浜
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1
、 序 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語﹄ ( も と ﹃ み つ ( 舉 ) の 浜 松 ﹄ ) 聽 蕪 の成 立 年 代 に 関 し て は、 未 だ 定 説 と 称 さ れ る も の はな いが 、 そ の書 名 が 早 く 安 居 院 澄 憲 の ﹃ 源氏 嘉 経﹄ か 鋲 麟 藤 赫 に 汞 ノ浜 松L とし霓 え 、 また 本 物語肇 の 引詩 に ﹃ 和漢朗詠集﹄( 貯 弸 仁 亀 事 騒 の 橘直幹 書 三 品 ら の若干 篇 が あ る か ら、 両書 の成 っ た 一 〇 = 一年 以降 一 一 六 六 年 以 前 の 、 平 安 朝後 期 ほ ぼ 一 五〇 年 の間 に ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ が成 立 し た こ と は 疑 いな い。 も っ と も 、 こ の物 語 の ﹁ 巻 五 ﹂ に 引 か れ た ﹁ な き に はえ こそ
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れが 内侍 の ﹁年頃常 に あ る人 ﹂ を 持 っ ていた 頃 の 作 と 智 れるか ら 饌 鑼 輩 二+ 歳 前 後 以 降 の歌 であ ろう 。 そ こ で、 内侍 の生 年 が は っ き り し て い な い現在 、 多 少 の変動 は 免 れ 得 ぬが 、 彼 女 の享 年 を 最 大 限 九 十増
淵
勝
一
歳 と す ると 、 こ の警 δ 四〇 年 譲 久 以 後 に詠 ま れ た こと に な り 、 し た が って、 これ を 引 いた ﹃ 浜 松中 納 言 物 語﹄ の成 立 上 限 も 後朱 雀 朝 一 〇 四 〇年 ま で 引 き 下げ る こと が でぎ る 。 し か し、 臼田 甚 五郎 博 士 が、 ﹁ 巻 五﹂ に見 え る ﹁ い み じ か ら ん し や うの
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来 る 有名 な 道場 で 、 こ こ に苦 行 す る 僧 は、 いく ら も 引 き つ づ き ゐ た と思 はれ る﹂ し 、 ま た ﹁ 行 尊 が こ こ で修 行 し た 事実 は あ る が 、 そ のた め特 に 彼 が 笙 の岩 屋 の聖 と 号 さ れ た と い ふ証 も な 、い ﹂ と 批 判 し て おら れ る から鵬
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田 左右 吉 博 士 は、 本 書 を白 河 院 ころ成 立 の ﹃ 狭 衣 物 語﹄ と あ ま り時 代 の 違 わ な 、い も のと し、 ﹁ 浜 松 に 唐帝 の后 が高 陽 県 に ゐ る と し てあ る が、 鳥 羽 天 皇 の皇后 の 御 所 は高 陽 院 で あ つた 。名 称 の 上 に何 か由 縁 が あ り さ う C1に
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かし 、 ここにいう 鳥羽天皇 の皇 后 とは 袰 二 年 重 六月 廿 九是 鳥羽上 嵳 参内 し 、経 五 年毒 七月 廿 八 是 高陽院とな っ た皇后纂 子を指 す の であろうが 二 鑾 ﹄参照 、す で 旨 河鑒 く崇徳天皇 鳥 羽院 の こ治世 で 、時袋 下り すぎ る上に 、高陽 県は 融 勢 県 歪 し く 輔鞍
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邸 で、 後 に宇 治 関白 頼 通 へ 伝 わ り、 さら に後 冷 泉 ・ 後 三 条 ・ 白 河 三 天 皇 の御 所 と こ の院 を御 所 と し た な っ て お り ( ﹃百 錬 抄 ﹄ ﹃ 扶 桑 略 記 ﹄ ﹃栄 花 物語 ﹄ 等 参 照) 、 楯 譲 糠 纖 肇 そこで 、 笛 博 士 の 御説 にも賛成し讐 、 ﹃ 浜 松中 納 言 物 語﹄ の成立 年 時 に は、 依 然 と し て 一 〇 〇年 以 上 の幅 が あ る こと に な る 。 なお 、藤原 定家 ; 墜 釧 自筆 の ﹃更級 日 記﹄奥書 には 、 ﹃禦 の 浜 松 ﹄ が ﹃ 夜 半 の 寝 覚 ﹄ ・ ﹃ 自 ら 悔 ゆ る ﹄ 繖 ・ ﹃ 朝 倉 ﹄ 繖 の 三 書 と と も に ノ卍 L 4 ﹁ こ の 日記 の 人 の つ く ら れ た る とそ ﹂ とあ っ て、 菅 原 孝 標 女 荒 歓 倒 の作 ら しく 記 さ れ て お り 、 爾 後 ﹃ 浜 松 ﹄ と ﹃ 更 級 日記 ﹄ と の 語 句 や 引歌 の 類 似、 夢 や転 生 思想 の信 奉 ・ ﹃ 源 氏物 語 ﹄ か ら の影響 等 の 共 通 性 を 指 摘 す る こ と に よ っ て、 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ の 孝 標 女 作 説 が補 強 さ れ て来た
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あ り 、 いず れ とも 決 し難 い。 奥 書 の信 疑 の問 題 は別 に し て、 一 例 を あ げ るピ 、 ﹃ 更 警 記 ﹄ と ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ 遜 と に共 有 す る 居 の位 も な に 乂 か は せ ん﹂ の句 に つ き 、 日本 古 典 文 学 大系 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ 補 注 五 ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ ヘ へ う ヘ へ 五七 に は 、 ﹁ 当 時 の慣 用 句 かも 知 れ な い が、 他 に は同 じ 用 例 を 知 ら れ て 、い か い の で、 両 作 品 の作 者 の同 一 を 推 測 す る 一 傍 証 と さ れ て いる ﹂ と あ るが
