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K.ヤスパースの交わりについて: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

山里, 将輝

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(13): 93-115

Issue Date

1996-03-01

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5811

(2)

K・ヤスパースの交わりについて

山里将輝 はじめに 交わりの意義 包括者と交わりの諸様式 実存的交わり 実存的交わりの可能性の制約 おわりに ●●●●●● IⅡⅢⅣVⅥ 1゜はじめに 、実存思想の源泉として、キルケゴールとニーチェがあげられることは周知の ことである。キルケゴールの思想史的意義はヘーゲルの概念的、体系的哲学に 対抗して合理的には説明できない人間の主体的自己としての自由な実存の創造 にある。キルケゴールにおける実存思想の問題点は人間を一般的存在として理 解するのではなく、したがって科学的、合理的に理解することを排除し、実存 を例外的存在として孤立化させ、神と対時する単独者としたことにある。そこ においては、神と単独者の関係が強調され、他の実存との人格的関係は二義的 問題である。したがって、キルケゴールにおいては、人格的共同体を形成する、 倫理的問題は課題として残されている。 これにたいし、20世紀の実存哲学を代表するヤスパースの哲学の特徴は、他 の実存との関係、すなわち交わりの問題を考察することによって著しく倫理的 性格を有する。ヤスパースは理`性の機能を再生させ、実存と結合することによっ て他者に関係することが可能となり、倫理的関係を通して人間としての全体性 を回復することを目標としている。 ヤスパースは、キルケゴールとニーチェによって提出された個別的実存の意 義を現代の課題として継承すると同時に、実存を人間の一般的、包括的存在と -93-

(3)

しての現存在、意識一般、精神といった、それぞれの領域と関連させ、より包 括的立場から実存哲学を考察している。すなわち、人間存在は交わりを通して、 あらゆる他者と関係し、より包括的な自己を獲得し、同時にそれを基盤としな がら、かつそれとの対決を通して独自な自己としての実存を創造することが可 能である。人間存在は一般者としての包括者と独自な実存としての全体性であ る。そのさい、実存の狭さを突破し、人間をより全体性へと関連させる指導的 原理が理性であり、具体的、方法論的には交わりの問題として展開される。 小論において、ヤスパース哲学の中心テーマであるところの、この交わりの 問題について考察する。 11.交わりの意義 ところで、キルケゴールにおいて自己の実現は神との関係をとおして成就さ れる。単に自己のみで自己実現を計ることは、絶望的な試みを意味している。 ヤスパースにおいても自己の実現は超越者との関係を必要とするが、同時に自 己実現は他の実存とともに遂行され、他の実存との交わりが必要である。「交わ りにおいて、私は他者とともに、自分に公明になる。(Offenbarwerden)この公

明になることは、私が自己として、はじめて現実的になることである。(Wirklichwer-den)註(1)したがって、「交わりに入ることなしには、私は自己とはなりえない ……。」註(2)このように、自己実現に関して、自己は他者を媒介して、自己を 認識し、自己の現実'性を獲得する。自己実現に関して、交わりの問題はヤスパー ス哲学の中心的課題である。 ヤスパースの「理`性と実存」によると、交わりの問題は、共同体との関連に おいて提出される。人間存在と共同体の関係は不可分であり、共同体の理念、 歴史、伝統、文化との交わりにおいて、はじめて人間は人間的存在となる。人 間と動物との比較において、彼は次のように指摘する。人間は単に生物学的な 遺伝によるだけでなく、むしろ人間の伝統文化を獲得することによって人間的 存在となる。人間は単に自然的、生物学的存在としては欠如的存在である。し たがって伝統と文化を不可欠とする存在である。伝統と文化は共同体において 保持され、一方において人間と共同体は不可分の関係にある。 -94-

(4)

共同体は伝達において、すなわち人と人との交わりにおいて成立し、維持さ れる。人間は交わりにおいて、共同体の伝統と文化を学習することによって人 間的存在となるから、交わりは人間にとって本質的な事柄である。このように 「……人間存在の普遍的条件としての交通が問題となる。」註(3)要するに、交 わりの問題は、第一に人間存在全体にとって人間となるための普遍的条件であ る。交わりを排除し、共同体の伝統と文化を獲得しない人間は、人間らしい生 き方が不可能である。 第二の問題として、交わりは現存在としての可能的実存が、実存としての現 実'性を獲得する空間である。「実存は、実存自身と他の実存にとってのみ現象で ある。それゆえ私の現存在は実存ではなく、人間は現存在において可能的実存 である。」註(4)現存在は可能的実存であり、他の可能的実存との交わりを欠き、 孤立して存在する場合は単なる可能性にとどまる。例えば、人間が社会や人間 関係から孤立すると、人間的生き方が喪失するように、可能的実存が実存とし ての現実性を獲得するには、他の実存との交わりが不可欠である。可能的実存 は他の可能的実存との交わりにおいて、他者を独自なかけがえのない人格とし て見い出すと同時に、自己を独自なかけがえのない人格的存在として見い出す。 このように、人間存在一般が社会的存在として、人間関係の中に存在し、交 わりと本質的関係にあるように、実存と交わりは本質的関係にある。 第三の問題は、ヤスパースにおいては真理と交わりは不可分の関係にある。 人間存在が本質的に交わり的存在であるように、真理は本質的に交わりの中に ある。というのは、真理は人間存在によって探求され、伝達されることを欲し ている。真理は、人間存在から孤立し単独で存在することは不可能である。た とえ単独で存在しても、探求を拒絶し、孤立して伝達不可能な真理は人間存在 にとって無関係なものにとどまり、したがって無意味なものとなる。それゆえ 真理が人間存在に意義を有するためには、その真理が伝達可能かどうかにその 試金石がある。「交わりにおいて実現されないものは、未だ存在しないものであ り、究極において交わりに基礎をもたないものは充分な根拠をもたないもので ある。真理は二人から始まる。」註(5)「それゆえ真理は伝達可能`性と引き離さ れない。伝達による現実性としてのみ真理は時間的現存在において現われる。 -95-

