一 はじめに 『 落 窪 物 語 』 は お も し ろ い ( 1 ) 。 個 性 的 な 登 場 人 物 や 緻 密 に 練 ら れ た 物 語 構 成、 テ ン ポ の よ い 物 語 進 行 な ど、 『 落 窪 物 語 』 を お も し ろ く している要素は数多くあるだろう。 数多くある要素の中から、本稿では「切り替え」に着目してみた い。実は『落窪物語』は、様々なものを切り替えながら物語を進行 させているのである。切り替えることによって、物語はどのように おもしろくなっているのだろうか。 二 場面の切り替え 一般的に、物語は場面を切り替えながら進行していく。最初から 最後まで同じ場面で進行していく物語は、あまりないだろう。当然 ながら『落窪物語』も場面を切り替えながら進行していくが、特徴 的な場面の切り替え方がある。その例として、落窪の姫君(以下、 呼称を「姫君」に統一する)と道頼の結婚三日目の夜を見てみよう。 結婚三日目の夜の段は、大雨のために一度は姫君のもとへ向かう ことを断念した道頼が、あこきの手紙を読んだことで結婚三日目で あることを再認識し、盗人に間違えられるなどの災難を乗り越えな がら、帯刀とともに姫君のもとへ向かい対面する、というように描 か れ て い る。 本 文 で は、 「 暗 う な る ま ま に、 雨、 い と あ や に く に 」 ( 上 六 二 頁 ) か ら「 「 今 宵 は、 身 を 知 る な ら ば、 い と か ば か り に こ そ」とて臥し給ひぬ」 (上六九頁)までが該当箇所となる。 この結婚三日目の夜の段は複数の場面から成り立っているが、そ れらは道頼と帯刀に着目する場面(Aとする)と、姫君とあこきに 着目する場面(Bとする)とに分けられる。ただし、次に挙げる⑦ のようにAとBが混在し、分けられない場面もある。 さて、結婚三日目の夜の段を、それぞれAかBに振り分けてみよ う。 ① 道頼は大雨のため姫君訪問を断念、姫君へ手紙を書く。帯刀も あ こ き へ 手 紙 を 書 く ( 上 六 二 頁 「 暗 う な る ま ま に 、」 ~ 上 六 三 頁「と言へり。 」)─A ② あこき、手紙を読んで激怒する。あこきと姫君、それぞれ返事 を書く(上六三頁「かかれば、 」~「とあり。 」)─B
『落窪物語』のおもしろさ
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「切り替え」から見る『落窪物語』
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鹿
野
谷
有
希
成蹊國文 第五十三号 (2020) ③ 返 事 を 読 ん だ 道 頼 と 帯 刀 、 雨 の 中 を 姫 君 と あ こ き の い る 中 納 言 邸へ向かう(上六四頁「持て参りたる、 」~「傘求めに歩く。 」) ─A ④ 姫 君 と あ こ き 、 雨 が 降 る の を 嘆 く ( 上 六 五 頁 「 あ こ き 、」 ~ 「添ひ臥し給へり。 」)─B ⑤ 道 頼 は 道 中 、 盗 人 に 間 違 え ら れ る 。 そ の 後 、 中 納 言 邸 に 到 着 す る( 上 六 五 頁「 我 は、 」 ~ 上 六 八 頁「 忍 び や か に 叩 い 給 ふ。 」) ─A ⑥ 姫 君 が 泣 い て い る と 、 御 格 子 の 鳴 る 音 が 聞 こ え る ( 上 六 八 頁 「女君は、 」~「引き上げたれば、 」)─B ⑦ 姫 君 と 道 頼 、 対 面 す る ( 上 六 八 頁 「 入 り お は し た る さ ま 、」 ~ 上六九頁「とて臥し給ひぬ。 」)─AB 結婚三日目の夜という一つの段の中で、細かく場面転換が行われて いるのだが、なぜ、細かく場面転換が行われているのだろうか。ま た、場面転換を行うことで、物語をどのように演出することができ るのだろうか。 読者は物語を読み進めていくうちに、物語に関する様々な情報を 入手することになる。その際、場面が切り替わることで、登場人物 が知らない情報を読者は知ることができるのである。結婚三日目の 夜の段であれば、②から③へと切り替わることで、道頼たちが姫君 のもとへ向かうという情報を、読者は知ることになる。しかし、④ の 冒 頭 で「 あ こ き、 か く 出 で 立 ち 給 ふ も 知 ら で 」( 上 六 五 頁 ) と あ るように、道頼たちが姫君のもとへ向かおうとしていることを、姫 君とあこきは知らないのである。道頼たちが姫君のもとへ向かって いることを知る読者は、道頼と姫君が喜びの再会を果たす未来を想 像しながら
