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宗學とは何ぞ : 絶對自覺の覺として

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(1)

、 われら、宗學徒は、がういふ大きな宇宙的な、世界的な、而も歴史的國家的事業I自覺へ、大自蝿へのlを、 その各自佃公の主体的生命につながるものとして、認識する任務をもつ。それと同時に、働き出すものである。証會 的に、國家的に、乃至世界的の蓮命を賭けた戦争にまで、敢で進蝋するものである。即ち、他律的にではなく、自律 自覺は一にして、また一切である。耀奪はへそれを教へ給ひ、賞際に導き給うたのである。吾が宗租も亦、生涯を さ上げて、現武に、國家的、歴史的に之を事業化されたものと鐸する。 宗學は、斯の事業に對する、學的把握である。宗團は、その批會的勢力であり、同時にまた活動でなくてはならぬ 而も信仰は、これら一切の根元たり、中榧なのである。

宗學とは何ぞ

宗學

I絶對自蝿の學としてI

︵一、一︶ ︵一︶ この一箭を、今は亡き風間随學上人、清水龍山上人に擁ぐ マ ﹂ ︾ 岼 川 峰 ’

何ぞ

室住一︲妙

四九 I ● ■ ごP

(2)

自主的にである。積極的にである。但しこの間、一切の観念的な迎合妥協を排するこ拳勿論にして、即ち本質宗學の 理念より發する主張蔵のであるから、形骸の傳統はその必要に應じて、悉く脱皮されていく。之を大信の發動ともい はれ、またそのま上、教權的行動に外ならぬのである。教權的行動は、本質宗學の自發自展の活動であるからである すなはち、本質的理念に本づく所の充蜜より來る自己形成であり、自己清算であり、自己改造であり、披大發展であ 野。無讓職の創造進化の高貴な中樋となる。就會國家における否皇國の世界的使命を途行する推進力となり、指導力 となり、その全くの實力、資源ともなる。わが、宗學は正にかくあるべきであると信ずる。いな、理論的にそう論究 してゐるのではなくして、たしかにその中核的な實在を賞現するものである。. / 然らば、その中核的賞在とは何か。以上の如く信ずる信念である。本質宗學の理念といはれるその理念である。自 尭的な信念b信念の自畳である。而もかういふ自覺とか、信念とかいふ文字を使はれると、ある観念的な表象や、或 はある結論を表明する命題といふやうに老へられようが、それを否定して、こ上に現實的な存在、主体的寶在である 、 と規定する。實に眼横鼻直のこの人間に外ならぬ。 要するに眞の宗學は、もし、生左と資在するものとすれば, 宗租に絶對歸命せる生活者︵人間︶の信念に本づく世界槻、人生槻、及び生活行爲等そのものであり、同時にそれ にかかはる人生砒會國家世界宇宙である。この意味に於いて、始めて自蝿的宗學といはれ、宗學的蔵自蝿ともなる。 宗腿の事業をほんとうにその眞慣を發揮する所以の方法が立ち、主体が生きるのである。傳統も創造も、教椛も改造

宗學とは何ぞ

︵ 一 二 ︶ 、 、 五○ 酉 ∼

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6 勺 そもj、世の中に、﹁あたりまへだ﹂といはれるものほど、つまらないものはないやうに考へられてゐるが、然し 大きくみれば、すべてのことがあたりまへなのである。ありふれてゐる。/常に仰ぐ、青空も白雲も、ふみつけてゐる 土も砂も石塊も、朝に太陽が昇り、夕べに月を望み或は星のかがやくのも、すべてあまりにもあたりまへの現象に過 ぎないが、た蟹かうした通俗な常識性の範園には何ら、詩も歌もない、藝術も科學も哲學も、宗教もあり得ない。然 し常識的に獄麦と認め、あきらめてし主へぼ問題はないやうだが、資はそこにどうしても問題の起らざるを得ない契 機があるのである。問題の起るべき契機を知らず躍らずして生死するのは所謂群生夢死である。必ず常識的にあきら め難いのが、常識性通俗性の所以で、﹁あきらめた、あきらめたbどうあきらめた、あきらめられぬとあきらめた﹁ といふ言葉は、まさに、あきらめられぬとあきらめざるを得ぬのが眞實である。こ上に自覺のほのか薩光がさし出で たのである。その時、常識性通俗性をぱ、俗諦と佛教は示すのである。俗諦の俗の字は、人ペンに谷を譜や。谷は﹁ キハマとと訓み、人間的常識性、この範園に於ては必ず、﹁進退キハマと筈である。キハマルところ、飛躍があ る。・百尺竿頭の進一歩がある。即ち眞諦の一部がひらける。そのひらけた一分の眞諦は、さらに自墨的の光に照らさ うと思ふ。 〆 も一切が、働くべき様に働くこととなる。之がまた、自覺の大自尭の光源ともなり、佛教的佛教の眞面目なのである。 以上は宗學の﹁あるべきやう﹂の、ごく抽象的規定であるが、誰しも當然と肯くことであらう。何等耳新しい提言 ではないかもしれないが、この﹁當然﹂といへる、﹁あたりまへ﹂さに却て、無限の意味を感じ、嚴密な究明を注が

宗學とは何ぞ

︵四︶︲ 五 一 /、

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句■ ■ いま翻って、我共がごく邇俗に考へてゐる間に、自蝿のはたらきがいか様であるかを、もう少し返り照らしてみよ う。﹁あたりまへだ﹂といふのは、﹁ごく分りきったことだ﹄といふ意味であらう。事物の必然性を、何等疑ふこと なき必然性を明糞白糞に承認されてゐるところ、改めて承認を要せぬほどであるといふ。むしろ、新たに疑惑すると か、問題覗することをも拒否しようとする態度である。人間事態の営然性についても同様な態度である。必然性や當 然性はもとより、その普遍性からしても、すでに、﹁ありふれてゐる﹂として、うけ容れてゐる態度である。しかも 明確性に於いても、その語義からして、﹁あたり︵當り︶まへ︵前︶﹂といふ、明巽白為の現實的事寳の指摘である。 すなはち、﹃あたりまへだ﹂といふのは、何ら、奇とし新として、改めて問題とするには及ばぬところのもの、その 必然性或は営然性は分り切ってゐるとどである。事實そのものも、ごくありふれてゐて、別に疑ふ要もなく、否定も できぬ、普遍的な事資性、眼前的な明確性を意味してゐるので.ある。・ ところが、いはゆる常識的な﹁あたりまへ﹂は、そのあたりまへにのみ、考へてゐる範園が雀だ狭いのである。時 らう。 究め識された境地に到達ざれたのである。ヘーゲルの所謂、辨證法的絶對精祁を、充全に体現されたともいへるであ 者でおほすのである。かの通俗の人間生活︵いはゆる分段生死︶を超えるとともに、無限の自覺過程︵鍵易生死︶遼 照していく過程を自覺過程と講す。佛陀は、この無限の自攝過程を、超躍踏破せられた、大自昂者である。絶對の羅 れたとれも亦結局、﹁キハマル﹂ところ、さらに高度の眞諦の一分漆ひらけていく。かくて無限に腱俗二諦の相喪相 J

宗學とは何ぞ

ダ へ 五 一 五 蛋二

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I 間的、空間的に短く狭いのみなら歩、心理的にその柵てゐる深さに於ても、進だ淺薄なのである。すなはち、あらゆ る感覺知覺乃至情感に於いて、刹那的であり、断片的である。世界観も断片酌未組織の淺薄な感覺知覺に本づく寄木 細工の世界観となる。或は放悲な想煉を以てまとめた祁話的世界観となる。行爲は個人的な利害や感情に支配され、 或は原始畦代より長い風俗習慣に制約された道徳が、不文律として狸い生活的枠となる。而必これらの世界観成立過 程に於いて、或は習俗的道徳の行はれてゐる生活に於いて、すでに若干のすぐれた個性や天才の感蝿には心情には、 あたりまへのありふれた世界観や習俗を打ち破った、生きJ1した刺戟と情感とがあらはれる。空の雲も、月も日も、 春夏秋多のうつりかはりも、全く新たなもの、をどろくべきものとしてうつってくる。詠嘆は詩歌となり、その行爲 的表現は、舞踊とも、劇と患なって、諾の藝術は生成する。自然的事物の聯關は、驚異であり、疑惑であり、知識よ り知識へ、探求や研究の醤みが起る。科學の發生が見られる。習俗が反省されて、倫理が樹立し、傳統がかへりみら れ一L歴史が記される。そこにあるま上の世界観が深められて、哲學が出る。人間の歴史は、かくも豊富な文化によっ て彩られてゐるものの、没は、あたりまへの凡俗性常識性に對する、人類の自蝿的行爲の戦ひであったのである。 / 廣義の自覺がらすれば、すでに文化も人類の自攝的戦争であるc武力の戦争はまたもとより、自覺の悲痛な職であ る。文化は自攝的捷利の記鋒といは堂、武力的戦争はその世俗的破綻の暴露であらうか。戦争も文化もともに庚義の 自畳の戦であり乍ら、不運綴の連続として、相なへるが如く、相互に因果をなして、今日の文化的世界國際情勢を生 み出し、育成して來つたものとみられよう。只今の大東亜戦駁めぐる第二次世界大戦は、醤秩序の清算、新秩序の建

