• 検索結果がありません。

『中書王御詠』注釈稿(1)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『中書王御詠』注釈稿(1)"

Copied!
70
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

『中書王御詠』注釈稿(1)

著者

中川 博夫

雑誌名

鶴見大学紀要. 第1部, 日本語・日本文学編

53

ページ

17-85

発行年

2016-03

URL

http://doi.org/10.24791/00000282

Creative Commons : 表示 http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja

(2)

『中書王御詠』注釈稿(一) 一七

『中書王御詠』注釈稿(一)

 

 

 

 

一、鎌倉幕府第六代将軍宗尊親王の家集の一つ『中書王御詠』 (三五八首)の注解を試みる。 一、1番歌から始めて順番どおりに注釈を付して、数次の分載とする。今回は、 「春」 (1〜 50)を取り上げる。 一、次の各項からなる。 ① 整 定 本 文 。 ② 本 文 を 改 め た り 注 記 が 必 要 な 場 合 は 、 当 該 箇 所 に * 印 を 付 し て 、 別 に 本 文 の 項 目 を 立 て る 。 ③ 通 釈 。 ④ 本 歌 ・ 本 説 ・ 本 文 ( 前 項 の 「 本 文 」 と は 別 、 基 に し た 漢 詩 文 の 意 )、 参 考 ( 宗 尊 が 踏 ま え た 歌 な ら び に 解 釈 上 に 必 要 な 歌 )、類 歌 ( 表 現 ・ 趣 向 が 類 似 し た 歌 )、 享 受 ( 宗 尊 歌 を 本 歌 取 り し た 歌 )、 影 響 ( 宗 尊 歌 を 踏 ま え た 歌) 。⑤出典。⑥他出。⑦語釈。⑧補説。②と④〜⑧は、無い場合には省略。 一、 底 本 は、 本 書 の 原 本 で あ る 冷 泉 家 時 雨 亭 文 庫 蔵 本 の 影 印 版『 冷 泉 家 時 雨 亭 叢 書   第 三 十 一 巻   中 世 私 家 集   七 』 (二〇〇三・八、朝日新聞社)所収本に拠る。同本を親本とする書陵部蔵本(五〇一 ・ 八七)を適宜参照する。 一、本文は、次の方針に従う。

(3)

一八 1.底本の翻印は、通行の字体により、歴史的仮名遣いに改め、意味や読み易さを考慮して、適宜ひら仮名を漢字 に、漢字をひら仮名や別の漢字に改める。送り仮名を付す。清濁・読点を施す。なお、原則としてひら仮名の反 復記号は用いない。 「謌」 「哥」は「歌」に統一する。 2. 本 文 を 改 め た 場 合、 底 本 の 原 状 は 右 傍 に 記 す( 送 り 仮 名 を 付 し た 場 合 は 傍 点 )。 私 に ふ り 仮 名 を 付 す 場 合 は (   )に入れて区別する。その他、問題点や注意点は、適宜特記する。 3.他資料の本文との異同は、漢字・仮名の別や仮名遣いの違いや送り仮名の有無など、表記上の違いは原則とし て取らない(解釈の分かれる可能性のある表記上の違いである場合は参考までに注記する) 。 4.底本の本行の原状(見消ち等の補訂は本行に復元)に対して他資料の本文との異同を示す。 5.底本の和歌には、合点(鉤点)が付されていて、まま胡分の塗り消しがあるという。影印版では判然としない の で、 不 審 紙( 小 紙 片 ) 貼 付 等 と 併 せ て、 冷 泉 家 時 雨 亭 叢 書 の 解 題 に 付 載 の 一 覧 に 拠 り つ つ、 こ れ ら を〔 補 説 〕 に記すこととする。 6.歌頭に通し番号を付した(新編国歌大観番号と同じ) 。 一、 引 用 の 和 歌 は、 特 記 し な い 限 り 新 編 国 歌 大 観 本 に 拠 る。 万 葉 集 は、 原 則 と し て 西 本 願 寺 本 の 訓 と 旧 番 号 に 従 う。 なお、表記は私に改める。歌集名は、原則として「和歌」を省く。その他の引用は、日本歌学大系本他の流布刊本 に拠る他、特殊な本文の場合には特記する。

(4)

『中書王御詠』注釈稿(一) 一九

 

中書王御詠 愚点所存等 文永四年十二月 春 年中立春 1   野 の も 山 やま もまだ 雪 ゆき 深 ふか き 年 とし の 内 うち に 霞 かすみ ぞ 遅 をそ き 春 はる は 来 き にけり 〔通釈〕 春 年中立春 野も山もまだ雪が深い旧年の内に、霞こそ遅くて立たない、 (けれど)春はやって来たのだ。 〔本歌〕   年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ(古今集・春上・一・元方) 〔出典〕   文永三年十月五百首歌。→補説。 〔他出〕   竹風抄・巻一・文永三年十月五百首歌・立春・一。 〕  ○ 年 中 立 春 ―「 年 内 立 春 」「 歳 内 立 春 」 と 同 様 に、 一 月 一 日 以 前 の 立 春 を 言 う 題。 表 記 と し て は、 「 歳 中 立 春」の例もある(金葉集初度本、散木奇歌集等) 。「年中立春」としたのは、父帝後嵯峨院の「初音とは思はざらな

(5)

二〇 む ひ と と せ に ふ た た び 来 た る 春 の 鶯 」( 続 古 今 集・ 雑 上・ 一 四 八 四 ) の 詞 書 が「 文 永 二 年 七 月 七 日 白 川 に て 題 を さ ぐ り て 七 百 首 歌 人 人 に よ ま せ 侍 り し に、 年 中 立 春 と い ふ 事 を 」( 尊 経 閣 文 庫 本 ) と な っ て い る こ と と 関 連 が あ ろ う か。○霞ぞ遅き―係り結びで四句切れだが、 「遅き春」と続くとも解される。 〕  出 典 の「 文 永 三 年 十 月 五 百 首 歌 」 の 文 永 三 年( 一 二 六 六 ) に、 宗 尊 は 将 軍 を 廃 さ れ て 京 都 に 戻 る。 七 月 二十三日に子息の惟康が征夷大将軍となるが、宗尊は既に七月八日に鎌倉を出て二十日に入京している。その直後 の 八 月 に 詠 じ た「 三 百 首 」( 竹 風 抄・ 四 九 二 〜 五 九 五 ) に 続 く「 五 百 首 」 で あ る。 十 月 九 日 に 移 っ た 土 御 門 殿 で 詠 出 し た か と 思 し い。 現 存 は、 『 竹 風 抄 』 の 一 〜 二 八 八 ま で の 二 八 八 首 で あ る。 全 体 に、 失 脚 し て 帰 洛 し、 し か し い ま だ 父 帝 後 嵯 峨 院 や 母 棟 子 に も 会 え な い 状 況 の、 不 遇 感 の 述 懐 性 が 露 わ で あ る。 該 歌 の 詠 ま れ た 文 永 三 年 (一二六六)は、前年の十二月二十三日に立春を迎える「年内(年中)立春」であり、それを詠じたものであろう。 「み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にけり」 (新古今集・春上・一・良経)や「風まぜに雪は降りつ つ し か す が に 霞 た な び き 春 は 来 に け り 」( 同・ 同・ 八・ 読 人 不 知 ) の よ う に、 「 春 は 来 に け り 」 と 立 春 を 言 う 限 り は、霞が立つことを前提とするのが、伝統的通念であろう。俊成の「年の内に春立ちぬとや吉野山霞かかれる峰の 白 雪 」( 続 後 撰 集・ 春 上・ 一・ 俊 成 ) も、 源 具 親 の「 年 の 内 の 春 と は 空 に み 吉 野 の 山 も 霞 み て 雪 の 降 り つ つ 」 ( 千 五 百 番 歌 合・ 春 一 ・ 二 七・ 具 親 ) も、 該 歌 と 同 じ く「 年 の 内 」 の「 雪 」 を 詠 み つ つ 立 春 の 霞 を 併 せ て い る の は、 大枠ではその類型の中にあることを意味していよう。該歌が「霞ぞ遅き」とするのは、その点で新鮮である。溯る と、 「年の内に春は立ちぬとうちつけに雪げの雲を霞とぞ見る」 (永久百首・冬・旧年立春・四二一・大進)が、明 示的ではないにせよ、 「霞」の立っていない「年内立春」を詠じていようか。

(6)

『中書王御詠』注釈稿(一) 二一 立春 2   今 け 朝 さ 見れば 雪 ゆき げにさえし 雲 くも も ゝ なくなぎたる 空 そら に春は 来 き にけり 〔通釈〕   立春 今朝見てみると、雪もよいに冷たく冴えた雲も無く、穏やかに晴れている空に、春はやって来たのだった。 〔本歌〕   雲もなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみ世をば経ぬらむ(古今集・恋五・七五三・友則) 〕  今 朝 は ま た 雪 げ の 雲 も 引 き か へ て の ど け き 空 に 春 は 来 に け り( 為 家 集・ 春・ 春 天 同〔 文 永 〕 元 年 十 月 十 一 日 続 五 十 首 ・一六) 〔出典〕   文永二年潤四月三百六十首歌。→補説。 〔他出〕   柳葉集・巻五・文永二年潤四月三百六十首歌・春・六二七。和漢兼作集・春上・立春心を・八。 〔語釈〕   ○雪げ―雪気。雪の降りそうな気配、空模様。 〕  『 古 今 集 』 歌 を 本 歌 に、 直 前 に 詠 ま れ た 為 家 の 作 に も 倣 っ た か と 思 し く、 当 時 の 宗 尊 の 詠 作 方 法 の 一 端 が 窺 われる。 出 典 の「 文 永 二 年 潤 四 月 三 百 六 十 首 歌 」 は、 『 柳 葉 集 』( 巻 五 ) に 二 二 七 首( 六 二 七 〜 八 五 三 ) が 残 る。 現 存 春 五 三( 首 )、 夏 二 〇、 秋 五 二、 冬 一 五、 恋 三 二、 雑 五 五 で あ る の で、 本 来、 春・ 秋・ 恋・ 雑 各 七 〇 首、 夏・ 冬 各 四〇首であったか。 歌頭に合点あり。

