新潟大学人文学部
2014
年度卒業論文概要
メディア・表現文化学プログラム
目 次
青 木 郁 美 現代ファンタジーの分析:「ハリー・ポッター」シリーズを通して. . . 1
新 井 里 奈 ボカロ作品のメディアミックス. . . 2
碓 氷 健 太 恐怖映画におけるゾンビの表象. . . 3
薄 田 直 人 大江健三郎論:中期作品を中心に. . . 4
江 尻 晴 菜 東日本大震災が被災地のメディアに与えた影響. . . 5
榎 並 旺 子 「あいだ」の存在:漆原友紀作品をめぐって. . . 6
大 竹 将 平 ロックミュージックにおける商業性と文化. . . 7
大道有紀子 変わりゆくギャル文化を探る. . . 8
小 倉 真 実 エヴァンゲリオン映像論. . . 9
春 日 紗 希 化粧品広告からみる女性たち. . . 10
菊 地 広 大 男性社会と育児休業制度. . . 11
北 村 瑶 美 長野まゆみ論. . . 12
桑 原 咲 子 現代メディアにみる占星術と女性. . . 13
小 林 梓 地域防災とメディア:新潟県柏崎市の事例をもとに. . . 14
小 林 笑 子 アバターとタイタニック. . . 15
近 藤 朱 里 小松左京論:『日本沈没』を中心に. . . 16
神馬明日華 メディア・コミュニケーションの変遷とキャラ化現象:
なぜ若者は複数の「キャラ」を使い分けるのか. . . .
23
鈴 木 結 菜 ペットブームの二面性. . . 24
須 田 貴 文 CGMにみる作家性と創造. . . 25
高 橋 可 維 フェデリコ・フェリーニ論. . . 26
高 橋 法 子 商品広告の表現形態とその価値受容. . . 27
高 橋 響 物語におけるスクールカーストの在り方. . . 28
高 屋 祥 子 湊かなえ論. . . 29
中善寺琴美 『空の軌跡』に見るRPGの世界観構築. . . 30
綱 香 菜 子 SNSにおける集団帰属意識. . . 31
永田杏里佳 スポーツ報道におけるフィギュアスケート女子選手の表象. . . 32
半 澤 衿 湖 西加奈子論. . . 33
樋 口 久 子 連続テレビ小説の今:「あまちゃん」を中心に. . . 34
平 野 杏 奈 ミッキーマウスの進化論. . . 35
藤 田 航 孤立なサブカルチャー. . . 36
北 條 真 衣 ハローキティの成長戦略. . . 37
本 間 ふ み 中園ミホ論. . . 38
槇 ひ ろ み 糸井重里とアイロニーの言語. . . 39
松 井 貴 大 伊藤計劃作品の分析. . . 40
松 田 早 季 高齢者の日常生活とメディア利用. . . 41
松 永 笑 子 イエロー・マジック・オーケストラから見る80年代論. . . 42
松本れい子 1990年代以降の日本現代美術における日本性. . . 43
溝 口 真 子 子ども文化における魔法少女:『おジャ魔女どれみ』シリーズを中心に. . . 44
山 口 望 音楽のオンライン化と消費者意識の変化. . . 45
吉井和佳子 日本ホラー映画の恐怖の構造. . . 46
渡 辺 瑛 里 電子書籍時代におけるブックデザイン. . . 47
井 川 美 咲 『火の鳥』と神話. . . 48
木 村 晋 今日マチ子作品と戦争. . . 49
佐 賀 恵 園子温論. . . 50
庄 司 理 緒 ライトノベルで描かれる屈折した主人公. . . 51
角 谷 春 香 地方自治体のソーシャルメディア活用:広報チャンネルとして. . . 52
宮 腰 陽 介 善悪の超越:ウルトラ怪獣の逆接性. . . 53
現代ファンタジーの分析:「ハリー・ポッター」シリーズを通して
青木 郁美
文学、映画、漫画、アニメ、ゲームに至るまで、現代のメディアの中にはファンタジーというジャンルがあ
る。ファンタジーとされる作品には魔法や幻の生物など人間の想像が作り出した空想的な要素が登場する。そ
うした空想的な要素には、作品独自のものもある反面、これまで様々な神話や物語に繰り返し登場してきたも
のもある。本論では、その空想的な要素からいくつかを取り上げて、各項目についてまず「ハリー・ポッター」
シリーズでの表れ方とその独自性を検討し、あわせてその歴史を振り返り、他のファンタジー作品での表れ方
との比較を行った。この分析の中心となるのは、J・K・ローリング(1965年-)の「ハリー・ポッター」シリー
ズ(1997∼2007年発表)だが、現代で最も高い人気を誇るファンタジーであること、そして描かれた世界が
伝統とオリジナルの双方から成り立っていること、以上をふまえて、今回の分析の中心に据える作品とした。
第1章では魔法使い・魔女、魔法、空飛ぶ箒、透明マント、魔法の杖といった“魔法”に関わりがある事柄
について分析した。“魔法”はファンタジー作品の多くに登場する要素の一つである。いずれの項目も先行す
るファンタジー作品や神話などに登場するもので、「ハリー・ポッター」ではそれぞれが独自性を持って登場
している。
第2章はユニコーン、ドラゴン、ヘビ、不死鳥、狼人間などの動物に関する分析を行った。取り上げた生物
はヘビ以外は幻の動物であるが、いずれも古代から神話や伝説などに登場する生き物であり、キリスト教との
関わりをも見ることができる。特にユニコーンと不死鳥の現在に伝わるイメージはキリスト教によるところが
大きい。
第3章では、ファンタジー作品に見られる設定に関して分析した。ファンタジーは空想的な要素を登場させ
るために、その舞台を現実世界とは別の場所へと移す必要があった。また、人間と動物の密接な関係、善と悪
の対立が描かれることもファンタジーの特徴の一つである。それについても「ハリー・ポッター」シリーズと
他作品を照らし合わせての考察を行った。
第1章で触れた魔法にしても第2章の幻の生物にしても、初めから幻想世界のフィクションと意識されてい
たわけではなく、魔法ならば本当に実践を試みた時代が、生物ならばその実在を本当に信じていた時代があっ
た。文明の発達によってそうした幻想的な要素たちは次第に物語の中を住まいとするようになる。現代人は今
回取り上げた項目を様々なファンタジー作品の中で見ることができる。空想的な要素であるためにイメージの
幅も広く、各ファンタジー作品の中で独自な魅力を発揮することができるのである。
ボカロ作品のメディアミックス
新井 里奈
ボーカロイド(VOCALOID)とは、ヤマハが開発した音声合成技術、及びその応用製品の総称である。メ
ロディーと歌詞を入力するだけで、人間の声を元にした歌声を合成することができる、パソコンに歌を歌わせ
るためのソフトウェアのことである。2007年に発売された初音ミクを用いた音楽作品は、ニコニコ動画など
の動画投稿サイトで次々とアップロードされ、それらの作品群は大きな注目を集めている。そしてここ数年で
は、これらのボーカロイドを用いて作った楽曲をもとにした小説作品やマンガ作品が数多くみられるように
なってきている。そこで、本論文では小説とのメディアミックスに着目し、曲とそれをもとに書かれた小説作
品の内容を比較し、特徴を探った。
第一章では、柴那典(2014)の『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』を参考に、歌声合成技術「VOCALOID」
の発表から、初音ミクの登場までの歴史と、その音楽作品の特徴をまとめた。同人音楽のフィールドでの「歌
姫」不足やニコニコ動画の設立、視聴者のバーチャルアイドル育成に対する需要が重なり、初音ミクは大ヒッ
