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テクノロジーと自然 : オントロジーとしてのテクノロジー(2)

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(1)

テクノロジー と自然

(

2

)

Technology and nature

― T e c h n o l o g y a s o n t o l o g y ( 2 ) ―

圓 増 治 之

Haruyuki Enzo

1

章 「テ ク ノ ロジ カ ル な 自然 支 配 」 と 「テ ク ノ E)ジ ー の 自然 本 性

i

l

'

「近代技術は、強 力に高め られた 自然支 配を通 して、以前 には予期 せ ざ る仕方で、いまに も人間 自身を征服せんば か りである。技術的に労働す る 人間の 自然 を通 して 自然は ます ます人間存 在 の暴君 とな ってい る」 0 (ヤ スパ ース F歴史 の起源 と目標 』よ り) (Ⅰ) 現代 の科学 とテクノロジーは、その発達に伴い ます ます 自然を人間の意の ままに 自由に テ クノロ ジカルに操作可能な ものに して きたかの よ うに見 え る。 かか るテクノ ロジーの発達 は、人 口に聴 衆 され るが如 く、なるほ ど確かに人間 の生活を、 自 然 の脅威 に曝 された 自然に隷属的 な 自然的生活状 態 か ら解放 して きた。近世初頭17世紀にすでにデ カル トは 自然 の力 と作用 との認識は、人間に 自然 の技術的利用 を可能に し、人間を 「自然の支配者 に して所有者」た らしめ るであろ うと、予言 して い る。20世紀の今 日その予言通 り、 いや予言以上 に、 テ クノ ロジーはその 自然 を支配す るポテンツ を高めて きてい る。た とえば、土木技術は地球上 のいた る ところで山を削 り道 をつけ、 自然の景観 を改変 して しまっている。医療技術 はあれ ほ ど自 然 の暴威 として恐れ られた天然痘 を地球上か ら完 全 に駆 逐 して しまった。 この よ うなテ クノロジーの発達は我 々の生活を 様 々の 肉体労苦か ら解放 した。その結果、我 々の 生 活は豊かにな ったであろ うか。 いや、それは判 定 で きない。 しか し、今 日の高度 に発達 したテク ノロジーに よって我 々はイージーに生活で きるよ うに な った とだけは、少な くとも確実に言 うこと が で きよ う。 しか し、 もし我 々が テ クノロジーに よって もた らされた イージーな生活にイージーに 身 を まかせ て生 きるのであるな ら、 テ クノロジー は もはや我 々人間の生活のためのテ クノ ロジーで は な くな り、かえって逆に我 々人間が テ クノロジ ーのために生 きることにな って しま うのであ る。 我 々は ともすれば、我 々の 内な る自然 をふ り返 るこ とな しに、今 日加速度 を増 して発 達す るテ ク ノ ロジーの跡 を無反省に追い求め、外な る自然 と 共に 内な る自然を抗 って しまいかねない危険があ りは しないだろ うか。我 々は テ クノロジーに よっ て担 って しまった外な る自然 と内な る白兵Sをテ ク ノロジカルに回復す ることが 可能 であろ うか。 こ の問題を追求す るために我 々はなに よ りもまず テ クノ ロジーと 「自然」 との関係を、そ して、テ ク ノ ロジーの 自然本性 を、問わ なけれ ばな らないで あろ う。 (Ⅰ) - イデ ッガ一に よると、通常 「自然」 (ナ トゥ -ア) と訳 され るギ リシア語 の 「ピ ュシス」 とは、 - 99

(2)

-本来 「それ 自身で立 ち現われ ること

1

(ア ウフゲ -エ ソ) を意味す るとい う。す なわ ち、 「隠匿性」 (レーテ-) か ら、 こちら- (す なわ ち、ア -レ (3) ーテイ

(

4

)

アとしての明 るみ-)立 て る(her-stellen) こ

であ るともいわれ る。 してみれば、 「ピ ュシ ス」 としての 「自然」には根源的に 「非 隠匿性」 としての 「真理性」 と共に同時 に 「隠匿性」が属 してい る といえ よ う。- ラク レイ トスの言葉 「ピ ュシスは隠れ ることを好む」は この ことを言い表 わ してい る といえる。 しか し、隠匿す るとい うこ と自体、 「隠匿す るとい うことを隠匿 し」て しま う`三'か くしてギ リシア人に於 いてす でに 「隠匿性」 は隠匿 され、 toユシスは専 らそれが 「立 ち現われ た 明 るみ」に於 いて見 られ ることになる。 プラ ト ソに してす でにそ うであるといわれ よ う。 とはいえ、 プラ トン以降のギ リシア人に とって もい まだになおやは りピ ュシスは存在 の第一次的 ・原初的な開示 である。「ピ ュシスは最高の意味 (6) でポイ- シスであ る」、と-イデ ッガ-はい う。 プ ラ トンに とって も第一次的 な立 ち現われは、いわ ば ピ ュシスの こちら (観 る者 と しての人間) の方 への立 ち現われた相 ともい うべ き 「イデ ア」 であ った。かか る立場か らすれば、我 々人間のなす テ クニカルな制作はいわばイデアをパラデ ィグマ(範 型) とす る第二次的制作である といえ よう。 ア リス トテ レスも同様に、 「自然が技術を模倣 (7) す るのではな く、技術が 自然 を模倣す る」 とい っ てい る。つ ま り 「自然」には元 々最初か らす でに 自分 自身 の うちに 自分の 「テ ロス」が属 してい る のであ る。「テクネ-」 とは この 「自然」のテ ロ スを露わに し、 「自然が完成 しえない ものを仕上 げ る」 ことなのである。従 って各 々の 「テクネ

