高
階
勝
義
(昭和56年5月18日受理) 「世界 は存在する。一 しか し『世界は存在する』 というのはわた しの言表である。」 (フ ッサール) (― ) フッサールが自らの現象学の立場 を「超越論的観念論 (tranSZendentaler ldealismus)」 として明 確 に表現するようになるのは,後
期の『デカル ト的省察』以降の ことであ るが,実
在的現実 を絶対 的な純粋意識によって構成 された意味統一体 として徹底的に相対化 して考 えるという,〈観念論的立 場〉への傾斜 はすでに『イデー ン』第一巻第二篇の「現象学的基礎考察」の うちに決定的に表明 さ れている。そしてその ことが フッサールのゲ ッチ ンゲ ン学派の弟子たちか らは,フ
ッサールの新カ ン ト主義的観念論への腹立 た しい転向 と解 され,彼
らの多 くが フッサールの もとか ら離反 してゆ く 原因 ともなった ということは周知 の出来事である。 この 〈歴史的出来事〉 に対 す る評価 は必ず しも 定 まっていない力や,そ
の ことはわれわれに とってはさしあた り重要な問題 ではない。 われわれが ここで何 よりも明確 にしておかなければならない ことは,フ
ッサールが 自らの現象学 を「超越論的 観念論」 と称す るときに,そ
の ことによって彼 自身 はどのようなことを考 えていたのか とい うこと である。 フッサールは実在的現実の全体 を純粋意識 によって構成 された意味統一体 として「観念論的に」 規定するとき,彼
はそ うす ることによって「全世界 を主観的仮象 に変貌 させ る『バークレー流の観 念論』のふ ところに身 を投 じようとするのではない」(III;134)と いうことを強調す る。「現象学的 観念論 は,あ
たか も実在的世界の存在が仮象であって,自
然的思惟や実証科学的思惟 はこうした仮 象 にもとづいているのだ とで も考 えているかの ように,実
在の現実的世界的存在 を否定す るもので はない。……世界が現実的 に存在 しているとい うことや世界がたえず普遍的一致性へ と連続的に統 合 してゆ く経験 において存在す る普遍 として与 え られているとい うことは,ま
った く疑 いのないこ とである。」(V,152f)実
在 的世界が存在するとい うことは疑 いえない事実である。 しか しその世 界の現実存在 は,素
朴実在論 において想定 されてい るような,意
識の外 にそれ 自体 として客観的に 存在す るものなどではな く,そ
れは「意識がおのれの諸経験 において定立す る存在 なのであ り」,し
2 下三 たがってそれは「意識 に対する存在 という単 なる二次的相対的意味 を有するだけの存在 なのであ り」
(H,117),絶
対的意味 において は何 もので もない存在 なのであるとい うのが,フ
ッサールの「超 越論的観念論」の基本的主張である。 しか しフッサールはそう主張す ることで,た
とえば実在的世界の全体 を単 なるそのつ どの自我の 意識内容 に解消 させ る独我論やそれ をその背後 に絶対的に存在する,認
識不可能な「物 自体」の単 なる現象 と解す るカン ト的観念論 に くみ しょうとするので もない。(I,118)
フッサールはその 現象学的観念論が実在論 との弁証論的論争のなかで獲得 されてきた,そ
のようないかなる伝統的観 念論 にも照応す るもので はな く(I,118f),む
しろそれが「実在論 と観念論」の対立 をその問題提 起 においてすでに克服 しようとする,ま
った く新 しい意味での観念論 として構想 されているとい う ことを示唆 している?ち そしてフッサールにそのような独特 の意味での観念論の構想 を可能な らしめた もの は,彼
が師ブ レンターノか ら受 け継いだ意識の志向性 (Intentionalitat)の 構造 についての洞察である。すなわち意識 はつねに「あるものについての意識 (BewuStSein von etwas)」 であるということの洞察
である。「一般 にあらゆる意識体験 は,それ自 らにおいて これ これの ものの意識 として存在 している。 一 すなわちあ らゆる意識体験すなわち意識作用 (COgitO)は つねにあるものを思念 している。そ し てそれはこのように自らの うちにそれぞれの意識内容 (cogitatum)を 思念 された もの とい う仕方で 担 っている。」
(1,71)意
識作用 と意識内容 との間にあるこのような志向的な相関関係 に封す る 洞察 こそが,主
観 と客観 を存在的に対立的に分離 させて考 えるという,伝
統的 な認識論の図式 を根 本的に超 える態度 としてのフッサールの超越論的現象学 の構想 を可能な らしめたのである。 フッサールに とっては,意
識の外 にそれ 自体 として絶対的に存在する客観的実在 な どは存在 しえ なけれ ば,客
観的実在 に対 して絶対的に対立的に存在す る純粋 自我 なども存在 しえない。彼 に とっ ては,自
我 は世界 を経験 し,考
察 し,評
価 し,そ
れに合 目的的に働 きか けるとい う仕方で,つ
ねに 志向的 に作動す る 〈世界 を経験 す る生〉 としてのみ存在 しうるものなのであ り,一
方世界 はまさに われわれの 自我の経験,わ
れわれの思想,わ
れわれの評価 な どがそのつ ど世界 に与 えて きた存在意 味 しか もっていない。(Ⅵ,107)
フッサールに とってはこのように自我 と世界 はそれぞれの存在 本質の上か ら相互 に分かち難 くよ りあわされて存在 しているのであ り,し
たがってそ こでは「 自我 がいかにして意識の島か ら脱出 して世界的客観性 に到 りうるか」 とか「わた しの意識の うちに明証 体験 として現われるものがいかにして客観的意味 を獲得す ることができるか」 などとい う,伝
統的 認識論 にお ける超越の問題 な どは起 こ りえないのである。(I,116)
フッサールに とっての問題 は,わ
た しが世界の うちにどのように存在 し,世
界 とわた し自身 をど のように理解 しているか とい うこと以外 にはない。 したがって「(経験 によって現実的 にわた しに予 め与 えられている)世
界の超越 の意味 を現実的研究 によって解明す る」 ことをめざす とい う,フ
ッ サールの「超越論的観念論」の課題(I,119)は
自然的生 において く世界 を経験 す る生〉 として, 勝つねに匿名的に作動 している超越論的主観性の志向的構造の糸 を解 きほ ぐし
,そ
うす ることによっ て世界的存在 の超越 の意味がいかにして形成 されてい るかを根源的に関 うということ以外 にはない のである。 われわれの以下の考察の目的は,ま
ず第一 に客観 的実在 についてのいっさいの素朴 な存在信憑 を 徹底的に排去 し,そ
うすることによって開示 される超越論的主観性の志向的構造の うちに世界 の超 越の意味 を問 うという,ま
さに このようなフッサール特有の現象学的観念論の構想の可能性 を方法 論的に基底づ けているものがそ もそも何 であるのかを問い,そ
して第二 には客観的実在 は 〈意識 に 対する存在〉 として,ま
さに意識 と分かち難 くよりあわさって存在するものであるが,
しか しそれ は決 して意識流の中に吸収 されて しまうものではな く,つ