宗學とは何ぞ

︵︷︿︶ 五 、

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これらは今しばらく措き、自墨の織造についてなぼ少し究明しよう。 j 自覺とはいふまでもなく、﹁自ラ覺ル﹂といふ字義だが、その意味詮考へてみる。琵ルとは知ルよりはもっと深い、 對象の本質逓充全に自ら把握するとでもいへよう。對象との本質的生命的なつながり筵漉際に体得することであるか ら、泳糞と血が通ひ、同化し了るとも老へられる。叉自らとは他の力によらずに自ら一人の力によってといふ意味に しても、寳際上、通念として・の自琵は、いかなる手段を以てもb他のあらゆる助力を以てしても、自路といへよう。 即ち對象と自己との雨者、客体と主体の本質生命の同化融通左了したとき、それを自覺したといへよう。さらに進ん で老へるならば、對象をかやうな客観的なものとせず、初めから主体的なものとみること、もつと究めていへぱ、主 体そのものと見ること否、覺ることを、自覺といふべきであらう。主体的而も主観的に自墨するものを自らを覺る所 以で、自己の眞面目を自己体認し、自己證明することであらうb蝋燭が、みづから撚って、みづからの光りで、自体 ・を照らし出してゐるやうに、人間の精祁も、自意識として自己を見、自身を照了してゐるととがわかる。いは醤、﹁ 自己自身﹂といふ言葉そのものが、すでに自攝の光に照らされて始めて言ひ得られ、叉意味相通じてゐる現證ではな からうか。 量するならば、資に我らは重要の契機に立つてゐるこ.とを知るのである。 設を目標となしつ上ある。されば、一般文化史的意義からしても、廣義の八類自覺史的意義からしても、よくよく考 ■

宗學とは何ぞ

へ 七 一 ' 五四

(7)

︵八︶ 然し以上のやうな詮索は.すでに自攝的でないかもしれぬ。主観客槻は相對概念である。,自他内外は相關的な一往 の厘別で、主体客体は一具体の雨面に過ぎぬ。客体の諸關係は悉く主体成立の必須の條件である。主体の健否は、主 観の光を燃すべき油の良否であり。主観の立場や光度は、客観認識の規定である。要するに宇宙法界といふは、自蝿 〃 未完了の、我をからしても、自蝿の光輪の範函における世界、乃至,意味につながる全宇宙なのであらうが、絶對自 覺者よりすれば、くまなく照らされたる法界である。精紳であり、魂であらう。然し、その中にうごめいてゐる未自 疑の我今の、推理上の便宜、談議の方法として、面が指示され、槻点が方向つけられたと恩ふ。その意味から、雨者 の關係を、も少し考へてみる。 ● 客観的にみられてゐる客体は、主体を地位つける。靜的に制約する因果必然性である。主体は之に對して、動的に 反應し、はたらきかけ、支配しようとする。その本質を債値魁當然性とする。 一往かうは鹿別するものの、客観認識は空間的並列、時間的繼起の諸關係を認め、その因果必然性が、主体を靜的 に、外より、過去よりして制約する。即ち自然界はもとより、就會、歴史、文化等麦を通じてもさうである。祗會國 家の生活現蛮に於いて、歴史の傅統に於いて、殊に文化の教育に於いて深刻に主体の精祁に常によびかけ、はたらき かけてゐる。これらに應へ、起ち上りはたらきかへすものが、主体性であり、純粋な糖祁的主体性なのである。 自攝はかくして、斑はいよノ、明確に、自はいよノー純化してくる。純化された自は、あくまで主体性である。客 体領域の純粋中心としての、責任が加重せられてくる、こけ加重された責任に於いて、いよ﹄∼睡靭なはたらきは起

宗學とは何ぞ

、 〆 五五 =

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佛教はいふまでもなく、自覺の宗教である。佛の大自覺より發し、衆生の自晃への教である。從て、自己の生の條 件を、廣く、客体的諸關係を嚴密に究明せらる上所以で、古來因果思想心縁起説を以て佛教の全休であるかにいはれ てゐるのも営然であるが、然し之が甚だ誤解されて、全く正反對の迷信にまで俗用され、顛倒した観念を普及せしめ てゐるととは、まことに嘆かはしい次第である。 ● たしかに佛教は因果を重ん歩るが、それは正因果を立て、正しからざる因果説を邪因縁として、厳しく折伏されて 來てゐる。正しい因果とは、さきに述べた自攝の光のもとに照らし出されたもので、無限の時空にわたる相依相成の 諸關係で、原始佛教、大乘佛教のすべてにそれノ、特殊の縁起説を展開してゐる。資に人間的生成の必須條件を明す 十二因縁説、世出因果の四諦読、それらに對する自覺の光度や立場より解明する四不可読乃至四教読、六因四縁の理 説へ業感縁起、眞如縁起、法界無議縁起、六大縁起3一念三千説等盈縦横淺深詳細を極めた學理を蔵してゐるのであ る。ともに客観的關係は、主体を地位つけはたらきかける。主体性はいよノーその猫自の純化を遂げ、自畳的に積極 的にはたらく。高度に理想化しつ上、無限に向上進化していく。この過程は、はじめに述べた、無識の眞俗二諦の立 てられ、絶對自蝿に向ふ意味なのである。 もとより、佛教は小乗的な原始佛教に於いても、佛の大自蝿に發したものであり、結局はそこに至る教説なるが故 ″

宗學とは・何ぞ/

らざるを得ないのである。〆

自分は、自蝿とはかういふ意味の榊造をもつものと思ふ。 へ 九 一 秀 で一 ←、

(9)

かやうな幽玄な深遠な自錨的縁起説であるところからして通性菱ではない、殆んど誤解されて了った。のみならず. 我盈の自我と執してゐるものを、錯覺として否定し去り.無我を立てる事から、拍車をかけてそのすぐれた因果説、 L 縁起観、自覺を顛倒して用ゐるに至った。 すなはち、自蝿的に因果律の認識、縁起の体認を﹁あきらめ﹂といふ。眞埋として確認することを諦めるといふ。 どの﹁あきらめ﹂の言葉は、今では一般に、一の宿命的に、その逆境に屈從する意味とされてゐる。現在の揮遇は過 去の業因に應報した結果であるから、獣從しず安易にうけいれようとする態度である。つまり、時間的必然性に雌倒 されて、主体性を失うたもの、意志を窒息せしめたもので、よくいうて、宿業を果す忍從を教へてはゐるが、積極的 ノ に運命を展開し、功徳を積む所以ではない。佛教もごく小乗的な観念であって、大乘的ではない。從て自尭的ではな い。これといふのもb自覺を失うた僧侶が、権勢に屈從した時代、流俗の布教によって、言葉のあきらめを普及した が、その意味は全く眞意を失はしめたので、まことに佛陀に對して畏多い極みである。 從て耐﹁ぼとけ﹂そのものの意味も、自覺者、大腿者の眞意筵失うて、俗間では死人・亡者の異名に用ひられてゐ なほ、これに聯想されるのは、支那の人公に常套語とされてゐる﹁波法子﹂は、塞間的必然關係に屈從した態度で 申 あらう。恩ふに永い幾千年間の虐政にあえぎノーして來た.かの民族が、椛力者に對する絶望感が、習ひ性となった 自覺的大我を賛現するに至る。 し、何としても現貧の自我は、 一n、、 に、我六世俗の個我の蛮有をそのま上に許してはゐない。我交個我は一種の錆攝であり、幻化であると説き示す。然 し、何としても現熾の自我は、幻化としても、假に存在してゐる。假我とみる。假我の無限の展開、飛躍が、絶對の z︾。

宗學とは何ぞ

五七 β

(10)