-」

の 「テ ロス」は、我 々人間が任意に定立す る 「目 的」、 「目標」 ではな く、従 って各 々の 「テ クネ

-

」 もまた或 る一定の任意 の 「目的」、 「目標」 のための単 な る 「手段」で もない。 テ クネ-は、 自然が 自分だけで達成 で きない テ ロスを完成す る のであ る限 り、テ クネ -は、今 日のテ クノロジー の よ うに 自然 に対立す るのではない。 いやむ しろ ピ ュシスに従 い、各 々のテ クネ -のテ ロスは 自然 か ら与 え られ るのであ る。栽培 のテ クネ-のテ ロ スは種子 のテ ロスた る発芽 を助 け ることにあ る。 いや さらに、ギ リシア人に とって各 々のテ クネ -のみな らず 、そ もそ もテ クネ-自体す でに ピ ュ シスその ものに従属 してい るのであ る。 ア リス ト テ レスは r形而上学』 の冒頭 、 「す べての人間は 自然本性上知 ることを欲す る」 とい ってい るが、 テ クネ-自体 も 「知 る」 ことの一つ として人 間の 自然に属す るのであ る。

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近世の 「自然についての学

(自然学

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くギ リシア語 )

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caくラテソ語 〉) 、すなわ ち 「物理学

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は 「自然

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を、或 る 一定の図式的地平 - すなわ ちこの場合、数学的 に規定可能 な位置づけ、秩序づけの図式を通 して 考察 してい った。 この地平の うちで 自然 の一切の ものは、 「測定可能」な るもの、 「計算可能」な るもの、 「数式を もって記述可能」 な るもの とし て、 「数学的厳密 さ」を もって規定 可能 とな るの である。「自然」全体 としては 自然 は .かか る近1テt)TJt' 代物理学の地平に於 いて生命 のない物質的な物体 の空間 -時 間的に規定 された - 従 って計算可能 な、従 って また予測可能 な - 楼概 的な運動 の連 関 として現象 して くる。 この よ うな1物理学の 「自 然」 も F自然』 その ものの一 つの現われ 、す なわ ち或 る一つ の 「自然」であ るにはちがいないが或 る一 つの現われ で しかない。 つ ま り、物理学の「自 然」は我 々が予め企 投 した地平図式 に従 って現わ れた限 りでの 自然 であ るにす ぎない。従 って近代 物理学の考察す る 「自然」はギ リシア時代の ビ ュ シス よ りは るかにせばめ られた意味 での 自然 であ る。 さて ところで、以上の よ うに、 自然 を測定 ・計 算可能な もの として見 ることが可能 とな るために は、その可能性の条件た る地平図式 を、 自然 を観 る老た る我 々の方か ら予め企投 して お く必要 があ る。この こ とを 「超越論的」に明 らかに したのが カ ン トであ った。理性が予め概略的に 自然 の うち-企投 しておいた地平 図式の上 で初め て、 「実験」 が可能 とな る し、実験を通 して 自然 についての知 識を獲得 で きるよ うにな る。 カ ン トの言に よれは、 「理性は一 方の手にその理性 自身 の原理 を」、「他 方の手にその原理 に従 って考案 され た実験」 を も って 「自然 に立 ち向い」、 「自然に対 し理性が提 - 1

(3)

00-出 した問いに答 え るよ う自然 を強制す る」 のであ る'08'近代 自然科学に於 いては、その図式 的地平 の 先行的企投が、 よ り一層厳密な 「実験」 を可能に し、逆 に また厳密 な 「実験」が よ り一層厳密 な地 平 の企投を可能に して きた。つ ま り近代 自然科学 において数学的 な地平企投 と実験 とは、 自然 を対 象 として確実に立 て る定立のポテ ンツを相乗的に 高めてい ったのである。 7 ユ ジ ー ク ラ イ ネ テオ り -近代の物理学 の純粋理論は現 出す るピ ュシスを 現 出す るが ままに純粋 に観 るこ とではない。近代 理論物理学 の考察す る 「自然」は、それが予め 自 然 の うち-企投的に投げ入れておいた図式に従 っ て現象 した限 りでの 「自然」である。 自然は、先 行的に企投 され た図式 の上 では じめて、測定的 ・ 計 算的 ・法則的に厳密 に規定可能な対象 と して現 象可能 とな るのであ る。 この ある一定 の可能性 と その諸条件 を 自然 の うち- 「前以 って -投げ入れ る」(pro-ject)定立能力を、理論物理学か ら、現 代 のテ クノ ロジーは揖承 して きたのである.現代 の テクノロジーは決 して理論物理学の理論 を後か ら実用的に応用 してい くのではない。 テ クノ ロジ ーは、物理学 同様、 いや物理学以上 に、 自分・か ら 諸 々の可能性 とその条件を 自然 の うちへ先行的に 企 投 (プ ロジ ェク ト)す るのであ る。今 日のテ ク ノ ロジーは有 るが ままの 自然を - 例 えば、 自然 の うちに既 に存在す る自然のエネル ギ ーを単に利 用 す るだけ ではない。 テ クノロジーは今 日原子核 構 造の内部 に まで干渉的に力を挟み込み、その構 造 を変化 させ核 エネルギーを引 き出す、す なわ ち、 テ クノ ロジーは予め或 る一定の可能性を企投的に 定立 し見込 んだ上 で、その着眼点の下 で自然 の既 存 の構造の うち-介入 して変化 させて、新 たな可 能性 (可能 的エネルギー) を 自然の うちか ら取 り 出すのであ る。 この よ うにテ クノ ロジーはその力を 「可能性