(5)

もし我々が真理を伝達から引き離すならば、真理は硬直して無本質的となる。」 註(6) 真理とは、本質的に伝達可能性にあり、したがって交わりにおいて現実性を 獲得する。人間存在は交わりにおいて真理を共に探究し、探究された真理は 交わりにおいて他の人々に伝達されることによって保持ざれ護られる。そして 人々は交わりにおいて連帯して真理を探究することによって共同体を形成し、 共同体は共通の真理によって結ばれ、人々を連帯させ、統一する。このように ヤスパースにおいては、真理とは交わりの真理として、すべての人々に開かれ たものであり、それによって相互理解を可能にする条件である。 以上のように、交わりの意義は人間が共同体存在として人間的となることの

普遍的条件であり、実存にとっては可能的実存が現実'性を獲得するための条件

であり、また真理は交わりによって人々を結合させ、共同体を形成する。した

がって、交わりの問題は人間存在にとって、かつ哲学することにおいても本質

的な事柄である。 ヤスパースの哲学は交わりの問題を考察することにおいて、実存の狭さや、 独我論を克服し、また真理を交わりの真理とすることによって独断的な真理を 克服することを課題としている。

111.包括者と交わりの諸様式

ヤスパースの哲学は、本来的自己としての実存の実現をめざすものではある

が、その実存となる可能性を本来的存在との関連において基礎づけようとする。

このような本来的存在とは、真の存在、究極的存在として伝統的哲学において

は形而上学の対象として存在する。カント以前の伝統的、合理主義的形而上学

は、存在の原理から出発し、演鐸によって存在の全体を完結した体系として確

立している。

このような合理主義的、古典的形而上学をカントは独断論的形而上学として

批判した。彼は、人間の認識能力は有限的であり、このような伝統的形而上学

は人間の認識能力を越えるものを対象とし、独断的な主張を展開している、と

批判した。 -96-

(6)

ヤスパースはカントのこのような認識論の立場を継承している。ヤスパース によると、人間は常に状況の中で、限られた地平線の中で生きるところの限界 を存する有限的存在である。それゆえ人間の思'畦や認識には、おのずから限界 がある。人間は有限者であるから、神のごとく存在の全体を展望することので きる究極的立場を獲得することは不可能である。したがって、存在の全体を把 握しようとする全体知としての完結した体系的形而上学は、人間の有限性とい う限界に直面して挫折せざるをえないのである。存在全体を全体知として人間 が認識できるものではないという、この限界意識から次のようなことが指示さ れる。すなわち、存在の全体は、むしろ無限に開かれている、ということであ る。 このように指示されたものが包括者に他ならない。すなわち、包括者とは、 無限に開かれている存在である。包括者は無限なる存在であり、存在そのもの としての全体者であり-なる存在である。包括者は無限なる存在であるから、 有限的存在である人間が対象的、直接的に認識することは不可能である。包括 者は常に包括者の諸様式において人間存在に名乗り出るにすぎない。「包括者は それ自身では現われずに、かえってそれにおいて、我々に対してすべての他者 が現われるところのものである。」註(7) 包括者の諸様式とは、包括者の構造である。我々が-なる包括者を対象的に 把握しようとすると、包括者は包括者の諸様式に分裂して現象する。ヤスパー スは包括者の諸様式をもって哲学的基本操作(DiephilosophischeGrundoper‐ tion)とし、彼の哲学を遂行する。哲学的基本操作とは、ヤスパースにおける哲 学の方法論の基礎づけであり、別名体系的方法(systematik)とも言われ、体系 (system)とは区別される。 体系が範囑において、必然的に展開されるのに対し、包括者の諸様式として の体系的方法は、包括者のある様式のもつ限界と、それに対する不満から次の 様式へと飛躍する。この飛躍は、演鐸的、必然的ではなく、実存的な自由な飛 躍であり、究極的には超越者をめざすものである。このような飛躍は、ヘーゲ ルに対抗しているキルケゴール的な、実存的決断に基づく質的弁証法に類似す る。体系的方法の基本的意図は、客観的認識をめざすのではなく、内的行為に -97-

(7)

よる意識の変革をめざし、それによって自由な実存と超越者の保証をめざすの である。意識の変革と内的行為によって、世界の中において超越者の暗号を解 読することがヤスパースの形而上学の課題である。このように、ヤスパースの 形而上学は実存と超越者の関係において成立している。 ところで、現象において包括者を把握しようとすると、包括者は主観と客観 の分裂において名乗り出る。我々であるところの主観としての包括者は現存在、 意識一般、精神として三つの段階に分類される。客観としての包括者は世界と 超越者である。さらに包括者の諸様式の地盤(Boden)であり、かつそれらに生命 を与えるものとしての実存がある。また、実存と相伴なって分裂した諸様式を 結合し、再統一し、-なる包括者をめざす役割を担うところの理性が存在する。 ヤスパースの包括者論は理』性と実存が結合し、本来的存在としての超越者をめ ざすところにその特性がある。 次に包括者の諸様式に基づいて交わりの諸様式が分類され、この交わりの諸 様式とともに、真理の'性格と意義が規定される。交わりの諸様式と真理の性格 は次のように展開することができる。 (a)現存在と交わり さしあたって自己は現存在として存在する。自己は現存在として身体という 具体的存在をもって現実'性をえる。現存在が存在することによって、あらゆる 存在が現実的存在として、その存在`性をえる。あらゆる存在者は、現存在が消 滅すると、その現実性を失う。したがって、現存在は包括的な現実的意義を有 する。現存在は生命を有し、死によって消滅する。現存在は生命維持のため、 本能と意志でもって欲求を実現する。「このような我々の現存在は無限に維持さ れ、拡大されることを欲し、このことによって満足と幸福を得ようとする。こ の目的を達成するために、現存在の包括者は、現存在を維持する共同体の交わ りを強要する。」註(9) 現存在は各人の窮迫(Not)によって、利益を同じくする他者と団結して共同体 を形成する。このような共同体は白からの利益に反する自然や、敵対する他の 共同体に対し、白からを防衛する。したがって現存在においては、生命と共同 体の維持のための闘争は避けられない。現存在的共同体の利益や幸福は、大衆 -98-

