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駒沢女子大学研究紀要第 22 号 p. 69 ~ 上杉本洛中洛外図屏風 の注文時期とその動機に関するノート 近年の戦国期畿内政治史研究の成果に学ぶ * 下川雅弘 Rakuchū Rakugai zu Folding Screen (Uesugi Version): Time and

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〔駒沢女子大学 研究紀要 第22号 p. 69 ~ 84 2015〕

『上杉本洛中洛外図屏風』の注文時期とその動機に関するノート

─近年の戦国期畿内政治史研究の成果に学ぶ─

下 川 雅 弘

Rakuchū Rakugai zu Folding Screen (Uesugi Version):

Time and Motive of its Order in Light of the Recent Warring States Period Kinai

Political History Research

Masahiro SHIMOKAWA*

人文学部 日本文化学科 はじめに -『上杉本洛中洛外図屏風』研究の到達点と若 干の疑問-  戦国時代の京都を描いた『上杉本洛中洛外図 屏風』( 以下、上杉本と略)は、米沢藩主の上杉 家に代々伝来した名品として、数ある洛中洛外図 の中でも特に知られている。『上杉年譜』に「天正 二年春三月下旬、織田信長ヨリ使節到来ス、濃彩 ノ屏風二隻贈ラル、一隻ハ洛陽ノ名所、一隻ハ源 氏ヲ画ク、狩野源四郎貞信筆也」とあるように、後 世のいくつかの編纂物において、上杉本は天正2年 (1574)3月に織田信長が上杉謙信1に贈ったもの で、その作者は狩野永徳であると伝承されてきた。  ところが、上杉本に描かれているのは、天正2年 より10年から30年も以前の景観であるため、これ らの伝承が史実であるかどうかについて、長らく論 争が繰り広げられることとなった。こうした謎に対し て一定の結論を導き、現時点での上杉本研究の到 達点を示しているのが、平成8年(1996)に『謎解 き洛中洛外図』を著した黒田日出男氏である2。以 下、多少長くなるが、黒田氏の著書に基づきながら、 上杉本の研究史と氏の結論を紹介していきたい。 Abstract

 Hideo Kuroda is currently leading research on the Rakuchū rakugai zu (Scenes in and around  the Capital) folding screen’s Uesugi version (Uesugi bon). Having noted that Shogun Ashikaga  Yoshiteru ordered the folding screen to be given to Uesugi Kenshin, Kuroda has revealed, based  on newly discovered historical material, that it was created by Kanō Eitoku on the 3rd day of the  9th month  of Eiroku  8 (1565).  However,  without  further  evidence,  Kuroda  concludes  that  Yoshiteru ordered the screen from Eitoku around the end of Eiroku 7 (1564) or the beginning of  Eiroku 8. Furthermore, besides noting that Yoshiteru had planned to give it to Kenshin, Kuroda  does not explain Yoshiteru’s motive for ordering the screen at that particular time. This study  identifies the time period when Yoshiteru ordered Eitoku to create this screen during the Eiroku  era and proposes possible reasons for Yoshiteru’s order.

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 多くの美術史家たちは、卓越した芸術性の高さ と、狩野永徳の「州信」印が押印されていること などから、上杉本は30歳を過ぎた天正初年の狩野 永徳筆であると、おおむね共通の解釈を示してい た。ただ、かつての景観を描いている点については、 京都のあるべき姿を表現しているとか、粉本の構図 を転用したためといった、さまざまな説が唱えられて いる。  これに対して、『上杉年譜』等は近世の二次史 料で信用できず、15代将軍足利義昭を追放した直 後の織田信長が、上杉本のような構図を描かせる はずがないと、歴史家の立場から反論したのが今 谷明氏である3。今谷氏は上杉本をきわめて写実 性の高い作品と捉えた上で、描かれた構造物の精 緻で網羅的な調査を行い、景観年代は天文16年 (1547)7月から閏7月の間に限定できるとした。そ して、上杉本はこの短い期間の中で写実的に描か れたもので、当時満4歳の狩野永徳が上杉本を描 くことは不可能であると結論づけたのである。  上杉本の作者を狩野永徳ではないとする今谷説 には、数多くの批判が寄せられた。まず美術史家 からは、初期洛中洛外図の描写を文字通りの写実 とするのは誤りで、景観年代の上限は作品の制作 年代の上限になるが、景観年代の下限から制作年 代を特定するのは困難であるという、原則論的な問 題が指摘された4。また、今谷氏による構造物の景 観年代の設定にも、いくつかの疑問が提起されてい く。なかでも永禄4年(1561)3月の足利義輝御成 の際に新造された冠木門が、三好筑前邸に描き込 まれていることから、同構造物の景観年代の上限 はこの時点であるという、建築史家の高橋康夫氏 からの指摘は、最も重要な意味を持つこととなった5。 つまり、上杉本の制作年代についても、同じく永禄 4年3月以降となることが、明らかにされたのである。  こうした今谷説への批判を踏まえながら、新たに さまざまな問題提起を行ったのが瀬田勝哉氏であ る6。瀬田氏は、天文18年(1549)の細川晴元没 落で失われた武家体制の上に、三好筑前邸・松 永弾正邸といった新興勢力を重ね合わせて描写す る異時同図の表現が、上杉本には採用されている との見解を示した。また、こうした新旧政治秩序の 同時描写を構想( 注文)しうる主体としては、13代 将軍足利義輝が最有力で、上杉本の成立は、永 禄4年(1561)の三好邸御成以後、永禄8年(1565) の義輝殺害以前であろうと捉え、さらに、武衛門前 で闘鶏を見学する少年を、天文15年(1546)に元 服した義輝と推定した。なお、上杉謙信が上杉本 を入手した経緯については、永禄3年(1560)から しばらく越後などへ下向した関白近衛前久(義輝の 従兄弟)が、何らかで関与しているのではないかと の仮説に触れている。  つづいて黒田日出男氏は、上杉本の注文主を 足利義輝とする瀬田説について、これを支持・補 強する新説を発表したのである7。黒田氏は、上 杉本のような誂え物の場合、制作者である狩野永 徳の創造性以上に、注文主である義輝の意向が 強く反映され、また、贈答用としての注文品であれ ば、贈答先への意識も強く反映されることを確認し た上で、大塚活美氏や水藤真氏などの研究成果 を援用して、以下のような説明を展開する。正月の 年始祝いに細川邸から公方邸へ向かう塗輿の行列 と、これに乗る貴人に注目した大塚氏の視点を支持 し8、この貴人を管領クラスの人物、すなわち、上 杉謙信と推定したのである。こうした細川邸・公方 邸周辺を、季節表現の定形を無視し、内裏の正月 節会と一対ににるよう、無理に初春の光景として描 いていることなどは、公方邸とその周辺を正月の風 景として寿ぎたい、注文主義輝の強い意向が働い ているという。また、初期洛中洛外図の中で、上 杉本には内裏関連施設の文字記載が圧倒的に多 いとする水藤氏の指摘を受けて9、義輝が想定した 上杉本の贈答先を、内裏に特に興味を抱いている 地方大名であろうと捉え、そうした人物としては上 杉謙信が最適であると推理した。

