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ご挨拶

大阪府・堺市・羽曳野市・藤井寺市は、平成 19 年度から百舌鳥・ 古市古墳群を保存し、後世に継承していくために、世界文化遺産登録 にむけた取り組みをはじめました。平成 20 年 9 月には、その価値が 認められ、文化庁文化審議会文化財分科会世界遺産特別委員会から、 「世界遺産暫定一覧表への記載が適当」と評価されたところです。  しかし、登録の実現は決してたやすいものとは言えません。人類の 宝物として、後世に継承していくためには、古墳と調和した景観を含 め保護・保存をどのように行っていくかという点は大きな課題です。  本日は、歴史学及び都市計画などの分野でご活躍の先生方によるご 講演、パネルディスカッションを通じて、みなさまとともにこの大き な課題解決にもつながる 世界遺産とまちづくり について考え、理 解を深めることができればと大いに期待しております。 最後になりましたが、本シンポジウムの開催にあたりまして、ご多用 にもかかわらず、ご講演を快諾いただきました先生方、並びにご協力 を賜りました関係機関のみなさま方に厚く御礼申し上げ、ごあいさつ とさせていただきます。       平成 21 年 11 月 15 日       百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進府市合同会議       会長 向 井 正 博

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百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進府市合同会議主催シンポジウム 「百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録をめざして∼世界遺産とまちづくり∼」 開会の辞 10:00 ∼ 10:10 開会あいさつ 第Ⅰ部 百舌鳥・古市古墳群の歴史的な価値 10:10 ∼ 11:00 基調講演 「倭の五王と巨大古墳」 上田 正昭 氏(京都大学名誉教授) 11:10 ∼ 11:30 調査報告 「発掘最前線∼御廟山古墳の発掘成果∼」 十河良和(堺市市長公室文化財課主査) 11:30 ∼ 11:50 調査報告 「発掘最前線∼津堂城山古墳の発掘成果∼」 上田 睦(藤井寺市教育委員会文化財保護課チーフ) 第Ⅱ部 世界遺産とまちづくり 13:00 ∼ 13:40 講演 「百舌鳥・古市古墳群の世界遺産一覧表への記載をめざして」 本中 眞 氏(文化庁記念物課主任文化財調査官) 13:40 ∼ 14:20 講演 「世界遺産のある町 文化遺産が開く未来のまちづくり」 宗田 好史 氏(京都府立大学准教授) 14:20 ∼ 15:00 講演 「文化遺産を活用したアジア連携ツーリズム」 石森 秀三 氏(北海道大学観光学高等研究センター長) 第Ⅲ部 世界遺産を活かしたまちづくり 15:20 ∼ 16:30 パネルディスカッション テーマ「世界遺産を活かしたまちづくり」 コーディネーター:石森 秀三 氏(北海道大学観光学高等研究センター長) パネラー:本中 眞 氏(文化庁記念物課主任文化財調査官) 宗田 好史 氏(京都府立大学准教授) 一瀬 和夫 氏(京都橘大学教授) 足立 久美子 氏(歴史街道推進協議会メインルート事業部課長)

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ご紹介

上田正昭 先生

京都大学名誉教授 昭和 2 年(1927)兵庫県生まれ。 大阪府立大阪女子大学学長のあとアジア史学会会長、大阪府立中 央図書館名誉館長、島根県立古代出雲歴史博物館名誉館長、高麗 美術館館長などを兼任する。 百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録有識者会議顧問 「アジアのなかの日本」ということを一貫して古代史研究のテーマ としている。河内王朝論を提唱している。 勲二等瑞宝章などの受賞歴が多数ある。

石森秀三 先生

北海道大学観光学高等研究センター長  北海道大学大学院観光創造専攻長 昭和 20 年(1945)兵庫県生まれ。 観光立国懇談会委員(内閣府)、国土審議会専門委員(国土交通省)、 文化審議会専門委員(文化庁)、文化審議会企画調査会会長(文化庁) などを歴任する。 百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録有識者会議座長 観光革命、観光ビッグバン、自律的観光など、新しいコンセプト を提唱し、日本における総合的な観光をリードしている。

本中 眞 先生

文化庁記念物課主任文化財調査官 昭和 29 年(1954)大阪府生まれ。 日本造園学会。 遺跡庭園や歴史的庭園に関する多数の調査研究がある。 石見銀山遺跡の世界遺産登録を実現し、現在、平泉の世界遺産登 録に精力的に取り組むかたわら、全国各地の史跡、名勝の保存整 備指導などに従事している。

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宗田好史 先生

京都府立大学生命環境学部環境デザイン学科准教授 昭和 31 年(1956)静岡県生まれ。 国際記念物遺跡会議(理事)、日本イコモス国内委員会第 11 分科 会(景観)委員、日本建築学会、日本造園学会、百舌鳥・古市古 墳群世界文化遺産登録有識者会議委員、同専門部会委員を兼任する。 平成 20 年羽曳野市で講演「まちづくり計画と歴史遺産」。平成 20 年度藤井寺市で講演 「 世界遺産の基礎知識−変わりゆく世界遺 産の世界と百舌鳥・古市古墳群を考える 」。 都市と地域の歴史・自然環境保全計画や観光に関する研究と実践 的活動を続けている。

足立久美子 先生

歴史街道推進協議会 メインルート事業部課長 京都府生まれ。北陸放送(株)報道制作局を経て平成 5 年より ( 社 ) 奈良まちづくりセンター勤務の後、現職。 文化経済学会会員、文化庁文化審議会文化財分科会世界文化遺産 特別委員会委員、文化庁古墳・壁画保存・活用検討会委員、世界 遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会専門委員会委員などを兼任。 「参加と連携」をキーワードに関西の豊かな歴史・文化資源を生 かした地域づくり・文化発信・観光振興を通じて「歴史街道計画」 の推進に取り組んでいる。

一瀬和夫 先生

京都橘大学文学部文化財学科教授  昭和 32 年 (1957) 大阪府生まれ。大阪府教育委員会文化財保護課 で主に古市古墳群の発掘調査に従事。近つ飛鳥博物館の建設準備 段階よりかかわり、同館のシンボル仁徳陵古墳の 150 分の 1 模型 を企画監修。平成 8 年度春季特別展「仁徳陵古墳‐築造の時代」 を担当する。 日本考古学協会、古代学研究会。 東アジアの古代墳丘墓、古代以前の住居と船、考古学のハンズ・ オン展示と活動をテーマに研究に取り組んでいる。

