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パレ■…一ト経済学の展開
松 嶋 敦 茂 工 V.Pareto(1848−1923)の最良の理解者であり,生涯を通じての友人でも あったM.PantaleoniはThe Ecnomic Journal誌(1923年12月号)に寄せた 小論(Obituary, Vilfredo Pareto)の中で,パレートの経済学を評してこう書 いている。それは「ある研究方向」において,さしあたり,行きつく所まで行 っており,この領域では,いわばその「オメガ」をなしていると。ここで,こ のような研究方向・領域とはL.Walrasに始まる一般的経済均衡理論の一般 化・純化に他ならない。 私は,ワルラスの均衡理論をば,いわゆる「近代経済学」の「パラダイム」 であると考えているが,先のパンタレオー二の言に従えば,パレートの均衡理 論こそはこのパラダイムの一つの完成態と云うべきことになろう。 パレートの経済学的業績は,大別すると,次の四つのジャンルからなってい る。 1) 時論的労作。(生涯の主として前半期に発表された,イタリア資本主義 分析など)。 2)計量経済学的研究。(いわゆる「パレート法則」のような所得や需要につ いての統計的分析)。 3) 理論経済学的労作。 の 4) 経済社会学的分析。 1) The Economic Journal,12/1923, pp.585f. 2)拙稿「パレートの分配理論」(行沢・田中他編『社会科学の歴史と方法』ミネルヴァ, 1978年)参照。70 彦根論叢第217号 先に引用したパソタレオー二の言及がこの第三のジャンルの業績に関連して 述べられたものであることは云うまでもあるまい。 ヨラ 時論的労作が1876年(27才)の論文以来,1923年の死にいたるまでの,生涯 のほぼ全時期に発表されているのに対して,理論経済学的研究は,若干の啓蒙 的小論を除けば,1892年一3年にGiornale degli Economisti誌上に発表され た「純粋経済学の根本原理の考察」(Considerazioni sui principii fondamentali dell’economia politica pura)に始まり,1911年の「数理経済学」(Economie math6matique)に終っている。つまり,彼が経済学研究に従事したのは,その 75年目生涯の中のこの約20年間の期間のみに限られているわけである。(この ことのもつ意味は行論を通じて明らかとなるであろう)。 私は本稿においてパンタレオー二によって「オメガ」であると評されたパレ ートの経済理論(体系)について,その基本的構造・性格を検討してみたいと 思う。 私は,このようなテーマに関連して,既に何回か書いてきた。とりわけ, 「V.パレートの経済学方法論一ワルラスとパレート」(『彦根論叢』第174号) は,多くの点で,本稿と同一の論点について論じている。ただ前稿がワルラス とパレートの対比に焦点をすえているのに対して,本稿では,ヨリ形成史的な 4) アプローチがとられている。両論文を,補完的関係をなす一対のものと理解し て読んでいただければ幸いである。 ら 既に多くの論者によって指摘されているように,パレートの経済思想は1900 年前後を画期として大きく転回している。本稿も,基本的にはこのような観点 に立ちながら,これら前後両時期の連続と非連続の諸相をぽ考察してゆきた いQ 3) Vilfredo Pareto, La stato italiano industriale. 4)私は「パレートのマルクス経済学批判」(『彦根論叢』第213号)においても,その テーマに限局しつつ,パレート経済思想の史的展開を考察したが,本稿では,ヨリー 般的視野でこれを取り扱う。 5) J.Schumpeter, Ten Great Economists, N. Y.,!965, G. H. Bousquet, Pareto, le sawant et 1’homme, Paris,1960;P. Tommissen, De economische epistemologie van Vilfredo Pareto, Bruxelles,1971.
パレート経済学の展開 71 皿 F.Oulさsは,自から編んだワルラス・パレートの著作からのアンソロジー L’9cole de Lausanne(Paris,1950)に附した「序文」の中で,ロザンヌ学派経 済学を,他の学派から区別する基本的特徴は,その理論の展開「形態」にある のではなくて,その内容つまり「相互依存(interdependence)ならびに一般的 経済均衡の諸概念」の中にこそ求められるべきであると述べている。 ここで理論展開の「形態」とは,(1)「純粋経済学(6conomie pure)」.2)「逐 次的近似(approximations successives)」,3)「数理的方法」の三つである。た しかに,これらの「形態」がこの学派の専売特許でないことは云うまでもない し,「相互依存と一般的経済均衡の諸概念」がその最大の特質であることにも 異存はない。 しかし,ウーレスがしたように,「相互依存と一般的経済均衡の諸概念」を ば,その展開形態から切り離して,「第一期ロザソヌ学派」の理論的遺産とし て論じてもよいのであろうか? 例えば,氏は,パレートがr経済学講義』(C・urs d’66・n・mie P・litigue, Lau− sanne,!896∼7)や『経済学提要』(Manue9 d,e’conomie Politique, Paris,1909) において,数理的展開が,それぞれ「脚注」や「附録」に封じこめられている ことを根拠に,数理的方法がこの学派にとって不可欠なものではなく,むしろ この方法のために「相互依存」関係の分析が十全に展開されえなかったと論じ 6) ている。 しかし,当のパレートは,まさに相互依存関係こそが,経済学における数理 わ的方法の使用を不可避にしていると再三強調していたのでは.なかったか……。 6) F. Oulbs, Preface h L’e’cole de Lausanne; Les insuffisances th60riques fondamen. ta11es de la doctrine 6conomique de la premiere 6cole de Lausanne, Metro economica no, 2, (1950). 7) V・Pareto, Cours d’9eonomie politigue, Droz, I pP・405−6 (§559, n,4).なお, V. Tarascio, Pareto’s Methodological APProach lo Economtcs, North Carolina, l g66, pp.105ff,はこの問題について簡明な記述を行なっている。