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ない義輝が、願望や現実逃避に走った「敗北宣言」 と見なさざるを得ない絵で、政治的な事物について は、同時代的な正確さは担保されていないと結論 づけた。こうした評価への違和感については、本 論で触れることとする。  さて、現時点での上杉本研究の到達点といえる 黒田日出男氏の定説に戻るが、これにも若干の疑 問が2つ存在する。たしかに、『謙信公御書集』 の記事により、上杉本が足利義輝殺害後の永禄 8年(1565)9月3日に、狩野永徳によって完成され たという事実は、揺るぎないものとなった。また、上 杉本の注文主についても、これを義輝する黒田説 ( 瀬田説)以上の想定は困難である12。けれども、 義輝による上杉本の注文時期については、特に根 拠を示さないまま、「永禄七年( 一五六四)年末か 同八年初めに、若き狩野源四郎( 永徳)に命じて 制作させていたもの」と断じている。おそらくこれは、 制作に要する期間などから逆算しての想定と考えら れるが、瀬田勝哉氏が上杉本の成立時期を永禄 4年から8年の間と推定し、黒田氏も当初の仮説で は永禄4年の注文と捉えていたように、義輝による 注文時期( 永徳による制作開始時期)については、 永禄4年3月の三好邸御成まで遡り得ることを視野 に入れて、再検討すべきと考える。  もう1つの疑 問は、永 禄7年 末か同8年 初め に、義輝が謙信に屏風を贈らなければならなかった 政治的背景について、何ら触れられていない点で ある。注文時期を永禄4年とする当初の仮説では、 謙信の関東管領就任への祝儀としてという明確な 説明がなされていたが、その妥当性も含めて、義 輝が謙信に贈答するための屏風を、永徳に注文し た直接的な動機についても、当時の政治情勢を踏 まえて考察する必要があろう。  黒田説が提唱されて以降、戦国期の畿内政治 史研究は大幅に進展している。本稿では、これら の成果に学びながら、黒田説に対する2つの若干 の疑問について検討を試み、気づいたことを覚え書  以上のように、黒田日出男氏は、足利義輝が上 杉謙信に上洛をうながす政治的メッセージが込め られた作品として、上杉本を位置づけた。そして、 義輝が謙信( 輝虎)に偏諱を与え、彼の関東管領 職を認めた永禄4年こそ、謙信への祝儀の品として、 義輝が狩野永徳に上杉本を注文した時期と考えら れるとの仮説を、いったん提示するのである。ただし、 この仮説を裏付ける史料がないとして、これを博捜 する作業を続け、『謙信公御書集』に「同年( 天 正二年)三月、尾州織田信長、為使介佐々市兵 衛遣于越府、被贈屏風一双、画工狩野源四郎貞 信、入道永徳斎、永禄八年九月三日画之、花洛尽、 被及書札」との記事を発見し、いったん提示した 仮説を以下のように修正した。  上杉本は、足利義輝が上杉謙信に贈るために、 永禄7年末か同8年初めに、狩野永徳に命じて制 作させた作品で、永禄8年(1565)5月の義輝殺 害後の9月3日( 義輝の百箇日の2日後)に完成され た。永徳の手元に残されたこの絵は、上洛を果た した織田信長に売り込まれ、武田氏攻略のため協 調関係を築きたい謙信に対して、天正2年(1574) 3月に信長がこの屏風を贈答した。以上が黒田日 出男氏によって最終的に提示された新説で、以後、 現在に至るまで、上杉本に関する定説的な位置を 獲得している。  なお、この間に発表された上杉本の評価に言及 している研究としては、小島道裕氏の論考が存在 する10。小島氏の論考は、基本的にこれまでの研 究成果を踏襲・整理したものである。この中で小島 氏は、上杉本に描かれた公方邸について、12代 将軍足利義晴の今出川御所ではなく、高橋康夫氏 が唱えるように11、理想化された本来あるべき花の 御所の姿と捉え、その内部に3名の従者とともに描 かれた人物を、足利義輝と推定した。その上で小 島氏は、空想の花の御所に住み、すでに滅んでし まった死者たちを従え、来ることのない上杉謙信を 待つ義輝を描いた上杉本は、現実の姿を肯定でき

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きとして整理しておきたい。 1.描かれた新旧2つの政治秩序  本論に入る前に、天文末年から永禄初年頃まで の、京都周辺の政治情勢に触れておく。天文17年 (1548)12月、三好長慶が主君である細川晴元 を裏切り、翌年6月の江口の戦いに勝利して、細 川氏綱とともに上洛したため、晴元は足利義晴・義 輝父子とともに近江へ逃亡した。その後、一時的 に長慶と義輝は和睦するものの、やがて両者の関 係が破綻して、天文22年(1553)8月に義輝が再 び逃亡すると、長慶は将軍を擁立しない体制をしば らく維持することとなる。  永禄元年(1558)、足利義輝が挙兵し三好長慶 との合戦を繰り広げるものの、11月に六角義賢の 仲介により再び和睦して帰京すると、12月には長 慶・細川藤賢( 氏綱の弟)・伊勢貞孝などを従えて 妙覚寺に移った。永禄2年4月には、義輝の帰京 を祝して上杉謙信が上洛し、6月、裏書免・塗輿 免といった足利一族や管領家に準じる待遇を与えら れた。謙信の義輝などとの接近は、三好方からす るとできるだけ阻止しておきたかったと考えられるが、 同月には謙信と関白近衛前久( 義輝の従兄弟)が 盟約を結んでいる。10月に謙信が帰国の途につくと、 翌年9月に前久は越後に下向し、謙信の関東出兵 に協力しようとした。謙信は北条氏の小田原城を包 囲した後、永禄4年閏3月に上杉憲政から上杉家 の家督を譲られ、4月には鶴岡八幡宮で関東管領 就任式が行われた。さらに、12月になると義輝から 偏諱を受けて、正式に関東管領職が追認されたと 考えられている。ただ、謙信による関東平定が思う ように進まなくなると、前久は謙信の意向を無視し て、翌年8月に帰京した。  一方、この間の足利義輝と三好方との関係であ るが、永禄3年(1560)1月に三好長慶が義輝か ら相伴衆に列せられ、正親町天皇から修理大夫に、 子の三好義興が筑前守に任じられると、この頃から 長慶は家督を義興に事実上譲与していった。2月に は義興と三好家臣の松永久秀が、義輝によってとも に御供衆に加えられた。永禄4年1月、義興は上 洛して相伴衆就任の礼を述べており、2月には義興・ 久秀が義輝の強い意向で御紋を拝領している。以 上のように、永禄初年における義輝は、三好方の 諸氏に対してさまざまな栄典を授与することで、少 なくとも表向きは三好方との協調姿勢を示していた。 こうした義輝からの栄典等に対する返礼の意味を 含めて、永禄4年3月に義輝の三好邸への御成が 実現することとなったのである。  さて、先述したように、上杉本には天文18年 (1549)以前の政治秩序の上に、三好筑前邸・松 永弾正邸といった新興の対立勢力が意識的に描 写されていることが、瀬田勝哉氏によって明らかに された13。ここでいう上杉本に描かれた天文18年 以前の政治秩序とは、同年6月の江口の戦いの敗 北によって没落した細川京兆邸の細川晴元、細川 典厩邸の細川晴賢、細川和泉守護邸の細川元常、 薬師寺備後邸の薬師寺備後、高畠甚九郎邸の高 畠甚九郎を指しており、ここではおおむね今谷明氏 の理解が踏襲されている14。  なお、伊勢守邸の伊勢貞孝は、細川晴元が足 利義晴・義輝父子とともに逃亡した後、やがて新興 の三好方に転じて在京し続けるので、没落した勢力 ではないが、天文初年より政所執事として義晴に仕 えており、天文18年以前の政治秩序を構成する要 素として描かれているとの理解も可能であろう。また、 瀬田氏によって、義輝の近衛御所の前身である武衛 ( 斯波邸)の門前に、幼少期の義輝自身が描かれ ているとの推定がなされているが、こうした理解に 従えば、この場面も天文18年以前の光景の一部と なる。  上杉本に描かれた武家勢力のうち、以上が天文 18年以前の旧政治秩序と捉えられるのに対し、新 興の政治秩序を表現したものとして捉えられてきた のが、三好義興の三好筑前邸と、松永久秀の松

