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立川曽秋と『曽秋随筆』 -蕉門俳諧と石門心学の接点として-

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Academic year: 2021

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(1)

・- 蕉門俳譜と石門心学の接点として

( 一 九 七 五 年 十 一 月 六 日 受 理 ) 1

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識人にすぎない。しかしかつては'学界にその名を知られたことがあっ た 。 石 川 謙 氏 の ﹃ 近 世 日 本 社 会 教 育 史 の 研 究 ﹄   ( 昭 和 二 二 刊 ) ﹃ 石 門 心 学 史 の 研 究 ﹄   ( 同 年 刊 )   に 登 場 す る の で あ る が ' 骨 秋 は ま ず ' 近 世 中 期 の 心学運動家'つまり社会教育者として'現代のわれわれに記憶されたの で あ る 。 ところで筆者は、同時代の芭蕉顕彰家として著名な京の俳僧'五升庵 蝶 夢 ( 議 1 r H 長 城 枇 五 ) . の 周 辺 を 調 査 す る 内 ' 蝶 夢 の 経 済 的 支 援 者 と し ての骨秋の役割りや'媒夢の思想の理解者としての骨秋の位置が'とも に重要であることを気付-に至った。そして'蝶夢らの信奉する蕉門俳 譜と石門心学が共有する性格やその関連性を解明する上で'その両者に かかわった骨秋が'恰好の研究対象たり得る人物であることを知ったの で あ る 。 前述のように'骨秋の知名度はいまだ低いから'本稿ではまず'その 生涯と思想の概略を紹介しょうと思う。曾秋の研究は'文学史にとって も社会教育史にとっても'その両者の接点の人物として興味深-'ま 田  中  道  雄 ︹研究紀要 第二七巻︺ た'きわめて初期的段階のものではあるが'文芸教育史上の問題として も'一応注意さるべきと思われる。なぜなら'当時の蕉門俳譜は'庶氏 教化をたてまえとする文芸であり'その思想の延長上に曾秋の心学入宿 があったからである。従来の研究に乏しいので'いきおい資料中心にな ることをお許しいただきたい。 最初に'その生涯について述べよう。それには'立川欽一氏所蔵の 註一 ﹃立川肥遊君事蹟﹄が第一の資料であるから'まず'その全文を次に紹 介 す る 。 *

I B S 的

肥遊君'名は政伸'字骨秋'性立川'雅名は銀之介と称Lt後庄十郎

一 九 三

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立川曽秋と ﹃曽秋随筆﹄ と改'金右衛門と称す。後荘平と改め'自ら肥蓮と称し給へり。世々 和田村に住り。父は遊賀君'母は中尾氏の女也。為人温厚篤実にし て'至りて倹遜なり。生質柔弱にして病多し。しかれと′もよく是を守 り'養生の功を積給へり。父の養育も正しかりLに'よ-其命にした 註二    (其カ) か ひ ' 少 し も 達 ひ 給 ふ 事 な し   ( -' 甚 志 を 継 給 へ り ) 0 ヽヽ 一若きときより俳譜を好み給ひ'伊賀の桐雨・」-長者坊等にしたしみ' 幻阿法師を師として学ひ給へり。折風・菊二・杜音等はしたしき友た り。若きときより年老たる人に親しみ(む)事を好み給へり。 ヽヽ 一 父 の 業 を 継 給 ひ て   ( 年 二 十 六 七 才 な り ) ' 常 に 業 ( 農 事 ) を 大 切 に 心 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 懸給へり。且'米粟交易の業をLt大津・伊勢なとへは度々暑寒の厭 ヽ ヽ ヽ ヽ ひなく(数々)行給へり。これみな父の命にしたかひて、少しも自ら の物好し給ふ事なし。 一安永七年の比'大久保村西田氏の女を要り給ひ'一男子を生り。母千 ともに先達て没し給へり。天明元年五月、伊賀国上野西村氏の女を要 り 給 ひ ' 」 け 男 子 五 人 を 生 め り 。 姐 由 こ : 一年二十四五才の比'肝欝の症にて久し-脳み給ひしか'京なる医師後 藤何某灸治を進められLを深-進用し給ひ'三年のほと日々灸治をす @G由粥 へつゝけ給ひしとそ。其功にや'病およそ愈給へり。其後も月々二≡ 度つゝ灸をすへ給ふ(ひ) て'深-身を慎しみ養生し給へり。 ヽ ヽ ( マ マ ) 一寛政元酉年七月'母痢を病給へり。其比令閏脂身居給ひけれほ'病に 感し給はむ事を恐れ給ひて'かた-母看病をさせ給はす。奴批の類ひ は年若きものなれは行届-事あたはす'肥遊君、昼夜心を尽'看病し 給ひしなり。終に八月九日といふに'母身まかり給へり。深哀傷し給 ( カ ) ふといへとも、父いまたすこやかにいませは'その遺功の精をあらほ し給ふ事」2あたはす'ひそかに母の喪をつとめ給ひしとなり。 一寛政二戊のとしのころ'石田先生の門人にて諸国へ道を弘められける 一 九 四 北村翁'伊賀国より来りt はしめて道講話尺等を聞給ひしか'かねて 折風坊のすゝめによりて'先のとし堵庵先生にも一度相見し給ひし事 もありけれほ'いよi此道を尊ひ厚-信し給ひけり。夫より北村翁 ほしめ度々講師を請待Lt家族ほいふに及はす、村中井近村に至るま 3 1 由 由 E て同士の人を誘ひ'僻怠な-修行し給ひけり。(奥村)望月山下等と 常に会輔討論等し給ひて'油日村江度々通ひ給へり。 1 寛 政 五 丑 と L t ( 同 志 と か た ら ひ ' 終 に ) 方 来 合 を 営 み て ' ︹ 砦 ︺ 洪 水 先生を請待して開講をねかひ給へり。(其比ハ)此道」的(日々に) 同 志の人々も多-'殊外盛なりしかとも'真実に志の立たる人もす-な -して'ほしめ志厚かりし人も日々に無数なれり。しかれとも'(な ヽ ヽ ヽ ヽ       ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ       ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ りて')只三五輩の同志の人と'月々の会輔怠りな-務め給ひ'且朝 夕家事多忙の中にて'朝は早-起'夜は遅-寝て、少しも(の)暇を ヽヽ もおしみて書を見給ひ'その疑し事は記し置'度々京に登り給ひ'上 河先生にて正し給へり。先生も深-愛憐し給ひて、万来舎には度々下 り給ひて数日逗留し給ひしなり。夫ゆへ'棋水翁には深-親灸し給ひ し な り 。 ( カ ) 一天明三年の比'父遊賀君家事(勤役)を辞し給ふて'則翁に(家事悉 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ -君に譲り給へり。)同し勤めを命Lt 同年七月'男政瑞を生給ふ。 すへて六男有て'女子一人もなし。 一寛政七卯年六月葺九月に至'君家に凶事ありて'召れける。」3九月十 九日出立にて東武に粁朗給へり。(此時'主家の大政にて'深く心を 労して勤め給へり。) □当君(公) いまた幼少にて'同家のかたに寓 ヽ ヽ ヽ ヽ 居を命られ給へり。其事終りて、十月甘六日帰国し給へり。 其後文化三寅年二月より'ふたゝひ東武に下り給ひ'堀田君の御家事 等'その采地の人々とはかりて'深-心を尽し給へり。此度は︹鯛御︺ 君家に事もなかりけれほ'ゆるく日を重ねて居給ふへき(く) おは ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ                                                       ヽ   ヽ