72 彦根論叢第217号 8) さらに,既に」.Freundも指摘しているように,相互依存関係分析と,「逐 次的近似」の方法とは, 「認識論的」には,あるいは少なくともパレート体系 においては,密接不可分離な二項をなしているはずである。 私は,まずこの点に関する考察から:本節を始めることにしよう。 無限に複雑に絡みあった相互依存関係の連鎖についての真実を,有限でかつ 不完全な悟性の所=有者でしかない我々人間が,一体どのようにして認識しうる のであろうか。 我々はまず分析によって,自然・社会現象の一部分を切りとり,さらにそれ を単純化の仮設に基づいて単純化することによって,現象についての「第一次 近似」を得る。 経済現象についてのこの第一次近似を与えるのが「純粋経済学」である。 「純粋経済学」とは,「純粋(pur(eD」という形容詞をともなった他の科学 と同じく,「一つもしくはきわめて僅かの原理から多くの原理を演繹的に引き の だす」学である。 単なる「経験主義」は,複雑な現実を理解するための第一次近似には決して なりえない。むしろ我々は,J. S. Millの「具体的演繹法(m6thode d6ductive concrete)」,つまり「経験から引出された若干の非常に一般的な諸原理から諸 理論を演繹する」のが望ましい。(もちろんその際,「それらの理論が,それ らに係る全事実をうまく説明しているか否かを検討することによって,それら 10) の理論を検証」しなければならぬことは云うまでもない)。 しかし,純粋経済学はあくまで現実の第一次近似にしかすぎない。だから,そ の基礎の上に,帰納的あるいは帰納一演繹的方法をとる「応用経済学(6conomie ユつ politique appliqu6e)」を通じての,現実へのヨリー層の逐次的近似がはかられ 8) J.Freund, Vilfredo Pareto, la疏60擁θde l’6quilibre, Paris,1974, p.37. g) V.Pareto, Giornale degli Economisti 8/1900, p; 144,(強調は原:文のまま)。 10)do., Marxisme et iconomie Pare, Genさve,1966.「純粋経済学」について,ワルラ スとパレートは,その定義ではほぼ一致している。が,ワルラスは「検証」の必要性 を認めていない。拙稿「パレートの経済学方法論」(『彦根論叢』第174号)参照。 11) 「応用経済学」という言葉はワルラスも使っているがその内容はパレートと異なつ ている。前掲拙稿(註10)参照。
パレート経済学の展開 73 ねぽならない。 1892年10月に行なわれた「開講講義」(Legon d’ouverture d’6conomie poli− tique)で,パレートは,ワルラスの純粋経済学をごく手短かに要約した後で, この講義の最終部分を次の章句で始めている。「ワルラスによって我々に与え られた,経済現象についての第一次近似は,我々に広大な研究領域を与えてく れており,研究し尽されたなどとは到底云えないのである。が,我々はこの方 面で我々の研究をおし進めると共に,第一次近似では無視しなければならなか った諸状況をも考慮に入れて,第二次近似をも得るようにも努めねばならない のである」と。 そして,彼は後年,M.パソタレォー二に書き送った手紙(1897年2月19日) の中で,彼がワルラスにつけ加えたこの「逐次的近似の概念」で「ワルラスの ユヨ 学説のあまりにも抽象的な側面を取り除いた」と自負してさえいる。この自負 が正当か否かは別に間うとしても,この概念がパレートにとって本質的な意義 をもつものであったことは確認できよう。 前期パレート経済学の結実としてのr経済学講義』の「序文」で彼はこうも ラ 書いている。rこの著作で最も重要な概念は次の二つである。すなわち逐次的 近似の概念および経済現象のみならず社会現象をも含めた相互依存の概念で ある」。 つまり,彼は,一方ではワルラス『純粋経済学要論』(研伽θ鋸d,e’conomie politique ou th60rie de la r・ichesse sociale, Lausanne,1873−7)の中心概念の ユらう ーっである「相互依存」の概念をぼ,ヨリー般化しつつ著作の中心にすえると 共に,他方では,「純粋経済学」で示される最も抽象的な相互依存関係から, 12) V.Pareto, op. cit.(註10), p.85. 13) V. Pareto, Lettere a Maffeo Pantaleoni, a cura di G de Rosa, Roma, 1962 VoL 2, p. 36, 14) do., Conrs d’6conomie Politigtte, p. IY. 15) ワルラス純粋経済学における今一つの中心概念は,raret6(限界効用)の概念であ ろう。
74 彦根論叢 第2!7号 社会的均衡としてのヨリ具体的な相互依存関係までを,逐次的近似の方法で, いわば「上向的」に展開しようと試みたのである。 パレートは,1893年4月にワルラスの後任として,ロザンヌ大学法学部の経 済学担当教授として講義を始めている。その講義を基にして1896年一7年に出 ヱの 版された彼の処女作が,r経済学講義』であった。(以下r講義』と略記する)。 彼自身が認めているが,同書出版に際してのこのような事情一「教育的配 慮:」一が同書の叙述様式や篇別構成に少なからぬ影響を与えている。例え ば,既に触れたように,同書では数理的展開は全て脚注に封じこめられている が,それもこの様な事情からであった。 さて,我々は,800ページに余る同書の構造を少しく立入って検討してみる ことにしよう。そのことを通じて,上に見てきたパレート経済学の方法的特質 がヨリ一層,具体的な形で,明らかとなるであろう。 『講義』は次の様な篇(章)別構成をもっている。 純粋経済学の諸原理(工,pp.1−74) 応用経済学(1,pp.75−420;]1, pp.1−394) 第1篇 諸資本(工,pp.75−420) 第1章 人的諸資本 第2章 動産諸資本 第1節 貨幣 第2節 貯蓄と純賃貸料(loyer net) 第3節 銀行
第3章土地資本
第2篇 経済組織(L,organisme 6conomique)(皿, pp.1−297) 第1章社会発展の一般的諸原理 第2章 生産 16) この『講義』の基になる,応用経済学に関する講義の最初の彼自身による講義録 も.最近,G. Busino教授によって刊行された。(Premier cours d’9conomze Politique aPPIigue’e, Genさve,!982).パレート経済学の展開 75 第3章 商業 第4章 経済恐慌(:Les crises 6conomiques) 第3篇 分配と消費(■,pp.299−396) 第1章所得曲線(La curbe des revenus) 第2章社会的生理学(La physiologie sociale) パレートが,経済学の「第一次近似」一「純粋経済学」に割当てたのは, r講義』の一割にも満たぬ僅か75ページであった。その内容は,基本的にはワ ルラスの『要論』に従うものであった。が,いかにも冗長なワルラスの『要 論』のエッセンスを,その六分の一ほどの紙誌の中に示したことの啓蒙的意義 ユわ は小さくはなかったようだ。G. Bousquetによれば,「ワルラスの理論が,と りわけフランスで,本当に普及し始める時点は,『講義』の刊行までまたねば ならない」。 この「純粋経済学の諸原理」に続く諸章が「応用経済学」的展開(二つの 「社会学」的章を含む)であった。 「応用経済学」第1篇は,「諸資本」についての,「帰納的」かつ「記述的 (descriptif)」な接近を試みている部分である。つまり,純粋経済学における 展開が,もっぱら演繹的・理論的であるのに対して,ここでは,人的資本・動 産資本ならびに±地資本についての制度的・歴史的・統計的叙述が試みられて いる。 ただ注意しておきたいのは,純粋経済学的抽象的資本規定からのヨリ現実化 を試みているこの篇内部においても,逐次的具体化が試みられていることであ る。 「人的資本」に例をとってみよう。人口の動きは,第一次近似としては,経 済的諸条件の変動に依存して説明されよう。が,「第二次近似」においては, 人的資本がその誕生から一人前の労働力になるまでには,15−20年聞の歳月を 要するという事情も考慮しな:ければならない。つまり,これらの労働力が現実 17) G.H. Bousquet, op. oかちP・79.
