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り そして キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである 1:2 ヨハネは 神の言葉とイエス キリストの証し すなわち 自分の見たすべてのことを証しした 1:3 この預言の言葉を朗読する人と これを聞いて 中に記されたことを守る人たちとは幸いである 時が迫っているからである 1:4-

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日本基督教団銀座教会 2009/05/31 聖書セミナー ―黙示録を学ぶ― 第二回 藤井清邦

■第一部 教会に語りかける神 「序文、復活のキリストの姿」

□ヨハネの黙示録 1 章 1∼20 節 ◆執筆場所と著者問題 シュラッターは執筆場所についてエーゲ海にあるパトモス島1であることを次のように主張する。「この書に 動機と内容とを与えた経験を、ヨハネは、エーゲ海にある、小さな、岩の多いパトモスの島に滞在している間 に受けた。―使徒ヨハネは―この島に来た。―ローマの裁判官は、―このような小さな島の一つに追放するこ とを罰として課することは、珍しくなかったから、教会ではこれらの言葉を早くから、ヨハネがローマの裁判 官の判決によって、パトモスへ追放されたと理解した。」2更に「ヨハネがパトモスにいなかったなら、彼は教 会員に、口ずから御言葉を語っていたであろう。」3と述べる。しかし、佐竹はパトモスへの追放がローマの官 憲によるものだということは推測にすぎないという。その理由は「テキストはそのことについて何一つ述べて いない」4からだ。更には、1章9節にある通り、「わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれ る島にいた。」ヨハネが自らパトモスに赴いた可能性を残すものである。 一方シュラッターの場合は、パトモスへの追放という仕方であったとする立場から、「もし事情がそのよう なものだとしたなら、使徒の働きを邪魔するのに役立つはずの処置から、かえってその働きを促進するものが 出、かえって教会を強めることとなったのである。」5と加えている。 しかし、パトモス以外の場所を執筆場所とする学者もおり、その場合最有力候補の執筆地はエフェソとされ る。しかし「七つの手紙の一つがエフェソ教会宛であることから考え、むしろ彼はいまだにパトモスにいたと 考える方が自然」6であろう。 黙示録1章4節、22章8節で、著者は自らを「ヨハネ」と称する。ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙に おいても、教会の伝承では著者はヨハネに帰される。古河によれば「著者はたぶんパレスチナのユダヤ人であ って、おそらく第一次ユダヤ戦争時(66-73 年)に亡命者としてパレスチナを逃げ出し、小アジアに住み――― 彼はそこで教会形成に指導的な役割を果たしていたようである。信仰ゆえのパトモス島での滞在は(1:9)アンテ ィオキアのイグナティオスの例にも見られるように、彼の教会指導者としての役割と立場に下された流刑で、 孤島への幽閉であったように思われる。本書の前編に渡るローマの酒池肉林の放縦に対する批判から推して、 著者は富と家庭の安逸を拒否して、寄る辺なき放浪の生活を選んだ禁欲的な預言者の一人」7であろうとして いる。 ◆1章1−8節 1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えにな 1 パトモス島:エフェソの西南に位置し、34 平方kmの小さな島。碑文によればギリシア式学校とアルテミス神殿があったことが伝えられる。 これは、パトモスが有人の島であったことを知らせるものである。 2 シュラッター著『ヨハネの手紙・黙示録』(シュラッター新約聖書講解)新教出版社、1979 年。160-161 頁引用。 3 シュラッター著『ヨハネの手紙・黙示録』(シュラッター新約聖書講解)新教出版社、1979 年。162 頁引用。 4佐竹明著『ヨハネの黙示録・上巻序説』(現代新約聖書注解全書)新教出版社、2007 年。47頁。 5 シュラッター著『ヨハネの手紙・黙示録』(シュラッター新約聖書講解)新教出版社、1979 年。161 頁引用。 6佐竹明著『ヨハネの黙示録・上巻序説』(現代新約聖書注解全書)新教出版社、2007 年。46 頁引用。 7大貫隆・山内眞監修『新版・総説新約聖書』日本キリスト教団出版局、2003 年。427-428 頁。

