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労働力の個別的評価と社会的評価
池 上
惇 1 はじめに 一社会政策論争と労働力の評価 資本主義社会における労働力商品の生産と再生産に関する論議は,各論者の 経済理論の核心とも言うべき重要な位置を占めている。 賃金決定の理論における限界生産力説と生計費説の対立はいうまでもなく, 労働力商品の生産における特殊性に着目し,本来,商品としては生産しえない 性質のものを,無理に商品の形態規定性の枠のなかにおいて生産しようとする ところに資本主義社会の矛盾を見出した宇野弘蔵博士の見解などは,その典型 と言うことができよう。 また,日本の社会政策論争において,社会政策の根拠を検討する場合にも, 労働力商品の取り扱いは重要な意味をもった。とりわけ’,個別資本は,労働力 商品が,人間の人格によってになわれているという事情を度外視して,もつぼ ら,利潤増大をめざして労働者を酷使するため,人間の生命力の根源をおびや かすに至るという事態がある。これに対して,工場立法などの社会立法が成立 しうる根拠は,個別資本の立場を超越した社会的総資本の合理的な態度にあ る,という見解は,その典型的な立場である。故大河内一男教授によれぽ,「… …社会政策は,資本主義的営利経済に対する『社会的正義』や単なる『公平感』 の所産ではなく, 『営利活動』を産業社会総体として平準的に遂行し, 『年々 の再生産』が生産要素たる『労働力』について安定的に行はれるために,総資 本の立場から,換言すれば,経済社会の胎内から,其の内的必然性,機構的必 1)宇野弘蔵「マルクス経済学原理論の研究」岩波書店,1959年,20ページ,および, 138ページをみよ。106 河野稔教授退官記念論文集(第228,229号) 然性として,要求せられる所のものが,社会政策に外ならないのである。換言 すれば,それは資本主義経済がその労働力経済において遂行する自己保存行為 2) の体系である。」 このように,個別資本と総資本における労働力商品への態度のちがいを強調 する見解に対して,工場法などの諸立法は,資本の競争過程における労働力の 無制限な略奪的収奪に対する階級闘争の所産であるとする有力な反論が試みら れた。例えば,故岸本英太郎教授は次のように指摘される。 「剰余労働=剰余価値に対する無制限な欲望をもつ資本は,競争に媒介され て,阻碍されることがなければ,労働力の無制限な略奪的搾取につき進むもの である。これは資本の運動における盲目的な必然である。労働者階級の絶えざ る抗争のみがこれを抑制し緩和するのである。従ってあらゆる現実の労働条件 は,それが高かろうが低かろうが階級闘争=労資の力関係に媒介されているの である。かくて社会政策から階級闘争の契機を引離したり無視したりすること 1ま,……労働過程と価値増殖過程との対立物の,生産関係=価値増殖過程主導 のもとに統一されているところの資本制生産様式の矛盾にみてる自己運動を理 の 解し得ない生産力説的誤謬であるといわねばな:らないのである。」 ここでは,総資本による労働力の価値の保全ではなく,階級闘争の結果とし ての国家による労働力の保全,あるいは, 「資本による労働力の価値収奪を抑 制緩和する」問題が強調されている。大河内教授は,この「生産力説」批判に ついて,1970年に刊行された「社会政策40年一追憶と意見一」のなかで, 先の教授の定義を社会政策の「経済的必然性」と呼び,階級闘争による社会政 策の定義を「社会的必然性」とした上で,つぎのように指摘された。 「その『社会的必然性』はこの『経済的必然性』からばなれ,それとは無関 係に存在すると考えられないことです。」と。いわぽ,階級闘争は,「労働力と してすでに高い意識や組織」をもち,「高い生活水準」への欲求をもつ高度な 労働力をつくりだすことはできるが,この高度な労働力を保全するのは,やは 2)大河内一男「社会政策原理」勤草書房,1951年,91ページ。 3)岸本英太郎「社会政策論の根本問題」日本評論社,1950年,39ペーシ。
労働力の個別的評価と社会的評価 107 り,総資本による労働力商品の保全,つまり, 「経済的必然性」にほかならな のいとされるわけである。したがって,同教授よりみれば,批判者の見解は,一 ヨラ 種の「勢力説」とみなされることとなる。 この論争は,以後も,多くの論者によって取り扱おれ,論点も多岐にわたる ので,到底珍事の能くカバーしえない範囲を含んでいるQここでは,この論争 の原点にたちかえって,両者の立場に共通する論点に着目してみたい。それ は,両者とも,個別資本の競争のある限り,労働力商品の「保全」は不可能で あり,総資本,または,総労働の立場から,国家による「保全」措置が不可避 であることを認めている点である。そして,それは,ある意味では,当然のこ とであって,両者の論拠となっている「資本論」の叙述自体が,この双方の点 をそれぞれの特徴ある箇所で指摘していて,マルクスが着目していたのは,個 別資本の利益と総資本の利益のギヤヅプ,および,個別資本の利益と総労働者 の利益のギャップにほかならなかったからである。 