(7)

二二 早春 3   里 さと 分 わ かず 立 た ちける 春 はる のいかなれば 憂 う き身 一 ひと つをよそになすらん 〔通釈〕   早春 どの里も区別無く立った春が、どういう訳で、この憂鬱の身一つを春の埒外にするのだろうか。 〔参考〕   梅が香の誰が里分かずにほふ夜は主さだまらぬ春風ぞ吹く(新勅撰集・雑一 ・ 一〇三六・行念) 忘るなよ馴れし雲ゐの桜花憂き身は春のよそになるとも(新勅撰集・雑一 ・ 一〇四四・隆信) さてもまた幾世かは経む世の中に憂き身一つの置き所なさ(新勅撰集・雑二 ・ 一一四九・寂蓮) 〔類歌〕   春のなど憂き身をかけで立ちぬらんかさなる年は人も分かぬに(竹風抄・巻一・文永三年十月五百首歌・早 春・二) 〔補説〕   「里分かず立ちける春」の類の表現の淵源は、 『古今集』の「春の色のいたりいたらぬ里はあらじ咲ける咲か ざる花の見ゆらん」 (古今集・春下・九三・読人不知)に求められる。また、 「春」が「よそ」である発想の原拠も やはり、 『古今集』の「光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散る物思ひもなし」 (雑下・九六七・深養父)に求 めてよい。宗尊も、これらに無意識下にも負っているであろう。後者は、詞書に「時なりける人の、俄に時なくな りて歎くを見て、自らの歎きもなく喜びもなきことを」とあり、出世栄達の無縁を諦念する趣である。例えば、院 政 期 の 教 長 の「 憂 き 身 に は 春 の 光 の よ そ な れ ば 今 日 の 暮 る る も 惜 し ま れ ぬ か な 」( 教 長 集・ 讃 岐 院 位 の 御 時 百 首 歌 奉りしに、暮春の心をよめる・一九四)は、この歌の発想の延長上にあろう。一方で、 「憂き身の」 「春」の憂鬱を 詠 歎 す る こ と は、 新 古 今 新 風 歌 人 辺 り か ら 顕 現 し 始 め る と 思 し い。 「 憂 き 身 一 つ 」 を 用 い た 類 想 の 先 例 に は、 定 家

(8)

『中書王御詠』注釈稿(一) 二三 の「 春 知 ら ぬ 憂 き 身 一 つ に と ま り け る 暮 れ ぬ る 暮 を 惜 し む 歎 き は 」( 拾 遺 愚 草・ 奉 和 無 動 寺 法 印 早 率 露 胆 百 首 文 治 五 年 春 ・ 春・ 四 二 〇 ) が あ り、 「 老 い 」 を 絡 ま せ て 言 う 例 に は、 慈 円 の「 あ は れ に も 春 は 憂 き 身 の よ そ な が ら 老 い の 坂 よ り 年 は 越 え に き 」( 拾 玉 集・ 〔 建 久 八 年 廿 題 百 首 〕・ 立 春・ 四 四 七 二 ) や 為 家 の「 な ど て 世 の 老 い の 憂 き 身 を 隔 つらん霞は春のよそならねども」 (中院集・ 〔文永三年〕廿七日月次三首、霞・一)がある。定家詠は、一見右の教 長 詠 に 似 通 う が、 教 長 の「 惜 し ま れ ぬ か な 」 と 定 家 の「 惜 し む 歎 き は 」 と の 差 は 大 き い と 言 わ な け れ ば な ら な い。 参考、拙稿「鎌倉期関東歌壇の和歌 ―中世和歌表現史試論― 」( 『中世文学』五九、平二六 ・ 六) 。 子日 4   君 きみ がため 初 はつ 子の 今 け 日 ふ の野辺に 出 い で て ゝ 手に 取 と る松は 千 ち 代 よ の 数 かす かも 〔通釈〕   子の日 我が君のために、初子である今日の野辺に出て、手に引き取る松は、君の千載の年の数であるなあ。 〔本歌〕   君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ(古今集・春上・二一・光孝天皇) 初春の初子の今日の玉ばはき手に取るからにゆらく玉の緒(新古今集・賀・七〇八・読人不知。万葉集・巻 二十・四四九三・大伴家持) 〔参考〕   大井川井堰の石を君がため拾ひあぐるは千代の数かも(弘長百首・雑・河・信実) 〔類歌〕   君がため子の日を急ぐ姫小松手に取るからに千代も経ぬべし(文保百首・春・三〇〇〇・定為) 〔出典〕   文永二年潤四月三百六十首歌。→2。

(9)

二四 〔他出〕   柳葉集・巻五・文永二年潤四月三百六十首歌・春・六三二。 〕  ○ 千 代 の 数 か も ― 原 拠 は「 亀 の 尾 の 山 の 岩 根 を と め て 落 つ る 滝 の 白 玉 千 代 の 数 か も 」( 古 今 集・ 賀・ 三 五 〇・ 紀 惟 岳 )。 ○ 取 る ― 本 来「 松 」 に は「 引 く 」 と 言 う が、 本 歌 の「 手 に 取 る か ら に 」 の 面 影 を 活 か そ う と し たか。 〔補説〕   合点を白滅(胡分の塗り消し。以下同様) 。 霞 5   小 を 初 はつ 瀬 せ やほのかに見えし 山 やま もなし 伏 ふし 見 み の 暮 くれ の 深 ふか き 霞 かすみ に 〔通釈〕   霞 小初瀬よ、仄かに見えたその山も今は見えない。この伏見の夕暮の深い霞の中で。 〔本歌〕   菅原や伏見の暮に見渡せば霞にまがふを初瀬の山(後撰集・雑三 ・ 一二四二・読人不知) 〔参考〕   おしなべてうづもれぬらん吉野山いふばかりより深き霞に(宝治百首・春・山霞・四二・道助) 〔類歌〕   見渡せば霞みしほどの山もなし伏見の暮の五月雨の比(続拾遺集・夏・一八〇・実伊) 〔語釈〕   ○小初瀬―大和国の歌枕。 「小」は接頭語。 「小泊瀬」とも書く。現奈良県桜井市初瀬町周辺。笠置山地から 流れる初瀬川の峡谷の地で、東西北の三方を初瀬山や巻向山等の連山に囲まれる。○伏見―大和国の歌枕。菅原氏 の 本 貫 地 で あ る い わ ゆ る「 菅 原 の 伏 見 」。 現 奈 良 県 奈 良 市 菅 原 町( 菅 原 天 満 宮 が 鎮 座 ) に そ の 名 が 残 る が、 そ れ よ りもかなり広範囲を言ったと思しく、 「小初瀬」の「山」はその南東方向に望む。

(10)

『中書王御詠』注釈稿(一) 二五 〔補説〕   類歌に挙げた一首は、同じく『後撰集』歌を本歌にして、季節を夏にして「五月雨」を付加していて、院政 期の詠み益しの本歌取説に沿う。 6   朝 あさ ぼらけ 霞 かすみ の 上 うへ に 松 まつ 見えて 日 ひ 影 かけ うつろふ 春 はる の 遠 とをやま 山 〔通釈〕   (霞) ほのぼのぼと白む明け方に、霞の上に松が見えて、日の光が春の遠山に映じ輝いている。 〔参考〕   それながら春は雲ゐに高砂の霞の上の松の一入(建保名所百首 ・ 春 ・ 高砂 播磨国 ・ 二七 ・ 定家。新後拾遺集 ・ 春上・三三) この里は雲間も見えぬ夕立に日影いざよふ遠の山の端(宝治百首・夏・夕立・一一三〇・実雄) 〔類歌〕   かき暮れてこの里めぐる夕立の日影うつろふ遠の山の端(嘉元百首・夏・夕立・一三二四・俊定) むら時雨過ぎゆく峰の雲間より日かげうつろふ遠の山もと(玉葉集・冬・八四三・公相) 梢のみ霞の上にほの見えて空に浮きたるうきしまの松(文保百首・春・一三〇〇・経継) 見 え ざ り し 霞 か か れ る 色 な が ら 朝 日 に 出 づ る 春 の 遠 山( 草 根 集・ 春・ 遠 山 朝 霞・ 三 〇 六。 同・ 雑・ 遠 山 朝・ 九五二三) 〕  ○ う つ ろ ふ ―「 映 ろ ふ 」( 映 発 す る 意 ) に 解 し た が、 「 移 ろ ふ 」( 日 の 光 が 様 を 変 え て 行 く 意 ) に 解 し て も 通 意であろう。 「片山は日影うつろふ空ながら里分きて行く夕立の雲」 (宝治百首・夏・夕立・一一二六・基良)と同 様か。

(11)