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倭の五王と巨大古墳

京都大学名誉教授 上田正昭  中国南朝の宋へ、421 年から 478 年まで、倭国の王者の讃・珍・斉・興・武の五王が遣使朝 貢したことを『宋書』夷蛮伝倭国の条が伝えている。いわゆる倭の五王の伝承がそれである。 この五王を 5 世紀の倭国王者のだれに比定するか、江戸時代以来さまざまに論議されてきた。 讃については應神・仁徳・履中の各天皇に、珍については仁徳・反正・履中の各天皇にそれぞ れ比定する説がある。しかし珍はミズハワケ(反正天皇の諱)のミズ(瑞)の意訳表記であり、 武はワカタケル(雄略天皇の諱)の音訳表記であって、『宋書』・『梁書』と倭国の「帝紀」の原 系譜とをあわせ考えると、讃(履中天皇)・珍(反正天皇)・斉(允恭天皇)・興(安康天皇)・武(雄 略天皇)とみなす説が有力となる。  ところで、5 世紀の倭国の王権を考える場合に軽視できないのは、巨大な前方後円墳が河内 に集中して存在することである。全長 280m をこえるのは表 1 のように 9 基あるが、そのうち の 5 基は河内に所在する(河内 3 基、和泉 2 基だが、河内の地域から和泉が分置されたのは、 757 年の 5 月 8 日であり、ここでは河内に含む)。そのなかの(5)の大塚古墳は 6 世紀だが、 あとはすべて 5 世紀の巨大古墳であって、百舌鳥・古市両古墳群を代表する大山古墳・誉田山 古墳・ミサンザイ古墳・ニサンザイ古墳となる。  古市古墳群域では 4 世紀後半の津堂城山古墳(208m)、4 世紀末葉の仲ツ山古墳(286m) が築造され、百舌鳥古墳群域では 4 世紀後半の乳の岡古墳(約 150m)、5 世紀初頭のミサンザ イ古墳(360m)というように河内の地域(河内南部・和泉北部)に 150m 級以上の巨大前方 後円墳が出現する。  古墳は基本的にその政治勢力の本 拠地で造営されるものであり、私が 1967 年の 1 月に出版した『大和朝廷』 (角川書店)で提唱した河内王朝説の 根據のひとつは、百舌鳥・古市両古 墳群のなかの 5 世紀を中心とする巨 大古墳の存在があった。もとよりそ れだけではない。倭王権の由来を物 語る国生み神話がなぜ大阪湾を舞台 として具体化するのか。應神天皇の 大隅宮、仁徳天皇の高津宮、反正天 皇の丹比柴籬宮、雄略天皇の志幾宮、 顯宗天皇の近飛鳥宮など、宮居伝承 は河内にもあり、5 世紀後半のころ 表 1 古墳と規模 6

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から倭王権をになう有力氏族がなぜ河内を基盤に登場するのか。こうした状況を前提としての 河内王朝説の提起であった。  5 世紀の倭国王者について注 目されるのは、その諡である。 表 2 をみてもわかるように、5 世紀の王者はたとえば(15)ホ ムタワケ(應神)・(17)イザホ ワケ(履中)・(18)ミヅハワケ (反正)というようにワケをおび、 その諡には諱あるいは諱に類す る名が反映されている。(『大王 の世紀』、小学館、1973 年)  倭国における王者への和風の 諡号献呈は殯で行われ、そのは じめは安閑天皇の代からであっ たことが指摘されているが、諡 のならわしは中国や朝鮮にも あって、たとえば『後漢書』に は興平元年(194 年)の 2 月、皇妣王氏に霊懐皇后と諡したと記し、『三国史記』の高句麗本 紀には美川王 32 年(321 年)の 3 月に乙弗に美川王と諡したと述べる。  表 2 の(1)カムヤマトイワレヒコ(神武)、(4)オホヤマトヒコスキトモ(懿 徳)、ヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)、(7)オホヤマトネコヒコフ トニ(孝霊)、(8)オホヤマトネコヒコクニクル(孝元)(9)ワカヤマト ネコヒコオホヒヒ(開化)の類は、持統天皇の諡のオホヤマトネコや文武 天皇の諡のヤマトネコトヨオホヂなどと対応する。そして(12)オホタラ シヒコオシロワケ(景行)(13)ワカタラシヒコ(成務)、(14)タラシナ カツヒコ(仲哀)は、舒明天皇の諡のオキナガタラシヒヒロヌカ、皇極(斉 明)天皇の諡のアメトヨタカライカシヒタラシヒメと対応する。  しかし(10)ミマキイリヒコイニエ(崇神)、(11)イクメイリヒコイ サチ(垂仁)は、その諡にイリをおび、崇神・垂仁両天皇の皇子・皇女に はイリを名乗るものが 19 例もある。これは(15)・(17)・(18)がワケを おび、その諡がホムタ・イザホ・ミズハというように諱あるいは諱に関す る名を核としていることとあわせて注目にあたいする。  奈良盆地の東南部を本拠とした倭王権をイリ王権とよび、河内を本拠 とする倭王権をワケ王朝とよんだのもそのことにもとづいていた。「朝廷」 は「内廷」(宮中)と「外朝3」(府中)とによって成り立つが、内廷のみの 王権を朝廷とよんだり王朝と称するわけにはいかない。また無限定に「大 表 2 大王名と諡名 表 3 倭の五王の系譜 7

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和王権」とか「大和朝廷」とかの表記がしばしば使われるが、『古事記』・『日本書紀』などのヤ マトはすべて倭・大倭であり、「大和」の用字は「養老令」(たとえば「田令」から具体化する。 そして「養老令」の施行(753 年の 5 月 8 日)以後に使用されている。したがって「養老令」 以前のヤマト王権・ヤマト朝廷に、無限定に「大和」を用いるのは学問的ではない。  5 世紀の王権を論ずるさいには、当時の東アジアの動向とのかかわりを注目する必要がある。 その第一は東アジアにおける国際関係のなかでの倭王の地位である。永初元年(420 年)に高 句麗王は鎮東大将軍となり、百済王は鎮東大将軍となっていたが、讃・珍・済・興は一ランク 下の安東将軍であった。安東大将軍になったのは昇明 2 年(478 年)の倭王武のおりである。 しかも高句麗王は大明 7 年(463 年)に、すでに第一品の開府儀同三司となっていたので、倭 王武は開府儀同三司を自称し、「その余も威な仮受」したと『宋書』は明記する。「その余も威 な仮受」とは、倭王武が倭王武のもとの有力首長に軍号を宋王朝の承認したことを意味する。  このことは、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文や熊本県菊水町(現和水町)の江田 船山古墳出土の大刀銘文に、ワカタケル大王(倭王武)が「治天下」の「大王」と記されてい るありようとも照応する。「治天下」の表記は、『孟子』や『漢書』をはじめ『三国志』の『魏書』 あるいは北魏の『魏書』などが述べるとおり、中国王朝が「天下」の中心であり、皇帝の徳は 「天下」のすべてに行きわたるという世界観にもとづく。東夷の倭国の王者が「大王」と称して 「治天下」を名乗り、しかも 478 年から 600 年の遣隋使まで、中国王朝へ遣使朝貢しなかった 冊封体制からの自立化の動きを示したことをみのがすわけにはいかない。  稲荷山鉄剣銘文には、意富比垝→多加利足尼→ 弖已加利獲居→多加披次獲居→多沙鬼獲居→半弖比→ 加差披余→乎獲居臣の八代にわたるタテ系譜を記す が、第 3 代のテミカリワケ・第 4 代のタカハシワケ・ 第 5 代のタサキワケのワケは、各地の有力豪族が称し た首長の尊称とした「ワケ」であり、それが五世紀代 になると第 8 代のオワケオミすなわちカバネの「臣」 へと変化した推移を物語る。こうした尊称の「ワケ」 からカバネの「臣」への移りかわりは、『上宮記』の 「一云」が語る伊久牟尼利比古大王のタテ系譜がやは りイハチワケ→イハユリワケ→マカワケツクワケを経 てアハハケ君(きみ)へと、「ワケ」からカバネの「君」 へと推移し、『和気系図』水分命のタテ系譜が同じよ うに第 7 代目のクロヒコワケまでが尊称の「ワケ」を 称して、第 9 代のカミコノワケ君(きみ)へと、カバ ネの「君」と移りかわってゆくのと同じようなプロセ スをたどる。五世紀代に各地の有力首長が「ワケ」を 名乗らなくなるのは、五世紀になる倭国の大王家が「ワ ケ」の尊称を独占し、五世紀の後半には大王家を頂点 資料 1   稲荷山古墳鉄剣銘   資料 2   江田船山古墳大刀銘 8