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摘 さ れ た よ う に、 ﹃ 栄 花 物 語 ﹄ ﹁ 韻﹂ や ﹃ とり か へ ば や﹄ 上 にも これ と 類 似 の 句 が見 え て い る か ら、 こ の ﹁ 后 の 位 も 云 々 ﹂ は当 時 の慣 用 句 でも み っ た わ け で 、 こう いう 比照 の 方 法 で両 作 品 の 作 者 の 同 一 を推 す こ と自 体 に 不安 が 残 る の であ る 。今 は そ の是 否 は と も かく 、 孝 標 女 作 説 を 一 時 除 け て、 ﹃ 浜松 中 納 言 物 語﹄ の成 立年 時 を 考 え る 必要 が あ る 。 そ こ で、 本 稿 では、 ﹃ 浜松 中 納言 物 語﹄ の 本 文 を再 検 討 し て こ の 物 語 成 立 の時代 的 背 景 を さ ぐ る と と も に、 成 立 考 証 のカ ギ を握 る周 防 内侍 伝 の周 辺 を 多 数 の新 資料 によ ってあ き ら か に し、 ﹃ 浜松 中 納 言 物 語 ﹄ の 成 立年 代 を さ ら に詳 し く 考 え てみ る こと に す る 。 一 、 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ 成 立 の 時 代 的 背 景 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ の 成 立 年 代 を考 え る にあ た っ て、 ま ず 注 目 す べ ぎ は、 ω 本 物 語 の副主 人公 式 部 卿 の宮 が ﹁ 巻 五 ﹂ で ﹁ 東 宮 に た x せ給 ﹂ う て い る と い う事 実 であ る。 式 部 卿 の宮 は、 今 上 の た っ た ひと り の皇 子 だ か 箋 、 立 坊 し て否 議 は な いが 、 問 題 は 式 部 卿 の宮 の 年 齢 で あ る 。 現 (2)存 の ﹃ 浜松 中 納 言 物 語 ﹄ に は、 こ の式 部 卿 の宮 の年 齢 に つい て は何 ら 記 さ れ て い な い が、 好 ラ イ バ ル の中 納 言 は 、﹁ 巻 四曹 頭 に 、 在 唐 時 代 瀛 澗 驩 秋 ・相 全 り﹁ 甚 五 六 愚 ん こと な ん・ い み じ う か たげ な り﹂と た び た び 言 わ れ 、 ﹁ 三 四 五 年 が ほ ど は 、 を こ な い よ り 外 の こ と な く て 心 み ん﹂ と思 ぞ 過 し 棄 た とあ る から 、 こ の 頃 二+ 二、. 三 蓙 し て 課 齷 麹 、 灘 系、 翌 年 の式 部 卿 の宮 の立 坊 当 時 に は 、 二+ 三 、 四歳 であ る 。 な お立 坊 直 前 の 式 部 卿 の篆 契 っ た吉 野 姫 は + 八歳 であ り 爆 鋩 煢 諱 巉 駘麓 、 ま た 宮 に入 内 せ んと す る関 白 殿 の姫 譲 + 三 歳 で、 ﹁ い と 若 く ふく 象 に 云 区 と 記 さ れ てお る礒 。 そ こ で立 李 当 時 の式 部 卿 の ヘ ヘ ヘ へ 宮 は 二十 歳 余 り と し てよ い だ ろ う 。す で に 元服 も 済 んだ れ き っ と し た成 人 と いう わけ だ 。 これ は ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ の 朱 雀 ・ 冷 泉 ・ 今 上 三帝 及 び 明 石 女 御 腹 東 宮 の 立 坊 年 齡 が、 そ れぞ れ七 、 三、 三、 六 歳 と い っ た幼 齢 であ
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ぶ ん特 異 と いわ な け れ ば な ら ぬ。 立 太 子 と か官 位 昇 進 と か は、 いく ら 古 物 語 め かす と い っても 、 当 時 の人 たち にと って相 当 の関 心 事 であ っ た ろ ヘ ヘ ヘ へ う から 、 そ う 簡 単 に作 り ご と で はす ま さ れ ぬ。 成 人 た る 式 部 卿 の宮 の立 坊 記 事 に は、 そ れ な り の時 代 的 背 景 があ っ だ はず であ る 。 そ こ で、 当 時 の立 坊 の際 の年 齡 を ﹃ 本 朝 皇 胤 紹 運 録 ﹄ や ﹃ 皇 代 記﹄ 等 で調 べ てみ る と、六+代醍醐天皇 鮭 。 以下六+ 九 袋 朱雀天 皇 為 嬰 では 、 村 -ヘ ヘ へ 上天皇 の + 九 歳 羅 鞋 警 羲 、 ド三 萎 皇 の ± 鼕 除 き 、 す べ て +歳