と上に於いてか佛教徒は言葉や思想の布教をしてはいけない。躬を以て範を示すべきだ。 佛陀の大弟子、含利弗、目連尊者の佛教に歸依した有名な噺が傅へられてゐる。舎利弗は年少氣鋭な梵志として學 間も智慧も辨舌もともに勝れ、當時の思想界にすでに相當幅をきかせてゐたのだが、未だ深刻な自己の内面生活に於 いて絶對の安心に到達してゐない。親友の目連とも、眞の解脱の道について互に研鐵し切瑳しつ上、よき教か、よき 師にあふことができたら、必ず、いち速く互に知らせ相うて、早く眞正の這法に歸したいものだと言ひ交はし、約束 ものとみられよう。 ある日のこと、舎利弗は得意の講説か嶽論を経へ・て、滿場の喝釆な博し、自分の設けの控室にかへり、高椣の窓か ら市中の景色をながめてゐたとき、をどろくべきものを認め、目を見はった。それは一人の乞食風の沙門修行者を見 たのだ。それがいかにも、堂糞とした高雅な風格である。悠然たる態度で歩いていくのである。舎利弗は、とるもの とりあへず、高椣から穂げるやうに降り來り、彼の跡莚追ひかけた。呼びとめて尋ねていふには、﹁路傍におよび立 てして。、失職至極に存じますボ、お見受けする所︲世にも稀れなる威儀進止に、それがしつよく胸術たれのでござい 主す。必ずや、尊者には、非常に尊い道法を信じ行じてをらる上ことと存じます。願くは跡その教の一端なりとお教 へにあづかり度いと、かくは失魁をかへりみず、推参致じた次第でございます。尊者はいかなる這法を持ってをられ してあった。 これらは何れも、自蝿的槻念ではない。

宗學とは何ぞ

︵十︶ 五八 、 巳

(11)

ノ 、 叢すか。尊者はいかなる師匠をあがめてをられ壷すか。さしつかへなくぱお激へ下さいませ。﹂ かの修行者は,うちうなづき、快く次の意味の謡をうたひ出した。 我が師は佛陀である。一切智者、一切見者掴我が師は佛陀である。 舎利弗はこれを聞くや否、飛び立つ思ひで、﹁これこそわれらの師である。われらの教へである﹂と、心から感謝 して、手の舞ひ足の踏む所を知らざる如く、早速約束にしたがうて、心友目連を訪ねた。 目連はこの含利弗を認めるや否、よると甑迎へて、﹁お上善き師が得られたのか。吉き法にめぐりあへたのか。﹂ とお互ひに手をとって悦んだ。そしてともノーに佛陀の御前に伺候して、親しく法を聞き、︲御弟子の列に加へられた といふ。さきの修行者は、佛陀最初の御弟子、馬勝比丘である。 鐸迦族のゴークマ沙門の 多年の修行を經て、 このほど成道大悟せられた。 そのさとりとは、寓有の因総 惜しみなく心その因縁の教へを 説き示し給うてゐる。 た登今某虚に於いて をさとられた。 0 正覺、大覺者である。

宗學とは何ぞ

、 五九 グ ー ヤ

(12)

われI∼はかやうに平凡に生存してゐる。平凡に、平凡にあるかぎり、萬有があたりまへのま上である。生も死も 全く群生夢死である。いささかでも、自毘の目がひらくと、そこに﹁なに﹂といふ間ひが起る。﹁いかに﹂といふ疑 ひが提出さ伽る。﹁どうしても﹂といふ切費な眞創な問題が發生する。﹁生あるものは死す﹂といふ一般的命題は、 たしかに霞た普遍的ではあるが、事、一旦、自分の身にふりかLはるとき、﹁どうしても﹂といふ眞劒な切礎的問題 として、徹底的に自らに、その解決を迫り來るのである。例へぱ、糠蛾御在世の時、幼兒を喪うた母親が、近隣の人 から何と教へられても慰められても﹁どうしても﹂あきらめきれず、死兒の骸にとりすがり泣き叫ぶのみならず、幾 日経っても葬るとと遊せず、臭氣の弧い腐った死骸を抱いて離さぬので、人麦は見るに見粂ねて、之を耀尊に申し上 げて教化を乞うた。 く痛感するものである。 たのである。﹁あきら窪 蓬明確に地位つけ、明師 かういふ何氣ない資話の中に無限の教訓がふくまれてゐる。 佛陀は自攝者である。諸法寓有の因縁をあきらめ給うたのである。その弟子はそのま上に信じ、諦得することによ って人格一愛した。威儀に於いて、智解滞舌の雄者舍利弗をして脆舜超しめた。彼をして眞の求道の友を誘うて佛教 に導き入れしめたのである。佛陀の因縁の諦めは自錫の内容である。自蝿は因縁を諦むることによって、主体の地鱸 逓明確に地位つけ、明朗な而も自由・自主的な人格を樹立せしめたればこそ、馬勝比丘は無爲にして舎利弗等を化し たのである。﹁あきらめ﹂の言葉は語られずし烹眞の自覺的あきらめの人格の感化はかくも偉大であったことを深

宗學とは何ぞ

』 へ 十 s 向 』 六○ I 0

(13)

, そこで懸奪は、その懸痴の母親に、﹁死兒を蘇らす術を教へてやらう。﹂と告げしめられた。母親は之淀聞くや、 Hr 0 その腐った死兒をかかへていそ/、とやってくるっ懸愈は、この姿に、哀れみを催うし、しづかに悔みを述べ、慰め 給うて、さていはれるには、﹁その兒をよび戻すには、た賛一つの方法しかない。それには、一寸したまぢなひで、 僅か三粒ほどの芥子が欲しい。汝は御苦勢でも、それを調へて來てくれまいか。但し、その芥子粒は、これまで死ん だ人のない家庭から、貰うてくるのだよ。﹂ ゴヶf かう聞いて母親は探し求めた、芥子粒は手に入ることは易いが、さて尋いてみると、親か兄弟か、祀父母か、或は 二三代の祀先に至るとみな死んである。どこにもこれまで死人のなかった家はない。母親は、それでもliと、一日 二且、三日も、食ふもの食は歩、渡る目もねずにさがしたが、ついに徒努であった。母親は。﹁人はみな死ねもので ある。﹂といふ上とを、自ら﹁なるほど﹂と躍った。そして騨奪の御前にひれ伏して、これ壷での己が懸痴逓惣ぢ、 あらためて﹁生死解脱の道﹂を求むることとなったといふ。 ︵十二︶ ざやかなありさまであらうか。 生死無常はあたりまへ過ぎる﹁あたりまへ﹂であるが通それも、自身になると﹁どうしても﹄といふ切資な問題と なる。死兒の母親は戸別訪問によって、生死の必然性、普遍性を﹁なるほど﹂とうけいれるには至ったが、然し、こ れは知的観念に留まってゐる。情意的には未だ解決に達しない。因縁としての必然性、普遍性を了っても、それは傭 羅尊の御教化の何と巧妙な、同猜に滿ちたすがたであらうか。また、人間の、めざめていくさまのこれは、何とあ ’ 一不

學とは何ぞ

一 ︿ 一 ‐ 0

(14)

全 と上に、﹁もつとも﹂といふのは、我麦が日常、心から浦足して、悦んで、﹁もつとも﹂と撚成する意味の言葉で ある。その語源は、﹁最﹂の字の、最第一の義であらうか。最勝、最善の意であらうか。道理の字をあてて、﹁もつ とも﹂と訓ませるのも、﹁道理、至極﹂の意を含んでゐるやうである。これらはともかく、我麦が用ゐる言葉の逼念 として、氣持としては、知的に﹁なるほど﹂とうなづく以上に、至り深い情意的に大賛成の悦びをふくんだ、こ上ろ である。﹃なるほど﹄は知的に、必然的な論理過程を承認した表徴とみられる。結論に至る論理過程の検討を了へて の﹁なるほど﹂である。﹁もつとも﹂に道理の二字をあてるのも、﹁なるほど﹂の結論に對する厳しい決判であり、 G 道理至極の意味である。価て、﹁もつとも﹂は、知情意の綜合的充足滿足を表はす語である。深い全人格的の究極の り當然性へ。あきらめより自由自主的の主体にめざめたのである。 ど﹂とうなづくと同時に、飛躍した。﹁なるほど﹂より﹁もつとも﹂へ。知的な諦念より、情意的解脱へ。必然性よ 意を座伏した、いはゆる﹁あきらめ﹂である。母親は、佛の慈念に滿ちた方便によって、死兒については、﹁なるほ 即ち彼女が﹁生死解脆の道﹂にと志したのは、たしかに死兒の腐肉にとりすがったあの執念に点ぜられた、瀧尊の 霊火に織る。そして生死無常の因縁を明むると同時に、彼女の主体的自晃の蕊火と燃え上ったのである。そこには死 兒の齢を算ふ執念の無きにしもあらずとしても、死兒の跡遼追ふには至らぬ。彼女自身の﹁生死解脱﹂が重要な犬問 題となる。死兒の菩提を弔ふ所以であり、また以て、子をもつ母すべてへの同情となり、親一般への所念を代表する。 ひいては、人類・生一般への光明とならればといぶ、眞の﹁もつとも﹂への出發とはなったのである。

宗學とは何ぞ

︵十三︶ ︷ ︿ 一 一 ”

(15)