ねに意識 に対 して志向的に存在す るもの として,や
は り超越的存在 なのであるとす る、 フッサールの客観的実在の存在様式 についての定式 化の意味 を具体的な知覚的事物所与の志向的分析 を とお して解 き明か し,そ
の ことによってフッサ ールの「超越論的観念論」 にお ける実在的世界一般の客観性 あるいは超越性の意味が どのような も のであるか を見 とどけることにある。 (二) 世界的実在 に対す るいっさいの素朴 な存在信憑 を全面的に判断停止 し,cogitOの絶対的明証性 の うちにその存在妥当の根拠 をみ ようとす る,フ
ッサールの超越論的現象学 の構想 を動機づ けている もの は自然的生 における懐疑的省察である。 自然的生 における人間 としてのわた しにとって,世
界 は自明的に前提 された,問
われ ることのな い く経験の事実〉として,端
的 に存在 している。「世界 は ときにはわた しの思念 しているの とは別様 に与 え られ ることがあるにして も,総
じていつ も現実 としてそこに存在 している。」(III,63)
そ して自然的態度 に生 きるわた しは「 この世界の現実が まさにそのようにわた しに対 して与 え られて いるとお りに実際 にそこに存在 しているもの として受 け取 っている。」(III,63) フッサール は自 然的生 における世界の現実性についてのこのような素朴な存在信憑を「自然的態度の一般定立(General―thesis der naturlichen Einstellung)」 とょんでいるのであるが
,彼
が現象学的還元の基礎づ けのためにさしむけている,『イデー ン』第一巻の「現象学的基礎考察」をまさにこの「自然的態度 の一般 定立」の経験批判的吟味か らはじめてい るのは
,そ
うす ることで世界的存在 についてのいっさいの 定立 を徹底的に排去することを要請する,こ
の現象学的方法が決 して何 らかの省略や抽象のための 特殊 な技術的操作で もなければ,単
なる恣意的思考実験で もな く,「真の現実性」を探究 しようとす る経験批判的省察か らの必然的結果 として動機 づけられている要請なのであるとい うことを証示 し ようとす るためである。(III,73) そして フッサールがその経験批判的省察 をとお して得た ものは,自
然的態度 に生 きるわた しに と4 「予 階 って
,世
界 は端的にそ こに存在 してお り,そ
してわた しは世界が まさにそのようにわた しに対 して 与 えられてい るとお りに存在 しているもの として受 け取 っているという,「自然的態度の一般定立」 その もののうちに実 はそ こに表明 されている素朴 な世界信憑を打 ち破 る懐疑 の可能性が伏在 してい るという洞察である。「世界がわた しにとって現 にそ こに存在す る」とい うの は疑 いえない事実であ る。 しか し厳密 にいえば,こ
の事実 とい うのは「世界が現 にそ こに存在す る」 として,ま
さにわた しがその ように受 け取 っているとい う,要
するにわた し自身の世界確信 の表明で しかないので はな いか。つ まり「世界 は端的に存在す る」 というの は,わ
た しが世界の現実存在 についてそのように 確信 し,そ
の確信 に もとづいてわた しがそのように一般的 に定立 してい るとい うことなので はない か。 こうしてフッサールは存在論の通常の意味 を逆転 させて こう言 うのである。「世界 は存在する。 一 しか し世界が存在す るとい うのはわた しの言表であ り,わた しの言表内容である。そしてそれ は わた しが世界 を経験す る限 りで正当な言表である。 もしもわた しがそこにおいて世界がわた しに対 してたえず生 きい きとした現在 において与 えられる世界経験 をまった くもたなければ,わ
た しに と って世界 とい うのは何 の意味 もない言葉 になるであろう。」(III,399) 自然的態度 において一般的に定立 させている世界が,実
は決 してそこで素朴 に信憑 されているよ うな「客観的にそれ自体 として存在す る世界」などとしては与 えられてはいないのであ り,「世界が 存在す る」 とい うのはわた しの世界確信の表明であ り,わ
た しの言表内容で しかない ということ, したがって自然的態度 において信憑 されている世界の現実存在 というの は徹底的 に自然的に生 きる わた し自身の「一般定立」 に負っているのであるという,
この経験批判的洞察のうちに,す
でにフ ッサールの「超越論的観念論」のモチーフが表明 されている。 しか し自然的生 におけるこの経験批 判 においては,世
界 はわた しに とって経験 され ることな しには,そ
もそ もそのような事実 として存 立 しえない とい うことが言われているだけであ り,世
界的実在の自然的事実が否定 されているわ け ではない。 したがって実在的現実の全体 としての世界 を徹底的に主観性 の能作形成体 として解釈 し ようとす る,フ
ッサールの「超越論的現象学的観念論」がその十分 な意味 において基づ けられ るた めには,自
然的生 にお ける世界の現実存在がただ単 に「一般定立」に負っているというだけでな く, その定立 その ものがその動機づけを「自体的に客観 的に存在す る世界の構造」 などのうちにではな く,ま
さに世界 を経験す る主観性 その ものの経験連関の うちに有 しているとい うことが証示 されな ければならないであろう。 フッサールは「(自然的に生 きる人間 としての)わた しに とっての世界 とい うのはつね にわた しが 語 り,そ
のつど語 りうる主観的相対的世界であ り0」,し
か もそれ はわた しの妥当能作 にもとづ く存 在者であるとい う。 したがって彼 に とっては,あ
るものが存在す ると言われ うるためには,わ
れわ れがそれについて語 り,認
識 しうるとい うことが明示 されえなければな らない とい うことになるの である。インガルデンの証言 によれば“七フッサールは1912年か ら1914年にか けての講義の中で,す でにこのような「超越論的観念論」の構想 を示唆 してお り,彼
は当時その意味 を「Aは
現実存在す 義 勝る。(A e stiert。)」 とい う命題 と「
Aに
ついて明示す る道が原理的 に可能である。 (Esist ein Wegzur Aus、veisung von A prinzipiell moglich.)」 とい う命題 を並置 し
,
この二つの命題が同義であること
,つ
まり「Aに
ついて明示す る道が可能である」 ということが「Aは
現実存在 する」 とい うこ との根本制約なのであると主張す ることで説明 しようとしていた とい う。ち あるものが現実的に存在す るとい うことは,フ
ッサールによれ ば,そ
れがそれ自身 において認識 者 に明示 され うるとい う性質 を自己 自身の うちに有 しているとい うこと,す
なわちそれが何 らかの 可能的認識主観 にそれ 自身 として現出 しうるとい う性質 を自己 自身の うちに有 しているということ を意味す るとい うことなのである。 したがって,「あるものが現実的に存在す る」ということの主張 の なかには,当