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とするウヂ・カバネの別が成立するプロセスを反映している。  稲荷山古墳の鉄剣銘文には「杖刀人首」とみえるが、この「杖刀」とは天平勝宝 8 年(756 年)の『東大寺献物帳』に記する「杖刀」のとおり儀杖用の刀であり、「杖刀人」とは儀杖用の 刀をおびて大王の側近として仕えた武人(官人)であった。江田船山古墳大刀銘文には「典曹人」 とは『三国志』の『蜀書』に収める呂父伝の「典曹都尉などと同じ用語で外交文書などの関係 の仕事にたずさわった文人(官人)である。「杖刀人」は内廷の官人であり、「典曹人」は外朝 の官人であったといえよう。大化前代の倉の出納事務に従事した官人を「倉人」、あるいは服飾 関係の仕事にかかわりをもった官人を「服人」とよぶ用例の官人制を背景とする内廷・外朝の ありようを示唆する。  このように検討してくると、五世紀の河内の地域に、大山古墳や誉田山古墳を代表とする百 舌鳥・古市両古墳群のなかの巨大古墳が物語る歴史的意義の重さと深かさとが、改めて浮かび あがってくる。 資料 3   瑞鳳塚銀合 杅 銘 資料 4   好太王碑文 資料 5   ﹁宋書﹂夷蛮伝倭国之条 9

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「世界遺産のある町 文化遺産が開く未来のまちづくり」

      京都府立大学准教授 宗田 好史 1 世界遺産のある町を考える視点:    ・ 日本の都市・地域計画を取り巻く5つの課題:人口減少と高齢化・低炭素社会実現・     グローバル化による産業経済の転換・地方制度改革と行政の効率化・国民が求める都 市地域像の変化)    ・景観法と歴史まちづくり法が示す美しい国土の創造、地域再生に果たす古墳の役割    ・工業立国時代の都市像と観光立国時代の都市像、大阪大都市圏の再生とは?    ・社会資本整備審議会の示す 21 世紀の「エコ・コンパクトシティ」像 2 推薦の準備を行う過程で取り組むべき課題:適切かつ十分な保存のため講ずべき措置    ・周濠の景観保全,水質保持についての考え方を明示すること。    ・周辺環境の望ましい保全のために必要とされる緩衝地帯の範囲や具体的手法等を適切 に定め,関係地方公共団体により着実に実現していくこと。    ・構成要素が数多に及び,所有者等も複数にわたることから,大阪府及び関係市間の横 断的な意思疎通・連携協力の体制をさらに充実する。特に,所有者・管理者との合意 形成を確実に進める。 3 古墳とまちづくり、百舌鳥・古市古墳群を活かしたまちづくりのために考えるべきこと    ・古墳の魅力を満喫できる「緩衝地帯」の幅をどう設定するか?    ・すでに形成された優れた住環境、特に「第一種低層住居専用地域」(高さ 10m)・「第 二種低層住居専用地域」(高さ 15m) 、「大仙風致地区」(高さ 15m )の制限をより有 効にするためには?    ・「世界遺産のある町」の住民が享受すべき遠方の背景を守るために必要な計画とは、    ・隣接の駅周辺の「商業系用途地域」を「世界遺産のある町」に転ずるための高度地区 の規制は?    ・「視点場」という考え方を活かした、「世界遺産のある町」の観光政策とは?     ・「世界遺産のある町」に必要な広告物(特に幹線道路沿いの郊外系の商業施設の広告物) を考える    ・3つの市それぞれに、市全体の「景観計画」は用意できるのか? 4 景観計画に活用される考古学・遺跡から考える都市計画    ・EU 諸国の景観計画に活かされた考古学遺跡    ・考古学の知見を活用した都市・地域計画の手法、エコ・コンパクトシティに相応しい 26

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史跡の活用    ・陵墓の取り扱いに関わる国民的な理解を前提に、未来のまちづくりに古墳を活かすま ちづくりを    ・世界遺産にふさわしい保存管理を考える上で、古墳群の完全性・一体性をもう一度検 証しつつ、百舌鳥・古市古墳群のある大阪府南部全体を考える地域再生の方法論とは? 5 転換期にある日本の都市と地域、そして21世紀の堺・羽曳野・藤井寺を展望する    ・「工場とニュータウン、そして空港のある町」から「世界遺産のある文化都市」を創る 取組み 27

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文化遺産を活用したアジア連携ツーリズム

      

北海道大学観光学高等研究センター長             大学院観光創造専攻長 石森 秀三 1.いまなぜ観光が重要なのか (1)ツーリズム産業は世界のリーディング産業=省資源・省エネルギー型産業    *全世界のGDPの 9.9%、 全世界の雇用の 8.4% (2)観光国富論=観光は国富を増大させることに貢献している * 2006 年:旅行消費額= 23.5 兆円 生産波及効果= 52.9 兆円 産業連関表国内生産額の 5.6%、雇用効果= 442 万人(総雇用の 6.9%) (3)観光福利論=観光は国民にさまざまな幸福や利益・便益をもたらしている    *旅行のパワー+観光のパワー=非日常の時空間が生みだす「多様なパワー」    *歓び、感動、幸せ、癒し、学び、創造、他者との出会い、自己の再発見 (4)観光安全保障論=観光は世界平和の創出や安全保障に貢献している    *「文化的安全保障 (Cultural Security)」としての国際観光 2.グローバル・トレンドと文化的安全保障 (1)第3次世界大戦としての冷戦の終結(1989 年) (2)米国主導のグローバリズム→文明の衝突=「米国文明」対「イスラム文明」 (3)第4次世界大戦の勃発=米国同時多発テロ(2001 年)    *非対称世界(「富裕世界」と「貧困世界」)間の戦争 (4)文化多様性 (Cultural Diversity) の重要性→文明間の対話 *「文化の多様性に関する世界宣言」[UNESCO 2001 年] *「無形文化遺産保護条約」[UNESCO 2003 年] *「文化多様性条約」[UNESCO 2005 年] (5)「国家の安全保障」から「人間の安全保障 (Human Security)」へ *人間の安全保障=人間の生存に不可欠な諸条件(基本的人権、健康、文化的生活 、 経済的安定性、快適な環境、政治的平等性など)の保障 (6)「軍事的安全保障」から「文化的安全保障 (Cultural Security)」へ *文化的安全保障=個々の文化の尊厳と存立の保障 (7)「G8」体制から「G20」体制へ=アジア大交流時代の幕開け 3. 2010 年代における観光ビッグバン=グローバル化への対応 (1)第1次観光革命(1860 年代):ヨーロッパの富裕階級(有閑階級) 28