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き 、 す べ て 十 歳 未 満 の 立 坊 で あ る 。 し た が っ て 、.こ れ ら の 立 坊 の 多 く は ま た 元 服 以 前 に 行 わ れ た と 、いう こ と に も な る 。 と こ ろ が 七 十 代 後 冷 泉 天 皇 は 、長暦元年 お 七 月 元服され 、翌量 李 となられたが 、犁 + 三。次 の 後三条天皇は元服竺 年おくれたが 、 寛徳二 年 點 + 二 歳 で 立 坊。七+ 二 代白河天皇は治暦元年 錦 の 元服 の 後、延久元年 亠鑷 + 七 歳 で皇 太 子 に 立 た れ た 。 そ う し て こ の三 帝 が受 禅 さ れ た のは いず れ も 二十 歳 以 降 の こと であ る 。 簸 時 代 鬣 獸六 の 堀 河 鳥 羽 ・ 崇 徳 ・ 近 衛 天 皇 ら は い ず れ も 十 歳未 満 で受禅 さ れ た か ら、 こ れ ら 三 朝 の立 坊 ・ 受 禅 の慣 例 と は 大 き な相 違 が あ る 。 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ にあ ら わ れ た 東 宮 は、 式 部 卿 の宮 のほ か、 在 坊 中 な く な っ た前 東 宮 が い る 藷 、 こ れ は、 今 上 の 皇子 式 部 卿 分 宮 が な が ら く 立坊 でき な か っ た こ と か ら し て、 宮 下清 計 氏 が考 え ら れ た よ う に、 今 上 の皇太 弟 と す る のが よ く 鷸鸚 鷂 暢 隔 敦 賄、 や は り相 当 の歳 であ る。 ま た唐 帝 は ﹁ 卅 余 ば かり ﹂ と いう 集 、 一 の后 ヘ ヘ へ 腹 の東 宮 は 、 同腹 に御 子達 が いる と いう し 、 唐 后 腹 の 三 の御 子 が 七、 八 歳 であ る から 胴、 + 歳 以 上 であ っ た ろう 。 す な わ ち 、 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ の元 服 も 終 っ た 成 人 の式 部 卿 の宮 が立 坊 す ると いう 記 述 は、 史 実 を 参 照 (3)す る に、 後 冷 泉 朝 以 降 白 河 朝 に い た る間 の立坊 慣 例 に の っ と っ たも のと 思 わ れ 、 し た が っ て、 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ の成 立 も そ の間 の こ と と いう ことに な る 。そう して こ幼齡 の 立坊 が 延久 四 年髯 +二月に白河天皇即 位 の 際、 二 歳 の 実仁親乏 數 よ り復活 し た こ とを思えば 蘇 鑽 胤、 成 ヘ ヘ へ 人 の式 部 卿 の宮 の立 坊 を 無 意 識 に記 し た ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語﹄ の成 立 下 限 も 、 結 局 、 実 仁 親 王 立 李 の延 久 四 年 お + 二 月 と いう ・﹂ と が でき る の で あ る 。 も っ と も 前 代 を 回 想 し う る 間 は こう し た 立 坊 記 事 も 不 審 では な か ろう か ら、堀河朝 一 訳 弊 頃 以前 の 作と耋 て もよ い が 、 ﹃ 浜松 霜 言物語﹄ に 院政時代 鮎 獸 六 の 色彩が何らあらわれ てい な い と こ ろをみ る と 、 そ う 成 立 下 限 を 引 き 下 げ る こ と は で き な い 。 ヘ ヘ へ ② これ を 傍 証 す るも のと し て、 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ に描 かれ た 衣 の数 雰 漆 、後冷泉朝 ト鵁 五以前 の 風俗 によ っ ているこ と が あ げ ら れ む む る 。 た と え ば 、 ﹁ 巻 四 ﹂ に 中 納 言 の 母 上 は 、 ﹁ 白 き 御 衣 八 ば か り 、 紅 の 黒 む む む ま で清 ら な る﹂ を著 てお り 、 尼 姫 君 ( 中 納 言 北 方 ) は ﹁ 香 染 の御 衣 八 ぱ む かり 、 色 濃 き 鈍 色 の無 紋 のを り も の の小 袿 ﹂ を 著 け て い る とあ り 、 ま つ む む む た ﹁ 巻 二﹂ に同 じ 姫 君 が ﹁ 鈍 色 、 香 染 な ど 、 あ ま た かさ ね てう ち や つ れ 給﹂う てい たとある。岡 勇 先生 の ﹃ 源氏物語事典 ﹄ 鯨 聒菰 頁 によ る と 、袿 は 二十 枚 に及 んだ 例 も あ る が、 普 通 は五 枚 な い し七 枚 であ っ た と いう か ら 、 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ の これ ら の 例 は 、 普 通 以 上 に華 美 であ っ た と いわ な け れ ば な ら ぬ。 そ う し て、 こう した 美 服 に対 す る 禁 令 は醍 醐
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が 融 通 の き く も ので あ っ た こ と は、 ﹃ 栄 花 物 語﹄ ﹁ 根 合 ﹂ 巻 天 喜 二∼ 四 年鴨 黎 に 、 ﹁ この 御時 (後冷泉朝 ト 鵁 五 ) には 制 ありて 、洳 聖 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ な どあ れ ど、 厳 し から ねば 、 さ る べ き 所 く に は い みじ く せさ せ給 。 後 蓁 院 の 御 時 ト幻 亠バ 六 こ そ は か か り し か 劈 ㌃ 筆 。﹂ と あ り 、 ま た ﹃ 春 記 ﹄ 永 承 七年 鬘 四 月 + 吾 条 に は、 賀 嚢 御 禊 の穰 簍 に対 し て 、 ﹁ 難 有 過 差 之 制 、 不 能 糺 弾 也 ﹂ と あ る の で も わ か る 。 と こ ろ が 、 ﹃ 栄 花 物 語﹄ ﹁ 松 のし づ え﹂ 巻 延久 三年 お 四 月 条 には 、 ﹁ こ の 御 時 ( 後 三条 朝 ト望 八 ) 薩 鑒 醜 、 紅 を 惹 さ せ 給 はず 。 ﹂ と あ り 、 さ ら に ﹁ 布 引 の蓮 巻 の白 河 朝 承 保 元 年 鵡 + 月 条 にも ﹁ 紅 の打 衣 は、 猶 帥 む あ り と て 、 山 吹 の打 ち た る 、 黄 な る 表 著 、 龍 膽 の唐 衣 な り 。 ﹂ と あ り 、 ま た 同 巻 承 保 四 年 柘 正 月 条 に は ﹁ 女 房 紅 梅 の匂 に、 萌 黄 の打 ち た る 著 た む む り 。 制 あ れ ば 数 五 x な り 。 さ れ ど 、 綿 い と 厚 く て 、 少 し と も 見 え ず 。 ﹂ と あ っ て 、 後 三 条 ・白 河 両 朝 に な る と 、 過 差 の 制 が 前 代 と は 較 べ も の に な ら な い く ら い 厳 し く な っ て 、いる こ と が わ か る の で あ る 。 こ う し た 厳 命 は 、 鳥 羽朝永久四生 亠バ 七月+ 二是 決 め られた 薪 制宣旨七箇条 ﹂ 中 の ﹁紅 紫 二 色・除昇殿者 并 女房労外・不可着用事 ﹂ とか 藷 人衣服・ 不可過男 参簒