トする。それによってボーカロイドが広く受け入れられるようになったことを説明した。そして、当初は既存
の曲をカバーした作品が多かったが、そこからオリジナルの作品が登場し、多くの情報を詰め込んだ曲が注目
されるようになったことを述べた。
第二章では、じん(自然の敵P)による「カゲロウプロジェクト」と『カゲロウデイズ』を取り上げた。「カ
ゲロウプロジェクト」とは、一つ一つの物語性のある楽曲が小説とリンクして大きな世界を構築する一連の物
語音楽の作品群を指す。そして、このプロジェクトの一環として発売された小説が『カゲロウデイズ』であ
る。この「カゲロウプロジェクト」の楽曲の歌詞や動画の内容がどのように小説に反映されているのかを分析
し、楽曲が小説になる過程を考察した。じんが、曲の中に書きたい内容を7割だけ入れて、残りの3割は視聴
者に想像させるように制作していることにも言及し、楽曲だけではよくわからないキャラクターの設定や、ス
トーリーの補完と掘り下げが小説で行われていることを説明した。そして、その内容をもとに楽曲の内容を改
めて眺めることで楽曲と小説で互いに補完しあうことで大きな世界観を感じることができることが醍醐味につ
ながっていることを指摘した。
最後に、出版社と楽曲制作者との綿密な打ち合わせを重ねることで書かれてきたボーカロイド小説が大ヒッ
トするにつれて、より多くの作品を出版しようとして、かえって質の悪い作品が出回る可能性があることを示
した。その一方で、マルチメディア展開の道が少しずつ開かれていき、ボーカロイド小説が物語や小説の新し
い形態と、ボーカロイド文化のさらなる発展の可能性を含んでいることを述べて、本論文の結びとした。
恐怖映画におけるゾンビの表象
碓氷 健太
数多くの恐怖映画が作られ、そして観客に恐怖を与える多くの怪物たちが誕生した。その中でも「ゾンビ」
をテーマとした作品は最も多く作られ、1932年の『恐怖城』(ビデオ化名「ホワイトゾンビ」)で最初に登場し
てから現在まで第一線で人々に恐怖を与え続けている。本論では、恐怖映画において「ゾンビ」が何を表象し
ているのか、「ゾンビ」の怪物性や映像作品の分析を中心に明らかにした。
第1章では、恐怖映画における「ゾンビ」の歴史をその特性ごとに3種類に分類し、それぞれの変化とその
背景の関係性を明らかにした。さらに、恐怖映画に登場してきた「ゾンビ」以外の怪物たちと「ゾンビ」の差
異について考察していき、「ゾンビ」という怪物の弱さや無個性さといった特殊性をも明らかにした。また、
それにより新たに確立したスプラッターというサブジャンルについても言及し、「ゾンビ」がスプラッター映
画に与えた影響と人間と相互に破壊し合う特殊な関係性があるということを明確にした。
第2章では、ジョージ・A・ロメロ監督の映像作品と海外ドラマ『ウォーキング・デッド』に焦点を当てて
いき、「ゾンビ」という怪物をテーマとした映像作品に内包されているものについて考察した。特に、前者で
は作品の中で描かれる人種差別のメタファーや人間の残虐性について触れることで、映画の中での「ゾンビ」
が表象するものを浮き彫りにした。後者では、映画とドラマという描く世界の時間的な違いに着目し、本来の
「ゾンビ」が失っていた個性や人間から「ゾンビ」へ変わることの絶望とそれに伴う登場人物への感情移入な
ど、ドラマという映像形態における「ゾンビ」の特殊性とその表象するものを明らかにした。
第3章では、現代の「ゾンビ」について、哲学者ジョルジョ・アガンベンの考え方を軸として論を展開して
いった。従来の「ゾンビ」と現代における「ゾンビ」の違いを比較し、人々が「ゾンビ」に求めていることと、
それにおける「ゾンビ」の変化を明らかにした。そして、デフォルメ化などのように、人々の求めに応じてそ
の特性を変えることのできる「ゾンビ」が表象するものについて明らかにした。
結論として、「ゾンビ」とは人間を映す鏡であるとした。労働力としての姿や、個性を排除することで集団
に回帰したいという願望、人間が自身の内に秘める狂気や残虐性など、様々な要素を取り込み、今もなお生き
るために進化を続けている怪物だからこそ、人間の本心を表象するために柔軟に変化することが可能なのであ
る。だからこそ人々は「ゾンビ」という怪物を愛し、それをテーマとした作品に魅了されるのだ。そして「ゾ
ンビ」は、恐怖を求めるために、人々が自身の内的な狂気を見出したように、一人一人の内側に存在する共存
しうるかも知れない内的な存在なのであるとして本稿の締めとした。
大江健三郎論:中期作品を中心に
薄田 直人
大江健三郎(1935‐)は東京大学新聞に発表した短篇「奇妙な仕事」(1958)で平野謙に見出されたのを機に
作家活動を始め、以後現在まで作品を発表しつづけている現代文学作家である。大江健三郎、あるいはかれの
作品には三島由紀夫や天皇制との関係という作家論的な問題、また時期ごとに大きく異なる作品構造や作風と
いった作品論的な問題、そして大江の作品における先行する他の作家・作品の影響など、様々な問題が内在し
ているが、本論文では以下のことを行った。まず大江の活動期間を時期に区分した。次いで、時期ごとに特定
の作品を分析対象として設定し、その分析を通してその時期に特徴的な作風を指摘するとともに、先行研究を
ふまえながら作品の新たな読解をめざした。最後に、個々の作品の分析から得られる大江健三郎の小説に見出
される特徴や構造を指摘した。
第一章では、まず大江健三郎の活動の時期を3つの時期に分け、本論文では中期作品を中心に分析すること
を述べ、のちの作品分析に向けて、本章ではさらに『個人的な体験』(1964)を分析した。そのなかで、大江健
三郎の小説においては語り手が作品の主題と対立するような、アンビヴァレントな機能を果たしていること、
そして、大江の作品を私小説的な伝統の踏襲と見なさないことを述べた。
第二章では、中期作品として『万延元年のフットボール』(1967)を分析した。本作の分析を通しては3つ
のことが明らかになった。まず、本作には構造主義的・文化人類学的な知見が反映しており、『同時代ゲーム』
などの後続の作品への端緒となっていること。そして、本作には体系性におさまらない「歴史の反復」もまた
見出すことができること、さらにそれをつきぬけた「決断される歴史」へ向けた徹底操作の過程が描かれてい
ることである。そのさい、主人公格の二人のidentityの対立に注目しながら「反復」を論じ、そして特に本作
の語り手≒主人公にその「反復」が揺らぐさまを、そして、歴史との絶え間ない対話から歴史の意味を「再審」
し続けようとする姿を見出した。
第三章では、後期作品として『新しい人よ眼ざめよ』(1983)を分析した。本作の分析から、大江の作品にお
いては私小説的な語りが、引用される言葉と並置されることで方法化されていることを明らかにした。引用さ
れるウィリアム・ブレイクの詩句は、作品を支えるよりもむしろ作品に先行しているのであり、だからこそ、
父子の不和という私小説的な主題がたんなる伝統の踏襲ではなく、父子の間の二重の「言葉の贈答」とでも呼
べるようなテクスト論的な位相で描きだされていることを指摘した。
終章では論の結びとして以下のことを指摘した。大江健三郎の小説は、特定の時期ごとに作風が大きく異
なっており共通性を見出しえないこと。そして、しかし、大江の作品にあっては語り手が作品の主題と背反す
るような地点につねに位置づけられており、そのように「否定の契機」を内在させながら、「本当の事を浮か
び上がらせる過程」を描くことが目指されているということを、共通した特徴として指摘した。