76 彦根論叢 第217号 に市場に供給されるのは,経済の上昇局面においてではなくて,下降局面(不 況,恐慌)においてである可能性も十分にある。だから「この第二次近似にお いては,オフェリミテ〔経済的厚生〕の極大化は,人々が,経済恐慌の周期性 を忘れないほどに,賢明で先見の明に富んでいる場合にしかえられないことに う なろう」。
第2篇2∼4章では一門1章については後述一,純粋経済学においては
考慮しえなかった諸条件をも考慮に入れた理論的展開が試みられている。次に それらの中,:重要だと思われる若干の論点を検討することにしよう。 第一。企業家と技術選択一生産(製造)係数の決定をめぐって。 パレートもワルラス同様,資本家と企業家とを区別する。後者の役割は,所 与の市場価格(生産物および用役)の下で,生産に必要とされる費用総額を最 小にすることであり,それは適切な技術選択一生産係数の決定を通じてなさ れると想定されている。 ところで,このような生産係数の決定はいかにして行なわれるのか? ワル ラスは,そのメカニズムをいわゆる「限界生産力説」によって説明していた。 しかし,パレートはこれを真向から批判・否定している。 批判の論点は簡単なものであった。この理論が成立するためには一つの必要 条件がある。それは,生産に入りこむ諸量が相互に「独立(ind6pendent)」で なければならないという条件である。が,それは一般には満たされない。すな わち,1) これらの諸:量間に「補完性(comp16mentarit6)」がある場合,2) アウト・プットとイン・プットのあるものとの間に,固定的な数量関係がある 18)V.Pareto, Cours,1, p.162.〔〕内は筆者。以下同様。 19)V.Pareto, Cours,§§714ff.(特に§714 n.1,§717, n.2);Sur la th60rie g6n6rale de la monaie, (1902) n. 1, Marxisme et e’conomze Pzere, pp. 121f; L’6conomie pure (1902), n. 6, lbid, p. 131; Anwendungen der Mathematik auf Nationa16konomie (1902),n.55, Staiistigue et 6conomie math6matigue, Genさve,1966, p.149.ただし, パレ・一一一トは限界分析そのものを否定しているわけではない。現代経済学の用語で云え ばinput相互間の限界代替率とそれらの価格の逆比との均等という原理によって, 生産係数の決定を行なっている。(Cours,§719 n.2)パレート経済学の展開 77 場合(「固定的生産係数」),セこは先の条件は満たされず,従って「限界生産力 理論」は一般には成立しえないと云うものであった。 の このパレートの見解に対しては種々の反批判がありえよう。しかし,彼が, 一貫して「限界生産力説」とは一線を画していたことだけは確認しておいてよ いように思う。 第二。地代(rente)について。 パレートは,「土地資本」の資本用役に対する正常な報酬としてのfermage (地代)とは別に,「不完全自由競争(libre concurrence incomplete)」の下で 生ずる所得としてのrenteについて言及している。彼は「純粋経済学」におい ても,「自由競争」,「私的独占」および「集団的独占(monopoles coilectifs)」 の三種の経済状態を区別して論じていたが,ここでは更に,貯蓄の資本への 「転形」の難易を基準として,「自由競争」を「完全自由競争」と前述の「不完 全自由競争」とに区分している。前者はワルラスが「絶対的自由競争(1ibre concurrence absolue)」と名づけたものと同一で,「貯蓄が全資本に同じ.容易さ で転形される」場合である。後者は,それとは逆に,「貯蓄が全資本に同一の 容易さでは弓形されえない」場合である。この後者においてのみrenteが発生 ヨユう する。 この地代概念はRicardoのそれに対応している。が,同一ではない。1)そ れは「土地資本」のみに係る概念ではなく,2)負のrenteが発生しても差し つカ・えな㌔・o 第三,私は先にパレートの「開講講義」から一文を引用したが,(73ペー お ラジ),これにつづけて彼はこう述べている。「我々が明らかにしてきた定式〔純 粋経済学の定式)は一つの同質的社会を想定している」。しかし,現実の社会 は同質的なものではない。一つの社会は,実際には幾つかのグループ(国家) 20)批判は,「限界生産力理論」を原則的に批判する立場(P.Garegnani, L. Pasinetti など一後述)からも,この理論を擁護する立場(例えば,G. J. Stigler, Production and Distribution Theories,194!, esp. pp.367f)からもなされている。 21) V.pareto, Cours, g§§745ff;豆p.400. 22) do., Marxisme et 6COnomie f)ure, P.85.
78 彦根論叢第2!7号 に分かれている。このような観点からの理論的分析が必要なものとして「開講 講義」では,Trade Unionの分析(『講義』第2篇第2章)および外国貿易 (『講義』第2篇第3章)が挙げられている。これらの場合,いずれも競争が 不完全である。つまりこれらのグループ(国家)間では,ある種の財やサーヴ ィスに関しては「自由競争」が存在するが,他の財やサーヴィスについてはそ れが欠除しているのである。 第四。以上の論点にもまして私が重視したいのは,パレートによる経済理論 の「動学」化。景気循環論解明の試みである。 彼は,CI6ment JugiarやJevonsらが行なった実証分析を利用しつつ,景気 循環一経済恐慌を分析している。この分析が行なわれている『講義』第2篇第 4章は次の章句で始まっている。「経済現象は静態的現象ではない。それは動 態的な現象なのだ」。 たしかに,工Schumpeterも指摘しているように,パレートの諸著作に散見 される動学的発想,言及は,「示唆」の域を越えるものではなく,パレート経 済理論の基本的性格はあくまで「画学」にとどまっている。しかし,彼が,当 時の経済学者の一般的風潮に反して,景気循環論・経済恐慌論をば,経済理論 の不可欠の一環と考えた点は評価されてしかるべきであろう。 彼の経済思想の第一概念は経済諸現象の相互依存性であるが,それは諸現象 サンロクロニロク デイアリロニ ク 閲のいわば「共時的」な相互依存性だけではなく, 「通時的」な相互依存性で らう もあった。次の一節はこのことをよく物語っている。 「もし恐慌を完全に阻止できるとしても,そうすることは役に立つだろうか。 とかく,肯定的に答えられがちだが,問題を少し堀下げて検討してみれば,幾 多の疑念がわき出てくる。律動的運動(mouvement■ythomique)が経済進歩 の諸条件の一つでないということは決して確かなことではない。いやむしろ, この運動が経済組織のヴァイタリティの現れの一つに他ならないと云う方がず 23) do., Cours, 1, p. 277. 24) J. Schumpeter, op. cit., p. 125. 25) V.Pareto, Cours,正, p.297.