(8)

や権威者の体験に基づいて統一的に決定され権威となる。この権威のもとに現 存在的交わりは遂行され、権威に従順であることによって、共同体は統一ざれ 維持される。このような共同体においては、権威のある他者の行動や大衆の行 動の基準が規範とされる。現存在的共同体を構成する構成因子は大衆であり、 そこにおける行動形態は人が振る舞うように、振る舞うという世間体の行為で ある。したがって、独自な自己は存在せず、自己喪失が遂行される。 このような現存在的交わりの様式にしたがって、真理の性格も次のように規 定される。現存在は生命を維持し、拡大することを欲するから、現存在は生活 経験を重視し、生活に適応できる経験的、実用的知識を追求する。すなわち、 現存在の求める真理は生活に対して有効性のある実用主義的な真理である。実 用主義(Pragmatismus)における真理の性格は、絶えず状況とともに変化する相 対的なものである。というのは、我々の生活様式は時代とともに、地域ととも に変化するからである。 (b)意識一般と交わり あらゆる存在者は意識を媒介して体験可能となり、体験を通して我々にとっ て現実的存在となる。意識には、個々の体験に基づくところの個人的意識と意 識一般としての包括的な意識がある。個人的、体験的意識は特殊的、個別的、 偶然的なものであるから、包括的意識ではない。これに対し、意識一般とは、 科学的、客観的な認識を遂行する際の認識の主観であり、あらゆる存在者は認 識される対象としての客観となる。したがって、意識一般においては、あらゆ る存在者が対象的存在となるために、意識一般は包括者の一様式である。意識 一般においては、認識される対象が客観的存在として理解されることによって 客観的認識が成立し、科学的知識が獲得される。 このような意識一般における真理の'性格は、客観性をもった居'性的、科学的 認識における普遍妥当的な知識である。 また、意識一般における交わりは、諸学会においてみられるように、共通の 研究課題に関する研究者の意見の交換の場である。このような場においては、 交わりは、ある学問的テーマに関して意見を悟`性的概念および論理的範曉によっ て遂行される。「このような共同体は非人格的であり、そこにおいては各自の白 -99-

(9)

我はその形式的な独立性にもかかわらず、他の自我によって原則的に代理され うるし、あらゆる自我の点(Ichpunkt)は交換されうる。」註。(10 (c)精神と交わり

ところで、自己とは思惟、行為、感I清等の全体性である。そして精神とは、

人間としてのこのような全体的な自己理解であり、自己実現をめざすところの 包括者の一様式である。「我々は、現存在として、また精神として、包括的な現 実性である。」註⑪現存在が生物学的、心理学的な対象として認識可能である のに対し、精神は内面から自己を理解すると同時に、自己生産であるところの 実践的な活動でもある。 すなわち、精神は全体者を思`准し、かつ指導するものである。全体者は対象 として存在するものではなく、したがって科学的には認識されない、つまり理 念として存在し、自己を実現する運動である。精神において、各人は全体者と しての共同体の理念に基づいて自己を実現する。個人の存在の意義は、全体者 から与えられ、この自覚をもって各個人は自己を共同体を構成する有機体の一 員として、各人と交わる。 したがって、精神における交わりは、全体者としての理念の制約のもとに遂 行される。精神における真理の'性格は、「精神を媒体として、理念によって保 証された確信が主張される。」註(12)また、精神は共同体の歴史的総体'性に属す るものを真理として承認する。 これまでのべたように、主観として我々であるところの包括者の様式は、現 存在、意識一般、精神という、一連の段階をもって現象する。これらの主観と しての包括者に対応して、客観としてあるところの包括者の様式は、世界(Welt) である。 (。)世界 人間的意識を離れた、世界それ自体としての即自的存在は我々にとっては不 可知である。世界が我々の意識にとって現象し、経験可能となったとき、世界 は認識の対象となる。世界は、我々であるところの主観としての包括者に対応 して、現存在に対しては生活環境として、意識一般に対しては普遍妥当的な知 の成立する場(学問的世界)として、精神に対しては理念の実現の場所として -100-

(10)

