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沖縄の障害者行政-沖縄戦から復帰まで-: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

沖縄の障害者行政−沖縄戦から復帰まで−

Author(s)

谷口, 正厚

Citation

沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 4(1): 129-163

Issue Date

1980-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6670

(2)

 ̄誼一一一一m 正膜表 ------=--J! 、’ -ページ゜行 訂正 75.表題 76゜19 90.10 92..12 95.8 129.目次 (7~8) 129・目次 (10) 131.16 138.22 ~23 159.5 160.注21) 国民所得成長の理論 -G゜A・フェリドマ ンの成長理論の研究一 (上) 見体的数字 一般に 検付 経路 第2節軍事的植民地 的支配の確立と障害者 行政 (1950年代) 大2次世界大戦 地区・衛生課 権 府の 395ページ 国民所得成長の理論 (上)-G゜A・フエ リドマンの成長理論の 研究一 具体的数字 削除 検討 径路 第2節軍事的植民地 的支配の確立と障害者 行政(1950年代) 削除 第2次世界大戦 地区衛生課 削除 396ページ

(3)

沖縄の障害者行政

-沖縄戦から復帰まで- 正厚 谷口 はじめに 第1節空白期(沖縄戦から1950年頃まで) (1)沖縄戦と障害者 (2)米軍による「住民救済」対策と障害者 (3)障害児教育 (4)公衆衛生行政と障害者 第2節軍事的植民地的支配の確立と障害者 行政 (1)近代的保健所機構の確立と障害者行政 (1950年代) (2)福祉諸法の制定と障害者行政の雲態 (3)障害児教育と民立法「教育四法」 (4)軍事的植民地的支配の矛盾 第3節障害者行政の開始(1960年代) (1)母子衛生 (2)福祉施設の設立 (3)日本政府の「特殊教育の振興」政策の 沖縄への導入と新しい障害者運動の芽ば え はじめに 1970 1970年代、沖縄県の障害者をとりまく環境は大きく変化した。日本資本 主義の,機構としてとりこまれた沖縄県は、日本資本主義の激動とともに世界 的不況、物価上昇、失業.倒産問題に直面してきた。また人口30万の県都那 覇市の都市問題.交通問題はますます深刻化し、復帰によって農村部も含めて -129-

(4)

沖縄県の社会経済環境の大きな変化があった。このなかで、一方では、障害者

やその家族の生活およびその将来の見通しはますます厳しくなってきていると

いう-面があり、他方では、障害者を家庭や施設に閉じこめておくのではなく、

障害者の様女な発達の可能性を実現したい、障害者の社会生活の障害をなくし

たいという願いも強まりつつある。

復帰は、政府の強い統制を伴なった補助金行政の枠のなかのことではあるが、

復帰前と比べると沖縄の障害者行政を着実に前進させてきた。そのなかのもっ

とも重要なものは、1979年度に養護学校が義務制に移行し、これによって

すべての障害児教育の義務化が実現し、今後のその教育内容の充実化への出発

点が築かれたことである。沖縄県でも、1972年度には396名の障害児が

就学免除・猶予によって教育を受ける権利を奪われてきたが、1979年度に

は48名と大幅な改善が見られる。

しかしながら、1970年代の沖縄県における障害者行政は、全体として政

府の障害者行政の枠を越えて前進していくというものではなかった。現在の西

銘保守県政下でそうであるというにとどまらず、屋良。平良革新県政のもとで

もそうであった。そしてこの限界内において、復帰後の沖縄の障害者行政は沖

縄の障害者の歴史の中で大きな前進を遂げてきたのであった。1980年代に

は新しい段階が訪ずれるであろう。1970年代の前進を基礎にして、個之別

点の諸施策の寄せあつめにとどまることなく、障害者の発達権を真に保障しう

る総合的で科学的な障害者政策を要求する力がますます大きくなるであろう。

そして障害者運動の力によって支えられ励まされたより高次の革新県政を1980

年代の沖縄県民はつくりだすであろう。

このような見通しにたって、1970年代の沖縄の障害者行政の科学的で具

体的な分析を行うことは、第2次沖縄振興開発計画の策定(現行の計画は1981

年度で終了する)が進められている現在緊急の課題である。私は、近いうちに

この分析を試みるつもりであるが、これに先だって、ここに復帰前までの沖縄

の障害者行政の歴史についてまとめてみた。これは、当初、「沖縄の障害乳幼

児対策」の前編として企画したものを、長くなりすぎたため独立させて手なお

ししたものである。障害乳幼児行政については、復帰後現在に至るまでの分析

-130-

(5)

が最近公表されているので(「沖縄の障害乳幼児対策」、谷口るり子、『障害

者問題研究』第21号、全国障害者問題研究会、1980年3月)、ぜひそれ

を参照されたい。

なお、これまで沖縄の障害者行政についてはいくつかのすぐれた分析が行な

われているが、とくに「社会福祉(戦後社会福祉のながれ)」(我喜屋良一、

『沖縄の社会福祉25年』1971年11月、第1部第3章)、「民族基本権

の侵害と障害児問題一戦後沖縄の障害児教育一」(両角正子、『児童問題

講座、7,障害児問題』、田中昌人編、ミネルヴァ書房、1975年11月)、

「沖縄における主要感染性疾患の戦後における消長一沖縄の医療年表一」

(照屋寛善、『沖縄県公害衛生研究所報』、第9号、1976年3月)に多く

学んだ。本稿の特徴を強いてあげれば、私自身がこれらのものから学んだも

のをひとつのものに整理して作り変えたということにとどまるかもしれない。

本稿の読者は、ぜひ上記の文献を一読していただきたい。’)

第1節障害者行政の空白期(沖縄戦から1950年頃まで)

(1)沖繩戦と障害者

沖縄は大2次世界大戦で陸上戦闘の行なわれた日本で唯一の県である。1945

年3月から同年7月までの沖縄戦での日本側の戦没者数は、少く見積っても約

18万8千人で、そのうち約半数の9万4千人が非戦闘員の一般住民であった

といわれている。沖縄戦が「出血持久作戦」、すなわち、できるだけ長く米軍

に抗戦し、米軍の損害を増大させ、それによって本土上陸の時期をのばし戦力

を損耗させるという目的をもたされた作戦であったためにこのように多くの住

民の犠牲者がでたのである。2)そして、軍国主義思想によって教育された県民

は、このような作戦に従事する日本軍に協力し、やがて日本軍とともに沖縄本

島中部から南部へと敗走していくなかで、戦闘によって殺されたりあるいは病

気やけがによって生命を奪われたりするという悲惨な運命にひきこまれていっ

た。このなかで、日本軍によって住民がスパイ容疑で虐殺されたり、3)米軍に

発見されるのを恐れた軍の命令で、住民が泣く子供を池に投げこみ這いあがる

(6)

-131-うとする子供を頭の上からおさえつけて溺死させるなどの異常な事態がひきお

こされ、生き残った住民も最後には大量の集団自決へと追いやられたのである。

また戦争の犠牲をこうむったのは激戦地の住民だけではなかった。「離島や

山村では飢餓とマラリアで多くの生命が奪われた。たとえば波照間島の住民の場合、

軍命で西表島へ強制移住させられたが、その結果、全住民の99.9パーセント

がマラリアにかかり、そのうち30.05パーセント、477名が死亡した。八

重山全部で死亡率21.5パーセント、宮古・国頭でも状況はほぼ同じだった。」4)