例えば,eg 1部,第8章では,つぎのような指摘がみられる。 「この法律(イギリスの工場法一引用者)は,国家の側からの,しかも資 本家と大地主との支配する国家の側からの,労働の強制的制限によって,労働 力の無際限な搾取への資本の衝動を抑制する。日々に脅威を増してふくれあが る労働運動を別とすれぽ,工場労働の制限は,イギリスの耕地にグワノ肥料… …を注がせたのと同じ必然性の命ずるところだった。一・方の場合には土地を疲 弊させたその同じ盲目的な略奪欲が,他方の場合には,国民の生命力の根源を の 侵してしまったのである。」 他方,第13章では,つぎのように述べられている。「『児童労働調査委員会』 の徹底的に良心的な調査が実際に証明するところでは,いくつかの産業では, すでに充用されている労働量を一年じゆうにもっと均等に配分させるには労働 4)大河内一男「社会政策四十年一追憶と意見」東京大学出版会,1970年,243ペー ジ。 5)同上,248ページ。 6)KMarx, Das Kapital,1. S,253.(全集刊行会訳,大月書店版,①310ページ。)
108 河野稔教授退官記念論文集(第228,229号) 日の規制によるよりほかはないのであり,この規制は,殺人的で無内容でそれ 自体大工業の体制には不適当な流行の気まぐれにたいする最初の合理的な制御 なのであり……。とはいえ,資本は,その代弁者の口をつうじて繰り返し明言 されているように,労働日を強制法的に規制する『一つの一般的な法律の圧力 7) のもとでのみ』このような変革に服するのである。」 ここにいう一般的な法律 の制定が,階級闘争の反映であると解すれば,マルクスの規定自体が,「経済 的必然性」と「社会的必然性」の双方を重視した叙述となっていることは否定 しがたいように思われる。 そこで,新しい視点をすえてみよう。それは,労働力商品に対する個別資本 の評価と,総資:本や総労働からの評価とのギャップは,どこからでてくるのか ? 個別資本による評価と総資本による評価とのちがいは,どこからでてくる のか? さらに,総資本による評価と総労働による評価のちがいは,どこから でてくるのか? これらの相違と,社会の意志決定のメカニズムのなかで,こ のギャップが埋められてゆく過程を解明しえたならば,社会政策の本質も,よ りあきらかになるであろう。そして,このような個別資本の評価と社会的な評 価とのギャップは,実は,労働力商品に関してあるだけではなく,今は,大き な社会問題となりつつある環境や,さらには,公共サービスや,もしかすると, 一般の商品についてさえ,存在しうるかも知れない。そうなれば個別資本によ る私的評価と,総資本,総労働などによる社会的評価との差異とその差異の克 服という課題は,経済学上の根本問題にまで発展するかも知れないのである。 皿 個別資本による労働力の私的評価とその修正 一般に,資本聞競争を前提した上で,相対的過剰人口の形成を仮定すれば, 個別資本による労働力の評価は,「いつでも,とりかえのきく労働資源」であ り,賃金,労働条件は,生存水準以下に低下する傾向をもつと仮定することが できる。しかも,機械と労働者との競争が激化し,熟練や技能の水準がたえず 7)Ibid., s.503,①624−625ページ。
労働力の個別的評価と社会的評価 109 無価値にされてゆく,という前提のもとでは,個々の,流動化され,移動しつ つある労働力に対する評価は,たえず,低下する傾向をもつ。また,婦人や年 少労働者が増加し,労働力の価値の分割という事態がすすめば,個々の労働力 に対する評価は,ますます,低下することになるであろう。これらの諸点に着 目すれば,社会政策論争の双方の立場が等しく認めた「個別資本による労働能 力の消耗,または,損傷」の傾向は,これを事実として,議論の前提におくこ とができる。 このような消耗や損傷の傾向を認識し,個別資本の立場をこえた,ひろい, 長期的な視野から問題をつかみ,労働力を社会的な視野から評価する,という 思想をもっとも体系的に展開したのは,K. W.カップであった。 彼は,「生産過程における人間の健康および能率の損傷」について,企業者 が,これをどのように取り扱うかを鋭く洞察し,つぎのように述べている。 「企業者が彼ら自身の利益という立場から一労働者の健康の損傷は彼らの 能率を減じ,その結果生産費を増加するがゆえに一健康且つ安全な労働条件 を用意する傾向があるであろうという議論をなす者もあるかも知れない。しか しこの議論は二つの点を見落している。第一に,私的生産者は低能率の労働者 を留めて置く義務はないのであって,未だその能率が不健康な労働条件によっ て損なわれるに至らない新労働者を雇入れさえずればよいのである。第:二に, 安全と健康保護とのための施設は,究極においては労働能率を高め生産費を低 めるのに役立つけれども,必然的に生産者の現在の生産費を高め,このことに よって彼の競争上の地位に不利に作用する。……この種の人的要因の損傷によ って生ずる損失は,被害労働者が負担するのか,或いは医療,入院および救済 のための公共支出の増大という形で納税者が負担することとなるであろう。こ のようにこれらの損失は,事実上適切な社会立法が存在しないために,私的企 業の運営費に課せられずに主として労働者または社会によって負担されるので あるから,それはこの研究でこの言葉が用いられている意味での典型的な社会 8) 的費用となるQ」 8)K.W. Kapp, The Social Cost of Private Enterprise,1950.篠原泰三訳「私的企業