理解される。 ところで、現存在、意識一般、精神、世界等の包括者は、世界内のあるもの として我々の意識に与えられており、経験可能な現実として内在的(immanent) な包括者である。内在的包括者において、自己は本来的自己や、本来的交わり を体験していない、という不満を体験する。このような不満は、本来的なあり 方からくる現実に対する不満を意味している。すなわちこのような不満の体験 は、それらのことが自己にとっては本来的なあり方ではないことを意味してい る。ヤスパース哲学の特性は、この不満の体験を導きの糸にしながら、本来的 あり方の可能`性を探求することにある。 すなわち、「不満は可能的実存の存在を示す表現である」註03)自己が単に、 現実的、経験的自己にとどまり、それに限定されることに対する不満の体験か ら、自己が現実的、経験的自己以上のものでありうる可能性を意味している。 換言すると、自己は世界内の存在者(経験的、現実的自己)から超越しえる、 という可能性を意味する。現実の経験的自己は、自己の全体からみるとその一 部分にすぎず、したがって自己は現に知られている存在以上のものである、と いえる。 確かに自己は経験的な、現実的自己に限定されることに対して不満である。 ヤスパースによると、科学的認識における経験的自己は、世界内の事物的存在 のレベルに還元され、自然法則によって支配され、したがって自由の喪失を意 味する。このような不満の体験を通して、自己は内在的な世界を突破し、本来 的なあり方へと超越する。 (e)実存と理`性 さきにのべたように、我々は本来的自己を未だ実現していないという意識の 体験を通して、本来的自己に目覚める。ところで、自己存在の全体性は可能性 としてあり、現実の自己はその全体の一部分である。自己が自己を現実の自己 のみに限定することは自己の他の可能性を喪失することに他ならない。したがっ て、自己には経験的自己以外に可能性として本来的自己が存在しえる。このこ とが、本来的自己としての実存の可能性の根拠である。 ヤスパースにおいて、実存とは経験的な内在性から自由であるところの超越 -101-

(11)

的性格を有する、独自な本来的存在である。したがって、実存は科学的に認識 することのできない存在である。それゆえ、実存について思惟することは実存 開明(Existenzerhellung)として遂行される。実存開明における実存についての 思惟は、現実の実存そのものではなく、実存の可能J性を恩`唯することである。 これがヤスパースの基本的、方法論的態度である。 ところで、恩I准は言葉を媒介して成立する。実存開明もまた言葉を媒介とし て成立する。実存開明は言葉の有する一般的意味と同時に一般的なものに解消 することのできない実存としての独自な意味を探求する。したがって、実存開 明は一般'性と独自性という二つの性格を有しなければ不成功に終る。註(10「実 存が白から示す場であるところの一般的なものに対する実存の関係を注視する ことが実存開明である。」註(15)「実存開明は、実存を認識することではなく、 実存の諸々の可能性に訴えるものである。」註(16) 実存開明は、一般的な意味を有する言葉を媒介しながら、可能的実存へ訴え、 実存することへと目醒めさせる信号の役割を担わなければならない。このよう な'性格を有することによって、実存開明は成功する。実存は一般的なものとの 緊張関係、および対決を通して決して一般的なるものへ解消することのできな い存在として自己を自覚する。一般的なるものとの対決を欠いた実存は、空虚 である。 次に、ヤスパースにおける実存の特'性を指摘する。 ①「人間は現存在において可能的実存である。」註(17)これは、現存在が可 能性として実存を担っていることを意味する。 ②「実存は他の実存と、超越者とに関係している場合のみ存在する。」註(10 実存は、単独では空虚な可能性にとどまる。他の実存や超越者との出会いにお いて、その内容や意味を充実することができ、それによって現実性を獲得する ことができる。既述のように、キルケゴールは彼の著書i死に至る病』におい て、単独で実存を実現しようとする絶望的試みについて述べている。キルケゴー ルにおける実存は、神との直接的関係によって自己を実現する、そのさい他の 実存との関係は中心的なテーマとして考察の対象からは除かれている。これに 対し、ヤスパースにおいては他の実存との関係(交わり)が重要な課題であり、 -102-

(12)

濃厚に倫理的色彩を有する。 また、実存の根拠はヤスパースにおいては超越者であり、実存の独自性は超 越者からの贈りものである。同時に、実存にとってのみ超越者は顕現する。す なわち、「まず、実存を意識一般と対照してみると、実存は私のうちにおける隠 れた根拠一一この私の根拠において超越者は現れるのであるが・・……・実存がな ければ超越者の意味も喪失する」註09)「私は、自分が超越者の前に立ってい ることを知っている、という理由によって私が独自的なものであることを理解 する。」註(201「実存は自己自身へと関係し、そうすることにおいて超越者に関 係するところの自己存在である。それは超越者によって、自己が贈与されたこ とを知り、超越者に基礎づけるのである。」註(2, ③実存は一回かぎりの、かけがえのない歴史性として時間のうちに現象す る。しかし実存は自己を永遠’性として、把握する。 ④実存は理性を必要とする。 ヤスパースにおける実存の独自性は、この理性と実存の結合にある。彼は『理 性と実存』において、理川性の性格を次のようにのべている。「実存には、各様式 の包括者の連関を目的とする或る他のものが不可分離的に結合されている。こ のものは決して新しい全体者ではなくして、不断の要求と進行である。それは 別に加えられたもう一つの包括者の様式でなくして、各様式の包括者を結合す る結合帯である。それは理性と呼ばれる。」註(22) ヤスパースの理'性概念は、実存と不可分に結合した理'性である。このような 理'性は、科学的認識で活動するところの明蜥な思惟としての'悟性とも異なり、 また理念として全体を指導するドイツ観念論における精神とも異なる。理性は あらゆる限界を踏み越え、単に理性的にとどまることなく、反理'性的なものに さえ働きかけ、存在たらしめようとする。註(23) 理性は、あらゆるものを結合し、統一を実現すると、より高次の統一をめざ して実存とともに突破する。さきにのべた包括者の諸様式も、それ自体のうち に限界を有し、それ自身のみでは存在することは不可能である。したがって、 一つの包括者を絶対的存在とみなしたり、それぞれの包括者に基づくところの 真理を絶対化することは不可能である。これらの包括者は単に孤立して存在す -103-