二六 〕  「 霞 の 上 に 松 見 え て 」 が 一 首 の 趣 向 の 一 つ だ が、 こ れ は 参 考 の 定 家 詠 に 学 ん だ 結 果 で あ ろ う か。 宗 尊 は、 同 様の趣向を、後に「文永六年八月百首歌」 (春)で「根を絶えて霞に余る遠山の松の木末や春の浮草」 (竹風抄・巻 五 ・ 七六三)と詠じている。 他方、下句の「日影うつろふ春の遠山」の景趣は、参考の実雄詠の影響下にあると思しい。宗尊は、やはり類似 の 景 趣 を、 後 に「 文 永 八 年 七 月 内 裏 千 五 百 番 歌 合 百 首 歌 」( 夏 ) で「 雲 間 よ り 日 影 涼 し く う つ ろ ひ て 夕 立 晴 る る 遠 の 山 の 端 」( 竹 風 抄・ 巻 五・ 八 六 三 ) と 詠 じ て い る。 類 歌 に 挙 げ た『 嘉 元 百 首 』 の 一 首 は、 同 じ 題 の『 宝 治 百 首 』 の 実 雄 詠 に 倣 っ た の で あ ろ う し、 同 様 に『 玉 葉 集 』 所 収 の 公 相 の 一 首 も、 叔 父 の 実 雄 詠 か ら の 影 響 が 想 定 さ れ よ う。 そ れ に し て も、 該 歌 は、 京 極 派 の 好 尚 に 適 う 一 首 と 言 っ て よ い で あ ろ う。 「 春 の 遠 山 」 の 句 も、 勅 撰 集 で は 『玉葉集』の実兼の「咲きみてる花のかをりの夕づく日霞みて沈む春の遠山」 (春下・二〇四)という、京極派を代 表するような一首のみに見える句なのである。 合点あり。 百五十首の歌よみ侍 り ・ しに、春夕 7   花 はな の 香 か はそことも 知 し らず 匂 にほ ひ 来 き て 遠 とを 山 やま 霞 かす む 春 はる の夕 暮 くれ 〔通釈〕   百五十首の歌を詠みましたときに、春の夕べ 花の香は、どことも知らずに匂って来て、遠山が霞んでいる春の夕暮よ。 〕  思 ふ ど ち そ こ と も 知 ら ず 行 き 暮 れ ぬ 花 の 宿 か せ 野 辺 の 鶯( 新 古 今 集・ 春 上・ 八 二・ 家 隆。 六 百 番 歌 合・ 春・

(12)

『中書王御詠』注釈稿(一) 二七 野遊・七二、 「そことも言はず」 ) 五月雨の雲にも霞むながめかな遠山本の夕暮の空(正治後度百首・夏・五月雨・八二二・宮内卿) 〔類歌〕   おのづから風のつてなる花の香のそことも知らず霞む春かな(続拾遺集・春上・山階入道左大臣家に十首歌 よみ侍りけるに、寄霞花といへる心をよみてつかはしける・六七・公親) そことなく遠山霞む春の日に見えぬ梢の花ぞ待たるる(為理集・同〔待山花〕心を・七三七) 〕  尋 ね ば や そ こ と も 知 ら ぬ 花 の 香 の 霞 に 匂 ふ 春 の 山 も と( 李 花 集・ 春・ こ れ か れ 誘 ひ て 花 尋 ね 侍 り し 所 に て・ 八〇) 〔出典〕   文永三年八月百五十首歌。→補説。 〕  竹 風 抄・ 文 永 三 年 八 月 百 五 十 首 歌・ 春 夕・ 五 二 四。 続 拾 遺 集・ 春 上・ 暮 山 春 望 と い ふ 事 を・ 六 六。 題 林 愚 抄・巻二十一・雑・暮山春望・同(続拾) ・九四一九。   〔語釈〕   ○百五十首の歌―『竹風抄』 (巻三)の「文永三年八月百五十首歌」のことと見られるが、詳しくは不明で、 不審な点もある。 『竹風抄』 (四九二〜五九五)に収められる現存歌は、一〇四首。題は、春・夏・秋・冬・雑を頭 に関した種々の結び題。→補注。○そことも知らず―参考の『新古今集』の家隆詠に拠っていよう。その家隆詠は 『 六 百 番 歌 合 』 で は、 二 句 に「 そ こ そ と も 言 は ず 」( 日 本 大 学 総 合 図 書 館 本 を 底 本 と す る 新 編 国 歌 大 観、 書 陵 部 本 (五〇一 ・ 六一九) を底本とする新日本古典文学大系、 『校本六百番歌合』が著録する陽明文庫本他数本)の異同がある。 俊成判詞に「右歌、素性法師、思ふどち春の山辺にうちむれてそことも言はぬ旅寝してしか、といへる歌をとりす ぐせるにや侍らん」とあるように、 『古今集』の素性「思ふどち」 (春下・一二六)詠を本歌にしていて、異同はこ の俊成判に起因するのかもしれない。宗尊は家隆詠の本歌をも見通していたであろう。

(13)

二八 〔補説〕   山が霞む春の夕方の風情を賞するという点では、後鳥羽院の「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに 思ひけむ」 (新古今集・春上・三六)の延長上に位置付けられる歌である。 該 歌 を 含 む、 『 竹 風 抄 』 の「 文 永 三 年 八 月 百 五 十 首 歌 」 が、 そ の と お り 文 永 三 年( 一 二 六 六 ) 八 月 の 詠 作 と す る と、鎌倉幕府将軍から失脚して七月に帰洛した直後の「百五十首歌」ということになる。しかし、同抄の各巻は次 のとおりの構成となっているのである。 巻一   文永三年十月五百首歌 巻二   文永五年十月三百首歌 巻三   文永三年八月百五十首歌 巻四   文永六年四月廿八日、柿本影前にて講じ侍りし百首歌 文永六年五月百首歌 巻五   文永六年八月百首歌 文永八年七月、千五百番歌合あるべしとて、内裏より仰せられし百首歌 文永九年十一月比、何となくよみ置きたる歌どもを取り集めて、百番に合はせて侍りし つまり、巻三「文永三年八月百五十首歌」を除けば、本抄は巻頭から巻軸まで、ほぼ年月の降順に各定数歌等が 配されているのである。巻三が本来「文永五年百五十首歌」であった可能性はないであろうか。もちろんその場合 でも巻二「文永五年十月三百首歌」とは、月次が逆転していることにかわりはないが、年次の逆転に比較すれば配 列の破綻はより小さいであろうし、事実巻五内には月次の逆転も存しているのであるから、やはり「文永五年」を 「 文 永 三 年 」 に 誤 写 し た 可 能 性 は 絶 無 で は な い と 思 う の で あ る。 例 え ば、 同「 百 五 十 首 歌 」 中 の「 雑 閑 居 / 人 言 の

(14)

『中書王御詠』注釈稿(一) 二九 暇 な か り し も 昔 に て 今 は の ど け き 身 の 住 ま ひ か な 」( 竹 風 抄・ 五 七 七 ) は、 「 雑 閑 居 」 題 に 従 っ た 詠 作 で は あ る が、 実感を宿していようか。そうだとすれば、文永三年(一二六六)に妻宰子と良基の密通を知って三月五日に藤原親 家をして上洛させ、六月五日に帰参した親家を通じて父後嵯峨院からの諷諫を受けつつ、失脚への流れは止めがた く、七月八日に鎌倉を発ち二十日に失意の内に帰洛するもなお、父母から義絶された宗尊であれば、その直後の八 月に、かかる心境に達していたとは考え難い。やはりこの「百五十首歌」は、文永三年八月ではなく、文永五年八 月の作と見る方が穏当のようにも思われるのである。しかしながら、文永四年十二月に為家から合点と評詞を得て いる『中書王御詠』に於いて「百五十首(の)歌」と詞書にある歌で、現に『竹風抄』の「文永三年八月百五十首 歌」にそれも同じ題で見える歌が、十首見えるのである。 重出一覧(上竹風抄の番号・下中書王御詠の番号) 。   四 九 四 ・ 101、 五 一 八 ・ 57、 五 一 九 ・ 119、 五 二 一 ・ 71、 五 二 四 ・7 、五 二 九 ・ 72、 五 三 一 ・ 141、 五 三 四 ・ 51、 五三六・ 19、五四四・ 106。 とすれば、少なくともこれらの歌は、文永四年十二月以前に詠まれたものと見なければならず、この「百五十首 歌 」 が、 文 永 三 年 八 月 の 作 で あ る こ と を 示 す 証 左 と い う こ と に な ろ う。 ま た し か し、 前 述 の よ う に、 『 竹 風 抄 』 の 「文永三年八月百五十首歌」には、その時点ではなく、数年後の作と見るべき詠があるのであれば、 「文永五年」を 「文永三年」に誤写した可能性を見ても見なくても、 『中書王御詠』の「百五十首歌」の一部を利用したか、一部を 差し替えたかして、 『竹風抄』の「百五十首歌」ができあがった可能性も見ておく必要があるのではないだろうか。 合点あり。

(15)