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描かれた新政治秩序は、そうした永禄4年頃にお ける両者の表面的な協調関係を、表現しているよう に感じられる。 2.永禄4・5年の軍事的混乱と描かれた伊勢守 邸の検討  足利義輝による上杉本の注文時期とその動機に ついて、黒田日出男氏の当初の仮説では、上杉謙 信が関東管領に就任した永禄4年(1561)12月か ら同5年春頃に、祝儀の品の1つとして絵師に発注 されたのではないかと推測されていた19。この仮説 について、黒田氏自身はすぐに取り下げてしまうの であるが、その妥当性を再検討する必要はあろう。 そこでまずは、永禄4・5年における京都周辺の政 治情勢を確認しておきたい。  永禄4年7月、反三好方の畠山高政が紀伊から 和泉に攻め入ると、これに呼応して近江の六角義 賢も反三好方の兵を挙げた。義賢は翌年にかけて 京都東山に在陣し、三好方と対峙する。永禄5年 3月に、高政が和泉久米田で三好方に勝利すると、 三好義興は足利義輝と慶寿院(義輝の母で近衛前 久の叔母)を八幡に退去させてその護衛を命じ、入 れ替わりで六角方が京都を占拠した。5月になって 三好方が反撃に転じ、河内教興寺で畠山方に勝 利すると、6月には義賢が三好方と和睦して近江に 引き上げ、義輝が帰京を果たす。  さて、永禄4・5年における軍事的混乱について は、足利義輝が三好方と行動をともにしていたた め、反三好方の六角義賢・畠山高政と、義輝を擁 した三好方との戦いという構図で捉えられることが 多い。三好長慶に強い対抗意識を抱く義輝の内心 を思えば、彼が反三好方としての動向を示しても不 思議はないのであるが、現実には義輝が反三好方 と結んだことを示す直接的な史料は、管見の限りで は存在しない。永禄4・5年においても、義輝は三 好方との表面的な協調関係を、永禄初年以来一貫 して維持していたようである。 永弾正邸である。このうち三好筑前邸が、上杉本 の制作年代の上限を示す重要な構造物であること は先述した。そこで、上限年代の決め手ともなった 永禄4年(1561)3月の足利義輝による三好筑前邸 への御成について、田中信司氏の研究成果に拠り ながら検討していきたい15。  永禄4年3月3日、御成について内々の打診を受 けた三好方は、いったんこれを固辞するものの、大 館輝氏・上野信孝・伊勢貞孝ら足利義輝側近から の勧めにより、結局は了承することとなった。3月30 日、賓客側の義輝は、細川藤賢・松永久秀・伊 勢貞孝らを御供衆として従えて、三好筑前邸に御 成した。接待側の三好方は、三好義興・細川氏綱・ 三好長慶らが、将軍とともに饗応にあずかる相伴衆 として、義輝に対座している。  再びここで上杉本を観察すると、三好義興の三 好筑前邸、松永久秀の松永弾正邸だけでなく、細 川氏綱の細川京兆邸16、細川藤賢の細川典厩 邸17、伊勢貞孝の伊勢守邸といった、義輝の三好 邸御成における賓客側・接待側の主要人物の邸 宅が、永禄4年での新政治秩序として描き込まれて いるのである。上杉本の細川京兆邸・細川典厩邸 および伊勢守邸は、天文18年以前の旧政治秩序 を構成する要素であると同時に、永禄4年の新政 治秩序を構成するダブル・イメージとして描かれて いるとも解釈できよう。  天野忠幸氏は、永禄4年の三好邸御成の意義 について、義輝にとっては、三好方を幕府の政治 秩序に組み入れ、主従関係を再確認すること、三 好方にとっては、義興が盛大な饗宴を催すことによっ て、自身の勢力を誇示することが、それぞれの目的 であったと指摘している18。永禄4年頃までの義輝 と三好方は、互いに腹の中では強烈な対抗意識を 抱きながら、義輝による三好方への栄典授与(それ 自体が対抗意識でもあろうが)や御成要請からうか がえる通り、義輝は三好方との協調姿勢を、表向 きは積極的に示す方針を採用していた。上杉本に

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 ここで足利義輝による上杉本の注文時期と動機 の話題に戻ろう。義輝から上杉謙信への贈答品が、 関東管領就任への単なる祝儀の品であれば、黒 田日出男氏の当初の仮説のように、永禄4年12月 から翌5年春にかけての時期に、義輝がこれを贈 ろうとしたと考えても特に問題はない。けれども、上 杉本が謙信の上洛を要請するという強い政治的メッ セージを込めた屏風であることを考えると、もし永禄 4・5年に義輝がこれを贈ろうとしていたのであれば、 それはあまりに危険な三好方への背信行為を、彼 が密かに計画していたことになる。  こうした推測も完全には否定しきれないので、義 輝が以上のような動機で、永禄4・5年に上杉本を 注文した可能性についても保留しておくが、この時 期における注文を想定するのは、これを裏付ける証 拠もなく、たしかに無理があろう。また、上杉本の 完成が、永禄8年9月であることに疑いはなく、永禄4・ 5年にこれを注文していたのであれば、仮にこの間 の軍事的混乱による屏風制作の中断などがあったと 想定しても、完成に至るまでの年月の長さには、や はり違和感を抱かざるを得ない。そこで、上杉本の 注文時期について、本稿では少なくとも永禄4・5年 の軍事的混乱が終息して以降であろうとの仮説に 基づいて、考察を進めることとしたい。  ところで、永禄4・5年の軍事的混乱は、6月の 三好方と六角方との和睦で終息した訳ではなかっ た。永禄5年(1562)8月、伊勢貞孝・貞良父子 が突如兵を挙げたのである。この事件は、9月に三 好義興・松永久秀により、伊勢父子が討伐されて 終息するものの、政所頭人として長らく京都で存在 感を示してきた伊勢氏の挙兵・滅亡は、幕府に少 なからぬ衝撃を与えた。伊勢氏の遺臣たちは、貞 孝嫡孫への本宗家相続を求める嘆願書を幕府に 提出したが、義輝はこれを許可せず20、さらに、伊 勢貞孝を「御敵」としてその所領を没収の上、側 近の細川藤孝らに配分し21、同じく側近の摂津晴門 を新しい政所頭人に起用している。  伊勢貞孝挙兵の理由については、これまでさま ざまな見解が示されていて22、必ずしも定説を見て いないが、彼の反乱以前より、伊勢氏の主導する 政所沙汰に対して、足利義輝が介入する姿勢を強 めていたと推断した山田康弘氏の見解を前提に23、 義輝が貞孝を追いつめたという文脈で、この事件 を理解する傾向が強い。たとえば、松村正人氏 は、政所頭人として幕府権力から遊離し続けた貞 孝を、最終的に義輝が排除したと捉え24、天野忠 幸氏は、伊勢氏の排除と政所の掌握を企てた義輝 が、三好長慶と貞孝を離間させた上で、彼を挙兵 に追い込み、松永久秀らに討たせたのではないか と推測した25。反乱鎮圧後の義輝が、伊勢氏への 厳しい処分を認め、側近の摂津晴門を政所頭人に 据えていることなども、これらの説を支持する根拠と なっている。  再び上杉本に話題を戻すと、ここに伊勢守邸が 描かれていたことを思い出す。もし足利義輝が伊 勢貞孝を追いつめて滅亡させたとするならば、義 輝によって注文され、貞孝の反乱より後の永禄8年 (1565)に完成した上杉本( おそらく注文も貞孝の 反乱以降であろう)に、なぜ義輝は伊勢守邸を描 かせたのかという疑問が生じてくる26。そもそも貞孝 を滅亡に追いやった主体として、義輝を想定するこ とは妥当なのであろうか。  足利義輝が三好方によって八幡に匿われ、六角 方が京都を占拠していた永禄5年(1562)3月から 6月にかけて、伊勢貞孝は京都に留まり、六角方に よる徳政実施などに協力していた27。そのため、六 角方が三好方と和睦すると、貞孝は彼らとともに近 江坂本へ退去している。その後の8月に貞孝は挙 兵するのであるが、その直接的な理由については、 「将軍義輝も三好氏とともに( 八幡に)逃れるなか、 貞孝は在京を守り、恐らくはこのために( 三好氏と の関係を壊し)滅亡したのである」という大西泰正 氏の見解が28、もっとも事実に近いものと考える。六 角方に味方した貞孝は、三好方と六角方との和睦