の次元 に まで 自然 の うち-介入 し、原子核 の構造 を、遺伝子 の構造を操 作的に改変 し、 自然 の新た な るいわば アプ リオ リな可能性の地平 を拓 くので あ る。 従 ってテ クノロジーの可能性定立の働 きは、 自然の うちに既存す るが未発見の原因 (的 な存在) としての遊 星の運動や ウイルスの働 きを仮説 的に 定 立す るが如 き、オ ンテ ィッシ ュな レグ ェルでの それではない。 テ クノロジーが定立す るのは、そ こに於 いて諸 々のオ ンテ ィッシ ュな可能性 が可能 とな るアプ リオ リな構造 であ り、それが新 たな る 「経験」全体、すなわ ち人間の生活全体 を予め運 命的に規定 し支配す る。 テクノ 。ジーは この よ う に予め 自分か ら自分に対 して立 てた可能性 を 自分 自身従 って展開 してい くのであ り、その意 味で ま さにtechnO-logyは今 日では 「ロゴス」その もの に さえな ってい る。 テ クノロジーの火急 な展開か ら敢 えて身を引 き反省的に我 々が思考す ることな くしては、テ クノロジーが ロゴスその もの として 我 々人間の思考 を支配 しかねない。本来人 間は、 自分 自身 の生活 に資せんがためにテ クノ ロジーを 産出 したつ も りなのに、そのテ クノロジーに、今 日ではかえ って逆 に人間が無反省に仕 えて生 きる ことにな りかね ない。 その よ うな意味で、 テクノ ロジーは 「人間 自身 を も征服せんばか りであ る」 とい うことがで きる。 ところが しか し、 テ クノロジーがいかに 自然 を 支配 し改変 しよ うとも、 この支配 ・改変 される 「自 然」 は F自然』 その ものではない。 それ は、テ ク ノロジーが予め 自然の うち- プpジ ェク トす る或 る一定 の可能性 (あ るいは或 る一定の複 数の可能 性) の観点 の もとで見 られた限 りでの 「自然」一 一 す なわ ち、或 る一つの 「自然」 - で しかない。 然 るに、テ クノロジーは或 る一定 の可能 性 を しか プロジェク トで きないのに対 し、 F自然』 その も のは無限の可能性を蔵す る。 パスカルの表 現を借

りれ ば、 「自然 (lanature)は技術 (1'art)よ り も無 限に多 くをなす ことが で きる19'ので あ る。 テ クノ pジーが いかに多様 な可能性 を プ ロジ ェク ト し、その可能性 を実現す るこ とが可能で あろ うと も、 自然の うちにはそれ以上 の ・それを越 えた可 能性 が無限に存す る。 テ クノ ロジーが予期 せ ざる 自然 の可能性 が テ クノロジーのプ ロジ ェク トした 可能性に触発 されて出現す ることもあ りうる。か (10 ってパスカルは 「自然の秘密は隠 され て い る」 と い ってい るが、 自然は単にその うちに既 に存在す るものを無限に隠 しもつばか りではな く、む しろ それ 以上に 自然 は無限の可能性 をその うちに秘匿 してい るのであ る。その意味 で、テ クノ ロジーの 時代た る現代に於 いて も、- ラク レイ トスの時代 同様 、やは り相変 らず F自然』その もの は 「隠れ ることを好む」のであ る。 - 1

(4)

01-以上 の如 く、現代 の テ クノロジーは、以前の「技 術」 とは異 な り、自然 の うち-その 「可能性」の 次元に まで介入 し、 しか も他方 F自然』 自身は底 知れぬ可能性を秘め て い る。それ故にテ クノ ロジ ーに よって (テ クノ ロジーに よって予期 で きない 仕方で) 損われた 「自然」を元通 りの 「自然」-とテ クノロジーはテ クノロジカルに恢復す ること はで きない

「自然」 に対 しテクノロジーは 「自 然」を客体 として一方 的にこちら側か ら働 きかけ るだけで ともすれば F自然』 自身の方 の可能性 を 顧慮す るこ とな く、 テ クノロジーは 自らが プ ロジ ェク トす る可能性だ けに着眼 して、それ を直線的 に追 い求め る。 それ 故 に こそ、今 日我 々は 自然に 対 し、 これ までのテ クノ ロジーとは異 な った仕方 で、新 たな る態度 で接 す る必要が あるのでは ない だろ うか。

J

. --バマスは 「自然を可能 な技術的処理の 対象 (Gegenstand)と して取 り扱 う代わ りに、我 々は可能な相互行為 の相手 (Gegenspieler)として 自然 と出会 うことが で きる」 として、 これ までの テ クノロジーとは異 な った新たな 自然 との交渉の 仕方の可能性を示唆 している。 テ クノロジーは 自 然 を もっぱ ら 「有用 性 」の観点か ら開発 -搾取の 対象 としてのみ見 るのであるが、我 々は この よ う な観点か ら自分 自身 を解放 し、 よ り自由な、 よ り 開かれた地平に出て 、 自然 とかかわ ることも可能 であろ う。 さすれば 自然の方 もその潜在的な諸 々 の可能性が解放 さ見 て我 々にかかわ って くるであ ろ う。そ して 自然は我 々人間に対 し対象 としてで はな く、人 間 とは別 の主体、す なわ ち我 々の相手 として現象 して来 るで あろ う。 しか し、- -バマ スはそれ以上 、立ち入 って この人問 と自然 との相 互交渉 (Kommunikation)の可能性を問 うよ りも、 この可能性 の手前に とどま り、それ 以前に人間相 互の よ り一層開かれた ・自由な ・公開的 (公共 的 offentlich)な コムニカツ イオ-ソの場 の成立が必 要であ るとして、その成立の可能性 を問 う。す な わ ち 「人間が強制 な しに コムニッ イー レンして各 人が各 々他人 の うちに 自己を認識 しえては じめて 人穎は-- (中略) ・・・- 自然を他 の主体 として認 識で きる芋 とい う。 しか し、我 々 としては人間 と自然 との コムニカ ツ イオ- ソの可能性-踏み込んで、その可能性を 問いたい。 しか も自然が単に我 々 と同列的に並ぶ 相手、つ ま り我 々の 「シ ュピール」の相手 として の 「主体」であるばか りでな くて、 さらに も う一 歩つ っこんで、 F自然』 こそが第一 次的 な主体 で あ ると考 えた い