パレート経済学の展開 79 つと本当らしいのである。休息と昂奮(excitation)の交替こそが全ての高等な 生命組織(organismes vivants) tlこ必要なように思われる」。 私がこの章句を引用した理由の一つは,彼の歴史・社会観の一基本側面(そ れは生涯変ることがなかった)を示すことにあるが,当面大切なのは,彼が, 経済の上昇局面と下降局面とを,二二に依存しあう不可分離の二局面として把 握し,そのようないわば景気循環論的視角から,経済恐慌を分析しようとして いたことである。彼が「動学(dynamique)」をぽ基本的なものと考えたことの 理由もまたそこに見出されねばなるまい。 r講義』第3篇第1章は,所得分配についてのr帰納一演繹的」分析であ る。彼はこの章で,r講義』刊行に先立って行なってきた統計的分析の成果の 上に立って,所得分配の位階・階層的性格を明らかにする。それを通じて一方 では,このような事実が,価格論(需給分析)にもたらす影響一一種の「所 得効果」一を示すことによって,彼の「応用経済学」のオメガとすると共 に,他方では,所得分配の位階性という事実からヨリー般的に,社会の「異質 性(h6t6rog6n6it6)」の原理を引き出すことによって,『講義』第3篇第2章 (最終章)に始まる,彼の「社会学」研究へのアルファにしたのである。 第3篇第2章は第2篇第1章と共に「社会学」的諸章である。これらの二章 は本来一体をなすべきもので,これらが二箇所に分断されたのは,パレート自 身指摘しているように,もつぼら叙述上の便宜に他ならない。 パレートの「社会学」の内容に言及することは,本稿の範囲を越えているか ら,これらの諸富の内容に立入ることはしない。しかし,次のことだけは指摘 しておく価値があろう。 パレートは,「逐次的近似」の方法によって進むことを通じて経済現象の相 互依存性の抽象的分析(「純粋経済学」)から,ヨリ複雑な,社会現象の相互依 存性の分析(「社会学つへの移行の必然性の一端を示そうとしたのである。 26) しかし,彼は,cycleという用語は使わなかった。
80 彦根論叢第217号 しかし,経済学と社会学の関係がヨリ深く把まれるためには,ヨリー層の研 究が必要であったことは云うまでもない。我々はこの問題の一端を章節でとり 上げることにしよう。 皿 1898年12月に青年理工学徒の組織Stellaでパレートが行なった講義「純 粋経済学の問題はいかに立てられるか」(Comment se pose le problさ皿e de I’6conomie politique pure,以下「粋粋経済学の問題」と略記。)は,彼の経済 思想の展開を辿る上で重要な意味をもっている。というのは,それは,『講義』 に集約される前期の経済思想から,1900年以降の諸論稿で展開される後期経済 思想への過渡をなすものと理解されうるからである。 すなわち,一方で,『一般社会学概論』(Trattato di sociologia generale,1916) に集大成される人間行為の類型論の原型を定礎することを通じて,純粋経済学 の対象を確定し,他方で,基数的効用理論から序数的効用理論への転回を初め て表明しているからである(この第二の論点については次節で検討する)。 と また,この論文は,1900∼1年にB.Croceとの間で, Giornale degli Econo− Z8) 而漉誌上で往復書簡の公開という形をとって行なわれた論争の一契機ともな っている。 パレートは,論文「純粋経済学の問題」で,純粋経済学の学的性格を論じて ヨう こう書いている。「この科学は力学に単に類似しているというだけでなく,実 を云えば,一一Ptの力学(un genre de m6chanique)なのである」と。 27) この学生組織とパレートとの関係については次の文献を参照。J. C. Biaudet, Vil・ fredo Pareto et Lausanne, Convegno internazionale, Vilfredo Pareto, Roma, 1975, p. 78. 28) この論争に関しては,次の文献が有益である。G. Busino, Pareto e Croce, Ibid.; E.Agazzi, Jl giovane Croce e il marxi5mo, Torino,1962;上村忠男「哲学と科学 のあいだ」『知の考古学』no.1,社会思想社!975年。 29) V. Pareto, Marxisme et gconomie Pure, p. 407.
パレート経済学の展開 81 ラ このような思想はL.ワルラスによっても共有されているものであったが,. B.クP一チェが先述の論争を通じて最も強く批判した論点の一つでもあっ た。 クローチェは,パレートに宛た先の第一書簡で,パレートらのこの思想を次 き のように批判している。 「経済的事実は価値判断を許す事実(fatto di valutazione)である。これ に対して力学的事実は,賞讃や非難の形容詞を附加しえぬ単なる事実(mero fatto)なのである」。だから,両者に厳密に区別されなければならない。 きヨ このような批判に対して,パレートは次のように答える。たしかにクローチ ェの云うように,経済的行為は,「現象をぽ総合的(sinteticamente)に考慮す るなら,価値判断の可能な事実である。しかし純粋とか合理的とか……よばれ る一科学を構成するに当っては,まさに称讃や非難の言葉(parola di lode o di biassimo)が適用される部分をば,〔前もって〕切り離し取り去ってしまっ た(abbiamo mazzato, tolto)のだから」,クローチェの批判はもはや妥当しな いのだと。 「論争」は,理論の構成に際して,このような「恣意的」な「切取り」を行 なってよいのか否かの論議に発展する。この点の立入った検討は本稿の範囲を 越えている。 ただ,次のことだけは指摘しておかねばなるまい。本来,分析的でしかあり えない理論にとって,このような「切断」が不可避であるとしても,それはあ くまで「恣意的」なものであり,それ単独では十分な現実認識をもたらしえな い。ここに諸科学の「総合」の問題が生じてくることとなる。 この認識は,1894年4月にロザンヌ大学の正教授(professeur ordinaire)に 就任した際に,パレートが行なった就任講義「経済学について」(De l’6cono− 30) 前掲拙稿(註10)p.27. 3!) B.Croce, Giornage degJi Economistz,7/!900, p.!7. 32)V。Pareto, lbid.,8/1900, PP.!47f(強調原文のまま) 33) Giornale degli Economisti,2/190!, pp.121−138.
82 彦根論叢 第217号 お mique)の中に既にはっきりと認められるのである。 「経済学は社会科学の一部門,しかも一小部分でしかない。それはそれに固 有な領域をもっており,そこでは主権者である。が,他の諸科学の領域を纂奪 してはならない」。更に,一つの具体的な例をとりあげつつ,彼はこう続けて云 う。「経済学はutilit6〔という言葉〕の中に物と人との間の適合関係(rapport de convenance)しか見ない。我々は新語に対して嫌悪感をもつかもしれない が,この言葉で〔日常〕よく知られているものと余りにも相違した,この特殊 なutilit6をさし示すための新語を見出すべき時がきたように思う。経済学が ある物の中に考慮している属性,つまり,ある種の欲求もしくは欲望一それ が正当なものであろうとなかろうと一を満たすという属性の傍に,その物が もちうる,真に人間に役立ち,利益をもたらし,人類の進歩に寄与するといっ た属性も存在するのである。このことを考慮する時,主にH.SpencerやH。 G.de Morinariの諸労作によって基礎づけられてぎた,一つの科学〔社会学〕 が誕生するのである」(〔〕内筆者)。 この新語こそ,彼が『講義』でっくりだすことになる術語,ophelimit6に他 35) ならない。それは「称讃や非難の言葉」を適用しえない概念であり,価値判断 を含む概念としての「効用」と対比して使われるのである。 この種の問題つまり経済学と社会学との関連については,私自身,註35) で示した論文等において再三論じてきた。従って,ここでは,本節での問題 一純粋経済学の性格一の分析に必要な限りでのみそれらに言及しておこ う。 諸個人および諸グループは,それぞれ自己に固有な「目的函数」をもって行 動している。社会現象は,これらの行為の相互依存関係の総体に他ならない。 しかし,社会現象は,このような,いわば客観的システムであると同時に,自 34) V. Pareto, Marxisme et 6conomie Pure, pp, 117f. 35)拙稿「V・パレートにおける経済学と社会学」『社会思想』3巻2号;ctEconomiCs and Sociology in Pareto’s Thought”, Shiga Univ. Worfeing PaPer, no, 2 11/1979, を参照。