110 河野稔教授退官記文念論集(第228,229号) ここで,カヅプは,社会政策論争が提起しなかった一つの重要な視点を示唆 している。それは,社会による社会的費用の負担問題,つまり,社会という立 場からみた私的企業的評価の修正という視点である。そこで,従来の総資本, 総労働(あるいは階級闘争)という社会政策論争上の視角と,カップのいう 「社会」の視角との関連を問うことが必要となろう。また,社会政策論争では 意識されていなかった「社会的費用」という概念の吟味も必要とされるであろ う。 カップが想定する社会は,代議制民主主義のもとで,社会的目標や公共目的 の政策策定をおこなう専門的公共機関の活動をそのうちに含んでいる。この機 関は,私的便益とは区別される社会的便益をつくりだす。彼はいう。 「社会的便益は分割不可能であるから,それを作り出したものの手を離れ, 自動的に万人のものとなる。社会的便益を組織的に生産してゆくためには,社 会的目標や公共目的の策定にたずさわる専門的な公共機関による社会活動が必 要になる。つまり,社会的便益は私企業では作られないから,それをつくりだ 9) すためにはどうしても共同の決定が前提となるのである。」 ここに,カップが言うところの「専門的な公共機関」を,社会政策論争の素 材であったイギリス工場法のシステムにおいて見出し得るとすれば,それは, 工場査察官の制度を意味することはいうまでもない。多くは医師であった工場 査察官は,文字通り,専門的な知見を活用して,労働者の健康状態や教育水準 を客観的に把握し,それにもとづいて,労働時間,労働条件,公衆衛生等々の法 的規制を実行した。彼らの眼前で展開されていたのは,カップのいう社会的費 用の負担にあえぐ労働者の貧困状態であり,彼らは,自然科学上の知識によっ て,この社会的費用の発生の原因を認識し,市民社会における人権の原理にし たがって,人間の健康にして,文化的に生きる権利を擁護したのである。この 点からいえば,代議制民主主義における人権の擁i護という憲法的ルールと,自 と社会的費用」岩波書店,1959年,55−56ページ。 g)K.W. Kapp, Environmental Disruption and Social Costs,1975.柴田徳衛,鈴木 正俊訳「環境破壊と社会的費用」岩波書店,1975年。
労働力の個別的評極と社会的評価 111 然科学,医学の知識によって劣悪な健康,文化水準の原因を資本主義的労働環 境にあることを証明してゆく専門性の発展こそは,社会的費用の発生原因を人 閲社会が認識し,その発生を防止,あるいは,制御する上での不可欠の要件で あった。つまり,端的にいえぽ,民主主義と自然科学を媒介にしてはじめて, 個別資本による不当な労働力評価を修正し,社会的な視野からこれを修正する ことができ,また,修正のためのシステムを公共機関として確立することがで 10) きるのである。 このようなカップの「労働力に対する社会的評価」の視角は,社会政策論争 における「総資本」 「総労働」の立場を基準とした労働力評価とは,あきらか に次元の異なるものである。ここにあるのは,民主主義と科学のルールに媒介 されて,社会構成員が社会を自分たちの制御のもとにおく,という一種の「市 ll) 民社会」であった。 では,このような意味での「市民社会」を総資本の代表委員会としての国家 や,階級闘争の非和解的な性格に規定された国家とくらべてみるとき,あるい は,この「市民社会」と国家との関係を問いかけてみるとき,労働力の評価や 社会政策の本質規定は,どのような影響をうけるであろうか? 言うまでもないことであるが,わが国の社会政策論争は,上に述べた意味で の「市民社会」と国家とを方法的に区別することなく,国家をある人は,総資 本の合理的意志のにない手として,ある人は,階級闘争の非和解性の産物とし てのみ描きだしてきた。それ故に,労働力に対する個別的評価の修正は,「市 10) 社会的費用の認識を媒介とした主権意識の形成と成長の過程については,池上惇 「管理経済論」有斐閣,1984年,53ページ以下。また,この問題を哲学上の認識論と して展開したものに,池上惇「科学的認識と共感の論理」『現代と唯物論』No.8, !984年2月号。 11)「市民社会」という言葉は,従来,さまざまに定義されてきており,とりわけ.初 期マルクスの市民社会概念が社会科学の文献においては,よく普及されてきた。ここ にいう「市民面会」は,人間が自分たちで自分たちを統治する力量を発展させっっあ る,という点に着目した「人間独自の社会形成の特質」を指す言葉である。なお, Buci−Glucksmann; Christine, Gramsci et L’etat, pour une th60rie mat6rialiste de la philosophie, Paris,1975(大津真作訳「グラムシと国家」合同出版,1983年p)
