"Brother Jacob"の現実的世界に関する覚書
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(2) 52. 年代には広義の使用はすたれたらしいと指摘されてい る。10こうした語義の変遷及び学者の間においてもその 用語の概念規定が必ずしも一致していないということ, 更には典拠となる研究資料の不十分さなどが原因となっ て,ヨ-マンの消滅時期の問題を複雑にし,上述のよう な様々な諸説が提起されてきたわけである。その消滅時 期に関して諸説があるとしても, "BJ"を考察の対象と する我々としては差し当たりヴィクトリア朝のヨ-マン 観を問題にすればよい。ヴィクトリア女王が即位した 1837年に出されたF農業報告」は,ヨ-マンリが1836年 にはすでに「-階層としては全然存在しなくなった」11 とする証言を載せている。また,先述の諸学説のうちヴィ クトリア朝に発表されたイギリス人の見解は1881-82 年に述べられたトインビーの説と1889年に出されたレイ の説である。今ここで,これらヴィクトリア朝の報告や 学説がGEを含めた当時の人々のヨ-マンに対する見解 を代表するものであると仮定した場合, "BJ"に関して は少なくとも次のように言うことができるであろう。な るほど"BJ"ではDavidの父親が具体的にどのようなヨマンであったかは述べられていないけれども,その執筆 時期から判断して狭義の意味で使用され,また読者もそ の意味で受け取っていたであろうということ,並びに当 時の読者にとってヨ-マンとは既に過去のものないしは 消滅しつつある過去の遺物として意識されていたであろ うということである。12特に後者の点に関しては,イギ リスの農業経営史を概観することによっても裏書きされ る。. この「ヨ-マン」という語と同じような機能を果たし ているものとして, Davidが菓子屋の親方の元で年期奉 公をつとめる「徒弟制」 (269, 270)がある。 徒弟制は,法令的には7年間の徒弟奉公をしなければ 職人として雇用されないと定めた1563年の徒弟法以来の 伝統を持つ,古くからの制度である。ロンドンでは既に 17世紀後半にこの制度の弛緩が起こったと言われている が,ロンドンを除く他の地方においてはほぼ無傷のまま 機能していた。しかし産業革命の進展に伴う18世紀末か らの経済的激変の中で,伝統的な形態での徒弟制は不熟 練労働の増加とともに脅かされ,自由放任を掲げる企業 家を中心とした徒弟制廃止運動と小親方を中心とした徒 弟制擁護運動との間の闘争の末1814年ついに廃止され たのである。 徒弟制廃止をめぐる19世紀初頭の闘争は,まさに自由 放任と工場制・分業制に基づく新しい産業社会をめぐる 闘いであると同時に,マニュアル化できる「技術」対実 習を通してのみ獲得できる「熟練」をめぐる対立でもあっ た。14 "BJ"のCh. 2で語り手は, Freely-Davidが Grimworthの町にもたらしたものこそ「分業」と呼ばれ 「文明が必然的に進むべき道」であり,それは「社会の 幸福」 (294)を増すことに繋がりうるものであることを 承知しているとのコメントを述べ,暗にアダム・スミス への言及がなされている。じつは自由放任の経済原理を 擁護し,分業と交換の進展による富裕化を説いたそのス ミスがきわめて弊害あるものとして批判の対象にしてい たのが,長期間の徒弟制なのである。. 議会エンクロージャーの進行過程は1760年以後に早く なり,対仏戦争の期間(1793-1815)にピークに達する。 そして19世紀中葉までに農業革命はほとんど完了し,ほ ぼいたるところ田圃地方は柵で囲まれた農場が織りなす 「キルト状のパッチワーク」13といった近代的概観を呈 するようになる。それに呼応して資本主義的な三分制. 長期間の徒弟修行期間は全く不必要である。置時計 や懐中時計の製造といった,普通の手仕事よりもはる かにまきった技術でも,時間を長くかけて教えこむほ どの秘伝があるわけでもない。 -- [機械や道具]が 両方とも立派に発明され十分に理解されている時に. ジェントリフア-マ-. -地主が土地を所有し,農場主がそれを借り, レイパラ農業労働者が耕す-に基づく大農場経営が一般化し, 1840年代からは土地排水事業,化学肥料の使用といった 莫大な資本を要する高度集約農業の時代に入っていく。 "BJ"が執筆・発表された1860年代は最終的に囲い込み が完了し,議会エンクロージャー以前から変貌を遂げつ つあった農村共同体が終局的に解体を見た時代であると 同時に,それと裏腹に一般的に確立した三分制と本格化 した高度集約農業を伴う「イギリスの農業の黄金時代」 ハイ・フア-ミング. (1850-70年代半ば)を迎えている最中に当たる。三分 制が一般化したヴィクトリア中期に暮らす"BJ"の一般 読者にとって,ヨ-マンとは,たとえまだ消滅していな かったとしても,決して同時代的なものではなく,古き 農村共同体と強く結ばれて想起される存在であったと言 えよう。. は,それらの道具をどのように使い,それらの機械を どのように組み立てるかを最も完全なやり方で青年に 説明するのに,数週間以上の教授は必要ではあるまい。 恐らく数日間で十分かもしれない。普通の機械工の職 業の場合は,確かに数日間の教授で十分だろう。15 このスミスの主張は、産業革命の進展による,機械と工 場制の登場によって引き起こされる熟練の解体-単純作 業化の問題と関連を持っている。工場制に移行した産業 では雇職人は単なる工員に,徒弟は単なる見習い工に なってしまった。しかしながら伝統的な徒弟制が持って いた重要な機能の一つであるOJT (実地訓練)は, 「ニュー・スタイルの徒弟制」16と呼ばれる新しい徒弟 制の中で実質的に生き続けていた。つまり徒弟制の廃止 を定めた1814年の法律によって法的支柱を失った後で.