F自然』の方が、我 々人間が主 体 であ る次元 よ りも、一層深い隠れた る次元 で、 F意志』 として 自ら立 ち現われ る と共 に 自ら好 ん で隠れん と意志 す る。 この r自然』 自身の二重 の 根源的意志 の喜藤 の うちに、 「自然 」本性的に r知 ること」 を欲す る人間の意志は、元 々最初か ら巻 き込 まれ、 F自然』 の意志に属 し展開 して きたの ではなか ろ うか。 この よ うな上述の如 き F自然』 の F意志』 の う ちに、か って 田辺元博士 が論文 Fカン トの 目的論』 で 「意志 のデ ィア レクテ イク」 と名づけ られた意 志の動性 をみ ることがで きは しないだろ うか。 も しそれが可能なら、テクノロジー も田辺元博士の 「意 志 のデ ィア レクテ イク」 の展開のなかで見直す必 要があ るのではないだろ うか

「意志 のデ ィア レ クテ イクの即 日に して対 日」 の段階 であ る 「自然 に単な る自然以上の意味 を認め る」立場か ら、改 めてテ クノロジ の在 り方を 「文

の 形態 と して構想 しなおす必要が あるのではないだろ うか。 第

2

章 「自然 の 人 間 化 」 と 「人 間 の 自然 化 」 「----その人問は従来 の諸文化において普通 とされ ていたの とは別 の 仕方 で、現実にかかわ ります。す なわ ちパ ー トナー として、且つ創造的に 現実にか かわ ります。その人問は 自然を 自分 の臣下 となすのではな くて、 自分 を共 同創造的に 自然の内に連れ戻 します

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ロムバ ッ- F構造 Il としての世界』 よ り) ー 1

(5)

02-(Ⅰ

)

エ クサ タ t・ 近世の 自然科学はその数学的に厳密な研究にそ の根本特徴があるが、かか る研究 は、予め 自然の うち- ア プ リオ リな認識形式 を投 げ入れ 、対象 性 の図式的地平を開示 しておいて始めて可能 とな った。 しか しその 自然科学は 自分 自身 この ことを 取 り立 てて意識す ることな しに、ナイーブに合理 的な図式地平の企投を行 ってきたが、 これを批判 的究明 したのが、カン トの超越論的な哲学であ っ た。 カソ トに よれば、 「理性が 自然か ら学ばねはな らず、理性が 自分 だけではそれについて何 も知 ることのない よ うな ものを、理性は自分が自然の うち-投げ入れてお いた ものに従 って、自然の うちで探す39とい う。 テオ レテイツシユ すなわ ち、自然を対象 として理 論 的 に考察す る 同 じ人間理性が、それに先立 って、そのことを可 能にす る条件を予め企投 してい るのである。 かか るカン トの超越論的立場か ら見れば、 「自 然」科学の研究対象 としての 「自然」は、人間理 性が投げ入れた理性形式を通 して現象 して きた限 りでの 自然で しかない。つ ま り、それ 自体におい て存在す る 「自然 自体

」(

「物 自体」 としての 自 nQ 然)ではな く、 「諸現象の総括にはかならない」 のである。それ故、自然科学が 「自然」を研究す る場合 、すでにその 「自然」は人間理性に よって 人間理性に対 して対象 として人間理性の認識様式 に適応す るように立て られている。 ニーチ ェ的な 言い廻 しをすれば、それはすでに 「人間化 された」 自然であ るといえ よう。 ニーチ ェは科学 について次の ように言 っている。 す なわ ち、 「結局人間は、自分 自身が諸事物の う ち-挿入 しておいた もの以外なに も再び発見 しな n77 い - この再発見が科学 と呼ばれ る」 と。そ して、 さらに、 「世界を F人間化す るEIこと、すなわ ち、 世界に於 いて我 々を一層 ます ます主人 として感 じ ることヂ と、い う。 してみれば、 自然科学的人間理性は、その根底 に於いて或 る一つの 「意志」 - すなわ ち、自然 全体を対象 として 自分の向 うに 自分に向けて立て るとい う仕方で、その意味で自然全体を超越す る ところの - 「超越論的」意志であるといえよう。 人間理性は 自然を対象 として立てる地平に於いて、 自然 に対 し主人 とな りうる。元 々す でに暗黙の樫 に 自然科学の根底には、 自然を対象 として固定的 に立 て ようとの、すなわ ち固定化、確実化への意 志が働いていたのであ ったが、カン トの超越論的 思惟 を媒介に して、その意志が 自己反省 し、単に 自然 を表象的に 自分の前に立て、固定す るのみな らず 、 自己規制的に一層確実に立て よ.うと、意志 す るよ うになるのである。 してみれば、理論的理 性の 自己批判は、表象す るもの としてすでに確実 化- の意志であるところの理論的理性が、さらに 自分 自身の確実性を、すなわ ち表象作用の確実性 を意志す るところに成 り立つのである。言 い換え れば、カソ トの理性批判を介 して、 「表象す る」 ことの根底に存す る 「確実性-の意志」は、反省 的 -自乗的にそのポテンツを高騰す るのである。 それでは一体、何のために我 々は 「確実性」を 意志す るのであろ うか ? 我 々は 自分 自身の生の 確実性を求めて生 きてい るのであろ うか ? 否 ./ 生の確実性は、生の 日的それ 自体ではな く、生の 昂揚 のために求め られ るにす ぎない。科学に よっ て自然を支配す ることが、人間の生 きる 日的それ 自体 ではない。そ もそ も科学のための科学などあ りえない。人間が 自然を支配す るの も、それは よ り高 い生の可能性- と自分 自身を超 え出んがため であ る。そ してそれ こそが、いわゆ る 「人炉の発 展」 とい うものであろ う。そ こで、 ニーチ ェ日 く、 「人叛の発展

