『續高僧傳』に見る達摩系習禪者の諸相 : 道宣の
認識の變化が意味するもの (菅沼晃教授退任記念号
)
著者名(日)
伊吹 敦
雑誌名
東洋学論叢
号
30
ページ
136-106
発行年
2005-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003222/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止『績 高僧傅』
に見る達摩系 習縁者 の諸相
道宣の認識 の愛化か意味するもの
は じ め に
伊
吹
敦
筆 者 は 先 に ,『績 高 僧 傅』の「達 摩 = 慧 可 傅」(大 正 蔵51) の 構 造 を 論 じ て , そ れ が , 第1 層 : 前 半 部(551 中27-552中17/た だし , 下に 第3 層 とし て 掲げ る部 分を 除く ) 第2 層 : 後 半 部 (552 中17-552下24/た だ し, 下 に 第3 層 とし て 掲げ る部 分を 除O 第3 層 : 四 巻 本 『楊 伽 経』と 関 聯す る と 考 え ら れ る以 下 の 記 述1. 「 初 達宋 境 南 越。末 又 北 度 至 魏。」(551中29-551下1 )2. [初 達 摩 律 師 以 四 巻 捨 伽 授 可 曰。我 観 漢 地 惟 有 此 経。 仁 者 依 行 自 得 度 世。](552中20-552中22 )3. 「 毎 可 説 法 竟 曰。此 経 四 世 之 後髪 成 名 相。一 何 可 悲。」(552 中29-552下1 )4. 「 故 使 那 満 等 師 常 斎 四 巻 楊 伽 以 真 心 要。隨 説 隨 行 不 爽 遺 委。」(552 下21-552下22) と い う , 成 立 を 異 に す る 三 つ の 層 か ら 成 っ てお り , そ れ ら の 聞 に明 確 な 認 識 の違 い があ るこ と を 明 ら か にし た。こ の 事 賓 は , 道 宣 の 達 摩 系 の 人々 に 對 す る 認 識 が 時 と と も に 愛 化 し て いった こ と を 示 す も の で あ り, そ の 愛 化 を 通 し て 達 摩系 の 人 々 の 活 動 の 賓 態 を 窺 い う る と い う 黙 で 極 め て 注 目 す べ き も の だ と 思 わ れ る。 本 拙 稿 の 目 的 は , こ の 事 賓 を 踏 まえ て , 道 宣 の 認 識 に 愛 化 か 生 じ る に 至 っ た経 緯 を 解 明 す る と と もに , そ こ か ら 浮 か び 上 が っ て く る 達 摩 系 の 人 々 の活 動 に つ い て 論 ず る こ と な の で あ る が , た だ , そ れ を 行 な う に 富 た っ て は ,「 達 摩 = 慧 可 傅 」 を 問 題 に す る だ け で は 充 分 で は な い 。 とい −136 −(46 ) う の は ,『績 高 僧 傅』 で は , そ れ以 外 に も 叡 箇 所 に わた っ て 達 摩 系 の 人 々 へ の 言 及 を 見 る こ と が で き る か ら で あ る。 従 っ て , 我 々 は , そ れら の 傅 記 と「 達 摩 =慧 可 傅 」 と の 関 係 を 明 らか に し て ,『 績 高 僧 傅 』 全 穀 を 視 野 に 入 れ た う え で な く て は , 道 宣 の 認 識 の 鐙化 を 問 題 に す る こ と は で き な い の であ る 。 一
達摩系 に言 及する他の傅記との開 係
『 績 高 値m 』 の 傅 記 の う ち ,「 達 摩 = 慧 可 傅 」 以 外 で , 達 摩 系 の 人 々 に 言 及 す る も の を 列 拳 す れ ば , 次 の よ う に な る 巻m.は ,[ 慧 布 傅]「 習 縁 篇論」 は 高麗 本・ 興 聖寺 本,「 弘智 傅」「 法沖傅 」 は 福州 本系 譜 本几1. 「 慧 布 傅 」( 巻七 )2 「 習 禰 篇 論 」( 巻:ごト)3. 「 弘 智 傅 」( 巻二 十五 )4. 「 法 沖傅 」( 巻 二十 七 ) そ こ で , 以 下 に お い て は , こ の そ れ ぞ れ に つ い て ,「 達 摩 = 慧 可 傅 」 と の開 係 を 論 じ て 行 くこ と と し た い 。 な お , 周知 の よ う に こ の外 に も, 後 に 達 摩 系 と さ れ る こ と に な る 「 道 信 傅 」( 福州 本 系・ 巻 二 十七 ) が あ る が , そ の 記 述 を 見 る 限 り , 道 宣 が 道 信 を 達 摩系 の 人 と 認 め て い た と い う 誼 捺 は ない 。 も ち ろ ん , こ れに よ っ て 道 信 が 達 摩 系 の 人 であ っ た と い う 可 能性 が 否 定 さ れ る わ け で は な い が, 本 拙 稿 は ,( 事賓 が どう で あ る かで は な く,) 道 宣 の 認 識 そ の も の を 問 題 に し よ う と す る も の で あ る か ら , 以 下 にお い て は ,「 道 信 傅 」 は 考 察 の 對 象 か ら 除 く こ と と し た い 。 a. 「 慧 布 傅 」 と 「 習 樺 篇 論 」 先 ず ,「 慧 布 傅 」 を 見 て み る と , 慧 布 が 慧 可 と 交 渉 を 持 っ た と し て , 次 の よ う に 述 べ て い る 。 「 末 遊 北 部 更 渉 未 聞。 於 可 扉 師 所 暫 通 名 見 。 便 以 言 件 其 意 。 可 曰 。 法 師 所 述 可 謂 破 我 除 見 莫 過此 也 。」 こ れ が 「 慧 布 傅 」 に 見 ら れる 言 及 の 全 て で あ る 。 極 め て 短 い が , こ こ で 慧 可 が 慧 布 を 評 し た と さ れる 言 葉 ,「 法 師 所 述 可 謂 破 我 除 見 莫 過 此 也 」 は , 道 宣 の 慧 可 に 對 す る 認 識 を 反 映 す る も の と し て 注 目 さ れ る べ き で あ ろ う 。 即 ち , 道 宣 は , 慧 可 の思 想 を 「 破 我 除 見 」 と 開 聯 づ け て 理 解 し て い た と 考 え ら れ る の で あ る 。 そ し て , こ の 認 識 は ,[ 習 昇 篇 論 ] で , 菩提 達 摩 の 憚 法 を 北 斉 の 僧 桐 や 北 周 の 僧 賓 と比 較 し て 述 べ て い る 次 の 文 章 と も共 通 す る 。 「高 斉 河 北 濁 盛 僧 桐。 周 氏 開 中 尊 登 僧 賓 。 盲 重 之 冠 方 駕 澄 安 神 道 所 通制 伏 強 禦 。 致 令 宵 帝 撒 負 傾 府 蔵 於 雲 門。 莱 宰 降 階 展 賜 心 於 福 寺 。 誠有 固 矣 。 故 使 中 原 定 苑 剖 開 綱 領 。 惟 此 二 賢 。 接 腫 傅 燈 流 化 昨 歌 。 而 復 委 辞 林 野 蹄 宴 天 門 。 斯 則 挾 大 隠 之 前 縦 。 捨 無 縁 之 高 志 耳 。 終 復 宅 身 龍 岫 。 故 是 行 蔵 有 儀 耶 。 属 有 菩 提 達 摩 者 。 神 化 居 宗 閑 導 江 洛 。 大 乗 壁 槻 功 業 最 高 。 在 世 學 流 蹄 仰 如 市 。 然 而 誦 語 難 窮 。 真 精 蓋 少 。 審其 慕 則 。 遣 蕩 之 志 存 焉 。 競 其 立 言 。 則 罪 福 之 宗 雨 捨 。 詳 夫 政 俗 雙 翼。 空 有 二 輪 。 帝 網 之 所 不拘 。 愛 見 莫 之 能引 。 静 慮 筒 此 。 故 絶 言 乎。 然而 競 彼 雨 宗 。 即 乗 之 二 軌 也 。 桐 懐 念 處 清 範 可 崇 。 摩 法 虚 宗 玄 旨 幽 目 。 可 崇 則 情 事 易 穎 。 幽 噴 則 理 性 難 通。」 道 宣 は , 菩 提 達 摩 の 立 場 を 「 遣 蕩 之 志 存 焉 」「 罪 福 之 宗 雨 捨 」「 虚 宗 」 と捉 え, そ の 「 大 乗 壁 競 」 が 深 遠 な も の であ る こ と を 認 めつ つ も , そ の ため に 却 っ て 理 解 し が た く (「 誦語 難 窮」「 理 性 難 通」), 着 賓 な 官 践 が 難 し い (「 腐 精 蓋少 」) と 評 し て い る の で あ る が ,「 遣 蕩 之 志 存 焉 」「 罪 福 之 宗 雨 捨 」「 虚 宗 」 と は , 正 し く 「 慧 布 傅 」 に い う 「 破 我 除 見」 に 他 な ら ない で あ ろ う 。 つ ま り ,「 慧 布 傅 」 と 「 習 扉 篇 論 」 は, 少 な く と も 達 摩 や慧 可 に 闘し て は , ほ ぼ 同 じ 認 識 に 立 っ て い る と 言 え る の で あ る 。 で は , こ の よ う な 認 識 は ,「 達 摩 =慧 可 傅 」 の 三 つ の 層 の 中 で は , ど れ と 闘 聯 を 持つ も の な の で あ ろ う か。 思 う に , こ れ と 最 も近 い 立 場 を 示 す の は ,「 菩 提 達 摩 傅 」 で 紹 介 さ れ る 『二 人 四 行 論 』 の , 「 凝 住壁 観 。 無 自 無 他 凡 聖 等 一 。 堅 住 不 移 不 隨 他 教 。 再 道 冥 符 寂 然 無 鶏 名 理 人 也 。」 「 初 報 怨 行 者 。 修 道 苦 至 富 念 往劫 。 捨 本 逐 末 多 起愛 憎 。 今 雖 無 犯 是 我 宿 作 。 甘 心 受 之 都 無 怨 對 。 経云 。 逢 苦 不 憂 。 識 達 故 也。 此 心 生 時 再 道 無 違 。 殼 怨 進 道 故 也 。 二 隨縁 行 者 。 衆 生 無 我 苦 楽 隨 縁 。 縦 得 架 傑 等 事 。 宿 因 所 構 今 方 得 之。 縁 書 還 無 何 喜 之 有 。 得 失 隨 縁 心 無 噌 減。 違 順 風 静 冥 順 於 法 也 。 三 名 無所 求 行 。 世 人 長 迷 處 處 貪 著 。 名 之焉 求。 道 士Ia 具理 輿 俗 反 。 安 心 無 焉 形 隨 運 絡 。 三 界 皆 苦 誰 而 得 安 。 経 曰 。 有 求 皆 苦 。 無 求 乃 槃 也U な ど の一 節 や ,「 僧可 傅 」 の 。 −134 −
