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戦いと敗北

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Academic year: 2021

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リカルダ・フ-フ 著

梅内 幸信 訳・注

( -) エスティーヌス・ケルナIは'かつて次のような所見を述べている。つま-'似非合理主義が'前の世代'すなわち自 分が生まれる十年から二十年前に開花Ltその最盛期をフランス革命時に迎える世代にのみ依存していることは驚くべき ことではあるが'それは自然の理に基づ-ものであ-'当然の結果として'今のロマン主義と哲学は'個々人にとってで はなく'時代にとって重要なのであるtと。 最初のロマン主義者の誕生は六十年代半ば以降に当た-'次の世代のロマン主義者の誕生は八十年代の半ばに当たって いる。一七九〇年以後は'散発的に追随者が現れるに過ぎない。従って'すでに一八二〇年頃には成長してきた新たな世 代の似非合理主義者が'古い世代の代表者に出会い'後者の手から滑-落ちた武器を拾い上げたのであった。ロマン主義 者たちは'最初から戟士であった。彼らは'新たなるものを宣言すると同時に'古きものに戟いを挑み'攻撃したのであっ た。しかし'彼らが勝利を占めるや否や'勝ち誇る新たな敵対者たちと対峠Lt今やこの敵対者たちが今度は攻撃Lt ロ マン主義者たちを防戦へと駆-立てたのであった。そうこうするうちに'いつしかこの状況は逆転Lt若さと活力'それ に伴ってついには正義までもが「似非合理主義者」ないし「物理屋」に移-'老いと凋落がロマン主義者に乗-移ってし 戦   い   と   敗   北

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リカルダ・7-フ著 梅内幸信訳・注 まったのである。 ( c * ) ( c o ) シェリングとシユレ-ゲル兄弟は'イエーナにおいて輝かしい勝利を占めていた。若者たちは'自らがまだ若いこれら のロマン主義者たちの所へと殺到Ltその芸術と学問'そして人生は'ロマン主義の色彩を帯びていた。敵対者たちは' 憤りながらも'なす術な-傍観せざるをえなかったが'だからといって'抵抗しなかったわけではない。合理主義神学者 ( 4 ) のパウルスは'イエーナにおける注意散漫なロマン主義者たちの行-所ならどこにでも付きまとって'彼らの邪魔をLt もっと大きな打撃を加えられるチャンスを狙ったのである。一八〇二年に'北方から「合理主義者の大異端審問官」であ る老フォ右が,イエーナにやって来た.イエーナの街は,まだロマン主義的ヴアルトホルンの音色を反響していた.しか し'その反響が四方の丘の上に漂っていた'ある種の刺激的で麻痔させるような雰囲気のゆえに'イエーナの街は冷静な フオスにとって'堪え難いものとなったのである。束の間席捲したものの'フオスは'一八〇五年の夏に'バーデン大公 の招碑に応じてハイデルベルクへ赴いたが,その豊かな自然の只中で,ことのほか満悦していた。クロイツァ圧打外には, いかがわしい人物は見当たらなかったが'そのクロイツァーでさえ彼には'自分よ-はるかに若-'大変慎ましく'内気 ( 蝣 > ) ( o o ) な印象を与え'一見御し易-見えた。ブレンタ-ノとアルニムもまた'今や相前後してハイデルベルクにやって来たばか ざ く ろ りではなく'後にフオスが用いた表現にならえば'彼らはむしろ巣造-をLt 「大抵は'石棺色に火花を散らすオリエン トと南方の陽光へのおぼろげな観念に浮かれ騒いでいるだけで」'それゆえフォスには'確かに滑稽ではあるもののt L かLt無害なものと思われたのである。実際フオスは'ブレンタ-ノとアルニムtと-わけアルニムの方に共感すらもっ ていたがt LかLtそれ以上に二人の方が彼に共感を抱いていたのである。というのも二人は'直接民衆の中から現れ' 素朴な農夫の'自然力溢れる雰囲気に包まれたフォスの外見に対して'ひたすら理解と愛着を覚えるのみであったからで ある。クロイツァーは'夕暮れ時にフォスの姿を時折見かけたものであったが'彼は人間として'また'一家の父親とし

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て非常に尊敬に値するように見えたtと述べていた。そしてブレンタ-ノは'才能があって活動的でいながら'全くわざ とらしさのないフオスのエルネスティーネ夫人に対して心からの愛情と尊敬の念を覚えたのである。 しかしながら'やがて判明したことは'農夫が農夫たるゆえんは'洗練された文化人の目から見れば'自分の憧れてい る自然そのものだという点にあ-'自己の見解を主張し'それを文化人たちに押しっける農夫などではないということで あった。フォスのロマン主義者たちに対する反感の中には'気球や自転車がうな-を上げて通り過ぎるのを見るとき'即 座にその乗り物を'それに乗っている旅行者もろともたたき壊してしまいたいと思う'そういった農夫の破壊的な憤激が 幾分潜んでいた。ロマン主義者たちが自分たちの理念を一層声高に述べ始めるや否や'フオスは彼らが自分とは異質の人 間であることに気づいた。つま-'自分よ-高い文化段階にあるものの'自分に先んずることによって'自分には残って いる活力と健康を損なってしまった人間であることに気づいたのである。ロマン主義者たちが勝ち得たものをフオスは評 価しなかったし'また'彼らが失ったものを理由にロマン主義者たちを軽蔑したのである。さらに'素性による対立点も ないわけではなかった。アルニムは貴族であったLt身分の高い南ドイツ人とイタリア系ユダヤ人の息子であるブレンタ-ノと'低地ドイツ生まれの農夫の息子であるフオスとは'全-共通点はなかったのである。ブレンタ-ノのごとき人間 ( 9 ) は'笑い者にして小馬鹿にすれば'簡単にや-こめられると'フォスは考えた。それよ-も対応に難しいのは'ゲレスで あった。というのも'彼の現代流の考え方は'健全で素朴な'確固たる天性から生まれていたからである。そこでフオス は'ゲレスを最も危険な敵対者として憎んだのであった。 慎まし-'天才めいたところのないクロイツァーは'あれこれ考え続けることができたかも知れないLt アルニムとブ レンタ-ノは'子どもじみた韻律で歌い続けることができたやも知れない。彼らは'「もじゃもじゃ髭の間諜」ゲレスが' 「古代ドイツ人風の'茂みのような髪の下に'目を落ちつきな-動かし」'彼らの先頭に立つことによって初めて'重要な 戟   い   と   敗   北

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リカルダ・フ-フ著 梅内幸信訳・注 存在となったのである。この点において'フオスの勘は誤ってはいなかった。実際ゲレスは'その小さな群れの魂であっ て'その人格によってばか-ではな-'その理念によっても仲間たちを感激させた。確かに'ゲレスは創造者ではなかっ たがt LかLt クロイツァーの名前と分かち難-結び付いている象徴学の提唱者であることは'間違いない。 ゲレスは'当初「聖なる調和」というロマン主義的理念を明断な言葉でもって宗教に応用していたが'それは'諸々の 宗教間における関連と'それらの宗教が一つの同じ原初の宗教から由来しているという仮定に基づいていた。永遠という 深淵において'神性それ自体は'なんら歴史をもつものではな-'歴史的時代に入って初めて神性の歴史は始まると'ゲ レスは教えている。「歴史は'神性にとっては俗世の人生である。それは'内的にして神的な人生の濁-なき平穏の内部 で'大河となって轟音を立てて流れゆ-のだ。そして'内的にして神的な人生が'なんら年齢や転機というものを知らず' 昼夜に分かたれず'年代と世紀に分かたれないのに反して'俗世の人生は'まさにその無限さゆえに不滅のものであるに もかかわらず'果てしのない転身のあらゆる形態を突き抜けてゆ-運命にある。」従って'あらゆる時代に当たって神性 の理念は同じであったが'反射した神の観念は同じではなかった。つま-'神性の観念は無制限に成長し'宗教の外的な 具体化は宗教と共に進展し'時代時代にはそれぞれの預言者が存在して'その時代の言葉で語った'というわけである。 しかしながら'このロマン主義者ゲレスにとって重要であったものは'古代オリエンIにおける諸民族の発言であった。 というのも'その言語の中には四大元素の余韻がなおも続いてお-'その言葉は稲妻のように予言的な夢の中から立ち現 れtと-わけ'よ-高い真実の啓示となっていたからである。これに反して'ゲレスの見解によれば'古代ギリシアの時 代において人類はすでに目艶め'そして'欺くことのない直接的な夢の観念を最早彼らは持ち合わせていないと言われる。 ( 2 ) パサヴアンは'こう言った。「一方、自然研究者たちが'ギリシアやローマの智恵に満足せず'一層厳格な母親を'まさ しく精神と自然のもつ誤解された諸々の力が'古代の伝説と慣習において今日に至るまで兄いだされるオリエントに求め