三〇 春眺望 8   夕 凪 なき の 春 はる の 潮 しほ 干 ひ は 静 しつ かにて 霞 かすみ に 遠 とを きわかの 松 まつ 原 はら 〔通釈〕   春の眺望 春の夕凪に静かに潮が引いて、霞の中に遠く望むわかの松原よ。 〕  妹 に 恋 ひ わ か の 松 原 見 渡 せ ば 潮 干 の 潟 に た づ 鳴 き 渡 る( 新 古 今 集・ 羈 旅・ 八 九 七・ 聖 武 天 皇。 原 歌 万 葉 集・ 巻六・雑歌・一〇三〇、 二句「わがの松原」 〔原文「吾乃松原」 、現行訓「あがの松原」 〕) 〕  伊 勢 島 や 潮 干 の 潟 の 朝 凪 に 霞 に ま が ふ わ か の 松 原( 後 鳥 羽 院 御 集・ 詠 五 百 首 和 歌〔 遠 島 五 百 首 〕・ 春・ 六六八。風雅集・春上・二二・後鳥羽院) 伊勢の海清き渚も霞みつつ春の潮干の玉も拾はず(建保名所百首・春・伊勢海・九〇・兵衛内侍) 伊 勢 の 海 人 の 玉 裳 の 裾 や ま が ふ ら ん 霞 に 遠 き 沖 つ 白 波( 雲 葉 集・ 春 上・ 六 七・ 実 氏。 三 十 六 人 大 歌 合・ 二三) 〔出典〕   文永三年八月百五十首歌。→7。 〔他出〕   竹 風 抄 ・ 巻 三 ・ 文 永 三 年 八 月 百 五 十 首 歌 ・ 春 望 ・ 五 六 八 。 夫 木 抄 ・ 春 五 ・ 春 海 ・ 御 集 、 春 御 歌 中 ・ 一 七 一 〇 。 〔語釈〕   ○潮干―潮が引くこと。干潮になること。○わかの松原―伊勢国の歌枕。三重郡の地名というが、比定地は 不 明 で、 あ る い は 四 日 市 付 近 か と も い う。 本 歌 の 原 歌 で あ る『 万 葉 集 』 の「 吾 乃 松 原 」 が 原 拠 で、 そ れ を「 わ か ( が ) の ま つ ば ら 」 と 訓 じ た こ と に よ る。 そ の 題 詞 は、 前 歌 の「 十 二 年 庚 辰 冬 十 月、 依 二 宰 少 弐 藤 原 朝 臣 広 嗣 謀 反 発 一レ 軍、 幸 二 伊 勢 国 一 時、 河 口 行 宮、 内 舎 人 大 伴 宿 祢 家 持 作 歌 一 首 」 を 承 け た「 天 皇 御 製 歌 一 首 」 で、 『 新 古

(16)

『中書王御詠』注釈稿(一) 三一 今』の詞書は「天平十二年十月、伊勢国にみゆきしたまひける時」である。万葉の左注には「右一首今案、吾松原 在 二三重郡、相去河口行宮遠矣。若疑御在朝明行宮之時所製御歌、伝者誤之歟」とある。 〔補説〕   合点あり。 前大僧正隆弁 勧 すゝ め侍 り ・ し住吉社歌合に、鶯 9   この 道 みち と 思 おも ひなしてや 鶯 うくひす の 花 はな に 鳴 な く 音 ね を神も 聞 き くらん 〔通釈〕   前大僧正 弁が勧進しました住吉社歌合で、鶯 た だ こ の 道 筋 し か な い と あ え て 思 い 込 ん で、 鶯 が 花 に 鳴 く 声 を、 神 も 聞 い て い る の だ ろ う か。 ( 和 歌 の 道 し か な いと思い決めて私が泣くように詠じる和歌を、住吉の神も聞くであろうか) 。 〔参考〕   花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずし て天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ…(古今集・仮名序・貫之) 鶯の花に鳴く音を聞きし間にいとほしきこと知らずぞありける(貫之集・九一三) あはれとや神も聞くらん時鳥榊の枝にゆふかけて鳴く(月詣集・四月・重保家にて人人、社頭郭公といふこ とをよみ侍りけるに・三二四・源宗光女) 〔語釈〕   ○前大僧正 弁―承元二年(一二〇八)生、弘安六年(一二八三)八月十五日没、七十六歳。父は藤原氏北 家末茂流正二位権大納言隆季の嫡男正二位権大納言隆房、母は正二位権中納言葉室光雅女で、真観藤原光俊とは従 兄弟同士。園城寺の長吏に二度任じ、鎌倉に在っては鶴岡若宮社別当を務める。大僧正、大阿闍梨位に昇り、法験

(17)

三二 を以て世に聞こえたらしい。勅撰集に二五首首入集の歌人でもあった。宗尊の歌道師範である従兄真観と共に、護 持 僧 と し て 将 軍 宗 尊 を 支 え た。 ○ 住 吉 社 歌 合 ― 未 詳。 『 新 三 井 和 歌 集 』 に 収 め る「 前 大 僧 正 隆 弁 新 住 吉 社 歌 合 に 同 じ( 里 郭 公 ) 心 を / 権 少 僧 都 聖 弁 / 鳴 く 声 は と を ち の 里 の 時 鳥 ほ の か に の み や 人 の 聞 く ら ん 」( 夏・ 一 一 四 ) は、 あるいは同機会か。○この道―詞書の「住吉社歌合」の縁で、和歌の道のこと。宗尊はかつて「この道を守ると聞 け ば 木 綿 鬘 か け て ぞ 頼 む 住 吉 の 松 」( 瓊 玉 集・ 雑 上・ 同 じ〔 神 祇 〕 心 を・ 四 一 三 ) と 詠 ん で い る。 ○ 思 ひ な し て や ―『後拾遺集』の「なき数に思ひなしてや問はざらんまだ有明の月待つものを」 (雑三 ・ 一〇〇四・伊勢大輔)が勅 撰集の初例。本集の直前に成った『続古今集』には、御家人北条時広の「惜しめどもただ大方のいつはりに思ひな してや花の散るらん」 (雑上・一五三五)が見える。 〕  「 鶯 」 の「 鳴 く 音 」 を「 神 」 が「 聞 く 」 こ と も、 和 歌 の 通 念・ 類 型 に は な い。 け れ ど も、 和 歌 の 神 で も あ る 「住吉社」の歌合であるので、通釈の括弧内の解釈のように、宗尊が自らの詠作を「鶯の鳴く音」 (あるいは「泣く 音」との掛詞か)によそえて詠じたと見ておく。宗尊の意識には『古今集』の仮名序の一節がよぎっていたか。 山鴬 10   信 しの 夫 ふ 山 やま 霞 かすみ の ☆ 奥 おく の * 鶯 うくひす も人に 知 し られぬつまや 恋 こ ふらん 〔本文〕   ○霞の―底本「かすみ も の 」(書陵部本も同じ)を、他出の本文を参照し、傍記の「の」に従って改める。 〔通釈〕   山の鶯 忍ぶという信夫山にかかる霞の奥にいる鶯も、人に知られていない愛しい人を恋い慕って(鳴いて)いるのだろ

(18)

『中書王御詠』注釈稿(一) 三三 うか。 〔本歌〕   三輪山をしかも隠すか春霞人に知られぬ花や咲くらむ(古今集・春下・九四・貫之) 〕  秋 来 れ ば 信 夫 の 山 に 鳴 く 鹿 も 人 に 知 ら れ ぬ つ ま や 問 ふ ら む( 万 代 集・ 秋 下・ 一 〇 九 四・ 政 村。 夫 木 抄・ 秋 三・鹿・同〔家集〕 万代 ・四七二一) 〔他出〕   夫木抄・春二・鶯・御集、鶯・四一九、 二句「霞の奥の」五句「音をや鳴くらん」 。 〔語釈〕   ○信夫山―陸奥国の歌枕。信夫郡(現福島市)北方にある山。 「霞の奥」 「人に知られぬ」 「つまや恋ふらん」 か ら、 「 忍 ぶ 」 が 掛 か る。 ○ 霞 の 奥 ― 鎌 倉 時 代 以 降 に 盛 行 す る 語 句。 式 子 の「 暮 れ て 行 く 春 の 名 残 を な が む れ ば 霞 の 奥 に 有 明 の 月 」( 式 子 内 親 王 集・ 〔 又 百 首 〕・ 春・ 一 一 八 ) や 良 経 の「 尋 ね て ぞ 花 と 知 り ぬ る 初 瀬 山 霞 の 奥 に 見 え し 白 雲 」( 秋 篠 月 清 集・ 花 月 百 首・ 花・ 三 ) 等 が 早 い か。 関 東 下 向 の 経 験 の あ る 雅 経 に は「 東 よ り 立 ち 来 る 春 や こ れ な ら ん 霞 の 奥 の 曙 の 空 」( 明 日 香 井 集・ 鳥 羽 百 首 建 久 九 年 五 月 廿 日 始 之 毎 日 十 首 披 講 ・ 立 春・ 三 ) が あ る。 本 集 成 立 の 直 前 の『 白 河 殿 七 百 首 』 に も「 薄 墨 に よ み も と か れ ぬ 玉 章 は 霞 の 奥 に 帰 る 雁 が ね 」( 春・ 帰 雁 似 字・ 五 二・ 雅 言 ) が ある。新古今歌人詠出の新鮮な歌詞を、宗尊が摂取した一例と見てよいであろう。○つま―配偶。ここは夫とも妻 とも解される。 〔補説〕   「信夫山」の「霞の奥の鶯」が「つまや恋ふらん」とする一首の趣向は、新奇である。宗尊は、 「弘長二年冬 弘 長 百 首 題 百 首 」 の「 鶯 」 題 で「 今 も な ほ つ ま や こ も れ る 春 日 野 の 若 草 山 に 鶯 の 鳴 く 」( 瓊 玉 集・ 春 上・ 六 ) と 詠 ん で い る。 言 う ま で も な く、 「 春 日 野 は け ふ は な 焼 き そ 若 草 の つ ま も こ も れ り 我 も こ も れ り 」( 古 今 集・ 春 上・ 一七・読人不知)を本歌にしている。これも、 「若草山」と「鶯」の組み合わせが珍しい。また、 「鶯」が春に「つ ま 」 を 呼 び 鳴 く と い う 意 識 は、 例 え ば「 春 さ れ ば 妻 を 求 む と 鶯 の 梢 を 伝 ひ 鳴 き つ つ も と な 」( 万 葉 集・ 巻 十・ 春 雑

(19)