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(2)第2次観光革命(1910 年代):米国の中産階級 (3)第3次観光革命(1960 年代):北の先進諸国(日本を含む) (4)第4次観光革命(2010 年代後半)=アジアにおける「観光ビッグバン」 (5)1億 6000 万人(1970 年 ) →4億 5000 万人(1990 年 ) →6億 8800 万人(2000 年 ) →8億 4200 万人(2006 年 ) → 10 億人(2010 年 ) → 15 億 6000 万人(2020 年 ) (6)中国の躍進=中国人の外国旅行者数の推移 506 万人(1996 年)→ 1、047 万人(2000 年)→ 2、022 万人(2003 年) → 3、000 万人(2005 年)→ 4、095 万人(2007 年)→→→ 1 億人(2015 年) (7)アジア諸都市における巨大空港の建設 4. 国家的課題としての地域再生=少子長寿化への対応 (1)少子化による人口減少+長寿化=地域社会の変化+産業構造の変化 (2)2030 年における地域経済規模予測(経済産業省、2005 年) *大都市圏と一部の地域を除いて、ほとんどの地域で経済規模縮小 *とくに北海道の各地域における経済規模縮小が顕著になる (3)地域経営の転換:「定住人口」重視から「交流人口」重視へ (4)観光を核にした地域活性化の創出=地域間競争の激化=観光をめぐる大競争時代 5.ライフスタイル・イノベーション(暮らし革新)=成熟社会化への対応 (1)自然環境破壊、ヒト体内環境の破綻、ヒトの心の破綻 *ボディ(からだ)とマインド(こころ)とスピリット(たましい)の一体化 (2)有給休暇取得率 46%で低迷―→有給休暇完全取得法(仮称)―→内需拡大 (3)人生をいかに楽しむかが重要になる―→観光(旅行)需要の増大 (4)GNP(国民総生産)重視からGNH(国民総幸福)重視へ (5)成熟社会における新しいライフスタイルの創造=食、住、遊、学、健、美 (6)新しいライフスタイルを求めて、アメニティ・ムーバーが動く 6.ツーリズム・イノベーション(観光革新)の必要性 (1)20 世紀は「他律的観光の時代」 (2)他律的観光=パッケージツアー依存=旅行会社依存型観光=マスツーリズム (3)21 世紀は「自律的観光の時代」=旅行者と地域社会の自律性 (4)1990 年代から観光ニーズの変化→バブル崩壊+インターネット革命 (5)「団体旅行」から「個人・夫婦・家族・小グループ旅行」へ (6)名所見物型観光から参加体験・自己実現型観光(学び・癒し観光)へ (7)「周遊型観光(ファーストT)」から「滞在型観光(スローT)」へ (8)「観光(視覚重視)」から「感幸(五感重視)」・「歓交(交流重視)」へ (9)「観光の量」重視から「観光の質」重視へ 29

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7.アジア連携ツーリズムの重要性 (1)日本人の外国人に対する意識(世論調査:内閣府、2003 年) *外国人旅行者が増えてほしくない=約 32% *外国人への査証免除・手続き簡素化は不要=約 53% (2)文化多様性 (Cultural Diversity) の時代における国民意識の改革 (3)「東アジア観光共同体」の必要性=アジア連携ツーリズムの推進 (4)「異なる文化」と「共通の文化」 *百舌鳥古墳群・古市古墳群にみる「東アジアとの活発な交流」 *世界三大古代帝王陵(ピラミッド、秦始皇帝陵、仁徳陵古墳) (5)世界遺産をとおしての「アジア連携ツーリズム」 *百舌鳥古墳群・古市古墳群の世界遺産登録による東アジア連携 (6)観光振興の王道 *歳月をかけて、「民産官学の協働」で自律的に地域資源の持続可能な活用を図ること 30

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古墳見台とまちづくり−仁徳陵古墳ころの空間環境と現在

      

京都橘大学教授 一瀬和夫 百舌鳥と古市の大古墳  大阪府堺市にある百舌鳥古墳群と同藤井寺・羽曳野市にある古市古墳群は大形の前方後円墳 を中心とし、日本の2大古墳群と称される大型古墳群である。これらは大王級の古墳が4世紀 代に奈良県の大和盆地にあった墓域から大阪湾に面した大阪の河内・和泉に変え、日本古墳時 代、墳墓がもっとも大きくなったときの産物である。そして墳丘の大きさがこの5世紀代にピー クをむかえることから、中国史書『宋書』に記される「倭の五王」の時代との関連性がより一 層注目される。  百舌鳥古墳群は大阪湾にそった台地端にある。墳丘長 486 m、日本第1位の仁徳陵古墳をは じめとして、群内で墳丘長 360 m、日本第3位の履中陵古墳の出現をもってこの古墳群が突 出した存在になる。内部の状況が分かるのは、仁徳陵古墳東側に隣接する径 35 m、円墳の塚 迴古墳は船形木棺のなかから、鏡、刀剣、玉類が出土した。墳丘長 186 mの御廟山古墳に東接 する径 50 m、円墳のカトンボ山古墳は粘土槨のなかから、鏡、鉄製品、滑石製の玉類・模造 品が出土する。仁徳陵古墳内部は 1757(宝暦7)年に後円部頂上で「石ノ唐櫃」が伝えられ、 1872(明治5)年には前方部で長さ 3.9 mの竪穴式石室が確認された。なかから長さ 2.4 mの 蓋をもつ長持形石棺と金銅裝甲冑などが出土する。  一方、古市古墳群は大阪府藤井寺・羽曳野市の河内平野に突き出す墳丘長 208 mの津堂城山 古墳が大型墳の初現となる。台地上の古墳で目立つのは 290 mの仲津媛陵古墳、群内で最大の 古墳は墳丘長 415 mの応神陵古墳である。後者の西に接するアリ山古墳では刀剣・鉄鏃・農工 具の大量埋納、北側の誉田丸山古墳では金銅製鞍金具がついた馬具の出土がある。副葬品全体 では、鉄器、中でも武器武具の多さが目につくのが特徴である。それには物量的な軍事支配を 感じさせる。  さまざまある古墳群の個性のなかで、もっとも周囲を圧倒する存在感はなんといっても墳丘 の大きさであろう。最大の仁徳陵古墳は鍵穴形をする墳丘本体にくわえて、まわりに周濠・堤・ 外周溝がつく。すべてを含めた長軸全長は 850 mにおよぶ。JR阪和線の三国ヶ丘駅から百舌 鳥駅までの一駅間の長さになる。現在、周囲は 2850 mの遊歩道がまわり、一周できるようになっ ている。この規模からすれば、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦始皇帝陵、メキシコ のテオティワカン太陽の神殿など世界中の巨大なモニュメントと比べられることが多い。それ らのマウンドは単純な方形だが、仁徳陵古墳のばあいは三角と円を組み合わせた鍵穴形の前方 後円形。そして、そのまわりに水をたたえた周濠があるという独自のスタイルをもつ。このこ とこそがその存在をよりきわださせる。 31