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軍義輝であったことを思い知る」と解釈している33。  では今一度、永禄4・5年における足利義輝と伊 勢貞孝の関係について整理したい。伊勢氏が頭人 として決裁する政所沙汰に対し、義輝が介入する 姿勢を強めていたという山田康弘氏の説は、竹内 門跡と北野松梅院との相論をおもな事例として立論 されたものである34。この相論に義輝が介入しようと した事実は、たしかに認められるものの、これをど こまで普遍化できるかについては、再検討の余地 はあろう35。本稿のここまでの考察を踏まえるならば、 少なくとも必要以上に義輝と貞孝を対立的に描くべ きではないと判断したい。  ルイス・フロイスは、永禄5年(1562)にヴィレラが 公方邸を訪問する場面において、「はなはだ高貴 であり、公方様自身の後見人を務め、公方様から 大いに畏敬され寵愛されている伊勢守殿」と書き残 しているが36、ここに表現されている義輝と貞孝の 関係性こそ、より実態に近い姿であったと考える。  とはいえ伊勢貞孝は、三好方と反三好方との抗 争の中で自身の立場を失い、やがて挙兵するに及 んだ。足利義輝が三好長慶によって、天文末年か ら長らく京都を追われた際も、貞孝には義輝を見捨 てた過去がある。この一件を含めて、永禄5年に 反乱を起こした貞孝に対し、義輝の心中には複雑 な思いが去来したことであろう。反乱鎮圧後の義輝 による伊勢氏の処分には、たしかに厳しささえ感じ られる。けれども、こうした処分については三好方 に主導権があり、義輝が三好方との当面の協調関 係を維持するためには、伊勢氏の処分を認めざる を得ない側面が強かったのではなかろうか。  以上のように考えると、義輝が注文した上杉本に、 伊勢守邸が描かれていることについても、特段の 違和感は抱かなくなる。むしろ、先行する東博模 本の伊勢守邸に比べて、上杉本ではこれがはるか に控えめに描かれていることに、義輝の心情が表 現されているようにも感じられるのである。 後に、京都における自らの立場を完全に失い、政 所頭人をも罷免されて29、やむなく挙兵に至ったの であろう。  さて、永禄5年に六角方と行動をともにしたのは、 伊勢貞孝だけではなかった。教興寺合戦前後の情 報を伝える大館晴光書状案に30、「大覚寺殿、越 前へ可有御下向為、坂本へ御越候、伊勢守父 子、坂本へ被相退候、其外奉公方、京都ニ相残衆、 大略坂本へ相越候」とあり、足利義輝の伯父で ある大覚寺義俊(近衛前久の叔父でもある)もまた、 貞孝父子などとともに近江坂本へ逃れていた。義 俊が六角方に与していたことは明らかである。また、 『大覚寺門跡略記』に「永禄五年五月、避京都乱、 居江西志賀津、又徒北海敦賀津」とあることによっ て、義俊が坂本から志賀津・敦賀津を経て越前に 向かったことも分かり、8月には朝倉義景のもとに身 を寄せている31。  永禄4・5年の軍事的混乱の最中に、足利義輝 が大覚寺義俊と内通していたことを示す証拠は見 当たらないが、三好方からすれば、義輝が六角方 と直接的な関係を結ぶ可能性は、十分に危惧され たと思われる。永禄5年3月の義輝と三好方による 八幡への退去は、義輝自身の主体的な意志による ものではなく、かつて長江正一氏が述べているよう に、「将軍が六角氏の手に落ちるのを防ぐため」と いう32、三好方の思惑に導かれての行動であったと 考える。義輝だけでなく、義輝の母で義俊の妹でも ある慶寿院( 近衛家出身で義輝の後見人)が、三 好方によって八幡へ退去させられていることも、こ の間の政治情勢を示していよう。  以上のように、永禄4・5年において、表面上は 三好方との協調関係を維持することに努めていた 義輝であるが、内心ではやはり義俊や伊勢貞孝と 通じていたと考えるのが自然であろう。天野忠幸氏 は、永禄5年における六角方としての義俊の行動 から、「教興寺の戦いによって、長慶は畠山高政 や六角承禎( 義賢)に勝利したが、本当の敵は将

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3.永禄6年以降の義輝の動向と上杉本注文の時 期・動機  永禄4・5年の軍事的混乱の最中、足利義輝は 反三好方と心を通わせていたにもかかわらず、それ でもなお表面的には三好方との協調関係を維持し ていた。こうしたことから前章では、上杉謙信の上 洛を促すメッセージを込めた屏風を、義輝がこの時 期に注文する可能性は低いとの結論に至った。そ こで本章では、永禄6年(1563)以降における義輝 の動向を確認しながら、彼が上杉本を注文するの にふさわしい時期と動機に迫っていく。  ところで、上杉本では本国寺・妙顕寺・妙覚寺・ 本能寺といった法華宗寺院が37、大きく細部にわたっ て描かれており、これらに対する親近感がうかがえ ると、瀬田勝哉氏は分析している38。河内将芳氏は、 法華宗寺院のこうした描かれ方について、狩野永 徳が妙覚寺の有力檀徒であったことに加え、当時 の京都における法華宗の繁栄を、現実のものとして 描いているのであろうと推測する39。この妙覚寺に ついては、永禄元年(1558)に帰京を果たした足利 義輝が、仮御所として1年半ほど滞在した寺院でも あった。  永禄初年までの法華宗は、教義の対立が存在 し、門流ごとに活動していたが、永禄4年(1561) の六角方による京都侵攻への対応から、結合体成 立の気運が高まっていく。これに関東における法華 宗諸派の融和の流れが、永禄6年頃から加わって、 松永久秀や三好方諸氏の調停と保障により、永禄 7年8月に京都で永禄の規約という諸派の和談が結 ばれた40。永禄の規約の成立に重要な役割を果た した久秀は熱心な法華信徒で、本国寺の大檀越 でもあった。  永禄6年閏12月、足利義輝は本国寺を門跡寺 院に格上げするよう、朝廷に申請した。これを実際 に要望したのは松永久秀である。同年には本国寺 と清水寺との山論に久秀が介入し、本国寺が勝 訴するという出来事があった。本国寺の門跡成は、 山門の強い反対で結局は成功しなかったが、ここ に久秀の法華宗( 本国寺)に対する強い思い入れ と、久秀に同調する義輝の姿勢を確認することが できよう。上杉本に描かれた本国寺では、特別な 行事・儀式が行われている。本国寺がことさら大き く、詳細に描かれていることについて、瀬田勝哉氏 は、「(義輝が久秀の)存在を後ろに意識したもので あったようにも思われる」と、その印象を語った。ま た、上杉本が松永弾正邸の正月の光景を、三好 筑前邸以上に寿いで描いている点についても、同 様の解釈を示している41。  では、足利義輝がこれほど松永久秀を気遣って いるのには、どのような理由が存在するのであろう か。田中信司氏は、永禄4年の義輝による三好筑 前邸御成において、久秀は三好家臣であると同時 に、義輝の御供衆としての所作を忠実にこなしてお り42、永禄年間前半における久秀の京都政局への 関わり方は、義輝の意図に近い志向性を示してい たと分析している。また、永禄6年に義輝の娘が、 久秀への人質として大和に下向するという出来事に ついては43、従来は両者の対立関係を示すものとし て理解されてきたが、現実には両者の強固な結び つきを示す象徴と見なせると解釈し、さらに、久秀 は三好家臣でありながら、義輝や公家勢力の立場 に近く、幕府が京都で機能している状態を、むしろ 「あるべき姿」として認識していたと推定する44。  また、村井祐樹氏も、松永久秀は当初三好長慶 の内者として、訴訟などの取次を担当する奉行的 な存在であったが、永禄年間には畿内の諸勢力と の関係を深め、相論において独自の裁定を下すよう になったことを明らかにした45。その上で、「(久秀は) 大和国の領主であるとともにまた三好殿の家臣にあ たり、知識、賢明さ、統治能力において秀でた人 物で、法華宗の宗徒である。彼は老人で、経験に も富んでいたので、天下すなわち「都の君主国」 においては、彼が絶対命令を下す以外何事も行わ れぬ有様であった」と書き残したルイス・フロイスの