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あたかも、姫君たちにサプライズを仕掛けたような 感覚になりながら─
物語を読み進めるのである。 しかしながら、物語は読者が安心して読み進めることを許さない。 ⑤で道頼たちへ、盗人に間違えられるというハプニングを仕掛ける のである。盗人に間違えられたことで汚物まみれになってしまった 道頼は、 「あはれ、これより帰りなむ。糞つきにたり。いと臭くて、 行 き た ら ば、 な か な か 疎 ま れ な む 」( 上 六 七 頁 ) と、 自 邸 に 帰 る こ と を 帯 刀 へ 提 案 す る。 こ こ で 読 者 は、 「 も し か し た ら、 道 頼 は 姫 君 のもとを訪れないかもしれない」との危機感を覚えるだろう。結局、 道頼は帯刀の助言を受け入れて姫君のもとを訪れ、無事に結婚三日 目の夜を迎えることになる。 道頼たちが盗人に間違えられるというハプニングもまた、姫君と あこきは知らないが、読者は知っている情報である。なぜ、このハ プニングが必要だったのだろうか。ハプニングを乗り越えてまで姫 君のもとへ向かった、それほどに道頼は姫君を愛しているのだと、 強調したかった側面はあるだろう。実際に帯刀は、三日夜の道中の 様 子 を あ こ き に 語 っ た 後、 「 か ば か り の 御 心 ざ し は、 今 も 昔 も あ ら じ。たぐひなしとは思ひ聞こえ給ふや」 (上七一頁)と述べている。 しかしそれだけではなく、読者にサプライズを仕掛けるためとも考 えられないだろうか。先ほど、道頼たちが姫君のもとへ向かってい ることを知る読者は、あたかも姫君たちへサプライズを仕掛けたような感覚になりながら物語を読み進めると述べたが、そのような読 者へ逆にサプライズを仕掛ける構成となっている。サプライズを仕 掛けられた読者は、話の展開が気になり、読み進めることを止めら れ な く な る だ ろ う。 こ の よ う に 読 者 を 夢 中 に さ せ る 技 法 が、 『 落 窪 物語』には使われているのである。 さて、場面の切り替え方について、もう少し詳しく見ていこう。 まずは、①から②への切り替えである。 (道 頼 ノ 手 紙 ) 「 い つ し か 参 り 来 む と て し つ る ほ ど に 、 か う わ りなかめればなむ。心の罪にあらねど。疎かに思ほすな」 とて、帯刀も、 (帯刀ノ手紙) 「 た だ 今 参 ら む 。 君 お は し ま さ む と し つ る ほ ど に 、 かかる雨なれば、くちをしと嘆かせ給ふ」 と言へり 。 か か れ ば 、 ( あ こ き ハ ) い み じ う く ち を し と 思 ひ て 、 帯 刀 が 返 り言に、 (あ こ き ノ 手 紙 ) 「 い で や 、『 降 る と も 』 と い ふ 言 も あ る を … … (省略) 」 と書けり。 (上六二~六三頁) ここでは波線部「かかれば」によって、①から②へと場面が転換し ている。 一方で②から③への切り替えは、 君 (=姫君) の御返りには、ただ、 世にふるをうき身と思ふわが袖の濡れ始めける宵の雨かな とあり。 (姫 君 ノ 手 紙 ヲ ) 持 て 参 り た る、 戌 の 時 も 過 ぎ ぬ べ し 。 火 の も と に て 見 給 ひ て、 君 ( = 道 頼 ) も、 い と あ は れ と 思 ほ し た り。 ( 上 六三~六四頁) と い う よ う に、 傍 線 部「 持 て 参 り た る、 戌 の 時 も 過 ぎ ぬ べ し 」 で もって場面を転換している。 ①から②への切り替えと、②から③への切り替えは、どちらも切 り替えの際に手紙が使われていることが共通している。手紙は離れ た場所にいる者同士のコミュニケーションに利用されるものだから、 場面の切り替えに適した材料だといえるだろう。また手紙は、差出 人が書いてから相手に届けられるまでに、時間がかかるものである。 これらの点を考慮すれば、場面の切り替えに手紙を用いる場合、② から③への切り替え方が自然だといえるだろう。時間の経過をはっ きり表明することで、場面と場面が完全に断絶していることを表し ている。 ところが①から②への切り替えでは、そのような断絶が感じられ ない。むしろ場面の転換がスムースで、同じひとつの場面のように も思われるのである。この場面転換を映像化するならば、初めに道 頼 と 帯 刀 が 手 紙 を 書 い て い る 様 子 を 映 し、 そ の 後 に 帯 刀 の 手 紙 を アップで映す。手紙からカメラが引くと、手紙を手にして怒りに震 えているあこきが映し出される、というような感じだろうか。 ① と ② の 場 面 は「 か か れ ば 」 だ け で 繋 が れ て お り、 よ っ て、 ス ムースであるだけではなく、テンポのある場面転換となっている。
