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通信教授 : 心理学 利用統計を見る

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(1)

通信教授 : 心理学

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

9

ページ

91-289

発行年

1991-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002924/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

通信教授

’∴・∵ジ 一V

 .綴、 .講 脊.

(3)

1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   188×127㎜         ・ 3.ページ   総数:509   目録:17   本文:449   付言: 9〔本文中にあり〕   付録:34〔付言,質問答義〕 4.刊行年月日   初版:底本 明治21年8月22日 5.句読点   なし 6.その他   (1)底本は三康文化研究所付   属三康図書館所蔵本である。 (巻頭) 明治廿一年八月夢,九β印  畑刷 明治廿一年返週糠二日声  版

漬遠灘 嶺行讃 印翻着 登行所 酸費所 藁縛途透竃9 遼積金轡薗廿鐘

雛麟無蕪

繋灘灘亭

描[、握 趣限

籠慧瓢否

遁、信観撃曾

難雛囎

(2)同書名の国会図書館所蔵本 は,明治19年2月より月ごとに わけて発行されたといわれる (板倉聖宣氏の目録では,同じ 内容の別の本がある可能性を指 摘されている)。しかし,同所蔵 本は底本の一部にあたり(底本 の225ページまでと質問答義), 現状では,この底本が最終的な ものと推測される。 (3)原本の付言や質問答義は一 部を除いて省略した。また,刊 行年月日は奥付に従った。

(4)

通信教授心理学

第一講緒論

      第一段開講旨趣

 余は今、諸君に対して心理学を講述するの機会を得たれば、まずその学問の利害得失を説きて、諸君がこれを 研究するの利益と、余がこれを講述するの愉快とを示すを必要なりとす。余、今この講壇の上にありてつらつら 諸君の外容を見るに、あるいは欣々として喜を帯ぶるものもあり、あるいは快々として憂を含むものもあり、あ るいは微笑するものもあり、あるいは耳語するものもあり、あるいは頭を挙げ、あるいは手足を動かすものもあ りて、その面貌挙動もとより同一ならずといえども、要するに心性作用に出でざるはなし。いわゆる思い内にあ れば色外にあらわるるものなり。しからば我人の喜ぶも心なり、憂うるも心なり、泣くも笑うも心なり、動くも 止まるも心なり。諸君が心理学を聴かんと欲するも、余がこれを述べんと欲するも、またみな心の作用なり。も しわれは、諸君が進んで社会の大勢をみるときは、日夜孜々として国益を起こさんとするものもあり、東西奔走 して私利を営まんとするものもありて、互いにその間に競争するを見、また諸君が退きて一家の道徳を察するに、 仁慈親しむべきものもあり、残忍にくむべきものもありて、ともに生存するを知る。その人々の情おのおの異な りといえども、一として心性の発動にあらざるはなし。しからば人の善をなすも悪をなすも、社会の有益者とな るも害毒物となるも、またみな心の作用なり。かつそれ、我人は天地六合の間に立ちて、目に現じ手に触るると ころの万象万物は、その体我人の心の外にありと信ずれども、目これに逢うてその色を識り、手これに触れてそ 91

(5)

の形を覚するは全く心の感覚にして、心を離れてだれかよく天地万物の我人の外に存するを知らんや。しからば、 万物の天地の間に存するを知るも心なり、わが心の外に万物あるを知るも心なり。これを要するに、我人の思う こと行うこと、知ることなすこと、感ずること覚すること、みなこれ心性の作用にして、天地六合の大なる、日 月星辰の高き、山川草木の美なる、禽獣人類の多き、みなわが心の中にその形を現じ、地獄も極楽も、神も仏も、 鬼も蛇も、過去も未来も、あらゆる三千世界も、みなことごとくわが方寸中よりえがきあらわしたるものに過ぎ ず。すなわち知る、心の作用は実に奇々妙々、神変不可思議にして、なんともかとも言語をもってたとうべから ざるを、余は今この奇々妙々の作用を述べんとす。その愉快もまた不可思議なり。諸君これを聴くの愉快もまた 必ず不可思議なるべし。しかして諸君はただこの不可思議の愉快を有するのみならず、また不可思議の利益を有 するを知る。それ学問は、哲学にあれ理学にあれ政治経済にあれ、みな心の作用に出つるをもって、一として心 理学に関せざるものなし。別して倫理教育等の諸学は心理と直接の関係を有するをもって、諸君もし各自の品行 を修め、子弟の教育を施さんと欲せば、必ずまず心理学を研究せざるべからず。心理学の用も実に大なりという べし。その他、この学問の実際上に与うるところの利益を挙ぐるに、医士たるもの病客を診断するに当たり、そ の人の気風精神を察知するは、良医となるに最も要するところなり。また裁判官が罪人を審問するにも、その人 の性質を知ること最も肝要なりとす。その外、宗教家が人を訓導するにも、政治家が人を指揮するにも、教官教 員等が児女を教育するにも、詩人が詩を作り画客が画をえがくにも、俳優者、落語家等が諸芸を演ずるにも、諸 君らが日々他人に応接するにも、その人の性情を知定するは実に欠くべからざる要点なり。たとえ心理学を研究 するもの必ずよく人の心中を明察すべきにあらずといえども、ひとたびその学に入りて言語外貌の思想といかな 92

(6)

通信教授心理学 る関係を有するかを究むるときは、多少その実際上に益ある論を待たざるなり。故に余は信ず、心理学を研究す るはその益実に不可思議なることを。ああ、諸君はこの不可思議の利益と、この不可思議の愉快とを有するとこ ろの奇々妙々、神変不可思議の心理を究めんとするをもって、余は諸君の学問に志の深き、また不可思議なるこ とを知る。諸君もまた、余のこれを講述するの愉快、また実に不可思議なることを知るべし。        第一一段 物心両界  余はすでに心理学を講ずるの愉快を述べたれば、これより心理学はいかなる学問なるやの解釈を下さざるをえ ず。そもそも心理学は、一口にこれをいえば心の学問なれども、心のなんたるをつまびらかにせざれば、その学 問の解釈を下す、また難しとす。故に余はまず心と物との区別を論じて、諸君に心のなんたるを示さんとす。我 人目を開けば、種々様々の形象の前に列するを見る。これを物と名付け、また物質という。目を閉ずれば千差万 別の念想の内に生ずるを覚う。これを心と名付け、また心性という。あるいは物心二者を客観・王観と名付くるこ とあり。しかして客観の一境はこれを物界または外界と称し、主観の一境はこれを心界または内界と称するなり。 この二者の性質を考うるに、物には大小の形あり、軟硬︵やわらかかたき︶の質あるをもって、目よくこれを見、 手よくこれに触るるべしといえども、心には一定の形質なきをもって、耳目の力もとよりそのなんたるを知るべ からず。ただ二者を区別するは、一は形質を有し、]はこれを有せざるにあり。心はかくのごとくそのなんたる 明らかならざるも、我人の物を見て物の物たるを知るは、すなわちこれ心の作用なること疑いをいれず。心もし 存せざれば、物また存することあたわず。いわゆる心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、 食えどもその味を知らざるものなり。もしまたこれに反して物ここに存せざれば、心またその作用を呈すること 93

(7)