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るかの選択に迫られたため、義澄系足利氏の義輝 一族を滅ぼし、義稙系足利氏を擁立することで、2 つの将軍家の統一と政治の安定化を図ろうとしたの ではないかと考察している48。また、天野忠幸氏は、 勢力回復を目指す義輝に対して、三好方が先手を 打ったとしてもおかしくないとの理解を示した49。義 澄系足利氏の族滅によって、三好方が政治的主導 権の維持を目指す前提には、永禄6・7年の三好 方の世代交代を契機として、反三好方と手を結び 権力の集中を図ろうとする義輝の動きが存在したの であろう。  こうした足利義輝と反三好方との連携を間接的 に示す史料として、義輝殺害翌月の永禄8年6月 24日に、畠山方の安見宗房が上杉方の河田長親・ 直江景綱に宛てた書状が存在する50。まずこの書 状では、「仍 公方様、去五月十九日、三好・松 永以下以所行、被召 御腹候、先代未聞之仕 合、無是非次第候、天下諸侍御主ニ候処、三好 仕様無念之儀候、善悪被申合、御弔矢被仕度覚 悟候」と、三好義継・松永久通による義輝殺害を 報じた上で、義輝のことを「天下諸侍御主」と表 現し、義輝の弔い合戦への覚悟を上杉謙信に求 めている。これに続けて、「於様躰者、従 大御 門跡様可被入仰候間、此度、其 御屋形様於御 上洛者、天下御再興、可為御名誉候、南方之儀 者、此方屋形并同名新次郎被相催候、可被及行 候、越州、若州、尾州、其外国々之儀者、従  大御門跡様被仰調由候間、定而其方へも可為御 入魂候」と、北条方( 南方)との和睦交渉はこちら で取り計らうこと、朝倉・若狭武田・織田等の諸氏 については大覚寺義俊(大御門跡様)が調略するこ とを提示し、謙信の上洛による天下再興を強く要請 した。ここで初めて、反三好方による謙信上洛へ の期待が、直接的に表明されるのであるが、これ が殺害以前の義輝の意志とも共通していたとは考え られないだろうか。  そこで、上記書状の差出所である安見宗房と、 記事について46、永禄6・7年頃における京都周辺 の政治情勢や、実像としての久秀をよく伝えている のではないかとの理解を示している。  永禄6年前後には京都の統治者として強大な権 力を誇りながら、御供衆として幕府に親近感を寄せ る松永久秀のことを、足利義輝が気遣うのには以 上のような事情があったと考えられる。上杉本にお ける本国寺や松永弾正邸から判断する限り、そこ には永禄6・7年頃の光景が描かれているとの印象 が強くなろう。  さて、永禄6・7年は三好方にとって、大変慌た だしい時期であった。永禄6年8月、三好長慶の 子の義興が病没する。閏12月には松永久秀の子 の久通が、松永氏の家督を譲られた。翌7年(1564) 1月、義興の死により長慶の養子となった三好義継 ( 長慶の甥)は、久通らとともに上洛して足利義輝 と対面する。6月には義継が三好氏の家督を相続 した御礼として、再び久通らを率いて上洛し、義 輝に謁見している。そして、7月には長慶が死去し、 それは長らく秘匿された。永禄6年後半から7年前 半にかけての三好方の世代交代は、義輝にとって 三好方との協調関係を解消する契機となったのでは なかろうか。  こうした状況の中、三好義継・松永久通らは、 突如として足利義輝の近衛御所を襲撃し、義輝だ けでなく、慶寿院( 義輝の母)、鹿苑寺周嵩( 義輝 の弟)らを殺害した。永禄8年(1565)5月のことで ある。かつては義輝殺害の首謀者とされることの多 かった松永久秀について、事件当時、久秀は大和 に在国して足利義昭の保護を図っており、義輝を 討つのに積極的であったのは子の松永久通であろ うと、天野忠幸氏は述べている47。  ところで、三好方による足利義輝殺害の理由に ついては諸説あるが、史料的制約もあって必ずしも 定説はない。山田康弘氏は、永禄7年頃の三好 方の動揺に際して、彼らは将軍擁立体制から自立 するか、統制下に置きやすい人物を新将軍に据え

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反三好方の結集に向けて諸氏へ働きかけるとされ た大覚寺義俊について、まずは彼らの行動を追っ ていく。足利義輝殺害以前の宗房は、永禄5年 (1562)3月5日、河田長親・直江景綱に書状を 宛てて、義輝により上杉謙信の関東管領職が認め られたことに対し、祝儀の品を進献すると伝えてい る51。また、この2日後の3月7日には、近衛稙家(前 久の父)も謙信に書状を宛てており、近衛前久の 在国に対して謝意を伝えている52。これらの日付に 注目すると、久米田合戦で畠山方が三好方に勝利 したのが3月5日、それを受けて六角方が京都を占 拠したのが3月7日であり、彼らは何らかの共通す る思惑をもって、上杉方と接触した可能性もあろう。 なお、前久は同年8月に東国より帰京し、翌永禄6 年3月26日と8月11日に、在国中の御礼と帰京へ の侘言を、書状で上杉方に伝えている53。  つぎに近衛一族の大覚寺義俊(近衛稙家の子で 前久の叔父)であるが54、天文末年には上杉謙信 宛の足利義輝御内書とともに、義俊も書状を発して おり、すでに両者の仲介役を果たしていた55。その 後の義俊の動向については、先述の通り、永禄5 年5月の教興寺合戦で畠山方が三好方に敗北した ため、彼は近江坂本に退却の後、8月には越前の 朝倉氏のもとに身を寄せている。永禄8年(1565) 6月16日に、足利義輝殺害の第一報を上杉方に伝 えたのは朝倉景連らで、同時に謙信の上洛をも勧 めているが56、これに義俊が関与していたかどうか は不明である。同年8月5日には、謙信宛の足利 義昭御内書に義俊が副状を発し、義昭周辺の現 況報告と謙信の上洛要請を行っている57。翌永禄9 年3月10日、義昭は謙信に宛てた御内書で、謙信 と北条氏康との和睦を斡旋し、義俊をその仲介役 としている58。また、同日の謙信宛の義俊条書には、 「相州之事、是非共被和与、参洛肝要之事」と あり、義昭や義俊が、謙信に上洛を要請する前提 として、氏康との和睦を強く提案していたことが分 かる59。  こうした上杉謙信に対する北条氏康との和睦 勧奨は、すでに足利義輝も行っていた。永禄7年 (1564)5月13日に、義輝は謙信宛の御内書で、「氏 康与数年及鉾楯之段、不可然之趣、対輝虎申遣 之条、各加分別、令和睦之様、馳走肝要候」と、 氏康との和睦を強く求めている60。ところが、同年8 月4日、謙信は東国の情勢等を理由に、氏康との 和睦は困難である旨、義輝に返信してきたのであ る61。これに対して義輝は、翌永禄8年3月23日に、 「北条左京大夫氏康与和睦事、去年差下藤安申 遣之処、内存被聞召訖、雖然、急度可遂其節事、 簡要候、為其対氏康差下使節申越候間、其以前 於及行者、不可然候」と、謙信に氏康との和睦を 再度要請している62。  以上のように、足利義輝には少なくとも永禄7年 の段階で、上杉謙信上洛に向けた環境整備の一 環として、謙信と北条氏康との和睦を勧奨していた 可能性はあろう。であるならば、義輝による上杉本 の注文時期についても、永禄6年後半に三好方の 世代交代が始まる時期から、義輝に和睦を求める 御内書を発した永禄7年5月に至る間か、遅くとも 謙信より和睦の受け入れは困難との返信を受けた 同年8月からほどない頃に、これへの対応として屏 風の贈答を企図したのではないかと推定したい。 4.描かれた公方邸と足利義輝の意図  上杉本の注文時期と推定した永禄6年後半から 7年後半にかけて、足利義輝の居所は、武衛( 斯 波邸)の跡地に新しく造営し、永禄3年(1560)6月 に完成した近衛御所であった。けれども、上杉本 に近衛御所は描かれず、かつてこの地にあった武 衛が、幼少期の義輝自身とともに、天文18年(1549) 以前の光景の一部として描かれている。では、描 かれなかった永禄6・7年頃の近衛御所は、実際に はどのような姿であったのか。  『足利季世記』には、「永禄七年冬ノ初メヨリ、 京公方室町殿御殿御造作アリ、摂州上下郡エ棟