112 河野稔教授退官記念論文集(第228,229号) 民社会のルール」によって媒介されることなく,いきなり「総資本の利益」「労 働者階級の利益」の反映とみなされてきた。社会政策の「経済的必然性」とか 「社会的必然性」とかいう表現は,一見すると,はげしい対立を示すが,よく 考えてみると,いずれにしても,国家による労働力の保全という点に共通点が みいだされやすいのは,そのためである。 もし,「市民社会」の視点を媒介として,階級闘争におけるヘゲモニーが, 闘われ,争われる場として,つまり,総資本と総労働のいずれが,より多くの 社会構成員の合意を民主主義と科学のにない手として獲得しうるかを争う場と して「公共機関」の存在を位置づけるならば,労働力に対する社会的評価は, より総合的なものとなり得たのではあるまいか? もし,労働者階級の利益が,自分たちの階級を解放するだけでなく,社会の 人間全体を解放するところにあるとすれば,労働者階級の利益を実現する闘争 は,徹底した人権・民主主義の擁護と科学の尊重・発展を媒介としなければな らない。それによってこそ,工場査察官を含めた中間階級の合意や,社会の圧 倒的な多数者の合意を得て,「公共機関」を公正に運営し,公共性を媒介とし て,階級としてのヘゲモニーを発揮することができる。 そうなると,労働者階級の側からみた労働力の社会的評価は,労働者を個別 資本にとっての搾取の材料とみるせまい視野から解放されて,労働者を,労働 し,消費し,統治しつつ全面的に発達しつつある存在として評価せざるをえな くなり,労働力をにな:う人格そのものを含めて,労働力の評価をおこなうとい う視点をもたざるをえなくなる。カップのいう社会的費用の認識は,つきつめ れば,人間の発達可能性,あるいは,人格としての成長のポテンシャルにまで 及びうるものとなるであろう。そして,この視角から,労働力の個別的評価と 社会的評価のギャップを認識し,克服してゆく過程として社会政策を位置づけ 12) ることができるのである。 他方,総資本による社会の支配は, 「市民社会」を媒介とする場合,形式上 12) 「私は,社会政策の目的は,社会に属するあらゆる成員が人格の成長を為しうる社 会組織を構成することであるとする。」河合栄治郎「社会政策原理」初版,6ページg
労働力の個別的評価と社会的評価 113 は,民主主義とその名において,国民多数の合意をとりつけ,中間階層を官僚 や団体に組織化する過程を通じて進行せざるをえない。しかし,労働者階級の 場合とちがって,総資本は徹底した民主主義や,科学の発展を追求することは できない。なぜならば,総資本といえども,利潤の追求は至上命令であり,そ れに必要な限りで,科学と民主主義を許容しうるにすぎないからである。した がって,総資本は,営利の原則を公共機関にもち込み,公共機関の官僚化をす すめ,専門職者や中間階層の一部分に特権的地位をあたえて,社会政策を空洞 化し,これを労働者に対する権力装置に転換させようとするたえざる志向をも っている。それ故に,資本主義社会における公共機関は,一:方では,これを本 来の公共性をもつものとして,公正かつ,民主主義的に形成し,運営しようと する動きと,他方では,これを利権化し,官僚化し,公民から切り離そうとす る動ぎの問のはげしいヘゲモニー争いが展開される空聞となる。このような状 況のもとでの総資本による労働力の評価は,人間の発達や人格の形成までを視 野に入れることはできず,せいぜいのところ「労働力の保全」あるいは,「人 的資本の形成」に限定されるに至るであろう。それ故に,総資本による労働力 の評価は,個別資本による労働力の評価と,公共性をになう総労働の視野がと らえた労働力の評価(人聞の全面発達をもたらす潜在能力)の中間にある,と 13) いうことができるであろう。 皿 人間と労働の潜在能力の評価をめぐって 労働力の個別的評価と社会的評価の差異を認識し,このギャップを公共機関 の設立によって克服してゆこうとする場合,社会的評価の内容をさらに深く検 討する必要が生じてくる。 経済理論の歴史においても,個別的評価と社会的評価の差異の認識は,社会 的費用や「外部性」の認識からはじまっている。市場価格や,個別資本の資本 13)労働不能ないし中断の場合の生計費の理論的取扱いについての優れた分析は菊池光 造「労働経済分析の基礎理論」岡山大学経済学会心誌2巻2号,45ページ以下。 14) Turvey; Ralph, On Divergences between Social Cost and Private Cost, Eco nomica, Aug, 1963.