(13)

ることは不可能であるから、相互に結合せざるをえない。この結合を可能にす るものが理性に他ならない。理性は、すべての包括者と交わり、包括者を相互 に結合する結合帯(Band)である。いつぽう、実存はあらゆる包括者に生命を与 える。究極的に、理性と実存は相伴なって、あらゆる包括者を結合させ、統一 することによって超越者をめざす。 ヤスパースは理性と実存の関係を次のようにのべている。「実存は理性によっ てのみ明白になり、理性は実存によってのみ内容を得る。」註(20「内容のない 理性は単なる'悟性であり、理性として無基盤的であるだろう。直観のない`悟』性 概念が空虚であるように、実存のない理'性は空洞である。理性は単なる理性と して存在せず、可能的実存の行為として存在する。」註(2,以上のことは、もち ろんカントの『純粋理性批判』を前提に、のべられており、このことはヤスパー スにおいては、さしずめ「実存理'性批判』とでも呼ばれよう。 さきにのべたように、理性と実存の究極的な目標は超越者である。「理性を頼 りとする実存は、理性に照らされてはじめて不安静を知り、超越者の要求を知 るのである。したがって実存は理性の問に刺激せられて、はじめて自己の本来 的活動を起すわけである。理'性がなければ実存は無為であり、眠っており、在 らざるがごとくである。」註(20実存は理性の刺激によって目醒める。理性を欠 いた実存は盲目的狂信であり、また理性を欠如したところに真の超越者はあり えない。 あらゆる限界を突破してゆく理性と実存は究極的に自己の限界にぶつかる。 そこにおいて、はじめて超越者の存在を確信する。というのは、限界は自己が 設定したものではなくむしろ他者(超越者)によるものである。自己の限界を 知ることは、他者の存在を知ることである。自己は自己の限界状況において挫 折し、そこにおいて超越者の存在を確認する。限界状況とは、人間が越えるこ とのできない状況であり、このような状況は人間が白から設定したものではな く他者が設定したものである。限界状況を体験することによって、自己は自己 の有限'性を自覚し、超越者の存在を確認する。「どのようにして、実存がその超 越者に坐礁するかということは、理'性によって明らかになる。理』性が、理性自 身のうちにおいて、あらゆる存在を見透す方向へ向かって進むのは、それIこよっ -104-

(14)

て、まったく見透すことのできぬものにぶつかることを経験するためである。 ところでこのようなものは、かかるものとして最も明蜥な理性にとってのみ本 当に知られる。」註(27) このように、理性と実存の限界において、超越者が顕現する。このことがヤ スパース哲学の立場を有神論として位置づける根拠となる。すなわち、ヤスパー スは、人間存在の有限性の問題を限界状況において展開し、限界状況の体験を 通して超越者の存在を指示する哲学的な構成の仕方をとっている。このことは、 カント哲学において、理論理性の有限'性を主張することにおいて、信仰の領域 が確保されたことに類似している。 ところで、ヤスパースの実存哲学は実存と理'性を結合することによって、実 存主義的な狭義な主観主義と単なる非理性主義を越える立場である。主観主義 や非合理主義は交わりにおいて克服されるべき課題である。「交わりにおいて、 理`性的根源というこの全然客観化されないもの、どんな論証のうちにも直接に 引き入れられないものが疑うべくもなく顕わである場合に、はじめてその交わ りは根源的であり無制約的である。それは真理存在そのものであり、全体的な 交わりの意志である。」註(28) このように、ヤスパースにおける理性は、交わりへの意志であることが明ら かになった。このような交わりへの意志がなければ、全体的な交わりは遂行不

可能である。したがって、理性は全体的な交わりの可能性の制約(Bedingung条

件)である。理性がなければ、交わりは喪失する。実存は理`性と結合すること によって、単なる主観性を突破し、客観的なるものと交わることが可能となる。 一般的なるもの、客観的なるものとの交わりにおいて、実存は主観・客観とい う両極'性における緊張(Spannung)において、自己を独自なるものとして公明に する。実存は一般的なるものと交わることにおいて、自己の独自性を明確化す ることが可能となる。 したがって、全体的な自己実現をめざす実存は、理性と結合し、あらゆる包 括者と交わり、その限界を突破しながら真の存在としての超越者に出会うこと が可能となる。そのさい、理'性は実存と他者との交わりを可能にする条件であ り、運動である。 -105-

(15)

1V・実存的交わり すでにのべたように、現存在、意識一般、精神といった内在的包括者におけ る交わりに対する不満は、可能的実存としての本来的自己を意識している立場 から生じた不満である。この不満という現象を通して、自己は本来的交わりへ とめざす。ヤスパースにおいて、本来的交わりとは実存的交わり(existentille Kommunikation)に他ならない。 (a)孤独と結合 実存的交わりの予備的段階として、自己は孤独(Einsamkeit)を必要とする。孤 独を意識することなく、単に世間的な人(dasman)として、大衆(Masse)として 行為することは、本来的自己を喪失した人である。孤独を意識することは、大 衆や世間に身をゆだねたり、埋没することのできない自己というものを意識す る。したがって、自己は孤独をとおして自己自身に曰醒める。この場合におけ る孤独とは、大衆や世間から距離を保つことであり、実存へと迫るところの刺 激である。実存とは、本来的な自己存在であり、大衆や一般者なるものとの対 決を通して獲得される独自な自己存在である。この意味において、大衆や一般 者は実存にとって積極的な意味をもつことになる。すなわち、自己実現とは、 自己以外の他者との関係によって実現され、あるいは他者の媒介を必要とする。 ところで、実存的交わりは、実存の予備的段階として孤独を必要とする。し かし孤独そのものは、まだ実存とはいえない。「というのは、孤独は交わりのう ちでのみ現実となるところの可能的実存の準備意識であるからである。」註(29)「交 わりに入ることなくして自分自身になることはできない。孤独であることなく して、交わりに入ることはできない。」註(30 実存的交わりは、かくして二人の単独者間に成立する。両者は交わりにおい て相互に結ばれている。しかし、両者の関係はあくまでも二人の単独者でなけ ればならない。すなわち、我と汝という独立した主体において成立する。仮に、 一方が他方に没我的に従属する関係になると、実存的交わりは喪失する。とい うのは、相互の主体」性、人格'性が喪失するからである。したがって、実存的交 わりには常に孤独が存在することになる。「なぜなら、この孤独は交わりの制約 としての私自身がなくならないかぎりは、消滅することがないからである。」註 -106-