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しけれと、江戸大火事ありて'これにおそれ'やかて国にかへり給へ hソ〇 一平常へ朝ほほや-起たまひ'夜の更るほいとひ給へり。日夜の家事繁 けれとも'少しもおこたり給ふ事なし。何はと間しき日といへとも' 朝夕のうち、(少しにても)書を見給はぬ日はなし。」帥外に出給ふ時 も書を懐中Lt少のいとまもをしみて書を見給へり。平常社友の人来 りて物語果ぬれほ'少しなりとも道学の物語し給はぬ事はなかりし 也。 一衣類調度に物好し給ひし事なし。只有にまかせて用ひ給へり。(然れ とも)貴人より賜へる服は'共時によりて用ひ給へり。常に活きを欲 し給ひしゆへ'よこれ汚たるものは用ひ給はす。洗たるものは新らし きものと同し-用ひ給へり。刀脇差のるい'少しも物好し給ふ事な し。有来のまゝ修覆を加へて用ひ」4給ひし。鮫鞘の脇差を一腰とゝ のへ給ひし事あり。其後、有釆の刀脇差を衣糸柄に作り給ひし事あ ( カ ) -。年老給ひて軽き施なる大小を求め給ふ事あり。其余いさゝか物好 し給ふ事なし。小道具といへともtとゝのへ給ひし事なし。其余は推 して知るへし。 一食は鹿なるものを好み給ふ。魚(鳥の)類は'好み給はす。若有合候 ても'少しより用ひ給はす。酒は少しっゝ暗み給ひて'日々一度つゝ 用ひ給ひし。さかなは何も好み給はす。有合のものを用ひ給へり。麦 飯 、 或 は ( 菜 ・ ) 大 根 ・ 牛 房 ・ 」 け 茄 子 ・ 竹 の 類 は 、 好 み て 喰 し 給 へ り 。 其余のものは、嫌ひ給ふにはあらねと'余り好み給はきりし。若き時 より病身に居給ひしゆへ'境の養生はかた-慎しみ給へり。生冷のも のは'(菜の外は)用ひ給はさりし。茶は好みて'煎茶を (梨子・柿 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ・ 密 柑 )   常 に 時 給 へ り 。 菓 子 ' 厚 味 の も の は 用 ひ   ( 好 み ) 給 は す 。 淡 ヽヽヽ ヽ       ヽ ヽヽヽ 薄のものはかり用ひ給へり。 田  中  道  雄 ︹研究紀要 第二七巻︺ (ママ) ㊤何かたへ行給ふにも'帰りの日を定め置たまひて'夫より少しも後れ 給ふ事なし。若遅-威儀時は'人をして其旨告給へり。告すして日限 の (を)達へ給ふ事なし。常に恭敬厚-'何事も慎しみ給へり。仮に ヽヽ も戯言・戯動の事」5 はなかりし。去なから其中に自ら和はとゝのひ て'人の言をよ-容給へり。朋友より諌むることは、かならす厚く信 用し給へり。 一 農 業 を 大 切 に 心 懸 給 へ り 。 り 。 畑 は 常 々 手 伝 ひ 給 ひ ' 僕の所為夫々差図し給ひ' 々自ら見廻り給へり。 田うへの時はt かならす自ら手伝ひ給へ ( 不 明 ) 秋 干 物 な と は ' ( 拠 々 心 付 給 へ り 。 )   口 々 稗 ヽ ヽ ヽ ヽ 少しも怠り給ふ事なし。田うへの後は'日 一居宅は'有のまゝに修覆を加へて'新規のものは少しも建給はす'辛 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 和三亥とLt かねて年比心懸給ひて'持仏堂を作り」拍給へり。此外 にいさゝか建物作り給ふ事なし。其後'政常か宅を作り給へり。文化 一先代より伝へし道具類は'いかにも大切に用ひ給ひ'其外道具類、当 用の外何にても求め給ふ事なし。常々示していわ-'衣類調度とも鹿 粗なるものほと日用の調法なり。形よきものは取扱にも気遣にて'愈 粗なるものほと用なし。形とゝのへましきとなり。 一米粟交易の業は'子孫に至り其害あらん事を恐れ給ひ'其父遊賀君に 告 給 ひ て ' 寛 政 ︹ 転 分 ︺ 年 の 比 よ り ' 巣 と 止 給 へ り . 」 -一春日の社'年古-成大破に及ひけれほ'村内のもの深-痛みにならぬ やう謀り給ひて'文化元子年にこと-′ト-造営成りぬ。此事'深-心 を用ひ給へり。 一朝暮'神仏師を拝し給ふ事。(ことに)祖先の忌日'祥月等には熱々 ヽヽ 祭り給へ-。文(享和) 三亥とLt持仏堂土木なりLより'年々春秋 ヽヽ の 祭 、 誠 敬 を 尽 し て 祭 給 へ り . 」 拍 1 九 五

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立川曽秋と ﹃曽秋随筆﹄ * この﹃事蹟﹄は、心学的立場から'その業績と生活態度を賞揚するこ とを主眼とするが'一方では、簡にして要を得た略伝ともなっている0 註三 他の資料も援用しっつ'その生涯を簡単に辿ってみょう。 曾秋立川金右衛門政伸は'宝暦八年七月二十五日'近江国甲賀郡和田 村(現滋賀県甲賀町) に生まれた。同家は代々'旗本伊賀守和田伝十郎 (伝右衛門とも)知行地の代官を務めた家柄で'政伸は三代日金右衛門 政峯の次男(兄専太郎は早世)として生を享けたのである。家業は農を 主としたが'米・粟・綿などの交易にも携わり'藤堂家など高位の武衣 の金融にも応じていた9天明三年(二六才)家業を受け継ぎ'寛政七年 註四 ( 三 八 才 ) 家 督 を 相 続 し て 金 右 衛 門 と 称 L t 文 化 七 年 ( 五 三 才 ) そ れ を 次 男 政 瑞 ( 長 男 は 早 世 )   に 譲 っ て 荘 平 と 称 し た 。 骨 秋 ・ 杉 風 庵 は 俳 号 ' 肥蓮は心学上の号である。安永七年(二一才) に西田氏女を繁ったが 没 、 天 明 元 年 ( 二 四 才 )   に 伊 賀 上 野 の 医 ' 西 村 良 化 の 女 の ぶ を 要 っ て ' 都合男子六人を儲けた。文化十二年十月二十七日没、行年五十九才。刺 田の善福寺の墓碑には「肥遊居士之墓」とあり'長文の銘文が'風化の ため読みとれぬのは惜しまれる。法号'尋誉声迎肥辿居士。葬儀の参列 者一、三七〇人に及んだという。 心学への関心は'寛政二年(三三才) に北村柳悦の来訪あり'その講 註五 席に列したのが端初で'寛政五年三月にはついに自邸内に方来合と名づ ける学舎を営むに至った。その急速な心学への傾倒は'父を憂慮させる ほどであったらしく'骨秋は' 寛政五英丑'父七十一才の云'未熟の学文たてをして'ものこと窮屈 に心得たる'よろしからす見ゆる也。又'人の噂をするをき-に' 一 九 六 その人の行ひを書きの悪きのといふ'つゝしむへき事そ。又へ志な き人に先生の道の事物語する事あるへからすへ と也。(万来舎聴書) と記している。性急な思想青年のように激しい求道の姿が'そこに思い 描かれる。その後の骨秋の心学活動の実態を'石川氏の著書にょって窺 うと次の通りである。 氏は'入信後の生活二十六年間を三期に分け'寛政二年から同九年ま での八年間(三三才∼四〇才)を修行時代、寛政十年から文化四年まで の一〇年間(四一才∼五〇才)を近郷近国へ教化布教に出向-ようにな った時代、文化五年から同十二年までの八年間(五一才∼五八才)を心 学振興に浮身の力を注いだ時代とされる。そして曾秋の﹃講席覚﹄に塞 いて活動年譜を作成し'その生涯の講席が二 三〇〇回余にも達したこ と'第二期の活動地が方来合を中心とした郡内五箇村(和田・油日・毛 牧 ・ 滝 村 な ど )   と 伊 賀 国 三 箇 所 ( 上 野 の 有 誠 舎 ・ 柘 植 村 の 麗 沢 舎 ・ 友 田 村の山尾氏宅) に限られたのに対し'第三期にはその範囲が著し-拡大 して'近江・伊賀は勿論'伊勢・大和を含む四箇国二〇地方にも及んだ こと'また中山美石(国学・儒学に達す) を通じて尾張・三河にも影響 を与えたこと'等々を実証された。また氏は'曾秋が近江心学の中心人 物として目覚しい活躍をなし得た要因として、「その優れた人物と'絶 註六 えざる修養と'充実した財力」 の三つを挙げ、他に京都正統派勢力の支 持 後 援 を 指 摘 し て お ら れ る 。 中 で も ' 手 島 堵 庵 ( 還 山 一 八 日 詔 ㌘ ) の 高 弟 上 河 棋 水 ( 運 航 八 日 詔 議 ) の 寵 遇 を 受 け ' 棋 水 や そ の 門 下 の 来 援 を 得たり'洪水の遊説に同道して協力したりしたと言う。つまり骨秋は' 地方に育った心学者として地方に活動基盤を持ち、一方で京の指導と後 援を受けつつ'京を中心として拡大する心学運動の一翼を担ったのでめ る。 このようなことを知るにつれ'私は'心学活動に先立って参加した' 甘 r 葺 を 甘 者 整 蓋 丑 巳 蛋

