• 検索結果がありません。

日立鉱山の公害問題に関する研究動向についての一考察

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "日立鉱山の公害問題に関する研究動向についての一考察"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. 日立鉱山の公害問題に関する研究動向についての一考察. Author(s). 淺木, 洋祐. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 64(2): 29-41. Issue Date. 2014-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7346. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第64巻 第2号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.64,No.2. 平成26年2 月 February,2014. 日立鉱山の公害問題に関する研究動向についての一考察. 洩 木 洋 祐 北海道教育大学教育学部函館校環境科学専攻. ResearchTrendsonEnvironmentalDestructionsatHitachiCopperMine ASAKI Yosuke. DepartmentofEconomics,HakodateCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 本稿は,日立鉱山の公害問題についての主要な先行研究を幾つか取り上げて比較分析を試み る。特に,①各研究の位置づけ,②事実認識や分析枠組みの相違が研究に与える影響,③利害 関係の有無が問題の捉え方及び評価に与える影響の3点について分析することを主な目的とす る。. 本稿では,明治末期から大正期に至る日立鉱山. どによって,問題に対する評価や研究動向が変化. の公害問題に関する主要な研究を取り上げて検討. する可能性が考えられる。この点を明らかにする. を試みる。本稿の主な分析目的は,以下の三点で. ことは,日立鉱山のような過去の問題の研究に興. ある。. 味深い示唆が得られると考える。. 第一に,環境問題の多くがそうであるように,. 第三に,主要な先行研究を取り上げることで,. 日立鉱山の公害問題では,加害者である鉱山側に. 日立鉱山の公害問題における研究動向と課題を整. 対して,被害者である鉱山周辺農民といった,さ. 理・検討する。洩木(2013)では,日立鉱山の公. まざまな利害関係が発生する。このことは研究の. 害対策についてサーベイを行い,その評価・分析. あり方にも影響を与える可能性がある。すなわち,. を試みた。先行研究をそれぞれ整理することに. 同じ問題を取りあげる場合でも,いかなる立場を. よって,日立鉱山についての研究のこれまでの時. とるのかによって,問題を捉える視点や評価が異. 系列的な流れと,各研究の位置づけの検討を試み. なる可能性がある。本稿では,日立鉱山,被害者,. る。. 研究者の三者の研究をそれぞれ取り上げて比較検. これらの3つの分析は,明確に区別出来るもの. 討する。そうすることによって,それぞれの立場. ではなく,相互に影響し合い,また重複する部分. が研究に及ぼす影響の検討を試みる。. がある点に留意する必要がある。. 第二に,日立鉱山のような古いケースに関する 研究には,新事実の発見や,新たな分析枠組みな. 本ノ稿における具体的な分析は以下の通りであ る。本箱では,各先行研究において,日立鉱山の. 29.

(3) 洩 木 洋 祐. 公害問題がどのように検討されたかについて,以. 数が公害問題に用いられているわけではない2。. 下の7つの視点から分析する。. 嘉屋(1952)では主として,「第三編 好況飛. (1)被害への補償1ぉよび寄付. 躍時代(大正元年一大正人年)」の「第二章 準. (2)被害防止の技術的対策. 備時代 一煙害問題の展望−(135−150ページ)」. ①煙突による排煙の拡散希釈,②化学的手. において公害問題が取り上げられている。. 法,③気象観測,④制限熔鉱 (3)被害の復元,横和. ①農事試験場の設置,②荒廃した山林への 植林など,③被害地への苗木の無償配布. Ⅰ−1.被害への補償および寄付. 嘉屋(1952)では,被害への補償の支払につい ての具体的な記述は少ない。特に,日立鉱山の被. (4)煙害による被害. 害への補償としての特徴である,①被害の原因を. (5)鉱毒水問題とその対応. 認めて早い段階で補償を実施したこと,②補償対. ①赤沢銅山時代,②日立鉱山時代. 象が多岐にわたったこと,③補償額が実被害より. (6)反対運動及び公共部門の対応. も多めに支払われたことについては触れられてい. (7)日立鉱山における特定の人物の動向. ない。しかしながら,補償額については,後の研. (1)∼(3)は日立鉱山による公害対策であり,(4)は. 究において多く引用されることになった補償金総. 被害に関する記述である。(5)は鉱毒水問題とその. 額についての時系列的な変化を示すグラフが掲載. 対策についてである。久原房之助が赤沢銅山を日. されている3。日立鉱山においては,補償額の全. 立鉱山と改名して経営する以前から鉱毒水問題は. 体像が明らかになっていないため,このグラフは. 発生していた。日立鉱山では煙害問題が主たる問. 貴重な資料だといってよい。. 題であったが,鉱毒水問題も存在していたのであ. 被害地域への寄付については,従業員対策とと. る。口立鉱山おける公害反対運動や,公共部門(明. もに,地域対策として記載されており,煙害対策. 治政府,地方自治体)という,いわゆるステイク. としては取り上げられていない。すなわち,「従. ホルダーについて,(6)で取り上げる。日立鉱山で. 業員関係と共に,当局者が常に配慮を怠らなかっ. は,久原房之助や,角弥太郎など,特定の個人が. た問題に,対地方関係の施策があった。次に,こ. 問題の解決に重要な役割を果たしたことが指摘さ. の頁の寄付金調べを掲げて,その僅少ならざる件. れている。これらについて(7)で検討する。. 数と金額に,事業と地方の共存共栄策の一端を4」. (1)∼(7)について,各研究がどのように公害問題. を取り上げ,評価分析しているかについて検証す. 示すとしている。 寄付の具体的な内容については,年度,寄付額,. る。そうすることで本稿の3つの分析目的の達成. 寄付目的,対象地域について大正4∼6年分が記. を試みる。. 載されている5。社寺や道路の改修,学校関係な. 本稿で取り上げるのは,嘉屋(1952),関(1963),. どのさまざまな寄付については,関(1963)で述. 菅井(1975,1979ab)である。これらは日立鉱. べられているように,煙害対策の一環として実施. 山の公害問題における基本文献であり,同問題の. された側面があったこと,また,被害地域への事. 研究上,重要な位置を占める文献である。. 実上の補償であり,それゆえに被害民の心象を良 くすることが可能になったと考えられる。. Ⅰ.嘉屋(1952)一日立鉱山の社史 嘉屋(1952)は,日立鉱山の社史である。した. Ⅰ−2.公害防止の技術的対策 公害防止対策として,積極的予防法と消極的予. がって,公害問題は日立鉱山の歴史の一部として. 防法に分類して記述されている6。消極的予防法. 取り上げられている。そのため必ずしも多くの紙. は,煙突による排煙の希釈拡散であり,積極的予. 30.