こうした状況下では、沖縄県に生き残っていた障害者はまつさきに死に直面

したにちがいない。1951年に設立された那覇保健所(当時は南部保健所と

いった)の初代所長であった当山堅一氏は、敗戦直後の結核について次のよう

に述べている。

「ドイツでは第1次世界大戦中或は直後の結核死亡率が非常に高率になった

統計を記憶していたので、ドイツ同様敗戦に打ちひしがれ食糧事情が極端に悪

い沖縄の結核死亡率は平時人口10万人に対する200人は遙かにオーバーす

るものと予想し、土曜日の休暇を利用し知念民政府の公衆衛生部に通い届出ら

れた死亡診断書の統計を整理したが、結果は予想を完全に裏切って10万人の

人ロに対し結核死亡率は僅かに40名程度、即ち戦前の5分の1以下の数字が

出てきた。私はあまりの少なさにてっきり計算ミスだと思い何回もやり直した が結果は同じだった。然しよくよく考えてみると健康な人でさえ生きるだけの 食橿を得る事が容易でない戦時下殊に戦場になった沖縄では多量のカロリーを

必要とする結核患者は安静も食糧も充分得られないまま戦火の中に死亡陶汰さ

れたものと推定した。」5)

他方で戦争は多くの障害者を作りだした。身体障害者統計によれば、戦後

28年もたった1973年になっても障害の原因として「戦傷病」をあげた者

が12.8パーセントにのぼっている。これは1970年の全国平均(沖縄を除

く)5.8パーセントの2倍以上である。6)

(2)米軍による「住民救済」対策と障害者

沖縄戦終結から数年間米占領軍のとった住民救済対策は、戦争によって生活

(7)

-132-】団ン ”>圏 ■ロ 。、 C ■ヨ  ̄ 、 の 6回 【□  ̄ 】農①柑 后含紺 】麗②繍 己乞繍 ①。『mの】。】砲悶 一 のの】つ]砲砲 ← ① 、一①】閂い△ ① ⑪]●』閂 ←醗霊岡電顕鉢 灘蜜蝋瀞途繁舛 「奪00割題r寄灘k」) ← (覇風 舛淫鐺 、 舛淫懲 C・U,§塑皀『:me司}野鶴>鴨 ←‘( ←‘( 図一ご念伶Iごg柑囲辨刷e暮鰯緬丙散こび胖加鉾銅偶絲e柵罫共闘(エ聖) 『蓉溌S洋恥蔚再図、紺」()91『剛) 丙缶Jペ寺目。、○国四IgC刀・ 郵

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(8)

-133-条件。労働条件を破壊された住民に対する衣食住の生活用品の支給と浮浪児対

策であった。米軍の捕虜となった住民は自らの居住地にもどることを許されず、

米軍の指定した地域でテントや仮小屋住いをするいわゆる「キャンプ」生活を

1946年4月頃まで強いられた。「キャンプ」の住民は米軍労務に従事し、

これに対して食糧、衣類、医療等が米軍から支給されたが、それは極めて貧弱

なものであった。 1946年4月から貨幣経済が再開され、生産活動再開策がとられたが、こ

れに対応して救済制度も全住民対象から「貧困住民」のみを対象とするものと

なった。7)この制度は1946年6月に開始され、3カ月後の同年9月に被救

済者は約10万人、人口1万人につき171人に達した。しかしこれも、米軍

のたび重なる予算削減と、これを受けた沖縄民政府の行政指導によって以後後

退させられていくことになる。これについて我喜屋良一氏は、「米軍政府支配

下の沖縄民政府の厚生行政は『救済事業」の看板を掲げて、その実、『救済削

減政策』をおしすすめる仕儀となってしまった」と述べている。8)そのようす

は図1に示したとおりであり、救済人員は1946年9月の約10万人から 1951年には1万人代に圧縮されてしまった。 00。⑨coooOC①O ここでこの時期の障害者対策についてし、えば、障害者に対する独自の対策は

とられなかった。沖縄民政府は、1946年6月の「沖縄住民救済規程(案)」

では救済対象に含まれていた「失業の為め自活し得ざるもの」という要件を、

同年9月以降変更し、「可働能力者」(現に就業している者ではない)はすべて救

済の対象から除外する方針をだした。そのなかで「不具溌失者にして現に就業

しつつある者は可働能力者と見徹すこと」といっている。い゛1949年8月17

日付の、沖縄民政府社会事業部長名での市町村長あての通達ではこれをさらに 。。。①00、。000、。●、。。、、

徹底させて「救済世帯の子持の女、不具者で形式的には非可働者でも現に就労

0000、①000⑨、O⑧0000⑨00。。。①00。◎

せるもの又は就労可能と認められるものIま可働者と見徹すこと」と指示してい

る。'0)

(3)障害児教育

次に教育についてみれば次のような特徴がある。福祉・公衆衛生行政等につ

-134-

(9)

いては、後述するように、その基本法となる法が制定されたのは第2期、1950 年代のはじめ頃であるが教育の分野ではすでにこの第1期に基本法の制定が行 なわれている。すなわち、「宮古群島教育基本法」「宮古群島学校教育法」が 1948年4月に施行され、また八重山群島、奄美群島でも「教育基本法」「学 校教育法」がそれぞれ1949年4月(八重山)、5月(奄美)に施行されて いる。ただ沖縄群島(本島)の場合は少し遅れて、1951年3月に「沖縄群 島教育基本条例」、11J縄群島学校教育条例」が公布されている。 ここでこれらの教育法について簡単に述べておこう。まず教育基本法はいず れも補則を含めて11条より成っており、「日本国憲法」、「国家」、「国」 の言葉がなく、「国民」のかわりに「住民」、「沖縄人」等の言葉が使われて いることを別とすれば、ほぼ本土法と同じものである。米占領童による厳しい 沖縄の分離支配下にあって沖縄県の教育関係者は苦労して本土の情報を入手し できるだけ本土法と同じ法律を作ろうと努力した結果である。学校教育法につ いては、「宮古学校教育法」が63条(7章および附則)、「八重山教育法」 が75条(8章および附則)、「奄美学校教育法」が103条(9章および附 則)、「沖縄群島学校教育法条例」が73条(8章および附則)と少しずつち がっている。その主なちがいは、宮古、八重山、沖縄群島の場合は大学に関す る規定(奄美の場合は1章19条の大学に関する規定がある)がなかったこと、 および宮古の場合は「特殊教育」の規定もなかったこと(八重山、奄美、沖縄

群島の場合’章6条)等であり、その他はほぼ本土法と同じである。'1)

教育の実態についてみれば、71J縄戦が始まったばかりの1945年5月7日 に米軍の「キャンプ」内で捕虜となった住民によって城前初等学校(石川地区) が開校されるなど、制度も設備もないなかでいち早く教育の再建のとりくみが

始められているが、'2)しかし障害児教育についてみるとこの時期は空白の時期

であった。障害児の就学義務、障害児学校の設置義務が本土法にならって定め られてはいたが、その施行期日の延期規定もまた本土法にならってとりいれら れた。しかも盲ろう学校も含めて、1952年の米軍布令「教育法」によって 各群島教育関係法が廃止されるまで施行期日はついに定められなかった。戦前 1924年(大正13年)に設立され、1943年4月県立に移管されていた -135-

