國史教育から歴史教育へ(その 2 ・完)
時代による変化と現代的課題について田 村 孝
From an Ultra-nationalistic History Teaching of Japan
toward teaching History as Science
(Part 2)
Takashi TAMURA
[論文] 目次 Ⅰ はじめに Ⅱ 「教育勅語」体制下の教育 (1)「教育勅語」 (2) 国定第四期までの尋常小学校における「修身」 (3) 国民学校における「錬成」 (4) 国民学校における「修身」と「国史」 ( A)「修身」の教科書について ( B)「国史」の教科書について 〈以上、前号〉 Ⅲ 敗戦と歴史教育 (1) 占領下の教育改革 (2) 墨塗り教科書Ⅲ 敗戦と歴史教育
(1) 占領下の教育改革
1945 年 8 月 15 日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、民主 的な国家づくりをすることとなった。9 月 15 日、文部省は「新日本建設 ノ教育方針」を発表し(1)、「戰爭遂行ノ要請ニ基ク教育施策ヲ一掃シテ文 化國家、道義國家建設ノ根基ニ培フ文教諸施策ノ實行ニ努メテヰル」と 明言したけれども、その「一、新教育ノ方針」では、「今後ノ教育ハ益々 国體ノ護持ニ努ムルト共ニ軍國的思想及施策ヲ拂拭シ平和國家ノ建設ヲ 目途ト」(下線部は筆者。以下同じ)すると決定し、旧来の考え方にあいか わらず捉えられたままであった。当時の文部官僚の頭には「国体の護持」 がしみ込んでいたのであろう。10 月には連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP、以下 GHQ もしくは総司令部と略記)の指導のもとに新たな憲 法の策定が始まり、1946 年 11 月 3 日に日本国憲法が公布され、翌年 5 月 3 日に施行された。 (3) 暫定国史教科書の編纂 (4)『くにのあゆみ』の編纂 (5)『くにのあゆみ』の内容 (6)『くにのあゆみ』に対する評価 (7)『くにのあゆみ』を読んで Ⅳ むすびにかえて (1) 天皇中心史観と象徴天皇制 (2) あるべき歴史教育とは 〈以上、本号〉 キーワード:教育勅語 国民学校 修身 国史 『くにのあゆみ』これより先、1945 年 10 月、GHQ 内に民間情報教育局(CIE)が設けら れ、日本の教育改革、とくに軍国主義と超国家主義的な教育を廃し、新 たに民主主義の原理を広める活動が動き出していた(2)。その目的のため に、CIE は戦前の教育体制の解消を企図して、1945 年 10 月から 12 月まで の間に教育に関する 4 つの指令を発している(3)。第一の指令は、「日本教 育制度ニ対スル管理政策」(10 月 22 日)で、これは軍国主義的および極端 な国家主義的イデオロギーの普及を禁じ、議会政治、国際平和、個人の 権威の思想および集会・言論・信教の自由といった基本的人権に合致す る諸概念の教授及び実践の確立を目的とし、続く 3 つのさらに具体的な 指令の根本的概念を示したものであった。第二の指令は、「教員及教育関 係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」(10 月 30 日)で、軍国主義的で極端 な国家主義的思想をもった教師の解職・排除を命じていた(4)。第三の指 令は、「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ 弘布ノ廃止ニ関スル件」(12 月 15 日)で、国家神道、神社神道について多 くの禁止事項を定めている。この指令では、国家と神道の分離が命じら れており、政府と地方公共団体は公費によって神道と神社に財政的援助 を行うことを禁じられることとなった。教育に関しては、公共教育機関 において神道の教義の公布ならびに神道様式の儀式が禁じられ、公立学 校における神棚などの国家神道の物的象徴の廃棄が命じられた。これに よって、学校内に設けられていた神社様式の奉安殿、神棚などが撤去さ れ、学校行事としての神社参拝、神宮遙拝の中止、国定教科書をはじめ とする教材の中の神社、神道についての叙述の廃棄などが全国の学校で 行われて多くの国民に占領政策の威力を感ぜしめた(5)。第四の指令は、 「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(12 月 31 日)で、学校におけ る「修身」、「国史」、「地理」の授業を停止させるというものであった。 すなわち、この 3 教科のすべての教育課程を停止し、総司令部の許可が あるまでこれらの授業を再開しないこと、またこれら一切の教科書およ び教師用指導書を 1946 年新学期開始までにすべて回収し、それらを製紙 のために中央パルプ工場に輸送すること、文部省は速やかに代行教育実
施計画を総司令部に提出し、これらの科目の再開を総司令部が許可する 時期まで代行教育を実施すること、文部省は速やかに 3 科目の教科書、 教師用指導書の改訂計画をつくって総司令部の許可を得るべきことなど を含んでいた。3 教科の停止と全教材を回収し、製紙の原料にするという この指令は教育現場を驚愕させるとともに、同時に軍国主義と極端な国 家主義思想を排除する総司令部の強い意志を広く各国に知らしめる効果 も見込まれていたとも言われている(6)。 海後宗臣によれば、これらの 4 指令は、軍国主義、超国家主義思想に もとづく戦時教育体制の除去だけをねらった政策であり、新しい教育理 念にもとづく積極的な提案はなされておらず、むしろ消極的な指示がな されているにすぎない、とされる(7)。これらの指令だけを見るならばその 通りであるけれども、鈴木英一の研究によると、アメリカ合衆国は日米 開戦後まもなく、日本の戦後処理に関する原則の本格的研究を始めてお り、教育もその中に含まれていた。早くも 1944 年 7 月には、「日本・軍政 下の教育制度」と題された教育改革案が国務省で決定されており、軍国 主義を生徒に鼓吹する教練・修身・国史を排除することが盛り込まれて いる。この改革案は 10 月にさらに改訂され、正式に決定された。そこで は、軍政下においても学校は開校させ、文部省もその機能を継続するこ と、有能な教育行政の役人や占領当局に協力的な教師の留任、教科書や 教育課程の改訂、前記 3 教科の廃止、祝日の学校集会の禁止、御真影を 学校行事に用いないこと、また学校、ラジオ、映画、レコードなどを利 用して、世界全体の歴史と知識の教授を計ることを勧告しており、アメ リカ政府は 1944 年にはすでに日本の戦後教育改革構想の骨子をつくり終 えていた(8)。総司令部による上述の第四の指令にいたるまでには、アメ リカはすでに十分な準備を整えていたといってよいのである。
(2) 墨塗り教科書