三四 歌・ 一 八 二 六・ 作 者 未 詳 ) や「 春 な れ ば つ ま や 求 む る 鶯 の 梢 を つ た ひ 鳴 き つ つ は ふ る 」( 赤 人 集・ 一 三 〇。 古 今 六 帖・ 第 六・ う ぐ ひ す・ 四 四 〇 七・ 作 者 不 記、 二 句「 つ ま を 求 む る 」 結 句「 鳴 き 渡 る か な 」。 袋 草 紙・ 七 三 八、 二 句 「妻を求むと」下句「声をこづたひ鳴きつつもがな」 )にも窺われるが、その「つま」が「草」中に隠るという実態 も な い し、 和 歌 上 の 通 念 も な い。 宗 尊 の「 今 も な ほ 」 の 歌 の「 つ ま や こ も れ る 」 は、 「 つ ま 」 は い ま だ「 山 」 に 籠 もっているのか、という趣意なのであろう。本歌の「若草」の連想から「若草山」としたのではないか。その本歌 の「春日野は」の一首は、 『伊勢物語』 (十二段)に初句「武蔵野は」の異伝が見える。治承二年(一一七八)三月 の『別雷社歌合』の「霞をや煙とみらむ武蔵野のつまもこもれるきぎす鳴くなり」 、「武蔵野に朝なくきぎす声すな り 霞 の 中 に つ ま や こ も れ る 」( 霞・ 二 四・ 頼 政、 五 六・ 安 性 ) 等 を 初 め と し て、 院 政 期 以 降、 同 歌 の 本 歌 取 り 詠 が 散見する。その中で、宗尊の「今もなほ」の歌に類似する「今もまだ妻やこもれる武蔵野の霞の内にきぎす鳴くな り 」( 正 治 後 度 百 首・ 霞・ 三 〇 三・ 具 親 ) は、 宗 尊 へ の 影 響 を 見 る こ と が 可 能 か も し れ な い。 宗 尊 自 身 の「 今 も な ほ 」 と「 信 夫 山 」 の 歌 と の 先 後 は 不 明 だ が、 両 者 の 特 異 な 発 想 に は 共 通 性 が あ る と 言 っ て よ い で あ ろ う。 一 方 で、 参考に挙げた鎌倉幕府の要路北条政村の一首とは、秋の鹿と春の鶯の異なりはあるがほぼ同工で、所収歌集『万代 集 』 を 宗 尊 が 目 に し て い た 可 能 性 が『 瓊 玉 集 』 の 歌 に も 窺 わ れ る の で、 宗 尊 が こ れ に 倣 っ た と 見 て も よ い で あ ろ う。 春雪 11   降 ふ るほどは 冬 ふゆ にかはれる 色 いろ もなし 積 つ もり 果 は てぬや春の 淡 あは 雪 ゆき

(20)

『中書王御詠』注釈稿(一) 三五 〔通釈〕   春の雪 降っている間は冬と変わった色合いもないよ。それなのに、積もり切らないのか、春の淡雪は。 〔参考〕   降るほどぞ消えずはありとも桜花庭に色なき春の淡雪(壬二集・春・春の歌よみ侍りける時・二〇一八) 〔類歌〕   庭の面は積もりもやらずかつ消えて空にのみ降る春の淡雪(続拾遺集・春上・一一・師継) 降ればかつ露とそそきて積もらぬは草の若葉の春の淡雪(嘉元百首・春・春雪・九〇一・為世) 降るほどはさすが積もりて空にだにをやむと見れば消ゆる淡雪(臨永集・春・春雪を・一七・権僧正慈慶) 梢 に は 積 も ら ぬ 春 の 淡 雪 も 降 る ほ ど ば か り 花 と 見 え つ つ( 草 庵 集・ 春 上・ 弾 正 尹 親 王 家 五 首 に、 春 雪・ 二九) 〔影響〕   昨日まで見し冬枯れの色もなし焼け野にもゆる春の若草(雅有集・百首和歌・春・若草・六四六) 冬草の残るばかりの色もなしなべてふりぬる野辺の白雪(嘉元百首・冬・雪・二二五七・覚助) 〔出典〕   文永二年潤四月三百六十首歌。→2。 〔他出〕   柳葉集・巻五・文永二年潤四月三百六十首歌・春・六三八。 〔語釈〕   ○積もり果てぬや―新奇な句。 「ぬ」は否定の助動詞。完了の助動詞「ぬ」を用いた類句「積もり果てぬる」 は、 先 行 例 と し て、 家 隆 の「 高 砂 の 尾 上 の 鹿 の 鳴 か ぬ 日 も 積 も り 果 て ぬ る 松 の 白 雪 」( 道 助 法 親 王 家 五 十 首・ 冬・ 松 雪・ 七 七 七。 続 歌 仙 落 書・ 三 八 他 ) や 土 御 門 院 の「 年 ふ れ ど 跡 な き 人 の 契 り ゆ ゑ 積 も り 果 て ぬ る 庭 の 白 雪 」( 土 御門院御集・恋二十五首・寄雪・四二〇)がある。これらは宗尊の目にするところであったろうから、刺激された 可能性もあろう。 〔補説〕   影響に挙げた両首の作者は、関東祗候の廷臣で宗尊詠からの影響が他にも認められる飛鳥井雅有と、後嵯峨

(21)

三六 院の皇子で宗尊の弟に当たる覚助である。類歌に挙げた歌も含めて、積もらずに消える「春の淡雪」の降雪の情景 を言う歌として該歌は早い例であろう。 合点あり。 若菜 12   今 いま は身の 憂 う きことをのみつみためて 春 はる の 若 わか 菜 な の時も 知 し られず 〔通釈〕   若菜 今はこの身が若菜ではなく辛いことばかりを積み貯めていて、摘み貯めるはずの春の若菜の時節であると知るこ ともできないよ。 〔本歌〕   摘みたむることの難きは鶯の声する野辺の若菜なりけり(拾遺集・春・二六・読人不知) 〕  若 菜 生 ふ る 春 の 野 守 に 我 な り て 憂 き 世 を 人 に つ み 知 ら せ ば や( 山 家 集・ 春・ 寄 若 菜 述 懐 と 云 ふ 事 を・ 二 三。 宮河歌合・六) 〕  春 の 野 の 若 菜 も な に も 知 ら ぬ 身 は た だ 憂 き 事 の 数 を こ そ つ め( 竹 風 抄・ 巻 四・ 文 永 六 年 五 月 百 首 歌・ 春・ 六九六) 〕  な べ て 世 は た だ す さ ま じ き 心 ち し て 春 に な る ら ん 時 も 知 ら れ ず( 伏 見 院 御 集・ 正 月 三 日 正 安 四 年・ 二一六七) 〔出典〕   文永三年十月五百首歌。→1。

(22)

『中書王御詠』注釈稿(一) 三七 〔他出〕   竹風抄・巻一・文永三年十月五百首歌・若菜・四、初句「今は身に」 。 〔語釈〕   ○若菜―『古今六帖』 (第一・歳時・春)の「わかな」 。○今は身の―真観の「今は身になにを愁ふとなけれ ど も 涙 ぞ 落 つ る 秋 の 夕 暮 」( 万 代 集・ 秋 上・ 九 五 一 ) に 学 ぶ か。 為 家 に も「 今 は 身 の い ふ か ひ も な き 言 の 葉 を 思 ひ 知 ら で や 世 に 散 ら す べ き 」( 中 院 集・ 八 日、 太 閤 法 華 山 寺 三 首・ 述 懐・ 二 〇 二 ) が あ る が、 該 歌 と の 先 後 は 不 明 で あ る。 宗 尊 は、 該 歌 と 同 じ「 文 永 三 年 十 月 五 百 首 歌 」( → 1) で「 今 は 身 の よ そ に 聞 く こ そ あ は れ な れ 昔 は 主 鎌 倉 の 里 」( 竹 風 抄 抄・ 里・ 一 〇 六 ) や「 今 は 身 の よ に す す け た る 蘆 簾 か か り け る 身 の は て ぞ 悲 し き 」( 竹 風 抄・ 簾・ 一 一 三 ) と 詠 み、 あ る い は 他 に も「 い つ ま で か よ そ に 別 る と 慕 ひ け ん 今 は 身 に 添 ふ 秋 の 心 を 」( 竹 風 抄・ 巻 二・ 文 永五年十月三百首歌・暮秋・三九四)と詠んでいる。過去を述懐する「今」の我が「身」を強く意識する表れであ ろう。○つみ―「積み」に「若菜」の縁で「摘み」が掛かる。あるいは、参考の西行詠が「摘み」と「罪」の掛詞 であるように、ここも「罪」が響くか。○時も知られず―古くは「常夏の花をし見ればうちはへて過ぐす月日の時 も 知 ら れ ず 」( 新 撰 和 歌・ 夏 冬・ 一 五 七 ) の 例 が あ る が、 こ れ は、 時 を 忘 れ て し ま う、 と い う ほ ど の 趣 意 で、 該 歌 の 場 合 と 異 な る。 伏 見 院 の「 春 雨 は 降 り 潤 せ ど ま だ 寒 き 草 の 垣 根 は 時 も 知 ら れ ず 」( 伏 見 院 御 集・ 春 雨・ 五 三 二 ) や「 な べ て 世 は た だ す さ ま じ き 心 ち し て 春 に な る ら ん 時 も 知 ら れ ず 」( 同・ 正 月 三 日 正 安 四 年・ 二 一 六 七 ) の「 時 も知られず」は、その時節であると認識できない、の意で、該歌に同様である。伏見院が宗尊詠に学んでいた可能 性を見ておく必要はあろう。 〔補説〕   「若菜」の題については落題とも言えるが、 『正徹物語』が「宗尊親王は四季の歌にも、良もすれば述懐を詠 み 給 ひ し を 難 に 申 し け る 也。 物 哀 れ の 体 は 歌 人 の 必 定 す る 所 也。 此 の 体 は 好 み て 詠 ま ば、 さ こ そ あ ら ん ず れ ど も、 生得の口つきにてある也」と言うように、季節の歌に述懐を詠じる傾きがある宗尊親王らしい詠作であるとも言え