(4) 日立鉱山の公害問題に関する研究動向についての一考察. 防法としては,以下の3点が記述されている。. 一,排煙中の亜硫酸を酸化せしめて硫酸を製造 する。. 二,煙煤中の硫黄を利用して二硫化炭素を製造 する。 三,溶鉱炉に重油を注加し,これに依って生ず る硫化水素と有害成分たる亜硫酸を化合せし めて硫黄を生成する還元法を採用する。. これらはいずれも経済的な問題から失敗に終 わったとしている。. Ⅰ−3.被害の緩和と復元について. 日立鉱山周辺の山林は,当時の他の銅山と同様 に煙害による被害や,燃料・資材調達のための伐 採,山火事などによって荒廃していた。日立鉱山 による被害地の山林の再生対策として取り上げら れているのは以下の通りである10。. 最初は,降雨時における土砂の崩壊と流出防止 のために杉皮で禿山を覆ったが,それほど効果が 得られなかった。次いで,要所に土砂止下草を施. し,火防及び林野取締りに関しては膨大な防火線. 消極的予防法としては,日立鉱山が煙害対策と. を設けるとともに監視所を設置した。1910(明治. して1911(明治44)年に竣工した年神峰煙道(百. 43)年に東京大林区所より指示を受けて,網状連. 足煙道),1913(大正2)年に竣工したタンク煙. 柴工事を実施した。そして,1911(明治44)年に. 突(阿呆煙突,命令煙突),1914(大正3)年に. 「東京鉱務署より鉱山地帯に砂防植栽を実施せよ. 竣工した大煙突の3つ全てが取り上げられてい. との通達11」により植林の計画を立て,1913(大. る。タンク煙突は,1912(大正元)年の明治政府. 正2)年より植え付けを開始した。大煙突完成後. の鉱毒予防調査会による排煙ガス濃度制限命令7. に本格的な植林を実施し,日立鉱山周辺の山林を. に基づいて建設されたとしている。大煙突は,. 再生している。植林については,耐煙樹種の選定,. 155.7メートルと当時世界最高の高さを誇り,総. 苗木の育成や,植林後の野兎や害虫による被害な. 建設費は152,218円であったとされる。当時の著. どについての苦労が善かれている。また,大島桜. 名な煙突は全て欧米人による設計と指揮のもとで. の植栽年度・面積,植栽場所が掲載されており,. 建設されたのに対して,日本人の指揮(後の日産. 砂防植栽の大島桜その他の樹種別の植林面積も記. 土木社長の官長平作)のもとで建設されたことも. 述されている。網状連柴工事を含めれば,植林に. 特徴の一つとしている8。. は総額約19万円の費用を要したという。. 興味深いことに,気象観測と,それにともなう. しかしながら,被害地への苗木の無償配布には. 制限溶鉱については取り上げられていない。そし. 言及されていない。さらに被害の調査,被害媛和. て,大煙突の建設によって煙害問題が解決された. のために重要な役割を果たしたとされる農事試験. かのような記述になっている。すなわち,「かく. 場については,わずかに触れられているのみであ. て完成した大煙突使用の結果は,正に久原の予言. る12。. 通り驚くほどの煙害の激減を見せ,世人は今更の ように久原の偉大さに驚嘆したが,其の後,今日. に至るまで,こと,日立鉱山に関する限り,二度. Ⅰ−4.被害の実態 被害実態については,1908(明治41)年に大雄. と再び鉱害問題により事業の基盤をゆすられるが. 院に製錬所を移して以降,大煙突建設に至るまで,. 如きは後を断った9」というのである。. 被害の範囲が製錬量の増大にともなって拡大激化. 周知のように,大煙突の建設は,大きな被害を. し,広範な地域に「恐るべき害毒を及ぼして行っ. 減少させたが,被害を完全に解決したわけではな. た13」とする。鉱山周辺の山林については,「一. く,気象観測と制限熔鉱が残された煙害への対策. 度製錬所の噴煙を浴びるや,巨木,陸続として枯. として重要な役割を果たしたのである。. 損し,一望荒涼たる禿山に一変14」した。 1911(明治44)年には,農作物では2町10カ村, 山林では3町18カ村に被害が及んだ。翌年には,. 31.