(10)

「沖縄盲ろうあ学校」も、1945年2月に戦火により校舎が全焼して閉校と なったまま、1951年8月まで約6年間再開されなかった。したがって、障 害児教育は、単に空白だったにとどまらず、戦前の1924年以前に逆もどり したのである。 (4)公衆衛生行政と障害者 第3に公衆衛生についてみると、米占領軍は、自らの健康のために、沖縄県 民に対する伝染病対策や清掃事業等に、占領後ただちに強力かつ強権的な対策 をとった。その結果、たとえば、戦中・戦後に大規模に発生したマラリアにつ いては、米軍の強力な対策によって、1946年には患者数が17万7千人、死亡 数965人であったのを1950年には患者数1,400人、死亡数22人と急

速に減少させる等の成果をあげた。'3)

しかしハンセン氏病については、戦後初期にとられた対策は、人権を無視し た患者の完全隔離政策であった。たとえばハンセン氏病対策の基本を示した 「獺に関する特別布告13号」(1947年2月10日)は次のようにいって いる。 「何人と難も癩病を隠蔽し、癩患者を隠匿し、癩患者逃亡を援助し、乃至は 癩患者の連行を妨害する(ま違法たるべし。(第7条、獺患者講助禁止事項)」 「何人たりと雛も正式の許可なくして獺療養所に指定せられたる場所若しく は地域に入り叉は在るは違法たるべし。(第8条、禁止区域)」 「本布告の規程を犯す者は何人と雛も特別軍事法定に於て定罪の上処罰、即 ち罰金体刑又はその両刑若しくは法廷の決定する其他の刑罰に処せらるくし。

(第9条、罰則)」'4)

しかも、強制収容された先の愛楽園'5)の状況はどうかといえば、施設は戦争

によって破壊されたままで「1947年2月まで入院患者は洞穴やあばら屋に 住んでいた」といわれ、また、1948年当時「配給の食料は1日当り、わず か900カロリーであ」り、「患者のなかにはライの病状が非常に進行してい るうえ、結核を併発している患者も多く、彼らは大戦中の食糧不足のため栄養

不良におちいっていた」といわれる。'6)

-136-

(11)

照屋寛善氏はこの隔離政策についてさらに次のようにいっている。

「実際にあの激烈な空襲でも死者1名、軽傷者5名、職員並びにその家族に

1人も被害がなかったのにかかわらず、戦争が済み、壕生活から出て僅か半年

の間に栄養失調、下痢、敗血症でつぎつぎ死亡し、200人近い入園者が死亡

した事を思うと、当時の軍政の『隔離政策』がどのようなものであったか想像

される。勿論、愛楽園に限らず当時の全沖縄住民は同様な苦しみを味わってい

た。けれども、こんな食糧難に頓着なく米軍はM.P、C・Pを動員して戦争中

四散した患者や、新患者を発見次第愛楽園に送りこんだのでその窮状はそれこ

そ大変なものになっていた。」'7)

米軍の公衆衛生行政の重視が米軍人の健康維持を目的としてすすめられたこ

とは沖縄の公衆衛生の歴史に複雑な影響を残してきた。それは一方ではアメリ

カの進んだ公衆衛生行政を沖縄に導入した。しかしそれは他方では占領支配と

いうことから生じるゆがみをももたらした。公衆衛生行政の諸分野をみても、

一様な発展過程をとったわけではない。障害の発生防止と障害児の早期発見・

早期治療に関わる母子衛生の分野は、初期の一時期を除き、'81衛生統計。公報

活動とともにもっとも遅れ、放置されてきた分野のひとつである。

第2節軍事的植民地的支配の確立と障害者行政(1950年代)

1949年10月、中国でアメリカ帝国主義のテコいれした蒋介石が敗れて

中華人民共和国が成立した。この頃、アメリカの沖縄政策も、アジアの社会主

義国に対するアメリカ帝国主義の反共軍事基地として沖縄占領を恒久化する方

向で固まってきた。1949年10月に就任したシーツ(JosephR,Sheets)

軍政府長官のもとで、一方では1949年から本土の土建業者も導入して本格

的な基地建設工事が進められ、他方では、米軍支配にとって許容しうる範囲内

での「住民生活の向上」策「自治の拡大」策がとられた。1950年12月に

アメリカ極東軍指令部は「琉球列島アメリカ民政府に関する指示」を出し、こ

れまでのアメリカ軍政府を「琉球列島アメリカ民政府」に名称を改め、シーツ

(12)

-137-軍政長官のもとで進められてきた沖縄支配・統治の方針を体系化した。そして

アメリカ民政府布告第13号「琉球政府の設立」(1952年2月29日)に

もとづいて、「琉球政府」が同年4月1日に設立された。この布告が琉球政府

について「琉球政府は琉球における政治の全権をおこなうことができる。ただ

し、琉球列島アメリカ民政府の布告・布令および指示にしたがう」と述べてい

るように、琉球政府は「自治」政府の名に値しないものであったが、以後この

政府機構のもとで沖縄の障害児・者行政の形式的整備が進められる。

(1)近代的保健所機構の確立

まず公衆衛生関係からみると、琉球政府の設立にさきだつ1951年7月に

コザ、名護、那覇の3カ所に保健所が設置され、同時に保健婦の地区駐在制度

が実施された(保健婦は沖縄ではこれ以後復帰まで英語のpubIichealthnurse

を訳して公衆衛生看護婦、略して公看と呼ばれてきた。復帰後この名称は保健

婦と改められたが本稿ではすべて保健婦という名称を使う)。さらに、これに

先だって、1949年12月10日に「マッカーサー司令部公衆衛生福祉局長

サムズ准将が来島し、各地の病院・学校における衛生状況を視察した後、彼は

『保健所の設置と性病の歴訪』を強調し、沖縄の如何なる僻地においても性病

の治療がうけられる施設をなし、医療器械類、ペニシリンなどの薬品を近日中

に入荷する旨を発表している。」'9)

保健所の設立に際しては、医師は公務員医師の一部が保健所に移り、20)環境

衛生業務のスタッフについては、すでに1948年の「衛生規則(琉球列島米

国軍政本部指令第114号」によって米軍→沖縄民政府公衆衛生部→地区衛

生課→市町村衛生課と一元的に組織されていた住民側の衛生組織のうち地区、

衛生課の職員がそのまま地域の保健所に移された。21)保健婦についてはGHQ

からワーク・ワーターワーズ女史が軍政府公衆衛生部看護顧問として、ジョセ

フィン。H・ケーザー女史が同公看顧問として沖縄に送りこまれ、とくにワー

ターワーズ女史は1950年1月から1960年6月まで10年余りにわたっ

て保健婦の養成・指導等にあたった。22)

このように、保健所設立にあたってアメリカ占領軍はGHQの指導下にとり

-138-

(13)

くみを進め、琉球政府の設立およびそのもとでの「保健所法」の制度(1952

年8月)23)以前に実質的な機構を確立している。この点では福祉に関する米軍

の態度とは対照的である。24)