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く、さらに、描かれた公方邸=今出川御所でもない とした上で、描かれた公方邸=理想化された過去 の花の御所であると捉え、絵師の視線は当代では なく、はるかな過去に向いていると評価した68。また、 小島道裕氏も、描かれた公方邸は、義晴の今出 川御所ではなく、事実を描いたものでもないと解釈 している69。  描かれた公方邸が、天文18年(1549)以前の 旧政治秩序を構成する一部としての、義晴の今出 川御所を意識した表現である可能性も、まったくな いとは言い切れないが、現実には存在しない花の 御所と、そこに向かう上杉謙信の一行を、画面に 配置させているという捉え方には、特に異論はない。 ただし、謙信一行の出発点となっている細川京兆邸 (および細川典厩邸)の解釈については、ここで詳 しく検討しておきたい。  高橋康夫氏は、歴博甲本・東博模本・上杉本 のいずれもが、ほとんど同じ姿の細川邸を定型的に 描いていることについて、これが事実を表現してい るのか、たんに同じ粉本を採用しただけであるのか 判然としないとする70。小島道裕氏は、細川京兆 邸と細川典厩邸が並んで描かれる構図が、歴博甲 本以来変わらないことを確認した上で、細川京兆 邸は10年以上も前から当主がいないため、荒廃あ るいはすでに消滅していたと推測し、上杉本は正 面に当主を描かないことで、細川氏の不在を表現し ていると解釈した71。また、細川典厩邸も同様の状 態であったはずであるとした上で、にもかかわらず 当主らしき人物を描いているのは事実ではなく、不 自然で現実離れした印象を抱くとしている。  ところが、細川邸は細川勝元から昭元の時代ま で、一貫して同じ位置に存在し、初期洛中洛外 図の上京の中心に共通して細川邸が描かれるのは、 戦国期の実態に即した構図であったことが、小谷 量子氏によって近年明らかにされた72。上杉本が 制作された時期に即しても、永禄8年(1565)2月 にルイス・フロイスが、在京のキリシタンたちに京都 別課役カカリ、一家ニ金子二歩ツツ可出ト責ラルル、 奉行人ハ進藤ト松永主殿助ト聞エシ、乱後ノ大営 ナレハ、畿内迷惑大カタナラス」と、足利義輝が 永禄7年後半に御殿の建造を始めたことが記され ている63。二次史料の叙述であるため、そのままに は信用できないが、山科言継が永禄7年12月に義 輝を訪ねた際、「武家御見舞、御作事、御庭の造 等見物」と書き残しており64、近衛御所では何らか の工事が行われていたようである。また、醍醐寺 理性院の厳助は、永禄6年のこととして、「公方様 御所、旧冬より大堀を構え用心」と記録している65。 『厳助往年記』が日次記をもととした年代記である ことから考えると、永禄6年は8年の誤りの可能性も あろう。もしそうであるならば、近衛御所では永禄7 年後半から用心として大堀が築造されていたことに なる。ルイス・フロイスも、「(永禄八年)正月、(中 略)公方様の宮殿は深い溝で囲まれており、それに は広く良くしつらえられた木橋がかかっていた」と、 近衛御所が堀で囲まれていた様子を叙述してい る66。永禄6年後半から次第に権力の集中を図ろ うとする義輝の動きに対して、三好方も反撃の姿勢 を示していたのであろう。義輝による近衛御所の大 堀築造は、三好方への備えであったと考えられる。  上杉本の注文時期に関する本稿の推定が正しい とすれば、屏風の制作が進行している頃、近衛御 所は城郭化を遂げたことになる。けれども、義輝は 上杉本にあえてそうした近衛御所の姿を描かせず、 花の御所の旧地付近に壮麗な「公方様」を配置 させた。こうした公方邸の描かせ方には、義輝の どのような意図が込められているのであろうか。  足利義晴( 義輝の父)の公方邸である今出川御 所は、史料上では永禄元年(1558)までしかその存 在が確認できず67、永禄6・7年にはすでに存在し なかったと考えるのが自然である。従来、上杉本に 描かれた公方邸は、義晴の今出川御所で、それ は同時に花の御所であると解釈されることが多かっ たが、高橋康夫氏は、今出川御所=花の御所では

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周辺の名所を案内される場面で、「キリシタンらは 司祭や修道士たちを細川殿の御殿に導いた。細川 殿は都の市街がある山城の国の本来の国主である。 しかし彼およびその祖先は、数年来戦争において 不運であり、細川殿は追放されたので、その御殿 は破損していた。だがその庭園は日本の古い物語 や文献の中で大いに賛美され、今なお往事を偲ば せるに足るものを大部分残していた」と書き記して いる73。  細川京兆家当主の細川氏綱は、永禄2年(1559) 8月に、三好長慶によって山城淀城に移され、永禄 6年12月に同所で死去している。けれども、永禄8 年においても間違いなくそこに存在し、かつ当主が 不在となって久しいため、名所と化した細川京兆邸 の現実の姿が、上杉本にはある程度忠実に描かれ ているのである。また、同時期における細川典厩 邸の状況は不明であるが、この頃の京都周辺の諸 史料に、当主である細川藤賢の在京と、足利義輝 の御供衆として活動する彼の姿が散見され、ここ が藤賢の邸宅として現実に使用されていても不思 議はない74。上杉本の細川典厩邸に、当主らしき 人物が描かれていることも、実際的な表現として読 解することは可能であろう。なお、三好筑前邸に人 物を配置せず、松永弾正邸を賑やかに描いている のも、永禄7年頃の両者に対する足利義輝の内心 を、現実に反映した表現と捉えられる。  歴博甲本・東博模本・上杉本において、細川京 兆邸と細川典厩邸が共通する構図で描かれたのは、 高橋康夫氏が指摘するような粉本の利用があったと しても、それは粉本の転用によってもたらされた単 純な結果ではなく、少なくとも上杉本に関する限り、 そこに現実に即した光景を描こうとする意識と、注 文主である足利義輝の何らかの意図が存在してい たからではなかろうか75。  上杉謙信の行列が目指している公方邸は、たし かに理想化された空想の花の御所として描かれて いよう。高橋康夫氏は、この公方邸をかつての花 の御所と捉え、絵師の視線は過去を向いていると 評価したが、これは概念化された過去の花の御所 ではなく、足利義輝と謙信が手を結ぶことで再建を 目指す、幕府の新たな政治体制を象徴した、近未 来の花の御所であると考える。  はじめにで紹介した通り、小島道裕氏は「上杉 本は、足利義輝が自らの現実の姿を肯定すること ができず、願望や現実逃避に走った絵であり、本 人はそうは思っていなかっただろうが、義輝の「敗 北宣言」とみなさざるを得ない」との解釈を示して いる76。けれども、上洛を上杉謙信が了承するま では、交渉を諦めない覚悟の義輝は、現実を見据 えながらも将来を見通す構図として、すでに当主を 失った実在の細川京兆邸(ここでは管領邸という意 味が含まれていよう)を出発し、近未来の幕府として の花の御所に向かう謙信の姿を、狩野永徳に描か せた。そこには理想の幕府を再建したいという義輝 の強烈な意気込みと、謙信の上洛を懇望する彼の 熱烈な政治的メッセージが込められているのである。 おわりに  足利義輝による上杉本の注文時期( 狩野永徳に よる制作開始時期)とその動機、および屏風の構図 に込められている義輝の思いを、本稿の結論として 最後に整理しておく。  永禄6年(1563)後半から三好方の世代交代が 始まると、これを好機と捉えた足利義輝は、上杉謙 信の力を借りて新たな政治秩序の構築を目指そうと する。義輝は謙信の上洛を要請するために、自身 の思いを込めた屏風の制作を、狩野永徳に命じた のである。その時期は、早ければ三好義興が死去 した永禄6年8月以降で、義輝が謙信に御内書を 宛てた永禄7年5月より以前か、遅くとも義輝が謙 信からの返書を受け取った8月の直後が、妥当で あろうと推定した。  また、足 利 義 輝は、異 時同図の手 法によっ て、屏風の中で自身の思いを立体的に描かせてい