パレート経済学の展開 83 己および他人の目的画数についての価値判断;評価函数の総体としての,主観 的システムでもある。 経済現象についても同様である。それは,物(経済財とサーヴィス)と人と の関係および物を媒介とした人と人との関係の総体としての客観的システムで あると同時に,人々が自己および他人,その目的函数について行なっている価 値判断のシステムでもある。 パレートに従えば,純粋経済学は第二の側面を「切離し,取去る」ことによ ってのみ成立するのである。しかし云うまでもなく,現実の経済システムはこ の両者の統一に他ならない。だから「この分析を行なった後には,それらを総 さ 合によって再結合し,具体的諸事実を判断することが不可欠なのである」。(前 出の正教授就任講義からの引用)。 本節冒頭でも見たように,パレートは,論文「純粋経済学の問題」において, 後年, r一般社会学概論』において定式化されたのと同趣旨の人間行為の類型 的分類を行なった後で,純粋経済学の対象となるべき行為は,「実験的で論理的 な行為(actions exp6rimentales et Iogiques)」であるとしている。この行為は 後には単に「論理的行為」と呼ばれるものと同一のもので,M. Weberのいう きア 「目的感涙的行為」にほぼ対応するものである。 純粋経済学の対象を,このように限定することによって,一方では,それが 「合理的方法を採ることを根拠づけることを通じて,それが,自然科学の王た る力学の「一種(un genre)」であることを主張する。 と同時に,他方では,純粋経済学の対象領域が,人間行為の「一小部分」に しかすぎず,従って,経済・社会現象についての具体的認識に到達するために は,諸科学の「総合」が必須であるとのかねてからの主張をぽ根拠づけようと 試みたのであった。 それはまた,彼が経済学研究から社会学研究にその学問的関心を次第に移行 させつつあったことへの正当化でもあったろう。 36)V.Pareto, Op cit.,(註34)p.!19. 37)拙稿「パレートにおける『合理性』の意義」『彦根論叢』第201号,参照。
84 彦根言禽叢 第217号 前節でとりあげた「論争」において,クローチェがパレートに加えた第二の 批判は,パレートらの経済理論が,いわゆる「快楽主義」に立脚しているとい うものであった。これに対してパレートは,それが「仮設」としては十分に役 立ってきたことを指摘した後で,彼らの新しい理論(「選択理論」)にとっては, それはもはや不要なものになったことを説くのである。 本節では,この「仮設」 (あるいは「公準」とも呼ばれる)をも含めて,ヨ リ広く「効用理論」に対するパレートの態度の推移(1892−1909)を追うと共 に,特に1900年以降の彼の最終的立場の理論的意義をも確認したい。 1899年12月28日,パレートは友人M.パンタレオ一二に宛て一通の長い手紙 を書いて,経済理論における新しい立場(「選択理論」)を説明している。その ヨめ 一節で,彼がこの間題で辿った道筋を手短かに要約してこう書いている。 「〔経済学の〕推論には異なった三つの段階がある。(1)『講義』における私 をも含めて,全著述家の推論,全理論は,快楽,効用の最終強度,稀少性,オ フェリミタといった実体(entlta)概念に従属している。(2)論文〔「純粋経済学 の問題」において〕,私はこのような実体から離れ始めているが,未だ完全に はそれから離れていない。(3)そのような実体はすっかり影をひそめ,事実だけ が残る」。 彼が当初から,「限界効用」概念に多少の疑念をもっていたことは事実である きの としても,彼が自己の純粋経済学をば「快楽主義的公準(postulata edonistica)」 なの から出発させていたことは彼自身が認めている所である。また,効用概念につ いても,その測定が容易でないことは認めつつも,他方では,例えば1892年に 38) V.ParetO, LettereαM. PantaleOni,皿, pp.290f. 39) E. Schneider, Vilfredo Pareto, the Economists in the light of his letters to Maffeo Pantaleoni, Banca NazzonaJe del Laworo, Quater!y Review, Vol. 14, no, 58, 9/1961, p. 252. 40) V. Pareto, Lettere a M. Pantaleoni, (H/7/1893), vol. 1, p. 366.
パレート経済学の展開 85 書いたある論文の中では次のように指摘している。「この〔効用の〕測定を実 際に実行する可能性とその存在とは区別しなければならない」。たとえぽ,「何 キ叫こも及ぶ海岸の砂浜の砂粒の数をかぞえることは全くできない。しかし, その数は一つの現実的存在なのである……」。我々が今後果さねばならないの は,実際にこの効用を測定することである……と。 前節でとりあげた,1898年の論文「純粋経済学の問題」は,「快楽主義的公 準」と限界効用概念に基礎をおく前期経済思想からの全面的転身への過渡をな している。 この論文において彼は,一方ではなお「ある量が存在することを認めること (reconaitre)と,それを測定すること(mesurer)とは別個の問題」であると 述べながらも,他方では,「pa gb(AB両商品の限界効用〕,従ってまたdφ (AB両商品の消費量をg。9bからq。+dqa, qb+dqbに変化させた際の総効用 量:の変分g。dg。+qbdqb〕を測る手段を我々は持っていな:い」から,均衡の決定 に際しては,いわゆる「基数的効用理論」にではなく,「序数的効用理論」に せの 依るべきことを指摘して次のように述べている。 人々の経済的行為は,「論理的」であると想定されているので,AB両商品 の消費量をg。,9bからg。+dq。, qb+dqbに変化させることを通じて,彼らは 自分たちが享受する「快楽(plaisir)」が増大するか減少するかを知っていると 想定してよい。つまり「我々が吻の値を知らないとしても,少くとも,その 正負の別(signe)は常に知っている」。数学的に云えば「d¢が常に4φと同 一の正負符号を持つような」値をもつある画数ψを構成することができる。 その場合,均衡においては,噸=d¢ =Oとなり,効用の大きさを知りえなくて も均衡は決定される。…… 彼は「効用」とか快楽とかいった「実体概念」から「離れはじめてはいる が,まだそれから完全には離れていない」のである。 4!) 42) 43) do., Marxisme et e’conomie Pure, p. 8; p. 9. lbid., p, 106. lbid,, p.ユ08.なお彼は「基数的」とか「序数的」とかいう用語は使っていない。
86 彦根論叢 第217号 彼がこのような全面的転身を公に表明したのは1900年のGiornale degli Ec− onomisti誌上においてであった。 この頃までにパレートが用意しつつあったr経済学提要』 (以下r提要』と 略記)の原稿を基にして,Giornale誌編集者の手になる要約「パレート教授 の新しい経済学概論の若干の諸章の要約」(Sunto di alcuni−capitoli di un nuovo trattato−economia pura di Prof, Pareto)が同誌1900年3月号と6月号 に掲載される。この「要約」は二つの部分一「純粋経済学の抜粋」(Excerpta di trattato di economia pura)と,その数理的展開を試みた「問題の分析的解 決」(Soluzione anaHtica di problema)から成っており,それぞれ32ページと24 ページの紙巾が費されている。 その内容は,『提要』の主として第3章「経済均衡の一般概念」に係るもの で,パレートの新たな理論的到達つまり「選択(scelta)」の理論一「無差別 線(iinea d’indifferenza)」に基づく経済均衡の定式化の要約が示されている。 彼は,そこで,効用測定の必要性を単に回避しただけでなく,経済均衡をば 「選択」という「経験的事実」からだけ出発して決定しうることを示すのであ る。つまり,従来の理論のごとく「この選択をさかのぼり」「人聞の目的は厚 の 生の極大化あるいは快楽の極大化である」などと云う必要はもはや全くない。 つまり,快楽(効用)の極大化という動機によって人間の経済行為を説明す るという「快楽主義的公準」そのものの放棄を表明するに至っているのであ る。 もっとも,このような:方向への一歩を,彼はすでに『講i義』を執筆しおえた 1897年に踏みだしている。 , 『講i義』第2巻が刊行される1897年の1月11日に,彼はA。Navilleに一通 の手紙を書き送って,彼あての私信の中でナヴィルがパレート(r講義』)に加 えた批判に答えようとしている。ナヴィルの手紙そのものは残念ながら残って いないが,その批判は大要次のようなものであったと推察される。すなわち, 44) V. Pareto, Giornale degli Economi:sti, 3/1900, p. 221.
