現代倫理学への通路 : 哲学史区分の再検討に基づく現代倫理学再考
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(2) 下城. 40. 一-. 決原理の受容,が挙げられる1。言い換えれば、追求される幸福の指標、市場経済における効用の指 標、民主主義における支持の指標として、それらの「数-量」を間慈とすることを基本了解とし、その ための構造的配備. 因果論的世界観の襲用. -. を取り入れているのが現代社会であるo. -. これらの数量化的把握が複合されて現代の社会システムが形成されてしまっているところにこそ 深代倫理学が抱える諸問題の源泉があるのだが,とりあえずここでは、常識化しているこれらの基 本的コンセシサスが、常も土既に社会構造化され、とJもすれば不変不易、優更不能の実体的原理のよ うに錯認されがちである点に注意を促しておくDいずれもそれらは原理的には社会的合意を基溌と して、社会的行為の積分として形成されるものであり、飽でありうる可能性を充分想定できる観念 的構造であるにすぎない. 例えば、環代の地球環境問題は、主権国家相互の文字通り自由な. -. 自由主義経済や多数決的決定を組み替えねばならない,jZ、要を生起しつつある. -. o. 実際、入間の判断主体を「個人」的なものと見る見方も、専ら、原子論的存在観を基礎として因 果論的僚界観に立脚する西洋近代的.力学的食界観 る自然科学的世界観. より具体的にはニュ←トン力学に発す. -. に淵源するものであり、その認識論上の基本的枠組みをべ-スに、理. -. 論の上で夜殺された「個人」とその「行為」を単位として国軍連関的に社会的責任体系が積分され (. 「多数決原理」が算結ほれ容認されているのに. -市民社.会)、その再微分として「個人の自申」. 飽ならない。そうである以上、それらの転読に基づいた個人の自由、市場原理、多数決原理が本来 相iiに衝突するとしても,思想的出発点に遡ってのその抜本的観み換えを検討することは充分意味 を持つはずである。 とは言え当面、近・窺代社会固有のL&界観に発する如上の論理的翻那こ妥協しつつ硯代倫理学的 な諸問題を検分していくこととしたいo. 1. i. 上述の壌代社会の構造的枠組みに鑑み、社会一般に適月ヨしていると看倣され得る倫理的了解の骨 格を、加藤尚武『現代倫理学入門』を参考に再構成すれば以下のようになろう。 先ずもって環代社会とは、その世界観上の基底的了解として,判断主体を「個人」と見放す社会 である. アトミ<女ム(原子論)的Å悶観・教界椀2. -. -. o且つ、そう捉えられた「儀Å」の 行動のうち, i困的判断主体に遡って実行の起点と認志される「意志」を因果遡行的に嫁すことので きるものについてそれを儲Å的な「行為」と見倣し、社会的基本単位とする(科学主義的・ニュート ン力学的世界観)0 既にここまでの認定からして.-、教界観上の基本構図として哲学的・認識論糾こ種々の問題が指摘さ. れうるであろうことは上述したとおりだが、当面これらの世界観上の擬宙uに則って準むこととするo 如上の世界観・人閑観上の基本的枠組みに則り、そう見致された「個人」の「行為」を基礎とし て、そこで行われる「功利主義的選択判断」 嫁い」の選択. -. 結果をも考慮に入れた、比較に基づく「好き. --. を最大臥偽者の迷惑にならない限り尊重して、それを「償人」の「自由」. と見撤すこと:i,並びにその「個人」の「自由」を社会的に擁護すべき「権利」とする社会、それが現 当然のことながら、 「個人」を社会的単位と)して認めなければ、 「エ 代社会の倫理原則である -. ゴイズム」もまた存立しない. -. o. そのように把擬された「現代社会」に於いて. --. 再三繰り返すが如実には、そうした認識. のもと行動する主体のその都度の行為が漸次現代社会というものを遂行的に積分して実体化して.
(3) 41. 現代倫理学-の通路. いく. 実行される個人の功利主義的選好を可能な限り最大限尊重すること、即ち言い換えれ. 一. ばエゴイズムを原理的に許容し,最大限の幸福を結果するようその最小限の制御を行うこと、並び )功利主義的選好判断与件相. にそのための以下のような最大限の知的環境整備を行うこと、即ちi 互の原理的には不可能な内容的比酔. ⊥一. 例えば一人の命と十人の命. もそもそうした判断こそが倫理的判断であるとすること5、. の矛盾. 一. ii)それに伴って種々想定される結果上. 例えば、二者以上の選択の場合、現実には「推移率」がなりたたず6、結果的に最悪. の選択が行われる確率が最も高いこと(「囚人のジレンマ」 で、. を可能としてそ. --. 7). --. をできる限り回避する方向. ih)合理的エゴイストが公正に振舞わざるをえないようなシステムを考案し8. ロールズ. -. は、ケーキを切り分けた本人が、一番最後に自分の取り分を受けとる、という例を挙げている 、. -. iv)その最大限の普遍化、即ち相異なった利益追求集団間での最大'1t約数化を図りf'、. Ⅴ)ま. た、その中で必要と考えられるものについては、無条件に世代相互でバトンタッチしていくべき義 務とすること1('一. 例えば、資源保護や生物多様性の保持のように. 、等が、現代社会. 一般の事実上の構造から汎通的な倫理原則のミニマムと考えら.れる。 繰り返しになるが、以上のような現代倫理の基本原則は原理的には矛盾だらけでも.、一方一定の. リアリティを現実社会に認める限り、学問的思考が禿離してはならない方向であることは否定し難 い。たとえ本来的な倫理学が「愛」といった元来存在に向けて問われるべき存在論的問いであったと. しても11,当面は、理論上の存在・擬制でしかないアトミズム的個人による「自由な行為」をベース とした自.由主義を何とか使いこないして12、現実的倫理システムの探求を目指さぎるを得ない1'ミ、そ う加藤尚武は言う。. 2. さて,以上の現代社会の倫理原則に閲し、踏襲されている近現代社会固有の諸前提については迫 って問題にするとして、先ずは当面、原則の核を成している、価値相互の選択的判断にフォーカス 「理性」を超える選択・判断と を絞って考えてみたい。とりわけそれが、比較不能な価値相互間の、 考えられていること、例えば「人を救う」ことと、そのために「自分が嘘をつく」ことが許しされる かと言った場合のような、論理的には別次元であり、それ自体としては価値的に絶村的なもの同士 の比較対照が11、現実には同次元で「より善いものを求める」選好的価値判断、即ち倫理的判断として 無論、こうした 行われるという事実(加藤尚武『規代倫理学入門』第一章)、についてである -ユ. 選択によらず最初から無条件に「それ自体として善い」価値を標接しうる形式的倫理学を考えること 「道徳法則」 「自己目的的意志 ができる。カント倫理学に於ける「無条件、形式的・絶村的な定言命法」 としての神」などがその例である(第一草). 15。加えて「理性的に判断・Lて、より大なる善」を選択. したとする自己解釈は、原理的には後付の自己正当化でしかないことも確かである1`∼. -. 0. だが倫理的・選択的価値判断が実際に行われ、また認められている現代社会では、論理必然的に, 現代応用倫理学が指摘する次のような社会的矛盾が現実化するo 遺伝子操作、予防医学の発達により臓器の損耗だけが克服すべき課題となった未来社会を考える。 そこで、最大多数の最大幸福を善とし、生存率の増進を善とするならば、一人の命より十人の命が 優先される可能性(鼓引で一人を選んで臓器提供者とすること)が考えられる。ジョン・ハリスが 最初に提起したこの「サバイバル・ロッタリー」問題は(第二章)、-もちろん戯画化された極論であ り、実際にはバイオ・テクノロジーによる臓器製造で解決できる問題なので、ポイントはそこには.