義である。さらに、 といへるであらう。 古いノー無始鮫劫の、心の古池に、飛び込んだ蛙の水晋は、萬人の琴線に共鳴を起し$永くそれからそれへと鱒は っていく。わづかな波紋も、海より庚い、目にみえぬ心の大洋に、無限大に披がって來てゐることもたしかである。 あたりまへな、ほんとにつまらぬ自然現象の一つであるが、一度、自覺の鍵光を浴びるとき、﹁なるほど﹂を超え て﹁もつとも﹂の力となり︿光りとなって來て、その及ぶ影響は全く偉大なものである。● 族から族に、夢にも枯野とかけゆぐる、人の世の行路につかれて、閑けさ淀したふ心のいとほしまれ、た費一人そ 野ろ歩きする。 蛙飛び込む 古池や 水の言

宗學とは何ぞ

そこに道理至極の普遍安當性をもつ限り、古聖のいはゆる﹁寓國ノ極宗、四生ノ絡蹄﹂にも通ふ ︵十五︶ ︵十四︶ へ 十 六 一 ︷ ︿ 一 二

︾、

(16)

/盤なきに聞き、すがたなきに見とむるもの、たぎに耐問答の謎でもなからう。縁起説の体認より涌き來る感傷とも いへぬoいはゆる本不生の諦観とでもいふべきか。自覺の目は、そういふ幽玄の極致に透るのであるo かやうな自尭的縁起手縁起的自覺に立って見るとき、一木一草、一礫一塵、悉く我らが身分として、血肉として、 脈交と温く感じてくるであらう。さきに主体と云っても、五尺に足らぬ小さな肉体に留まらぬ。宇宙に生かされ、い や、宇宙とともに生き、宇宙そのものとして、大きく永遠に生きてゐる主体なのである。故にありとあらゆるものに たとへ、た野一人で何虚かに生きてゐるとしても、自然界とつらなり、否宇宙的關係に縁って、始めて生きること ができるのである。過去に限りなく生物的進化の系列がある。これらは自然科學や進化論の説明や證明する所である。 ましてや、肚會的の坐活、文化的教養に育まれ、國家的恩悪に浴してゐる我友は、た蛍ji自泡とか自我とかいへる ほどの微分の余地すら認め難いやうである。呪んやまた、目にも見えない因縁といふやうな幽玄なつながりに至って は、どこにどういふ何があるやら、をはすやら、全く、奇しきばかりの因縁であり、世界である。 あらう。ふかくも深く思へぱ、また やみの夜になかぬ烏の蕊きけば まことに、この生存する者が、あらは︵融︶漁闘係に結ばれてゐることはもとより、みえざる︵幽︶つながりに生 かされてゐるのである。此の現在に綾いた過去無限の生全世交に流鱒しつA、未來永養の業胤に催されて往くもので 夕 ほろノーと鳴く山鳥の聾きけば P 父かとぞ恩ふ母かとぞ思ふ 生れぬさきの父ぞこひしき

學宗とは何ぞ

〃 六四

(17)

かやうに法界は魁“全一体であり乍ら、而も萬有は因縁の生起であるから、無量無邊の差別の相を呈し、それJ1の 個性を異にしてゐる。同じ草木で猫、それに多種の種類がありf同一の草木の枝葉花果、一たとってみても全く同一 とい軸恋のは一つもあり得ないo我糞の一本の毛髪も、一個の爪にしても個交特殊性が存するといはれてゐる。即ち 縁起の諸法なるが故に。かかる無限の個性なればこそ、また無壷の澗自な償値をもってゐる。自擬は之を發見し、之 を遺憾なく發揮する所以の道とその努力精脚とを生み出す源泉ともなるのである。個性の發揮に努力し乍らそのま上 宇宙的全一聯關のもとに、絶大の造化に参加するのである。相互に、その個性碇尊敬し、自己の本來の眞償を發揚し 而もすべてが、大同一体、親和していく。自ら和と敬の世界が成立つであらう。すなはち、一指一髪一花一葉.悉く その猫自の良さを以てはたらき、美しさを現して、和していくのが、協和であり、調和である。 このとき、あらゆるものが、他のすべての恵みに生き、恩に生かされてゐることの自覺から、抑へることのできな い感謝が沸く。感謝報恩の世界である。たと・ひいかなる犠牲でも、犠牲といふ氣持も言葉もない。よろこびの奉仕で 〃四方の海みなはらからと恩 など波風の立ちさはぐらむ まに鯨い親和、懲和の御述懐と畏 穂和の御述懐と長 みなはらからと思 たごまざる莚得ない。やはらがざるを得ないであらう。眞賞の和。親和、平和が、そこに在る。 畏しき御製には、 1

宗學とは何ぞ

む次第である。 ふ世に ︵十七︶ 六五 ‘ 1 夕 一﹂ ひ

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そういふ絶對境は、軍なる理想ではない。大自覺からすれば、當然のあたりまへである。道理至極の茂るほどであ る以上、必歩寶現する必然性である。主た、﹁どうでも﹂資現させねばならぬ當然性でもある。 礎に、世界は不思議である。不思議な因縁に点ぜられる自覺の影響、光映も端睨すべからざるものである。 あの臆病な蛙が、物の氣はひに傍いて、飛び込んだ池の水晋は、鍵性自攝の契機として、限りなく共鳴を起して行 ったやうに、あの微かな螢の光に依って讃まれた學解の智慧は、世の幾千人を照らす光源でもあるやうに、いや螢雲 の光に依ったといふ事蹟そのものが、世の青年進學の光となり塾激勵の力ともなってゐるやうに、或は今日、防塞嚴 重の折柄、わづか、心の怠慢、一燈の漏れから、敵機の空襲を招いて一町村落の惨害を被るに留まらず、國威にもか かはるやうな、きっかけともなり兼心ないやうに、蜜に測り知れないのは、もののつながりである。はづみである。

宗學とは何ぞ六六

﹄ ある。感恩報謝の誉みのみである。之を融和といふ。大和といふo 萬有が大自覺の光明に照らされてや個盈無識に輝きあひ、働きあうて、而も明朗な平和、寂然たる永遠の世界が貧 現する。それを耀尊は常寂光士と説き給うてゐる。 我共が、これまで、まのあたりに見る、平凡のあたりまへさから、新奇の驚きに目ざめ、切費な疑惑と問題になや み、苦闘しつ上、一種の﹁なるほど﹂へ、個菱の滿足、﹁もつとも﹂へと進んだものが、普遍的に萬有に蟹現し來る とき、全世界的、全宇宙的に、﹁もつとも﹂が、﹁あたりまへ﹂の法界となる。 この﹁もつとも︲一の﹁あたりまへ﹂に到達したとき、大浬梁といふのであらう。絶對究寛の郷地である。 色 ︵十八︶ 1

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れよう。 抄 我有生きてゐる人間は、食はおば飢ゑ、着ねば凍えるやうに、現費の生の存在は、諾の關係、つながりのうちに 危く操られてゐる。生と死の細い一線をわたって行くべく運命づけられた、いはゆろ危機的な主体を見出すのである。 O いみじくも仰せられた、﹁風の前の露なほ響にあらず、出づる息は入る息を待つことなし﹂といふのも全く自然的關 係に立つ、.脆くもはかない眞賞の相をぱ、直言されたのである。切資な、生死の問題は、弧いノ、宗教的要請となつ 係 に 立 つ 、 . 脆 く 乱 て投げ出される。 こAに、現賛の人間としてのわれらの自攝はいかに發現し〃はたらいて來るかを、更に進んで見ようと思ふ。 自蝿は、単なる観照や認識ではない。幽玄な﹁もののあはれ﹂やぶ﹃さび﹂や、概念の追究の推理や認識の方面は 且くをいて、生の存在、そのものに即して、嚴しい現蛮的あり方を明らかにすると同時に、主体的に深い傭意を刺戦 して、﹁どうでも﹂どいふ一の起動力を與くる。この起動は、直ちに反動的に求心的な自信自任を生み出すともみら のみならず、人生は、祗會と歴史に制約されてゐる。文化的に養は恥、結ばれた矧護のうちに、人として爲すべき、 4 當爲の道をかすかに探し求めねばならぬ。而も、﹁どうでも﹂よいのではない﹁どうでも﹂せ”ぱならぬ眞創な問題 からいふ切寳な深刻な動機によって揺り動かされ、目さめたのが、その自晃の光に照らされた屑、領域に應じて、 同心圓的な中稜としての自信自任の覺醒となる。一身の生存、一家の生計はもとより、國家祇會的職域の自任、本務 の任持どなる。呪んや今日、世界大戦下の吾人一身一家は、か上る自蝿認識に止まるを許されず、行動的に狸制的に すでに働くべきことを、緊急勅令として厳かに命令されてゐる。而も一身一家そのものに皇國の運命をかけ、重睡を