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たのも偶然ではないのだ」と。 これらの考えは'信心深いキリスト教徒たちばか-ではな-'ギリシアを愛する人々においても矛盾をきたすこととなっ た。つまり'前者の人々は'キリスト教とその他の宗教との間に一つの本質的な相違を措定Ltこのキリスト教を'例え ばア-ダム.ミユラ圧がように,(一つの)宗教ではなく,宗教(そのもの)と見なすことができると主張したのである. また'同様にしてヘレニズム研究家たちは'ギリシア文化を独自のもの'原初のもの'なにものによっても規定されない ものと考え'これを'まさしく美の最初にして神的な現象として'形態ももたずに横溢するオリエント文化に対置したの であった。 クロイツァーは'ゲレスの理念に触発されて'古代のあらゆる民族における宗教的象徴の関連をtと-わけギリシア神 話が一層古いオリエントの神話に依存していることを示すという課題を提唱したが'これによってクロイツァーは'自分 の最も得手な領域においてフォスに挑戦したのであった。フォスにとって'彼が作-上げ'告知していたギリシア観を埋 没させまいとする意図は'彼の個人的虚栄心から-る事柄であった。フォスは'神々の住むオリンボス山をプロテスタン ト的にして'啓蒙的に扱った。つまへ神々の世界は美し-澄み'大理石でできていて'秘密も深淵もないのであった。 (1 2) ロマン主義者たちは'ギリシアの神々をオリエン-化しょうと欲した。フォスとヴイ-ラントによってギリシアの神々は' 通俗性と「心情を欠-優雅さ」を獲得したが、これがロマン的心情の人々に反感を抱かせたのであった。ゲレスとクロイ (2) ツァーの活躍がなければ'シエツツは一八四一年に'ヘレニズム文化は'プロテスタントよ-もカトリックの方に親近性 をもっていると主張できなかったであろう。ゲレスとクロイツァーを通じて'ギリシア文化が古代オリエントの理念を伝 えながら'ある意味でカーリックと関係づけられたということ'まさし-このことがフォスを最も憤激させたのであった。 フォスが学校において'格別人間を陶冶するものとして'ギリシアの歴史と文学に主たる重点を置-ことを主張したとき' 戟   い   と   敗   北 Wa9

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リカルダ・7-フ著 梅内幸信訳・注 彼は当然のことながら'プロテスタント的で自由なドイツに適合させられたギリシア文化を用いていたのである。まさし -この文化が'彼がドイツの若者に役立つと考えた理想を教えていたのであった。突如として'自分の学校計画と一致し 難いギリシア人とその神話に関する事柄が主張されたこと以上に'フオスを憤慨させるものはなかったのである。また' ゲレスとクロイツァーが提出した見解は'すべてが文字通りに証明されるものではなく'普遍的な見地から組み立てられ' 天才的感覚によって予感され'人間の空想力によって探求されなければならなかったので'あっさりとそれらの見解に詐 欺の熔印を押す方が'極めて簡単かつ妥当な方法であった。フオスは'沢山の事実を寄せ集め'説明することで満足した。 が'クロイツァーにとって諸々の事実は'それらが理念をもたらすもの'すなわち一つのより高い統一へと関係づけられ る象徴となるときにのみ価値をもつものであった。その際色々と謬見が入-込んでいたことが'フオスに'自分の敵対者 たちを'僧侶支配に仕える軽薄な詐欺師と呼ぶ格好の機会を与えたのであった。というのも'「学問の固い殻を文献学的 にかじり取る」 フオスにとって'諸々の宗教の有機的関連という考えとその意義は'完全に未知のものであったので'彼 にはその考えが'後ろめたい目的を蔽い隠すごまかしの手段であるとしか思えなかったのである。 フオスがロマン主義運動をどれほど誤解していたかは'次の事実からも分かる。つまり彼は'ベルリーンでフリードリ ヒ・ヴイルヘルム三世の周-に集った「信心家並びに奇跡の宗派」をロマン主義運動の出発点と見なし'同じように彼 らの目標が「教皇制度を礼賛する秘儀の伝播」にあると考えたのである。フオスは'この秘儀にユング・シユティリン ( 3 ) ( 1 5 ) グと'「貯智に長けた僧侶たちの計画を悪意なしに促進した」 ラーヴア-タ-をも結び付けてしまったのである。これよ ( 2 ) ( 1 7 ) -はるかに正しかったのは'フオスがロマン主義の哲学的萌芽をカントとフィヒテの中に見たことであった。「仮説を立 て'自己を(構築する)理想主義的思想家がこのように増加し'彼らと'これまた増加する理想主義的詩人たちは親交を 結んだが'この詩人たちの理想と野性的にして原初的叫び'粗暴な力をもつ中世の原始的芸術は'ロマン主義の名の下に

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ローマを礼賛したのである。--活力のある若者が仲間に加わるよう'公然と招かれた。保護を必要とする若者たちが' 御供となって付き従った。そして'ついに一八〇七年に'頭目であるヴイルヘルム・シユレ-ゲルが'声高な叫びでこう 告げ知らせたのである。僧侶時代を若返らせ力強-するために'﹃気高い人間による目に見えない共同体を作ろう﹄tと。」 フリードリヒ・シユレ-ゲルは'ある一つの詩の中で'詩人の目標と本分は'「騎士文化が敬慶さと結び付いていた」 時代におけるドイツ人の名の英雄的栄光を再び打ち立てることであると書いた。もちろんこれは'純粋に愛国主義的な性 格のものであった。しかし'ヴイルヘルム・シユレ-ゲルがその詩や他の詩のために予め送っていた解説と推薦のための 批評を'フオスは真剣に'「領主と民衆にとって好まし-ない夜の太陽を造り出す」ための'「良俗に反する」同盟が存在 していることの証明であると考えたと思われる。興味深いことは'ロマン主義者たちが'あらゆる事柄における有機的関 連を認識し'すべての現象を無意識から説明しようと努めたのに反し'彼らの敵対者であるフオスは'至る所で意識的な 目標を求めていたということである。犯罪的な意図があると思い込んだことによって'フォスは敢えて、確かに滑稽では あるもののt LかLt野卑で並はずれた悪口雑言に訴えたのであった。 フオスの最初の公の攻撃は'アルニムとブレンタ-ノの民謡収集に関連して行なわれた。フォスは'「隠者新聞」 の中 で彼らに攻撃されたと思ったのであった。つま-フオスには'ロマン主義者たちが'単にオリエント文化ばか-ではな-' 民族文化や古代ドイツ文化によって自分のギリシア観を威嚇していると思われたの.である。﹃ニーベルンゲンの歌﹄ は' ホメロ瑞軒ギリシア人に対してもっていたのと同じ意味を,ドイツ人に対してもちうるであろうとアルニムが言ったとき, フオスはこれに対して'それは宮殿を豚小屋と比較するようなものだと応じたのであった。フォスは'民族文学に関し ( S ) てニコライ鮎が似非合理主義的理解をもっていたのである。彼の息子であるハインリヒは,民俗童話とムゼ-ウスの童話 ( 2 1 ) との関係は'骸骨とダンネッカーのシラー像との関係と同じだと感じた。しかし'素朴'子どもらしい'自然なという言 戟   い   と   敗   北

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リカルダ・フ-フ著 梅内幸信訳・注 葉は、実際の話'日常茶飯事に属するものなのであろう。老フオスは'アルニムとブレンタ-ノの民謡収集を'「いくつ かの古臭い教会賛美歌と一緒に我々の目の前にぶちまけた'鼻垂らし小僧の'あ-とあらゆる汚い'反抗的な無用の流行 歌の救いがたいごたまぜ」と呼んだのであった。フォスは'常に意図的な悪意を想定していたので'ここにおいても'自 分たちにとって良いと思われる場合には'敢えて自らの意志によって民謡の変更や補足をしたことを全く包み隠さなかっ たアルニムとブレンタ-ノを'詐欺師として非難した。さらにフォスは'彼らの作品を'「悪ふざけの改窺ばかりの'が ら-たの山'それどころか'拙劣な自作さえ詰め込んだもの」と呼んだのである。 アルニムは'最も長さに亙ってフオスの朴納さを信頼してきただけに'これには一層憤慨Lt攻撃するフォスの根も葉 もない誹誘中傷による主張を'高飛車な非難の言葉で叱責した。そして'ことのほか真剣に'フオスが古代の教会歌を 「ロマン主義者が'その主なる神に捧げる歌」と題して'次のようにもじったことを非難したのであった。 主よ'我は喜んでかくあり続けん。 今の我のままに'御身の憐れな忠犬は。 ロマン主義者たちの小さな群れは'クロイツァーを除けば'すでにハイデルベルクを去っていた。が'そのときデンマー ク人のバガズ   ここに1時期定住して,その機知と活発な才能をフオスのかな-荒削-な天分と合体させ,「ロマン は や り チックなぺてんを用いる腕白小僧」 の「未熟で可愛い流行のおしゃべ-」に対して'公の噸笑を発した。バガズンが一八 ざ く ろ り ん 一〇年にテユービンゲンのコツタ社から出版した噸笑詩選集﹃石棺石'あるいは呼び鈴年鑑'完成したロマン主義者と新 進の神秘主義者たちのためのポケット・ブック﹄は'若いロマン主義者たちが自分たちの敵対者に対して浴びせた奇妙に