(3) "BrotherJacobの現実的世界に関する覚書. ち,徒弟制は用語としても制度としても死滅することな く生き続け,新型のものを生み出し,熟練の養成と供給 という機能を果たし続けて行くのである。その新型の徒 弟制にあっては,徒弟すなわち見習い工が教わったのは 親方すなわち直接の雇用者からではなく,既に熟練.を獲 得した雇職人すなわち工員からであった。熟練した工員 と一緒に仕事をすることによって技能訓練が行われたの. 53. 目しておきたい点がある。彼は徒弟奉公中,自分の才能 をより生かすことができないとして常にその現状に不満 を抱いている。 Davidが盗んだ金貨を隠す場面, 「恐る べき」 (273)歯をもつ干し草用フォークを手にして現れ たJacobは,ヴィクトリア朝中期に独裁ぶりを発揮し, 1859年には邪な意図を持っているのではないかと疑われ てイギリスを恐怖に陥れた,当時の読者にとっての同時. である。そうした伝統的な徒弟制から新型のそれ-の変 化の核心にあったのは,年季奉公契約の消滅と住み込み. 代人「ルイ・ナポレオン」 (274)になぞらえている。一. 制の衰退であると指摘されている,17 Davidが奉公した のは菓子屋の親方の所であり,工場制はまだ見られない 分野であったとはいえ,彼が住み込みの徒弟奉公に出て いた1810年代は,伝統的な徒弟制という観点から見た場. の原理をそのバックボーンとして持つ, Davidにとって. 令,まさにその廃止問題をめぐって伝統擁護の小親方や 職人達と進取の企業家達が争っていた過渡期の時代 であったわけである。 既に述べたように徒弟の正規の期間は最低7年間で,. よって作られた「既製の」 (292)菓子類は一つの商品と. 通常7年間(時に10年間),一般に14歳ないし15歳から 21歳ないし24歳に達するまで雇用された。 Davidが徒弟 を終えたのは21歳頃であり,その点では歴史的正確さを 踏まえた記述がなされていると言える。もっともDavid の場合,徒弟奉公の期間に関しては何ら言及がなされて いないので,正規の7年間を勤めたのか,それとも元来 エリザベス朝の徒弟法では職人は24歳に達するまで徒弟 奉公をしなければならなかったのに21歳までであったと いうのは,その分徒弟期間が短縮されたためかどうか定 かではない。仮にDavidが正規の7年間を勤めたもの. ての義務」 (paternalduty, 312)に心をくだき,親の貯. 方, Davidは,ナポレオンとの関連で言えば,自由放任 の同時代人ナポレオン一世の有名な言葉「才能ある者に 出世の道を」を専ら,自己中心的・功利的に実現しよう とする若者なのであるGrimworthにおいてDavidに. -/ヤ-ニ-マン. とすれば,彼は15歳くらいから徒弟奉公に出たわけであ る。18 当然のことながら,個々の産業によって,伝統的な徒 弟制から「ニュー・スタイルの徒弟制」への移行の時期 や程度は一様でなかったことは考慮されねばならない。. してキャッシュ・ネクサスにのみ基づき, 「支払い能力 に応じて」 (290)売買される。子供といえどもびた一文 まけてやることをしないDavidの頭の中には, 「親とし めたお金を盗んで姿を消した性悪な息子に対しても勘当 せずに遺産を残してあげることにした心優しき両親 Faux夫妻に見られるような温情主義(paternalism)の 入り込む余地はない。専ら,打算的な経済的個人主義が 優勢を占めている。 ``BJ"において,この個人主義的な Davidを新しい世代の典型とすれば,温情主義的な旧世 代の典型がFaux夫妻なのである。 更に読者は,当時徒弟奉公に出るには入会金が必要で あったことを想起する必要がある。ウェッブ夫妻によれ ば, 18位紀にわたって大概の手工業において職人には通 常その長男一人を無料で徒弟に出す特権が慣例的に許さ れていたらしいが,他の子供,特にその職業に属しない 両親の子供に対しては5ポンドから20ポンドの入会金が 課されたという。また, 19世紀後半に旧羊毛仲買人親和. だが,いずれにせよ, Davidが勤め上げた住み込みによ る年季奉公の徒弟制は,伝統的な古いタイプとして,今 や産業革命を終え「世界の工場」となったヴィクトリア. 組合の書記がウェッブ夫妻自身に語った話として, 「彼. 朝中期に生きる"BJ"の読者に, 「ヨ-マンの息子」と いう言葉と相まって,この物語の背景が同時代というよ. らなかった」という例も報告されている。19どうやら入 会金は時代が進むとともに高くなったようなので,もは. りはむしろ,過去のいつかに設定されているという印象 を一層強めたに違いない。やがて物語の進行とともに与 えられる様々な情報- 「職工学校」や「『インクルと ヤリコJの物語」 (269),バイロンやトマス・ムアの作 品-の言及-から, 「ヨ-マン」と伝統的な「徒弟制」 という言葉によって漠然と示唆されていた"BJ"の過去. や18位紀ではなく19世紀初頭に徒弟に出たDavid場合,. の兄が既にその商売に入っていたので,彼の父親は彼の 年季奉公契約証書のために100ポンド支払わなければな. 入会金が18世紀のそれの上限に近かったと仮定すれば, その金額(20ポンド)は西インド諸島に行くために彼が 母親から盗んだお金(20ギニー-21ポンド)にほぼ等し い額となる。 "BJ"ではこの入会金への言及は一切なさ れていないけれども,徒弟制のことに多少なりとも通じ. の時代設定は,カメラの焦点を絞っていくように徐々に その具体的な年代(1800年代前後から1820年代後半)を 明らかにしていくことになる。 GEによって配慮された "BJ"の巧みな構成の一端を認めることが出来よう。. ている読者には自明のこととして,ヨ-マンの息子であ. 徒弟制の問題と関連して, Davidの人物像について注. ことを一度も振り返ることなく,専ら徒弟奉公の仕事に. るDavidが菓子屋の徒弟になる段階で,親からかなり のお金が入会金として親方に支払われたことが了解され ていたはずである。何事につけ計算高いDavidがこの.
(4) 54. 対する不満だけを述べている姿が叙述されているのは, 彼の利己的な心の有様を巧みに示唆しているものと言え よう。彼がGrimworthで用いる偽名Freelyにいみじく も示唆されているように, Davidは自由貿易(freetrade) を擁護し,自由放任の原理に与する自由主義者であると 同時に,万事「結果を計算」 (282)して専ら自己の快楽 のみを追求しようとする,まさに悪しき功利主義の申し 子に他ならないのである。 このようにDavidが身につけた菓子商としての熟練 は,いわゆるゲマインシャフト的な伝統社会に属する旧 徒弟制の下に得られたものでありながら,彼の精神はス ミスやベンサムの自由放任と功利主義に色濃く染まった ゲゼルシャフト的な近代社会に属するものである。この Davidが体現する二重性-ヨ-マンの息子・旧徒弟制 の下で培われた熟練が表す伝統社会性と功利主義的・自 由放任的精神が示す近代社会性-は,彼が生きる19世 紀初頭という過渡期の時代を端的に象徴するものである と言えよう。 Ⅲ過渡期の時代-ミルの「文明論」と"BJ" J.S.ミルが「[現代]は過渡期の時代である」20と断 じたのは, 1831年に発表された論文「時代の精神」にお いてである。ミルのその言葉は, 18世紀と比較して19世 紀の特徴を述べたものであり,それゆえ彼の言う現代と はその論文が発表された1830年代前後を中心に, "BJ" の時代背景となっている19世紀の最初の30年間をも含む ものである。先に温情主義的・ゲマインシャフト的伝統 社会と個人主義的・ゲゼルシャフト的近代社会をそれぞ れ代表する者として捉えたFaux夫妻とDavidは,ミル 流に言えば, 「過去の人々」と「現代の人々」すなわち「依 然としてもとのままである人々」と「変化した人々」21 にそれぞれ対応するわけである。終始否定的人物像とし て描き出されているDavidは,既に見てきたように, 一面において自由放任と功利主義がはらむ悪しき面の体 現者となっているが,やがてこの自由放任と功利主義は, 19世紀中葉,偏狭な自助の精神というエトスを生み出し, ヴィクトリア朝中期の心ある知識人たちの批判の的に なっていく。急進的なFウェストミンスター・レヴューJ の編集に携わった経験を持ち,社会改革の問題に終生関 心を抱いていたGEの場合,小説では特に『ァダム・ビー ト』 (1859)やrフロス河畔の水車小屋』 (1860)におい てそうした時代批判を展開しているが,22この"BJ"と いう短篇もそのような時代批判の系譜に連なる一面を 持っているのである。