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居住地と葬地、宮と街道  さてそうした大きな墳丘を築いた古墳被葬者はどのような支配・生活空間に身をおいていた のだろうか。  応神天皇の宮は『日本書紀』に難波大隈宮、仁徳天皇は『記紀』ともに難波高津宮として伝 えられる。履中天皇は大和の磐余だが、『古事記』の文中には難波宮が登場する。反正天皇は『記紀』 ともに丹比柴籬宮である。その丹比というところは『日本書紀』仁徳一四年条に「大道を京(難 波宮)の中につくる。南門より直ちに指して丹比邑にいたる」とあるとしてその位置が分かる。 この大道は発掘調査でその一部が確認されている。これに直交して東西にはしる街道がある。『日 本書紀』天武元年条にある「大津・丹比の両道」である。両者は長尾・竹之内街道とも称される。 これらの道は『古事記』履中天皇の条には近つ・遠つの2つ飛鳥の説話の舞台となった。  これらの記事をそのまま信用することはできないが、一時期、大阪の摂津・河内に宮の名が 集中するということはそこに宮伝承の核があったことは否定できないであろう。ただし当時の 宮と呼ばれるものはのちの宮都・藤原京のような周囲の役割をも盛り込んだ計画的な都市構造 をもたないまちづくりであったろう。この段階の古墳はまわりに衛星的に配された小型墳がと りまくという陪冢というものを備えるが、それと同じように近親の従者などの居館がやや離れ て分散、配備されることで、全体が防御されたと考える。そうした空間のあいだに市や倉、祭 などの役割をになった場所もあったとイメージできる。その中心をなす宮は大王が居住すると ともに政を執り行う空間であり、それは大和と河内に数カ所はおかれていたであろう。そのな かでも拠点化、特化されたものが、『記紀』に残された宮の所在伝承なのであろう。  一方、街道の伝承についても、記載にあるような時期に整備されたかとなるとはなはだあや しいが、後に見るように難波宮と百舌鳥・古市古墳群という場所をむすぶ重要なところにある 道である。古墳築造後もつづいた主要な道として地域に息づいていたことから、その起源記載 が残ったことはあきらかであろう。   仁徳陵古墳ころの被葬者近辺  先の宮の伝承とともに、応神・仁徳・履中・反正天皇的な人物の存在が伝わる時期に街道や まちづくりの記事が集中していることは興味深い。なかでも墳丘の大きさから考えても中心的 な役割をになったであろう仁徳陵古墳の築造のころの周囲をイメージしてみよう。  難波宮があったと目される上町台地の北の端で、古墳時代にもっとも高かった地点にあるの は大阪市法円坂遺跡である。そこで検出された倉庫群跡は、現在、大阪歴史博物館と NHK あ る南に保存される。桁行5間(約 10 m)、梁行五間(約9m)の掘立柱建物 16 棟が南北2列 にならぶ。方位はほぼ真東西、全体に東西方向にならぶ。側柱と床束の他に棟持柱がつく東西 棟の入母屋造りの高床式のものが中心となる。立地は西に大阪湾、東に寝屋川、北に淀川と三 方が水に囲まれた上町台地の突端、最高所のもっとも目立つところにある。この法円坂遺跡倉 庫群がニサンザイ古墳築造後ぐらいに廃絶したことからすれば、先の4代にイメージされる大 王が支配していた間に機能していたとみると考えやすい。  さて居館の明確な証拠は今のところない。ただし、群馬県高崎市の三ツ寺Ⅰ遺跡では方形に 32

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濠を囲んだ屋敷地が見つかっており、これが参考になる。全体で一辺 160 m。濠斜面内側には 古墳と同じように石が葺かれる。3重の柵列がまわった本体は一辺 86 mの大きさである。中 は南北に分割され、南区画は一辺 12 mの大形掘立柱建物、その北側には導水装置のつく祭り のあとがのこる石敷施設、南側に井戸、西側に柵列にそった長細い建物。北区画では工房であ る竪穴住居といったものがある。  屋敷地内に1メートル程の盛土と整地がほどこされる。その中で上下の土層に分かれて3時 期の変遷を経て建物の拡充がなされた。それに呼応して保渡田古墳群3基の首長墓が北西側1 km の地点に存在する。墳丘長は 108 mの二子山、96 m八幡塚、105 mの薬師塚古墳である。 この3基3代は履中陵・仁徳陵・ニサンザイ古墳に重なった時期になる。  このことからすれば、100 mの墳丘規模をもつ古墳の被葬者は一辺 80 m程の屋敷地に住ん だことになる。墳丘長 486 mの仁徳陵古墳被葬者が居を構えるならば、三ツ寺Ⅰ遺跡の5倍く らいで一辺 400 mぐらいにはなる。法円坂遺跡の倉庫群のすぐ近くに仁徳陵古墳被葬者がその 大きさの居を構えていたならば、現在の大阪城本丸や前期難波宮朝堂院クラスに匹敵する。  倉庫群をシンボルマークととらえると、古市・百舌鳥古墳群築造のピーク時にあたる中心地 は大阪にとって、今も昔も変わらないところにあった。大阪が日本列島で中心的な存在になる ときには、同じような地点に重なってくる。その付近に建つ大阪歴史博物館からは、高いビル が多少邪魔するが仁徳陵古墳は目視できる。つまり、難波宮に大王がとどまっているときには 高いところに登りさえすれば仁徳陵古墳築造のようすをうかがい知ることができたということ になる。   被葬者の周縁  一方、古市は難波宮を中心にひろがる大農業基盤である河内平野の南端中央につきだす古市 古墳群北端の津堂城山古墳がある。コンピュータでは江戸時代に付け替えられた大和川の土堤 がじゃまをして平野からは眺望のシミュレーションができないが、後円部墳頂からの平野の眺 めは良好である。百舌鳥・古市は図1のとおり、法円坂遺跡からは田園地をはさんで 10 数 km はなれた平野縁辺部、台地端にならぶ。  津堂城山古墳には大量の埴輪がたてられ、葺石が葺かれる。埴輪を焼くのには多くの燃料が、 葺石には多くの川原石が必要である。平野の人々には至近距離で威容を誇ったが、燃料も川原 石も乏しい地点での築造となった。5世紀の古墳にとって葺石と埴輪は必需品であった。それ と相まって、さらに燃料が求められる鉄鍛冶や窖窯による須恵器づくりといった手工業が平野 縁辺部で展開しはじめた。これらは百舌鳥・古市の発展と重なっていた。  埴輪づくりのようすは大阪府高槻市新池遺跡でよくわかる。この遺跡は継体陵古墳と今城塚 古墳の中間に立地し、両者に埴輪を供給した埴輪窯とその工房跡及び住居がある。古い方のA 群は 0.8km はなれた継体陵古墳へ運ぶ。継体陵古墳は造営キャンプやその墓域などが半径1 km でユニット化していた。丘陵斜面に長さ 10 mほどの窯を3基ならべて全体の高い部分を 溝で囲んだ。上の丘陵上縁辺には作業場である 100 ∼ 140 ㎡ある大形竪穴住居が3棟ならぶ。 その南東にやや離れて、キャンプと目されるカマド付竪穴住居が集中するユニットは全体で径 33