成蹊國文 第五十三号 (2020) 先ほど、同じひとつの場面のようにも思われると述べたが、ひとつ の場面として捉えると、あたかも道頼と帯刀、あこきと姫君の四人 が同じ空間にいて、会話をしているかのような光景が浮かび上がる の で あ る。 道 頼 と 帯 刀 の 手 紙 が「 と 書 け り 」 で は な く「 と 言 へ り 」 ( 二 重 傍 線 部 ) で 締 め ら れ て い る こ と も、 会 話 の よ う に 感 じ さ せ る 一因となっている。本節の初めで、①はA、②はBに振り分けたが、 ①②はABが混在する一場面とみなすこともできるのかもしれない。 さて、②から③への切り替え方法には、どのような意味があるの だろうか。先に述べたとおり、時間の経過をはっきりと表すことで、 場面と場面を完全に断絶させているが、これは物語が動き出すにあ たり、場面の雰囲気を少し変えるためではないか。①から②への切 り替えの時は、道頼が雨で行き煩っており、道頼の動きも物語も停 滞していた。ただし決して澱んだ雰囲気ではなく、スムースでテン ポのある描写によって、むしろ軽やかな雰囲気になっている。しか しながら③への切り替え後は、道頼が姫君のもとへ向かうという大 きな決断をするに相応しく、場面も少し重厚な雰囲気をまとってい る。物語が大きな転換期を迎えるため、場面と場面を完全に断絶し ているのだと考えられる。以上のように『落窪物語』は、単に場面 を切り替えるだけではなく、切り替え方を工夫することで、物語を 魅力的なものにしているのである。 三 会話文と地の文の切り替え 『 落 窪 物 語 』 は、 会 話 や 手 紙 な ど の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 手 段 を 巧 み に 使 っ て 物 語 を 進 行 さ せ て い る 作 品 で あ る。 『 落 窪 物 語 』 の 手 紙 にどのような特徴があり、その特徴が物語にどのような影響を与え ているかに関しては、あこきの手紙を例として既に述べてい る ( 2 ) 。そ れ で は、 会 話 は ど う で あ ろ う か。 『 落 窪 物 語 』 に は、 会 話 の 場 面 が たいへん多い。そして単に多いだけではなく、ある特徴が見られる のである。一例として、次の本文を見てみよう。道頼が初めて姫君 に手紙を贈る直前の、道頼と帯刀の会話の場面である。 帯 刀、 大 将 殿 に 参 り た れ ば、 ( 道 頼 )「 い か に ぞ、 か の こ と は 」、 ( 帯 刀 ) 「 言 ひ 侍 り し か ば、 し か し か な む 申 す。 ま こ と に い と 遥 けげなり。かやうの筋は、親ある人は、それこそ、ともかくも 急げ。おとども、北の方に取り込められて、よもし給はじ」と 申 せ ば、 ( 道 頼 ) 「 さ れ ば こ そ、 『 入 れ に 入 れ よ 』 と は。 婿 取 ら るるも、いとはしたなき心地すべし。らうたう、なほおぼえば、 ここに迎へてむ」と、 「さらずは、 『あなかま』とてもやみなむ か し 」 と の た ま へ ば、 ( 帯 刀 ) 「 そ の ほ ど の 御 定 め、 よ く 承 り て な む。 仕 う ま つ る べ か な り 」 と 言 へ ば、 少 将、 「 見 て こ そ は 定 むべかなれ。そらには、いかでかは。まめやかには、なほたば かれ。よに、ふとは忘れじ」とのたまへば、帯刀、 「『ふと』ぞ、 あぢきなき文字ななる」と申せば、君、うち笑ひ給ひて、 「『長 く』と言はむとしつるを、言ひ違へられぬるぞや」などうち笑 ひ給ひて(上二二~二三頁) ここから分かる『落窪物語』の会話の特徴は、 ・一つの場面において、会話の応酬が多い