(2)福祉諸法の制定と障害者行政の実態

1953年に「生活保護法」(10月)「児童福祉法」(10月)「身体障

害者福祉法」(11月)の福祉3法と「社会福祉事業法」(11月)があいつ

いで制定され、1954年に宮古、八重山の両民生事務所が「福祉事務所」に

改称され、沖縄本島に「南部」「中部」「北部」の3福祉事務所が設置され、

また同年に児童相談所が設置される等、琉球政府成立後の1953~4年に福

祉関係の行政機構の整備が行なわれた。

表1児童福祉法に規定された児童福祉施設とその設置状況

月。 蒜球iFbP府ネ十今局196 『厚生白書』1960年度肋

⑤の(イ)は1959年8月の改正により法定施設として追加

⑫、⑬は1969年9月の改正により法定施設として追加

-139-

資料『厚生白書』1960年度版(創刊号)琉球政府社会局1961年6

法定施設 1960年の実態 備考 ①助産施設 なし

②乳児院

1カ所5人 ③母子寮 なし ④保育所 30カ所2,070人 ⑤児童厚生施設 (イ)幼児園 (d児童遊園 し)児童館 ⑥養護施設 2カ所198人 ⑦精薄児施設 なし ⑧同(通園) なし 1965年設置 ⑨盲ろうあ児施設 1カ所23人 ⑩虚弱児施設 なし ⑪肢体不自由児施設 1カ所50人 ⑫重症心身障害児施設 なし 1971年設置 ⑬情緒障害リ2A豆期治療施設 なし ⑭教護院 1カ所55人

(14)

表2身体障害者福祉法に規定された身障者更生援護施設とその設置状況 資料『厚生白書』琉球政府社会局編、1960年度版(創刊号)1961年 6月。 『沖縄の社会福祉』(沖社協創立10周年記念誌)1961年12月、 47~50ページ。 注③……1956年9月の改正(立法65号)により規定された。

④……1969年9月の改正(立法145号)により規定された。

しかし、「これらの福祉事務所や児童相談所を中核的な現業運営機関として 実施されるに至った既述の福祉3法は、いずれも本土法にくらべて法定施策の

内容、水準や運営の実際面では問題が多」かつた。25)’例として「生活保護法」

をあげると「救済総額の無制限方針」が欠如するという根本的欠陥があった。 また法の条文は本土法と同じ場合でも、実態はさらに貧困であった。1960 年時点で児童福祉法および身体障害者福祉法に定められた法定施設と同時期に 実際に設置されていた施設とを対比すると表1,表2のようになる。 身体障害者の更生医療給付は1957年7月から実施されたが1958年度 (1957年7月~1958年6月)6人、1959年度11人、1960年

度20人であった26)(1960年の身体障害者は琉球政府の実態調査によると

6,654人であった27))。また身体障害児の育成医療給付は1959年および

1960年の児童福祉法の改正によって開始されたが琉球政府『厚生白書』自 体が「予算との関連もあって、ごく僅かになされているにすぎず……」と述べ ているように、1963年度でもわずかに5人、1,408ドルという状態であ -140- 法定施設 1960年の実態 備考 ①肢体不自由者更生施設 ②失明者更生施設 ③ろうあ者更生施設 ④内部障害者更生施設 ⑤身障者授産施設 ⑥点字図書館 ⑦点字出版施設 ⑧補装具製作所 所所しししししし 力力 12なななななな

(15)

つた28)

母子保健事業は保健所の業務であるが母子保健法の成立(1969年10月) までは児童福祉法にもとづいて行れるべきものとされていた。児童福祉法は 「行政主席は、規則の定めるところにより妊娠の届出をした者に対して、母子 手帳を交付しなければならない(第22条)」と義務づけていたにもかかわら

ず、1960年12月に「母子手帳の様式」(1960年、告示277号)が

だされるまでこの制度は実施されなかった。29)同様に保健所は「身体に障害の

ある児童の療育について指導を行うこと(第19条)」と規定されていたが保 健所に専門医師の配置がなされずこれも実施されなかった。 (3)障害児教育と民立法「教育四法」

障害児教育についてみれば、1947年以来、戦前の盲唖学校卒業生とその

父母や「沖縄盲人協会」(1948年11月発足)の運動によって1951年

4月沖縄盲唖学校が設立され、6年間の空白に終始符がうたれた。しかし「当

時の文教行政の実`情としては、とても特殊教育の分野まで行き届かない状態で

あった。そこで、いきおい厚生の分野でそれをとりあげざるをえないこととな

り、教育と保護の機能をもたせた盲及びろう児の収容施設の設置をみる」30)こ

とになり、当初は厚生部の所管とされた。教育機能が分離されて文教局所管と

なったのは1954年7月である。養護学校はまだこの第2期には設置されな

かったし、特殊学級も1958年度に設置されたのが最初で、1960年度で

もわずか小学校3学級、44人にすぎなかった(中学校については1962年

度'学級'8人が最初である)31)から、盲・ろう教育以外はこの時期も空白状態が

続いた。

1950年代末には民立法によるいわゆる「教育四法」(教育基本法、学校

教育法、教育委員会法、社会教育法)の制定要求が県民的運動となってもりあ

がった。アメリカ民政府は「琉球政府の設立について」(布告第13号)を発

した前日の1952年2月28日に「琉球教育法」(布令第66号)を公布し

た.「これは前年の群島教育3条例や、それ以前の宮古・八重山の教育諸法を

踏まえたもの」であり、「骨子は大体、本土の法規に倣って」32)いたが、「立

-141-

(16)

法院において正式に民意に沿うて立法化されるまでの暫定的なもの」33)とする

理由で、民側の意見はあまりとりいれられないまま、アメリカ民政府が一方的

に押しきって公布したものであった。これに対して沖縄教職員会(1952年

2月結成)を中心として民立法制定の運動が進み、1956年1月立法院で法

案が可決されたが、米国民政府がこれを承認しなかったために2月24日廃案

となった。琉球政府は同年4月に四法案を再提案したが再び米国民政府の拒否

により10月24日、2度目の廃案となった。その直後、米国民政府は、琉球

政府文教局の反対も押し切って強引に、布令第165号「教育法」を公布した。

これは沖縄の教育の実状を無視したもので教育界を混乱におとしいれ、これIこ

よづてかえっ「て民立生による教育法の成立を求める世論が高まった。立法院文教社会委員

長名による議員発議で1957年9月21日3度目の提案が行なわれ、立法院

は審議の結果全会一致でこれを可決した。米国民政府はこんどは世論を無視で

きずこれを承認し、四法が一括して1958年1月10日に公布され4月1日

から施行された。

ここで立法院・県民と米国民政府との対立点は前者が教育基本法前文に1日

本国民として」という-句をいれたのを後者が認めなかったということであっ

た。米国民政府が1958年についにこれを認めざるをえなかったということ

は1950年代の軍用地強制収用反対闘争をはじめとするアメリカの占領支配

に反対する県民のたたかいの発展を反映するものであり、34)これらの運動はさら

復帰協の結成(1960年)へと発展していく。

しかし、この民立法「学校教育法」については、障害児教育との関連で次の

点を指摘しておかねばならない。すでに述べたように、以前の名瀧:政府時代の民立法

では「本士」法にならって「就学義務」・障害児学校の「設置義務」が規定されるととも

にその施行期日の延期規定も含まれていた。しかし、1958年の「学校教育法」

では、どういうわけか、この延期規定のみが削除されることになった。したが

って、法i勺にはこのとき以来、沖縄では障害児教育は義務別になったことになる。しかし

このことの意義は一般にほとんど自覚されなかった。実態はすでに述べたとう

りであり、この立法以後1960年代のはじめまでに琉球政府が行なったこと

は、沖縄盲ろう学校の沖縄盲学校と沖縄ろう学校への分離(1959年4月)、

-142-

(17)