114 河野稔教授退官記念論文集(第228,229号) 蓄積過程におけるコストは,しばしば,外部経済や外部不経済を反映しない。 それ故に,カップが言うとおり,市場価格は,財の社会的評価の基準としては 疑わしいという主張も登場することとな:らざるをえない。彼はいう。 「マックス・ウェーバーや彼以前および以後の多くの者がはっきりと証明し たように,貨幣価格は市場支配力や利害関係の衝突や妥協の産物である。こう した理由から,市場価格は,たとえ,『まったくの主観的評価ではなしに』数 字でその額が示されていても,本質的に言って,明白かつ客観的なものとする には程遠い。ウェーバーは,主観的価値判断の多くが原則として科学的妥当性 の範囲をこえると考えたが,まことに少数の独占体が価格を決定する世界にお いては,市場価格も主観的価値判断の多くと同じようにr客観的』妥当性を欠 15) いているのである。」 カップの言う客観性の意味についての議論はしばらく措くとして,この指摘 を労働力商品の市場価格にあてはめて考えてみれば,個人の労働力商品につけ られた貨幣価格は,その背後にある多くのものを評価しておらず,それ故に, 労働力の社会的評価を誤り,労働力を浪費し,あるいは損傷して,社会的費用 を発生せしめる,ということにならざるをえないであろう。 それでは,個別的評価の対象となっていない「その背後にある多くのもの」 とは何であろうか? ごく常識的に考えれば,それは,労働力をになう人格と しての人間の最低生活水準の確保の必要性,ともいうべきものであろう。いわ ぽ,最低限の生活水準の確保なしに労働者を酷使しつづけると,労働力そのも のが損傷してしまう,とする認識がそうである。 しかし,よく考えてみると,この「最低限の生活水準」という概念によっ て,労働力の社会的評価の一部分が把握せられるのは事実であるとしても,社 会的評価の全体が把握しうると考えることはできない。なぜならば,前節で述 べた「労働し,消費し,統治する人格」は,資本の指揮にしたがって,そのと きどきに必要とされる精神労働や筋肉労働をおこなうものの,その全体として 15)K。W・KaPP・前掲書,96ペー一一ジq
労働力の個別的評価と社会的評価 !15 の潜在能力を評価されることはきわめて困難な状況にあるからである。 現代の労働過程の研究において,この点に着目し,強調したのは,ハリー・ プレーバーマンであった。彼はいう。 「労働は,あらゆる生命過程や身体機能と同様に,個人の譲渡しえない所有 物である。筋肉と頭脳とはそれを所有する教導から引き離しえない。ひとは… …自分自身の労働能力を,どんな価格であろうと,他人に与えることはできな 16) い。」 「……人間の労働力に独自な能力は,剰余を生みだすことができるというこ とではなく,むしろそれがもっている知的な合目的的な性質である。この性質 が,人間の労働力に無限の適応性を与え,そして,それ自身の生産性を増大さ せるための社会的,文化的な諸条件を生みだすのであり,それによって剰余生 産物が不断に拡大されうるのである。資本家の観点からすれば,社会における 人間のこの多面的な潜在能力が彼の資本を増殖させるための土台である。…… しかしながら,資本家が人間の労働力のこの独自な質と潜在力をあてにして いるとするならば,この質こそまた,その不確定性のゆえに資本家が直面する 最大の挑戦と問題とをなすものとなる。…… 彼が買い入れるものは潜在力においては無限であるが,その実現にさいして は,労働者の主体的状態,彼のこれまでの歴史,企業の特定の状態とそのもと で労働がなされる一般的社会状態,および労働の技術的背景によって,規定さ れるQ・・…・ こうして,資本家が建物,原料,道具,機械等々を買うときには,彼は労働 過程のうちに占めるそれらの位置を正確に評価できる。……しかし,彼が労働 時間を買い入れるときには,その成果は確実でないし確定されたものでもない ヱわ ので,このような仕方で正確にまえもって計算することはできない。」 16) Braverman;Harry, Labor and Monopoly Capi亡al, The Degradation of Work in the Twentieth Century,!974, P.54,富沢賢治訳「労働と独占資本」岩波書店,1978 年,59ページ。 !7)Ibid.. pp.56−57.訳書,61−62ページ。