(4) 下城. 42. -. 「より大なる善」の追及のために選択を余儀なくされる「より小なる. ない。論理的に言い換えれば、. 悪」の問題であるこの間遺の、本来の前提条件上の理論的ポイントを二つ挙げれば、一つは多数決 を基礎と・した最大多数の最大事福という間置であり、. ∴っは選好的価値矧析の対象に他者の人格を. 組み入れてよいかという問題である.. 第一について言えば、希少な療効薬の配分問題など、平等原理が成立しない項実的場面で実際充 分起こりうる間置であろ(第三啓子)。然し、とは言え、理性的矧析を完全に度外視して「蒙引き「十人を対象にした畿引」という想定が 偶然」にのみ委ねることが常に正しいというわけではない。 既に自然科学の「実験」をモデルにした理想状態を前提にしたものであり,現実にほ椅寒されるベ ・き種々の初期条件の堆積に基づいて理性的矧斬が行われうることになるl富.ただそれが多数決原理 と桔抗した場合、社会的には選択されず、自由を経げて強帝jするしか手段がない場合が充分あり得 ることば確かである。 また、所謂理性的判断にも間置はある。.. 「アローの克理」2Oは、 Jjg条件下で 「囚人のジレンマ」一章妻、. の理性的辛8断が、衆悪の結果しか生まない確率が高いことを数学的に証明している。が然し、とは 言え、理性的矧額全般がこれにより否定し去られねばならないというのは早計で、如上の一定条件. 下での、即ちブラインドで、且つ7)ニアな数学的法則観の下での理性的矧削こ実際上の効力が認め られないということをそれは示しているのに過ぎない。 それに対し、現実の社会的選択では、既定の初期状祝の堆積や歴史的慣習的循環性の蓄軌構造 化など、遥かに選択の幅ほ狭まって、予濁の蓋然性が高まるのであり、その蓋然性に応じて、いう ところの社会の構造的変動に即した予測-理性的計画的判断も機能しうると言わねばならないだろ う. -. 具体的には、地球環境予湧l)のように、勘案すべき情報の無限の膨大さに殆どブラインド. に等しい状況もあるだ為うが、一方で予測に際して準拠すべき法則戟がリニアなもので適切かとい う問題もそこにはあy)うる. -⊥. 0. いずれにせよこの由遮は、近代の理性の定義に関わって、近代哲学史区分に遡って検討し直すべ き問題であり、後述するo 第二のポイントは、これより遥かに深某的であり、理論的で無いぶん倫理的な問題であるo 要言すればそれは、選択的価値判断の対象に「Å格」を旗lえてよいか、という問題であり,哲学的 には、古くはア,)ストテレスの「主言責にしかなりえない対象」 ・基体の区分(Categoriae,5,2alト13) を噂克として、主観-客観、主俸-客体の問題を経て、カントにより目的一手段の問題系として定 礎しなおされた開港といえる。. 那口の通り、カントは「汝の人格の中にも他のすべての人格の中にもある人開性を、決して単に手 段としてのみ馴、るのでなく、いつも同時に目的として馴、るよう行為せよ」21として、人格の尊厳. が絶対不可侵のものであることを定言命法(形式8勺-絶対的一命法)を馴、て定礎したoカントま での倫理学の基本のように、体系外的な絶対的例外を許容する論理で紘(多くは神を絶対的例外と する)、. 「人格」もまたそれに準じて例外化されうるのだが、同時にその絶対性-形式性墨守に伴っ. ての矛盾も生じてくる. 00. 参照、第一肇「人を救うために嘘をつくことは許されるか」. -. とは言え然し、神的絶対性からの功利主義的脱却という事実は思想史的な大転換であり(神をも その選好的儀儀半順の対象序列に加える)、その意義は大いに認められるべきであるo 実際問題として社会倫理的には,選好的儀倦判断の対象序列化から先ず「人格」を除くといった 方向で例外規定を練成ていくことが現実的だが(例えば医療全般の利潤追求システムからの除外、. o.
(5) 43. 現代倫理学-の通路. 環境対策のバトンタッチ型の義務化(第十三章)∴等)、この間題は原理的には、次の言葉を見る限り、 近代哲学における選好的価値判断体系の定礎者J. ・. S、ミルやベンサムにもその頭初から自覚されて. いたとみる辛ができる22。 「すべての者を一一人と数えねばならず(eachistocountfbrone)、どんな個人も決して一人以上と数 えるべきではない」2二i. 個人を一人一人カウントする限り、現実的に問題化しないと考えられたこの平等原理が、然し、 ミル、ベンサムの時代に未だその賓明にとどまっていた民主主義・多数決原理の発達に伴い現実的政 治力に発達した「最大多数の最大幸福」に村する対抗原理としてもはや機能しなくなった。問題は そういう経緯を辿ったのである。. 3. 「人格」といった特定対象を原理的に対象から除外することが可能な体系と、それをも含みこむこ とを原理的に不可避とする体系。当面、カント倫理学とミル功利主義倫理学の間の近代の分水嶺を (一人、一個)」と捉えうる. このように捉えておく。が、見やすい通り、原理的には人間を「one. 体系的原理が確立したところから間置は始まっていた。 周知の通り、従来の近代哲学史区分では、そうした数学的機械論的世界観はデカルトから始まる とされている。それはその通りだが、然し、ここには微妙な問題がある。. 一方で、人間をト」と数える機械論的世界観の論理的端緒を如、たのはまさにデカルトその人で ある。が、他方、そのデカルト当人でさえ. -. ミル、ベンサムも含めて. 一. 自覚的にはそう. した見方に対して根本的に相容れないヒューマニスティツクな自身の哲学体系を構築したのであり、 またそう信じていた24.要するに彼らにあって世界そのものは「神の作品」としてはじめてその合理 性が担保されていたのである。逆に言えば、原理的定礎者の思惑とは正反対に近代史・近代の社会シ ステムは一人歩きしたことになる。歴史上しばしば起こる、そのような事態が、然し何故生じ得たの であろうか。節を改め、デカルト哲学に於ける理性の定義を巡って若干の考察を挟んでおきたい。 というのも、ここで一旦近代的理性判断の概念誕生の現場に遡ってみることは、ここまでさしあ たり検討を留保してきた選択的価値判断としての倫理的判断の実際. 一. 凱戟には、理論上は価. 値比較を行うべくもない対象相互の、それゆえ超一理性的、反一理性的と見倣される事実上の選択判 断・感覚的好悪の実相. -. を逆照的に解明する手掛りとなることが期待されるからである。. 結論先取的に言えば、徹底懐疑から始まったデカルト哲学は、然しその当初からの数学へq)特別 「我,惟う」と定 の傾斜と、それを前提としたとしか言いようのない「懐疑」の解釈に問題を残す。 「疑う」ことの否定的想像力を基礎とした思考の拡がり 式化された思考の実際は「我、疑う」であり、 -. Aを疑うということは非A、或いはA以外について考えを巡らすということを意味する と較べれば、. 「惟う」として「理性」の活動と定式化された数学合理的知性活動、換言すれば因果論的. 推論活動の狭降さは殆んど対極的である。周知の通り、因果律は一義必然的な因果連関に基づく推 論の体系であり,現実的因果連関の錯綜する網目状的本質に比すれば、それが極めて人為的・外 挿的設定であることは明白である。加えて、デカルトにせよ、その体系の継承者であり完成者であ るニュートンにせよ、この世界観に関しての因果論-の固執は、因果論を採用することで、現在世界. -.