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骨秋の俳諸活動との類似が思われてならないのである。俳藷の師と仰い だ蝶夢は、やはり京にあって全国的規模の蕉門中興運動を進め、地方の 支持者に指導と援助を与えていた。曾秋はこれに応じて協力を惜しま ず'天明六年には'蝶夢編﹃芭蕉翁俳詣集﹄の刻板料を出資していた。 また'曾秋が心学を最初に布教した地域に関しても'思い当ることは 多い。石川氏にょるとへ上柘植の麗沢合は寛政五年頃の創立'骨秋の描 導のもとに創設経営されたと言う。和田から南へわずか二㌧三里の上柘 植には'曾秋ともっとも親しい俳友・富田杜音がいた。蝶夢からの書簡 も'「杜音様・骨秋様」と連名のもの多く同階層の両者(杜音は大庄星) は'社会的・経済的にも密接な関係にあったと思われる。杜音宅は'後 註七 に曾秋の講庸会場に使われることがあった。俳友が、思想上でも友とし て協力することは'当然あり得ただろう。伊賀上野は'上柘植からさら 註八 に西南へ四、五里の地点。その上野の講席会場築山氏宅とは'築山忠右 衛門邸と思われ'豪商平野屋を指す。天明二年に没した先代は'桐雨と 号した当地俳壇の中心人物で'﹃事蹟﹄に記すように曾秋とも近く 煤 夢との親交で知られていた。その築山家は'骨秋の姉が嫁した上野の内 註 九 註 一 〇 神尾窪田惣七郎家と姻戚関係にあり'上野会場の一である西村氏宅が' 曾秋の後配のぶの実家と思われることも注意したい(因みに西村家に は ' 後 に 曾 秋 の 三 男 重 昭 が 入 籍 し て 恕 安 と 称 L t   心 学 に も 携 わ っ た ) 。 石川氏は'上野の有誠舎創立を寛政七㌧八年頃と記されるが'これにち また骨秋の影響を察し得るのである。このように'和田-上柘植-伊賀 上野のルートは'曾秋等にとって'社会生活・経済生活や文事を営む上 の'基本的な回路をなすものであった。﹃事蹟﹄にも'「石田先生の門 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 人にて諸国へ道を弘められける北村翁'伊賀国より来り'はじめて--」 と言う。勿論上野から来たのであり'その同じ道を'行脚俳藷師も通っ たはずである。そしてまた﹃事蹟﹄が'「かねて折風坊のすゝめにょり 田  中 道  雄 ︹研究紀要 第二七巻︺ 9 て'先のとし堵庵先生にも一度相見し給ひし事もありければ--」と続 けるのも見逃してほなるまい。そのルートは北へ進んで湖南に出'さら には京へ連なる。湖南には蕉門俳譜の聖地として義仲寺があり'蝶夢の 親弟折風坊がその君主を勤めていた。曾秋は'その俳友のすすめで'晩 年の手島堵庵にも会っていたのである。 ここで曾秋の俳諸活動の概略を述べよう。これまで曾秋の俳藷につい て記されたものは'﹃新選俳詣年表﹄の一項と'西村燕々氏の「近江俳 人列伝」第一〇一回「立川曾秋」の記事だけと思われる。西村氏稿は' ﹃ 大 潮 ﹄ 誌 一 三 六 号 ( 昭 和   L O ( 7 5 ) に 掲 載 さ れ た 小 文 で あ る が ' 要 を 得たものである。 西村氏は'骨秋の初出俳書を安永五年刊の﹃笠の露﹄(琴之等編の文下 追 善 集 ) と し て ' ゆふかほや門わろ-さき馬渡 の句を示されるが'俳藷への親近を'この十九才の頃と推定して'ほぼ 誤りはあるまい。俳系も'蝶夢等のそれと思われ'翌六年からの﹃しぐ れ会﹄(年刊芭蕉追悼句集)には例年出句を見る(安永五年刊﹃しぐれ会﹄ への投句もあり得たであろう)。その﹃しぐれ会﹄所収の曾秋句を'当 初のものだけ掲げてみょう。 宵闇やこほれて通るほっ顔衆 鶏の嘩はとに暗てはし-れ哉 しくるゝ夜みるや翁の終蔦記 はせを忌やおもへは遠き世てもなし 翁忌や尾花に伊賀の人恋し ( 安 永 六 年 ・ 二 〇 才 ) ( 安 永 七 年 ・ 二 一 才 ) ( 安 永 九 年 ・ 二 三 才 ) ( 天 明 二 年 ・ 二 五 才 ) ( 天 明 三 年 ・ 二 六 才 ) 一 九 七

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立川曽秋と ﹃曽秋随筆﹄ 安永九年以後の句が'芭蕉追慕の情を色濃-たたえるのは、次第に蝶夢 の感化を蒙るに至った、曾秋の意識の発展を反映するものと思われる0 煤夢の曾秋宛書簡は二'三通しか知られていず'その指導の全貌は窺う すべもないが'杜音宛や白露宛の書簡に徴しても'きわめて懇切なもの であったと想像し得る。そのように親密な交渉展開の帰結として'天明 六年の﹃芭蕉翁俳藷集﹄上梓に際Lt煤夢から刻板料出資が要請された のであろう。同書の験で'曾秋は次のように記している。 この芭蕉翁俳譜集はtIわか五升庵大徳のとしころひめおかれLを' 同し友にこの国の北浅井の住人何かし去何'ひそかにうつしけるな り。そもいまの世に'この道にあそふ人の'この翁の遺風をしたは さるはあらす。されはこそ'統扶桑隠逸伝の蕉翁の讃に、「この風 雅は仏祖の肝胆なり。衆生の心性也。濁海の宝筏なり。夜間の明燈 なり。」 と示し給ふとはあり。かくまていとたうときことわりある を'ひとりのみ見んも無下なり。ひろく同志の人にもしらせまほし -'梓にちりはむるよしを'近江国甲賀山の杉夙庵にて' 骨 秋 謹 書 。 ﹃統扶桑隠逸伝﹄は釈義堂の著'正徳二年に刊行されたが'多-の仏者 に並んで'芭蕉の伝が収まる。この芭蕉伝を最も尊重したのは蝶夢で、 芭蕉画像の糞にもよくこの伝の記事を揮竃していた。その一節をその普 ま紋文に取り入れた点にも'蝶夢の教えに忠実に従う曾秋の姿が想像で きるのである。中でも重視すべきは、「この風雅は仏祖の肝胆なり。莱 生の心性也。」という部分である。蕉風俳諸を'それが本質的に仏教的 世界観・人間観に共通のものを持つと理解するのであり'煤夢も、曾秩 も'そのような認識から'蕉風俳譜を精神性高い文芸として重視し'高 い評価を与えるに至るわけである。そしてまた'「か-までいとたうと きことわりあるを'ひとりのみ見んも無下なり。ひろ-同志の人にもし 一 九 八 らせまほし---」と続-一節に注意を払うなら'価値ある文芸の庶民 への伝道教化を意図Lt行動へ向かって一歩を踏み出そうとする'骨秩 の姿勢が読み取れるであろう。 曾秋の作句は晩年まで続いた。しかし'心学に専念するようになって からは'さほど熱心だったとは思われず'句稿は残るが'句集は刊行さ れていない。このような寛政以後の俳諸活動の中で'特記すべきは'辛 和元年の﹃爾時庵発句集﹄刊行に関する事蹟であろう。同書は'骨秋を 蕉風俳譜や心学に導いた折風の句集で'曾秋は次のような抜文を寄せて い る 。 ( 句 読 点 は 筆 者 ) 爾時庵琳澄法師者'洛陽高田山之衆徒也。自少'務一向専修念仏臭0 為 人 ' 清 潅 無 事 ' 而 信 樹 下 石 上 之 趣 。 且 勤 行 之 暇 、 慕 蕉 門 之 俳 藷 ' 師事千五升席主。其気象風流不群'故字日折風'亦称得往'一号方 広 。 生 質 多 病 ' 而 性 好 轟 旅 ' 常 愛 勝 地 ' 而 排 相 子 京 師 湖 南 之 間 ' 数 年也。然終不卜容膝之草庵'優遊自在也。寛政十二庚申歳羅疾'同 四月晦日,ロ唱名号、終干高田道場.享年四十有九。同葬干山内 云。 享和改元之冬 湖東 立川政伸謹識 本書は'諸家の句を併載した追善集の形式をとらず'出板費用はすべて 曾秋が負担したものと思われる。折風の'専修念仏・優遊自在の境涯を 愛した友情の発露であろうが'同集の巻頭句が' 且に一鉢をさゝけてうゑす 夕に一衣をまとふてこゝえす 一日つゝ送るかうちに今朝の春 で あ り ' 巻 尾 句 が ' 出てはくらひ入てはねふりて

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ほしいまゝなるをみつから策打て ゆくとしやなき身につもる罪はそも であるのを見ても'曾秋の理想とした俳譜の性格が察せられる。 曾秋が親しく指導を受けた人物の一人に'﹃事蹟﹄にも記す長者坊浮 流(天明二役)がいた。浮流は三河生まれの行脚俳人で伊賀友生村に定 着Lt曾秋や杜音等'近隣の俳人に影響を与えていた。その浮流宛の管 秋書簡を通して'若き曾秋の俳譜生活と意識を'もう一度探ることにし ょう。天明元年以前のものである。 5 1 面 白 ) 先日より御翰書こも不預'無益之俗人と御下皐被下候哉'但老貴妹 志 御 座 候 哉 ' 御 様 子 承 度 候 。 此ころ杜音には'翁之直伝を貴師より被承候由'あやし-承候。然 れハ御安泰とハ奉存侯に'故人何倍一床書'御返答可承候。重厚隠 士も'首夏之比者御尋可被下旨被仰'何之きたな-'すへて今の隠 士'虚言有之ハあさまし。売雪に一宿被成候由、いかなる門流にて 侯 や 。 惣体不風流'杜音之青あらLt 佳章の様に被中越侯も'左も不覚 侯。元来'風流の魂不居'いかにいふとも叶中間敷侯。美濃流なと ゝ乾し申こされ侯へとも不分明'無詮事欺.只風流'魂人らハかく ハ有まし-'野子なと'是迄のほ-ひとつも魂なし。此うへもな し 。 暫 口 を 閉 て t と御出可被下候。 さ月八日 浮流様 ( 中 略 ) 古人の心をさ-り申た- 'その談合に'貴柄様な 中々附句なと望不申侯。巳上 骨秋 この比'軒の葉山しけ山、かんこ鳥暗あへ申候。それにヽ 田うへ ・麦かり'山里ハおかしきものに御座候。うき我をさひしからせ 田 ・ 中     道     雄   ︹ 研 究 紀 要   第 二 七 巻 ︺ g よと申翁の御句'このうきといふ詞'いかゝ御聞被成侯や。こゝ らよしありけこ覚候。うき恋・うき人なといへるうきとハ相違' 意味深長'無常迅速のきハにや。これを静こうけ玉りたく候へと も'俗事おは-心治らす'徒二相過候。恥し。 杜音と競うようにして「翁之直伝」を学び取ろうとする意欲'その意欲に そぐわぬ表現力の欠如'その表現力の有無がひとえに「魂」 の有無に支 配されると思考するところに'その意識の特色が認められそうである。 「魂」が何をさすか'この文面だけでは窺い知れぬが'その「魂」を得 べ-'「暫口を閉て'古人の心をさぐり」たいと考え'芭蕉の閑古鳥の 句の「うき」の語に'一つの手がかりを見出すようである。「意味深長' ∫ 無常迅速のきハにや」と言うところを見ると、そこに何らかの精神性を 求めることは明らかである。また骨秋が'自らを「無益の俗人」と自覚 し'農村人らし-'田植えや麦刈りの農耕作業に目を向けるのも'注意 されてよいであろう。それにしても'やや調子の高い曾秋の精進ぶりに は'師の浮流も多少手を焼いていたらし-、右書簡受領直後の杜音宛書 簡 ( 五 月 十 六 日 付 )   で は ' --伊賀のむかし格別二存候。翁のしやう美被成候御道理有之'今 の世はつかし-候。--むかしを起す一集tとゝのへ申たく侯。曾 ( 不 明 ) 秋かた葺不審なる事を申釆□事も云へく候。かくまて闇の眼を閉 居 候 事 ' 無 念 に 侯 。 -と苦情をもらしている。 ここでいま一つ、骨秋周辺の雰囲気を伝える書簡を紹介しよう。差出 人も受取人も不明ながら'「和田へ参申候得共」とあるから'骨秋を訪 ねた後の執筆であり'杜音釆簡集の中に見出される一通ゆえ'受取人は 杜音かそれに近い人物である。 寒気甚々鋪御座候得共'弥御家内様御安静二被成御入、珍重之到二 一 九 九