校舎移転・新築と高等部設置(1961年4月)等、盲ろう学校のある程度の充 実を別とすれば、「義務教育学齢児童及び学齢生徒の就学義務の猶予及び免除

に関する規程」(1959年4月)を制定したことくらいである。35)

(4)軍事的植民地的支配の矛盾 米軍によって相対的に重視された公衆衛生行政の分野でも事態が急速に 改善されていったわけではない。たしかに、1950年代のはじめには、たと えば結核とハンセン氏病に関してそれぞれ世界的な権威のアメリカの専門医が

来沖し、実感調査を行い根本的な対策案を提起した。36)しかしこれは当の米国

民政府のうけいれるところとはならず、ために対策は遅々として進まなかった。 結核については駐在保健婦の地道な活動や琉球政府における「結核予防対策暫 定要綱」(1954年10月制定)「結核予防法」(1956年10月立法公 布)等沖縄県民による努力が進められていったが米国民政府のてぬきのなかで

結核はむしろ拡大していった。釘)

さらに、マラリヤについては、沖縄戦以来の米軍の徹底した対策によって 1940年代末に急速に撲滅されていったが、宮古・八重山では1951.2 年頃から再燃し、とくに八重山で激しかった。しかしこの時、米軍は琉球政府 に対策をまかせ、他方琉球政府は発足したばかりで有効な対策をとる力がな かった。米国民政府が対策に着手したのは1957年夏以降のことであっ

た。そしてこれによって急速にマラリヤは撲滅されていった。詔)

これらの経過は、根本的には、恒久基地建設を基本方針として、一方では農 民から強制的に土地をとりあげ、経済発展をゆがめ、県民の命と生活を破壊し ながら、他方では、「戦前の水準以上の生活水準」への県民の生活改善は琉球 政府と県民の責任に転稼するという1950年代の米軍の沖縄支配の基本政策Iこ に起因している。アメリカ政府の琉球援助金の推移がそれを端的に示している。 (図3)。しかし、だからこそ、土地闘争をはじめとする米軍の沖縄占領支配 に対する闘いと島ぐるみの復帰闘争へのその発展は、障害児・者対策の前進を うみだすもっとも大きな力のひとつになったのである。

(18)

-143-図21950年代のアメリカ政府援助 □ 資料『琉球銀行10年史』 13- 注。1949.50年度は[軍円予算I 。1951.2年度は民側の政府に 対する軍補助。 。1953年度以降は琉球政府 に対する米国E3E〔府補助金6 .1952年度は財政年度の日本 式から米国式への切り替えの 年で、19514~19526の期 間である。 。1949~50年度は1ドル-50円、 1951年度以降は、1ドル=120 円である。 111

トトトトトトトトト圭朕皿

1億B

19筆度195019511952195319541955195619571958

第3節障害者行政の開始(1960年代)

1950年代のアメリカの露骨な軍事的植民地的支配政策に対する県民の批

判の高まりに対して、1950年代末には、アメリカ帝国主義は沖縄占領政策

の手なおしを迫られていた。そして、沖縄の軍事的植民地的支配を維持するこ

とを一方では再確認しつつ(「大統領行政命令」1957年6月5日)、この

支配を維持するためにも、他方では、通貨のB円からドルへの切り換え(1958

年)、「外資」(主として日本の資本)の導入等によって沖縄の経済開発を進

め、アメリカ政府と日本政府の沖縄への「援助」によって県民の生活改善にも

一定の資金を投下する等、県民の要求をある程度反映した「アメ」の政策をと ることになった。

(19)

-144-(2)母子衛生

まず公衆衛生についてみると、1959年に米国援助により琉球結核研究所

の復旧や那覇病院の建設が行なわれ、1962年から結核患者の本土送りだし

が開始され(1962年~1978年のあいだに2,400人が送りだされた)、

また本土からの技術援助も開始された。これらが、すでに実施されていた治療

費の全額公費負担制度、保健所による治療活動と保健婦の訪問活動ともあいま

って、1960年代の後半には、ようやく患者の減少傾向がみえはじめた。

またハンセン氏病も、日政援助における医療行政の政策中最も重要な問題と

してとりあげられ、医療技術援助(1957年)、経口剤の援助(1961年)

などが開始され、1961年8月には、「在宅治療、指定病院への入院制等本

士法にない進歩的な面」を織りこんだ「ハンセン氏病予防法」が公布された評)

しかし母子保健の分野でこうした動きが現れてくるのは1960年代後半に

なってからである。母子手帳制度が1961年1月から実施されてはいたが、

その交付状況は1961年7,254件、1962年10,838件、1963年

12,257件と出生数(1961年20,981人、1962年19,859人、

1963年20,936人)と比べても非常に少い(1961年346%、1962

年546%、1963年585%)。また「児童福祉法では、(1961年6

月の改正によって)未熟児が生れたときその保護者が現在地の保健所長に届出

ることにより、保健所では医師、公衆衛生看護婦等の職員を家庭へ派遣して養

育に必要な指導をするよう規定されていたにもかかわらず、実際には1件の届

出もなく、その実態は把握されていない」(以上1963年度版『厚生白書」)

という状況であった。 1965年になってはじめて、琉球政府に母子保健事業の予算2,349ドル

(約85万円)がつけられた。1969年10月には本土より4年遅れて「母

子保健法」が制定された。1965年以降沖縄県で施行された母子保健事業は

次の事業である。(カッコ内は1本士」の場合)。

妊産婦・乳幼児の保健指導1965年(1951年)

3才児健診1967年(1961年)

(20)

-145-未熟児訪問指導および養育医療給付1968年(1958年)

新生児訪問指導1971年(1961年)

母子栄養強化事業1971年(1963年)

また、沖縄の乳児死亡統計は、たとえば1960年で全国が人口1,000対

比28.6人に対し沖縄県が105人と3分の1に近い低位であった。しかし、

これは実際に死亡率が低いことの反映ではなく、死亡届が出されないことに原 因があるのではないかという指摘が1960年半ば頃になされ、各地域で保健

婦による実態調査が行なわれた。その結果、実際はむしろ全国平均を上回って

いることが明らかにされ、そのなかで保健婦の母子衛生に対する関心も高まっ

てきた。同時に母子手帳交付の状況も徐々に改善されてきた。しかし1970

年で出生後交付がまだ約11パーセントあり、また妊娠届出のうち5カ月以内

の届出は富山県74.3パーセント、石川県703パーセント、奈良県707パ

ーセント、和歌山県749パーセント、宮崎県583パーセント40)に対して沖

縄県48.0パーセントと大きな格差があった(表3)。このように母子衛生対

表3母子手帳交付状況の推移 」】竺上1Zn 生後交付再交、 交付数段二交、a,砂 資料 注 ※印は再交付を含む。

『母子衛生の主なる統計』(1964年~1976年版)