ただしDavidの描出には, 19世 紀中葉の偏狭な自助の精神というよりもむしろ,自由放 任と功利主義という形で広く捉えられた19世紀の「時代 の精神」がはらむ否定的な側面に対するGEの批判が込 められている,と言うことができるであろう。. Ch. 2で"BJ"の時代背景が過渡期の時代であること を読者に印象づける, Grimworthの商売の仕方とCattletonなどに見られる「時勢」 (287)に乗じた商売の仕 方を描き出している箇所は,ミルが「文明論」の中で「小 さな田舎町の商人」と「大きな町の雑踏した通りで商売 を始める人」23の商売に関して指摘した事柄と重なる点 が多い。顧客との長年の信頼関係に基づき,自分の収入 を正確に計算できる「静かな商売」を営むGrimworth の商売人達の営む旧来の商売方法と「人工の魅力」を凝 らして客を誘惑し, 「競争商売方式」や「薄利多売方式」 (287)で営まれるCattleton式の新しい商売方法は,ミ ルの言う「すべての人々が互いに知り合っている」ゆえ に「少数の競争相手」に伍して「自分の扱っている品物 の質と自分の商売の正直さと誠実さだけに頼って」営ま れる小さな田舎町での堅実な商売と, 「激烈な競争」ゆ えに「声を張り上げて」通行人の好奇心をかき立てたり 「見栄えの良い,売れそうな見かけ」という「大衆の目 を引きつける技術」を弄して営まれる「確実な計算をす ることが困難」24な大きな町での商売に,それぞれ対応 し,実質的にはほぼ同一の内容を表している。特に注目 すべきは, GEもミルも新式の商売に従事する者達の中 に「個人の美徳」25の喪失を見てとっている点である。 Grimworthという競争相手のいない田舎町で商売を始め る新参者のDavidは,確かに「大きな町の雑踏した町 で商売を始める人」ではないにしても,彼の店の華やか に飾られたショーウインドウが如実に物語っているよう に,新しい商売方式側のいわば先鋒として設定されてい る。その彼が自分の素性を偽り,偽名や策略を弄して Grimworthでのし上がって行く様は,ミルが大きな町で は商人が「山師的行為」,とりわけ「誇大宣伝」に追い やられ,そこでの成功は「ある人が実際にどんな人であ るかということではなく,どのような人に見えるかとい うこと」に依存しているとして嘆いた「弊害」26を,本 質的なレベルで物語的に例解するものとなっているわけ である。というのも,その「弊害」の原因としてミルが 述べている「激烈な競争」こそは, Davidが体現してい る自由放任と功利主義をバックボーンとする,キャッ シュ・ネクサスに基づく自由市場・自由競争が,高度な 文明の特徴をなす「富への欲望」27という唯一普遍のH 的-西インド諸島-大身代を作るために渡っていく Davidが同様に体現しているもの-と結びついて,ち たらされたものに他ならないからである。 言うまでもなく,その自由市場・自由競争のバック ボーンをなす自由放任と功利主義は,徹底したベンサム 主義の教育を受けて育ったミル自身が元来擁護し唱道し ていた原理である1830年代といえば,ミルは「精神的 危機」を脱した直後で,修正ベンサム主義者に改宗した ばかりの頃に当たる。はたしてこの初期の論文において,.
(5) "BrotherJacob"の現実的世界に関する覚書. 55. ミルはこの「激烈な競争」の根本原因を意識していたの. (1860)の中でトロロブが述べている, 「神は自らの目. であろうか。 「文明論」においてはその原因が,個人と いうものが群衆の中に埋没して重要性を持たなくなって. 的にそって-‥・劣等な人種と優等な人種を作られた。. しまうことにのみ求められ,個人の精力が「個人による. 黒人が服従する。」という人種論と通底するものであり,. --・白人と黒人が共働するところでは,白人が命令し,. 金儲けの追求という狭い領域」28に集中されることと有. ヴィクトリア朝中期に常識として通用していた考え方が. 機的に関連づけられることもなく済まされていることか. こだましているからである。31以下,この点を更に詳し. ら察するに,十分に意識してはいなかったように思われ. く検討していきたい。. る。この点に関していえば, "BJ"はミルの「文明論」. Davidがアメリカ行きを夢想するのは,彼が徒弟奉公. での指摘をさらに一歩進めた時代批判となりえていると. をしている時であるから, 1810年代,それもその後半の. 言えるであろう。. 頃と考えられる。とすれば,当時のアメリカは米英戦争. "BJ"の執筆に際して, GEがミルの「時代の精神」. (1812-14)が終結してその経済的自立を完成するとと もに,モンロー時代に突入して西部開拓が急展開し,奴. と「文明論」から直接影響を受けたのかどうかは定かで はない。だが,ともにコント哲学にかなりの共感を寄せ,. 隷別間題の対立が表面化していく頃に当たる。そして. 社会改革を唱道する急進的な雑誌の編集に携わったこと. 1820年にはミズーリ協定により,北部の自由州と南部の. がある二人の経歴を思う時, GEとミルの時代認識の親. 奴隷州の区分が画されることになるのである。しかしな. 近性は,何ら不思議ではない。それゆえ"BJ"において,. がらアメリカ人ならいざ知らず,偏狭な島国根性が存続. 二人の影響関係を問題にするよりも,むしろ時代風潮を. していた1860年代のイギリスにおける"BJ"の読者に,. 批判する社会思想家としての両者の親近性を問題にすべ. こうした1810年代後半のアメリカの情勢がすぐさま想起. きであると思われる。ともあれ,社会思想家としての. されたとは考えられない。むしろ,上述のDavidのア. GEとミルの関係を考えるうえで"BJ"は有益な視座を. メリカに関する人種偏見に満ちた言説は,現に行われて. 提供してくれる短篇であると言えよう。. いた南北戦争(1861-65)あるいは国の内外で大ベスト・ セラーとなったストウ夫人の『ァンクル・トムの小屋』. Ⅳアメリカと西インド諸島-黒人問題・奴隷制問題. (1852)とその続編ともいうべき『ドレッド』 (1856). 徒弟奉公に不満なDavidが,彼の地理の知識を総動. -のアリュ-ジョンを含むものとして,それらのことが. 員して移民先として夢想したのがアメリカである。 「漠. まず第-に想起されたに違いないo先述のミズーリ協定. 然とアメリカを,主として住民が黒人である国として考. によってもアメリカでは奴隷制問題は解決をみず,南北. えていたので,まず第一に,白人であるという一目瞭然. の対立が激化し,やがて『ァンクル・トムの小屋』の出. の長所を持っている移民にとって,最も好都合な目的地. 版によって奴隷制廃止論者の力が強化されてゆく1860. である,と彼には思われた」 (270)のである。だが,実. 年には共和党のリンカーンが大統領に当選し, 1863年に. 際にDavidが出かけていったのは西インド諸島のジャ. はそのリンカーンによる奴隷解放宣言が出されることに. マイカであった。七人兄弟の末っ子であるDavidが立. なる。 "BJ"の執筆・発表時期はほぼアメリカの南北戦. 身出世を夢見て家を出立するという出来事は, "BJ"が. 争の時期と重なっているわけである。. 有する典型的なフォークロア的な要素の一つであるとと. GEの奴隷制問題とアメリカへの関心は,まず『ウェ. もに,語り手が暗に指摘しているDavidと「バルザッ. ストミンスター・レヴュー』の副編集長時代,特にテイ. クの抜け目のない主人公達」 (279)との親近性を例証す. ラー夫人にあてた手紙において表明されている。その手. るものとなっている。というのも,フォークロア(特に. 紙の中で, GEはアメリカの奴隷制に関する北部諸州の. 民間説話)は主人公がどんなことがあってもともかく家. 大義の擁護を主張したW.E.フォースターの論説を奴. を出立することを要求しているものであるし,29また,. 隷制に関する論説の中で最良のものだと述べている。32. バルザックの作品は世間での出世を求めて旅立つ末っ子. 更に"BJ"執筆の4年前の1856年10月, 『ウェストミン. のモティーフを焦点としているからである。30. スター・レヴュー』にFドレッド』の書評を寄せたGE. しかしながら,このような文学的観点とは別に,アメ. は,その中で,ストウ夫人を「人権闘争」という嵩高な. リカと西インド諸島のジャマイカ-の言及は,その歴史. 要素を含む「ニグロ小説二の創始者であると述べ, 『ァ. 的・社会的背景を考える時,更に注目すべき点を含んで. ンクル・トムの小屋』とFドレッド』という二つのニグ. いる。まず,上述のDavidのアメリカに関する見解は,. ロ小説はそれだけでストウ夫人を最高位の作家の地位に. 単に彼の地理に関する知識の浅薄さを風刺したものとし. つけさせることを保証する作品であると賞賛しているの. て済ますわけにはいかない問題を含んでいる。なぜなら. である。もっともこの書評では, 「純文学」と名付けら. そのDavidの見解の中に示されている,黒人を劣等視. れたその書評欄の性格上, 「奴隷制及び奴隷制廃止の,. する人種偏見は, 『西インド諸島とカリブ海沿岸地域』. 恐ろしく難しい問題」は「純文学とは全く別の問題に属.