あたわず。けだしこの二者は互いに相まって始めてその現象を示し、その作用を呈するなり。これをたとうるに、 鏡面に山影を浮かぶるがごとし。その山影の現象は山と鏡と相合して結ぶところのものにして、山のみありて鏡 なきも、鏡のみありて山なきも、ともにその現象を生ずるあたわず。山はすなわち余がいわゆる外界の物に比す べく、鏡はすなわち余がいわゆる内界の心に比すべし。論じてこれに至れば、心に体と象との別あるゆえんを知 るを必要なりとす。        第三段 心体心象  余、今諸君に向かって、なにをかこれこれを心と称すべしと問わば、諸君のこれに答うる種々多端にして、到 底一定の説なきを信ず。あるいは目に見て色を感じ手に触れて形を覚するもの、これ心なりといい、あるいは富 を得ては喜び死を聞きて哀れむもの、これ心なりといい、あるいは是を是とし非を非とするもの、これ心なりと いい、あるいは悪を避け善に移るもの、これ心なりというものあるも、かくのごとき心はすべて心の現象にして、 心の実体にあらず。心の実体はここにこれを心体と名付け、心の現象はここにこれを心象と名付くるなり。さき に挙ぐるところの鏡面の山影はいわゆる心象にして、鏡面の体はいわゆる心体なり。けだし象あるは体あるゆえ んにして、鏡体あるにあらざれば、いずくんそよく山影の現象を見ん。心体あるにあらざれば、いずくんそよく 心面の現象を生ぜん。これをもって我人の現に知るところのものは心象にして、心体は知るべからずといえども、 想像上心象の外に心体あるを推定すべきなり。        第四段 心象分析  しかれども心体は実験上知るべからざるをもって、余はひとり心象についてその種類を分かたんとす。およそ 94

(8)

通信教授心理学 心象には外物に触れて生ずるものと、外物を待たずして起こるものあり。光を見て灯あるを知り、声を聞きて鐘 あるを知るがごときは、ただちに外物に触れて生ずる心象なり。千里の外にある人を思い出し、数年前に起こり しことを回想するがごときは、外物に接するを待たずして起こる心象なり。その外物に接せずして起こる心象も、 これを帰するに、それ以前耳目に触れたるものの再び現出するによる。これをたとうるに、一は鏡面の山影のご とく、一は写真の山影のごとく、第二者もその初めは外物に接して起こるものとすべし。故に余はこの二者を合 同して種類を分かつに、情感、意志、智力の三種を得、そのうち情感を分かちて感覚と情緒の二種となすなり。 しかしてさきに挙ぐるところの、目に見て色を感じ手に触れて形を覚するがごときは感覚に属し、富を得て喜び 死を聞きて哀れむがごときは情緒に属し、是を是とし非を非とするがごときは智力に属し、悪を避け善に移るが ごときは意志に属すべし。        第五段 心界全図  以上分類するところの心界の諸象を、図をもって示すこと左のごとし。  この図中について案ずるに、心理学は心の学問なれども、心体の学なるや、また心象の学なるや、あるいはま 95

(9)

た心象心体両方の学問なるや、いまだつまびらかならざれば、ここにその点を論ずるを必要なりとす。しかれど もかくのごときは、古今東西の学者その解するところおのおの異なるをもって、これを一定することはなはだ難 し。古代および東洋の学者は、もっぱら心体を論究するをもって心理学の目的とす。すなわちプラトン氏の理想 論、シナ宋儒の性理論、仏教の唯識論等を読んで知るべし。しかれども近世西洋の諸大家の論ずるところを見る に、心理学は全く心象の学問なるを知る。この理を明らかにせんと欲せば、よろしくまず学問研究の方法の、古 今大いに異なるゆえんを考うべし。        第六段 研究方法  古代にありてはいかなる学問にても、いちいち事実を考索して実験を施すことははなはだまれにして、その研 究の方法は世人一般に信ずるところの道理に基づきて解釈を下すを常とす。かくのごとき方法を論理学上にて演 繹法という。これに反して事実について研究を施すもの、これを帰納法という。帰納と演繹との別は、一は事々 物々を実験して一種の規則を定むるを目的とし、一はすでに定めたる規則に基づきて事々物々の解釈を与うるを 旨趣とするにあり。諸君もすでに知るごとく、わが東洋の学問は、儒者の道徳を論ずるにも仏者の宗教を談ずる にも、すべて古人の格言、世間の道理に基づきて論を立つるを見る。これいわゆる演繹法によるものなり。古代 ギリシアの学問もまたこの方法を用う。これをもって、ギリシアおよび東洋諸国に実験学の乏しきを知るべし。 しかるにひとり西洋近世に至りては、事々物々を観察経験して学問の道理を研究するをもって、実験の諸学一時 に起こる。これいわゆる帰納法によるものなり。今、心理学を研究するにもまたこの二種の方法ありて、ギリシ アおよび西洋の学者は、人の心は世間一般に信ずるごとく別に一種の実体ありと定め、その体、外物に感触して 96

(10)

通信教授心理学 種々の現象を生ずという。たとえば孟子の人の性は善なりと論ずるも、筍子の人の性は悪なりと定むるも、宋儒 の性に本然、気質の二種を分かつも、みな古人の言うところと自ら信ずるところをもととし、これに一、二の例 を加えて解釈を与うるに過ぎず。故にその論、決して帰納法によるものと称すべからず。また仏者の阿頼耶識と 名付くる一種の心体中に万物万象の種子を含蔵すと説くも、その体すでに見聞の外にありて耳目の力の及ぶとこ ろにあらざれば、もとより実験上の結果にあらざるなり。また、つぎにギリシア学者の論ずるところを見るに、 ピタゴラス氏の元子体中に物心二者の原理を具するありというも、プラトン氏の人の心内には本来感覚実験を離 れたる一種不変不滅の理想体ありて存すというも、ともに虚想推測に過ぎざるは明らかなり。近世に至りても、 ゲルマン︹ドイツ︺哲学者の心理を論ずるカント氏を始めとし、大抵みな人の心中には一種不変の心力ありて存す と信ず。イギリスにおいても往々かくのごとき論を立つるものあるを見る。しかれども今日にありては物理、化 学、生理、動物等の実験の諸学大いに興るをもって、自然の勢いその影響を心理学上に及ぼし、今日の心理学者 は大抵心象に現ずるところの事実を比較分析して、帰納上心理の規則を定むるに至る。これ全く百科理学の進歩 の結果にして、実に心理学上の一大変動というべし。これをもって、今日は心理学を解釈して心象の学問となす に至る。その他、心理研究の方法の古今異なるゆえんは、主観法と客観法の二種を用うると用いざるとにあり。 主観法とは自己一人の心象を研究する方法にして、客観法とはひろく他人外物の性質を研究して、心象の作用お よびその規則を定むる方法をいう。もしあるいは一歩進んでこれを考うれば、我人の心理を研究するに当たり、 他人の心象を験するも外物の影響を察するも、みな自己の心をもって思量するところなれば、すべてこれを主観 法に属すべき理なれども、その自己の心をもって研究する中に、おのずから主観と客観の二種の法ありて分かる 97

(11)