(48 ) 「 可 乃 奮 其 奇 緋 。 呈 其 心 要 。 故 得 言 満 天 下 。 意 非 建 立 。」 「 可 乃 縦 容 順 俗。 時 恵 清 猷 乍 託吟 謡 。 或 因 情 事 澄 汰 恒 抱 寫 割 煩 蕪 。 故 正 道 遠 而 難 希。 封 滞 近 而 易 結 。 斯 有 由 矣 。 遂 流 離 郷 衛 巫 展 寒 温。 道 竟 幽 而 且 玄 。 故 末 緒 卒 無 槃 嗣 。」 な ど の 記 述 であ ろ う 。 特 に 「 習 禰 篇 論 」 の [ 大 乗 壁 槻功 業 最 高] と 「菩 提 達 摩 傅 」 の 「 凝 住 壁 観 」,「 習il 篇fm 」 の [ 遣 蕩 之志 存 焉 ]「罪 福 之 宗 雨 捨 」 と 「 菩 提 達 摩 傅 」 の 「 得 失 隨 縁 心 無 増 減。 違 順 風 静 冥 順 於 法 也 」 や 「 僧 可 傅 」 の 「 澄 汰 恒 抱 寫 割 煩 蕪 」,「 習 縁 篇 論 」 の 「 誦 語 難 窮 。 貰 精 蓋 少 」「 摩 法 虚 宗 玄 旨 自 頴 」「 幽噴 則 理 性 難 通 」 と ,「 僧 可 傅 」 の 「 道 竟 幽 而 且 玄 。 故 末 緒 卒 無 柴 嗣 」 の 吻 合 は 注 目 す べ き で あ り , 雨 者 が 全 く同 じ 認 識 に 立 っ て い る こ と を 示 し て い る 。 上 に引 い た 「 菩 提 達 摩 傅 」 や 「 僧 可 傅 」 は , い ず れ も 「 達 摩 =慧 可 傅 」 の 第1 層 に 見 ら れ る も の で あ り ,「 慧 布 傅」 や 「 習 扉 篇 論 」 に お け る 認 識 が ,「 達 摩 =慧 可 傅 」 の 第1 層 に 書 か れ て い る よ う な 知 識 を 前 提 と す る も の であ る こ と が 知 ら れ る の で あ る 。 b .「 法 沖 傅 」 につ い て 「達 摩 =慧 可 傅 」 第3 層 の特 徴 は , 達 摩 =慧 可 系 統 の 人 々 の活 動 の 源 泉 を 四 春 本 『楊 伽 経 』 に 求 め ん と す る と こ ろ に あ る が , こ れ は,「 法 沖 傅 」 にお い て , 「沖 以 楊 伽 奥 典 沈 滝 日 久。 所 在 追 訪 無 憚 夷 瞼 。 會 可 師 後 裔 盛習 此 経。 即 依 師 學 。 屡 撃 大 節。 便 捨 徒 衆 任 沖 特 教 。 即 相 績 講 三 十 除 遍。 又 遇 可 師 親 傅 授 者。 依 南 天 竺 一 乗 宗 講 之 。 又 得 百 遍 。 其 経 本 是 宋 代 求 那 践 陀 羅 三 蔵 翻。 慧 観 法 師 筆 受 。 故 其 文 理 克 諧 行 質 相 貫 。 専 唯 念 恵 不 在話 言 。 於 後 達 磨 律 師 傅 之 南 北。 忘 言 忘 念 無 得 正II 鳥 宗 。 後行 中 原。 恵 可 禰 師 創 得 綱 紐 。 魏 境 文 學 多 不 歯 之 。 領 宗 得 意 者 時 能 啓 悟 。 今 以 ● ● ● ● ● ● ● ◆ ● ● ● ● ● ● ● ● ● 人 代 特 遠 復 膠 後 學 。 可 公 別 傅 略 以 詳 之 。」 と 説 き, 更 に , そ れ に 績け て , そ の系 統 の 人 々 を , 「 今 叙 師 承 以 鴬 承 嗣 。 所 學 歴 然 有 隷 。 達 磨 禰 師 後 。 有 恵 可 恵 育 二 人。 育 師受 道 心 行 口 未 曾 説 。 可 禅 師 後 。 梨 禰 師 。 恵 憚 師 。 盛 禰 師。 那 老 -師 。 端 禅 -師 。 長 蔵 -師 。 員 法 -師 。 玉 法 -師 已t 拉口説玄理。 不出文記。 可 -師 後 。 一 善 師 出抄四巻 豊 禰 師 出疏五巻 明 禰 師 出疏五巻 胡 明 師 出疏五巻 遠 承 可 師 後
大 聴 師 出疏。唯/道 蔭 師抄四巻 沖 法 師疏五巻岸 法 師疏五巻 寵 法 師 疏八巻 大 明 師 疏十‰ 不 承可 師 自 依 価 論 者。遷 禅 師 出疏四巻 尚 徳 律 師 出入楊伽疏十巷。 那 老 師 後。賓ll 師。恵 禰 師。厭 法 師。弘 智 師 祉 阻 師西乳 身亡法絶。 明 弄 師 後 。 伽 法 師 。 賓 喩 師 。 賓 迎 師 。 道 螢 師 奴次第俳孔f- 今揚化。」 と 列 挙し て い る の と 性 格 を 一 に し て い る 。 特 に , 傍 黙 部 に お い て ,「 今 以 人 代 斡 遠 総 膠 後 學 。 可 公 別 傅 略 以 詳 之 」 とい う の は , 明 ら か に 「 僧 可 傅 」 の 「 毎 可 説 法 竟日 。 此 経 四 世 之 後 髪 成 名 相 。 一 何 可 悲 」 な ど の 記 述 (「 達 摩 =慧 可傅 」 第3 層 ) を 指 す も の で あ る か ら , 従 来 も雨 者 が密 接 な 闘 係 に あ る と す る 説 が 唱 え ら れて き た 。 そ の 先 駆 は 胡 適 で あ っ て , こ の 部 分 は 法 沖 の 存 在 を 知 っ た 晩 年 に 附 加 さ れ た の で あ る と し て , 次 の よ う に 述 べ て い る 。 「道 宣 早 年 還 不 知 道達 摩 一 派 有 『榜m 宗 』 之 名 , 所 以 他 在 達 摩 傅 中 和 『 習 縁J 總 論 裏 都 不 曾 提 起 這 一 派 是 持 奉 拐 伽 経 総 法 典 的 。 達 摩 傅 授 四 巻 扨 伽 之 説 , 僅 僅 括 在 慧 可 傅 末 附 見 部 分 , 可 見 道 宣 知 道此 事 已 在晩 年 添 補 績 僧 傅 的 時 期 , 其 時 他 認 得了 楊 伽 宗 的 健 将 法 沖 ,又 知 道 了 這 一一派 的 大 師 道 信 的 歴 史 ( 詳 見下 節 ), 他 才 明 白 達 摩 , 慧 可 一 派 並 非 『末 緒 卒 無 業 嗣 』, 所 以 他才 添 注 這 一段 達 摩 傅 授 拐伽 的 歴 史。」 道 宣 が 道 信 を 達 摩 系 と 認 め て い た か どう か は 極 め て 怪 し い が , 少 な く と も 「達 摩 =慧 可 傅 」 の 第3 層 と 「 法 沖 傅 」 が 密 接 な 闘 係 に あ る と す る 氏 の 説 は 全 く 妥 常 で あ り , そ の ま ま承 認 し て よい と 考 え ら れ る 。 c. 「 弘 智 傅 」 に つ い て 以 上 に 掲 げ た 傅 記 は , 従 来 か ら 達 摩 系 の 人 々へ の 言 及 が あ る こ と が注 目 さ れて い た も の で あ る が ,「 弘 智 傅 」 の 弘 智 が 達 摩 系 の 人 で あ る こ と は , こ れ ま で 全 く 指 摘 さ れ て い な い よう に思 わ れ る 。 し か し , こ の 人 は , 上 に 引 い た 「 法 沖 傅 」 の 達 摩 系 の 人 々 を 列 車 す る 部 分 で ,「那 老 師 後 」 とし て 掲 げ ら れ て い る 「 弘 智 師 」 そ の 人 に 他 な ら な い の で あ る 。 「 弘 智 傅 」 で は , 弘 智 は 長 安 の 静 法 寺 の 恵 法 師 に 學 ん だ と し , そ の 関 係 に つ い て , 「 隋 大 業 十 一 年 。 徳 盛 郷 閻 。m 貨 道 士 。 因 入 終 南 山 。 絶 粒 服 気 。 期 神 羽 化 。 形 骸 枯 悴 。 心 用 飛 動 。 乃 入 京 。 至 静 法 寺 遇 恵 法 師 。 問 以 喩 道 之 方 。 恵 曰。 有 生 之 本。 以 食貨 命 。 仮 糧 粒 以 資 形 。 託 津 通 以 適 道。 −132 −
(5 ㈲ 所 以 古 有 繋 風 捕 影 之 論。仙 虚 薬 誤 之 談。語 事 信 然。幸無惑也。乃示 以 安 心 之 要 遣 累 之 方。) と 述 べ て い る が , こ の 恵 法 師 は ,「法 沖 傅」にお い て ,慧可 の 弟 子 と し て 名 前 が 掲 げ ら れ る「恵 律 師」, 那 禰 師 の 弟 子 と さ れ て い る 「 恵 律師」 と同一人 物で あ ろ う。「恵 禰 師」を二人 の 弟 子 と し て 掲 げ る の には 何ら か の混 乱が あった と も 見 う る が , む し ろ , そ れ を そ の ま ま 認めて ,初 め 慧 可 の 弟 子 と なった も の の , 後 に 何 ら か の 理 由 で そ の 弟 子 の那 禅 師に師 事 す る こ と に なった と 考 え る べ き で あ ろ う と 思 わ れ る。だ と すれば, 恵 律師は ,那 律師 の 弟 子 の 中 で は か な り の 年 長 者 で あ っ た は ず である。 「 弘 智 傅 」 で は , 弘 智 を 恵 禰 師(恵 法 師)の 弟 子 と し ,「 法沖 傅」 で は , 那 律 師(那 老 師)の 弟 子 と す る の は 矛 盾 の よ う で あ る が ,那禅師と 恵 禰 師 が , 師 弟 であ り な が ら さ ほ ど 年 が 離 れ て い な かった と す れ ば , 弘 智 が 那 課 師 に も 師 事 し た と い う こ と も充 分 に あ り う る こ と で あ ろ う。ま た ,「那 老 師後 」 と い う 言 葉 が , 必 ず し も 直 接 の 弟 子 を 意 味 す る の で は な く ,「 那 老師の 系 統 を 承 け 継 ぐ も の 」 とい う 意 味 で 使 われて い る と い う 可 能性も 捨 て き れ な い。従 っ て , そ う し た こ と を問題 にす るより も , 「 弘 智 傅 」 と 「 法 沖 傅」の 雙 方 が , 恵 保 師(恵 法 師 ) と 弘 智 の関 係を 認 め て お り,更 に 「 法 沖 傅」で は , 彼 ら を慧 可 の 弟 子 で あ る那 祓 師(那老 師) と 結 び付け てい る とい う 事 賓 を こ そ 重 視 す べ き で あ ろ う。そして , 上 の 引用にお い て , 恵 法 師 が 弘 智 に「安 心 之 要 造 累 之 方 」 を 教 え た と い う の は ,「安 心」を 説 く『二 入 四 行論』と の 関 係 に お い て 注 目 す べ き で あ っ て , 恵 法 師 と 達 摩 系 の 人 々 との開 係 を 推 せ し め る も の だ と言え る だ ろ う。 以上 のよう な 諸 鮎 か ら 見 て,「 弘 智 傅 」 の 弘 智 が 「 法沖 傅 」 の 弘 智 と 同一 人物で あ る こ と は 否 定 で き ない と 思 わ れ る が , た だ , こ こ で問題な のは, 道 宣 が そ のこ と を 認 識 し て い た か ど う か はっき り し な い とい う こ と な の である。 「 法 沖 傅」 で は , 弘 智 は 「 口 説 玄 理。不出文 記 」 で あ った 那老師 の 系 統を 引 く と さ れ る が ,「弘 智 傅 」 で は , 達 摩 系 の 人 々 と の関 係に 言及し な い ば か り か ,『華 巌 経』や『掃 大 乗 論』な ど の 経 論 を 講 じ た と さ れ て い る。こ の よ う に 雨 者 の弘 智 に 對 す る 認 識 に は , か な り の懸隔が あ るよ う に 見 受 け ら れ る の で あ る。