(23)

三八 る。 加 え て、 『 瓊 玉 集 』 巻 一 の 二 三 の 梅 香 に 寄 せ る 物 思 い や、 三 二 〜 三 五 の 春 曙 に 寄 せ る 悲 愁、 あ る い は 五 七 と 五八の花に寄せる憂き身の述懐詠などに窺われる、京都から自らの意志とは無縁に将軍として東下せざるを得なか った宗尊の心情と呼応するように、再び不本意にも将軍を廃されて帰洛させられた宗尊の情念を窺うことができよ うか。 な お、 参 考 の 西 行 詠 は、 貫 之 の「 若 菜 生 ふ る 野 辺 と い ふ 野 辺 を 君 が た め 万 代 し め て つ ま む と ぞ 思 ふ 」( 貫 之 集・ 延 長 四 年 九 月 法 皇 の 御 六 十 賀、 京 極 の 御 息 所 の つ か う ま つ り 給 ふ 時 の 御 屏 風 の 歌 十 一 首・ 若 菜・ 一 八 九。 古 今 六 帖・第四・わかな・二三〇二。新古今集・賀・七一一)や、これに負ったと思しい顕季の「若菜生ふる野をやしめ ま し 今 年 よ り 千 年 の 春 を つ ま む と 思 へ ば 」( 堀 河 百 首・ 春・ 若 菜・ 六 九。 六 条 修 理 大 夫 集・ 一 八 五 ) を 意 識 し た よ うにも思われる。しかし歌境は対照的で、西行歌は春の若菜の本意からははずれ、定家が「末の句やなべての歌に は 猶 如 何 に ぞ 聞 こ ゆ べ か ら ん 」( 宮 河 歌 合 判 詞 ) と 批 判 す る よ う に、 仏 教 臭 を 漂 わ せ て 特 殊 で あ る。 同 時 に、 春 に も拘わらず「憂き世」であることを言う点、中世和歌の始発に位置付けられるのである。その意味で、該歌は西行 詠の延長上にある。 合点あり。 五十首の歌合に、春歌 13   問 と へかしな 夜 よ 深 ふか き 床 とこ の 梅 むめ が 香 ゝ に 忍 しの びかねたる 春 はる の 寝 ね 覚 さ めを 〔通釈〕   五十首の歌合で、春の歌

(24)

『中書王御詠』注釈稿(一) 三九 問い尋ねてくれよな。夜深い床に通う梅の香りに、堪え忍びかねている春の寝覚めを。 〔本歌〕   問へかしな片敷く藤の衣手に涙のかかる秋の寝覚めを(新古今集・哀傷・八四六・通俊) 〕  真 木 の 戸 を あ け て 夜 深 き 梅 が 香 に 春 の 寝 覚 め を 問 ふ 人 も が な( 閑 窓 撰 歌 合 建 長 三 年 閏 九 月 尽 ・ 一・ 藻 壁 門 院 少 将。続拾遺集・春上・四八) 〕  梅 が 香 に 寝 覚 め 夜 深 く あ く が れ て 月 さ へ 惜 し き 春 の 曙( 為 理 集・ 六 月 十 日、 同〔 左 宰 相 中 将 〕 家 会 当 座 ・ 暁 梅・三八一) 〔語釈〕   ○五十首の歌合―未詳。他に、 22、 83、 160、 165、 179が同機会詠か。 『瓊玉集』 (秋下・二四六)の「五十首御 歌合」も同じか。 〕  『 伊 勢 物 語 』 四 段 を 本 説 に す る 俊 成 の「 梅 が 香 も 身 に し む 頃 は 昔 に て 人 こ そ あ ら ね 春 の 夜 の 月 」( 新 勅 撰 集・ 春 上・ 四 三・ 俊 成。 御 室 五 十 首・ 春・ 二 五 五。 御 室 撰 歌 合・ 六、 四 句「 人 こ そ 訪 は ね 」) は、 男 女 が 別 れ 別 れ に な っ た 後 の 男 か 女 の 立 場、 第 四 句「 人 こ そ 訪 は ね 」 の 場 合 は 女 の 立 場 で の 心 情 の 詠 出 で あ ろ う。 宗 尊 は、 「 文 永 元 年 六月十七日庚申宗尊親王百番自歌合」 (仮称)で「この春も人こそ訪はね宿の梅誰が情けをか花に見せまし」 (瓊玉 集・春上・二五)と詠んでいて、 「あらね」 「訪はね」の異同あるこの俊成の歌をよく知っていたと思しい。とする と、該歌の「問へかしな」 (あるいは「訪へかしな」 )は、俊成の「人こそ訪はね」を意識した表現で、宗尊自身も その背後に『伊勢物語』四段の世界を想起していたのではないか。→ 14補説。 『 後 拾 遺 集 』 初 出 歌 人 通 俊 の 歌 を 本 歌 と 見 る こ と に つ い て は、 『 瓊 玉 和 歌 集 注 釈 稿( 三 )』 ( 本 紀 要 四 七、 平 二二 ・ 三) 126、 128補説参照。 合点あり。

(25)

四〇 夜梅 14   月 影 かけ も 霞 かす める 頃 ころ の 梅 むめ が 香 ゝ にひとり 昔 むかし の 春 はる を 恋 こ ひつ つ ゝ 〔通釈〕   夜の梅 月光も霞んでいる時節の梅の香りに、ただ独り、あの昔の春を恋い慕い続けていて。 〔本説 本歌〕   ま た の 年 の 正 月 に、 梅 の 花 盛 り に、 去 年 を 恋 ひ て 行 き て、 立 ち て 見、 ゐ て 見、 見 れ ど、 去 年 に 似 る べ く も あらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまで臥せりて、去年を思ひ出でてよめる、 月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身は一つはもとの身にして(伊勢物語・四段) 〕  梅 が 香 も 身 に し む 頃 は 昔 に て 人 こ そ あ ら ね 春 の 夜 の 月( 新 勅 撰 集・ 春 上・ 四 三・ 俊 成。 御 室 五 十 首・ 春・ 二五五。御室撰歌合・六、 四句「人こそ訪はね」 ) この頃はまがきの梅に風さえて春や昔の月ぞ傾く(紫禁集・建暦元年三月五十首・籬梅・五) い か に せ ん ひ と り 昔 を 恋 ひ か ね て 老 い の 枕 に 年 の 暮 れ ぬ る( 続 後 撰 集・ 冬・ 五 二 九・ 慈 円。 万 代 集・ 冬・ 一五二八。拾玉集・詠百首倭歌 今以廿五首題各寄四季之心 〔四季題百首〕 ・述懐・二二八九) 〕  参 考 の 俊 成 詠 に つ い て、 『 御 室 撰 歌 合 』 の 俊 成 自 判 は「 右 歌 は 愚 老 が 詠 に て 侍 り け り。 月 や あ ら ぬ 春 や 昔 の 春ならぬ、の在中将朝臣のふることを、わづかに拾ひ集めたるばかりにて、我が力入りたる節もなく侍れば」と言 う。 13補説にも記したように宗尊は、俊成のこの歌をよく知っていたと思しい。 合点あり。

(26)

『中書王御詠』注釈稿(一) 四一 梅 15   色 いろ も 香 か も 知 し る人の 見 み る 花 はな な ゝ らばよそにや 聞 き かむ 春 はる の 梅 むめ が 枝 え 〔通釈〕   梅 ( あ の 古 歌 の よ う に ) そ の 色 艶 も 芳 香 も 分 か る 人 が 見 る 梅 の 花 で も し 今 で も あ る の な ら ば、 自 分 と は 無 縁 な も の と聞こうか、いや聞くはずもないよ、春の梅の枝を。 〔本歌〕   君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る(古今集・春上・三八・友則) 〔参考〕   今宵さへよそにや聞かむ我がための天の河原は渡る瀬もなし(続後撰集・恋四・七月七日、女御徽子女王に つかはしける・九一六・村上天皇。新時代不同歌合・七三) 降る雪にいづれを花とわぎもこが折る袖にほふ春の梅が枝(続後撰集・春上・二七・順徳院。内裏百番歌合 建保四年・春・一。紫禁集・七二三) 〔出典〕   文永二年潤四月三百六十首歌。→2。 〔他出〕   柳葉集・巻五・文永二年潤四月三百六十首歌・春・六四三。 〔語釈〕   ○よそにや聞かむ―自分と無関係なものとして聞こうか、いやそうではない。反語表現。参考の村上天皇歌 に学ぶか。○春の梅が枝―古くからある句形ではない。参考の順徳院詠に倣うか。 〔補説〕   宗尊は該歌より後「文永六年四月廿八日、柿本影前にて講じ侍りし百首歌」 (春)で、 「色も香もいかが咲き け む 梅 の 花 知 る 人 あ り し い に し へ の 春 」( 竹 風 抄・ 六 〇 二 ) と い う、 同 じ 歌 を 本 歌 に し つ つ、 よ り 述 懐 性 の 濃 厚 な 歌をものしている。

(27)