然その もの と相並んでそれを認識す る主観がその存在の可能性の制約 として相関的 に存在 しているという主張 も同時 に含 まれているとい うことになるとい うのである牝 これが「Aは
現 実的に存在する」ということと,「Aに
ついて明示す る道が原理的に可能である」ということが同 様 であ るとする,フ ッサールの主張の核心的意味である。しか しここで は「現実的に存在す るもの」 に到達す る認識の道がいかにして獲得 され うるか とい う問題 について はまだふれ られていない。 そ して まさにこの主観的認識能作への 自覚的な主題 的問いこそが フッサールを決定的に「超越論的観 念論」へ と導び くことになるのである。 われわれが語 り,認
識 しうるものだ けが現実的に存在するものであると主張す るフッサールに と っては,認
識不可能なカ ン ト的「物 自体」の超越 な どについて語 ることは無意味であるというだけ でな く,背
理なこととして拒否 され る。た しかにフッサールは,た
とえば『イデー ン』の第一巻 に おいては,意
識の内在的存在様式 に対比 させて,実
在的事物の超越 的存在性 を強調 してはいるが, その場合で もそこではそれ は伝統的な超越 の概念 とはまった く別様の意味で語 られているのである。 フッサールはた とえば世界構成 の基底層 としての物質的事物の超越 的存在様式 を次のように定式化 す る。欧日覚 された ものその ものが意識体験であるとい うことは十分 にあ りうることである。しか し 物質的事物 とい うような もの,た
とえば知覚体験 において与 えられてい るこの紙 は,原
理的にいか なる体験 で もな く,そ
れ とはまった く別種 の存在様式 をもった存在者であ り,そ
れ は体験の うちに 実在的 に存在するもの として意識 されはす るが,
しか しそれは実在的成素 として体験のなかに含 ま れているのではない とい うことは明証的である。」(III,76)
つ ま りここでは物質的事物 は意識 に おいて把捉 され るにして も,そ
してそれはまさにそのように意識 によって把捉 され ることによって のみその ように存在 しうるものであるにして も,そ
れは決 して意識の実的な(reel)成素 として存在 す るので はな く,や
は り意識 とはまった く別種 の存在様式を もって存在 しているものであると規定 されているのである。 したが って ここには,物
質的事物の意識 に対す る超越 の意味が二種の意味で 語 られていることになる。ひ とつは物質的事物が意識の存在様式 とはまった く別種 の存在様式 を有 しているという意味においてであ り,も
うひ とつはそれが意識の真正の部分 として,意
識の うちに 実的に存在するものではな く,意
識 に対 して異他的なもの として存在す るとい うこと,そ
の意味で6 下三 それは意識 に対 して二次的に相対的 に存在 するものであるという意味においてである。 ゎれわれはい まやフッサールの この実在的事物の存在様式の定式化の うちに表明 されている
,独
特の超越 の意味 を主題的に問わなけれ ばな らない。「Aは
現実的に存在する」 ということと,「Aを
明示す る道が存在する」 とい うことは同義であるとみるフッサールにおいては,事
物 の存在様式 と 所与様式 はほ とんど同義的に理解 されてお り,
したがって彼 は実在的事物 の存在様式 を定式化する にあたっては,さ
しあた りその所与様式 を意識体験の所与様式 と比較的に区別 することか らはFめ
るのである。 それによれば実在的事物 は外的知覚 において多様 な射映 (Abschattung),現 出 (Eト scheillung)を とお してのみ与 えられ るのに対 して,意
識体験 はその ような射映 をとお しての現出の 媒介な しに,内
在的知覚 において直接的 に与 えられ るとい う。(III,■7)
そ してフッサールは実 在的事物 と意識体験 の所与様式の この ような原理的差異の確認か ら,直
ちに両者の存在様式の原理 的差異 を次の ように推理するのである。「内在的知覚 において直接的に与 え られてい るわた しの意識 は絶対的に存在する。 これに対 して射映・ 現出を介 してのみ与 えられ る実在的事物 は意識 に とって 偶然的な,単
に志向的な存在であ り,絶
対的意味 においては何 もので もない存在 である。」(III,■7) ここで は絶対的存在 としての意識 に対 して,志
向的相関者 としてのみ存在 し,そ
れだけで絶対的 に存在す るものではない という言い方で際立て られている,実
在的事物 の意識 に対 する超越的存在 性 の意味が注 目されなければならない。「Aが
現実的に存在する」 ということは,「Aを
明示す る道 が存在する」 ということと同様であるとい う,先
きほどのフッサールの議論 に立 ち帰 っていえば, 現実的に存在する実在的事物 は原理的に明示 可能な もの として,す
なわち明示意識の相関者 として のみ存立 しうるということ,
したが って実在的事物の存在 は徹底的 に絶対的存在 としての意識 に依 拠 して存在 しているということなのであ り,そ
してそれが まさにそのように意識 とはまった く月J様 に与 え られてい るがゆえに,意
識的 とは別様 に存在 しているということなのである。すなわち意識 体験 は「それが存在す るためにいかなるもの も必要 としない」 という意味で絶対的 に存在するもの である(IH,115)の に対 して,実
在的事物 はそれがそこにおいて明示 され る意識の存在 によって徹・ 底的に制約 されてお り,し
たがってそれはそれに相関す る意識 なしに存在 しえない ものであるが, しか しそれはまさにそのような仕方で意識 とはまった く別様 の存在様式 において,や
は り現実的に 存在 しているといわれているのである。 実在的事物 の存在様式の この定式化の うちに,フ
ッサールの「超越論的現象学的観念論」の基本 的特徴がほぼ輪郭的に表示 されている。われわれはい まや このフッサールの「現象学的観念論」の 意味 をよ り包括的に理解す るために,絶
対 的存在 としての意識 に対 して,実
在的事物 はまさにその 意識 に対 して志向的に,相
対的にのみ存在 してお り,別
様 には存在 しえない とい うこと,そ
して ま さにそうい う意味でそれが意識 に対 して超越 的に存在 している,と
いわれ ることの意味 を知覚的に 与 えられ る実在的事物 の所与様式の具体的な志向的分析 をとおして,明
示 しなければな らないが, その まえにここでフッサールの現象学 において実在的事物が まさにそれに相関 してのみ存在 しうる 義とされ る絶対的存在 としての純粋意識 を開示す る現象学的還元 その ものの方法論的意味 をあ らか じ め明確 にしておかなければならない。 (三) フッサールの「超越論的現象学的観念論」の構想 を基礎的に動機づけてい るものが,「世界 は意識 がおのれの諸経験 において定立 した存在であ り
,
したがってそれは 〈意識 に対 する存在〉 という相 対的意味 を有するだけの存在である」(lH,117)と
い う,経