東日本大震災が被災地のメディアに与えた影響
江尻 晴菜
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、東日本を中心とした広範囲に災害をもたらした。その中でも
福島第一原子力発電所が立地している福島県は、地震災害や津波災害に加えて原子力発電所事故の被害も受け
ており、他県とは異なった、特殊な状況下にあると考えられる。本稿は、東日本大震災発生前後における被災
地メディアの報道の仕方や被災地外に向けた情報発信への意識の変化を探ることを目的とし、福島県の県域紙
である「福島民報」と「福島民友」の2紙を取り上げて考察を行った。
各章の内容については以下の通りである。
第1章では、本稿の大きなテーマである東日本大震災の概要を捉えた。東日本大震災は大規模な複合災害で
あったが、福島県に大きな被害を与えた地震災害、津波災害、原子力発電所事故に分け、それぞれを確認した。
第2章では、福島県の大まかな概要を述べた。福島県の気候と産業について確認し、東日本大震災による影
響についても触れた。
第3章では、阪神・淡路大震災と新潟県中越地震を取り上げ、過去の災害報道がどのように行われたのかを
考察した。また、過去の報道と比較しながら、東日本大震災時の報道の特色について述べた。テクノロジーの
発達や災害の特徴に応じて様々なメディアが使用されていることが分かった。
第4章では、福島民報社と福島民友新聞社に行ったインタビュー調査を踏まえ、東日本大震災前後における
福島県のメディアの変化を検証した。また、実際の紙面や新聞社の事業についても考察を行った。その結果、
福島県の新聞メディアは絶やすことなく震災関連情報を提供し続けており、他県へと避難した人々のために県
外への情報発信も行っていることが分かった。しかし、時間の経過による情報のニーズの多様化や購読者の減
少、地方新聞社の規模の限界等により、震災関連情報を提供し続ける上で問題も多くあることが分かった。
時間が経過するにつれて震災の記憶は風化していってしまう。しかし、被災地に「風化」という言葉はな
く、すべてが現在進行形で進んでいる。インタビュー調査を行った2つの新聞社では、震災関連情報を被災地
である県内に伝えるだけでなく、新聞を県外に届けたり、県外の新聞社と協力して記事交換を行ったりするな
どして、被災地の外への情報発信も行っていた。被災地の早い復興のためには被災地外からの支援も必要であ
り、被災地の視点で捉えた情報を発信し、震災の風化を防止することが多くの支援につながる。被災地の現状
を伝え続けていくことが重要であると結論付けた。
「あいだ」の存在:漆原友紀作品をめぐって
榎並 旺子
漆原友紀(1974∼)は1998年に『蟲師』でデビューした漫画家である。不思議な出来事を静かに描いたノ
スタルジーを感じさせる作風が特徴とされ、「なんともいえない」といったような感想が寄せられることが多
い。漆原の作品には「あいだ」の存在が頻出する。本論文では『蟲師』を含む妖怪のような存在を扱った作品
を、人間の知らない世界を描いたファンタジーや伝奇という括りで語るのではなく、「あいだ」の存在を媒介
した人間と異形の生命の共存という視点で再考し、漆原の作品の言葉にし辛い魅力が、作品に登場する「あい
だ」に由来するのではないかという仮説を検証した。
第1章では『蟲師』(2000-2008)を扱い、物語構造やタイトル、登場人物の設定を考察した。主人公は明確
な敵対者を持たず、その点で「あいだ」にいる人物である。主人公が「あいだ」にいることで、『蟲師』は古典
的な物語構造を逸脱する作品になっている。
第2章では、『水域』(2011)、『蟲師』、『うたかた』(1997)における「液体の流れ」について考え、それが
相反するものに同時に属する存在であることを示した。一貫したイメージで語られる「液体の流れ」は、漆原
が問いかけ続けている「あなたはどこから来たのか」という質問の答えとして用意されており、漆原の魅力で
あるノスタルジーを感じさせる作風は、この点に起因している。さらにここで、「蟲」の流れる河であるとさ
れる「光脈」は、「あいだ」ではなく「両義性」という言葉で語るべきではないかという問題が浮上した。なら
ば、「蟲」自体は「あいだ」と「両義性」のどちらで説明できるか。それが、第3章で問われた問題である。
第3章では、『蟲師』に登場する「蟲」という存在に注目し、手塚治虫の作品における異形の生命の描かれ
方や、それらと人間の交流の仕方と比較した。「蟲」は辞書における「虫」の定義や、「虫の知らせ」といった
比喩を元に考案されており、対極の要素を同時に内包している。また、手塚の描く異形の生命が「あいだ」の
存在として論じられるべきものであることが明らかになったことで、漆原の「蟲」が手塚的な「あいだ」の存
在ではない点が浮き彫りになった。この違いは、人間以外の生物が、手塚の作品では、人間と対立し「社会か
ら疎外された者」であるのに対し、漆原の作品では、人間が「知恵」を使うことによって共存可能であり、か
つ人間と地続きの存在であるとされていることに由来している。
人間が生きていくうえで他の生物の生命を奪うことは避けては通れないが、共存するために「知恵」を絞り
考えることをやめてはいけない。「知恵」は人間と他の生物を「区別」してしまう決定的な「違い」であるが、
その「違い」を他の生物との共存のために使うべきだと、漆原は主張しているのだ。『蟲師』が異形の生命を
扱った作品でありながら、単なるファンタジーや伝奇といった「人の知らない世界を描いた不思議な話」とい
うジャンルで括られることがないのは、このように、他者と関わるうえで人間はどういう態度を取るべきか、
という「人間の姿」を主眼に置いた物語であるからだ。
ロックミュージックにおける商業性と文化
大竹 将平
ロックミュージックは今なお愛される一つの音楽文化である。1950年代にロックンロールが誕生し、1960
年代に一つの文化としてロックが生まれる。しかしこのロックミュージックというものを「死んだ」と語るも
のもいる。確かにロックは生まれた頃に比べ、反抗の精神=ロックスピリットを弱め、ロックが何たるかを忘
れてしまったかのように感じることは間違いないだろう。本論文ではロックがなんであったかを確認し、現在
のロックは「死んで」いるのか、産業化の波にのまれ、資本主義という環境の中でどのようにその存在を保つ
のかを論じる。平和になった世界でもロックは、形の変化はあるにしても生きていること、我々が愛する現在
のロックもロックなのだと確認することを目指した。
第1章は、ロックンロールから始まり、ロックがいかにして生まれたのか、それはどのようなものであった
かを歴史にそって見ていく。その反抗・反逆の精神、パフォーマンス、ドラッグやセックスとの関わり、様々
な面を簡単にではあるが理解し、今のロックが「死んだ」と言われるような理由、「本物のロック」初期のロッ
クはどのような存在であったかをまず確認した。
第2章は、一度ロックというテーマから抜け、音楽文化全体のテクノロジーの変化を見る。ロックの精神と
矛盾しているようにも思える商業・産業化を考え、レコード、カセット、CDという音楽を売るツールについ
てまとめた。
第3章は、ロックを成立させるものということで、ロックは何をもってロックなのかというような、その性
質に論点を絞って確認した。その中でロックが「死んだ」ということに異を唱え、ロックの挑戦はいまだ続い
ていることを述べた。
第4章では、これまでに確認してきたことを踏まえ、大きく変わった環境の中でも、ロックは生きていると
