界〉(対象世界)に対して、さまざまなレベルでの関心、心配、 希望、欲求、意志、感情等を向けて生きているというあり方を指している。ところでハイデガーが強調したい のは、こういった『気遣い』のあり方は、いわば〈意識〉(あるいは〈私〉)に『先んじて』すでにあるという 点だ」(竹田青嗣、1993,82−3頁)。 (2)ニーチェにおける「肉体」の復権は、概念化された「社会」イメージの再倒立をめざす社会学的構築主義の動き の中で、再評価されるべきであろう。概念的認識は「抽象化」や「単純化」をめざすものであり、しかも、抽象化 され単純化された表象の実体化を帰結してきた。「だから、「肉体』とか『肉』とか名づけられたものに、言い ようなくはるかに大きな重要さがあるのである」(F.NietZsche,1906,訳(下)43頁)。 (3)シュミットもまた身体のこうした機制を欲望論を基底に据えながら次のように提起している。「よりよくいえば、 むしろ身体はさまざまな衝動(さまざまなパースペクティヴ)の布置、あるいは同じことだが、さまざまな欲 求もしくは欲動(Affekt)の布置にほかならない。… それぞれの身体の布置にもとついて、あらゆる生起 をみずからに同化させることをめざして存在するのである」(H.Schmid,1984訳33頁)。 (4)ここで、フロイトとラカンとの差異に注目しておく必要がある。サラップによれば、「フロイトは自然と文化と の関係に対して強い関心をもち、自然に対する文化の優越を強調した。ラカンは生得の人間性といった観念を 拒絶する。ラカンにとって自然とは現実界であり、目前に現れていても純粋な状態で把握することはできない。 というのも、それは絶えず言語によって仲介されているからである。フロイトの作品を読むと、自然=文化の二 分法のうちに悲劇的要素があることに人は気づく。ラカンの場合には、悲劇性は私たちが永久的な全体性の欠 如のうちにあるという事実に基いている」(M.Sarup,1988,p.18.)とされる。 (5)これは意識的な「語り」と、それを背後から突き動かす「無意識」に基く「語り」として峻別することができる。 「… 子どもは、自分が話していることによって自分が何を語っているかを知らずに、ランガージュに近づく のである。こうしてランガージュは主体的行為として出現し、この行為によって『人は自分の語っていること によって、自分が語っていると思っていることとは全く別のことを語る』ということになるのである。このく全 く別のこと》こそが、それから主体は根本的に分離されているのだから、話す主体から逃れた無意識として根 本的に確立される」(J.Dor,1985.訳llO頁)。 【参考文献】 F. NietZsche, Wille zur Macht,1906.原佑訳「権力への意志」(E・D『ニーチェ全集ll,12』理想社1980. F.Nietzsche, Philosophenbuch,1920.渡辺:郎訳「哲学者の書」『ニーチェ全集3』理想社1980. 竹田青嗣「意昧とエロス」筑摩書房、1993. J.Lacan, Ecrits,1966.宮本忠雄i他訳「エクリ」1・n・田弘文堂1971. J.Piaget, La naissance de lintelligence chez lenfant,1948.谷村覚、浜田寿美男訳「知能の誕生」ミネルヴァ書房、1978. 丸山圭三郎「ソシュールの思想」岩波書店、1981. J.Piaget, SiX etudes de psychologie, 1964.滝沢武久訳「思考の心理学」みすず書房、1968. 尼崎彬「ことばと身体」動草書房、1990. H.Schmid, NietZsches Gedanke der tragischen Erkenntnis、1984.竹田純郎、鈴木琢真訳「ニーチェー悲劇的認識の 思想」国文社、1996.
東洋大学社会学部紀要 40−2号(2002年度) A Lemaire, Jacques Lacan, 1970.長岡興樹訳「ジャック・ラカン入門」誠信書房、1983. J.Dor, Introduction a la lecture de Lacan,1985.小出浩之訳「ラカン読解人門」岩波書店、1989. S.Kofrnan, NietZsche et la metaphore,1983.宇田川博訳「ニーチェとメタファー」朝日出版社、1986. G.Lakoff and MJohnson, Metaphors We live By.1980.渡部昇一、楠瀬淳.:三、下谷和幸訳「レトリックと人生」大 修館書店、1986. M.Sarup, An lntroductory Guide to Post・structuralism and Postmodernism,1988.
【Abstract】