るを見る。別して客観法はその範囲はなはだ広きをもって、大いに研究の事実に富むを知る。すなわち、我人の 日々交接するところの男女老少の顔色容貌を見てその人の情感を知り、言語行為を見てその人の思想意志を知る もの、これ客観法なり。また我人が歴史を読み新聞を見て、古人の思想あるいは諸国のいまだ交接せざる人の性 質を知ることを得るも、またその方法の一なり。これを加うるに、この方︹法︺によれば衆人相合して生ずるとこ ろの心の影響も、一国の輿論気風の上にてみることを得べし。その他、諸動物の心性作用を観察比較して心象の 発達を知り、生理解剖等の諸学を研究して心身の関係を知るもまた、みなこの方法によるものなり。故に心理研 究に最も要するところのものは、主観法にあらずして客観法にありと知るべし。しかれども、主観法は全くその 用なきにあらず。他人の性質思想を験せんと欲せば、まず自己の心性作用を知らざるべからず。自己の心象を験 せざれば、他人の心象また知るべからざるはもちろんなり。故にもし客観法を用いんと欲せば、第一に要すると ころは主観法を用うるにあり。これを要するに、心理を研究するにひとり一法を用いて他法を欠くもの、決して 完全の結果を得べからざるなり。すなわち客観一法を取りて主観を捨つるも、主観の一法を用いて客観を欠くも、 ともに不完全の研究法というべし。しかるに古代の研究法は、主観の一法を取りて客観の考証を欠くもの多し。 あるいは客観法を用うるも、これを一、二の人に験するのみにて、古今東西衆人の上に試みることはなはだ少な し。別して諸動物の比較を取り、神経の組織を考うるがごときは、古人の全く欠くところなり。これをもって、 その方法の疎にしてその研究の狭きを知るべし。今日に至りては、研究上ただに主観客観の二法を用うるのみな らず、客観の考証ほとんど至らざるところなく、心理の研究実に精密を尽くせりというも過言にあらざるなり。 98

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通信教授心理学        第七段 哲学全系  諸君は前段論ずるところをもって、今日の心理学は・王観客観の二法を用いて心象の事実を研究する、いわゆる 心象の学問なることはすでに領会せしと信ず。故に余はこれより、心理学は哲学範囲中のいかなる地位を占有す べきやを述べんとす。今これを述ぶるにさきだちて、理学と哲学の異同を一言する、また必要なりとす。一口に これをいえば、哲学は道理上の論究にして理学は実験上の学問なれども、今日の哲学と古代の哲学とはおのずか ら性質を異にするありて、ここにこれを同一に論じ難し。けだし哲学は古今ともに道理上の論究によるはもちろ んなれども、古代の哲学は全く人の空想に基づき事実の考証を欠くもの多く、かつ形象外に事物の真理を求むる の風あり。しかるに今日の哲学は、理学の実験に基づきて形象内に真理を求むるの風あり。故に今日の学者は、 哲学を解して理学の諸説を統合する学問なりというに至る。しかれども、哲学はたとえ今日にありても、そのつ とむるところひとり形象内に真理を求むるにあらざれば、多言を費やさずして明らかなり。もしあるいはその目 的形象内の論究にとどまるときは、これを理学に属してしかるべし。もしこれを理学に属するときは、物心の実 体、宇宙の本源、天帝の在否等のごとき形象外にわたる問題は、いずれの学によりて講究すべきや。これを講究 せざれば、人その惑いを解くあたわず。その惑いを解かんと欲せば、これを講究するの学なくんばあるべからず。 これ哲学の世に起こるゆえんにして、今日にありてもこれを講究するは、その学の目的とするところなり。ただ し古今その学の異なるところあるは研究の方法にして、古代の哲学は空想上の論究にとどまり、今日の哲学は形 象内に実験するところの結果をもって形象外に論及するなり。かくのごとく、哲学中には形象内に属する部分と 形象外にわたる部分と二種あるをもって、余はその全界を分かちて形而上哲学と形而下哲学の両域となす。形而 99

(13)

上哲学は、一名純正哲学と称し形象外の真理を論究する学問にして、物体、心体、霊魂、知識、天帝、宇宙、時 間、空間、勢力等の本来なにものなるやのごとき、形而上の大問題に解釈を与うるを目的とす。これに反して形 而下哲学は、哲学上の問題を解釈するに当たりて、形象内に現ずるところの事実を研究するにとどまりて、形象 外に論及せざるものをいう。たとえば心理学の問題を解するに当たり、心象のみを研究するは形而下哲学に属し、 心体を論究するは形而上に属するなり。しかるに今日の心理学は心象の学問となるをもって、これを哲学中の形 而下の部に属するを適当なりとす。今余がこれを講述するも、心象の上に論究を施すはもちろんなりといえども、 諸君必ず心体のいかんを知らんと欲するの志あらんことを察し、心象を論究してその結局に達すれば、純正哲学 に入りて少しく心体のなにものなるやを論明せんとす。心理学のほか形而下哲学に属するもの、論理学あり、倫 理学あり、審美学あり。もし更に形而下哲学を分かちて理論学、実用学の二種となすときは、心理学は理論学に 属し、論理、倫理、審美の諸学は実用学に属するなり。理論学は事物の現象を観察して、その間に有するところ の道理規則を考定するにとどまり、実用学はその道理規則を実際に応用して、人事の上に適合せしむるものをい う。故に実用学に属するものは、人の行為思想を規制して一定の規則に従わしめんとす。これをもって、論理学 は議論の是非を制定してその誤りを正し、倫理学は人の意志行為の善悪を論じてその不正を戒むるなり。しかる に心理学にありては、この思想は正しからず、この感覚は誤れり、人の思想感覚はこの法則に従わざるべからず 等と論ずることなし。以上分類するところ、これを合するにその図左のごとし。 100

(14)

通信教授 心理学        第八段 諸学関係  さてこれより心理学と諸学との関係を述べんとするに、まず心理学と純正哲学を較するに、一は心象を研究し、 一は心体を研究する学問なるをもって、その関係の密なるは今更に論ずるを要せず。つぎに心理学と実用学の関 係を尋ぬるに、実用学は理論学に定むるところの規則を応用するものなれば、心理学は論理倫理等の学の基礎と なること明らかなり。今その理を理学の諸科について示すに、理学中にも理論、実用の二種ありて、物理、化学、 天文等はそのいわゆる理論学にして、器械学、製造学、航海学等はそのいわゆる実用学なり。この実用学中、器 械学は物理に基づき、製造学は化学に基づき、航海学は天文に基づきて起こりしは、諸君のすでに知るところな り。今、論理倫理等の諸学の心理学における、またしかり。心理学は情感、意志、知力の三種の心象を研究する 学問なるは、余がさきにすでに示すところなり。このうち智力の作用に属するものは論理学なり、意志の作用に 属するものは倫理学なり、情感の作用に属するものは審美学なり。これをもって、その諸学のおのおの心理学に 基づくを知るべし。つぎに政治、法理、宗教、教育等の諸学と心理学との関係を案ずるに、政治、法理学のごと きは倫理学と同じく、人の意志より発するところの行為の正邪良否を判定規制する学問なれば、心理学に関係あ 101

(15)