116 河野稔教授退官記念論文集(第228,229号) 上の引用からもあきらかなように,プレーバーマンは,資本と賃労働という 対立関係のもとで,当面の利益を利潤として実現しようとする個別資本の立場 からすれば,労働能力の潜在的なものを正確に計算し,かつ,評価することは 不可能であることを示唆している。 そして,個別的評価と社会的評価の問のギャップは,協業や分業や機械の導 入などの諸契機が発展すればするほどに,ますます埋めがたい大きさに拡大し ていってしまう。 プレーバーマソが上に述べた意味において人問労働の潜在能力を資本家が評 価しえないとする場合,そこにおける潜在能力は,一種の適応能力であり,こ の労働能力をになう労働者たちが,個々に適応能力を発揮するのか,それと も,集団として発揮するのかは,まだ,問われていない。しかし,現実の労働 過程は,集団的,または,協業的に組織され,協業の土台の上で,分業,道 具,機械の導入がおこなわれるのがつねである。このような集団的な労働のあ り方を念頭におくならば,そこでは,労働の集団的形態がもつ潜在能力の評価 が必要とされるであろう。例えば,協業の生産力は,個々人の生産力の単なる 総和ではなく,それ以上のものをつくりだすし,分業や機械の導入は,この傾 向をさらに強める。 しかし,資本家は,労働者に:賃金を支払うとき,これらの集団の生産力に考 慮を払う必要はない。これらは,資本家にとって,いわば無償の役立ちをする のであって,賃金は,あくまで,個々の労働者に対する評価によって,さしあ たりは定められてしまう。 例えば,プレーバーマソは,バベッジの「機械とマニュファクチュアの経済 論」を例にとって,つぎのように述べている。 コ ウ 「労働力の売買に基づく社会では職業の分割はその各部分を低廉化する」と。 労働の潜在力をその適応性のみならず,集団としての生産力を生みだす潜在 能力としても評価するためには,現存の賃金制度は,あまりにも狭い土台にし ユ8) Ibid., P.80,訳書,88ページ。
労働力の個別的評価と社会的評価 1!7 か立っていない。個々の労働力が,資本にとってのコストとして評価されや場 合,それは,個別化された労働能力としての再生産費を計算に入れるだけであ る。そうであれば,労働の潜在能力を総体として,集団性とのかかわりにおい て評価することは,もはや不可能というほかはない。 したがって,個人の労働能力は,例え,その価値どおりに評価されたとして も,その労働能力の適応性と集団とのかかわりにおける潜在性を全面的に評価 することは絶対にでぎないのであって,このギャップの固定化や拡大は,資本 主義社会における重要な法則として作用する。 従来,いわゆる窮乏化法則や貧困化法則の研究において,労働力の価値以下 への低下傾向を貧困化というのか,それとも,労働力の価値どおりの販売を前 提としてもなお,貧困化を論証しうるのか,という二つの見解がしばしぼ対立 し,論争をくりひろげてきた。例えば,岸本英太郎教授は,「窮乏化法則と社 会政策」において,いわゆる「労働力の価値以下説」を展開され,労働市場に おける相対的過剰人口の圧力によって,労働力商品の価値どおりの販売はたえ ざる困難に直面することを論証しようとされた。これに対して,価値法則を前 提する限り,価値と価格の恒常的な乖離はありえないのであって,貧困化法則 といえども,労働力の価値どおりの販売を前提とした上で論証せざるを得な い,という主張が対置された。その主張の中心は,いうまでもなく岡稔教授の の 見解である。 ここにいう「価値どおり」の労働力商品の取引においても,貧困化がありう る,いや,むしろ,必然であるとすれば,その内容は,何かが問われるであろ う。そこで,先に本稿で展開した個別的評価と社会的評価の差異をこの問題に 応用してみるとすればどうなるか? 労働力商品の個別的評価は,単に主観的な評価なのではなくて,実は,人間 を労働の潜在的能力の総合的評価から一つの側面を抜きだしてきて,その一面 化された評価を固定化する,という性格をもっている。その意味では,たと 19) 横山正彦編「マルクス経済学論集」河出書房新社,1960年,岸本英太郎「窮乏化法 則と社会政策」有斐閣,!955年,参照,
118 河野稔教授退官記念論文集(第228,229号) え,最低限度の生計費を保障した「労働力保全」の費用が賃金として支払わ れ,それは,資本家にとってみれぽ,労働力の価値どおりの購買であり,労働 者にとっても,労働能力を資本のために維持し.うる,という意味での価値どお りの販売であったとしても,人間と労働の潜在能力の発揮がこの一面的な,個 別化された評価によって妨げられ,人間としての生存と発達にとっての障害が 増大するならば,これはあきらかに「貧困化」と呼ぶにふさわしい。 例えば,協業の本来的性質としての労働の指揮の力量が,労働者から奪われ て,資本家のもとに集中され,個々の労働者の労働を指揮する力:量が貧困化さ れ,交替で,協業を指揮する力:量が低下したとすれば,それは,たとえ,個別 的に労働者の最:低生活を保障しうる賃金を支払ったとしても,あきらかに労働 者の貧困化は進行していると言わざるをえない。この過程は,分業が固定化さ れ,機械の導入によって,固定化された分業にともなう熟練や技能がが,たえ ず台なしにされる度合いが大きくなればなるほど,ますます深刻化する。ここ に言う「貧困化」は,端的に定義するとすれば, 「人間と労働の潜在能力の総 合的な実現が,資本主義的雇用関係のもとで,より大きな障害につきあたり, 人間の諸能力がより貧弱な,一面的な形でしか実現しえない傾向」を指すもの ということになるであろう。 私は,1973年に公表した論文において「資本論」における次の指摘に着目し た。