験批判的洞察であるとい うことはすで にふれておいた。 そしてい まやわれわれはまさに この洞察が世界的現実についてのいっさいの素朴 な存在定立の判断停止 を要請す る「現象学的還元」 その ものの方法論的可能性 を動機づけているも ので もあるとい うことを証示 しなければならない。 すでにみた ようにフ ッサールは実在的存在の意識 に対す る相対化の根拠 を,意
識が原理的 にいか なる射映や現出 も介す ることな く,内
在的知覚 においてそれ自身 として直接的 に与 え られ るのに対 して,実
在的事物 は原理的に一面的射映 をとお しての多様 な現出様式 においてのみ与 え られ る とい う,そ
の相対的所与様式の うちにみている。(III,92f)われわれが経験 する実在的事物 はある ときは こち ら側か らあ るときはそち ら側 か ら,あ
るときは近 くか らあるときは遠 くか ら,あ
るときはこの ような照明においてあるときは別様の照明 において とい うような,そ
のつ どの多様 な現出様式 にお ける同一的対象極 として与 えられている。(lII,93)その射映や現出 とい う経験多様性の全体 にはと きには部分的な不一致が起 こることがあるにして も,た
いていはそのつ どの修正・削除 をとお して, そこには内的調和が保持 されている。そしてフッサールによれば,経
験多様性の全体 の うちにその ような内的調和が保持 されつづけている限 りで,わ
れわれの意識の うちに「実在的事物がそこに客 観的に存在 している」という確信 が支配 しつづ けるのであるとい う。そ うい う意味で彼 は実在的現実 の全体 としての世界が端的に存在 しているとい う,自
然的態度 における一般定立 とい うの はわれわ れの経験的世界確信の表明で しかない というのであ る。 ところで経験全体の内的調和が このようなわれわれの単 なる経験的確信で しかない とすれば,そ
れがつねにその ように調和 的に経過 しつづ けるという保証 はない とい うことになろう。 とい うの は ある実在的事物 の現実性 を信憑 させてきた,調
和 的に動機づ けられた経験多様性のうちに調整不可 能な矛盾が起 こるとい うことはあ りうるし,
したがって経験の連関が そのために射映,経
験,現
出 などの堅固な規制秩序 を失 って,事
物定立 をいつ まで も調和的に一貫 して保持 しようとい う期待が 裏切 られて しまうということがあ りうるか らである。(III,115)
実在的事物 が原理的に一面的射 映を介 しての現出においてのみ与 えられるものであ り,
したが ってその現出が決 して全面的に完全 に経過す ることがあ りえない ものであ り,そ
れがつねに新たな側面か らの現出の可能性 を残 さざる をえない以上,そ
の事物のそれ まで調和的に動機づけられて きた経験多様性 がその経過 において,8 干ヨ 階 勝 義 突然 それ までの調和性 を爆裂 させ,そのために現実存在 として信憑 されて きた ものが単なる「仮 象」, 「幻覚」と化 して しまうとい う事態 はつねに考 えられ うることである0。 そうなれば
,わ
れわれ人間 の うちに世界の現実存在 に対する信憑 を惹 き起 こしうる,い
かなる動機づけも起 こらないことにな るし,
したがって調和的 に定立 され うる世界 などは もはやわれわれに とっては存在 しな くなる とい うことになるのである。(III,115) こうしてフッサール は,世
界の現実存在 は決 して自然的態度 において素朴 に信憑 されているよう な,不
可疑的な絶対的存在基盤 を有するものな どではな く,そ
の非存在の可能性 さえつねに考 えら れ うるような,暫
定(Prasumption)と しての意味 しか もちえない というのである。(III,108)し か しもとより「世界 は存在 しない とい うことがあ りうる」 といってみて も,そ
れはその所与様式か ら みて,原
理的にそうあ りうるといっているだけで,世
界の非存在 を保証 しうるような何 らかの根拠 がわれわれの具体的経験 の うちに見 い出されるというわけではないのであ り,
したがって自然的生 におけるわれわれに とっては「世界が疑いな く存在 している」 とい う根本事態 には何の変化 も起 こ りえないのである。 したがってわれわれ は「世界が端的に存在する」 ということについて断定で きないというだけで な く,「世界が存在 しない」とい うことについて も断定で きない ということになるのである171。 そぅ だ とすれば,「真の現実性」 を探究するもの としてのわた しは世界の存在 。)F存在 についてのいっさ いの判断 をさしあた り,い
わば未決の ままにしておかなければならない。 すなわちわた しはその態 度決定 を差 し控 えなければならない。 そ してフッサールは,自
然的態度 における一般定立 その もの がその動機づけをまさにそのように世界 を経験す るわた しの主観性の経験連関の うちに有 している という限 りで,わ
た しはその世界定立 を自由に中止す ることがで きるというのである。(III,65)こ れがフッサールの現象学的エポケーの遂行の可能性 を方法論的に基底 づけてい る経験批判的洞察の 核心である①。 ところで世界的現実についてのいっさいの素朴な存在定立の全面的判断停止 を要請する,こ
の現 象学的エポケーによって も,「世界 はつねにそこに存在す る」という,自
然的生 におけるわた しの世 界確信その ものに変更が加 えられ るわけではない。すなわちその場合で も「実在の全体 としての世 界 とい う,妥
当性 にみちみちた存在か らはいささかの もの も引 き抜かれはしない」(III,134つ ので あ り,そ
の世界確信 はその まま「括弧」の中に保持 されつづ けるのである。 しか し世界 はそこでは もはや客観的に存在す る超越 としてではな く,ま
さにわた しの意識体験の相関者 として存在す ると い うことになるのであ り,そ
してそうであればこそわた しは「わた しの完全 な自由に属す る事柄」 として,そ
の世界定立の使用 を差 し控 えることを決意す ることができるのである0。 それではフッサールに とって,そ
の現象学的な普遍的エポケーの後 に残 るもの は何かのか。 それ はデカル トの懐疑 にお けるの と同様,絶
対的明証体験 としての ego cogitoである。すなわち意識 において思念 されているが ままのわた しの意識の自己確信である。しか しそれはデカル トにおいて,可疑的な世界の排去の後 に
,わ
た しが思惟す る限 りにおいて,ま
さにその瞬間 にもはや削除 しえな い確実性 として自覚的に確認 され うるとい うような,点
的な明証体験 としての etto cOgitOな ので はない(1° 。 フッサールの現象学的エポケーによって開示 される自我 はまさに自然的生 において世界 を経験 し,考
察 し,評
価 し,合
目的的に働 きか けるとい う仕方で,つ
ねに志向的に作動 している生 として,そ
の存在本質上世界 と相互 に分 かち難 くよりあわ されて存在 している自我 なのであ り,し
たがってそ こでは世界の存在 もデカル トにおけるように,存
在 しないもの として排去されるのでは な く,そ
れはまさにそのようなわた しの 自我意識の普遍的相関者 として存在 しつづ けてい るのであ る。 そして,