宗學とは何ぞ六七

として提出されてくる。

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さらに時間的關係要り制約され、之に對應する主体性の態度を吟味してみよう、まづ生一般を外観すれば、自然科 學的進化論がある。然し、もつと切資な我凌人類の堅のつながりは、悠久の太沽坐り祀孫一連、脈共と流れてゐる血 である。内外の素質を決定づけ乍ら、叉盈澗自の飛蝿もなした、逝傳の事溌である。これらも新しい自然科學的貴重 な業蹟として我等の前に呈示されてゐる所である。これらは今且らく措き、自琵的に把握された主体の堅の繪巻は、 複雑ではあるがもつと耐嚴にして莊麗なものである。 人間は肚會的動物といはれるやうに、祗會的単位に世帯的結合を見る。過去より現在未来につらなる、具体的家の 自蝿をみる。この家は、本家分家、枝末錯綜するが、いはゆる氏族的祗會の結成をみる。風俗習慣言語宗教道徳等と 通じて、生活的にも糒祁的にも竪淡複雑な結合迷いょノー嘘靭にする。文明開化の世紀の光にあうて多少の愛動改駿 幕末の勤王志士、佐久間象山先生は﹁我レニ十ニシテ一人ノョクー郷二拘ハリアルヲ知り、三十ニシテョクー國二 係リァルヲ知り、四十ニシテョクー天下二關ハリ誌ルヲ知ル﹂といふ意味を記されたと憶えてゐるが、これは、自緊 の寅任性を領域的に観たもので、而も哲人の年齢と自蝿の光度と、その照らす領域の關係を示す、.興味深いことであ らう。

宗學とは何ぞ六八i

f うけてゐる。いや、重責に任じ、支へてゐる家であり、我である。かやうな重りあうた重塞の屑と、輪環の中に、し めつけられた必然的重座を、悦び勇んで無上の光榮として之を支へ發揚する所の寅任主体を、眞の自錫はあらはし來 るのである。 ︵十九︶ ∼ ゴ

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さて、未だこ上蚤で來ない、数百年前の封建時代の生活人にとってみても、その家の現賞的に絶對的な風俗憧脅道 徳等とともに、それらのうちに含まれた意味が、殆んど無意識的にはたらいてゐた、情意的にあらはれてゐたのであ る。それは先天的に生れをつるより、育って來た、その血のつながりは勿論、その環境すべてが、悠久の過去より氏 族薩會とまでに成生して來た、基底の則り知れぬ堆積なのである。かういふ嚴然たる客体の必然關係の上に、ほんの 機かな一点の生、主体が生きてゐる。その灰かな焔の放つ光には、全歴史の要素、素質をあらはしてゐる。無意識的 一 な而も基底をなしてゐる情意生活は、一旦、事あるとき、個人的にも、砒會的にも、國家的にも、危機面に遭遇した あ とき、勃然と鎚醒し、反動し働き出す。全く突差のうちに、態度を決定し、行動を支配していく。 往昔、武士道花やかなりし頃、武士が戦場に臨んで、いざ一騎討ちといふとき、互に長寿と、その租先の系譜を宣 孵し、傳統と名響とを賭け、力量と技術の全部を議して、正凌堂友と雌雄を決するのは、武者繪のあらはす装具の花 やかさとともに、精御的情義の豊けさ、・公明正大な態度、まことに、そのまふ一幅の名護以上、眞劒な藝術以上の劇 である。詩も道徳も文化も自覺も、傳統も名馨も運命も注いで、白熱裡に昇華した至境なのである。 今日数年の大戦下の、軍祁につ蚤く数多くの軍祁將士は悉く、かういふ不測の光輝ある傳統を無意識的に・も、体認 し、その血に肉に骨髄に、魂に確かに擬め持たれてゐる所以の發揮なのである。 、 ペルグソンの創造進化は、一瞬舞盈それノ、過去のすべての意味を含んだ澗自の一瞬であると喝破したのも、吉田 逓來し、複雑な交渉はあり乍ら、一方献會的分業、國家的統制下に、全一機織としての共同蔽會、究極的な國家にま で成長し來る。我麦は今日との大戦下に生をうけてゐる者は、さらにもつと大きな、人類史的縛換機の一点に立って で成長し來る。 ゐるのである。

宗學と・は何ぞ

一 六九 一

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∼ 凡そ一の生の條件として必須なものを衣食住とするが、而も人間にとってその獲得が、只の奪ひ合ひであることは 許されない。即ち、自然必然性に左右される動物的であってはならないといふのは、文化道徳肚會國家的に約束づけ られ、育てられた當然性が内的にも外的にもはたらいてゐるからである。 まして、文化的な國家にはたらいてゐるあらゆる職域に於いて、物賓の生産、文化活動、砒會運動、地方中央の行 政方面にも、戦争はもとより軍事諸機關等に幾千幾萬億の個盈の一人舞凌がはたらいてゐるが、そこに自ら定め、或 は誕制的に課されてゐる所の當然性が活動してゐるのである。 また一家族の単に生計だけの上からみて、夫として妻として、親に對し子孫に對し、それノ、の本務があり、諸の 責任が負はされてゐる。外にも炭く肚會に對し國家に對する諾の義勝が課されてくる。 なほ、一家の職業、献會國家的の活動機能と考へてくると、種麦複雑な關係のうちに組み込まれて、営然性の發揮 なほ、一家の職業愈評

宗學とは何ぞ七○

松陰先生が、獄中ひそかに生命の体認について述懐された言葉に、﹁自ら壮年にしてすでに死を迎へんとする。然し 世に幾何の歳時を以て一生とするかはその定限のある所以でない。椿は千年の樹齢を一生とし、壷た蝉蛎は數時間を 以て生涯とする。なすべきを爲し畢へてはもとより、その道に殉じて擁る上とも、そこに一生の春秋を具へてゐるも のであらう。予はかう考へて心安まるを得た。﹂といふ意味があるが、象山先生の職の關係と、松陰先生の堅の意味 は、ともに古今東西に通徹して窺へる、自覺の一端であらう。 にいそしむことを知る。 ︵二十︶ 〃 、 ロ

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、 ゆゑに、我全の生活・職業・事業、われj、の一翠手、一投足が、この重責にこたへ、この大計謹に發し、また結 ばれていく錫悟と意氣込みとが、自分の本領としなくてはなら・ない。 この事、若し敗れなぱ、大東亜も我が國家も、・平常な猫立的存在ではあり得ないのである。 この事、成らば、責に天壌無窮の皇蓮を扶翼し奉り、我が天業を恢弘し、世界萬邦、その虚を得、大和圓融の鍵郷 常寂光士の蜜現とはなり得るのである。 れたのである。 さらに、高く國家的立場から、それもた黙一國の安危にか上はる存立や権益の國策問題としてみても、今日我等 一億の民人、各自個交の手足指爪の末端にも、その重任、本務がかかって來てゐるのである。 而もI、三千年の歴史的傳統を背負ひ、その運命を賭けて.今や必死必生の決勝戦に立ち到ったのである。 況んや、皇國の世界的使命を以て働くべきこと、崇高なる天業の積極性に至っては、我交は言葉も思慮も及ばぬほ どの重大任務を痛感する。全く任重道遠を絶叫せざると得ぬ次第である。 思へぱ大東亜十億の生活は無論、その文化的敷養、かうした大自斑のもとに、上天にこの太陽なく、天が下には二 王なき一宇八紘の生民、悉く御稜威に浴し、恵澤を共に、倶に柴える大和の建設事業を、こ上に完途していかなけれ ば、皇國の天然の責務を忽諸に致すはをろか、我が皇土の崩壊衰亡は火を見るより暗かな所である。 我糞一人として國全体の興亡の運命を荷うてゐない者は全く無いのである。 また、三千年の歴史的事賞によって無意識的にも、すでにノ、生かされてゐ.るのである。 そして今日の我らは、只今、直接に大東亜十億の生懸を、否が應でも、重いj、黄任としてずでに引き受けしめら

宗學とは何ぞ

I 七 一 』

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堅の時間的因縁に對しては、すでに無意識的に生活として攝持されて来てはゐるものの、是に對しては保守的傳統 護持。非に對しては改悔、徴悔。八方逼塞の窮境に於いては、創意的局面の開拓となるべきは當然のこと。個として の主体はもとより、それをめぐる一切の事麦物為に對する如上の態度は即ち當然性のはたらきである。 而し、大観すれば、禽有は流動であり、進化である。刻盈創造していく。今、個圭にその態度を左右に致すよりは むしろ、その自体の本質化をはかるところ、純粋化を極むる所、おのづからにして、天行健にして自懸息まざるの大 道に合流し來るであらう。同時に本質も傅統も、いょノ、その眞面目を保持し發揮することとならう。外的遠心力が 狸ければ狸いほど、反動的に内面の求心力も弧まるやうに。 ︽ 我糞はた受、當爲的必要に應ずるに、忠徴であればよい。自ら一切の繋紳は断ち切られるであらう。理想に對して 至誠を以て議すとき、いかなる困難も克服できるであらう。理想の高ければ高いほど、現蛮の寓般は行づまりにも感 進の工夫を要する。 が起る。こ上に営然性の本務観念となる。 存在とみる。のつぴきならぬ切賞さに於て、自体の本質にめざめる。おのづから、之に對する反動、理想主義的働き ﹃自蕊は主体の地位つけとして、時空にわたる自然必然的認識によりて、所謂關係。因縁を明らめる。危機症孕んだ 而もさきの横の室間的關係に對しては、高い理想より照らして、是菱非登の批判選鐸となる。是に對しては公頴揚 の積極的行動となり、非忙對しては、まづ責任の痛感、是正の反動、改革刷新となる。行き詰りに對しては打開・創