1945 年 9 月から始まる新学期の授業には、戦時版の教科書を使用する ことができなかったので、文部省は教科書から国防・軍備などを強調した部分や戦意昂揚に関する部分などを削除するよう指示した(9)。これが いわゆる墨塗り教科書である。この墨塗り作業は、当時の小学生にショ ックを与えた。教科書は大切なものだから、開く前におしいただいてお 辞儀をしてから開けなさいと教わっていた小学生に、「教科書も教師もた いしたもんではない」、という感想を植えつけてしまったことを、当時小 学 4 年生で実際に墨を塗った経験をもつ和田多七郎は記している(10)。他 方、墨を塗らせた教師の立場からの心境を、永井健児は、「(塗らせた箇所 が)すでに教えてしまった項目だけに、いままでの「正しい」という文 字でも消させるようでやりきれない気持ちであった」と述べている(11)。 文部省は、1946 年からの教科書はこの墨塗り部分を取り除いたうえで、 多少の補充を施して暫定教科書をつくって授業を行い、併行して同年中 に新教科書を編纂して翌 1947 年 4 月からの新年度に間に合わせようと考 えていた(12)。「地理」についてはこの方針どおり墨塗り部分を削除し、新 たに補充を施した暫定教科書が 1946 年前期につくられ、裁断も製本もさ れない折りたたんだ形のままで配布されて 6 月から授業が開始された(13)。
(3) 暫定国史教科書の編纂
神話から始まる皇国史観に凝り固まった国史教科書の編集は、大幅に 遅れた。前々節に見た第四の指令が出される直前、1945 年 12 月 14 日、 CIE 教育課員のワンダリック海軍中佐は、有光次郎文部省教科書局長を 召喚して、現行の歴史教科書の使用を禁じ、まず教師用マニュアル(手引 き書)を作成してデモクラシーならびに進駐軍の進駐意義と目的を明確に するよう命じている(14)。有光はこの時点で暫定的教科書の編纂を決意し、 執筆者の選定、教科書編纂材料の選択、その英語への翻訳、印刷の策定 にとりかかった。彼は、当時東京女子高等師範学校教授を務めていた豊 田武を、国民学校と中等学校の暫定国史教科書の執筆者として図書監修 官に異動させた(15)。豊田は 12 月下旬から暫定国史教科書の執筆にとりか かった。久保義三の詳細な研究によれば(16)、この暫定国史教科書の編纂 に関して、1946 年 2 月 22 日「編集計画大綱」が文部省によって作成され、CIE 教育課に提出されている。先に 1945 年 12 月、文部省は暫定国史教科 書の草稿を検討する歴史家専門委員会を設置していた(17)。「編集計画大綱」 の作成には、この歴史家専門委員会の見解が反映されていた。のちの神 話と史実との関係でとくに問題となるのは、「大綱」の中の「神話は神話 として、取り扱われ、それを不必要に否定することなく、慎重に取り扱 われる。したがって、それが、歴史的事実に反映するという事実、また、 歴史に少なからず影響を与えてきたという事実を考慮して取り扱われる。 同時に世界における神話に関する研究の結果が、日本の神話を明らかに するために採り入れられる」という箇所である。この意味するところは、 (ア)神話は史実に反映され、歴史に大きな影響を与えてきたので、神話 として否定することなく叙述する、(イ)同時に世界各地に伝わる神話研 究の成果を採り入れ、日本神話が決して特異なものではないことを明ら かにする、ということであろう。これはつまるところ、神話を歴史の教 科書に採り入れることを意味していた。しかしながら、『古事記』、『日本 書紀』に伝わるいわゆる記・紀神話は、天武天皇(在位 673 ∼ 686 年)を中 心とする朝廷貴族たちによって、その時まで伝わっていた各種の『帝紀』、 『旧辞』のたぐいを統合・修正して再編した物語であって、その目的は大 和朝廷による支配を正当化することであり、必ずしも歴史的事実に反映 しているわけでもなく、古代人によって広く信じられていたのでもなか った(18)。日本国の始原を天照大神や天孫降臨に求める神話教育は、日本 を神の国として諸外国に勝る神聖なる国家と認識させる、まさしく「極 端な国家主義」を涵養する教育であり、先の GHQ による第四指令の修身、 日本歴史、地理の停止と真っ向から対立する。 当然ながら、この「大綱」に従って執筆された豊田武の原稿はワンダ リックの容認するところとはならなかった。豊田の原稿では、古代史の 部分が神話(天孫降臨)から始まっていたのである(19)。1946 年 4 月半ばま でにもたらされた第一稿以来、ワンダリックは 3 回にわたって書き直し を命じたけれども、すべての原稿において神話と史実とがない交ぜにな った叙述がされており、とうていワンダリックの満足するところとはな
らなかった(20)。ワンダリック海軍中佐はハーヴァード大学卒(歴史学専攻) で従軍前はアイダホ大学に勤務していたインテリである(21)。歴史学の素 養は十分であったと思われる。 この豊田武の筆に成る『暫定初等科國史(案)』はその上巻のみ謄写版 印刷のものが現存している。最も完全な形で見られるものは、高橋史 朗・ハリー = レイ編『占領下の教育改革と検閲―まぼろしの歴史教科 書』の巻末に写真版で収録されている資料 1 と資料 2、および家永三郎編 著『「くにのあゆみ」編纂始末』に収録されているものである(22)。前者の 資料 1、資料 2 に記述されている原文は、後者の家永編著本に収録されて いる文章と異っている。久保義三は、この国民学校用の暫定教科書とそ のほかの中等学校や師範学校用の暫定国史教科書とを詳細に比較検討し た結果、高橋・レイ編著本に収められている資料 1、資料 2 は豊田武の筆 によって二回目の書き直しで作成されたもの、家永編著本に収録されて いるものは第三回目の書き直しによる『暫定国史教科書』の最終版であ る、と結論づけている(23)。しかしながら、この第三回目の書き直し版も CIE の認めるところとはならず、ついに刊行されることはなかった。こ の最終版は不採用が決まったのち、執筆者の豊田武から家永三郎に託さ れたものである(後述)。では、なにゆえに CIE の認めるところとはなら なかったのであろうか。その内容を検討してみよう。 家永編著本に収録されているこの第三回目の書き直し版は、目録 1 ペ ージを加えて全体で 40 ページ(1 ページあたり 15 行× 34 字)の謄写版刷り である。構成は表 1 のとおりである。 この上巻では、日本の始まりから室町幕府の滅亡までが扱われる予定 だったようである。しかし、家永三郎に豊田武から手交された原稿は、 未完成原稿で、日本のあけぼのから奥州十二年の乱と中尊寺建立までし か書かれていない。後述するように、CIE によって暫定国史教科書作成 計画がご破算にされてしまったので、当初予定されていた室町幕府の滅 亡までは原稿が完成しなかったのである(24)。目録の構成を見ると、時代 別による構成が意識されている。また、天皇の名前によって目録(目次)
が作られているわけでもない。このような点は戦前までの教科書と大き く違っている。 本文は「第一 日本のあけぼの」から始まっている。冒頭に日本列島 の地理的な説明があり、つづいて石器時代、貝塚、石器や土器の使用など 狩猟・採集の時代について説明がなされ、ついで農耕(稲や麦の栽培)、朝 鮮半島からの青銅器の伝来、村落の形成から国に発展していく様子が叙 述されている。この部分は当時の考古学の成果に基づいた記述となって おり、従来の国史教科書が天照大神や天孫降臨から始まっていたのに較 べると画期的である。現在から見てもとくに異を唱えるべきところは見 あたらない。しかし、「一 國の基」の部分には問題がある。ここでは、大 和朝廷の起源は九州にあるとされ、以下のように叙述がつづいている(25)。 「古い傳へによりますと、わが神話で、ニニギノ尊の後といはれる神武天皇 は、しばらくゆかりの深い日向にあつて政をおとりになつてゐましたが、や がて兄君と御相談の上、大八洲のなかほどに移ることをお考へになりました。 ここに多くの人たちを引きつれ、日向を御出発になり瀬戸内海の地方を從へ ながら、長い年月を重ねて難波にお着きになりました。めざす大和の國境で は長すね彦といふ豪族が、地の利にたよつて御軍に手むかひました。やむな く天皇は海路を紀伊の熊野へと、おまはりになりました。熊野なだの荒波の しのぎ、大和へのけはしい山道を越えての御進軍はさすがに苦しいものでし 第一 日本のあけぼの 第二 大和の朝廷 一 國の基 二 大陸との交り 三 聖徳太子 四 大化の改新 第三 奈良の御代 一 國の榮え 二 隣國との親しみ 第四 平安の御代 一 平安京 二 藤原氏の榮華 目 録 三 地方と武士 第五 鎌倉幕府 一 源平の爭ひ 二 武家の政治 三 國 難 第六 建武中興 一 中興の政治 二 吉野の朝廷 第七 室町と戰國 一 室町幕府 二 戰國の世 三 庶民の生活 表 1