るはもちろんなり。宗教学も人の思想想像に基いするをもって、これまた心理学によらざるべからず。別して教 育学のごときは、人の智力をひらき情感を正し意志を導くものなれば、その心理学と密接の関係を有するはいう までもなきことなり。故に教育家たらんと欲するものは、格別に心理学を研究せざるべからず。しかれども、心 理学に熟達するもの必ず教育の大家となれるにはあらず。たとえば、良医は生理学病理学等に熟達せざるべから ずといえども、生理病理等に明らかなるもの必ずしも良医となるにあらず。良医となるには学問と実地と兼備せ ざるべからざるがごとし。今、諸君が世間の教育家とならんとするにも同じき道理にて、心理学にも熟達し実地 にも習練せざるべからず。つぎに百科の理学を考うるに、理学諸科の基づくところは論理学にありて、論理学は 心理学に基づくをもって、諸科みな間接に心理学と関係するものといって不可なることなし。かくのごとく諸学 ことごとく心理学に関するはいかなる理によるかというに、諸学みな心性作用に出ずるを見て知るべし。人もし この作用を有せざれば、学問の世間に起こるべき理なし。学問の起こるは全く心性の発達によるをもって、心理 学は諸学の基礎たるは当然のことなり。これをもって、余は心理学を研究するはその利益、その愉快、ともに不 可思議なりと称するなり。  以上は心理学と他学との関係を述べて、他学を修むるに心理学の要用なるゆえんを論じたれども、いまだ心理 学を修むるに他の学問の要用なるゆえんを示さざるをもって、ここにこれを二言するもあえて無用に属さざるを 知る。それ今日の学問は、いかなる学問にても大抵他の学問と関係せざるものなし。別して心理学は他学と密着 の関係を有するをもって、これを研究するものまた他の諸学を修めざるべからず。なかんずく、直接にその研究 に要するところのものは生理学、動物学なり。すなわち心理学上、心身の関係を研究するには生理学を要し、心 102

(16)

性の発達を研究するには動物学を要するなり。その他、今日は心理を解釈するに物理を用うるをもって、物理化 学等の諸科も心理研究に要するところなり。しかれども余は知る、諸君は今この心理学を聴講するに当たり、傍 らいちいち他学を研究するのいとまなきを。故に余は心理講述の際、その他学と関係を有するところあれば、簡 単にその点を他学中より引用して解釈を施し、もって諸君をして霧中に迷わざらしめんと欲するなり。諸君請う、 これを了せよ。

第二講 総論第一種類論

通信教授心理学        第一段 分類方法  余は前講において、開講の旨趣および心理学のいかなる学問なるやの大意を述べたるをもって、諸君は定めて これを領得せられしならん。故に余はこれより心理学の本論に入り、心性作用のいちいちについてその性質、事 情を究明せんと欲し、まずこれを総論、各論の二部に分かつなり。しかして総論においては心性作用一般にわた るところの事情を述べ、各論においては心性作用各種の性質を論ずべし。今ここに総論を講ずるに当たり、また これを種類、発達の二論に分かち、種類論においては心性作用の種類を分かつ方法、およびその各種の性質、自 他の関係を述べ、発達論においてはその各種の起こるゆえん、分かるるゆえんを論じて、諸君に心理の大綱要領 を示さんと欲するなり。  第一に種類論を講ずるに当たり、まず分類の方法を述べんとするに、心理学はさきにすでに示すごとく心象の 103

(17)

学問にして、心性作用の現象を論ずるにとどまるも、その現象には千差万別の種類ありて、その種類つねに相集 合して作用を呈するをもって、まずその集合作用を分析してあまたの簡単作用に分かち、その簡単作用を合類し て一、二の種類に減ずるは、心理学研究において最も要するところなり。かくして諸作用中互いに同じき性質を 有するものはこれを合して一種となし、その数種中互いに同じき性質を有するものはまたこれを合して一類とな し、その一、二の種類について論究を施さんとす。これを心性の分類法という。なお万物を分類して有機無機と なし、有機を分かちて動物植物となすがごとし。さてこの分類法に基づきて心象の種類を分かつに、古今東西一 定の規則なしといえども、二種を設くるものと三種を設くるものとの二法あり。まずシナにありては通常、心性 を分かちて性、情の二となす。朱子の言に﹁性は心の理、情は性の動なり﹂と解釈を下して、一は心の本体、一 は心の発動なりと定むるなり。また程朱は性に本然、気質の二種を分かちて、性に善悪の別あるは気質の性にし て、本然の性にあらずという。つぎにインドにありては、仏教中に説くところによるに、我人の身体は色、受、 想、行、識と称する五種の原質より成るという。そのいわゆる色は物質に与うるの名にして、受、想、行、識の 四は心性に与うるの名なり。この心性を分かちて心王、心所の二種となすことあり。これを受、想、行、識に配 するときは、識はすなわち心王にして、受、想、行はしばらく心所に属すべし。心所とは心所有法の略語にして、 心王の有するところの心象なり、心王はこれを支配するところの心体なり。この二者は性、情の二とやや異なる ところあるも、二種の分類法を設くるの意に至りてはシナと同一なり。また、つぎに西洋の分類法を考うるに、 古代と近世と大いにその法を異にして、ギリシアの大儒アリストテレス氏は智力と意志の二種を分かち、智力は 我人の思想にして、意志はその外界に対して行為挙動を現示する作用なり。故にこの二種は性、情、または心王、 104

(18)

通信教授心理学 心所の分類法とは性質上大いに異なるところあるも、またやや類するところあるを知るべし。しかしてこの法は くだりて中世より近世に伝わり、スコットランドの哲学者リード氏の、心理を論ずるに智力と行為との二種を分 かちしも、けだしこれに基づく。これによりてこれをみるに、古代および東洋は二種の分類法を用うるものと知 るべし。これに反して、近世もっぱら用うるところの方法は三種分類法なり。この法ゲルマン︹ドイツ︺に起こり カント氏これを用い、ついでイギリスに伝わりハミルトン氏これを用う。その後の心理学者、大抵みなこの法を 取る。すなわち近ごろ世間に行わるるところのベイン︹ロ巴コ︺氏、サリー︹Qn巳ぞ︺氏等の心理学を読みて知るべし。 この三種の分類法とは、余が前講第四段に述ぶるところの情感、意志、智力の三種をいうなり。しかしてこの三 種は、心象の性質の相異なりたるものの上に与うるの名にして、発達の順序の上に設けたる分類にあらず。故に もし発達の順序について考うるときは、表現的と内現的の二種、あるいは感覚と観想との二種に分かつを適当な りとす。表現的とは外物に接してただちに起こる心象に名付け、内現的とは外物に接するを待たずして内に起こ る心象に名付くるなり。しかして感覚は外物に感触して起こるところの心象なるをもって表現的に属し、観想は 外物に感触するを待たずして心内に起こるところの思想なるをもってこれを内現的に属すべし。この内現的の思 想は、感覚より生ずるところの心象心内に集合して結成せる観想にして、その初め表現的の心象よりきたるもの とす。かくのごとく表現より内現を生じ、感覚より観想を生ずる順序次第を究明するもの、これを発達論という。 しかるに余がここに論ぜんと欲するところは、心象の性質種類を挙ぐるにとどまるをもって、発達の順序はこれ を次講に譲り、本講はただ情感、智力、意志三種の性質関係を述ぶべし。 105