(6) 下城′-. 44. の存在から遡及的に最終原因者務一原因者の場所に「神」を担保することができ、それと併せて神的に 設計された昏界の完壁な機械論的・合目的的設定を想定することができたからに飽ならないoまた、 合わせてこの発想は、ベンサム、ミルに至ってなお踏襲されていると考えられ、. \それが前述の、入間. をト人」として数えることを端緒にしながら、にもかかわらずそこから連続的に最大多数の最大幸福 が極めて数学的・調和的に結果すると信じることができた背景を成していると推測することができる。 行為の動機 このことほまた、功利主義的倫理学の畿大の功績として挙げられる帰結主義 -. からではなく、結果からその善悪を辛fj志する立場. -.と、それが結局最も人格に干渉せず、そ. の自由を尊重する結果となっている逆説を説明して余りあろう。。L^問をト人」のアトムとして扱う ことで、それ以上その内部に遡及的に干渉することを原理的に停止し、且つその体系上の振る舞い を極めて合理的、合法那勺なものと想定する、その限吟では功利主義も、極めて理性的、近代科学. 的な立場をやント哲学と共にするのであるo まとめれば、功利主義的な選好的価値判断が行われる場面は近代理性が数学的合理的矧析に局限 される以前の、矧所以前約な懐疑、想像的否定の場面であり、・理性と対立する以前の概念区分的な 矧餅のレヴェ)レである。その点を別にすればカント哲学もミル功利主義も、エクスプ7)シットかイ ンプリシツ<トかの相違は措いて共にこの昏界の合理性を信奉する点で共通であり、むしろそこでの 有意味なコントラストは、加藤も指摘するとおり、倫理蘇弼を、あくまで神の名fj遷せる常界を念頭 に単数と信奉するか、結果を度外視して複数とするかの相違に求められべきであるD想定者の自覚 を別に、この相違はシステム上は決意的な差異を意味する。 以上の点を踏まえるなら、以下の加藤倫理学の構図の理解もー一層容易となろうo即ち、ミ)レの自 由主義的功利主義、並びにカント形式主義倫理学のいずれも原理的には破綻しているとしてそれら に批芋粥ぅにアブロ-チしつつも、溌代社会の参照枠としては限定的にその両者を補い合い,-且つ、 カント(ロー舟ズ)的形式主義をミ)レ(ヒュ-ム)的実質主義に還元する方向で、更にまたミ)レ的 功利主義的選好の破綻はカント的義務論で幸轟っていくという戦略であるo. 第二節. 近代理性概念の原風景. 前節で明らかにしたとおり、現代倫理学が図式的に対照させることを常とするカント彰式倫理学 とミ舟功利主義倫理学の関係は、従来の近代哲学史の再検討を踏まえて、その対立点をより一層明 確に設定しなおすことが必要であり、且つ、それらが現代倫理学に投をデかける問題の本来の所在も 更に明確にされねばならないものである。本線では以上の見通しの下、通例近代理性主義の父と称 されるデカ身卜哲学の実壕に遡行し、その理性概念規定に関する従来看過されてきた閑凄点を明ら かにするo. 1. 言うまでもなく、デカルト哲学はその後底懐疑から出発したとされているoが、実際には懐撃遂 行以南に、初めから数学が健の学問. -. 特に哲学に対して. -. 特段の評価を得ていたこと. は留意され七おいて良い。懐疑の本当の狙いがどこに向かっていて,それにより獲得された最も重 要なものが実は解であったか、再考の余地がありうると思われるからであるo.
(7) 45. 現代倫理学への通路. デカルトは言う。. 「私はよく心得ていた、. 一数学はきわめて巧みな創意の数々を示し、これらの創意は、 学問好きな人を喜ばすためにも,またあらゆる技術を容易にし、人間の労苦を減らすためにも 大いに役立つこと」 「私はとりわけ数学が気に入っていた。その推理の確実性と明証性との故に。然し、当時は まだその本当の用途を悟ってはいなかった。そして、それが機械的技術にのみ役立てられてい ることを思っては、その基礎がこのようにしっかりして不動のものであるにもかかわらず、今 までその上にもっと高い建物を誰も建てなかったことを不思議に思っていた。. ---哲学に. ついては次のことだけを言っておこう。それが幾代もの間に現れた最も優れた精神を持つ人々 によって研究されてきたにもかかわらず、未だに、論争の余地の無い事柄が-・-何一つ哲学. には無いのを見て、私は自分が他の人々よりうまくやれるなどという自負心を持つにはいたり 得なかったこと、である。そして同一の問題については、真実な意見は一つしかありえないは ずなのに、事実はまことに多くの違った意見があり、それぞれが学識ある人々によって主張さ れているのを見て、真実らしくあるに過ぎない事柄のすべてを、ほとんど虚偽とみなしたこと、 である」25。. 如上のとおり、デカルトはその哲学の構築以前に、数学への特段の志向を示していた。その数学 はしかも、近代的機械技術に直結するものであり、且つそれに確実な基礎とそこからの明証な推理 に基づく確実性を付与することのできる機械論的数学であることに留意しておきたい。 この志向は、懐疑の実際においても維持されている。徹底懐疑として著名なデカルトの懐疑は、 順序的には第一に外部感覚とそれが指し示す外界に対し、第二に内部感覚とその基体としての身体 に対し、そして第三に単純で普遍的な数学的観念に対して遂行されるのである。. 第一の例について、デカルトは言う。. 「ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げ捨て、そう した上で、全く疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちにの残らぬかどうか、をみるべきである と考えた」. ど(i。. 「遠くからは丸く見えた塔が、近寄ってみると四角であるとわかったり、その搭の頂上にす えられている巨大な彫像が、地上から眺めるときほど大きく見えなかったりすることがしばし. ばあった」. 270. 外部感覚とそれが指し示す外界の関係とが問題とされていることは明らかであろう。 ついで、内部感覚に対して、デカルトはそれが第一の外務感覚に対してよノり疑いようのない確か らしさを持つとして、自らの身体の所有を例に検討する。 デカルトは言う。 「実際、この両手そのもの、この身体全体が私のものであるこ阜をどうして否定でき よう。これを否定するのは、まるで私が狂人達の仲間入りをしようとするようなものである」28。だ. が、とデカルトは続ける。.