宗學とは何ぞ

、 へ 二 十 一 廷ノ の 七 一 一

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鎚而後己。 のである。 沸き出させねばならぬ。 じて来ようが、然し︲我為の頭の中における槻念や痛感で責任は果されない。錆密な明確な認識を以て事畢るのは、 ■ いはゅる、あきらめに過ぎない。我交は無謙蔵の創造の源泉を探らぬぱならぬ所以。而も常にたえ謙それを汲み出し 資に自攝は単なる主体的地位や、利害や、面子や、名審の問題ではない。厳しい必然關係の認識は危機をさとる。 / 個性の慣値に目醒める。之に上らす、高められたる自蝿は、本務観念を、それは同時に責任を引受ける。深められた こととなる。 その御教訓の いか。 大自覺者のはたらきが、實際に麗烈深刻を極め、周到徹底してゐるとき、表面は何氣ない様子に見えてゐても、平 凡極まるものにみえようとも、生易しい見方、〆思ひ方、扱ひ方では、賞に空恐しいほど、もったいない限りである。 その御教訓の一節にも、施談の一片にも、よほどの旗重さ、敬度さを以て、感鯛拝受しなくては、非常な罪科を犯す 佛陀の成就せられたる世界は、賛にこの無数の菩薩の願行の綜合完成に依るのである。すでに、一章一木一礫一座 にも絶大の慈悲に催され、圓滿にして深切なる方便と、徹底した大智慧から流出し、しっらはれたる國土なのではな 絶對絶命地に、百尺竿頭一歩を進めるべきだ。創意と工夫と無き者は現舵に無用なりといはれてゐる。糖進努力、 而後己。否令発而後不巳、七生報園の執意を要す。生麦世兵の願業と結晶する。これが菩薩の本領とされてゐる

宗學とは何ぞ

へ 二 十 一 s 、 七

0ノ

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る自蝿は、歴史傳統を、それは反面俄悔を發す。即ち本務と傳統の墨鯉はその反面罪悪意識としての、黄任と繊悔と が、一体の表裏的に、光明と陰影の如くにつきまとふのである。 責任は通俗の意味からしても、亦字義より考へても、事の破綻失敗について、その關係中枢に對して攻撃責罰の向 けられるとき、自ら進んで、當然と之にあたらうとするの態度であり、覺悟なのである。 0 而も、自覺の領域が、重交の環層をなした複雑の關係に對應して、本務観念の反面責任性にも重暦を認むるであら うが詳細は略さう。謹んで舜す。 奥深くも遠い因総の体認として、幸 る態度が佛教に於ける繊悔である。 民は我が身の生みし子なれば 長き、大御心の彌高き大自畳を拝す。而も赤子萬民に對する人間の責任ではなく、天つ榊に對し奉りての赤子の罪を 御躬らに引受け給ぷ、かたじけなき宗教的御信念を拝するのである。 なほ深められた自墨は、自己の他己の罪悪は無論のこと、目に見えぬ内心の罪悪意識に對して繊悔が發する。更に 奥深くも遠い因縁の体認として、天を戴くにも戦交と畏れ、地を踏むにも恂麦と旗まいぱなら砲やうな漸偲至り出づ この徹底した深刻の繊悔は、内心の根本淨化とその絶對への輔廻をもたらす。佛陀の絶大の願業に朝宗する生活が l こ上に創る。努力糖進無碍の飛蹴となるのである。 明治天皇御製 罪あらぱ我を罪せょ天つ卿

宗學とは何ぞ

ノ 七四 、 ■

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、 、 と上に今、繊悔について攻究を進めよう。教槻綱要に説明をかりる。 ﹁餓悔とは深く伽塊の念を生して己が過罪を發露し、以て相綾心を断ずるに名づく。謂ゆる故きを畢へて新しきを造 らず。即ち過去を追懐すると倶に、將來再び失敗を繰返さざらんことを期す。蓋し遷善改過の實績を躯ぐるの要術な h ソ 。 衆罪如霜鰯慧日能消除 と。蓋し、貧相は無相にして罪禰の別を絶す。但、縁によりて念を動する駐罪と名づくるものにして、本來自性ある ここなし。故に若し一たび、法の本性に達して罪禰の別なしと知らぱ、則ち理に稀うて念を動かさず。湛然寂靜なり 何ぞ罪悪の存すべきあらむ。行者能く斯くの如く槻じて妄念の波靜かなるを理繊といふ。 事繊とは、身口の行を運んで、障這の罪を減するをいふ。即ち三業清淨にして佛前に於て重蹴塊②念を生して、諸 の遜罪を披陳し、以て既往の罪障を消滅し、將來の善根を増長せしむるなり。﹂ 通俗に於いては、熾悔は、自己の爲した罪悪に對する後悔より、自ら深く恥ぢ,他人或は公衆の前に、或は祁佛の 御前に於いて發露告白し、今後の改赫を誓ひ乃至積極的、正善に向って願を發すのであるが、佛教に於いては、初後 一貫の修行要目とされてゐるもので、必ず、絶對正善の人格佛陀の御前に巳が過罪を發露、披陳し、重伽塊以て念凌 これに事理の二繊あり。理繊とは、法の本有に稀うて罪輻の情相を亡するをいふ。經に宣給はく、 若欲俄悔者端坐思實相

宗學とは何ぞ

へ 二 十 三 一 F I q 七五 q

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1 かく見來るとき、熾悔は、佛法の始絡一貫叩現賞に即しつ型理想へ向ふ大道であるといへるo之を行法として天台 大師は、法華三昧餓儀といふを述作された。法華經の疫相の教理に本き、安樂行品、普賢品、同結經の槻普賢菩薩行 P 即ち一往見れば、黄任の罪悪概念は、黄任の歸趣を、厳しく吟味し、究明すべきは無論としても、あく髪でその輕 重を打算に没頭せずに、寧ろ始めより、自らのか上はる限りに於いて、他より自に、外より内に、方向づけるもので ある。之に對して、熾悔は、自己自身の罪悪は勿論であるが、責任の方向づけた他より自に、外より内にと、すべて の罪悪をぱI自身内心に露趣せしめ、さらに現在より過去に、遜去もその未生のところ、ぃほゅる本不生の絶對境 に測って、こ上にすべての罪悪過誤を酸めて洗准修練し、而してのちに芯現在より未來に、絶對清淨の發現、淳善の 功徳としてはたらくものである。 根源にさぐり到る。 是非善悪、批判葛藤を離れた、 ︾つ。。 に優遊せんとする。即ち事俄より理繊に向ひ、或はまた、理に洗ひ、事に練る所以が、誠に尊いのである。 る。而も之に止らす、むしろ之を契機として、佛陀の大慈悲にふれ、如來の大潜慧が光に浴し、寶相無相の大浬藥海 尅責し、内心潜める妄念の微動にも嚴しく点検、身口を戒め愼んで、三業清淨の修練を、佛陀照覧の下に致すのであ かやうな深い熾悔は、黄任のもつ諸の淺深の暦の罪悪意識を、一心に擶めて來って、痛く自己を尅責しつ上罪禰の

宗學とは何ぞ

︵二十四︶ 本来清淨の所に錬成し眞如法性の顯現としての絶對の自覺的發動藍招來するのであ も / 七六 一 .