四二 (梅) 16   梅 むめ の 花 はな 今 いま も 盛 さか りと 津 つ の 国 くに の 難 なに 波 は の 里 さと に 匂 にほ ふ 春 はる 風 かせ 〔通釈〕 (梅) 梅の花は今も盛りとばかり、摂津国の難波の里に匂わせて吹く春風よ。 〔本歌〕   難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花(古今集・仮名序・王仁) 〔参考〕   難波津に咲くや昔の梅の花今も春なる浦風ぞ吹く(新勅撰集・春上・四一・良経。秋篠月清集・南海漁父百 首・春・五〇三) 〔影響〕   津の国の難波の里の梅の花今は春べとさぞ匂ふらむ(政範集・春五十首続歌し侍りし時・里梅・一〇一) 匂へなほ難波の里の春風に今を盛りと咲くやこの花(難波捨草・雑四季・六一三・橘忠能) 〔出典〕   文永二年潤四月三百六十首歌。→2。 〔他出〕   柳葉集・巻五・文永二年潤四月三百六十首歌・春・六四一。 〔語釈〕   ○津の国―摂津国。現大阪府の北西部と兵庫県の南東部。○難波の里―鎌倉時代から見え始める、比較的新 しい所名。摂津国の歌枕「難波」は、淀川河口周辺を言う。その付近の里ということなのであろう。勅撰集の初出 は『 続 古 今 集 』 の「 津 の 国 の 難 波 の 里 の 夕 涼 み 蘆 の し の び に 秋 風 ぞ 吹 く 」( 夏・ 二 七 九・ 信 実 ) で、 こ れ は『 弘 長 百首』 (夏・納涼・二一〇)の一首である。 〔補説〕   本歌の「この花」は、法隆寺五重塔落書や木簡の表記から「木の花」に解されるという。しかし、仮名序中 の歌としては、 「此の花」に解されるともいう。仮名序(古注)には「この花は、梅の花を言ふなるべし」とあり、

(28)

『中書王御詠』注釈稿(一) 四三 中 世 古 今 注( 序 聞 書 三 流 抄、 六 巻 抄、 蓮 心 院 殿 説 等 ) も「 梅 」 と す る。 参 考 の 良 経 詠 は「 梅 」 に 取 り な し て い て、 該歌もそれに沿った詠みぶりである。 影響に挙げた両首(特に後者)は、なお検証の要があろう。 春雨 17   雨 あめ そ そ ゝ く 夕 ゆふ べの 空 そら の 薄 うす 霞 かすみ ものあはれなる 春 はる の 色 いろ かな 先年、融覚、 霞 かすみ 、と詠 じ ・ 候 ふ ・ 。亡父、 厚 あつ 霞 かすみ 、面白 し ・ 、と被 レ難候 ひ ・ き。下句不 二庶幾候。 〔通釈〕   春雨 春雨が降り注ぐ夕方の空をおおう薄霞よ。何となくしみじみとした春の色であることだな。 先 年 に、 私 融 覚( 為 家 ) が、 ( 薄 い )「 霞 」 と 詠 ん で お り ま す。 亡 父( 定 家 ) は、 「 厚 霞 」 こ そ が 趣 が あ る のだ、と批難されました。だから、下句は請い願われるものではないのです。 〕  な に と な く も の あ は れ に も 見 ゆ る か な 霞 や 旅 の 心 な る ら ん( 長 秋 詠 裳・ 故 女 院 美 福 門 白 河 押 小 路 殿 に て 彼 岸 の御念仏ありし七日のほど、人人毎日会せんとて歌よみし中に、羈中霞といふ心を・二〇五) な に と な く も の あ は れ な る 如 月 に 雨 そ ほ 降 れ る 夕 暮 の 空( 正 治 初 度 百 首・ 春・ 九・ 後 鳥 羽 院。 後 鳥 羽 院 御 集・正治二年八月御百首・春・八、 三句「如月の」 ) 天 の 原 富 士 の 煙 の 春 の 色 の 霞 に な び く 曙 の 空( 新 古 今 集・ 春 上・ 三 三・ 慈 円。 正 治 後 度 百 首・ 霞・ 一〇〇一。拾玉集・詠百首和歌・霞・三六七四)

(29)

四四 〔出典〕   文永三年八月百五十首歌。→7。 〔他出〕   竹風抄・巻三・文永三年八月百五十首歌・春雨・五一一。 〕  ○ 春 の 色 ― 漢 語「 春 色 」 の 訓 読 が 基 と い う。 本 朝 で も「 年 内 皆 四 時 輪 転( ね ん な い み な し じ り ん て ん )  遊 客 併 固 忘 花 見( い う き や く あ は せ か た め は な を み る こ と を わ す る )  谷 風 心 任 引 両 足( た に か ぜ こ こ ろ に ま か せ て り や う あ し を ひ く )  春 色 深 草 木 鮮 緑( し ゆ ん し よ く ふ か く さ う も く あ ざ や か な み ど り な り )」 ( 新 撰 万 葉 集・ 二 五 四 ) や「 誰 言 春 色 従 東 到( た れ か い つ し は る の い ろ ひ ん が し よ り い た る と は )  露 暖 南 枝 花 始 開( つ ゆ あ た た かにしてなんしはじめてひらく) 」(和漢朗詠集・春・梅・九二・菅原文時)と漢詩に用いられている。春季を表徴 する色調や情調を言う。平安初期で詠作時期が明確なのは貫之の「春の色はまだ浅けれどかねてより緑深くも染め て け る か な 」( 貫 之 集・ 延 喜 十 九 年 東 宮 の 御 屏 風 の 歌、 う ち よ り 召 し し 十 六 首・ 子 日 の 松 の も と に 人 人 至 り 遊 ぶ・ 一二七)だが、何と言っても『古今集』の「春の色の到り到らぬ里はあらじ咲ける咲かざる花の見ゆらむ」 (春下 ・ 九三・読人不知)の存在が大きく、これによって歌語として認知されたのであろう。それでも平安期を通じて作例 はさほど多くなく、新古今歌人が多用するようになるのである。それ以降は、例えば「春の色をいく万代かみなせ 河霞の洞の苔の緑に」 (建保名所百首・春・水無瀬河・一九五・定家)という定家の歌など、 「緑」を「春の色」と 見る歌が少なくない。それは、実際の景趣の実感によるばかりではなく、五行説に基づく春の当色が青であるとい う認識に従った結果でもあろう( 「緑」は「青」に包摂される) 。 〕  「 雨 」 が 降 っ た 後 に「 薄 霞 」 が か か っ た 景 色 で は な く、 降 り 注 ぐ 春 雨 が 景 色 を 薄 く 霞 ま せ て い る 様 子 を 詠 じ たと見てよいか。 為 家 の 評 詞 に 言 う、 為 家 の「 霞 」 の 歌 と そ れ に 対 す る 定 家 の 批 判 が、 何 を 指 し て い る か、 現 時 点 で は 不 明 で あ

(30)

『中書王御詠』注釈稿(一) 四五 る。なお追尋したいと思う。 (春雨) 18   故 ふる 郷 さと の 柳 やなき の 庭 には は ゝ 寂しくて 春 はる 雨 さめ つらき夕 暮 くれ の 空 そら 〔通釈〕 (春雨) 故郷(鎌倉)の柳の庭(柳営の庭)は寂しくて、降る春雨が冷たく堪えがたい夕暮の空よ。 〔参考〕   故郷の御垣の柳はるばると誰が染めかけし浅緑ぞも(詞花集・春・故郷柳をよめる・一六・源道済。新撰朗 詠集・春・柳・一〇一。道済集・山家早春五首・柳・二八九。玄玄集・一一七) 城 柳 宮 槐 漫 揺 落( せ い り う き う く わ い み だ り が は し く え う ら く す れ ど も )  秋 悲 不 到 貴 人 心( あ き の か な し びはくゐじんのこころにいたらず) (和漢朗詠集・秋・落葉・三〇九・白居易) 柴の戸は柳霞に閉ぢられていとど寂しき春の曙(壬二集・九条前内大臣家百首・春・山家柳・一五五二) 〔類歌〕   見るままに山辺霞みて春雨のふる里寂し夕暮の空(延文百首・春・春雨・四一〇・顕実母) 〔他出〕   夫木抄・春三・柳・御集、春雨・八六二。 〕  ○ 故 郷 ― 在 鎌 倉 時 な ら ば 京 都 を、 帰 洛 後 な ら ば 鎌 倉 を 指 す こ と に な ろ う。 「 柳 の 庭 」 が 柳 営 即 ち 幕 府 を 暗 喩 しているとすれば後者で、京都から思いやって、あたかもまた鎌倉に戻ったような風情で言ったか。○柳の庭―歌 語としては他に例を見ないような珍しい表現。将軍の府である鎌倉を柳営として、将軍宗尊自身の御所の庭を寓意 したか。○春雨つらき夕暮の空―「春雨つらき」から「つらき夕暮の空」に鎖る。 「夕暮の空」には、 「いたづらに

(31)