いうことを述べる。商業性、産業化、資本主義との関係、現在のロックはどのように扱われているのかを理解
し、結論につなげる。
我が国のロックは西洋の「本物」を追いかけてはいない。今の環境で「本物」の性質を持つことは不可能だ
ということを理解し、日本独自の進化を遂げているといってもよい。元のロックから分化したJ−ROCKと
いう一つの新たなロックであり、聴衆を楽しませることに特化した素晴らしい文化として生きているのであ
る。しかし「本物」を追い求める動きも消えることはないし、それに応えようとするミュージシャンも存在す
る。新たな時代、新たな技術という変わりゆく環境の中でそれに抗い「本物」を目指す。ロックとは「本物」
を求め、時代に抗い、挑戦し続けるという点で不滅の文化なのだと結論づけた。
変わりゆくギャル文化を探る
大道 有紀子
「ギャル」といえば、どのようなイメージを持つだろう。「髪が明るい」「化粧が濃い」「露出が多い」若い女
の子だと答える人が多いのではないか。しかしステレオタイプとなったこうしたギャルのイメージは、今や崩
れつつある。最近のギャル雑誌においては「黒髪」「ナチュラル」など今までのギャルのイメージとは正反対
の語句が目立ち、挙句の果てにはギャル雑誌が相次いで休刊・廃刊になっているという。今ギャル文化を考え
るにあたって、大きな変化が見られたここ数年のギャルの在り方については目をそらすことができない。だ
が、1990年代や2000年代のギャルに関して描かれた本は少なくないものの、2010年以降のギャルについて
は、これまであまり研究がなかった。そこで本稿において、過去から今現在に至るまで、どのような形でギャ
ル文化が継承されてきたのかを考察することにした。
第一章では、コギャルやギャルの言葉の由来、ギャル文化の歴史を取り上げた。これまで、ギャルは一口に
“ギャル”とまとめられないほどの多様な姿を見せてきた。ギャルの誕生から今日まで、どのようにギャル文
化が盛隆を繰り返したのかを、当時特徴的であった人物や雑誌と共にたどることとした。
第二章では、ギャルの実態として、社会からみたギャルや一般的なギャルの特徴・価値観などを述べた。主
に、コギャル全盛期の時代を背景としている。
第三章では、ギャル雑誌に注目して「ギャル」を見ることにした。数種類のギャル雑誌を見た後、特に『egg』
のスナップ連載企画に着目し、1990年代後半から2014年まで、ギャルのファッションや外見にはどういった
特徴があるのかを調べ、その特徴の変化に関して考察を加えた。
第四章では、2010年以降のギャル文化に焦点を当てた。はじめに、相次ぐギャル雑誌廃刊の理由を考え、中
でも、見た目からギャルだと判断できる“強めギャル”が黒髪やナチュラルメイクを施して清楚を装った“清
楚系ギャル”へと移行していることを主張した。ギャルの流行が、仲間内で生み出す物から社会から取り入れ
るものと変わっていることも述べた。
こうした状況から、「ギャル文化は衰退したのではないか」という声が上がっている。だが、外見でギャル
だと判断できる女の子が減少している一方で、電通ギャルラボによる調査では、ギャルマインドを持つ女の子
は多く存在していることが明らかになっている。これはギャル文化の衰退ではなく、より一層の浸透を意味す
るのではないかと推察し、本稿を締めくくった。
エヴァンゲリオン映像論
小倉 真実
「巨大ロボットアニメ」は日本のアニメーションの一大ジャンルである。このジャンルは1972年に放送され
た『マジンガーZ』で確立され、巨大ロボットはアニメーション・特撮問わず高く支持されるようになった。
ロボットアニメは、ジャンルとなって40年以上経ち、多くの作品を経てロボットの造形を変化させ、盛衰を
繰り返している。『新世紀エヴァンゲリオン』も「巨大ロボットアニメ」のひとつとして生み出され、その転
換期となった作品のひとつだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』は1995年から1996年にかけてテレビ東京系列毎週水曜日夜6時半から7時に
放映されていたGAINAX企画・原作・アニメーション制作、庵野秀明監督によるテレビアニメーションであ
る。作風が斬新であると多く語られたエヴァは、徐々に形成されていた「メジャー」と「オタク」との境界線
を破り、社会現象起こすまでとなった。本論文では、エヴァの新しさと言われたものはエヴァで一から生み出
されたものではなく、それまでのロボットアニメとGAINAX作品の流れを汲んだものであると明らかにする
ことを目的とした。
第1章ではエヴァを生み出したGAINAX、その前団体であるDAICON FILMの設立とその流れの中で制
作されてきた作品を追い、そこからGAINAXの姿勢と映像の特徴を述べた。エヴァンゲリオンの映像で行わ
れたエフェクトアニメーションや文字へのこだわりはエヴァ以前の作品である『王立宇宙軍オネアミスの翼』、
『トップをねらえ!』、『ふしぎ海のナディア』から続いていたものであった。
第2章では、エヴァが生まれるまでのロボットアニメの系譜を追い、ロボットの造形とともにロボットアニ
メの物語が変容している中でエヴァが成立したことを確認した。EVAのメカニックについて分析し、同じく
GAINAXのロボットアニメ作品である『トップをねらえ!』のガンバスターとEVAの人体への親和性があ
ること、EVAの動力源である電力がEVAの制限になっていることを明らかにした。
第3章では、EVAの「人」としての面に着目した。EVAは人であるがゆえに、人に支配されないのであ
る。『ふしぎ海のナディア』に登場するビナシスとEVAはともに電力からの解放により自由となった。また、
EVAと同じく生体兵器である巨神兵はEVAに影響を与え、『巨神兵東京に現わる』でEVAからの影響を受
けて更に恐ろしく生まれ変わったのである。
放映後、斬新で「エヴァらしい」と言われるようになった映像は、必ずしもエヴァでいきなり生み出された
ものではなく、GAINAXの作品の流れの中で生まれてきたものであった。たしかに、ロボットアニメという
ジャンルの流れも酌まれている。しかし、それだけではなく、制作陣の幼い頃の原風景であるテレビ作品やそ
れまでに関わった作品からの影響を受け、再構成されてできあがったものなのであると結論づけた。
化粧品広告からみる女性たち
春日 紗希
本論文では、女性の自己イメージ形成と深い関わりを持つ化粧品広告を対象に、1960年代から2014年まで
の化粧品広告の中の女性たちを外見やコピー、社会背景と絡めて分析しその特徴や時代変遷を考察した。
メディアと女性についての研究の多くは古典的ジェンダーの観点から分析・言及され、男性に対する女性の
性差撤廃や権利の擁護に主な対抗軸を据えていたという現状がある。本論文ではこの点に着目し、女性は男性
に見られる存在としてしかメディアの中に表象され得ないのかという問いを立て、近年登場しつつある新しい
ジェンダー論によってもたらされるジェンダー像の変容という視点も取り入れながら、女性表象を考察してい
くことを目的とした。
第一章では、メディア表現と女性についての先行研究として、上野(1982)、鈴木(1992)、村松(1998)の論
について紹介した上でその問題点を指摘した。更に、田中(2012)の言及している第3波フェミニズム論とい
う新しいフェミニズムの考えが登場していることについても紹介した。
第二章では、広告表現の多層性と化粧品広告の特性について触れ、化粧品広告は女性の自己イメージの形成