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娩曲的で'苦心して考え出された噸笑抑捻よ-もはるかに機知のある'正鵠を射たものであった。たとえ'大いなる内的 確信をもってロマン主義者たちの味方をするとしても'やは-'この悪漢ソネットの快い冗談に出会うと'一緒に笑って しまわざるをえない。その作者たちは'敵対者たちの傷つきやすい面を - ひょっとして'作者たちがその深い意味を理 解していなかった'まさにそのせいかも知れないがI t素早-臭ぎつけて'悪意からというよりは'楽しみのために' 扱う内容に益々つられて'滑稽なまでに誇張した形で措いている。 対立する両極を結合するというロマン主義の逆説'この結合の射程が学問的原理であることを'フオスは把握していな かったのである。しかし'このことは彼にとって'鵜鵡のように口真似するロマン主義の信奉者や学徒がその逆説を乱用 したのと同じように'ナンセンスであることは明白であった。ロマン主義の逆説を'次の「疑惑と信仰と信頼」というソ ネットが適切に表現している。 孫娘が先祖を産めようか- 肉体のもつ光が精神の闇から生じえようか- 牛糞が一体、石棺石に変じえようか- 過去が未来となって永遠に続さえようか- かく汝は間う ー されば'理解せぬのですか-神々の美酒がキクヂシャから作られ'蜂蜜がカブからできることを。 糸巻き竿を操る'天使を宿す処女が' 戦   い   と   敗   北

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リカルダ・7-フ著 梅内幸信訳・注 アスパラガスの頭と麦の穂からできることを。 古き創造と新たなる深淵に感謝あれ' 神な-とも'汝は永遠に神々しく信仰できよう' 絶望に満たされLとも'絶えず陽気に希望を抱けよう。 たとえ'創造主御自らが極楽往生永眠せLとも' その聞こえぬ音色は'耳の聞こえぬ者たちを喜ばせよう。 石棺石の門は永遠に開きしゆえ。 同じように愉快な方法で'恐怖小説が次の詩の中で風刺されている。この詩の表題は'「月の光に照らされた冬の夕暮 れの感動」となっている。 彼方の僧院の壁は'なんと悲しげな光を放つことよ! 我が体内の血は'不安に騒いでならぬ' 一万一千の処女たちが血を流すさまを見るごとく' 半ば生まれし天使の畷り泣きを聞くがごとく。

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また我には思われん'教会の窓々が'尋常ならざる 幽霊の炎で輝きてあらんと。 見張-の角笛の音が'塔の上よ-虚ろに響き-る。 墓地の地中の納骨室から立ち昇るかのごとく。 とうの昔に朽ち果てLt高僧たちの脆き亡骸が' 信徒たちの慣腰の傍らで揺れん。 星辰は'死神のまごうかたなき鎌のごと-見えん。 あらゆる魂が死んだごとく'我には思われん。 かしこでは若者も乙女もな-果てん' 骸骨のお化けの'白い雪の上に映る全き影のごと-。 この種の攻撃を'フモールと洞察力のある人間であれば'恐ら-甘受したことであろう。しかし'この感じのよい弓矢 のお返しとして'ロマン主義者たちは徐々に頑丈な武器'鞭'梶棒を用いるようになった。あ-とあらゆる手段が用いら れ'フオスの不機嫌は極めて激しい怨恨にまで高まったのである。﹃呼び鈴年鑑﹄が出版された同じ年に'ゲレスによる ﹃アジア世界の神話史﹄と'クロイツァーによる﹃象徴学﹄ の第一巻が出版された。これらの書物は'オリエントの宗教 文化とヨーロッパの宗教文化との関連に関する見解が明確に展開されたものであった。﹃象徴学﹄は'ハイデルベルクに 戟   い   と   敗   北

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リカルダ・フ-フ著 梅内華僑訳・注 おいて自らがすでに重鎮とな-'フオスの学問的見解を完全に凌駕していたクロイツァーの名声を'今や一層広めること となった。若者たちが雪崩を打って敵対者の側につき'これがために彼ら自身が身の破滅を早めるさまを傍観せざるをえ なかったゆえに'この老教育者フォスは憤慨したのである。しかしながら'これらの事柄は'差し当たりナポレオンの失 脚とドイツの動乱という政治的な大事件に遭遇して'色あせたのであった。これは'ロマン主義者たちにとっては栄光の 時代であった。自分たちの見解は非ドイツ的となじられたにもかかわらず'彼らは'危機の時代にあって祖国の名を勇気 をもって公言したのであった。これに反し'老フオスは一八〇五年に'ナポレオンを冗談交じりに「我らが同盟者」と呼 び'彼の息子ハインリヒは'イエーナ会我の後にこう書いたのである。「一旦こういう事態になったからには'フランス 人がさらなる勝利を収め'早-平和になることを心から願う」と。 しかしながら'勝利の感激が消えたり'醜い内紛が始まると'昔ながらの争点に政治的な対立が加わ-'これが敵慢心 に燃える人々を毒してしまったのである。一八一九年にバーデン州の議会が開かれると'そこにおける主要な役割は'自 由主義の党に委ねられた。これに属していたのはフオスとパウルスで'パウルスは一八二年以来'ハイデルベルク大学 の教授を務めていた。クロイツァーと,ロマン主義の考えをもつ宗教家ダウ琉町反対の党を支持した。今や,実践問題 がテーマとな-'具体的な目標が重要となったので'敵対者に邪悪な意図を擦-つけるというフオスの習性は'いよいよ もって地歩を得たのであった。つまりフオスは'クロイツァーとダウプは'自由主義的革新のために現体制が転覆するの を見た-ないがため'彼らは'民衆が衆愚化と奴隷制にあえいでいた「ヒルデプラントの司教座聖堂参事会時代」を再興 しょうとする「僧侶及び従士の青年隊」の一員となっている'と言ったのである。他方'クロイツァーも幾分憤慨して' こう書いた。「フオスは今や'自ら宗教と国家を作ろうとする'ご立派な同業組合の一員となっている」と。 ロマン主義は'この頃あらゆる領域において無敵であったがゆえに'フオスは光明と分別を救うために'なにかしら手

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( 2 4 ) 荒なことを企てねばならないと考え'その標的として老シユトルベルク伯爵を選んで'この人物に見られる僧侶気質の鈍 感な唆昧さ」と同時に'仇敵を破滅させようと目論だのであった。シユトルベルクは'彼自身の言うところによれば' 「鍛冶の神ウルカヌスは'自分にヤスリは拒んだものの'炎は授けて-れた」 のだが'その年齢と性格からしてロマン派 In の時代ではなく'シユトウルム・ウント・ドラングの時代に属していた。青年ボワスレIは'このシユトルベルクをゲー ( 8 ) テとの対話の中で'カトリックに改宗したプロテスタンー教徒たちの中の英雄と呼んだ。これに対してゲーテは'「そう です。あの人の中には溢れる人間性が'偉大な心情'天性が具わっています。子どものいたずらと見えるものでさえ'本 来的な人間性に溢れていることを示しています」と応えたのである。にもかかわらず'ひょっとして自分たちとは全-違っ た人間であるという'まさにそのゆえかも知れないが'カトリック教徒となったロマン主義者たちは'一八〇〇年に行な われた彼の宗旨変えによって一連の改宗の契機を作った'この高貴にして愛すべき老人を尊敬したのであった。ア-ダム・ ミユラーは'自分の「官報」に時代精神に関する論文を寄稿するよう'シユトルベルクを促した。実際'シユトルベルク の宗教史は'動揺していた人々に少なからぬ影響を与えたのであった。 僧 侶 気 質 と の 戦 い に 利 用 さ れ た 機 関 誌 は ' パ ウ ル ス に よ っ て 発 行 さ れ た ﹃ 警 句 ﹄ ( S o p h r o n i z o n ) と い う 雑 誌 で あ っ た 。 ここに'パウルス自身によって書かれたシュールベルクの宗教史への批判と'一八一九年にはフオスの悪評高い論文「い かにしてフリッツ・シユトルベルクは不自由身分の人とな-しか」が載ったのである。ここに見られる誹誘中傷の信仰心 のない粗暴さは'プロテスタントの同志にすら嘆かれ'ひど-非難されたのである。粗暴さによって至る所で生み出され た胸苦しい印象を一層強めたのは'その後間もな-起こるシュールベルクの死であった。思いがけぬ卒中が彼の晩年に' すでに暗い影を落としていた。ひとえに他人の非難と自己の良心の吋責に堪えるために'フォスは思わず知らず益々激し く'「最大の危機が近づいてお-'ドイツは推測通-の反啓蒙主義同盟によって深刻な危険に曝されている」という考え 戦   い   と   敗   北