-146- 交付 総数 妊娠届出による交付 5カ月以内 6カ月以内 不詳 交'付数 交't索 交付数 交代ぅ:lZ  ̄ 、数 交  ̄ 、玄 出生後交付 出生後交付 再交付 交付数 交'卜 率 交'付;Iilj 交 ̄ 、摩 123456789 6 9 1 0 7 9 1 1234567 888589099390 653665974392 843240244562 ?y9990999999 114534296544 222222222222 74494122571 93204532289 63618661529 8けり、?99p9DP 35689055677 111111 兜 29269802703 ●●●●●●●●●●● 71640737404 12234455677 u例朋帖呵、別冊旭門別 99204946180 P9990P99999 89010908754 1111 % 29415999920 ●●●●●■●●●●● 90373063730 34444433222 1 14211 131376 493532 29 21 11 654 764 % 28867344332 ●●●●●●●●●◆● 51000000000 ※8,228 ※8,615 ※7,466 3,582 2,618 1,858 1,599 940 651 509 373 Z 34639346515 ●●●●●●●①●●● 85950853221 33211 20754 95177 56722 092 637 119 p999 1111 %57238560 ●●●●。●●● 22344444

(21)

策は1960年代後半にある程度前進したがまだ初歩的な段階であるうえにそ

の内容には大きな問題があった。これを3才児健診をとりあげて考察してみよ

つ。

表4は3才児健診開始後1971年までの受診者と受診率の推移を示したも

のであるが受診者はふえておらず、受診率も増大してない。41)

表4沖縄における3才児健診実施状況(復帰前) 196719681969年1970年1971年 資料『母子衛生の主なる統計』(琉球政府厚生部)から作成

各保健所別の統計をみると表5のとうりで、受診者が増大傾向にあったとい

えるのはコザ保健所くらいで、他は年によって増減が激しく、那覇保健所の場

合はむしろ減少傾向を示している。体±」と比較しても、1970年における全

国平均の受診率が724パーセントであるから沖縄県はその約半分の水準である。 表5保健所別3才児健診実施状況的帰前) 1967年1968 24881797 22901845270833443263 1325993293564757 148718167091308965 382718918647905 697735989525377 流計』(硫ヨヮR政府厚生部 「母B二二種7牛0 また、健診の結果[要管理」とされた人数も、県全体で、精神面については 1970年が47人(0.6パーセント)、1971年45人(06パーセント) と(復帰後1974年~1976年の平均が約25パーセントであることに比 べてみても)低すぎる値である。3才児健診は精神面の発達をとくに重視して 行なわれるべきであるといわれているにもかかわらず、十分な診査が行なわれ てこなかったと考えられる。 このように、1960年代後半になって障害乳幼児の早期発見・相談に関る 諸対策が実施されはじめたとはいえ、その内容をみると障害の早期発見と克服 -147- 資料『母子衛生の主なる統計』(琉球政府厚生部) 1967年 1968年 1969年 1970年 1971年 3才児人口(推計) 受診者数 受診率(推計) 21,606 8,669 401% 21,616 7,844 36.3% 21,601 7,383 34.2% 99% 645 945 073 2 20,952 7,746 37.0% 保健所 1967年 1968年 1969年 1970年 1971年 那覇 2.488 1,797 1,766 1.061 1,479 コザ 2,290 1.845 2,708 3.344 3,263 石川 1,325 993 293 564 757 名護 1,487 1.816 709 1,308 965 宮古 382 718 918 647 905 八重山 697 735 989 525 377

(22)

に焦点をあてて意識的に追求されてきたものとはいえないものであった。 今、この原因を3才児健診に即して考えれば次の問題点があげられよう。ま ず第1に専門職、とくに心理専門職の不足である。障害を早期に発見するため には、医学的な診察だけでは不十分であり、精神発達面からの判定もあわせて 多面的な健診が必要である。沖縄では医師不足も深刻であるが(表6)、発達 と障害を総合的にとらえようとする心理判定等の新しい専門職の不足はいっそ う深刻であった。 表6本士類似県との医療従事者比較(『沖縄の社会福祉25年」P、389から) 1970年末 看護婦仕 準看謹塒,}(十

資料:沖縄は琉球政府厚生局医事課、本士は医師、歯科医師、薬剤師について は「医師・歯科医師・薬剤師調査」、保健婦。助産婦・看護婦(士)・準 看護婦(士)については「衛生行政業務報告(厚生省報告例)」 -148-県別 人口 医師 歯科医師 準看護婦看護婦(士)(=、 助産婦 薬剤師 実数 沖縄 島根 徳島 香川 高知 類以県平均 全国平均 945,111 774,000 790,000 914,000 787,000 816,000 2,244,000 2 8 4 1 腿 41277 四W別切肥 1112 1 3 1 345313 皿〃羽皿加田 6 0 9 858707 696064 985219 99999, 223335 178 204 138 211 193 187 305 273 279 210 222 179 223 611 433 324 639 590 483 509 1,726 人口皿万対 沖縄 島根 徳島 香川 高知 類似県平均 全国平均 0112743 ●●●c■●● 別冊別Ⅳ咀昭肥 111111 9447907 ●●●●●●● 3186026 1323333 95.9 383.5 366.5 390.4 407.5 387.3 265.0 8051597 ●●●●●■● 8373423 1212221 9363732 ●●●●●●● 8564277 2322222 8996449 ●●●●●●● 妬虹別別刷砠祀 格差(沖縄Ⅱ’○○) 沖縄 島根 徳島 香ノ|| 高知 類以県平均 全国平均 0967334 ●●●□●●● 0136367 0889883 1 2 0372497 ●●●●●●● Ⅱ、〃肥妬肥那 1122125 1112116 N筋、品閉開館 0507522 0654084 s●ひ●●●● 0793486 0218545 1332336 0655414 ●●●●●●● 0478851 0171007 111111 0293678 勺●●●●●● 0261513 0078682 11 2 0863666 ●●●●●●● 0476178 0743119 111113

(23)

第2に財政の貧困である。さきに、1965年度にはじめて約85万円の母 子保健衛生事業予算がついたことを述べたが、これは同じ年の沖縄県の出生数

20,873人と比較してさえも1人あたりわずか38円ととるにたらない額で

あった。さらに表7に示すように、1966年以後もこのわずかな予算はそれ

ほど増大しておらず、1971年においても公衆衛生費の0.4パーセント、歳

出総額の0.008パーセントで出生人口1人あたり278円にすぎない。

1964年度の宮崎県の母子保健関係の経費と対比して沖縄県の経費を表8 に示したが、これをみると沖縄の場合、保健所費、衛生費は宮崎県とほぼ同額

になっているが母子保健衛生費は圧倒的に少いことがわかる。アメリカ政府は

1951年の保健所設置以来財政「援助腱行い、1965年度も公衆衛生費に

40万ドル(1億4,600万円)の「援助」を行っているが、母子保健事業への|援

助」項目が現われるのはやっと1970年になってからである(1万ドル)。さ

らに日本政府の場合は母子保健事業への|援助」も公衆衛生費への「援助」もなされな かった。

第3に、結核の場合には1950年代始め頃から社会問題化され、保健婦の

地区駐在制を生かして健康診断、保健婦による訪問、保健所による治療および

治療費の公費負担という総合的な対策がとられたが、障害者問題についてはま

だ社会的な関心が低かったことである。このことについてはあとでもう一度触

れる。

表7琉球政府の母子保健衛生決算額の推移(単位百万円)