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       第二段 情感性質       06  以上三種分類中、まずその第一に位するところの情感の性質を述ぶるに、情感には前講第五段の心図に示すご ー とく感覚と情緒の二種ありて、感覚は五官すなわち眼、耳、鼻、舌、皮膚の五種の官能の上に起こるところの心 性作用にして、その作用を分かちて視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五種となす。すなわち視覚は眼官の上に起 こり、聴覚は耳官の上に起こり、嗅覚は鼻官の上に起こり、味覚は舌官の上に起こり、触覚は皮膚の官能の上に 起こるなり。これを総じて感覚と称し、また五感と称す。つぎに情緒はシナのいわゆる七情にして、喜、怒、憂、 擢、愛、憎、欲のごとき心性の発動をいう。これを仏教中に考うれば、その心王、心所二種の分類中の心所に属 すべし。この情緒にもこれを細分すればあまたの種類ありて、決して七情にとどまるにあらず。仏教中の心所は もとより情緒のみに与えたる名にあらずして、その中には意志智力の作用も混じたりといえども、心所の種類は 四〇ないし五〇に下らず。その数大乗と小乗と不同ありて、大乗にては五一種を分かち、小乗にては四六種を分 かつなり。その総数の三分の一を情緒に属するも、情緒の数は決して一五に下らざるなり。西洋にありてはベイ ン氏の心理書によるに、情緒を分かちて驚、愛、怒、催等の一〇種となしたるを見る。かくのごとくその種類多 端なるも、各種互いに相密接して、判然たる区域をその間に立つることはなはだ難しとす。しかれども簡単にし て知りやすきものと複雑にして知り難きもの、すなわち表現的に属するものと内現的に属するものとの別を立つ ることは、あえて難きにあらざるなり。驚、愛、怒、催等は情中の簡単なるものなり、審美道徳の情のごときは 情中の極めて複雑なるものなり。なお、そのつまびらかなるは各論に入りて知るべし。さてこの情感の一種固有 の性質は苦、楽の二事情にして、すべて心性作用上苦痛を感じ快楽を覚うるもの、これを総じて情感と称す。た

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通信教授心理学 とえば諸君が目に花を見て快を感じ、耳に音楽を聞きて楽を覚うるもの、これ情感なり。また諸君が人の病を見 て苦痛を感じ、人の死を聞きて不快を覚ゆるもの、これまた情感なり。故に情感は心性に感ずるところの苦楽な りと知るべし。しかして情感中感覚と情緒の別を立つるは、一は情感の簡単なるものにして表現的に属し、一は 複雑なるものにして内現的に属するの異同あるによる︵情緒は心内に生ずるをもって、ここにこれを内現的に属 すといえども、そのうちまたおのずから表現的に近きものと遠きものとの別あるをもって、情緒中にも表現的と 内現的との二種を分かつことありと知るべし︶。しかしてこの表現的に属する感覚は、我人の官能ただちに外物に 接して苦楽を生ずるものに名付くといえども、感覚上苦痛を生ぜずして外物を識別知覚することあり。たとえば 目に見て外物の遠近を推知し、手に触れて外物の大小を識別するがごときは、情感に属するものと称し難し。す べて識別知覚するは智力の性質なるをもって、感覚にこの性質あるときは、これを智力に属さざるべからず。故 に感覚は情感の一部分にして、また智力の起源となるものなり。        第三段智力性質  つぎに智力は事物を識別思量する力にして、一名これを思想とも観想ともいう。﹃大学﹄に、その意を誠にせん と欲するものはまずその知を致すとありて、そのいわゆる知はすなわち智力なり。この智力にもまた表現的と内 現的との二種ありて、目前に現見するところの物象を観察識了するもの、これを知覚と名付く。知覚は感覚に伴 って生ずるをもって表現的に属するなり。また目前に現ぜざるものを心中に想出することあり。これを観想また は虚想と称して内現的に属するなり。虚想とは事物特有の形質を離れて空に想する思想をいう。通常、単に思想 と称するものこれなり。この思想にまた概念、断定、推論の三種の作用あり。その作用のいかに相異なるかは次 107

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講に入りて述ぶべし。今一、二の例をあげて知覚と虚想の別を示すに、諸君が声を聞きて鐘の声なるを知り、光 を見て灯の光なるを知るは知覚の力なり。また諸君が人の動物に異なるゆえんを考え、行為の善悪を識別するが ごときは虚想の力なり。また、この智力を仏教中の心理に比考するに、広く心王、心所の二者に関するところあ るも、主として心王に属するなりと知るべし。        第四段 意志性質  つぎに、意志は心性の外界に対して発現するところの決心断行作用にして、我人の進退、挙動、歩行、説話よ り命令、指揮、選択、決断、制止等の諸作用に与うるの名なり。たとえば諸君が友人を問わんと思い歩行してそ の家を尋ぬるも、相会してその思うところを語るも、意志の作用なり。また諸君が人に物を施さんと欲して、猶 予決せざるに断然決行するに至るも、意志の作用なり。悪心を制止して善心を起こすも、忠孝ふたつながら全か らざるを知りて二者中一を選び他を捨つるもまた、みな意志の作用なり。およそ意志はわが心性の命令指揮によ りて決行するところの作用なるをもって、いわゆる随意作用のみを有する名目なれども、あるいは偶然不随意に 起こりたる作用もその中に合して論ずることあり。なんとなれば、随意と不随意とはその間判然たる分界を立つ ること難く、かつ心性発達の規則によるに、随意作用はその初め不随意作用より起こるをもって、その初期にお いては不随意作用と同一なればなり。またこれを東洋の心理学に考うるに、﹃大学﹄には、その心を正しくせんと 欲するものはまずその意を誠にするとありて、朱子これを注して、意は心の発するところなりというも、意志の 意と同一にみなすべからず。仏教中に用うるところの意は思量を義とすとあるをもって、また同一にあらず。し かして意志の作用に至りては、その分類中の心所に属するものと知るべし。 108

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’ 通信教授心理学        第五段 三種関係  以上、情感と智力と意志の性質を略弁したるをもって、これよりこの三者の関係を手短く述ぶべし。情感は外 界の現象を内に感受して起こり、智力は内界の範囲内に想出して起こり、意志は内界の決心の外界に発現して起 こるものに名付くるをもって、第一者は外界より内界に入り、第二者は内界中にあり、第三者は内界より外界に 向かうの異同あり。かくのごとく定むるももとより一通りの区別に過ぎずして、精密にこれを論ずれば、情感に も内界のみにて起こるものあり、智力にも外物を待ちて起こるものあり、意志にも外界にその作用を示さざるも のあり。故にこの三者は判然たる区域なきものと知るべし。しかれどもその性質多少相異なるところあるをもっ て、しばらくこれを三種に分かつなり。        第六段 三種抗排  三種の性質多少相異なるところあるをもって、互いに相抗排するの性あり。抗排性とは、情感強きものは智力、 意志弱く、智力盛んなるときは他力衰え、三者同時にその力をたくましくすることあたわざる性質をいう。これ を一人の心性について考うるに、情感非常に盛んなるときは、他力その作用を呈することあたわず。たとえば人 非常に怒るときは、道理を弁別することあたわず、かつ挙動を制止することあたわざるがごとし。また智力上事 物の道理を考え、深く思慮を労するときは、他力を現ずることあたわず。たとえば歩行するの際深く思慮を労す ることあるときは、知らず識らず足をとめて進まざるに至り、その目前に現ずるところのものあるも、更に感覚 せざるに至るがごとし。意志またしかり。たとえば戦場に臨み活発に進退運動するに当たりては、事物を想像し、 苦楽を感受するのいとまなきがごとし。もしまた衆人の中について案ずるに、生来情感に長ずるものと、智力に 109