この現象学的エポケーをとお して,い
まや「世界 はわれわれの自我主観の経験,わ
れ われの思想,われわれの評価 な どが そのつ どその世界 に与 えてきた存在意味 しか もっていない」(Ⅵ, 107)とい う経験批判的洞察の意味が,十
分 な意味で次のように超越論的 に解釈 され ることになるの である。「あ らゆる世界的な もの,あ
らゆる空時的存在がわた しに対 して存在す るのは,ま さにわた しがそれ を経験 し,知
覚 し,記
憶 し,そ
れについて価値判断 をし,そ
れを希望す る等々の ことをす るとい うことによって,つ
まりego cogitoによってはじめて存在 し,妥
当す るので ある。一・七・世 界 は一般 にegO cOgitoにおいて意識 され,わ
た しに とって妥当す る世界以外の何 もので もない。 世界 はその全体の意味,す
なわちその一般的意味 も特殊 な意味 も,さ
らに世界 の存在妥当 ももっぱ らかか る意識か ら汲み とっているのである。J(I,60)
こうしてフッサールの超越論的現象学においては,世
界的実在 はもっぱらそれ を経験す る自我意 識の志向的対象極 としてのみ解 され,
したがってそれはその存在本質の上か ら徹底 的 に意識 に依拠 して存在す るものであ り,そ
の意味で「個別的に考 えられた事物 の実在 も世界全体の実在 も本質的 に自立性 を欠如 している単 なる二次的 は相対的存在で しかない」(III,■8)と
解 され ることになる のであるが,
しか し,ベ
ーム も指摘 しているように(1り,世
界的実在 についての フッサールの この定 式化の うちには明 らかにパ ラ ドクスが伏在 している。 とい うのは彼 は 〈意識 に対 する相対的存在〉 としての実在的存在は原理的に一面的射映 をとお しての現出においてしか与 えられない ものであ り, そういう意味でそれはその本質的意味の上か らその絶対 的所与の可能性 を原理的 に排除す る存在で あるとい うことの論証 をとお して,こ
の実在的存在の定式化 を正当化 しようとす るのであるが,実
はフッサールはまさにそうい う仕方で彼がそ こで否定 しようとしている実在的存在の固有の自体 的 存在性 を,す
なわちその固有の自立性 をむ しろ際立てていることになるか らである。つ まり彼が十 全に知覚 され うる絶対的存在 としての意識 に対 して,そ
の絶対的所与の可能性 を原理的 に排除す る という,実
在的存在の固有の存在様式 を強調すればす るほど,ま
さにそのような仕方で 〈意識 に対 して異他的に超越的に存在す る〉 という,実
在的存在の固有の存在様式 をます ます際立てることに なるのであると フッサールの実在的存在の定式化の うちに,こ
の ような仕方で示唆 されている,そ
の 自体的存在性,超
越性 は どう解釈 され るべ きなのか。10 高 (四) フッサールは
,実
在的存在 は 〈意識 に対 す る存在〉 という単 なる二次的相対的存在であ り,絶
対 的意味では何 もので もない存在であるとい うことの論証 を,『イデーン』第一巻のS43(「原理的誤診 の解明」)において主題的に展開 しているのであるが,彼
はその冒頭で明 らか にカン ト哲学 を示唆 し なが らこう主張 している。「知覚 は事物 その ものには近づかない,つま り事物 その ものはそれ 自身で 存在 し,そ
の自体存在 においては与 え られない ものである,…
… というような考 えは原理的誤謬で ある」(Ⅲ,98)と
。 そ して彼 は「われわれの見ている空間的事物 はそれがいかに超越 した ものであ るにして も,そ
れはや は り知覚 され るものであ り,そ
の有体性 (Leibha■ igkeit)に おいて意識 に対 して与 えられるものである」(III,98)と 語 り,さ
らに「事物知覚 は何か現在 しない もの を準現前化 す る (vergegenwartigen)の で はな く,当
の ものに今向 きあっているのであ り,そ
の当の もの自身 をその有体的現在 において把握 しているのである」(1■,99)と主張す るのであるが,
この一連のフ ッサールの主張の うちには,明
らかに事物 は自体的に存在 してお り,し
か もそれがつねに一面的射 映 をとお しての現出を媒介 してのみ知覚 され うるだけであるにして も,ま
さにそ ういう仕方でそれ はその自体 的存在 において与 えられてい るとい うことが,当
然の こととして主張 されているように 思われ る。 しか し一方ではフッサールが「実在的存在 は原理的には単 なる志向 された もの,単
なる意識 され た もの,表
象 された もの,現
出す るものにす ぎない本質性 を有するだけである」(IH,118)と して, 実在的存在の く意識 に対す る相対的存在性〉 を強調す るとき,そ
こでは実在的存在 は究極的 にはい かなる固有の存在様式 を有するもので もな く,そ
の本質的意味の上か ら意識 の絶対的存在 としての 唯―の全体性 を形成する部分的な,相
対的契機 としてみなされてお り,
したが って ここでは意識 と 実在の原理的差異性 は廃棄 されているように も思われ る。 ところが別の箇所で は,フ
ッサールはそ の ような意識 と実在 によって形成 される 〈唯―の全体性〉の構想の可能性 を明確 に否定 するように, 両者の原理的差異性 を依然 として強調 しつづ けているのである。「真の意味では本質的に親縁的な も の,一
方 と他方が固有の本質 を同 じ意味 において有するものだけが,相
互に結合 し,全
体 を形成す ることができる。内在的な ものあるいは絶対的存在 と超越 的存在 はた しかに両方 とも『存在するも の』ヶ『対象』 と称 され る。…… しか し両者 において対象 と対象規定 と称 され るものは空虚 な論理的 カテゴ リーに したがってのみ,等
しくそ うよばれているのであ り,意
識 と実在 の間 には意味の真の 深渕が口をあけている。後者は決 して絶対 的には与 えられない,単
なる偶然的な意識相対的存在で あ り,前
者 は必然的な絶対的存在である」 (III,116f)したが って「意識 と実在的存在 は決 して平和 に相並んで存在するような同等の地盤 に立 つ存在様式ではない」 (III,116)と いうのである。 一方では原理的に実在の 「 自立性」 を否定 しながら,他
方で は原理的に意識 に対 す る実在の「異 他性」「超越性」を強調 し,し
たがってそ うい う仕方で実在の自体的存在様式 を主張す るとい う,フ
義ッサールの このような一見矛盾 しているように思われ る言説 はいったい どの ように理解 され るべ き なのか°か。 この問題 を考察するにあたって
,こ
こでさしあた り明確 にしておかなければならないこ とは,ベ
ーム も指摘 しているように(19,フ ッサールが実在的存在の 〈意識 に対する相対的存在性〉 を強調する場合で も,そ
こでは絶対的存在 としての意識だけが存在 し,実
在的存在 は絶対的意味で は存在 していないな どということが言われているので はない ということである。すでにみて きたよ うに,現