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リカルダ・フ17著 梅内幸信訳・注 ( 2 7 ) の中へのめり込んでいったのである.ベルテスは'フオスがシユトルベルクを攻撃した論文の'クラウディウスに関係 ( S ) する意見に触れて'訓戒を公にする決心を固めた。この訓戒にフオスとパウルスは'ベルテスはカトリック教プロパガン ダの道具であり'救世主・伝道金庫からお金をもらっているという中傷によって応えたのであった。 一八一九年は'明確に際立った特色をもった年であった。反対派の若者たちは激しく反発したが - 不運な学生ザント ( 8 ) は'コツツエブIを殺害したのである1 ㌧ ロマン派は'なおも調停という品位のある高い水準を維持していた。秋にゲ レスが'その断固たる民衆擁護の政策ゆえにプロイセン政府から迫害されてフランスへ逃れ'追放の身で次のように書い た。「若者たちは'旧制度への憎悪の中で成長してゆ-。ならず者や愚か者たちは'その憎悪から身を守ろうとして群れ に分かれ'日一日とその憎悪の正当さを証明しているのだ」と。ゲレスの﹃ドイツと革命﹄は'同じ年に出版されたが' ( 3 0 ) これは諸政党の極めて雄大な展望が得られる模範的書物であった。にもかかわらずゲンツは'ゲレスの﹃巨大鷲ペン﹄か ら新たな確信を'彼自身の言葉によれば'「呑み込んだ」後'勝ち誇って - というのも'「彼は'この獅子を手なずける こと」に'はるか以前から野望をもっていたからであるがI tこう書いたのである.「概して言えば'ゲレスは我々の 掌中にあり'我々から逃れることはできない。民主主義と共に彼は'今や永遠に破滅した」と。 およそ一八二〇年頃に'ロマン派に老化の兆候が現れ始め'あちこちに老化による衰弱が見られるようになり'新たな 世代がロマン派を背景へと追いやるのである。若者の常として'彼らは'自分たちになんらかの理解を示すような年配者 たちとは関わり合いにならないものである。若者は'自分たちは年配者たちとはなんら共通するところがないことを示そ うとして強い態度に出るが'すると'年配者たちの方も'これまたそういう食い違いを悟って'苦々しさと反感を覚えて 過-のである。一八二二年にまずクロイツァーが'大学で教授たちは神秘主義者の集団と物理屋の集団に分かれ'後者の 集団はフオスやパウルスと素晴らしい関係にあって'「極端この上もない経験的方法を玉座に据えようとしている」と述

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べた。憎悪に満たされたロマン派の敵対者たちが'他でもないロマン派の人々が栄光と重要性を付与した物理学という言 葉を標梼したことは'なんと奇妙なことであろうか! 蝣 -> . I -> . ヴ ア ー グ ナ t i ) は , 一 八 一 九 年 に , 次 の よ う な 正 当 な 見 解 を 述 べ た . 「 自 然 哲 学 に よ っ て 見 る 目 を 与 え ら れ た 自 然科学者たちは今や'まるでその日を初めから自分でもっていたかのように用い始めたが'その日によって得られた発見 を'まるで哲学者など必要としないかのように'面と向かって鼻にかけている」と。 五感によって知覚されるもののみが評価に値するという見解が'若者の間で定着している今となって'ゲレスは'二十 年前に市民的な形式で挙げた自分の結婚を'遅れ馳せながらもう一度教会で執り行なったのである。 すでに駆逐されてはいたものの'もちろん外部に向かっては威勢よ-見え'上層部からは以前にも増して保護を受けて いた敵対者たちの背後にあって'フオスは反象徴学という重火砲を雷のごと-撃ち放っていた。息子ハインリヒの死によっ て陰欝になっていた老フォスは'自分の辛殊で'学生めいた豪語によって書き上げた書物の中に'積年の恨みを爆発させ たのである。この自分の敵対者全員に重火砲を浴びせるために'フオスはこの書物の中で象徴学の起源を'亡き文献学者 のハイネに遡らせた。ハイネはフォスの先生であって'彼はこのハイネと最初の喧嘩をしていたのであった。「ナイル河 ( 3 2 ) の汚積から太陽が虫をわかせるように'現代のハイネ=ヘルマン流象徴学から'クロイツァーの象徴学という害虫がイ ンド宗教の陽光に当たって生まれたが'これはむかつ-ような虫けらの群れだ。一切合切が腐敗から出たものだ。」「変装 者」にして「熱狂的サンキュロット党員」のゲレスがこれに応じて'その宗教は'上部アジアから出て'「インド人の聖 母が生んだ詐欺的似非キリスIである」クリシュナ神が'未来の救世主という考えを明示したインドを通じて'最後にゴー 下人の聖堂に入り込んだものであると教えたのであった。フォスは'「冷酷で淫蕩な東洋人」と'インドのバッカス神を' 「もうもうたる神話の煙で夢うつつとなり'自分を信ずる敬慶な人々をも煙に巻くこの目の赤い無頼漢シヴァ=ディオ 戟   い   と   敗   北 EZI

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リ カ ル ダ ・ 7 -7 著   梅 内 華 僑 訳 ・ 注 杢 ニエソスを」したたかに罵っている。生殖能力の旺盛な牡牛は'まさにこの特性のゆえに神性の象徴となり'さらに'太 陽と蓮の花も神性の象徴となるという考えを'フオスは愚かし-下劣なものと見なし、「インドの太古の黍明期に生まれ' 西方へと光り輝き進む太陽のごとき牡牛ディオーエソスを'インドにおける太古の幽霊」と呼んで茶化そうとしたのであっ た。「あの熱狂的象徴主義者は'なにかしら牛らしさものを認めれば'たちまちその牛の尻を追いかけ'後の尻尾をつか まえて'最近の時代から太古の神秘的な洞窟の闇へと引きず-込むのであろう。」 ついにフオスは'クロイツァーを不潔 な男と呼んで慣らなかった。というのもクロイツァーは'旺盛な繁殖力の象徴を指摘して'「球状の牛糞から生まれた神 秘的な黄金虫を'太陽と繁殖力と輪廻転生の汚い形象」として解釈したからで為る. クロイツァーは'自分の名声が色あせたことをこの攻撃のせいにしたのであった。彼はゲレスに宛てて'「今や'すべ てがフオスの完全に新鮮な反象徴学に満ちています。学生たちは'すでに物理屋たちの所へ殺到し始めました。彼らは非 常に忙しいのに'神秘主義者たちは暇です」と書き送った。彼の反論は'かな-繊細なものであったが'フオスの著書ほ ど機知のきいたものでも'元気のいいものでもなかった。それにしても'こういったことは'一切が最早重要なものでは なかったのである。つまり'フオスは二年後に死にt LかLtかといってクロイツァーの名声は'やはり戻らなかったの である。彼は'自分が嫌われ軽蔑されたと感じ始めた。象形文字学は'今や党派の関心事となり'空想や心情'素晴らし い推理と哲学は'ついに(密輸品)として扱われていると、クロイツァーは友人たちに伝えている。また'「実際今日で は'俗人たちが自由主義的愚昧さで噺笑することなしには'尊敬すべきことや古代の事柄について最早語られることはあ -ません。物理学者たちは,自分たちが世界の統治者であると思っています。また,ティーデマAIT最近ある講演の中 で'経験に則した自然科学以外には'学問などというものはないのであ-'鰐の死体の中にある一つの新しい涙腺を発見 したことは'人間精神の最高の勝利であるtと表明しているのです」と伝えている。彼は'こう嘆いている。「大学のこ

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とを心配すべき枢密顧問官たちですら'諸々の研究の相対的価値という完全に北アメリカ的理念をもっております。一切 合切が'益々実践と現実に向かっているのです。私の神話学の講義には'今までで最も少ない聴講生しかお-ません。」 ロマン派は'ミユンヒエンで比較的長-続いた。この地でロマン派は'ルートヴィヒ一世の即位と共に'いよいよもっ て本来の意味で王座に就けられたのであった。芸術ばか-ではな-'学問をも首都ミユンヒエンに土着のものとして根付 けさせるために'ルートヴィヒ一世は'古い大学をランツフートからミユンヒエンに移し'この大学へ次々と国民的思想 家たちを招碑した.つまり,フランス人の治世下にあって彼を支持したゲレス,シューベル転),リングザイ窄シェリン グといった人々である。一八二八年に'ゲレス'シェリング'シューベルトは'最も多い聴講生を獲得した。しかし'新 たな時代と新たな学問の脅威は,シューベルトに次いで自然科学の代表者となったオーケ塙γの人において認められるよ うになったのである。 オーケンは自然哲学者であったので'この限-において彼は'もともとロマン派から離れていなかった。しかしオーケ ンは'若きシェリングの汎神論的傾向を発展させ'しかもその考えを'当初それがほとんど隣接していた宗教から益々離 ( ( 8 ) し'その後のフォークーやビューヒナIのような物質主義者へと続-形で発展させたのである。一八一九年にオーケンが' ﹃イシス﹄誌上に'地上の生物界全体'そして人間も'原初の海を満たしていた原始的粘液から生じたという主張を提出 ( & ) したとき'当時すでに敬慶主義者になっていた考古学者カンネは'その主張の中に大きな危険を'すなわち「自然科学の 明るい朝の天空を曇らせる暗雲」を察知したのである。カンネは'友人であるシューベルトにこう説明した。「このよう に'現代の自然科学は'やがて精神が神を想起する観念をも'脳の血から採取された第二の原始的粘液から派生させるで あ-ましょう。現代の自然科学は'勝手気ままに登場し'こう公言するであ-ましょう。神も魂も存在せず'一切はあれ これと形を変えたに過ぎない海の泡であって'その形態は死によって再び泡とな-分解するのだtと。」 戟   い   と   敗   北 空