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富みたるものと、意志に強きものとの別あるを見る。すなわち婦人のごときは一般に情感に長じ、学者のごとき は智力に富み、軍人のごときは意力に強きものとす。これ、一は教育習慣によりてきたるも、生来多少の差異あ るは疑いを入れざるなり。以上は一個人の上にて論ずるのみ。もしまた一国上について考うるも、この別あるを 見る。たとえば、ギリシア人は智力に長じ、ローマ人は武力に長じ、イギリス人、フランス人、アメリカ人、お のおの長ずるところ異なるがごとく、日本国内にても九州人、北国人、中国人、東京人、大阪人、おのおのその 性質気風異なるがごとし。宗教の上にもこの別あるを見る。すなわち儒教は情感の宗教なり、ヤソ教は意力の宗 教なり、仏教は智力の宗教なるがごとし。かくのごとく三種の心性互いに相抗排するの性を有して、一を長ずれ ば他を損ずるの傾向あるは、全く三種その性質を異にするによる。もって心理上の自然にこの別あるゆえんを知 るべし。        第七段 三種連接  しかれども、またあえて三種全く相離れたるものにあらず。故に三者互いに相連接するの性あり。たとえば身 体上に苦感を生ずることあるときは、智力、意力の伴って生ずるを見る。すなわち智力の作用をもってその位置 を知定し、意力の作用をもってその苦を避けんとするものこれあり。また智力上事物を観想するに、苦楽の情の 伴って生ずるあり、意志の作用のしたがって起こるあり、また意志の起こるにも情感のこれを促すあり、智力の これを導くあり。故に三者互いに相連接して、一者起これば他者したがって起こるを知るべし。これ他なし、こ の三者は一体の心性の上に生ずるところの変化なればなり。これをたとうるに、一樹木に色や形の諸性質を具す るがごとし。我人の樹木を樹木として知るは、この諸性質を具するによる。故に樹木の色を想すればその形した 110

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通信教授 心理学 がって起こり、形を想すればその色したがって生ずるなり。これをもって我人の心性作用を見るに、時々刻々一 物を感ずるにも一事を思うにも、種々の作用つねに相連接して起こり、ひとり一現をして他を現ぜざることあた わざるゆえんを知るべし。かくのごとく三者の関係密接なるをもって互いに相抗排するの性あるも、また互いに 相連接して発達するの性あり。すなわち智力に発達したるものは、情感、意志の力もしたがって発達するの性あ るをいう。当時西洋人と東洋人とをくらぶるときは、西洋人の智力、情力、意力ともに東洋人より発達するを見、 野蛮人および小児等は三力ともに発達せざるを見る。       第八段 心力分量

第3図

甲 乙  かくのごとく心性作用に抗排性と連接性の存するゆえんは、各人有す るところの心力に一定の分量あるものと推想して知るべし。たとえばこ こに甲乙両人あり、甲は六〇度の心力を有し、乙は一二〇度の心力を有 すと定め、その分量は生来具するところのものと、教育習慣によりて得 るところのものとの別ありて、ときどき多少の増減なきにあらずといえ ども、おおよそかくのごとき一定の分量ありて、甲は乙と同等なる作用 を呈することあたわざるべし。すなわち乙は甲の二倍の力を現ずること を得べきなり。もしその力を三分するときは、第3図に示すごとく乙は 四〇度、甲は二〇度となるべし。すなわち乙は智力も情感も意力も、と       m もに甲に倍するの力を有するなり。たとえその割合三者平均せざるも、

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       乙各部の力は通常甲各部より多きは当然の理なり。これをもって小児よ        りは大人、野蛮人よりは開明人は、三種の心力ともに長ずるなり。また        開明人中にも三力のともに発達せるものとせざるものの別あるゆえん、     甲        また知るべし。もし更に抗排性の起こるゆえんを考うるときは、第3図        中の甲図に掲ぐるがごとく、智力、情感、意志おのおの二〇度の力を現   図   4      ずべき割合なるに、その一部分四〇度の力を発するときは、他の部分は   第        おのおの一〇度の力に減ずべき理なり。故に智力盛んなるときは他力減        じ、他力盛んなるときは智力減ずべしとす。あるいは甲はその総体の力     乙        乙の半分に当たるも、その一部の力は時宜により、かえって乙に超ゆる        ことあり。たとえば甲の情感四〇度に達し、乙の情感三〇度に減ずると        きは、甲は乙より一〇度多き情感力を発すべき理なり。すなわち第4図 を見て知るべし。これをもって野蛮人もその一部分の力に至りては、あるいは開明人も及ばざることあり。この 規則はただに智力、情感、意志の三力に適用すべきのみならず、たとえば感覚中、五感おのおの四度の力を有す るものと定むるに、その一感を欠くものは他感の力おのおの一度を増すべき割合なり。これをもって、盲人の聴 覚または触覚の力に長ずるゆえんを知るべし。かくのごとく心性の一部に心力の集合するに至るもの、これを意 向の作用と名付く。意向とは注意のことにして、心力の一方に向かって会注するをいう。一方に会注すれば他方 の力を減じ、他方の力を減ずれば一方の力を増すべき理は、心力に一定の分量ありと定めて知るべし。今ここに 112

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通信教授 心理学 一例をあげて意向の作用を示すに、諸君が外物をみんとすれば心力目の方に向かい、聴かんとすれば耳の方に向 かい、考えんとすれば智力の方に向かうもの、これすなわち意向の作用なり。この作用によりて心力の一方に集 合するはいかにして生ずるかというに、これを促すところの事情あるや必然なり。故に余はここにその事情の一、 二をあげて、諸君に心力の増減、時宜に従って変更するゆえんを述ぶべし。        第九段 内外事情  およそ心性作用の生滅するには、その生滅すべき原因、事情なくんばあるべからず。その起こるには起こるべ き原因あり、そのやすむにはやすむべき事情あり、その発達するには発達すべき原因あり、その衰頽するには衰 頽すべき事情あり。情感の動くにも智力の発するにも意志の現ずるにも、みなおのおのその原因、事情ありてし かるなり。その原因は・王として外界の事情にあり。およそ我人の身体の周囲に接するところの外界の諸象は、こ れを環象という。環象に変化を現ずれば内界にまた変化を生ず。たとえば声色寒暖の五官に触るるときは、必ず 心性作用を促すがごとし。智力の発達も全く環象の変化に属するをもって、変化に接すること多きものはしたが って智力の量に富み、少なきものはしたがって智力の量に乏し。これ他なし、智力は経験によりて発達すればな り。また心性作用は有機組織内の変化によりて増減生滅することあり。たとえば内臓、五官、神経等に病害擾乱 を生ずるときは、必ずその影響を心性の上に及ぼし、栄養そのよろしきを得、血行その序を失わず。身体健全な るときは、心性作用もまたしたがって活発なり。かつ精神は一定の時間これを用うれば疲労するの性あるをもっ て、休息あるいは睡眠の後には別してその作用の活発なるを覚ゆ。その他、最も心性作用の発動を促すものは思 13       1 想の連合にして、思想の連合とは二、三の事物数回相伴って起こるときは、その事物の間にあまたの思想互いに

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相連合して、その中の一事または一物の前に現ずるあれば、これと連合せる事物おのずから想起する規則をいう。 たとえば諸君が向島に至るごとに桜花を見、団子坂を問うごとに菊花を見るときは、向島または団子坂のことを 聞くごとに桜花あるいは菊花を思い出し、また菊花のことを聞くごとに団子坂を思い、桜花のことを聞くごとに 向島を想するがごとし。その他、諸君が墓所を過ぐれば幽霊を思い出し、僧侶に遇えば寺院を思い出し、重箱を 見れば牡丹餅を思い、樽を見れば酒を思うも、みな思想の連合なり。これを連想の規則という。およそ一種の心 性作用起こることあれば、あまたの作用前後相接して起こるもの、みなこの規則による。以上挙ぐるがごとき規 則、事情によりて、心性作用の生滅増減をきたすこと明らかなり。意向の一方に注ぎ他方に減ずるも、この内外 の諸事情によるやまた疑いをいれざるなり。かく内外の事情を論じきたれば、身心の関係を述ぶるの必要を知る。 故に余はこれより身心の相関するゆえんを一言せんとす。        第一〇段 身心関係  人の身体と心性とは密着の関係を有することは諸君らの常に経験するところにして、今更にその証を求むるを 要せざるなり。諸君は心に快楽を感ずるときは、これを外貌に発現するを常とす。あるいはこれを顔に発して喜 び、口に発して笑い、あるいはこれを手足に発して踏舞することあるに至る。もしこれに反して苦痛を感ずると きは、顔色、言語、挙動みな苦痛の状を呈するに至る。これをもって、人の外貌を一見してその人の心中を推量 することを得るなり。ただにその心の苦楽を推量し得るのみならず、賢愚利鈍、正邪善悪までも多少推量し得る なり。学者には学者の人相あり、農夫には農夫の人相あり、狂人の顔色は一見して人みな狂人なるを知るべし。 人相見のよく人の思うところを考定し、探偵方のよく盗賊罪人を発見するも、みな身心の関係密接なるによる。 114