パレート経済学の展開 87 パレートの『講義』はpostulatum h6donistiqueに:立脚しているが,これは支 持し難い。経済的行為も,人間の行為は彼の意志(volont6)の所産であって, 単なる物質的欲求(besoin)や欲望(d6sir)によってのみもたらされるもので はない。…… パレートはナヴィルのこの批判を肯定的に受けとめつつ次のように答えてい 45) る。 例えば,アルコールを飲もうとしている男を考えてみよう。その際,「我々 はこの男をアルコールの使用に向わせている力と,その使用を抑制している力 との生合成諸力(un groupe compos6 de toutes les forces)をば考えねばなら ない」。そして,これらの全諸力の「合成物(resultante)」こそが彼をある行 為に向わしめているものなのである。私はこれを欲求あるいは欲望と呼んだの だ……と。 彼が『講義』を執筆する際すでに,彼が主張しているように,この様な考え をもっていたか否かは知るよしもない。もしそうであったら,彼自身が認める ように適当な「註」をつけるべきであったろう。がいずれにせよ,この手紙が 書かれた時点(1897年1月)には,彼が「快楽主義的公準」から数歩離れてい たことは確認してもよかろう。 1900年号になると,この傾向は一層強まってくる。クローチ=との論争に際 して,彼の批判に答えるべく書かれた公開書簡「経済現象について」(Sul fen− omeno economico)の中ではこの「公準」をキッパリ拒否して次のように論じ なの ている。 「経済現象を解明するためには二つの方法がある。1) 『誰某は,AからB からよりもヨリ多くの快楽を得ている。そこで彼は且を選択する。そしてこの 事実からある均衡が結果する』。2)r誰某は・4を選ぶ。この事からある均衡が 結果する』」。 第一の推論方法を採る場合,「同義反復」に怪いらないためには,「十分には 45) V.Pareto, E汐isterario, Roma,1973, Vol.工・P.324. 46) V. Pareto, GiDrnage degli Economisti, 8/!900, p. 154.
88 彦根論叢 第217号 定義されていないコトバ快楽(piacere)」ををま,「選択という事実から独立に定 義しなければならない」。が,そのためには,第一の推論の前半分一「誰某は AからBからよりもヨリ多くの快楽を得ている」という命題を,彼が.4を選択 したという事実を全く前提にすることなしに論証しなければならない。しかし 「私はこのことが未だかつてなされたことがあるか否かを知らない」。いずれ にせよ,この命題は「疑わしい」ものであるか,無意味な同義反復であるかの いずれかであるから,「この命題を排除」して,第二の推論方法をとるべきで ある。……パレートはこう結論するのである。 後年,彼はr提要』のフランス語版に附した「附録」の中で,上の引用文に ユア 示された思想に次のような数学的表現を与えている。 「画数R,(Cibli……)(i=1,2,3…)はオフェリミテの画数である必要はない。 それらは,その個人が動くと想定される方向の指数であれば十分である。例え ば禁欲主義の指数を見つけだして先の函数と代替してごらんなさい。あなたは 禁欲主義の数学理論をうることでしょうQ利他主義の指数N&tw(fOnctions= indices)を発見するように努めなさい。そうすればあなたは利他主義の数学理 論をうることでしょう」。 かつて杉本栄一は,恐らくこの節を念頭におきつつ,次のように書いてい べきう る。「……この最後の段階〔『提要』フランス語版附録〕においては,パレート の選択の理論は,極大満足説の痕跡を完全に拭いさり,限界効用説を単にr迂 回』しているだけではなく,完全にr放棄』しているのである」と。氏のパレ ートに関する叙述(r近代経済学史』pp.71∼8)は,簡にして要を得たものと 感心させられる。が,私は,今引用したこの章句に二つの点で異議をさしはさ みたい。 第一。「極大満足説」という言葉で,「快楽主義的公準」を意味するのであ れば,それをパレートが放棄したのは,既に見てきたように,1909年の『提 要』フランス語版「附録」においてではなくて,1900年には既にそれを完全に 47) do., Manuel d’6conomie politigue, Genさve,1966, p.66!f. 48)杉本栄一『近代経済学史』岩波書店,1951,p.76.
パレート経済学の展開 89 「放棄」していた。 第二。しかし,ひるがえって問えば,一体パレートは1909年においても「極 大満足説」を本当に放棄したと云ってよいのだろうか? たしかに,彼は均衡 の決定に際して,「選択」をもたらした主観的動機を問うことを不要だとして いる◎ しかし,彼は,1)経済均衡の決定に際して経済主体の主観的要因が重要な ヨの 役割を果していること自体は決して否定していない。さらに,2)経済均衡の 決定に際しては,彼が「指数画数」と名づけたこの主体の主観的要素の「極大 化」が不可欠な条件である。しかも,3)この極大化されるべき「指数函数」 はその一部分として,しかし重要な一部分として,「快楽」「効用」を含んで いる。パレートはクローチェのように「快楽主義的公準」を哲学的・原理的に 拒否したのではなかった。 このように見てくると,パレートが「極大満足説」を放棄した,という杉本 の主張は必ずしも正鵠を射たものではないように思われる。 いずれにせよパレートが「限界効用理論」を完全に放棄したことは事実であ る。その理由の一つは,上に見てきたように経験的ならざる「実体概念」の拒 否であった。が,それには,今一つの理由がある。それについては,既に,他 うわ の機会に十分論じた点ではあるが,経済現象の相互依存性の重視に他ならな い。 この点はパレート経済思想を理解する上で最も重要なポイントなので,本節 き の締めくくりとして,少々長いが次の章句を引用しておこう。1902年にパリの 「高等社会科学専門学校」(Ecoie des hautes 6tudes sociales)で行なった講義 のこの一節を,読者は,パレートの自己批判とも,ワルラスからの挟別の表明 49)たしかに『提要』でも,パレートがこの「公準」を放棄していないように読める箇 所が多くある。しかし,それは当時の通読を前提にした,説明のための妥協と考える べきであろう。 50)前掲拙稿(注4),第2節参照。 51) 同上および前掲拙稿(註10),亘のD節参照。 52) V. Pareto, Marxisme et 6cono?nie 1>ure, pp. !34f.