た。しかし長い年月にわたる御苦心もつひにそのかひがあり、長すね彦をは じめとして大和に勢力をはつてゐた豪族は、みな天皇の御威光になびきまし た。そこで天皇は畝傍山のふもと、橿原に皇居をおさだめになり、ここに御 即位の大 をおあげになりました。」 この記述は、国定第四期と第五期の国史教科書上巻「第二 神武天皇」 および第六期「橿原の宮居」に描かれている内容の簡約版で、神話に伝 えられる神武東征の物語をもって大和朝廷の始原と説明している。また、 高橋・レイの著作に掲載されている第二次草稿の写真版(資料 2)の「二 祖先の傳へ」のある箇所では以下のようになっている(26)。 「…… 遠い遠い神代の昔、伊弉諾、伊弉冉の二神は、美しい大八洲國をお 生みになり、これを御子天照大神にお傳へになりました。大神は御徳きはめ て高く日神とも申しあげるやうに、御惠みは廣く大八洲にあふれました。大 神は御弟素戔嗚尊を始め奉り、多くの神々をひきゐて高天原にあらせられま したが、さらにこの大八洲を安らかな國になさらうとして御子孫をこの國土 にお降しになることをお考へになりました。」 このあとに天照大神が孫のニニギノ尊を召して神勅を授け、下界に下 した逸話がつづく。神勅の原文もルビ付きで引用されている。すなわち イザナギ、イザナミの国生み神話、天孫降臨などの神話が日本の始まり として収録されていた。歴史教科書を神話にもとづいて記述することは、 当然ながら CIE の受け入れるところとはならず、前述のようにワンダリ ックは 3 回におよぶ書き直しを命じたのであった(27)。 なにゆえに執筆者の豊田武は再三の書き直し要請にもかかわらず神話 的な叙述を削除訂正しなかったのであろうか。片上宗二は、豊田の草稿 を検討していた日本の歴史家専門委員会の圧力を想定している。この委 員会には、先述の「編集大綱」を作成した守旧的な考え方の歴史家が何 人か含まれていたからである(28)。有光次郎は、豊田の恩師である黒板勝 美東大教授の影響を指摘している。黒板は『古事記』『日本書紀』が永年 日本国民の間に伝承されてきたことは歴史的事実として否定することは できない、という意見の持ち主で、豊田に何らかの圧力をかけていた可
能性があると有光は後年述懐している(29)。そのうえ、この時期の文部省 内には、従来の守旧的な思想がまだ残っていたのである。1945 年 11 月 17 日、文部省議で、新時代に即応した 7 項目の「國史教育ノ方針(案)」が 決定されている(30)。この第 2 項目には、「獨善偏狹ノ史觀ヲ拂拭シ廣大ナ ル 野ニ立チ史實ヲ客觀的ニ取扱ヒ史實ノ歪曲ト隱蔽トヲ避ケ 史ノ發 展ヲ綜合的合理的に會得セシメソノ間ニ自ラ國史ノ特色ヲ明カニス」と あり、さらに第 3 項目には、「…… 廣ク 會的經濟的文化史的史實ヲ重 シ特ニ庶民生活ノ具體的展開ノ樣相ヲ明カニス」という従来にない斬新 な視点も強調されているけれども、第 5 項目には、「我ガ國家 會ノ發展 ノ皇室ヲ中心トスル一代家族國家ノ形成過程タル史實ヲ明カニス」と定 められており、「国体の護持」を金科玉条とする旧来の考え方から抜け切 れているとは言い難い。また、翌 1946 年 1 月 22 日午後 3 時半から放送会 館で安倍能成文部大臣と CIE 局長ケネス = ダイク代(准)将との第一回会 談が行われている。この時、日本歴史の書きかえがテーマに上り、安倍 文部大臣は、日本歴史は書きかえられなければならないけれども、政治 的立場(共産主義、民主主義)に基づいて書きかえるとゆがめられたもの になってしまうので、慎重に扱うべきであり、さしあたり軍国主義的、 国家主義的意図から挿入されたとわかっているもののみを除いて教える ようにしたらよい、と述べている。これに対して、同席した CIE 教育課 長ニュージェント中佐は、日本歴史は共産主義的見地からも民主主義的 見地からも書かれるべきではなく、歴史的真実のみを基準として書かれ るべきであると答え、ダイクも日本歴史は日本人の手によって書き改め られるべきこと、そのため十分な時間をかけること、ことは単に軍国主 義・国家主義による歪曲だけではないので、正しい日本歴史ができるま では、むしろ全然教えない方がいいのではないかと思うと返答している。 安倍文相とダイク局長のやりとりをドキュメンタリー風に綴った、通訳 の神谷美恵子の「文部省日記」を読むとふたりの主張は大きく隔たって いることがわかる(31)。ダイク局長の方は根本的な修正を求めているけれ ども、どうやら安倍文相はこれまでの国史教科書のわずかな修正ですむ
と思っているようだ。文部大臣は従来の国史の記述に対して多少の修正 は必要としても、かなりの程度肯定的であったと言いうるであろう。す なわち、1945 年から 1946 年にかけて、文部省内および豊田武の周辺には、 まだまだ旧来の歴史観から自由になれない守旧的な学者、官僚が多かっ たのである。 こうして暫定国史教科書草稿は CIE 教育課に受け入れられないまま、 1946 年 4 月にワンダリックは海軍入営前まで勤務していたアイダホ大学 に復職するために帰国し、後任をジョゼフ = トレイナー海軍少佐が継い だ(32)。彼は、占領当初の 3 年間、少々厳格で高飛車、全面介入が過ぎ、 教科書編纂関係の日本人の好感を得る訳にはいかなかったとも伝えられ ている(33)。一方の豊田武も頑としてトレイナーの批判を受け入れず、最 後まで神話を書き込むことに固執した。後年、豊田は、神話を書き入れ たのは、(1)小学生向きの歴史はできるだけやさしく、また興味あるもの でなければならない、(2)古代の日本人の考え方を知らせるために、神話 の成り立ちを教えることは、古代日本の発展を学問的に教える上で意味 のあることである、(3)すでに考古学を通して、日本人の成り立ちを教え ているのであるから、神話と事実とを混同することはない、という理由 からだ、と述べている(34)。 この豊田の主張に対しては、久保義三によって厳しい批判がなされて いる(35)。久保は、豊田の言う「最初に提出した国のはじめ」の部分にお ける考古学的な記述は、同時に編纂された『中等歴史』(上)等の残され た草稿を検討する限り、第二次草稿に書かれたのであって、少なくとも 「最初に」CIE に提出された草稿ではないと指摘し、この第二次草稿にお いては確かに先史時代に関して、石器時代、青銅器時代などの考古学上 の成果をふまえた記述がなされ、従来の教材には見られない画期性をも ってはいるが、つづく歴史時代に関しては文献や記録がないために日本 人の祖先たちに、国家建設が神々によって達成されたと信じさせ、この 神話・伝承が世代をへて『古事記』『日本書紀』に結実したとして、自覚 的・意図的かつ安易に記・紀神話に依存してあたかも史実のごとく理解