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り、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリスト の証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記され たことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。1:4 -5ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おら れ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中 から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたち を愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、1:6 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司 としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。1:7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべて の人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。 1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガ である。」 黙示については、前回のレジュメに述べたとおりである。1章では、神の救いの御業の啓示が、1:1「キリス トにお与えになり、」そして、「キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」と言う。そして ヨハネが 1:2「自分の見たすべてのことを証しした」。ここに、神がキリストにお与えになり、キリストを通して 天使に、そしてヨハネへ、ヨハネから読者へと向かう広がりが見られる。 天使というのは、われわれプロテスタントの教会ではあまり注目されることのない存在ではあるが、聖書全 体を通して見ていくとき、天使とは神の御言葉を伝えるものであるということが出来るだろう。例えばマリア の受胎告知の際、天使は神の御言葉をマリアに伝える。また羊飼いの野原8で天使たちは、救い主の誕生を告 げる。マタイ1章の降誕物語ではヨセフに天使が現れて御子の誕生を伝える。また復活の場面でも天使は同じ ように主の復活9を告げる。復活後の教会においても、コルネリウスは天使から御告げを受け10て、使徒ペト ロを家に迎えている。また、使徒言行録はモーセのシナイ山での出来事について、天使11は御言葉との関わり で語られている。ダニエル書を見ると、そこでも天使は御言葉を伝えるものとして語られている。12つまり、 聖書において天使とは神の御言葉を伝えるものとして一つの理解が可能とされるだろう。 3節にこのようにある。「1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸 いである。時が迫っているからである。」ここでは、「預言の言葉を朗読する人」と「記されたことを守る人たち」が意 識されている。ここには御言葉の奉仕者と聴衆とが存在し、それは具体的には礼拝および典礼を意識している ことが伺える。つまり、ヨハネの黙示録は教会の礼拝における朗読を目的として書かれており、そこにおいて 耳を傾けるべきものとされている。13この御言葉の朗読とそれを聴く者とからなる礼拝は、原始教会の誕生当 初からの教会の姿であり、神の御言葉は、それを聴く者が御言葉を糧として生きることを望んでいる。 8 ルカ2章2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。・・・2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、 民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」 9 マタイ28:5 「天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6 あの方は、ここ にはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」」 10 使徒10:22「 すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い 人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」」 11 使徒7:38「 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉 を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」 12 ダニエル書4章参照。 13大貫隆・山内眞監修『新版・総説新約聖書』日本キリスト教団出版局、2003 年。422 頁。

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◇1 章 4 節「アジアにある七つの教会」 「1:4 -5 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。・・・恵みと平和があなたがたにあるように。」 ここでヨハネの黙示録が宛てられている七つの教会は、小アジア地方の西側、エーゲ海側にある。エフェソ、 スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの町は、黙示録 の執筆された時代にはローマの属州とされていた。 しかし、実際にこの黙示録がこれらの七つの教会だけを目的として書かれたとするにはいくつかの疑問が残 る。この地域には、ヒエラポリスやマグネシアに教会が建てられており、それらもまた中心的な役割を担った 教会であることが明らかであるためである。 黙示録においては数字とその意義が非常に重要な意味をもっていることは、これからの学びの中でより明ら かにされていくことと思われるが、この七という数字は、「全体」また「完全」を示す数として聖書の中で用 いられている。天地創造の七日間や、七つの燭台等もそうである。 著者は七つの教会を選んでおり、その意味でこの七つの教会は小アジア地域の諸教会を現すと共に、教会全 体、普遍的教会を意図して書かれていることが伺える。それは同時代の全教会というだけでもなく、時代を超 えて普遍的に全教会に宛てられており、現在のわれわれの教会共同体に向けられたものであることを覚える必 要がある。14 ◇1 章 4 節以下におけるボウカムの三一論的考察 4 節からの箇所に注目したい。 1:4 -5 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前に おられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリ ストから恵みと平和があなたがたにあるように。 ここに「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」「玉座の前におられる七つの霊」「証人、誠実な方、死者の中 から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト」と記されている。ボウカムはここにヨハネの神 学上非常に重要な意味を見る。つまり著者ヨハネは、キリストを神と共に置き、神の側にキリストを見出して いる。初期キリスト教会の中に、人となられたキリストが神として語られることに注目すべき点がある。 ここで「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」「玉座の前におられる七つの霊」「証人、誠実な方、死者の中 から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト」と、父、御子キリスト、霊、が語られている。 しかし、この段階でヨハネが三位一体論的に語っているというべきではない。(なぜなら三位一体の言葉、ま たその教理は後代のキリスト教会の伝統の中に培われ生み出されていったため、ここで三位一体、三一論的と いう言葉を使う場合注意が必要である)しかし、著者が神を三一論的に理解していることが伺える。 しかしこの「七つの霊」については解釈が様々で、聖霊、または神の霊とせず、天に住む諸霊とする立場も ある。しかしボウカムをはじめシュラッターは、聖霊、神の霊との理解をとる。シュラッターは「ヨハネは、 その数を神の働きの完全性を表す七として、御霊の尊厳とその与える恵みと平和の豊かさのしるしとした」15 と述べる。また、Sr 今道は「「七つの霊」は、神の七つのたまものをもたらす聖霊とでもいうか、聖霊自身よ りもむしろ聖霊の七つのたまもののほうが強調されたいい方――、聖霊のたまものの総体をさしていると考え 14今道遥子著『ヨハネの黙示録を読む』女子パウロ会、2006 年。40-42 頁参照。 15 シュラッター著『ヨハネの手紙・黙示録』(シュラッター新約聖書講解)新教出版社、1979 年。155 頁。