90 彦根論叢第217号 とも読むことができよう。 「ある科学において一つの新しい観点が生じた時,それを採用している学者 たちが,古い観点から解放されるのは徐々にでしかない。経済学的問題の諸未 知数が,個々パラパラには決定しえないことをきわめて明僚に理解している経 済学者たちが,未だに交換価値の原因について語っているのはこのようにして である。価値は単一の原因をもってはいない。それは無数の原因をもってい る。いや,ヨリ正確に云えば,価値は無数の諸量との相互依存関係の中に存し ている。価値の原因は限界効用,効用いや人々の嗜好(goats)でさえない。い わんやそれは,労働あるいはヨリ一般に,人々が障碍(obstacles)をのり 越えるためになさねばならぬ犠牲でもない。価値は単に嗜好と障碍との対立 (contraste)から生ずるのであって,諸商品の交換価値は,経済均衡の諸条件 (諸方程式)の中に見出される諸未知数と一緒にしか決定されえないものなの である」。
V
パレートの経済学上の主著をただ一冊だけ挙げうと云われれば,やはり『経 ちきラ 済学提要』を挙げることとなろう。たしかに,G. H.ブスケ(フランスのパレ らの 一ト学者で生涯をその研究に挙げた)が指摘しているように,この書物の「社 会学」的部分や「応用経済学」的部分は,それ以前の彼の著作の二番せんじ的 野をまぬがれず,また書物全体の性格は,Manuelというよりは,数個のモノ グラフィーの寄せ集めの印象を与えないでもない。これに対して,既に本稿で も取上げた『経済学講義』は,なるほど純粋経済学においてはワルラスの枠を でないが,応用経済学的部分では,多くの理論的新機軸を含み,全体としての 53)最初1906年にイタリア語版(ManuaJe di economiα Politica eon unαintroduzione alla scienxa soeiale, Milanoが出版され,ついでフランス語版が1909年にParisで 出版される。本文に関しては,両老の間に大差はない。フランス語版にはイタリア語 版にあった「序文」(premio)が省略さ筆先,新たに,純粋経済学の数理的展開を試み た「附録」がつけ加えられている。 54) G. H. Bousquet, op. cit,. pp. 130f.パレート経済学の展開 91 構成も処女作にふさわしくしっかりしたものであった。 が,それにもかかわらず,私が通説に従って『提要』をば彼の第一の経済学 的著作だと考えるのは,やはり,この著作の純粋経済学的部分が,その後の経 らら 済学の発展に与えた影響を考えてのことである。 『提要』は次のような章別構成をもっている。 第1章 一般的原理(pp.1∼39) 第2章 社会科学入門(pp.40∼144) 第3章経済均衡の一般概念(pp.145∼248) 第4章 嗜好(pp.249∼84) 第5章障碍(pp.285∼342) 第6章 経済均衡(pp.343∼79) 第7章人口(pp.380∼434) 第8章土地資本と動産資本(pp.435∼58) 第9章具体的経済現象(pp.459∼538) K付 録 (pp.539∼671) 第1・2章は,方法論的・社会学的導入。第7∼9章は,応用経済学的分析。 そして,第3∼6章(235ページ)および「附録」が純粋経済学的研究を構i成 している。 『講義』においては,全体の十分の一にもみたぬ75ページの紙巾しか与えら れなかった純粋経済学が,『提要』では,数理経済学的「附録」をも含めれば, その過半の367ページの紙巾を占めるに至っている。 この構成の変化からだけでも,パレートが前著『講義』においては,ワルラ スの純粋経済学をそのまま受容しつつ,逐次的近似=応用経済学的展開におい て独自性を示そうとしていたのに対して,『提要』においては,純粋経済学そ のものにおいて独自の展開を試みようとしていることがうかがわれ得よう。私 55)例えば, 「無差別曲線」や「転形曲線」に基づく均衡分析,いわゆる「パレート最 適」の定式化など。
92 彦根論叢 第217号 もまた,本節では,この純粋経済学的部分の検討に専念することにしたい。 『講義』が,「快楽主義的公準」からその純粋経済学を展開したのに対して, 『提要』はいかなる「原理」から,それを演繹したのであろうか。 端的に云えば,それは,経済主体が,基本的には, 「論理的」に行為してい らのる。つまり,彼らの所与の目的函数=「嗜好」をば,所与の制約条件=「障碍」 の下で極大化しうる手段を知っており,かつそれを実際に採用しているという ことである。前節でも指摘したように,この原理はその主要な一部分として, 「快楽主義的公準」を含んでいる。彼はこのことを否定していないし,むしろ この「公準」に基づいた分析に,「説明の便宜」から多くの紙巾を割いてもい る。 それにもかかわらず,この「公準」を出発点とすることを拒んだのは,第一 に,それが「経験的」には論証しえない「仮設」であったからであり,第二に, 彼が純粋経済学にヨリー層の一般性を与えようとしたからでもあった。 純粋経済学をば,ワルラスのように,交換と生産の二分法から始めるのでは なくて,「嗜好と障碍との対立」から説くというのも,このような一般性への 志向の一つの現れであった。 というのは,ワルラス『要論』が(パレート『講義』も同様であるが)「交換」 の分析から経済学的分析を始めたのは, 「初めから,特定の『経済』を,つま う りまさに私有財産経済・競争経済などを想定することと同値なのである」。が, 純粋経済学は単に自由競争経済だけではなく全ての種類の経済をば対象とし て,まず第一に,それらの全経済システムに共通な構造を。次いでこの分析の 基礎上に,各経済システムの種差をぼ解明することをその課題とすべきもので あると。これがパレートの考えであった。 56)私は,前掲拙稿(注10)p.31で次のように書いている。「嗜好という言葉でパレ ートは『人がある物を消費するかあるいは何らかの仕方で役立てる際に感ずる快楽』 に還元しうる現象を意味させ……」。がこれは誤っていた。パレートの原文は「嗜好 という現象を『……』に還元しようと努めてきた」(Manuel, p・249)であった。私 の説明では,彼が「快楽主義的公準」を採っていることになってしまう。 57) V. Pareto, Scritti teorici, Milano, 195!, p. 237.
パレート経済学の展開 93 r提要』における,パレートの純粋経済学的分析がその最初の段階では「市 場」を捨象して始められているのもこのことの一つの証左であろう。 次に,M.パンタレオー二とJ.シュムペーターの論文から,パレート経済学 のもっこのような性格を論及した章句を一つずつ引用しておきたい。 「パレートによる経済均衡の一般化は,ある限度一それを越えて先に進む ことは科学にあまり利益をもたらさないような限度一に到達しているように 思う。それは,さしあたりは既に閉ざされた一章なのである。私はこの方向で はもう“finis”と書きたいほどだ……」。 rBaroneの〔社会主義経済への〕アプローチのもつ基本的性格は,パレー トの『講義』第2巻や『提要』の中に,とりわけ,経済過程の論理的核(10gical core)一一それは制度的外見の下で観察されるのだが をば,この外見の地 平の上にいわばそびえ立たせる(lift)という考えの中に明確に示されている らの のである」。 パンタレオー二の幾分否定的なニュアンスをもつ評価と,シュムペーターの 肯定的評価とは,二つともに,パレート純粋経済学のこのような一般化志向が もつ学史的意義をよく伝えているように思われる。 ところで,パレート経済学の第一の課題は,全経済システムに共通な構造の 析出であったが, 「自由競争経済」 「独占経済」 「集産経済」の個別的ビヘー ビアの解明もそれに劣らず大切であったことは云うまでもない。とりわけ「自 由競争経済」システムの論理の解明には多くの努力が払われている。 彼の経済像をヨリ具体的に把むためには,このシステムについて彼が行なっ ているモデル分析の特徴を検討しなければなるまい。私は,次に,『提要』お よび彼の最後の数理経済学的著作「数理経済学」 (Economie math6matique, 19!1)を主たる素材としつつ,補助的に『講義』の叙述をも考慮して,その解 明を試みてみたい。 パレートもワルラス同様,自由競争経済を担う経済主体をば二つのブループ 58) M. Pantaleoni, oP. ctt., p. 585. 59) J. Schumpeter, oP. cit., p. 125.