・ 「( 会 話 文 ) と 言 へ ば ( 会 話 文 )」 、 あ る い は 何 も 挟 ま ず に 次 の 会話へ進むなど、会話と会話の間の地の文が短い である。この特徴は、物語全体でしばしば見られる。一つの場面で 会話のやりとりを多くし、かつ、会話と会話の間の地の文を短くす ることでテンポが生まれ、物語世界の中に入り込んだかのような感 覚へと、読者を誘うのである。 さて、道頼が面白の駒のもとを訪れ、会話する場面を見てみよう。 面白の駒の初登場場面である。 少 将 ( = 道 頼 ) 、「 な ど か、 か し こ に も、 さ ら に お は せ ぬ 」 と の た ま へ ば、 少 輔 ( = 面 白 の 駒 ) の い ら へ、 「 人 の、 ほ ほ と 笑 へ ば、 恥 づ か し う て 」 と 言 へ ば、 ( 道 頼 ) 「 疎 き 所 な ら ば こ そ、 恥 づ か し か ら め 」 と て、 ( 道 頼 ) 「 君 は、 妻 は、 な ど て 今 ま で 持 給 へ ら ぬぞ。やまめ臥ししては、いと苦しきものを」とのたまへば、 少 輔 の い ら へ は、 「 逢 は す る 人 の な き う ち に。 一 人 臥 し て 侍 る も、 さ ら に 苦 し く も 侍 ら ず 」 と 言 へ ば、 少 将、 「 さ は、 苦 し か らずとて、妻も設けでやみ給ひなむや」 。少輔、 「逢はする人や 侍るとて待ち侍るなり」 。少将、 「いで、まろ逢はせ奉らむ。い とよき人あり」とのたまふに、 さすがに笑みたる顔、色は雪の 白さにて、首いと長うて、顔つきただ駒のやうに、鼻のいらら ぎたること限りなし。いうといななきて、引き離れて往ぬべき 顔したり。向かひ居たらむ人は、げに、笑はではえあるまじ。 (面白の駒) 「いとうれしきことに侍るなり。誰が娘ぞ」 と言へば、 少 将、 「 源 中 納 言 の 四 の 君 な り。 ま ろ に 逢 は せ む と 言 へ ど も、 え思ひ捨つまじき人の侍れば、君に譲り聞こえむと思ひて。明 後日となむ定めたる。さる用意し給へ」 。少輔のいらへ、 「本意 なしとて笑ひもこそすれ」と言へば、少将、笑ふがあるまじき こ と と 思 ひ け る こ そ、 あ は れ に を か し け れ ど、 つ れ な く て、 (道頼) 「よも笑はじ。のたまはむやうは、 『おのれなむ、 忍びて、 この秋より通ふを、少将取り給ふと聞きて、おのれに離れぬ人 なれば、 「かうかうなり。いかで得給ふぞ」と恨みしかば、 「い とことわりなり。さらば、不用にこそは。かの親たち知り給は ねば、まろならぬ人も取り給ひてむも、をこなり。このたび、 あらはれ給ひね」と言ひしかばなむ』といらへ給へ。さらば、 なでふことか言はむ。よも笑はじ。さておはし通ひなば、人も お ぼ え あ り て 思 ひ な む 」 と 言 へ ば、 ( 面 白 の 駒 )「 さ な な り 」 と う な づ き 居 た り。 ( 道 頼 )「 さ ら ば、 明 後 日、 夜 う ち 更 か し て お は せ 」 と言ひ置き給ひて、出で給ひぬ。 (上一六四~一六六頁) この場面でも、先ほど触れた会話の特徴が見られるが、それとは異 なる部分もある。傍線部を見てほしい。語り手が語る、比較的長い 文章が挿入されているのである。先ほど、会話と会話の間の地の文 を短くすることでテンポが生まれると述べた。そうであるならば、 傍線部のように長い文章を挿入してしまうと、この場面のテンポを 崩してしまいかねない。それにも関らず、なぜ傍線部の文章が挿入 されているのだろうか。 傍 線 部「 さ す が に ……」 を 詳 し く 見 て い こ う。 「 笑 み た る 顔、 色 は雪の白さにて、首いと長うて、顔つきただ駒のやうに、鼻のいら
成蹊國文 第五十三号 (2020) らぎたること限りなし」と、面白の駒の容姿について述べている。 面白の駒に関する情報は、道頼との対面直前で既に「僻み痴れたる 者に思はれて、治部卿なるが、交じらふこともなき人の太郎、兵部 少 輔 と い ふ 人 あ り け り 」( 上 一 六 三 頁 ) と 述 べ ら れ て い る。 容 姿 に 関する説明がこの直後に続けられても、何ら違和感はない。しかし ながら、そのようなことはせず、あえて会話と会話の間に挟んでい るのである。 物語の読者は会話文のやりとりが続くと、物語世界の中に入って 登場人物を近くから眺めている、あるいは、登場人物に寄り添い、 さらには同一化しているような感覚を持つ。だから、会話と会話の 間に容姿に関する情報が挟み込まれると、文字による情報がうまく 映像化され、読者は容姿をイメージしやすくなる。つまり、読者自 身があたかも面白の駒と対面して、彼をまじまじと見つめているよ う な 感 覚 に な り、 「 笑 み た る 顔 ……」 と い う 面 白 の 駒 の 容 姿 が、 よ り鮮明に思い描けるようになるのである。