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在昔、藤原秀郷は平将門とともに食し、将門の飯粒を前におとし拾って食したるを見て、その性粗忽にしてとも に大事を謀るに足らざるを知り、去りて貞盛に従いたることは諸君のすでに知るところなり。これ人の挙動を見 て心性のいかんを推量したる一例なり。つぎに心性と神経の関係、別して脳髄の関係を一言すべきところなれど も、しばらくここにこれを略し、各論中の神経論に入りてその関係の要点を証明すべし。

第三講 総論第二発達論

通信教授心理学        第一段心性発達  余、前講において心性にあまたの種類あることを述べたれども、その種類の多少は発達の前後によりて不同あ り。幼少のときにありてはその種類少なく、長ずるに及びその数の増加するは、諸君もすでに知るところならん。 たとえば今一個人の生長について考うるに、情緒は大数一〇種ありと定むるも、幼児にありてはわずかに喜怒の 二種を有するに過ぎず。なおその初期にさかのぼれば、ただ苦楽の感覚を有するのみにて、別に情緒と称すべき ほどの作用あるを見ず。別して道理を弁別すべき智力および行為を指定すべき意力のごときは、それもとより有 せざるところなり。これを要するに、発達の初期にありては情感、智力、意志各種中の諸作用いまだ現ぜざるの みならず、三大種の作用すらいまだ判然相分かれずして、ただ感覚、運動の二作用あるを見るのみ。ようやく発 達して始めて三種の作用相分かれ、いよいよ生長して始めて各種中あまたの諸作用を分かつに至るなり。つぎに       m これを人種間に考うるに、野蛮人種のごときは感覚、運動の外に極めて下等なる情緒を有するに過ぎずして、開

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明人種にあらざれば高等の情感、智力、意志を有せざるを見る。かくのごとく心性作用は発達の前後によりて不 同あるをもって、今、諸君が心性のなんたるを知らんと欲せば、その発達の順序次第を知らざるべからず。余も またこれを論ぜざれば、諸君に智力はなによりきたり、情感、意志はなにより生ずるかを示すあたわず。これ余 がここに種類論につぎて発達論を述ぶるゆえんなり。種類論は、すでに発達したる心性の上に種類を分かちてそ の性質関係を論ずるものにして、発達論はその種類のいまだ分かれざる初期にさかのぼりて、心性発達の順序次 第を考うるものなり。これをたとうるに、動物学者がその学問を研究するに当たりて、一個の動物造構機能を実 究する外に、その母胎より次第に発育する順序を捜索するを要するがごとく、今心理学を論究するにも、またこ の二者の方法を要するなり。しかるに古代および東洋の心理学者は心性の種類を論ずるのみにて、その発達の順 序を考うることはなはだまれなり。これ心理研究の一大欠点というべし。しかして今日にありて発達上心性のい かんを考索するに至りしは、心理研究法の一大進歩を徴するに足る。  余はこれより心性各種の発達を述ぶるにさきだちて、心力一般の発達を略明すべし。そもそも人の心性はその 身体とともに発達するはもちろんにして、その順序あたかも一個の種子より草木の次第に生長するがごとく、種 子の開発して茎幹枝葉を生ずるは、心性の原体開発して情感、智力、意志を生ずるに比すべし。もし人あり、そ の原体はいずれよりきたるかと問わば、これに答えてその体父母よりきたるというべしといえども、更にその父 母の原体はいずれよりきたると問わば、これに答うるに天帝創造の説をもってせざれば、生物進化の理をもって するより外なし。生物進化の理をもってこれを推すに、心性は物質より成り、心力は物力よりきたるということ を得べし。なんとなれば、人類は動物より進化し、動植︹物︺は無機体より成来すればなり。しかして動植︹物︺の 116

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通信教授心理学 無機より成来するゆえんは、地球進化の次第を見て知るべし。地球はその形成の初期にありては非常の高熱を有 せしをもって、今日その表面に現ずるところの禽獣草木、金石水土は当時みな蒸発あるいは溶解して存し、いま だ固体を結ぶに至らざりしは必然なり。地熱ようやく減じて流体固体の諸形を現ずるも、当時の熱度いまだ禽獣 草木のごとき生物を存するに至らず。更に減じて始めて生物を現ずるも、その初めにありては極めて下等の動植 物を生存するに過ぎず、下等動物いよいよ進化して高等動物を現ずるも、いまだ人類を見るに至らず、高等動物 更に進化して始めて人類を地球上に現ずるに至るという。これを要するに、その意、今日の人類は動植物より分 化し、当時の動植物は無機物質より成来すというにあり。しかしてその分化の順序は地層の遺痕を見て知るべし という。この規則に従って心性の発達を考うるに、今日の人は情感、意志、智力三種の作用を有するも、動物界 に入りてこれをみればわずかに感覚、運動を有するのみにて、情緒、智力等と称すべき作用を有するを見ず。く だりて植物界に入れば、感覚、運動すら全く有せざるもののごとし。更にくだりて金石水土のごとき無機界に入 れば、生長力すら全く有せざるなり。これによりてこれをみるに、人の心性はその初め全くこれを有せざるもの より進化開発してきたるゆえん、やや知るべし。たとえその初め無機物よりきたらずとするも、極めて不十分な る感覚、運動を有するものよりきたるの理、また大いに信ずるに足る。けだしその不十分なる感覚は発達して情 感となり、その運動は発達して意志となり、この二者の間に生ずるものは智力にして、その体また感覚より発達 するなり。かつ方今の学説によるに、一個人の発達の順序は、毎次動物全体の進化の階級を経過するなりという。 その意、人の母胎より次第に生長するは、最下等動物の次第に階級を追いて高等に進化する同一の順序を経過す       17       1 るというにあり。果たしてしからば、人の心性の諸作用は、その初め極めて不十分なる感覚、運動より発達する