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ればいい」16という。いずれにしても聖霊以外の何か他の霊的存在が考えられているというよりも、聖霊ご自 身が指し示されているという立場である。 ◇1:4-5 に見るキリストの姿 「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト」 ここに、主イエスについてのヨハネの理解を見ることができる。主イエスはキリスト(救い主、メシア)であ り、ご自身の十字架の贖いのゆえに赦された罪びとの証人であり、死を克服するいのちに満ちた王の王として の姿が示されている。主イエスの証言は、罪の赦しと復活に結び付けらたものであり、主イエスは死者の中か ら最初に復活されたのであって、ご自身の復活によって事柄は完了しておらず、それに続く復活を先立って示 している。主イエスはいのちをただ自分自身のために受けられたのではなく、ご自分に続く多くの者がいるこ とを示された。つまり「死者の中から最初に復活した方」と語られるとき、そこにはそれに続く者の存在が語ら れているのである。 ここに記される「地上の王たち」とは、腐敗した権力や闇の力を現す。であるから、主イエスが「地上の王 たちの支配者」と告白されるとき、そこでは、ローマ帝国の支配下にあって、皇帝こそが真の王であり神であ るとする黙示録の記された時代状況に照らして見るならば、主イエスこそ王を超える王であり、ただ王を超え るだけではなく、その王を支配し、その王さえもご自分のご意思の中で支配される方であることが示される。 つまり、王としてのキリストが語られることにより、歴史を支配し、世界史を導いているのは、断じて地上 の王ではなく、主イエス・キリストご自身であるということが明らかにされていく。つまり主イエスの権威と 支配は、地上のいかなるものもそれに服するものであり、主イエスこそ諸民族の上にいまして支配し統治され る神であることが宣言されるのである。17 この主イエスの偉大さを見て、続く5 節 b∼6 節の礼拝が起こってくる。 「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、1:6 わたしたちを王とし、御自身の父である神 に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」 ここでは、ご自身の血つまり十字架の贖罪が想起され、それによって「わたしたちを王とし」「ご自身の父 である神に仕える祭司としてくださった」ことが語られる。キリストの贖罪は、罪びとを王とする。邦訳聖書 のほとんどすべてが「王」と訳しているが、佐竹訳では「わたしたちをその父なる神のために王国、祭司たち とした」とある。こちらのほうがより原文の意味に近いものと思われる。 一方、父である神に仕える祭司とは、つまり礼拝に全存在、全生涯を捧げたものという意味であるが、礼拝 者としてくださる。そのことが語られる。イエスキリストの贖罪、また救済というのは、単なる幸せの成就、 願望の成就ということではなくて、神の前に礼拝者とされる。そこにこそある。つまり、神の前にまことの礼 拝者とされたとき、まさに自分自身の救いの喜びを高らかに歌うことができるのではないだろうか。 ◇7 節の考察 「1:7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の 諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」 ここでは前節の礼拝を受けて、ご自身の血によって罪から解放され、王とし、父である神に仕える祭司とさ れた者のために来たりたもう主イエス・キリストの再臨が語られており、その主の再臨はすべての者に明らか 16今道遥子著『ヨハネの黙示録を読む』女子パウロ会、2006 年。45 頁引用。 17シュラッター著『ヨハネの手紙・黙示録』(シュラッター新約聖書講解)新教出版社、1979 年。155-156 頁参照。 今道遥子著『ヨハネの黙示録を読む』女子パウロ会、2006 年。45-46 頁参照。