。A.

自然を支配す る力を獲得す ること、そ してそのために自分 自身を支配す る或 る一 定の力を獲得す ること。(道徳は、自然や 「野 性動物』 との闘争において人間を貫徹す るために、 必要 であった)0 B.自然を支配す る力を戦い取 って しまったな ら、ひ とは さらに 自由に 自己形成を続けてい くた めに、 この力を利用す ることがで きる、す なわち 自己向上 と強化 としての力への意志190 このアフ ォリズムか ら窺えるように、 ニーチ ェ は、脱根底的 -深淵的な 「力-の意志」 の立場か ら、 「自然の支配」、すなわ ち 「科学」 を 「力へ の意志」の循環向上的動性に於け るその一環 とし て把 え ようとす るのである。 ー103

(6)

-(初) 「現代」 とい う時代を特徴づけ るテ クノロジー も、ニーチ ェが 「力-の意志」 と言い表わ した根 源的意志 の一つの形態 と言え よう。 しか るに、今 日テクノロジーはその根源的なる 「力への意志」 への反省 もないまま、それ故それだけ一層浅薄に 気軽に 自らを前-前- と駆 り立て、増 々加速度を 増 して 「進歩」 (あるいは よ り適切な言い方をす れば、過去か らの延長線上を単に、 「前進」) し ているのである。 今 日のテクノロジーに於いては人間は 自然の う ちへ単に形式的な観点 (あるいは 「認識形式

」)

だけを投げ入れて、自然を対象 として立て、それ を理論的に観 るだけではない。今 日では人間は よ り一層積極的に 自然の うち- 自分の力を投げ入れ、 自然を挑発 しその力を強引に引き出 している。 -イデ ッガ-の言葉を借 りれば、テクノロジーの本 質は、 「エネルギーを供給す るよう自然に要求す るが如 き挑発であ る。そ してそのエネルギーはエ C20 ネルギーとして採掘 され、備蓄 され うるのであ る」。 しか しさのみな らず、 自然エネルギーを挑発的に 取 り立てることは、さらにすでに人間が 自然エネ ルギーを採掘す るように挑発 され、用立て られて いる限 りに於 いてのみ、可能であるC.1'従来の 自然 科学に於いては客体 としての 自然に対 し主体 とい う地位に立 っていた人間は、今 日のテ クノロジー に於いては、自然 ともども道具的な機能連鎖連関 の うちへ呑み込 まれて しま うのである。 言葉を換えて言 うな らは、テクノロジーは、人 間の外なる自然 を支配す るだけでな く、 この支配 を遂行す るために、人間の内なる自然を も同時に 支配す る

C

.3現代文明、すなわ ち、産業社会、情報 社会に於いて、 自然支配の主体は人間ではない。 テクノ。ジーが非人称的主体 として、人間の内 と 外の一切の 自然 を泣致 して、 「進歩」 している。 しか し、その テクノロジーの進歩は、テクノロ ジーを超 える 「目標」 も 「意味」を ももっ ことな しに、ただただ 「前」- 「前」- と進むだけで し かない。 この点 、今 日のテクノロジー 「文明

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は、先に挙げた ような田辺元博士の い う 「自然に単な る自然以上の意味を認め る意味 判定の立場」を含む 「文化」 とは、明 らかに異な る。現代文明のテクノロジーは、テ クノロジーを 超 える 「目標」 も 「意味」 もな く、 自然を支配す るが故に、それは 「自然 を超越す ることも、自然 と宥和す ることもな く、ただ 自然を抑圧す るだけ C:D で しかない」0 この ような文明の自然に対す る抑圧は

、M.

ホ ル ク-イマ-が言 うように、 自然の反抗 と反重を ひ き起 こし、この 自然の文明に対す る暴動 は、文 明の始 ま り以来、社会的騒擾 として、あるいは個 人的犯罪 として、あるいは精神病 と して、文明に 襲いかか って きた。 しか し、今 日の テクノロジー は、かか る自然の反損を も、テクノ ロジカルに操 作 し、その道具 として利用す る。産業社会の文明 は、自然的衝動を抑圧す るとともに 、抑圧 された 自然的衝動を操作的に刺激す るのである。例えは、 今 日の コマーシャル産業は、我 々の抑圧 された 自 然衝動を、非 自然的な購売欲へ とテ クノロジカル に変貌せ しめ、挑発 し、我 々を衝動 買い- と駆 り 立て、利用す る。 か くの如 く、テクノロジーの暴威 は、人間の内 と外を問わず一切の 自然をその内に巻 き込み、そ の外に何 も残 さないのに もかかわ らず、 しか しそ の行 き先 きは無い。かか るテ クノロジーの暴威は、 か ってテクノロジーが支配 しなけれ ばならなか っ た盲 目的な自然力の暴威の性格を今 日逆に もつに 至 ったのである。 しか もテクノロジーは今 日すでに 、それな しで 一 日た りとも我 々が生 きることがで きないところ の我 々の生活の条件 とな っている。我 々は この テ クノロジーの社会を生 き延び る

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,ドイツ 語で言 うな ら

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す る)ためには、盲 目 的暴威を揮 うテクノロジーに適応 しなければなら ない

。M.