四六 過 ぎ に し こ と や 歎 か れ ん う け が た き 身 の 夕 暮 の 空 」( 新 古 今 集・ 雑 下・ 一 七 五 五・ 慈 円 ) が 意 識 さ れ て い る か も し れない。 〕  参 考 に 挙 げ た 家 隆 の「 柴 の 戸 は 」 詠 は、 「 柳 」 と 春 の 寂 寥 を 結 び 付 け て い る 点 で 該 歌 と 繫 が る。 そ の 家 隆 詠 は、 中 世 初 頭 の 春 の 憂 鬱 を 詠 じ る 記 念 碑 的 作 品 と 言 え る、 定 家 の「 霞 か は 花 鶯 に 閉 ぢ ら れ て 春 に こ も れ る 宿 の 曙 」 ( 六 百 番 歌 合・ 春・ 春 曙・ 一 一 五。 拾 遺 愚 草・ 八 一 〇。 玉 葉 集・ 春 下・ 一 九 五 ) の 影 響 下 に あ る こ と は 疑 い な い。 そ の 定 家 詠 に は、 白 居 易 の「 上 陽 白 髪 人 」、 即 ち「 上 陽 人 … 一 閇 上 陽 多 少 春 … 一 生 遂 向 空 房 宿 … 宮 鶯 百 囀 愁 厭 聞 」 の面影があろう。本文とみることもできる。また、これを題として早く高遠が「そこばくの年積む春に閉ぢられて 花 見 る 人 に な り ぬ べ き か な 」( 大 弐 高 遠 集・ 二 六 五 ) と 詠 ん で い る。 定 家 自 身 の 念 頭 に は こ れ も あ っ た か も し れ な い。とすると該歌は、新古今歌人達が詠出し始めた、長恨歌等の典故を機縁としながらそこからも離れた、春の寂 寥や憂鬱を詠じる歌の系譜上に位置付けられる。そういった春の憂鬱を詠歎すること、さらには広く季節に述懐す ることは、宗尊自身の歌全体の特徴の一つでもあって、該歌はその中に入る。 宗 尊 は、 帰 洛 後 の「 文 永 五 年 十 月 三 百 首 歌 」 の「 春 雨 」 題 で、 「 鷺 の ゐ る 一 も と 柳 露 お ち て 河 辺 さ び し き 春 雨 の 空」 (竹風抄・巻二・文永五年十月三百首歌・春雨・三一六)という類詠をものしている。 「 柳 」 の「 庭 」 の「 春 雨 」 の「 夕 暮 」 を 詠 じ る 歌 と し て は、 伏 見 院 に「 濡 れ 重 る 柳 の 緑 糸 垂 れ て 春 雨 あ を き 庭 の 夕暮」 (伏見院御集・柳・八二七)がある。 合点あり。 百五十首の歌の中に、春野

(32)

『中書王御詠』注釈稿(一) 四七 19   あはれなり 幾 いく 代 よ の人の 跡 あと ならん 春 はる の 草 くさ のみ 茂 しけ き 野 の 辺 へ かな 〔通釈〕   百五十首の歌の中で、春の野 しみじみと哀れであることだな。いったい幾世代の人の(亡くなった)跡なのであろうか。春の草ばかりがみっ しりと生い茂る野辺であることだな。 〔本歌〕   あはれなり我が身のはてや浅緑つひには野辺の霞と思へば(新古今集・哀傷・七五八・小町) 〔参考〕   聞くたびにあはれとばかり言ひすてて幾代の人の夢を見つらん(続後撰集・雑下・一二一五・順徳院。順徳 院百首・雑・九八) 消 え は て し 幾 代 の 人 の 跡 な ら む 空 に た な び く 雲 も 霞 も( 秋 篠 月 清 集・ 無 常・ 世 の は か な き こ と を 思 ひ て・ 一五七三。続千載集・哀傷・二〇二六・良経) 〕  道 の 辺 や 幾 代 の 人 の 朽 ち ぬ ら ん 茂 り ぞ ま さ る 春 の 若 草( 佚 名 歌 集 ( 徳 川 美 術 館 ) ・ 雑・ 古 墓 何 世 人 と 云 ふ 事・ 一二) 〔出典〕   文永三年八月百五十首歌。→7。 〔他出〕   竹風抄・巻三・文永三年八月百五十首歌・春野・五三六。 〔語釈〕   ○百五十首の歌―→7。○幾代の人―『治承三十六人歌合』の「故郷の花に昔のこと問はむ幾代の人の心知 ら ま し 」( 故 ・ 四 〇・ 成 範。 万 代 集・ 春 下・ 二 五 九。 雲 葉 集・ 春 中・ 一 三 七。 別 本 和 漢 兼 作 集・ 一 三 〇。 続 古 今 集・春下・一二〇。新時代不同歌合・五二)や寿永百首の一つと考えられている『師光集』の「ふりにける志賀の 桜 の 春 ご と に 幾 代 の 人 の 心 見 る ら む 」( 故 郷 花・ 一 〇 ) 辺 り が 早 い 例 か と 見 ら れ る。 そ の 後、 良 経 は「 鳥 辺 山 幾 代

(33)

四八 の 人 の 煙 立 て 消 え 行 く 末 は ひ と つ 白 雲 」( 後 京 極 殿 御 自 歌 合・ 無 常 の 歌 よ み け る 中 に・ 一 八 八 ) と い う、 参 考 の 「 消 え は て し 」 歌 と 類 想 の 一 首 を 詠 じ て い る。 ま た、 『 千 五 百 番 歌 合 』 で は、 「 行 き 帰 り 花 こ そ あ だ に 思 ふ ら め 幾 代 の人か志賀の山越え」 (春三・三八八・通具)や「ふりにける三輪の檜原にこと問はむ幾代の人かかざし折りけん」 (雑一 ・ 二八四五・惟明)と用いられている。前者は師光詠に倣ったかとも思しく、後者は「いにしへに有りけむ人 も 我 が ご と や 三 輪 の 檜 原 に か ざ し 折 り け ん 」( 拾 遺 集・ 雑 上・ 詠 葉・ 四 九 一・ 人 麿 ) を 本 歌 に し つ つ 成 範 詠 の 影 響 下 に あ ろ う か。 定 家 は、 順 徳 天 皇 の「 内 裏 秋 十 首 」 で「 お の づ か ら 幾 代 の 人 の な が む ら ん 天 の 河 原 の 星 合 の 空 」 (拾遺愚草 ・ 秋 ・ 二三六五)と詠んでいる。勅撰集の初出は参考に挙げた『続後撰集』の順徳院詠( 「幾代」に「夢」 の 縁 で「 幾 夜 」 が 掛 か る か ) で あ る。 院 政 期 末 の 中 世 に 始 ま り 鎌 倉 時 代 に 少 し く 盛 行 し た 措 辞 と 見 て よ い で あ ろ う。このような措辞を取りこむところに宗尊の、時流への敏感さを窺うことができるであろう。○野辺―一首の内 容から、鳥辺野のような葬送の野辺を想定していよう。 〔補説〕   小町詠を本歌と見たが、あるいは同じく『新古今集』採録の「あはれなり昔の人を思ふには昨日の野辺にみ ゆ き せ ま し や 」( 雑 上・ 一 四 三 八・ 雅 信 ) を も 意 識 し た か も し れ な い。 類 歌 に 挙 げ た「 鎌 倉 初 頭 頃 の 一 歌 人 の 家 集 で あ る 可 能 性 が 高 い と 思 わ れ る 」( 『 新 編 国 歌 大 観 』 第 十 巻 ( 平 四・ 四。 角 川 書 店 ) 中 村 文 解 題 ) と い う『 佚 名 歌 集 ( 徳 川 美 術 館 ) 』 の 作 者 不 明 歌 と は、 主 旨 を 同 じ く し、 措 辞 も 似 通 う。 宗 尊 自 身 の 類 詠「 問 ひ 馴 れ し 人 も 間 遠 に な り は て て 草 の み 深 き 庭 の 面 か な 」( 竹 風 抄・ 巻 二・ 閑 居・ 四 六 二 ) は「 文 永 五 年 十 月 三 百 首 歌 」 の 一 首 な の で、 該 歌 よ り も 後出ということになるが、該歌を収める『竹風抄』の詞書(端作)に不審が残るので、断定はできない。→7。 想念は、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」 (奥の細道)と通底する。 合点を白滅。

(34)

『中書王御詠』注釈稿(一) 四九 春江 20   難 なに 波 は 江 え の 春 はる のけしきも 誰 たれ か見む心ある人はなき世なりけり 〔通釈〕   春の江 難 波 江 の 春 の 景 色 も、 い っ た い 誰 が 見 る だ ろ う か。 ( 古 人 が ) そ れ を 見 せ た い と 言 っ た、 心 あ る 人 は い な い 世 の 中なのであった 〔本歌〕   心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを(後拾遺集・春上・四三・能因) 〔参考〕   心なき我が身なれども津の国の難波の春に堪へずもあるかな(千載集・春・一〇六・季通) これやこの心ある人のながむべき難波わたりの春の曙(六百番歌合・春・春曙・一一三・兼宗) 春霞かすめる空の難波江に心ある人や心見ゆらん(拾遺愚草・春・江上霞、内裏歌合・二一四三) 〔出典〕   文永三年八月百五十首歌。→7。 〔他出〕   竹風抄・巻三・文永三年八月百五十首歌・春江・五五〇。 〕  「 心 あ る 人 」 と は 言 う ま で も な く、 和 歌 に 詠 じ ら れ る よ う な 景 趣 や 情 趣 を 理 解 す る 心 を 持 っ て い る 人、 と い うことで、一首は、下降史観を下敷きに、貴族社会やその必須要件である和歌の道や歌人の力量の衰勢をも感じ取 っているかのような物言いである。同時に、中世初頭に顕れる詠みぶり、即ち幕府第二代執権北条泰時の「麻中の 蓬 」 の 故 事 を 踏 ま え た「 世 の 中 に 麻 は 跡 な く な り に け り 心 の ま ま の 蓬 の み し て 」( 新 勅 撰 集・ 雑 三 ・ 一 一 五 二 ) や、 一時期幕府にも候したらしい藤原隆祐の「捨身飼虎」の故事を踏まえた「竹の葉に衣をかけしいにしへの人の心の な き 世 な り け り 」( 隆 祐 集・ 百 番 歌 合・ 九 十 七 番・ 右、 同〔 春 日 社 〕 百 首・ 竹・ 二 五 三 ) 等 に 窺 わ れ る、 後 の 道 歌

参照

関連したドキュメント

[r]

№ 1 エリア 全国 投稿日 2019.5.15.. カテゴリー テクノロジー URL

柏崎刈羽原子力発電所6号及び7号炉においては, 「実用発電用原子炉及びその附 属施設の位置、構造及び設備の基準に関する規則」 (以下,

KK67-0012 改02 資料番号. 柏崎刈羽原子力発電所6号及び7号炉審査資料