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条 朝 以 降 の確 かな 慣 習 と な っ た こと は 言 を俟 た ぬ 。 そ こで、 女 房 衣 裳 に (4つ き ﹁ あ ま た かさ ね て﹂ と か ﹁ 衣 八 ば かり﹂ と か いう 表 現 を し て お る ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ は、 過 差 の制 のゆ るか っ 養 冷 泉 朝 末年 亠鑷 ま で の 成 立 と 考 え て よ いと 思 う 。 た だ 前 代 の風 俗 を抵 抗 な く受 け 入 れ ら れ る間 はま だ これ を 描 く ﹃ 浜松 中 納言 物 語﹄ の 成 立 も 可能 だ が 、衣 の数 が 五 枚 以 下 と 定 めら れ た 後 三 条 朝 以降 に こ の物 語 が成 っ た と す る と、 こ の 制 が 厳 し か っ た だ け に、 ﹃ 栄 花 物 語﹄ の よう に か な り リ ア ルな世 相 の反映 を 作 申 にみ た の では な いか と いう 気 が す る 。 そ こ で 、 ﹃ 浜松 中 納言 物 語﹄ の 成 立 下 限 は、 後 冷 泉 ・ 後 三 条両 朝 の 交 と いう こと に な る が、 ㈲ さら に そ の 範 囲 内 で ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語﹄ 成 立 の 時 代 的 背 景 を探 し てみ る と、 日中 交 渉 の記 述 があ る。 す な わ ち、 ﹁ 巻 二 ﹂ に ﹁ そ の 世 の 人 懆 この 国唐 にわたる 事、豫 で 谷 ひ馨 惣 客 を 、 慾 かで 象 釁 徳 ﹂ とあ るのは 、寛平六年竪 箸 原道真 が 遣唐 使 発 遣 の 停 止 を建 議 し て以 来 の日本 と中 国 と の 通 交 断 絶 が よう やく 再 開 さ れ よ う と し て い る時 代 の風 潮 に よ るも の と考 え て よ い。 と いう の は、 日 中 の 正式通交 は 、後 三 条槊 の 延久 四 奮 2 育 に ﹁ 大宋 国 新 物 御 覧﹂ が あ っ たが 鞜 鬱 鶚 、 つ ぎ の 白河貍 久五年 当 吉 には 秦 僧成尋 が 宋帝神宗 か ら託され舊 物を鑑 よ り献上す 乏 及 んで 払 霧 嵌韓 ム。 、 こ れ の 納否 の 議 が 三年間も続けら れるとい う状態 で あり 羚 藤 羅 訴 翳 鮪 盤 瞿 默 醐 二 、 堀河朝以下も消極的 で 、隆靉 な っ た の は稟 時代↑ 甦 七 以後 のこ とだから で ある。しかし 、 当 時 の 諸記録 に よ る と 、 民 間 の 宋 商 の来 航 及 び宋 人 の 漂 着 は 毎年 のよ う に あ り、 殊 に
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着 も あ っ た か ら 、 そ の都 度 毎 に 唐 土 や 唐物 に 対 す る 邦 人 の 関 心 が高 ま っ てい っ たと耋 られる。治暦三 年 ㌣ 月 吾 、後冷泉天 皇が 宇 治 平等 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 院 へ 行 幸 さ れ た際 、﹁ 宇 治 川 に ( 唐) 船 浮 か べて漕 ぎ 上 り け る程 、 唐 国 もか
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よ く こ の頃 の唐 土 ブ ー ムを物 語 ってお る 。 そ れ が後 三 条 朝 末 と も な る と 、成 尋 の入宋 が許 さ れ た り、 宋 帝 よ り 正式 に 遣贈 物 が本 朝 に届 けら れ る ま で に な っ た ので あ ろ う 。主 人 公 の 渡 唐 を骨 子 と す る ﹃ 浜松 中 納 言 物 語﹄ は 、 そ う し た時 代 を 反映 し た作 品 で あ る。 と こ ろ が こ こ で注 目す べ き は、 ﹃ 浜 松 竊 言 物 語 ﹄ で は中 納 二一易 簷 窪 じ め、 ﹁ そ の世 の人 操 こ の国 唐 に わ た る事 ﹂ と 訟 、 ま た 暮 = で ﹁ か の世 界 の人 楳 は 、 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 絶 えず 渡 り来 る や う にぎ こ ゆ る﹂ とあ るな ど、 相 当 に 日本 人 の渡 唐 (宋 ) と い う こ とを 強 調 し て お る点 であ る。 当 時 は、 長 保 五 年 監 分 の僧 寂 照 の 入宋 を 最 後 と し て、 日本 人 の渡 宋 は絶 え 、 一 方 的 に宋 人 や 高 麗 入 の 来 日 が続 い た の であ って、 邦 人 の入 黍 再 開 さ れ る のは 、 延久 四年 覧 入 宋 の成 尋 以 後 の こ と であ る。 