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リカルダ・フ17著 梅内華僑訳・注 シューベルトは'当時それほど席捲していなかったとしても'後になってオーケンと並んで教鞭を取ることによって' やはり不安にさせられたのであった。というのも'オーケンの見解は'益々シューベルトの考えと相容れな-なっていた が'にもかかわらず'総じてオーケンが若者を自分の味方につけていたからである。実際即座に'その契機からすれば重 要でない些細な敵対感情が生まれた。しかしこれは'聴講生たちが党派に分かれて扇動することによって増幅され'不快 なものとなったのである。シューベルトは'こう語っている。「つまり'目下このミユンヒエンでは'その形態と応用に おいて'恐らく他所には類例を見ない文学がある。い-つかの'いわゆる大衆新聞が街にあって'種々の表題で発行され' 人々はこれらをチーズ紙と呼ぶのが慣わしになっている。というのも'読んだ後に人々は'それでもってチーズを包んで ビアホールへもって行くからである。それらの新聞が'大多数の人々の間で最も好まれ'一般に普及して'例の文学を形 作っているのだ。」これらの新聞の中でシューベルトは'ひど-酷評された。このことによって'ミユンヒエンにおける 最初の数年間は'それとは反対の側から友情と尊敬を受けたにもかかわらず'幸いものとな-'彼の重い病を誘発させる 原因ともなった。年若い王子や王女までをも彼に教育させていた国王から'シューベルトは庇護を受けていた。オーケン のエアランゲン大学への転任によって'その不愉快な論争に決着がつけられるはずであった。ただしオーケンは'発令さ れたチューリヒへの招碑に従う方を選んだのである。 他のロマン主義者たちは'シューベルトに劣らず'敵の攻撃に堪えねばならなかった。 誠実なリングザイスには'身分制議会における'ある自由主義派の敵対者によって - 自由主義派は'なんといっても' ことのほか悪口に長けていたのだが - 勲章を付けた骸骨'罪悪と腐敗の象徴'神秘主義的詐欺師'徴びて腐った妖怪' 医学を学んだ毒殺者にして敬慶ぶった山師'大学が陥っているクレチン病の標本と'要するに'この上もな-侮辱的な呼 称が使われたのである。革命と共に'ロマン派の正式な終幕が近づいた。一八四八年にゲレスが死んだとき'教養のある

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自由主義的ドイツ人たちは'困窮の時代にあって彼を以前から信頼の眼差しで見ていたのであったが'学生たちが彼のた めに催そうとした松明行列の計画は警察によって妨害され'アカデミーにおける彼に捧げる追悼講演は阻止されてしまっ たのである。 多くの打撃に対してロマン派は'若い力が残っている限り'抵抗したのであった。次第にロマン派の努力は水泡に帰し' ロマン派の人々は'年老い'場合によっては子どもっぼく馬鹿げた態度を示すようになった。ついに'ロマン派は最早戟 いを挑まれずに'精々通-すが-に噸笑されるようになってしまった。つい最近に至るまで'ロマン的という言葉が本来 なにを意味しているのか知られておらず'その言葉によって無造作に'非実践的なもの'不明瞭なもの'本当でないもの を指していたのである。一八六九年にオーヴア-ベッねが死んだとき,すでにペックリーンは最初のロマン主義的傑作を(4 1) 措き上げてしまっていたと聞-と'人は奇妙な感動を覚える。一八八〇年に入ってから'リングザイスは死ぬ。このとき' ロマン主義が再びまた'ほとんど現代的なものとな-始める時代がきていたのである。度重なる革命と戟争が'かすかな 詩的素質を踏みにじってしまっていた。読者の中でロマン派に関して生き残っていたものは'捨てても惜し-はないもの ばかりだったのである。フリードリヒ・シユレ-ゲルは'その人気の無さをなんと苦々し-嘆いていたことであろうか! よくあることだが'模倣者たちが'ようや-ロマン主義を人気あるものとしたのである。彼らは'新たな刻印を押された 諸々の理念と形象を空にLtこれらを引き伸ばし'自分たちの発明した薄い布切れで飾り立てたのである。ロマン主義の 理念内容と中世を結び付けることは必ずしも必要ではなかったし'また'本質的なことでもなかった。しかし今や人々は' 隠者や城'騎士の奥方がその中に出て-るときに'物語や詩はロマン主義的なものであると信じたのである。同様に'恐 怖を喚起するものや幽霊の登場'さらに'異国情緒の溢れるものが'ロマン主義の目印となった。実際'ポケット・ブッ クや年鑑は,こういった題材に満ちていた。かつてコツツエブIの戯曲を楽しみ感動した人々が,今度はフケ鳥が味気な 戦   い   と   敗   北

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リカルダ・7-7著 梅内幸信訳・注 EZg _ ■ 一 / ヽ い馬鹿げた騎士団や'運命悲劇における父親の呪いやらジプシーの予言の効果に龍絡された'恐怖の操り人形に熱狂した のである。十九世紀半ばには恐ら-'ヤロミ-アの「そうとも'俺なのさ'おまえは不運な女だ'おまえがその名を呼ん だのは'この俺なのだ」という詩句を請じていない教養人は'ほとんどいなかったであろう。ゲーテから評価され上演さ れたヴエルナ(S) ﹃二月二十四日﹄は,J層残虐で浅薄なミユルナ(3)駄作によって,その成功という点では凌駕され, ( 3 ) 最も好まれたのは'フ-ヴアルトの下らないおしゃべ-から成る代物であった。この気立てのよい正直な人間フ-ヴアル ( S ) トは'観客の熱狂的歓迎にいたく感激した.ティークは'ベルリーンにおける新たな劇場の開幕に当たケて﹃ホンブルク ォ 王子﹄を推薦したがt LかLt当代のベストセラーである7-ヴアルトの ﹃肖像﹄が選ばれたのであった。これらの後期 ロマン派の物語や詩において、我々はなおも精選され熟慮された語調を聞き取るが'これは'シユトウルム・ウント・ド ラングの時代におけるような挑戦的に措きなぐられた'明滅するような語調とは非常に快い対照を成している。しかし' その背後に内面性というものがないので'その語調は'まやかしで'無力な妖怪じみた印象しか与えない。 「我々は皆'他にな-ようがなかったのだろうか。この我々の不様な姿はなんだ-・」という言葉が'死に臨んだブレン タ-ノの嘆きであったと言われる。この言葉は'個々の多-のロマン主義者とその運動一般に当てはめられるものである。 ロマン派は'登場したとき希望と豊かさと確信に満ち'あらゆる分野で量-知れないほど沢山の刺激をもたらした。しか し'至る所で種子を播いた反面∵ロマン派は'なんら成熟した作品の形では記念碑を打ち建てなかったのである。新たな 敵対的時代は'有限なものを崇拝したが'この有限性の欠如が'無限性の芸術家たちがその作品と共に四散してしまった 原因であった。限定によって強められ'新たな世代の人々は'確かに汚れ歪められてはいるものの'やは-'絶えず崇高 な理想に再び目を向けることができるのである。かのロマン主義者たちが遠-の昔に指し示していた'その理想にJ.

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注 こ の 翻 訳 の 底 本 は ' ︾ R i c a r d a H u c h ︰ D i e R o m a n t i k -B l t i t e z e i t , A u s b r e i t u n g u n d V e r f a l 1 -. R a i n e r W u n d e r l i c h V e r l a g H e r m a n n L e i n s , T u b i n g e n 1 9 5 1 , S . 6 4 2 -6 5 9 . ︽ で あ る . ( -)   ユ ス テ ィ ー ヌ ス ・ ケ ル ナ -( J u s t i n u s K e r n e r , 1 7 8 6 -1 8 6 2 ) ' ド イ ツ は ル ー ト ヴ ィ ヒ ス ブ ル ク 生 ま れ の 詩 人 . 1 人 1 九 年 以 降 ' 公立病院医長としてケルナIは'ヴアインスベルクに住み'ある女性夢遊病患者を診察した。シユヴア-ベン地方のロマン派にお け る 重 要 な 拝 情 詩 人 の 1 人 で あ る . 代 表 作 に は ' ﹃ 旅 影 ﹄   ( D i e R e i s e s c h a t t e n , 1 8 1 1 ) ' ﹃ プ レ ー フ ォ ル ス ト の 女 視 霊 者 ﹄   ( D i e S e h e r i n v o n P r e v o r s t , 1 8 2 9 ) 等 が あ る . ( 2 )   シ ェ リ ン グ ( F r i e d r i c h W i l h e l m J o s e p h v o n S c h e l l i n g , 1 7 7 5 -1 8 5 4 ) ' ド イ ツ は ヴ ユ ル テ ン プ ル ク 地 方 の レ -オ ン ベ ル ク 生 ま れの哲学者。ヘーゲルとF・ヘルダーリンと共にテユービンゲンの神学校で学んだ。一七九八年ゲーテに招かれて'イエーナ大学 の教授となる。ここで'ロマン派の人々と親交を結ぶ。一八〇三年カロリーネ・ミヒヤエーリスと結婚。その後'ヴユルツブルク 大学'エアランゲン大学'ミユンヒエン大学'ベルリーン大学の教授を務めた。 フィヒテの哲学から出発し'自然哲学並び芸術哲学の試みにならって'絶対的観念論の体系を企図した。ここにおいて'精神と 自然'主体と客体等の対立は絶対的なものにあっては区別されず'ただ絶対的なものの発展においてのみ'対立したものに分けて 説明される(「同一性哲学」)。この考えは'最終的には宗教哲学へと移行した。その目的は'神の認識をその作用から引き出そうと す る も の で あ っ た . シ ョ ー ペ ン ハ ウ ア -( A r t h u r S c h o p e n h a u e r , 1 7 8 8 -1 8 6 0 ) や ベ ル グ ソ ン   ( H e n r i B e r g s o n , 1 8 5 9 -1 9 4 1 ) 等 へ 影 響 を 与 え た . 代 表 的 著 書 に は ' ﹃ 自 然 哲 学 考 ﹄ ( I d e e n z u e i n e r P h i l o s o p h i e d e r N a t u r , 1 7 9 7 ) ' ﹃ 超 越 論 的 観 念 論 の 体 系 ﹄ ( S y s t e m d e s t r a n s c e n d e n t a l e n l d e a l i s m u s , 1 8 0 0 ) ' ﹃ 人 間 的 自 由 の 本 質 ( P h i l o s o p h . U n t e r s u c h u n g e n i i b e r d a s W e s e n d e r m e n s c h 1 . F r e i h e i t , 1 8 0 9   等 が あ る . ( 3 )   ヴ イ ル ヘ ル ム ・ シ ユ レ -ゲ ル ( A u g u s t W i l h e l m v o n S c h l e g e l , 1 7 6 7 -1 8 4 5 ) ' ド イ ツ は ハ ノ ー フ ァ ー 生 ま れ の 文 芸 史 家 。 弟 の フ リ ー ド リ ヒ と 共 に 雑 誌 「 ア テ ネ -ウ ム 」 を 発 行 し た . 代 表 作 に は ' ﹃ 文 学 と 芸 術 に 関 す る 講 義 ( V o r l e s u n g e n l i b e r s c h o n e L i t e r a t u r u n d K u n s t , 1 8 8 4 ) ' ﹃ ド イ ツ 言 語 ・ 文 芸 の 歴 史 ﹄ ( G e s c h i c h t e d e r d e u t s c h e n S p r a c h e u n d P o e s i e , 1 9 1 3 ) 等 が あ る。ボン大学でドイツ文芸史担当の教授であった。 戦   い   と   敗   北