ホル ク-イマ-の言 うよ うに、 「我 々 は 自然支配の装置 を考案すればす るほ ど、 もし生 き延び よ うとす るのな ら、増 々その装置に仕えな ければな らない38のである。か くして人間理性は、 テクノロジーの 自然支配の装置に仕 える装置 とし て、テクノロジーの 自然支配の システムにそのパ ーツとして組み込 まれて しま う。 テ クノロジカル に設計 され組織的に組み立て られた機械の システ ムに於いて、各部品は立 ちどころに用立てに適応 しうるよう仕立て られているが如 く、人間 もテク ノロジーの産業社会機構において立 ちどころに役 - 1

(7)

04-立つ よう準備 され なければならない。かか る社会 機構に於いては、後を じっくり反省的にふ り返 る ことよ りも、素早 く計算 し、機械を操作 しうる能 力が人間に要求 され るのである。 まさにかか る社 会機構に於 いては人間理性は この機構に適 した計 算能力 ・操作 ・管理能力に成 り下 って しまってい るのである。 か くして、 よく言われ るように、か って自然を 支配す るためにそのイソスツル メソ トとしてテク ノpジーを産みだ して きた人間理性が、今 日では 逆転 して、テクノロジーのイ ソス ツル メソ トにな って しまっているのであ るC.9それ故 また、 homo f礼ber(工作す る人) としての人間は、その 「日 的合理的行動の構造が社会体系の平面に投写 され えたあかつ きには、homo fabricatus(土作 され る人) として、技術的装置の うちにみずか らも組 CQ み入れ ることもあ りうる」 とも、言われ る。 (Ⅱ) 上述の如 きテクノロジーの 「逆転」についての 同様の論述が、田辺元博士の晩年の小論文 Fメメl ソ ト モ リ』 (1958年)に於いて もまた兄い出す ことができる。白 く、 「西洋の文芸復興に始 まった生の解放 とい う気 運は、ただに近世に於いて絢欄た る芸術文学の花 を咲かせたばか りではない。更に生の 自由な る享 楽 と伸張 とのために発達 した科学技術を飽 くまで 奨励発展せ しめて、遂に今 日の科学技術時代をも た らしたのである。科学技術がそのは じめに生に 奉仕すべ き使命をになって居たことはなんら疑を 容れない ところである。-・-・- (中略)--- し か るにこのや うな生の立場の世界観、すなわち広 く F生の哲学』と呼ばれるべきものは、その生の立場 の文化的産物、なかんづ く現代に於け るその代表 と目され る科学技術のために裏切 られて、今やの ⊂n っぴきならぬ自己矛盾の窮地に追込 まれて居る」と。 将来の 目標な しにただ過去か らの延長線上 を歩 んでい くだけのテクノロジーの 「進歩」の内で、 我 々はなお 「生 き延び (sur-vive,tiber-1eben)」 ようとして、テクノロジーの内に組み込 まれて し ま う。それは、 「生の立場」の破綻に直面 しなが ら、なお 「生の立場」の延長線上 で、単に 「生 き 延び」 よ うとしているにす ぎない。それ では増 々 テクノロジーの盲 目的暴威に我 々は巻 き込 まれて しま うことにな って しま う。 . しか らば、そ こか ら脱却す るためには、如何に すべ きや。 田辺博士の言 うところに耳を傾け よう ではないか。日 く、 「今や F生の哲学』の破綻に 直面 した現代の人間は、改めて F死の哲学』を問 題 と しなけれ ばならぬ運命に際会 して居 るとい っ て よい

F死の時代Jは当然に、 F死の哲学』を ¢fO 要求す るわけである」 と。 この Fメメソ ト モ リ』 と同 じ年に書かれた 「 F死の哲学」 に関す る未定稿」の一つで田辺博士 は、 ニーチ ェの 「力-の意志」の立場に、 「生の 哲学」か ら 「死の哲学」-の超 出の徴候 を認めて い る。すなわ ち、 「権力意志は、 F生-の意志』 に止 まるものでな くして、反対に F死-の意志』 であ る筈である。-=・-・(中略)=・・・・-彼 (すな わち、 ニーチ ェ)の F生-の意志』が一見全 く反 対な る F無の意志』に転入 して後者に具体化せ ら れ ることこそ、まさに F生の哲学』 を超 える弁証 法の展開であるといわ なければならぬ

F生の哲 学』 は弁証法に従 って弁証法的 に F 死の哲学』-¢9) 帰入す るのである」 と。 現代のテクノロジーの歩みの なかで人 間は自然 を非人間的なまでに人間化(vermenschlichen)し てきた。 ニーチ ェは 自然を非人間化す ること(ent -menschlichen)を求め るが、それは彼が上述の如 き人間化の極限を予言的に先取′したが故 にであろ うか。 ところで 自然の非人問化 は人間の 自然化 と 同 じ一つの ことである