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とされることが語られる。ここでは、罪の赦しを受けた者だけでなく、全存在が再臨のキリストの前に立つこ とが示される。 「ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。」この御言葉はゼカリヤ12:10 およ びダニエル書 7:13 による。キリストとその教会を迫害した諸力が意識され、それは「彼を突き刺した者ども」 と語られることで、キリストを十字架にかけ突き刺した者は勿論のこと、教会はキリストの体と緊密な関係で 捉えられており、神の救済の進展を妨げるすべての力が滅ぼされる。18 ◇黙示録における重要な神の呼称について 1 章 8 節より 1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメ ガである。」 ◇「アルファであり、オメガである」 ここに、「アルファであり、オメガである」、「全能者」、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という三つの ヨハネ黙示録における重要な神呼称が語られる。 この「アルファであり、オメガ」つまり「最初の者であり最後の者」という呼称は、先立ってイザヤ書において 神の自己宣言として語られる。(44:6 、48:12 ) このイザヤ書における呼称は、イスラエルの神こそ唯一の創 造主である神、歴史を支配する神であるという信仰によるものであり、「最初の者であり最後の者」との神の 御名の宣言は、人間が作り上げたバビロンの偶像に対する挑戦的宣言でもある。つまり、ヨハネ黙示録でこれ が用いられるとき、そこで意識されるのは「創造者として万物に先立ち、万物を終末論的成就へと導く」19 であり、この神こそ歴史の原点であり、目標であるとする信仰である。特に黙示録では、イザヤ書がバビロン 帝国に対しているように、ローマ帝国が意識されている。 ◇「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」 この呼称は黙示録の中で、多少の変化をもって度々語られる。1:4、1:8、4:8、11:17、16:5。 ここで神は、「今」(現在)、「かつて」(過去)、「やがて」(未来)、つまり歴史のはじまりからおわりまでのす べての時に関わっておられるということが語られる。それは、すべての歴史の時が、神の御支配の中にあると いうことでもある。しかしここでは、過去→現在→未来の順になっていない。まず先立って「今いまし」つま り、現在のわたし、今のわたしに関わってくださる神が意識されていることは、我々の現在に大きな意味を与 えるものである。 「やがて来られる方」とは、単なる未来形ではなく、動詞の現在分詞「来つつある方」の意味である。それ は未来の事柄でありつつ、なお現在に関係する事柄である。神の到来という未来は、単に未来に属することと してではなく、今既に来つつあるもの、また救済者としての神が、現在の我々へと向っておられる「来たりつ つある方」であることを意味する。つまり将来の「やがて」は、既に現在の我々信仰者との関わりを生じてい るという理解である。著者ヨハネは、単なる未来としてではなく現在に関わる未来として「やがて来られる方」 を理解する。 それはヨハネ黙示録11 章 17 節においてより明白にされる。新共同訳では定かではないためギリシア語を 18秋田稔著『ヨハネの黙示録に学ぶ』新教出版社、2007 年。37-38 頁参照。 今道遥子著『ヨハネの黙示録を読む』女子パウロ会、2006 年。49 頁参照。 19 R.ボウカム著『ヨハネの黙示録』(飯郷友康・小河陽共訳)新教出版社、2001 年。36 頁。