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150 mの範囲で展開する。  古市の仁賢稜古墳では外堤部分に一部がかかって埴輪窯が存在したことから、規模の大きい 古墳は墳丘周囲に付随していた可能性がある。応神陵古墳や仁徳陵古墳のものは西側の段丘崖 に工房を設定するのがふさわしいが、今のところ明らかなものはない。  鍛冶工房の機能は河内の北・中・南部ブロック、大和中・南部に割り振られ、中心より 15km と 30km はなれた丘陵沿いで帯状に展開したことになる。須恵器の工房は当初、北が千 里丘陵、東が枚方丘陵、南が古市の北の長原遺跡と百舌鳥の南の陶邑窯跡群など周辺丘陵ぞい 各所に設けられたが、百舌鳥古墳群の設営と物流ネットワークに伴って、陶邑が突出して大型 化することになった。さて、物を運ぶだけであれば、瀬戸内−大阪湾−河内平野の水上交通が すでに整っていた。道の整備は5世紀はじめに整備された乗馬と関係すると考えられる。大阪 府寝屋川市蔀屋北、長原遺跡例からすれば、当時、多くの馬、飼育技術、馬装技術が大阪湾に 面した川沿いの湿地帯に設営されたことがあきらかになりつつある。その位置は法円坂遺跡の 位置が求心的な存在になっていそうである。 古市・百舌鳥古墳群における主要古墳間の連関規制  三ツ寺Ⅰ遺跡の居館の葺石めいた貼石状の濠、円筒埴輪列を思わせる何重にも囲む柵列といっ た空間区画の表現手法に類似性がある。その統治ラインもまた、大型墳にとりつく陪冢のよう にかなりの格差をもちながら付随防御的な施設としての役割をもっていたようである。そうし た統治ラインのまわりにある農業ラインの周縁にも従者を中心としてそれぞれの耕地生産の面 積に合わせ一般農民層などの居宅が網の目でありつつも全体として衛星状に散らばめられるこ とになった。その骨格は農業基盤を重視する4世紀にできあがっていたが、5世紀にはその外 縁の台地や丘陵地近くで特殊手工業工房や墓域などがより特化、専門化した機能に合わせ位置 するまでになった。  こうした空間構造は求心的でありながらそれぞれで核をもつ構造である。その核は農地を中 心としたシンプルなものではなく、特化した役割をもつものがその外縁を主として5世紀に造 り出されたことが特徴である。外縁部の一角を葬地として百舌鳥・古市はその役割をはたした。 その両者は大型墳が集中し、当初から予定していたかどうかはともかく、一定エリアにおさま るとともに、その中心部と葬地を直線的にむすぶものとして主街道が交差して発達していく現 象を起こした。  このことについて 1971(昭和 46)年に石部正志氏らは「古市・百舌鳥古墳群における主要 古墳間の連関規制について」『古代学研究』第 60 号という論文で古道の設定と百舌鳥古墳群の 関係がふれている。それには、まず、反正陵古墳のすぐ北側を大津道(長尾街道)が東西に横切る。 これに並行して南をはしっていた丹比道(竹之内街道)がある。これは百舌鳥に達する東側で 長尾街道へ合流していたらしい。この両街道の間隔は 1.78km であるが、この距離をさらに南 に移した平行線を想定すると百舌鳥および古市の南限がそれで画されているようだとした。そ の線はニサンザイ古墳の南外側線に近く、並行している。  こうして設定された3本の東西線は、中央の竹之内街道をそのまま西に延長すると仁徳陵古 34

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墳前面中央に到達する。これと折り返すと古市の応神陵古墳の後円部南側にあたることがわか る。さらに古市の北方は允恭陵古墳の西外側線が正南北をとり、すぐ北方を長尾街道が通る。 百舌鳥・古市の間にある河内大塚山古墳は長尾街道に近く、その周濠東外側線は正南北を向き、 允恭陵古墳と反正陵古墳と道に対して同じような関係になる。南に移した平行線には黒姫山古 墳がそっている。 ランドマークとしての古墳  こうした規制が古墳群築造中に実際に働いたかどうかは疑問だが、大型墳ができあがったの ちにはおおいにランドマークとしての働きをはたしたであろう。平野に面した反正陵−河内大 塚山−允恭陵古墳のライン、仁徳陵−応神陵古墳の中軸線は特に重要だったろう。というのは、 両古墳群の間は和泉山脈から北へ下る南北方向の細長い丘陵と台地が北にのびる。上町台地も その一つのようなものだが、そのばあいに難波大道はその突端から南に見通すことはたやすい。 しかし、百舌鳥・古市間は相当な山と谷をこえることになる。現在でも堺大和高田線、大阪中 央環状線、近畿自動車道といった幹線道以外にはこの山谷をこえていない。東西に道を通すと きの目標として古墳が存在していた。となれば、竹之内街道の骨格は仁徳陵古墳築造後になろう。 長尾街道はそれより遅れることになる。一度、道が整備されれば、馬による往来は増す。古墳 がもたらしたまちづくりがこれらの道を媒介として展開していく。  百舌鳥・古市は、まず大きな墳丘をつくることで地域に威容を誇った。そして、その後も存 在を露呈しつづけることで、まちができた。今、まちのなかでの風景の一部としてある。この 風景を意識的にみる一つの方法として、その大きな墳丘ゆえの眺望がある。  たとえば、衛星からでもしっかりと見える仁徳陵古墳である。大阪湾からはむしろ北側から の方がよく見える。海上、西からはコンビナートがあり、あまりよくない。むしろ、コンビナー トのある位置は古墳時代の海上となることから、その位置で物見台でもつくれないのだろうか。 一方、仁徳陵古墳側からみた海はどうであろうか。豊臣秀吉がたびたび猟をした墳丘からの眺 望は陵墓区域に入らないと望めないが、西側の台地端でそうした物見台を用意できないであろ うか。 物見台は直接的なものであるが、意識すれば六甲から、大阪港付近から、上町台地から、近つ 飛鳥風土記の丘からというように、いたるところからその姿は黙視できる。大和川以南の古市 古墳群の古墳も同様である。意外と近くでは見えない古墳がそうした「古墳見台」を意識する ことでいろいろな展開が生まれてこないだろうか。 35

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N 0 10km 庄内 猪名川 現大阪湾海岸線 法円坂 寝屋川 現淀川 石川 平野川 長瀬川 楠根川 恩智川 玉串川 讃良川 現大和川 大和川 百舌鳥 古市 馬見 佐紀 仁徳陵古墳築造頃の大和・河内の大規模生産遺跡と大型古墳群 富雄川 佐保川 竜田川 大和(初瀬)川 寺川 曽我川 飛鳥川 葛城川 高田川 石津川 布留川 森 蔀屋北・四条畷 長原・八尾南 大県 南郷 脇田 淡輪 布留 陶邑 飛鳥川 曽我 古墳群 須恵器 玉 倉 鍛冶 馬 塩 36

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世界遺産とまちづくり∼未来へつなぐ保存・活用について考える