させようとしていること、を批判している(36)。先述のように記・紀神話 は、天皇家の支配を正当化するために 8 世紀になって編まれたもので、 歴史的事実そのものではない。豊田が神話を教科書に記す理由としてあ げている 3 点についても、(1)に関して、興味をかき立てるために神話に こだわる必要はなく、工夫次第で考古学的な資料によって興味をかき立 てることができる、(2)に関しても、「古代の日本人の考え方」を記・紀 神話のみで代表させることができるのか、また神話を歴史的事実と考え るからこそ、神話の成り立ちを教えることが古代日本の発展を学問的に 教える上で意義があると考えているのではないか、(3)については、考古 学的な叙述の後に神話を挿入することこそが、神話を史実と混同させる 要因になる、と批判することができるであろう(37)。 豊田武とトレイナー少佐とは 1946 年 5 月 8 日に初めて会談している(38)。 しかしながら、両者の見解は一致することはないまま、会談は物別れに 終わった(39)。暫定国史教科書の刊行はここに挫折し、CIE 教育課は新た に執筆者を入れ替えて、全く新しい構想のもとに歴史教科書を編纂する よう文部省に要請し、有光教科書局長らは執筆者を新たに選定しなおす こととなった。
(4)『くにのあゆみ』の編纂
新たに選ばれた執筆者は以下のとおりであった(40)。 古代・平安時代 国民学校教科書 中学校教科書 家永三郎 (東京高等師範学校) 関晃 (東大日本史) 竹内理三 (東大日本史) 師範学校教科書 鎌倉・桃山時代 森末義彰 (東大史料編纂所) 森末義彰 新城常三 (東大史料編纂所) 江戸時代 岡田章雄 (東大史料編纂所、 図書監修官補) 伊東多三郎 (東大史料編纂所) 丸山国雄 (図書監修官) 明治時代以後 大久保利謙 (帝国学士院・侯爵、 貴族院議員) 小西四郎 (文部省教科書局調査課) 箭内健次 (前台北帝大教授) 表 2家永三郎の手記によると(41)、突如文部省から呼び出しを受けて、1946 年 5 月 17 日に出かけると国民学校用の国史教科書の執筆を依頼され、承 諾の返事もしないうちに編集の打ち合わせ会となった。10 月 1 日に間に 合わせるために本務を休止して、教科書執筆に専念することを要請され た。本人の全く関知していないところで人事が決められていたことがわ かる。この場でトレイナーから編纂の基本方針が明らかにされた。それ は、 (1) 宣伝的であってはならない。 (2) 軍国主義、超国家主義、神道の教義を説いてはならない。『国体 の本義』に書かれてあるような歴史観に基くものであってはならな い。 (3) 天皇の事蹟が歴史の全部ではない。経済上のこと、発明、学問、 芸術、その他人民の中から出てきたいろいろなことがらを盛るべき である。ただし特定の天皇が実際の重要な事蹟を遺しているならば、 それを書き載せることは少しも差支えない。ただ天皇なるが故に書 くというのであってはならない。 というものであった。後年、家永は「私は、メモをとりながら(トレイ ナーの―田村)演説を聞いて、これはほとんど同感だと思った。いきなり 引き込まれて大変とまどっていたが、考え方に違和感がないのでやって みようという気になった。大筋において昔の文部省が教師たちに強制し たことより、はるかに自分たちの考え方に近いと思ったから……」と述 懐している(42)。 原稿は出来上がった順に、東大史料編纂所食堂に設けられた編纂室に 執筆者が持参し、児童の理解できる用語や漢字を用いた文章になってい るかどうかのチェックを受けたのち(43)、CIE の雇員であった高橋昇(44)の 添削を受け、必要があれば執筆者によって書き直しが施された。その後 完成原稿が文部省に提出され、ここで英語に翻訳されて CIE に送られ、 トレイナーの検閲を受けた。トレイナーはこの英訳にコメントを加え、 編纂室に出かけて執筆者にコメントの意図を説明する。これを受けて執
筆者は原稿を書き直し、ようやく完成稿にまでこぎつけたのであった。 このように何重ものチェックを受けたとはいえ、「占領軍の側からも、文 部省の側からも、内容についてあらかじめでき上がったものを押しつけ られると言うことはほとんどなく、執筆者の自由な構想に任されていた」 と家永は自身の感想を記しているし、関晃(中学校用教科書担当)が占領 軍の管制下に行われた編纂ではあるけれども、戦時中の日本政府の言論 統制下よりも学問的良心を悩まされることがなかったと述懐したことを も、紹介している。実際、高橋昇とトレイナーによって指示されたのは、 主として消極的な削除であった、と家永は述べている。すなわち、(1)皇 位世襲の伝統を説明する文章の削除、(2)神道に関する事項は一切記述が 許されなかったこと、(3)宗教については神道のみならず、仏教もキリス ト教も教義内容の記述は許されなかったこと、(4)文章中の「みごとな」、 「すっかり」などの価値評価的な修飾語の削除などで、一切の主観的語句 の抹殺された、淡々とした客観的事実の叙述に終始した文章になったこ と、などであった(45)。CIE から書き込みを命じられたのは、明治期以降 を受け持った大久保利謙の担当部分で、下巻最後の「政府も国民も、こ の連合軍司令部の占領の目的に、よく力をあはせて、平和な日本をきづ き上げることにはげんでゐます」、「新しい政治がはじまりました。今度 こそ、ほんたうに、国民が力をあはせて、日本を民主主義の国にすると きであります」という占領政策の宣伝となる文章、ならびにこの二つの 文章の間に、1946 年 1 月に出された詔書(いわゆる天皇の人間宣言)を入れ ることであった(46)。このほか大久保は、支那事変のところで、「(わが軍は) 南京をあらし」、(わが国は)ハワイの真珠湾を「とつぜん」攻撃し、とい う「 」部分を CIE によって書き込むよう命じられたことを述懐してい る(47)。 執筆者たちを悩ませたのは、むしろ執筆時間の少なさであったようだ。 10 月はじめの授業に間に合わせるには、7 月はじめには印刷所に原稿を 入れなければならない。しかも何重ものチェックを受けながらであるか らなおさら時間は足りなかったようである。しかし、6 月 14 日には執筆
が終わり、9 月 5 日には翻刻発行されている(48)。こうして出来上がった国 民学校用の最後の国定国史教科書が『くにのあゆみ』(上・下)である(49)。
(5)『くにのあゆみ』の内容