後 に 鯛 れる よ う に ,「 弘 智 傅 」 は , 弘 智 の 碑 文 に 基 づ い て 書 か れ た も の で ,「 法 沖 傅 」 と は 全 く 資 料 を 異 にし た よう で あ る か ら , 道 宣 は , そ れ ぞ れ別 個 に 資 料 を 集 め て , 二 つ の 傅 記 を 綴 っ た は ず で あ る 。「 法 沖 傅 」 に 弘 智 の 名 前 が 残 っ た の は , 恐 ら く, 法 沖 に 闘 す る 資 料 の 中 に , た ま た ま弘 智 に 闘 す る 記 述 が 存 在 し た こ と に よ る 偶 然 で あ ろ う 。 道 宣 白 身 は , 雨 者 が 同 一 人 物 で あ る と い う は っ き り と し た 認 識 は 持 っ て い な か っ た の で は ない か と 思 わ れ る 。 従 っ て ,「 弘 智 傅 」 に つ い て も 「 道 信 傅」 と 同 じ 理 由 で , 達 摩 系 の 人 々 に對 す る 道 宣 の 認 識 を 理 解 す る た め の 資 料 と し て は 用 い る こ と が で きな い の で あ る。 一 一
『績高 僧 傅』 の増 廣 過 程 と諸 傅 の 位 置づ け
上 に 論 じ た よ う に ,『績 高 僧 傅』の 達 摩 系 の 人 々 に 闘 す る 記 述 は, い ず れ も「 達 摩 =慧 可 傅 」 の 三 つ の 層 の い ず れ か と 関 聯 づ け る こ と が で き る の で あ る 。 つ ま り,『績 高 僧 傅』の 全 穀 を 見 て も , そ の 記 述 に は 三 つ の 異 な る 要 素 が混 在 し て い る ので あ っ て , 道 宣 の 彼 ら に 對 す る 認 識 が 二 度に わ た っ て 大 き く 僥 化 し た こ と を 改 め て 確 認 す る こ と が で き た の で あ る 。 そ こ で 今 , 叙 述 の 都 合 上 , 内 容 の 違 い に 応 じ て 道 宣 の 認 識 を 次 の 三 期に 分 か つ こ と と し よ う 。 第T 期 : [ 達 摩 =慧 可 傅 ] の 第1 層 ・「 慧 布 傅 」・[ 習 豚 篇 論 ] が 書 か れ る。 達 摩 や 慧 可 の 傅 記 と『二 人 四 行 論』等 の著 作 を 主 な 内容 と す る 。 第H 期 : 「 達 摩 =慧 可 傅 」 の 第2 層 が 書 か れる 。 慧 可 と 曇 林 の 関 係 や 那m 師系 の 人 々 の 活 動 を 主 な 内容 と す る 。 第m 期 : 「 達 摩 =慧 可 傅 」 の 第3 層 ・「 法 沖 傅 四 巻 本 『楊 伽 経 』 と達 摩 系 の 人 々 と の 密 接 な開 係 を 強 調 す る 。 と こ ろ で , こ こ で 問 題 と な る の は, 第1 期 か ら 第n 期 , 第H 期 か ら 第m 期 へ の 雙 化 か い つ 生 じ た か と い う こ とで あ る が , そ れを 知 る た め に は, 個 々 の 傅 記 に つ い て の 検 討 も さ る こ と な が ら, そ れ 以 前 に 論 じ て お か な く て は な ら ない 事 柄 が あ る。そ れ は ,『績 高 僧 傅 』 自 賛 が 増 廣 を 繰 り 返 し た とい う 事 賓 が 知 ら れ てい る た め に , 各 時 期 に 書 か れ た 傅 記 が そ の ど こ に 位 置づ け ら れ る か を 確 認 し てお く 必 要が あ る の で あ る 。 ―130 −(52 ) 現 在傅 わ る 『 績 高 僧 傅 』 の 諸 本 に は , 大 き く 分 け て , 興 聖 寺 本 , 高 麗 本 , 福 州 本 系 諸 本 とい う 三 つ の 系 統 が 存 在 す る 。 こ れ ら 各系 統 の開 で は, 収 録 す る 傅 記 の 敷 に 大 き な 相 違 が 見 ら れる が , 最 も 傅 記 獄 の 少 な い 興 聖 寺 本 で す ら も, 序 文 に 書 か れて い る 載 , 三 三 一 に 較 べ て 遥 か に 多 く な っ て い る 。 こ の 一 事 を もっ て し て も , 今 日 傅 わ る 『 績 高 僧 傅 』 が , 富 初 の 姿 を そ の ま ま傅 え る も の で は 決し て な く , 幾 度 に も 亙 る 増 廣 を 経 た 後 の もの で あ る こ と が 知 ら れ る の で あ る 。 こ の よ う に ,『績 高 僧 傅 』 に 後 世 の 増 廣 が あ る こ と は , 古 く よ り 知 ら れ て い た の で あ る が , そ の 過 程 を 明 ら か に し よ う とい う 試 み は , 前 川 隆 司 氏 に よ っ て 先 鞭 が 附 け ら れた も の の , 資 料 の 不 足 等 もあ っ て , そ の 後 の 研 究 は 停 滞 し た。 し か し , 近 年 に な っ て 興 聖 寺 本 が 政 見 さ れた こ と に よ っ て 一 段 の 進 展 を 見 せ , 藤 善 員 澄 氏 や 筆 者 に よ っ て , か な り の こ と が 明 ら か に な っ た 。 そ の概 要 を 示 せ ば , 以 下 の 通 り であ る 。1. 『 績 高 僧 傅 』 は 序 文 の 書 か れ た 貞 観 十 九 年 (645) に , 三 三 一 の 傅 記 を 集 め る 形 で い っ た ん完 成 し た が , そ の 後 も 引 き 績 き増 補 が 行 な わ れ, 貞 凱 二 十 三 年(649 ) に 補 訂 本 が 成 立 し た ( 収録 傅 記載 は 不 明)。2. 興 聖 寺 本 は , こ の 貞 観 二 十 三 年 補 訂 本 を 基 礎 と す る も の と 考 え ら れ る が , 永 徽 ・ 願 慶 の 交(655-656 )の 記 述 が 見 ら れ , また , 撰 琥 に [ 大 唐 西 明 寺 沙 門 祥 道 宣 撰 ] とあ る た め , そ の 原 本 が 書 寫 さ れ た の は , 道 宣 が 西 明 寺 に 初 め て 住 し た 顕 慶 三 年 (658 ) 以 降 と 考 え ら れ る 。3. 興 聖 寺 本 は , 現 存 す る 諸 本 の 中 で は 最 も古 い 形 を保 つ テ キ スト で あ る が , そ れ で も 収 録 傅 記 敷 は 三 九 一 に 達 し て お り , そ の 間 に 大 幅 な 増 廣 が あ っ た こ と が 知 ら れる 。4. 高 麗 本 の テ キ スト は, 宋 の 救 版 を そ の ま ま 承け る と考 え ら れ る が , 収 録傅 記 載 は 四 一 四 で, 興 聖 寺 本 に 較 べ て , 更 に 二 三 の 増加 と なっ て い る 。5. 『 一 切 経 音 義 』(783-807年), 『新 集 蔵 経 音 義 隨 画 録 』(936-946), 『大 蔵 経 綱 目 指 要 録 』(1104年 ) な ど の 文 献 に 言 及 さ れ る 『 績 高 僧 傅 』 は , そ の 記 述 か ら 見 て , 高 麗 本 以 前 の 古 い 形 態 の も の で あ っ た と 考 え る こ と が で き る 。