(5) 洩 木 洋 祐. 4町24カ村に被害が拡大し,煙草の水府種産地の. い18」としている。日立鉱山による鉱毒水対策に. 大部分に被害が及んだため,世論も高揚したとす. ついては言及していない。. る。そして,1914(大正3)年になると,4町30 カ村に被害が拡大した。特に激しい被害が発生し た製錬所周辺について,「全ぐ惨憺たるもので,. Ⅰ−6.公害反対運動および公共部門の対応. 公害反対運動についてはほとんど触れられてい. …地価は下落し,山林経営,農業経営共に全く至. ない。1914(大正3)年に太田町を中心とした1. 難の状態となった。中にも澤平,笹目,金山,黒. 町16カ村連合の煙害調査会と,水府煙草生産同業. 田の如きは,遂に部落を挙げて他に移住を計画す. 組合が設置され,これらの団体は,強硬な姿勢で. る事態にまで問題は深刻化し15」たとして集団移. 問題に臨んだとされているが,詳しい説明はな. 住が検討されたことに言及している。. い190. 日立鉱山では,明治政府及び地方自治体が公害 Ⅰ−5.鉱毒水問題とその対応. 日立鉱山以前の赤沢銅山としては,佐竹藩時代. 問題に介入しなかったとされるが,嘉屋(1952) でも,ほとんど言及されていない。既に述べたよ. から古文書を交えながら詳しく取り上げてい. うに,明治政府の鉱毒予防調査会による排煙ガス. る16。鉱毒水問題については,江戸時代の永田重. 濃度制限命令が,1912(大正元)年に出されたこ. 右衛門,勘右衛門父子による開発に際して鉱毒水. とのみが指摘されている。. が問題となり,以来,開発が滞った原因だと指摘 する。 幕末の大塚源右衛門は,鉱毒問題の解決のため,. Ⅰ−7.日立鉱山における特定の人物の動向 久原房之助と煙害問題のかかわりについては,. 住民に対して補償を行うことで円満な解決を目指. 大煙突の建設が久原による意思決定だとする。す. し,経営が軌道にのりつつあった。しかしながら,. なわち,高層煙突の建設には多額の費用を要する. 1864(元治元)年の天狗書生の乱によって施設が. 上に,煙害被害の拡大を招く危険性があるとして. 破壊され,頓挫する。明治維新以降も,副田欣一. 日立鉱山内でその是非について論争があった。こ. から大橋真六に至るまで,多くの経営者の手に渡. れに対して,久原が小坂の経験に基づいて建設を. るが,いずれも十分に開発されることはなかった。. 碇喝し,建設を決定した。また,久原は大煙突の. 鉱毒水問題について注目すべきは,1894(明治 27)年に譲渡を受けた高橋元長と城野琢磨による 増区の出願にともなって顕在化した地元民による. 建設が失敗しても,その経験は日本の鉱業界に資 するものだと主張して実行したとする20。 久原以外には,角弥太郎(後に第四代日立鉱山. 鉱毒問題への懸念である。この時,鉱山監督官に. 所長)が取り上げられている。角は,補償問題に. よる実地臨検によって公益上害なしと復命したの. ついては,基本方針の堅持及び1909(明治42)年. に対して,村民による反対が生じている。この間. 1月に職制を改正して煙害問題の調査や補償交渉. 題について古文書を引用して検討している。この. を行う専門部署として地所係を設置するなど,煙. 時村民側の答申に対して,「一切の問題の起因を. 害問題の実務の中心人物として位置づけられてい. 針小棒大に鉱毒に帰し,断固として開発に反対す. る。すなわち,「既に小坂鉱山時代,煙害問題で. るのみならず,進んで官僚調査の杜撰を衝くあた. 苦心を重ねた彼(角弥太郎のこと。筆者注)は,. り,正に当時の村民の世論を彷彿たらしめるもの. 鉱毒被害の賠償問題を重要視し,その損害は法律. がある17」と評価する点は検討すべきであろう。. 的解釈を侯つまでもなく,鉱業家自身がその道義. 日立鉱山時代の鉱毒水問題については,「当時. 的責任に於いて,補償し負担すべき性質のもので. の鉱務監督官が論破した如く実害意外に僅少で. あるとの根本方針を堅持した。鉱害と云えば,徒. あったものか,この頃さして問題とされていな. なる法律論と西欧的権利義務論の形式的論議に終. 32.

(6) 日立鉱山の公害問題に関する研究動向についての一考察. 始して,企業家は勿論,官と錐も実質的には殆ど. ありかつ実際に補償交渉を行った立場から記述さ. 放任の状態であった当時の一般的風潮を思い合わ. れている。基本的には,鉱山側の誠意ある補償が. せるとき,誠に画期的な心構えと云うべきもので. 実施されたことが,交渉過程を通して具体的に述. あった。21」. べられている。それは単に被害への補償というだ. 煙害問題にかかわって登場する人物は,主とし. けにとどまらず,様々な配慮が行われていたこと. て上記2名であり,後の研究ではよく取り上げら. が明らかにされている。例えば,被害への補償は. れる鏑木徳二や,関右馬允などについては言及さ. 精神的不安も考慮し,実被害の一割前後の追加補. れていない。. 償が実施されたとしている22。また,農林産物の 生育を増強して収穫減少を防止する方針を日立鉱. Ⅰ.関(1963)一激害地の交渉委員による手記 関(1963)は,入四間地区の煙害交渉委員であっ. た関右馬允によって執筆されたものである。入四. 山側が打ち出して,金肥が間接補償として供給さ れたことや,山林の落葉補償が現物で給付された ことが,後に被害地の地力減退防止に役立ったこ とが述懐されている23。. 間地区は被害の最激甚地とされ,関は入四間地区. 1911(大正元)年には大被害が発生したが,鉱. の地主でもあり,同地区における被害交渉の中心. 山側の係員が,被害地の日用消費作物の供給補償. 的な人物である。すなわち被害者からの視点に基. や水稲,畑への補償等を関と相談して対応するこ. づいた記録として,いわゆる社史とは異なった位. とで暴徒化の危機を回避したとする24。1920(大. 置付けとなる貴重な資料といってよい。. 正9)年に農作物が暴落して地域が疲弊した際に. 同文献の副題が「忘れえぬ人々」とある通り,. は,被害地救済として補償金を減額せずに据置を. 被害の補償交渉などの煙害問題で関わりのあった. 鉱山側に訴えたのに対して鉱山側はこれを受け入. さまざまな人々との出来事を中心に振り返ったも. れた25。. のである。. その他にも入四間地区は様々な便宜を受けたこ. 本文献において特筆すべきは,関が被害者で. とが記されている。例えば,鉱山の工員の採用で. あったにも関わらず,日立鉱山の公害対策につい. は,関が頼んだ場合,思想調査なしで体格検査だ. て,高く評価している点である。公害問題におい. けで採用されたことや,飲料水道の整備改善や神. て被害者側が,加害者側の対応を好意的に評価す. 社関係の工事,学校の施設,公共事業,農地の酸. るケースは少なく,日立鉱山の公害対策の評価に. 度検査などに至るまで種々便宜を受けたとしてい. 大きな影響を与えたといってよいだろう。. る。鉱山と入四間とは,「人事縁組関係でも経済. ただし,被害の補償交渉における鉱山側との激 しいやり取りや,煙害被害の激化にともなう入四. 関係でも緊密なものとなった」というのである26。. 興味深い点としては,日立鉱山の職員の服装が. 間全部落の移住の検討という事態など,煙害被害. 簡素なものであったことが,交渉の際,被害者側. にともなう深刻な問題も指摘されている。これら. に圧迫感を与えず有効であったと指摘している。. の問題を考慮した上での評価であることを留意し. すなわち「日鉱職員は,会社の方針として頗る質. ておく必要があろう。. 素であった。洋服は,課長始め全員詰襟で,帽子. また,日立鉱山におけるいわゆるミドルマネジ. は鳥打帽(夏は麦梓のカンカン帽)に限られて,. メントともいうべき,角弥太郎,鏑木徳二らの問. 背広服は病院の先生のみであった。殊に煙害係員. 題に対する誠意ある対応が特に強調されている。. は最も質素な服装で…この田舎向けの服装で農山 村民に接した事は,被害者達に気安ささえ覚えさ. Ⅰ−1.被害への補償および寄付. 入四間地区の被害の補償に関しては,被害者で. せて精神的融合には,非常に効果が有った訳で,. 流石に小坂で鍛えた課長(角弥太郎のこと。筆者. 33.