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リカルダ・7-7著 梅内幸信訳・注 フ リ ー ド リ ヒ ・ シ ユ レ -ゲ ル ( F r i e d r i c h v o n S c h l e g e l , 1 7 7 2 -1 8 2 9 ) ' ド イ ツ は ハ ノ ー フ ァ ー 生 ま れ の 評 論 家 . ロ マ ン 派 の 文 芸 理 論 を 構 築 し た . 兄 ( A u g u s t W i l h e l m v o n S c h l e g e l , 1 7 6 7 -1 8 4 5 ) と 共 に 雑 誌 「 ア テ ネ -ウ ム 」 を 発 行 し た 。 代 表 作 に は ' ﹃ イ ン ド 人 の 言 語 と 叡 知 に つ い て ﹄ ( t j b e r d i e S p r a c h e u n d W e i s h e i t d e r l n d e r , 1 8 0 8 ) ' ﹃ 古 代 及 び 近 代 文 学 史 講 義 ﹄ ( V o r l e s u n g e n 辞 b e r d i e G e s c h i c h t e d e r a l t e n u n d n e u e n L i t e r a t u r , 1 8 1 5 ) 等 が あ る . ( 4 )   パ ウ ル ス ( H e i n r i c h E b e r h a r d G o t t l o b P a u l u s , 1 7 6 1 -1 8 5 1 ) ' ド イ ツ は レ -オ ン ベ ル ク 生 ま れ の プ ロ テ ス タ ン ト 宗 教 学 者 . イ エ ー ナ大学でオリエント語の教授(一七八九年)'宗教学の教授(一七九三1九四年)'ハイデルベルク大学教授(一八二年)となった。 彼 は ' 合 理 主 義 の 代 表 者 で あ っ た . 代 表 的 著 書 に は ' ﹃ 新 訳 聖 書 に 関 す る 文 献 批 判 学 的 注 釈 ﹄ ( P h i l o . k r i t . C o m m e n t a r t t b e r d a s N . S . , 4 B d e . , 1 8 0 0 -0 4 ) ' ﹃ キ リ ス ト の 生 涯 ﹄ ( D a s L e b e n J e s u , 2 B d e . , 1 8 2 8 ) ' ﹃ 我 が 教 養 と 生 涯 の 歴 史 に 関 す る 素 描 ﹄   S k i l z z e n a u s m e i n e r B i l d u n g s -u n d L e b e n s g e s c h i c h t e , 1 8 3 9 ) が あ る . ( 5 )   フ オ ス ( J o h a n n H e i n r i c h V o B , 1 7 5 1 -1 8 2 6 ) ' ド イ ツ は メ ク レ ン ブ ル ク に 近 い ゾ ン マ ー ス -ル フ 生 ま れ の 詩 人 ・ 翻 訳 家 . 学 生 の頃t fijO^*-< ボワイエの仲介で「ゲッティンゲン林苑同盟」の会員とな久一七七五年「ゲッティンゲン文芸年鑑」 の共同 編集者として'一七七六⊥八〇〇年まで発行した。一七七八年にはオツテンドルフの校長'一七八二年にはオイティーンの校長を 務めた。民間学者として一八〇二年以降イエーナに'そして'一八〇五年以降ハイデルベルクに暮らした。彼本来の詩的業績は' 高地ドイツ語及び方言による写実的で自然に密着した田園詩[﹃七〇歳の誕生日﹄(一七八一年)'牧師館叙事詩﹃ルイ-ゼ﹄ (一七 八二-八四年)]にある.当時彼はtと-わけホメロスの翻訳者として[﹃オデュッセイア﹄(1七八1年)'﹃イ-リアス﹄(1七九三 年)]かな-重要な存在であった。.オヴイディウス'ヴエルギリウス'ホラチウスt へシオドス'アリストフアネスの翻訳において 彼は'原典のもつ韻律と言葉に極力忠実に翻訳するよう努力した。自分の息子たちと共に彼は'その晩年にかけてシェイクスピア 演劇の翻訳を(九巻'一八一八-二九午)企てた。その合理主義的態度によって彼は'あらゆる種類の狂信主義とロマン主義の敵対 者 と な っ た 。 こ の 態 度 を 示 す も の は t O J 3 O   ハ イ ネ に 対 し て 書 か れ た ﹃ 神 話 学 書 簡 ﹄ ( 二 巻 ' 一 七 九 四 年 ) ' ﹃ 反 象 徴 学 ﹄   ( 二 巻 ' 1八二四-二六年t F・クロイツァーに対抗して)tと-わけ彼のかつての友人である -1 シュールベルク伯爵のカーリツク改 宗を理由に'伯爵と公に行なわれた絶交[﹃いかにしてフリッツ・シユトルベルクは不自由身分の人となりしか-﹄ (1八1九年' ﹃ 警 句 ﹄ 所 収 ) ' ﹃ シ ユ ト ル ベ ル ク の 陰 謀 の 証 明 ﹄ ( 一 八 二 〇 年 ) ]   で あ っ た 。 ( 6 )   ク ロ イ ツ ァ ー ( G e o r g F r i e d r i c h C r e u z e r , 1 7 7 1 -1 8 5 8 ) c   ド イ ツ は マ ー ル ブ ル ク 生 ま れ の 古 典 文 献 学 者 . マ ー ル ブ ル ク ' ラ イ デ