福 州 本 系 の 諸 本 は, 興 聖 寺 本 や 高 麗 本 に 比 し て 収 録 傅記 徴 が 遥 か に多 い が , こ れ は 道 宣 が 別 に 編 輯 し た 『後 集 績 高 僧 傅』 を 合揉 し た た め で , そ れ が 行 わ れた の は , 宋 代 の 福 州 本 の 祖 本 の 編 集 時 期 に ま で 降 る 。7. 『後 集 績 高 僧 傅 』 は , 貞 観 二 十 三 年 補 訂 本 が 成 立 し た 後 に 集 め た 傅 記 を 纏 め た も の で あ る と推 定 さ れ , 麟 徳 元 年 (664) に 成 立 し た 『大 唐 内 典 録 』 に 列 名 さ れ て い る の で , そ れ 以 前 に 一 座 , 完 成 し て い た と 考 え ら れ る 。 達 摩 系 の 人 々 へ の 言 及 が 見 ら れ る 傅 記 の う ち ,「 慧 布 傅 」「 菩 提 達 摩 傅」 「 僧可 傅 」「 習 節 篇 論 」 の 四 つ は, 興 聖 寺 本 に も略 ぼ そ の ま ま の 文 章 を 見 る こ と が で きる の で , 興 聖 寺 本 の 祖 本 が 成 立 し た 時 に は 既 に こ の 形 で 存 在 し た と 考 え ら れ る 。 つ ま り , そ の 時 黙 で 「 達 摩 = 慧 可 傅 」 の 増 補 は 完 了 し て い た の で あ る 。 問 題 は 興 聖 寺 本 の 祖 本 の 成 立 の 下 限 で あ る が , そ れに 見 ら れ る 「 大 唐 西 明 寺 沙 門祥 道 宣 撰 」 と い う 撰 読 を 道 宣 自 身 が 附 し た も ので あ る と 認 め る の で あ れ ば , 道 宣 が西 明 寺 を 去 っ た の は 麟 徳 元 年 (664) と さ れ て い る か ら , 遅 く と も そ れ以 前 に は 成 立 し て い た と 考 え ら れる ので あ る 。 とこ ろ で , こ れ ら の う ち の 「慧 布 傅 」 は , 巻 七 の 「 義 解 篇 三 」 にあ り , 興 聖 寺 本 (高 麗 本 も同 じ ) で は , こ の 巻 に 収 録 す る 十 人 の う ち の 第 七 番 目に 掲 げ ら れ てい る が , 藤 善 氏 は , 傅 記 の 序 列 に よ っ て , こ の 「慧 布 傅 」 まで があ る 時 期 に 纏 め ら れて お り , そ の 後 の 三 人 は 後 の 附 加 で あ る と 論 叫 じ て い る 。 こ れ は 全 く 妥富 な 見 解 で あ る か ら ,「 慧 布 傅 」 の 撰 述 が 興 聖 寺 本 の 祖 本 の 成 立 を か な り 遡 る こ と は 間 違 い な く , ま た ,「 習 祁 篇 論 」 のよ う な も の は , そ の 性 格 上 , 後 世 の 書 き換 え は少 ない と思 わ れ る か ら , こ れ ら に つ い て は , 貞 観 十 九 年 の 初 稿 本 にあ っ た と 見 て よ い であ ろ う 。 だ と す れ ば ,「 達 摩 = 慧 可 傅 」 の 第1 層 も , 貞 観 十 九 年 ま で に 成 立 し てい た こ と に な る が , 賓 際 の と こ ろ , 第1 層 の 末 尾 にお い て ,「時 復 有 」 とし て ,「 化 公 」「 彦 公 」 ら, 必 ず し も 本 傅 と 闘 係 の ない 同 時 期 ・ 同 地 方 の 人 に 言 及 し て い る の は , 貞 観 十 九年 に お け る 一 座 の 完 成 を 機 に , で き る だ け多 く の 人 の 名 前 を 後 世 に 伝 え よ う と し た も の と 理 解 で き る の で , こ の 鮎 か ら 見 て も , こ の 推 定 は 妥 常 だ と 思 わ れ る 。 藤 善 氏 は , 道 宣 が 剛 『績 高 僧 傅 』 の 編 輯 に 着手 し た の を 貞 観 十 六年 (642 ) 頃 と さ れ る か ら 。 −128 −
(54 ) こ れ ら の 部 分 が 纏 め ら れ た の は , 貞 観 十 六 年 か ら 貞 観 十 九 年 の 開 と い う こ と に な ろ う 。 で は ,「 達 摩 =慧 可 傅 」 の残 る 部 分 は , い つ 成 立 し た の で あ ろ う か 。 第2 層 に は , 慧 涵 が 雪 の 降 り し き る 中 , 一 晩 中 , 栢 墓 中 に 坐 し 績 け , 明 朝 に 曇 啖 に 見 え た と す る 貞 観 十 六 年(642 ) の 記 事 を 含 ん で い る 。 し か も慧 渦 は , そ の 後 , 洛 陶 中 で 「無 疾 坐 化 」 し た と い う か ら , こ の 部 分 か 書 か れ た の は , そ れ か ら 更 に 叡 年 は 降 る は ず で あ る。 第 工層 が 貞 観 十 九 年 の 初 稿 本 完 成 を 契 機 と す る と す れば , 第2 層 は そ れ 以 降 と い う こ と に な る が, 記 事 そ の も の か ら も, そ の こ と は 窺 え る の で あ る。 し かし , そ の場 合 で も , 貞 観 十 九 年 の 初 稿 本 か ら 貞 観 二 十 三 年 の 補 訂 本 へ の成 長 の 過 程 で 附 加 さ れ た場 合 と , 貞 観 二 十 三 年 の 補 訂 本 か ら 興 聖 寺 本 の 祖 本 へ の 成 長 の 過 程 で 附 加 さ れ た場 合 の 二 つ が あ り う る わけ で あ る 。 そ の い ず れ で あ る か を 特 定 す る こ と は 難 し い が , 貞数 二 十 三 年 の 補 訂 本 か ら 興 聖 寺 本 の 祖 本 へ の 僥 化 は , か な り 限 ら れ た も の で あ っ た よ う で あ る か ら , こ こ で はご 一座 , 前 者 と 見て お く こ と と し た い 。 一 方 , 第3 層 に つ い て は ,「 法 沖 傅 」 の 内 容 と 密 接 に 闘 わ る か ら ,「 法 沖 傅 」 の 成 立 時 期 を 明 ら か に す る こ と が 先 決 と な る。 こ の 傅 記 は福 州 本 系 の 諸 本 に は 見 ら れ る も の の , 興 聖 寺 本や 高 麗 本 に は 存 在 し な い か ら , 営 初 ,『 後 集 績 高 僧 傅 』 と し て 纏 め ら れ て い た も の で あ る こ と が 知 ら れ る 。 上 に 見 た よ う に ,『後 集 績 高 僧 傅 』 の 成 立 の 下 限 は 麟 徳 元 年 で あ る が , 後 に 鯛 れ る よ う に 「 法 沖 傅 」 そ の も の に も 「 麟 徳 年 」 へ の言 及 が 見 ら れ る の で あ る か ら ,「 法 沖 傅 」 は ,『 後 集 績 高 僧 傅 』 の 中 で も 最 後 に 書 か れ た 傅 記 の 一 つ で あ っ た こ と に な る 。 従 っ て ,「 達 摩 =慧 可 傅 」 の 第3 層 が 附 加 さ れ た の も , ほ ぽ 麟 徳 元 年 頃 と 見 ら れ る の で あ っ て , こ れ また , 興 聖 寺 本 中 の 最 後 の 増 補 で あ っ た と 考 え ら れ る の で あ る 。 以 上 に よっ て , 既 に 見 た 達 摩系 の 人 々 に 對 す る 道 宣 の 認 識 は , そ れぞ れ次 の時 黙 の も の で あ る こ と が推 測 さ れ る の で あ る 。 第 工期 : 初 稿 本 が 完 成 し た 貞 観 十 九年(645) 第H 期 : 補 訂 本 が 成 立 し た 貞 観 二 十 三 年 (649 ) 第m 期 : 興 聖 寺 本 の 祖 本, な らび に 『後 集 槙 高 僧 傅 』 が 成 立 し た 麟 徳 元 年 (664 )
一 一 一
道 宣 の 情 報 源 の推 定
道宣 の認 識に愛 化か生 じた時期 は,ほぼ特 定で きたが,で は,道 宣は いかな る資料に 基づ いて, その ような認識を 持つ ようになっ たのであ ろ うか。次に,こ の問題 につい て 考えてみたい。 a. 第1 期 こ の 時 期 に 書 か れ た 傅 記 と し て は ,[ 達 摩 =慧 可 傅 ] の 第1 層 の ほ か , [ 慧 布 傅 ] や 「 習 憚 篇 論 」 が あ る 。 し か し , 先 に 見 た よ う に , そ れ ら に は 褐 自 な 情 報 は 必 ず し も多 く は な く , そ こ に 見 ら れ る 道 宣 の 認 識 も 基 本 的 に は 「 達 摩 = 慧 可 傅 」 第1 層 に 基づ く も の と 認 め ら れ る か ら , こ れ を 中 心 に 考 察 を 行 な う こ と と し た い (「 慧 布 傅」 に見 ら れ る ,慧 布 と慧 可 の 交 渉 は注 目す べ き であ る が, そ の 由来 は 不明 であ る 。 恐 ら く, 慧 布 圈係 の 資 料 に披っ た もの であ ろ 引 。 「達 摩 =慧 可 傅 」 の 第2 層 と 第3 層 の 叙 述 は , そ れ ぞ れ 略 ぼ 一 貫 し て お り, そ の 内 部 に お い て 複 数 の 情 報 源 の 存 在 を 認 め る 必 要 は ない 。 し か し , 第1 層 は,『績 高 僧 傅 』 初 稿 本 に 収 録 す る た め に 貞 観 十 九 年 以 前 の あ る時 期 に 編 輯 さ れ た もの で あ る か ら , そ れ まで に 集 め ら れ て い た 様 々 な 資 料 が 活 用 さ れた と 考 え ら れ , そ の情 報 源 を 一 つ 一 つ 特 定 し て ゆ く必 要 があ る 。 こ の 部 分 は , 先 の 拙 稿 で 論 じ た よ う に , 内 容 か ら 次 の 四 つ の 部 分 に 分 け る こ と が で き る 。 従 っ て ,以 下 に お い て は , こ れ に 沿 っ て 論 じ て 行 く こ と に し よ う ( ただし,D は,直接 は関係 ない ので 除 く)。A. 「 菩 提 達 摩 傅 」(551中27-551下26 ):菩 提 達 摩 の 略 傅 と 『二 人 四 行 論 』 の 引 用 か ら 成 る 。B. 「 僧 可 傅 」 第 一(551 下27-552上27): 僧 可 ( 慧可 ) の 傅 記 を 述 べ る 。c. 「 イ曽可 傅 」 第 二 (552 上27-552中14): 僧 可 と 向 居 士 と の 文 通 に つ い て 述 べ る 。D .「 イ曽可 傅 」 第 三 (552 中14-552中17): 同 時 期 ・ 同 地 域 で 活 躍 し た 「 イヒ公 」「 彦 公 ( 寥公 )」 ら に 言 及 。 先 ず ,A の 部 分 で あ る が , こ こ で は , 達 摩 の 傅 記 と 『二 人 四 行 論 』 を −126 ―(56 ) 中 心に述 べたうえ で ,「録 其 言 詰 巻流于世」とい うか ら ,『二人 四 行 論』 に 回 す る何ら か の 資料に基づ い た こ と は疑えな い。そ こ で 注 目され る の が ,いわ ゆる『二人四 行 論 長 巻 子』で あ る 。 