しかも、これまで物語内 で面白の駒の容姿に一切触れなかったことにより、読者に与える衝 撃を大きくしている。 この場面では、会話と会話の間に比較的長い文章が挿入されても、 テンポが崩されていない。むしろ、読者を物語世界の中へいっそう 引き込むことに成功している。それは、容姿に関する説明だからで あろう。容姿という視覚的な情報だからこそ、効果的なのである。 面白の駒は、物語の中でもっとも特徴的な容姿をしている人物であ る。そのために、面白の駒が登場する場面において、このような技 法が使われたのではないだろうか。 四 物語世界の切り替え ここでもう一つ、面白の駒に関する場面を見てみよう。物語の終 盤、かつての妻であった四の君が、新しい夫である帥の赴任先、大 宰府へ出立する直前のことである。面白の駒は「黄金して透箱を衣 箱 の 大 き さ に 結 べ る に、 朽 葉 の 薄 物 の 包 み に 包 み て 入 れ 」( 下 一 四 四頁)た物を四の君へ贈る。その中身は、 「薄物、海の色に染めて、 敷きには敷きたり。黄金の洲浜、中にあり。沈の舟ども浮けて、島 に木ども多く植ゑて、洲崎、いとをかし。物や書きたると見れば、 白 き 色 紙 に、 い と 小 さ く て、 舟 の 漕 ぎ た る 所 に 押 し つ け た り 」( 下 一四四頁)というものであった。色紙には、 「今はとて島漕ぎ離れ行く舟に領布振る袖を見るぞ悲しき 聞こゆるからに、人悪し。 よしよし 。聞こえじ」 (下一四五頁) というように、和歌と言葉が書かれている。 この手紙を付ける品物は、語り手が「面白の駒は思ひ寄らざりけ れど、妹どもの心ありければ、子などあればと思ひて、ただにやは と て し た る な り け り 」( 下 一 四 五 頁 ) と 述 べ て い る と お り、 面 白 の 駒の妹たちが用意したものだろう。それでは、和歌はどうだろうか。 例えば『新編日本古典文学全集』には「面白の駒の妹が代作したの であろう」とあ る ( 3 ) 。ここで、和歌の後の傍線部「よしよし」に注目 し て み た い。 『 落 窪 物 語 』 で「 よ し よ し 」 は、 当 該 箇 所 の ほ か 四 箇 所で使われてい る ( 4 ) 。いずれも会話の中で、しかも親子や親戚という
親しい間柄で使われていることから、この「よしよし」も面白の駒 の妹ではなく、かつての夫であった面白の駒の言葉だと捉えたほう が自然である。よって、和歌も面白の駒自身が詠んだ可能性が高い だろう。物語中で面白の駒と四の君の会話の場面は一つもないが、 二人の会話での面白の駒の口調が少し窺えそうである。 さて、この手紙を付ける品物について考察してみたい。先述した とおり、当該場面では手紙を付ける品物の様子が詳細に語られてい る。平安時代の手紙は、便箋や、手紙を付ける品物(季節の植物の 折枝が多かった)に工夫を凝らしていた。そのため物語の中でも、 手紙に関する様々な要素を詳細に述べることがしばしばある。例え ば『源氏物語』 「葵」巻では、 ( 源 氏 ガ ) 深 き 秋 の あ は れ ま さ り ゆ く 風 の 音 身 に し み け る か な、 とならはぬ御独り寝に、明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわ たれるに、菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文つけて、 さし置きて往にけり。いまめかしうも、とて見たまへば、御息 所の御手なり。 「聞こえぬほどは思し知るらむや。 人 の 世 を あ は れ と 聞 く も 露 け き に お く る る 袖 を 思 ひ こ そ や れ ただ今の空に思ひたまへあまりてなむ」とあり。常よりも優に も書いたまへるかな、とさすがに置きがたう見たまふものから、 つれなの御とぶらひやと心憂し。 というよう に ( 5 ) 、便箋や折枝、筆跡などの様子が詳しく描写されてい る。 こ の 場 面 だ け に 限 ら ず、 『 源 氏 物 語 』 で は 手 紙 に 関 す る 情 報 が 詳述されていることが多い。 ところが『落窪物語』は、手紙に関する様々な要素について、ほ とんど言及していない。道頼の求婚和歌などについては、便箋や折 枝に少しは言及しているが、その他の手紙では便箋等にほとんど言 及がないのであ る ( 6 ) 。