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/ う = 今、﹁栄ノ天竺室 序﹂の本によると、 本文内題の下には、 法經に根篠して、五悔を明された。 ﹁階ノ瓦官寺沙門、唾 の要目蓬弓かがふに、 繰 ﹁三七日法稚繊法ヲ行スルヲ獅修スルヲ明ス、第こ ﹁三七日行溌ノ前方便ヲ明ス、第二﹂ ﹁正シク道場二入テ三七日修行スル、一心精進ノ方法ヲ明ス、第三﹂ ﹁初テ道場二入テ正シク修行スル方法ヲ明ス、第四﹄。 第言一行者、道場ヲ厳淨スル法ヲ明ス。 第一言行者、淨身ノ方法ヲ明ス。 第三二行者、三業供養ヲ修スル法ヲ 第四二行者、三蜜ヲ諸スル方法ヲ明 第五二三蜜ヲ讃歎スル方法ヲ明ス・・ 淨身ノ方法ヲ明ス。 三業供養ヲ修スル法ヲ ︵二十五︶。 。 ﹁栄ノ天竺寺、天台ノ教観ヲ傳フル沙門b迩式、述ス﹂といふ撰號のある、﹁法華三昧繊儀、元本ヲ勘定スル 十によると、﹁天台大師、瓦官ニシテ親ラ筆ス。蓋シ、止観第三三昧ノ所指ノ別種︿即チ其ソ文也﹂といふ。 齢

宗學とは何ぞ

明 ス 。 三蜜ヲ誌スル方法ヲ明ス。 ノ智顎、諏チ法華普賢槻經及上諸大乘經ノ意ヲ采テ、此ノ法門ヲ撰シ、後代二流行ごと。そ 9 0 ノ / 、 ノ 七七

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第九二重ネテ謂經ノ方法ヲ明ス。j多

第十二坐祁實相正槻ノ方法ヲ明ス。

﹃略シテ修證ノ相ヲ明ス、第五﹂以上

今、要意を窺ふ便宜上、第四章正修行方法の五悔を明せる、繊悔六根の中の意根の節を銀ぐる。 至心二職悔ス。某甲一切法界ノ衆生恥無始ヨリ己來、意根不善ニシテ、諸法二食箸シ、狂態ニシテ了セズ。所総ノ 境二随テ貧順凝ヲ超ス。是ノ如キ邪念、能ク一切ゾ雑業ヲ生ス・所謂十悪五逆猶ホ媛猴ノ如ク、亦熱膠ノ如シ。虚変 二食箸シテ編クー切六情根ノ中二至ル。此ノ六根ノ業ノ枝條華葉、悉ク三界二十五有ノー切ノ生虚二瀧チテ、亦能ク 無明老死十二ノ苦事ヲ増長ぞ八郷八難、經歴セズト云うコト無シ・無量無邊ノ悪不善ノ報︿意根ヨリ生ス。是ノ如 キ意根ハ即チ是レ一切生死ノ根本、衆苦ノ源ナリ。經ノ中二説クカ如ク窪迦牟尼ヲ眺盧遮那編一切虚ト名ク。當二知 ルペシ。一切ノ諸法ハ悉ク是レ佛法ナリ。妄想分別シテ諸ノ熱悩ヲ受ク。是し則チ菩提ノ中二於テ、不清淨ヲ見直解 脱ノ中二於テ纏紳ヲ起ス。今始メテ墨悟シテ重潮悦ヲ生シ、重怖畏ヲ生シ、大乘ヲ諦持シテ、読ノ如ク修行シ、普賢 菩薩及上一切ノ世嫁二蹴向シ上り、焼香散華シテ意ノ過罪ヲ論キ、發露餓悔シテ、・敢テ覆職セズ。是ノ因縁ヲ以テ、 我ト法界ノ衆生ト、意根ノ一切ノ重罪乃至六根所起ノ一切ノ悪業、己二起り、今起り、未來二超ルペキ、洗瀞餓悔、 畢寛シテ清淨ナラシメ給へ。 、第八二行這う法ヲ明ス。 第七二餓悔六根及上勧請・随喜・廻向・發願ノ方法ヲ明ス。 第六一一魑佛ノ方法ヲ明ス。 =

宗學とは何ぞ

七八 、 ノ

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我レ比丘某甲、至心二糊請ス。坐 然シテ後.如來、常住二歸リ玉へ。 ﹁随喜ノ法ヲ明ス﹂ 我レ比丘茶甲、至心二随喜ス。華 諸

次に﹁糊請ノ法ヲ明ス﹂として、云く、,

我レ比丘某甲、至心二勧請ス。+方法界ノ無蛍ノ佛、唯グ願クハ久シク住シテ法輪ヲ稗シ、含嬢抱識ヲ本淨二還シ 随喜ス。 右の五悔について﹁教観綱要﹄に説明せるを引いてみる。第一の賊悔は巳にあげたが、次の ﹁糊請とは、斬り求むる義。即ち如來大慈悲の力を訴求するなり。蓋し菩薩は、自度を意とせずして、炭く一切を悪 念す。而も今、自らこれを救ふの力なし。故に如来の廣大の慈悲術く法雨を注いで、・一切を饒続し給へと勅諸するな -,廻 司 發シ我廻 願テレ向 ノ佛比ノ

琴雪暴琴

明求甲明 スム 、 ス L-. O至L一 心 廻 ・向 ス 0 我レ比丘某甲、至心二發願ス。 上、十地ノ勝常ノ樂ヲ修行セン。

宗學とは何ぞ

︵二十六︶ I 佛菩薩ノ諸ノ功徳、 願クハ命維ノ時、榊、乱レズ。正念二直二安養二往生シ、彌陀二面奉シ、衆聖二値 三業所修ノ一切ノ善.十方恒沙ノ佛二供養ス。虚空法界b霊未來、願クハ此ノ雨ヲ ノ 凡夫靜飢ノ有相ノ善、漏卜無漏トノ一切ノ業、比丘某甲威ク 七九

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/ すなはち、五悔は、今身より佛身に至るまで一貫した正格な行軌である。就中、第一の餓悔は通常の罪悪観念の徹 槐に發するが、餓儀の本文並に説明にもある如く、罪過はもとより、通俗の思想行爲生活一切を、その根元に於て妄 想の現象態なりと徹見し、絶對的本不生のところに、微塵もと営めず淨化し去る所以を槻ずるcつをり罪悪をより深 脳シ◎﹂ ﹃随喜とは、彼を慶ぶに名づく。世間と出世間と塗擦ぱず。凡て他の善恨を喜び、稀謎するなり。﹂ ﹃廻向とは、衆善を廻して菩提に向はしむるの謂・蓋し己が善を衆生に廻施し、以て同じく佛道を成せんとす。法華 經に、梵天の宮殿を施すとき、﹃願クハ此ノ功徳ヲ以テ普クー切二及ボシ、我等卜衆生卜皆共二佛道ヲ成ゼンo﹄と。﹂ ﹁發願、願とは要誓をいふ。凡そ一切の行業、若し願なくんぱ恐らくは退淡せん。恰も陶器の火を得ずむぱ、物を盛 るに堪えざるが如し。今誓願の火を以て諸の土器を堅からしむ。彼の二乗の如きは、僅かに次身減智を期するを以て 敢て願を要せざ鯉ども、菩薩は遠く未來際を議して、衆生を濟度せんと期す故に、大誓願を發して、以て退淡を防ぐ さらに五悔を總括して、その趣意を明して云く、 ﹁是の如く外に五悔を修して障道の悪を除き、以て内心の理観を助け、恰も順流の舟に更に櫨棹を加ふるが如く、内 外相應じて能く妙蝿の彼岸に到ることを得るなり。︵中略︶而してこの五悔は唯だこの位︵最初心︶にのみ修するに あら歩、進んで等路に至るまで、皆常にこれを修行して、内外相應して以て妙兇極果を證するなり。﹂ べきなり。﹂

宗學とは何ぞ

︵二十七︶ 、 、 ノ 八○ 趾 ー

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、 く見出すとともに、根騒ぐ張った本能的執意を抜き放つ意圖を堅確にしてゐる。之には第二の勧請に於て、諸佛菩薩 の照覧のもとになされねばならぬから、聖賢の加被を斬り求むる。第三に随喜が來るのは、悪は離れたとしても、を た善を喜ぶにしても、そこになほ自他の唾別を存し、自の善はよろこび、他の善はとかく嫉妬の起り易いのが凡情の 習性である。故にことさら、彼他の善、世・出、漏o無漏、大・小逓とはず、善法の限りに於いて純傭な氣持を以て 公明に慶ぶのである。人備め執を破して、法の立場に純化する所以。第四の廻向は、これがさらに積極的にはたらく 諸の本末・因果・大小・自他の善行功徳をぱ悉く、絶對の菩提の大善に廻らし向けて塔ひ、菩提の大樹を鯵茂増長せ しむる所以。第五はこの廻向集注の中核にある主体の室間的・時間鋤に確資化し、永績化するに在る。不屈不澆、三 世一貫、始絡通達せる願業として、初心より等妙の極果に到る目標方針軌道とそれへ・の熾烈な純粋な意志が決定せら世一貫、始絡︾ しむる所以。雄 五悔の第一は、事上、罪禰相對の現象に即して、愉悦を生し、深く罪禰、一切六情根の玄底に到る本性清淨の本理 に目醒めるとともに、第二の上、聖贋の加被を乞ひ、第三、下、自他の對立を亡して、衆善を純粋に慶び、第四、一 切の諸善萬徳を以て、菩提の根本を嬬萎し、第五、無上至純の菩提の誓願を發してむいょノー張靭熾烈ならしめ、以 て最極の妙果に到達するのである。 9 価て、五悔は、凡俗の事障に端を發して、ついに菩提の大願を成ずる次第であり、菫た菩薩の發心、發願の必須條 件の鱗成を、嚴しく究明せるものと見ることができよう。 さればこそ、天台大師は、法華純圓猫妙の教理によりて、その行位断證を明すに、詳しく八科を立て、初は五品弟 子、次に信・住・行・向・地の五十位と等妙の一莅を立て、その最初、五品弟子の第一随喜品位における唯一の行法