に深い関わりがあると指摘した。更に、化粧品広告にみられる女性イメージに着目し、美人画ポスターの中の
女性像やウィリアムスンの古典的分析事例を提示した後、化粧品広告の持つ女性をめぐる多様なイメージの重
層性を明らかにし、化粧品広告を本論文の女性像分析に用いることの意義を明確にした。
第三章では、事例分析で扱う化粧品広告についての定義と対象の選定基準を明らかにした上で、ダイヤー
(1985)の論を参考に分析の観点について整理した。具体的には、「外見」、「表現様式」、「活動」の3点を非言
語コミュニケーションの観点とし、ナレーションやコピーなどの言語コミュニケーションも独自の観点として
加えることとした。
第四章では、化粧品広告約100点を対象に、前章で提示した観点に基づき分析を行い、各時代の女性像の
特徴やその社会背景について整理した。そして分析から浮かび上がった女性像の特性について、1960年代は
「流行を提示する憧れの女性」、70年代は「強い女・魅せる女の登場」、80年代は「自己決定権を持つ女性た
ち」、90年代は「美少女化する女性たち」、現代は「多様化する女性たち」と時代ごとにテーマを名付けた。
第五章では分析からの考察を行い、化粧品広告に表象された女性は、従来のジェンダー論では捉えきれない
部分があることを指摘し、女性像の多元化と対抗軸の変容がみられるという独自の見解を明らかにした。ま
た、近年のフェミニズム像の変容が、化粧品広告における女性像の変化にも当てはまっていることを明らかに
した。そして最後に本論文での分析全体を通して、メディアにおける解釈には多層性が含まれており、我々は
そうしたメディアとうまく付き合っていくことが必要だと結論付けた。
男性社会と育児休業制度
菊地 広大
近年「イクメン」という言葉が定着し始め、男性と育児が以前よりも密接になっており、企業の取り組みな
ども耳にすることがある。しかし男性の育児休業取得率は女性と比べると圧倒的に低いままであり、本当に男
性は育児に参加するようになったのか疑問である。本論文では男性と育児休業制度の現状や、男性の育児休業
取得が推進される理由を明らかにしていく。さらに企業に求められる解決策を考察していく。
第1章では育児休業制度とはどのような物なのかを明らかにした。育児休業制度とは、育児・介護休業法で
定められている制度であり、仕事と家庭の両立支援のためこれまで充実を図ってきた。しかし育児と仕事の両
立は難しく、出産を機に仕事を辞めてしまう女性が多い。さらに男性の育児休業取得も難しい状況である。こ
れを改善するため、平成22年から改正育児・介護休業法が施工されている。
第2章ではなぜ男性は育児休業を取得できないのか、または取得しないのかを探った。理由としては大きく
分けると3つの要素が挙げられる。労働環境、意識面、経済面とどれも簡単には解決できないような問題があ
ると明らかにした。
第3章では男性の育児休業取得と女性との関係を考察した。日本の昔からの文化や男女間の収入格差から、
育児は女性の仕事で、男性は外で働くことが当たり前になっている。少子高齢化が進む日本において、女性は
日本を支える大きな力として必要とされている。そこで男性が育児休業を取得し、より育児に関わるようにな
れば、女性の社会進出を促すことになるということを明らかにした。
第4章ではアンケート調査と、内定先へのインタビューの結果から父親とその職場の実態を考察した。まだ
まだ育児休業を取得した男性は少ないことが確認できた。また職場ごとに育児休業に対する考え方や状況が異
なるので、制度を整えることも重要だが、職場の環境を整えることが求められているということがわかった。
第5章では男性の育児休業取得のために求められる改革を考察した。職場の意識改革と風土づくり、労働環
境の見直し、制度内容・運用の仕方の見直しなどが挙げられる。このどれもが、企業ごとにニーズに合わせた
柔軟な対応をすることが必要であると述べている。
終章である第6章ではこれまでに述べてきたことをまとめた。そして価値観を押し付けてはいけないという
ことを述べた。それぞれの家庭の状況により育児の仕方は違いがある。育児をしたくない人やする必要がない
人に、制度の利用を押し付けても意味はない。重要なのは抵抗感や不安なく制度を利用できる環境を作り出す
ことである。そのための努力が求められており、それが男女平等参画の促進や少子化抑制につながると述べて
いる。
長野まゆみ論
北村 瑶美
長野まゆみは1988年に『少年アリス』で第25回文藝賞を受賞し、デビューを果たした。長野の作品は、幻
想的な世界と少年の存在が特徴であるとされている。しかし、作品の舞台となる時代や少年の在り方は多様化
してきており、上記のような特徴を見出すことが出来ない作品も存在している。本稿では、このように多様化
した作品の分類毎に少年たちの性質は異なるものであると仮定し、世界設定と登場人物の関係の分析を通して
その特徴について考察した。
第一章では、長野の作風と、作風に影響を与えたものについて整理した。長野作品の特徴とされる「少年」
に影響を与えたものとして、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を挙げ、長野作品に繰り返し用いられる二人組の少
年は、カムパネルラとジョバンニをなぞらえたものであり、片方の少年の理知的な性質はカムパネルラを意識
したものであると論じた。
第二章では、作品舞台の時代設定と作中における幻想世界の有無を軸に、作品の分類を行った。また、少年
の成長について述べる田中雅史の論を紹介した。田中は、『少年アリス』と他作家の作品の分析を通し、少年
たちは互いに欠けた部分を補うために抱えあう関係をとり、次第に分離へと向かい個人としての成長を遂げる
と述べている。この論について、長野作品においては多様化する少年に一様に成長を見ることは難しいのでは
ないかと疑問を呈し、作品の分類毎に少年の特徴は異なると仮定した。さらに、『少年アリス』とは別の作品
群であるSF作品を分析の対象にすると方向づけた。
第三章では、分析対象となる3作品の概要を紹介した後、世界設定について分析を行った。SF作品におい
て、少年は親とは離れた土地で生活している。もしくは親というものが登場せず、家族という概念は希薄なも
のとなっている。代替可能な家族という考えから、少年たちは人との繋がりを意識しない孤独な存在となって
おり、その孤独は周囲の人物の描写が極端に少ないことによって更に強化されていると指摘した。
第四章では、作品の登場人物を大人と少年に分けて分析し、両者の関係について考察した。少年たちは人間
と何かの間という身体を持ち、大人は少年を同質のものとして代替可能な道具と捉えている。大人による少年
の支配は、特殊な身体を持つ少年に存在への不安を抱かせている。少年は不安からの脱却のために、同質の少
年と互いに個人として認識しつつも、融合的な関係を結ぶことで、存在の安定を図ろうとする。また、融合的
な関係の継続と反復が見られることを指摘し、これらは幻想世界という舞台装置や現実離れした少年の身体に
よって成り立っていると論じた。
以上のような少年の融合的な関係の継続とその反復は、少年としての肉体と精神の永遠性を生じさせる。こ
の少年としての永遠性がSF作品における少年の特徴であり、カムパネルラという名前が意味する永遠の少年
を、長野流に表現したものではないかと結論付けた。
現代メディアにみる占星術と女性
桑原 咲子
今日では、テレビや雑誌など様々なメディアで占いを目にする。具体的には、朝のニュース番組での星占い