(8) 下城. 46. -. 「掛ま人間ではないか。夜には取るのを常と'し、夢の申で、彼ら狂人達が目覚めているとき に体験するのと同じことをすべて体験するところの人間ではないかo睡眠中に、実際は、着物 を脱いでベッドの申に横たわっているというのに、こq)場所におり,服を着て暖炉のそばに座 っているというような、ごくありふれた一切の出来事を思い浮かべる七いうことが、なんとし ばしばおこることであろうか!. --このことを更に注意深く考えると、覚醒と夢とが、確実 2至}. な目印によっては、決して区別されえないという羊とが、私には全く明らかになる」. -. 余りに著名な議論であり、また、後述するデカルトの「量」概念のきわめて形而上学的な 即ち反一自然科学的. -. 性格と考え合わせると,身体論的にも極めて興味深い内容だが、今問. 題にしたいのは、続く第三の数学的観念の確実性問題であるo. 「私が目覚めていようと、取っていようと、二に三を加えたものは五であり、四角形は四つ の辺しか持つことがない、そしてこれほど透明な真理が虚偽の嫌疑をかけら-れるなどというこ とば生じ得ないと思われる.」.'ミ(3. デカルトがその懐疑を確からしさの質的な度合いに応じて段階的に進めていることが明らかであ る点に留意して次に進む。続けて次の.ようにデカルトほ言う。. 「私がこに三を加えるたびごとに、或いは蛸角形の辺を数えるたびごとに、 ように、ある神が仕掛けたのではないか」. -・・・濯が誤る. :ilo. 「天も、空気も、地も、色や、形も、音も、その他一切の外的事物は、悪い霊が私の1言じや すい心をわなにかけるために用いている、夢の計略に飽ならない、と考えようoまた私自身、 手も目も、肉も、血も持たず、およそ如解なる感覚器富も持たず、ただ誤って,これらすべて のものを持っていると思い込んでいるだけだ、と考えよう」. =主2。. 見られるとおり、数学的確実性と自身の存在自体が同等に扱われ、それらが一挙に懐疑に付され. る、そうした展開で懐疑が進められていることに改めて智意を求めておきたいo そうであれば、徹底懐疑の展開がこうした腰序のものである以上は、そこからの反転は、第一に 数学的確実性の復権を意味するはずであるo. 2. 懐疑からの転韓は実際には次のように行われた。. 『自然の覚による真理の探究』で展開された対話. の-怒を引用するo. 「ユウドックス. --ご覧の通り、あなたは、感覚の作用を通じて始めてその認識が得られ. るあらゆる事物を正当に疑うこキができますoしかし,あなたは、自分の疑いに関して疑い、 また、あなたが疑っているかどうかに関して、複線のままにとどまることができます かo. あなたが、自分が疑っていることを否定できない以上,また反対に†あなたが疑っている.
(9) 47. 現代倫理学-の通路. ことは確実であり、実際それに関して疑いをさしはさみ得ないほど確実である以上、疑うと ころのあなたが存在するということも、また、真実であり、しかも、それに関してもはや疑 いをさしはさむ余地の無いほど真実なのであります。 ポリアンドル. この点について、私はあなたに同意します。なぜなら、もし仮に私が存在して. いないとすると、私は疑うこともできないでしょうから。 ユウドックス. 故に、あなたは存在するのです--・・」. :3ニi。. 問題は,その存在を保証されたのが、未だ「思惟」ではなく、いわんや「理性」でもなく、実際 『方法叙説』第四部では,次のように述べられている。. には「疑う」であった点であるo. 「そうする. とただちに、私は気づいた、私がこのように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えて いる私は必然的に何ものかでなければならないと」. :享4。. さりながら然し、周知の通り、デカルト自身の解釈に従って,この「われ疑う」は「思惟ー」、即ち 「われ惟う」に拡張され、更に「理性」に定式化される.それに基づいて、伝統的な哲学史区分で は,デカルトは近代理性主義の父と称されてきたのである。 以下に見るように、デカルト自身による「思惟」 なら、・デカルト本人に最初から意識的な「理性」. 「意志」 「疑い」 「理性」の定義に照らして考える -の改釈の意志があったことは明らかであろう。. 問題はその動機である。. 先ずは『省察』、並びに『哲学原理』による「思惟」の定義。. 「私とは何であるか? あるか?. 思惟するものである。では思惟するもの(res. cog●itans)とは何で. 即ち,そのように疑い、理解し、肯定し、否定し、意志し、意志せず、なおまた、 :i5. 想像し感覚するものである」. 「揖々の中に経験されるあらゆる思惟の様態は,二つの一般的な様態に帰着させることがで きる。その一つは認知すなわち悟性(理性)の活動であり、もう一つは意欲すなわち意志の活 動である。というのは、感覚する、想像する、純粋に理解する、などのはたらきは、認知の様々 な様態に他ならず、欲求する、忌避する、肯定する、否定する、疑う、などの働きは、意欲の 様々な様態だからである」. 3(;. このうち「疑い」の定義としては、それが「肯定する、否定する」ことであるとともに、元来意 志のみの働きであるとデカルトは言う37。. また、想像力と感覚については、. 「これら二つの能力なしにも全体としての私を、明断判明に理解. できる」t'娼とされていることからすれば、デカルトが考える「思惟」とは,つまるところ「意志」 と「理性」ということになる。 問題はこれら意志と理性のどちらが「思惟」をリードするかだが、デカルト自身の定義もいささ か微妙である。. 「我々の内には唯∵つの精神しかなく、この精神は自己の内に部分の相違を持たない。感覚 的な同一性としての精神が理性的であり,精神のすべての欲求は意志なのである」. :‡().
(10) 下城、-. 48. 表裏上体である「理性」と「意志」に、優先性の点で決着をつけたのは真理認識の観点であるo 後述するが、この観点の導入は、デカルト哲学の体系的企図の理解にとって最重要の問題であり、 且つこれまで看過されてきた点である。 認識の可謬性についてデカルトほ言う。. 「私は、私の誤謬が、同時に働く二つの原因に依存すること、すなわち、私の内にある認識. の能力と、選択の能力?まり意志の自由とに、言い準えれ.ば、悟性(理性)・と同時に意志とに, 依存することに気づく」. 4f). 「意志」は、神的能力に比肩しうる無限性(-自由)を有するゆえに、却って誤る,そうデカル トは言う。 「我々人間が、神のある似像を宿していることを畝が理解するのほ、主として意志の点か らである」. 4i。. こうしてようやく、. 「思惟するもの(res. 「理性」として、. cogitans)」の本質やぎ、. 「私」の様態とL. て同志されることになる。 「私とほただ思惟するもの以外の何ものでもない。言い換えれば精神とか,心とか、悟性と か、理性とか呼ばれるものにほかならないことになる」. 42. 3. 確認するなら、その存在を保証されたのは「疑うこと」であったo. 「彩、が疑うことから私があると. いうことが締結することや、その飽これに類したことのように,自然の蒐によって私に明示される 4:享o且つ、 「思惟」として解釈された「疑い」 ことはいずれも、決して疑わしいものではありえない」 はなお「意志」と「理性」が---.-体のものであり、最終的に「理性」の優位が確保されるためには客 観的真理性の保証者としての根拠が導入されねばならなかったo --,--kの「意志」は、 Å問の自由な「想像力」として、世界のすべてを「疑い」、即ち「否 定し、背走する」ことのできる「選択の能九つまり意志の自由」であり、榔二比肩しうる能力であるo このとき、. 「私は、世には全く解ものもない,東串、地も、精神も、物体もないと、自らを説得したの であるoそれならば、患もまたないと、説得したのではなかったか?いやそうではないoむ. しろ、私が自ら郎、を説得したのであれば、その私は確かに存在したのであるo. --・今謙か. 知らぬが、狂滑な欺き手がいて、いつも私を欺いているo然し、彼が私を欺(なら、疑いなく、 やはり象は存在するのである」. 44. 銘記されるづき点は二つo 第一は、 「安静な欺き手」が持ち出される以前に、自分を含めた世界のすべてを否志し去る自由の 能力を持つ者が「私」であること.。その「私」が「思惟する私」に向かっている、すなわち自己意 識的構図によって思惟の存在が保証されて/いる、ということ。 第二は、思惟の存在は保証されても、相変わらず私の思惟が丸ごと「攻勢な欺き手」に欺かれて いて、真理の客観性がそれでは未だ担保されていないということ、であるoデカルトは、ここから.