1965-1966年1967年1968年1969年1970年1971年 A歳出総額19686234173009840372476795693869625 B衝生1700184227582798385842264769 C公衆衛生費692700123911731523 D母子保健08081517235759

画昌×'0M

F-xlOO兜 G-×100% 売球政「府「決算書」 -149- 資料琉球政府『決算書』但し、母子保健衛生費は予算。 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年 1970年 1971年 A歳出総額 19,686 23,417 30,098 40,372 47,679 56,938 69,625 B衛生費 1,700 1,842 2,758 2,798 3,858 4,226 4,769 c公衆衛生費 692 700 1,239 1,173 1,523 D母子保健 0.8 0.8 1.5 1.7 23 5.7 5.9

E二×IOM

0.2 0.2 0.2 0.5 0.4

F号×'0M

0.05 0.04 0.05 006 0.06 0.13 012

G昊×'0M

0.004 0.003 0.005 0.004 0.005 0.010 0008 H出生人口1 人あたり母子 保健衛生費 38円 46円 71円 80円 109円 271円 278円

(24)

表8宮崎県。沖縄県・の母子保健衛生費の比較(単位万円)

(宮崎県1964年度、県縄沖1965年度=1964年7月~1965年6月)

罫科琉球政府、宮崎県決算書。但し「母子(;

宮崎県の「母子保健衛生費」は、「公衆衛生総務費(目)」の「公衆衛生課」

予算5,979万円のうちの次の事項の合計である。優生保護審査費30万円、

優生保護相談所費53万円、家族計画対策費205万円、妊産婦乳幼児保健

指導費222万円、3才児健診費114万円、新生児訪問指導費114万円、

身体障害児育成医療費897万円、未熟児養育医療費200万円、母子保健

センター設置費457万円、栄養改善対策費37万円。

(2)福祉施設の設立

福祉についてみると、1957年6月、沖縄県民の援護・福祉の増進をはか

ることを目的に「南方同胞援護会法」が成立し社会福祉関係施設の設置をはじ

めとする各種の「援助」が行なわれた(表9)。障害児施設関係をみると、こ

れによって肢体不自由児施設(整肢療護園)が1960年に、精神薄弱児施設

(中央育成園)が1965年に、それぞれ沖縄ではじめて設立された。しかし、

まだこの時期(1960年代)においては、絶対数が少なかったことに加え、

義務教育対象年齢児が主たる対象であって、障害乳幼児にはほとんど対策が及

んでなかった。

「整肢療護園」への入所状況をみると(表10)、収容部門では一定数の乳

幼児がうけいれられているが通園部門ではほとんどうけいれられていな

い。仲央育成風の場合は、入所対象者は「①指導効果のできないものは除き、

知能指数はおおむね25以上で年令6才以上のもの」41)とされ、乳幼児は除外

されていた。「中央育成園」を運営する「沖縄県精神薄弱者育成会」は、1962

-150-資

科琉球政府、宮崎県決算書。但し「母子保健衛生費」はともに予算。

項 目 宮崎 沖縄 比較(宮崎/沖縄) 額 (A)歳出総額 (B)衛 生費 (q)公衆衛生費 (D)母子保健衛生費 (Q)保健所費 3,038,278 164,584 122,158 2,287 28,355 1,968,686 159,933 44,560 85 28,630 1.54 1.03 2.74 26.91 q99 構成比 D/A×100 ,/B×100 ,/Cl×100 A/Cb×100 8 0499 ●●●● 0110 0025 05 4 ●●●● 0001 22 0890 0056 0000

(25)

年12月に設立されて以来、宣伝・啓発活動、行政に対する要求運動、巡回相

談活動等を行い、精神薄弱児施設の新設・拡充、特殊学級の増設、養護学校設

置等沖縄県の障害児福祉・教育対策の発展に大きな力を発揮してきたが、障害

乳幼児対策への関心はまだ大きくなかった。例えば1963年以来育成会は、

ほぼ毎年、精神薄弱者(児)教育・福祉振興大会を行ってきたが、その要請決

議のなかで障害乳幼児対策がとりあげられたのは第4回大会(1967年9月

19日)がはじめてであり、第5回大会(1969年9月30日)、第6回大

会(1971年11月26日)、第7回大会(1972年12月3.4日)で

はとりあげられず、第8回大会(1974年5月24日)以降から毎回とりあ

げられている。また巡回相談は1963年から1968年まで17回延べ日数

表9南方同胞援護会が設置した児童福祉施設 注お年玉……お年玉つき郵便葉書及び寄附金つき郵便葉書よりの配分金。 日自振……日本自転車振興会よりの配分金。清水……清水基金。 幸地努『沖縄の児童福祉の歩み』129ページより。 -151- 施設名 年度、主なる財源 沖縄整肢療護園 沖縄中央育成園 沖縄聴覚障害児福祉センター 沖縄子どもの国 沖縄母子福祉センター 臨時保育所(12ケ所) 愛隣園集団指導棟 昭33お年玉、昭37競輪、昭41国庫およ びお年玉 昭38お年玉、昭42お年玉、昭43清水、 昭46日自振、昭47清水および日自振 昭45日自振 全国幼稚園・小・中学校児童生徒の寄付金 一般寄付金、昭42国庫および日自振 昭36お年玉 昭43~46日自振 平良…昭43下地…昭43仲里…昭43 石垣…昭44竹富…昭44具志川…昭44 久宇良・・昭46大里…昭46祖内…昭46 大富…昭46波照間…昭46 与那国…昭46 昭43お年玉

(26)

130日をかけて本島の北部、中部、那覇、南部、宮古、八重山の各地区で行な

われ、延べ2,202人が相談をうけたが、この場合も乳幼児は71人、30パ

ーセントしか含まれていなかった。43)

表10整肢療護園における乳幼児の入所状況 原l:`【 O~5才6~18才

『10年の歩み』(沖縄整肢療護園、1970年)より

1960年代後半の障害者福祉・医療対策の主なものをあげておくと表11

のとうりである。(ここで類似県とは同規模人口の5県-1970年で沖縄

県95万人に対して富山県103万人、石川県100万人、奈良県93万人、

和歌山県104万人、宮崎県105万人一である。以下とくに断わらない限

●●●

り類似5県とはこの5県のことを(、う゜)障害児対策に関して障害乳幼児対策

が欠落していたことを先に述べたが、もうひとつ、重症心身障害児対策の欠落

ということ、さらに障害者対策に関しては精神薄弱者対策の欠落という特徴が

この表からもうかがえるが、これらを含めて、総合的な障害児・者対策の確立

ということが復帰後の課題としてもちこされたといえよう。

-152- 収容部門(人) 0戸~5才 6~18才 通園部門(人) O~5才 6~18才 0123456789 6666666666 9999999999 1111111111 2688352191 1111 1 9001744921 4565978866 000002 223334 052691

(27)