それにも関わらず、手紙を付ける品物の様子を これほど詳細に述べているということは、何か理由がありそうであ る。いったい、どのような理由があるのだろうか。 ここで、 「今はとて……」歌を見てみよう。 「島漕ぎ離れ行く舟に 領布振る袖」は、任那に舟出する大伴佐提比古郎子へ、松浦佐用姫 が 領 布 を 振 り、 別 れ を 惜 し ん だ 伝 承( 『 万 葉 集 』 巻 五 ) に よ る も の である。松浦佐用姫と大伴佐提比古郎子に、四の君と面白の駒を重 ねて詠んだ歌であろう。本稿では、男女どちらが出立するのかが伝 承とは逆になってしまうが、舟出する四の君が領布を振る姿を、陸 から面白の駒が見つめている、そのような様子が詠まれていると解 釈したい。 手紙を付ける品物は、海や洲崎、舟や島などを表現しており、明 らかに「今はとて……」歌の情景を具現している。読者はこの場面 を読むとき、初めは面白の駒からの別れの手紙を四の君が受け取る という、物語の中の現実世界を眺めることになるが、贈り物の詳細 を知り和歌を読むことで、今度は和歌の世界──そこでは四の君が 領巾を振り、その袖を面白の駒が見ている──を眺めることになる。 つまり、物語の中の現実世界から和歌に描かれた虚構の世界へと、 世 界 が 切 り 替 わ る の で あ る。 和 歌 の 虚 構 世 界 は、 州 浜 と い う ミ ニ
成蹊國文 第五十三号 (2020) チュアがあるからこそ、もう一つの世界としてリアルに立ち上がっ てくる。換言すれば、和歌の虚構世界をしっかりと支えるためには、 州浜というミニチュアが絶対的に必要なのである。当然のことなが ら、 「 今 は と て ……」 歌 と 手 紙 を 付 け る 品 物 の 受 け 取 り 手 は、 四 の 君である。だが四の君のみならず、読者にもその虚構世界を眺めて もらうために、贈り物の様子が詳細に述べられているのではないだ ろうか。 現実世界における面白の駒と四の君の別れは、手紙を介した間接 的なものであるが、他方、和歌の虚構世界は、面白の駒と四の君の 直 接 的 な 別 れ を 感 動 的 に 描 い て い る。 実 際 に 四 の 君 は、 「 四 の 君、 あはれに言ひ契りなども、例の人のやうにもせざりしかば、思ひ出 づ る こ と は な け れ ど、 こ れ を 見 る に ぞ、 さ す が に 思 ひ 出 で ら る る 」 ( 下 一 四 五 頁 ) と い う よ う に、 面 白 の 駒 の こ と を し み じ み と 思 い 出 している。けれども、このまま感動的に終わるのかというと、そう で は な い。 物 語 は 和 歌 世 界 に 読 者 を 浸 ら せ た ま ま に は し な い。 「 面 白の駒は思ひ寄らざりけれど、妹どもの心ありければ、子などあれ ばと思ひて、ただにやはとてしたるなりけり」の一文によって、読 者を物語の現実世界へと引き戻すのである。感動的な和歌世界のた めに、一時的に面白の駒と四の君が主役のようになっているが、こ の二人はあくまでも脇役であり、よって感動的なままでは終わらせ ないという、作者の思惑があるのかもしれないが、他にも意図があ りそうである。詳しくは、後ほど述べてみたい。 次に、面白の駒という人物を見ていこう。先述したように「今は とて……」は、松浦佐用姫と大伴佐提比古郎子に、四の君と面白の 駒 を 重 ね て 詠 ま れ た 歌 で あ る。 つ ま り、 面 白 の 駒 が 領 布 振 る 袖 を 「 見 る 」 人 物 と な っ て い る の で あ る。 こ の 場 面 ま で は、 面 白 の 駒 は 人 か ら「 見 ら れ 」、 笑 わ れ る 人 物 で あ っ た。 例 え ば 第 三 節 で 取 り 上 げた道頼との会話において、道頼は面白の駒をじっと観察していた し、 四 の 君 も 会 話 の 場 面 は な い も の の、 「 ( 面 白 の 駒 ガ ) つ く づ く と 臥したるに、四の君見るに、顔の見苦しう、鼻の穴よりは人通りぬ べく、吹きいららげて臥したるに、心づきなく、愛敬なくなりて、 や を ら、 も の す る や う に て 起 き て、 出 で た る を 」( 上 一 七 七 頁 ) と いうように、面白の駒をまじまじと見つめることがあった。結婚三 日目の所顕しでは、大勢の人物から見られ笑われている。そして面 白の駒本人は、第三節で引用した初登場場面の直前、彼の父が道頼 に「 人 笑 ふ と て、 え 出 で 立 ち も し 侍 ら ず 」( 上 一 六 四 頁 ) と 言 っ て いるように、笑われることをたいそう気に病んでいるのである。