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ の作 者 は、 俊 蔭 の南 蒙 癰 の 鼕 ﹃ 宇覆 物語﹄や異国情緒豊 か な ﹃ 麕 ﹄ 讐 どを読ん でい るか戛 、 こ れら の 場 面や描写から の 影響は無払 跚 あろうが、 それに む む む む む ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ し ても 、 ﹁ そ の世 の人 こ の国 に渡 る事 、 絶 え て久 しう な り 侍 にけ るを 、 (5)む む む む む む む む む む ヘ ヘ ヘ へ ( コ ノ ゴ ロ) は じ め て 繁 く 見 え 侍 る ﹂ と い う の は 、 ど う も 単 な る 作 り ご と と は 思 え ぬ .、 と こ ろ が 、 こ の長 い 渡 唐 禁 止 の時 代 に あ って 、 か ろ う じ て 二 度 だ け 邦 人 の 入 宋 が 知 ら れ た 事 件 が あ った の で あ る 。 ひ と つ は 、 ﹃ 百 錬 抄 ﹄ 永承 二 年 點 + 二 月 廿 四 日 条 に み・ え る 菠 唐者療 守武配流佐 渡 国 。 同 類 五人 可 浴 徒 ( 三︾ 年 之 由 被 宣 下 。 件 好 武 。 大 宰 府 召 進 之 。 於 貨 物 者 納 官 厨 家 。 ﹂ と い う事 件 であ る。 す な わ ち、 ひ そ か に入 宋 し た清 原 守 武 な る 人物 が大 宰 府 の 召 問 を う け て京 に護 送 さ れ、 守 武 は佐 渡 への 配 流 ・ 仲 間 の五 人 が徒 三年 の重 刑 を う け る こ と に な っ た と い う のだ が、 こ の事件 は、 久 し く 日 本 人 の入宋 と いう こと を 聞 か な か っ た 当 時、 相 当世 間 を 騒 が せた ら し く 、 ﹃ 扶 桑 略 記 ﹄ の同 日条 にも 記 さ れ て い る。 ま た﹃ 西 宮 記 ﹄ 巻 二十 一 ﹁ 與 奪 事 ﹂ 条 に は、 ﹃ 宗 金 記 ﹄ を引 い て 、 同 事件 の顛 末 を 述 べ 、 な お清 原 守 武 の配 流 に は、 左 衛 門 府 生秦 成 信 及 び 府 掌 早 部 信 近 ら が 領 送 使 を つと め た由 載 って お る。 いま ひ と つは、 ﹃ 入唐 記﹄ に見 、兄 る庵 の で、 慶 盛 と いう 僧 侶 が永 承 四 年 覧 に官 符 を 申 給 し て入 唐 (宋 ) した と い う 事 件 であ る。 お そら く ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ の作 者 も 入 宋 者 清 原 守 武 配 流 の ニ ュ ー スや慶 盛 入 唐 の 評 判 を耳 に し た こ と であ ろう 。 そ こ で 、 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ に お け る、 絶 え て久 し い 日本 人 の 渡 唐 が最 近 は じ め て繁 く 見 ら れ た と いう 記 述 が、 も し こ の 守 武 お よ び慶 盛事 件 に よ ってヒ ソト を 得 た のだ と す る と、 ﹃ 浜松 中 納言 物 語﹄ 後 冷 泉 槧 承 二年 點 + 二月 な い し は同 四 年 矯 以 降 に著 作 さ れ た こ と に な る 。 ω な お 、 ﹁ 巻 四 ﹂ に 、 ﹁ 若 君 あ つ か り た る 中 将 の 乳 母 の お と x の 、 上 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 野 の 国 の 守 の 具 に て あ り け る が 、 ( ソ ノ 守 ハ) 国 の こ と 黛 も な ど も し み ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ だ れ て 、 露 の 残 り も な く 、 わ ろ び た る 世 を あ り わ づ ら ひ て 、 さ る べく た のも し か る べき よ す が も と め て 、 ( ソノ 女 二 ) か き う つろ ひ、 ( オ ト ト ヲ) な ご り な く 忘 れ た る云 々﹂ と あ る の は、 ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ ﹁ 東 屋 ﹂ 巻 に 見 え る 浮 舟 の 義 父 常 陸 介 が ﹁ 徳 いか めし う ﹂ て 、﹁ いき ほ ひに 引 か さ れ て、 よぎ 若 人 ども つど﹂ う 勢 威 を 持 ち、 ま た ﹁ 玉 鬘 ﹂ 巻 の肥 後 国 の豪 族 大 夫 の監 が ﹁ 彼 処 に つけ て は覚 え あ り、 勢 い か め しき つはも の ﹂ と記 さ れ て いる のと は 大変 な違 い で、 東 国 受 領 め 政 治 的 4経 済 的 破 綻 を描 い たも の どし て 告 穏 呈 う・ い うま で もなく 、東国 は 平将門 の 乱 蘂 絳 以 来 の政 情 不 安 の地 であ って、 紫式 部 の外 祖 父 常 陸介 為 信 も そ の 任 中
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平 忠 常 の乱 に よ る 下総 ・ 上 総 ・ 安 房 三国 の被 害 は甚 大 で、 特 に上 総 国 で は、 乱後 の訴状 に よ る に、 作 田合 計 二万 余 町 から わず か に十 八 町 に な っ たというほど の 荒鏖 りであ っ た 所相 誘 護 ﹄ 。 そして 永承六年 珀 六 月 に は 奥六 郡 の司安 倍 頼時 が 叛 し て 、 前 九年 の役 が は じ ま り、 東 国 は ま す ま す 戦禍 を 蒙 る こと に な る 。 す な わ ち、 ﹃ 浜 松中 納言 物 語﹄ が 上 野 守 の ﹁ 国 の こと 黛も な ど も し み だ れ て云 々 ﹂ と 描 述 し てお る のは 、 こう し た東 国 動 乱 の時 代 を 背 景 に成 立 し た か ら であ って、 こ の こと も 本 物 語を