「我 々が、純粋 な、新た に発見 された、新たに政済 された 自然で もって、 我 々人間を自然化 し始め ることがで きるのは、い っであろ うか750'とい うニーチ ェの問いは、 「神 の影」の下に暗欝化す る歴史の コソテキ ス トの う ちで問われたのであ ったが、 「核の影」 の下に暗 欝化す る今 日の状況の コソテキス トに於 いて も同 様に悶えるのではないだろ うか。 ニーチ ェの場合、 「自然の非人間化」 、 「人間 の 自然化」を通 して、 「自然」 と 「人間」の双方 とも 「力-の意志」- と還元 され る。そ して、「こ の世界は力-の意志であ る - そ してそれ以外の 何 もので もない .′ しか もまたあなた 自身が この 力への意志であ り- そ してそれ以外の何 もので - 1

(8)

05-もないの である/Oj と、いわれ る。 それ 自身或 る一つの 「意志」であるテクノロジ ーを、その根底た る 「力-の意志」の 「無底」な る自己所与性の働 きへ と、我 々が連れ戻 る時、テ クノロジーは、 「力-の意志」 としての 自然その ものの働 きに参与 して、共に働 くことにな るだろ う。その時、テ クノロジーは、これ までの 「テク ノロジー」 とはまった く異なった、新たな る次元 へ とみずか ら 「高 まる」にちがいない。 (Ⅳ) 現代の科学的 ・技術文明の歩み (「進歩」 ?) は、すべての ものを押 しつぶ し、押 し均べて、平 均化 し画一化 してきた。今 日のテクノロジーの文 明の社会構造に於いては、我 々人間 も含めてすべ ての ものが計算可能な もの とな り、相互に比較可 能、交替可能な もの となって現象 して くる

。H.

マル クーゼ も言 うよ うに、 「テクノロジーの媒介 に於いてのみ、人間 と自然 とは組織化の代替可能 な対象 とな る。・・-- -- (中略)---・-・言 い換 えれば、テ クノロジーは、物象化 - しか も最 も 成熟 し、最 も効果的な形態の物象化 - の大 きな 乗 り物 とな って きている竿のである。 テ クノロジーとい う小乗的乗 り物は、その車輪 で もって諸 々の文化の もつ創造的可能性を圧殺 し なが ら、前進 して きた。今 日地球上のいた るとこ ろで科学技術的な文明(diewissenschaftlic

h-technische Zivilisation)に よる植民地化(Kol o-nisation)が猫款を窮めてい る。 しか るに、1980 年来 日されたH. ロム/てッ-教授がその時の講演 で述べ られた ように、実にまことに、 「人類の発 展の真の豊か さは、諸文化の多数性の内に含 まれ てい る竿。それ故、我 々としてはなに よ りも、全 地球上で蔓延 している科学技術的文明の単一文明 化(Monozivilisation)の野蛮の暴威に抗 して、そ の うちへ埋没 して しまった諸 々の多様 な文化を掘 り起 こさなければならないだろ う。 テクノロジーは 「人間的な、余 りに も人間的な」 いや 「余 りに も人間的」過 ぎて、今 とな ってはも はや非人間的 とまでな って しまったが、 しか しそ のテ クノロジーに対 して、我 々は反抗す るとはい って も、あるいは また人間化 された 自然を非人問 化 ・自然化す るとい って も、必 らず Lもそれは元 の 「単な る自然」へ と還帰す るとい うことを意味 しない。 いや我 々の場合は、決 してそ うではな く 諸 々の文化の 「再耕作」(dieRekultivierungder Kulturen)を意味す るのである。そ して、その 「再 耕作」のため、我 々はなに よりもまず、ニーチ ェ の誓 えを借 りて言 うなれば、その 「塑頭」(Pfl ug-schar)とな らなければな らないだろ う。今 日我 々 は画一的 ・全体主義的に組織 された テ クノロジー の生産機構 ・装置に於いて生産力 と 「進歩 (?)」 のための道具に と化 して しまってい るが、そ うい う有 り方か ら脱 してまずは 「精神の解放のための 道具」 としての 「牽頭デへ と我 々は変容 (メタモ ルフ オジー レン) しなければな らないのである。 ニーチ ェの 「肇頭』 と題 して構想 された書には その副題 として F道徳的先入見に関す る思想

j(

Gedanken ilberdiemoralischen Vorurteile)と 記 されてい るが、 この副題は、 「諸 々の道徳的先 入兄を超 える思想」 と解す ることもできる。大地 に喰い込み鋤 き返 しなが ら進む 「牽頭」の如 く、 ニーチ ェは隠 された道徳的先人見を掘 り返 し、先 人見を先入兄 として白日の もとに曝 しだ した。そ して、その先人見を先人見 として曝 くことが同時 にまた、それを超 える思想を産み出す土壌 を耕 し、 用意す ることにな るのである。 ニーチ ェが曝いた 先人見は彼 自身が 「道徳的」 と言 っているところ の先入兄 であ ったのだが、今 日の我 々もまた、科 学的技術文 明の うちに隠 されたイデオ ロギー的先 入兄を批判的に掘 り起 こす ことが、 さしあた って なに よ りもまず必要である。 しか し単にそれだけ に とどまることな く、歴史の根底を さらに一層深 く掘 り下げ、今 日のテクノロジーの時代に先立ち、 それを運命的に規定 してい るアプ リオ リな歴史的 諸制約を歴史の根底の奥か ら掘 り起 こす必要があ るだろ う。 さすれば、おそ らくきっと、パスカル が 「技術 よ りも無限に多 くをなす ことがで きる」 と言 い表わ した ような、 自然の無限の可能性を、 自然の根底 よ り掘 り起 こす ことも可能 とな るであ ろ う。 ニーチ ェは さきの F撃頭』を r曙光』 と改題 し て出版 したのであるがミ9その扉紙に題辞 として記 された銘 を我 々は この小論の本章を閉 じるにあた って記 してお く。 1 106

(9)