コーナーや雑誌の後ろの方に載っている占いのページ等である。本論文では、こうした現代メディアを通じ
て提供される占い(主に占星術)を対象として「占いのエンターテイメント的要素の拡大」について考察して
いく。
第1章では、「占星術概観」として占星術の歴史や特徴を記述した上で、現代メディアで見ることのできる
占星術の紹介、また、それらの占いが主に女性をターゲットとしているという事実を述べた。続く第2章で
は、メディアにおけるものに限らず、そもそも、現在占いがどのように考えられているのかを明らかにするた
め、占いに関する先行研究を紹介した。「占いは世界を秩序化している」「占いはデタラメである」という2つ
の考え方を取り上げたが、インターネット上で行われたアンケートの結果より、占いに対して「結果は気にし
ないけどあったら何となく見てしまう」と考えている人が最も多いことがわかり、実際には人々が占いから受
ける影響は些細なものであるということが明らかになった。第3章では、女性向けの雑誌を素材とした占い
コーナーの分析調査を行った。その結果、雑誌における占いコーナーにおいては、「ポジティブな文章且つ良
い運勢の記述が多く、読んだ人が暗い気持ちになりにくい」「雑誌のジャンルやターゲット世代によって、そ
れぞれの読者の特徴や需要をきっちりと捉えた内容になっている」という2つの傾向を掴むことができた。こ
のことから、雑誌の占いコーナーには読者を楽しませるための工夫が盛り込まれており、結果的にそれはエ
ンターテインメント性に繋がるのではないかという主張に至った。第4章では占い師に焦点を当てた。現在、
様々な形でメディアを利用して活動している占い師の例を6パターン取り上げ、そのパフォーマンスの多様化
によって起こっている占い師の個性化を指摘した。そして第5章では、これまでの内容を今一度整理し、序章
で書いた自分の主張を改めて述べ、本論文の結論とした。
その結論とは、「現代メディアにおける占いは、その内容の正確性はほとんど重視されず、ただ結果を聞い
て一時的に楽しむものになっている」というものである。「占いは未知のこと、未来に関することを調べるも
のである」という、以前と同じ認識はまだ残っているものの、その方法や手段、占う内容等、様々な点におい
て現代のメディアにおける占いは演出的・パフォーマンス的な面が強くなっている(エンターテインメント化
が進んでいる)のだという事実を、論文を通じて明らかにした。
地域防災とメディア:新潟県柏崎市の事例をもとに
小林 梓
本研究では、市町村単位で活動するメディアが、コミュニティ内外の個人を媒介することで、コミュニケー
ション活性化に寄与し、コミュニティの活性化に寄与することを主張する。近年、地域コミュニティが、災害
時における共助組織としての働きを期待されている。阪神・淡路大震災においては、近隣の人々の救助によっ
て一命を取り留めた人々が多くいる。しかし、地域コミュニティは都市部を中心に崩壊してきているといわれ
る。そこで新たな可能性を見出されているのが、市町村レベルで地域に密着して活動するメディアである。よ
り地域住民の生活に身近で必要な情報を届け、また住民の地域参加を促す役割を担っているため、地域コミュ
ニティの形成・維持にも期待がかかる。災害時に地域コミュニティが共助組織として活動するには、平常時か
ら活発な活動を行い、住民同士の紐帯を強めておく必要がある。その補助として、地域メディアが寄与するこ
とは可能なのか確認することが、今日急速に設立が進められる地域メディアの意義を確認するために必要であ
ると考えた。
第1章では、コミュニティが重視される背景と、コミュニティを取り巻く「つながりの希薄化」の問題を主
に取り上げた。そして今日、人々がコミュニケーションをとるうえで、メディアの媒介が重要な位置を占めて
いることを確認し、メディアが地域コミュニティの形成・維持に重要な役割を果たすと仮定した。
第2章では、メディアが人々のコミュニケーションを媒介し、結果的にコミュニティの維持に影響を及ぼし
ているとの仮定に基づき、地域メディアと地域住民の関係について、先行研究を参照しつつ考察した。具体的
には、地域メディアがコミュニティを活性化すると論じた先行研究を概観した。そして、地域メディアが置か
れている厳しい現状について論じた先行研究を概観し、地域メディアのコミュニティの中での重要性を考察
した。
第3章では、新潟県柏崎市に拠点を置くNPO法人への聞き取り調査をもとに、地域メディアがコミュニ
ティ内のコミュニケーションを活性化するかどうか考察した。具体的には、東日本大震災の避難者支援・自
主防災組織の育成を主な事業内容とする、NPO法人 地域サポートセンター柏崎への調査をもとに、地域メ
ディアがコミュニティ内部の人とコミュニティ外部の人をつなげる役割を持っていることを述べた。当初、地
域メディアはコミュニティ内部での会話を促進させ、コミュニティを活性化させると仮定したが、調査の結
果、地域メディアが与える情報によっては、コミュニティ内の個人とコミュニティ外の個人とのやりとりを媒
介し、間接的にコミュニティへの参加を促すという役割があるといえる。
終章では、本研究を総括し、今後の研究課題を提示した。今後の検討課題として、地域住民らが地域メディ
アに参加することで、コミュニティへの帰属意識を強めていることを、地域住民らの視点から立証する必要性
をあげた。また、地域メディアを担う人々と、受信者との間に存在する意識の乖離を埋める方策を探ること
が、地域メディアの存続に必要になってくると述べた。
アバターとタイタニック
小林 笑子
レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが主演を務め、1997年に公開された『タイタニック』
は、それまで『ターミネーター』や『エイリアン2』を制作したことで知られていた映画監督ジェームズ・キャ
メロンがさらに注目された作品である。ジェームズ・キャメロン監督は『タイタニック』で多数のアカデミー
賞を受賞した。そして、『タイタニック』制作、公開から12年たった2009年に『アバター』を公開した。『ア
バター』は主に3Dで上映された作品で、アカデミー賞は逃したものの、多くの人々に観られた。ジェームズ・
キャメロン監督はこの12年もの間、映画監督を務める作品は出していない。そして、12年もの監督としての
空白の時間がありながら、2作品連続でヒットとなったこれらの作品にはどのような共通点、相違点があるの
か2作品を比較、考察した。
第一章では、映画の要素の一つである物語について、映画の中に用いられる「韻」に注目して考察した。
「韻」に注目して物語を場面に分けてみると、『タイタニック』と『アバター』はどちらも同じ構造をとってい
ることがわかった。また、「韻」に注目することによって、『アバター』では、現実と非現実ということがテー
マの一つになっているということがわかった。
第二章では、観客に与える印象が変わる要因となる、描写、特に感情移入を促す、2作品での精密描写につ
いて考察した。それぞれの映画の構成や撮影法について述べ、その中で監督の映画に対するこだわりについて
述べた。これらのことを通し、監督が映画を制作する際には、観客が体験するような感覚を得られるような作
品にするということに気を付けているため、精密な描写が不可欠になるということがわかった。
第三章では、技術の映画監督とも呼ばれることのある、ジェームズ・キャメロン監督の作品で用いられる技
術について述べ、『タイタニック』と『アバター』で用いられた技術について考察した。ジェームズ・キャメ
