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はじめに きた 現 在 からはバラ 色 にも 見 え それが 映 画 やテレビなどで もてはやされるゆえんだが 時 代 考 証 の 間 違 いや 微 妙 なズレが 目 立 つ 何 より 当 時 の 雰 囲 気 が 描 き 切 れていないことがもど かしく 美 化 し 過 ぎているのも 気 にかかる

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Academic year: 2021

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はじめに

 本書は昨今ブームの昭和、主 に30年代の姿を、当時の品々な どを中心に、所蔵の写真や8ミ リフィルムの動画も使ってなる べく正確に伝えようとするもの である。  戦後の混乱も収まった昭和39 年の東京オリンピックまでのほ ぼ10年は、新たな物も次々登場 し、高度経済成長の波に乗って 明日に夢と希望を託すことがで

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きた。現在からはバラ色にも見 え、それが映画やテレビなどで もてはやされるゆえんだが、時 代考証の間違いや微妙なズレが 目立つ。何より、当時の雰囲気 が描き切れていないことがもど かしく、美化し過ぎているのも 気にかかる。ちょっと、違うん じゃない?と思うこともしばし ばで、当時の日本が誤って伝え られることへの危惧も、本著の 執筆動機のひとつだった。

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はじめに  そこで本著では、ちょうどこ の時代に東京の片隅で生まれ 育った“僕”の感じたままの空気 を再現することに、むしろ重き を置いた。現在では忘れられ語 られることも無くなったような 事柄や、負の部分にもあえて触 れ、多角的な視点を心がけた。  その点で、「昔は良かった」式 の他の類書とは一線を画す。振 り返ってみればとんでもない時 代だったと半ばあきれる反面、

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何が飛び出すかわからない玉手 箱のような興奮があり、便利さ とのどかさがほど良く共存して はいた。急速な機器の発達に人 の方が追い付いていけなくなっ ているようにも感じられる現在 と比べ、この頃が一番日本の身 の丈に合っていたのではないか と思う。  折しも執筆中に起こった大震 災に接し、その思いを強くした。 それゆえ、この時代を生きた人々

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はじめに が心地良さを覚え、まだ生まれ てもいなかった若い世代までを も惹ひき付けるのだろう。当時を 懐かしみ、あるいはかつてこん な時代があったことを知って楽 しんでいただければ幸いである。  最後に、快くご協力下さった 三越伊勢丹ホールディングス、 UBCの鵜沼敏彦氏、斉田育秀氏、 同窓の友人や知人、特に企画か ら編集までを真摯にご担当いた だいたミリアムワード代表の沼

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田利恵さんに厚く御礼申し上げ る次第である。

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© Hyouichiro Chiba

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テレビの青春時代

Vernal years of TV   名 作 ミ ュ ー ジカル『雨に唄 えば』(1952) を観てから雨 の中を歩くの が 前 よ り 憂 うつではなくなったが、そのス トーリーは映画がサイレントか らトーキーに変わる際の大混乱 を描いたものだった。日本のテ

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テレビの青春時代 レビも初期には混乱や珍事続き で、それはそれは面白いもので あった。  昭和28年(1953)にNHK1局 でスタートしたテレビ放送は、 8月には日本テレビ、昭和30年 ( 1 9 5 5 )に は KRT( 現 TBS) が開局。新聞の番組表もまだラ ジオの方がメインだった。昭和 33年(1958)には電波塔である東 京タワーが完成し、翌年2月にN ET(現テレビ朝日)、3月にフジ

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テレビが開局して、4月には皇太 子の御成婚で一気にテレビが普 及する。  しかし、“電気紙芝居”という嘲 笑や、評論家の大宅壮一による 「一億総白痴化」論のように、早 昭和35「週刊テレビ時代」創刊号より

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テレビの青春時代 くもテレビの悪影響を警戒する 声も強く、テレビの現場にはい い物を作ってこれらを見返して やろうとする熱い息吹が感じら れた。  2008年に映画リメイクされた 『私は貝になりたい』や、『マンモ スタワー』といった力作が立て 続けに生まれ、生放送のためほ とんどの映像が現存しない当時 の番組の中にあって、これらは 奇跡的にビデオテープが残され