特に 敦 煌 本 は 序 文 ( 達 摩の 小 傅を含む)を 伴 っ てい る が,そ れ と い わ ゆ る『二人 四 行 論』の 部 分 と に 基づ けば ,A の 部 分 は 略 ぽ書く こ と が で きる の であ る。で は , 道 宣 は , 本 常に『二人四 行 論 長 巻 子』に 基 づ い た の で あ ろう か。そ れ を 知 る た め に は,『績 高 僧 傅』の 本 文 と『 二入 四 行 論 長 巻 子』の本文と を 比 較 し て お く必 要 があ る。 『二人四 行 論 長 巻 子』の テ キ スト と し て は ,七 種の敦煌本 に れを 仮 にI ∼vnと呼ぶ)の ほ か , 朝 鮮 本 で も二種が 傅 わって い る。た だ ,二種 の 朝 鮮 本 のう ち の 憚 門 撮 要 本 は , 天 順 本 に 基 づ く と 認められ る の で 論 及 す る 必 要 は な い と 思わ れる。そこで,『績 高 僧傅』と の開で 對 慰 関 係 が 認められる部 分 につい て , 扉 門 撮 要 本 を 除 く 八本の『二人 四 行 論 長 巻 子』 の テキス トの 聞 で本文 に 相 違 が 認 め ら れる 箇 所 を リス トア ップ し た う え で , そ の 常該箇所に お け る『績 高僧傅』と『二入 四 行 論長巻子』諸 本 の 字 句 を一覧表 の形 で 掲げ る と次 のよう に な る(「段」は柳 田 聖 山『ダ ルマ』 〈講談 社学術 文 庫1313,1998 年〉に 基づ く)。 No 檀高(≪(≪ ・.人川r論艮在r・ I II m Ⅳ V Ⅵ Ⅶ 人肌本 段
鸞
S,1KK()S11M6S.3375p..i6:nS.271;. S.713り S.2923S,4795I'.3I>18 山川本 1駆a 故也 識達本故 誂達本敞 識連本故 以識達故 3 2無求J'喇也 照求llll繋 皿求lll]囃 (破tU) )s求乃聖血 3 3智逐聾来 製逐聾来 一一 努逐聾来 憶逐聾来 − ♂− 署語聾* 54除煩橘ii 除煩悩lfii 除煩悩ifii除煩仙lSi 一一
凋除煩橘lfij5 5喩去形向覚彰喩去形両辺彫 喩 去 形 げ│]筧 彰喩去形而覚影 − 喩如去形而覚 影 5 6離衆生面求佛離衆生巾求佛 −− 離衆上面求佛離衆'I-面求佛 捨略帽│頌 木佛 5 7喩獣ー而尋響喩 獣3fl(ii尋 饗 喩款馨而尋饗喩敦Slfn',r響 喩如獣呼而尋 響 5 8迷悟一途 迷悟・丘 迷悟 一途 迷悟・途 迷柚 一途 5 9囚其名則 其名聞 −− 比名則 Jけ.則 一一 -囚it柚ii』 5 これ を見 て 知 られる こ と は, 常 該箇 所 にお いては敦煌本 は基本 的 に一 致 してお り ,字句 の相 違 は 敦煌 本と天順 本 の 間で認められ る の みであ る が ,『績高僧 傅』の 字 句 は, 雨 者 の 中間的 な 形 態 をとってい る と い う こ とである。即 ち,『績 高 僧傅』は ,2 と9 に お い て 天順 本 に 一致 する一 方 で ,3 ∼8 の6 箇所 にお い て は 敦 煌 本 に 一 致 し,1 に お い て は , 正 し く 雨 者の中間的な本文 と なっているの であ る。確 か に叡の上 からい え ば 。
敦 煌 本 に より近 いとも言 える が, 天順 本には 明らか に 後世の補訂 と見 ら れる 部 分 が し ば しば見られる か ら(上記 の 例で は,4 か ら7 まで の4 箇 所 がこ れに営 たる), 賓 際 に は, 正し く 両 者 の 中 間 的 な テ キストと言え るの である。『績 高僧帖i の『二入四 行 論』へ の 言 及 が 極めて古 い も の であ る こと を考え 合 わ せる と, この 事 賓は , 道宣が 用 い た テ キ スト が 敦 煌 本 と天順 本の共 通の廿l本 に 近 い もの であったこ と を 示 す も の と見てよい で あろ う。 では , 道宣は, 古 本『二人 四 行 論長巻 子』を參照 し た の であろう か。 恐 らくは ,そ うでは あるま い。とい う の は, そのよ う に 考 えた 場 合 , 次 の ような二つの 問題 が 生 ず る か らであ る。 第一の問 題は ,『 二人四行 論 長 巻 子』の序 文 は 早くから 曇林(曇琳) の作と さ れ てい たと 考 え られ るが,も し 道 宣がそれを見てい た とすれ ば , ( 第iC.層の段 階で で は なくい 必 ずや 第1 層を書いた時黙で既に 曇林に言及 していたはず だ と いう ことである。従って ,道 宣が採った 資料では , い ま だ こ れ を曇林作 と は し て い な かった と 考 え ら れ る の であ る。 第二の 問 題 は, 従 来 よ り,道宣が「僧 可 傅」のC で, 向居 士が慧可 に 呉 え た手紙だ と して引 用し て い る , 「影 由 形 起。響 逐 盤 束。弄 影勢形。不知形之 是影。揚 盤 止 響。不 識 盤是響 根。除煩悩 而求 涅 槃 者。喩 去 形 而 覚 影。離衆 生而 求 佛。喩 獣 聾而尋 響。故 迷 悟一途 愚 智 非 別。無 名 作 名。因 其 名則是非生 矣。無 理作 理。因 其 理 則評 論起矣。幻 化 非 員 誰 是誰非。虚妄無官 何空何 有。 将知得 無所 得 失 無 所 失。未及造 談聊 仲 此意。想焉答 之。」 という 文 章が ,『二人 四 行 論 長 巻 子』の, 「 影 由 形起。響 逐 聾 来。弄影 勢 形。不 知 形 之 是 影。揚 盤 止 響。不 知 盤 之是響 根。除煩 悩 而 求 涅 槃 者。喩 去 形 而 筧 影。離 衆 生而 求 佛 者。 喩 黙 聾 而尋 響。故 知 迷 悟一途。愚智非別。無 名 處強焉 立名。因 其 名 即是非 生矣。無理 處 強 偽 作 理。因 其 理 即 静 論 興焉。幻化 非 屏。誰 是 誰 非。虚妄無 賞。何 有何無。富知得無所 得。失無 所失。未 及 造 談。 聊 申 此 句。 謳論玄旨。」 と いう 一節と一致し, しかも ,『二入 四 行 論 長 巻子』では,向居士 と の 開 係に 全 く 言 及 してい ないとい う ことが問 題 と なっ てい る が ,もし 道宣 が基 づ い た もの が『二入四 行 論 長 巻 子』そ のも の だ と す れば , こうし た −124−
(58 ) こ と は あ り え な い は ず だ と い う こ と で あ る 。 こ の よ う な 諸 鮎 よ り 判 断 す れ ば , 道 宣 が 依 櫨 し た 資 料jよ,『二 人 四 行 論 長 巻 子 』 と 密 接 な 開 聯 を 持 ち つ つ も , そ れ と は 異 な る も の で あ っ た と 見 ね ば な ら な い で あ ろ う 。 し か も, そ の 資 料 は , 現 在傅 わ る 『二 人 四 行 論 長 巻 子 』 の 諸 本 よ り も古 形 の も のに 近 か っ た と 考 え ら れ る の で あ る か ら , 恐 ら く そ れ は ,『二 入 四 行 論 長 巻子 』 が 編 集 さ れ る 際 に 基 づ い た古 文 献 で あ っ た と 見 倣 す べ き で あ ろ う。 つ まり , 道 宣 が 「 達 摩 = 慧 可 傅 」 の 第1 層 の 部 分 を 書 い た 頃 に は , 彼 ら に 間 す る古 文 献 が か な り 豊 富 に 残 さ れ て い た の で あ っ て , 道 宣 は そ れ ら に 基 づ い て 「 達 摩 =慧 可 傅 」 を 綴 っ た が , 一 方 で , 道 宣 のそ う し た 活 動 と は 別 個 に , そ れ ら の資 料 を 編 輯し よ う とい う 試 み が 行 な わ れて 『二 人 四 行 論 長 春 子 』 が 成 立 し た と 考 え ら れ る の で あ る 。 そ の 場 合 , も し , 『二 入四 行 論 長 巻 子 』 の 編 者 が 『絹 高 僧 傅 』 の 「 僧 可 傅 」 を 見 てい れ ば, 常 然 , 先 の 文 章 を向 居 士 の 手 紙 と 認 識 で き た は ず で あ る か ら , こ の こ と は , そ の 編 輯 が 「達 摩 =慧 可 傅 」 の 第1 層 が 書 か れ た の と 相 い 前 後 す る 時 期 で あ っ た こ と を 示 唆 す る も の のご と く で あ る 。 『二 人 四 行 論 長 巻 子 』 の 序 文 の 作 者 が , 常 初 か ら 曇 林 と さ れ て い た の で あ れ ば , 恐 ら く そ れ は, 道 宣 の 頃, 那 律 師 一慧 混 一曇 啖 の系 統 な ど で 言 わ れ て い た の を 承 け た も の で あ ろ う 。 先 に 言 う よ う に , 曇 林 と慧 可 を 結 び つ け よ う と し た の は, そ の 系 統 の 人 々 で あ っ た と 考 え ら れ るか ら で あ る (し かし , 一方 で ,『績 高 僧傅』 に曇 林が 出 て束 るこ と をヒ ント にし て 後 世に なっ て言 わ れ始め た 可能 性 も排除 で きない ご とく であ る )。 以 上,A の 情 報 源 に つ い て 論 じ た が , で は , 残 るB とC につ い て は ど う で あ ろ う か 。 先 ずB で あ る が , こ の 部 分 で 注 目 さ れ る の は , 慧 可 の 名 稀 を 「祥 僧 可 。 一 名 慧 可 」 と し て い る と い う こ と で あ る 。 こ れ は基 づ い た 資 料 に よ っ て 名 前 に 相 違 が あ っ た こ と を 暗 示 す る が ,「 一 名 慧 可 」 はA の 部 分 に , 「 有 道 育 慧 可 。 此 二 沙 門 。 年 雖 在 後 而 鋭 志 高 遠 。 初 逢 法 将 知 道 有 隠 。 ㈲ 尋 親 事 之 経 四 五 載 。 給 供 諮 接 。 感 其 精 誠 論 以 腐 法 。」 と い う の と 呼 礁 す る か ら , こ の 黙 か ら 見 て , こ の 部 分 は 主 と し て , 慧 可 を 「 僧 可 」 と 呼 ぶ 何 ら か の 文 献 に 基 づ い て 書 か れ て い る こ と が 知 ら れ る ( 慧 可 が 達 摩 に 師 事 し た 期 間 をA が 「 四 五 載 」 と す る の に 對 し て,B が 「 六 載 」