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孝 標 は寛 仁 元 ー 四 年 ( 一 〇 一 七 ー 二〇 ) に上 総 介 に、 長 元 五 -九 年 (一 〇 三 ニー 六 ) そ の時 の自 分 の体 験 や ﹃更 級 日記 ﹄ 勘 物 ) 、 に常 陸 介 に在 任 し た から (定 家 自 筆 父 の話 が こう し た記 述 へ ゜ の参 考 にな っ た ろ う。 ㈲ そ れ か ら 、 同 じ ﹁ 巻 四 ﹂ に 、 ﹁ 千 日 の し や う じ 始 め 給 ひ て 、 法 華 6)経 万 部 読 み た て ま つら ん と お ぼ し て 云 々 ﹂ と あ る が 、 ﹁ 千 日 の し や う じ 轡 と ﹁ 肇 経万部読﹂むと い う のは 、単な る 文飾と い う よ り、辻善之 助博士 の ﹃ 呈 仏教史﹄ 麓 欝 に 、 ﹁ 信 仰 姦 の 上 に 表さうと務 め 、 檠 多ければ信 禦 深 い と考 鳶 碧 に な つ た 毟 、 この 時 代 鱶 轡 信 仰 堕 落 の象 徴 であ る。 ﹂ と あ る の にあ た るだ ろ う 。 いわ ゆ る信 仰 の形 式 化 と いう の は、 糸 引 来 迎 の弥 陀 のも と で臨 終 を 迎 え た 道 長 の時 代 前 後 以 降 から顕著 に な ぞ お る か ら 謬 讙 、 この 記述違 うし蒔 代喜 景 に し た 表 現 と 考 え ら れ る o す な わ ち、 ﹃ 浜松 中 納 言 物 語﹄ に あ ら わ れ た これ ら の 諸 事 実 は、 総 じ 覆 冷泉朝ト 熾 五の それ憲 わ馨 も σ で あ っ て、 ﹃ 浜松中納言 物 語 ﹄ の 成 立 な こ の 時 代 と い う こ と に な る が、 特 に上 述 のω ∼ ㈲ の考 証 に よ れ ば、 それは 永承 二 年 點 + 二 月な ℃ 同 四 年 覧 齷 後冷泉 ・ 後 三 条両 朝 の 交飴 臈 雑 )以前 の 、優 二 +年 の 聞 と 考えられ るので ある。 二 、 周 防 内 侍 伝 の 周 辺 1 ﹁ 契 り し に﹂ の歌 を め ぐ っ てー と こ ろ で、 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ の成 立 が、 ﹁ 巻 五﹂ に ﹁ な き に はえ こ そ﹂ と引 い で お る、 周 防 内 侍 の ﹁ 契 り し にあ ら ぬ つ ら さ も 逢 ふ こ と の ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ な きた はえ こそ 恨 みざ り け れ ﹂ の詠 歌 年 時 以 後 とす る の は よ い。 そ し て そ の 詠作年時 は、 本歌 入 集 の ﹃後拾遺 和 肇 ﹄ 成立 の 応徳三急 朷以前 の ことでは あ るが 謖 謡 鉱 繁 ﹃家集﹄跨 詞書 によ ると、 この 歌は内 侍 に ﹁ と し こ ろ 、 つ ね に あ る 人 ﹂ が い た 時 代 の作 で あ る か ら 、 彼 女 の 二 + 歳 前 後 以 降 の詠 であ り 、 ま た お そ ら く 交 遊 華 か な 後 冷 泉 朝 ト鵁 五 への初 宮 仕 前 後 以 降 の作 でも あ っ た ろ ゑ 嫁 蜷 。 し か し 、 肝 心 の内侍 の生 年 や 宮 仕 年 時 な ど が 明 ら か でな い の で、 これ 以 上 の確 か な 作 歌 年 時 を あ か しえ ぬ のが 現 状 であ る。 そ こ で、 こ こ では 特 に 内侍 の前 半 生 に つ ぎ 私 見 を 述 べ 、 そ れ に よ って ﹁ 契 り し に﹂ の歌 の詠 作 時 期 を 考 え る こと にす る 。 ( 一 ) 内 侍 の 家 系 と 家 族 周防内 侍 は平 棟仲 と加賀守源正 職 女と の 間に生まれた 圭 縣 諭 攣 .
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甥 脳計 二 、 私 のさ き の崖 年 度 の耄 から す れ ば 、 四+ 四、 五歳 に し か な っ て い な い。 と こ ろ で、 ﹃ 尊 卑 分 脈 ﹄ に いう 教 成 の ﹁ 紀 伊 守 ﹂ は、 薬 王 寺 文 書 の治 暦三年三月 に 紀伊国司 に 下された ﹁ 太政官符案﹂ 乱 嚢 讐 ハ 喋 三 、 ⋮ ⋮ 就中 前 く司 教 成 朝 臣 、 去 天 喜 二年 三 月 蒙 官 符 、 令 停 止 寛 徳 以 後 新 立 荘時 、 至 此 寺 ( 薬 勝 寺) 領 田 者 、 任 本 官 符 免 除 亦 畢 、 ⋮ ⋮ と あ る か ら、 天 喜 二年 臨 前 後 在 任 し てい た こと は 確 か で、 任 中 よ く官 符 を守 っ て薬 勝 寺 の領 田 の収 公 を控 え て い た こ と が わ か る 。な お、 前 文 の ﹁ 其 時 守 定 家 朝 臣 、次 守 貞 職 朝 臣 、次 守 教 成 朝 臣 云 々 ﹂ に よる と 、 教 成 は前 守 の 貞 職 の後 を 承 け て いる が 、岡 一 男 先 生 のご 教 示 に よ る と、 こ の貞 職 は 紫 式部 の弟 惟 規 の男 だ そ う であ る 。 教 成 は 紀 伊 守 を極 官 に後 は 悠 々 自 適 の生活 を 送 ってい た の であ ろ う 。 ﹃ 水 左 記﹄ 承暦 四急 。。 七月 廿 九 日条 に、 ⋮ 後 聞、 前 常 陸 介 実 覇 臣 出 家 云 々 、 蝶 、 又 平 譏 祟 云 々 、 と あ り、 出 家 後 日 を経 ず し て卒 し た ら し い。 享 年 八十 八歳 。従 五位 下 で終