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ン'ハイデルベルクで大学教授を務めた.代表的著書には'﹃古代民族'とりわけギリシア人の神話学と象徴学﹄(四巻'一八一〇-二一年)がある。この書物は'シェリング'ヘーゲル'バッハオーフエンに重大な影響を与えた。 ( 7 )   ブ レ ン タ -ノ ( C l e m e n s M a r i a B r e n t a n o , 1 7 7 8 -1 8 4 2 ) ' ド イ ツ は エ ー レ ン ブ ラ イ ト シ ュ タ イ ン 生 ま れ の ロ マ ン 派 の 詩 人 . 代 表 ● 作 に は ' ア ル ニ ム と 協 力 し て 編 集 し た 童 話 集 ﹃ 少 年 の 魔 法 の 角 笛 ﹄ ( D e s K n a b e n W u n d e r h o r n , 1 8 0 6 -0 8 ) ' ﹃ け な げ な カ ス パ ー ル と 美 し い ア ン ナ -ル の 物 語 ﹄   ( G e s c h i c h t e v o m b r a v e n K a s p e r l u n d s c h o n e n A n n e r l , 1 8 1 7 ) ' ﹃ ゴ ツ ケ ル 物 語 ﹄   ( G o c k e l , H i n k e l u n d G a c k e l e i a , 1 9 3 8 ) 等 が あ る . 妹 の ベ ッ テ ィ ー ナ は ' ア ル ニ ム と 結 婚 し た 。 ( 8 )   ア ル ニ ム   ( A c h i m A r n i m , 1 7 8 1 -1 8 3 1 ) ' ド イ ツ は ベ ル リ ー ン 生 ま れ の ロ マ ン 派 の 詩 人 . ブ レ ン タ -ノ と 協 力 し て 童 話 集 ﹃ 少 年 の魔法の角笛﹄を編集した。 ( 9 )   ゲ レ ス ( J o h a n n J o s e p h v o n G o r r e s , 1 7 7 6 -1 8 4 8 ) ' ド イ ツ は コ ー プ レ ン ツ 生 ま れ の ロ マ ン 派 の ジ ャ ー ナ リ ス ー ・ 学 者 ・ 政 治 家 . ブレンタ-ノとアルニムが発行していた「隠者新聞」に協力した。「ライン・メルターア」の編集発行人でもあった。 ( 2 )   パ サ ヴ ア ン ( J o h a n n D a v i d P a s s a v a n t 、 1 7 8 7 -1 8 6 1 ) ' ド イ ツ は フ ラ ン ク フ ル ー ・ ア ム ・ マ イ ン 生 ま れ の 芸 術 史 家 ・ 画 家 . 最 初 は商人であったが'後に画家となった。一八四〇年以降'フランクフルーのシユテ-デル研究所視学官を務める。代表的作品・著 書 に は ' ﹃ ウ ル ビ ー ノ の ラ フ ア エ ル と そ の 父 G ・ サ ン テ ィ ﹄ ( R a f f a e l v o n U r b i n o u n d s e i n V a t e r G . S a n t i , 1 8 3 9 -5 8 ) ' ﹃ イ ギ リ ス ' ベ ル ギ ー 芸 術 旅 行 ﹄ ( K u n s t r e i s e d u r c h E n g l a n d u n d B e l g i e n , 1 8 3 3 ) 等 が あ る . ( u )   ミ ユ ラ ー ( A d a m H e i n r i c h M i i l l e r , R i t t e r v o n N i t t e r s d o r f f , 1 7 7 9 -1 8 2 9 ) ' ド イ ツ は ベ ル リ ー ン 生 ま れ の 国 家 ・ 社 会 理 論 家 . 家庭教師を務めた後'一八〇五年にカーリック教徒とな-t a   クライスーと共に一八〇八年'芸術文芸誌﹃日輪﹄(PhObus) を発行した。一八〇九⊥一年に彼は'ベルリーンのクーアマルク騎士階級の秘書となり'ハルデンベルクによる改革の敵対者となっ た。一八二二年以降オーストリアの国家公務員となりt F・シユレ-ゲルと接触した。一八一五年にはメッテルニヒの随行員とし て'ウィーンに在住した。ミユラーは'ロマン主義的国家・社会理論の最も重要な代表者であ-'有機的にしてカトリック教的・ 普遍主義的国家観を起草した。 ( 1 )   ヴ イ -ラ ン ト ( C h r i s t o p h M a r t i n W i e l a n d , 1 7 3 3 -1 8 1 3 ) c   ド イ ツ は ピ ー ベ ラ ハ 生 ま れ の 小 説 家 . ロ コ コ 風 の 作 品 を 書 い た . 彼 の ﹃ ア -ガ ー ン 物 語 ﹄ ( D i e G e s c h i c h t e d e s A g a t h o n , 1 7 6 6 -6 7 ) は ' 心 理 小 説 ・ 教 養 小 説 の 先 駆 的 作 品 と 言 わ れ る 。 そ の 他 の 代 表 作 に は ' ﹃ ロ ザ ル ヴ ア の ド ン ・ シ ル ヴ イ オ の 冒 険 ﹄ ( D i e A b e n t e u e r d e s D o n S y l v i o v o n R o s a l v a , 1 7 6 4 ) ' ﹃ ア ブ デ ラ の 人 々 ﹄ 戦   い   と   敗   北

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リカルダ・フ17著 梅内幸信訳・注 ( D i e A b d e r i t e n , 1 7 7 4 ) 、 ﹃ オ ー ベ ロ ン ﹄ ( O b e r o n , 1 7 8 0 ) 等 が あ る 。 3   シ ユ ツ ツ ( W i l h e l m v o n S c h i i t z , 1 7 7 6 -1 8 4 7 ) ' ド イ ツ は ベ ル リ ー ン 生 ま れ の 作 家 . ロ マ ン 主 義 の 演 劇 家 で ' 後 に は む し ろ 出 版 と 編 集 の 活 動 を 行 な っ た ( 1 八 四 二 -四 五 年 ' カ ト リ ッ ク 教 の 雑 誌 「 ア ン テ ィ ツ エ ル ズ ス 」 [ A n t i c e l s u s ] を 編 集 し た ) . ( S ) ユ ン グ = シ ユ テ ィ リ ン グ ( J o h a n n H e i n r i c h J u n g , 1 7 4 0 -1 8 1 7 ) ' ド イ ツ は グ ル ン ト ( ヒ ル ヒ エ ン バ ッ ハ 付 近 ) 生 ま れ の 作 家 。 厳格な敬慶主義の家庭の出身で'一七六九1七二年までシユトラ-スブルクで医学を学び'ここでゲーテと交友を結び'その後エー バーフェルトで医者となり(白内障の手術で有名になった)'一七七八年にカイザースラウテルンで経済学と官房学の教授となった。 一七八四年にはハイデルベルク大学教授'一七八七年にはマールブルク大学教授となり'最終的にはカールスルーエに在住した。 彼は'敬慶で子どもらしい心情によって自分の青春時代を描写したが'その第一部をゲーテが改作して ﹃へンリヒ・シユティリン グの青春﹄(一七七七年)として出版した。続巻(四巻'一七七八⊥八一七年)は'かな-強い宗教的思想によって彩られている。 彼は'長編小説や詩'神秘的・敬慶主義的にして心霊主義的な書物を著した。彼は'晩年ヘルンフート同胞教会の一員となった。 ( S )   ラ ー ヴ ア -タ -( J o h a n n K a s p e r L a v a t e r , 1 7 4 1 -1 8 0 1 ) ' ス イ ス は チ ュ ー リ ヒ 生 ま れ の 観 相 家 . シ ュ ー ウ ル ム ・ ウ ン ト ・ ド ラ ング時代には'ヘルダーやゲーテと親交を結んだ。人体の顔や頭蓋骨の特徴に魂が刻印付けられているという彼の説は'当時の観 相学に重要な刺激を与えた。彼はメスメリズムともかかわった。代表的著書には'﹃人間の知識と愛を促進するための観相学的断章﹄ ( P h y s i o g n o m i s c h e F r a g m e n t e z u r B e f o r d e r u n g d e r M e n s c h e n k e n n t n i s u n d M e n s c h e n l i e b e , 4 B d e . , 1 7 7 5 -7 8 ) 等 が あ る。 ( S   カ ン ト ( I m m a n u e l K a n t , 1 7 2 4 -1 8 0 4 Y   ド イ ツ は ケ -ニ ヒ ス ベ ル ク 生 ま れ の 哲 学 者 . 啓 蒙 主 義 思 潮 を 克 服 L t   認 識 能 力 の 批 判 を根本に据えた批判哲学を創立した近世哲学の祖。世界連盟に基づ-平和を最高原理とLt人間の進歩を人間の義務とする倫理観' 美を道徳的イデーのシンボルと見なす芸術観は'シラーやクライスト'ハイネ等に影響を与えた。代表的著書には'﹃純粋理性批判﹄ ( K r i t i k d e r r e i n e n V e r n u n f t , 1 7 8 1 ) ' ﹃ 実 践 理 性 批 判 ﹄ ( K r i t i k d e r p r a k t i s c h e n V e r n u n f t 、 1 7 8 8 ' ﹃ 判 断 力 批 判 ﹄   ( K r i t i k d e r U r t e i l s k r a f t , 1 7 9 0 ) 等 が あ る . 5 )   フ ィ ヒ テ ( J o h a n n G o t t l i e b F i c h t e 、 1 7 6 2 -1 8 1 4 ) (   ド イ ツ は ラ メ ラ ウ 生 ま れ の 哲 学 者 。 イ エ ー ナ 大 学 ' エ ア ラ ン ゲ ン 大 学 ' ベ ル リーン大学の教授を務めた。カント哲学から出発し'純粋主観的観念論によって'自我の独立を主張し'一切の外面世界は'自我 の創造物として存在するという「絶対的自我の哲学」を打ち立てた。