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への期待を表現するのである。  本稿の考察結果は以上であるが、上杉本が永 禄4・5年頃に注文された可能性については、必ず しも払拭できたわけではない。足利義輝が反三好 方の諸勢力と広範に連携することで、三好方に対 抗しようとの野心を、永禄4・5年頃に抱いていたこ とが証明されれば、上杉謙信の上洛を要請するた めの屏風を注文する動機は、すでにその時点でも 存在したことになるからである。もとより上杉本の注 文主を義輝とする説は、黒田日出男氏(もとは瀬田 勝哉氏)の推定であるので、これを前提として戦国 期畿内政治史を叙述することは許されない。永禄 元年(1558)の三好方との和睦以降における義輝が、 三好方・反三好方の双方とどのような政治的関係 を構築しようとしていたのかについては、帰京後の 彼の思考や行動の分析とともに、より詳細な検討が 必要であろう。 る( 後掲【別表】参照)。まずは細川京兆( 晴元) 邸・細川典厩( 晴賢)邸・細川和泉守護邸・薬師 寺備後邸・高畠甚九郎邸・伊勢守邸を、天文18 年(1549)以前の旧政治秩序として配置し、武衛の 門前には少年義輝の姿を書き入れることで、父であ る足利義晴と彼を支えた武将たち、さらには幼少期 の自身を懐古している。つぎに細川京兆(氏綱)邸・ 細川典厩( 藤賢)邸・伊勢守邸・三好筑前邸・松 永弾正邸といった三好邸御成の主要構成員の邸宅 を、永禄4年(1561)前後における新政治秩序とし て配置し、永禄初年から目指してきた三好方との表 向きの協調関係をも、少し前の出来事として振り返 る。こうした新旧2つの過去に加え、義輝が再建を 目指す理想の幕府として、近未来の花の御所の姿 を写し出し、実在の細川京兆邸から構想中の新し い幕府へ向かう上杉謙信の行列を描き込むことで、 現実から将来を展望する義輝の熱意と、謙信上洛 天文18年以前の旧政治秩序 (幼少期の懐古) 永禄4年前後の新政治秩序 (現実と将来展望) 現在(永禄7年頃)と近未来 (協調関係の追想) 公方邸 - - ○〈理想〉 武衛(斯波邸) ○(幼少期の義輝) - - 近衛御所 - - - 細川京兆邸 ○(晴元) ○(氏綱) ○〈不在〉 細川典厩邸 ○(晴賢) ○(藤賢) ○(藤賢) 細川和泉守護邸 ○ - - 薬師寺備後邸 ○ - - 高畠甚九郎邸 ○ - - 伊勢守邸 ○ ○ - 三好筑前邸 - ○ ○〈閑散〉 松永弾正邸 - ○ ○〈繁栄〉 【別表】

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(1) 上杉謙信の人名表記について、本稿では謙 信で統一する。また、狩野永徳・足利義昭・ 足利義輝・近衛前久・三好義興・六角義賢・ 三好義継・直江景綱等についても、同様に 人名表記を統一する。 (2) 黒田日出男『謎解き洛中洛外図』(岩波書店、 1996年)。 (3) 今 谷 明『 京 都・一 五 四七 年』( 平 凡 社、 2003年〔初版1988年〕)。 (4) こうした美術史家からの批判については、奥 平俊六「ミヤコの残像」(『洛中洛外図と南 蛮図屏風』小学館、1991年)に詳しく整理さ れている。 (5) 高橋康夫『洛中洛外』(平凡社、1988年)。 (6) 瀬田勝哉『増補 洛中洛外の群像』(平凡 社、2009年〔初版1994年〕)。 (7) 注(2)前掲黒田著書。 (8) 大塚活美「輿に乗る貴人」(『日本史研究』 322、1989年)。 (9) 水藤真『絵画・木札・石造物に中世を読む』 (吉川弘文館、1994年)。 (10)小島道裕『描かれた戦国の京都』( 吉川弘 文館、2009年)。 (11)高橋康夫「描かれた京都」(『中世都市研究』 12、2006年)。 (12) 上杉本の注文主については、黒田氏が検討 した足利義輝・足利義昭・織田信長以外に、 上杉謙信と交流のあった近衛前久をはじめと する近衛家出身者、謙信の上洛を要請する 反三好方の武家勢力、幕臣としての松永久 秀など(これらの人物については、本論で触 れていく)も、想定可能と考えている。ただし、 検討の経過は省略するが、いずれも義輝に 比べると注文主である蓋然性は低く、本稿 では注文主は義輝であるとの説を前提として、 議論を展開していく。 (13)注(6)前掲瀬田著書。 (14)注(3)前掲今谷著書。 (15)田中信司「御供衆としての松永久秀」(『日 本歴史』729、2009年)。 (16)細川氏綱は永禄2年8月に、三好長慶によっ て山城淀城に移されており、永禄4年の時点 で、細川京兆邸に当主が常住することはな かった。ただし、同じ頃、三好義興は摂津 芥川山城、松永久秀は大和信貴山城を本拠 としており、三好筑前邸や松永弾正邸につい ても、ある程度同様のことが指摘できよう。 (17)細川氏綱の弟で細川典厩家当主である細川 藤賢は、永禄8年に足利義輝が殺害されるま で、たびたび京都周辺の諸史料にその名が 記載されており、御供衆として在京することが 多かったと考えられる。 (18)天野忠幸『 三好長慶』(ミネルヴァ書房、 2014年)。 (19)注(2)前掲黒田著書。 (20)『 蜷川家文書』「伊勢貞孝遺臣等同家再 興嘆願條書案」(『大日本古文書 家わけ 21-3』所収794)。 (21)『一色家古文書』「室町幕府奉行人奉書案」 永禄5年9月15日(『室町幕府文書集成 下』 所収3887)。 (22)伊 勢貞孝 挙 兵の理由に関する諸 説につ いては、高 梨 真 行「 永 禄 政 変 後の室 町 幕府政所と摂津晴門・伊勢貞興の動向」 (『MUSEUM』592、2004年)に詳しい。 (23)山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』( 吉川 弘文館、2000年)。 (24)松村正人「室町幕府政所頭人伊勢貞孝」 (『白山史学』35、1999年)。 (25)注(18)前掲天野著書。 (26)もちろん天文18年以前の政治秩序を構成す る要素として、伊勢守邸を描いているだけと の解釈も成り立つであろうが、上杉本を注文