象学的還元 をとお して実在的現実が徹底的に純粋意識 によって構成 された意味統一体 とし て解釈 されるときで も,「実在の全体 としての世界 という,妥
当性 にみちみちた存在か らはい ささか の もの も引き抜かれはしない」 (III,134)と い うことは,フ
ッサールが しば しば強調 してい るとこ ろである。〈意識 に対 す る相対的存在〉としての実在 という,フ
ッサールの この定式化の固有の意味 は,ベームが適切 に注解 しているように,「実在 は徹頭徹尾意識 に対 する志向的存在 としてのみ存在 するのであ り,そ
れはその固有の存在意味 を意識 という絶対的存在か らのみ汲み とっているという こと,したが ってそれはその本質的意味の上か ら決 してそれ 自体 で絶対的に存す るものではない(14ち ということなのである。 したがって ここではい まやそのような徹頭徹尾意識 に対 して本目対的に存在す る実在が まさにそう いう仕方で意識 に対 して自体的に,超
越的に存在 しているとい うことの意味が立 ち入 って問われな ければならないのであるが,そ
のためには実在的存在 の本質が フッサールにおいてはそ もそ もどの よ うな もの として考 えられているのか ということが,ま
さに不十全 な知覚 においてしか与 えられな い というその所与様式 と認識様式の具体的分析 をとお して明示 されなければならない。 というのは フ ッサールによれば,「意識 を超越 した実在的事物の本質 はそれを認識す る意識諸形態の うちにのみ 自 らを告知す るものである」(III,146)からである。 われわれがた とえばそこにあるその木 を木 として知覚 しようとす るとき,そ
の木 はさしあた りわ れわれのそのつ どの顕現的な経験的関心に とっての志向的な同一的対象極 として存在 している。 し か しわれわれがそのわれわれの知覚作用 その ものに反省 の眼 を向 けるとき,わ
れわれはわれわれが 現実的に見ているのはその木の一部分,一
側面だけである ということを認 めざるをえない。つ まり そこに知覚 されてい るその木 とい うのはまさにそのつどの現出の多様 な変化 をとお して,そ
の よう に同一の対象 としてそ こに呈示 されているということなのである。 ところでわれわれが純粋 に知覚 的に注意 を向 けられてい るものが,つ
ねにそのようなそのつ どの現出において与 えられてい るその 木の側面や部分であるにす ぎないのにもかかわ らず,わ
れわれが具体的な事物知覚においては,そ
の木のそのような側面や部分 を見ているという意識 を超 出 して,全
体 としてのその木 を直接的 に経 験 しているとい う確信 を有 しているのはなぜなのか。 フッサールによれば,わ
れわれがその ような 不十全 な知覚 をとお して,全
体 としての同一の対象の存在 を確信 しうるのは,わ
れわれがわれわれ の経験の生 きい きとした流れにおいて,そ
のつ どの多様 な主観的現出に修正 を施 しなが ら,そ
の内 的調和 を保持 してい るか らであるという。 つまりそのつ どの射映 を とお して与 え られる形態や色の12 高 多様な現出にたえず修正
,削
除 を施す ことをとお してのみ,ま
さにその ような客観的形態 を有 し, そのような客観的色 を有 する木がそこに存在 しているという確信がわれわれの意識 の うちに生 じて くるというのである(1° 。 したがって知覚 され る実在的対象 をこの ように厳密にそれを経験す る意識 との相関関係 において 考察す るとき,そ
の対象の同一性や客観性や超越性 は通常の意味 とはまった く別 の新 しい意味 にお いて語 られ ることになる。知覚 される事物 の同一性 はその所与様式の本質的意味の上 か らわた しの そのつ どの現出・空間的射映 をとお してのみ経験 されるのであ り,
したが ってそれは決 してそれ 自 体 において,す
なわちそれを経験 す るもの としてのわた しの意識 との相関関係 にかかわ りな く直接 的に経験 され るな どとい うことはあ りえない とい うことになる。対象 はつね に知覚 された もの,思
惟 された もの,願
望 された もの というような志向的に思念 された もの としてのみ存在 してお り,し
たがってその意味での対 象はそれを呈示す る多様 な現出様式 と不可分的 に存在 しているということ になるのであるが,し
か しそれはそこでは決 して意識の実的成素 として存在 しているのではな く, 志向的に思念 されているもの としてやは りつねに意識 に対峙 して存在 してお り,そ
れを超越 してい るのである。 というの は「意識の実的体験契機 はそのつ ど消滅す るものであ り,つ
ねに流れ去 って ゆ くが,対
象 はその流れの中で生成す る同一的統一体 として保持 され るものである(1° 」か らである。 ここで語 られている意味での志向的対象の超越性が もはや素朴 な自然的態度 において想定 されて いるような,実
在的対象の超越性 とはまった く別の意味 を有する超越性 であるとい うことは明 らか である。志向的に思念 された もの としての この対象の超越 は意識の外部 という意味での超越ではあ りえない。 もしそうならばそれはだれに も意識 されず, したがってそれはフッサールによれば,だ
れに対 して も存在 しえない ということになるか らである。対象 は超越 である。 しか しそれは意識の 内部 における超越 であるというのが フッサールの主張である。意識 によって忘向的に思念 された も の としての対象 は意識の中に閉 ざされている。 しか しそれはそこで は意識の実的成素 として存在 し ているのではな く,つねに意識 に対 して志向的に超越的 に存在 している。「意識 はそのつ どの経験的 作用 において,現
実的 に体験 されているもの とい う意味でのその当の体験の中に閉 ざされているも のを,す
なわちそのつ どの知覚的射映 において現出する側面やアスペ ク トをつねに超 出 してお り, それ自身 は体験 でない もの,現
出 としては存在 しないあるものにかかわっている(W)。」 意識の内部 において遂行 され るこの ような対象への超越 としての超越 はその限 りで志向的内在 (intentiOnale lmmanenz)と して表示 され うる°働。そして フッサールによれば,そ
の志向的超越 あ るいは志向的内在 としての対象 こそがわれわれが知覚体験 において志向的に向 けられている全体 と しての対象なのである。 しか し知覚的対象 としてのそれ はそのような全体 として,十
分な意味で臨 在的に(anwesend)経験 に対 して与 えられるとい うことはあ りえない。 アグイー レが言 うように, 「現実的に現 に存在 しているのは,生
きいきとした現在の顕現的位相 においてそのつ どそれ自身 と して現出 している側面やアスペ ク トだけなのであ り,し
たが って厳密な意味ではそれだけが唯―の 義現 実性 なので あ る(19。」したが って た とえばその木
,そ
の家 とい うような多様 な現 出の綜 合 的統一体 としての志向的対象 とい うの は厳 密 な意味 で は現実的 には与 え られ ない とい うことなので あ る。 そ うい う意 味で フ ッサールは「実的 な もの (ein Reeles)」 としての意識 に対比 させ て,対