(7) 洩 木 洋 祐. 注)の配慮は,塞に奥床しかったと思ったもの. 被害地の林層復旧のための苗木の無償配布を鉱山. だ27」と述懐している。. 側に要求したのである。この提案は,日立鉱山側. に受け入れられ,多くの苗木が被害地へ無償配布 Ⅱ−2.公害防止の技術的対策. 公害防止の技術的対策としては,大煙突を中心. された。 農事試験場からは,読菜耕作の改良の指導や,. として,神峰煙道,阿呆煙突について述べられて. 青年会主催で読菜品評会を開催し,審査委員の派. いる。また,大煙突によって大きな被害は減少し. 遣や,会費負担の援助などをしていが0。鏑木徳. たものの,完全に被害が解消されなかったことを. 治は「郷土開発に農場の施設を利用せよ」と発言. 指摘している。そのほかに,農事試験場(本文中. したとされており,煙害問題に対する被害地への. では農場)におけるポッ1、調査による被害調査や,. 配慮が考えられる。. 神峰気象観測所を中心とした気象観測網について も言及している。 「当時,先生(鏑木徳二のこと。筆者注)は,. Ⅰ−4.被害の実態. 被害については,最激害地とされた入四間地区. 風向,湿度と被害との関係調査に全力を傾倒し,. の被害者でもある筆者だけに生々しく語られてい. 石神農場には佐藤さん,原さん,山村さん等を配. る。例えば,以下のように単なる被害だけではな. して大規模なポット試験を行い,神峰観測所には,. く,農民にとって農作物に被害が及ぶことの精神. 武田,雲野,前田の皆さん等,常駐5名が日夜調. 的苦痛も述べられている。. 査に没頭し,遠く高原,呉坪,西河内,瑞竜,洪. 「明治40年から毎年加速度に進んで行くのを体. 沢に見張所観測員を配置し,各所共通電話連絡に. 験した被害民は,来る日も来る日も,毒煙または. より貴重なデータを集めて居たのは,流石に神様. 毒煙の不安におびえて,収穫に対する希望感が無. と呼ばるる価値満点と敬服したものであった。28」. くなると,農民としての生き甲斐さえ失われると. しかしながら,制限洛鉱及び,化学的手法につ. いう次第で,人生の不安は測り知れぬものがあっ. いては,触れられていない。また,阿呆煙突が, 明治政府の排ガス濃度希釈令によるものだという. た。31」 特に,大雄院に製錬所を移転した後に,年々被. 記述はなく,神峰煙道による被害に驚いて日立鉱. 害が激化していき,地区全体の集団移転まで真剣. 山側が煙害対策として急遽建設したとされてい. に検討されたことが述べられている。. る。. これらの理由は不明であるが,被害者側に直接. その一方で,大正初期に小坂村などから視察に 来た人々が,代表的な激害地とは思えないほど,. 目に見えない部分である鉱山内部の事情について. 林相が荒らされておらず農作物の肥培も行き届い. は,十分な情報が得られなかった可能性などが推. ていると指摘したとしている。これは,先述の角. 測される。. 弥太郎の配慮や鏑木徳二らによる補償方策などの おかげだとしている32。. Ⅰ−3.被害の緩和と復元について 日立鉱山によって実施された植林については,. また,被害地の女性が鉱山に農作物を持ち込み 販売するということが行われていたことが述べら. ほとんど記述されていない。しかしながら,被害. れている。このようなことは,鉱山側と被害地が. 地への苗木の無償配布は,関右馬允自身によって. 険悪な関係であれば成立しなかったであろう33。. 日立鉱山側に提案されたことであり,その経緯が 述べられている29。すなわち,大煙突建設後の被 害の減少にともなって農産物被害は問題がなくな る一方で,山林の場合は,そうはいかないとして,. 34. Ⅱ−5.鉱毒水問題とその対応 鉱毒水問題については,日立鉱山が被害河川流 域を「比較的捨て値」で買収したとされている34。.

(8) 日立鉱山の公害問題に関する研究動向についての一考察. また,日立鉱山にとって,被害地の耕地をすべて. いう被害民にとっては看過できない事態になった. 買収しても大したことはなかったと述べている。. ため関が煙害交渉委員になったこと,補償交渉の. これは,久原房之助が,それまでの鉱業家と比較. ために独自の勉強や調査を欠かさなかったこ. して大資本であったこと,日立鉱山が海に近い地. と37,場合によっては実力行使を覚悟していたこ. 域にあったため,被害地の面積がさほど大きくな. となどが赤裸々に記されている。また,交渉委員. かったことなどが関係していると考えられる。ま. という立場上,鉱山側との過剰に親密な関係にな. た,鉱毒水問題に関わる土地の買収が,後に従業. らないような配慮も行っていが8。. 員住宅や工場敷地などに土地を必要とした鉱山に とって有利に働いたと指摘している。. 赤沢銅山時代の鉱毒水問題については,特に取 り上げられていない。煙害については,「銅山も タタラ吹きの極めて幼稚な製錬をやって居たか. 入四間以外の地域では,いわゆる席旗の事態は 起きなかったものの,煙害交渉の鉱山職員に対す る暴行や,軟禁といった事態が発生したようであ る39。 また,太田町方面での反対運動の連合について. ら,煙害といっても附近の国有林に僅少の被害を. も言及されている。入四間地区は連合への加盟に. 及ぼした位で,世人の関心も無かったのであっ. 勧誘されたが,関はこれを断った。勧誘の理由は,. が5」としている。. 運動を高揚するためには激害地である入四間が鳴 りを潜めていては不都合だからという40。. Ⅰ−6.公害反対運動および公共部門の対応. 入四間地区では,被害交渉を中心として足尾銅. 他方で,茨城県議会における議事録を取り上げ, 日立鉱山の煙害問題についての県会議員の発言を. 山などで見られた激しい反対運動は実施されず,. 検討している。しかしながら,「質問に迫力がなく,. 鉱山と被害地の「共存共栄」の考え方を基本とし. お座なりの発言と云う感じである。それ位だから. て,比較的平和裏に交渉が進められたことが記さ. 県会議員が激害地の入四間を視察した事もなく,. れている。これは,日立鉱山の煙害事件の特徴の. 自分に降り掛った難関は自ら打開する外ないと. 一つである。しかしながら一方で,全て円満に進. 泌々思ったものであった41」と述べている。実際,. んだわけではないことも記されている。例えば,. 関が自ら政治家や県などに働きかけたような記述. 以下のような記述がある。. は見当たらない。. 「煙害問題は着々妥協的に解決して行ったが,. 鉱山の方針は打ち切り補償策に出ているらしい節 も見え,交渉も複雑になったので…明治44年春の. Ⅱ−7.日立鉱山における特定の人物の動向. 同書は,副題が「忘れえぬ人々」とされている. 委員改選には私(二三才)…が選挙され,老令委. 通り,煙害問題に関わって筆者と交流のあった人. 員の中に加えられたのであった。…要求案(補償. 物が多く取り上げられている。以下,明治・大正. 交渉で被害民側が碇出する補償要求案のこと。筆. 期の煙害問題とかかわりが深く重要だと考える人. 者注)作成の資料は,農作物に関しては関恒太郎. 物を取り上げる。. さんの研究成績を参考にし,山林に関する資料は,. 久原房之助は,同書の巻頭言を執筆している。. 私が足に任せて高鈴山脈の山村を歩き廻って調査. また,大雄院への製錬所の移転42や,大煙突の建. したものや,早尾丑麿先生の著書を参考にしたの. 設43について,最終的な決定を行ったとされてい. だった。…交渉に対する基本方針は右の様に,委. る。ただし,これらは伝聞とされており,実際に,. 員仲間で申合せ,万一鉱山の補償態度が不誠実で. 関と久原の間に何らかの交流があったような記述. ある場合には,事件の推移によっては席旗の先頭. は見当たらない。久原房之助は,当時総長という. に立つという悲壮な覚悟をしたほど…36」. 立場にあったことから,直接被害民とやり取りす. すなわち,鉱山側が打ち切り補償を検討すると. ることがなかったと推測される。. 35.