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かについては、より詳細な検討が必要である と考えている。 (34)注(23)前掲山田著書。 (35)この点については、注(33)の検討事項と合 わせて、今後の課題としたい。 (36)『フロイス日本史3』「司祭(ヴィレラ)がふたた ひび公方様を訪れ、そして都から堺の市へ 伝道に赴いた次第」。 (37)当時の法華宗(日蓮法華宗)については、日 蓮正宗大石寺の岡田信績氏から、貴重なご 意見をうかがった。 (38)注(6)前掲瀬田著書。 (39)河内将芳『日蓮宗と戦国京都』( 淡交社、 2013年)。 (40)天野忠幸「三好氏と戦国期の法華宗教団」 (『市大日本史』13、2010年)。 (41)注(6)前掲瀬田著書。 (42)注(15)前掲田中論文。 (43)『言継卿記』永禄6年3月19日条。 (44)田中信司「松永久秀と京都政局」(『青山 史学』26、2008年)。 (45)村井祐樹「松永弾正再考」(『遙かなる中世』 21、2006年)。 (46)『フロイス日本史3』「本年( 一五六四年)およ び前年に、都地方で生じた幾つかのことにつ いて」。 (47)注(18)前掲天野著書。なお、事件前後を 含め、永禄年間における足利義輝と松永久 秀との関係性については、あらためて検討し てみたい。 (48)山田康弘「将軍義輝殺害事件に関する一考 察」(『戦国史研究』43、2002年)。 (49)注(18)前掲天野著書。 (50)『長岡市立科学博物館所蔵文書』「安見宗 房書状」( 永禄8年)6月24日(『上越市史 別編1』所収462)。 (51)『上杉家文書』「安見宗房書状」(永禄5年) したのと近い時期に、自らの意志で滅亡に追 いやった人物の邸宅を、あえてそこに描かせ ていることには、多少なりとも違和感を抱かざ るを得ない。 (27)今谷明『 戦国期の室町幕府』( 講談社、 2006年〔初版1975年、角川書店〕)、高梨 真行「戦国期室町将軍と門跡」(『中世の 寺院と都市・権力』山川出版社、2007年) などを参照。 (28) 大西泰正「戦国期政所頭人伊勢氏をめぐっ て」(『桃山歴史・地理』42、2007年)。 (29)政所頭人の後任に側近の摂津晴門を推した のは足利義輝と考えられるが、伊勢貞孝の罷 免そのものは、義輝以上に三好方の意向によ るものと推測しておきたい。 (30)『大館記』「大館晴光書状案」( 永禄5年) 5月27日(『ビブリア』83所収)。 (31)注(27)前掲高梨論文、川嶋将生「大覚寺 義俊の活動」(『室町文化論考』法政大学 出版局、2008年)などを参照。 (32) 長江正一『三好長慶』(吉川弘文館、1968年)。 (33)注(18)前掲天野著書。なお、永禄4・5年 の軍事的混乱における足利義輝の立場につ いて、注(32)前掲長江著書や、今谷明『戦 国三好一族』(洋泉社、2007年〔初版1985年、 新人物往来社〕)では、義輝が反三好方に加 担していたといった文脈で叙述されている。ま た、小谷利明「畿内戦国期守護と室町幕府」 (『日本史研究』510、2005年)では、永禄 4・5年の三好方と反三好方との抗争が「幕 府を分裂させた天下の戦争」と捉えられてお り、また、畠山方の安見宗房が、永禄5年 3月に上杉方と音信していたことが紹介されて いる(後述)。永禄4・5年の軍事的混乱にお いて、義輝が反三好方とどのような関係を有 していたのか、反三好方の軍事行動がどの 程度広範に展開する可能性を秘めていたの

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3月5日(『上越市史 別編1』所収311)、注 (33)前掲小谷論文。 (52)『上杉家文書』「近衛稙家書状」(永禄5年) 3月7日(『上越市史 別編1』所収312)。 (53)『上杉家文書』「近衛前久書状」(永禄6年) 3月26日・8月11日(『上越市史 別編1』所 収337・347)。 (54)義俊の行動や役割については、高梨真行「将 軍足利義輝の側近衆」(『立正史学』84、 1998年)、注(27)前掲高梨論文に詳しい。 (55)『上杉家文書』「大覚寺門跡義俊書状」(天 文19年)2月28日、( 天文21年)5月24日・ 25日・26日等(『 上 越 市 史  別 編1』 所 収 30・63・65・73等)。 (56)『上杉家文書』「朝倉景連書状」 等( 永禄 8年)6月16日(『上越市史 別編1』所収 459・460)。 (57)『上杉家文書』「大覚寺義俊副状」(永禄8年) 8月5日(『上越市史 別編1』所収468)。 (58)『上杉家文書』「足利義昭御内書」(永禄9年) 3月10日(『上越市史 別編1』所収493)。 (59)『謙信公御書集』「大覚寺義俊条書」( 永 禄9年)3月10日(『上越市史 別編1』所 収496)。 (60)『上杉家文書』「足利義輝御内書」(永禄7年) 5月13日(『上越市史 別編1』所収406)。 (61)『謙信公御書集』「上杉謙信書状」永禄7 年8月4日(『上越市史 別編1』所収429)。 (62)『上杉家文書』「足利義輝御内書」(永禄8年) 3月23日(『上越市史 別編1』所収454)。 (63)『足利季世記』「冬康生害之事」。 (64)『言継卿記』永禄7年12月16日条。 (65)『厳助往年記』永禄6年2月4日条。 (66)『フロイス日本史3』「司祭(フロイス)が都に 到着した後、そこで生じたこと」。 (67)注(6)前掲瀬田著書。 (68)注(11)前掲高橋論文。 (69)注(10)前掲小島著書。 (70)注(11)前掲高橋論文。 (71)注(10)前掲小島著書。 (72)小谷量子「戦国期細川邸近辺の空間構造」 (『戦国史研究』68、2014年)。 (73)『フロイス日本史3』「都の市街、およびその 周辺にある見るべきものについて」。 (74)『言継卿記』永禄12年3月3日条に、「細川 右馬頭庭之藤戸石、織弾三四千人にて引之」 とあり、その後も京都に屋敷を構えていたこと はたしかである。 (75)上杉本にも粉本等の構図を転用して描いた だけの場面は多く存在しようが、足利義輝の 上杉謙信に対する政治的メッセージが込めら れた作品であることを考えると、武家の邸宅と いった政治的な構造物については、義輝の 何らかの意図が描かれているのではないかと いう眼を持って、これを読解すべきであろう。 (76)注(10)前掲小島著書。 付記  本稿は、平成26年11月13日の駒沢女子大学 大学院仏教文化専攻仏教文化研究会において報 告した、「『上杉本洛中洛外図屏風』の制作開始 時期に関する若干の疑問-近年の戦国期畿内政 治史研究との接点を求めて-」、および、平成25 年10月から平成26年3月まで全6回にわたって担 当した、2013年後期いなぎICカレッジプロフェッサー 講座「屏風絵というタイムマシーン-洛中洛外図に よる戦国の都案内-」の内容の一部をもとに、これ を論文化したものである。どちらの機会にも多くの 貴重なご意見を頂戴した。記して感謝申し上げたい。

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