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立川曽.秋と ﹃曽秋随筆﹄ 奉 存 侯 。 当月五日'和田へ参申候得共'此節之事二候得者心騒々鋪候而'付 句も出来不申候。殊ニ'貴公之一心私の重りのはいかいも'御気二 入間鋪と申て'清書し不申候。少 - 隔り候印より付申候。御覧可 被 下 僕 。 御 気 二 人 候 所 迄 ' 御 用 ひ 可 被 下 候 。 中子ハ至而はいかゐ下手こて候得共、志を立る事ハ、いつれこもお とらしと奉存候。全-志の事とは奉存候得共'兎角気転之才又無侯 得ハ'一巻の模様に出来不出来可有候と奉存候。貴君者一向宗念仏 ( か 脱 ) を御さとり被成よく'中子ハ翁の意をよく察して'業ハ叶かた-候 得共'志ハおとらしとうなつき'ひそかに悦申侯。其元様ニハ'此 場へハ今は御入被成かたく奉存候。私の重りのほいかいとハ言葉狂 言こて'面白く、理二的中いたし候得共、納所場にて山家集御写し 被成候事ハ'君臣之勤をわすれたる奴とやらにて'高声こも不被申 侯。 露ときへまほろしときめいなつまの影のこと-に身ハおもふへ し との歌にさとりを取申候。 翁の志をさとりたる歌 ときもせすいひもゑさりしところをハしらぬ物そとしるそしる なる 心を安く持歌 うつりゆく月日のかすハかそふれとわかとしふるとしる人はな sa 斯心取申候。今よりハ我'鼻の長さ三尺五寸'飛行する事'東西南 北一時にかける太郎坊・次郎坊もましめにひかへ可被中と奉存候。 此文御一覧の上火中 -。多罪-1。此節のうつさんはなし'御用 二〇〇 赦 可 被 下 僕 。 頓 首 睦月十八日 ( 下 略 ) 差出人は'「至而はいかゐ下手」を自認しながら'一方で「志を立る辛 ハ'いづれこもおとらじ」と強調する。蕉門俳誼の本質は 「全-志の 事」にあり'志さえあれば'少々の下手を埋め合わせることができる。 そのように志を優先する文芸であるから'受取人の一向宗念仏のさとり にも匹敵し得'差出人は'芭蕉の志が'「ときもせずいひもゑざりしと ころ」 つまり表現不可能の境地を'不可知の実在として認識するものt と悟るに至ったのである。不可知であるから'そこに複雑な理論はな い。浄土教が庶民にとって受け容れやすい教理を持ったように'蕉門俳 藷も「ありのまま」 「かざりなし」など平明な俳論によって普及した。 右の書簡は俳論としてほ未熟なものであるが'見逃してならぬのは'二 度も-り返された「私の重りのはいかい」という語であろう。これは' 受取人のみならず'差出人にとっても否定さるべき作風の概念であった ようだ。そして'この 「私」 の否定をくり返し説いていたのは'他なら ヽ ぬ 蝶 夢 で あ っ た 。 煤夢の俳論を詳述する暇はないが'その論の中核に位置するものとし て'この去私の説があった。例えば'安永四年八月三日付の白露宛書簡 で は ' ( マ マ 、 丈 ) 風雅の其趣と申事'大太夫たるへ-侯得共'野子杯ハ左も不存侯。 たゝ 法花経を我得し事ハ薪こり菜つ、、、水くミ得たるなりけり 行基菩薩 山はたの岨の立木に居る鳩の友よふこゑの凄き夕くれ 西行法師 ei

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枯枝にからすとまりけり秋のくれ        芭蕉翁 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ かゝる体にて'目前の実境'心外の余情に'一己の私意を交すして 申如たるを'其趣と覚え居中候。--と述べるが'蝶夢の考える風雅の其趣とは'外界に相対して得られた秦 朴な感動を'それに作者の作意を加えず'忠実に言語化するものであっ 註 一 一 た。この去私の説は'二柳など他の蕉門俳人の論にも見え'決して煤夢 一人のものではないが'蝶夢の場合は'それが浄土教的観念に結びつく 点 が ' 特 に 注 目 さ れ る 。 月といひ花といふ生死の一大事は'つねのあらましなるを'今 更のやうに胸ふくれ'腸のきる1やうに覚ゆるは'年比の契り のみか'我後の事をも頼み思ける事のたかひぬるをt かなしと ヽ ヽ ヽ ヽ おもふわたくしにや。 限りなき五月の雨や我こゝろ       (自筆句帳) 浮流の死を突す句で'哀傷の深さは'詞書からも充分に察せられる。し かし蝶夢は'その嘆きを個人的感情の次元でとらえることを恐れ'生死 の一大事という普遍的な人間の問題として受けとめようと努めている。 なぜなら'卑小な私意を捨ててこそ'仏の大慈大悲を期待でき'そこに は大いなるものへの帰依がある。同様に、私意を捨てた自然(対象) へ の帰依こそが'蕉門俳藷の真趣を生み出すのである。蝶夢の句には'級 文を題にした釈教の発句や' 婆婆世界といふを訳して堪忍土といふに 厚こはり水も心のまゝならす ( 同     前 ) など'自然詠に人生を託愉した'いわゆる訊諌の句が多い。そのような 思想性を濃厚に漂わす俳藷が'去私を強調し' 智恵あらほしらし時雨の夕けしき 丹後宮津 季友(安永四・しぐれ会) と知を否定するのほ'重要な問題である。 田  中  道  雄 ︹研究紀要 第二七巻︺ 旬 曾秋の意識からその周辺の雰囲気へ、さらに蝶夢等の俳譜の特質へと 筆を進めてきたのほ'そこに心学との共通的性格を見出そうとするため であった。筆者は今'その共通性を全面的に論ずることは避けるが、以 下に述べる一点だけは指摘しておきたいのである。 石川氏によると、曾秋の思想は'上河棋水の朱子学根拠説を継承した ものであって'「その独自性は教化普及の勢力の上に認められるのみ」と 註一二 言う。曾秋は地方に輩出した心学者として'その地の中核となったが、 いわば「京都心学の思想取次ぎ人」として、教化第一の活動に徹したわ けである。とするなら'その思想の理解のためには'洪水まで遡らねば な ら な い 。 棋水は'町人社会に生きる個人のための実践的思想として確立した石 田梅岩の学が'次第に社会教化的な面に力点を移して行-時点でへ その 註一三 思想体系を儒教的説明によって再編成した人物と見倣され七いる。石川 氏によると'棋水は'手島堵庵の「思案なし」 の論に依拠しながら'こ れを「私案なし」の論に作り変え'程伊川の無私心の論で補強したと言 う . 例 え ば 湛 水 は ' 堵 庵 の 遺 稿 ﹃ 私 案 な し の 説 ﹄   ( 文 化 〓 刊 )   の 編 纂 に 際しても'自らの説を多-頭注に加えたのである。棋水の論と堵庵の論 とは'およそ次のような点で異なる。 まず'堵庵の述べる 「思案なし」について記すと'それは次のような ものであった。 「人之所レ不レ学而能老其良能也。所レ不レ慮而知者其良知也」。本心 を知るは外の事にあらず。此無我無知の本体を知る事なり。故に女 童却て甚近-発明しやすし。其いほれいかなれば'初より我す-な し。我を拙Lとして用ひず'師を恐れ信ずる事厚-'又教示を鹿に 聞ず'指南により彼思案を捨て'偏に師に帰するを以て也。(安 永 二 ・ 知 心 弁 疑 ) 二 〇 一