まず、目次によって構成を見ておく。先例によって、上巻のみを掲げる。 戦前の「國史」教科書では必ず神話から始まっていた冒頭の部分につ いて、『くにのあゆみ』にはどのように書かれていたのだろうか。「第一 日本のあけぼの 一 歴史のはじめ」の部分は、執筆時間が極めて限ら れていたため、家永三郎は豊田武の暫定國史教科書の原稿をかなり活か している(50)。すなわち、「一 歴史のはじめ」では、日本列島のごく簡単 な地理的説明から、石器時代、貝塚、狩猟採集の生活、土器、鉄器の使 用、大陸からの米づくりの伝来、村落の形成と政治的指導者層の発生な ど考古学の成果を取り入れた叙述になっている。神代の叙述を省き神武 天皇から説き起こした小学生用の歴史教科書も過去には存在したが(51)、 1904 年、教科書の国定制以降は「天照大神」からはじまることとなり、 考古学の成果が教科書に盛り込まれることはなかった。それ以来 40 年余 りを経て、国定教科書の最後にいたって、ようやくここに科学的な歴史 叙述の第一歩が踏み出されたのである。しかしながら、「二 大和の朝廷」 第一 日本のあけぼの………一 一 史のはじめ………一 二 大和の朝廷………二 三 大陸文化のうけ入れ…………四 第二 開け行く日本………六 一 聖徳太子………六 二 大化の改新………八 三 奈良の都………九 四 外國との交はり………一二 第三 平安京の時代………一五 一 平安の都………一五 二 藤原氏の榮え………一六 三 はなやかな文化………一七 四 地方のありさま………一八 五 武士のおこり………一九 第四 武家政治………二三 一 鎌倉幕府………二三 二 會と文化………二五 第五 鎌倉から室町へ………二九 一 建武のまつりごと…………三一 二 室町幕府………三四 三 経済と文化………三六 四 新しい時代への動き………三六 第六 安土と桃山………四〇 一 國内の統一………四〇 二 外交と文化………四三 もくろく 表 3になると、「…… そのころ最も有力なものが、この盆地からおこつて、 だんだん日本を一つにまとめたのであります。この大事な仕事をおはじ めになり、畝傍山のふもとの橿原の宮で、最初に天皇の位におつきにな つた方が、神日本盤余彦天皇といはれてゐます」と神武天皇が和風諡号 をもって登場する。周知のように現在では、神武天皇の実在性は強く疑 われている(52)。このような神武天皇の扱いが、後年『くにのあゆみ』に 寄せられた批判のひとつとなるのである(後述)。 家永自身の記述によると、神話と史実の分離は家永の平素の学問的信 念と全く合致するものであったし、神話の内容を少しでも教科書に残し ておきたいとは、毛頭考えていなかったという。にもかかわらず神武天 皇について記述したことについて、家永は『くにのあゆみ編纂始末』の 中には、直接何ら言及していない。しかし、『くにのあゆみ』が進歩的性 格を欠いていたとすれば、それはすべて執筆者である自分たちの思想的 未熟のためと言わねばならないとも認めており、執筆時間が一ヶ月半し かなかったため、豊田武の手に成る暫定案プリントを利用せざるをえず、 豊田草稿に拘束されたと、家永は述懐している(53)。さらに、後年、家永 は日本国憲法制定の過程と比べて、新歴史教科書の起草が日本人の手に 委ねられたために、かえって不徹底なものができ上がったという事実に 対し、執筆者たちはその責任を免れることはできないと思う、と自己批 判めいた記述を残している。他方、家永は『くにのあゆみ』に従来の教 科書にはない斬新性をも認めている。第一に、学問的に確認された事実 のみを記し、記・紀の神話伝説を廃して石器時代、金属文化の発生、国 家の成立という順序で叙述をしたこと、第二に、従来の歴史教育が政治 上、軍事上の英雄の事蹟に偏りがちであったのを改めて、できるだけ国 民全体の多様な層の人々の生活を描くようにしたこと、第三に、歴史上 の事象に関する価値判断は、歴史教育を受ける側の自主的判断にまかせ て教科書からはのぞいたこと、その他、年号はすべて西暦を採用したこ と、これまでの北朝の天皇には尊号が用いられなかったのを改め、○○ 天皇と記述したことをあげ、『くにのあゆみ』が斬新な歴史観を採用しな
かった不徹底さを批判されることはあっても、神代の物語を廃して石器 時代から始まるその後の日本歴史教科書の体裁を創始したことは、歴史 教育史上画期的たることを認めてもよいのではないか、とその進歩的な 面を肯定的に評価してもいる(54)。 上述の第三の点、「歴史上の事象に関する価値判断」について、第四期 から第七期『くにのあゆみ』までの鎌倉幕府の滅亡後の足利尊氏につい ての記述を例にして検討しておきたい。当該部分の教科書の描写を抜き 出して比較検討してみよう。 (a)「鎌倉幕府が倒れて政權が朝廷にかへつてから、朝廷の御威光はふたた び盛になつた。けれども、武士の中には、長い間幕府の政治になれてゐたた め、君臣の大義を忘れ、朝廷の賞罰に不平をもち、かへつて武家の政治をよ ろこぶものが少くなかつた。足利尊氏は、かねがね將軍になりたいと望んで ゐたので、これら不平の武士を、ひそかに手なづけてゐた」(第四期『尋常小 學國史』上巻、131 ∼ 132 ページ)。 (b)「鎌倉幕府が倒れ、政權がかへつて、朝廷の御威光はすこぶる盛となつ た。しかし、武士の中には、長い間幕府の政治になれて君臣の大義に暗く、 賞罰に不平をいだき、武家の政治の昔を喜ぶやうなものも少くなかつた。足 利尊氏は、かねてから將軍になりたいと望んでゐたので、これら不平の武士 を、ひそかに手なづけてゐた」(第五期『小學國史』上巻、119 ∼ 120 ページ)。 (c)「建武のまつりごとが始まつて、二年しかたたないうちに、大變なこと が起りました。足利尊氏がよくない武士をみかたにつけて、朝廷にそむきた てまつつたのです。尊氏は、かねがね、征夷大將軍になつて天下の武士に命 令したいと、望んでゐました。北條氏をうら切つて、朝廷に降つたのは、さ うした下心があつたからです。なんといふ不とどきな心がけでせう。しかも、 六波羅を落したてがらで、正成や義貞さへはるかに及ばないほど恩賞をたま はりながら、今、朝廷にそむきたてまつつて、國をみださうとするのですか ら、まつたく無道とも何とも、いひやうがありません」(第六期『初等科國史』 上、125 ∼ 126 ページ)。 (d)「(後醍醐)天皇は、皇子護良親王を征夷大將軍とし、手がらのあつた公 家や武士を、それぞれ重い役におつけになりました。けれども、長い間政治 からはなれてゐた公家では、政治はうまくはかどりません。その上に、幕府
が倒れたので、公家は武家をあなどりました。武家は、このたびのことは、 自分たちが命がけで戰ったから成功したのだと思つてゐるのに、公家が重ん ぜられるのを見ると、不平でたまりません。かうして公家と武家の仲は、だ んだんはなれて行きます。武家のうちには、武家政治の方がよかつたと思ふ ものさへ出てきました。建武の中興は、この公家と武家の仲たがひから失敗 することになりました。 京都と吉野 高氏は、天皇の御名尊治の一字をいただいて尊氏といひ、武 士のうちで一ばん勢ひがありました。自分が源氏の一族なので、ふたたび源 氏の幕府を、おこさうとする野心を持つてゐました。その時に、関東で北條 氏の一族がそむきました。尊氏はこれをうつて、征夷大將軍になることを願 ひましたが、お許しがありません。そこで勝手に鎌倉に下つてそむきました」 (第七期『くにのあゆみ』上、30 ∼ 31 ページ)。 以上の記述を比較してみると、第四期(a)と第五期(b)のものは、よく 似ていて比較的客観的な叙述となっている。しかし、下線部に見るごと く、朝廷の賞罰に不服を言う武士には、君臣の大義を忘れた不心得者と いうレッテルが貼られ、尊氏はかねがね将軍になりたいという野心をも っていたがゆえに不平をいだく武士を「てなずけていた」という否定的 な評価が下されている。これが第六期(c)になると、尊氏は「よくない武 士をみかたにつけて、朝廷にそむきたてまつつた」男で、かねがね将軍 になりたいという望みをいだいていたことは第四期(a)、第五期(b)と同 じであるが、朝廷に味方したのは将軍になりたい「下心があつたから」 であり、このことは「なんといふ不とどきな心がけで」、「まつたく無道 とも何とも、いひやうがありません」と尊氏は、天皇に弓引く極悪非道 の大悪人として教科書に描かれるようになる。すなわち、天皇中心史観 であって、天皇の行動は絶対的に正しく、これに背く行為は「まったく 無道」にほかならないという絶対的価値が前提とされ、これ以外の見方 は許されない。第七期(d)の『くにのあゆみ』(上)では、点線部分のよ うに、長い間政治からはなれていた公家では、政治はうまくゆかず、公 家は武家をあなどったことが記述され、天皇及び公家の側の落ち度も武 士の側の不平も同等にあつかわれている。すなわち、この叙述からは、