(11) 49. 現代倫理学-の通路. 今一度、. 「理性」の定義を見直さねばならなかったはずである。. 私の存在を担保された第一の点が、現代倫理学の選択的価値判断に通じる構制であることは今は 措く。問題は第二の点である。 デカルトが早くから諸学の内で数学を特段のものと考えていたことは既に見た。というのも数学 は、先に引いたように、その「推理の確実性と明証性」のゆえに、あらゆる機械的技術にその「不 動の基礎」を与えてきたものだったからである。そこから「普遍数学」の構想が生まれる。 ■「普遍数学」は、 「何か特殊な質料(素材)に関わることなく、ただ順序と尺度とについて探求し うるすべての事柄を説明する普遍的学問」である(『精神指導の規則』第四規則). 15o. 「何びとも真面目に事物の真理を探究しようと欲するなら、特定の--一つの学問を選んではな らない。すべての学問は相互に結合し、互いに他に依存しているからである。. --・かえって. 4∈i. ただ、理性の自然の光を増すようにのみ心がけるべきである」. 注目すべきは、このときまだ若きデカルトは事物の数学的合理性,世界の理性的合理性を客観視 していたことである。理性的なのは、神の作品としての世界の構造にとどまっている47。先に見た ような、自己意識的構図の中で、世界の理性的構造とそれを志向する自我との関係の総体が問題化 されるにまだ至ってしミないのである。. 自我の意識活動も含めて、世界の総体が理性的であると捉えなおされるとき、理性は自我のうち にも内面化され、自分のものともなる。神の光は自分の内に内面化され、自然の光としての自らの 理性となる。. デカルトが、神的能力にも比肩しうるとした「意志」を措いて最終的に選択したのは,この神 の光に連なる「理性」であった。それは、神の作品としての世界の因果連関的合目的的構造とも連 続し、そして文字通りそれは数学的真理の世界である。. 「ここでしばらく神そのものの観想のうちにとどまり、神の属性を静かに考量し、このはか りしれない光の美しさを、そのまばゆさにくらんでしまった私の精神の目の耐えうる限り凝視 し、賛嘆し、崇敬するのがふさわしいであろう」姻. 神を創造主とする合理的世界の因果連関構造の真理の中に自らの理性もまたある。数学的、自然 科学的な世界の構造とその解明は、こうして論理的に担保されたわけである。当初のデカルトの数 学への志向、とりわけその実践性・応用性への志向. -. 「数学はきわめて巧みな創意の数々を. 示し、これらの創意は、学問好きな人を喜ばすためにも,またあらゆる技術を容易にし、人間の労 苦を減らすためにも大いに役立つ」. -. がこれで論理的に十全に保障されたことになるAf'.. 理性の内面化によりデカルトの当初からの目論見は十分果たされた。懐疑を通じてその存在を保 証された「われ疑う」は,この目標-と向けて軌道修正されてきたと言える。. だが、その軌道修正の過程で「意志」が故意に股下された事を看過すべきではない。内面化され、 自分のものとされた「理性」に村し、実は「意志」は、それ以上の立場にある。内面化され、自分 のものとされた「理性」は、.それゆえ「自我」の「意志」により訓練されねばならなかった。 「よい精神(理性)を持つというだけでは十分ではないのであって、大切なことは、精神を.
(12) 50. 下城. よく用いることである」. -. ( 『方法叙説』第一部). 5(). デカルトが世界の理性化というその本来の目的のために敢えて封殺せねばならなかった、近代的 主観における意志が理性を駆使するこの能動性。神の作品としての世界に対し、神を措いてその能 動的操作主体の位置に人間を立たせるその意志的能動主体の隠れた獲得こそが、デカルトをして、 デカルト本人の志向を他所に、後世、デカルトを真の近代理性主義の父としたのである。. 第三節. 現代倫理学の問題構制. 神の光のもと世界の神の作品としての理性的構造を保障し、次いで自然の光としてそれを自我の うちに引き入れ、あくまで理性的に神による世界の客観性・真理性・確実性に従うことを標模しつ つ、実質はその理性の意志的側面に自我を据えてその世界に対する支配的能動性-能動的支配性を確 保すること。従来の哲学史上の常識と異なり、デカルト理性主義の実相が以上のようなものであっ たとき、必然的にカント理性主義倫理学、ミル功利主義倫理学に、賛成反対の立場の違いはあれ継 承された理性主義の実相は、従来の哲学史区分が遡及主義的に描いて見せたようなそれとは異なる ものであったはずである。. 理性主義の実相を踏まえ、カント理性主義倫理学とミル功利主義倫理学の真の対立点を明らかに し、もってそこから照明される現代倫理学の問題の構図をあらためて鮮明にしておかねばならない。. 1. 従来、哲学史_lニデカルトを父と◆しカント形式主義的倫理学に引き継がれたとされてきた近代理性 主義は,その出発点に於いて、如上の通りむしろミルの功利主義的自由選択に構造的に近似するも のであった。デカルトがその自由選択を世界の理性的構造を担保するため敢えて理惟的合理主義に 縮減したのに対し、ミルはそれを逆方向に解放し判断本来の自由の位置に復したと見ることすらで きよう. -. 『現代倫理学入門』では、功利主義のポイントを、内面に立ち入らず,行為の帰結. を問題にし(帰結主義)、その許容限度についての最小限の立法を倫理学の課題とした点に見てい る51. --. 主義. -. 。とすれば然し、カント対ミルの現代倫理学的な対立図式. 一. 理性主義対非理性. の構図は本来適切ではない。むしろその作られた構図により隠蔽されてしまっている. 本来の対立図式を描きなおす必要がある。 ミルの自由選択・選好主体論の理論的眼目は、先ずは、人格の自由の理性主義的束縛からの解放. にあったというべきである。デカルト哲学が、自らをその支配的操作主体としての理性の立場に立 たせるべく「神の光」のもと世界の理性主義的数学的構造性・因果連関性を担保し、本来自由な能 動的意志であった自我を理性に限定したのに対し、ミルの功利主義的自由選択の主体は自我をそこ からあらためて解放したということができる。 ニュートン-カント哲学が世界の力学的構造の相関項として確立した理性主体は,世界の操作主 体としての神的自由・能動性を持つとは言え、理性的数学的合理性に縛られたものでしかない52。 繰り返せば、近代の数学的自然科学的合理性が依拠してきた因果連関性は、一義必然的因果関係を 本質とするものであり、現象世界の因果連鎖の無限の網目状構造からすれば、余りに限局的・人為.