(6) 56. するもの」として,そうした政治的・社会的観点を避け, 専ら「芸術的観点」から論評されている。33とはいえ, GEのアメリカの紋隷制に対する思想的立場は,上述の テイラー夫人への手紙やハイチ革命における奴隷の解放. 有をめぐる白人と黒人との間のモラント湾での紛争が引 き金となって起こった暴動に際して,総督エアが厳戒令 をしいて黒人に対する武力弾圧にでた「ジャマイカ事件」 で再燃する。この事件はイギリスの世論を二分する大論. と独立運動の指導者トゥサン・ルヴェルテエールをう たったワ-ズワスのソネットの最後の8行(生きて次の ことを慰めとせよ。 /汝は汝のために働いてくれる諸力. 争の種となった。39総督エアを弁護する「エア援護基金」 と,エアの行為を不法な圧制として,エア支持者達の持 つ黒人蔑視の原理を攻撃する「ジャマイカ委員会」が組 織され,それぞれの委員会を代表する人物となっていく. を残していった。大気と大地と天も汝の為に働いてくれ る。汝のことが忘れられることは決してなく,世間の人々 が口を開けば必ず汝のことが語られる。 /汝は偉大な味 方をもっている。 /汝の友は歓喜であり,苦悩であり,. のがカーライルとミルだったのである。世論は圧倒的に カーライル側に与し,ミル側に反対であった。上流階級 と中流階級はエアを支持し,軍部,氾サクソン的帝国主. /そして愛であり,人間の不滅の心である。)に対する GEの絶賛,34更にはミルと同様に両性を含めた人間の 本質的平等を説いているGEの人間観から言って,当然 のことながら,自由主義的な博愛主義と奴隷解放の観点 に立つものであった。. 義者及び奴隷制に共鳴していたト-リー党の人々は熱心 にエアを弁護したのである。帝国主義という観点から言 えば,まだ記憶に新しい1857年のインドの反乱が,これ らの人々に,文明の遅れた原住民や黒人に対して力に訴 えることを主張する一つの根拠ともなっていたのであっ. しかし,こうしたGEの立場はヴィクトリア朝イギリ スの一般世論では少数派に属していた。なるほどイギリ スでは法令上, 1803年の奴隷貿易廃止法1833年の奴隷. た。裁判は二年以上も続いた。高等裁判所長官のサー・ アレグサンダー・コックバーンは自由の原則に有利なよ うに解釈した説示を陪審員に行ったが,結局のところ,. 解放令によって英額植民地における奴隷貿易も奴隷制も 廃止されてはいたが,形式上奴隷が解放されても,黒人 問題・奴隷制問題は依然として未解決のままであり,多 数派の,白人の優越(ないし優先)と黒人蔑視の観点に 立つ保守的な立場と,それに反対する,少数派の自由主 義的な立場が対立していたのである。前者の立場を代表. 中央裁判所の大陪審月はミルたちの訴状を否決し,この 事件が公判に付されることを阻止してしまったのであ る。ミル自身が述べているように, 「イギリスの役人を ムラトウ 黒人や白黒混血児に対する職権乱用のかどで刑事裁判に 付するのは,イギリス中産階級に人気を博する行為では ないのだった。J40この事件でのミルの活動に対する人々 の怒りは, 「言葉または絵による下品な冗談から,暗殺. する人物がカーライルであり,後者を代表するのがミル であった。両派の対立は,アメリカの奴隷制問題もさる ことながら,とりわけ1840年代末と1860年代の後半,西 インド諸島をめぐって展開したのである。それゆえこの 後者の点に関連して, Davidのジャマイカ行きが問題と なってくるわけである。まず,両派の対立を概観してお. するという脅迫に至る」様々な,そのほとんどが匿名の, 罵倒の手紙となって表れた。41ミルが1868年の選挙で落 選し,議員をやめることになるのも,この事件をめぐる 彼の活動に対する選挙民の反発をかったからである。い かに強くカーライル的立場が当時の通念となっていたか. きたい。 1848年にヨーロッパ大陸で勃発した革命に失望したこ とが契機となって,カーライルは「平等と個人主義の危. が窺い知れよう。そしてそのことはまた, 「一般に人権. 険」35を認識させるために, 「かぼちゃをたらふく食らっ て」36のらくら暮らしている西インド諸島の黒人の怠慢 ぶりを非難し,神は黒人を「奴隷としてのみ」37有用で あるように造り給うていると述べて,黒人奴隷制の復活. 端的に例証するものともなっているのである。. を提唱した論文「黒ん坊間題」を1849年に発表した。先. にジャマイカを旅した際の西インド諸島旅行記であり,. ニガ-. に引用した1860年のトロロブの言説は,このカーライル. というものを認めることが人類史上,もっとも考えがた い時代であった」42と言われる19世紀中葉の時代風潮を さてDavidがジャマイカに行っていたのは,奴隷解 放前の1820年代前半である。先に簡単に触れたトロロブ のF西インド諸島とカリブ海沿岸地域jは,彼が1859年 "BJ"が書かれた当時の人々にとって奴隷解放前とその. の言説を繰り返したものに他ならないのである。一方,. 後のジャマイカがどんな存在として映っていたかを伝え. ミルはすぐさまこのカーライルの論文に反駁する文章. てくれる-資料ともなっている。その本の中でトロロブ. =p(r. 「黒人問題」を公にした。その中でミルは黒人が劣って いるのは環境の結果にすぎないとし,カーライルの論文 はアメリカ合衆国における奴隷制の支持者を鼓舞するゆ えに「まさに悪魔の仕業」であると称して激しく攻撃し. はかつてのジャマイカの「輝かしい日々」を偲び,次の. たのである。38 この二人の対立は更に15年後1865年の10月,土地の占. 東洋と張り合い,いや,資本市場としては東洋をしの. ように嘆いている。 かつてのジャマイカは,富を持つ手段という点では, ぐ富裕な島であり,そこを中心にして貨幣が回転する.