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立川醤秋と・﹃曽秋随.筆﹄ 本心を知れば我なし。我なければ天地万物を吾とす。何物をか愛せ ざ ら ん 。 愛 す れ ど も 私 な し 。 ( 同 ) 人間は'外界を正し-写し取り'正し-相接しょうとして'絶え間な-働き続ける「本心」を持つ。その「本心」の自らなる働き-「思ふ」を 中断させ'誤りや悪に逸脱させるのほ「我」であり'「思案」 である。 「我なし」 「思案なし」の状態でありさえすれば'人間は外界に常に正 しく相応じ'正し-働きかけることができる。堵庵のかかる理論は'梅 岩の思想が内包した社会体制への批判を失って'まった-個人的な処生 訓に嬢小化されたと言われるが'それでも個人の主体的な精神生活の態 度・方法を示すものだったと思われる。それが棋水の「私案なし」に至 ると'逆にその個人の主体的な意志の発動を規制するものとなり'堵庵 の思想の対立物へと変質した。それは、「我なし」「思案なし」が主体的 な個人の問題から切り離されて'社会的倫理の範噂に組み込まれ、寛政 の思想統制策に順応した'道徳教化運動の理論に転化したことを意味す る。 筆者が'蕉門俳譜と心学の共通的性格として是非指摘しておきたいの は'この〃我〃 〃私〃を去るという外界への対し方である。堵庵の論 が'先に掲げた俳人たちの論にきわめて類似することを'読者はすで に気付かれたであろう。今筆者は'その両者の論の共通性が'いずれ かの影響によるものと断ずるつもりはない。ただ'同質のものであっ たからこそう蕉門俳譜に遊んだ骨秋が、容易に心学者となり得たことを 主張したいのである。曾秋は湛水の徒であった。しかしそれに先んじ て'折風のすすめで堵庵に面会していたことは、すでに述べた通りでめ る。まず堵庵の思想が受け容れられ'その後に棋水の影響があって自ら の思想を進展させたtと理解して差支えあるまい。俳譜の師蝶夢も'拷 註一四 庵に関心を示しており'曾秋が蝶夢と堵庵の思想について語ったこと 二 〇 二 も'充分想像できる。また一方では'洪水の心学教化運動が'蝶夢等の 蕉門中興運動と同質のものとして骨秋に理解され'その結果'棋水指導 の活動への参加が自然な形でなされることも'充分あり得たと思われ る 。 蕉 門 俳 壇 で は 、 「 俳 誼 は 衆 人 を 導 -最 上 の 法 」 ( 既 自 ・ や ぶ れ 笠 ) と 真 面目に考えられていたからである。 ≡ 前 章 で は t I 蕉 門 俳 諸 と 石 門 心 学 に 共 通 の 性 格 が あ り ' か か る 事 情 が ' 骨秋にその二を矛盾な-両立せしめたことを説こうとした。本章では' 熱心に励んだ蕉門俳詔から後半生を捧げる心学へとへ その活動の中心を 移す過渡期にあって'骨秋が著述した一書を紹介することにする。 それは'大本二冊に認められた随筆で'題名を与えられていないか ら'いま「骨秋随筆」と仮題しておこう。署名はないが'内容と伝来か ら考えて'曾秋著であることは間違いない。寛政元年九月の記事で終る から'当時の成立と推定し得る。立川欽一氏の所蔵で'自筆草稿本・同 清書本の二種があり'草稿本は一〇一段'清書本は八三段を収める。墨 付の丁数で示せば'草稿本の第一冊三九丁'第二冊一五丁'清書本の第 一冊二五丁'第二冊一五丁である。草稿本には、蝶夢による綿密な添削 の書き込みや付隻があり'章段の削除も指示されていて'清書本が'煤 夢の指導を忠実に生かして浄書されたものであることは'両者を比較す ればたちまち明らかになる。立川家には昧夢添削の句稿も残るが、とも に蝶夢の懇切な指導ぶりを窺う好資料と言えよ-。本稿では'ひとまず 註一五 清書本全文を翻刻して付載した。以下清書本の内容に従って'問題点を 指 摘 す る 。 この随筆の内容を検討してう まず気付-のは'歌人・画人・書家など

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の当代文化人や'僧侶・隠逸人の逸話を多-収める点である。文化人は' 澄月③・塵庵⑦・嵩喋⑧・慈延㊥・大雅⑲・蕪村⑪など著名の人は勿 論、馬瓢㊨や髭風㊥などの地方俳人にも及ぶが'地方知識人の文雅への 憧れ'就中'京文化へのそれがおのずから反映したものであろう。この 系列中でさらに多いのは'僧侶や隠逸人の逸話である。文梁上人㊥は念 仏行者として'鈴木周敬⑲・浮流㊥・俊鳳上人⑭・涌蓮⑯ほ隠逸人や過 世者として'その生活のあり様が述べられており'歌人の澄月③も'師 の煤夢鴫も'同様の人物として把握されているのである。かような隠過 人・遁世者に対する骨秋の強い関心は、同時代人からさらに過去の人物 へ と 遡 る 。 中 納 言 藤 房 ⑲ ・ 隆 尭 上 人 ・ 栂 尾 上 人 ・ 夢 想 国 師 ・ 元 政 ㊥ ・ 長 明 ⑲・頓阿㊥・宗鑑⑳など登場するが'それらがいずれも'そのゆかりの 地に触れて述べられるのが興味深い。つまり骨秋は'彼らの遺跡を実也 に踏査Lt感懐と同時に'何らかの事実に基いて逸話を述べようとする のである。その探求的態度が著しいのは'公任にゆかりあるやしほの岡 の段⑯であろう。西行の歌も思い合わされ'「か1る所かろうじて尋ね ありく'いと興あるものなり」とさえ記している。芭蕉の幻住庵軌や蓑 虫庵⑳も同じような興味から記事にされ'丈草⑳・去来㊨の塚もまたし かりと思われる。このように'全体に底流する文化人や求道者への敬慕 の念が'まず見出されるのである。 また'各段に和歌の引用が多-'歌物語的性格の段⑤⑥㊨が存するこ とも注意したい。発句を詠む話が歌物語風に仕立てられ㊥'花見㊨月見 ⑳ほ勿論'蝶夢との紅葉刈⑲の段にも'風雅を慕う骨秋の心が窺えるの で あ る 。 他に目立つものとして'宮中に関する段①⑲⑯㊨㊥'寺院に関する段 ㊨㊨㊥佃、地方の珍しい風物や杏異な事柄に関する段⑨⑪⑲㊥㊥㊥㊨な どがある。これに'観想的な内容を持つ段㊥@紗@g)や〓云の達人の言 田  中  道  雄 ︹研究紀要 第二七巻︺ 勺 行を伝える段rg,㊥⑳の徒然草調を思い合わせると'これらの諸段があい まって'この随筆の内容をより多彩にしていることが理解できる。 以上幾つかの指摘をしたが'これらにも増して骨秋らしい特色を'筆 者は次のような点に見出す。 まず挙げるべきは'天変地異に関する記事の多きである。浅間噴火 ② ・ 日 蝕 ⑦ ・ 洪 水 ・ 地 震 ・ 落 雷 ⑲ ・ 暴 風 ㊥ ・ 怪 光 ⑯ ' そ れ に 天 明 八 年 の 京大火㊥を加えると、大方の災害は出そろったことになる。編年的な醍 列法をとるこの随筆が'単に変異を記録したに過ぎないとも言えよう が'方丈記に似た文面もあり'記述が災害に苦しむ民衆に及ぶのを見る と'右の諸段を軽-見過すわけにはいかない。他の段①㊥では'凶作と 米価の高騰のため飢餓に悩む民衆の姿も伝えており、曾秋の意識の中 で ' 民 衆 の 存 在 は か な り 大 き か っ た と 考 え ら れ る か ら で あ る 。 す で に , A ) の時点において'曾秋が経世済民にかなり心を砕いていたことは'京の 大火を「上下の奪日々に超過しければ'天の怒ある変ならんかし」と とらえ、奪惨を戒める段㊨によ-窺うことができる。曾秋は'世相の退 廃に厳しい批判を向け'遊女に溺れる者を目覚めさせ㊥'孝心の功徳② を説こうとする。正直者は称えられねはならず㊥'堕落者は僧侶といえ ども糾弾されねばならない㊥。ここに措かれる僧は京の阿弥陀寺住職 .らしいが'宗教界にも及ぶ末世的退廃の根源が'貨幣の流通と蓄積にめ ることを'この段は的確に示唆している。 このような社会的情況の中で'人々に期待されたのが、すぐれた指導 者の登場である。本書中'白川侯松平定信の記事が四度にわたる⑲㊨㊨ ㊥のも'曾秋の並々ならぬ期待を物語り'「俗を移し'風をかゆるにい たる」¢善政に'人々が「おのづから心あらたまりて--ますi安穏 の思ひをなす」㊨さまを、筆を尽して述べるのはまことに彼らしい。こ の随筆は定信登場直後の成立であるから'その歴史的な転換を受けとめ 二 〇 三