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ベルリーンでシユレ-ゲル兄弟'ティーク'シユライヤーマハ-等と親交を結び'ロマン派の人々の文学観に大きな影響を与え た。シユレ-ゲルのロマン的イロニーやノヴァ-リスの魔術的観念論は'フィヒテの絶対自我哲学の影響を受けたものである。代 表 的 著 書 に は ' ﹃ 全 知 識 学 の 基 礎 ﹄ ( G r u n d l a g e d e r g e s a m t e n W i s s e n s c h a f t e n , 1 7 9 4 / 9 5 ) が あ る . ( 2 )   ホ メ ロ ス ( d t . H o m e r , g r c h . H o m e r o s 二 a t . H o m e r u s ) -紀 元 八 世 紀 に お い て ' ギ リ シ ア は イ オ ニ ア 地 方 の 小 ア ジ ア に 実 在 した。文献学においては長い間虚構上の人物であると見なされていたが'現在では歴史上の人物として認められている。その人物 像には'伝説を通じて'遍歴する盲目の吟遊詩人という特徴が付与された。古代ギリシアの叙事詩﹃イ-リアス﹄ と ﹃オデュッセ イア﹄ の作者と言われている。 ( 3   ニ コ ラ イ 流 の ' ニ コ ラ イ ( C h r i s t o p h F r i e d r i c h N i c o l a i , 1 7 3 3 -1 8 1 1 ) ' ド イ ツ は ベ ル リ ー ン 生 ま れ の 作 家 ・ 書 籍 出 版 販 売 者 . 彼は一七五八年にニコライ書籍販売店の運営を引継ぎ'ベルリーンにおける啓蒙主義的思想の中心的世話人となった。ニコライの 最良の成果はt ow レッシングとM・メンデルスゾーンとの共同作業から生まれた(友人との共同で創立した ﹃芸術学とリベ ラ ル ア ー ツ の た め の 図 書 ﹄ [ B i b l i o t h e k d e r s c h o n e n W i s s . u n d d e r f r e y e n K l i n s t e . 1 2 B d e . , 1 7 5 7 -5 8 ] ' ﹃ 最 新 の 文 学 に 関 す る 書 簡 ﹄ [ B r i e f e , d i e N e u e s t e L i t e r a t u r b e t r e f f e n d . 2 4 B d e . , 1 7 5 6 -6 5 r ニ コ ラ イ は ' シ ユ ト ウ ル ム ・ ド ラ ン グ と 古 典 主 義 ' ロマン主義の文学を拒否し'風刺的パロディーによる闘争文書において'ヘルダーやゲーテ'シラー'カント'フィヒテを攻撃し た。ゲーテの﹃ウェルテル﹄に対しては﹃若きウェルテルの喜び﹄二七七五年)というパロディーで'敬慶主義と感傷主義'教会 の 教 義 に 対 し て は   ﹃ ゼ パ ル ド ゥ ス ・ ノ ー ト ア ン カ ー 先 生 の 生 涯 と ご 意 見 ﹄   ( L e b e n u ロ d M e i n u n g e ロ d e s H e r r ロ M a g i s t e r s S e b a l d u s N o t h a n k e r . 3   B d e . , 1 7 7 3 -7 6   と い う 長 編 小 説 で ' カ ン ト の 哲 学 に 対 し て は   ﹃ あ る 太 っ た 男 の 伝 記 ﹄ ( L e b e n s g e s c h i c h t e e i n e s d i c k e n M a n n e s , 2 B d e . , 1 7 9 4 ) と い う 長 編 小 説 と ' ﹃ あ る ド イ ツ の 哲 学 者 ゼ ン ブ ロ ー ニ ウ ス ・ グ ン デ ィ ベ ル ト の 生 涯 と ご 意 見 ﹄ ( L e b e n u n d M e i n u n g e n S e m p r o n i u s G u n d i b e r t ' s , e i n e s d t . P h i l o s o p h e n , 1 7 9 8 ) と い う 長 編 小 説 で ' さ ら に は ' ﹃ 哲 学 論 文 ﹄ ( P h i l o s o p h i s c h e A b h a n d l u n g e n , 2 B d e . , 1 8 0 8 ) で 攻 撃 し た . ( 8   ム ゼ -ウ ス ( J o h a n n K a r l A u g u s t M u s a u s , 1 7 3 5 -1 7 8 7 ) ' ド イ ツ は ヴ ア イ マ ル 生 ま れ の 作 家 。 彼 は ' 風 刺 的 長 編 小 説 を 書 い た . 代 表 作 に は ' ﹃ グ ラ ン デ ィ ソ ン 二 世 ﹄   ( G r a n d i s o n d e r Z w e i t e , 3 B d e . , 1 7 6 0 -6 2 ㌧   ﹃ 骨 相 学 旅 行 ﹄   ( P h y s i o g n o m i s c h e R e i s e n , 1 7 7 8 / 7 9 ) ' 啓 蒙 主 義 の 精 神 で 書 か れ た ﹃ ド イ ツ 人 の 民 俗 童 話 ﹄ ( V o l k s m a r c h e n d e r D e u t s c h e n , 5 B d e . , 1 7 8 2 -8 6   が あ る 。 戦   い   と   敗   北

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リカルダ・7-フ著 梅内華僑訳・注 S 3 ダ ン ネ ッ カ ー ( J o h a n n H e i n r i c h v o n D a n n e c k e r , 1 7 5 8 -1 8 4 1 ) ( ド イ ツ は シ ユ ト ウ ツ ト ガ ル ト 生 ま れ の 彫 刻 家 。 1 八 二 八 年 に シ ユ ト ウ ツ ト ガ ル ト 芸 術 学 院 の 院 長 と な る 。 ド イ ツ 古 典 主 義 の 重 要 な 代 表 者 。 と り わ け ' シ ラ ー の 胸 像 ( 一 七 九 四 年 ) や 宗 教 的 人 物 像 ' 神 話 の 人 物 像 を 制 作 し た 。 / < N l ¥ V < N j J バ ガ ズ ン ( J e n s l m m a n u e l B a g g e s e n , 1 7 6 4 -1 8 2 6 ) c デ ン マ ー ク は コ ル セ ー ル 生 ま れ の 作 家 。 デ ン マ ー ク 語 と ド イ ツ 語 で 著 作 活 動 し t と -わ け シ ラ ー と 親 交 が あ っ た 。 デ ン マ ー ク の ロ マ ン 主 義 に 対 す る 敵 対 者 で あ っ た 。 風 刺 的 で 滑 稽 な 作 品 を 書 い た 。 ﹃ 迷 宮 ﹄ ( D a s L a b y r i n t h , 1 7 9 2 / 9 3 ) と い う 興 味 深 い 旅 行 記 を 書 い た . ダ ウ プ ( K a r l D a u b , 1 7 6 3 -1 8 3 6 ) ' 現 代 プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム の 思 弁 的 神 学 の 代 表 者 . 貧 し い 両 親 の も と に 生 ま れ ' マ ー ル ブ ル ク の 哲 学 者 テ ィ ー デ マ ン ( T i e d e m a ロ n ) の 家 に 引 き 取 ら れ る 。 一 七 六 三 年 来 マ ー ル ブ ル ク 大 学 で 哲 学 と 神 学 を 学 び ' 一 七 九 一 年 以 降 講 師 を 務 め た 。 一 七 九 四 年 ハ -ナ ウ の 官 立 高 等 師 範 学 校 哲 学 教 授 ' 一 七 九 六 年 ハ イ デ ル ベ ル ク 大 学 神 学 教 授 と な っ た 。 当 初 カ ン ト 哲 学 を 信 奉 し た が ' ま も な -シ ェ リ ン グ の 影 響 を 受 け ' ク ロ イ ツ ァ ー と 協 力 し て ' ロ マ ン 派 の 思 弁 的 学 問 を 代 表 す る こ と と な っ た 。 そ の 後 ' ヘ ー ゲ ル が ハ イ デ ル ベ ル ク 大 学 へ 招 蒋 さ れ る と ' ヘ ー ゲ ル 哲 学 の 影 響 を 受 け る こ と と な っ た 。 ダ ウ プ は ' そ の か な り 重 苦 し い 内 容 で ' 今 で は 時 代 遅 れ と な っ た 著 作 に よ っ て と い う よ -は ' そ の 類 い 希 な る 威 厳 を も っ た 人 間 的 態 度 に よ っ て ' 影 響 を 与 え た . 主 要 な 著 書 に は ' ﹃ 神 学 論 ﹄ ( T h e o l o g u m e n a , 1 8 0 6 ) ' ﹃ 教 理 神 学 研 究 序 説 ﹄ ( E i n l e i t u n g i n d a s S t u d i u m d e r D o g m a t i k 二 ∞ -○ ) 等 が あ る 。 ( a ) シ ュ ー ル ベ ル ク ( F r i e d r i c h L e o p o l d G r a f z u S t o l b e r g , 1 7 5 0 -1 8 1 9 ) ' ド イ ツ は ブ ラ -ム シ ユ テ ッ ー 生 ま れ の 詩 人 . 兄 の ク リ ス テ ィ ア ン と 共 に ' 一 七 七 六 年 ま で 学 問 と 文 芸 的 関 心 を 分 か ち 合 っ た 。 ゲ ー テ と の 友 情 に よ っ て 文 芸 へ の 関 心 が 高 ま り ' 彼 は F ・ G ・ ク ロ ッ プ シ ユ ト ツ ク や M ・ ク ラ ウ デ ィ ウ ス t o ハ ー マ ン t f c f f i ヤ コ -ビ t o へ ル ダ ー を 中 心 に 作 ら れ た サ ー ク ル に 加 わ っ た 。 一 八 〇 〇 年 に 彼 は ' カ ー リ ッ ク 教 へ 改 宗 し た 。 彼 は ' 自 由 と 祖 国 ' 暴 君 へ の 憎 悪 に 関 す る 革 命 的 な 歌 か ら 活 動 を 開 始 し ' や が て ﹃ イ -リ ア ス ﹄ を 翻 訳 し た 。 そ の 他 ' ﹃ ド イ ツ ' ス イ ス ' イ タ リ ア ' シ チ リ ア 旅 行 記 ﹄ ( 四 巻 ' 一 七 九 丁 九 二 年 ) が あ る 。 V ( N I ) ボ ワ ス レ -( M e l c h i o r B o i s s e r e e , 1 7 8 6 -1 8 5 1 ) ' ド イ ツ は ケ ル ン 生 ま れ の 美 術 研 究 家 ・ 美 術 収 集 家 . 彼 は ' 弟 で あ る ズ ル ビ ッ ツ と 共 同 で ケ ル ン で ' 後 に は ハ イ デ ル ベ ル ク で ド イ ツ 中 世 美 術 を 研 究 し た 。 彼 ら の 収 集 物 を t と -わ け ゲ ー テ が 大 い に 評 価 し た が ' そ れ ら を 一 八 二 七 年 に バ イ エ ル ン の ル ー ト ヴ ィ ヒ 一 世 が ミ ユ ン ヒ エ ン の ア ル テ ・ ピ ナ コ テ -ク の た め に 購 入 し た 。

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