(7) "BrotherJacob"の現実的世界に関する覚書. 57. ことが出来たというのに,今では地球上の他のどんな. 花」と謡われて西インド諸島がもてはやされ,ジョージ. 地域もほとんど及ばぬ程みすぼらしい所となってい. 三世が西インド諸島の-不在プランターの豪華絢欄たる. る。 -このことを知らぬ人はほとんどいない。こう. 供回り付き馬車に驚いたという逸話やジャマイカの大プ. した変化は1838年に完了した奴隷解放によってもたら. ランター,ウイリアム・ペックフォード二世の大邸宅. されたということもまた,イギリス人の間では一般に 知られている。そして恐らく,ジャマイカについての. 人の大富豪ぶりが,イギリスでごく身近な存在であった. フォントヒル・スプレンデンズ荘に窺える西インド諸島. 知識は一般的にそれ以上ではないであろう。また,イ. のは, 18世紀の中頃なのである。第一級の貴族とも張り. ギリス人全体が抱く憂慮もそれ以上のものではないと. 合える大富豪の不在プランターを主人公とする,有名な. 言えよう。 --父親達は最早,彼の地で身代を作らせ. 喜劇『西インド諸島の人Jが初演されたのは1771年であ. ようと次,三男を送り出しはしないし,若い娘連も花. り,イギリス帝国最大の砂糖産地ジャマイカの砂糖生産. 嫁としてその島に輿入れすることはない。今では公爵. がその頂点を極めたのが1774年であった。また,西イン. や伯爵達は,その西洋の豊かな宝石[ジャマイカ]を. ド諸島の不在プランターたちによって形成された, 18世. 統治して,王侯のような豪勢さで何万ポンドも浪費し,. 紀を通じて最も強力な影響力をもっていた圧力団体「西. そのほかにも本国での消費のために何万ポンドも蓄え. インド諸島派」は1764年には50人ないし60人の議員を. たりすることはない。-・-悲しいかな!あの一族[ジャ. 有し,議決を思いのまま操ることができたのである。し. マイカで利得を得ていた人々]の栄光はすっかり過去. かし, 19世紀になると重商主義の思想は自由貿易論とい. のものとなり,あの島の輝かしい日々は最早終わりを. う経済哲学にとって代わられていく。選挙法改正後の議. 告げたのである。43. 会で1764年の「西インド諸島派」と同程度に強力な新 たな連合勢力が形成されたが,それは自由放任経済をス. トロロブによれば,ジャマイカの「栄光」と「輝かしい. ローガンとするランカシャーの綿業関係の派閥だったの. 日々」は,大農園主支配による,黒人奴隷労働が生み出. である1800年西インド諸島通いの砂糖運搬船のために. した砂糖生産の利潤に基づくものであった。. ロンドンに開設された西インド・ドックは「重商主義の 輝かしい辞牡の句」なのであった。既に18位紀末には仏. 一般のイギリス人は,ジャマイカにあった砂糖農園 の半分とコーヒー・プランテーションの半分以上が,. 領西インド諸島,特に世界最大の砂糖生産地として「カ リブ海の珠玉」となったサン・ドマングの発展によって,. 叢林の状態に戻ってしまったということ-ほんの30. ジャマイカのプランター層がヨーロッパ市場における砂. 年程前までは最も豊かな産物に恵まれていたこの土地. 糖の覇権を維持することは難しくなってきていた。 1792. 全体が今では荒野に戻ってしまったということ-に. 年のジャマイカ植民地議会の委員会報告にも「過去20年. 気づいているのだろうか?44. 間に, 177件のプランテーションが負債の償却のために 克られ, 55件が放棄され, 92件がいまだに債権者の手中. 奴隷解放と最近改正された砂糖税は,遺憾ながら,. にあるうえ,すでに8万121件の強制執行が行なわれて,. ジャマイカにおいて土地をだぶつかせ,広大な地域が. 合計2256万3786ポンドが憲兵隊長の許に貯えられてい. 利益の上がらないものとして,耕作されずに投げ出さ. る」47 ,という斜陽化を示唆する報告が見られる。既に. れてしまっている。45. 見てきたように, Davidの精神は重商主義に代わる新し. Davidがジャマイカ-いった時は,トロロブの言う「ほ. 豊かであったとはいえ,既にその斜陽化が見られるジャ. い経済原理を体現するものである。 19世紀初頭にはまだ んの30年程前まで」の,まだ「豊かな産物に恵まれて」. マイカに,その斜陽化を促進する原理の体現者という一. いた時代に属していることになる。だが,その時すでに. 面を持ったDavidが一旗揚げようと渡っていくという. ジャマイカの栄光はその盛りを過ぎていたのであった。. 設定そのものに, GEの深いアイロニーが込められてい. そもそもイギリスがカリブ海でサトウキビ・プランテー. ると言えよう。. ションを開始するのは17世紀後半である。46しかも. 更にその設定にはもう一つのアイロニーが込められて. Davidが愛読した「rインクルとヤ1)コ』の物語」に出. いることを見逃してはならない。というのも,トロロブ. てくるバルバドスがイギリス帝国で最初の砂糖島である. の言う「父親」によってジャマイカに送り出された「次,. と同時に,当時カリブ海第一の砂糖生産植民地だったの. 三男」とは, 18世紀北アメリカに流れて行った年季契約. である。 「西インド諸島の宝」と言われたバルバドスで. 奉公人とは異なり,ジェントルマンの生活が維持できな. あるが,やがて18牡紀になると,奴隷制大農経営が主体. くなった大家の次,三男たちが圧倒的に多かったからで. をなすジャマイカにその地位を譲ることになる。奴隷貿. ある。彼らは地主として身を立てるべく,本国の家族の 援助をあおぎながら,プランテーションを購入し,それ. 易・奴隷制・砂糖生産の三位一体により, 「重商主義の.