(13) 51. 現代倫理学への通路. 的な設定でしかない53。科学的世界の相関項としての理性主体は、その極めて制限された人為的世 界構造に本質的に束縛されていることになる。 科学的世界の相関項としての経験的理性主体の束縛は、カント本人にさえ「理性の自由」論とし が,それは超越論的統覚 てその解決の必要が超越論哲学の核心部に於いて自覚されていた の自由として、形而上学的に解決されるよりないものであった54. -. 0. 功利主義的価値選好の対象として人間もまた序列化されざるを得ないという点に関して言えば、その 本質的欠陥は、それが心一身の二元論的区別に発する対象化を真の原因とする限り、ミル功利主義だけ でなくカントの超越論的哲学体系にも論理的に不可避のものである。カント超越論哲学に於いて、真に. その尊厳を保障されうる例外的人格は、論理的し三言えば、形而上学的な神を措いてはないのである(, 自我の自由を功利主義的選好主体の理由無き選好. 一. 因果律に縛られない選択. --. とし. て奪還したベンサム,ミルもまた然し、人間を含めた世界を数学的合理性の貫徹しうるものと見る 点ではデカルト以来の理性主義の徒であった。その点では、先述した、人間を.「one_Jと見倣すアト. ミズム的人間観の採用(『現代倫理学入門』第三章55)にとどまらず、推移率的な選好の順位付け、 およびそれに基づく快楽の量化・快楽計算の可能性を素朴に信じることができた点(第四章、第五. 章5(i)などに見る、その偏向的な数学志向に明らかである。その点で彼らもカントに劣るものでは ない。. そう考えれば,ニュートン的自然科学的世界観とそれに立脚するカント形式主義倫理学に対する ミルの自我の解放も、まだ半ばで終わっているといわざるを得ない。カント対ミルの不十分な対立 図式57を改訂し、その影に隠蔽されてしまっている本来の対立図式を顕在化させる必要がある〔) ここから親代倫理学の隠された課題もまた見えてくる。. 2. 現代倫理学が自覚的に進めるべき本来の原理的課題の-一一つは、数学合理主義的科学的世界観、人 間観からの意識の解放である。 既にインプリシットには、現場での近代的世界観の矛盾が原因で出来する非人間的諸問題への対 処として取り上げられてきたことを、あらためて原理的にその位置づけを確認しなおし、且つ原理. のこれまでの不在ゆえに不可視にとどまってきた本質的不十分さを補っていかなければならないo 原理的に言えば、数学それ自体の近代からの変質は著しい。ベンサム、. -ミルの時代に民主主義的. 多数決原理も、自由主義的市場経済も無かったというのは実は適切ではなく(「まえがき」-58)、彼 らが依拠していたリニアでしかない数学の原理的限界性によって、予見できなかった、というのが 本当である。アダム・スミス以降の現代数学に依拠した弁証法的哲学体系を十分参照する必要があ る(第十章、囚人のジレンマ,アローの定理、ゲームの理論LW)0 その点は今は措くとしても,顕在化した近代的世界観の非人間的諸矛盾への対処ということでは、 古くはベンサムの効用計算の起源として知られる死刑廃止論 小限化と抑止効果の最大化の均衡点を求めた. -. 一. 昔の増大をもたらす刑罰の最. `i`'を挙げることも可能だろうし、また、現実. に見られる選好の順位付けを巡っては、弱い量化可能性の具体例として経済学における課税原理の 研究がある{;l一. 但し、経済学の量化可能性の追求が有効なのは、最低生活が充たされている. 自由市場社会にはじめから限定されるこキを倫理学は念頭におく必要があるo現実め選好的選択は 同条件下では必要最小限の項目で発生する(i2。.
(14) 52. 下城. -. 現代では、例えば、臓器移植等に関連しての生命倫理学的な「人格」概念の再定義等が追究され ている(第六章)。そこでのポイントは科学合理主義的な、能力主義的人間観の是正であり,具体的 4. に挙げれば、エンゲルハートが掲げる以下の人格概念(i3 らの)区別、. -. ②人格は厳密には道徳的対応能力と相関する、. ①人格的生命の(生物学的生命か ③可能的人格(乳児・幼児)は人格と. しての権利を有さず、 ④社会的人格(乳児・高齢者等)は権利を有するが義務は有さない、 の範囲決定には功利的観点も含まれる. ⑤人格. -. 、以上の項目のうち未だ②③等に顕著な科学主義的 (能力主義的)人間観の是正である。生存を巡る「権利」 -人格の尊厳は能力以上のものであり(;1、 その心理能力的読み替えによる縮小は不当である65。更にまた、生存権の決定は、現行の多数決原 理が依拠している科学的世界観の著しい共時性構息・共時的限定構造を批判して世代縦断的に考え られなければならない(1'('。. 更に、現代倫理学の課題を科学的世界観からの解放として原理的に定礎し直すに際し併せて顕在化 する事柄として,如上の人格主体の心理能力主義的定義(「許諾の意思表示が可能」. 「因果関係の理解・. 記憶力」)からの解放(第七草i7)に加えて、科学的言説からの判断主体の解放が行われねばならない。 従来近代社会では、科学的言説-理性的判断として、科学的言説が唯--の真理性を有すると標樗され、 あまつさえ元来自由で因果律の呪縛を逃れた理由なき選好であるはずの人間判断を、感覚的-非科学的 と敗め、社会的に財面し続けてきたからである。具体的に言えば、公害裁判に於ける原告側の直感的 判断の軽視や`5ポ、余りに急速な科学技術の進展 遺伝子改良、等. -. 一. 具体的には、原子力技術、遺伝子組み換え、. に対する、庶民感情的な直感的不安に対する、非科学的との科学的立場から. する批判である。科学は危険が確認されない限り遂行してよいとする従来の見方から、安全が確認さ れない限り遂行してはならないとする社会的コンセンサスの下-の転轍が果されねばならない。. 3. 以上、従来の哲学史構図の見直しも踏まえた、現代倫理学に対する原理的不足の可視化 だ支配的な科学的世界観からの意識・判断主体の解放. 一. 未. 一. に基づく、現実の応用倫理学的必要. に合わせた,実践理論の練成は大いに必要である。 道徳法則の-ー元性、普遍性に関するカント形式主義倫理学的な法則観 万有引力理論をモデルとする. -. -. ニュートン力学の. を是正して、原理的には一元的原理観を否定し(判断主体の. 自由を原理上束縛する「内面道徳」を認めず(第九草m))多元的価値観を認めつつも(第四章7'')、 現実的にその最大限の普遍化可能性を求めて、現代数学的な分析も踏まえっっ、合理的なエゴイ ストなら公正に振舞わざるを得ないシステムの確立(ロールズ:「ケーキをカットした人が最後に取 る」 71)等を倫理学の実践的課題とすることは、大いに進められねばならないことである(エゴイス トの振る舞いに対する数学的予見性に閲し、興味深い問題として民主主義の問題がある。第十章72)。 故に、科学的世界観からの意識・判断主体の解放を踏まえ、その限りミルの選好判断の立場に立 って、その自由主義原則を批判的に継承していくことは現代倫理学の実践的課題の一つである。 以上の確認の上に、所謂「自由主義原則」 ①判断力のある大人なら、 ②自分の生命、身 体、財産などのあらゆる(自分のもの)に関して、 決定が当人にとって不利益なことでも、 ついても、批判的に検証しておけば、 無条件な能力・力の想定(人を「one. ③他人に危害を及ぼさない周り,④たとえその. ⑤自己決定の権限を持つ(ミル『自由論』. 1859). 7:i-. ①は、ミルの時代の科学主義的・アトミズム的な判断主体の 」と無条件にみなしてしまうことの理論的帰結)に対して,. に.