           歴史街道推進協議会メインルート事業部        課長 足立 久美子 はじめに  ここ数年、テレビ番組や雑誌の特集、旅行会社のパンフレットなど、世界遺産をテーマにし たものをよく目にするようになった。国内外を問わず、世界遺産地域を旅の目的地に選ぶ人の 数も増えている。様々な機会を通じ、世界遺産がこの地球上に存在する多様な文化発見のひと つの契機となっているのならば、それはとても意味のあることだ。 しかし、最近そうとばかりも言っておられないような弊害も出てきている。観光客の急激な 増加による歴史的文化的環境の破壊、歴史遺産保護への認識の甘さが引き起こす心ないふるま いなど、多くの世界遺産地域で様々な不具合が生じている。日本でもフィレンツェ大聖堂への 日本人学生による落書き、石見銀山への無断侵入、熊野古道・牛馬童子の首切りなど、信じが たい事件が相次いだ。  本稿では、こうした現状もふまえ、まちづくりという観点から世界遺産、歴史・文化遺産の保存・ 活用のあり方について考えていきたい。 1.世界遺産がメッセージすること  マスコミなどにも頻繁に登場するようになり、「世界遺産」という固有名詞は一般にもよく知 られるようになった。しかし、「世界遺産」という考え方が生まれた経緯については、ほとんど 知られていないというのが実情ではないだろうか。 1960年代、アスワン・ハイ・ダムの建設に伴い、古代エジプトの遺跡「ヌビア遺跡」が 水没の危機にさらされたことに端を発してユネスコが開始した救済キャンペーン。これが直接 のきっかけだと言われている。キャンペーンを通じて、歴史的な価値のある遺跡や建築物、自 然などを国際的な枠組みを通じて守っていこうという機運が高まり、1972年、世界遺産条 約が締結された。  昨今、観光振興など経済的な価値に着目して語られがちな世界遺産だが、その本質は「人類 共通の宝として、国際社会が協力して後世に継承していこう」というところにある。世界遺産 への登録を目指すということは、そうした国際的な協力の輪の中に積極的に参加していこうと いう意思表明でもある。 ところで、日本が世界遺産条約国となったのは1992年。世界遺産条約締結から20年も 遅れての加盟である。意外と言えば意外だが、条約が締結された1970年代前半の日本とい えば、当時の総理大臣田中角栄による「日本列島改造論」がブームとなっていたころ。ひたす ら経済発展を目指し、開発への道を突き進んでいたわが国の姿が目に浮かぶ。  その世界遺産が地域にとってより身近な存在になる契機となったのが、2006年ではない だろうか。この年、文化庁が自治体からの提案を初めて受け付け、24件の提案書が全国から 37

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寄せられた。翌年、2007年には「百舌鳥・古市古墳群」を含む、32件の提案・再提案があっ た。筆者も2006年から文化庁文化審議会専門委員として世界遺産に関する審議に関わらせ ていただき、はじめて「世界遺産」という枠組みで歴史・文化遺産の保護や活用を考える機会 をいただいた。  その過程で改めて考えさせられたのは、世界遺産を目指そうとするとき、地域は町おこし・ 村おこし的な発想をこえなければならないということだ。もちろん地域への熱い想いは、わが 町・わが村意識を喚起させる。これはとても大切なことだし、世界遺産を目指す原動力にもなる。 しかし、単純なわが町・わが村一番的な考え方は、行き過ぎると経済的な競争原理に絡め取ら れる危険があり、そうなるとわが町・わが村を考える視野や枠組みが、自己中心的で狭いもの になりかねない。  何のために世界遺産を目指すのか。過去に行ってきた開発のあり方、文化財保護への認識、 後世への継承の意義、そして国際的な視野で考えると言うこと。世界遺産条約誕生の経緯もふ まえ、世界遺産が伝えるメッセージの本質をもう一度受けとめ直し、自身に問いかけてみるこ とが必要ではないだろうか。  2.歴史・文化遺産を活かしたまちづくりに求められること  昨年、2008年、歴史・文化遺産の後世への継承・発展にとって画期的な法律が誕生した。「地 域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律」、通称「歴史まちづくり法」だ。国土交通 省、文部科学省(文化庁)、農林水産省の共官で、同年5月制定、11月施行された。 これでようやく「まちづくり行政」と「文化財行政」が連携しながら、歴史・文化遺産を後 世へ継承していく取り組みがより円滑にできるようになった。これまで別々に行われることで、 何かと不具合や行き違いに悩まされてきたまちづくり・文化財双方にとって、歴史・文化遺産 の総合的な保存・活用の可能性が格段に広がったと、期待が広がっている。  筆者も全く同感だ。まちづくり、文化財双方の関係者が同じテーブルについて歴史・文化遺 産と向き合うことで、これまで互いに気づかなかったような豊かな価値の発見につながること を願っている。特に、歴史・文化遺産に潜在している文化的な価値の発見とその評価に期待し ている。 これまではどちらかというと、数値的に評価しやすい経済的な価値が注目されてきたように思 う。しかし、歴史・文化遺産には数値的にはすぐには評価できないが、わたしたちが生きてい く上で豊かな栄養となるであろう智恵や美意識が埋め込まれている。それらを掘り起こし、現 在の智恵と結び合わせ、未来のビジョンを描きつつ次世代へ受け渡していく。このプロセスに こそ、歴史・文化遺産の後世への継承・発展の意義がある。  歴史・文化遺産と向き合うことで、どれだけ多様な価値を発見できるのか、そしてその価値 を組み合わせてまちづくりに創造的に活かしていけるのか。これまで以上に、わたしたち自身 の力量が問われる。    19世紀、イギリスの経済学者で美術評論家でもあるジョン・ラスキンという人が、ものの 価値について興味深いことを言っている。この世のあらゆる「もの」には固有の価値があるが、 38

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その価値は享受する能力をもったひとと出会い、豊かなライフ(=生活・人生)の発展のため に貢献できてこそ初めて有効価値となるのだと。  例えば、「土地や自然空間」の固有価値について、ラスキンは食糧やエネルギーを生み出す価 値だけではなく、思索や観察の対象となって知力を生み出す価値や、美しさを発見し情操を養 う文化的な価値も発見している。これらの豊かな固有価値が享受されることではじめて、土地 や自然空間の多様な活用の可能性が生まれるというのだ。  同じことが歴史・文化遺産についてもいえるのではないだろうか。いくら「歴史まちづくり法」 のような画期的な法律や制度が整ったとしても、わたしたち自身が固有価値を享受する力がな ければ何も生み出すことはできない。価値を発見し、豊かなライフの発展に活かしていくために、 わたしたち個々人の「享受能力」を鍛練していくこと。これも、歴史・文化遺産を活かしたま ちづくりに求められる大切な視点ではないだろうか。   では、そのためにはどうすればよいのか。筆者はそのヒントが、これまで各地で積み重ねら れてきた歴史や文化を活かしたまちづくりの中にあると考えている。どのまちづくりも、例えば、 住む人がほとんどいなくなった古い町並みや、使われないままどぶ川のようになってしまった お堀など、世間では一般に不要だと思われていたものにまちの未来を描く多様な価値を見出し、 創造的に活用して成功を導き出している。  まちづくりの成功と人々の享受能力の豊かさの間には、何か密接な関わりがあるように思え るのだ。実際、成功事例となっているまちづくりのプロセスを紐解くと、地域のひとたちの享 受能力を鍛練していく様々な工夫がみえてくる。  今回詳細について述べることはできないが、例えば、筆者も関わっていた奈良町(奈良県) のまちづくりでは、NPOが実施するイベントや調査・研究活動が、八幡堀の再生で有名な近 江八幡(滋賀県)では堀の清掃活動が、そして音楽祭や映画祭で有名な湯布院(大分県)では 集落に伝わる慣習や祭事なども、鍛練の場として機能していたように思われる。  こうしたまちづくりが培ってきた智恵にも着目し、市民と行政が共に歴史・文化遺産の価値 を享受する力を育み合える「学びの場」をつくっていくこと、そして、その場を持続的に機能 させていく仕組みを整えていくことも、歴史・文化遺産を活かしたまちづくりに求められる視 点ではないかと考える。      奈良町の町並み(奈良市)         再生された八幡堀(近江八幡市)   39