(8) 58. を基にプランターとして寓を次第に太らせていったので あり,彼の地の環境では一理千金型の成金は生まれえな かったのである。資金のない者がプランターになるため にはまず何らかの特殊技能が必要とされたが,本国の家 族の援助も同様に重要であった,48 Davidは菓子職人と して特殊技能を身に付けていたとはいえ,母親の金を盗 んで出奔した身であってみれば,本国の家族からの援助 は一切期待できない状態である。 David自身は「彼が西 インドで大身代を築かないということはありそうもない こと」 (272)だと考えているが,一介の菓子商にすぎず, 何のコネもなければ,まして資金もなく,本国からの援 助も一切望めないDavidがジャマイカで大儲けする事 の方が,多少なりとも事情に通じている者から見れば「あ りそうもないこと」として受け取れる。計算高く, 「大 変明敏な若者」 (268)とされているDavidが抱く上述 の自信は, 6年後彼が大した成功を納めることなく,わ ずかな小金を手に帰国することを,漠然とながらもアイ ロニカルに示唆する伏線となっているのである。 ジャマイカから帰国後, GrimworthでDavidがChaloner夫人に語る西インド諸島に関する言説は興味深い。 まず第一に, Davidが西インド諸島で見たとされる, Chaloner夫人の「亡き祖父の所有地であった地所」 (290) への言及がある。 1820年代から二世代さかのぼれば1760 年代頃となり,ジャマイカが砂糖植民地として最盛期を 迎えようとしている時期に当たる。 Chaloner夫人の祖 父とはまさに18世紀の「西インド諸島の人」つまり富裕 な不在プランターであり,彼の地所とは奴隷制の大農園 を指しているということが暗示されているのである。し かもそのことは,先に引用したトロロブの言葉から推察 されるように,トロロブの世代のヴィクトリア朝中期の 読者には一般に了解できた事柄であったと言えるわけで ある。 第二として, Davidは宣教師を非難した次のような言 葉を吐いている: 「宣教師達がニグロの不満の唯一の原 因だ。」 (290) Chaloner夫人は国教会の教区牧師の妻で あり, Davidの言う宣教師とは明らかに非国教会派の海 外宣教師のことを指している。ヴィクトリア朝の読者な ら,カーライルが反奴隷制連動に関して言及していた, エクセタ-・ホールに象徴されるバプティスト派やメソ ジスト派の宣教師のことだと即座に了解できたことであ ろう。また「ニグロの不満」とは,言うまでもなく,奴 隷の蜂起のことである。 1791年に起こったサン・ドマン グでの黒人奴隷の蜂起は,やがて1804年世界最初の黒人 共和国ハイチを出現させた。英領植民地でも"BJ"の時 代背景とも重なる1816年のバルバドス, 1823年のデメラ ラの黒人蜂起,更には1831年のジャマイカのそれが挙げ られる。その当時,それらの蜂起は黒人奴隷の自発的な 意志によるものとは一般に考えられていなかった。黒人. にはそのような意志も能力もないとするのが白人側の常 識となっていたからである。植民地の意見では,黒人の 蜂起は非国教会派の宣教師の援助と教唆によるものだと いうことにされ,特にバプティスト派が重要な関与をし ているとされることが多かった,と指摘されている。49 黒人の蜂起の背後に認められるこの国教会派と非国教会 派(バプティスト派)の対立は, 1865年のジャマイカ事 件では,徹底した国教会派の総督エアとバプティスト派 の民衆指導者ゴードンの対立として具現化されることに なる。宣教師に関するDavidの言説は, 19世紀の初頭 以来エア弁護派が世論の大勢を占めた1860年代に至るま で一般的見解であったものの表明に他ならない。 "BJ" において, Grimworthの非国教会派の牧師Rodd氏が「バ プティスト派の聖職者」 (286)であると殊更言明されて いるのも,この歴史的文脈を押えてはじめて了解できる。 Chaloner夫人に語ったDavidの言葉・は,すでに指摘し たように,当時の黒人の反乱に対する一般的な見解の表 明にすぎず,取り立てて「観察力の鋭い」 (290)ものと 言えるものではないが,そこに合意されているバプティ スト派への非難は,夫人の祖父のプランテーション-の 言及が夫人の富裕な(あるいは富裕であった)家系-の 誇りをくすぐるのと同様,夫が国教会の教区牧師-19 世紀初頭の4、さな田舎町の教区牧師といえば,農村社会 では大した有力者であった-であるその夫人に対して 巧妙におもねるものとなっていた訳である。それゆえ, Chaloner夫人は早速「ワイン・ビスケットと牛肉の野 菜巻き煮」 (290)を注文することになるのである。 これま・での考察から明らかなように, Davidが砂糖と は切っても切れない縁にある菓子職人,詳しく言えば「砂 糖菓子製造人兼焼き菓子製造人」 (288)であり,その彼 が19世紀初頭に砂糖諸島の西インド諸島(ジャマイカ) -出かけて行くということは,まさに読者に強く砂糖の 存在を意識させるものであるDavidの職業と彼が作る 菓子類は,今我々が考察している文脈で言えば,砂糖を 指示する一種の記号となっているわけである。そしてそ のDavidの愛読書がバルバドスの奴隷貿易を背景とす る「『インクルとヤリコ』の物語」であるということ, 及び,その彼によってなされる西インド諸島のプラン テーションと「ニグロの不満」 -の言及には, 17世紀後 半のバルバドスから19世紀初頭のジャマイカに至る英領 砂糖植民地での,砂糖生産と結合していた奴隷貿易・奴 隷制の長い歴史-のアリュ-ジョンが込められている, と見ることができるわけである。同様にして, GEは早 くからアメリカに対する関心を持ち, "BJ"の執筆・出 版当時そのアメリカは南北戦争で激しく揺れていたので あり,少数の白人が支配する黒人の国としてのアメリカ に関するDavidの言説には,今や内乱にまで発展した アメリカ国内での黒人奴隷制問題をめぐる対立へのア.
(9) "BrotherJacobの現実的世界に関する覚書. 59. リュ-ジョンが込められていると解することができる。. の時代風潮へのアリュ-ジョンを持つものとして特に注. しかもその対立は奴隷制をいち早く廃止したイギリスに. 目しておきたい点が二つある。. とっても対岸の出来事として済まされぬ重要な意味を 持っていたことは,既に我々が見てきたとおりである。. 一つは, Ch.1の目頭近く,その身はすでにダンスと いう身体的・形而下的なものを生業としていながらも,. 「黒ん坊間題」対「黒人問題」, 「エア援護基金」対「ジャ. 形而上学の天分を持っていることが分かった人物がなめ. マイカ委員会」の対立に象徴されるように,黒人問題・ 奴隷制問題はヴィクトリア朝中期のイギリスにおいても. た職業選択の誤りの不幸を指摘した挿話の中で言及され. 依然として未解決な論争的問題だったからである。. 267;大文字で綴られているので主として造物主のこと. ている「不可解(請)」 ([doctrineof] theInconceivable,. Davidは「キツネとコウノトリ」の寓話に出てくるキツ. を指していると解される)という哲学用語である。 "BJ". ネのように,校滑でずる賢い否定的人物として終始描き. が執筆・発表された19世紀中葉は「概念性」. 出されている。そうした否定的人物として彼が抱くアメ リカに関する見解に窺える白人優越(先)主義と黒人蔑. (conceivability)の問題をめぐって, 「概念し得ない(ち の・こと)」すなわち「不可解な(もの・こと)」. 視の原理こそ,西インド諸島の黒人間題をめぐってヴィ. (inconceivable)という用語が,哲学界のキーワードの. クトリア朝の通念を形成した多数派のカーライル的主張. 一つとなっていた。例えば「総合哲学」の第一巻として. を生み出す誤った思想として, GEによりアイロニカル. 1862年に出版された, H.スペンサーのr第一原理Jの. に断罪されているのである。. 第一編は「不可知界」 (theUnknowable)を論じたもの. GEは女性問題であれ,奴隷制問題であれ,一般に当. である。その中で彼は,当時名声を博していたハミルト. 時の大きな社会問題に対し,個人としては用心深い控え. ンの学説を詳細に写し出したマンセルのF宗教思想の限. めな態度を保持し続け,積極的に社会運動や政治キャン. 界』 (1858で述べられている見解- 「形而上学上意. ペーンに参加することはなかった。しかし個人的には積. 識現象と現実を峻別し,認識論上悟性による実在一般,. 極的にアンガージュマンの姿勢をとらなかったとはい. および神の認識は不可能であり,後者は信仰によっての. え,彼女は自らが執筆する作品の中において自己の見解 や立場を表明し,文学という媒体を通して社会に働きか. み可能」50であるとする見解-をさらに一歩進めて,. けていたと言える。ストウ夫人の小説を書評した時,. 