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楽
事
、
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即
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巳
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劉転禁
奉 仕 和 琴 、 信 頼 笛 、光 村 篳 篥 、 自 余 歌 人 也 、 ⋮ ⋮ と あ っ て 棟仲 は 唱歌 の 名手成任 葺 鞘 藏 墨 らと共 に 費 と して 奉仕 し て お る。 これ は、 早 く 兄 教 成 が 雅 楽 寮 の役 人 であ っ た り 黼 、 ま た 壓 男 先 生 が指 摘 さ れ た よう に、 叔 父 の行 義 が 寛 弘 七 年 正 月 十 五 日 の敦 成 親 王蠢 雀 御 五+ 日の 管整 侍したほど の 堪能者 で あ っ た こ となど の 影響 で あ ろ 鵡 難 物 豕 誰 。 私は棟 仲 が後 朱 雀槊 から内侍所鰡 楽 に 奉 仕 し て いた こと が、 後 の周 防 内 侍 の内 侍 所 奉 仕 への契 機 と な っ た のだ と 思 う 臘。 と こ ろ で、 ﹃ 尊 卑 分 脈 ﹄ に いう 棟 仲 の ﹁ 周 防 因 幡 守 ﹂ は 、 文 献 上 は 断 (lo)然 ﹁ 周防 守 棟 仲 ﹂ が有 名 だ か ら、 こ れ が極 官 で、 因 幡 守 が前 官 で あ ろ う む そ し て が これら に く とす れ ば へ そ の の は っ き り せ ぬ 五 年螽 以降長暦 元 年 蕊 以前 か 、長久 三 年 生 以後 のい ず れしかな い 驃 嘉 趨 蕊 論 。と G。 か 筅 皐 お には 茵 幡守 (源) 頼成L が赴任 してお る か ら 舞 聽 鷄 、棟 仲 が 因 擘 に 在 任したとす れ ば 同 八年 か ら 長 暦 元 ・ 二年 に か け てか、 長 久 三年 以降 と いう こと に な る 。 そ
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と あ る 。 す な わ ち 、 朝 範 は延 暦 寺 蓮 成 房 に 居 住 し 、 大 原 及 び金 剛 寿 院 の 両 師 か ら 法 門 を 授 か っ た と いう のだ が 、 ﹁ 金 剛 寿 院﹂ と いう のは 後 三 条 天 皇御 願 の金 剛 寿 院 座 主 で後 に 天 台 座 主 に 陞 っ た 権 僧 正 覚 尋 ( 一 〇 一 二 ー 八 一 ) で あ る 。 ま た ﹁ 大 原﹂ と いう のは 大 原 に 入 山 し て大 原 法 橋 と 号 し莚 殷 (九六六 ⊥ 〇五〇 ) で ある 理 砿 鰹 讐 。 朝藻 後 述亥 ように長元三皇 。。 の 生まれ で あるが、 延磐 つ 高 ﹃ 略伝 ﹄ には、﹁ (長 ヘ ヘ ヘ ヘ へ 元) 九 年 春 入 二 大 原 山 一 。 寄訓 宿 ( 阿 闍 梨) 覚 尋 坊 一 。 ( 中 略) 長暦 二年 春 。 慈 覚 智 證 門 徒 。諍 訓 論 座 ( 主) 上 職 一 。上 人為 レ 逃 二 諠 譁 一 移 訓 住 醍 醐 寺 一 。 云 々﹂ と あ る の で、 朝 範 が 延 殷 から 受 法 した の は長 元 九 年 充 よ り 長 暦 二年 訪 の聞 の、 まだ 童 僧 の 頃 であ っ た こと が わ か る。 おそ ら く 朝 範 は ご く 幼 少 の頃 に 覚 尋 に 預 け ら れ た の であ り 、 そ の私 坊 に て修 業 中 延 殷 に 会 っ た の であ ろ う 。 だ か ら 覚 尋 が 朝 範 を 愛 弟 子 と し て いた こと も 格 別 で、 後 に は、 法 会 の末 席 に 侍 ら せた り 、 権 律 師 を 譲 っ た り し て お り 臘 、 ﹁ 東 谷鸚 講 警 ) ﹃叡 ニ ハ 殊 二 仰 レ 之 ﹂ と 記 さ れ た のだ と 思 う 。 この 朝範が公 の 場 に 登場 す叢 初 は 、永承 三 塵 m 三 月 二日の 羅 寺 供 養 であ る ら し く、 ﹃ 造 興 福寺 記﹄ に よ る と、 同 年 閏 正月 十 三 日 に定 申 さ れ た ﹁ 興 福 寺供 養僧 名 ﹂ の中 に、 ⋮ ⋮納 二百 人 ⋮譛 百 人 ⋮梵 音 百 人 ⋮錫 杖 百 人 ⋮経 算 頼 覚 良 算 ヘ へ 延 快 朝 範 明 実 永 賢 明 覚 六十 行 教 ⋮ ⋮ 已上延暦寺⋮ ・. ・。 と あ っ て、 ﹁ 錫 杖 百 人﹂ の五十 七 番 目 に延 暦 寺 僧 分 の 一 人 と し て そ の名 が見 え る 。 こ の 時 師 の 覚 尋 は法 成 寺 分 の 一 人 と し て ﹁ 納 二百 人 ﹂ の百 九 + 蕃 目 に位 置 し て いた 。 つい で朝 藻 ﹃ 康 平 記 ﹄ 肇 四年 亠巧 七 月 廿 一日 条 に 、 : ・⋮ 被 レ 供 d養 東 北 院 一 矣 。 .. ・⋮ 一 請 僧 。 導 師 。 前 大 僧 正 明 尊 。 讃 衆 。 ⋮ ⋮ 頼 尋 。 念 信 。 成 尋 。 覚 尋 。 尋 源 。 覚 俊 。 覚 勝 。 行 教 。 ヘ へ 朝 範 。 円 範 。 定 賢 。 良 深 。 行 事 。 泰憲 朝臣 。 ⋮ ⋮ と あ る よ う に、 再 建 の 法 成 寺 東 北 院 の 供 養 に師 覚 尋 や 入宋 僧 成 尋 ら と共 に讚 衆 三十 人 の 一 人 と し て列席 し た 。前 文 に ﹁ 僧 綱 十 人 凡僧 廿 口。 阿 闍 梨口 範 持 レ 鉢 前行 。 ﹂ と あ る が 、 当 日参 会 の 僧 で﹁ 阿 闍 梨 口 範 ﹂ に該 当 す るも