象 を「理念 的な もの (ein ldeales)」 と称す るのである。。ち「あ らゆる志向的統一体 の普遍的理念性がそれ を構 成する多様性 に対峙 して存在 している°ゆ。」 こうしてフッサールは現出多様性 の実的現実性 に対 して志向的対象の単なる理念性 を強調す るの であるが,彼
は実 はまさにそ こに実在的事物 としての存在 と意識体験 としての存在の根本的な本 質 的差異 をみるのである。「事物 その もの,
真正な意味でのすべての実在 には本質的 にまった く原理 的にそれが内在的には知覚 されえない とい うこと,
したがって一般的にそれが体験連関の うちに存 在 しえない とい うことが属する。 したがって事物 その ものは端的に超越的に存在 しているといわれ るのである。まさにここにく意識 と実在 〉の間にあるもっ とも根本的な差異が告知 されている。」(IH,96)そ
してフッサールによれば,こ
の 〈意識 と実在〉の根本的差異の根拠 は一方が意識内在的な も の として原理的 に十全 に知覚 され うるのに対 して,他
方 は意識超越的な もの として原理的 に十全に は知覚 されえない とい う,そ れぞれの所与様式 の原理的差異 にあるとい うのである。「内在 と超越 と の対立 には所与様式の原理的差異が属す る。J(IH,96)わ
れわれはい まや 〈単 なる理念性〉 として の実在的存在の超越性の意味 を実在的事物 の所与様式の具体的分析 をとお して明 らか に しなければ ならない。 (五) フッサールは意識 と実在 との根本的差異 の根拠 を一方が射映的現出の媒介な しに直接的に与 えら れ るのに対 して,他
方 は一面的な感性的射映 をとお しての現出においてのみ知覚 され る とい う,両
者の所与様式の差異性 にみているのであるが,彼
はその さい超越的存在 としての実在のその射映的 所与の不十全性 というの は空間的事物一般の本質 に属す る止揚不可能な原理的不十全性 なのである と強調す る。「われわれの知覚が単なる感性的射映 をとお してのみ事物 に近づ きうるとい うのは,事
物 その ものの偶然的意味やわれわれの人間的構成の偶然性 によるのではない。む しろそのような実 在的存在が原理的に感性的射映 をとお してのみ知覚 において与 えられるとい うのは空間的事物 の本 質に属す ることなのである。」(IH,97)
空間的事物 の感性的知覚 においては,そ
れ 自身 として現 実的に経験 され るのは,そ
のつ どのパースペ クティヴにおいて現出 している,そ
の事物 の一側面一 部分だけであ り,そ
の事物がそれ 自身 として全面的に現実的に経験 され るとい うような ことは原理 的にお こりえない とい うのであ る。「限 りな く不完全であるということが事物 と事物知覚の相関関係 の止揚 しえない本質に属す る。」(III,100f)し か し具体的な事物知覚 においては,そ
の ようにそれ 自身 として明証的に経験 されてい る部分契機だけが志向的に意識 されてい るので はな く,そ
れ とと14 高 階 もにその事物 の多 くの別の規定が
,そ
して究極的には残 りの全部の規定 としての全体 としての事物 その ものが「 ともに思念 されているもの」として意識 されているのである。「現実的に直観 される事 物 の側面 はわれわれ に とっては,ま
さにその事物の一側面 としてのみ妥当 しているのであ り,
した がってそれはつねに多様な新 しい側面 を指示 している。 しか しその事物 はわれわれに とっては,そ
こで は単なるその ような一面 として妥当 しているのではない とい う限 りで,そ
れはその事物 の残 り の全規定 を,す
なわ ち全体 としての事物 をともに思念 されているもの として指示 している。」(IX, 433) したが って顕現的な事物知覚 においては,そ
れ 自身 として現実的に明証的に与 え られているもの としての 〈部分〉契機 とそれ自身 としては現実的には与 えられてはいないが,つ
ねに「 ともに思念 されているもの」 としての く全体〉 という二重の構造がつねに同時 に志向的に意識 されているとい うことなのである°り。実在的事物 の射映的所与 は原理的に不完全で しかあ りえない。 そ うであれば こそ,事
物的対象 をそれ自身 として明証的 に体験 しようとす る経験主観の意識 はそのつ どのパース ペ クティヴにおいて,明
証的にそれ自身 として経験 される部分契機 を超 出 して,つ
ねに全体 として の対象 に志向的 に向か うのである。すなわち経験主観 は感性的知覚のそのつどの位相 においては, 対象 を全体 として経験 しているので はな く,そ
の部分 を経験 しているだけであるということ,
した が ってそれがそのつ どの経験の位相 をつねに不完全 なもの として体験 しているがゆえに,ま
さにつ ねに全体 としての対 象を志向するのである。 そしてフッサールのいう,内
在的超越 としての志向的 対象の超越 というのは,ま
さにこの ようなそのつ どの現出の多様性 と相対性 を克服 し,対
象 をそれ 自身 として明証的に認識 しようとす る経験主観の努力 に相関 して与 えられる全体 としての対象 に外 な らないのである。 したがって自然的生 において素朴 に思念 されている,実
在的事物 の 自体的存在 性 というの も,フ
ッサールによれば客観的 に絶対的に存在す る超越性 などとしてではな く,そ
の事 物 についての限 りない完全 な認識 をめざす主観の意識その ものの うちにイデアールに志向的 に内包 されている,内
在性 として解 されねばな らない とい うのである。(III,351) 実在的世界 をわれわれの意識の外 に 〈客観的に自体的に存在す る超越〉 として絶対化 す るという 考 えは,フ
ッサールによればもともとある種の背理 な哲学的世界解釈 に依拠 しているのであ り,そ
れはご く自然あ普通の世界解釈に とっては無縁の ものなのであるという。すなわち 〈客観的な自体 的存在〉 としての世界などというの は,世
界の究極 的意味 を探究 しなが ら,い
っさいの世界的現実 がその意味 をもっぱら意識か ら汲み とっているとい う,実
在的現実の固有の本質性 に対 する明 白な 洞察 を欠いた「哲学的思索」の、単純 に実在の全体 と存在の全体 を同一視 し,
しか もそれを「哲学 的に絶対化」す るとい う背理 な解釈か ら導び き出された概念 なのであるとい う99。(IH,134)「
実 在や世界 とい うのは,絶
姑的な純粋意識がその本質の上か ら別様 にではな く,ま
さにその ように意 味付与 し,そ
して意味妥当性 を証示する連関 にかかわ る意味の統一体 なのであ り」(III,134),し た がってフッサールは「絶対的実在」 について語 るとい うことは「円い四角Jに
ついて語 るほ どに背 義理なのであるとい うのである。(III,134) ところでフッサールがわれわれの知覚的事物所与 の原理的不十全性 を強調す る とき
,彼
はそれ に よって「感性的知覚 は超越的事物 には決 して近づ きえない」 とい うような,カ