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立川曽秋と ﹃曽秋随筆﹄ た'一地方人の生な感情が'ここに記録されたと言えるであろう。思い 出 さ れ る の は ' 曾 秋 と も 交 友 が あ っ た ' 俳 人 塘 雨 の 書 簡 ( 四 月 十 一 日 付 ) 1 である。塘雨は江戸から'日向の可笛に宛てて「時移世替'今ハ田沼侯 の邸迄廃壊之形状'懐旧之情相催申侯。」 と書き送っていた。曾秋の記 事より後年に属するが'俳人たちの意識は'政権担当者の動向に'かよ うに敏感に反応していたわけである。(本書にも'意次に関する記事が 二段⑲㊥ほど見えている。) ところで骨秋が'高-評価する定信の、そ の文教政策をも支持したことは想像に難-ない。儒者柴野栗山の東下に 際 L t 師 蝶 夢 が ' 柴栗山先生東行儀別会に' 年比の学徳いちしる-'東へもきこえて、公の召を蒙らせ給ひ けるいさをLは串もさらに'かしこきを用ひ挙させ給ふ御代に 生達しは'大かたならぬ天か下のよろこひなるへし。 世のために猶ふみわけよ雪の道         (自筆句帳) の句を贈ったのと軌を一にし、曾秋もまたその壮挙を慶賀して'「福蒼 生」の語ある留別詩を書き留める㊨のである。骨秋の心学転進を考える 上で'注意すべき事柄と思われる。 ここで'俳諸に関して興味ある記事を紹介しょう。定信と親しかった 伊勢神戸藩主本多忠永について述べる段㊥で'遊蕩のため「民をおさむ るの徳はなかりLが'去年より年来の御ふるまひ改りて'美人をしりぞ け'異人を招き'その民をおさめ給ふ」ようになったと'やや皮肉まじ りに大名を評している。寛政改革が'まず定信の周辺から実を結ぶのが 知られるが'筆者には'この忠永が'清秋と俳号した旨原門の有力メン バーであったことが'ことに意味深-思われる。江戸座は'曾秋等の属 した蕉門俳壇と対立的に存在し'都市の消費生活に基盤を持つ俳壇だっ たからである。ともあれ曾秋は'すでにこの時点で'藩主クラスの為政 二 〇 四 に批判を抱いていた。そして賢君を期待した。すぐれた為政者の記事は 本書中にも見え⑲t かような意識は'後年の実践活動に受け継がれて行 -。石川氏によると'曾秋は文化六年頃'近江宮川藩主堀田豊前守正穀 註一六 に講義しており'その依頼で領内を巡講したと言い'この外にも'曾秩 が信頼を得た藩主は多い。この随筆の内容は'そのまま心学活動に連続 するものを持つようである。 藩主層に対してさえしかりであるから'骨秋が'在郷の指導者層の荏 り方に対し'明確な理念を抱いたのは至極当然と言える。油日村源左衛 門㊥とか丹後の五宝十右衛門⑲など、まさし-その理念に一致して' 「常に人の愁を己か事とおもひな」す仁者であり、曾秋もまた同じ階層 に属するのであった。曾秋は'源左衛門や十右衛門のような役割りを' 新しい道徳思想の伝達普及という形で担おうとしたに違いない。骨秋の 生き方は'その﹃事蹟﹄からも窺えるが'この随筆の内容として、農耕 の技術・慣習に及ぶ段㊥㊥⑲や漢方・灸治につき述べる段㊥⑲㊥⑲な ど'民生上に役立つ知識を多-含むのも'いかにも農村知識人の著作に ふさわしい。曾秋は'心学の講壇に立った際'この随筆中の話柄を用い ることもあったのではなかろうか。素材として適切なもの多く、生き坐 きした会話文体を含む㊥など'そのままの詰り口で利用され得たであろ う○ 棋水の心学は'広範な社会教化を特色とするものであった。それは' 都市中心の心学が'農村へと拡大されることを意味した。曾秋は'農村 の知識人として'その尖兵の役割りを果たした。役割りを担うに充分な 見識を'蕉門俳詔の教養で身につけていたからこそ'曾秋はそれをなし 得たと思われる。その見識を裏付ける最良の資料が'この ﹃骨秋随筆﹄ であり'その内容は、師蝶夢の影響によるところが'きわめて大きいと 註一七 考 え ら れ る 。

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最後に筆者は'骨秋に真剣な社会教化活動を決意させた要因として' 註一八 百姓一漢などの社会不安を指摘しておきたい。蝶夢を始め'曾秋と交衣 ある俳人たちの書簡にもしばしば言及があって'蕉門俳詔の精神性希求 も'石門心学の地方展開も'等し-この社会不安を土壌とすると考えら れる。両者が共通的性格を持つ理由もまたそこに求め得るであろう。重 要な問題であるが今後の検討にゆだねることとLt本稿をここで結ぶ ことにする。 註 一写本一冊。半紙本'墨付六丁。書名なく いま石川謙氏が用いた名称に 従う。心学をも継いだ次男立川葉山の稿であろう。 二 原本の抹消部は、,二で'補入・訂正部は ( )内に示した。 三 立川欽一氏所蔵文書'同氏談'また石川氏の著書であるが'一々記さな か っ た 。 四 家業の継承は﹃事蹟﹄に'家督の相続は﹃石門心学史の研究﹄四一三ペ ージに記す。これらに従い'二次にわたるものと理解した. 五   石 川 氏 は ' ﹃ 石 門 心 学 史 の 研 究 ﹄   二 八 ペ ー ジ で ' 「 植 村 賢 道 に ょ っ て 心 学の門に入ったと伝へられてゐる」と記す。 六   同 書 六 二 二 ペ ー ジ 。 七 同書六二ページ他に「富田氏宅」とある。これは杜音没後のことにな るが'生前にも何らかの協力があり得たであろう。 八 同書四一四ページ他。 九 菊山当年男氏﹃ほせを﹄一七七ページ。 一〇 ﹃石門心学史の研究﹄六〇五ページ他。六一七ページには西村恕安宅と あり'恕安は'明倫舎都講にゆかり深い心学者だったと言う(六二九ペ-ジ)。恕安を曽秋の三男賓昭にあてるのは'立川欽一氏の御示教にょった。 一 拙 稿 「 二 柳 の 俳 論 」 ( ﹃ 近 世 大 阪 芸 文 叢 談 ﹄ 収 )   三 一 〇 ペ ー ジ 参 照 。 ﹃ 石 門 心 学 史 の 研 究 ﹄   二 八 ・ 二 二 五 ペ ー ジ . 同書九八ページ以下。また、堵庵の論の理解も'多-同書にょる。 田  中  道  雄 ︹研究紀要 第二七巻︺ 一四 蝶夢の寛政五年正月十四日付杜音宛書簡に'かなり長文の言及がある。 l 五   翻 刻 の 際 ' 異 体 字 な ど は 多 -通 用 表 記 に 改 め た . 一六 ﹃石門心学史の研究﹄一〇九九・一二八八ページ。 一七 北田紫水氏﹃俳僧蝶夢﹄四一七ページには'﹃幻阿上人随筆﹄一冊の伝 存を記している。未見ながら'おそら-﹃曽秋随筆﹄ の内容に近似すると 思 わ れ る 。 一八 拙稿「蝶夢を扶けた人々 - 俳詣中興運動の地方的基盤1」(日本文 学 研 究 資 料 叢 書 ﹃ 蕪 村 ・ 一 茶 ﹄ 収 )   二 六 〇 ペ ー ジ 参 照 。 付記 多数の資料を御提供の上に御示教を惜しまれなかった立川欽一氏、資 料閲覧に際してお骨折り-だきった大庭勝一氏'書簡解読につき学恩を蒙っ た大内初夫氏に'心から厚-御礼申しあげる。 ︹曽秋随筆︺ 壱 」 表 紙 ① 安永九年の十二月三十日'節分なり。ことLt元日立春なり。子の 年 な り . 諒 闇 な り . ( 相 幽 か R )   先 帝 を 後 の 桃 園 院 と 申 奉 る 。 丑 の 年 四 月'天明と改元ありて'辰のとしの春'諸国米の価たうと-て'伊賀 の国に松の皮を米の粉にあほして-らふ事あり。同し-にゝ孝子留松 といふものあり。国守より物贈る。その事を書て'孝子伝をつ-る。 ② まへの年七月'いつかたとな-日夜鳴動すO 何の」-音といふこと をしらて'日を過しけり。しなのゝ国浅間か獄のやけたるにて有ける よし。さしも大山のやけ崩れけるに'麓の里は人家崩れ'利根河なと いふ大河まても'その焼出し石に河水も湯となりあせけるとなん。上 野の国高崎といふ所に一紅といふ老女'﹃文月物語﹄といふもの書て' 二 〇 五

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立川曽秋と ﹃曽秋随筆﹄ その事しるせり。小野彦総は'この折から吾妻に下り申されけるか、 父の命せられしまゝに東海道を下られけるか'木骨」川路にかゝる変 ありて、これへおもむきし人は、みな道路をうしなひ'あるは横死の 事もありLに'この人ほっゝかもな-下りて、公の務をせられけり。 日ころ孝心の厚き'こゝに顕れけるか。 ③ 澄月上人は天台の学侶なり。遁世して大原山に庵してか-れ給ひけ るか'蓬に年経て後'大原あたりに行て'もと住給ふけると覚え給ふ 谷かけを尋入り見給えほ、今もすむ人のありと見えて、柴の戸」2さ しけるを見給ひて' 大原やむかしの夢の跡とへは結ひしまゝの庵は有けり ④ 祐為と申すは'加茂の県主なり。家きはめてまつしかりけれほ' ﹃源氏ものかたり﹄ を書写せんに料紙のなかりけれほ'「こゝろあら ん輩は料紙えさせよ」と壁に書てはり置り。やかて写し終りけるに' そのお-に'「此料紙何ほと何某施しぬ」と'仏者の寄附の檀那の名 書ることくしるされLtすせうにこそ。年の葉を」"よめる歌に' 身につもる年はおもはす思ふ子のをひゆ-末をかそへてそまつ ⑤ 清といへる女は'みのゝ国五筑坊か妻女の姪なり。和歌よみて情め イひさ後くれと云 りし女なりけるか'ほしめ人に嫁して居りしか'ゆへありて離縁しけ る。その夫、そのゝちこの女にうちたはむれて'ものかたらひたき風 情なりけるに' 秋にあひて枯にしものを今さらに何おとろかす荻の上かせ ⑥ ひたちの国土浦の武士'妻をむかへけるに'その婦女」3かた目な りけれほ'うとみてこと女をむかへた-おもふけるにt かの婦女のよ め る ' みめよきはおとこのために不幸なり女房は家のかためなるものを これは、やまとうたの道にはかなふへきにもあらさるへけれと、わか 二 〇 六 き人のこゝろ得ともなるへきにや。 ⑦ 天明六年ひのへ午の元日に'費蝕皆既にて'万物黄に見えてくらく なる。この心をやよみけん'鹿庵の歌に' あまつ日のみかけか-せしいにしえをしほし見せける空もかしこ し                                                   」 的 この人は'ことなること歌によむをこのまれけるにや。狸の出て人を 驚しけるとて愁ひける人の家にて' 穴さひしませ鼓うて琴ひかんわれ琴弾んませ鼓うて また'きらゝ坂に慈悲心鳥の噂けるとて' 御ほとけの心を声にな-鳥のすかたは人に見えすやあらなん ⑧ これは日光の御山にても瞬けるよし'鵜川筑後守と中人のかたられ けるにて'伴の蕎棋なる人も、 慈悲心となく声きげは鳥にたにしかぬ我か身のほっかしきかな」4 その外にもこの鳥をよめるほおほし。さて'この育膜と申すはさえた くましき人にて'﹃国歌或問﹄﹃国津文世々の迩﹄等の書をつ-られけ る。 ⑨ 京に住る何かしとかいふ医師'ある夜人のもとめに応してのりもの にかきのせられて行けるに、夜-ら-て東西をもわかす、行先とを-ていた-更わたるころ'あやしの住家にいたりぬ。ますらをとものあ また居りける中に'金槍をやめるものありて'これに薬をあたへげ る.さて、聞なれぬ鳥の」的声きこえて'仏法-1とな-なり.いと こゝろゑす思ひt かへりてのち人にあひてしかiとかたりけれほ、 「仏法とな-鳥は'松尾山に住僧るやらん。古人この山にこの鳥をよ める歌あり。さてこもり居るものはt Lらなみのたくひにてやあら ん。」といふ。その1ち'時の諸司代板倉殿、その-すLをめして' さるものともからめとりて見せさせ給ふとて'「古歌のよみ合せによ r H H u ㌧ * L _ 」