ロン監督は作品を制作する際、何度も未完成の最先端の技術に挑戦している。技術の映画監督と呼ばれること
もあるジェームズ・キャメロン監督であるが、映画製作の際に新しい技術を用いる経緯と効果を考察した。ま
た、『アバター』の大きな特徴である、3D技術について、制作の過程と効果についても述べた。
ジェームズ・キャメロン監督の作る作品は、本人も述べているようにすべてラブ・ストーリーであり、その
ために、多くの人が共感しやすいものとなっている。映画は現実では起こりえない壮大なスケールで描かれる
が、その中に人間に普遍的なテーマを描くことによって、観客が身を持って感じることができるようにしてい
る。そして、さらに感情移入を促す装置として映画で用いられるのが技術である。技術の発達により現実では
ありえないようなことを、現実であるかのようにごく自然に描くことが容易にできるようになった。なお監督
は、技術に頼りすぎない大切さにも述べている。
小松左京論:『日本沈没』を中心に
近藤 朱里
小松左京(1931-2011)は、日本のSF界の第一人者である。1973年に発表された『日本沈没』は、小松の代
表作であり、400万部を超えるベストセラーとなった。同時に、作品は小松の半生の集大成であり、日本SF
の一つの到達点でもあったといえるだろう。同作品によって、日本におけるSFの地位は確立され、SFの「浸
透と拡散」がおこった。
第1章では、日本SFの始まりについて明らかにした。長山靖生は『日本SF精神史―幕末・明治から戦後
まで』において、SFを「科学的空想を加えることで改変された現実を描いたもの」と定義している。長山は、
日本SFの原点を幕末期(1850年代)に書かれた架空史に求め、明治の未来小説・冒険小説、大正・昭和初期の
探偵小説・科学小説、そして1970年頃の小松ら現代SF第一世代の活躍までを、一貫した問題意識を持つ体
系として捉えた。日本SFは政治小説の系譜を持っているのである。小松の活動は、1970年の日本万国博覧
会や1990年の国際花と緑の博覧会のプロデュースや「未来学研究会」の発足など、作家という枠にとどまら
なかった。思想と行動が一体となっている点において、小松は明治前期の民権思想家的であった。また、自伝
『SF魂』を検討し、小松左京にとってSFとは何であったかを考え、小松がSFのうちに「人類の知性」に対
する希望を見出していたこと、小松の思想の根底には「人類の未来への信頼」があったことを明らかにした。
第2章では、『日本沈没』から、小松の日本論および日本人論を考察した。深海潜水艇の操艇者・小野寺俊
夫は、地球物理学の権威・田所博士とともに日本海溝の調査に乗り出すが、田所博士は、自ら調査した膨大な
データから、日本列島が地殻変動によって沈没しつつあることを発見する。日本各地で大地震・火山の噴火・
津波などの自然災害が続発していた。田所博士の警告を受け、政府は日本国民を海外へ脱出させるための極秘
プロジェクト「D計画」を開始する。しかし、事態は予想を超えるスピードで進行し、沈みゆく日本列島に対
する政府と国民の葛藤を通して、「日本人にとって日本とは何か」という問題が提起される。小松が作品を執
筆する動機となったのは、戦争における「一億玉砕」「本土決戦」といったスローガンへの引っかかりであっ
た。『日本沈没』は、「ヒストリカル・イフ」を用いて国土そのものを消滅させることで、国を失った日本人た
ちに「日本人とは何か」をあらためて考えさせようとした「思考実験」であった。「あの戦争がなかったら、お
そらく僕はSF作家にはなっていない」とのべているように、小松は、同作品を始め、短編作品「地には平和
を」(1963)「戦争はなかった」(1967)など、複数の作品において、戦争の記憶とその犠牲を風化させまいと敗
戦の意味を問い続けているのである。
小松作品は、科学的空想を通して現実を批判する政治小説的な性質を持っている。そして、自身の戦争体験
をもとに、SF的な発想を通して日本と日本人について描かれた小松左京の『日本沈没』は、終戦後70年とな
る現代日本の戦後文学としても大きな価値を持っているのである。
1985
年以降の日本の電気電信業界の展開
齋藤 勇人
本論文の目的としては、電気通信が事業として始まってから現代のような環境が整備されるまでの過程・展
開を認識すること。なぜ近代的通信は官営として始まったのか、そしてその後なぜ1985年の通信事業の民営
化に踏み切ったのか、この大きなターニングポイントが現代まで続く電気通信業界にどのような影響を与えた
かを理解し、1985年を境にその前後で料金や通信、サービスの内容の変化を比較し、違いを考察することに
ある。
第1章では、近代に海外から伝わった電信、鉄道、郵便、電話事業といった近代的通信事業がどのような経
緯で官営としてスタートしたのか、近代的通信事業の登場までに存在していた類似する民営事業もしくは民営
でのスタートを主張する民間との対立を踏まえて書いた。また、なぜ近代的通信事業は官営にしなくてはなら
なかったのかについても、事業史としてまとめた。
第2章では、本論文で主に扱う電気通信についてその発展段階を追って1985年までを事業史としてまとめ
た。戦後、公社形態が取られることになり、日本電信電話公社、国際電信電話株式会社が設立され、財源とし
ての通信から一転して産業の通信の時代が始まった。
第3章では1985年以降、日本電信電話公社、国際電信電話株式会社が民営化され、それぞれNTT、KDD
が誕生した以降を書いた。電気通信市場への新規参入や価格競争、利用者数の増大に伴う通信方式の変化やイ
ンターネットとの接続が開始され、業界が誕生した時期である。
第4章では前章までにまとめた事業史をもとに、1985年以前と以降で料金、通信の方式や設備、サービス
の3点を比較し、違いを考察した。
1985年を境にその前後で比較したことで、現代に至るまでの電気通信業界の発展を見て取ることができ、
展開を追うことができた。
ローランド・エメリッヒ監督作品におけるアメリカと災害
佐川 駿也
2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生したアメリカ同時多発テロ事件(以下9.11事件)はハリウッド
の映画界、とりわけパニック映画に多大な影響を与えたという。それまで人々はスクリーン上の大災害を客席
という安全な立場からみてきたが、9.11事件は観客の災害に対するイメージを「自分とは関係のない出来ご
と」から「自分に突然襲いかかるかもしれない出来ごと」に変えたのだった。本論文ではハリウッドの代表的
な映画監督の一人であるローランド・エメリッヒの監督作品であるパニック映画、『インデペンデンス・デイ』
(1996)、『GODZILLA』(1998)、『デイ・アフター・トゥモロー』(2004)、『2012』(2009)の物語構造が、9.11
事件の影響を受けて事件前後で変化しているかどうかを探ることを目的とした。
第一章では、パニック映画というジャンルの説明をしたうえで、近年従来のパニック映画とは物語構造の
異なる新しいパニック映画が出現したことと、そのことに9.11事件が関連しているという事実を確認した。
9.11事件の影響を受け、従来のパニック映画に存在したヒロイックな主人公像とは正反対の性質を持つ主人公
が9.11事件後のパニック映画に登場するようになったのであった。
第二章では、従来のパニック映画と新しいパニック映画の主人公像の特徴を整理し、エメリッヒ監督の各作