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ている。特に『マンモスタワー』 は、斜陽に向かう映画界と日の 出の勢いのテレビ界を対比させ、 来るべき時代を予感させる力作 だった。  新たに勃ぼっ興こうしたテレビは古い 因習に縛られる映画界とは異な り、自由な雰囲気と活気に満ち ていたようだ。このころにNH Kの現場にいた僕の母親の話か らも、それはうかがえる。労働 組合も強く管理のしっかりした

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テレビの青春時代 NHKのことゆえ、民放のよう に徹夜の突貫作業などはなかっ たようだが、それでも深夜まで みんなが立ち働いた。多忙な局 員が短時間に食事が取れるよう、 廊下にはホットドッグを始め、 まだ珍しかった何種もの自動販 売機が置かれていたという。N HKがまだ内幸町にあったころ の話である。  後の人気番組『ひょっこりひょ うたん島』のプロデューサーだっ

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た同級生の父親の自宅には、作 者の井上ひさしがよく泊まりに 来ていたそうで、家族的な雰囲 気の付き合いもあったようだ。 一方、技術的にも未熟で発展途 上だったテレビの現場は、日々 ハプニングの連続だった。  生放送なのでセリフの言い間 違えは当たり前。長引いて尻切 れトンボになったり、逆に早く 終わってしまって「しばらくその ままでお待ち下さい」という画

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テレビの青春時代 面に切り替わるのは日常茶飯事 だった。刑事ドラマでは、刑事 たちが暴力団の倉庫を捜索中に 「パンッ!」。どうやら上着の下 の小道具の拳銃が、勝手に暴発 したらしい。直後に撃ち合いが 始まると、今度はさっきの刑事 が取り出した銃が発火しない。 焦って何度も引き鉄を引く悲壮 なアップが映し出され、しまい には口で「パンッ!」。あ然とし ているうちにドラマは終わって

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しまった。題名も俳優も覚えて いないのが残念だ。  あらかじめ撮ってあるフィル ムのドラマでもいろいろあった。 関口宏の実父、佐野周二主演の 帯ドラマ『パパと歩こう』は、終 わったはずが「局の者の手違い によりもう一度放送します」の テロップがかぶって最終回のや り直し。昭和40年代になっても、 千葉真一主演の『くらやみ五段』 は終了してからもしばらく、朝

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テレビの青春時代 の時間帯に番宣スポットが流れ ていた。  昭和30年代の中ごろまでは、 午後の2時から5時ぐらいまで どの局も昼休みがあって、テレ ビを点けてもテストパターンが 少年時代の筆者と自宅のテレビ

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映るだけだった。機材を休ませ るためだったらしいが、別に不 便も感じなかったし、つまらな い番組を垂れ流すよりよほど賢 明だ。受像機の方も、長時間点 けていると画像が乱れてくるの でちょうどよかった。  癪しゃくなことに、画像の乱れはい つもいいところでやってくる。 慌ててツマミを回しても元に戻 らず、腹立ち紛れに側面を引っ ぱたくと直った。当時は同じ区

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テレビの青春時代 内の羽田空港を離着陸する飛行 機が陸も飛んでいたため、その 度に轟音と共に画面がひどく乱 れた。こちらも大抵いい場面で そうなり、テレビをたたいても 仕方ないからやり過ごすよりな かった。今の衛星放送でも大雨 の時には同じような現象が起こ り、意外に進歩が無いなと当時 を思い出しながら苦笑いだ。  テレビ放送に昼休みが無く なった直後に始まった、シルバー

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オックス提供のフジの『テレビ名 画座』も、同じ映画を毎日放送 するという当時ならではの放送 形態だった。確か、続きを翌日 にというような謳うたい文句で、通 勤時間帯のように時刻の表示が 出ていた覚えがある。後に月曜 から水曜に1本、木金に1本の 週2本となって、結構長く放送 していた。洋画の定時枠も、こ れが最初だったと思う。  初めにナレーションの解説が

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テレビの青春時代 あり、予備知識を持ってじっく り観ることができた。子どもに は長過ぎると感じた映画もこの システムのおかげで分けて観る ことが可能となり、難解なヨー ロッパの映画などは、繰り返し 観てようやく理解できた作品も あった。同じように見えた西洋 人も、アメリカとヨーロッパで はこうも違うものかと教えられ もした。  この時代ならではといえば、