概念し得なし.一つの「絶対」に対する信仰のうちに,料 学と宗教との唯一可能な融合があることを示そうとした のであった。スペンサーらのように知識を専ら経験的な. 「恐ろしく難しい問題」として奴隷制問題に対する自ら の政治的・社会的立場の表明を控えていたGEである. 事実の範囲に限ろうとする立場に立つ人々は,後にバッ. が, "BJ"において否定的人物として描き出されている. クスレ一によって造られた不可知論者という名称を与え. Davidのアメリカと西インド諸島をめぐる言動の中に,. られることになる。 "BJ"のダンス教師が説いた「不可. その政治的・社会的立場の表明がアイロニーという修辞. 解論」とは,その具体的内容が語り手によって述べられ. を用いて文学的になされているのである。もし読者が. ない以上,ハミルトンーマンセル的な護教諭的要素の濃. Ch.1で示唆されている,カーライル的立場に立つ. い不可知論,あるいは,スペンサー-ハックスレ-的な. Davidの姿を心に留めておくならばCh.3でJacobの. 護教諭的要素の希薄な不可知論,のいずれであるかは分. 突然の出現によって窮地に陥ったDavidが思わず口に. からない。しかし,そのことは差し当たってここでは問. する「人間は皆兄弟だ」 (Allmenarebrothers, 321)と. 題とならない。「不可解な(もの・こと)」や「不可解(な. いう言葉は,作者による痛烈なアイロニーとして響いた. るもの)」 (theInconceivable)という哲学用語が当時話. ことであろう。なぜならカーライルらが奴隷制問題で対. 題となっていたことを更に幾つかの例を挙げて碓認すれ. 立した博愛主義者達の標語こそ, 「人類は兄弟だ」 ,men. ば,それで十分であろう。. and brothersあるいはman and brother)というDavid. ハミルトンの,無制約なもの(theunconditioned)は. が口にしたのと同じ内容の,キリスト教的同胞愛を表す. 信仰の対象であるとする不可解論は, 1829年に出版され. 言葉だったからである。この言葉は,それを口にする. たF無制約なものの哲学Jや死後出版されたr形而上学. Davidにとっては心にもない,急場しのぎの空疎な言葉 にすぎない。だが,アイロニカルにもまさにそれゆえに. 及び論理学講義』 (1859-61)などの著作において述べら れているものである。後者の著作にいたく失望したミル. こそ,何よりも読者が尊ぶべき内実を持った重要な言葉. は1865年『サー・ウイリアム・ハミルトンの哲学の検討j. として,作者GEにより主張されていると見ることがで. を出版,その中で「不可解な」 (inconceivable)の意味 を三つにわけてハミルトン哲学の弱点を考察し,物議を. きるものなのである。. かもすことになる1861年に書かれたGE自身の手紙の. Ⅴ不可解論と不純物混入 語り手自身が述べている見解の中で,ヴィクトリア朝. 中にも,その数年前Fサタデイ・レヴューJに載った J.F.ステイ-ヴンのハミルトン論に言及して, 「ハミル.
(10) 60. トンの矛盾不可解論」 (Sir W. Hamilton's doctrine of contradictory inconceivables)fという言説が兄いださ れる。 GEやG.H.ルイスの書簡の内容から,彼ら両人 がハミルトンの著作を読んでいたことは明らかである が,それだけでなく,ハミルトンに関する論説にも目を 通していたことが分かる。上述のステイ-ヴンのものは GEとルイスがともに「実に見事だ」52と評した論説で ある。またGEは1853年にJ.マーティノーのハミルトン 論を読み,ルイスは1863年にコール氏のハミルトンに関 する論説を「大変興味深い」ものとして読んだことが知 られている。53このようにヴィクトリア朝時代,形而 上学の領域で不可解の問題はハミルトンの学説を中心に 議論・注目の的となっていたのであり, GE自身も少な からぬ関心を寄せていた問題だったのである。 "BJ"で ダンス教師が唱える説が「不可解論」と称されているの は,明らかに議論の的となっていたこの哲学的問題を踏 まえた表現となっているのであり,当時の形而上学に多 少なりとも通じている読者にはそのことが容易に察知さ れたことであろう。 しかしながら,ダンス教師とその反対者については, 当時の不可解の問題をめぐる対立を戯画的に風刺したも のと解することはできないようである。ダンス教師の説. て述べられた,次のような語り手のコメントである:「そ の成長期の世代の者達が小さな歯でバリバリとかみ砕く 甘い味の白鳥や他の巧妙な白い形をしたものたちのこと を思う時,私はある一定量のカルシウム食品は,骨がま だよく発達していない幼い者たちの体に良いと考えられ ていることを思い出してうれしくなる。というのも,こ れらのおいしい食べ物には,パイプの柄をデザートにす るのを習慣としていた,あのFスペクティタ-』の知り 合いの若き淑女なら,さぞ気に入ったであろう,無機的 な風味があるのに私は気づいているからである。」 (294-95)ここには明らかにヴィクトリア時代に死亡者 までが出て大きな社会問題となっていた不純物混入に対 するアリユージョンを認めることができ,それゆえ痛烈 な皮肉が込められたものとなっている。 そもそも人々の大部分が農村で暮らしていた産業革命 以前,家族の飲食物のほとんどが主婦の手作りであった 伝統社会の時代には,不正食品の横行という問題は生じ なかった。しかし工業化・都市化とともに自家生産がす たれ,商人から買った商品を消費する時代になると,悲 徳商人がはびこるようになる。54これは,既に我々が考 察した,近代社会での新式の商売に伴う弊害としてGE. に反対した者達はその説の矛盾点を形而上学的に明らか. やミルの指摘していた「個人の美徳」の喪失の他の一例 と目せるものであるoかくして産業革命が進展する18世. にすることではなく,むしろその説を唱えた人物が一介. 紀後期から不正食品の横行への非難が高まるようにな. のダンス教師にすぎないという形而下の理由を大いに利. る。スモレットの『バンフリー・クリンカー』 (1771). 用して反駁したと灰めかされているけれども,ミル対ハ. には,食料品の租悪化に関する次のような記述が見られ る: 「ロンドンで食べるパンは,チョークと明欝と骨粉 を混ぜ合わせた有害な生地で出来ており,風味もなく, 身体にも悪い。良民たちはこの不純物混入に気づいてい ない訳ではないが,.身体に良いパンよりこの方を好む。. ミルトンの例に見られるように,当時の議論は専ら形而 上学的になされていたらしいからである。それゆえ,ダ ンス教師とその反対者達は,若い時に職業選択を誤った 不幸を悟る「悲しい知恵の日」 (267)を例解する誓え話 のために専ら構想されたものであると言えよう。彼らの 対立関係によって,当時の不可解をめぐる論争的問題は 巧妙な皮肉を伴って形而下の問題へと格下げされてい き,読者の笑いを誘う。そしてその笑いのうちに,語り 手が意図する誓え話の教訓が読者に伝えられていくこと になるのである。喜劇的寓話として"BJ"は終始,この 誓え話や先に触れた黒人奴隷制問題に見られるように, 当時の深刻な事件や問題に言及しても決して深入りする ことなく,軽い皮肉まじりの喜劇的精神で持って語られ ていく。 "BJ"と同様に否定的人物を主人公とする寓話 的な短篇"TheLiftedVeil"が終始,重苦しい悲劇的精 神と陰彰な調子をもって語られていくのとは対照的であ る。良かれ悪しかれ, "BJ"の短篇としての魅力は,こ の軽妙な皮肉まじりの喜劇的寓話性に求められるのであ る。 ヴィクトリア朝の時代風潮へのアリュ-ジョンという 観点から注目しておきたい他の一点は, Ch.2で児童た ちの食べる「面白い形をした砂糖菓子類」 (294)に関し. なぜならコーンミールより白いからである。このように して彼らは味と健康を,更には彼らの幼い子供達を犠牲 にして,実に愚かにも誤った見た目だけを満足させてい る--・。」55当初,不正食品に対する大衆の非難は誇張・ 偏見と受け取られていたが, "BJ"の時代背景となる19 世紀初頭になると高名な化学者アークムが『不純食品と 料理の毒性』 (1820)を著して,食品公害の恐ろしさを人々 に知らせることになる。アークムはコショーの中には例 外なく,カラシの殻,豆の粉,杜松の実,倉庫の床のゴ ミが混入されていること,偽の中国茶は有毒な緑青で色 づけされた乾燥したサンザシの葉から作られているこ と,ピクルスは緑色に見えるように銅で処理されている こと,を証明したのである。56ェンゲルスも『イギリス における労働者階級の状態j (1845)の中で,具体例を 列挙しながら「商人と製造業者は,ある極悪非道なやり 方で,消費者の健康など全く無視して,あらゆる種類の 食料品に混ぜ物をする」57と非難している1850年代に なると,まず医学誌Fランセット』が1850年にイギリス.