(9) 洩 木 洋 祐. 角弥太郎については,「筆者が最も尊敬してい. いて分析する。これらの分析の中で,ケースの一. る人格者である」と述べ,また,年齢の若い関に. つとして日立鉱山を取り上げている。特に日立鉱. 対等に接したことや,角の言行一致の紳士的な姿. 山の公害対策を,補償を基本においた取り組みと. 勢に感銘し,足尾銅山のような闘争から妥協へと. して分析しているのが一つの特徴である。. 急展開したと述べている44。 鏑木徳治は,高層気流観測の実施,気象観測所 や農事試験場の設置などにおいて,当時としては. Ⅱ−1.被害への補償および寄付 被害への補償については,その開始時期や,補. 画期的な煙害調査を実施し,その成果に基づく補. 償内容について,関右馬允の『日立鉱山煙害補償. 償案を作成するなどした45。すなわち,補償のた. 協定綴』などに基づいて詳細に分析されている。. めの被害調査や,煙害問題への技術的対策に鏑木. 入四間地区における最初の損害補償交渉が1907. 徳二は重要な役割を担っていたといえる。また, 「鏑木先生によって説得され,相互協力,共存共. (明治40)年5月9日であり,最初の補償金支払 いが同年8月7日であるとする49。1908(明治41). 栄主義で努力したものであり46」と述べており,. 年12月に大雄院製錬所の操業開始にともなって,. 入四間地区の運動方針である「共存共栄」が鏑木. 久原側は被害の拡大激化を予想して,それまでの. 徳二によるものだと善かれている点は興味深い。. 明文化されていない補償に代えて,被害基準をあ. 鏑木徳二のもとには,盛岡高等農林学校出身者な. らかじめ決めてそれによって煙害補償金を支払う. ど,優秀な人材が揃えられており,実際の被害交. という契約(五カ年)を各部落の代表委員と締結. 渉や対策にあたっていたとされる。関は,鏑木徳. し始めが0。入四間地区の補償内容については,. 二に対して,「鏑木先生(煙害問題では対立した. 1907(明治40)年から1921(大正10)年まで,山. 位置にあるが,氏の博学と人格に対して先生と呼. 林補償,稲作補償,畑作補償などの項目について. びたい)47」と述べており,特に敬意を示してい. 表としてまとめられている51。. る。. 他にも日鉱附属病院長の斉藤国太郎が,入四間. 1908(明治41)年12月に久原房之助と中里村人 四間関巳太郎他5町村78名と締結された契約書に. に対して往診をするなど誠意ある対応をしたこと. おいて「甲(久原)ガ日立鉱山経営ノ為メ乙ノ所. が被害地の鉱山に対する感情を良好にしたことな. 有二係ル久慈郡中里村大字入四間地内山林原野全. どが指摘されている48。. 部二対シ姻害ヲ及ボスコトヲ予想シ其補償額ハ左 ノ標準二依り之ヲ走ム52」として日立鉱山側が原. Ⅱ.菅井(1975,1979ab) 菅井(1975,1979ab)は,経済史及び環境問 題を専門とする研究者による研究である。. 因を認めたと指摘する。このことに関して菅井は, 「他の鉱毒事件,否現在に至る様々な公害事件で, これ程明瞭に原因を認めているものはない53」と. 評価する。1909年1月の職制改革で庶務課内に,. 菅井(1975)は,日立鉱山を取り上げて,そこ. 被害調査と補償金の支払を専門的に取り扱う部署. での公害被害や日立鉱山の公害対策,公害反対連. として地所係が設置された。地所係には,鏑木徳. 動をはじめとしたステイクホルダーの動向などを. 二を始めとして新進の農林技師を雇い,かなり自. 包括的に分析した研究である。. 由に問題に対処させていたとし,さらに地所係に. 他方で,菅井(1979ab)は,四大鉱山鉱毒煙 害事件の全てを比較検討して,日本資本主義の成 立・発展期における公害問題の特徴を解明し,そ. 多くの人員が充てられて煙害問題に対処していた と指摘する54。 菅井(1979b)では,久原房之助が小坂鉱山に. れらが全体的にいかなる形で発展していったか,. おいて煙害問題に対して損害補償の支払いを開始. そしてこれらの問題における体制内処理方式につ. したこと,また,日立鉱山では小坂鉱山での損害. 36.