とす る の は矛 盾 であ る が ,こ れが生 じ た 理[+Jも基 づい た資 料 が 異 なっ てい た ため であ ろ 引 。 た だ , そ の 文 献 が 何 で あ っ た か に つ い て は 全 く 不 明 で あ る 。 一 方,c の 部 分 に つ い て は , そ の 末 尾 に 。 「 其 麓 言 人 理 未 加 鉛 墨 。 時 或 績 之 。 乃 成 部 類 。 具 如 別 巻。」 とい う か ら, そ の 「 別 巻 」 に 基づ い た こ と が 知 ら れ る。 こ の 「 別 巻」 は, 恐 ら く, 常 時 流 布 し て い た 菩 提 達 摩 や 慧 可 に 闘 す る古 資 料 の 一 つ で , 主 とし て 慧 可 の 言 葉 を 纏 め た も ので あ っ た で あ ろ う 。 こ の 文 献 に は慧 可 の 簡軍 な 傅 記 が 添 え ら れ て い た 可 能 性 もあ るが , だ と す れ ば,B の 部 分 が 基づ い た も の も , 或 い は , こ の 「 別 巻」 そ の も の で あ っ た か も知 れ な い。 既 に 引 い たB の 部 分 に ,「 可 乃 奮 其 奇 滸 。 呈 其 心 要 。 故 得 言 満 天 下 。 意 非 建 立」 と 言 っ て い る こ と も , そ れ を 裏 づ け る よ う に 思 わ れ る 。 以 上 を 要 す る に , 道 宣 が [ 達 摩 =慧 可 傅] の 第1 層 を 書 い た 際 に 用 い た の は , 常 時 , 巷 間 に 流 布 し て い た , 達 摩 や 慧 可 に 開 す る 種 々 の 文 献 資 料 だ っ た と 考 え ら れ る の で あ る。 こ の 時 期 の 道 宣 は , 言 わ ば , 書 物 か ら 知 識 を 得 て 傅記 を 綴 っ た の で あ っ て , そ の系 統 の 人 々 につ い て は 全 く 知 ら な か っ た の で あ る 。 し て 見 る と,B の 末 尾 の 「 故 末 緒 卒 無 柴 嗣 」 と い う 言 葉 は , 正 し くそ れ を 示 す も の だ と も 言 え る の で あ る。 b. 第I 期 こ の 時 期 に, 道 宣 が 新 た に 得 た 情 報 は ,「 達 摩 = 慧 可 傅 」 の 第2 層 に 見 る こ と が で き る。こ の 部 分 は , 先 の拙 稿 で 論 じ た よ う に ,E. 「 僧 可 傅 」 第 四(552中17-552下1 ):慧可 と曇琳 と の 関 係 を 述 べ る 。F. 「 僧 可イ専」 第五(552 下1-552 下7 ): 那 禰 師 の 頭 陀 行 に つ い て 述 べ る。G. 「 僧 可 傅 」 第 六 (552 下7-552 下24): 那 律 師 の 弟 子 の 慧 浦 に つ い て の 逸 話 を 述 べ る。 と い う三つ の 部 分 か ら 成って い る。し か し , い ず れ も 「 頭 陀 行 」 と い う 鮎 で 一 貫 す る こ と か ら , 一 連 の も の と 見 倣し て差し 支 え な く , 従 っ て ,E の 部 分 も 那 律 師系 の 人 々 の 傅 承 と 見 倣 す べ きで あ る こ と な ど, 既 に 論 じ た 通 り で あ る。つ ま り , こ の 時 期 に 新 た に 得 ら れ た 知 見 は 基 本 的 に は 那 禰 師系 の 人 々 に 関 す る も の に 限 ら れ る といって よ い の であ っ て , 問 題 −122−
(60 ) は , 道 宣 がこ う し た 情 報 を い か に し て 手 に 入 れ た か とい う こ と に 尽 きる の で あ る 。 こ れ に つ い て 柳 田 聖 山 氏 は ,『初 期 律 宗 史 書 の 研 究 』 に お い て , 「 前 述 し た 僧那 一慧 満 の 二 人が , 同 じ く 何 伽 の 宣 揚 者 で あ り , 特 に 慧 満 が心 相 の 虚 妄 な る を 教 えた と 言 う の も , 此 と 間 連 す る も の の様 で あ り , 特 に 法 沖 傅 の 系 譜に 見 え る那 老 師 を , 僧 那 そ の 人 と す れば , 其 の 下 に 出 た賓 腸 師 以 下 の 四 人 は , 何 れ も 慧 満 と 同 門で あ り , 慧 満 が 洛 升│南 會 善 寺 で 出 遇 っ た とい う 曇 暗 法 師 は , 或 は 此 の系 譜 に 見 え る 暗 算 師 で な か ろ う か。 而 も, 賓 律 師 以 下 の 四 人 が , す べ て 京 師 の 西 明 に 住 す , と 注 意 さ れ て い る 鮎 か ら 言 え ば , 何 れ も道 宣 と 同 時 の 先 輩 で あ っ た よ う で あ る 。 元 来 , 西 明 寺 は , 唐 の 高 宗 が 頭 慶 元 年 (656 )に , 長 安 延 康 坊 の 西 南 隅 に , 太 子 孝 敬 の 病 楡 を 記 念し て 創 建 し , 道 宣 を 最 初 の 上 座 と し た 寺 であ る 。 前 記 の 四 人 が 此 處 に 住 し , 而 も 身 亡 じ て 法 の 絶 し た こ とを , 道 宣 が 記 し て い る 以 上 少 く と も 耐 そ れ は 道 宣 入 寂 の 乾 封 二 年(667 ) 以 前 であ っ た 筈 で あ る 。」 と 述 べ て お り , こ れ を 承 け た 鈴 木 哲 雄 氏 は , こ の 部 分 を 「『 四 巻 楊 伽 』 を 奉 ず る こ れ ら 西 明 寺 の 人 だ ち な ど の 傅 承 を 新 た に 身 近 に 聞い て 記 し た ] も の だ と 断 じ て い る 。 柳 田 氏 の 説 明 か ら も知 ら れ る よう に , こ の よ う な 説 が 出 て く る の は ,G の 部 分 に よ っ て慧 満 と 交 渉 を 持 っ た こ と が 知 ら れる , 會善 寺 の 曇 礦 と 同 一 人物 と 見 ら れる 「暗 法 師」 が , 先 に引 い た 「 法 沖 傅」 の達 摩系 の 人 々 を 列 拳 す る 部 分 に お い て ,「 恵 禅 師 」 や 「 弘 智 」 ら と と も に 名 前 が 掲 げ ら れ ,「 名 住 京 師 西 明 。 身 亡 法 絶 」 と 注 記 さ れて い る こ と に 基 づ く の で あ る 。 雨 氏 は , こ の 文 章 の 「 名 住 京 師 啓 明 」 を [ 各 住 京 師西 明 ] の 誤 り と 解 し , 道 宣 が 「 上 座」 と し て 招 か れた 西 明 寺 に 彼 ら 四 人 が 住 し てい た の で あ れ ば , 直 接 , 彼 ら か ら 那 禰 師 (那 老 師 )系 の 人 々 の 活 動 を 聞 く こ と が で き た は ず だ と 考 え る の で あ る 。 とこ ろ が , こ の 説 に は 大 き な 問 題 があ る 。 と い う の は , 先 に 言 及 し た 「 弘 智 傅 」 に よ れ ば , 弘 智 は 永 徽 六 年 (655) に 歿 し た と さ れ て い る の で あ る か ら , 穎 慶 三 年(658 ) の 六 月 に 落 慶 し た 西 明 寺 に 住 し う る は ず が な い の で あ る 。「 弘 智 傅 」 に お い て 西 明 寺 に 鯛 れ ら れ ない の は , 蓋 し 営 然 で あ る (同 様 に, 曇 啖が 西 明寺 と開 係を
もっ てい たと する 記述 も 『績 高僧 傅』に は皆 無 である )。 こ れ に よ っ て ,「 名 住 京 師 西 明 」 を 「 各 住 京 師 西 明 」 と 解 す る こ と が 間 違 い であ る こ と が 明 ら か に な っ た が , で は ,「 名 住 京 師 西 明 」 と は い か な る 意 味 な の で あ ろ う か 。 思 う に こ の 句 は, 次 の 「 身 亡 法 絶 」 と 對 な の で あ っ て ,「 そ の 名 前 は , 私 の 住 す る こ こ 長 安 の 西 明 寺 に 傅 わ っ て い る が , 後 継 者 が お ら ず , 本 人 が 死 ぬ と と も に そ の 教 え は 絶 え て し まっ た] の 意 と 理 解 す べ き で あ ろ う。 つ ま り , こ の 註 記 は , 滅 後 もそ の 名 聾 を 都 に 留 め てい た 人 々 で あ る こ と を 書 き 添 え た に 過 ぎな い の で あ っ て , 西 明 寺 に 住 し た こ と があ っ た わけ で は 決 し て ない の で あ る 。 で は , 道 宣 は ど の よ う に し て 弘 智 の 存 在 を 知 っ た の で あ ろ う か。「 弘 智 傅 」 に は , 歿 後 , 門 人 に よっ て 碑 文 が 建 て ら れ た と し て , 「 門 人 散住 諸 寺 者。 咸 謹 卓 正 行 。 不 墜 遺 風 。 重 誇 誘 之 助 努 。 顧 復 之 永 没 。 乃 共 寫 八 部 般 若 。 用 崇 紀 岫 之 恩 。 又 建 碑 一 座 。 陳 於 至 相 寺 山 外。 二 丈 四 尺 。 賓 徳 寺 荘 所 。」 とい う か ら , こ の イ専記 は こ の 碑 文 に 基 づ い た の で あ ろ う 。 碑 文 は, 一 般 的 に, そ の 人が 没 し た 後 に 建 立 さ れ る も ので あ る か ら , 道 宣 が 弘 智 の 傅 記 の詳 細 を 知 っ た の は , 既 に 弘 智 が 没 し か 後 で あ っ た と 考 え ら れ る の で あ る 。 