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り に 円 範 と し ても 朝 範 は円 範 の前 に記 さ れ てお る の で 、 い ず れ に し ても 当時 の朝範 は 阿 闍 梨 に な って いた と 思 わ れ る 。 ( つ い でに、 萩 谷 朴 氏 は 覚 尋 の任 権 律 師 に つき 、 ﹃ 康 平 記 ﹄ 康平 二 年 十 月十 二 日条 の法 成 寺 無 量 寿 院并 五 大堂供養藁 の 中 に 篝 師と見え る とされたが曜 咳 一朝 璽 鹸 鴨 (12)当 日の 僧鯉 古 で 、権律師霧 讐 円高 の二 人だけ で ある 臨 講 黼 。 覚 尋 は凡 僧 二十 ロ の中 に入 り 、 上 述 の康 平 四 年 七 月 の東 北 院 供 養 の際 に も 未 だ 凡 僧 であ る か ら 、 ﹃ 僧 綱 補 任﹄ に いう 治 暦 元 年 十 月 十 八 日任 権 律 師 が正 し い。 ) 朝藻 承保三年 嘉 + 二 月+九 是 四+七歳 で 権律麺 任ぜられた。 す な わ ち 、 ﹃ 僧 綱 補 任 ﹄ 承 保 三 年 ﹁ (権 ) 律 師 ﹂ 条 に、
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と 見 え 、 ま た ﹃ 三 塔 諸 寺 縁 起 ﹄ の ﹁ 金 剛 寿 院 ﹂ 条 に は、 右 院 。 後 三 条 院御 願 也 。 法 性 ( 成 ) 寺 座 主 覚 深 ( 尋 ) 法 印 為 護 持 僧 宣 旨 。 以 私 房 為 御 祈 願 所 之 間 。 賜 料 営 造 之 問 。 天 皇 崩 。其 後 新 帝 重 下 宣 旨 賜料 畢 。 依 宣 旨 以 法 印 為 導 師 供 養 。 讃 衆 卅 (廿 イ) 口 。 公 卿 治 部 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 玄 蕃 等 登 山 。 以 此 賞朝 範 阿 闍 梨為 権律 師 。被 置 阿 闍 梨 三 口 也 。 又 三 口 被 副加 也 。 是 持 明 院導 師 賞 云 々。 と あ る 。後 三条 天 皇御 願 の金 剛 寿 院 供 養 に譛 衆 卅 ロ の 一 人 と し て奉 仕 し た 功労 に よ り、 阿闍 梨 の 朝 範 が権 律 師 に任 ぜ ら れ た と 、い う の だ が、 独 り 朝 範 だ け が賞 さ れ た のは、 こ の供 養 に導 師 を つと め た師 の覚 尋 が譲 っ て く れたか ら で あ . た 。 そして 翌承暦 元 年 窃 + 二 早 詈 法勝寺供養 の た め の五 壇 御 修 法 が六 条 内 裏 で修 せら れ た際 、 朝 範 は金 剛 夜 叉 経 を 担 当し
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に員 数 未 満 のた め に改 め て法 印 仁 覚 ら 四 僧 と 共 に金 堂 供 僧 に補 せら れ た 翫 雑 記 ﹄ 。 そ の 際 師 の 覚 尋 も権 別 当 に補 芸 れ た が、 当年 二月 に はわ ず か 三 日 で退任 し た大 僧 正覚 円 の 後 を承 け て第 卅 五代 天 台 座 主 に任 ぜ ら れ てい たから 隷 私. 座 、 愛弟子翻 の 前途も有 望そ の も の で あ っ た 。 し かし 、 この 喜 び も束 の 間 で 、あ くる 承暦 二 年 馬 正 月吉 朝藻 罕 九 歳 で 卒 した 楓 鞴 。 おそら く前年 五 月頃 か ら流行 し 芒 た 嚢 瘡 かか っ た の だろう 纛 礪 覦 監 惣 購 黙 扶 ・ そ こで 、靉 敬 二氏が ﹃鐸 群載﹄ 埣 の 天 仁ゴ 一年 ぴ 斉 廿 三日 付 の ﹁ 申 請 平 等 院 三昧 僧 ﹂ 状 中 に指 摘 さ れ た朝 範 は、 周 防 内 侍 兄 の 朝 範 と は別 人 で 、 し た が っ て 内侍 の 兄 朝 範 は平 等 院 に住 ん だ ことも な か っ た の である 黥 鞭 諾 鑾 籥 。なお、 ﹃僧綱補廷 承暦 二 年条 に は享年を ﹁ 五 十 六﹂ と朱 注 し てお って、 承 保 三 年 条 か ら 数 え た ﹁ 珊九﹂ と相 違 す る が、 これ はも と ﹁ 四 十 九 ﹂ とあ っ た の が ﹁ 五 十 六 ﹂ と見 誤 ら れ た の であ ろう 。 な ぜ な ら 、 永 承 三 年 監 の興 福 寺 供 楚 列 席 した 同 僚 のう ち 、 朝 範 より 前 の頼 覚 が当 年 十 七 歳 で、 か つ 直 後 の明 実 が 二十 二歳 と 知 ら れ る から 轄 攜 攣 鷄 、他 も 二+ 歳 前 後 とみ て よ い。 そ う す ると 承 保 三 年 妬 覊 七L 歳 の朝 藻 長 元 三 埀 一。。 生 ま れ で本 年 + 九 歳 と な り 都 合 が よ いが 、 承 暦 二年 % ﹁ 五+ 六 ﹂ 歳 か ら 数 え る と' 二+ 六 歳 と な ぞ や や 大 き す ぎ る か ら であ る 。 も っ と も 、 棟 禦 結 婚 し た の が寛 仁 ・ 治 安 の交 @些 一 だ か 轟 、 後 者 を と り たく も 思 う が 、師 の 覚 尋 は 長 和 元生 二。 生 ま れ で あ (13り 喚 蘿 主、 師 弟 間 の年 齢 差 で行 く と ほ ぼ 二+ 歳 の開 き のあ る 亠削者 が よ い の であ る。 棟 仲 が朝 範 を 幼 少 の頃 から 僧 籍 に入 れ た のも 、 新 婚 間 も な く の長 男 誕 生 と いう 情 況 で は無 理 で、 三 十 歳 を 越 え て お お よ そ自 分 の 栄 達 の限 度 を 知 り 、 子 の将 来 に思 いを は せ る頃 の誕 生 とす れば 納 得 が い く ・ し た が って 、 朝 範 は 長 元 三皇 。。 の出生 で あ る 。 つぎ に棟仲 の 二 男 忠 快 であ る が 、 ﹃ 尊卑 分 脈﹄ に ﹁ 平 等 院 座 主﹂ と あ