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りて'松尾よとほしれり。」と仰ありけるとそ。またこの鳥を'よし のやまにてきゝ侍るよし。」5浅井の去何か発句に' 声すむや秋のよし野は仏法僧 ⑲ ひのへ午は陽のまされる年なれと'元日の畳蝕にてまされる陽気 をゝさへけるにや'春より秋にいたりて雨ふりつゝく。七月'諸国供 水して地震・神鳴Lは-トす。女の'雷の落るにあふて即死せしも の'ちかきあたりにふたゝひ聞-。此年'病狼おは-出て'伊賀の国 阿波山といふ廟にて'多人をそこなふ。関東の御家人高崎次郎兵衛と いふ武士'」的この所にて狼ふたつを切ころす。 ⑭ こさといふものは'ゑそのゑひすとものふきける笛のた-ひなるな り。﹃新選六帖﹄に証歌あり。南部の素郷'こさひとつをもとめて都 にのはしける時'澄月上人' 雲霧を吹すてたりしこさやこれゑそか千島もおさまれる世に ㊥ とゝきの矢といへるもt かの島につ-れるなるよし。矢つかは鹿の 骨に柳をつきて'羽は鳶なり。矢の根は竹にて巾ひろ-つ-り、すこ しくつみたる所ありて'その中に毒をいれ'」6たつ矢をぬけとも'や しり残りてかの毒にあたる工なり。 あさましや千しまのゑそかつくるなるとゝきの矢こそ隙ほもるな れ ﹃ 袖 中 抄 ﹄ に ' 顕 昭 も 読 人 を 挙 給 は す 。 後 に 人 の い ふ を 閲 は ' 左 京 太 夫顕輔卿の歌にてしのふ恋といふ題あり。それにて'恋のこゝろか-れなく聞ゆるにや。 ⑲ 八 月 ' ( 詔 か ; ) 幕 下 蔑 せ さ せ 給 ひ て ' 白 川 の 侯 ' 政 を と ら せ た ま ふ . ⑲ 十7月朔旦'冬至の調進ものゝ中に'餅米・菜・大角豆を」的ひと つにかしきて奉るをt かしきませとゝなふとかや。かしこけれと今上 の 御 製 ' 田  中  道  雄 ︹研究紀要 第二七巻︺ 蝣m 天行南経一陽釆 春信含香冬至梅 盛礼復依周代古 乾々生意聖庭開 ⑯ 未の正月'山しなの郷より白鳥を献し奉るに'家--\これをかうか えさせ給ひ'祥瑞鳥なるによりて'狩人のたくひあやまち申ましきお もむき'官庁よりふれられけるとかや。」7 ⑯ やしほの岡といふ所をたつねほへれと'牛牽る翁'田-さ取女なと はつゆもしらす。長谷川を経て'かすかなる寺院のありけるにょりて 見れほ'いとうと - しき老僧のすめるあり。やかてかの岡の事たつ ね侍りしかは'法華庵といひて尋ぬへきよし'おしえられける。さて 里の子にたつねゆげは'やかてかの岡にいたりけり。これは'いにし え公任大納言のすませ給ふける所にて'﹃栄花物語﹄に「斉信民部刺 の'公任卿発心の後尋ねおはして先せられ奉り侍ぬれほ、いまは二の 舞にて'人の御まねをするになりぬへきかはと」り口惜し」とあるも この所にや'とおはえ侍る。またこのやしほの岡に'西行上人の歌め り。かゝる所かろうして尋ねあり-'いと興あるものなり。 ㊥ 去年'五穀みのらす'世のなかいふせ-'春より夏にいたりて'米 のあたひ常にこえて'ほては洛中へ米はこふ舟・串な-'うゑ人おは くいてきぬ。六月ほしめつかたより'御千度めくりとて、 禁裡の御 築地をめ-るに'洛中の貴賎むらかり出つ。か-して'世のなかをた やかになりける」8古きためし'ありとかや。 ⑲ 八月十五日'九月十三日'月'晴明。 ⑲ 大雅道人は'書画に名たかき人なり。墓は菊漢にあり。その妻玉蘭 といへりLも'書画をなす。夫婦とも'常にかたちつくることなし。 下河原に'ふる-荒たる家に住てありし。この道人の像ならひに伝 なと'三熊海業か書るあり。さて'この海業といえるも画人なり。午 -'花暦といへるものかうかえ」的出しける.南部の盲暦といふも 二 〇 七

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立川曽秋と ﹃曽秋随筆﹄ のゝたくひにはあらす。 ㊨ 鈴木周敬といふ人は'まれなる隠逸の人なり。大仏の菅谷といふ谷 に臨める所に住居しけるか'なへての音律にたえなる人にて'催馬莱 ・朗詠の額ひより琴・琵琶はさらにもいはす'一節切なといふものま 二 〇 八 の類にや'いとおかし。ひとゝせ'更科の月にひとりおもむきて'」㈹ r= 妖捨や袖かき合すけふの月 ㊥ 髭風老人'うきす庵にかり住せられける比'文の中のたはむれに' ても堪能の聞えあり。 ㊥ みょしのは'名にあふ所にて'花にはわきてなつかしむところなれ  ㊥ と'山ふかくて優ならす。嵐山は'水にそふて」9花のけしきもいと しはらしき所なりとおもへり。画師蕪村はt はしめてよし野ゝ花をみ るとき'多武の峰の峠よりこの山を見おろして'「けに花のよし野と  ㊥ 「市中の隠者と山家の俗人と等類ならん」と申つかはしけれほ'老人 いた-笑はれけり。 花やかなる所(一r<i完霊にすむ人は'姿かたちうつ-しくゐ なかの山かつほいと見-るし。心のすゝやかに'へつらひなき事は' うつ-しき人の姿かたちにひとしかるへし。 3 G 二 : こ と し 大 掌 会 行 は せ 給 ふ 。 悠 記 。 主 基 の 」 1 1 御 殿 と て ' 茅 茸 に 黒 木 の い へ る 風 景 ' 世 に な ら ひ な か る へ し 。 山 の 広 き に は ' よ し の 川 の か -隔 り あ ら さ れ は ' 画 に か き て 風 景 か き つ -さ れ す 。 」 と 云 り 。 誠 に 何 の 道 に も あ れ ' 人 に す -れ て 得 し 人 の 見 る と こ ろ ' 庸 人 の 眼 と は は る か に た か え り 。 」 " ㊥ 浮 流 法 師 ' 庵 に 端 午 に あ ふ て ' 菖 蒲 ふ き て 色 こ -せ ほ や 草 の 庵 と い ふ は く し て ' 「 を の れ す ま ふ 庵 と お も へ は ' 庭 の ち り 芥 も と り す て た く な り ぬ 。 樹 下 石 上 に も 信 宿 せ す と い へ る 仏 の 教 と ふ と し 。 ま た 血 気 さ か ん な る う ち は ' も の に 恥 つ 1 し み 事 に お そ れ て 、 発 句 の ひ と つ を も ふ か -思 ひ を ゆ た ね 侍 る 。 年 老 に た ら は ' い か 1 あ ら ん 、 四 十 に た ら て 死 な ん こ そ め や す け れ と い へ る ' 又 と ふ と し 。 」 と 云 り 。 」 1 0 ㊨ 文 梁 上 人 は 、 若 き よ り い み し き 念 仏 の 行 者 な り け り 。 ㊨ 馬 瓢 は ' 井 伊 家 の 御 林 を あ つ か り お れ り 。 名 を 中 西 次 右 衝 門 と い ふ 。 と し こ ろ 風 雅 を こ の み て ' ま た 農 作 を た の し む 。 あ る と き こ の 人 の 長 な る 人 ' 公 の 事 を 申 し の へ け る つ い て ' 風 雅 の こ と を 尋 ね 申 さ れ け れ は ' 座 を た ち て い ふ や う ' 「 次 右 衛 門 な れ は 宴 に 座 せ と も ' 馬 孤 の 時 は そ な た よ り 上 に 座 し 申 へ し 。 」 と い へ り と か や 。 景 清 ・ 七 兵 衛 鳥居かう-1し-'その御犀風の和歌は'近江と丹波の名所を'烏 九・日野ゝ両家より詠進あり'絵は'絵所預土佐守'文字は'書博士 甲斐守の書て奉れるとか。 ⑲ 柴野彦明といふ儒者' 幕府より召ありて下られけるに'洛陽の請 友 へ 留 別 の 詩 の 中 に ' 詩書経宿好 大義非所明 宝有経済略 可以福蒼生 況乃衰病余 何以勝替煙        」朋 の句あり。誠に君々たりといふへき時にや。先生、栗山といふ。讃咲 の八栗山の辺りの人なり。年いまた五十に三をあませり。「行すゑた のもし。」なと世の人いひあはれける。 ㊥ 備後の国南余程谷といふ所にて'百歳の老婆'身す-やかにして' みつから苧をうみ笠をぬふ。其笠をうらふ笠とて'友人風葉をくれ り。 ㊥ 丈草の塚は'大浄番場村の南、竜か岡といふ所にあり。灯寵の施 主 ' 「 尾 州 犬 城 の 士 ' 文 革 弟 内 藤 暁 憧 」 1 2 建 」 と あ り 。 ㊥ 去来の塚は'真如堂にあり。 ㊥ 天明八申歳正月三十日の暁かたより'洛東団栗の辻子より火おこり "サ .                   巨   り     い り ⋮