し か し , 暇 に そ う で あ っ た と し て も, 道 宣 が 生 前 の弘 智 と面 識 が あ っ た と い う 可 能 性 が 排 除 さ れ る わけ で は ない 。「 弘 智 傅 」 に よ る と , 弘 智 は 終 南 山の 至 相 寺 に 住 し た が , 道 宣 も 終 南 山 の 豊 徳 寺 に 住 し てい る か ら, そ の 開 に 弘 智 と 何 ら か の接 鯛 を もっ た と い う 可 能 性 も 考 え ら れ な く は ない の で あ る 。 た だ , 弘 智 へ の 言 及 は ,「 弘 智 傅 」 以 外 に は 「 法 沖 傅 」 に し か 見 え な い ご と く で あ り , し か も , 先 に い う よ う に, そ の 「 法 沖 傅 」 の 成 立 は , 麟 徳 元 年 頃 と推 測 さ れ る の で あ る か ら , 既 に 弘 智 の 没 後 十 年 近 く を 経 た 後 の も の な の で あ る 。 法 沖 の よう に 生 存 し て い る 人 の 傅 記 で す ら 収 録 し よ う とし た 道 宣 の 態 度 を 思 う と き , 生 前 に弘 智 と 何 ら か の 交 渉 を 持 っ て お り な が ら , 没 後 , か な り の 時 を 経 て 初 め て そ の 傅 記 を 書 く と い う こ と は ほ と ん ど 考 え ら れ ない こ と で あ る 。 こ の よ う に , 那 憚 師系 の 人 の 最 後 に 掲 げ ら れ て い る 弘 智 に す ら 逢 っ て い ない の で あ れ ば , 道 宣 が こ の系 統 の 人 か ら 直 接 情 報 を 得 た と 考 え る の は 無 理で あ ろ う 。 以 上 , 様 々 に 論 じ て きた よ う に ,「 達 摩 = 慧 可 傅 」 の 第2 層 で 書 き 足 −120 −
(62 ) さ れ た 部 分の 直 接 の 情 報 源 を 賓 禰師 ・恵禰 師 ・曇蹊 一弘 智 ら 那 禅 師 系 の 人 々 とする こと は不可 能 なの で ある。で は , 道宣は 何に 基づ い たのか。 先 ず 注 目 すべ きは.G の 部 分 に 見ら れ る 次 の 記述 で あ ろ う。 「貞観 十六年。於 洛 州南 會 善寺 側宿栢 墓 中。遇雪 深三尺。其 旦人寺 見曇啖法 師。怪所 従 来。滞 日。法 友 束耶。遣 尋 坐處。四 逡五尺 許雪 自積 聚不可測也。」 この文は,F やG で 叙 述 さ れる那 岬 師 や 慧滞の活 動 が 人 々に知られる に 営た って曇啖が 重 要 な 役 割 を 果 た し た ことを 示唆 するも の で あ る が, 「法 沖 傅」で は , その 曇礦 に 對 し て「名住 京 師 西明。身亡 法 絶」と いっ て い る の である か ら,恐 ら く は , 常 時 , 長 安 の 僧侶の 間 で流 布 し て い た 傅承 に 基 づ い た と 見る のが 事 賓に近い の ではな い か と思われ る。道 宣は, 別に傅記を立て て い る 弘 智 を「 法沖 傅」で曇畷 と 並 べ て 「名 前 が 傅 わっ て い る だけだ」と す る の で あ る が ,「弘 智 傅」の 方が「 法沖 傅 後 に書か れ た と は 考 え に く いか ら,それは 恐 ら く , 先 に 鯛れ た ように , 雨 者 が 同一人 物である こ と に気づ か な かった た め であろう。 c. 第 Ⅲ 期 この 時期に書か れ た部分 は ,「達摩 =慧可 傅」 の第3 層 と,「 法沖 傅」 とであるが, 前 者 が「法 沖 傅」 で述 べられ てい るよ う な 知 識 を 前 提 と す る もの である こ と は明 らかであるから, 問 題 は , 道 宣 が「法 沖 傅」を書 く 際 に 基 づ い た も の が 何 で あった か と い う こ と に なる。 これに つ い て注 目 す べ き は ,「法沖 傅」の 末 尾 に見え る, 「願 慶 年言旋 東 夏。至今 麟徳 年七 十 九矣。」 と い う記述である。こ れ は 某 か の 人物が 願 慶 年 間 (656-661) に 法 沖 に 遇 い , 本 人 か ら 様 々 な 情 報 を 得 , そ れに 基 づ い て, 麟 徳 年 間(664-666)に 道宣が こ の 傅記を 綴っ た こ と を 物 語 る。法 沖 に遇った 人 物 を 道宣と 見 る こ と も , あな が ち 無 理 で は ないか も 知 れ ない が , た だ , それ を 明示する 他 の傅 記 の 記述 , 「 余聞 往焉。欣 然 若 奮。叙 悟 猶 正。年 八 十 除矣。」(「慧 進 傅」附 傅 「道贋傅」) 「 自 貞 観来。恒 掲房 宿 竟 夜 端 坐。慨瞰 達 曙。余 親 目 見。故 略 述 其 相 云。」(「 智則 傅」)
な ど に 較 べ る と , そ の 表 現 に 落 差 が あ る こ と は 否 定 し が た い の で , や は り, 直接 に 法 沖 に 遇 っ た 人か ら 情 報 の提 供 を 受 け て 書 い た の で あ ろ う 。 で は , そ れ は誰 か 。 「 法 沖 傅 」 に は , 法 沖 の 逸 話 と 闘 聯 し て , 房 玄 齢 (578-648), 杜 正 倫 (587-658),S 潤 (生 歿年 未詳 ), 鄭 欽 泰 (生 歿 年未 詳 ), 玄 奘 (602-664), 于 志 寧 (588-665) ら の 人 々 が 登場 す る。 こ こ で 非 常 に 興 味 深 い こ と は , 『績 高 僧 傅 』 の 記 述 に よ っ て , こ れ ら の 人 々 の 開 に 親 密 な 闘 係 が 存 在 し た こ と が 窺 わ れ る と い う こ と であ る ( 鄭欽 泰は 除く )。 即 ち ,1. 「 波 羅 頗 迦 羅 蜜 多 羅 傅 」 や 「 慧 浄 傅 」 に よ る と , 波 羅 頗 迦 羅 蜜 多 羅 (565-633) が 『賓 星 経』『般 若 燈 論 』『大 乗 荘 巌 経 論』 な ど を 詳 し た 時 に , 參 助 勘 定 の 任 に 営 だ っ た の が 房 玄 齢 と杜 正 倫 の 二 人 で あ り , 波 羅 頗 迦 羅 蜜 多 羅 は , こ の 二 人 と 于 志 寧 に 對 し て , 房 玄 齢 の 法 友 で 筆 受 (或 い は綴 文) を 務 め た 紀 國 寺 慧 浄 (578-? ) の 才 能 を 褒 め 讃 え た と さ れ て い る 。2. 「 宣 潤 傅 」 に よ る と , 房 玄 齢 は 霊 潤 に 遇 い , そ の 議 論 の 素 晴 ら し さ を 賞 讃 し た と さ れ て い る 。 3 「玄 奘傅」 に よると ,貞 観十九年(645) に,玄 奘が 弘福寺 でIf経 に着手す る際 に,監護 としてその 準備を整 えたの は房玄 齢であっ 祠 た。 4. 同 じ く 「 玄 奘 傅 」 に よる と , 于 志 寧 は , 願 慶 元 年 (656), 救 命 に よ っ て 玄 奘 詳 経 論 の潤 色の 任 に 営 た る こ と に な っ た と さ れ てい る 。 以 上 に よ っ て , 房 玄 齢 ・ 杜 正 倫 ・ 于 志 寧 の 三 人 は 相 互 に 面 識 があ り , 玄 奘 は 房 玄 齢や 于 志 寧 と , 露 潤 も 房 玄 齢 と 交 流 を 持 っ て い た こ と が 知 ら れた が, 道 宣 は , 直 接 , 或 い は受 戒 の 師 であ る 智 首 (567-635) を 介 し て , 彼 ら と 近 い 闘 係 に あ っ た の で あ る 。 そ の こ と を 窺 わ せ る 『績 高 僧 傅 』 の 記 事 に は 次 の よ う な も の が あ る。1. 「 玄 奘 傅 」 で は , 道 宣 自 身 が 詳 場 に 參 じ て , 直 接 鯛 れ た 玄 奘 の 人 剛 と な り を 感 慨 を 込 め て 綴 っ た 文 章 が 附 さ れ て い る 。2. 「 智 首 傅 」 で は , 房 玄 齢 と 杜 正 倫 は , 國 葬 の 繩 で 行 わ れ た 智 首 の 葬 儀 の 際 に 哀 を 墨 くし た と 述 べ ら れ て い る 。 道 宣 が 玄 奘 の 詳 場 に 典 っ だ の は 一 年 ほ ど に 過 ぎ な かっ た が ,「 玄 奘 イ専」 の記 述 か ら は 玄 奘 へ の 心 服 が 窺 わ れ, 一 方 , 道宣 が 西 明 寺 の 上 座 に なっ −118 −