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そのまま訳すと、以下のようになる。「今おられ、かつておられた方、全能者である主なる神。感謝します。 あなたは偉大なみ力をもって統治を始められたからです。」(以上私訳) 著者ヨハネはここで、神の統治は神 の民のために既に始められているというのである。 ボウカムはこの点について「神の呼称における未来の要 素は、神の支配が始まったことに対する感謝に置き換えられる」20という。 黙示録に語られる神の御名(呼称)は、罪びとと関わり、罪びとを救おうとされる神の行為と関連付けられた 呼称であり、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と語られるとき、そこには、過去、現在、未来にわ たって、神がご自分の民のすべての時に関わるとの、恵のご決意、ご意思が示されている。 ヨハネ黙示録におけるこの神の御名は、単に将来のある日ある時に与えられる救済の約束ではなく、現在の キリスト者の生が、「来たりつつある方」のゆえに、既に神の救済行為の中に入れられているという信仰であ る。黙示録において神の救いというのは、終末時のある点に起こる出来事ではなく、現在の信仰者と直接関わ る事柄であり、死んだ後どうなるとか、世の終わりにどうなるということではなく、現在のこの生が、既に神 の救いの行為の中に置かれており、それはやがて来たりつつある方のゆえに神の国へと全く結ばれるものであ るという信仰に貫かれている。 ◆天上におられるキリストの姿 1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネであ る。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。1:10 ある主の日のこと、わたしは “霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。1:11 その声はこう言った。「あなたの見てい ることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七 つの教会に送れ。」1:12 わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、 1:13 燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。1:14 その頭、 その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、1:15 足は炉で精錬されたしんちゅうのよう に輝き、声は大水のとどろきのようであった。1:16 右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強 く照り輝く太陽のようであった。1:17 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、そ の方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、1:18 また生きている者 である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。1:19 さあ、見たことを、今あること を、今後起ころうとしていることを書き留めよ。1:20 あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見 たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。 ◇9節 「1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネであ る。」 この箇所については、レジュメの著者問題の箇所で取り上げたので参考されたい。 ここでヨハネは、「あなたがたの兄弟であり」と語る。この兄弟となることは、相互の親しさや親睦によるも のではなく「共にイエスと結ばれ」ることによる。教会共同体の中に見られる兄弟姉妹の関係は、イエスに結ば れることによってのみ可能となる。またここでヨハネが「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずか っている」と語るとき、シュラッターらが解釈するとおり、教会の苦しみや痛みを共に担っているということで あり21、一方で教会の苦しみは、主の担われた苦しみと結ばれるものでもある。 ◇10節 シュラッターは「預言者的幻視の状態に入ったのである」22とする。しかし続けて「ヨハネは、この状態を 無意識状態とは記していない。――意識を失ってはいない。」と言う。Sr 今道も同様に「ヨハネは霊に満たさ 20 R.ボウカム著『ヨハネの黙示録』(飯郷友康・小河陽共訳)新教出版社、2001 年。39 頁。 21 シュラッター著『ヨハネの手紙・黙示録』(シュラッター新約聖書講解)新教出版社、1979 年。160 頁。 22 シュラッター著『ヨハネの手紙・黙示録』(シュラッター新約聖書講解)新教出版社、1979 年。161 頁。