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ゆえんまた知るべし。その他、今日の哲学者中には唯物論者と称する一派ありて、物理を離れて別に心理あるに あらず、物力を離れて別に心力あるにあらずという。しかれども余がここに論ぜんと欲するものは、人類は動物 よりきたり、有機は無機よりきたるというの点にあらず、また物質の外に心性なく、物力の外に心力なしという の点にあらずして、ただ心性は身体とともに発達するをもって、その初期にありては極めて簡単不十全なるもの、 経験習慣によりて次第に発達分化し、ついにあまたの作用を現ずるに至るというの点にあり。これをここに発達 論と名付くるなり。        第二段 智力発達  これより心性各種の発達を述べんとするにさきだつ、智力の発達を論ずるを必要なりとす。智力は心性の内部 に位し、諸作用の中心となるのみならず、人類の動物に異なり、開明人の野蛮人に異なり、大人の小児に異なる ゆえんのもの、主としてこの方の発達せるとせざるとによる。その力発達せるものは情感、意志もしたがって発 達し、その力発達せざるものは諸作用またしたがって発達せざるなり。もし人に向かって人類と動物の区別を問 わば、人類は智力を有し、動物はこれを有せずといわんのみ。心理学中智力を研究するの必要なる、推して知る べし。故に余ももっぱら智力の発達を論じて、その順序について各論を起こさんと欲するなり。今その順序を案 ずるに、智力中に表現内現の別あり、内現中に実想虚想の別あり。しかして虚想は実想よりきたり、内現は表現 よりきたる。これを発達の次第という。その図左のごとし。 118

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通信教授心理学

第5図

  智

  カ

表現霧

 すなわち表現に感覚、        実想に現想、 これを発達の次第に配するときは左図のごとし。 第一次 第二次 第三次 第四次 第五次 第六次 第七次

推断概構現知感

理定念想想覚覚

構想の二種あり、虚想に概念、断定、推理の三種あり。 すなわち智力の発達は感覚に始まり推理に終わる。しかるにここに一言を加えざるを得ざるは、感覚を智力の 119

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一部となすにあり。さきに掲ぐるところの分類法によるに、感覚は情感の一部に属すべしといえども、第二講第 二段の終わりに示すごとく、我人感覚上外物を識別するの作用あるをもって、感覚は知覚を構成する要具なり。 故に智力の発達を論ずるには、まず感覚より始めざるべからず。それ感覚は外物の眼、耳、鼻、舌、皮膚の五官 の上に触れて直接に起こすところの簡単なる心性作用にして、その作用はただ目に色を感じ、耳に声を感じ、手 に形を感じ、鼻舌に香味を感ずるにとどまり、その諸性質を合覚して一体の物質を識了するにあらず。よくその 性質を合覚して、一物を一物として識了するは知覚の作用なり。故に知覚は心性作用のやや複雑なるものなり。 たとえばここに一個のリンゴあらんに、目に見てその色を感じ、手に触れてその形を感じ、口に味わってその味 を感ずるは感覚にして、その色、その形、その味を合して、これを一個のリンゴなりと識了するは知覚なり。故 に知るべし、知覚は諸感覚相合して生ずるところの結果なるを。これをたとうるに、木石相集合して一宇を構成 するがごとく、その木石は感覚上きたるところの外物の性質に比すべく、これを集合して一宇を構成するは知覚 の作用に比すべし。しかしてこの感覚と知覚との二者は、ともにただちに外界の現象に接して起こるをもって、 これをここに表現的に属するなり。つぎに内現的の発達を考うるに、その第一に位する再現すなわち現想は、目 前に現ぜざるものを想像上に現ずる作用なるをもって、これを内現に属するなり。たとえば他邦の友人を想出し、 故郷の山河を想見するの類これなり。かくのごときは、前時に外界に現見したるものの再び心内に現出するもの なるをもって、これを再現と名付くるなり、また再生とも称することあり。しかしてその心内に現出するところ のもの、それ以前一回または数回感覚上知覚したるものに外ならざるをもって、その体知覚よりきたるものとす るなり。これをたとうるに、再現は写真中の影像のごとく、外物の目前に現ぜざるときによくその形を示すとい 120

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通信教授 心理学 えども、その形の初めて生ずるは前すでに外物に接したることあればなり。つぎに構想とは、いまだ一回もただ ちにその形に接せざる外物の現象を想像上構成する作用をいう。故にこれを構想と名付く。たとえば我人数百年 前の古人を想起し、いまだ経歴せざる土地を想見するがごとし。すなわち諸君が今日にありて釈迦や孔子の状貌 を想出し、地獄極楽の風景を想起するがごとし。我人の夢中に現ずるところのもの、多くはこの構想の作用によ る。その作用の現想に異なるは、一はいまだ経験触知せざるものを構成し、一はすでに経験触知したるものを再 現するの不同あるによる。しかして第一者の第二者より発達してきたるというゆえんは、構想の諸部分はみな現 想の影像より成るを見て知るべし。たとえば釈迦や孔子を想見するときは、自己の経験中、前に見聞したる人の 顔色容貌相合して一個の異人を生ずるなり︵もしその人、前にすでに釈迦、孔子の木像または画像を現見してそ の像を想出するときは、これを再現に属すべし。しかるに今はその像を現見せざるものと仮定して論ずるなり︶。 すなわち甲某の鼻と乙某の目と丙某の手足等、相合して孔釈の像を構起するなり。地獄極楽の影像を想見するも またこの理による。故に構想は現想より成るものと知るべし。つぎに虚想すなわち思想または観想は、一個一個 の事物固有の性質を離れて、事物一般にわたるところの無形の念慮に与うるの名なり。これに対して、一個一個 の事物を想出するにとどまるところの現想および構想は実想と名付くるなり。虚想には概念、断定、推理の三種 ありて、概念とは事物の一種または一類全体にわたる思想をいう。たとえば単に人と称するときは、我人の心中 に甲某、乙某を離れて人全体にわたる思想を起こし、単に山と称するときは、富士山でもなく筑波山でもなく山 一般にわたる思想を生じ、花と呼ぶもまたしかり。かくのごとく事物総体にわたる思想を概念と名付くるなり。 この概念は実想の発達より生ずるは、理すでに明らかなりと信ず。なんとなれば、いまだ一個一個の事物の実想 121

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を有せざるときに、その全体にわたる虚想を有すべき理なければなり。つぎに断定は二個以上の概念相合して生 ずるところの思想作用にして、なにはなになり、これはこれなりと想定する作用をいう。たとえば人は死すべき ものなり、山は動かざるものなり、花は美なるものなりというがごとし。つぎに推理は断定相合して生ずるとこ ろの論理作用にして、一断定より次第に推論して他の断定を結ぶものをいう。たとえば人はみな死すべきものな り、しかるに甲某は人なり、故に甲某は死すべきものなりと論定するがごとし。この論定は論理法のいわゆる推 測式なりと知るべし。以上述ぶるところ、これを要するに、人の智力の発達は簡単より複雑に移り、表現より内 現に入り、実想より虚想に進むものなり。その順序、小児の発育を見て知るべし。その初期にありては表現の諸 覚を有するのみにていまだ内現の諸想を有せず、やや長じて実想の作用を生ずるもいまだ虚想の作用を発せず、 いよいよ長じて始めて概念、断定、推理の諸作用を兼備するに至るなり。すでに今日にありては余輩も諸君もと もにこの虚想作用を有し、別して推理の力を有するをもって、時々刻々自ら思慮するにも人に対して説話するに も、一言一思みな推理の形を成すを見る。しかるに獣類に至りては、その高等に位するもの表現の諸覚を有する のみならず、内現の諸想も全く有せざるにあらずといえども、推理の力に至りては人類特有の智力と称するも不 可なることなし。その特有の智力は人獣共有の感覚より順序を追うて発達しきたるゆえんを示すもの、これを智 力発達の次第という。そのつまびらかなるは各論に入りて述ぶべし。        第三段 発達外因  この発達の順序によるに、智力はその初め外界の経験よりきたること明らかなり。我人日夜外界の現象すなわ ち環象に接して、五官の上に感触するもの次第に心内に積集して智力の構造を組成するなり。これをたとうるに、 122

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