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て'良の風つよく南へ吹'さて異にかはりて洛中へ飛ひ'大雲院先 やけLより火の勢たけくなり'東本願寺・仏光寺・六角堂・因幡堂・ 誓願寺をほしめ」時に灰塵となり'西は壬生寺まてやけゆき'洛中一 字ものこらすやけあかり'戊の刻はかりに北野の社頭に火うつらんと す.」けこの時神鳴しきりにとゝろき出て'雨もつよ-風忽西にかは r= りて'この御社はのこりけれと、終に内裏炎上す。(詔かR)主上t 夜半に聖護院へ遷幸まし-1㌧(詔かR)仙洞御所はかりに青蓮院に まLiけれは'むかしかたりの里大裡と中に似て'女院・女一の 宮・何の門院なと申奉るは'北やま・にし山いつ-とな-にけさせ給 ふ。まして洛中の貴賎は'野山とな-なきさまよひ'田舎の縁もとめ なとして落ゆく。うたて浅ましなといはんかたなし。命ありて逃まと ふほ」1 3猶幸にして'火の車に死するもの'い-そほ-そともしらさる へし.そも八十年のむかLt三月八日油小路の火のために(頒納虹字) 炎上せLと聞く例も遠く'善つ-し美尽し給ふ皇居の仕を尊ひ、四 海安穏の思ひをなしけるに'いかなるおほんことにやと'安き心もめ らす。西洞院入道殿のよませ給ふとて' 行なやむ煙のみちにおもふそよ君か御幸のつゝかなかれと か-恐れある御事ともかいつけ侍る罪勺かろからさるへけれと'虫け らにひとしき土民の身なれはtとかむる人もあるましかりける。」紳 1 慈延上人の歌とて' もろともに思ひの家を出よ人かゝるうき世をみるにつけても けに猶如火宅のおしへはかみなかしもにわたりて'よのなかにありと あるたのしみとすることは'みな一時の煙なり。 ㊨よし田啓斉といへるほ'筆の道に名を得し人なり。か1る中を逃る にも'その師の法帖数十巻をひとつもちらさて'東山の辺へ逃のかれ しとかや。 田中道・雄ー︹研究紀要第二七巻︺ ㊨高橋若狭守ときこへしは'御厨子所の預りと中にて'」1 4八十有余 固由こ: まて有識の事に-ほし-'生涯この事に思ひをゆたね'おは-のふみ とも書て'今は四とせはかりのむかし人となり申されLにtかの文書 をひめ置れし倉のこたひ灰塵となりける。かなしといふもあまりあ hソ。 ㊥﹃翁草﹄の老人といへるは'これも八十になるまて世の中のこと書 あつめたるもの百五十巻'﹃翁草﹄と名つけしょりあさ名せしにや。 すへてふみに書のこせるものは'末代の記念にて'かたゐなかのかた -なゝるものも'ほのかにむかしを忍ひ'かみつかたの御」即事をも うけたまはりつたへ'道に入るたつきともするならひなるに'たれか しらん'心つくしに書しるせるふみの、たちまち煙の中にうせ果んと は。 ㊥花山院殿の館を'自狐の守りてやけさりけるよし。「土おはねの敬 をしりそけたるたくひにや'あやしのわさかな。」とおもひしに'ちか ころ'豊後の国'松田といふ-すLt洛にのはり-る道にて美少年の 男にあひぬ。かの若男のいふやう'「われは何iの里にすむ狐なり0 山城の国稲荷の社に参りて」1 5官を得んと願へと'山野に犬のおそれ 有て願はたさす。ねかは-ほ和殿このよしをつたえてtかの社の官を さつかりtLるしの箱を何-の所におきてよ。」とねもころにいひ てうせぬ。かの-すLtけゐの思ひをなしなから'洛にのはりて'稲 荷の社司羽倉氏か許にしか-とつたへけれほ'社司は日ころ例ある ことにや'いふかりおもふ体なく'官のしるしのひとつの箱をわたし ぬ。さてその箱を'さきに自狐の化人かいひける所におきてわたしけ るとかや。その箱をtかの医師か旅宅にて'」即幻阿上人見給ひしも のかたりなり。 ㊨サンコカイといふ鳥は'大き鳩のこと-なりとかや。ちかころ京に 二〇九

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立川曽秋と﹃曽秋随.筆﹄ BI由m て'鳥屋又兵衛といふもの'いかにしてかこれをもとめ'そゝまゝ 公の庁にたてまつりけるに'大に感しまし-て'即時にかの鳥を 幕下に献し給ふ。比類なき薬になるものとかや。何の病の薬にやあ りけん。 ㊥ある男'遊君に契をかはすことありけるにいつしかわりなき思ひを なして'ふか-かたらひけり。かの女'容顔人に」1 6す-れて'心さ しいやしからきりけれほ'男もとかくあはれみをかけて'年ころふるま ゝにつ1みへたゝる心なけれは'ある時閏の内にてこしかた行すゑを おもひて'「その父母ほいかゝましますそ。」と尋けれほ'女のいふや う'「父母ともに、いとけなきとき別れまいらせてのち'風の便もき かす。生死の事もしらす。」といふ。男いとゝかなし-おもひて'「ひ んなきふるまひかな。さはあれ'その行衛たつねきけよ。」と申けれ は'女は、「われをかく浅ましき道に売れるはかりのつれなき親々の 事'露もおもわす。」桝たゝ何ともなし.」といふに'男'興さめて' 「心にはさもあらし。」とうかゝひ見れとも、しちに心にもかけぬさ まなりけれは'「親をさへおもはぬ'まことにうかれ女のはしたなき なめり。」とうとみおもひて'そののちほふたゝひこの女のもとへか よはきりけるとかや。 ㊥正月三十日'いかなる日にてやありけん。都に火の災ひおそろし-浅ましきかうへに'江府に雷なりおち雨いた-ふり'播磨の灘には風 のために大船二腹・小舟四十六腹-つかへりうせけるよし。その余の 国々'大木吹たをれ軒の瓦おち-たけぬる類はtかそふる」1 7にいと まあらす'民家ひしけて死につ-もの'おは-有けるよし。 ㊨二月'諸司代和泉守殿京につかせ給ひ'洛中へ米三千石・銀百貫冒 賜りけり。丹州亀山の城主紀伊守殿'京に火のおこり初けるよりはせ 登りてtかゝる中の皇居を守護し給ひしとそ。 二一〇 ㊨聖護院は'寺の長吏なるかゆへに山の大衆いきとはりて'昔の例に ょり皇居を妙法院にうつし奉るへきよし'訴申すといへともtとか くして民の煩ひとなるへ-叡慮おは」伽しましけれほ'女院・新女 院'北山におはしましけるを妙法院に遷し奉りて'山門の強訴のきた はやみけり。 ㊨こたひ京のやけたるは'ふか-浅ましと思ひしかと'久しく御代治 りて'上下の曹日々に超過しけれほ、天の怒ある変ならんかし。そも 著といふほ'衣食住の三ツを怠るにおこりて'これかために金銭を費 Lt費のために金銭をいやかうへに求んとす.上より下に至り(F盟鴨 場)て'これに心あれはひとし-乱をなすものに似たり。おとゝし五 穀みのらす'去年の夏は世にうへ人おは-いてきて'まつ食」1 8にお これるものこれをつゝしみ'ことし火のために洛陽の千門万戸一時に やけうせて居をたのしむわきな-なる。さて白川の侯の政事によて、 錦繍綾羅ほうへの服といふことしりぬ。「しかあれほおのつから心め らたまりて'身はいやし-とも'おの′′1その児孫なか-家を保んこと をねかひて'ますi安穏の思ひをなすへし。」とある人仰られし。 いかなるものゝ口すさみけるにや' 都には花も紅葉もなかりけり-らのとまやのはるの曙 これは狂歌といふものなりとそ。 ㊨水口に住ける大仰といふ法師は'古冷泉大納言殿の和歌の門人な り。ひとゝせお-の松島一見すとて'みな-ちをたちてゆくといふこ とを句ことの沓冠におきて' 兄を-れな雲たつ山路をちのかた千里をわけてゆ-みちのおく といふ歌をほしめにょみて'道の歌ともあまたよみけるを、大納言殿 見給ひて称嘆せさせ給ひけるよし。この人'壮年にて髪おろしける 時'その妻もおなし-さまをかへけるに'」1 9つかひけるひとりの童 当 日 弓   ヨ 式   ヨ 小 f t

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