武士だけが一方的に責められるべきではなく、天皇・公家の側にもいた らぬ行為があったのだ、と両者を公平に見る可能性が開けてくる。ここ では天皇・公家の側の行為が相対化されているといえよう。また、尊氏 についても、「野心」をもっていたとしても、征夷大将軍を望んだのは北 条氏の反乱を平定したためであって、尊氏にも一定の理があったことが 記述され、一方的に尊氏が権力を望んだ極悪人とされているわけではな い。ここにも公平感をうかがうことができる。このように尊氏をめぐる 記述を比較・検討してみると、第七期『くにのあゆみ』(上)においては、 天皇が唯一絶対的に正しいという見方から離れ、歴史を公平に見ようと する姿勢が見てとれる。さらに楠木正成に関しては、「河内の楠木正成は、 お召しをうけると、すぐに兵をあげて、幕府の大軍を大いになやましま した」(『くにのあゆみ』上 30 ページ)とだけしか言及されておらず、戦前 各期の教科書がもれなく長々と記載していた赤坂城や千早城の攻防も、 桜井の駅における正成と正行との別れも、湊川の合戦と正成、正季の最 期も書かれていない。第七期(d)にいたって、ようやく天皇から見た忠 臣・賊臣史観から自由に歴史を見ることができるようになったのである。 しかしながら、まだ第七期になっても「(後醍醐)天皇は、まもなく京都 におかへりになつて、新しい政治のしくみをおつくりになり、……」と 天皇の行為を敬語で表す習慣から脱することはできなかった。史実の客 観視はまだその途上にあったと言わなければならない。
(6)『くにのあゆみ』に対する評価
敗戦後出版されたはじめての日本史教科書という点で、『くにのあゆみ』 は教育界に大きな反響を呼んだ。肯定的に受けとめた代表者は、当時東 京大学文学部で西洋古代史を講じていた村川堅太郎である(55)。村川は、 第六期に刊行された国民学校用『初等科國史』(上・下)を、皇国史では あるが、日本の歴史とは呼びえないと切り捨てたのち、『くにのあゆみ』 は、経済史・文化史・風俗史に多くのページを割き、はじめて児童向き の日本人の歴史を提供した点を高く評価している。さらに、村川は、「初めて真実が日本人の過去の生活の各方面に亙って教へられることとなつ た」と記し、封建的な歴史教育を受けた中年以上の人々が、もう一度新 しい歴史の見方をくみ取るのに『くにのあゆみ』は』好個の入門書だと 述べている。絶賛と言ってよい。 しかし、村川のような賛辞は例外的であった。難産のすえに生まれた 『くにのあゆみ』は厳しい批判にさらされたのである。まず、第 46 回対 日理事会(1947 年 11 月 26 日)において、ソ連の代表は、日露戦争の際に 日本が旅順港を不意打ちにしたことが書かれておらず日露戦争の原因が 歪曲されていること、さらに中国の代表は、対華二十一箇条要求の記述 がなく、また満州における衝突(1931 年)と蘆溝橋における衝突(1937 年) が共に「事変」と呼ばれていることをあげ、両国共にここには日本の侵 略性を隠そうとする意図が見られると抗議している(56)。 もっとも厳しい批判を加えたのは、戦前の過酷な弾圧から解放された マルクス主義史家たちであった。彼らによる批判はおおむね以下の 3 点 にまとめることができる(57)。 ① 朝廷に関する記述が多く、あいかわらず天皇中心史観による記述 が多い。 ② 歴史を動かす生産力の発展が説明されておらず、歴史的事件の推 移が発展段階的に捉えられていない。 ③ 階級的史観が欠如しており、人民・民衆の視点が入っていない、 というものであった。 さらに歴史教育研究者の高橋 一は、これらマルクス主義史家の意見 を総括し、つぎのように批判をまとめている(58)。 (ア) 官僚的編纂方法について。『くにのあゆみは』前述のように複数 の学者の執筆によるのであるが、高橋は「その仕事はまったく下働 きの草稿書きにすぎず、根本的な編纂の主体は官僚にあり……」と 断じている。 (イ) 日本民主化の立場に立った叙述がなされていない。そのことが 近代史の軽視となり、明治維新以後の「新しい社会」が美しく描か
れ、日本が侵略戦争に入った理由があいまいにされ、戦争責任は専 ら軍部のみに負わせて「宣戦の詔勅」には触れず(すなわち天皇の戦 争責任に言及することなく)、ポツダム宣言による日本民主化の基本線 も示されていない。 (ウ) 神武天皇が神日本磐余彦天皇という名で登場するような神話的 叙述が残存している。さらに高橋は孝古学的記載が多くなってはい ても、それらは単に神話の埋め草にすぎない、という林家辰三郎の 批判をそのまま紹介している。 (エ) 人民の進歩の姿が示されておらず、あいかわらずの皇室中心主 義であること。 結句、高橋は「かくてこの教科書からは、日本民主化はおろかなんら の歴史の精神も、方向も、希望も、なぐさめも生徒児童に与えられぬ」 と述べ、『くにのあゆみ』に否定的な見解を明らかにしている。 高橋の批判にはもっともな部分もあるが、誤解もあるようだ。(ア)に 関しては、先に見たように家永三郎の述懐によれば、執筆者たちは CIE の監督下で執筆したとはいえ決して下働きの草稿書きではなかったし、 (ウ)にいう神武天皇の記述は勇み足ではあるが、考古学的な叙述は神話 の埋め草にすぎないとまで貶める必要もなく、むしろこれまでの国定教 科書が天照大神や天孫降臨から始まっていたことを考えると、画期的と いってよいのではないか。(イ)に関しては、当たっている部分が多いよ うに思われる。「新しい社会」が美しく描かれていることに関しては、井 上清が痛烈に批判している。『くにのあゆみ』(下 32 ページ)では、江戸 時代には身分に厳しい上下があったが、明治となって華族・士族・平民 の三身分とし、しかも国民としては「市民平等」となって「みんな同じ やうな取りあつかひを受ける」と説明されているけれども、皇族が新た につくられたことや、市民平等どころか皇族や華族・士族には平民とは 異なる諸特権が付与されていたことが意図的に隠されていると井上は批 判している。さらに地租改正については、「田や畠の税は、大せつな國の 財政のもとでしたから、この改革のために、つがふがよくなりました」