し かしこの別れの場面では、人から「見られる」ことや笑われること がない。そもそも、面白の駒の容姿に一切触れていないのだ。そう することではじめて、人に対して優しく人間らしい感情を持った面 白の駒と、感動的で趣深い和歌世界を、描き出すことができている のである。それにしても、別れの場面において当事者である面白の 駒の容姿に触れないことが、どのようにして可能になっているのだ ろうか。それは、面白の駒と四の君の別れが、手紙によって行われ ていることと関係がありそうである。 会話は、人と人が同じ空間(近距離)で行うやりとりである。互
いが向かい合いながら行うことも多いだろう。この別れが会話によ るものである場合、面白の駒自身を登場させなくてはならなくなる ため、どうしてもその特徴的な容姿に触れざるをえなくなってしま う。一方で手紙は基本的に、離れた相手とのやりとりである。つま り、会話と違って相手の姿が見えない。この別れが手紙によるもの であるからこそ、面白の駒の容姿に触れないことが可能となってい るのである。とはいえ、離婚した元妻が再婚するにあたり、元の夫 が会いに行くことは一般的にあり得ないので、手紙による別れは当 然の設定なのかもしれない。けれども、四の君が面白の駒を思い出 す際、改めて彼の容姿に触れることは可能であった。それを避けて いることを見ても、この場面は、面白の駒を「見られる」人物では なく「見る」人物として描き、彼と四の君の心通いあう別れを実現 するために手紙による別れを設定した、ともいえるのではないか。 この場面の手紙について、もう少し触れてみよう。当然のことな がら、手紙を読む人物がいるということは、手紙を書いた人物もい るということである。この場面では、手紙を読む四の君の様子は描 写されているが、手紙を書く面白の駒の様子は描写されていない。 手 紙 を 書 く 面 白 の 駒 の 様 子 を 描 か な い こ と で、 「 今 は と て ……」 歌 を詠んだのがほんとうに彼だったのか、曖昧になってしまった。け れども、面白の駒が見られないように、笑われないようにするため には、彼を描かないという選択が必要だったのである。どの場面を 描くか・描かないかの選択が、物語にとってどれほど重要であるか、 よく現われている場面だといえるのではないか。 この場面は、面白の駒という人物を、これまでの「見られる」立 場から「見る」立場へと切り替えることで、物語の中の現実世界か ら和歌の虚構世界の切り替えがスムースに行われるように工夫され ている。そのうえで、和歌の虚構世界から物語の中の現実世界へと、 読者を引き戻す仕組みも構えられている。これらの構造によって、 面白の駒と四の君の心の交流のようなものが一瞬成り立ったような、 だが、すぐに現実世界へ引き戻されることで、それが消えてしまう という場面になっている。換言すると、最後の一文「面白の駒は… …」によって全体がコメディタッチとなっているが、切なさや美し さ も 孕 む、 そ の よ う な 場 面 な の で あ る。 こ こ で、 『 落 窪 物 語 』 に 目 を 向 け て み た い。 『 落 窪 物 語 』 と い う 作 品 自 体 が、 全 体 的 に コ メ ディタッチである中に、しみじみとした情緒をも含む物語となって いる。つまり、面白の駒が四の君へ手紙を贈る場面は、 『落窪物語』 のテイストが濃縮されている場面だといえるのではないだろうか。 だからこそこの場面はおもしろく、また、物語の終盤で描かれてい るのだろう。すでに主役の道頼と姫君の物語が大団円を迎えており、 物語がつまらなくなりかねない状況において、物語をおもしろくす る仕掛けが施されているのである。 五 おわりに 物語を読むとき、読者は頭の中で、その物語を映像化しながら読 み進めることが多いのではないか。換言すると、頭の中で映像化し やすい物語は、読者が物語世界に入り込みやすい物語なのである。