(15) 53. 現代倫理学-の通路. 現実問題としての、. 「判断力のある大人」の範囲が問題であり、その判定の問題といえる。具体的に. は、ジリソク裁判に顕著なように、可否半々、即ちケース・バイ・ケースというのが実際であり、 但し、その際にも判走者の問題がクルーシヤルになる71。 続く②も、科学主義的・アトミズム的には原理上白動的に確定される主体的同一性の実際上の範 囲間題であり、人を「one」と見倣す限り分明な「自分のもの」の範囲の現実社会上の客観的確定不 能性が問題となる。とりあえず然し本稿冒頭でも触れたとおり、社会的には原理上の擬制Itしての 主体・客体観. --. アトミズム的「個人」の因果連関を前提とする「行為」観. -. を襲用し. つつ75、その限りそこからの責任問題を積分的に考えていくことが現実的である。但し、科学的世 界観に立脚した「行為」以外を起点とする、責任の考察も現代倫理学の重要な課題の一つである7(;。 ④他者危害禁止則は、根底として原理的に不可能なアトム的個人観-自由な行為観に立脚してい る77。処罰は人為的な不幸の創出であり、功利主義的な快楽追及の立場からは最小限化すべきもの だが、便宜上分類すれば、他者危害は処罰対象であり、他者迷惑、自己危害は処罰対象外となる。 その線引きが問題。. ④愚行権の擁護。擬制に基づくとは言え、右ント的理性主義・科学主義からの意識・判断主体の 解放を目指す限り、愚行権は自由の担保であり、主体的決定の反一科学合理性を擁護する上でも、内 面不干渉の象徴である。. ⑤主知主義的自己観察主体による自己決定権限の擁護である自由主義は、現代社会の現実的選択 であるとともに、確かに科学的理性主義カ?らの解放を目指す現代倫理学が執るべき当面の倫理基準 であると認められることから、想定上のアトム-自由な行為に立脚している点で共同体主義による 批判はあるものの78、. 「自由」. -. 「何をしてもいい」 「悪の許容」である現実も踏まえて、内面には立. ち入らない覚悟を持し7f'、欠点だらけの自由主義を使いこなす道を探る必要は確かにある8()。 更にまた、科学主義的共時性から帰結する歴史哲学の不在に対すろ批判として、環境倫理学、世 代間倫理学として顕在化されつつある、世代間の無条件な義務の問題も重要である。 現代応用倫理学的には、本稿が指摘する科学主義からの解放という原理的視点を欠落させたまま,. 社会福祉を完全義務と見るか不完全義務と見るかを巡って、ロールズ、ハイエク、ドゥオーキン、 ノジックらにより議論されてきた問題がこの問題に該当するが(第十二章)、哲学史的にはカントが 義務の四分類を示し、自己に対する完全義務・不完全義務、他者に対する完全義務・不完全義務を 論じている。. この間題に関しては、自殺の抑制が存在を分けた愛する者への思いを根拠になされることが-一般 であるように、本来、存在論としての倫理学の村象であると考えられるが81、現実には、応用倫理 学的に,義務論を軸に母胎と胎児の関係を論じる妊娠中絶正当化論がある(ジュデイス・トムソン: (∋胎児は人格ではない②胎児の母胎使用はメリトリアスだがオブリガトリーではない82)。むしろ、 母胎の使用許可を不完全義務として,対等な個人間の相互関係ではない恩恵的(不完全義務的)関 係の例とし、シンガーのように、功利主義的な最大幸福達成のための恩恵的不完全義務(福祉)の 強制(義務化)を主張するもo)から8:3、福祉重視の必要を説くロールズ、■能力開発が可能なレヴュ ルまでの福祉の必要性を説くセンの主張がある。因果論的帰責関係に拠らない恩恵的義務の必要は、 未来世代に村して考えるなら一層明らかである馴。 科学主義の弊害として、それをモデルに構築されてきた近代国家概念が、伝統社会の互酬性(世 代間倫理)を否定して共時的相互性の倫理だけで構成されてきたために、原理的に社会契約的双務.
(16) 54. 下城. -. 関係・相互関係に入れない未来世代への倫理責任を等閑視してきたという問題がある85。共時的に. 偏向した科学的世界観からの脱却として、バトンタッ≠型の相互性を世代間倫理の基本にすえてい く必要がある86。それに関連して、生存条件の遵守は世代間でも完全義務であるし87、基本的人権、 生存権等の基本的価値判断は相対主義の原理的批判は別として確かに実際問題としては適時的変化 は小であるといえる(第十四章)呂8。 実際問題として、現代社会に最も大きな影響を与えつつあるのは、原理上だけでなく、現実問題 としても、科学である。科学に発する大変化にどう耐えるか、については情緒的でないより実践的 な考察が必要である(第十五章)0 ①科学の進歩が非人間化を斎すという情緒的批判に村しては、それも科学主義的なリニアな法則 観に依拠する見方であり、現実的には、科学は価値中立ではないが、悪一辺倒でもないことを考え る必要があろう・。 ②科学の巨大化が自己目的化し、システムとして独走してしまうとの批判は尤も であり、それでもなお,研究の主体性確保、社会的監視の必要,そのための情報管理が考えられね ばならな小。付け加えれば、安全確認や利潤追求をめぐっての近代時間観念の見直しが必要で、ス ピードダウンやダウンサイジングが必要である。. ④技術規模の巨大化が監視不能を蘭すという批判に対しても大型コンピューターによる情報管理が 挙げられるが、小規模多元的システムの構築等、数学的な見直しが必要でもある。 ④二元論的自然観が自然尭離を斎したとの批判は、社会的ニーズ一閃栄-応用というサイクルの破 梶-システムの暴走まで考えに入れる必要がある。システムの独走に対して,社会的チェック体制の 確立が必要である。. ⑤技術の自然化と′J、規模化の必要。自然の自己調整嘩能以上の人工的調整機能. が必要となっている8f)0. 科学からの解放という当面の課題からすれば、人間の同一性(自然)を守られねばならないとい うことも当面のf}り、現代倫理学の課題となる.だが、人間、自然の原理的追求を進めることは言う までもなく、必要ならその更新を求めていくことも、無論,倫理学の課題である。. 1. 加藤尚武『現代倫理学入門』 (講談社学術文庫1997). 2. 同、 177頁 同, 185頁. りJ. 4 L,. 仁U. 【-. ○口. q-. l ー. 6頁、. 「まえがき」. 同、 227頁 同、 3頁 同、 同、 185頁 同、 142頁 同、 229頁 同、 218頁. 倫理学を存在論的問いを主題とする立場と考えること(同245頁)については、後論、世代間の不 完全義務の必要を論じた第三節-3を参照。なお、前以って付言しておけば、その立場を認め るにせよ、力学的作用図式を範型に能動的主体間のコミュニケーション、殊に言語的コミュニ ケーションに偏してきた近代主意主義的倫理学や「こころ」の理論等の是正が不可欠であり、 世界観レヴュルに遡っての改訂を踏まえての、言語以上・言語以外の双方向的コミュニケーシ ョン論(精神分析学、認知心理学,生態学的心理学・倫理学等を含めた)の構築を図る必要があ る(通訳不可能性論に対する批判、同229頁も参照)0 同、 177頁、 同、 142頁. 188頁.