-「い まだ 輝 いた こ との な い許 多 の 曙 光 あ りJOS。 (1)本稿第1章「「テクノロジカルな自然支配。 と Fテ クノロジーの 自然本性

」は、1985年8月5 日群馬大学学際研究会での 口頭発表 (その要旨は 群馬大学求真会 「哲学文集」第176号に掲載 )に 加筆 した ものであ るQこれに今回第2章 「F自然 の人間化」 と F人間の自然化

」を加えたo

(2) Vgl.M.Heidegg

e

r,"Einfuhrung in die Metaphysik" S.ll. (3)-イデ ッガ一によるとギ リシア語の 「真性」

'

A

ATl'oeLa とい う語は "否定の α+An'伽 "に淵 源 し、従 って"αprivativum"によ って特致づけ られ るとい う。従 ってア レーテイアは隠蔽の 「剥 奪」 とい う動性に よって、その根本動向が特徴づ け られ ることになろ う。Vgl. M. Heidegger, "Wegmarken"S.129.

(4) Vgl.M.Heidegger, "VortrageundAuf -satze" S.41.

(5) M.Heidegger,"Holzwege" S.42. (6) M.Heidegger, "VortrageundAufsatze"

S.ll.Platon, "Symposium" 205 BIG. (7) Aristoteles,"Protrepticus"Fr.ll(Ross). (8) Ⅰ.Kant,"KritikderreinenVernunft"ち.

‡皿.

(9) B.Pascal,"I)el'espritG60m6triqueet del'artdePersuader"Bibliothもquedela Pl'eiade P.587.

(10) ち. Pascal, "Pr6face pour le traits du vide" Biblioth色que de la P16iadeP.532

(1D J.Habermas"TechnikundWissenschaft als)Ideologieく" S.57.

88 Ibid.

(

1

頚 田辺元rカン トの 目的論J (田辺元全集、筑摩 書房版第3巻 )、64貢。 (14 1980年来 日した-イン リヒ ・ロム-Yッ-教授の 同年10月11EI、京都大学文学部寸心会での講演. 同講演は r形象は語 るJ (大橋良介訳、創文社刊 ) 3貢以下に収録されているoなお、同講演の原文 原稿の写 しを訳者大橋良介氏 より譲 り受けたo同 氏 の御好意に御礼を申 し上げてお きた いo (15) L Kant,"Kritik der reinen Vernun ft

"

,

註 B.XIV. (l匂 Ibid.A 114.

(

1

7

) Fr.Nietzsche, "Der Wille zur Macht'' Hrsg.V.Peter Cast,Nr606. (18) Ibid.Nr.614.

(

1

領 Ibid.Nr.403.

か M. Heidegger,"Die Frage mach der Technik" in: dVortrage und Aufsatze'' (TeilI,3.Aufl.1967)S.14.

(2B vgl.ibid.S.17.

(4 vgl.M.Horkheimer,"Zur Kritik der instrumentellen Vernunft" (Hrsg. Y. A. Schmidt,Athenaum FischerTaschenbuch Verlag)S.94.これは "EclipseofReason (0Ⅹford University Press,1947.)の独訳で あ るo残念なが ら私の手元にオ リジナル テキス ト がなか ったので、独訳か ら引用 した,, 幽 Ibid. Cz4 Ibid.S.97. 銅 Ibid.S.104.

鯛 J. Habermas,"Technik und Wisse n-schaftals )Id占ologie

"

(Suhrkn mp Ver -1ag.) S.82f. 帥 田辺元全集 砲13巻 166真 鯛 上掲書 167貢o 鯛 上掲書 610頁o 銅 Fr.Nietzsche,"I)ie fr8hliche Wisse n-SchaftpNr.log.

(3B Fr.Nietzsche,"Der Willezur Macht",

Nr.1067.

6分 H.Marcuse,〝One-DimensionalMann" (Beacon Paperback No.221) P.169.

幽 H.ロムバ ッ-、 r形象は語 る。(創文社)

158頁

朗 Fr. Nietzsche, "Das nachgelassene Fragment乱usden Jahr.1882",(Kritische Studienausgabe,hrsg.Yon G.Colliu.M. Montinari)Bd.X,S.12 I [14].

鍋 "Kritische Studienausgabe"の コメソター

ルに よると (同版13巻、 203頁を参照 された し )、

以下の如 し01881年1月25日、 ニーチ ェが清書の

ためにジェノヴァか らベーク- ・ガス トに完成稿 を送 ったが、 この完成稿の最初の頁に この本の タ

(10)

107-イ トルが、"DiePflugschar.Gedankenuber die moralischen Vorurtheile"と記 されてい たo ベーター ・ガス トはその コピーの最初の貢に

いまだ解 いた ことのない許多の曙光あ り。 リグ

・ヴ ェ-ダー」 とい う言薬を告 き込 んだ ところ、 ニ-チ ェは この引用がいた く気 に入 りその本の タ

イ トルを"EineMorgenr6the.Gedankentiber

die moralischen Vorurtheile"と変えたo そ

して この冠詞("且ine")が落ちて現在の

"Mor-genr6the"とい う雷名が生 まれた とい うo

Fr.Nietzsche, "Morgenr6the.Gedanken

tiberdiemoralischen Vorurteile" (Kriti -sche Studienausgabe),Bd.3,S.9.

(追 記 ) この小稿は 「昭和62年度長野大学地域社会研究助成金」の交付 の対象 とな った 「テ クノ

ロジーの本質-の哲学的反省.Jの前駆 をなす論文 であ るo助成金交付 にご理解 を示 された方 々にこの

紙面を借 りて謝意を表 してお きたいQ

参照

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