(16)

(3D (b)公明になること 自己存在には、本来的自己としての可能性が贈与されており、このような自 己を公明にすることによって自己実現は達成される。ところで平均人としてふ るまう大衆や世間的自己においては、本来的自己は公明ではなく、謎として隠 されている。本来的自己としての実存は、恩'准においては単なる可能性にとど まるが、それが現実性を獲得するには実存的交わりを必要とする。実存的交わ りにおいては、本来的自己が公明になり、それによって現実性を獲得する場(空 間)である。「交わりにおいて、私は私に対して、他者とともに公明になる。こ の公明になることは同時に自己が自己として、初めて現実化することである。」 註02)公明になること、すなわち公明化は、他者とともに、あたかも無から自 己を創造するかのようである。公明化は、現存在としての心理学的、経験的な 素材を必要としながらも、それにとどまることなく、それとの対決を通して独 自な自己の創造である。 したがって、公明化は現存在としての内在性からの超越である。自己は、経 験的自己として限定された現存在から超越し、自由となったとき本来的自己を 創造する。本来的自己とは、超越的存在であり、自由な決断を通して獲得され る。 公明化の根源としての公明性への意志(WillzurOffenbarheit)があり、それ には次のような性質が属する。それは、内在的、現実的なるものを徹底的に明 蜥に把握し、内在的なるものを変革する自由と、内在的なるものの限界から本 来的なるものをめざして超越する、という'性質である。「このように公明性への 意志は、交わりのうちでのみ実現されるのであるから、この意志は交わりのう ちで徹底的に自己を敢行する。」註(33) また、「公明,性への意志は、すべてのSosein(相在、かくある存在)をあえて 放棄する。なぜなら、そうすることにおいて自己の実存が、はじめて自己のも のとなることが知られるからである。」註(30つまり、Soseinは、存在のありか たの一般的な規定であるから、本来的なるものとしての独自な実存と自由を見 失なわせるからである。 -107-

(17)

このような公明性への意志に対抗するものが、閉鎖性への意志(WillzurVersch lossenheit)である。閉鎖性への意志は地上的なるもの、経験的なるものへ固執し、 要するに内在的なるものを固定化し、絶対化しようとする意志である。 このように、閉鎖性への意志はSoseinを絶対化し、経験的な現存在を唯一の 存在として絶対化し、それによって本来的存在を見失わせ、喪失せしめるもの として悪である。閉鎖性への意志は、経験的自己に固執し、自閉的である。そ れはあたかも、キルケゴールが「死に至る病』において分析しているように、 本来的存在としての神を排除し、自己のみで自己実現を試みようとする、強'情 としての絶望の形態に相当する。 公明性への意志においては、Soseinをあえて放棄することによって、自己は 自由であり、この自由にもとづいて自己自身を選択し、決断することによって 本来的自己は獲得される。しかし、それは自己自身だけで実現されるのではな く、他の実存に心をひらくことによって、すなわち交わりによって実現される のである。 に)愛しながらの闘争 実存的交わりは実存の獲得をめざし、自己の実存と他の実存のために愛しな がらの闘争(derlibendeKampf)において遂行される。「交わりにおける公明`性 の過程は闘いが同時に愛でもあるような、そのような独特な闘争である。」註(35) 実存を賭けての闘争は、現存在における闘争とは根本的に異なる。「現存在の闘 争においては、あらゆる武器の利用が必要とされ、狡知と詐欺が避けられず.….…. 他者を敵として態度をとることが避けられない。これに対し、実存のための闘 争は、そこにおいては全く異なったものが問題である。すなわち徹底的な公明 '性、あらゆる権力と優越の排除、他人の自己と自分の自己を同等に扱うこと。 これが問題となる。このような闘争において闘う両者は、ためらわずに自己を 示し、かつ問わしめる。」註00愛しながらの闘争においては、実存の獲得をめ ざし、自己と同じく他者をも徹底的に公明にしようと欲する。したがって、こ のような目標のため、「交わりの闘争においては、比較にできぬほどの連帯`性 (Solidaritat)が存する。」註(37)また、このような連帯性にもとづいて徹底的な 公明化が可能となる。この連帯'性は、交わりを実存的交わりに限定し、共通の -108-

(18)