(17) 55. 現代倫理学-の通路. 14. 同、 26頁. 15. 同、 23頁 同、 26頁. I(3 17 18. l ;. リム. 〓. 同、 38頁以下 同、 39-40頁、. 「犯人」が簸に当たってしまう例、および現実にアメリカで行われている臓器提 供順位付けの例、参照。 同、 151頁同、 157頁-. リム. -. T】. 2. Kant;. (V87). Vgl.,. 同、 44頁参照。また、それに関連して、ミルが最大多数の最大幸福を原理に、文化の向上を主. 張したことについては、同、 同、44頁. 60頁以下を参照。硯実には大衆文化は低落する。. ミル,ベンサムについてのそうした理解は、同、. 3章末尾参照。. りん. 5. Descartes;. Oeuvres. de Descartes. Publiies. par CharlesAdam. et Paul. Tannery. (略称A.良T.). Ⅵ 7f. ,. ワJ仁U. op.°it.31 りム・リム. 7. A.&T.Ⅶ,19. uU. op.°it.18 り山 ー^.. op.°it.19. つJnU. op.°it.20 2l 3 リム nJつり. りJ. op.°it.21 op.cit.22f. A.&. T.X,512f.. ▲.1一. A.&T.Ⅵ,32 L.. つl. I. ,.. つりr:. 3 ハリり. 只. A.&T.Ⅶ,28. A.&T.,Ⅷ-. 1. 日臼 7. A.&T.,Ⅷ-. 1. :7. A.&. T.,Ⅶ,78. っJ∩〓. A.&T.,X ・qnU. ・11 ・42 4 りJ 」「. ▲』・. I. ,364. A.&T.,Ⅶ,56 A.&T,Ⅶ,57. A.&T.,Ⅶ,. 27. A.&TリⅦ,38 A.&T,Ⅶ,25. L.._. d・. 」「よU. ・4L-. A.良. T.,Ⅹ,378. A.皮. T.,Ⅶ,60. 哲学史的には「理性の光」は、スコラ哲学的世界観における基本概念であり、そのなかで人間 は言うまでもなく本質的に受動的な立場におかれている。以下を参照0 アウグステイヌス「理性とか心とか呼ばれる魂のこのものは、上からの光に照らさ-れる。人間 の理性を由らすこの上からの光は神である」(Augusutinus,InJohannis evangelium tractatus, Ⅹ Ⅴ 19.Co叩uS Christanounlm 36 157) ,班. トマス「人間の魂が理性の光を分有し来る源泉はまさしく神なのである」 (Thomas,Sumrna ,. Theologiae.Pars A.&. T.,Ⅶ,52. I. ,Qu.. 79,. art.4,(385). 世界の数学合理的、科学技術的解明とその支配・操作は時代の趨勢であった。次を参照。 ベーコン「自然は服従することによってのみ支配される」 The. Works. ofF.B、・,vol. 1. ,. (Bacon,Novumorganum.AphorismiⅢ. 157). ガリレイ「哲学は,目の前にたえず開かれているこの最も巨大な書物(宇宙)の中に書かオtて いる。. --この書物は、数学の言語でかかれており、その文字は三角形、円、その他の幾何 学的図形であって、これらの手段がなければ、人間の力では、その言語を理解できないで、暗.
(18) 56. 下城. い迷宮をさまようのみである」 50. I I (Galilei,. -. Saggiatore. (Roma1623)25). A.&T.,VI,2. 51加藤尚武『現代倫理学入門』、. 58頁. 52. 「因果論 ニュートン-カント哲学により確立された力学的世界観については、次の拙稿を参照。 第8 の呪縛-ヘーゲル「力と悟性」に於ける近代力学的世界観批判 - 」: ( 『倫理学紀要 輯』 (束大文学部倫理学研究室1994) 80-100頁p. 5ニ‡. 『現 一義必然的な因果連関の設定が人為的、擬人的なものでしかないことについては、黒崎宏、 代科学思想事典』 (講談社現代新書1971) 「因果律」の項参照。また,前掲才出稿、 「因果論の呪 縛」参照。 「超越論的続覚の自由」の問題構別については、拙稿; 「力と悟性-ヘーゲル「力」概念批判 」 ( 『倫理学年報』第45集(慶応通信1997)83-98頁参照。 の射程加藤尚武『現代倫理学入門』、 44頁. 1. trL). l{J. 5. L.. 」ロ I.. L.. 7. ^J. 5 u口. 5 v・A. 仁U. 〇. バり. -. 仁Uりん. つJ .:. 亡じ ・バ・. 仁U-コ. ...U .b. ..U. 7. Jt; ハム. .: L.-. 同、 52頁。推移率の不可能性、量化不可能性については74頁以下参照0 同、 50頁 同、 7頁 同、 151頁同、 60頁 同、 73頁同、 80頁同、 92頁 同, 93頁 同、 98頁。人格の能力主義的定義への批判としては、同書7章も参照。 同、 94頁 同, 100頁才出稿、 「「良心」論の転回・その法則論的系譜-. 研究報告書、東大文学部、研究代表関根清三、 加藤尚武『現代倫理学入門』, 130頁-. カント,ヘーゲル、応用倫理学-1998所収、 58-6、7頁)参照.. 同、 63頁 同、 142頁. T. ∩/ 】. ハ/ =」. 【/・ー. 7tI) i-. .b. 【-. 7. 同、 164頁 同、 5頁、 「まえがき」 同、 171頁 同、 173頁 拙稿、 『倫理思想事典』(星野他編、山川書店、. 加藤尚武『現代倫理学入門』、 176頁. L-)ロ. -. ロロ. u口リム. 吊つJ 3=. T. uロL. ・-.. ヽ. 18 6. ヽ. 1 00 7. ヽ. 1 QU 8. ヽ. 200. ヽ. 200. ヽ. 20 1. ヽ. 202. ヽ. 20 6. ∩凸・「U. .J=. ヽ. 2 l8. ヽ. 2 10. ヽ. 22 8. ヽ. 234. ヽ. 245. l-. 1.ハ. .ド. .Ir. 頁頁頁頁頁頁頁頁頁頁頁頁頁. 3C:. 同同同同同同同同同同同. t-q.. \. \. 1998) 「共同体」の項参照。. 」 (科研費. 同同. ‖...
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