品における主人公像と照らし合わせ、これらが9.11事件の前後で変化しているかどうかを分析した。その際、
エメリッヒ監督作品の物語構造が群像劇の手法を伴っていることに着目し、複数の主人公を挙げて分析した。
そして各作品における登場人物が科学者を除いて9.11事件の前のものほど従来のパニック映画の主人公像度
が高く、9.11事件の後ほど新しいパニック映画の主人公度が高いことを明らかにした。
第三章では、パニック映画が持つ「善と悪の衝突と美徳の勝利」というメロドラマの要素について述べ、エ
メリッヒ監督作品におけるメロドラマの物語構造を分析した。まず始めに新しいパニック映画がメロドラマ的
要素を持っていないことを確認した。そしてエメリッヒ監督作品における善と悪の存否を複数の登場人物を例
に挙げて分析し、結果的にエメリッヒ監督作品がいずれも共通して「科学者と政府という善悪」と「政府内部
の善悪」という二つの二項対立と美徳の勝利というメロドラマ的な物語構造を持っていることと、そこに特徴
的なプロセスがあることを明らかにした。
終章ではこれまでの分析をまとめ、エメリッヒ監督作品は9.11事件の影響を受けており、それによる9.11
事件前後の変化はヒロイックな人物像の消失ではなく、群像劇による多角的な人々の描写にあるとした。また
エメリッヒ監督作品は共通して「科学者とアメリカ政府の善悪の衝突と善の敗北」、「アメリカ政府内における
善と悪の分離」、「科学者とアメリカ政府の善の融合」というパターン化されたメロドラマ的要素を含んでお
り、それらは9.11事件の前後で変わらずに受け継がれていたと結論付けた。
音楽ゲーム論
笹井 沙織
現在、市場には「アクションゲーム」「ロールプレイングゲーム」「シューティングゲーム」をはじめとした、
様々なビデオ・ゲームが出回っている。そして、それらと並んで「音楽ゲーム」というジャンルが存在する。
一般に音楽ゲームは「音ゲー」と呼ばれ、多くの人に親しまれている。本論文では、何故音楽ゲームが多くの
人に受け入れられているのかを明らかにすることを目的に論を展開した。
第1章では、音楽ゲームとは「音楽のリズムに合わせてボタンを押すもの」であると定義し、ゲーム史を踏
まえた上で現在に至るまでの音楽ゲームの流れを確認した。さらに、各機種でそのボタンに特徴があることに
言及し、新しいものになるにつれ、より直感的に操作可能なものへと変化してきていることを明確にした。
第2章では、カイヨワの『遊びと人間』を参考に、音楽ゲームの遊戯性について分析した。音楽ゲームにお
いては「二重構造の競争」が行われているとし、その根拠として、楽曲クリアのみならず高スコア獲得やフル
コンボ達成を目標として個々人が自分自身との闘いを行っていることと、ゲームに設けられている競争システ
ムをはじめとし、他者とスコアを競い合える環境があることを挙げた。また、人がある行為を継続するために
はその能力が適切に評価され、それに対する報酬が与えられる必要がある。音楽ゲームにおいては、プレイ
ヤーの能力はスコア等によって的確に評価されると共に、楽曲クリアを報酬とすることで、プレイヤーはゲー
ムを継続して行うものであるとした。さらに、ゲームセンターという場所がゲームを行う上では欠かせない重
要な場所、すなわちプレイヤー同士のコミュニケーションの場として機能していることを明らかにした。
第3章では、その音楽性について考察した。音楽ゲームにおける音楽は、リズムに合わせてボタンを押すた
めのひとつの指標として機能しているとしたが、本章ではこれらの音楽が「リズムに合わせてボタンを押す」
という行為に付随したものではなく、「独自の価値を持ったものとして」聴かれているかどうかについて検証
を行った。近年になってプレイ時にイヤホンやヘッドホンを接続できる機種が増えてきたことや、各音楽ゲー
ム会社から楽曲を収録したCDが発売されている事実を挙げ、音楽ゲームには「聴かれるための」音楽が確か
に存在しているという結論を導き出した。
本論文では、業務用音楽ゲームに焦点を絞った上で論を展開した。したがって、ゲームセンターという場所
が重要な手掛かりとなったと言える。遊戯面では、ゲームセンターで遊ぶにあたりどこにそのおもしろさがあ
るのかということを考察し、音楽面では、プレイヤーがその音楽をどのように捉えているかを明確にすること
で、音楽ゲームを音楽のひとつのあり方として提示することができたと考えられる。その遊戯性と音楽性によ
り、音楽ゲームは多くの人から支持されていると結論付けた。
フランソワ・ジェラール作《プシュケとアモル》についての考察
笹岡 遥
フランソワ・ジェラールは、新古典主義美術を代表する画家の1人である。彼は、後2世紀のローマの作
家、アプレイウス作『黄金の驢馬』の挿話である「アモルとプシュケの物語」を主題とした作品、《プシュケと
アモル》を1798年に手掛けている。この物語を主題とした作品はルネサンス以降数多く描かれており、特に
新古典主義時代に流行した。本論では新古典主義時代に焦点を当て、《プシュケとアモル》について、作品に
描かれたモチーフの分析、同時代の「アモルとプシュケ」を主題とした他作品との比較や、文学作品との関連、
当時の時代背景や思想と照らし合わせながら考察を進めた。そして、考察を通して、ジェラールの作品の位置
づけや、「アモルとプシュケ」という主題が新古典主義の時代にどう受容され、表現されたかを明らかにした。
第1章では、フランソワ・ジェラール作《プシュケとアモル》について、作品の分析を通し、この作品は物
語の単なる1場面ではなく、プラトン主義及び新プラトン主義的な意味を持った物語の集大成的作品であり、
物語を象徴的に表しているとした。
第2章では、《プシュケとアモル》について、同時代の「アモルとプシュケ」を主題とした彫刻、絵画、文学
作品との比較・考察を行った。カノーヴァや、カウフマン、ダヴィッドの作品をとり上げ、第1章での解釈を
補強し、また、キーツの詩や思想から、当時のアモルとプシュケ神話が、魂が苦難を乗り越えて不滅となる、
という寓意でも受容されていたこと、プシュケが人間に近い神として認識されていたことがわかった。そし
て、ヘルダーの文学作品と、古代の死の形象化についての取り組みから、アモルが「死」の寓意としてもみな
されていたことを明らかにした。
第3章では、《プシュケとアモル》を、当時の新古典主義美術の特徴や、フランス革命といった時代背景と
照らし合わせながら考察を進めた。新古典主義芸術で「死」を主題とした作品が多く描かれたことに触れ、こ
の時代の「死」の再発見が、「アモルとプシュケ」の主題に死のモチーフを見出させたことについて言及した。
また、当時擬人像やプラトン主義及び新プラトン主義の思想が再び流行したことで、「アモルとプシュケ」を
主題とした作品が寓意的な意味をもった作品として受容されやすかったこと、新プラトン主義の思想が表す、
精神的な愛、高次の、天上の神の愛として描かれたことを明らかにした。
フランソワ・ジェラール作《プシュケとアモル》は、フランス革命、プラトン主義及び新プラトン主義的思
想の復活や、古代の彫像の発見等によるアモルとプシュケ神話の流行、そして、「死」への新たな意識、擬人像
の流行など、様々な要因が重なることによって生まれた。この作品は、アモルとプシュケ神話のもつ多重の意
味を1つの作品において表現した、象徴的作品である。ジェラールは、アモルとプシュケの物語の挿絵の制作
や、古代彫像の影響、当時の芸術作品の特徴や、社会状況を通して得た経験から、アモルとプシュケ神話の集
大成として、《プシュケとアモル》を制作したのである。