(64 ) た の に は , 玄 奘 の 意向 が 働 い てい た の で は な い か と ま で い わ れて お り , 両 者 の 間 に は並 々 な ら ぬ 信 頼 関 係 が 存 在 し た よ う であ る 。 また , 道 宣 が 律 の大 家 で あ っ た 智 首 か ら 多 く の もの を 得 た こ と は 言 う ま で も ない こ と で あ り , 自 身 ,「 智 首 傅 」 にお い て , 末 席 に 列 す る こ と 十 除 年 と 述 べ て い る こ と か ら も , そ の こ と は 窺 う こ と がで き る 。 防 恐 ら く 道宣 は , こ う し た 人 脈 の中 で 法 沖 に 闘 す る 情 報 を 得 た ので あ る。 賓 際 の と こ ろ ,「 法 沖 傅 」 に 見 え る , 若 い 頃 の 法 沖 と 房 玄 齢 の 関 係 な ど は 本 人以 外 に は 知 り 得 な い も の であ り , 房 玄 齢 の 述懐 に 由 来 す る も の で あ る こ と は 間 違 い な い で あ ろ う 。 ま た , そ の 後 の 法 沖 の 行 動 も房 玄 齢 の 知 る とこ ろ で あ っ た と思 わ れ, 情 報 源 とし て 房 玄 齢 の 存 在 は 非 常 に 大 き か っ た と 思 わ れ る 。 杜 正 倫 や 霞 潤 ら の 人 々 は , 或 い は 房 玄 齢 を 介し て 法 沖 と 相 知 る よ う に な っ た の で は な かっ た か 。 そ し て, 法 沖 の 存 在 が 極 め て 魅 力 的 で , 出逢 う 人全 て に 強 い 感 銘 を 典 え た た め , そ れ ぞ れ に 逸 話 を 残 し , そ れ が 道 宣 に 傅 わっ た の で あ ろ う 。 こ の よ う に 見 て く る と , 顛 慶 年 間 に 法 沖 に 遇 っ た 人 物 が 誰 で あ っ た か 想 像 が つ く よ う に 思 わ れ る 。 こ れ ら の 人々 の多 く は既 に 貞 観 年 間 に 歿し て お り, こ の 時 に 生 き残 っ て い た の は 于 志 寧 と 道 宣 ぐ ら い であ っ た 。 そ し て , 興 味 深 い こ と に , 于 志 寧 は 顛 慶 元 年 に 玄 奘 の詳 経 の 潤 色 を 仰 せつ か っ てお り, し か も ,[ 法 沖 傅 ] で は , 玄 奘 と 法 沖 の 逸 話 に 績 い て , 于 志 寧 の法 沖 に 對 す る 批 評 の 言 葉 を 載せ て い る の で あ る 。 従 っ て , 恐 ら く は , 顔 慶 年 間 に 法 沖 と 玄 奘 , 于 志 寧 の 三 者 の接 鯛 が あ り , 于 志 寧 が 二 人 の 間 の 逸 話 を 道 宣 に 傅 え る とと も に, 自 ら の 法 沖 評 を も 語っ た の で あ る 。 そ し て , そ の 時 , 法 沖 の 年 齢 や , 彼 が こ れ か ら 東 に 行 く と 言 っ て い た こ と な ど も 道宣 に 傅 え た の であ ろ う 。 こ の よ う な 経 緯 が 明 ら か に な っ て く る と , 従 束 か ら し ば し ば 問 題 に さ れ て きた ,「 僧 可 傅 」 の 慧 可 の言 葉 ,「 毎 可 説 法 竟 曰 。 此 経 四 世 之 後 愛 成 名 相。 一 何 可 悲 」( 第3 層 −3 ) が い か な る も ので あ っ た か も 見 常 がっ く。 こ の 言 葉 は,「 法 沖 傅 」 で 法 沖 の 言葉 と し て 傅 え る , 「 義 者。 道 理 也 。 言 説 已 麓 。 況 舒 在 紙 麓 中 之 麓 矣 。」 と 内 容 的 に 関 聯 が 深 い し , 開 皇 六 年 (586) 生 ま れ の 法 沖 は , 慧 可 か ら 敷 え て, 三代 目 , 或 い は 四 代 目 く ら い に 営 た る であ ろ う か ら ,恐 ら く は , 法 沖 の傅 え る と こ ろ で あ っ て , 于 志 寧 が 本 人 か ら 聞 い た も の な の で あ る 。
法 沖 の 目 的 は , 名 相 に 執 着 し が ち な富 代 へ の 警 鐘 を 鳴 ら す こ と で あ っ た と 思 わ れ る。 恐 ら く 法 沖 は , 慧 可 の 名 前 を 持 ち 出 す こ と で 説 得 力 を 増 す こ と が で き る と 考 え た の で あ ろ う 。 し か し な が ら ,「 法 沖 傅 」 の 一つ の 重 要 な 要 素 と な っ て い る 『 楊 伽 経 』 の系 譜 や 註 祥 書 に 開 す る 記 述 に つ い て は , そ うし た 傅 聞 の みで 書 き得 た と は 思 わ れ な い 。 俗 人 た ち が , そ の よ う な 細 か な 知 識 に 関 心 を 寄 せ た と は 思 わ れ な い か ら で あ る 。 恐 ら く は, 道 宣 自 身 が 掲 自 に 集 め た 情 報 も 十 分 に 活 用 し た に 違 い な い 。「 法 沖 傅 」 に は, 慧 可 の弟 子 で ,『 榜 伽 経 』 の 「 疏」 五 巻 を 著 わ し た と さ れ る 明 禰 師 の系 統 の 人 々 は 常 時 も 活 躍 し て い た と し て 。 「明 禰 師 後 。 伽 法 師 。 盲 喩 師 。 賓 迎 師 。 道 蔓 師 並次訓耶軋 于今揚化・」 と 記 さ れ て い る ので , そ う し た 人 々 か ら 得 た 情 報 が 含 ま れ て い る 可 能 性 も否 定 で き な い で あ ろ う 。
四
達摩系習縁 者の活動と道宣の認識の問題鮎
以 上 ,『績 高 僧 傅』の 記 述 に 基 づ い て ,達摩 系 の 人 々 に 對 す る 道 宣 の 認 識 に つ い て 検 討 し て き た。そ の 結果 ,道 宣の記述 に は 成 立 を 異 に す る 三つ の 層 が 存在す る こと や,そ れが 道 宣 の 認 識 が二度 に わ たって 大 き く 便 化 し た こ と を 反 映 する も の で あ ること を明ら か にし た。そ し て , 道 宣 の 認 識 の 基 礎 に なっ た情報 ,便化の時 期 など につい て も 検 討 し , 次 の よ う な 結 論 を 得 た。 第1 期 : 貞 販 十 九年(645 )に.r 績高僧 傅』の初 稿 本 を 編 輯 す る に 常 たっ て, 常 時 ,一般に 流 布 してい た『二入四 行 論』, な ら び に 慧 可 に 開 す る 資 料な ど に 基 づ い て,「 達 摩= 慧 可 傅」の 第1 層 や 「 慧 布 傅」,「習 憚篇 論 」が書 かれ た。 第H 期 : 貞 観二十三 年 (649 ) に,『績高僧 傅』の 補 訂 本 を 編 輯 す る に 常 たって , 常 時 ,長 安 や 終南 山の周 漫で流 布 し て い た 傅 承 に 基 づ い て , 那 律 師 系 の 人々 の活動 を主 た る内 容 とす る 「 達 摩―慧 可 傅」 の 第2 層 が 書 か れ た。 第m 期 : 麟 徳 元 年(664) 頃,興 聖 寺 本『績 高 僧 傅』の 祖 本 , な ら び に『後 集 績 高 僧傅』を 編 輯 す るに 営たっ て, 房 玄 齢 や 于 志 寧 ら と −116 −(66 ) の交 友 関 係 の 中 で 得 た 情 報 や , 道 宣 自 身 が 明 律 師 系 の 人 々 な ど か ら 集 め た 情 報 な ど に 基づ い て , 四 巻 本 『 楊 伽 経J と の 開 係 を 強 調 す る 「 達 摩 =慧 可 傅 」 の 第3 層 や 「 法 沖 傅 」 が 書 か れ た 。 こ の 事賓 は , 七 世 紀 の 半 ば に , 達 摩 の 児 孫 を 名 の る 人 々 の 活 動 が , に わ か に 社 會 の 注 目 を 集 め , 様 々 な グ ル ー プ が , 次 々 に 都 の 知 識 人 た ち に 知 ら れ る よ う に な っ た こ と を 窺 わし め る と い う 陥 で 極 め て 注 目 す べ き だ と 思 わ れる 。 そ し て , そ れ と と もに 注 意 す べ き は , こ れ ら 達 摩系 の 人 々 に 関 し て は , 道 宣 は 新 た な 知 見 を 得る た び に , そ れ に よ っ て , そ れ まで の 認 識 を 更 新 し て い っ た とい う こ とで あ る 。 即 ち , 第1 期 で は , 菩 提 達 摩 や 慧 可 の 掲 自 な 思 想 と 活 動 に 注 目 し な が ら も,「 道 竟 幽 而 且 玄 。 故 末 緒 卒 無 祭 嗣 」, 即 ち , 思 想 が 除 り に 深 遠 で あ る が ゆ え に 後 継 者 に 恵 ま れ な か っ た と 述 べ て い る ので あ る が , 第H 期 で は , 新 た に 得 た 知 見 に 基 づ い て ,『 勝 鬘 経 』 の 學 者 と し て 名 高 い 曇 林 が 慧 可 と 開 係 を 持 っ てい た と い う 傅 承 を 加 え る と と もに , 慧 可 の弟 子 の 那 禰 師 , そ の 弟 子 の 慧 満 の活 動 を 記 す こ と で , 達 摩 の系 統 が 絶 え た と し た 前 言 を 翻し た の であ る 。 し か し , い ず れ に せ よ 第n 期 に お い て は , 四 巻 『 拐 伽 経 』 と の 関 聯 で 達 摩 や 慧 可 を 理 解 す る 視 黙 をい ま だ 持 ち 合 わせ て い な か っ た の で あ る か ら ,「達 摩 =慧 可 傅 」 の 第2 層 のE に 含 ま れ る , 「 及 周 滅 法 典 可 同 學 共 護 経 像。 可 専 附 玄 理。 如 前所 陳 。 遭 賊 研 腎 。 以 法 御 心 不 穏 痛 苦 。 火 焼 研 處 血断 帛 裏 乞 食 如 故 。 曾 不 告 人U と い う 文 の 「 可 専 附 玄 理。 如 前 所 陳」 は , 先 の 拙 稿 で も 論 じ た よ う に, 慧 可 が 達 摩 か ら 『 二 人 四 行 論 』 を 中 心 と す る 教 説 を 學 ん だ こ と を 指 す と 見 ね ば な ら な い の であ る 。 と こ ろ が 第m 期 に な っ て , 法 沖 ら の 存 在 を 知 る と, こ の 「可 専 附 玄 理 。 如 前 所 陳」 と い う 言 葉 の直 前 に , 「 初 達 摩 律 師 以 四 巻 拐 伽 授 可 曰。 我 観 漢 地 惟 有 此 経 。 仁 者 依 行 自 得 度 世。」 と い う 一 節 を 括 人 し , 更 に,G の 「 僧 可 傅 」 を 締 め く く る 位 置 に , 「 故 使 那 満 等 師 常 夏 四 巻 楊 伽 以 協 心 要 。 隨 説 隨 行 不 爽 遺 委 。」 と い う 一 節 を 書 き 加 え てい る の であ る が , こ れ は , 法 沖 ら の み な ら ず , そ れ まで は 活 動 の 基 盤 が 『二 入 四 行 論 』 に あ る と 考 え て い た 那 課 師 や慧 満 に つ い て も , 四 巻 本 『楊 伽 経 』 を 奉 ず る 人 々 で あ っ た と認 識 を 改 め た