(11) "BrotherJacob"の現実的世界に関する覚書. 61. の食品の品質調査をするために化学者ハッスル博士と栄 養学者レサピー博士の二名からなる「『ランセットJ衛 生分析委員会」を設置することを公表し, 1851年から「警 戒は警備なり(転ばぬ先の杖)」 (F,orewarne=orearmed) をモットーに一連の暴露記事を載せることになる。そし. する習慣を持っていた」若い淑女として,一見ビューモ. て1855年にはその委員会報告が一冊の本『食品とその不 純物混入Jとして出版され,最も高価なビール,パン, バター,コーヒー,コショウ,茶以外の全ての食品は微. のはこの箇所だけではない。既にCh.2の初めの方で,. 量の批素,鍋,鉛,もしくは水銀を含む,というその報 告が物議をかもしたのであった。 rパンチjも1851年か ら「商人たちへの説教」と題する一連の記事を発表し, いわゆる「食品業に出没する『小鬼たち山を糾弾して いくことになる。ようやく政府も1855年に特別委員会を 任命して実態調査に乗り出し,公式晩餐会に出席した三 人の人たちが亜批酸銅で色づけされた緑のブラモンジュ. ば,まだ一度も試されたことのないお茶を一家の主婦な. を食べて死亡した事件を医師ランキスターが報告したの を受けて, "BJ"が執筆された1860年ついに「不純食品 取締法」が制定されたのである。しかし,その後も不正 食品の横行は後を絶たず1872年には1860年の法律が改 正されて「不純食品・飲料・薬品取締法」が成立し,更 に1875年と1879年には「食品・薬品販売法」が制定され, 不正薬品の取締が強化されていくのである。58 では"BJ"で問題となる砂糖には,具体的にどのよう な混ぜ物がされていたのであろうか。 『リヴァプール・ マーキュリー』紙によれば, 「米粉やその他の安い材料」 及び「石鹸工場の廃物」などが挙げられている。59 "BJ" との関連で興味深いのは, 『パンチ』に載った1858年の キャンディーに関する記事である。それによるとロリ ポップという棒付きキャンディーには「焼き石膏」と呼 ばれる硫酸カルシウムが混入されている。その石灰と硫. ラスに表現されているが,これはいわゆるブラック・ ビューモアとして,不正食品を食べ続けると陥る健康不 良への恐ろしい警告が込められているのである。 "BJ"のテキストで不純物混入に言及がなされている Davidの店が開店する以前, Grimworthの商人達が Davidの商売を推量する場面, 「もし食料品雑貨商なら ら信用しないだろうということが期待できた。」 (傍点筆 者, 288)と述べられている。また, DavidがChaloner 夫人に砂糖を選ぶ時の「有益な心得」を助言した際, 「他の商人の不正について多大な説明をした」 (290)と も記されている。これらの叙述は,すでに指摘した子供 達が食べる「巧妙な白い形」をした砂糖菓子に関する語 り手のアイロニカルなコメントと相乗効果をなして, Davidの作る食品と不純物混入の関係に,読者の注意を 喚起せざるを得ない。砂糖に関する「他の商人の不正」 に熟知していたらしいDavidが作る「巧妙な白い形」 をした砂糖菓子には,語り手のアイロニカルなコメント が示唆しているように,不純物が混入されていたと推察 されるとすれば,そのことは遡及的に, Davidの店の ショーウインドウを飾る,まるで「虹」 (288)を思わす, 色とりどりのキャンディーをはじめとする菓子類の中に も当時使用されていたとされる炭酸銅,石灰酸鉛,硫酸 第二水銀,石黄,豚灰粘土その他の有害な鉱物性着色剤 など62が使用されていた公算が大きいものとして思い 返されることになる。 「虹」のイメージで捉えられてい るFreely-Davidの店の華麗で多彩な彩りをした菓子類 が持っている「華やかではあるが人を欺く魅力」63は,. 酸でできた混合物は砂糖と同様,真っ白で,当時の悪徳 業者は砂糖と一緒に,この恐るべき,人間の胃袋では「消 化されない物質」を人間の食道へ入れさせていたので あった。60 "BJ"の語り手が述べている「無機的な風味」 をもつ砂糖菓子類とは,今日で言うカルシウム入りの栄. この不純物混入という観点からも裏書きされるものであ. 養食品とは正反対のものであり, FパンチJが糾弾して いる,消化に悪い硫酸カルシウムなどの混入した不正食. ルメの鉱山業者をはじめとしてGrimworthの大半の家 庭が彼の顧客となり,彼の店は繁盛していったのである. 品のことを暗に指しているのである。この皮肉は,これ らの砂糖菓子類の持っている「無機的な風味」が大変気 に入ったであろう人物として「『スペクティタ-』の知. が,彼の店の食品のすべてではないとしてもその一部,. り合いの若き淑女」が引き合いに出されていることに よって,一層明白なものにされているoこの淑女とはFス. 加物が使用されていたらしいことが語り手の皮肉なコメ. ペクティタ-Jの第431号(1712年7月15日)に載って いる人物のことである。彼女は寄宿学校に入って,最初 はオートミール,続いてパイプ,チョーク,蝋,雷石, 庭壁,石炭ばかりを好んで食べ続けていたため,ついに. 物混入批判が合意されているのである。さらに深読みを. 「死神そのもの」61のようにガリガリにやせてしまった というのである。 "BJ"では「パイプの柄をデザートに. いたらしい。うかつにも狭狩なDavidを早々に信用し. ると言えよう。 確かにDavid-Freelyの店の食品は,見た目だけでな く,熟練を身につけた職人Davidによってプロフェッ ショナルに料理されたものとして味も良かったため,グ. 特に子供達が食べるような安価な菓子類には,当時はび こっていた「他の商人の不正」の例に漏れず,有害な添 ントによって雄弁に示唆され, GEによる時事的な不純 試みれば, Davidの商売を推量する場面でのGrimworth の商人達の言葉が示唆しているように, Grimworthの 人々も不純物混入が世間で横行していることを承知して てしまっていたという一面はあるものの,家庭での手作.
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