成蹊國文 第五十三号 (2020) 『 落 窪 物 語 』 は 頭 の 中 で 映 像 化 し や す い 物 語 で あ り、 さ ら に は 第 三 節で述べたように、物語世界の中にいる登場人物と時には同じ視点 に立つこともできるような工夫が施されている物語なのである。物 語を映像化する媒体として、例えば映画やテレビドラマがあるが、 映画に関してアルフレッド・ヒッチコックは、 いま、わたしたちがこうやって話しあっているテーブルの下に 時 限 爆 弾 が 仕 掛 け ら れ て い た と し よ う。 ( 中 略 ) 観 客 は ま ず テーブルの下に爆弾がアナーキストかだれかに仕掛けられたこ とを知っている。爆弾は午後一時に爆発する、そしていまは一 時十五分まえであることを観客は知らされている(この部屋の セ ッ ト に は 柱 時 計 が あ る )。 こ れ だ け の 設 定 で ま え と 同 じ よ う につまらないふたりの会話がたちまち生きてくる。なぜなら、 観客が完全にこのシーンに参加してしまうからだ。スクリーン の な か の 人 物 た ち に 向 か っ て、 「 そ ん な ば か な 話 を の ん び り し ているときじゃないぞ! テーブルの下には爆弾が仕掛けられ ているんだぞ! もうすぐ爆発するぞ!」と言ってやりたくな る か ら だ。 ( 中 略 ) つ ま り、 結 論 と し て は、 ど ん な と き で も で きるだけ観客には状況を知らせるべきだということだ。 と述べてい る ( 7 ) 。観客(読者)に状況を知らせることで観客(読者) を完全にシーン(物語)に参加させているところなどは、第二節で 述べた場面の切り替えに当てはまるだろう。映画で使われる技法が、 千年以上前に作られた物語で既に利用されていたのだ。また第四節 で見てきたように、ただ物語世界の中へ引き込むだけではなく、さ らに物語の中の虚構世界にまで読者を連れて行ってしまうのである。 『 落 窪 物 語 』 は、 読 者 を 物 語 世 界 の 中 へ 導 く た め の、 様 々 な 技 法 を 確立した物語だといえるのではないだろうか。 注1 例 え ば 山 口 仲 美 氏 は、 「 北 の 方 の 実 在 感 」( 『 新 日 本 古 典 文 学 大 系( 月 報) 18』岩波書店、一九八九年五月、四頁)において、 「『落窪物語』は、 と も か く 面 白 い。 ( 中 略 )『 落 窪 物 語 』 の 吸 引 力 は、 い っ た い ど こ に あ る の か? サ ス ペ ン ス に 富 ん だ 構 成、 ス ピ ー デ ィ で 快 い テ ン ポ、 リ ア ル な 場 面 描 写、 そ し て、 巧 み な 人 物 造 型 な ど が、 わ れ わ れ を 惹 き 付 け て や ま な い」と述べている。 2 拙稿「 『落窪物語』の恋愛
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あこきの手紙が有する力─
」( 『成蹊大 学人文叢書14 文化現象としての恋愛とイデオロギー』 、成蹊大学文学 部学会編、風間書房、二〇一七年三月)を参照のこと。 3 『 新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 落 窪 物 語 堤 中 納 言 物 語 』( 三 谷 栄 一・ 三 谷 邦明校注・訳、小学館、二〇〇〇年九月)三三六頁。 4 「よしよし」は『落窪物語』内で、以下のように使用されている。 ① 「 い で や 。 よ し よ し 。 立 ち 給 ひ ね 。 … … 」( 上 一 五 三 頁 ) 北 の 方 ( 姫 君 の継母)から典薬助(北の方の叔父)への発言。 ② 「 よ し よ し 。 な ほ 、 申 し そ そ の か さ む と 思 し 召 し た り 。 … … 」( 上 二 一 一頁)帯刀から乳母(帯刀の母)への発言。 ③ 「 あ な か し こ 。 よ し よ し 。 聞 こ え さ せ じ 」( 下 一 〇 一 頁 ) 越 前 守 と 左 衛 門佐(いずれも北の方の息子)から北の方への発言。 ④ 「 よ し よ し 。 渋 々 に 思 ひ 給 ふ め り 」( 下 一 五 〇 頁 ) 前 太 政 大 臣 ( 道 頼 の 父)から道頼への発言。 5 『新編日本古典文学全集 源氏物語(2) 』(阿部秋生・今井源衛・秋山 虔・鈴木日出男校注・訳、小学館、一九九五年一月)五一頁。 6 注2論文二五六頁。 7 『 映 画 術 ヒ ッ チ コ ッ ク / ト リ ュ フ ォ ー 改 訂 版 』( フ ラ ン ソ ワ・ ト リ ュ フ ォ ー、 ア ル フ レ ッ ド・ ヒ ッ チ コ ッ ク 著、 山 田 宏 一・ 蓮 實 重 彦 訳、晶文社、一九九〇年一二月)六〇~六一頁。 ※『落窪物語』原文の引用は、 『新版 落窪物語 上下 現代語訳付き』 (室城 秀之訳注、角川文庫、二〇〇四年二月)に拠り、その上下と頁数を記した。 (しかのや・ゆうき 平成二十三年度大学院博士前期課程修了)