(下 33 ページ)とあるが、いったい誰のために都合がよくなったのか、 もちろん明治政府のためであって農民はこれによっても封建的状態が少 しも改善されたわけではないことに触れられていない、とも批判を加え ている。少し時代をすすめて満州事変の記述について見ておきたい。『く にのあゆみ』(下 48 ページ)では「このころから、わが國内のありさま が、だんだん変わつて來ました。ことに軍部の力が政治や経済の上にま ではびこつてきて、世間がさわがしくなり、五・一五事件や二・二六事 件のやうな血なまぐさいことがつづきました。そしてとうとう満洲のこ とから、中華民國との間にめんだうなもつれができて、東洋の平和がみ だれることになりました。昭和六年(西暦一九三一年)九月、満洲の奉天 の近くで、南満洲鉄道が、ふいにばくはされました」と記述されている。 井上は、この叙述では、①五・一五事件(1932 年)が満州事変(1931 年) より前の時代の事件という誤解を与えること、②「めんだうなもつれがで きた」のではなく、日本軍および日本政府がそのもつれの原因をつくっ たことが隠蔽されていること、③南満州鉄道は「ふいに、ばくはされた」 のではなく、関東軍の謀略によって爆破されたことが曖昧にされている こと、をあげ、日本の軍部および政府が積極的な侵略行為を行なった責任 を曖昧にし、少しも日本帝国主義の罪悪に対する反省がないと断じてい る(59)。(エ)の皇室中心主義の意味は、主に作家の中野重治による批判(60) に同意したかたちで述べられており、総じて人民と支配者、人民と天 皇・皇室との関係があいまいにされており、具体的には山城の国一揆な どにおける人民の側の主体的運動が書かれていないということのようだ。 ただ、第六期の『初等科國史』ではいっさい一揆には言及されていない ところから見ると、土一揆・徳政一揆の記載(『くにのあゆみ』上 33 ペー ジ)があるだけでも進歩と言えなくもない。 マルクス主義史家を中心としたこれらの厳しい批判をどのようにわれ われは受けとめるべきだろうか。まず、これらの批判がなされた 1945 年 から 47 年頃までの日本の社会状況を見ておかなければならない(61)。敗戦 と共に GHQ の指導下に日本の民主化が始まる。他方、国民は住むところ
も食べるものも十分にはなく、生活はどん底に落ち込んでいた。加えて 戦後のインフレは加速度的に進行し、民衆の生活をいっそう脅かしてい た。そのような中で労働者は生活を守るために労働組合を結成し、闘争 に立ち上がった。1945 年 9 月末から組合結成の動きがさかんとなり、12 月末には 509 組合 38 万人が組織化され、46 年 3 月には 6,538 組合 256 万人 以上、6 月には 12,000 組合 368 万人まで増加した。また、戦争中には獄中 にあった共産主義者、社会主義者などの政治犯も釈放され、彼らがこう した組合運動の指導者として活躍した。農村では都会におけるほど食糧 難は深刻ではなかったけれども、地主による土地の取り上げに対する反 対運動、小作料の減免闘争、また地主を中心とする農村の支配秩序打破 などをめざす民主化闘争がさかんとなった。そのほか婦人解放や婦人参 政権獲得をめざした女性たちの運動など、戦前・戦中に押さえられてい た国民の諸要求が一気に吹き出したのが 45 年から 46 年の状況であった。 こうした情勢を背景に、1946 年には、国鉄労働者 7 万 5 千人、海員労働 者 4 万 3 千人の大量解雇が政府から発表されたのを機に共同闘争の方針が 民間産業の労働組合に拡大し、全日本産業別労働組合会議、日本労働組 合総同盟なども反対闘争を繰り広げ、海員組合や全日本炭鉱労働組合、 印刷出版や化学系の組合などが次々にストライキに突入して国鉄・海員 に対する首切りを撤回させた。こうした動きが、46 年末には吉田内閣打 倒・民主政府樹立という政治闘争に発展し、47 年 1 月からの「二・一ゼネ スト」に向けての運動に収斂していく。「二・一ゼネスト」はマッカーサ ーの指令によって中止に追い込まれたとはいえ、当時の社会状況は「革 命前夜を思わせる雰囲気となった」と説明される状況だったのである(62)。 『くにのあゆみ』が準備され、出版されたのは、このような時代であっ た。当時のマルクス主義史家たちは、これらの労働者と連帯して、近い 将来、日本に民主革命を起こすことを本気で考えていたのである。井上 清は先にあげた批判論文のなかで、明治維新の歴史も、百姓町人の闘争 (一揆打ちこわし)と先進資本主義諸国の影響によって封建体制の政治的分 解が急激に進められ、真の人民勢力が政治的に結集しないうちに、下級
武士らの封建支配改良運動が、人民の革命的力を利用しながら幕府制を たおし、天皇制をつくったことを正しく書けば、子供たちにも「いまの 民主革命の必要もなつとくさせ、またそれへの情熱をふきこむこともで きる」と説く。さらに「ここ(『くにのあゆみ』の叙述―田村)には革命は ない。封建専制もそれにたいする人民の解放運動もない。…… 現在を動 かすこと、歴史を創造すること、そのために現在の課題とその解決の道 を正しく示すこと、こゝに歴史の学問の存在理由があり、歴史を教える 意味もある。だが「くにのあゆみ」は「一定の立場」をさけるとなのつ て軍国主義や過激国家主義を批判せず、…… 民主々義革命をなしとげる という現代日本の最も重要な課題をかくし、現代を動かすどころか、そ れを天壌無窮の泥沼におぼれさせ、児童をして歴史の進歩の敵たらしめ ようとするものである。このような歴史はすみやかにはきすてねばなら ない」と切り捨てている(63)。井上をはじめとするマルクス主義史家たち にとっては、小学校で教えられる歴史も、当時の日本がどのような世界 史的な発展段階にあるのかを児童に理解させるために役立つものでなけ ればならなかった(64)。天皇制打倒すら叫ばれたこの時代、『くにのあゆみ』 が天皇をどのようにあつかっているのかが注目されたのも当然であった。 批判はおのずから厳しくならざるをえなかったのである。
(7)『くにのあゆみ』を読んで
では、あらためて『くにのあゆみ』を読んでみるとどのような点が問 題になるだろうか。 (ア) 年号の表記は、大寶元年(西暦七〇一年)のように、元号(西暦年) の順に記されている。これまでの教科書では、元号表記のみであっ たので、西暦年号表記は画期的である。国内、国外を問わず二つの 歴史的事件の時間的隔たりはこれによって明瞭となる。上・下巻の 巻末にそれぞれ同一の年表もつけられており、その表記も西暦年号 である。くわえて年表のいちばん右の欄には、西洋のできごとが 「476 西ローマ帝國ほろびる」などと記載されていて、日本の諸時代と照合できるようになっている。時間的な関連を容易につかめる ようになった点は評価されるべきである。 (イ) 各章の末尾に、「問題」と題された設問があり、その章で習った ことを確認させるようになっている。ちなみに「第一 日本のあけ ぼの」では、「一 大昔の人人はどんな暮らしをしていたでせうか。 またそれは何によつて知ることができますか。」、「二 貝塚とはどん なものですか。近くに貝塚があつたらしらべてみませう。」、「五 大 陸の文化はどうしてつたはることになつたのですか。また大陸から はどんな文化がつたはり、わが國ではそれをどんなふうにとり入れ たかをしらべてみませう。」などと記されている。第六期までの教科 書にはこのような試みはなく、児童に考えさせるという意味では大 きな進歩と言いうるが、設問を検討してみると、前の章で習った知 識を確認させるという面が強く、習ったことから発展させて何らか の歴史的な課題を深めるという問いは、ほとんどないようである。 (ウ) 天皇中心史観については、(5)節で見たように、天皇・皇室に対 する敬語の使用があげられよう。「(聖武)天皇は、佛教を深くうやま はれ、これをひろめるために、國ごとに、國分寺をお建てになりま した」(上 11 ページ)、「光仁天皇の次に、桓武天皇が位におつきにな りました」(上 15 ページ)といったたぐいの表記である。先述のよう にこれでは天皇の政策を客観視することはできない。また、奈良時 代の末期の稿には和気清麻呂による道鏡の排除というエピソードが 述べられており(上 11 ページ)、これなどは戦前の教科書を踏襲した ものであろう。特に教科書に記載するほど重要な史実とは思われな い(65)。また、豊臣秀吉が聚楽第を京都に造り、後陽成天皇の行幸を 仰いだことに関しても(上 41 ページ)、天下を取った秀吉が主君で ある天皇に忠誠心を示した例として戦前各期の教科書に載せられて いたエピソードをそのまま記載したのであろう。歴史上の事件とし ては些末である。このほか南北朝問題に関しては、戦前期の教科書 は南朝の天皇のみを正統としてきたけれども、『くにのあゆみ』(上)