宗學とは何ぞ八一

る上のである。 口

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姑 を五悔となし、後の四口鷺 されたるは、明碓である。 ろない所である。 、 然し乍ら、これ迄、どういふ課か、佛數を殊に法花經を自晃的教學なりといふ立場から究明したるものを寡聞にし て餘りきいてゐないが、これは佛教自体の本質究明には是非とも、自蝿としての哲學研究を補助として、佛教の絶對 自認的宗教性について充分と精研を要する次第と恩ふ。 而も佛教は哲學ではない。哲學に止ってゐるものではないが然し、哲學が人間の知識學として相當高度の鋭敏を誇 るものだけに、かかる佛教の自墨的眞面目についての研究は、研究そのものの哲學的好題目たるのみならず、同時に 人類の文化へ光被する偉大なる光源を指示する所以ともならう。 幸ひ、かうした方面には、最近高楠博士等の新しい自然科學の研究や物理化學よりの新世界湖等の成果をかへりみ られて、いはぱ、6西よりの光に返照されたる佛教の眞償を紹介され、﹁東西思潮と日本﹂といふ馨作に大いに朝野の 名士識者に感銘を與へられてゐる様である。即ち、アインス銃インの相對性原理、愛子論、大原子學、ペ〃グソン、 而も佛教は哲學ではない。哲學に止ってゐるものではないが然し、哲學が人間の知識學として相當高度の鋭敏を誇 るものだけに、かかる佛教の自墨的眞面目についての研究は、研究そのものの哲學的好題目たるのみならず、同時に 人類の文化へ光被する偉大なる光源を指示する所以ともならう。 幸ひ、かうした方面には、最近高楠博士等の新しい自然科學の研究や物理化學よりの新世界湖等の成果をかへりみ られて、いはぱ、6西よりの光に返照されたる佛教の眞償を紹介され、﹁東西思潮と日本﹂といふ馨作に大いに朝野の 名士識者に感銘を與へられてゐる様である。即ち、アインス銃インの相對性原理、鐘子論、大原子學、ペ〃グソン、 0 佛教は全く、佛陀樺尊の大自毘に發源したこと、またその大自覺への懇切徹底の宗教であるとといふまでもない所。 .こ上に上來、自覺の構造について究明しつ上、佛教の自尭的本領を論じて來た。天台大師の立て前もおのづから佛 教の最高經典、澤尊本懐の經に根篠.立宗せられたこと、吾が宗租においても同様であること、これ亦今更いふまで

宗學とは何ぞ八二

二なし、後の四品位はもとより、等兇に到る五十一位にも必修の要目とされ、即ち初後一貫の自攝的行戦とも ︵二十八︶ 。 ~

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デイルクイ等の所説の理論が、やうやく佛教の根本的立場へ向ひ、近づきつ上あること、殊に日本縮測等の東西砺洋 の思潮の統一綜合性に位することを論明されてゐる。佛教を人間の自兇的文化として見直さうとの努力といへる。い まはすでに、時代は聴換してゐる。佛教をいつまでも伽薙の中に閉ぢ込めたり、た費漢字の陳腐な文章を虫に畷ませ て、職の中にもってゐるとしても、つまらない限りである。或は粗相の火のため、爆弾のため、次身滅智して了ふと き、そこに鶴るものはせいん、、やはり凡夫のいはゆるあきらめのみであらう。それは尊貴な経典への躁珊であり、 教主耀尊への誹誇であり、人類鑿性への冒涜となる。 我兵はよろしく、、追従の態度をすてよう。世俗の學問に文化に思潮に盲從や安協をすてて愈自覺的立場に立つべき である。佛教は、その立場に立ってのみ、眞の本領が了得できるのである。さきに述べた新しい哲學、科學の思潮等 も、あくまで自主的教養としてとり入れねばならぬ。また自躍的な研究方法でなくては佛教的方法ではなく、風の文 化へ、國家へ、世界へ、豊かな稔りを以て貢献できる鐸にはいかないであらう。 我が宗學に於いても同様、學徒の愼思すべき課題である。 自分はと上に、宗畢や台學のいはゆる教判に依らすに、自覺の本質樺遥について究明し、その論述の必要に應じて 教學の内容に鯛接しつL論じて来たのであるが、,更めて、一往宗學へのはしわたしとして考へ度いのは、なぜ天台大 師が法花経によって立宗されたか。換言すれば、新たな研究、自蝿としての佛教學から返照してみて、いかなる偵値 があるかといふ問題、これは亦台學に於いてはもとより、・吾が宗學徒にとっても必須な課題であらう。

宗學とは何ぞ八三

︵二十九︶

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I 〃 た営邇途の意味でも、宗學は宗胆の當身の大事の究明であるからには、宗祗の精榊生活をうかがふくく、自墨の光 を以て照らさねばならぬことはいふまでもない。所が資はこれまでその方法が明確ではなかったやうであるo今こ上 に、論述し來つた光りによって照らしみるとき、眞實のはたらきょうが活き11と全休的に寿されると信歩ろ。即ち 事型一観も五綱も三秘も、殊に戒鯉も罐折も、或は立正安國も、教相も槻心も、宗祗の生涯も、すべてが猫羅果を鐡 中にさ上ぐるが如く、活けるま上に内観できるのである。 宗姐の内生活は大慈大悲と二一戸では申すものの、非常な深刻の憐みをもち、また悦びをもち乍ら、叉一方、凡慮を 絶する雄揮な抱負となりゆくさまが、歴交と肯くことができるのであるo〆 その一端にふれるには,これ牢その論述に開運して、さきの天台の自蝿への正格たる繊悔乃至五悔を以てみるのが 便宜である。自錨はいよ﹄l高まるとき、その光の照らす塞間的領域性より、主体的には責任を執ること、蜜たそれ さきにもいふ通り、上來台學に幾分ふれて來たのは、天台の教判は且くをいて、その本質的行法のほんの筋道だけ であった。価て今、之に關聯して、法花經は果して、いかなる意味をもってゐるか。︵是れ賛に佛教全休の結論とな ると考へる。︶殊に法花經の読相、意味の緋成の上から、いささか攻究を進めよう。 さらに進んでは、吾が宗胆に於かれては、かういふ自墨の問題については、どう語考へになり、どういふ寳際の御 生涯であったであらうか。之は根本宗學の問題である。また本質宗學への出發である。今はその概要だけを述べよう と恩ふ。. 〆

宗學とは何ぞ

へ 三 十 一 〃 八四

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、がいよ﹄、深まるにつれて、時間的歴史性より傳統の体認、攝持となって、雨者とも、罪悪意識は、まずノー鐙く深 く感ぜらる上に至ることをすでに述べたo たしかに、現在的な責任も一の罪悪意識につながる。過去に對する繊悔は無論、さらに時空を絶する底の絶對自覺 的立場の法花經には、戯悔が至極の一道として展かれる。すなはち天台の所謂事理二戯乃至逓悔として、今身より佛︾ なほこれに先立って、法花經班舞検する。それが天台の餓法の根蝶たるのみならず、絶對自覺の佛教の最高経典た る意味に於いて、戯悔思想が営然あるべき所以であるからである。 先づ第一、思想としてみると、本迩開頴は佛陀の絶對自攝の教化、行修の極限たる意味を顯はし︵述門︶さらに進 んでその極佛境界の丙證を充全に頴發せられたるもの︵本門︶である。こ上から始めて、我糞末代凡夫一般の眞の自 墨的行法が發働し來る次第となる。そのとき、いはゆる從因至果の断證︵爾前の教行證︶でなく、從果向因の断證︵ 證即断、断即證︶として、法花謡流通分の諸の流邇行法が展開せられ、その要約が、普賢品の四法成就の糊發となり なぼ槻普賢菩薩行法經の峨悔の槻法に結ぱる所以である。・ 価って以て、断の經曾一園流体の史賛はともかく、我が國に於堤、聖徳太子の御講鑑も且くを賂、聖武天皇の 御宇、全図に國分寺、國分尼寺の創建せられ給うた際、國分寺には仁王・最勝王●金光明等の護國.の三部經を奉安せ

宗學とは何ぞ八五

忽 ﹃

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身に至るまでの一貫の大道である。 そこで、これが礎は宗胆の内面生活にそのま上あては垂るか、どうかといふ問題である。 0 ︵三十ご 、 、

参照

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