そこでは「……全体労働者したがって資本の社会的生産力の豊富化は,労 の 働者の個別的生産力の貧弱化によってもたらされる。」 と述べられている。マ ルクスのこの叙述は,基本的に,マニュファクチュアを念頭においたものであ るけれども,協業,分業,機械の導入などの諸契機が,指揮する労働と指揮さ れる労働の分業を固定化する限りは,資本主義的串産の基本的傾向とみなして さしつかえないであろう。つまり,「部分労働者たちにたいして,物質的生産 20)KMarx, Das Kapital, Bd.1. S.383.全集刊行会訳(大月書店版)①474ページ。 なお,文中の引用は,青木書店,長谷部文雄訳の訳文であり,全集刊行学徳は「…… 全体労働者の,したがってまた資本の,社会的生産力が豊かになることは,労働者の 個人的生産力が貧しくなることを条件としている。」となっているp
労働力の個別的評価と社会的評価 119 過程の精神的な諸能力を,他人の所有として,また彼らを支配する権力とし て,対立させるということは,マニュファクチュア的分業の一産物である。こ の分離過程は,個々の労働者たちにたいして資本家が社会的労働体の統一性と 意志とを代表している単純な協業に始まる。この過程は,労働者を不具にして 部分労働者にしてしまうマニュファクチュアにおいて発展する。この過程は, 科学を独立の生産能力として労働から切り離しそれに資本への奉仕を押しつけ ヨユ る大工業において完了する。」ということができるのである。 この点を労働力商品の価値とのかかわりで当時,私は,つぎのような定式化 を試みた。 「……彼(労働者一引用者)は,個人としては貧弱な生産能力でしかないが, 社会的結合の下では巨大な利潤を資本家にもたらす能力を使用価値とし,労働 力商品としての限定された自己の労働能力と生命力を再生産する費用としての の 労働力の価値をあらわす報酬として賃金をうけとる。」と。 また,1980年に公刊した「現代国家論」(青木書店)では,「貧困化」の定義 として,つぎのように述べている。 「……貧困化というのは,(1)人間が財産の所有,とくに土地の実質的な所有 関係から切り離されて,不安定な雇用に依存して生活するようになること(財 産からの自由)および,②それまで人間の相互の協業や協力の基礎となってい た血縁(家族共同体)や地縁(地域共同体)から切り離され,独立の人格とな るかわりに,共同体のr温かな生活の保障』から切り離されることをその出発 点とします。そして,この『二重の意味』で自由になった人間としての労働者 階級が,資本による自然と人間の潜在的生産力の利用,営利と利潤目的のため の生産力の開発によって,集団としての生産力は高まりますが,個人としての 生産カーとくに労働の能カーが貧弱化し,それにともなって消費や統治の 21)Ibid., S.382,訳書,473−474ページ。 22) 「ジュリスト」No.537(1973年6月)に初出,「現代貧困論」として,池上惇「現 代資本主義財政論」有斐閣,1974年(第一刷)1982年(第二刷)の終章として再録。 同書,274ページ。
120 河野稔教授退官記念論文集(第228,229号) 23) 能力も貧弱化してゆきます。」と6 上の引用からあきらかなように,人間の労働能力や生命力の貧弱化や一面的 発達は,資本主義的貧困化の基本的特徴であり,かかる意味での労働力商品の 価値どおりの販売を前提することは,貧困化法則の定義と何ら矛盾するもので はない。 資本主義は一方において,協業,分業,機械制大工業等々を発展さぜ,近代 的教育制度をつくりだして,人間と労働の潜在能力を無限に引きだしうる条件 をつくりだした。しかし,他方,同じ資本主義は,資本主義的雇用関係のもと で,この潜在能力を部分的,一面的にしか実現しえないメカニズムを同時につ くり出したのである。そして,人間と労働の潜在能力に対する総合的で社会的 な評価と,個々の労働者について,労働市場においてあたえられる個別的評価 との問には,大きなギャップが生みだされ,拡大される傾向がみられるのであ る。では,このギャップを埋めうるか否か,それをすくなくとも,縮少にむか わせる条件は何かが問われなければならないQ IV 潜在能力の形成と実現の政治経済学 政治経済学において,商品の個別的評価と社会的評価にギャップがあること を公然と認めるに至ったきっかけは,多くの場合,環境問題であった。わが国 において,この点にいちはやく注目されたのは,公害研究の第一入者,宮本憲 一教授であった。教授は,主として,K. W.カップの主張に着目しつつも,自 然の潜在力を破壊する資本主義的開発の影響に着目され,復元不可能な破壊を 「社会的損害」と名づけ,個別資本の費用計算に入り込みえないこの「社会的 損害」の存在こそ,営利活動の限界と公共部門の本来の機能を浮き彫りにする ものであると主張された。 また,末石富太郎氏と植田和弘氏は,社会金属学の提唱において,個別の商 23)池上惇「現代国家論」青木書店,1980年(第一刷)1981年(第三刷),102−103ペ ージ。 24) 宮本憲一「社会資本論」有斐閣,初版,1967年。