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れていました。それは魂を奪われた状態ではなく――あたかも聖霊に浸かっているかのような状態を表現」し ているという。つまり聖書の語る霊に満たされた状態は、恍惚状態における霊的現象とは異なるものである。 この10 節後半には「後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。」とある。旧約聖書では、ラッパの響きや大 水のとどろきを神の声の表現として用いる。著者ヨハネは、ラッパのように響く声と語ることで、自らの聞い た声がまさに神のものであることを明らかにする。 著者ヨハネは、その霊に満たされた経験で終わらなかった。ヨハネのその経験は全教会へと御言葉を語るこ とへと向けられ、ヨハネの聖霊による体験は教会の形成へと向けられた。多くの宗教で霊的体験やスピリチュ アルな事柄は自己の向上であるとか、自分自身の事柄として捉えられるが、黙示録の記す聖霊による体験は事 故の満足ではなく教会形成的なものであった。 ◇11 節 七つの教会 この七つの教会については1:4 のレジュメを参照のこと。 ◇12 節以下 12 節以下 16 節までは、ヨハネの聞いた声の語り手である主イエスキリストの姿が描写される。 「1:12 わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、1:13 燭台の中 央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。1:14 その頭、その髪の毛 は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、1:15 足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声 は大水のとどろきのようであった。1:16 右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く 太陽のようであった。」 1:12 七つの燭台は 20 節に解釈されているとおり、七つの教会を示す。 1:13 燭台の中央の人の子とはダニエル書 7:13-14 に記された[人の子]を背景にしている。 ここで、燭台の中央に人の子のような方がおりとは、つまり教会の真ん中に主キリストが立っておられ るという宣言であり、それこそ御言葉の語る内容である。 13 節の後半からには、「人の子のような方」の具体的姿が描かれる。 「足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。」 「その装束はイエスとほぼ同時代の歴史家フラウビウス・ヨセフスが証言しているユダヤの大祭司の服 装に似ていますから、新約の大祭司としてのイエスの権能を象徴するものと解する」23ことができる。 1:14∼15「1:14 その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、1:15 足は炉で 精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。」 ダニエル書 7:9 では、主なる神を「雪のように白い衣をまとった」年老いた方として記しており、 黙示録ではその反映が見られるといえよう。旧約の神のイメージがキリストに対して用いられること で、イエスのキリストであることがいよいよ明らかにされていく。 「目はまるで燃え盛る炎」との御言葉の背後には、旧約に見られる火を持って裁く神のイメージが浮 かび上がる(イザヤ 30 章)。続く「炉で精錬されたしんちゅうのように輝」く足もまた、キリストの神性 を現しその力を現すものである。 1:16「1:16 右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」 23今道遥子著『ヨハネの黙示録を読む』女子パウロ会、2006 年。55 頁引用。

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口から出る鋭い両刃の剣は神の御言葉であり、その正しさ、また力を現している。Sr 今道によれば これは裁きの言葉として解されるが、主の裁きの言葉は、心を刺し通すものでありつつもなお、その 剣が断ち切るものはわれわれの内にある霊的に死んだ部分であり、それによって罪びとの救済が目的 とされていることとなる。キリストの裁きは、われわれの救いのためであり、ゆえにわれわれに全き 裁きがなされるものと捉えられる。 ◇黙想 1:3「1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。」 わたしたちの幸いはどこにあるのでしょうか。夢が叶うこと、願ったもの、あるいは健康を手に入れること、 豊かな生活を約束されることでしょうか。御言葉はこう語る「3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、 中に記されたことを守る人たちとは幸いである」幸いは神のみ言葉を聞き、それに応答して生きる、そこにある。 つまりわたしたちに今既に語りかけてくださるキリストの御言葉の中に、わたしたちの幸いがある。そしてそ れに応答して生きるとき、主はそのようなわたしたちを幸いだと言ってくださる。 1:5b∼6「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、1:6 わたしたちを王とし、御自身の父で ある神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」 ここで、罪からの解放、また救いというのは、ただ「わたしたちを愛し」てくださる主の愛と、その愛ゆえに十 字架に流された「御自分の血」による以外にいかなる条件もつけられていない。これこれの条件を満たせば救 われるのに相応しいものとなるとか、これだけのことが出来れば救いの選考対象となるというのではない。わ たしたちを愛し、ご自分の血によって罪から解放してくださる主イエスに依り頼むほかにわたしたちの救いは ない。しかしそこにこそ、わたしたちの救いの確かさがある。 1:13「1:13 燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。」 教会の只中に主キリストの臨在がある。教会は主キリストが立っておられる場である。このヨハネの黙示録の 御言葉を聞いた教会は、どんなに励まされただろうか。しかもそこに立っておられるのは、弱々しい何かでは ない。王であり復活者であるキリストが、またまことの審判者であるキリストが、権威を持って立っておられ る。ここに慰めがある。

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