目的としての公明化をめざすから、最も親密な関係を成立させる。自己はこの

連帯性と信頼に基づいて、他者と自己の実存の可能性を承認し、共通の真理の

獲得をめざす。

ところで、愛しながらの闘争は、同等の水準において遂行されねばならない。

闘争における勝利や優越は対等な関係を喪失させ、徹底的な公明化を停止させ

るからである。すなわち、愛しながらの闘争は、公明化をめざして無限に続け

なければならないJ性格を有する。

実存的交わりは、自己と他の自己が、それぞれが主体的で自由であるときに

成立し、本質的に愛しながらの闘争における自己存在の公明化である。公明化

とは、自己自身を自己として明確なものにすることに他ならない。すなわち、

可能的自己を現実的自己にすることである。

しかし何故に実存の実現のためには、愛しながらの闘争が必要であるのかが

問題となる。このような問に対し、ヤスパースは次のように主張する。すなわ

ち、自己が自己自身の公明化のために闘争を必要とするのは、人間の有限性に

基づいている、ということである。人間は自己のみでは自己実現ができず、他

の存在と関係し、それを必要とすることにおいて人間の限界があり、そのこと

が人間存在の有限'性である。すなわち、人間は自己のみでは存在できない限界

をもった有限的存在である。このような人間の有限性は、限界状況の体験を通

して自覚され、このような状況を設定したところの本来的な存在に出会う可能

性が残されている。すなわち、「存在の確信は公明化のための闘争からのみ生れ

る、ということが現存在としての実存にとっての限界状況である。」註GI)また、

「限界状況を経験することは、実存することと同じである。」註09)

この意味において、愛しながらの闘争は限界状況の体験であり、この闘争を

通して自己は公明化され、実存することになる。すなわち、自己と他者が、“我

と汝,,というかけがえのない独自な人格として公明化され、実存することにな

る。

実存における真理の意義は次のとおりである。

まず、「実存としての自己は真理を信仰において経験する。」註Ⅲこのよう

にヤスパースにおいても、キルケゴールと同じく、実存にとっての真理は自己

-109-

(19)

がそれによって生きるところの主体的真理としての信仰である。ヤスパースの

「哲学』第2巻によると、信仰とは現象における存在の確信である。理念およ

び実存の信仰に基づいて超越者への信仰が生じる。註仙信仰とは、本来的存

在としての超越者と本来的存在としての実存の確信である。

信仰には次のような`性格が指摘される。「信仰とは冒険である。全体として客

観的なるものの不確実`性が、真実の信仰の基礎である。」註02)つまり、合理的に

証明されえるものは信仰の必要'性を要しない。信仰は合理`性と客観性の限界を

超えた最も根元的存在の確信である。そこにおいて、実存が超越者との関係に

おいて自己の根源を知るようになる。「信仰は、砕かれることのない希望として

の信頼である。このような信仰においてのみ、存在の根拠への信頼として、現

象におけるあらゆるものについての不確実性が消える。信仰による存在の確信

は、自からの超越者に面することを知る。」註03)

世界内における現存在から実存への超越において、超越者が確信される。そ

して、実存は再び全体としての現実的世界へと還帰する。そこにおいて、「私は

今や全体の中に存在すると同時に、それの外に存在する。」註Ⅲこのように、

ヤスパースにおいては、本来的存在としての超越者の信仰は世界を放棄するこ

とではなく、実存が現実世界を通して超越者の暗号を解読することである。

V・実存的交わりの可能性の制約(条件)

実存的交わりは、本来的交わりとして本来的自己の実現をめざすことを課題

としている。次に、このような交わりを可能にする条件(Bedingung)について考

察する。 (a)理`性

前にのべたように、理性とは全体的交わりへの意志である。理,性がなければ

交わりは不可能であり成立しない。したがって、理性は実存的交わりの可能性

の条件である。 (b)現存在的交わり

ヤスパースは、彼の『哲学』第2巻において、現存在的交わりや意識一般に

おける交わり、精神における交わりを内在的交わりとし、これらを総括して現

-110-

(20)

存在的交わりと規定し、本来的交わりとしての実存的交わりと区別している。

自己は現存在的交わりに対する不満から実存的交わりへと迫る。実存的交わり

は、直接的にそれ自身でのみ存在することは不可能である。すなわち、実存的

交わりは、現存在的交わりを媒介しながら自己自身の本来性をめざして超越す

る。現存在的交わりは、実存的交わりが現実'性を獲得するための、現実的な基

盤に相当する、したがって実存的交わりの可能性の制約である。

(c)愛

愛とは、実存の根源であり、実存の存在に先行する。「しかし、先行する実体

は単独者に対する理由なき愛である。」註05)単独者に対する愛がなければ、自

己は実存を獲得しようとする意志が湧きおこることがない、したがって実存的

交わりを欲することもない。「けれども、愛はまだ交わりではなく、交わりを通

して証明されるところの交わりの根源である。」註㈹「愛は視力鮮明である。

愛の前には、存在するものが明白であろうとする。」註Q7)「愛は公明'性を求め

る根源的な知識欲の内に存する。」註Ⅲしたがって、愛は理性と同じく実存的

交わりの可能性の制約である。

ところで、「愛のうちには、絶対的な信頼が存する。」註09)実存的交わりに

おける独自な連帯性は、共に真理の探究であり、愛しながらの闘争における相

互の公明化の達成である。実存的連帯性は、このような相互の絶対的信頼に基

づいて成立する、すなわち本来的自己の実現をめざすところの単独者に対する

無条件の愛である。

愛は、実存的交わりを可能にし、かつ実存を可能にするものである。愛は、

実存的交わりの源泉であり、実存の根源である。したがって、愛は実存的交わ

りの制約の中でも、最も根源的な制約である。

さきに、実存の真理は信仰である、とのべた。実存の真理と愛の関係は次の

とおりである。「信仰は明確に意識されたものとしての愛の存在確認である。」

註60愛がなければ、存在は無意味なものとなる。愛によって存在は庇護され、

確信され、充実する。このように、信仰の根源も愛である。

ヤスパースにおいて、愛は充実した絶対意識の一つである。絶対的意識とは、

実存の存在を確信する意識であり、かつ実存を待ち望む態度としての意識であ

-111-

(21)