(10) 日立鉱山の公害問題に関する研究動向についての一考察. 補償形式・内容を大きく進めたと評価する。ただ し,被害民に対して個別交渉を行って,激害地と. ために使用が中止され,神峰煙道にもどされた。 1914(大正3)年竣工の大煙突は当時世界最高. それ以外を分断する方針を取ったと指摘する。ま. の高さであり,日本初の高煙突拡散方式であると. た,大煙突建設以前に,実害を完全に補償できた. 評価する。その効果は,近隣地区における大被害. のは一部の激害地にとどまり,ほとんどの地域で. を激減させた。その一方で,それまでと異なる地. は,補償支払いの遅延や,補償額の少なさが問題. 域に被害をもたらしたとする。. となっていたと指摘する55。. 損害補償を実施したのが,久原自身の判断によ. 大煙突に加えて大規模な気象観測をともなう制 限熔鉱によって,被害を大幅に減少させたことを. るものか,政府からの指示によるものかについて. 指摘している。制限熔鉱は,既に別子銅山で実施. 検討している。/ト坂鉱山において損害補償を開始. されていたが,これに気象観測を組み合わせたの. した経緯に関する資料は発見できていないとしつ. が,日立鉱山だとする。気象観測は,神峰中央観. つも,当時の農商務相が鉱毒煙害問題の解決に積. 測所と数か所の観測所を電話で結び,神峰でそれ. 極的であった平田東助であったことや,足尾銅山. らの気象データを総合判断して製錬所に煙害警報. の古河潤吉が明治政府にあてた上申書の内容から. をだして,洛鉱量の制限,鉱石の混合比率の変更. 政府による指導があったのではないかと推測して. を指示したという。ただし,制限熔鉱の実態につ. いる56。. いては,鉱山側未発表のため不明であるとしてい. また,多賀郡や久慈郡において,被害の調査・. 交渉及び支払いが遅れたことや,反対運動の分断. る59。. 菅井(1979b)では,日立鉱山での技術的対策. のために大字小字における個別交渉を推進しよう. は,被害への直接補償方式の限界,すなわち,年々. としたために,反対運動が激化したと指摘する。. 増大する補償の支払いが,個別企業の経営上の限. これは,口立鉱山が,農商務省や県の調査に頼ら. 界を突破するために実施されたと指摘する60。. ず鉱山のみで対応しようとしたため,対応しきれ なくなったと推測している。ただし,大きな問題. が発生する前に,補償の支払いなどが実施された としている57。. 菅井の研究では,補償交渉・内容について詳細 に分析されているが,寄付については特に取り上. Ⅱ−3.被害の緩和と復元について 被害の横和および植林などについては,被害民 と鉱山側の関係を良好にするのに役立ったとして. いるが,菅井(1975)では取り上げないとしてい る61。. げられていない。 Ⅱ−4.被害の実態 Ⅱ−2.公害防止の技術的対策. 技術的対策としては,神峰煙道,阿呆煙突,大. 菅井(1975)では,1906(明治39)年頃から被 害が発生し,鉱山の発展にともなって被害が拡大. 煙突をそれぞれ取り上げている58。神峰煙道につ. したことが指摘されている62。1910(明治43)年. いては,遠距離の被害には相当効果があったが,. から1914(大正3)年まで時系列的に被害地域が. 近距離の隣接町村には却って大被害を及ぼした。. 拡大したことを指摘している。被害実態に関する. その結果,入四間地区等の全戸移転が討議された. 記述は嘉屋(1952)などに基づいている。. ことを指摘している。. 阿呆煙突については,明治政府の鉱毒予防調査. Ⅱ−5.鉱毒水問題. 会による濃度制限命令に基づいて建設された。し. 鉱毒水問題については,日立鉱山煙害事件の前. かしながら,煙害問題の解決にほとんど効果をも. 史として取り上げている。久原房之助の経営以前. たず,むしろ被害を激化し,操業の妨げになった. には,付近住民の鉱毒水問題への反対運動によっ. 37.

(11) 洩 木 洋 祐. て大規模操業には至らなかったと指摘する。. 赤沢銅山の開発の歴史は1591(天正19)年に佐. れている67。結論から述べれば,帝国議会,県議 会ともに,ほとんど日立鉱山の問題を取り上げず,. 竹義重の開発から始まったとしている。江戸時代. 行動を取らなかったとする。特に県議会の対応を. 中期の永田茂右衛門,勘右衛門父子,末期の大塚. 冷淡と評価している。このような県議会の対応が,. 源吾衛門,明治時代以降は,高橋元長,城野琢磨,. 県が鉱山側の利益を守るためであったのか,日立. リヒヤルト・ポイエス(赤沢鉱業合資会社)らを. 鉱山の対応が好ましかったからなのか,立証する. 取り上げている。興味深い指摘としては,高橋元. 史料はないと結論付けている。. 長らの増区願に端を発する地元民の反対に対し. 1911(明治44)年2月の第27回帝国議会に多賀. て,鉱山監督官の「公益上害なし」としたことを. 郡松原町士族農石平三郎外116名の「煙害除外下. 取り上げて,「地元民の鉱毒問題に対する反応の. 草設備の請願」が掟Ⅲされたことや,被害地域の. 鋭さと,官庁側の鉱毒問題軽視の態度が実に対照. 町村長や郡会議員による別子銅山の視察および報. 的である63」と指摘する。これは嘉屋(1952)と. 告会について検討している。このような動きを受. 異なる評価だといってよい。. け,多賀郡の被害民が茨城県庁や多賀郡役所に押. 日立鉱山側の鉱毒水問題への対応として,地元. し掛けるなどした。しかしながら,同年11月30日. 紙「いはらき」の記事などを引用しつつ,補償金. に通常県議会に提出された「意見書」が,県議会. の支払いや,潅漑水路の設置などで一応の問題解. が正式に煙害問題を取り上げた最初で最後だった. 決となったとしている64。. としている。その後,県議会における県当局の対. 応を,穂積竹次郎議員の1912(大正元)年11月16 Ⅱ−6.公害反対運動および公共部門の対応. 日立鉱山の反対運動は,足尾や別子の運動とは. 日および1916(大正5)年12月1日の質問と県当 局の解答,小田部議員の1917(大正6)年11月の. 異なって,「鉱業停止」が一度も提唱されなかっ. 県議会での質問と県当局の対応などを取り上げて. たことが特徴だと指摘する。また,激害地の入四. 検討している。. 間地区と,それ以外の地域の運動が別箇に展開さ れ,ある時期には両者には対立かそれに近い状態 になっていたとも指摘する。その理由として,以 下の4点を指摘する65。 (1)入四間の運動が鉱山と共存共栄主義であっ た. Ⅱ−7.特定の人物について 久原の煙害に対する方針は「第一に煙害による. 損害は鉱業主が進んで補償の責を果たさねばなら ぬということ,次には補償するためには煙害であ るか否かの調査,被害程度の調査等,まずもって. (2)鉱山側が入四間に特別な配慮をしていた. 調査機関を充実させる68」としている。また,久. (3)久慈郡長が入四間委員の説得に最も力を入. 原独特の経営観として,労務管理策としての経営. れていた (4)入四間の被害が他地域と比較して激しすぎ たので,共同での連動が困難であった. 入四間以外については,水府煙草生産同業組合. 家族主義の先駆けともいえる「一山一家」があり, これを鉱山付近の地域全体にも拡大して適用した. と指摘する69。 入四間地区の運動では,関右馬允の「鉱農共存. と,煙害調査会について取り上げている。前者は,. 共栄」の思想を,日立鉱山の煙害反対運動全般に. 1910(明治43)年に設立され,煙草耕作振興を目. いえる一つの特徴だと評価している70。. 的としつつも,主要事業の一つとして煙害対策を 掲げている。後者は,多賀都会,多賀都農会,各. 町村長で構成されたと指摘する66。 公共部門の動向について,詳しい検討が行なわ. 38. Ⅱ−8.その他. 菅井(1975)における興味深い指摘として,日 立鉱山においてなぜこのような取り組みが実現し.