労働力の個別的評価と社会的評価 121 品としての金属製品の評価と,金属の生産,販売,消費,廃棄,再生利用,リ サイクルの過程を全体としてみた場合の社会的評価との間には,大きなギャッ プが存在することを示唆された。両氏の業績は,個別的評価と社会的評価のギ ャップが,環境自体の評価のみならず,個々の製品の評価についても普遍的に あ 存在することを示唆した点で,画期的な意義をもつ。 入営と労働の潜在能力の評価については,小論で述べたとおりであるが,こ のように,製品,人聞,環境など,経済学が対象とすべき諸事象について,個 別的評価と社会的評価のギャップが存在しているとすれぽ,この差異の発生原 因を知り,この差異を克服してゆく課題というものが,人間による人間と自然 の制御という過程において,重要な意味をもってくることはいうまでもない。 従来,社会を対象とする社会科学や経済学の方法は,単純に,自然科学の方 法と同一視されることが多く,分析と総合によって社会や経済の全体像を把握 しうるとする主張が数多く,おこなわれてきた。科学という共通点において, 社会科学と自然科学とみる限り,このことは真実である。しかし,社会と自然 との最大の相違は,社会が,人間による自分たちの生活過程の制御という問題 をその本性として持たざるをえず,それ故に,人間が,社会に対する認識を深 化させるにつれて,社会を制御するシステムもまた,急速に発展し,この認識 と制御の過程そのものが,社会科学の対象を特徴づける,ということも,また, 真実であろう。 したがって,社会科学における個別的評価は,決して,主観的評価を意味せ ず,むしろさしあたって与えられた社会システム(例えば,資本主義的生産関 係)のもとにおける客観的な評価(労働力商品の価値どおりの売買)を反映し ている。しかし,同時に,労働市場における労働力商品の実現は,労働力をに なう人間の潜在的な力量を総合的に評価しえたものではないことも客観的事実 であって,このギャップの克服過程の合法則性を研究することもまた,社会科 学の重要な対象となるであろう。この視点は,ある意味で,社会科学方法論の 25)末石富太郎,植田和弘「社会金属学の提唱」『日本金属学会報報』20巻6号,1981 年。
122 河野稔教授退官記念論文集(第228,229号) 26) 根本的転換である。 さて,労働力商品の個別的評価と,人間と労働の総合的評価ふまえ,個々の 労働力の実現にあたって,総合的評価の反映しうるシステムを構想し,その客 観性を提示する作業をおこなうためには,その両評価のギャップが生ずる原因 を探求しなければならない。この原因は,資本主義三生産における指揮するも のと,指揮されるものとの分業の固定化に,とりあえずは,求めることができ る。潜在的に総合的な力量をもつ人々が,その力量を発揮する機会を持たない ために貧弱な力量しかもちえないとすれぽ,指揮の機能への参加のメカニズム が始動しはじめることは,総合的評価と個別的評価のギャップを埋める第一歩 とならざるをえない。このメカニズムは,資本から独立した労働組合,消費生 活や統治への参加機会を拡大する労働時間短縮の立法など,企業の内外におけ る公共的な意志決定機構の確立によって作動しはじめる。さらに,かかる機構 の確立のためには,資本にによる個別的評価の社会的結果を自然科学上の知識 にもとづいて客観的に証明し,予測する専門家たちが必要である。また,専門 家の意見を客観的なものとしてひろく普及しうる民主主義的制度(憲法的野組 み)が必要である。 いわば,社会を構成する大多数の人々が,公共の名において,個別的評価の 欠点を認識し,自然科学と民主主義の制度によって,この欠点を制度的セこ:是正 しうるシステムを定着させる(例えば工場法)ことは,さきのギャップを克服 おつ する第一段階である。 つぎに,先に述べた指揮するものとされるものとの分業の克服,消費につい ての情報を独占するものと,独占され操作されるものとの分業の克服,社会に おいて統治するものと統治されるものとの分業の克服が,第二段階として課題 にのぼるであろう。この場合には何よりもええず,労働者統制や地方自治,消 費者主権によって補強された議会制民主主義の存在と発展が構想されることに 26)社会科学の独自性をこの点とかかわって,若干の示唆をおこなった文献的は,グラ ムシのすぐれた研究家であるビュッシ・グリュックスマンの前掲書である。 27) 池上惇「科学的認識と共感の論理」『現代と唯物論』No.8,(1984年2月)。
労働力の個別的評価と社会的評価 123 28) なるであろう。 以上,戦後における社会政策論争を手がかりとして,個別的評価と社会的評 価の差異,そのギャップの克服という視点からする政治経済学の再構築の構想 とのかかわりにおいて,人間と労働の潜在能力の評価とその重要性を示唆して きた。政治経済学体系とのかかわりにおける全般的な検討は別の機会に論及し たいQ 28) 池上惇「民主主義日本の憲章」大月書店,1983年。