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3.未来へつなぐ保存・活用について考える  歴史・文化遺産の保存・活用のあり方については、これまでにも様々な議論が展開されてきた。 ひとそれぞれに考え方や価値観も違うので、なかなかひとつの方向にはまとまっていかないも のだとは思うが、筆者はこれだけは大切にしていきたいと思っていることがある。それは、「日 常の暮らしを通じて継承していくことの大切さ」だ。  その好例が、町家の保存・活用のあり方だ。学術的に価値のある町家を博物館的に静態保存 することから、現在は使いながら保存する動態的な保存が主流となっている。これによって、 学術的な価値のあるなしにかかわらず、古い町家がもつ様々な価値そのものに魅力を感じた人 たちが、生活空間としてはもちろん、創作の場として、もてなしの場として、 そしてコミュニティの集いの場として活用しながら、結果として継承している。日常生活と密 接にかかわるものであるからこそ、自然に保存・活用の担い手としての意識も育まれる。また こうした動きをサポートする仕組みや制度も徐々に整ってきているようにも思う。  歴史・文化遺産とそこに暮らすひとたちが、どれだけ豊かな関係をつくっていけるか。これが、 保存・活用を具体的に進めていく上での大きな鍵だと考えている。前章で述べた歴史・文化遺 産に内在する固有価値を享受する能力を育み、多様な活用の可能性を引き出していく前提である。  ただ、むづかしいのは歴史・文化遺産の中でも古墳などの遺跡や埋蔵文化財といわれている ものとの関係づくりである。先程例にあげた町家の場合は、日常の暮らしと具体的に結びつけ て考えることができる。しかし、古墳や埋蔵文化財は、現在の暮らしとはほど遠い存在となっ ている。果たして豊かな関係をつくっていけるのだろうか。  先日、百舌鳥・古市古墳群を視察する機会をいただいた。百聞は一見にしかずとはよく言っ たもので、古墳のあまりの多さに圧倒されてしまった。都心部であるにもかかわらず、よく今 日まで残ってきたと感動した。  中でも特に心惹かれたのは、住民の憩いの場となっている古墳周辺の風景だ。都心の喧噪を 離れて日常的に散策できるなど、何という贅沢だろう。花見の頃にはどこもバーベキューを楽 しむひとたちで賑わうそうだ。そして、その周辺を清掃しているのはそこに暮らす人たちだと いう。また、近くの学校でも美化活動に取り組むところがあり、とても便利な草刈り用の道具 が生徒によって開発され、活躍しているらしい。こうした風景にふれ、お話をうかがうと、古 墳が随分身近な存在として感じられる。古墳が日常の暮らしの風景にとけ込んでいるというの だろうか。   「 仁徳陵まもり隊 」 による清掃活動風景   古墳周辺で花見を楽しむ人たち ( 大仙公園 ) 40

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古墳や遺跡を単体としてとらえてその保存・活用を考えるのではなく、その周辺の暮らしも 含めた風景としてとらえ、まちづくりという観点から考えていくことが大切なのかもしれない。 そうした中でこそ、古墳や遺跡との関係も自然に育まれていくのではないか。その意味では、 子供たちへの歴史学習のあり方も、歴史の勉強というだけではない、まちとのつながりを実感 できるもう少し広がりのある工夫が必要なのかもしれない。  筆者自身にとっても大きなテーマとなっている歴史・文化遺産の次世代への継承。百舌鳥・ 古市古墳群への視察は、未来へつなぐ保存・活用のあり方を考える何か大切なヒントをいただ いたような気がする。 おわりに   世界遺産に登録されている地域、これから目指そうとする地域の中には、歴史・文化遺産を 生活空間から完全に切り離して保存する方法を選択しているところもある。確かにそうした保 存のあり方もひとつの かたち だろう。しかし、「誰が後世に伝えていくのか」ということを 考えるならば、やはりそこに暮らす人々との日常的なつながり、関係を抜きにすることはでき ない。 「百舌鳥・古市古墳群」は、都心部に集積する貴重な歴史・文化遺産だ。都心部ゆえに、保存・ 活用についての課題も多いだろう。しかし、だからこそ果敢にチャレンジしていってほしいと 思う。「世界遺産」のメッセージを受けとめ、暮らしと共にある保存・活用のあり方を、堺市、 藤井寺市、羽曳野市が市域をこえて「百舌鳥・古市スタイル」として世界に提案していってほ しいと節に願い、エールをおくりつつ、本稿を結びたい。 41

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【発掘最前線】

御廟山古墳の調査

       

堺市市長公室文化財課            十  河  良  和  1 御廟山古墳の立地 2 御廟山古墳の概要 3 調査の経緯・百舌鳥陵墓参考地 4 調査成果   古墳の改変 江戸時代前半に古墳の裾周りと濠を大きく改変。   築 造 時 期 5 世紀中頃でも仁徳陵古墳より先行して完成する。         5 世紀第 2 四半期(425 − 450 年)頃でも古い時期の完成。   規   模 墳丘長 200m 級。全国で 30 位程度。同時期に限れば 7 位。   墳   形 片側のみに造り出しが設けられる平面プラン。二重の濠を備える。   被 葬 者 像  倭王の側近か?。 42

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津堂城山古墳の調査

       

藤井寺市教育委員会             文化財保護課チーフ 上田 睦 位置と規模  古市古墳群北端にある最古の前方後円墳  墳丘長 208 m、後円部径 128 m、前方部幅 117 m、全長約 440 m 既往の調査  ①後円部墳頂部の調査 (明治 45 年)           後円部墳頂部から竪穴式石槨検出     亀甲紋長持形石棺     出土遺物 石製品 金属製品など  ②墳丘東側確認調査 (昭和 58 年)     後円部、造出し、前方部、島状遺構の確認     出土埴輪 衣蓋形、水鳥形など  ③周庭帯の調査     2 重濠(SRK04-5 区)など  ④ 内堤盛土の調査(SRK01-1 区) 今回の調査成果   後円部北側(SRK09-1 区)   下段 葺石(1 段目 20°、2 段目 30°)1 段目基底石から 2 段目基底石まで 14m    テラス 幅 6m 小礫敷き 円筒埴輪列(テラス中央部)    中世盛り土   中段 中世遺構 暗渠、石列、溝、広場  一部古墳時代盛土   上段 墳丘盛土、中世遺構、明治 45 年の排土  出土遺物 円筒埴輪、形象埴輪、板石、割石、白色玉石    新たにわかった事と問題点  葺石、テラスの状況、円筒埴輪の使われ方、4 段築成の可能性、時期など 図 1 既往の調査

【発掘最前線】

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石列 暗渠 m 図 2 断面図 図 3 調査平面概略図 45

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百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進府市合同会議シンポジウム

世界遺産とまちづくり

百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進府市合同会議 (大阪府・堺市・羽曳野市・藤井寺市)

参照

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