(12) 日立鉱山の公害問題に関する研究動向についての一考察. たかについての検討である。菅井(1975)では,. 献である。単に被害者としてではなく,煙害交渉. 以下の3点にまとめている71。. 委員として長年にわたって実際に問題に取り組ん. (1)当時者の煙害問題に対する考え方. だ事実を反映した内容となっている。単に被害の. (2)事件の起こった時代背景. みならず被害者の心情や,日立鉱山の被害補償な. (3)事件に固有の歴史. どについての詳細な対応が記述されており,社史. すなわち,(1)は,共存共栄を掲げた反対運動と. とは異なった立場からの貴重な資料といってよい. それに応えた鉱山側の対応である。鉱山側の対応 については,久原の経営観である一山一家が大き. だろう。. 菅井(1975,1979ab)は,研究者の立場から,. く影響したと指摘する。(2)は,事件の起こった時. 先行研究や一次資料などを包括的に取り上げて,. 代背景として,足尾,別子,小坂などですでに鉱. 分析した内容となっている。上記の二つの文献に. 毒・煙害問題が発生しており,それが社会問題化. はない分析枠組みとして,当時の足尾銅山や別子. しており,鉱山側も問題を無視できなかったとす. 銅山などとの比較分析を行っている。この分析に. るのである。また,当時は好況期にあり,補償な. よって日立鉱山の公害問題とその対策を,研究上. どを行うのに有利な状況であったとする。(3)は,. より重要な位置づけを与えることが可能になった. 事件の固有の歴史として,日立鉱山以前の赤沢銅. といってよい。. 山時代に鉱毒問題が発生しており,補償という解. 本研究で取り上げた,以上の文献においては,. 決方法がすでに存在していたこと,地域に公害に. 公害問題や公害対策における事実認識には相違が. 対する監視の目を醸成させたことなどを指摘する. みられた。日立鉱山の問題が明治・大正期におい. のである。. て発生したことを考慮すれば,後の研究による事. 菅井(1979b)では,小坂鉱山と日立鉱山での. 実関係の確認は必ずしも容易ではない側面があ. 被害への補償の支払いを検討した上で,その本質. る。しかしながら,新事実の確認は,その後の研. 的な限界として,以下の3点を指摘する72。. 究に反映されているといってよいだろう。. (1)補償が支払われても被害は継続して発生す る. 事実認識に相違がある一方で,日立鉱山の公害 対策の評価は,いずれの文献においても,おおむ. (2)計算できる損害しか補償の対象とならない. ね高い評価となっていた。これらの文献において,. (3)個別企業の補償支払い能力の限界. 執筆者の立場が利害関係を含む異なったもので あったことを考慮すれば,興味深い結果だといっ. 考 察 以上,本稿では,いわゆる加害者側である日立. てよいだろう。 本稿では,紙数の関係から,主要文献とされる. 常陸太田市編さん会編(1978),中澤稔・井原聡. 鉱山による社史である嘉屋(1952)と,被害者に. (1983),鉱山の歴史を記録する市民の会編(1988),. よる関(1963),研究者による菅井(1975,1979ab). ジャパンエナジー・日鉱金属株式会社編(1994). を取り上げた。. については取り上げられなかった。これらについ. 嘉屋(1952)は,公害問題や公害対策に関する 事実認識において,後の研究とは異なる部分が散. ては改めて鰍稿を期して,本稿の分析を踏まえた 考察を行う予定である。. 見された。しかしながら,日立鉱山の公害問題を. 包括的に取り上げた最初の文献といってよく,ま た,社史ならではの貴重な資料も引用されており, 重要な文献であることには相違ない。. 関(1963)は,被害者の立場から執筆された文. 注 1 日立鉱山に関する先行研究においては,補償以外に 賠償という用語を用いている場合がある。本棚究では,. 39.