31 ページでは、北朝第二代の光明天皇にも天皇の号を冠して記述し ている。この点は、南朝のみを正統とする価値観を押しつけるので はなく、天皇が並立されていたという史実を公平に記載したという ことで、評価されるべきであろう。 (エ) 文化・経済、庶民の暮らしについては、戦前の各教科書に比し てよく書けているように思われる。しかしながら、マルクス主義史 家の批判にあるように、社会構造が十分記述されているとはいえな い。「第三 平安京の時代」の「四 地方のありさま」では、「地方 の役人の中には、自分の利益になることだけを考へてゐるものが多 く、地方の政治が行きとどかないので、それにつけこんでわるもの がはびこり、人民のくらしをおびやかしました」(上 19 ページ)と 記述されている。「わるもの」が輩出するにいたったことについては、 地方役人のみに責任があるのではなく、当時の過酷な農民支配の社 会構造に大きな原因があったはずだが、そのことは記されていない。 続く荘園の説明でも、荘園から多くの税が入ってきたので藤原氏の 勢いがあのように盛んであったと記述されてはいるけれども、その 税を誰が負担したのかは書かれていない。支配と従属関係という社 会構造が十分に描かれているとはいえないのである。 一揆に関しては、「第五 鎌倉から室町へ」の室町幕府末期の社会 における土一揆、徳政一揆が言及されている(上 32 ∼ 33 ページ)。 しかし、下巻の徳川時代をあつかった「第九 幕府の衰亡」では、 「農村のおとろへ」と題して「農村は年貢の高がますます多くなつて 行くために、一そう暮らしにくくなつてゐました」(下 24 ページ) と書かれ、農民の逃散にも言及はあるとはいえ、百姓一揆そのもの については触れられていない。 (オ) 鎖国の扱いについて。1970 年代以降の日本近世史研究において は、江戸時代はいわゆる鎖国状態ではなかったとされている(66)。松 前、長崎、対馬、薩摩・琉球の四つの口が外に向かって開かれてお り、物資の流通・人の交流などで東アジア海域に豊かな国際関係を
築いていたことが明らかにされている。したがって、現在の学会の 状況からすると、「鎖國によつて、海外との関係が全く断たれること になつた」(下 7 ページ)という記述は、不適当である。しかし、 1946 年という『くにのあゆみ』の執筆時においてこれを要求するの は酷であろう。この批判は、あくまでも現在の学会の水準に照らし ての批判であることをお断りしておかなければならない。 (カ)「さわぎ」について。『くにのあゆみ』では、「さわぎ」とか「さわ がしくなる」という記述が散見される。この用法には二種類ある。ひ とつはその原因も記述されているもの、今ひとつはその原因が書か れていないか、もしくは曖昧にされているものである。 ①「そのために苦しんだ人民は、大ぜい力をあはせて一揆をおこしま した。……(室町―田村)幕府には、もうそれをしづめる力はあり ません。それで世の中はだんだんさわがしくなりました」(上 33 ページ)という箇所は、室町幕府の末期、応仁の乱の直前の状況で ある。「そのために」という言葉の内容は、この前段で幕府が農民 から重税を取り立てたことや関所や港で課税したこと、さらに商 人と役人が結託して人民を搾取したことが詳述されているので、 「さわがしくなる」原因が児童にも容易に理解できるようになって いる。 ②「(平安時代の―田村)貴族たちは、…… 政治に熱心ではなかつたた め、世の中は、だんだんさわがしくなつてきました」(上 19 ペー ジ)という箇所は、平安時代の末期についての記述である。世の 中が乱れて騒がしくなったのは貴族が政治を顧みなかったためで はなく、搾取されていた農民と支配の果実を得ていた貴族や社寺 の存在という社会的な矛盾が激化したためである。このことを児 童に分かりやすい表現できちんと書くべきであった。同じく、自 由民権運動や日清戦争に関しての「さわぎ」にも問題がある。そ れぞれ以下のように記述されている。 ③「政府が憲法をつくらうとしてゐるとともに、國民のうちからも、
板垣退助らがさきにたつて、民主的な憲法をつくり、國會を開か なければならないとの意見が盛んに出てきました。熱心のあまり、 方方でさわぎまでおこりました」(下 26 ページ)。 ④「日清戦役 明治十五年(西暦 1882 年)朝鮮の京城で、とつぜんさ わぎがおこり、引きつづいて十七年にまたおこりました。わが國 は、伊藤博文らを天津につかはし、李鴻章と相談をさせて、朝鮮 のためにいろいろ約束をしました。これを天津条約といひます。 これでしばらく平和がたもたれました。ところが明治二十七年に なつて、朝鮮にまたも東學黨のさわぎがおこりました」(下 40 ∼ 41 ページ)。 ③における「さわぎ」の原因は「熱心のあまり」ではなく、明治政 府の弾圧によるところが大きいことを書かなければ公平な叙述と はいえない(67)。④における 1882 年の「さわぎ」は朝鮮王国内部の 保守派の大院君と開化派の閔氏政権との確執(壬午軍乱)を、2 年 後の「さわぎ」は金玉均らの開化派(独立党)の守旧派(事大党) に対するクーデタ(甲申政変)を指していると思われるが、これら の「さわぎ」の原因である朝鮮王国近代化をめぐる王国内の諸事 情や対外関係、すなわち清国と日本とが朝鮮の植民地化をめぐっ て対立していたことに関する説明がないと児童には理解が不可能 だろうし、朝鮮国内の問題なのに、なにゆえ日本が伊藤博文らを 派遣して天津条約(清・日本天津協定)を結ぶことになったのかが 理解できないであろう。つまり「とつぜんおこったさわぎ」では ないのである。しかし、ここまで小学校の教科書に記述する必要 があるかどうかはいささか微妙な問題である。「東學黨のさわぎ」 (甲午農民戦争)についても、この教科書表記では突然起こったかの ような印象を与えるが、19 世紀後半における朝鮮半島(李朝)の封 建的搾取と収奪、および開国による外来資本流入にともなう経済 的混乱と人民の疲弊が背景にあっての「さわぎ」であることを説 明する必要があるだろう。ただし、朝鮮半島内におけるこうした
複雑な情勢は、かなり時間を取って説明がなされないと、小学生 が理解するのは難しいのではないかと思われる。 以上のように、『くにのあゆみ』には、戦前の教科書を踏襲した部分と、 戦後の民主化を企図した時代の面影を反映した部分を看取することがで きる。戦後の混乱期に十分な執筆時間も確保されずに作成されたゆえ、 いたしかたのない面もあるかと思われるけれども、直前の第六期教科書 『初等科國史』(上・下)と較べると、明らかに新時代の息吹を感じさせる といってよい。天皇制への絶対的服従と奉仕、そのためには死をも強要 することを目的とした第六期の國史教育を脱し、民主的な国家再建をめ ざすための新しい歴史教育への第一歩を『くにのあゆみ』は示している ことを認めるべきであろう。 しかしながら、『くにのあゆみ』の教科書としての寿命は短かった。 1946 年の 11 月頃から、教室で使用されはじめたが、1947 年度から発足し た新教科「社会科」に歴史分野が統合されたので、新年度からは使用さ れなかったのである(68)。