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NHKの公開番組『お笑い三人 組』で、こんなこともあった。2 人しか出てこないので変だなと 思ったら、誰かの奥さんが重病 だか危篤だかで、それを知った 他の2人が無理やり帰してアド リブで持たせたのだと後で聞い た。観客も承知していたそうで、 麗しい美談である。  僕もこうした空気に直に触れ たことがあった。東京オリンピッ クの直後ぐらいだったか、親戚

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テレビの青春時代 のお兄さんに誘われて、クイズ 番組の公開放送の観客としてT BSを訪れた。ロビーのテレビ でやっていた番組がつまらな かったので回そうとしたら、チャ ンネルが6に固定されていて回 らない。いい機会だからと勝手 に“見学”させてもらったが、と がめられることもなく館内を一 回りし、何人もの知っているタ レントとすれ違った。時間が来 てホールへ入る際には、耳を自

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在に動かす特技で有名だったE・ H・エリックと遭遇した。  場内では何度か拍手をする練 習をさせられ、こういう番組の 拍手が自然発生でないのがわ かってちょっとしらけたものの、 本番ではいつもモノクロで観て いる司会者の高橋圭三やセット の色も新鮮で、和気あいあいと した楽しいひと時を過ごした。 記念にもらったスポンサーのマ ルハの鉛筆は、使い掛けのまま

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テレビの青春時代 家のどこかにまだ持っているは ずだ。  後年、いくつかのテレビ局を 仕事で訪れることになるが、そ のほとんどが移転や建て替えを 経て、当時の面影を残す所は少 ない。NHKが現在の場所に移 転したのも東京オリンピックの ころだ。“朝ドラ”と “大河”(とは まだ呼ばれてなかったが……) も既に始まり、国民的二枚目ス ターの長谷川一夫がテレビで初

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主演した『赤穂浪士』が大人気 だった。翌年の『太閤記』には秀 吉に緒方拳、信長に高橋幸治と 新人2人が起用され、視聴者か ら「信長を殺すな!」という声が 殺到して2か月延命されたとい う逸話がある。  実は高橋は別の役だったのだ が、初挨拶の際に勘違いして「信 長役の高橋です」と言って拍手 が沸いたため、引っ込みがつか なくなって、まあいいやとなっ

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テレビの青春時代 たらしい。高橋は次の年の朝ド ラ『おはなはん』でもまた多数の 助命嘆願が寄せられ、その後も 大河を含めた多くのドラマで活 躍するNHKお気に入りの俳優 となった。いわばケガの功名で、 以前はこのように現場担当者の 裁量の幅が広く、いろいろな実 験や可能性を試すことも容易 だった。  アーカイブスなどで当時のド キュメンタリーを観ると、ピリ

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ピリした緊張感が漂いマスコミ としての使命感も伝わってくる。 ところが、テレビの影響力が増 すにつれ、ドキュメンタリーや ニュースに対して抗議や圧力を 受けるケースが散見されるよう になる。ドラマも同様で、表現 や描き方、さらにはモデルを巡っ て度々問題化した。実在の団体 を実名で描き、大騒ぎになった こともある。「このドラマはフィ クションです……」のおなじみ

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テレビの青春時代 のテロップも、そうした経緯か ら生まれたものだ。  局側に非のあることも少なく なかったが、行き過ぎとも思え る苦情にまで神経をとがらせる ようになり、次第に自主規制と いう守りの姿勢が強まっていっ た。多少のことは大目に見られ ていたテレビも青年期を過ぎ、 それなりの分別が求められる段 階に入ったということだろう。 その一方で視聴率競争の激化か

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ら、いわゆる低俗番組が生ま れ、視聴者の目も厳しくなって、 ちょっとした手違いにも寛容で はなくなっていった。視聴者と の距離も近くなっているように 見えて、実はどんどん遠くなっ ている。  さまざまな制約と視聴率の狭 間で、日々番組を作り続けてい くのはさぞ大変だろうなとは思 う反面、昨今は目に余ることも 少なくない。デジタル放送になっ

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テレビの青春時代 て技術的には向上しても、肝心 の番組内容がおろそかになって は意味がない。テレビと共に育っ てきた僕としては、今後が大い に気になるところだ。

参照

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