ン ト的認識論 に くみ しようとしてい るので はない とい うことは,こ
こで明確 に確認 しておかなけれ ばならない。すでに みたように,フ
ッサールは「知覚 は事物 その ものには近づかない。つま り事物 はその自体存在 にお いては与 えられない ものである」 とい うような,カ
ン ト的哲学の主張は「原理的誤診」であると考 えているのであ り,そ
して彼 はこの主張が「知覚的事物 は原理的に絶対的には与 えられない」 とい う正 しい事実認識 に もとづいていなが ら,結
局誤謬 に陥ち入 らざるをえなかったのは,そ
こには実 在 と意識の存在様式の根本的差異 に対 する明 白な洞察が欠 けていたか らであるというのである。 われわれの知覚が近づ きえないぅ超越的な物 自体 の存在 を想定 する,カ ン ト的認識論 においては, われわれの知覚が事物 その ものに近づ きえないのはわれわれ人間の有限な存在の認識能力の不完全 な構成 に依 るのであ り,「絶対的に完全な認識の主観である神 な ら当然なが ら,われわれの有限な存 在 には拒否 されている物 自体 についての認識 を有 している」(III,98)と い う解釈が前提 にされてい る。 したがってそ こではつねに一面的射映 をとお しての現出を介 してのみ与 え られるという,人
間 的知覚能力 に対す る実在 的事物 の所与様式 とはまった く別の絶対的所与様式の可能性が考 えられて いることになる。すなわち「すべての存在物 には現出をとお してのすべての媒介 な しに,有
体 的に それ自身 を付与す る十全 な知覚 において,そ
れ をそれが現 にあるが ままに端的に直観す るとい う原 理的可能性が属 している」(III,98)と い うような推理がそ こには前提 にされていることになるので あるが,フ
ッサールはそのような主張の全体が実在的事物 の存在様式 とその存在意味 に根本的に反 する「原理的誤診」 なのであるとい うのである。 「すべての存在物 にはその絶対 的所与の原理的可能性が属す る」 とい うこと,
したがって「空間 的事物 も原理的 に十全 に知覚 され うる」 とい うようなこの ような考 えにおいては,感
性的射映 をと お しての現出を媒介 にしてのみ空間的事物 に近づ くというような人間的知覚 における事物所与が考 えられているので はな く,現
出をとお してのすべての媒介な しに事物 その ものをあるが ままに端的 に直観す るとい うような,「十全な内在的認識 としての神的な完全 な認識」が想定 されてい ることに なるのであるが?り,そ
の ことは,フ
ッサールによれば「その要請 され る神的直観 の うちでは空間的 事物が実的構成要素 とな り,したが ってそれ 自身がその神 的意 識 流 と体 験 流 に属するもの となる」 (Ⅲ,98)と
い うことを想定 しているとい うことを意味す るのであ り,し
たがってそこでは意識 と 実在の存在様式の間の原理的差異 も解消 されて しまうことになるというのである。すなわちそ こで は空間的事物の意識 に対する超越 の意味 も単なるわれわれ人間の不完全な認識の表われでしかな く, したがって意識超越的な もの と意識内在的なものの区別 もそこでは人間的認識 にのみかかわ る,単
に相対的差異で しかな く,決して絶対的な原理的差異 な どではない とされ ることになるのである09。 しか し真 に現実的に存在す るもの として語 られ うるものは,わ
れわれの人間的意識に対 して明証16
高 的 に与 えられ るものだけであるとする,フ
ッサールは人間的意識の所与様式や認識様式 を超 えるよ うな,そ
のような「物 自体」 の超越的存在様式や神的な認識様式 を想定 することを背理 なこととし て拒否す るのである。 というの は自体 的に客観的に存在する「物 自体」 を想定 するとい うことは, それがその存在本質上われわれの人間的意識か ら独立 した 自立的な客観的存在様式 を有 していると い うことを主張 してい ることになるので あるが,そ
の存在様式がわた しの経験 か らまった く独立 し た ものであるな ら,わ
た しはそれが まさにその ような客観的存在様式 を有するものであるというこ とす ら認識で きないはずであるか らである。 (六) ところでフッサールが実在的現実の全体 としての世界 を徹底的に純粋意識 によって構成 された意 味統一体 として「観念論的 に」解釈す ることで,彼
はそれを意識流の内部 に存在す るその当の意識 の実的成素 と見倣 した り,あ
るいはその全体 を主観的仮象 に変貌 させた りしようとす るのではない こと,彼
においては事物知覚 において志向的 に構成 される対象 としての実在的事物 はまさにその当 の志向的意識作用 に対 して有体 的に,志
向的に与 えられてい る超越 として見徴 されているというこ とはすでにみておいた。 したが ってフッサールに とっては,た
とえば この 〈白い四角い紙〉はまさ にこのような客観的な「 白い」色 を有 し,こ
のような客観的な「四角い」形態 を有 している同一の 対象 として,意
識 に対 して有体 的に超越的に存在 しているとされ ることになるのであるが (Ⅳ,45
f),しか し当然の ことなが ら,フ ッサールはそう主張す ることで,わ れわれの眼前 に与 えられている が ままの色や形態 を有す る対象がそれ自体 として客観的に現実的に存在 しているなどというような, 素本卜実在論的考 えに同調 しようとす るので もない とい うことは,や
は りここで明確 に確認 されなけ ればな らない。 フッサールの「超越論的観念論」の超越的実在解釈の決定的に重要な特徴 は,そ
こでは意識の志 向的対象 としての実在的事物 はまさにそのような もの として意識 に対 して有体 的に超越的に存在す るもの として解 されなが ら,
しか しその事物 の固着的性質 としてのその客観的色 も,そ
の客観的形 態 も,そ
してそれ らの諸性質の基体 としての事物 その もの も徹頭徹尾意識 によって構成 された同下 性 として見倣 されているとい うことである。(III,93f)と ころで顕現的な事物知覚 において,現
実的 にそれ 自身 として有体 的に与 えられてい るのは,ま
さに瞬間瞬間の射映 をとお して現出 している多 様 な色であ り,多様 な形態で しかないのであ り,し たが ってそのような多様 な色や形態の現出か ら, そ こにおいて首尾一貫 して存在 しつづけるその事物 の客観的色や客観的形態などの同一性がそ もそ もいかにして構成 され るのか とい うとい う問題 が ここには伏在 しているのであるが,そ
の問題 につ いては後 ほど主題的に問 うこととして,わ
れわれが ここでさしあた り注 目してお きたい ことは,フ
ッサールに とっては性質的な もの としての色が事物 その ものの回着的性質 として見倣 されてお り, 義したがってそれが形態 と同様 に
,客
観的 に実在的に存在するもの として扱われてい る ということである。 フ ッサールははた してそ う主張す ることで
,事
物 の客観的性質 としての「第一性質 (primareQualitat)」 と単 なる主観的性質 としての「第二性質 (sekundare Qualitat)」 とぃ ぅ