(13) 洩 木 洋 祐. 補償という用語で続一する。 2 ジャパンエナジー・. 日鉱金属株式会社編(1994)が,. 19−20ページ。. 28 関(1963)16ページ。. 日立鉱山の公害間組を中心に収り上げた文献であるこ. 29 関(1963)35−36ページ。. とを考慮すればより明確である。. 30 関(1963)16ページ。. 3 嘉屋(1952)144ページ。「第一二表 歴年煙害賠償 金支払表」。 4 嘉屋(1952)216ページ。同書では,旧字体が用いら れているが,以下,本研究では引用に際しては基本的. 31関(1963)16−17ページ。 32 関(1963)27ページ。 33 これをもって「鏑木先生の共存共栄策は此処にも実 現した」としている。関(1963)28−29ページ。. に新字体とする。 5 嘉屋(1952)216−217ページ。. 34 関(1963)24ページ。. 6 嘉屋(1952)139−145ページ。積極的予防法と,消. 36 関(1963)6−7ページ。. 極的予防法の区別は,前者が煙突による排煙の希釈拡. 35 関(1963)2ページ。 37 煙害被害の調査については,他にも鏑木徳二と相談. 散であり,汚染物質を排出することには変わりないの. して,煙害の程度,来煙の時刻,被煙の時間などを出. に対して,後者が,排煙そのものから汚染物質を取り. 来るだけ詳細に記録するなどもしている。関(1963)15. 除く措置であるという違いに起因していると考えられ る。 7 これは四大銅山を対象としており,「即ち,当日立鉱. −16ページ参照。 38 関(1963)20−21ページ。 39 関(1963)17−18ページ。. 山には,麦,煙草作の重要期に,亜硫酸ガスの量を一. 40 関(1963)24ページ。. 千分の三以内に稀釈することの出来るような施設をな. 41関(1963)18ページ。. せと云う指令」だとされる。嘉屋(1952)139ページ。. 42 関(1963)5ページ。. 8 嘉屋(1952)142−143ページ。. 43 関(1963)28ページ。. 9 嘉屋(1952)143ページ。. 44 関(1963)3ページ。. 10 嘉屋(1952)146−150ページ。. 45 関(1963)7−8ページ。. 11嘉屋(1952)147ページ。. 46 関(1953)41ページ。. 12 苗木の育成や,被害に関する調査研究を開始したこ. 47 関(1963)7ページ。. とについてわずかに言及されている。例えば,嘉屋. 48 関(1963)9ページ。. (1952)138,147ページ。. 49 菅井(1975)58−59ページ。. 13 嘉屋(1952)136ページ。. 50 菅井(1979b)126ページ。. 14 嘉屋(1952)136ページ。. 51菅井(1975)64ページ。「表6人四間地区の煙害補償. 15 嘉屋(1952)139ページ。. 金」としてまとめられている。また,菅井(1979b)128. 16 嘉屋(1952)1−57ページ。. ページには,久慈郡佐都村茅根部落への支払い補償金. 17 嘉屋(1952)31ページ。. を年度別に6項目に分類した「第26表 日立鉱山煙害補. 18 嘉屋(1952)136ページ。. 償金(佐都村,茅根部落分)」がある。. 19 嘉屋(1952)142ページ。. 52 菅井(1975). 63ページ。出典は関勝馬氏所蔵資料∩. 20 嘉屋(1952)141−143ページ。. 53 菅井(1975). 63ページ。. 21嘉屋(1952)137ページ。. 54 菅井(1975). 62−63ページ。. 22 関(1963)諸言参照。. 55 菅井(1979b). 134ページ。. 23 関(1963)17ページ。. 56 菅井(1979b). 131−132ページ。. 24 関(1963)32ページ。もっとも,この年は,肥培管. 57 菅井(1979b). 127−128ページ。. 理の徹底と天候が適順だったことによって最終的に大. 58 菅井(1975). 65−67ページ。. 豊作となった。しかし,鉱山側は,「入四間の民心安定. 59 菅井(1975). 67ページ。. を第一義」として処理し,多額の補償を支払ったとさ. 60 菅井(1979b). れる。. 61菅井(1975). 67ページ。. 62 菅井(1975). 59ページ。. らく補償金が年々削減されていた時期のことだと推測. 63 菅井(1975). 55ページ。. される。. 25 関(1963)34ページ。大煙突建設以後のため,おそ. 134−135ページ。. 64 菅井(1975). 58ページ。. 26 関(1963)24ページ。. 65 菅井(1975). 61−62ページ。. 27 関(1963)19ページ。日立鉱山がそもそも「質素主義」. 66 菅井(1975). 62ページ。. 67 菅井(1975). 59−61ページ。. であり,事務所の建物も質素だったとされる。関(1963). 40.

(14) 日立鉱山の公害問題に関する研究動向についての一考察 68 菅井(1975)330ページ。出典は,久原房之助翁伝記 編纂会編(1970)135ページ。 69 菅井(1975)68ページ。 70 菅井(1975)68ページ。. 71菅井(1975)68−70ページ。 72 菅井(1979b)135ページ。. 【参考文献】 洩木洋祐(2013)「日立鉱山における公害対策についての 評価と課題」『人文論究』第82号,61−78ページ。 嘉屋実編著(1952)『日立鉱山史』日本鉱業株式会社日立. 鉱業所。 久原房之助翁伝記編纂会(1970)『久原房之助』日本鉱業。 鉱山の歴史を記録する市民の会編(1988)『鉱山と市民. 聞き語り日立鉱山の歴史』日立市役所。 ジャパンエナジー・. 日鉱金属株式会社編(1994)『大煙突. の記録 一日立鉱山煙害対策史−』ジャパンエナジー・. 日鉱金属株式会社。 菅井益郎(1975)「日立鉱山煙害事件」『一橋論叢』第74巻,. 第3号,321−340ページ。 菅井益郎(1979a)「日本資本主義の公害問題(一)一四 大銅山鉱毒・煙害事件−」『社倉科学研究』第30巻,第. 4号,94162ページ。 菅井益郎(1979b)「日本資本主義の公害問題(二)一四 大銅山鉱毒・煙害事件−」『社倉科学研究』第30巻,第 6号,75−150ページ。 関右馬允(1963)『日立鉱山煙害問題昔話 日鉱関係 忘. れ待ぬ人々』郷土ひたち文化研究会。 中澤稔・井原聡(1983)「日立鉱山煙害事件の技術史的再 考」『茨城大学教養学部紀要』第15号,69−87ページ。 常陸太田市編さん会編(1978)『常陸太田市史編さん資料. 第八号 常陸太田地方における日立鉱山煙害史料』常 陸太田市。. (函館校准教授). 41.

(15)

参照

関連したドキュメント

られてきている力:,その距離としての性質につ

・紫色に対するそれぞれの印象は、F「ミステリアス」が最も多い回答結果になり、両者ともに

問についてだが︑この間いに直接に答える前に確認しなけれ

これらの先行研究はアイデアスケッチを実施 する際の思考について着目しており,アイデア

児童について一緒に考えることが解決への糸口 になるのではないか。④保護者への対応も難し

これを逃れ得る者は一人もいない。受容する以 外にないのだが,われわれは皆一様に葛藤と苦 闘を繰り返す。このことについては,キュプ

緑の区間の河川改修が大幅に遅れた要因は,1986年に

地震の発生した午前 9 時 42 分以降に震源近傍の観測 点から順に津波の第一波と思われる長い周期の波が