表111970年頃の沖縄県の障害者福祉(医療)対策

表注開始時期は西歴は復帰前、年号は復帰後である(復帰前は、例えば

1972年度は1970年7月1日~1972年6月30日と復帰後と年度が異

るので、この表に限り上のような区別をした)。

資料『沖縄の社会福祉25年』(沖社協、1971年11月)、『10年の

歩み』(整肢療護園)、『創立15周年記念誌』(沖縄精神薄弱者育成会、

1977年12月)、『社会福祉の概要』(琉球政府厚生局民生部、1970

年5月)、『沖縄の児童福祉の歩み』(幸地努著、1975年)。類似県

については『社会福祉施設調査報告』(厚生省大臣官房統計調査部、

1970年)『衛生行政業務報告』(同上)。

-153- 1970年度 備考(開始時期) 身体障害児育成医療 身体障害者更生医療 未熟児養育医療 心臓疾患児本土送りだし 補装具交付修理(身障児) 補装具交付修理(身障者) 家庭奉仕員派遣('[f身障害児) 家庭奉仕員派遣(身障者) 特別児童扶養手当 身体障害者相談員 精神薄弱者相談員 12件 13件 6件 40件 186件 7人 517人 206件 27件 112件 870件 264人 1961年度開始 1958年度開始 1968年度開始 1968年度開始 1971年産実質開冶(144件) 1954年度開始 S、47年度開始 1970年度開始 1968年度開始 1971年度開始(80人) S48年度開始 施設漢係

肢体不自由児施設(収容)

肢体不自由児施設(通園) 精神薄弱児施設(収容) 精神薄弱児施設(通園) 重症心身障害児施設 精神薄弱者更生施設 身体障害者更生施設 重度身体障害者更生施設 身体障害者授産施設 補装具製作所 170人 30人 32人 180人 75人 20人 2カ所

所人所人所人所人人人人所

力50力7力3力2900力 664812425144 1132 0 0 1960年度 1965年度 1972年度開始(40人) 1972年度開始(40人)

(28)

(3)日本政府の「特殊教育の振興」政策の 沖繩への導入と新しい障害者運動の芽ばえ

1960年代半ば頃から養護学校および分校が設置されはじめた。1965

年4月に大平養護学校(精神薄弱児)が中学部各学年2学級計60人の生徒を

うけいれて設置され、3年後の1968年4月には高等部2学級が学年進行で

設置された。同じ1965年4月には鏡が丘養護学校(肢体不自由児)も小中

学部各学年1学級ずつの規模で発足し、また1960年に設置された整肢療護

園(肢体不自由児施設)に在園していた小中学生は那覇教育区立神原小学校、

同寄宮中学校で教育を受けていたが、これが鏡が丘養護学校の分教場(1967

年10月)に移管され、1969年12月に独立して那覇養護学校が設置され

た。 表12就学猶予・免除の推移

資料沖縄県は『学校基本調査報告書』(琉球政府文教局、沖縄県

教育庁)各年度版、類似県は『学校基本調査報告書』(文部省)

各年度版。 -154- 沖縄県 就学猶予 就学免除 就学猶予類似5県平均就学免除 度 年 01234567890123456 66666666667777777 99999999999999999 11111111111111111 4 43006847712918 0’’40071133045037 7 66645443333332 3 28469174250751 1’’42341554452309 1 97739903 98998665 99799776 66943874

(29)

特殊学級も1960年代半ばから増大し、1970年には、小学校で146

学級、1,366人、中学校で60学級583人になっている。44)

このなかで就学猶予の数は1960年度704人(小・中計、以下同じ)で

あったのに対して、1970年度337人と減少してきてはいるがなおかなり

の数にのぼっている。就学免除については類似県と比べるとかなり低い数字で

あるが、沖縄県における推移をみると、1957年度から1960年度までの

4年間の平均で233人であったのに対して1960年代には約2倍の水準に

増大している(表12)。

沖縄県の就学猶予は類似県と比べて極端に多いが、その1つの理由は「虚弱

を理由とする就学猶予」が多いことによる。この「虚弱を理由とする就学猶予」

には、障害または病虚弱を理由とするのではなく、1年入学を遅らせば他の子

どもと比較して入学後有利になりよく伸びるようになるだろうという親の考え

にもとづくものが相当数含まれていると思われる。この「虚弱を理由とする就

学猶予」は1950年代末以来一貫して減少傾向を示している。これを除いた

他の就学猶予数をみると実際に障害を理由とした就学澱予の実態に近くなると

考えられるが、それは表13のとうりである。これを`Z排畠と就学猶予はそれほ

ど減少しておらず、かえって1967年以降増大してきている。 表13虚弱を理由とするものを除いた就学猶予の推移

正面亦面i7TI55言TI雨TI55m55TT雨I-I555TI55ITI555m]ql

1967196819691970197119721973197419751976

これは、1960年代にはいって、「教育可能な子には学校を、訓練可能な

子には施設を、医療対象の子には重症心身障害児施設をという『本土』からの

行政指導をうけ」45)て沖縄の障害児対策が進められてきたことの反映であろう。

1960年代のアメリカ帝国主義の沖縄支配政策のひとつは、日本政府の力を 利用して福祉政策をすすめ、占領支配に反対する県民のたたかいの発展をおさ -155- 年度 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 就学 猶予 323人 320 311 364 267 183 371 266 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 188 198 202 187 222 209 274 264 307 262

(30)

えるということであり、このもとで日本政府の行政指導が強められてきた。し

かもこれは「キャラウェー旋風」46)に典型的に示されるような専制権力むきだ

しの県民支配や渡航制限による本土との交流規制のもとで民主的な研究者や団 体との交流を抑制しつつすすめられた。しかも1950年代までは沖縄の障害

者対策は全くの貧困状態であったからアメリカの政策変更のもとで日本政府の

政策を沖縄に導入させて急速に対策を進めていこうという考え方が行政の中に

も運動を進める人々の中にも浸透していくのは必然的であった。1954年以

来20年間、沖縄の児童福祉行政のなかで活動してきた幸地氏は、「中央育成

園」の設立準備過程に関して次のようにいっている。

「当時、本士の方では文部省と厚生省の申しあわせのようなものがあって、

知能指数により両者の分担が決まっていると知らされていた。すなわち、知能

指数おおむね50以上は文部省(教育)サイド、50以下は厚生省(福祉)サ

イドが受持つというのであった。……重症心身障害児に対しても学校教育が施

されている今日から考えるとまったく馬鹿な話であるが、そのころは素直にこ れを受けとめて学校教育の対象とならない精神薄弱児のための施設を早急に設

置すべきだとしたのである。」47)こうして「中央育成園」の入所対象児は、学齢

児童については、「学校教育法の定めるところにより、就学猶予または免除さ

れたもの」48)とされていた。

琉球政府文教局研究調査課発行の『文教時報』によると、1964年6月号

(第87号)に「沖縄の特殊教育一(盲。聾を除く)-」と題した「義務

教育課」名の小論が載っている。これ以前には文教局の立場から障害児教育を

どうとらえていくかを論じた文献は『文教時報』にはみられず、49)しかも「学

校教育法」成立後、1959年6月10日付の第56号に[盲ろう学校」教員

による論説3本が掲載された以外には6年間、障害児教育関係の記事は掲載さ

れていない。したがってこの小論は、1965年の「大平養護学校」「鏡が丘

養護学校」設置をひかえて文教局の障害児教育に対するとりくみの基本姿勢を

示したものとして重要な意味をもったものと思われるが、これによれば「養護

学校設置の必要性」「精神薄弱教育の主旨とねらい」について次のように述べ

られている。 -156-

参照

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