94 彦根論叢第217号 に大別する。一つは消費者であり,他は企業家である。消費者はまた,企業家 に「経済財および資本用役」をも提供すると想定されている。 パレートもワルラスと同じく,消費者はこれらの資本用役をば,企業家に提 供するだけではなく,個入的にも消費すると想定していた。つまり,これらの 資本用役の供給画数は,さしあたり,これらの用役に対する個人的消費にかか る需要函数から導出されるのである。労働用役および土地用役については,純 粋経済学に関する限りでは,ワルラスと全く同一であると云ってもよかろう。 企業家についてのイメージも,基本的には両者の間に相違はない。すなわ ち,企業家は,労働者,地主,資本家が提供する生産用役をば,所与の価格条 件の下で適切に一網生産費を最小にするように結合して,極大利潤をえよう とする。が,「自由競争」の下では,その結果はあたかも「回転式オリにいれ られたリス」(『講義』§151)のように,こと志と違って,「利得(gains)も 損失もえない」ことになる。 ただ企業家は,ワルラスにおけるごとく,単なる理論的虚構としてではなく, 一つの現実的存在としてイメージされている。すなわち,第一に,彼らも「人 的資本の所有者としては」利得をえている。つまり「その企業の経営者として の彼の賃金は,生産費の中に含まれている」(r講…義』§87,705)。 第二に,たしかに均衡状態においては,このような賃金以外の利得はえない のだが,均衡に至るまでの過程では,「最も細心で抜け目のない」企業家はそれ 以上の利得を得るし,無能な者は損失を蒙り,滅ぶ者もある。もしそうでなか ったら「企業家がこのように〔生産費を切下げるように〕ふるまうことはない であろう」(r提要』5章§§74f)。 r提要』の新版(1966年版)に寄せ・た「序 文」の中でR.Dehemは,この考察はJ・シュムペーターに多大の影響を与え の たと述べている。 ところで,最大の論点は,比較的論ぜられることの少ない動産資本用役につ いての彼の取扱いの中にあるように思われる。 60) R. Dehem, Preface a Manuel, p. 5.
パレート経済学の展開 95 『講義』においては,パレートの資本理論はワルラスのそれとほぼ同一であ った。ただ次の二点でワルラスと相違していた。 第一,新種の資本財の存在をモデル化する。ただ,この試みはP.Garegnani も指摘するように,モデルを未決定の状態におくという致命的欠陥をもってい 61) た。 第二,動産資本の中には,個人的消費には適さないものが多数存在すること お をモデル化。(この点はr提要』の中でも再確認されている。)従って,これら の資本財の資本用役の供給函数が,これらの資本用役の個人的消費に係る需要 函数から導出されるものでないことは言をまたない。 『提要』における動産資本の取扱いは,ワルラスのそれと更に異なったもの になる。 『講義』においてパレートは,「資本」をぽ,ワルラスと同じく,「生産に一 度より多く(plus d’une fois)役立つ全ての経済財,をば「資本」と定義して らお いる。『提要』では,これと本質的には同じだがヨリ通説的な次の定義をとつ ている。すなわち「生産行為において磨滅しないか,徐々にしか磨滅しないも の」として。 他にも定義の仕方は種々あろう。が,それらのいずれをとるにしても,実際 上の役には立ってもあまり厳密なものではない。だから「科学的には,資本と いう余り厳密でない概念は,経済財の転形(transformazioni)というはるかに ら 正確な(preciso)概念に席をゆずるべきなのである」。 66) 以後,彼の純粋経済学の方程式体系には,一種の「エネルギー」支出として 曖昧さを論わずに取扱える「資本用役」は登場しても,資本財価格,資本財需 61)P.Garegnani, Il Caf)itale nella teoria distribuzione, Milano,1960, P. 233,山下博 訳,p.288. 62) V. Pareto, lvfanzael, p. 299. 63) do., Cozars, p, 40. 64)do., A4anuel, p.293.本質的に同じだというのは, une foisとは「一生産期間」の 意味だと解されるからである。 65) do., Manuage, premio p. vi. 66) do., IUtanuel, p. 303.
96 彦根論叢 第217号 要などの変数は登場しないことになる。 L.Pasinettiは新著の中で『提要』におけるパレートのかかる変化をとらえ う て次の如く断じている。「『提要』においては,資本財の生産過程をすっかり放 棄した。……彼が資本と呼び続けたものは,所与で生産されない諸量であり, 稀少財と何ら異な:らない」。パレートのとったこの手続は,「限界生産力理論と 両立可能な唯一の論理的な解決」は「資本財をば土地と何ら異ならぬものと想 定する」ことであることをよく示していると。 同様の見解は,既にP.ガレニャー二によって詳細に示されている。たしか に,『提要』だけをみる限り,この見解は正しいように思われる。しかし,『提 要』から数年後の1911年に発表された,彼最後の純粋経済学的著作「数理経済 学」を見れば,彼らのこの見解が,ただちには,肯定し得ないことがわかる。 同論文では,『提要』附録でと同様の生産均衡の方程式体系が示された後に, 新たに,「資本化(capitalisation)」と題された第47節が続いている。あまり長 くな:いので次にその全文を引用しておこう。 「47,資本化。直接的オフェリミテはもたないが,商品XYZ……の製造に は役立つ様な新たな物T(資本)が存在すると想定しよう。 諸方程式D〔消費財の費用・価格均等式〕に,新たな諸項t。Pt, tylbt…… が生ずることになる。我々は更に二つの未知数,つまりTの均衡量tOとその 〔均衡〕価格窃をもっている。しかし我々はまた二つの追加的方程式をも持 っている。すなわち, tO・・txxo十ちツ。+…… ρ声α轟+ろあ+…… 従って転形の継起的連鎖(方程式)をのばしさえすれば問題は十分に決定され ているのである。 新たな量目は,既に存在している〔Tの〕他の量を用いても得られる。 67) L. Pasinetti, Structural Change and Eeonomic Groxvth, Cambridge, 1981, p. Is. 68) P.Garegnani, ol》. cit.;附録, G. 69) V. Pareto, Statistique et e’conomie mathematiqzae, p. 367.
パレート経済学の展開 97 その結果として,オ癌なる項が生じる一ことを注意しなければならない」。 アの 更に,次の48節の冒頭では,以上を総括して次のように書いている。 「だか ら,均衡の決定に関しては,厳密に数学的観点からすれば,資本化は何らかの もの(choses quelconques)の製造に他ならないのである」と。 以上から明らかなように,彼は,パシネッティらの云うように,資本財をば 「土地」 (稀少資源)と同一視しているわけでは決してない。更に47節の最後 のパラグラフを考慮すれば,Tは単なる「中間財」でないことも明らかであろ ア う。 ただ,r提要』執筆以後,「資本化」の問題の数理的展開を試みている唯一 の箇所であるこの47節はきわめて不完全なものであることば否めない。じじ つ,ただちに次の三つの疑問が生じてくる。 第一。パレートは「直接的オフェリミテをもたない」ものT一それは経済 財か資本用役であると考えるのが首尾一貫している一についてだけ,生産方 程式を示しているが,このような方程式を付加した以上,直接的オフェリミテ をもつ資本財についても同様の方程式が付加されねぽなるまい。が,その時に は,資本財の期首存在量ぱ,もはや均衡決定のための与件とは考え得ないこと になろう。なぜなら,ワルラスとは違って,47節では「新資本財」も今期に生 産力化すると想定されているからである。 第二。彼においても,ワルラス同様,資本財は企業家によって直接所有され るのでなくて,資本家の所有する資本財の用役が彼に供給されると考えられて いる。しからば,直接的オフェリミテを有さぬ資本財丁を資本家が需要する動 機は一体何か。 それは,「資本の純収入(revenu Ilet)」に他ならない。そしてその水準は, ワルラス同様,自由競争経済においては,資本間競争を通じて市場利子率の高 さで均等すると考えられる。しかし,この均等化のメカニズムは既にP.ガレ 70) ldid., p.367. 71)47節の最終パラグラフを参照すれば,この場合の追加第二方程式はPe=aoPa+bePb 十……十taPtとなる。なお前掲拙稿(註4),第3節参照。