る。したがって、絶対的意識の一つとして愛は、実存と実存的交わりの可能性

の制約である。絶対的意識は内的行為において意識され、それは自己に対し、

自由なるもの、超越者なるものを指示している。

すなわち、絶対的意識は超越者の存在を指示する。したがって、絶対的意識

は、内在的なもので根拠づける、ということはできない。愛を根拠づけるもの

は超越者のみである。実存と実存的交わりの根源は愛であり、愛の根拠は超越

者にある。 V1.おわりに

我々は、ヤスパース哲学における交わりの問題を通して、実存の可能性と真

理の性格について考察した。交わりの問題は、ヤスパース哲学の中心テーマで

あると同時に現代の哲学の中心的テーマともいえる。哲学の課題の一つは、本

来的自己の実現であるが、それは現実的自己とそれをとりまく現実的世界と関

係しながら、かつこれらの限界を超越し、本来的自己と本来的存在との出会い

が必要である。また、本来的人間関係としての実存的交わりが必要である。要

するに、自己実現は、自己と他者との本来的人間関係を通して達成される。こ

れはヤスパースにおいては、実存と実存との愛しながらの闘争に他ならない。

自己実現の問題に関して、ヤスパース哲学は本来的な人間関係を重視すること

において、また他者を人格的主体として尊重することにおいて倫理的性格を有

するものであり、このことによって、他の実存思想においてみられるような実

存の狭さを克服している。

また、交わりにおいて成立する真理の'性格は、唯一の絶対的な真理や独断的

な真理の主張を排除する。ヤスパースの真理は、人と人を結合させ、交わりを

成立させる交わりの真理である。このように、ヤスパース哲学において、人間

存在は本質的に交わりにおいて存在し、真理も交わりのうちに存在する。

ところで、現代の社会は多様な文化と価値観において成立し、独断的なイデ

オロギーや唯一の絶対的な世界観や価値観でもって世界を認識したり、統治し

たりすることは不可能な時代である。一方において、現代の社会は、政治的、

経済的、文化的にも世界的な規模で人々が交流し、より相互理解が必要とされ

-112-

(22)

ろ時代である。このような状況において、価値観の異なる人々が、どのような 態度でもって、相互理解をするかが重要な問題となる。自己の価値観を絶対化 して、他者を支配したり、あるいは他者を排除することや、孤立して自己の世 界に白閉的にとどまり、他者との交流を欠如することは不可能な状況である。 というのは、自己実現の問題は、他者との本来的な関係においてのみ実現され るからである。 現代は、個人的領域においても、世界的な規模においても相互理解がより重 要な時代であり、本来的な人間関係がより求められている時代である。このよ うな状況において、ヤスパースの交わりの思想は重要な意義を有するといえる。 〔註〕 l)KJaspers:PhilosophieExistenzerhellung,Springer-Verlagl956S64. (以下、Philosophieと略表記) 2)EbdS6L 3)ヤスパース,ヤスパース選集29.草薙正夫訳『理'性と実存』理想社1986年. P98.(以下『理性と実存」と略表記) 4)Philosophie.S2. 5)KJaspers:EinfiirungindiePhilosophie,S119.SammlungPiper 6)『理'性と実存jP98.~99. 7)KJaspers:Existenzphilosophie,Sl4WalterdeGryter&CO、Berlin 1964. 8)Ebd 9)『理`性と実存」P100. 10)Philosophie.S52. 11)「理`性と実存』P、66. 12)「理性と実存』P、104. 13)Philosophie.S6. 14)EbdS15、 15)EbdSl6 -113-

(23)

『理'性と実存jP88 PhilosophieS2 Ebd. 『理性と実存』P、71. 『理』性と実存』P、74. K.Jaspers:Existenzphilosophie,S17. 『理性と実存』P、76. 「理性と実存jR77. 『理」性と実存』P、80. 『理'性と実存』P、80.~81. 『理性と実存』P、81. 『理'性と実存』P、118. 『理性と実存』P,118. Philosophie、S61 Ebd Ebd Ebd、S64 Ebd EbdS64 EbdS65・ Ebd Ebd EbdS243、 EbdS、204. K.Jaspers:Existenzphilosophie,S32. Philosophie.S279~280. EbdS281・ Ebd. 「理'性と実存』P、120. 16) 17) 18) 19) 20) 21) 22) 23) 24) 25) 26) 27) 28) 29) 30) 31) 32) 33) 34) 35) 36) 37) 38) 39) 40) 41) 42) 43) 44) -114-

(24)

45) 46) 47) 48) 49) 50) Philosophie、S7L Ebd EbdS、277. EbdS279、 EbdS278・ EbdS、279. 〔参考文献〕 金子武蔵「実存理'性の哲学』清水弘文堂書房昭和42年 草薙正夫『実存哲学の根本問題』創文堂昭和41年 林田新二『ヤスパースの実存哲学』弘文堂昭和46年 ヤスパース,重田英世訳「カント』理想社昭和43年版 『カント全集」第1巻~18巻,理想社昭和57年版 『キルケゴール著作集』l~20,白水社1995年 LArmbruster:ObjektundTranszendenzbeiJaspers,VerlagFelizian Rauchlnnsbruck CF・Wallraff,“KarlJaspersAnIntroductiontoHisPhilosophy,Princeton, Newjersey,l970 JWahl:EinBeitrgzumThemaJaspersundKierkegaaed,“KarlJaspers hrsgvonA・Schlipp,W・KohlnammerVerlag KJaspers:VonderWahrheit,RpiperMiinchen 115

参照

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